両忘の時‐ある日、その時‐

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「ある日、その時」(78)2021年1月ー

 <掲載内容>

 855.「離人症」 856.「意識どん底系」の蔓延で光は消えて行く 857.「陰謀論」?858.匿名世界の異常者たち 859.お里も知れる「自虐史観」860.「現在バイアス」?861.前統合幕僚長でさえ 862.「人流」とは唖然 863.改めてこのサイトについて 864.「分断」というバズワード865.自称「メンタリスト」のイカガワシサ 866.猫も杓子も「根拠、根拠」と喧しい  867.ヤァー!「暗闇」君 868.Wikipediaについて

 

 

                                <転載・複製厳禁>   



868.Wikipediaについて


 これもまた今更のことではあるが、やはり改めて確認したくなったので記すことにした。Wikipediaは検証もせずそのまま情報として受け取るとかなり危ういということである。それこそ恣意的に好き勝手に書き入れているケースが多々見られるということである。リテラシーのある者にとっては、取捨選択すればいいだけのことであるが、そこに書いてあることだけで止まってしまう者にとっては、負の積み重ね、あるいは明らかな誤謬をそのまま受け継ぐことになり、それが将来に渡って影響してくるということになる。生年月日、死没年月日などを確認する程度なら特に問題はなさそうであるが、中にはどこかに提出した自己推薦文のような「第一人者」などという言葉も遣われていたり、根拠も定かでないことを論っているものもある。「Wikipediaなんか、ウソッパチばっかり」と全面否定するつもりもないが、ファクトチェックは必要であるということである。さらに言えば、批判とは言い難いチェックを搔い潜るようなまことしやかな誹謗中傷の類も多く見れられる。「万人で作る百科事典」がウソ百科では無意味と言うより、むしろ害になることは言うまでもない。因みに、「Wikipediaなんかウソッパチばかり」と言っていた当人もWikipediaに載っている。自分で載せたのか、第三者が載せたたのか知る由もないが、どちらにしても興味はない。

 

                                   2021 10/19


867.ヤァー!「暗闇」君


 ヤァー「暗闇」君 我が古き友よ

 また君と話に来た・・・

・・・・・・・・

人々は喋っている 話すことなく

人々は聞いている 耳を傾けることなく

・・・・・ 

「愚か者たちよ」・・・・・・君たちは知らない 沈黙は癌のように広がることを・・・

・・・

 そう、これは、ポール・サイモンの作詞・作曲の「The Sound of Silence」のほんの一部の抜粋である。半世紀以上も前の歌であるが、どの歌詞も現在に生々しく息衝いている。不安を感じながらも、そこにはパワーがある。闇を避けて、ただ明るさを求めて光に集まる小虫のような感覚が今の趨勢のようであるが、それでは闇はさらに巨大化する。この歌は、漆黒の闇に対して、ヤァー暗闇君と、懐かしい友に会うような感覚で始まる。実際、闇をできるだけ見ないことにするという方向では、闇はさらに大きく、深さを増すだけでなのである。希望的観測などにしがみつくだけの者たちがもろく、崩れやすいのはそこである。この歌は、暗闇に対峙するという気負いはない、むしろそれを我がものの一部として自らの行動指針として取り込んでいくところが、さりげなくしたたかなのである。

 さて、ここで登場する預言者たちだが、どのように捉えるか、それも面白いところである。

※歌詞の訳は、歌詞らしい歌いやすい言葉には敢えて変えず、内容的に響く方を選んだ。

                                2021 9/26

 

 


866.猫も杓子も「根拠、根拠」と喧しい


私も、以前はよく「根拠」について、その有無を問い質したことはあるが、最近は、どういう意味で遣っているのかと思われるようなものがよくある。「言っていることに根拠がない」などという言い方で遣われることが多いが、よく見れば根拠は書かれているのに、読み取れていないのか、根拠を「科学的証拠」のようなエビデンスと同義語と勘違いしているのかと思われるものさえある。言うまでもなく、根拠はエビデンス(証拠)という意味ではない。言い得るよりどころとなる「理由」などが述べられていれば根拠が示されているということになるのである。人文科学系の問題について「根拠の有無」をあたかも「物的証拠の有無」のような意味で遣われるのは明らかに間違いである。

 

                                 2021  8/21


865.自称「メンタリスト」のイカガワシサ


 心理学そのものの根本的問題については、このサイトでも何度か取り上げてきた。精神分析ならいざ知らず、心理分析など詰まるところ皮相的な人心掌握術程度の領域を右往左往しているのがオチであろう。むしろ、その程度だから容易に商業的価値も生まれるのである。要するに、その軽便な人身操作術に、おこぼれ頂戴とばかりに人が群がるということである。最近のメンタリストDなどという者の、ホームレス、生活保護受給者に対する差別発言にしても、やはり根幹部分に致命的な欠陥のある未成熟成人としか言いようのない思考内容が如実に現れている。それは「自分の感想を述べた」では済まされないこともまったくわかっていない未成熟さなのである。「心理操作」を金につなげて弄ぶだけの、実に空疎な営みしかやっていないから自ずと出てくる思考回路である。私は、このような領域にいる者たちすべてを「メフィストの使いっパシリ」と呼んでいる。不誠実で、詐術の巧みなナルシスト、素行ゼロの者、やがて権力の集中するところからメフィストのお呼びもかかることであろう。あっ、そうか、すでにメフィストとは契約済みか。なるほど、それですべては解せる。

                                  2021 8/13


 864.「分断」というバズワード                        


  「バズワード」自体もバズワードであるが、ここでは何か新しい重要な概念、説得力があるような言葉にみえるが、実は定義や意味が曖昧な造語という意味で遣う。実際には、造語ばかりではなく、既存の言葉に対してもこの「バズワード化」のようなことがかなり起こっている。特に、問題のすり替えを得意とする者たちにその傾向が多く見られる。「分断」という言葉も社会的分断という意味で遣われることが多いが、「分断」の既存の辞書的意味合いでは、「まとまりあるものを断ち切って別々なものにすること」だが、対立という概念で充分説明できることを敢えて「分断」という言葉で置き換えることによって「一つにまとまっていること」が至上のことのように思わせる効果が生じる。すなわち、個々様々なものを一元的に組み替える作業の一環として遣わているのである。ものを少しでも考える人間ならば「分断」という言葉の遣われ方に違和感以上のものを感じるのも当然であろう。それは自由な思考展開を阻害するものであるからである。異なった意見の対立はものごとをより良く展開する意味でも必要だが、対立見解を「分断するもの」として捉えてしまうと、批判すること自体が、いつの間にか「批判するより提案を」などという形で「円満に」排除されてしまうことにもなる。実際、正当に批判することさえ「分断」を引き寄せ、煽り、蔓延させてしまうものというような風潮さえ出来上がってきている。「分断」という言葉もバズワード化の弊害に陥っているのである。「なぜ成熟した民主主義は分断を生み出すのか」などいう題の本があったが、「成熟した民主主義」とは何か?民主主義に成熟期などというものが存在するのか。本来的にも民主主義というのは永遠に現在進行形なのであり、完成することなどないはずである。したがって、現在のアメリカを「成熟期」と捉える視座、スタンスそのものがどのように作られたのか、それも問題ではあるが、一応、民主主義が進行している以上、常に対立、拮抗し合う関係はあり、それは常に検証され得るもので、「分断」を生み出しているわけではない。それはさらに大きな検証の時を迎えるという繰り返しなのである。それを統一の取れていない、まとまりのない社会と捉えるから「分断」などという言葉が出てくるのである。全体主義的視座に立てば、民主主義社会など「まとまりもなく」常に「分断」を生み出しているようにしか見えまい。もし民主主義社会を是とするなら、不用意に「分断」などという言葉を遣うべきではないのである。そこにあるのは、飽くまで発展には欠かせない「対立」があるということで、断ち切られまったく別なものとなった「分断」ということではないはずである。

                                  2021 7/18


 863.改めてこのサイトについて


 このサイトは、訪問者数、PV(ページ閲覧)の多寡などには無関係に進められてきた備忘録であるが、2021年6月までの一日の訪問者数はMax459、Avg200-300、一日のPVはMax1019、Avg400-500。これは一つの参考資料ともなることなので記して置くことにした。スタンス、展開は今まで通りで、何ら変わるところはない。ただ、思った以上に多くの方が見たり読んだり、チェックを入れていることがわかったということである。

                                  2021 7/1


862.「人流」とは唖然


 最近は、本当に奇っ怪千万な言葉が多い。この「人流」もそうであるが、政治家や官僚が頻繁に使い、アナウンサーまで既存の言葉としてごく普通に使っていたということである。これに対してある人は「かなり違和感を持った」ということを書いている。それが感性、知性が共に健全に機能している人の当然の反応でもあろう。この言葉を頻繁に使っていたというところが発信元であるなら、さらに合点が行く。物の流れを示す「物流」という既存の言葉に合わせて人の流れを「人流」とは、あまりに安易過ぎるというよりかなり危ういものがある。それは、その意識構造そのものも危ういが、同時に明らかに確信犯的なものもある。そこには「違和感を持つ」という感性すら中和させつつ、何が問題なのかを見極める知性も消し去る意図的な「作為」があるのである。頭の中を、それと気づかさせず攪拌しその実態を不透明にさせる操作である。言葉の攪拌は思考の攪拌でもある、それとなく使っているとそれが意味するものが意識構造に浸透してくるのである。このような造語、新語に囲まれているのが現状でもある。その中には時間の経過とともにその毒性を発揮する特殊な毒まんじゅうのような言葉もある。独裁者は必ず言葉をいじり始めることも忘れないことである。

 これも前に書いたが、「ソーシャルディスタンス」これは物理的な距離を意味するものではなく精神的な距離を意味し、そのまま排除の意識構造を作り出す怖い言葉でもある。単に物理的距離を意味するものであれば「ソーシャルディスタンシング」なのである。人々の会話、交流、つながりを恐れるのも独裁者、正確な情報は流さず、人々の分断を図りながら自分の思う方向に収れんさせるのも独裁者である。

 そう、「人流」とは「物流」のことなのである。だから、「違和感を感じ」、「品のなさ」を感じるのである。「こんな言葉が『新語大賞』などの候補に選ばれれば、世も末で日本語の破壊だ」と思われるのである。

  しかし、それは「日本語の破壊」だけでは済むまい、すでに文化レベルは地に落ちているのである。それは何らかの形で文化的営為に直接関わった者にしか具体的に見えて来ないであろう。多くの者たちが、それと気が付いた時には崖っぷちに立たされているというより、「落下中」ということにもなり、もはや地に堕ちるまでに分かるかどうかという程度のものである。

 「文化」の死とは、目に見えないから怖いのである。それは、やがてその国を亡ぼすことになる。

                                  2021 6/3ー

 


861.前統合幕僚長(河野克俊)でさえ


 5月12日、記者クラブで前統合幕僚長は「もっと早めに手を打つべきだった。危機管理として失敗している」と「批判」したのである。「最悪の事態を考えて、そこに至らないように手を打っていくのが危機管理だが、これは逆行だ。その場その場で後追いでやっている」と前統合幕僚長でさえ、言わざるを得なくなる事態になっているのである。政府側にいた人間なので、本来なら言いたくはないことであると本人も言っているが、事態はそのようなことを通り越してしまっているのである。現状に対する正当な批判は、よりよく先に進むためには必須であるということを改めて提示している。

 それに反して、IOC関係者の言動、オリンピックの実態がかつてない程に白日の下にさらされた。それはすでにわかっていたことでもあるが、ここまで醜悪であると、解体するより手立てはあるまい。

 IOC関係者が、日本人の犠牲的精神論まで持ち出して、開催を強いるその姿、オリンピックのために「玉砕せよ」と言わんばかりである。彼らを見ていると、やはりオリンピック帝国のイカサマ男爵と言った方が的確なのであろうと思われる。

 さらに、ここにきて、撒き餌につられた「ジャーナリスト」の動きが活発になっている。目に付くところでは、長谷川何某、彼は「私も菅政権と意見が異なる部分もある。だが、目先の問題を批判したところで、日本の国が良くなるわけではない。」、「日本の根本問題を認識しているか」そして、「東京五輪、コロナ対応の遅れなどは目先の問題で、目先の問題を批判したところで、日本の国が良くなるわけではない」などと言っているが、これは現状の問題から体よく目をそらせるための、その筋の者がよく使う典型的な言い回しと持って行き方なのである。それでは聞くが、日本の根本問題とは?菅政権が日本の根本問題をどのように認識しているというのか、明快に示すべきであろう。この手の似非「ジャーナリスト」の浅知恵にいちいち付き合っている時間はないのであるがつい言いたくなる。撒き餌に群がる犬ジャーナリストには要注意!

