両忘の時‐ある日、その時‐

TOP »  ブログT/Z

ブログT/Z

74.「ある日、その時」(74)4月ー

<掲載内容>

812.「役に立たない学問」? 813.バックハウスとアルゲリッチと 814.坂口安吾 断想1                815.心身一如、文「舞」両道ー橋本ルシアー

 

                                <複製・転載厳禁>

 

 



815.心身一如、文「舞」両道ー橋本ルシアー


 その画期的な舞踊論で「もし私に信ずる神があるとすれば それは踊ることを知っている神である。」というニーチェの言葉をエピグラフとして遣った舞踊家・橋本ルシアは、その著書「火焔の王」で今、誰も成し遂げえなかった知的レベルで古代世界の真のパースペクティブを我々に見せてくれた。古代史研究を可もなく不可もなく、ただ長年やってきただけの者たちにとって、それは驚きでもあるが、既得権益上の問題で反発、無視という行動に出ることも当然予想される。また一方では何食わぬ風でのそのコピペである。しかし、そんなことは彼女にとってどうでもいいことでもあろう。やがて、彼女の提起、提示した事柄を無視して通ることはできなくなることは確かである。そうでなければ、古代史研究などは衰退の一途を辿るしかないであろう。通説に安住する者たちの知的切込みのない冗長な古代史研究などいくら読んでも仕方ないからである。

                                 2019 5/26

 


814.坂口安吾 断想1


 私が、ファルスに何とはなしにひかれていたのも、安吾と共通する感覚から来ている。実際、今までにも自身の中に様々な点で否が応でも安吾との共通項が見い出せることがあったし、指摘されることもあった。何も頼るものがないという意味での「無頼」という意味でもそうであるが、おそらくスタンスそのものが同一領域なのであろうと思われる。

                               2019 5/10  

 


813.バックハウスとアルゲリッチと


 どういうわけか、最近はバックハウスとアルゲリッチのピアノソナタばかり聴いている。バックハウスのピアノソナタは私の19歳の誕生日に年上の大学の友人(彼はすでに大学を一校卒業していた)がプレゼントしてくれてからいつも私の傍らにあったが、ここまで何回も聴くのは久しぶりである。知能指数が恐ろしく高く、早熟であった私の友人もまた「役に立たないもの」を研究していたが、彼が私に与えた影響は底知れぬほど大きかった。彼はすべてにおいて「知り過ぎてしまった」人間の一人でもあった。故郷の九州の大学で教鞭をとっていたようだが、その後のことは知る由もなく、いつの間にかそのまま立ち消えとなってしまった。それもそのまま彼の意思でもある。私の書庫には彼の論文「親鸞聖人の大乗思想」だけが残っている。

 アルゲリッチは若い時の才気煥発な面影が強く焼き付いていたが、77歳のアルゲリッチ、実に深みのある美しい顔になっている。さすがである。見事。

 

                                 2019 4/30                              


812.「役に立たない学問」?


 優秀な日本思想史研究者が20以上の大学に応募したが常勤のポストに就くことができずに死に追いやられたという。日本思想史、昨今の大学では役に立たない学問の代表格のようであるが、この「役に立たない学問」という捉え方自体にとんでもなく大きな問題が潜んでいる。そのことに気づかないと将来的には様々なところで足をすくわれることになる。文化とはそのようなものなのである。科学の分野でも基礎科学などは今日明日中に結果がでることはほとんどないが、その中には後に大きな発見に結び付きノーベル賞受賞者になった者もいるというのも実情である。そのような研究者を大事に育てることがその社会が真に生き延びるためにも必須条件となる。そうでないと社会そのものが脆弱化するだけなのである。

 西村玲さんの、日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞を受賞したという「近世仏教思想の独創ー僧侶普寂の思想と実践」、このような一見「目先の役に立たなそうなもの」に大学の一般教養課程で接しているかどうかでも人生に落ちる「影」、「闇」の領域も対峙スタンスも微妙に違ってくるのである。今の大学では総じて「時の権力」に媚びるような今日明日にも使えるハウツーモノの専門化である。これではすぐに焼き切れるのは目に見えている。言ってしまえば、大学も一瞬間でも使えればいい、使い捨て兵隊育成機関になり果てているのである。そう、「徴兵制」はもう始まっているのである。「学徒出陣」も近いのではないか。へらへらしている内に駆り出されないように心して置いた方がよかろう。

 ただ一言、西村さんに言いたい、ここまで来たら、すべてを捨てて「普寂」になればよかったではないか。死ぬことはない。あなたは、もっと大きな「花」になれたかもしれぬ。残念。

 

                                    2019 4/18

 

  ジム・ロジャースでなくとも、「安倍政権の政策は日本も、日本の子どもたちの将来も滅茶苦茶にするものだ。」と言いたくなるようなことがあまりにも多すぎる。このままではやはり「日本が消えるのは50年後か、100年後、心から残念」なのである。

 

「ある日、その時」(73)12月ー

<掲載内容>

801.妖怪の末裔 802.官僚のレトリック 803.「藪の中」?それもまた幻想 804.露悪趣味、偽悪の果て 805.監視するは我にあり 806.「Yahoo」、「Google」は危険なサイトなのか?807.「法の支配」の意味もわからぬ者が行政の長とは!808.「右だ左だ」などとはもはや愚者の繰り言 809.フェイクニュースに立ち向かうには 810.「天才政治家ヒトラー」???811.投資の神様が言う日本の衰退

 

                                                                                                        <複製・転載厳禁>

 



811.投資の神様が言う日本の衰退


 ジム・ロジャースはイエール大学、オックスフォード大学で歴史学を学び、その後、ジョージ・ソロスと設立したファンドで10年で投資収益4200%という実績を挙げたことや、リーマン・ショック、トランプ当選を的中させたことでも有名。その彼が「私がもし10歳の日本人なら、ただちに日本を去るだろう」、「日本が50年後か100年後には消えてしまうのは心から残念でならない」と断定的に言っていることにさほどの驚きもないのは私ばかりではあるまい。その他にも、「2050年には日本は犯罪大国になる」、また「アベノミクスが成功することはない。安倍政権の政策は日本も日本の子どもたちの将来も滅茶苦茶にするものだ。いつかきっと『安倍が日本をダメにした』と振り返る日が来るだろう」など、これらの明言もすべて然もありなんというところなのである。

 以上は古賀茂明氏のジム・ロジャースの言説の抜粋から引用し、私なりの見解を述べただけであるが、特にジム・ロジャースが言ったことについては誰が取り上げても同一であろう。ただ取り上げる側によってはそのまま載せるかどうかは定かではない。

 さらに言えば、彼は投資家としても、歴史学を学んだ素地もあり、具体的な状況分析は的確なものがあろうと思われる。しかし、日本を去ってどこへ行く?すでに犯罪大国であるアメリカに行くのか?やがて消えるであろう日本を去って一体どこに行くというのか?どの地にも「楽園」などはないことは少し「考えれば」わかること。将来にしろ、余生にしろ、自分だけはと思うこと自体がすでに誤った選択に導かれることになる。ただ、あらゆる面で衰退の一途を辿ることは避けられないところにいるよりは、自らのためにも、さらに「真に求めるもの」があればなおのこと海外に出るべきであろう。

 この「泥船」、何をどのようにリセットしても、 その意味はまったくない。泥船は泥船、やがて沈むことが一義である。早く沈むことを願いつつ書き綴っている。

 

                            2019 4/4

 

 

 

 


810.「天才政治家ヒトラー」???


 20世紀の二人の天才として、ヒトラーとウィトゲンシュタインを挙げ語っている佐藤何某とかいう者がいたが、その内容も首を傾げたくなるようなものである。一つ一つを取り上げたら切りがないが、「天才政治家ヒトラー」というだけなら、またどこかのもの好きが売らんかなで取り上げているのであろうと思うくらいであったが、誕生年が同一であることなどでウィトゲンシュタインを取り上げていることも歯牙にかけざるを得なくなった一因である。そもそもウィトゲンシュタインの何をどのように読み「天才哲学者」としたのか?また、ヒトラーを「天才政治家」と「言ってはいけないこと」を敢えて言っている以上、現状の世界情勢からしてもそれは大いに問題となるところでもあり、また同時並列的にウィトゲンシュタインを出すところもたとえ同時代という共通項はあったにせよ、取ってつけたような作為を感じる。両者は全く相容れぬ似ても似つかぬ者である。天才という言葉で括るにしても、もしヒトラーが「天才」というのなら、ウィトゲンシュタインは決して「天才」」ではない。一方は窮鼠が一途に突き進まざるを得なかった「狂気」の道を提起し、他方は深く自己に沈潜しざるを得なかったその結果に過ぎない。経営コンサルタントでもあるこの売文業者の、一人悦に入った三文通俗小説並みの見解は、ただ単に売らんかなという姿勢だけが鼻につく。奇をてらった平凡な内容というより、むしろ有害無益なこの程度のものが結構に多いが、何が面白いのか不可解である。この経営コンサルタントも要するに「天才政治家ヒトラー」にあやかりたいだけなのであろう。しかし、それは後は野となれ山となれと思っている一群の亡者の群れの一員である証でもある。

                                  2019 3/27

 


809.フェイクニュースに立ち向かうには


 M.ガブリエルに言わせれば、「調査報道がありますが、いまそれは危険です。」ほんとうのジャーナリズムを追求しようとすれば命を落とすことになるということは以前から言われていたことでもあるが、「いわゆる自由世界では、物事を深く掘り下げていくと、職を失う」のである。さらに「本当に批判的な知識人や真のジャーナリストは命がけでやらないといけませんが、命を失っても誰も気付きません。」ということである。その通りであろう。だから、誰もやりたがらないのである。実際、ジャーナリストなどといってもそのほとんどは安全地帯で政府広報のコピーライターのようなことをしているのが関の山である。ということは、ほとんどフェイクニュースだとみていれば余計な災難を少しは回避できる可能性もあるということである。「大本営発表」などが事実とほとんど乖離していたことは改めて言うことでもあるまい。すべてがその調子だということである。実際に、経済の根本的な根拠となるものさえ改ざんされていたのである。後は推して知るべし。我々としては、まずすべてを検証対象としてみることであろう。特に大手新聞、情報各誌、それを鵜呑みにして唯々諾々としていたら何をされるかわからないということである。インターネット上のプロパガンダ、デマなどは論外。

                              2019  3/21

 


808.「右だ左だ」などとはもはや愚者の繰り言


 「ー情弱(情報弱者)を騙すためのフェイクニュースを垂れ流しているヤツが、嘘に嘘を積み重ねている。国会もメディアもすでにバカに乗っ取られた。右も左も関係ない。戦局はわれわれ日本人とバカとの戦いに入っている。」とは適菜収であるが、私がこのサイトで言ってきたこととも通底するところがあり共感をもっている。

 甘言,巧言、悪口雑言過ぎれば謝罪、身体極まりゃ土下座に、泣きと何でもござれ、言葉に詰まれば抒情抒情の演歌節、寄り添うと見せてやることは足を踏みつけ我知らず、フェイクまみれのわが身もどこ吹く風で、都合が悪けりゃフェイクフェイクと所かまわず騒ぎ立てる。

 彼らにとって政治も宗教も最終ビジネスに過ぎないのであるが、実はビジネスにもなっていないのである。

 

                            2019 3/10

 


 

807.「法の支配」の意味もわからぬ者が行政の長とは!


 今更驚くことでもないが、ひどすぎる。「法の支配」と「人の支配」の違いすら明確に判別できずによくも国の根本法を米国の顔色をうかがいながら弄べるものである。何の正義も持ち合わせていない者が商談を進めるように歴史が必然的にもたらした国の根本法をいじくり回す。すべてにおいて無知であり、無恥であるからこそなせる業である。何度も言っているが、絶対に、このような者に憲法を一字たりとも変えさせてはならないということである。このような改憲に正義はない。平和ボケしたタカ派の論調に酔っている場合ではないのである。

                            2019  3/7

 


806.「Yahoo」、「Google」は危険なサイトなのか?


 ある日、ヤフー検索、グーグル検索をしていると、突然、「このサイトは安全ではありません」と出てきて、さらに「だれかが利用者を騙そうとしているか、サーバーに送信されたデータを盗み取ろうとしている可能性があります。このサイトをすぐに閉じてください。」と説明している。要するに、セキュリティ証明書云々でヤフーにもグーグルにもつながらないのである。これはヤフーにとってもグーグルにとっても営業妨害であろう。安全性について、このような文言を発するだけの「資格」を持った機関とは一体どこなのか?「騙そうとしています」と言って相手を騙すことなどよくあることでもある。それは警察官、税務署員、銀行員を装った詐欺とさしたる違いはない。徹底的な調査を望む。

                                     2019 2/25

 後日、いろいろ問い合わせてみたが具体的な解決策は見つかっていない。高度なことができるようになるということは、ごく普通に行われていたことが犠牲になる。果たして、その「高度な技術」は必要なのか、それはまた「悪しき技術」にも通じてくるということは否定はできまい。どこの問い合わせ先も遠回しにそれを臭わせている。現に、現在まで明快な解決法は皆無である。

                                  2/28  

※それにしても、PCもすぐに使える状態で売るのが当たり前であろう。いくら高性能化してもこれではやがて売れなくなるのは目に見えている。

 


805.監視するは我にあり


 

 監視社会とは、監視する者が「神の目」を持とうとする、言ってみればすべてを支配しようとする企みを具現化する社会でもある。そのような社会にあって、神の目を持とうと意志する者をも監視し得るのは、「監視するは我にあり」ということを明確に思惟できる者である。どちらにしても監視の手を止めれば、どのような美辞に修飾されていようと、その実態は監視されるだけの奴婢となることでしかない。そこにあるのは人間の境涯にある者とは思えぬ人間の形骸である。ヘラヘラしている内にすべてを抜き取られることのないようにすべきであろう。

                                 2019 2/5  

                                  


804.露悪趣味、偽悪の果て


 

 あたかもそれが本心、実態であるかのように、露悪趣味、偽悪は繰り返されてきたが、それは決して本当のことでもなく、実態でも、もちろん真相でもない。敢えて言えば、本当らしく見せかけた末端肥大症的妄想である。だから、吐き気がしてくるのである。しかし、ズレているとは、終わっているのも知らず得意げに今が盛りとばかりにやり続けていることである。自分のこと、自分の素顔などというのも自分ではわかっているつもりでも、ほんとうにわかっている者はまれであるというのが実情である。

 その社会を動かす中心部分が不鮮明で腐臭を放ち、視界ゼロに近い状態ではそれに呼応する下部構造がズレ続けるのも当然である。しかし、ズレにも軌道修正できる限界がある。

                                  2019 1/23


 

803.「藪の中」?それもまた幻想


 

 以前、ある出来事について「これもまた藪の中なのか」などと、したり顔で締めくくっていた御仁がいたのでかなり否定的に取り上げたことがあったっが、今でも同様に思っている。「藪の中」、それもまた「幻想」であるということである。要は、本当の事実を見つけ出すために、事実と事実、現実の系統的解釈をすることによって「藪の中」などという幻想は乗り越えられるのである。「藪の中」という「幻想」に酔っている内は、絶えず垂れ流されている嘘、フェイクニュースなどを疑い始めることさえできないであろう。それこそ「知恵を持つことに勇気を持て!」ということに尽きる。これ以上、いかさま評論家、ジャーナリスト、山師のような作家、タレント、御用学者に好きなようにやられっぱなしでは話にならない。知性よ、目覚めよ!反撃の烽火を上げよ、人間を人間たらしめるために!というところであろう。

