両忘の時‐ある日、その時‐

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スケッチ

パリで  ー消えたオブジェー    平山勝

ー消えたオブジェー 
 
 10月のパリは晴れた日でも雲が多く、どことなく重い。
パリ・コンミューン(1871年)以前からあるこのレストランには、スペイン内乱の頃はへミングウェイもよく来ていたらしい。店の内装はほとんど直した跡もなく、当時のままのようである。テーブルの傍ではミイラの肋骨のようになったスチーム暖房機が今も生きていた。
 昼食を済ませてから、あちこち散策している内にユシェット座の辺りに出てきた。ここら辺に来るとよく立ち寄るサンミッシェル駅近くのカフェでホットワインを飲むと、ホテルに戻るためにセーヌ河沿いにテュイルリー公園の方に歩き始めた。ホテルに戻るにはカルーゼル橋かロワイヤル橋を渡る方が近道なのであるが、消えた「鉄のオブジェ」のことを考えていたせいなのかオルセー美術館を過ぎてコンコルド橋のところまで来てしまった。
 去年、この広場のテュイルリー公園側には巨大な二枚の赤褐色の鉄のオブジェがあった。最初は、空間的に違和感のあるオブジェだと思っていたが、そこから発する酸化鉄の匂いがそのオブジェの様相を変え、それは大地に突き刺さるギロチンの刃のようになって迫ってきた。突然、背後で物が落ちる鈍い音がして、歓声と奇声がわき起こり、私は一瞬硬直した。
 今は跡形もなくなっているその場所で、その時の思いがよみがえる。しばらくたたずんでいると、首筋に冷気を感じた。それは、断頭台に立った者が首に巻いた布を強引にはぎ取られた瞬間に感じたこの世の最期の感覚ような気がした。私はコートの襟を直しながら足早にホテルに戻った。
 
 その日の夕方、食事に出かける前に妙に気になったので、果たしてこの時期に断頭台に上がった者がいるかどうか調べてみると、10月16日、マリー・アントワネット処刑とある。先ほど、私がコンコルド広場を横切っていた時、あの場所にはマリー・アントワネットの処刑を見るために、その当時何万という群衆がひしめき合っていたことになる。
 
 1793年10月16日12:00頃、マリー・アントワネットはギロチン台の階段を上った。台上で足を踏んでしまった相手に軽く詫びると,黒いリボンのついた帽子を頭を振って振い落し断頭台に首を置いた。4分後の12:15、マリー・アントワネットの首にギロチンの刃は落とされた。
 
 今はもう、千数百人の血を吸った広場に酸化鉄の匂いはない。2009年10月16日、私の生々しいフランス革命はあの赤褐色の鉄のオブジェの消失とともに歴史の彼方へと戻って行った。
 
 
 
  ※ 2008年9月、「鉄のオブジェ」は確かにあった。後日、私の友人に調べてもらうと現代アートのRICHARD SERRAの作品であることが分かった。彼の作品はむしろあの場所で生きると思っていたのに、なぜこつ然と姿を消したのか不思議である。
                                 2009/10/16     平山 

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