                                    

                                  2021 5/23


860.「現在バイアス」?


 軽めの、簡略化された造語が氾濫している中で、行動経済学の領域でつかわれている心理学用語「現在バイアス」などという造語もある。これは将来的なことを考えることより、現前の小さな利益の実現を図ることに重点を置くという「認知バイアス」のことらしいが、そういう傾向が若い世代に強いという。この手の造語は総じて底が浅く本質的なことが捉え切れていないので、増えれば増えるほど煩雑になるだけで根本的な領域からは乖離するだけである。「現在バイアス」が若い世代に強いなどと「分析」していたのはエコノミストであるが、「現在バイアス」が極めて強いのは、むしろ現在の為政者(政権担当)たちであろう。先のこと見据えて、事を成している者がどれだけいるのか?「後は野となれ山となれ」としか思えない場当たり的な行為ばかりである。仮に「現在バイアス」が成り立つとしたら、当然「過去バイアス」、「未来バイアス」もあると思われるが、そこまでの言及はない。時間論など語り得ないレベルの内容なのである。「バイアス」の遣われ方も問題になるが、「過去」、「現在」、「未来」、その中で我々に許されているのは「現在」だけということに古今東西何ら変わることはない。「現在」を重要視するしかないという意味でも、「現在」という時間に「バイアス」を持ち込むことは不適切である。時間にバイアスなどはないのである。要するに、マーケッティングに必要な便宜的なコンセプトという程度の造語なのであろうが、それを敷衍させて何か新しい世界の捉え方のように見せるのは大きな間違い。お粗末な内容を露呈させるだけではなく、危険でさえある。「Z世代」などという世代論もしかり。マーケティング・リサーチ レベルの話であって、大したことを言っているわけでもない。飽くまで、「商い」の範疇でしか通用しない事柄を色分けしているに過ぎない。したがって、そこから割り出された措定そのものもかなりファジーで蓋然性も定かではなく、根本的な領域とはかけ離れているということである。

 さらに言えば、私は、心理学そのものの在り方を信用していない。意識するしないに関わらず、煎じ詰めれば、その主たる目的は「民」をいかにコントロールするかにかかってくるからである。したがって、「学」としてもあまりにも不完全なのである。心理学用語を多用したところで、何もわかったことにはならないということを肝に銘じるべきなのである。

 

                                  2021 5/2 

 


859.お里も知れる「自虐史観」


そもそも「自虐史観」などという歴史観は存在しない。しかし、これほど幼稚なコンセプトで通じ合える領域が存在するというのは、日本ぐらいなものであろう。こんな言葉で、何かを言い当てたごとくに得意げになっている時点で、今後の新たな地平はすべて失われている。自省すべき問題をあたかも過剰な自虐であるかのように思わせて、乗り越えなくてはならぬ問題をスルーする方向に導く、「自虐史観」などという造語は、それを遣う者のスタンスも暴露するが、真実とは乖離するばかりの感覚的で偏向的な歴史認識を「正当化」するだけなのである。これ以上恥の上塗りをするようなことは止めた方がいい。それがわからないようでは井の中の蛙大海を知らずどころか、現前の水たまりにも気付くまい。このような感覚的造語というのは、一語であたかもすべてを悟らせるような錯覚をもたらすが、まったく無意味どころか、アヘンのような言葉で、わかったようなコンセプトを空中楼閣的に作り出す。

 

 ある歴史的事象の今までの記述を「自虐史観」というコンセプトで捉え、そこから「自由主義史観」(名称は立派だが)とやらで検証するというのであるが、詰まるところ、それは安易で不当な歴史改ざんに陥るか、「(新)皇国史観」などに行き着く。要するに、「自由な解釈」などといったところで、明解な哲理がなければ、すぐに安きに流れたご都合主義的な解釈しかできなくなるのである。「中国から日本を守る」のに日本でしか成り立たぬ、それもまともに検証もなされないような「新皇国史観」などを持ち出す必要がどこにある。民主主義で充分である。そんなことより民主主義を成熟させるためにはどうするかを考えるべきなのである。実際、今でも民主主義のイロハもわかっていないのが実情であろう。そんな現状で、また東条、真崎などの復活でも願っているのか、阿漕(あこぎ)である。いつまで愚行を繰り返せばわかるのかと言いたくもなる。

 己に酔うことなく、己の美醜、良し悪しを明確に知り得た者だげが、ほんとうの「展開」、「発展」に巡り合えるというのは、何も個人の人生に限ったことではない。

                                  2021 4/3

 


   858.匿名世界の異常者たち


  まず、私自身は、匿名の者がたとえいかなる講釈を垂れてもまったく信を置くことはない。無縁である。無縁というより、それ以前にまず「触れる」こともない、3万光年の「距離を置く」と言ってもよいかもしれない。それは詰まるところ、無と言ってもいいようなもの、取り上げる価値、意味の有無すら問題にならないのである。匿名の者とは、そもそもが「縁なき衆生」なのである、そのような者たちと「交流」もありえないし、理解に向けた「交信」も100%不可能であろう。そのような者たちとはどのような「接点」もありえない。要するに、「度し難し」なのである。以前、「言った者勝ち」などということがよく言われたが、「ヘイト」、あるいはそれに類したものなどは、所詮、匿名発信者自身の資質、実態というものを現わしているだけで、匿名発信者がターゲットにしている者の実情とは乖離しているというのがほとんどである。正確にものを捉える知力が決定的に不足している、言い換えれば、現実を見ることさえできない状態になっている者たちの発話ということである。彼らには展開の余地などまったくない。やがて、自ら潰れていくしかないだろう。もうすでに汚辱に満ちた言語使用の繰り返しで前頭葉は確実に委縮しているのである。

 最近では、匿名の者が、ある作家に「実名を明かせ」と迫ったそうだが、自分は名乗らず、相手に名乗れと言う、このような噴飯ものが通っていること自体やはり尋常ではない。匿名世界とは、尋常ではない領域で愚者がその気になってしまっている異常な世界でもある。ただし、一言付け加えれば、匿名世界でも私利私欲のない、何者かが住することのない誠実な問いかけ、主張であれば、3万光年の彼方からでも自ずと聞こえてくるものである。

                                    2021 3/10

 


857.「陰謀論」?


この言葉も実に曖昧に遣われる言葉であるが、至る所で目にする。フェイク、ねつ造、でっち上げ、デマ程度のことから、さらに様々なもっともらしいコンセプトが入り乱れ、意味のあるようなないような文脈の中でさらに煩雑となって「悪用」されている言葉でもある。根拠を示しつつ展開される推定まで「陰謀論」という言葉で括られる始末である。陰謀の有無などは、マキャベリズムの権謀術数を持ち出すまでもなく歴史上においても人間の「欲望」が絡むところではどこでも発生する。したがって、常にそれを所与のものとして検証する必要があるということに過ぎない。それが、マキャベリズムの信奉者ともなれば、なおさらで、陰謀がない方が異常であろう。自らはフェイクを垂れ流し、ねつ造、デマ、でっち上げは日常茶飯事、すなわち、陰謀が日課となっている者が敵対する相手の陰謀をでっち上げることなど朝飯前のことであるということである。権謀術数が政治だと心得ている者にとって、陰謀をでっち上げることなど容易いことである。そのようなことを「陰謀『論』」などと言わずに、端的に「陰謀のねつ造」、「陰謀のでっち上げ」と言った方がわかりやすい。「陰謀論」などと接尾辞的に「論」を付けるから指示内容そのものを曖昧にするのである。例えば、「トランプ騒動」、大衆に媚びることだけが売りの反デモクラシー的権謀術数者の相手側についての「陰謀のでっち上げ」、これ自体が明らかに陰謀なのである。一方では、公然と自らをマキャベリズムの信奉者と称し、その時点で反デモクラシーなのであるが、大衆をいかに詐術で絡め取るかだけに専念している。その挙句に、どこの後進国かと思わせるような「かじ取り」がまかり通ってしまっているのである。   

 コロナ対策の不備について聞かれると

「いちいちそんな、ケチをつけるもんじゃない」

彼らにとって、批判、追及は「ケチをつける」ことでしかないのである。これでは発展、展開の余地はまったくない。よく聞こえてくる「批判ばかりしていても仕方がない」などの類の元々の発信元はここら辺なのであろう。彼らには「批判」は「ケチ」でしかないのである。縮小再生産の無限反復の一本道。

また一方では、「一律の10万円給付はやるつもりがない」

「ケチをつける」、「やるつもりはない」など、後日、また例によって、そのようなつもりで言ったのではないなどと言ってみても、言葉もまた、顔と同様、思考回路のすべてを現わしているのである。そもそも彼らは、言い間違いで済まされる位置にはいないのであるが、それも一回二回のことではない、言い間違い、読み間違いの連続である。巷では、僅かな言い間違いで「飛ばされた」者は数知れないのである。

 

新型コロナは「オクサレ」どもをどこまでも炙り出す。人間の真価が問われているのである。

やがて、もっと鮮明になるであろう。

                                   2021 1/23

 

 


856.「意識どん底系」の蔓延で光は消えて行く


 「意識高い系」、「意識低い系」などと分けて、もっともらしく社会分析をしている者がいたが(以前にも取り上げた)、実質的には「意識高い系」を滑稽化し孤立化させる方向で持って行くという内容で意図的な操作以上のものはなかった。それはデモクラシーを担う者たちの排除、すなわち、全体主義を作り上げる一環としてなされた操作でもある。カルトでもない、ファシストでもない、デモクラシーをよしとする者であれば、「意識低い系」ではいられないのである。カルト系、ファシスト系がこよなく愛するのは思考停止状態の「意識低い系」と称される者たちである。

 気骨のある芸人であると思っていた村本大輔(ウーマンラッシュアワー)については、以前にも取り上げたが、彼は、「意識低い系」をさらに「意識どん底系」として、民主主義を滅ぼす者たちとして捉えている。滅ぶのは民主主義ばかりではなく、文化も含めすべてであるが、その通りである。「意識どん底系」は、やがて意識だけでなく、すべてがどん底となることを知るべきであろう。

                                  2020 1/17

 


855.「離人症」


 精神病理学用語に「離人症」というのがある。自分を取り巻く外界が現実のものと感じられないという「非現実感」、また、自分自身の存在の確かさが感じられない「空虚感」、さらには、自分の体が自分のものだと感じられれない「非自己所属感」などが挙げられる。これらの異常心理について研究は進み統合失調症(精神分裂病)初期の離人症についても言及されるようになった。

 現在のスマホの普及などとそれに対する人の在り様をみていると、「離人症」以前の離人感といってもよい、「非現実感」、「空虚感」、「非自己所属感」は大方の人間が大なり小なり感じていることでもあろう。そこに今回のコロナによる「距離を保つ」、「マスクをつける」、「会話をするな」等々である。この相乗作用は測り知れないものをもたらし、精神構造そのものに与える影響も大きいと思われる。

 もっとも、自己にとって対自的な他者になることなど、ヘーゲルに取っては弁証法的展開の一契機でしかなく、マルクス流に解すれば、自ら作った生産物スマホなどに支配されることによって人間性を喪失していく状況そのものということになる。本質的には真新しい事象でも何でもないが、その「異常性」についてはさらに様々な要素が付け加わり、今までとは違った様相を呈することになろうということである。

 

※離人感とは、私の造語で、他者の存在が実際にあるよりも何か遠のいて、今までとは違ったリアリティを感じさせるものになるということである。

 

                                 2021 1/1      

「ある日、その時」(77) 2020年8月ー

  <掲載内容>

845.「ウィズ コロナ」?846.「ウソをつかない奴は人間じゃねえよ」? 847.「悪名は無名に勝る」とは笑止の至り 848.「俯瞰的」、「総合的」???849.「老少不定」ということ 850.All is lost-最後の手紙ー851.ホーキングの偏狭さ 852.「2050年カーボンニュートラル宣言」?853.「ミイラ取りがミイラになる」姿は枚挙にいとまがない 854.DHCの情けないアタマ

 

 

                                  <転載・複製厳禁>

 



854.DHCの情けないアタマ


 化粧品販売のDHCのアタマ・吉田何某が、自社の公式ウェブサイトで人種差別のヘイトスピーチを垂れ流したそうである。やはり知的劣化も甚だしいところまできている。このDHC関連では、「DHCテレビジョン」が「真相深入り!虎ノ門ニュース」や「ニュース女子」などといった低俗番組を作っているそうだが、それをいくつかのメディアは「保守系番組」と紹介してるという。これが「保守系」なら、もはや、この国には保守はまったく存在しない。存在するのは、安易な差別によってしか成り立たぬ空疎なアイデンティティに辛うじて支えられている者たちだけということになる。特に共通項がある韓国に向けることによってその空疎な領域は感情域で埋められアイデンティティも実在性を帯びてくるように錯覚するのである。実のところは、「保守系」などというより「みすぼらしい系」と言った方が実態に即している。やっていることは、日本を実質的に貶めているだけで、これでは知的劣化といわれも仕方あるまい。

                                2020 12/26  


854.「ミイラ取りがミイラになる」姿は枚挙にいとまがない


「本当のこと」を知るためには、相手と「いい関係」を作らなければと追及すべき対象に近づく、あるいは、権力の中枢に入らなければ何もできないとばかりに、追及すべき対象と近づき過ぎて取り込まれていく。それが必然的な流れなのである。「本当のこと」を知りたければ、調査報道しかない。追及すべき対象とは距離を置き、徹頭徹尾問い詰めなければ、本当のことを見ることさえできない。基本的には、調査報道しかないのであるが、それは命がけになる。「親しい者」から聞き出した「裏事情」に詳しい者が、ジャーナリストなのではない。そのような者がジャーナリスト気取りで勿体付けて話すことなどは、所詮は単なる裏話で、真実などとは程遠いものである。

 

                                   2020 12/17 


852.「2050年カーボンニュートラル宣言」?