                                 2019 1/7


 

802.官僚のレトリック


 

 元経産省幹部が指摘する通り、例えば「解体的出直し」という文言、「解体」というフレーズは官僚の詐術のテクニックで力点は「出直し」に方にあるという。すなわち、そのままやり続けるということである。この手のパターンには際限がないというのが現状であろう。その上、保身しか頭にない政権担当者が加われば、後はどうなるか言わずと知れたこと。さらにそこに「政治的知識のない者は不用意に発言すべきではない」などという御用の筋の庭に住む魑魅魍魎たちが現れて合唱でもされた日には看過できる事態ではなくなる。

                                    2018 12/27

 


 

801.妖怪の末裔


 

「昭和の妖怪」と言えば、言わずと知れたA級戦犯の岸信介のことである。「妖怪」と言われたことについてはやはりそれなりの理由があるのである。私には、彼の言動から彼の舌先は三つに割れているのではないかとさえ思えてならない。己が利するためなら、いかなる手段も使う。その使い方も半端ではない。その手法は「権力」に魅入られた亡者に共通のことなのかもしれぬが、「日本人離れ」している。「明治以降、最悪の政権」と言われてもいる現政権もこの「妖怪」の血筋であってみれば、それなりに納得もできるが、しかし、それは放置すれば国民の首がどれだけ飛ぶかかわからない危険な政権であるということを意味する。「ぼーっと」している内に身動きもつかなくなり、気付いた時には首は飛んでいることにもなりかねない。そのことを肝に銘じるべきであろう。「もう遅すぎる」という見方もあるが、遅速は問題にしても仕方はあるまい。歴史の動きなども、常に遅過ぎるか早過ぎるかである。平成を「絞め」くくるのが「妖怪」の末裔である。同時に「妖怪」の末裔も「絞め」くくらないと新たな展望は開かれまい。

                                    2018 12/23

 

 

「ある日、その時」(72)9月9日ー

<掲載内容>

790.アベが内乱予備罪で刑事告発された(9/7)  791.パリのポリドールにて 792.「芝居にはその人の生き方が出る」793.「ウインウインの関係」? 794.本庶佑特別教授のスタンス 795.「コミュ力」?796.デマゴーグ 797.「ねじれ」とは民主主義国家の証 798.名月に穂垂首 799.「日本で最も著名な歴史修正主義者」800.狂(ふ)れる者たちの振れる狂宴

 

                                <複製・転載厳禁>



 

800.狂(ふ)れる者たちの振れる狂宴


 

 「平成」を締めくくる?それは「絞めくくる」といった方が適切と思われるほどの、狂(ふ)れる者たちの振れる狂宴であった。至る所に地獄の深淵が見えていて、しゃれになるならないどころの騒ぎではないのである。将来を憂えたような素振りをみせる、その実、後は野となれ山となれといった者たちの振れる狂宴は「平成」を「『絞め』くくった」先に、どのような宴の後を呈するのか、希望は危望であったことを、幸福は叩福であったことを思い知らされるだけであろうと思われる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふと思いつくままに・・・メモワール・・・・

今、「明るさ」だけを強調し騒ぎ立てる者、それは嘘を弄ぶ者である。また諸外国の脅威を煽る者たち、これもまたいかがわしい危うい者たちである。大体、所在も明らかな原発に囲まれた小さな地震大国がどこを相手に戦をするつもりなのか?いざとなれば「米国が助けてくれる」?何とオメデタイ、どこまで未成熟な無反省な人々よ、もしそのような時が訪れれば、日本は恰好の実験場、廃墟、死地となる。平和では儲からないという戦争屋に乗せれた経済復興という名の戦争産業に手を出せば、それは必ず拡大し、止めようとしても、止まらなくなる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「過去なんて忘れなよ」などというつまらぬコピーに踊らされ、「戦争を知らない世代が云々」に妙に納得したところで一体何がある。戦争を体験したからといって教訓化もせず「過去なんて忘れなよ」などという最悪のコピーにその気になっていたのでは悪夢は何度でも訪れる。体験そのものから何をいかに導き出すかが最大の問題なので、いかなる体験も体験自体にはさほどの価値はない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 スマホ片手に神社に行っても、今年の行為の結果が来年そのまま現出するだけである。「祈り」は自らの生存に触れるものでない限り、それを感知できる者でなければ、どこに行っても何をしても何の「原動力」にもなるまい。スマホをなくしたら一歩も歩けなくなるような人々が「増殖」している現在、本当のところ、自己の生存に対する実感もまた希薄になっているはず・・・スマホが・・・・・・・あなた自身で・・・あなたはもはや・・・何もない・・その内に息もできなくなるであろう・・

 

 「平成」を締めくくる者たちが、「平成」を「絞め」くくった者たちとは何ともおぞましい。

                                  2018 12/16

 

 


 

799.「日本で最も著名な歴史修正主義者」


 

 今更言うまでもなく、ご存じ櫻井何某のことである。すでに諸外国では「歴史修正主義者」(Historical Revisionist)として名を馳せているようである。過日の判決についても裁判所は植村の「捏造」を認定してはいない。イタリアのジャーナリスト ピオ・デミリアは「イタリアでは、過去の戦争の問題に向き合えない人を『否定者』と呼ぶ、彼女はそうだ」と言ったそうである。その通りであろう、この御仁の歴史を都合のいいように、恣意的にある方向に持って行こうとする姿勢は至る所に見られる。

「否定者」とは直訳的でピンとこないところもあるかと思われるが、少なくとも単なる肯定、否定のような否定ではあるまい。文脈から考えてても、認識の混濁・転倒している者という意味合いも含めて捉えるべきであろう。

 人間は、間違えしか犯さないのではないかとさえ思える時が多々あるが、そのエラーの部分を粉飾してばかりいるのではやはり絶滅危惧種と言わざるを得ない。前頭葉と欲望は反比例すると思っている。押さえの効かなくなった欲望はあらゆる弊害を生み出すことに異論の余地はない。                                     

 

※1998年→2014年 「誤報」→「捏造」

                                      2018 12/7


 

798.名月に穂垂首


 

 実に、味わい深い名月であった。テレビでもその名月を紹介していたのでつい観てしまったが、軽めの男の局アナが言うに事欠いてその名月を「おいしそうですね」と言ったのである。それは一瞬にしてすべてを興醒めにした。この「何気ない」親しみを装った取り留めもない感性のなさ、すなわち知性のなさである。以前、櫻井よしこがテレビのキャスターを務めていた頃、映し出された水槽の中に泳ぐ魚を見て、「食」とは無関係な文脈にも関わらずやはり「おいしそうですね」と微笑みながら言ったことがあった。その時に感じた薄気味悪さは今なお鮮明に甦ってくるが、それはそのまま正鵠を得ていると思っている。両者とも、意識するしないにかかわらず「対象」を自己の欲望の対象のひとつにしか感じていないということである。

 彼らにとって、名月も魚も、すべては「わが物」とすることができるかどうか、所詮は穂垂首程度のものでしかないのである。

                                2018 11/24

 


 

797.「ねじれ」とは民主主義国家の証

 


 

 アメリカの上院、下院の過半数が民主党と共和党に分かれたことに対して、またぞろ日本マスメディアは「ねじれ」という言葉を遣っているが、日本のマスメディアは民主主義というものがまったくわかっていないのか、敢えて「ねじれ」という言葉を遣うことで、暗に批判も検証も認めない、一党独裁の快刀乱麻を断つような政権をよしとする方向に導いているとしか言いようがない。大本営発表が一番似つかわしいのかもしれない。これでは全体主義国家であろう。現状がその悪しき証左でもある。これをさりげない巧妙なマインドコントロールというのであるが、この手の言葉が多いことに気付いている人は少ないようである。実態、実情を隠す軽い、親しみやす言葉は極めて危険であるということである。

 例えば、親しみやすく「野球内閣」と自らいうその実態とは、神道政治連盟、日本会議の懇談会のメンバーである。それは「旧大日本帝国」を再構築築しようとする集団でもある。したがって、「改憲」も必然的に「大日本帝国憲法」に倣うものとなる。今時、自国の民族宗教に依拠して振り回されている政権など、少なくとも先進国にはない。また、それで先進国という名に値すると思う方が異常である。

 

                               2018 11/7

 


 

796.デマゴーグ


 

 戦場カメラマン・渡部陽一の名前を使って、「戦場取材の掟」などと称してまことしやかにネット上に流していた者がいたそうだ。渡部陽一氏は「フェイクである」と怒っているという。箇条書きにされたその「掟」の中の一つに「捕まる奴はその時点でジャーナリスト失格」というのがあったが、渡部陽一氏が怒るのも当然であろう。現場を熟知している戦場カメラマンがこのようなことを言うはずがないのである。これは明らかに、己の義務、責任もろくに果たさず、国民にその義務、責任だけを要求する者たちのデマゴギーである。これが彼らのよく使う「自己責任論」につながってくる。無能で無責任な議員を何人も飼っていることの方が税金の無駄使いであろう。彼らの目論みにまんまとはまって騒ぎ立てる者たちを、明日は我が身ということもわからない愚かな「民」というのであるが、騒ぎ立てているのは「民」ではあるまい。完全なデマゴーグ、すなわち煽動政治家、民衆煽動家の類である。フランスでも同様のケースがあったが、「自己責任」を持ち出し非難したのは極右のルペンだけである。要するに、このような事態に対する「自己責任」などというコンセプト自体が極右の独裁的全体主義者の言動に一致するのである。

                                  2018 10/28

※ジャーナリストの山路徹氏が「自己責任論が噴出」している中、自身の体験も踏まえ危険も顧みず戦地に赴くフリージャーナリストに敬意を表している。自身のボスニア内戦取材時、イタリアでは「無事で何より、取材活動に感謝する」と言われ、ローマの日本大使館では「なぜ渡航禁止勧告に従わないのか?」と言われたそうである。(内容については山路氏のツイート参照のこと)

さらに、漫画家の小林よしのり氏の見解なども自己責任論を振り回す者たちの像を的確に捉えている。それについて「左翼化」したなどという珍糞漢(ちんぷんかん)な御仁もいるようだが、それが「左翼化」なら「右翼化」とは愚蒙化に過ぎいない。もういい加減、100年一律どんなアホでもできるそんな安手な振り分けはやめたらどうか。それはそのまま無能の証、まったく無意味。

 

 


 

795.「コミュ力」?


 

 コミュニケーション能力のことであるが、この手の省略言語が最近やらと多い。この簡略化、省略化で思考回路が拡大展開できるとはとても思えない。案の定、この「コミュ力」を重視しているといわれる者たちが「批判」、「対立」を忌み嫌う傾向があるという。何のことはない、コミュニケ―ション能力が根本的に脆弱だということである。確かに「縁なき衆生は度し難い」、コミュニケーションが成り立たぬこともあろう。しかし、「縁」の有無なども含め、両者の「批判」、「対立」をただ回避するだけではダイナミックな展開は成り立ち得ないのも明らかなのである。利害関係だけで成り立っているような「お友達の和」さらに言えば「悪友の輪」でしかないものの中でコミュニケーション能力の有無を楽しんでいても、それは一時的にハレーションのような明るさをもたらしはするものの、やがて縮小再生産の道筋をたどることになるのは避けられまい。元々、コアな領域において欠陥のある、あるいはそこにおいて物事を直視しようとしなかった者たちの「共感」、「共有」などは幻影以外の何ものでもない。

                                2018 10/12ー

                              


 

794.本庶佑特別教授のスタンス


 

 ノーベル賞受賞もさることながら、京都大学特別教授・本庶佑氏のスタンスには、やはりそれにもましてすばらしいものがある。たとえば、あらゆることに好奇心を持ち、すべてを疑ってかかるという姿勢。本庶氏に言わせれば、「サイエンス」、「ネイチャー」という1級の科学誌ですら9割が嘘、10年もすれば使い物にならないものが多いということである。だからこそ、自分の頭で確かめることが大事なのであるという。さらに、基礎科学、根本的なものなどの追究は無駄が多い、しかし、その無駄がなければ先には進めないということ。教授の言う一言一句を現状に照らし合わせると、さまざまなことが浮かび上がってくるであろう。京都大学の学生は今このような教授がいるということが誇りでもあろう。よくわかる。

 超一級の科学誌ですら9割が嘘、それでは日々マスメディアが得意げに流していることすべては一体何なのであろうか?嘘の嘘か、自分の目で確かめるだけの能力はなくとも、少なくとも、マスメディアなどが流していることをそのまま真に受けるという愚は避けることは可能であろう。まず、すべて疑うことから始めればいいだけのことである。そして、「なぜ」という「問い」を納得するまで続けることである。そうしなければ、どこにでもある記者クラブという談合忖度組織の記者の書いたようなろくでもない内容に振り回されて終わりなのである。

                                                                                                       2018 10/2

 後日の、大阪万博に対する彼の前向きな表明は、研究費もろくに出さない日本の実情に対する、後進のための犠牲的な痛々しいまでの内容であるともとれる。しかし、もしそうでないなら残念ながらやはり専門バカと言わざるを得ないだろう。

                            


 

793.「ウインウインの関係」?


 

 何かというと馬鹿の一つ覚えのように「ウインウインの関係を築いていく」と言う御仁、そもそもそれは目指すべきことではないであろう。「Total win」が目指すべきことで、そうでなければ「No Deal」(取引しない)という選択肢も考えるのが取引、交渉である。最初からウインウインを目指し、「取引しない」という選択肢を考えていなければルーズウイン「Lose-Win」で相手の勝ちは端から決まっている交渉なのである。それを「ウインウインの関係」などとあり得ない関係をさもあるかのごとく理想化して言う。「100%一心同体」ということは「取引しない」という選択肢はないという言い換えに過ぎない。ということは、相手の思うまままで、「ウインウインの関係」などは存在せず、常に「ルーズウインの関係」ということなのである。これ程の隷属に甘んじ、「美しい日本」の「建設の礎」などと宣う。それは風光明媚なところが多いと言ったまでの話なのであろうが、それすら今や存続の危機である。どちらにしても、歴史に対する反省、教訓化もなされないまま突き進む「ところ」は必ず滅びるのである。歴史認識の欠如、欠陥、それは致命的でさえある。

                               2018 9/29

 


 

792.「芝居にはその人の生き方が出る」


 

 これは最近亡くなった樹木希林があるインタビューで答えたということであるが、何も彼女が初めて言い出したことでもない。ただし、これは改めて再確認すべき重要なことなのである。私は舞台演出を長くやっていたこともあって、「舞台上」ではすべてがさらけだされてしまうということを常に目の当たりにしてきた。本人は隠し通せると思っていることでも否応なく現れてしまうものなのである。そして、慧眼の士ではなくともその俳優の全体像はその演技を通して大なり小なり読み込まれているのである。恰好よくやろうとしても無駄なこと、作為はすべて見抜かれてしまうものである。今までの「生き方」、心底どういう思いで周囲と接してきたかという「世界観」がすべてそこに凝縮されて現れているということである。「コツ」だの「ハウツーもの」で処理される世界とは根源的に違うのである。

 そして、そのインタビューで語ったという「本が読める俳優」ということであるが、久しぶりに聞く言葉で懐かしくもあった。「本が読める」ということは一般読者が本を読むのとは訳が違うのである。実際、本が読めない、読んでいるつもりになっている俳優が多いのも実情である。