 「仮定のことはお答えできない」と何かにつけて言ってきた者が、30年先のことを平然と宣言する。それも世界が注目する課題についてである。「我が国は、2050年までに、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指すことを、ここに宣言いたします」と国連まで巻き込んで得意げであったが、世界の期待とは裏腹に、日本の脱炭素社会とは原発の再稼働つながってくるのである。実際、経団連の幹部は、この宣言を評価しつつ、原発の新設と再稼働ついて言及していた。

 30年後の誰一人として、言った本人すら責任の取り様がないことについては、大見得を切ることなど容易いことであろうが、足許の根幹部分に触れる問題については常に知らぬ存ぜぬである。例えば、日本学術会議の問題である。もっともらしいこじつけを取り去れば、ミサイル開発をしようとしている側は、軍事研究をすることを拒否し続けている日本学術会議は邪魔な存在に過ぎないということである。簡単明瞭なことである。何もかも「ぼかし」をかけて、説明責任などどこ吹く風、徐々に馴らしていこうなどと思っているのであろうが、それは詐術でしかない。軍産複合体に乗せられれば、行き着く先は見えている。平和ボケしたタカ派を煽りに使い、中途半端な武器を取り揃えて敵基地攻撃ミサイル?何を考えているのか?実にオメデタイ、その先は全く「無い」。目先の欲ばかりで、想像力の欠片もないヤカラである。それこそ、俯瞰的に、総合的に世界を見よ!と言いたくなる昨今である。やはり、「地頭」が悪い連中と言われても仕方あるまい。しかし、何度でも言うことになるが、本当に「真の大人」がいなくなった。保守本流も皆無に等しい。そして、何より民主主義政治はもはや完全に崩れ去っているということである。「頭は悪いが、ごまかすのは一流」な者ばかりでは、根腐れ状態で立て直すこともできまい。

                                   12/10

 


851.ホーキングの偏狭さ


 特に、ホーキングの哲学についての捉え方は傲慢であると同時に、それはそのまま彼の世界の偏狭さをも物語っている。ニュートンは自らの発見を、海浜の僅かな砂粒にたとえたが、ホーキングにはそのような謙虚さが微塵もない。やはり、器の違いを見せつけられる。言ってしまえば、ホーキングレベルのAIはできても、ニュートンレベルのAIなどは絶対に不可能ということである。もっとも、私見では、凡夫のAIの登場すら覚束ないとみている。凡夫の千差万別の「素晴らしさ」など創造しようがあるまい。どちらにしても、真っ先にできるのは似非人間AIの反知性の画一的な戦争マシーンの類、そして、そこから先は豊穣なる知性などとは真逆の方向に進むしかない。自然科学についての単なる希望的観測でしかない幻想に取り込まれれば、欲望(権力、金)に目のくらんだ者たちの人類終焉への道筋を確実なものとするだけである。

 ホーキングの偏狭さは、そのまま自然科学の危うさでもある。

                                      2020 11/15


850. All is lostー最後の手紙ー 


  サイレント映画に何か新鮮なものを感じて、ほっとしたことがあったということをこのサイトでも書いたことがあるが、この映画「All is lostー最後の手紙ー」もセリフらしきものはまったくないが、何気なくいつまでも見つめてしまう、いい映画である。ただし、想像力貧困な者にはついていけないものもあるかもしれない。「サバイバル映画」などというコピーがあったが的外れで、この映画の内容を貶めている。邦題というのは総じて作品の品位を損なうものが多い。

 日々、耳にする言葉、目にする言葉があまりにも空疎な、騒音、「染み」の類でしかないから、余計に沈黙自体が偽りのない「言葉」を限りなく紡ぎ出すのであろう。

                                                                                                         2020 11/7

 

 


 849.「老少不定」ということ


 死の訪れは、老若男女に関わりないという極当たり前な実情がわかっていないのではないかと思われる時がある。どこかで、人間は年と共に順番に死ぬものであると思っているのであろうか。だから、その「人生プラン」も保険屋さんのプランかと思わされることがよくある。それは自分で描いているようで、実は描かされているだけということにもなる。「描かされている」とは「踊らされている」と同じことである。

 死は、我々にはとらえ切れない。「死を見つめて」などというのも、実はあり得ぬことで、我々に見えているのは飽くまで「死んでいる<もの>」で、死そのものではない。死は「観念」であり、我々には、死そのものを直視することはできないのである。さらに、死は不定で、いつやってくるかわからないというのが実情である。「ある日、突然」などということが、死の死たる所以でもある。

 死生観なども、詰まるところ時間の捉え方、時間論でもある。私は決して富裕層ではないが、時間論的には億万長者なのである。

                                                                                    2020 10/25

 


848.「俯瞰的」、「総合的」???


 何かといえば出てくる、もはや噴飯ものの言語で、バカの一つ覚えの類である。お山の大将のお山は10メートル程の高さ、見える世界も知れている。それともカラスの鳥瞰か、地球儀をもてあそんでいる妄想独裁者は別にして、時々刻々動いている歴史そのものを見渡せる「俯瞰的」位置も、「総合的」判断をできる者なども、実は存在し得ないのである。いわんや、一介のそれも凡庸な権力者ごときに「俯瞰的」位置から「総合的」判断などできるはずもない。詰まるところ「葦の髄から天井を見る」程度のことしかできないというのが実情である。「俯瞰的」、「総合的」などという言葉を何のためらいもなく遣い、何か言ったつもりなっているということは、知性そのものに欠陥があるか、自分が神にでもなったか、カルトの教祖にでもなったつもりになっているとしか思えない。こんな御大層な幼稚な言葉で事足りると思っていること自体が低能で、危ういのである。あまりの低劣さに、言葉を失うこと頻りである。元々、その器量がない者が登り詰めると何をしでかすかわからないというのが常である。実際「日本学術会議の問題」にしても、誰にでもわかる明快な説明ができていない上に、怪しげなデマでその実態をごまかそうとしている。結局、有無を言わさぬ力の乱用で、陰に陽にことを収めようとするだろう。その前に、各自が各様に手を打たないと、明日は我が身である。目先のエサにつられているとにっちもさっちも行かなくなるのは目に見えている。パンケーキの好きなおじさんは、何でもありの、何でもする、恐ろしい人であることを忘れないことである。

                                    2020 10/10

追記:「俯瞰的」、「総合的」という言葉の遣い様、鳥か神か、専制君主にでもなったつもりか、そうでなければ、解離性障害の嫌いがある。

 


847.「悪名は無名に勝る」とは笑止の至り


 <某手配師の総元締め>が、その美名に隠された数々の醜悪な所業故の悪名を、「悪名は無名に勝る」と小泉何某に慰められたと言ってその<総元締め>が率いる会社の内定式で述べたそうだ。そんな言葉で慰める方も慰める方で、お里が知れるというものであるが、実に愚かである。自己陶酔性のある「フロントランナー」などという言葉を遣い、そういう者には「悪名」などは付きものと言わんばかりであるが、「フロントランナー」などという迷妄は捨てるべきであろう。フロントランナーなどというものは、この程度のレベル、作為で作り出されるものでもない。これでは全国津々浦々が悪名とどろく者たちの巣窟となってしまうであろうが、すでに時は移り変わっている。淡路島もやがてその厄難を背負うことになるが、目をつけられたのが因果の始まり、ご愁傷様である。

 「悪名は無名に勝る」、こんなことを言っているから、現在の惨状がわからないのである。そのことを本当に思い知らない限り、そこから抜け出すことは決してできない。

 鳥取県で農業やりながら、町内の「国防婦人会」の班長でもやっているのが関の山と思われる杉田何某などの行状もしかり。よく見れば、およそ誠実さなどとは無関係な放埓な青春時代を送ってきたと思われる者たちが揃いも揃ってひな壇に座っている。やりたい放題やってきた者に限って、誠実さ、一抹の哀れさを装うもの。さもなくば底の底まで見える開き直り様である。

「悪名は無名に勝る」などという時代はもうとっくに終わっている。というより、いつまでもそんなことをしていては人間自身も自壊せざるを得なくなり、またそのような人間の営為全体によって、地球自体が宇宙全体と辛うじてバランスを取っているものさえ壊しかねないところまできているということである。

 

                                    2020  10/3

 

 

 


846.「ウソをつかない奴は人間じゃねえよ」?


  「ウソも方便」ということはある。しかし、それも限度があろう。社会的位置を実名で確保した人間がSNS上ではなく、その著書で「ウソをつかない奴は人間じゃねえよ」と言っているとなると看過するわけにはいかなくなると同時に著者自身が墓穴を掘ったなと思われる。今や、新自由主義とポストモダンの奇形児は至る所にいるが、御多分に漏れずこの著者(橋下徹)もそうである。また、彼は、「私は、交渉の過程で”うそ”も含めた言い訳が必要になる場合もあると考えている。正直に自分の過ちを認めたところで、何のプラスにもならない」と言っているという。要するに、彼が人間である以上、嘘をつくということを明言しているのであるから、嘘つきが言っていることを信じる方がバカなのである。大嘘は小嘘に勝ると言わんばかりの話に乗れば、泥船も大船にしか見えなくなり、やがて、沖合で泥船が沈むころには岸辺にいたほら吹き衆の姿は消えているという寸法である。この位置で、弁護士でもある者が平然とウソをつくことを奨励する、やはり息をするようにウソをついていたアベ何某の別動隊と言われても仕方あるまい。これでは、人間の証明のごとくウソをつくヤカラが跡を絶たないどころか、ますます増えるばかりである。ウソのつき比べか、行きつくところは空中分解しかない。

 

                                       9/19 

  「おじさん、嘘つきは泥棒の始まりだよ」などと、子供に言われているようでは話にもならない。確かに、脱法行為、非承認の流用、税金泥棒のような違法行為が日常茶飯事となっている。その様、蜜に群がる亡者の群れである。亡者の顔つき、とくとご照覧あれ。


845.「ウィズ コロナ」?


  これで簡単に腑に落ちてしまう人の気持ちに合点がいかない。これについては少し前にも書いたが、一体何を目的にどこが作った造語なのか?コロナと「共存」、「共生」するための「新たな生活様式」などというそれらしき講釈がなされているが、果たしてどうなのであろうか?普通に考えれば、「go to キャンペーン」」とリンクし、とにかく「前向きな姿勢」にさせる戦略的な造語であろうと思われる。この造語には「癌とは戦わず、癌と共に生きる」というような意味合いも匂わせて、その本来の意図をぼやかしているところもある。そこには明快に検証されたものと、そうでないものを暗に同一視させる作為を感じさせるのである。大体、得体の知れないものとどうやって共存、共生するというのか?少なくとも癌細胞に関しては、その動き、様態の詳細な研究データはコロナの比ではない。いまだに検査体制もろくに整っていない上に、感染力も強く、変異する得体の知れない「宇宙的な」細菌と「共存」、「共生」などとは、何をどう思い込んでも無理であろう。「共存」、「共生」などとは、対象となるものの実態が明確になった時に可能なのである。そうでなければ、どうなるか見当もつくまい。

 PCR検査もまともにせず、検査結果も怪しい段階で、今後どう出て来るかもわからない、予断を許さぬ得体の知れないものと「共存」、「共生」、そんなことは全く不可能である。それが清々しくも「ウィズコロナ」「新しい生活様式」などという言葉で括られて登場する。どこから来るのかこの軽さ、軽い美辞は要注意とは何度となく言ってはいるが、実質的にやっていることは「人体実験」である。現に、検査も最小限度に抑え、分析、検討ばかりしているではないか。「ウィズコロナ」、これもまた日本でしか通用しない、危うい造語である。海外で遣ったらどのような目に合うことか?(通じるかどうかは別にして)

 Poor man! He's gone insane at last.「ウィズコロナ」が「live with コロナ」だと知れば、トランプでさえ「crazy!」と言い出しかねない。

「fight with コロナ」なのか「live with コロナ」なのか不明で、肝心の動詞を省き敢えてどちらとも取れる言い方をしているのである。文脈から「共存」「共生」を遣っているのであるから「コロナと共に生きる」という意味であろう思われるが、未知のウィルスに対して「共存」coexistence 「共生」symbiosisという言葉の遣い方は不適切である。よくこれで分かった気になれるものであると呆れている。このものわかりの良さは危険である。

 実のところは、「Go to トラベル with コロナ」、どこまで行けるか、いつまで続くか、・・・

 

                                       2020 8/22

「ある日、その時」(76)2020年3月ー

 <掲載内容>

832.なぜか利光哲夫さんが・・・833.「テクノロジー」?それは「悪の力」834.「やさしい独裁国家」?835.自分の言葉を持てぬ者たち 836.「生物化学兵器」説 837.「プロパガンダ企業」,「政治コンサルティング会社」等々  838.この文脈で「民度」とは!!839.白昼路上で拷問死 840.「救世観音」について841.「統計的有意性」とは?842.掃き溜めの鶴は飛び立った 843.イミテーションゴールド 844.Avec le temps  時と共に・・・

 

                                                                                                     <転載・複製厳禁> 



844.Avec le temps   時と共に


 

 パリの街を歩き回っていた時に、時々聞いていたレオ・フェレ、その中の「Avec le temps」がさりげなく蘇る。

Avec le temps, va, tout s'en va  ・・・時と共に すべては消えゆく

・・・・on oublie le visage et l'on oublie la voix  面影も声も忘れ

・le samedi soir・・quand la tendresse s'en va toute seule・・・・優しさがひとりでに消え去ってしまう土曜の夜

Pour qui l'on eùt vendu son àme pour qulques sous・・・誰のために僅かばかりの金で魂を売った

・・・・・・on oublie les passions・・・熱い想いも忘れ・・・

Et l'on se sent tout seul peut-être mais peinard ・・孤独であっても多分その方が気が楽だと感じ

Et l'on se sent floué par les annèes perdues・・・・そして、失われた歳月に騙されたと感じる・・・

・・・・・・・・・Alors vraiment・・・avec le temps・・・on n'aime plus・・・・そして、時と共に、人はもう愛さなくなる。そこで歌は終わるが、私の中では、avec le temps 、va、tout va bienが繰り返されている。そして、et c'est très bien 

 

 同じように歌っているいるようだが、何気なく入ってくる言葉も歌詞もその時々で違うものである。こんな歌詞で歌えるのはレオ・フェレくらいであろうと思われたが、カナダの女性シンガー イザベル・ブーレが歌っていた。現在の日本で、歌えると思われる歌手はいない。俳優も然り。これだけのことでも、その人間がいかにどのようなものと対峙してきたかがよくわかる。

 文化とは、取ってつけたようなものを言うのではない。さりげなく積み重ねられた揺るぎないものをいうのである。「非生産的なもの」をすべて排除する国では文化は育ちようがあるまい。やがて、そのほんとうの負の領域を思い知ることになるが、その時はすでに遅過ぎる。もう遅いくらいである。

 日本の文化的営為の実態は、簡潔に言えば、昨日まで的屋、不動産屋の類をやっていたような者が、音楽事務所、芸能事務所をやっている程度なのである。良質なレベルの高いものなどは、育ちようもなく、存在しようもない。たとえあったにしても、今度はそれを感受できる者が不在では成り立ちようがないのである。

 文化は、基礎科学のようなもの、一見無駄なように思われても、それを疎かにすると豊かな実りは全く期待できなくなるのである。

                                                                                                           2020 8/10

 


843.イミテーションゴールド


「悪貨は良貨を駆逐する」とは、あまりにも有名なグレシャムの法則であるが、やはり世の中に出回っているのはイミテーションゴールドばかりで、ゴールドに出会うことは、もはや奇跡に近い。それにしてもイミテーションゴールドが多過ぎて異様である。イミテーションが、ゴールドそのものより価値があるかのようである。実際に、その「重さ」、「光具合」もまったく区別できなくなっているが、むしろ、そんな違いなど知る必要もないかのようである。

 メディアに出てくる、為政者、官僚、御用提灯(お笑い芸人の類は問題外)のメッセージ、コメント、講釈などを聞いていても、なぜかイミテーションゴールドという言葉がフワっと出てくる。それは存在そのものがフェイクであることから発せられる波動のようなものに反応しているのかもしれぬ。何やら話しているその顔つきを見ながら、つい、言葉が違う、声が違う、目が違う、仕草が違うとダメ出しの連続である。要するに、どんなに隠しても顔にすべては現れているのである。

 イミテーションゴールド、もはやイミテーションリード(lead=鉛)ではないのか。

                                                               2020 8/2 

 


842.掃き溜めの鶴は飛び立った


 その兆候はすでに現れていたが、とうとう鶴は掃き溜めから飛び立った。もう二度と戻ることはない。自らが選んで降り立った場所とはいえ、この繊細さでよくぞ耐えたというのがその実感である。飛び立つ瞬間、「掃き溜め」からしか得られないものはもはや充分吸収して、もう思い残すことはないという表情であった。私の上空をゆっくりと2,3周したかと思うと、上昇気流に乗って一気に彼方に消えて行った。それは死などとはあまりにもかけ離れた、次元の異なる領域への旅立ち、さらなる一歩の始まりでもあった。だから、「さようなら」はない。

                                   2020 7/14  


 841.「統計的有意性」とは?


 アビガンの臨床研究で、藤田医科大学は10日、新型コロナウィルス感染者の治療薬候補アビガンの臨床研究の結果について、「アビガンを投与した患者が、投与しなかった患者に比べてウィルス消失や解熱に至りやすい傾向はみられたものの統計的有意性には達しなかった」と発表したが、初期の軽症者を対象としてウィルス消失、解熱効果があればそれで充分であろう。ここで言われている「統計的有意性」とは何か?具体的に説明すべきである。このような文脈でこのような言葉を遣うのは不適切である。「専門用語」でごまかしていると言われても仕方あるまい。

 やがてくるカタストロフを目前にして、「統計的有意性云々」などと言っている場合か?

一方では、権力取得にしか頭が回らない者と、何をしているのかわからぬ「専門家」と、これでは負けるな。

 

                                  2020 7/10

 


840.「救世観音」について


 「仏像に逢いにいこう」などという「親しみやすい」題で、大橋一章(アジア文化芸術協会会長、実態詳細不明、イベント交流会なのか? 早稲田大学名誉教授etc)が、「隠された十字架ー法隆寺論」梅原猛著を取り上げて批評していたが、その内容たるや、ポイントを巧妙にすり替えた箇所などもあり、もっともらしく体裁は整えているが、研究者としてものを言うのであれば、もう少し検証してから言うべきであろう。誠実な学者とはとうてい思えない。「梅原説は読み物であっても研究ではあるまい」といっていたが、大橋一章自身の研究なども、このような言説から読み取ると、かなり危うい。専攻は東洋美術史であるようだが、歴史認識もあまく、日本書紀さえもまともに読んだとは思えない。しかし、こういう「学者」というのが多過ぎるのが実情で、罪作りな存在である。つい、何を何のために研究しているのか?と問いたくなる。歴史の中で「救世観音」がどのように「生々しく」浮かび上がってくるのか、それを見定めるにはまず「隠された十字架ー法隆寺論」そのものを読むことが最善の方法であろう。

                                2020  6/28

                                  


839.白昼路上で拷問死


 白昼路上で堂々と、白人の警察官が黒人の首を膝で押さえつけ、「息ができない苦しい」と訴える黒人を見ながら、死に至るまで、その行為を続けた。その間8分以上。公衆の面前で見せしめのごとく平然と行ったこの行為には、今までの経緯のすべてが凝縮されている。抗議行動が各地に広がっているということであるが、当然であろう。これで抗議行動もなければアメリカの衰退はさらに根深く、深刻な事態となってくる。これは単に人種差別ということ以上の問題を秘めているのである。それは人間の「境涯」にはいない者たちの増殖でもあり、主体を喪失し、巨大化した形骸の際限のないもくろみが今までになく表面化しているということでもある。これは極めて危険な状況である。この危機感は「良識ある市民である」と思うアメリカ人であれば敏感に感じ取っているはずである。すでに新自由主義とポストモダンの掛け合わせによって種々雑多な人間モドキが誕生していたが、それと同時に悪も闇から光を求めるがごとく解き放たれた。しかし、その終焉も近づいているということである。

 これは、白昼堂々と行われた拷問死である。これまでどれだけの人間が人目につかない密室でこのように死んでいったかを如実に教えているのである。99%の貧困層がこの拷問死の対象となり得ることを肝に銘じることである。黒人と白人の問題などと思っていると足をすくわれる。1%の富裕層ではない以上、黙っていれば明日は我が身となり得ることなのである。

                               2020 6/9

×NHKの「これでわかった!世界のいま」で米国の人種差別抗議デモの背景を解説したアニメ動画(6/7放送)が謝罪に追い込まれた。見れば、実に皮相的な現象面ばかりを追った、差別を煽りかねない、最悪な内容である。やはり、ものを見ることさえできない者たちはいるのである。つい、どこの工作員が作ったのかと聞きたくもなる。「これでわかった!世界のいま」の実態が、これで充分わかった。これでは、世界を見ることさえできまい。

 

 


838.この文脈で「民度」とは!!


「なぜ新型コロナウィルスによる死者が少ないのか?」という質問に「それは民度の違いである」と答えた亡国の、否、某国の大臣、私もこのサイトで比較文化論的意味で以前から「民度」という言葉はよく遣うが、この質問に「民度」を遣うとは驚き呆れるばかりである。諸外国では民度をカルチャーレベルとして捉え意味不明の、あるいは危うい差別意識の現れとして理解したことであろう。後日、自国民の誇れることとして言ったことであるなどと、またぞろ苦しい弁解をしていたようだが、要するに、自己という意識も明確ではない常に受動的な「民」としての生活習慣が自ずと導き出した行動といった程度のことを精神文化レベルという意味も含めた「民度」などという言葉で括ろうとするからこういう事態になるのである。これもまた一事が万事なのであるが、いい大人がこんなこといつまでもやっていては示しがつくまい。おとなしい、従順な、忍耐強い、隷属的なといった意味の強い「民」を誇れるといったところで、それは「民度」とは全く関係ない。

                                    6/7

 


837.「プロパガンダ企業」、「政治コンサルティング会社」等々


 「オックスフォード大学の論文によると、プロパガンダを手掛けている企業は数百ある。」と言われている。また、それらの企業は、テクノロジーを駆使して、SNS上に大量の偽アカウントを作成し、個人の行動を操作したり、特定の意見を抑圧したりしているということである。すでに某政党が全国に「ネットサポーター」を抱え、「日々、ネット世論の工作に余念がない」ということは周知の事実であろう。彼らの背後には資産を持つ、個人、組織が存在し、デジタルキャンペーンに大量の資金を流すこともあるのであるから、その打ち上げ方も派手である。要するに、金に群がる太鼓持ちたちが作り出すイメージ、印象操作というところである。それは、我々が日頃、眼にするところからも充分類推、推定できることでもある。

※「フェイスブックのようなソーシャルメディアによって、選挙制度は破壊されてしまう」可能性も十分考慮にいれながら、個人情報を守る意識とデジタルリテラシーを高めることが重要であろうことは言うまでもないこと。企業が求めるデータを、おいしそうな餌につられて取り留めもなく放出しているようではその時点でアウトである。