 樹木希林が、本も読めて、生き方にも共感したという黒木華と多部未華子という若き二人の女優、私は現時点でその演技を観ていないので詳しくは言えないが、今後何かの機会に観てみようと思っている。

                            2018  9/23


 

791.パリのポリドールにて


 

 パリのポリドールはいとも容易く人をフラッシュバックさせる。より正確に言えば、デジャビュをフラッシュバックさせるのである。ある時は斜向かいにヘミングウェイが食事をしていたり、振り返ると窓越しに虚空を見つめてランボーがワインを飲んでいたりと、そういうところなのである。「ミッドナイト・イン・パリ」を見るまでもなく、想像力を掻き立てる趣が細部に行き渡ってたくわえられているところでもある。もちろん、その佇まいは明るく軽いものではない。

 あの黒光りした肋骨のようなミイラを彷彿とさせるスチームヒーター、江戸時代にはすでにあそこに置かれていたのである。

 私は知人がポリドールの近くに住んでいたこともあって何度かそこを訪れたことがあった。

 なぜか今、パリのポリドールがフラッシュバックしたので記して置くことにした。

 

                                 2018 9/16

 


 

790.アベが内乱予備罪で刑事告発された(9/7)


 これもまた当然のことであろうと思われる。告発状を最高検察庁に提出したのは元参院議員の平野貞夫氏らである。告発内容は「日本の権力を私物化するために、国の統治機構を破壊し、憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として、現憲法からその根本原理を抹消することを策謀し、政府等の組織を使って、改憲が正当であると、国民を誘導、国民に認めさせ、国民の反対運動を威圧するなど改憲を強行しつつある」、よって「刑法78条の内乱予備罪を行ったものと思料される」ということである。今までの国の根本法の扱い方、それに伴う民主主義国家を転覆させんばかりの言動についてはあまりにも多過ぎてここで取り上げることはできないが、それは憲法違反であろうというものが多すぎるということである。それは合法的に憲法を骨抜きにさせる手法の乱用と言ってもよい。

 それにしても、記者説明会にいた記者クラブの記者たちのていたらく、もはや権力によって完全に去勢された者たちの集まりといってもよいだろう。彼らが発信する安手のコピーライターのような内容に踊らされているのであれば、バカを見るだけである。まだ米国の方がエネルギッシュである。活力があればまだ救いがあるが去勢された豚では先がない。そもそも「記者クラブ」などは「御用記者クラブ」、「政府広報記者クラブ」といったところでそれ以上ではないことは周知の事実。彼らは、この事態を情けないとも思うまい、せいぜい肥え太り、「成長した」と思うくらいが関の山なのであろう。衰退の一途をたどっている。

                                 2018 9/9

  因みに、時の権力に是も非もなく、ただ尾っぽを振るだけの保守でも右翼でもなく、いわんや左翼でもない者たちの単なる「お友達の輪」を利用した金主頼りだけの有象無象がネットにも新刊駄本にも溢れているのが昨今である。彼らの書く必然性と言えば、金主様よりの「ご褒美」だけである。内容的には空疎そのもの、御大層な学歴が何の意味も成していないので、学者としても、評論家としても「落ちこぼれ」の類で、傷つくことだけは三人前の顕示欲の強い者たちの人生最期の「あがき」、「賭け」なのであろうと思われる。ただ、こういう者たちはやたらと騒々しいのが特徴で、相手を執拗に振り回すことを至上の喜び(「ご褒美」も含め)としているから質(たち)が悪いだけでなく危険でもある。「理」で行き詰まれば必ず情動に訴えてくるが、それも虚偽の情動である。この手の類は自分の言ったことすらいざとなれば「記憶がない」と言い逃れる。決して責任は取らないということも肝に銘じて置くべきであろう。その気になった方が常に憂き目に会うのである。とにもかくにも情報の取捨選択、受け取り次第で自ずとどうあるべきかの方向性も決まってくるのである。

 

「ある日、その時」(71)6月3日ー

<掲載内容>

779.国史改ざんの「現場」 780.日本人が「日本」に酔ってどうする?781.「賢く生きろ」の結果がこれである 782.「記憶にない」と言う者たちとは 783.やはり、「毒々しい虫のよさ」である 784.「異邦人のムルソーを生み出す現代日本」? 785.ある日、我に返ったら 786.「悪しき古き人々」に再生の道はない 787.徒に100歳生けらんは 788.焼かれるのも順番待ちとは 789.西郷隆盛像で見えてくるもの

 

 

                                 <転載・複製厳禁>



789.西郷隆盛像で見えてくるもの


 一言で言い切れば、日本人好みに作られた虚像で、西郷隆盛の像からイメージされるものとその実態とはまったく異質であるということである。私は以前から西郷隆盛のような人物に違和感と同時に不信感を持っていたのでなおさらであるが、要するに、目的のためなら何でもあり、何でもするという手合いの典型なのである。したがって、その目的を成し遂げるためのアドレナリンジャンキー的な「情熱」は半端ではない。だから、騙し、策略、殺戮などは日常茶飯事ということになる。実際やってきたこともその通りであろう。天皇の命令さえねつ造する、単なる暴力装置「赤報隊」(後に西郷自身によって処刑される)を組織する等々。知性もない、緻密さの欠如した熱に浮かされたような行動に走る者、巻き込まれる者たちの最期は決まっている。西郷と人たらしの戦争屋とどれほどの違いがあるのか、もっともらしことが何とでも言えたということくらいではなかろうか。

 あたかも明治政府に対する人々の反感を集約させたように映った西郷隆盛、その像、イメージなどに騙されていると、いつまで経っても同じ手合いを生み、同じような手口で騙されることになる。いつまでも愚かしい幻想から解き放たれないと状況は劣化するばかりであろう。現に明治150年、黒船来航以来何が変わったのか、不平等条約の内容はさらに悪化する一方ではないか。脳も芸もないとはこういうことで、自分で自分の首を絞めて「してやったり」とは、ポーズと自虐趣味も前代未聞である。とことん騙されて堕ち行くか、一矢を報いるか、民となるか国民となるのかの瀬戸際でもある。どちらにしても「負」はすべて一般人が背負うことになるので知らぬ存ぜぬでは済まされないのである。

                                 2018 9/2

 因みに、NHK大河ドラマは今まで見たことがないので当然最近やっているという「西郷どん」などもまったく見ていないが、スポーツ紙の芸能記者がその「西郷どん」について、視聴率の低迷もあってか、「全体に暗く、スカッとした明るさが足りない」云々などと言っていたが、歴史物、それも実質「テロリスト」としかいいようのない人物とその周辺を取り上げて「スカッとした明るさ」はないであろう。だったらドラマなどやらずにミーハー路線でスポーツ追っかけていればいいではないか。創作意図もすでにみえているので原作も読んでいないが。歴史上の人物を安易にとらえて偶像化したり、身近なところに引き寄せて理想化するのは極めて危険である。スカッと明るく「テロリスト」を描くのか、ミーハーの怖さである。これでは世界の実態の一片の姿さえ見えてくることはない。 


788.焼かれるのも順番待ちとは


 団塊の世代が終焉を迎えることで、しばらくは医療産業、葬祭業が活況を呈するのであろう。菩提寺があっても家を継ぐ者がなければそれまでのことである。大方の者にとって家のローンが終わるころには墓探しである。それも適当なものが見つかるとは限らない、さらには焼き場さえ順番待ちである。人生ここまでままならないとは思ってもみなかったのではないか。そうかと言って、インドのようにガンジス川に生焼けの遺体が流れていても、その前で結婚式を挙げられるほどの信仰心と人生に対するコワな信念は「我々」にはあるまい。止むにやまれず、あるいは敢えて望んで散骨葬をするのもよくわかるし、それは文字通り合理的な方法でもある。

 最近では、海、山に散骨するだけではなく宇宙葬というもあるらしい。どちらにしてもそれらは生きている者の思いに添うという意味合いの方が強い。

 本来、墓などはどうでもいいことなのである。釈尊にすれば、「野ざらしを心に風のしむ身かな」なども未だしといったところであろう。野ざらし(されこうべ)、野垂れ死にすらその心にはないはずである。それは飽くまで死体の一様相で死そのものではない。そんなことに思いを馳せたり囚われているより今やるべきことがあるであろうということである。私にとっては、すべての墓は名前の刻まれた「無縁仏」でしかない。無縁仏の意味するものが、過去世において仏と因縁を結んだことのないということでも、弔ってくれる縁者のいない死者ということでも同様である。弔ってくれる縁者の有無など取るに足らないこと、やがてはなくなるのが必定なのである。墓石なども100年200年もすればすぐに苔むす石ころで、さらに天変地異の多いこの地では苔むした石の所在さえ定かではなくなるだろう。

                                2018 8/23


787.徒に100歳生けらんは

 最近、なぜか100歳を過ぎた人々の「おめでたい姿」とやらをしきりに紹介しているが、何が「おめでたい」のかさっぱりわからない。それも、食事と笑いが大事などというところでまとめようとするから「違和感」以上の気持ち悪さを感じてしまうのである。「徒に100歳生けらんは恨むべき日月なり悲しむべき形骸なり」という教えさえあるであろう。へらへらと笑って食って、考えることもせず、何も気づくこともなく100歳を生き延びたところで何かあるのか、それは単なる形骸、すなわち生きる屍ということにしかならないと言っているのである。そんなことよりともかくオリンピックを前に100歳を過ぎた高齢者がとにかく元気に過ごしている「アンダーコントロール」された「幸せな国」ということを印象付けたいのであろうが、むしろ逆効果でこのような高齢者の姿を見て誰も100歳まで生きたいとは思わないのではないか、また、そんなことができるのは限られた一部でしかなく、大方はそれどころではなくさらに悲惨なのであるからなおさらである。

                               2018 8/9

追記:戦争中、激戦地から奇跡的に帰還した100歳前後の人々の戦争について語る瞬間については100歳の齢を重ねた意味もあると思われた。辛く思い出したくもないであろうが語らねばならないのである。

 


786.「悪しき古き人々」に再生の道はない


 次から次へと悪しき古き者たちの悪行の結果が雨後の筍のようである。どれもこれも見苦しい釈明、開き直りばかりで、謝罪、再生の決意表明など聞いてもどうにもならないのである。そんなことで解消できるほど事は小さくない。すべては彼らの存在自体、在り様が問題なのである。彼らの存在そのものが問題なのである。したがって、彼らの存在が継続する限り再生の道はないということである。謝罪、決意表明などで事足りる程、事態は軽くもないし、それで済むはずもない。まずは悪しき古き人々は去るべきなのである。それがすべての始まりであろう。これ以上その醜悪な姿をさらしてどうするのか?

                                 2018 8/3


785.ある日、我に返ったら


 ある日、我に返ったら孤独であった。それは穏やかで心地よいものでもあった。まず、誰に踊らされることもない、煩わされることもない本来の「我に返る」ことが先決なのであろう。人間は本来的に孤独なものであることに気付けばいいだけのことであるが、孤独であるから「我に返る」わけでもない、「我に返る」ことが本来の姿であって、その姿が結果的に孤独の様相を呈しているだけで、実は孤独でさえあり得ないのである。むしろ、「我に返る」ことがすべての「出発」の大前提となる。常に群れ集い、何者かに頼っている内は「我に返る」ことはできない。「我に返る」ことができなければただ流されるだけの、ただ踊らされるだけの人生を送るより手立てはないのである。しかし、現在進行形の中で「我に返る」ことが悲惨な現実しかもたらさないこともある。要するに、「我に返る」ことができないのである。その段階では自らにも嘘をつき通すことでしか生きることができなくなっているのである。その人生は嘘の塊と化すがそれでは身が持たないので嘘の合理化を図るのが常である。場合によっては、どんな悪いことでもいったん自分がやらかしてしまった以上は美名をつけてごまかしてしまえということにもなる。ここに至っては自分のなした行為について「説明責任」などということをまともにやる人間がどれほどいるのかということにもなり、またそれを期待する方もあまりにもオメデタ過ぎるということになる。現状は、本来なら追及すべき機関までが癒着で機能不全なのである。「説明責任」の有無などということで済ましていては、ますます状況を悪化させるだけである。

 

                               2018 7/22


784.「異邦人のムルソーを生み出す現代日本」?


「異邦人のムルソーを生み出す現代日本」と題した文章の中で某作曲家は、「ムルソーの感覚は、新幹線のぞみ号で三人を殺傷した小島一郎容疑者や、交番を襲撃し二人を殺した島津慧大容疑者と同じだろう。」と言う。しかし、それは全く違うといってよいだろう。やはりそのような見解自体が一頃カミュやサルトルの「不条理、とか実存主義とかにかぶれた」程度の人々と見なし得る要因ともなる。ムルソーは状況内で徹頭徹尾「素直」に反応しているだけなのである。だから「異邦人」なのである。加害者の二人は「単なる狂人ではない。もちろん、その心情はまともではないが、人生に絶望し、行き場のないむなしさを抱えていたのであろう。」と言うが、その点についてもムルソーとは異質である。ムルソーはもちろん狂人でもなく、その心情はあまりにも赤裸々で、絶望、行き場のないむなしさとも無縁である。彼は殺人の動機として「太陽がまぶしかったから」と言うが、それは余計な粉飾のすべてを取り除けばそれが瞬時の直接的動機としては充分成り立ち得るものである。そして、「今日、ママンが死んだ、もしかした昨日かもしれない」にしても、そこからすぐに「母親の死にも無感情」でという通り一遍の解釈しかできないのは、本質に先立つ実存というものの在り様からは程遠い。それは単に日常性の中に埋没したカラクリの中のしだらな感情から見れば、「違和感」を感じるということに過ぎない。説明的な通り一遍の感情を持つことで世人、裁判所も納得するというのは、人並な感情を「演じる」こと、嘘をつことでしかない。「歪み」によって生じたもの、すなわち「個性的な感情」というものにウソをつくことになるのである。言っておくが、この「歪み」はムルソーに限らず万人にあるということである。だから個から発した素直な感情の流れそのものが逆に「異邦人」を形作るのである。先の加害者二人は「作られた」自分に気付くことも、対峙することもなく閉塞感のなかで押しつぶされた許されざるあわれな者たちということにならざるをえないのである。

 この作曲家氏は、日本中に蔓延しているこのような閉塞感の元凶は安倍政権であると言っているのであるが、その点については同感である。しかし、

もう一つ、付け加えれば、現状を見るにつけ「絶望感が深まるばかり」というが絶望感は基本的に深まらない、その内に腐臭を放ち始め、朽ちるだけである。絶望は到達点ではない。すべての出発点である。救いようのない絶望ですらそうである。そうかと言って、安っぽい希望、未来、夢などにすぐに引きずられているようではまともにものも見えずに一巻の終わりなのである。

                                2018 7/7

 


783.やはり「毒々しい虫のよさ」である


 追及されてなお、ふてぶてしい態度の昨今の「政治家」などを見ていると、「後悔や内省は若い、批判などからは完全に目をおおったところで『人間ができた』とうことになり、それが恰も人生の深処に徹したかのごとくであるが、根底には功利的計算があり、悔いるべきところを悔いまいとする毒々しい虫のよさがある」というようなことを言った坂口安吾を思い出す。要するに、彼らは「一途に毒々しい」のである。もっともその程度のことは顔を見ればわかることでもあるが。「自分にとって不利な批判的精神というものを完全に取り去ろうというのだから、これほど素朴であり唾棄すべき生き方は他にない。」のである。「一途に毒々しい」者たちに対する対処法を考えないとどこまでも食い尽くされることになるということである。彼らはそれこそ「何でもする」のである。今やその事例には事欠くまい。

                               2018 6/27

 


782.「記憶にない」と言う者たちとは


 肝心なことが記憶にない者とは、心神喪失の禁治産者か、認知症か、あるいは記憶の集積体でもある人間を自ら放棄している者であろう。当然、信を置くに足りないどころか、場合によっては危険極まりない人間ということにもなる。このような者が理事長などのトップの役職についていること自体が大問題なのである。「記録」もない「記憶」もないで済む国とは一体何なのか?これで先進国?、トップがボケかまして説明責任をしているつもりになっている。それで通ると思っていること自体が恐ろしい。このような「心身喪失者」の類がたとえ「大きな問題」に取り組んだところで、いざとなれば今度はさらに手の込んだ「大ボケ」をかますだけである。実際、内閣などもすでにもう崩壊しているのである。その残滓が瓦解を繰り返し最悪の方向に進んでいるだけである。彼ら自身にも止めることはできないところまできている。「心神喪失」者に導かれて行き着く先は、自ずと知れたところでもあろう。同じ時代を生きたすべての者たちの責任はもはや回避できない。自分だけは避けられると思っている者はオメデタイだけである。それもやがて思い知らされることになろう。そこには遅すぎるか、早すぎるかの違いしかない。

                               2018 6/20


781.「賢く生きろ」の結果がこれである


 「賢く生きろ」の結果がこれである。この場合の、「賢く生きろ」とは「ずる賢く生きろ」に最も近く、本当の意味での「賢さ」の意味は微塵もない。「寄らば大樹の陰」、「長い者には巻かれろ」式の生き方にも一理はあるが、是は是、非は非としなければ結局「大樹」は朽ち、長い者もやがて果てることになる。「政治的な話はするな」ということなども何も今に始まったことではないが、政治的に非があれば、それを非として認めても認めなくともそれは必ず自分に返ってくることで無関係ではありえないということである。非があればその結果は必ず現れるが、「思い込んでいる人々」には厳然たる事実は永遠に訪れないものである。そのような人々と心中したければ別であるが、そうでなければしっかりとした現実認識は持つ必要がある。政治の話を職場の仲間と話しづらいのであれば(それはよくわかる)話さなくてもよいのではないか、現在ではネットの活用も考えられる。ただ、「政治的な話はするな」という風潮は「何者か」によって「作り出されたもの」であるという認識は必要で、たとえそのような風潮はあっても「私はこう思う」というものがしっかりあればよいだけのことである。過度な「承認願望」は全く必要ない、むしろ危険でさえある。自らの明確な思考回路を守るためには現在どうしても政治的な問題を含めざるを得ないのは、それが思考回路を破綻させるウイルスのようなものだから防御しざるを得ないということである。

                               2018 6/17


780.日本人が「日本」に酔ってどうする?


 日本人が「日本」に酔ってどうするのか?日本人はいちいち説明するまでもなく否応なく日本人なのである。あるようなないような、実際には何もない空疎な言葉に酔って「日本人の魂」などの類を「歌い上げて」みても、そこにあるのは安手な空中楼閣しか存在しない。それはあまりにも安易な観念である。放っておけばいつの間にか自己増殖する抒情の中で「情に棹差して」ばかりいてはやはり流されるだけなのである。そもそも「無いもの」に棹差しているのであるから死に急ぐための都合のいい口実をでっち上げているようなものである。いつまでもそのような「幻影」を求めている内は自らの未来を閉ざすことにもなるということである。

                                 2018 6/9

 現に、あらゆるところで閉ざしているではないか。それがわからないようでは自業自得の道しかあるまい。

 


779.国史改ざんの「現場」


 現在、我々は、言って見れば国史改ざんの「現場」にいて、その経緯の一部始終を見ているのである。「国史」なるものが絶対的根拠に成り得ぬということの「標本」のようなものを生々しく見せつけられている歴史的「現場」のただ中にいるともいえる。それは、「国史」が時の権力によっていいように都合よく改ざんされ得ることを前提条件で読み解く必要があるということを意味する。この間の公文書の改ざんを見ても「起こった事」をいかに変質させていくかがよくわかるであろう。すなわち国の歴史を扱った「国史」に書かれていることをそのまま受け入れるだけでは「知性の欠如」と「信仰心」の証明にしかならないということである。作家などが「書き記されていること」を基に「想像力」を駆使して作り上げた作品の方が、すなわち見てきたような「嘘」の方がより真実、事実に近いということも充分にあり得るということである。そのようなことも考慮しつつ、国史に「書かれていること」のみを絶対視して、それ以外を「外れている」もの「真実」ではないとすることも単なる「信仰心」の領域でしかないということも押さえておく必要があろう。

 

                                             2018  6/3         

「ある日、その時」(70)3月1日ー

<掲載内容>

769.民主主義と「安定」とは相容れない 770.「固有なもの」を維持しつつ「共存」771.羽生結弦の姿に「国境がある」のか? 772.百田何某の逃げる姿に 773.「ブーメラン効果」?774.「曲学阿世の徒」とは 775.死んだ者も浮かばれまい 776.「蚊帳の外」どころか 777.またぞろ一事が万事ー日大の不祥事ー 778.飛べないコガネムシを見ていて

 

                                   <転載・複製厳禁>



778.飛べないコガネムシを見ていて


 飛べないコガネムシの姿がテレビに映し出されると、2008年に上演した「背中にナイフ」というピエール・ノットの作品を思い出してしまった。私の演出の舞台でもあったので細部にわたってフラッシュバックが繰り返された。飛べない羽を持ってしまった者にとって羽は背中に突き刺さるナイフのようでもある。このコガネムシも羽ばたきながら仰向けに落ちていった。最後には少しは飛べたにせよ、いっそ羽などなかった方がよかったのではないかとさえ思われる。飛べなければ歩いて行けばいいだけのこと。

                                 2018 5/31

 


777.またぞろ一事が万事ー日大の不祥事ー


 日大アメフトの不祥事、これはスポーツの単なる反則行為で済む問題ではない。これはスポーツマン失格、それがわからないのであれば人間失格である。それも大学という教育の場でもあるところでこのようなことが平然と行われているのであれば絶対に許されることではない。日大アメフト、監督の汚名はもはや払しょくすることはできない。こんなところでも「トカゲのしっぽ切り」と言われてしまう行為が当たり前のように行われているのである。これで現政権の「体質」を連想し、重ね合わせてしまった者も多いことであろう。「上」から「下」までどこを切っても金太郎飴である。「許されざる行為」を黙認していても、やがてその結果は否応なく現出してくる。その時にはすべては遅すぎるのである。現在でも議員失格、人間失格という者たちがのうのうと血税をむしり取り、さらに自分たちに都合のいいように法律を作り、憲法にまで手を出そうとしているということである。断ち切って終わらせなくてはならない要因は枚挙にいとまがないという現実だけは否定しようもないということである。

                               2018 5/18

 後日、日大アメフト監督・内田何某が辞任。「トカゲのしっぽ切り」も大中小があるのであろう。ようやく謝罪したというが、それも選手にけがをさせたということについてだけで自らの指示については認めていない。「壊してこい」、「殺しても云々」についてなどの監督の指示内容についてはまったく説明はなされていない。監督として、教育者としても話にならないだけではないが、このような人間失格者に導かれて優勝などしてもすべてにおいて人生最大の汚点となるだけであろう。しかし、女子レスリングの志學館にしても、この日大アメフトにしても基本的なところで大学としての範疇を逸脱している。大学などとはおこがましいのである。また内田の言うことが「真摯に受け止めて云々」、どこかで聞いたことがあるような紋切り型のセリフである。その内に「その点については記憶が定かでない」とでも言い出しそうであった。

 関係者も想定外であったであろう選手自身の単独会見で、「加害者」の選手は謝罪し、潔く真相を語った。覚悟の上であることは読み取れた。これだけの人間であればアメフトなどに関わっている必要など微塵もない。それにしても監督、コーチなどはスポーツをやる資格がないどころか人間として否定されて当然であろう。事の重大さが当初よりまったくわかっていない様子である。彼らの言動からは、戦時中「生き恥をさらすな、死んで来い、殺してこい」と国民や兵士を盛んに煽っておいて自らは生き延びた「指導者たち」を彷彿とさせる。何の反省もなく、まったく展開の余地のない者たちがいまだにこのようなことを繰り返していること自体が罪悪なのである。この際、被害者は大学に対して刑事訴訟をすべきであろう。そうでなければまた繰り返される。それから、今回の不祥事とは関係ない者たちが「風評被害」などと言っているが、そんな陳腐な言葉を遣って逃げることも虚しく恥知らずと知るべし。これはこの大学全体の問題でもある。現に、この監督は監督は辞めても大学の幹部職は辞めていないではないか。コーチは?選手は?コーチなども同罪であろう。こんなところでは良いものを持っていてもボロボロにされるだけである。日大などにもともと社会的信用などあったかどうかは知らぬが間違いなく信用は加速度的に失墜するだろう。

                                   5/22 

 案の定、ようやく出てきた監督、コーチの会見たるや国会の答弁と同様、それ自体監督、コーチの無能さの証明にしかならず、ほんとうに「事の重大さ」に気付いていないようだ。それにしてもよくこんな者たちが今まで指導的位置にいられたものである。「膿そのもである」者たちが「膿」を他人事のように転嫁して言う「カラクリ」はどこをとっても同質である。潔く真相を語った選手以外は人間としての質が問われる。

                                                                                                                              5/24  

 アベ、アベ友しかり、いつからこれほどまでに日本人は恥知らずになったのか。この「日大アメフト事件」もその一角の象徴的事件であるが、これはエコノミックアニマルが生み落としたものから必然的に生成されたものということに過ぎないのか。これは単なる「精神論」、「悪しき精神論」などでさえない。むしろ精神的レベルが基準値以下に退行した結果の単なる我執、妄執の類、愚鈍な亡者の常套と言ってもよい。このような凡夫たちの自分だけは何としても「勝ち組」に入りたいと思う「気持ち」が大中小の独裁者を生むことにもなる。すべては一事が万事で、謝罪、辞任で済みことでもない。日大も廃部どころか廃校が似つかわしいだろう。

 


776.「蚊帳の外」どころか


 実際、日本は世界の趨勢の「蚊帳の外」どころか家の外の路傍に放置されているといってもよいであろう。その状態について、まだわかっていないのかブラッフなのか、政権担当者はそのようなことはないと主張しているが、この政権の「主観」的主張など聞くまでもないこと、むしろ空疎すぎて罪悪なのである。わざわざ日本の政権担当者やその周辺が語るまでもなく、今や世界の動きそのものが日本の位置づけとその実情を雄弁に物語っている。愚行の果ての因果応報と言ってしまえば身もふたもないが、それが実情で路傍に放置された姿は語るも因果、見るも因果といったところである。さらには陳腐な常套手段の内憂から目をそらす外患のもっともらしい論調なども総じて幼稚、稚拙すぎてとてもお話にならない。もしこれで納得できるのであれば余程の能天気か自らの思考自体の幼児性に気付いていない者なのであろう。

                                   2018 4/27

 


775.死んだ者も浮かばれまい


 「私の記憶の限りございません」、「それについてはコメントできません」、これは巷間の凡夫の犯罪の取調室での問答ではない。国会で、過分の権限を持った者の「言い訳」、それで済むのか?済むはずはあるまい。逃げ切れると思っているのならどこまでも追い詰めるべきである。一事が万事で、ここで追及の手を休めてはこの手のことがさらに横行するだけである。偉そうに「大義」を振りかざすのなら根本的に自らの処し方が違うであろう。今でも、「李下に冠を正さず」などとしたり顔で言っている者がいるがそこにある欺瞞と確信犯的なものは払しょくできない。「ゲスの勘ぐり」に至っては、もはや論外でどこを見ているかと言いたくもなる。

 何か事が起きても、肝心なことについては「私の記憶の限りそのようなことはありません」、「それについてはコメントできません」では、それによって死なざるを得なかったような者たちは浮かばれまい。彼らの死も、生すらも抹殺されているのである。彼らは存在しなかったことになるのである。

                                  2018 4/11

 


774.「曲学阿世の徒」とは


 一般的な言葉の意味としては、真理を曲げた不正な学問をもって権力者や世俗におもねり人気を得ようとする者ということになるが、現状では、彼らの言説の骨子は、権力者や世俗に迎合するような内容を都合よく張り合わせ合成したようなコピペと同様で、たとえそれが一見学問的な体裁はとっていてもそれは飽くまで体裁で、言いたいことのすべては権力者、世俗迎合に感情的に集約されている。すなわち、「曲学阿世の徒」とは、世俗、権力者に媚びる者の総称ともいえる。またそのためにはいかなることも辞さない者たちのことでもある。したがって、それは飽くまでも政権擁護の徒であって、政権批判をする者たちに対して「曲学阿世」などというのは、的外れどころか根本的に言葉の遣い方を間違えているのである。これも自ずと「お里が知れる」という類であろうか。

                               2018 4/8


773.「ブーメラン効果」?


 一頃やたらとつかわれた言葉でもあるが、新しいコンセプトなど何もない。実際の在り様を敷衍化、細分化すること自体にはやぶさかではないが、さほどのことでもない場合が多い。「ブーメラン効果」なども要するに、「因果応報」、「自業自得」の水増し、言い換えに過ぎないということである。何かあるようなないような実質的には言葉の軽量化、すなわちオツムの軽便化以外何のあたらしさもなく変わるところもない。これで何か斬新なことを言っているつもりになっているとしたら相当オメデタイと言わざるを得ない。

 同様に、最近やたらと簡略系のカタカナ言語が多いのも気になるところである。これで何か言い当ててわかったつもりになっているということ自体が単細胞化の道筋にはまっているのである。それはあえて自分自身を貧相なものに仕立て上げてしまう「仕掛け」にはまるということでもある。

                                         2018 4/4


772.百田何某の逃げる姿に


 百田何某の逃げる姿が新書の表紙になっていた。「逃げる力」とかいう題であったと思う。百田何某にぴったりでもあり現在の政情、世情とも重なり合う。いざとなれば「逃げる」、これである。その姿にすべては表れている。すなわち言いたい放題、やりたい放題、やったもの勝ち、後は野となれ山となれ、責任など取るなど愚の骨頂とでも思っているのであろう。素早く世の趨勢に媚びて、やばくなれば手のひら返しでとんずらである。その逃げる姿は力でみなぎっている。真偽は知らぬがこれが売れているいるというからやはりまともではない。

 しかし、現状は居座り続けながら「逃げ回る」者たち、すなわち、いかに責任回避をするか、その技に長けた者たちがうごめいているがそれも限度があり、やがて何らかの形で「出て」くるだろう。

                              2018 4/1


771.羽生結弦の姿に「国境があるのか」?