                                      5/30


836.「生物化学兵器」説


 ノンフィクション作家の奥野修司によると、日本に帰化した中国人女性ジャーナリストは、YouTubeで「武漢の新型ウィルスは中国共産党の実験室から漏れた生物化学兵器」であると語っていたそうである。彼によれば、そのような噂は以前からあり、可能性として考えられるが、もし新型コロナウィルスが生物化学兵器だったらもっと強毒ではないか、ということであるが、私に言わせれば、そのような強毒な生物兵器自体がすでに時代遅れなのである。現に、香港であれだけ盛り上がっていた民主化運動に対する、それこそ「平和的」な極めて強力な抑制効果があったのは事実であろう。それは実際にそのように使われたか否かに関わらずである。ここまで拡大するとは当事者も思ってはいなかったであろうとは思われるが、充分考えられることである。マキャベリズムに絡め取られれば、サイエンスはすぐにマッドサイエンスに移行するのが常なのである。

 

                                2020 5/11


835.自分の言葉を持てぬ者たち


「上」は「例の人」から「下」は我を忘れたネットマニアまで、自分の言葉で語り得る者たちがほとんどいないということには、驚きを通り越して、「人間」の「境涯」、「概念」を改めて問わざるを得なくなる。もちろん、自分の言葉で語り得る能力、すなわち思考の鍛錬ができている人々は確実にいる。自分の言葉で語るとは、その時の感情にのせて、思うがままにぶち上げ、垂れ流すことではない。この「思うがまま」というのも、実は作られたものであることを本人自身が全く気付かず、それが自分自身であると思い込んでるケースが実に多い。その存在自体が、存在の在り様がすでに寄らば大樹の陰でしか成り立たなくなっているほど脆弱になっていることすら気付いていないのである。自らのうちに価値基準を持ち、それに基づいて判断し得る能力が圧倒的に欠如しているともいえる。だから、一言一句が形を成さぬ羽毛のような軽さで意味もなく宙を回転するだけなのである。意味があるとすれば、繰り返される「音」と化した「言葉」でイメージ操作をするという極めて低劣な次元での実効性くらいであろう。それに身をささげる者たちとは、戦うために必要な物も食料もないところで玉砕をしいられているということになる。そもそもの狙いが、軽薄短小、「もの分かりのよい」(権威主義的パーソナリティー)者を対象として煽ることであるから後は推して知るべし。何事も教訓化されず、同じ過ちを何度も繰り返す者を愚者というが、愚者の下での具者ばかりでは、何をどう繕っても後退、自滅が必定であろう。

                                                                                                             2020  4/25


834.「やさしい独裁国家」?


ドイツの哲学者が、日本は民主主義国家ではなく、「やさしい独裁国家」だと言っていたが、「やさしい」という言葉を除けばそのとおりであると思っている。その形容語には、ある気遣いさえ感じられるので、それを生かすのであれば、「懈怠(けたい)な独裁国家」と言いたい。すでに民主主義国家としては体を成していないのは新自由主義とポストモダンの落とし子たちの奇形拡大を見ても明らかである。弛緩した独裁国家の行きつく先は、どのように取り繕っても自滅、滅亡、その先はない。現在も新型コロナウィルスに世界中が襲われて、その対応の是非が人類に問われている。すでにその能力の差が各国の様々なところで現れている。見れば、やはり日本は懈怠な独裁国家と言わざるを得ないのである。そして、人々がすぐに口にする「はやく元に戻ってほしい」ということ、復興とは、元に戻ることではない、新たに創り出すことである。原発事故に限らず、たとえどれほど願っても元に戻ることは決してないのである。原発事故の現状は今なお悲惨である。人間の手に負えないもので暴利を貪ろうとした付けが回ってきただけのことであるが、後始末もできないもので未来の一角を死地にしたのである。餓鬼そのものであろう。その付けは人知では計り知れないものがあることだけは確かである。コロナウィルス禍が我々にもたらしたものも計り知れないものがあるが、原発事故のような死地は一角もない。元には戻れないが、新たに創り出すことは可能であり、根本から問い直さないと先には進めまい。

 

                             2020 4/14          

 


833.「テクノロジー」?それは「悪の力」


某CMに、「テクノロジー」という言葉が明日を切り開く教祖の言葉のようなイメージで出てくるものがあったが、陳腐で愚かしい幻想であるが故に危うい。自然科学とテクノロジー、この両者に発展のすべてを託すことは、すなわちそれらが「人類滅亡の自動装置」でもあることを忘れさせることにもなる。「自然科学はこの地球上で現在もっとも破壊的な要素」であることも否定できないことなのである。それは、自然科学には、物事の価値、すなわち行動規範の概念が欠損していることからくることでもある。イメージ戦略とは、つくづく恐ろしいものである。すべて自然科学とテクノロジーが解決してくれると思い始めた時が、滅亡の第一歩だと思って間違いあるまい。

 「テクノロジーとは、壊滅という悪の力」と捉えることは、今、さらに現実的であろう。

                                   2020 3/28ー3/29ー

 


832.なぜか利光哲夫さんが・・・ 


 昨日の夢の中に、なぜか利光哲夫さんが出てきた。手にはアラバールの「戦場のピクニック」をもっている。そして、微笑みながら何か語りかけているが、どのような内容なのかは聞き取れない。翻訳、演劇評論家、テアトロ編集長として活動していた利光さんはすでに2003年に亡くなっている。生前、何度か利光さんとは会っているし、同じ企画で演出家としても一緒に活動したことがある。夢の中に出てきても何の不思議もないが、その出方と手にしている本に何か因縁めいたものを感じてしまったのである。以前アラバールについては新宿の居酒屋だったか、私のスタジオだったか忘れてしまったが、二コラ・バタイユ(故人)とも話したことがあった。しかし、その時点でも、「戦場」での「ピクニック」自体がすでに日常化された感性の中で収まってしまっているように思われた。それからさらに30数年も経って、なぜ今また「戦場のピクニック」なのか、利光さんは私に何を語りたかったのかと思っている。自分の翻訳したものなら「大典礼」、「建築家とアッシリア皇帝」があるであろうに・・・。今、私自身は日々戦場を歩いてように感じているせいか、少々のことでは何も驚かなくなってしまっている。その上、巷では戦場の花見のようなものが極普通に一般化してるご時世でもある。何でもかんでも楽観的に、前向きに、笑って生きなければ損とばかりに思考停止状態でヒステリックに笑い興じる大衆の様は、救いようのない狂気そのものでもある。狂気がすでに「健全に」常態化しているのである。だから、今提示される「ブラックなもの」も「狂気」も、ダリの時計のようになってしまうのである。すでに液化が始まっているダリの時計・・・

 アラバール二十歳の時の処女作が、時空を超えて、縁のあった人の手の中に現れただけかもしれない。「戦場」と「ピクニック」という言葉が何の問題もないほど、これほど馴染んで溶け込んでしまっている時代の現状感覚が何気なくそれを呼び寄せたとも思える。

                                 2020 3/24

 

「ある日、その時」(75)2019年11月ー

 <掲載内容>

823.「正史」? 824.フランシスコ教皇に見る世界宗教のレベル  825.「桜を見なかった会」826.イチローのメッセージ 827.グレタ・エルマン・トゥーンベリ(環境活動家)のこと 828.杜撰な教育指針 829.「推定で有罪」のお二人様、二人合わせてトランペット・・・830.「政府が新型コロナ感染情報に苦慮」?!831.日々追われている身には・・・

 

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831.日々追われている身には・・・


 早いもので「ある日、その時」というカテゴリーを使うのも1か月ぶりである。もう少し時間が取れれば、このサイト全体も今の倍以上の400字原稿用紙で5000枚程度にはなっていたであろう。主に備忘録として使っているが、便利なところは、キーワード検索で以前書いたものが簡単に呼び出せることである。しかし、最近では、今年1月に予想した通り、次から次へと人間の「愚行」が転移、増殖を繰り返し最悪の事態に突き進んでいる。そんな状況の中では、今までのことを検索確認する間もなく現時点での外科的作業を強いられているといった具合であるが、日々追われている者にとっては、今のこの時間だけが、一瞬一瞬が途方もなく大きい。ありがたし、それは古語的意味の「あることがむずかし、めったにない、尊い」という意味である。私は、今、ありがたき時の連続を生きているともいえる。

                                  2020 3/16


830.「政府が新型コロナ感染情報に苦慮」?!


 正確に言えば、感染情報「操作」に「苦慮」しているということであろう。情報開示をしないのは何もこの新型コロナ感染情報ばかりではない。法的には(感染症法16条)国と都道府県に対して「発生状況や予防に必要な情報を積極的に公表しなければならない」とある。「国があまりに情報開示しなので、違うやり方でやっていく」という知事が現れるのも当然であろう。(1月下旬)。奸計か無能なのか、概して無能な者の奸計とは斯くあろうと思われる。それが是か非かはやがてその結果として現れる。これもまた彼らの奸計で隠し通せる事象でもないのである。

                               2020 2/15

 


829.「推定で有罪」のお二人様、二人合わせてトランペット・・・


 「推定無罪」が成り立たない二人とは、周知の通り、絵に描いたような主従関係にある日米の、大統領と首相である。権力側の位置にある者にルール違反が発覚すれば、物的証拠の有無などに関わらず、状況証拠だけで「推定で有罪」なのである。「推定無罪」などというのはそもそも一個人を守るものであって、権力側にいる者たちの擁護のためにあるものではない。したがって、三権分立さえ定かでないような司法の判断、御用の筋のご立派な講釈などとはまったく関係なく、我々にとって彼らは明らかに有罪なのである。有罪である者が、今なお説明責任も果たさず、責任も取らず、したり顔でオリンピックの「気運」に乗じて「改憲」を訴えているのである、これはどう見ても狂っているとしか言いようがない。米国では精神科医たちがトランプに精神鑑定を受けることを求めているが、当然であろう。日本もまったく同様であるが、米国と違って批判する側が総じて自主規制という去勢された道を選んでいるため、「多くの者たち?」がこの狂態の本質に気付かないようになっている。しかし、それを見抜けないようではやはり白痴化しているのである。昨今では、またぞろ性懲りもなく得意げにマキアベリなどを取り上げ彼らの現実政治の正当性を説く提灯持ちなどが現れている。どうにも始末に負えない輩であるが、提灯持ちは所詮提灯持ち、いつの時代にもいた者たちで、それ以上の者では決してありえない。多くの者たちにとっては、それは百害あって一利なしであることは間違いないのである。

                                                                                                           2020 1/22 

後日、トランペット、否、トランプの弾劾裁判の結果は案の定「無罪」のようだが、そのようなこととは全く関係なく、やはり狂信的支持者でもなく、利害関係のない「多くの者にとって」は有罪なのである。因果応報という明快な因果律はどのような詭弁を弄しようとも覆ることはない。それはやがてわかる。

そして、あのスティーブン・キングに、トランプは自分の作品に出てくるどのキャラクターよりも怖いと言わせた「人間」であることを忘れないことだ。当然、小振りではあるがそのペットも同様である。そのことを一瞬でも忘れればすぐにまた蘇る「人間もどき」と知るべし。

さらに言えば、トランプについての各人の好悪を度外視すれば、彼は非常に「有能なビジネスマン」なのである。そこを見落とすと本当の怖さはわからないであろう。それは行きつくところまで行ってしまった新自由主義の、ポストモダンの典型的な具体例でもある。(3/5)

 

               

 


828.杜撰な教育指針


 それは、もはや止めることが困難になっている少子化と重なり、亡国の道しるべともなっている。アメリカの例をとれば、最先端の研究をしている学生が哲学書を読むのがごく普通のことになっている。一方、日本ではどうか、最先端の研究をしている学生はただその分野のみに専念するように仕向けられるだけではなく、人文系の学部、理系の根幹となる基礎的学問領域さえ排除、削除されようとしているのである。マッドサイエンティストがいつでも登場する土壌である。目先の結果ばかりに追われて思考の根幹を形成するのに欠かせない領域を疎かにすれば、それは大した成果も得られぬまま、やがてマッドなものに収れんされてしまうという安易な道筋をつける。無形なものの大きさを知らぬ、具体的な目先の生産物しか目に入らぬ拝金主義的な愚者に文化を語る資格はない。文化の何たるかもわからぬ者に教育を任せては滅びへの道しか残されていない。

 少子化とは、国民の前意識に蓄積、形成されてしまった、この社会に対する拒否反応なのである。こういう社会を作り出している者たちに対するSilent protest(無言の抗議)でもある。