 次から次へと尋常の神経では考えられない「議員」とその取り巻きが登場してくるものである。このような者たちが今の今まで暗躍していたであろうことは容易に察知できる。最近の文科省に圧力をかけていたという御仁についても、蓋を開ければやはり案の定、というよりその筋しか他にないのである。それは、見方を変えれば権力の中枢に対する「取り入り方」の常套手段でもあろう。この御仁は以前にも「ちびまる子ちゃん」(映画)のポスターの「友達に国境はない」という文言にクレームをつけたということがあったというがそれだけではあるまい。この政権の中で、こういう御仁が文部科学大臣政務官、参議院文教科学委員長で教育、文化行政を担ってるのであるから日本の民度の低下が加速するのは当然である。

 羽生結弦の姿にも「国境を設ける」ようなことを言い出しかねない感性の持ち主は、この赤池何某くらいなものであろうが、この御仁を任命している者、選んでいる者も同様である。要するに、感性そのものの劣化、すなわち知性の欠如が一般化してるのである。やっているレベルが低すぎる、実のところ何もわかっていないのである。教育、文化を担う者がこの程度ではすべてはさもありなんというところである。

 

                                 2018 3/25


770.「固有なもの」を維持しつつ「共存」


 「固有なもの」を維持しつつ「共存」するしか人類の進むべき道はあるまい。もはや「帝国主義的」な世界観はいかなる形態を取ろうとも頓挫するしか道はなく、終焉を迎えているのである。「アメリカファースト」などにも表れているように、それは世界の中心たろうとした国の「中心の位置」が不鮮明になりつつ、ズレ始めているということの証左に過ぎない。中国、ロシアなどの最近の「自己主張、喧伝」なども同様である。潜在する、あるいは顕在化している「大きなうねり」、言ってみれば「世界秩序」に逆行する「指導者」はどれほどの大義を唱えても、たとえ亡者であったにしてもその「エネルギー」を備蓄、増殖させることは不可能であろう。要するに、世界のダイナミックな発展過程から乖離しざるを得ないのである。今、「吠えている」帝国主義的な世界観から脱却できない「指導者」の足元は例外なく底なし沼である。すなわち、どのようにもがいても「徐々に」沈み行くしかないということである。今までのあらゆるコンセプト(概念)を極限まで集積させてもそれは防ぎようがないだろう。ここでまた、過去への回帰という正当化と美化しかもたらさない安易な方策に傾くことは二重に逆行することにもなる。自ら進んでスタート地点から逆走、迷走するようなものである。

                                  2018 3/11


769.民主主義と「安定」とは相容れない 


 民主主義は「放置」、「放任」すればすぐに「全体主義」に傾く。何かというと「安定」という言葉をあたかも「正義」のごとく使っていることがあるが、その根幹にある意識構造がやはり不安定要素が「ない」ことを是とする「ねじれ」の「ない」「独裁国家」志向に根差していると思われる。それは易きに付く、最も安易な道筋である。甘言はもちろん、一見当たり障りのない言葉にもひとつひとつ検証が必要になっている時代なのであろう。いつとはなしにある方向しか見えなくなっているというのはやはり極めて危険な状態である。以前からそのような傾向はあったが、今さらにそれが強くなっている。民主主義をほんとうに育てる気があるなら「安定」「不安定」は問わず、「ねじれ」もいとわないくらいの気概が国民の側になくてはなるまい。今頃になって「アベ一強」云々ではあまりにもお粗末、未成熟過ぎる。

 世界的に見れば、国民国家の主権の推移、主権が新たな形態を取りつつあるともいえる現状は過渡期特有のカオスも必然的に現れるであろう。

                               2018 3/8

「ある日、その時」(69)12月20日ー

<掲載内容>

763.「藪の中」は「藪の中」にあらず 764.「国際政治学者」とは?765.「未来」「未来」とかまびすしい、766.「護憲的改憲」? 767.「インナーボイス」は欺く 768「モンココ」のトミー 769.妙なマスメディアの異常さ

 

                                                                                                                                 <転載複製厳禁>



769.ほんとうに妙なマスメディアの異常さ


 まず、知りたいことが一切報道されないことである。問題だらけにもかかわらず、常に「何の問題もない」という「スポークスマン」、自らの官房機密費についてもまったく答えようとしない。すべては、ほとぼりがさめればけりがつくと思っているのであろう。事は、常に知らず知らずの内に勝手に進められ動いて行く。知りたい情報は「ノリ弁」ばかりでは話にもならない。ここまでこけにされても適当に中和させられしたり顔、笑っていられるのではやはりそれは愚民の証ということになろう。彼らに任せたら、何もかも好き勝手にいいようにやられてしまうのはわかり切ったことである。やはり民主主義は危うい、危険と紙一重なのである。あっという間に全体主義国家に移行することがあまりにもあからさまに見えた。そして、やはり凡夫には自由は耐えられないというのも真実なのである。

                                 2018 2/28


 768.「モンココ」のトミー


 トミーはいつもモンココの前で待っていた。

 「モンココ」、その響きと共に幼年期から住み着いてしまった忘れられない言葉の一つである。しかし、「モンココ」という言葉が何を意味し、その由来を知るのはずっと後になってからである。当時の私にはただ大きな門のある不思議な建物という印象しかなかった。家から100メートル程のところにあった「モンココ」は日常会話の中にも頻繁に登場するところで、近隣の人々の待ち合わせの場所にもなっていた。

 「モンココ洗粉本舗」は昭和8年に創業し、昭和27年に倒産している。詩人・金子光晴の実妹がやっていた会社で、「モンココ」という名前も金子光晴がつけたらしい。実際に金子光晴自身もこの会社に関係して、2年ほど高円寺にも住んでいたようだ。

 トミーはいつの間にか姿を消した。賢くおとなしい犬だった。母は、トミーが犬殺しに連れていかれ殺処分されたことを知っていたが幼い私にはそのことを話さなかったようだ。

 トミーと「モンココ」、詩人・金子光晴、忘れられない哲学者・三木清、もはや高円寺南5丁目辺りにはその一片の面影すらない。しかし、去り行きて戻らなかったエスプリは、私の中でまだ辛うじて息づいている。

                                        2018 2/9ー

 


767.「インナーボイス」は欺く


 「インナーボイスに聞け」とはそれなりによく耳にするもっともらしいことではあるが、、これですぐわかったようになるのもオメデタイというより危うい。手っ取り早く言えば、「悪魔のささやき」、「亡者と化した己の呟き」などもインナーボイスとして聞こえてくるからである。インナーボイスに耳を澄まし、ほんとうにその内容が聞き取れるのは心身を「整えること」ができる者だけである。そのようなことを経ずして聞こえてくるものとは、単なる「作り出された」我を己であると思い込まされた、あるいは思い込んだ者の「インナーボイス」である。現に「インナーボイス」を勘違いした者たちの「声」が巷、インターネットにあふれているではないか。「インナーボイス」も欺くのである。ー

 

                                   2018 1/26ー


766.「護憲的改憲」?


 もっともらしい「改憲論」の派生的詭弁、実際、改憲論自体に護憲などという姿勢はまったく認められない。いままでのすべての経緯を見ていれば「護憲的改憲」など画餅に過ぎないことは誰でもわかること。改憲についてどのような「正当な」お題目を唱えても怪しげな「彼らに」にいったん改憲を任せたらどのようなことになるか、火を見るより明らかなのである。国民の権利は確実にはぎ取られるということである。

目先のことしか見えぬ知能も劣る群盲のような者たちが寄ってたかってものしり顔に憲法談義

血と汗も知らぬ者どもが何を言うか!

 もうそれ以上ふれるな!

それが憲法だ!

                                    2018 1/14


765.「未来」、「未来」とかまびしい


 現在もきちんと見据えることができない者が、どうして未来を見据えることができるのか?「未来への責任」?現在の責任も取れない者がいかに未来の責任を取り得るのか?ただ、その場しのぎのきれい事を言ったまでのことであろう。ある時は「そのような短期的なことについてはお答えできない」、またある時は「仮定についてはお答えできない」。「長期的な展望」とは仮定ではないのか?一つ一つ取り上げていたらキリがない、それはもはや無茶苦茶であることを通り越している。私はこれほど支離滅裂な政権が目指す「方向」などとても認めるわけにはいかない。どれほど一寸先は闇であっても、たとえ藪の中であってもその「方向」は読めるであろう。この時点で、その「方向」をよしとすれば否が応でも我々は「転げ落ちる」だけである。とにかく彼らには美辞麗句、甘言、世迷い言の類が多過ぎる。「普通の者」ならそこで立ち止まり考えるものであるが、それすらさせないような状況を作りながらさらに心理的な揺さぶりをかけ追い詰める。これはまさに詐欺師の手練手管そのものである。

                               2017 1/7


 764.「国際政治学者」とは?


 よく目にする肩書で、大方がハーバード大学大学院博士課程修了などとあるが、結論から先に言えば、ハーバード大学とはこの程度のレベルなのか一体何をそこでやっていっていたのかと思われることが多い。言ってみれば、思考を深化させるコアな領域が希薄なのである。国際政治学、何のことはない政治力学程度のことをその時点ではすでにそれ程の価値もなくなった「情報」を基にもっともらしく分析してみせるのが関の山という「学」というより「技術」に近いものではあるが、位置的に「秘密情報」も手に入れやすという意味では政権に利用される、あるいは利用しながら自らの利益にも結び付けやすいという利点はある。そのためにのみ選んだ専攻分野ともいえるので選択動機自体が「ピュアーなもの」とはかけ離れざるを得ない。要するに、「厳密な学」としては成り立ち得ない要素が多々あるのである。実際、政治のダイナミズムを理論的に分析できるのか?現在ではモーゲンソー程の思考を深化させたコアな領域を持ち得る人物も存在せず、せいぜい「ゲーム理論」のレベルを行き来しているだけであろう。

 

                                2017 12/28

 さらに言えば、彼らは情報取得のためなら「おもてなし」は朝飯前、男芸者、女芸者も厭うまい。ただし、その情報は自分が最も利するためにしか使われないということである。国民に向かって発することなどは、例外なく当たり障りのないまったく無意味、無価値なものでしかない。要するに、そういう位置にしかいないということである。


763.「藪の中」は「藪の中」にあらず


 芥川龍之介の「藪の中」の話を出すまでもなく、「真実」はそれぞれの視座によって異なったものになってくるという事態は常に現実的な実情でもあろうが、しかし「それで?」、「だから?」という問いの無限連鎖は抑えようもない。現状を見ていても明々白々としたものさえ「藪の中」にわざわざ引きずり込んでボカシをかけているのも「人間的営為」の中には頻繁に見られることである。世の実情は「藪の中」だと言ってみても、それは結果的には「あきらめ」とそれにすぐに溶け込む怠惰なニヒリズムに道筋を与えるだけであろう。そして、その轍(わだち)にはまることが物事を知り得た者の姿勢であるかのようなわかったようなことを呟き始める。藪を「突っつけば」蛇も出くれば猪も出てくるのである。「藪の中」であるという認識には「突っつく」という行為自体がもたらす藪そのものの変貌がまったくない。それでは「藪の中」はいつまで経っても「藪の中」、手がかりとなる一片の木肌さえ見つかるまい、むしろ藪の中にある方が居心地がいいと思っているのではないかとさえ思われることがある。そもそも世紀の「大発見」のレベルでも、それは「海辺の一粒の砂」にたとえられるがごとくで、後は途方もない未知なるものに覆われている。そのような認識は謙虚さでも何でもない、人間の限界そのものからくる素直な感慨でもある。

「藪の中」、それは到達点ではなく、それがすべての始まりなのである。

                                 2017 12/21

「ある日、その時」(68)10月ー

<掲載内容>

755.今、ジョルジュ・ビゴーが日本にいたら 756.アホでも言う「考えるより感じろ」<20171002> 757.日本はバランス感覚を欠いたら万事休す 758.「一億総評論家」という風潮?759.歴史教科書から言葉が削除されている?  760.正直者はバカと見なすお国柄 761.日本を自画自賛する番組?762.現状は「完璧な」衆愚政治

 

 

                                    <転載複製厳禁>



762.現状は「完璧な」衆愚政治


 衆愚政治とは、今も昔も民主政治の堕落形態であることに変わりはないが、これほど「見事な」民主政治の堕落形態すなわち衆愚政治を目の当たりにすることはかつてなかった。要するに、大衆の大多数がアホであるなら、そのアホが選んだ者たちがアホであることなど敢えて言うまでもないことなのである。そのアホの一人がその気になって、さらにその土壌が整えば独走態勢から独裁政治に移行するのは当然の帰結である。しかし、その独走・独裁政治に歯止めをかけるのもまた「本来の」民主政治という形態より他にありようがないということも「難点」である。そして、何より「やばい事」は衆愚政治のど真ん中にいるという認識すらないことである。それは、健全に堕落一般を堕落しているようなもので却って質が悪い。それは自らの首に縄をかけられている者が笑み周囲にまき散らしながら自らの手でその縄を引くようなものであるが、本人は決してそうは思っていない。良し悪しの判断、思考の埒外に置かれた「もの」、「こと」によって突き進まされているだけと言ってもよいだろう。

 民主政治は、いともたやすく「アホのアホによるアホのための政治」となることを肝に銘じるべきなのである。アホは常に目先の利害に絡んだ「思い込み」ばかりで、論理的思考展開が不能、世界の終焉がどのような形をとるかさえ思い至らない者たちのことでもある。

 近未来のことさえ「仮定」については「申し上げられない」のなら政治に関わるのは辞めるべきである。それは無能の証にしかならないからである。しかし、その「仮定」の下に「再稼働」、「再軍備化」の方は着々と進めているではないか。

                                2017 1216

 


761.日本を自画自賛する番組?


 何についてもそうだが、自画自賛するようになってはもう末期症状で、発展の可能性はない。最近やたらと「日本の素晴らしいところ」などを諸外国人の目を通して語るというスタイルや「再発見」という形で取り上げている番組が多いが、内容的にも皮相的な日本文化の紹介と言うより衰退の一途をたどっているものの自画自賛、糊塗するような面ばかりが浮き上がってくるのである。この違和感、不快感は当然のことで、むしろ異常でさえある。それは負の面ばかりが際立つ政権にそのマイナス面を払拭、相殺させるために補完的に使われているようにしか見えないからでもある。この「オカシサ」を感じないのであれば、センサーもかなりやられているということであろう。なぜこのような傾向が危ういのか、己の「良きところ」、「悪しきところ」を明確に把握できない者に先はないからである。わかりやすく言えば、大した根拠も、知識もなく、日本文化についても浅薄な「日本人」という「黄色人種」が「自分はすごい、すごい」と思い込もうとしているだけということになる。これでは手もなく足を取られ陥穽入りである。つまり、自ら蒙昧の中で将来を閉ざしているということになる。つい、「あなた」と日本の歴史も文化、風土も、国土さえも関係ありませんと言いたくなるのである。

                                 2017 12/12

 


760.正直者はバカと見なすお国柄


「立法府の長」という行政の長が、仕切る政権に常に顔色を窺う司法が付属する三権「融合」の政治形態、はじめから説明責任などするつもりもない。この人間の言動、存在そのものが憲法を蹂躙しているのである。実質的に国民から政治的自由を奪い去り、権力に対する盲従、隷従が「平凡な幸福」の規範のような「錯覚」に陥らせる陳腐な手法に国民の方も徐々に丸め込まれているようである。言うまでもなくそれに全面的に加担しているのが「大手大衆メディア」である。日々流されている一見無味無臭の有害無益の内容をまともに受けていれば、すでに彼らの手中という具合にすべては「調合」されているのである。そんなこととはお構いなしに日々起こる事象に「素直に」、「正直に」反応する者は「空気を読めない」「バカ」と見なされる風潮をごく自然にいかに作るかが彼らの最大の眼目と言ってもよいであろう。「空気を読める者」とは実は思考に発展性がない、独創性がないことの証左でもある。正直者、素直な者も含めて、問い続ける者たちの減少、衰退はそのまますべての衰退の兆候と証にもなり得る。どちらにしても「上」から「下」まで詐欺師ばかりでは話にはなるまい。そして、そのほとんどは「強者」が「弱者」を騙すのであってその逆の方向はほとんどないというのが現実である。

 見るも無残に汚されていく三権、これほどまでに汚辱に満ちた三権を露骨に「目の当たり」にするとは思わなかった。これは日々の現状がすべてを語っている。馬鹿笑いをしている内に首が落ちないことを願う

                              2017 12/6


759.歴史教科書から言葉が削除されている?