 

                                 2020 1/4

 


 827.グレタ・エルマン・トゥーンベリ(環境活動家)のこと


  彼女の言っていることは正しい。それに伴う行動も当然の帰結である。それについての講釈も否定的な感想、批判などもすればするほど自らの怪しげな立ち位置を露呈させるだけである。中には、彼女を裏で操っているいる 者がいるのだろうなどと言う者までいるようだが、想像力の貧困さ、文化レベルの低さ、アコギであることを露呈しているだけである。言ってしまえば、既得権益側の利害しか頭にないにもかかわらず、それを何かこじつけてもっともらしくまとめようとするからおかしくなるのである。それ自体が大人げないのである。彼女の言っていることを認めることが、自分の全存在を否定されたかのような恐怖感を生じさせ、妙にヒステリックな反応を生むのであろう。しかし、今すぐライフスタイルを変えることは難しくとも是は是、非は非という認識すら消し去ろうとすればやがてすべてが歪められ、「想定内」の最悪の事態を招くことになる。その「歪み」も今は限界点にきているのである。このまま行けば「思ってもみない」カタストロフィを迎えるのは明白なのである。「思ってもみない」などというのも、実は欺瞞である。

 現状のまま、目先の経済最優先で進めば、我々は後世の人々からグレタ以上にもっと激しく糾弾されるであろう。必然的に発生する過当競争の中で、我先ばかりが重んじられ、後は野となれ山となれがその経済活動の要諦であり続ける限り、今後もグレタたちの抗議と既得権益側の対峙は続くであろう。そして、後々、「歴史法廷」に立たされるのは為政者ばかりではないことは覚悟すべきである。

 

                                 2019 12/28

 2020年1月23日、スイスで行われているダボス会議で、米国の財務長官スティーブン・ムニューシンがグレタに対して「脱化石燃料を訴える前に大学で経済を勉強してほしい」と言ったそうだが、凡俗な応答でやはりその器量のなさが浮かび上がる。大学で学位をとってもこの程度であることを自ら証明しているようなものであろう。「科学を理解するのに学位は必要ない」と言うグレタの方が明快である。米国の財務長官?いつから?現状のアメリカ経済はどうなのか?社会はどうなっている?ほんとうの大人としての真の器量を持ち合わせているのならもう少しましなことが言えるだろう。要するに大した力量もないということである。日本でもそうだが、経済原論もろくに理解していない金計算しかできない経済学士はゴロゴロいるのである。当然、この財務長官と同調してわが意を得たりと得意になっているお里の知れる者たちもいることであろう。実は、その同調が一番安易な道であることを忘れないことだ。

 因みに、スティーブン・ムニューシンはトランプ陣営の財務責任者でトランプとは同体化している。

                                2020 1/24

追記:グレタに対する凡俗な応答は、プーチンも然り。中国なども同様であろう。要するに、現前の権謀術数、政治力学だけで、肝心要の「器量」が不足しているのである。これでは現実を正確にとらえるどころか見ることさえできまい。だから、現実に潜む危険因子の所在さえ見誤るのである。グレタは理想など一言も語っていない、「現実そのもの」(現にある状態)を語っているだけである。言ってしまえば、権謀術数、政治力学で絡め取られている者たちには、実は「現実そのもの」が見えていないということなのである。

                                2020 1/26

2020年2月6日、ハリソン・フォードは私の好きな俳優の一人であるが、やはりグレタを称賛していた。良識も器量もある本当の大人である。彼は、「環境問題や移民問題における米国の『道徳的リーダーシップ』は崩壊した。」と言い、また、「われわれは道徳上のリーダーシップを必要としている。私たちは己の信頼性をいくらか失い、それを取り戻そうと躍起になっている。」とも語っていた。その通りであろう。何もかもを相対化させ、人を殺すことさえ一つの意見、見解として成り立たせてしまうような変幻自在な入れ子構造そのものに対する危機感でもある。

 やはり、そこにはカントの「定言命法」のようなものが必要になってくる。すなわち「汝の意志の※格率が常に同時に普遍的立法として妥当するように行為せよ」、すなわち、「汝殺すなかれ」ということである。それすら、相対化して「そのような説もある」ということで済ましているのでは、「人間の範疇」からは外れて行くだけなのである。だから、「己の信頼性」を失い、それを取り戻そうと躍起にならざるを得なくなるのである。しかし、それが誠実な本当の大人というものである。それは当然、トランプなどを見ていれば、「米国の道徳的リーダーシップは崩壊した」と言わざるを得なくなるのである。

※格率:行為の個人的・主観的規則

                                2020 2/8


 826.イチローのメッセージ


 少年たちに向けられたイチローのメッセージの中に、「3000本安打達成までに6000回の失敗がある」というのがあったが、それは失敗を失敗として教訓化し、さらに前進する者の基本的なスタンスでもあろう。失敗を失敗とも思わず、都合の悪いことはないことにするような者たちには決して明日はないということでもある。失敗、過ちを自己正当化したり、美化しても何ら将来につなげることはできないどころか縮小再生産を繰り返しながら朽ちるだけなのである。失敗、過ちは、そのすべてを引き受ける以外に、新たな展開発展の道はないということである。イチローの言動と存在がそのすべてを語っている。

                                2019  12/22

 


825.「桜を見なかった会」


 「桜を見る会」は「桜を見なかった会」ということであろう。これ程までに隠すとなれば、どのような推測、憶測、推定も可能で、たとえ妄想であったとしても否定することはできなくなっている。執拗に隠すということは、それを許したということである。証拠の有無に関わらず、どのように言われてもそれを完全に打ち消すことは全く不可能となっている。自らその証拠を隠匿、破棄しているのであるから、それは自業自得でもある。この件についてはあらゆる想像が可能なのである。そして、その想像力を阻害することはできないということである。

 選挙区住民、反社、フィクサー、武器商人、日本のカルト集団、裁判長、学者、評論家、メディア・・・有象無象のタレント・・等々、今までお世話になった人々の接待並びに勧誘・・・・・

 花愛でる 人もなしやの 櫻花 散りゆく時の 哀れさもなし

 

「桜を見なかった会」は、その後、桜など一本もないところで「夜桜を見る会」を催したと言われたとしよう、たとえそうではなくとも、催すことがごく自然の流れのように見えてしまう。そこで何を話したかなどは「文脈」から割り出される状況証拠で充分である。決定的証拠は公然と自らすべて破棄しているのであるから、何を言われても当然なのである。このような事象に関しては、「無罪の推定」はあり得ない、飽くまで「推定で有罪」なのである。どのような裁判所でどのような判決が出ようがそれは変わるところはない。

 しかし、ほんとうに見せたくない、見せられない、真実なのであろう。これを小事扱いし、仕立て上げることに躍起となる者たちの馬脚も丸見えである。小事は大事ということを知るべきである。大事とは、この場合民主主義の実質的な完全崩壊である。

                                 2019 12/5

 


 

 824.フランシスコ教皇に見る世界宗教のレベル


 教皇の言動から見えてくるのは、さすがに世界宗教のレベルの高さである。世界宗教と単なる民族宗教との違いは何と言っても、いかに「知性」と向き合っているかである。「八百万の神」などはどの国の民族宗教レベルにもあることである。民族宗教は、世界宗教が持っているような明確な哲理がない上に展開の余地もない自己完結にすべてを収れんさせているのである。したがって、その言動も普遍性のあるものとはなり得ないのである。哲理のない民族宗教は容易くカルト化し、権力には都合のよいものとなる。民族宗教の特殊性をその民族特有のものと勘違いし、その民族の優位性の根拠とするような方向にもっていくことは、普遍性とはかけ離れるばかりである。それでは取り残されるのが必定なのである。そこに見えるのは、どのように粉飾しても独りよがりな閉ざされた未来しかない。

 教皇の簡潔で、明快な言動には世界の動きと一体化した知的裏付けがある、と同時に世界と共に「ある」という思いが伝わってくる。

                                

                                2019 11/25


823.「正史」?


  正史とは、「正統」の歴史、国家が編纂した正統を明らかにする歴史書とある。さも権威ある正当な歴史書の体裁をとっているが、その実情はまったく異なるということである。日々繰り返されている現実の状況を見れば明らかで、その実例には事欠かない。要するに、都合の悪いことは糊塗、ねつ造、改ざん、消去、最近ではシュレッダー処理らしいが、これがその実態である。一応、民主主義国家と称されるところでこれなのである。権力がさらに集中した国家では、焼却書類で煙が止む暇もなかったであろうと思われる。どれだけ貴重な真実を告げる記録書類が消滅していったか想像に難くない。

「正史」というものを、そのまま鵜呑みにするのは愚かであるということは、現状を少しでも見据えることができれば明白なことなのである。「専門家」などと言われている者が、この「正史」を手掛かりにして重箱の隅を突っつくようなことをいくらしても何も浮かび上がってこない、というより真実とは乖離するばかりであろう。「正史」の在り方自体が、根本的に真実を伝えるものではあり得ないからである。

 古文書、古記録なども、それを書き記した社会的「位置」なども考慮しながら、論理的分析と同時に総合的な判断が必要となる。したがって、単なる訓詁学的アプローチ、古文書的領域だけではとても収まりきれるものでもなく、成し得ず、またその全体像は見えてこない。重箱の隅を突っついて悦に入るのと、歴史に学び、そこから何かを見出そうとする姿勢とは根本的な違いと質的差異があることは言うまでもないこと。どちらが、今生きている者たちを息づかせるかは明らかで、それがないものは衰微するしかないのである。

 

                               2019 11/24

「ある日、その時」(74)4月ー

<掲載内容>

812.「役に立たない学問」? 813.バックハウスとアルゲリッチと 814.坂口安吾 断想1                815.心身一如、文「舞」両道ー橋本ルシアー  816.「仮面劇」 817.「顔なし」818.掃きだめに鶴 819.ネットコメントは案の定、「bot」の自動書き込み 820.思わず笑止 821.同じ東大数学科出身とは思えず 822.「日本の演出家」?

 

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822.「日本の演出家」?


 何人かの才気煥発な者はいても、これはすごい演出家だと思ったのは日本には一人もいない。唯一、気になる存在であり続けたのは高田保くらいで、彼の作・演出の「人魂黄草紙」は観てみたかったと今でも思っている。あの当時のことを、「銀座の良寛、大磯の一茶」といわれた高田保がどう捉え、作り上げたか、それが観たいのである。「演出」などという言葉は昨今のマスメディアの乱用で「効果」、「やらせ」程度にしか考えられないような言葉になっているが、まったく違う次元のことであることも再度言い付け加えておく、それは本来の作家と同様、人生そのものであり、その確認作業でもある。「演出」に限らず、何から何までこの程度のコンセプトしか持ちようがない、それで済ましているのでは、当然その内容も貧相なものになる。「効果」、「やらせ」程度のこと、あるいは「共同謀議」、「印象操作」などを「演出」と同義に使っているのは日本くらいなものであろう。演劇文化がいかに浅いかの証左でもあると同時に、それは現実の事の重大性を希釈させ伝達精度を狂わせているだけなのである。

 

※「銀座の良寛、大磯の一茶」、これは大宅壮一が高田保を評して言ったことであるが、蓋し、言い得て妙である。

                                2019 11/7 


821.同じ東大数学科出身とは思えず


秋葉忠利さんは、前広島市長でもあり、マサチューセッツ工科大学で博士号を取得している数学者でもある。その言動も明快である。一方、同じ数学科出身の元財務官僚で東洋大学から窃盗容疑で懲戒解雇されている高橋洋一、耳目を引く商法で怪しげな言説を繰り返している御仁である。ここまでくると恥も外聞もないのであろうが、madの片隅にいることだけは確かである。それにしてもmadとcleverの違いをまざまざと見せつけられる事例である。

 

                               2019 11/4


820.思わず笑止


 Wikipediaに、ある人物のことが載っていた、そこには「日本の財務官僚、御用学者」とあったのでつい笑ってしまったのである。何とわかりやすいことか、実際その通りなのであるが、「御用学者」とは学者としては三流であるということの証左にもなる重要な指標でもあり要素でもある。一級の学者に「御用学者」は皆無である。少なくとも御用の筋とは決して埋まることのない距離をもっている。この「御用学者」氏、ご多分にもれず、三流の経済学者として大量の本を書きなぐっている。知っても知らなくてもそれほど代わり映えのしない、むしろ負の領域が増すような内容であることは読まなくてもその言動(発信と行為)に溢れている。しかし、権力の周りをネズミのように這い回る御用学者の何と多いことか。共通しているのは、言わずもがな、どうたらこうたら言ってみても詰まるところ彼らには自分の「餌」のことしか眼中にないということである。その具体例にしても枚挙にいとまがないから困るのである。足跡の付かぬネズミは気を付けた方がいいというところか。