 一言でいえば、愚かである。言葉の削除とは思考の削除でもある。要は、将来「有望な」四の五の言わない下層労働者と兵隊には知識は無用ということであろう。歴史教科書から言葉が削除されて、覚えることが少なくなったと喜んでいる層はたとえ削除されなくてももともと大して変わりはないレベルの者たちであることも確かである。漢字もろくに読めない閣僚がふんぞり返っている「お国」である。後は推して知るべしであろう。何かと言えば、飽きもせず「朝日新聞」と「リベラル派」の陳腐な揶揄、これはまったく発展性のない自らの立ち位置をご丁寧に自己暴露しているだけなのである。言葉の削除、言い換え、やればやるほどその「闇」の形状、実態が明るみに出されることとなる。彼らごときの頭脳でそのすべてを隠ぺいできると思うことの方がオメデタイ。実際、その隠ぺい、小細工の仕方などを見ていると、国民に慧眼がそなわることをいかに恐れているかという「証」を見せつけられるだけである。戦時中を思わさるような「情報の遮断」と言う点でもそうである。目指すは神がかった黒き北朝鮮なのかとしか思えぬのである。彼らの一皮むけば薄気味の悪い「人間的」微笑みにいつまでも騙されていると「肉屋を恋しがるブタ」になりかねない。監視するのは我々であることを忘れるといつでもそのようなブタになっていまうということである。

                                  2017 11/25


758.「一億総評論家」という風潮?


 もう名前も出したくない芸人タレント監督のTが「一億総評論家」という風潮があるのは困ったものだというようなことをどこかで言っていたが、とてもそうは思えない。むしろ「一億総白痴化」の拡大細分化であろう。仮にほんとうの意味で「一億総評論家」であったならもう少しましな状態が現出していてもいいはずである。テレビなどの「一億総白痴化」の流れが意識するしないにかかわらず批判精神そのものを衰微させていったことの方が大きいと思われる。またそう考える方が現状の様々な問題をみてもわかりやすいのである。しかし、今まで一億総白痴化路線で食ってきた者が、テレビ離れ、衰退で製作費も削られ、その挙句に不評続きで思うようにいかなると、開き直って視聴者に向かって「それなら、お前がやってみろ」などと言うのは、追い詰められて身動きつかなくなると「対案を出せ」というオワコン政党とどこか重なる。今更、テレビなどという「泥船」に乘ろうなどと思う者は余程の酔狂な者か、自己制御の効かない顕示欲を持ち合わせている「さびしい」者なのであろう。Tに限らず、いつまでも「引っ張らずに」早く退場しなさいよと思わせる者たちが多すぎるというところか。

 少し見まわしただけでも、「上」から「下」まで去り際を知らぬ、身の程知らず者たちであふれているではないか。要するに、みっともないの一言なのである。個的には欲で引き際を見誤る悲喜劇、社会構造的には、既得権益側のあがきと醜態が露呈され続けているだけである。

                                            2017 11/15

 


757.日本はバランス感覚を欠いたら万事休す


 地球儀を持ち出してくるまでもなく、相当のアホでない限り日本がバランス感覚を欠いたらどうなるかすぐに想像できることである。常に綱渡りを強いられる国でもある。地下資源といえばマグマくらいしかない、いつ地震、津波が起こるかもわからず、ほぼ定期的に台風のやってくる海上に浮かぶ細長い小さな「美しい」島国なのである。その島国で誇大妄想としか思えない狂信的な精神論で世界を俯瞰するようなことを青筋立てて訴えてみたところで土台は無理筋なのである。虎の威を借りて蟷螂がその気になってその斧を使えば踏み潰されるのは蟷螂だけである。現にやっていることは「トランペット」が音程の外れたトランペットで不協和音を奏でることくらいであろう。

 ところで、「トランペット」はトランプの運転手もやっているようだ。ハンドスピーカーを持ったトランプに90ホン位の大きさで「ハゲー!違うだろ!」、「お前と俺との仲はその程度か!」、「俺はパールハーバーを忘れていないぞ!」などとでも言われているのか。彼らの「密約」など敢えて聞くまでもない程、明々白々なこと。異例中の異例である者「たち」の間もなく訪れるであろう終幕が「楽しみ」である。

 

※「トランペット」とはトランプのペットと言う意味で遣われていた言葉である。「トランプの運転手」というのは米誌の風刺漫画より。この点については、755「ジョルジュ・ビゴー」でも取り上げたが、このような風刺画が日本では皆無となってしまった。これは何を意味するのか、わかり切ったことである。何気ない批判精神の喪失、これはあらゆる領域での衰微と堕落を意味する。

 

                                     2017 11/5

 


<20171002>

トランプ札は切りもなく、トラペットは吹くばかり、二階の犬はくぐもるだけで足摺岬、地下のひょっとこ金勘定で踊り出し、ひょいと目をやりゃ、菅の間に番犬数匹身を潜め


756.アホでも言う「考えるより感じろ」


 街を歩いていたら、男二人の会話が耳に入ってきた。「ブルースリーが言っていたけれど『考えるより感じろ』って、やっぱりほんとうだぜ」・・・。何もブルースリーを出さずとも誰でもよく言うセリフである。しかしである、「考えるより感じろ」とは誰でも何となくわかったようにさせるが、感性とは知性によってもその質はかなり違ってくるのである。因みに、ブルースリーはワシントン大学の哲学科に進んでいるが、同じ言葉でもある程度のことを踏まえた者が言うのとそうでないのとは雲泥の差があるものである。考える機会もあまりないと言うより考ようともしない、考えるということがどういうことなのかもわからない者が「考えるより感じろ」などと言ったところで「底」はスカスカなのである。それはその人間の「文脈」でわかることである。これもその気になってアホが使っていると失笑を買う言葉である。手垢が付きすぎて新鮮味も、インパクトもない言葉と言ってもよいであろう。

  今はむしろ、感情的に受け取り、流されることを警戒いなければならない時である。「感じることより考えろ」というのが現在の実情でもある。

                                2017  10/21

追記:「考えるより感じろ」などとわかったようなことを言っているから「印象操作」に手もなく引っかかるのである。思考的にも打ち鍛えられていないものが使うべきではない。


 755.今、ジョルジュ・ビゴーが日本にいたら


 今の日本にジョルジュ・ビゴーが時を超えて舞い戻ってきたら、さぞかし面白い風刺漫画を描くのではないかと思っている。私の想像図と照合してみたいものである。現在、風刺漫画もほんの一部の紙面で辛うじて息づいているようだが虫の息である。恐ろしいほどの批判精神の衰退の一面を物語っている。さすがにジョルジュ・ビゴーに匹敵する風刺漫画となると皆無に近いが、それでも以前は俗に大手と言われる新聞も含めてどの紙面もそれなりの風刺漫画があったものであるが、今はまったく見なくなった。それに呼応するかのように内容も平坦というより、むしろ凹んでしまってどこの町内会の回覧板かと思わせるほどである。くだくだともっともらしく紙面を埋めてはいるが、肝心なところで正鵠を得たものなど全くない。やはり金主は「お国」なのであろう。その「お国」を動かしているのが「国を守る」「責任」などと一番欠如しているものを連呼はするが、とても「右翼」とも呼べない「国粋主義者」でもない単なる「ならず者」としかいいようのない者たちでは衰退するしかないのである。彼らは右翼流(筋の通った正統派右翼)に言えば「ほんとうに日本人か」と聞きたくなるほど「保守」でも「右翼」でもない。単なる場当たり的な人気取りポーズの「得票マシーン」で、当然内容も空疎で、たとえ内容があったにしても虚言に満ちている。だから決して「ポピュリズム」でさえないので、西部邁流に言えば、それは大衆迎合主義ではなく単なる軽薄な人気取りの「ポピュラリズム」ということになるのである。詰まる所、私利私欲以外に何もない者たちということになる。要するに、彼らにとっては政治が「最終ビジネス」という位置付けなのである。したがって、選挙ともなれば口先から日ごろ考えたこともないような言葉が出るは出るは、その顔色は人を喜ばせるためにやわらぎ、こびへつらいは底なしということになる。しかし、そこには倫理も倫理性も微塵もない。むしろ、ないからできることでもあろう。

 金主の割れた浮ついたマスコミ用語に振り回されるのではなく、ここは本当の意味で思案のしどころであろう。

                                2017 10/16

 

                                

                             

「ある日、その時」(67)9月10日ー

<掲載内容>

737.またぞろ「人づくり改革」とは  738.やはり「儲け話」と「ただ」ほど危ないものはない 739.「一院制」云々で知れる本体、本性 740.「O157騒動」で 741.国辱的な「保守」742.アベ・シンドローム(Abe syndrome) 743.「憲法改正」という遣い方は不適切 744.「国家神道」を奉ずる者たちとは

 

 

                                                                                                                                       <転載厳禁>



744.「国家神道」を奉ずる者たちとは


 わかりきったことを改めて言うことになるが、「国家神道」を奉ずる者たち、すなわち俗に「右翼」あるは「国粋主義者」などという美称で呼ばれる者の集団と民主主義とは完全に相反するものである。アメリカの若き研究者の指摘通り、「古代ローマ帝国の皇帝崇拝と日本の国家神道とは驚くほど似ている」のである。すなわち、国家神道に寄り添う者たちとは民主主義とはまったく逆方向で、上からの権力を振るうことによって強制的に統治する「帝国」を志向しているのである。現政権とその周辺はすべてこの「帝国」を志向している者たちである。選挙の時だけの「泣き」と「笑顔」と「ハイタッチ」、さらには日本酒などに騙されていたら後は何をされるかわからないのである。

 場合によっては、今度の選挙が民主主義下で行われる最後の選挙ともなりかねないところがある。それほど巧妙に仕掛けられた罠が至る所にあり、民主主義を装った反民主主義、非民主主義的な国家神道を奉ずる者たち、あるいはそれを装う者たちに牛耳られる可能性が大きいということである。要は、目先の目くらましに惑わされずに、「民権主義」とは真逆の「国権主義」を許すか許さないかの選挙であることを忘れないことである。

                                2017 10/12


743.「憲法改正」という遣い方は不適切


 「憲法改正」ではなく、「憲法改変」である。憲法改変についての是か非かまず問題なのであって、「改正」では変えること自体がすでに是という前提に立った話である。世の中が変わったから憲法も変えるなどとはとんでもないことである。そのことについては以前にもこのサイトで取り上げたが、簡潔に言えばすべては米国の都合に合わせてということなのである。何かというと米国に押し付けられた憲法だからとバカの一つ覚えのように繰り返すが、またぞろ米国の都合で変えさせられているだけなのである。恥を知れと言いたくなるような米国に対する媚びへつらいようはもはや「同盟国」などと言う範疇にない。こんな人間が世界中で恥の上塗りをしているかと思うと同国人としても恥ずかしい限りである。憲法とは、国の根本法であり、社会情勢が変化したからなどと簡単に手を加えられるものではない。そんなことは法律でいくらでも調整できることである。これは完全な確信犯である。こんな者たちが「日本を守る」とは、おぞましく、寒気立つ思いがする。

マスメディアもよくこんな言葉を平然といつまでも垂れ流していられるものだと思うが、その程度のことなのである。低劣である。

                               2017 10/8


742.アベ・シンドローム(Abe syndrome)


研究者にとっては格好の研究材料でもあろう。次から次へと生々しくも提供されるさまざまな病的傾向、そして、それが形作られた遺伝的、生物学的一般的感情傾向そのもの歪みと変異・・・この狂気そのもののとも言える「軽さ」が本人の感情のすべてに行き渡っている。そうかと言って、決してこの「軽さ」で自らの死に至ることはないという狂気の変種ともいうべきもの・・・この異様な反知性的「軽さ」こそ、変種のマキアヴェリズム派生体、日本的権謀術数の変種とも言えるものである。宗教が最終ビジネスと言った男と、政治が最終ビジネスと考えている者たちとは同一でこのシンドロームに入る。わかりやすく例えれば、戦後70年形骸化され続けてきた民主主義の中で限界点を超えて衰微する資本主義の陰りの下でいつの間にか育っていた毒キノコのようなものである。これは保守政権などではない。それ程限定的でもないので限定的に捉えているとポイントがズレる。したがって、このシンドロームの圏内にいる者の政策論争も公約もすべて無意味というより騙すための方便と見た方が賢明であろう。サイコパスの集団が増殖を繰り返すうちに作り出してしまった「もの」を見てもこのシンドロームの伝播力、感染力は強い。しかし、増殖率が高いとはいっても所詮は毒キノコで、食べるわけにはいかないので消去するしかないのである。

 「保守」を単に「現状維持をすること」などと考えているととんでもないことになる。維持するだけでも補修、点検は常に必要不可欠なのであるが、そんなことはお構いなしにあるかないか不明な「人間的なつながり」、「土下座」程度で2選3選させているからこのような事態になるのである。西部邁も言うように「伝統とは、その国の歴史が残してきた慣習そのものではなく、その中に内包されている平衡感覚のことを意味している」、その「伝統」から大きく逸脱していれば改革を断行するのが保守なのである。保守が保守にもなっていない国、現状維持どころか、伝統さえもおろそかにする者たちには即刻退場してもらうしかあるまい。                               

                                      2017 10/5


741.国辱的な「保守」


 私は学生の頃から、能、狂言をよく観に行っていた。仏教、神道についても、特に仏教については学んだという以上のものを私の中に残している。そして、その当時傍らには言うに言われぬものに突き動かされるように読んだ海外の書籍、たとえばキルケゴール、カント、ヘーゲル、マルクス、フッサール、メルロ・ポンティ、サルトルなどの書籍もあった。母の影響もあって、華道、茶道の心得もいつの間にか身についていたので、その後思わぬところでその影響を再発見することもあった。それはそのまま今は亡き母の思いにもつながっている。日本の文化の質についても肌で感じることが多く、愛すべきものと感じている私が日本の「保守」といわれるものに共感することがないのはなぜか。特に現政権のような者たちが「保守」と称することには違和感以上のものを感じるのである。どうみても文化もへったくれもないような者たち、それが権力に群がる者たちの常道などと言って済まされる領域をはるかに逸脱している。単なる亡者といってもいいような者が「日本の伝統文化を守る」、「美しい日本」云々、などとくると、つい虫唾が走るのである。「保守」という従来のコンセプトはもはやまったく意味をなさない。むしろ今は、実質的に日本文化、国土の破壊者といってもいいような者たちが保守と言われているのである。さらにやっていることは日本の品位を落とすことしかやっていない。それでも「保守」と言うのなら、名を返上した方がよい。この体たらくであるから、少しでも思慮があれば「保守的」位置にいる者も「保守」擁護の見解から外れざるを得ないのであろう。実情は明確な「保守」も「革新」「リベラル」もいないと言った方が適切である。詐術のレトリックだけで作り出されたようなボケたような状況を明確にするいい機会である。