                                2019  10/25

「御用」は何も学者に限らない、御用評論家、御用ジャーナリスト、御用作家、御用タレントetc

 


819.ネットコメントは案の定、「bot」の自動書き込み


 何か事が起こる度に、すぐさま意見を書き込む人々、それもどれもこれも異口同音、中には手の込んだ陳腐な同音もあるが、まるでどこかで作り出されたようなコメントばかり、ここまで操作されてしまっているのかと思う反面、不可解な部分もあったが、昨今の情報で、実際に、「bot」という自動投稿のアプリがあり、イギリスの国民投票の際にも、ツイッター投稿の三分の一が全体の1%のアカウントから発信され、その大多数は「bot」によるものだったと判明していることがわかった。国民世論の大多数の意見であると思っていたものが、実際は1%の「bot」という自動投稿アプリが投稿したものであったということである。当然、日本でも国民投票が必要となる場合は、この「bot」、「ネットサポータズクラブ」などが機能全開で動くであろうから、余程冷静に対応しないと巻き込まれることになる。それは現実の大多数の意見ではなく1%の同一アカウントから発信され、操作されているという事実である。

 しかし、範を示すべき位置にいる者たちのモラルがまったく欠如しているのであるから、話にならない。それも枚挙にいとまがないというのでは手も付けられない。モラルの問題は様々な見解があるというレベルの話ではなく、それ以前の問題である。

                              2019  10/3

※もちろん、ネットのコメントのすべてが自動投稿アプリ「bot」から発信されたものであると言うつもりはない。取捨選択できる方、リテラシーのある方なら敢えて言う必要もなく見抜くであろうし、読み解くであろう。しかし、現実的にそのような「操作」で持っていかれてしまう人々がいるというということが問題なのである。それは放置できることではない。なぜなら、それが「いかさま」、「詐術」そのものであるからである。

 

 


818.掃きだめに鶴


 以前、ある若者が「彼女はこんなところにいる人ではないです」と言い、ある中年の婦人は「掃きだめに鶴ね」と言ったことがあった。おそらく誰が見ても普通に感じ取る感受性を持っていればそのように感じてしまうのであろう。実際、そのようなオーラを発しているし、内容的にもただ者ではないことは、よほどの愚鈍でない限り察知し得ることである。しかし、「こんなところ」とは、「掃きだめ」とは具体的にどこを指しているのか、それはどのような文脈で発せられた言葉かがわかればすぐに特定できることである。私は知っているが、それは敢えて言わない。そう、なぜ「こんなところ」にいなければならないのか、なぜわざわざ「ごみ溜め」に降り立ったのか、計算高い小賢しい俗物ではないからということだけは言えるであろう。

                             2019 9/15

 

 


817.「顔なし」


  自らが空疎であるがゆえに、手っ取り早いところから手当たり次第に飲み込み、ろくに咀嚼(そしゃく)もできぬまま自分にとって都合のいい言葉だけを吐き出し、その気になる。「カオナシ」はネット上の匿名者の一面でもある。ただし、「カオナシ」にも自分を取り戻し、自分の居場所を見出しえた者もいるのである。どちらの「カオナシ」なのかは各自の読み解く力にもよるが、それは容易であろう。前者は総じて、奇怪で、末端肥大症気味である。実年齢20歳ー70歳程度でリテラシーは10歳程度というカオナシは現実的にゴロゴロいるというのが実情である。ネットの匿名性自体がカオナシを引き寄せるのである。ネットの向こう側では「千と千尋の神隠し」のカオナシがいつの間にか座っている。もともとは貧相で空疎なものであるが、匿名性自体が、制御する理性の欠損しているカオナシを肥大化させてしまうのである。

                                           2019 8/11

 


816.「仮面劇」 


 久しぶりに仮面劇を観てきた。やはり、古代ギリシャ演劇の形態は私の好みなのであろう。

18歳頃、人の表情というものが全く信じられなかった私は水道橋の能楽堂によく通ったものである。能面を観ているとほっとしたのである。今でも程度と質こそ違うがその傾向はある。あるかないかわからぬような安っぽい個性を振り回し、やった振り、演じているつもりになっている役者などを観ていると吐き気がしてくるのである。それは何も役者に限らず人間一般についても同様である。

                                          2019 6/10 


 

815.心身一如、文「舞」両道ー橋本ルシアー


 その画期的な舞踊論で「もし私に信ずる神があるとすれば それは踊ることを知っている神である。」というニーチェの言葉をエピグラフとして遣った舞踊家・橋本ルシアは、その著書「火焔の王」で今、誰も成し遂げえなかった知的レベルで古代世界の真のパースペクティブを我々に見せてくれた。古代史研究を可もなく不可もなく、長年やってきただけの者たちにとって、それは驚きでもあるが、反発の対象でもあろう。既得権益上の問題もあり、否定、無視ということは当然予想される。また一方では何食わぬ風でのそのコピペである。しかし、そんなことはどうでもいいことである。今後は彼女の提示した事柄を無視して通ることはできなくなることは確かである。そうでなければ、古代史研究などは衰退の一途を辿るしかないのである。通説に安住する者たちの知的切込みのない冗長な古代史研究、耳目を集めることだけを狙った恣意的解釈などいくら読んでも仕方ないからである。

                                 2019 5/26

 


814.坂口安吾 断想1


 私が、以前ファルスに何とはなしにひかれていたのも、安吾と共通する感覚から来ていると思われる。実際、今までにも自身の中に様々な点で否が応でも安吾との共通項が見い出せることがあったし、指摘されることもあった。何も頼るものがないという意味での「無頼」という意味でもそうであるが、おそらくスタンスそのものが同一領域なのであろうと思われる。

                               2019 5/10  

 


813.バックハウスとアルゲリッチと


 どういうわけか、最近はバックハウスとアルゲリッチのピアノソナタばかり聴いている。バックハウスのピアノソナタは私の19歳の誕生日に年上の大学の友人(彼はすでに大学を一校卒業していた)がプレゼントしてくれてからいつも私の傍らにあったが、ここまで何回も聴くのは久しぶりである。知能指数が恐ろしく高く、早熟であった私の友人もまた「役に立たないもの」を研究していたが、彼が私に与えた影響は底知れぬほど大きかった。彼はすべてにおいて「知り過ぎてしまった」人間の一人でもあった。故郷の九州の大学で教鞭をとっていたようだが、その後のことは知る由もなく、いつの間にかそのまま立ち消えとなってしまった。それもそのまま彼の意思でもある。私の書庫には彼の論文「親鸞聖人の大乗思想」だけが残っている。

 アルゲリッチは若い時の才気煥発な面影が強く焼き付いていたが、77歳のアルゲリッチ、実に深みのある美しい顔になっている。さすがである。見事。

 

                                 2019 4/30                              


812.「役に立たない学問」?


 優秀な日本思想史研究者が20以上の大学に応募したが常勤のポストに就くことができずに死に追いやられたという。日本思想史、昨今の大学では役に立たない学問の代表格のようであるが、この「役に立たない学問」という捉え方自体にとんでもなく大きな問題が潜んでいる。そのことに気づかないと将来的には様々なところで足をすくわれることになる。文化とはそのようなものなのである。科学の分野でも基礎科学などは今日明日中に結果がでることはほとんどないが、その中には後に大きな発見に結び付きノーベル賞受賞者になった者もいるというのも実情である。そのような研究者を大事に育てることがその社会が真に生き延びるためにも必須条件となる。そうでないと社会そのものが脆弱化するだけなのである。

 西村玲さんの、日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞を受賞したという「近世仏教思想の独創ー僧侶普寂の思想と実践」、このような一見「目先の役に立たなそうなもの」に大学の一般教養課程で接しているかどうかでも人生に落ちる「影」、「闇」の領域も対峙スタンスも微妙に違ってくるのである。今の大学では総じて「時の権力」に媚びるような今日明日にも使えるハウツーモノの専門化である。これではすぐに焼き切れるのは目に見えている。言ってしまえば、大学も一瞬間でも使えればいい、使い捨て兵隊育成機関になり果てているのである。そう、「徴兵制」はもう始まっているのである。「学徒出陣」も近いのではないか。へらへらしている内に駆り出されないように心して置いた方がよかろう。

 ただ一言、西村さんに言いたい、ここまで来たら、すべてを捨てて「普寂」になればよかったではないか。死ぬことはない。あなたは、もっと大きな「花」になれたかもしれぬ。残念。

 

                                    2019 4/18

 

  ジム・ロジャースでなくとも、「安倍政権の政策は日本も、日本の子どもたちの将来も滅茶苦茶にするものだ。」と言いたくなるようなことがあまりにも多すぎる。このままではやはり「日本が消えるのは50年後か、100年後、心から残念」なのである。

 

「ある日、その時」(73)12月ー

<掲載内容>

801.妖怪の末裔 802.官僚のレトリック 803.「藪の中」?それもまた幻想 804.露悪趣味、偽悪の果て 805.監視するは我にあり 806.「Yahoo」、「Google」は危険なサイトなのか?807.「法の支配」の意味もわからぬ者が行政の長とは!808.「右だ左だ」などとはもはや愚者の繰り言 809.フェイクニュースに立ち向かうには 810.「天才政治家ヒトラー」???811.投資の神様が言う日本の衰退

 

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811.投資の神様が言う日本の衰退


 ジム・ロジャースはイエール大学、オックスフォード大学で歴史学を学び、その後、ジョージ・ソロスと設立したファンドで10年で投資収益4200%という実績を挙げたことや、リーマン・ショック、トランプ当選を的中させたことでも有名。その彼が「私がもし10歳の日本人なら、ただちに日本を去るだろう」、「日本が50年後か100年後には消えてしまうのは心から残念でならない」と断定的に言っていることにさほどの驚きもないのは私ばかりではあるまい。その他にも、「2050年には日本は犯罪大国になる」、また「アベノミクスが成功することはない。安倍政権の政策は日本も日本の子どもたちの将来も滅茶苦茶にするものだ。いつかきっと『安倍が日本をダメにした』と振り返る日が来るだろう」など、これらの明言もすべて然もありなんというところなのである。

 以上は古賀茂明氏のジム・ロジャースの言説の抜粋から引用し、私なりの見解を述べただけであるが、特にジム・ロジャースが言ったことについては誰が取り上げても同一であろう。ただ取り上げる側によってはそのまま載せるかどうかは定かではない。

 さらに言えば、彼は投資家としても、歴史学を学んだ素地もあり、具体的な状況分析は的確なものがあろうと思われる。しかし、日本を去ってどこへ行く?すでに犯罪大国であるアメリカに行くのか?やがて消えるであろう日本を去って一体どこに行くというのか?どの地にも「楽園」などはないことは少し「考えれば」わかること。将来にしろ、余生にしろ、自分だけはと思うこと自体がすでに誤った選択に導かれることになる。ただ、あらゆる面で衰退の一途を辿ることは避けられないところにいるよりは、自らのためにも、さらに「真に求めるもの」があればなおのこと海外に出るべきであろう。

 この「泥船」、何をどのようにリセットしても、 その意味はまったくない。泥船は泥船、やがて沈むことが一義である。早く沈むことを願いつつ書き綴っている。

 

                            2019 4/4

 

 

 

 


810.「天才政治家ヒトラー」???