                               2017 10/1


740.「O157騒動」で


 食料品関係でこのような騒動を起こしたらまず廃業であろう。しかし、、今回の調査でもそうだが、かなり細かく調べたにもかかわらず感染経路が不明ということである。しかし昆虫類、ハエなどのことはまったく考えられていないようだ。店は自動ドア、食品はただ大皿に盛られて並べられているだけというのがほとんどであろう。お客の出入りでハエなどは簡単に入り込んでくる。ハエ一匹で簡単に店などはつぶれるのである。実際、私はそのような状態になった店を身近で見たことがる。近郊ともなれば家畜小屋もあろう、そのようなところから飛んできたハエであればO157などは簡単にばらまかれるのである。トングばかりに注意がいっているようではお話にならないが、これもまた一事が万事。それに推理力、想像力の欠如が加われば、ピンボケのままただただ右往左往するばかりであろう。

 因みに、私は棚にそのまま並べてある食料品(パン、惣菜類)を買うことはめったにない。

                                2017  9/19


739.「一院制」云々で知れる本性、本体


 2009年、小泉純一郎が「一院制」を取り上げたが、そこには安倍晋三も森喜朗いた。これは憲法上の問題(憲法43条)にもなることである。そのようなこととは別にスピーディーな「解決」、議員の削減などが全面に出て、利点ばかり強調され喧伝されていたが極めて危ういことである。独裁的色彩が強くなればスピーディーになるのは当然であるが、それでは民主政治とは遠ざかるばかりである。一頃、小泉などに乗せられたマスメディアがやたらと「ねじれ国会」などという文言を遣っていたが、どこの独裁国家かと思われたものである。「ねじれる」ことも、「時間のかかる」ことも覚悟しなくてはならないのが民主政治でもある。現状を見れば、「一院制」などにすればどうなるか、火を見るより明らかであろう。そんなことは中学生でもわかることである。

 どちらにしても、今また「一院制」などを持ち出してくる者たちは危険である。調べればすぐにそのバックは判明する。

                             2017 9/16


738.やはり「儲け話」と「ただ」ほど危ないものはない


 儲け話、すなわち「経済最優先」の結果がこれである。そして大学無料化、「ただ」にして何をどのように指導しようというのか、すぐに役立つ目先の実利重視の企業と一体化した産学共同路線の低レベル教育によるヒューマノイドの大量生産であろう。これでは文化もへったくれもない。そうでなくとも文化レベルは落ちる一方なのである。時間ばかりかかる一見無駄に見えているものが実は燃え尽きることのない底力を養うのである。小手先だけの目先の技術を磨くだけでは先細りになることは目に見えている。企業戦士などの美名でその気にさせ、さんざんこき使った挙句に今度は燃え尽きる前に兵隊として駆り出し文字通り燃焼させるのである。彼らの言ってる着飾った「もっともらしいこと」のすべては、国民のためではないことを前提にして考えないと取り返しのつかないことになる。

 今やっていることは、どれもこれも国を滅ぼす方向にしか向いていない。それがわからないようでは話にならないのである。そして、それを止めることができる者がいないのであれば、「他に適当な人がいない」のであれば、この国の滅亡はやはり必然の成り行きなのであろうと思っている。そのことで私は悲観も楽観もしていない。在るように在るだけである。そもそも現在は、自分だけ助かりたいと思うこと自体が不可能であると同時に無意味なのである。

                             2017 9/15


737.またぞろ「人づくり改革」とは


  よくもまあ次から次へと悪びれもせず何かありそうな見せかけだけの大言印象操作、詐欺師のレトリックそのままである。実際、何一つ「中身」のあった例がないが、執拗に繰り返すことで何かやっているように見せかける。これもまた、大衆は小さなウソには敏感だが大きなウソに簡単に引っかかるというヒットラーに倣ってのことなのであろう。よくヒットラーを持ち出す失言大臣もさることながら、ヒットラー語録を片手に政を行っているような、歴史に何一つ学ぶことをしない彼らとはやはり一線を画す必要がある。同じ過ちを何度でも繰り返すからである。

 「小さなウソ」ということでは、最近のつまらないスキャンダルに目くじら立てて騒ぎ、煽るマスメディア、そしてそれに乘る柄にもない者たち、肝心の問題はどこへやらである。政治家などが聖人君子であるはずもなく、叩けば埃の一つや二つ出てくる取りあえずの大衆の代表であるということに過ぎない。だからこそ身ぎれいにしておく覚悟が必要であるが、要はどのようなことを国民ためになしたかがすべてで、プライベートなことをいちいち取り上げて問題にすることでもない。「人生いろいろ」、「あんたもそうでしょう」それで終わりなのである。個人的問題について「説明責任」云々、いい加減にしなさいよ、大衆の手なぐさみのような芸能人でもあるまい、そんなものは聞きたくもない。それよりもっと重大な問題の説明責任の方を追及すべきであろう。今現在まで、肝心なものの説明責任は何一つなされていないのである。

 ここにきて内閣支持率が上昇したと大手メディアグループが騒いでいるが、何のことはない北朝鮮の影響である。支持率変動と北朝鮮のミサイルは密接な関係があることは今では周知の事実でもある。北朝鮮が「がんばる」ほどアメリカは日韓に武器も売れるし、言うことはあるまい。日本の防衛費の膨張に文句を言う者もいなくなる。そのことについて下手に抗議すれば「非国民」扱いという構図をつくりだすのが狙いであるが、すでに出来上がりつつある。何だかんだともっともらしいことを言ってみても利するのは「軍産複合体」とその関係筋の「パシリ」だけなのである。国民などは徹頭徹尾その「だし」以外の何ものでもないが、「人づくり改革」でロボット化してしまった判断停止の疑似人間にはもはや何も見えないという寸法である。

 

※「パシリ」:この場合の、「パシリ」とはかなり広範囲である。上は「ヘッド」からほんとうの使いっパシリまで、「御用」と称される「学者」、「評論家」、「ジャーナリスト」、「作家」なども含まれる。あらゆる分野に存在するが、「褒美」を受け取る者から思い込んで身銭を切る殊勝な者までと範囲も広い。

                               2017 9/12 


 

「ある日、その時」(66)7月29日ー

<掲載内容>

729.「科学的特性マップ」とは、すなわち「亡国マップ」730.最近、よくわかること 731.「内閣人事局」732.「承認欲求」ということ 733.史上最低の大統領と首相と 734.KKKの幹部の言うことと 735.「分断の時代」?736.自己顕示欲という痛々しい様相

 

                                  <複製・転載厳禁>



736.自己顕示欲という痛々しい様相


 金の亡者、権力の亡者などもしかり、執念に取りつかれて亡者の領域まで行ってしまった者たちの動きは共通している。自己顕示欲なども度が過ぎて、自己顕示そのものが執念化してしまったのではないかと思われるような人物をよく見かけることがある。その言動のほとんどが自己顕示欲を根拠としているとしか思えない内容であることからもこの欲望の根の深さも推察できる。彼らは自己顕示欲そのものによって自己を喪失しているのである。したがって、その見方、感じ方も実のところ肥大化した自己顕示欲そのものよって変形、変質させられているのであるが、本人にあまり明確な意識はない。やがて四六時中本来の自己とは乖離した自己に振り回されることになり、自らの死すら自己顕示欲に奉仕させるところまでくると、もはや手の施しようがない。見ていても痛々しいものがあるが、詰まるところ自業自得なのである。前にも取り上げた「承認欲求」も自己顕示欲と相乗作用を起こしやすく、いつの間にかとんでもないところに「自己」は運ばれているものである。さらに厄介なのは大した内容でもない「こと」、「もの」に酔い痴れさえして、敢えて「急流」に飲み込まれて行くことである。

                                       2017 8/25


735.「分断の時代」?


 なぜ「分断」なのか?なぜそのような言葉で括るのか、それで何か言い当ててつもりになっているとするなら根本的なスタンスを疑わざるを得ない。それはあたかも誰かにあるいは何者かに分断されているようなニュアンスさえ感じさせるが、それでは「分断」以前にどのような「統一」されたものがあったというのか。「分断」という言葉が、何か第三者的な、歴史の枠外で高みの見物をしているようなあり得ない「位置」を提示するから不適切なのである。「分断」ではない「対立」というべきなのである。今なお綿々と「対立」が続いているということに過ぎない。「分断の時代」などという言葉で曖昧に世界を括るのは危険でさえある。それは飽くまで「対立」なのである。それは常に「統合」を志向しざるを得ない「対立」でもある。そして、さらに高次の「統合」が求められるという展開の基本的常態の一様相であるに過ぎない。「分断の時代」などというはあまりにも皮相的でさらに世界情勢を曖昧化させる方向にしか役立たない極めて不明瞭な表現である。こんなことを言い出した者の頭の中が透けて見えるようだ。言葉を置き換えることでさらに物事が深化し、新たな展開につながるのならよいが、これはむしろ逆であろう。

                                2017 8/20


734.KKKの幹部の言うことと


  米国で人種差別で問題を起こした白人至上主義集団KKKの幹部が、トランプ大統領が望んでいることをしているまでのことなどと言っていたが、確かにトランプは彼らを刺激、扇動するようなことを言っていた。これは安倍に対する籠池の言動、さらには障碍者施設で発生した大量殺傷事件の容疑者が殺害は国のための行為で、「安倍晋三様」に伝えてほしい旨が書かれたものを衆議院議長公邸に届けたということも彷彿とさせる。要するに、実質的に種をまいているのはトランプであり安倍なのである。元凶である彼らのその場限りの大衆受けする空疎なワードの連鎖にたやすく取り込まれるのは決まって浅薄な単細胞的な貧困層であるが、山師の類もまた多い。そして、彼らに取り込まれた者たちはいつしか「突撃隊」のような役割をすることで自らの存在理由を見出そうとするが、その結果次第、あるいは状況次第ではたやすく切り捨てられるのが常なのである。ツイッターなどを見ていてもその内容から貧困層のものであろうと思われるものはかなりある。その多くはやはり「突撃隊」予備軍のようなものである。

                                                                                                                   2017 8/15

 


733.史上最低の、大統領と首相と


 史上最低の、大統領と首相と、そして狂った北の窮鼠と。史上最低というのは史上最悪でもある。これだけ重なると何が起こっても不思議ではないが、トリガーを引けば、すなわち「ボタン」を押せばその時がすべての最期の始まりであることは確実である。「戦争は現地で起きる。大勢死ぬとしても向こうで死ぬ。こちら(米国)で死ぬわけではない」とトランプは言ったそうであるが、こういう見方は何も彼だけではなく基本的に彼らの中にあるといってもいい。ただし、今後の起こり得る戦争、それも「北の窮鼠」との戦争は、ICBM,核弾頭付き弾道ミサイル、などを持っていなかったフセイン、カダフィーなどとの戦闘とは根本的に違う。米本土が直接狙われる可能性があるということである。その前に潰してしまえということであれば、窮鼠が何をするか、韓国、日本の被害は想像を絶するものとなることは確かであろう。「軍産複合体」にとっては、好ましい方向でもあろうが、今回は同時に終焉を迎えることにもなり得る。「軍産複合体」の「狂人」を仕立てておいて刈るという今までの常套パターンも通用しなくなってきている。戦争などはどのようなことを言ってみても愚者の所業なのである。「守る」、「防ぐ」などと言ってはいてもいつしか「攻撃」に移行しているのが現実の常である。戦争が人間の無限の愚かしさの証左であることについては敢えてここで言う必要もあるまい。日本には「平和ボケしたタカ派」と「平和ボケしたハト派」しかいないというのも難点ではあるが、一番危険なのは「平和ボケしたタカ派」の言動である。それは軍産複合体と容易にリンクする。要するに、戦争屋の太鼓持ち、野太鼓の類で、彼らは言うだけで制御などはまったくできない。その怪しげな言うだけの正論とやらに乗せられれば命はいくつあっても足りないということになる。もっとも「着飾った」無駄死がお望みなら話は別である。

戦争屋 : 先生、また最近、平和主義が幅をきかせてきましたね、何とかうまい具合にそういう偏った風潮ひっくりかえせませんか。

先生:   平和主義が偏っていることをわからせればいいだけのこと。「ガラパゴス平和主義」なんてのもあったが、まあ考えてみよう。どこを刺激すれば効果が上がるかやってみましょう。

 こんなやりとりが、それこそ至る所で行われているだろうことはよくわかる。

                                2017 8/12

                                                              、

 


732.「承認欲求」ということ


 誰かに認めてもらいたいという欲求、願望は大なり小なり誰でもが持っている「欲望」でもあろう。大なり小なりというのはそれなりに幅があるということでもある。中には他者の「承認」がそのまま自己の存在理由のような人間もいれば、他者の思惑などどこ吹く風のように見せることができる者までと様々である。例えば、「SNS」などの売り文句でもある「友達を輪を広げよう」式の「安易なつながり」には、当初から様々な問題を感じていたので私はそのようなシステム自体に距離を置いていたが、案の定「SNS」などが持っている「承認欲求」ともいうべき一種の「罠」に自らハマって身動きが付かなくなっている者たちが後を絶たないようである。それが現在様々な問題ともなっているが、私に言わせれば、すべてが安易過ぎるということでしかない。「思い込み」、「安手の自己愛、自己顕示」、「友達の輪」、「絆」等々、それらが「視聴率」のように数値化もされ、あたかも現実に「実体化されたもの」として現実の自分自身に帰ってきていると錯覚する。そもそも、そこに「何かある」と思うことが幻想なのである。実は何もないに等しいと言ってもいいくらいである。これは以前にも書いたが、そこで実質的に利する者とは当事者ではなく情報管理者とそれを「商売」にしている者たちだけである。そのようなことを充分承知の上で行う、しっかりと自恃の念を持っている者であるなら「承認欲求の罠」などにハマることもなく自由自在な境地は常に確保されるはずである。要するに、いちいち他人に同意を求めるのではなく冷静に「自分の位置」で自分自身を見つめることができればそれでよいのである。そうであれば意見、見解の違い、共有などは照合の内に底が見えてくる。そこでは、人に言いくるめられることもなければ、逆に言いくるめることもない。

                                2017 8/7

 


731.「内閣人事局」


 内閣人事局を発足させたのは稲田朋美で、菅義偉と組んで実現させたものということである。これは内閣に官僚の生殺与奪の権限を与えたようなものである。官僚が命乞いするように虚言を吐くのも避けられない現実の一面である。「政治家が人事をやってはいけない。」(福田康夫元首相)、それも質の悪い政治家なら尚の事であろう。このような事態がやはり「国家の破壊に近づいている」と危惧されるところである。

 内閣人事局の強化も、日本の政治を官僚主導から政治主導に変えるためにアメリカの制度を「マネ」したものだが、あくまで「マネ」だけで、政治任用に関しても議会のチェックが健全に働かない日本では行政機関の独立性は保たれないのである。そこでは国民不在の「忖度」だけがまかり通ることになる。

 三権分立とは言うまでもなく、国民の政治的自由を保障するためのものであるが、この政権はまったくすべてが逆行しているのである。だから「国家の破壊」に向かっていると言われるのである。

 やがては沈む 泥船の 行方知らずも 沈むさまさえ  見届けんとす

泥船に乘った者たちの最後の微笑みである。

                                   2017 8/3


730.最近、よくわかること


 最近、よくわかるというか、身を切りるように思い知らされることは、やはり人間の愚かさが無限であるということである。愚行はありとあらゆる手段で粉飾されるのが常である。空疎な言葉、虚言にわらにもすがる思いで飛びつくのもわからないでもないが、そこには実のところ何もない。しかし、その営為、所業でもたらされる弊害は計り知れず、それこそ無限大に拡散し、「人間」の終焉を近づける。そして、今すでに「人間」は終わっていると解釈する方が楽なくらいである。

 

                                    2017 8/1


729.「科学的特性マップ」とは、すなわち「亡国マップ」


 経済産業省資源エネルギー庁が作り、発表している「科学的特性マップ」を見て少なからず薄気味悪さを感じた人は多いことであろう。それが普通というものである。科学的特性マップ公表用サイトには、「原子力発電に伴って発生する『高レベル放射性廃棄物』は、将来世代に負担を先送りしないよう、現世代の責任で、地下深くの安定した岩盤に埋没する(=地層処分する)必要がある。」とある。原子力発電を続ける限り日本全国に「高レベル放射性廃棄物」が埋められることになるのである。放射性物質についても地殻変動についても、そのエネルギーは人知をはるかに超えている。どのような専門家であろうと、それについては結論を出せないのが実情である。地震大国の小さな島国に原発以外に、高レベル放射性廃棄物の地層処分である。地殻変動で異常隆起が起こり地層処分された高レベル放射性廃棄物が地表に押し出されたらどうするのか。人知をはるかに超えているとはそういうことなのである。

 将来世代に負担をかけないというのであれば、即刻止めて、廃棄物の量を最小限に抑えて地層処分というのがしかるべき現実的な方法であろう。再稼働などとはとんでもない、それを推し進める者とはどのようなことを言ってみても、後は野となれ山となれの亡国の徒であるという誹りは免れない。

                                   2017 7/29

「ある日、その時」(65)6月21日ー

<掲載内容>

721.歴史への冒涜とはかくのごとし 722、「講演会」などに何かあるのか? 723.ファッショの「お飾り」724.投票率51.27%でも低過ぎる 725.無党派層を棄権に追いやる者たち 726.「こんな人たちに・・・」727.無党派層が落選運動すればいいだけのこと 728.一点の曇りもなく真っ黒

 

                                  <複製・転載厳禁>



728.一点の曇りもなく真っ黒


 閉会中審査、これで「一点の曇りもなく」真っ黒であったことが明確になったということである。何をどう言ったところで、言えば言うほどその「黒さ」は増すばかりである。

山口4区、神奈川2区、島根2区、東京3区、8区、11区、24区、16区、福岡8区、10区、和歌山3区、福井1区、秋田2区、愛媛1区、まだまだあるがそれは各自が調べればよいこと。もし彼らが再び登場すれば選挙区の有権者の責任である。中には戦前からの巨大な闇を背負った者もいるが、これ以上闇を大きくしないためにも彼らに居場所を与えてはならない。それが主権者の務めである。ヒットラーの手法でやればいいなどと平然と言った麻生なども、戦前から忌まわしい過去を持つ麻生炭鉱(現「麻生セメント」)、その麻生財閥の三代目当主であったことからも「ヒットラーの手法云々」などは極自然に出てくる言葉なのである。安倍の「こんな人たちに負けるわけにいかない」と言うのと同質である。このような人間たちが今なお政権の中心にいること自体が、それこそ不可思議な「取り残された島国」なのである。なぜ麻生が福岡8区なのか調べればすぐにわかること。

  最近、底の割れている「作家」だの、「評論家」などと称する者たちが、まことしやかに「分析」、「評論」などを書いているようだがどれも参考にするほどのこともない。特に、手を変え品を変えた「憲法論議」、中でもその改憲の方向に向けた微に入り細をうがったような手の込んだ「論述」、それ自体にすでにその安っぽい核心部分が透けて見えているのである。

                                2017 7/24


727.無党派層が落選運動すればいいだけのこと


 落選運動するターゲットはもうすでにチェック済みであろう。「許せない者」は落とせばいいだけのことである。彼らに主権者の存在意義を思い知らせるにはそれしかない。適当な人物がいることに越したことはないが、そのような人物がいないからと言って放棄すれば、それこそ口八丁手八丁のいかさま師の思うつぼである。適当な人がいるかどうかより、まず現実的にも「許せない者」をいかに引きずり下ろすかが最優先問題なのである。そうしない限り「闇」はますます大きくなるばかりで、手の付けられないものになってしまう。ほんとうに自分の意に沿う候補者など現実的にはほとんどいないというのが実情でもあろう、しかし「許せぬ者」を放置すればやがて自分の首も危うい、そのような時、「許せぬ者」と対峙する者に投票するという選択肢もあるという「大人」の選択、政治家以上に政治的な国民になること、その時に初めて国民は主権者らしき者になるのかもしれない。国民にとって、ほんとうに適当な人物とは自ずと育つものであり、また国民が育てなくてはならない。訳のわからぬ三百代言風の「出来合いのもの」にすべてを託していてはとんでもないことになってしまうことを今回の「安倍一座」の「三文芝居」はいやというほど見せつけてくれたのである。今後、「座長」の首をすげ替えただけで済む問題ではない。「座員」すなわち関係閣僚は一蓮托生を覚悟すべきである。

 落選運動と不買運動、これが主権者としては効果のある奥ゆかしい最強の方法でもある。落選運動にしても、不買運動にしてもアイデア次第でその効果はさらに期待できる。「相手」は話したところでわかる「相手」ではない、妄執にとらわれた者たちである。具体的に目に物見せるしかないのである。巷では、「論破」、「正論」などと「お子ちゃまたち」がかまびすしいということであるが、そんなことは「物好き」にやらせておけばいいだけのこと。要するに、主権者たる国民を騙し、裏切る者たちを二度と国会の場に立たせないこと。それだけのことである。

                                                                                                        2017 7/10


726.「こんな人たちに・・・」


 周知のとおり、「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないのです」と叫んだ御仁についてである。もうすでに様々な分析、反応がでていて、その中には的を射たものから御用の筋の皮相なものまでと幅もある。私は、この御仁のすべてがここに隠されていると思っている。すなわち、彼には幼少期の岸信介の時代から「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないのです」という言葉は周囲によって呪文のように刷り込まれていたのである。「こんな人たち」とは、「選民的」に選ばれた自分たちとは異なる、「安保反対」を叫ぶ者たちであったり、ある時は一般庶民でもある。また、彼の意識にある「私たち」とは単に彼の所属する政党だけを言っているわけでも、もちろん一般市民を代表して言っているわけでもない。彼の中にある「こんな人たち」とは「選ばれた」自分たちの「意思」に逆らう「非国民」的存在に過ぎないのである。現にあの場で「安倍やめろ」のプラカードを持っていた年配の女性に「お前は朝鮮人か」と言ってすごんでいる安倍支持者の様子が映し出されてもいた。「負けるわけにはいかない」、これを選挙中の単なる選挙の勝ち負けを意味するように収めようとする向きもあるようだが、「節穴」、「浅薄」、「寿司友」の類であろう。これは窮地に立たされ、さらに直面しざるを得なくなった現実に向かって思わず放たれた長年培われた呪詛である。それは国民全体(すくなくとも90%以上)に向けられた宣戦布告でもある。言ってみれば、「美しい日本を守る」とはこのような者の呪詛の裏返しなのである。

 わかりやすくもう一度繰り返すと、「こんな人たち」とは、自分に刃向かう、あるいは自分を認めないすべての国民、「私たち」とは一族、同族のことで、間違ってもこの演説を聞いている多くの国民ではあり得ないということである。そこを取り違えると気付いた時には首が反転していることにもなる。

                             2017 7/6


725.無党派層を棄権に追いやる者たち


 実際、無党派層が選挙権を行使したくなるような人材がいないというのもわかるが、だからといって、それで実質的に自分たちと敵対するものたちをのさばらせることになっては自分が唯一持っている参政権の意味があるまい。選挙権をどう使うか、それが問題なのである。「ジャーナリスト」、「評論家」と称する者たちが「裏事情」をからませて「知ったようなこと」を言い、「誘導尋問」まがいのことをして混乱させたり、確信犯的行為を行っている者もいる。どちらにしても無党派層の参政権をできるだけ奪うことを主眼と考えている節がある。それは詭弁の類を駆使し、混乱させ、必要以上に面倒くさくさせ、できるだけ選挙権行使から足を遠のかせることである。現在の無党派層の状態は彼らにまんまとはめられている状態でもある。「政治家」が実際に行った事、やろうとした事について、「イエス」か「ノー」かそれだけである。それ以外は「弁解」、「謝罪」も含め一切関係ない。後は誰を選べば「イエス」になるのか「ノー」になるかというだけのことである。今回の都議会選挙の結果についても早速、「新人ばかりで不安」の声などと言うことを流していたが、一体誰が言っているのか、良ければそれを育てるのが主権者の務めでもある。出来合いの「政治家」については今まで何をやっていたのかが問題となるだけである。今回の選挙結果も、「主権者」をさんざん踏みにじったことに対する、その抗議の結果であろう。その結果について、存在理由も不明の「ジャーナリスト」田原何某が「ヴィジョンがない」とくる。それは「あんただ」とつい言いたくもなるが、実質的に、この手の者たち(※)が無理なく無党派層を棄権に導く「風」を作っているのである。それ以外にも「プラトニック枕営業」の得意な「政治家」、「評論家」、「心理学者」等々、取捨選択能力もなく彼らの言葉に頼り過ぎると彼らの罠にすぐにはまることになる。無党派層の参政権不履行も「自身の判断」と思わされていると言った方が正確であろう。実は緻密に計算され、「判断停止」状態、あるいは「自由意志」が作り出されているという面もある。それは催眠術的詐術と言ってもよい。

 こうした状況を作り出す一翼を担っている心理学者についても、少しだけ触れると、「意見をはっきりさせることも大切だが、時にはあいまいなまま、白か黒かで判断しないあいまいなままの受容は心の健康の一つなのだ」という見解がそのスタンスをよく物語っているであろう。要するに、心理学的解釈で何かわかったような気になるのは錯覚で危険でもある。それは「あれは月です」と言われて月そのものがわかったつもりになるのと同様である。「ブーメラン効果」なども同じである。そもそも「心理学」などは「第二学問」で一義的で本質的なものは何もない。したがって、詭弁、詐術の手段としても使われることも多々あるということである。

(※)「この手の者たち」については、この間の言動を基に具体的に名前を挙げられるが、それは各自が調べればよいこと。余程のことがない限り、趣旨に反することは避ける。

                                2017 7/5

 


724.投票率51.27%でも低過ぎる


 これだけの事があってまだ投票率51.27%とは低過ぎる。60%はあっても不思議ではないだろう。自民党が歴史的な大敗するなどとは当然のことで、どうでもいいこと。議席23でも多過ぎる。自民党などがやりたい放題闊歩しているのもすべては無党派層の選挙権放棄の責任であるというのは周知のことでもあろう。60%の投票率ではもともと自民党などは一挙に片隅に押しやられるような存在なのである。「落とせるものなら落としてみろ」と言っていたものが今度はしおらしく「厳しい結果を謙虚に受け止めて初心にかえって」云々、そんなことより、もういいから辞めなさいと多くの者たちが言っているのである。しかし、まだほんとうにはわかっていないようだ。要するに、もはや問答無用なのである。彼らには私利私欲以外には、実はもっともらしい明日などないということを見抜かれているのである。だから、今後もやればやるほどボロを出すことになるだろう。そう、私利私欲以外はボロしかないので常に取り繕うのである。今や彼にとって政治とは「取り繕い」そのものになっているのである。彼らの言う過去も現在も未来さえもすべて「取り繕い」なのである。

                                  2017 7/3


723.ファッショの「お飾り」


 現在の政権については、多くを語る必要もないほどファッショ化は進んでいるということはどこを見てもうかがい知ることができる。それは多くの者が感じていることでもあろう。そこにはまた一方でマフィア的に浸透している「日本会議」の存在もある。「有るような無いような」日本精神、言ってみれば大衆受けするような浅薄な「精神」を誇大増幅させて、それを拠り所に互助会的に拡大されている組織でもある。要するに利権の組織内分配で絶対に部外者、すなわち一般国民は外されているのである。親分子分の「契り」を結べば、憲法違反だろうが、法律違反だろうが「力」でかばうという構造である。国民としてはこれ以上彼らの思うがままにしておいては決して身のためにならないことだけは火を見るより明らかである。少なくとも、今、我々は民主主義国家の中に「いるはずである」。それにしてもファッショの「お飾り」でしかなような評論家、学者、ジャーナリスト、作家、俳優、タレントなどの有象無象の手の込んだ「小細工」の数々、微に入り細を穿つ涙ぐましい「努力」、生きるためとは言え無益な「営み」である。そこには新た「発見」などまったくあり得ない。

                                  2017 7/1


722「.講演会」などに何かあるのか?


 私などは、今まで講演会なるものに行ったことがない。その人間の書いたもの、言ったことなどをみれば一目瞭然で、それ以上のものに興味がないからである。実際に以前、ある著名な作家が自らの講演に来た者たちに講演会などに来る時間あるならやるべきことがあるだろうというようなこと言ったことがあった。因みに、私はその講演会にも行っていない。それは後で文書で知ったことである。最近では、講演を「キャンセル」された、「言論弾圧」があったなどと騒いでいる者たちがいたが、転んでもただでは起きない根性は見上げたものであるが直接的にも間接的にも権力の介入として言論弾圧があったわけではない。講演会を主催する方も、受ける方も実のところ安易な、「小商売」程度の領域で問題意識も緊張感にも欠けるからそのようなことになるのである。「左翼系」の者たちから「抗議」があった、「右翼系」の者たちから「抗議」あったなどということで腰砕けになっていたのでは話にならない。その程度のものなのであろう。「」をつけたのは実態が不明であるからである。主催する方も興味本位のテレビの「2級」ディレクター並み、受ける方も顔をつなげるものならバライティーでも何でもいいというような感覚なのであろう。どちらにしても講演会などで得るものはないという証左でもある。お笑い芸人の芸もない「客いじり」で「なんぼ」の世界と大した変わりはない。

                                2017 6/26


 721.歴史への冒涜とはかくのごとし


  日々見せつけられている公文書の隠ぺい、変造等々。このようなことが平然とまかり通っている現状を見れば、過去のある時期の歴史を都合のよいように変形、歪曲することなどいかに容易であるかが手に取るようにわかる。それはやはり何をどのように言い尽くしても歴史認識としては決定的瑕疵(かし)を持つ。やがてその瑕疵自体が増殖し新たな展開可能なあるべき真の営為、世界観までも台無しにするということになる。ここまで露骨にねつ造、隠ぺい、すなわち歴史への冒涜が行われているのを現前で見続けることになるとは、「ある意図」を持った者が歴史を読み変え変形させていく過程を今現前で生々しく見せつけられているのである。読み取る側にもそれなりの知的レベルと想像力があればどのような状態であっても見抜くことは可能であるが、大方は残念ながら与えられたデーターの読み込みさえままにならず、さらには想像力さえおぼつかない。そこで、今までの悪しきマインドコントロールを解くとばかりに三百代言風の大口のマインドコントロールを施されると 今まで個的な別問題で委縮していた自身にも力がみなぎるようにも思われ、いつしか内なる「自虐的なるもの」も「他虐」的なものへと転化され、大したいわれもない「全能感」に満たされる。それは、愚者の安易で怠惰なありふれた経緯でもあるが、歴史への冒涜とは、「目をつぶされ」、「耳をふさがれた」愚者を思うがままにその気にさせ巻き込む陳腐な常套手段ともいえる。一部の賢い亡者たちにとって愚者とは「人間」ではなく、自由に操れる「エネルギー」の一部に過ぎない。彼らが愚者に対して必要以上に「人間主義的」なものを口にし、それを全面に出す時、それは愚者がエネルギーとして燃やされる最期の時でもあるということである。

                               2017 6/24

  2 3 4 5 6 7 8