 20世紀の二人の天才として、ヒトラーとウィトゲンシュタインを挙げ語っている佐藤何某とかいう者がいたが、その内容も首を傾げたくなるようなものである。一つ一つを取り上げたら切りがないが、「天才政治家ヒトラー」というだけなら、またどこかのもの好きが売らんかなで取り上げているのであろうと思うくらいであったが、誕生年が同一であることなどでウィトゲンシュタインを取り上げていることも歯牙にかけざるを得なくなった一因である。そもそもウィトゲンシュタインの何をどのように読み「天才哲学者」としたのか?また、ヒトラーを「天才政治家」と「言ってはいけないこと」を敢えて言っている以上、現状の世界情勢からしてもそれは大いに問題となるところでもあり、また同時並列的にウィトゲンシュタインを出すところもたとえ同時代という共通項はあったにせよ、取ってつけたような作為を感じる。両者は全く相容れぬ似ても似つかぬ者である。天才という言葉で括るにしても、もしヒトラーが「天才」というのなら、ウィトゲンシュタインは決して「天才」」ではない。一方は窮鼠が一途に突き進まざるを得なかった「狂気」の道を提起し、他方は深く自己に沈潜しざるを得なかったその結果に過ぎない。経営コンサルタントでもあるこの売文業者の、一人悦に入った三文通俗小説並みの見解は、ただ単に売らんかなという姿勢だけが鼻につく。奇をてらった平凡な内容というより、むしろ有害無益なこの程度のものが結構多いが、何が面白いのか不可解である。この経営コンサルタントも要するに「天才政治家ヒトラー」にあやかりたいだけなのであろう。しかし、それは後は野となれ山となれと思っている一群の亡者の群れの一員である証でもある。

                                  2019 3/27

 


809.フェイクニュースに立ち向かうには


 M.ガブリエルに言わせれば、「調査報道がありますが、いまそれは危険です。」ほんとうのジャーナリズムを追求しようとすれば命を落とすことになるということは以前から言われていたことでもあるが、「いわゆる自由世界では、物事を深く掘り下げていくと、職を失う」のである。さらに「本当に批判的な知識人や真のジャーナリストは命がけでやらないといけませんが、命を失っても誰も気付きません。」ということである。その通りであろう。だから、誰もやりたがらないのである。実際、ジャーナリストなどといってもそのほとんどは安全地帯で政府広報のコピーライターのようなことをしているのが関の山である。ということは、ほとんどフェイクニュースだとみていれば余計な災難を少しは回避できる可能性もあるということである。「大本営発表」などが事実とほとんど乖離していたことは改めて言うことでもあるまい。すべてがその調子だということである。実際に、経済の根本的な根拠となるものさえ改ざんされていたのである。後は推して知るべし。我々としては、まずすべてを検証対象としてみることであろう。特に大手新聞、情報各誌、それを鵜呑みにして唯々諾々としていたら何をされるかわからないということである。インターネット上のプロパガンダ、デマなどは論外。

                              2019  3/21

 


808.「右だ左だ」などとはもはや愚者の繰り言


 「ー情弱(情報弱者)を騙すためのフェイクニュースを垂れ流しているヤツが、嘘に嘘を積み重ねている。国会もメディアもすでにバカに乗っ取られた。右も左も関係ない。戦局はわれわれ日本人とバカとの戦いに入っている。」とは適菜収であるが、私がこのサイトで言ってきたこととも通底するところがあり共感をもっている。

 甘言,巧言、悪口雑言過ぎれば謝罪、身体極まりゃ土下座に、泣きと何でもござれ、言葉に詰まれば抒情抒情の演歌節、寄り添うと見せてやることは足を踏みつけ我知らず、フェイクまみれのわが身もどこ吹く風で、都合が悪けりゃフェイクフェイクと所かまわず騒ぎ立てる。

 彼らにとって政治も宗教も最終ビジネスに過ぎないのであるが、実はビジネスにもなっていないのである。

 

                            2019 3/10

 


 

807.「法の支配」の意味もわからぬ者が行政の長とは!


 今更驚くことでもないが、ひどすぎる。「法の支配」と「人の支配」の違いすら明確に判別できずによくも国の根本法を米国の顔色をうかがいながら弄べるものである。何の正義も持ち合わせていない者が商談を進めるように歴史が必然的にもたらした国の根本法をいじくり回す。すべてにおいて無知であり、無恥であるからこそなせる業である。何度も言っているが、絶対に、このような者に憲法を一字たりとも変えさせてはならないということである。このような改憲に正義はない。平和ボケしたタカ派の論調に酔っている場合ではないのである。

                            2019  3/7

 


806.「Yahoo」、「Google」は危険なサイトなのか?


 ある日、ヤフー検索、グーグル検索をしていると、突然、「このサイトは安全ではありません」と出てきて、さらに「だれかが利用者を騙そうとしているか、サーバーに送信されたデータを盗み取ろうとしている可能性があります。このサイトをすぐに閉じてください。」と説明している。要するに、セキュリティ証明書云々でヤフーにもグーグルにもつながらないのである。これはヤフーにとってもグーグルにとっても営業妨害であろう。安全性について、このような文言を発するだけの「資格」を持った機関とは一体どこなのか?「騙そうとしています」と言って相手を騙すことなどよくあることでもある。それは警察官、税務署員、銀行員を装った詐欺とさしたる違いはない。徹底的な調査を望む。

                                     2019 2/25

 後日、いろいろ問い合わせてみたが具体的な解決策は見つかっていない。高度なことができるようになるということは、ごく普通に行われていたことが犠牲になる。果たして、その「高度な技術」は必要なのか、それはまた「悪しき技術」にも通じてくるということは否定はできまい。どこの問い合わせ先も遠回しにそれを臭わせている。現に、現在まで明快な解決法は皆無である。

                                  2/28  

※それにしても、PCもすぐに使える状態で売るのが当たり前であろう。いくら高性能化してもこれではやがて売れなくなるのは目に見えている。

 


805.監視するは我にあり


 

 監視社会とは、監視する者が「神の目」を持とうとする、言ってみればすべてを支配しようとする企みを具現化する社会でもある。そのような社会にあって、神の目を持とうと意志する者をも監視し得るのは、「監視するは我にあり」ということを明確に思惟できる者である。どちらにしても監視の手を止めれば、どのような美辞に修飾されていようと、その実態は監視されるだけの奴婢となることでしかない。そこにあるのは人間の境涯にある者とは思えぬ人間の形骸である。ヘラヘラしている内にすべてを抜き取られることのないようにすべきであろう。

                                 2019 2/5  

                                  


804.露悪趣味、偽悪の果て


 

 あたかもそれが本心、実態であるかのように、露悪趣味、偽悪は繰り返されてきたが、それは決して本当のことでもなく、実態でも、もちろん真相でもない。敢えて言えば、本当らしく見せかけた末端肥大症的妄想である。だから、吐き気がしてくるのである。しかし、ズレているとは、終わっているのも知らず得意げに今が盛りとばかりにやり続けていることである。自分のこと、自分の素顔などというのも自分ではわかっているつもりでも、ほんとうにわかっている者はまれであるというのが実情である。

 その社会を動かす中心部分が不鮮明で腐臭を放ち、視界ゼロに近い状態ではそれに呼応する下部構造がズレ続けるのも当然である。しかし、ズレにも軌道修正できる限界がある。

                                  2019 1/23


 

803.「藪の中」?それもまた幻想


 

 以前、ある出来事について「これもまた藪の中なのか」などと、したり顔で締めくくっていた御仁がいたのでかなり否定的に取り上げたことがあったっが、今でも同様に思っている。「藪の中」、それもまた「幻想」であるということである。要は、本当の事実を見つけ出すために、事実と事実、現実の系統的解釈をすることによって「藪の中」などという幻想は乗り越えられるのである。「藪の中」という「幻想」に酔っている内は、絶えず垂れ流されている嘘、フェイクニュースなどを疑い始めることさえできないであろう。それこそ「知恵を持つことに勇気を持て!」ということに尽きる。これ以上、いかさま評論家、ジャーナリスト、山師のような作家、タレント、御用学者に好きなようにやられっぱなしでは話にならない。知性よ、目覚めよ!反撃の烽火を上げよ、人間を人間たらしめるために!というところであろう。

                                 2019 1/7


 

802.官僚のレトリック


 

 元経産省幹部が指摘する通り、例えば「解体的出直し」という文言、「解体」というフレーズは官僚の詐術のテクニックで力点は「出直し」に方にあるという。すなわち、そのままやり続けるということである。この手のパターンには際限がないというのが現状であろう。その上、保身しか頭にない政権担当者が加われば、後はどうなるか言わずと知れたこと。さらにそこに「政治的知識のない者は不用意に発言すべきではない」などという御用の筋の庭に住む魑魅魍魎たちが現れて合唱でもされた日には看過できる事態ではなくなる。

                                    2018 12/27

 


 

801.妖怪の末裔


 

「昭和の妖怪」と言えば、言わずと知れたA級戦犯の岸信介のことである。「妖怪」と言われたことについてはやはりそれなりの理由があるのである。私には、彼の言動から彼の舌先は三つに割れているのではないかとさえ思えてならない。己が利するためなら、いかなる手段も使う。その使い方も半端ではない。その手法は「権力」に魅入られた亡者に共通のことなのかもしれぬが、「日本人離れ」している。「明治以降、最悪の政権」と言われてもいる現政権もこの「妖怪」の血筋であってみれば、それなりに納得もできるが、しかし、それは放置すれば国民の首がどれだけ飛ぶかかわからない危険な政権であるということを意味する。「ぼーっと」している内に身動きもつかなくなり、気付いた時には首は飛んでいることにもなりかねない。そのことを肝に銘じるべきであろう。「もう遅すぎる」という見方もあるが、遅速は問題にしても仕方はあるまい。歴史の動きなども、常に遅過ぎるか早過ぎるかである。平成を「絞め」くくるのが「妖怪」の末裔である。同時に「妖怪」の末裔も「絞め」くくらないと新たな展望は開かれまい。

                                    2018 12/23

 

 

「ある日、その時」(72)9月9日ー

<掲載内容>

790.アベが内乱予備罪で刑事告発された(9/7)  791.パリのポリドールにて 792.「芝居にはその人の生き方が出る」793.「ウインウインの関係」? 794.本庶佑特別教授のスタンス 795.「コミュ力」?796.デマゴーグ 797.「ねじれ」とは民主主義国家の証 798.名月に穂垂首 799.「日本で最も著名な歴史修正主義者」800.狂(ふ)れる者たちの振れる狂宴

 

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800.狂(ふ)れる者たちの振れる狂宴


 

 「平成」を締めくくる?それは「絞めくくる」といった方が適切と思われるほどの、狂(ふ)れる者たちの振れる狂宴であった。至る所に地獄の深淵が見えていて、しゃれになるならないどころの騒ぎではないのである。将来を憂えたような素振りをみせる、その実、後は野となれ山となれといった者たちの振れる狂宴は「平成」を「『絞め』くくった」先に、どのような宴の後を呈するのか、希望は危望であったことを、幸福は叩福であったことを思い知らされるだけであろうと思われる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふと思いつくままに・・・メモワール・・・・

今、「明るさ」だけを強調し騒ぎ立てる者、それは嘘を弄ぶ者である。また諸外国の脅威を煽る者たち、これもまたいかがわしい危うい者たちである。大体、所在も明らかな原発に囲まれた小さな地震大国がどこを相手に戦をするつもりなのか?いざとなれば「米国が助けてくれる」?何とオメデタイ、どこまで未成熟な無反省な人々よ、もしそのような時が訪れれば、日本は恰好の実験場、廃墟、死地となる。平和では儲からないという戦争屋に乗せれた経済復興という名の戦争産業に手を出せば、それは必ず拡大し、止めようとしても、止まらなくなる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「過去なんて忘れなよ」などというつまらぬコピーに踊らされ、「戦争を知らない世代が云々」に妙に納得したところで一体何がある。戦争を体験したからといって教訓化もせず「過去なんて忘れなよ」などという最悪のコピーにその気になっていたのでは悪夢は何度でも訪れる。体験そのものから何をいかに導き出すかが最大の問題なので、いかなる体験も体験自体にはさほどの価値はない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 スマホ片手に神社に行っても、今年の行為の結果が来年そのまま現出するだけである。「祈り」は自らの生存に触れるものでない限り、それを感知できる者でなければ、どこに行っても何をしても何の「原動力」にもなるまい。スマホをなくしたら一歩も歩けなくなるような人々が「増殖」している現在、本当のところ、自己の生存に対する実感もまた希薄になっているはず・・・スマホが・・・・・・・あなた自身で・・・あなたはもはや・・・何もない・・その内に息もできなくなるであろう・・

 

 「平成」を締めくくる者たちが、「平成」を「絞め」くくった者たちとは何ともおぞましい。

                                  2018 12/16

 

 


 

799.「日本で最も著名な歴史修正主義者」


 

 今更言うまでもなく、ご存じ櫻井何某のことである。すでに諸外国では「歴史修正主義者」(Historical Revisionist)として名を馳せているようである。過日の判決についても裁判所は植村の「捏造」を認定してはいない。イタリアのジャーナリスト ピオ・デミリアは「イタリアでは、過去の戦争の問題に向き合えない人を『否定者』と呼ぶ、彼女はそうだ」と言ったそうである。その通りであろう、この御仁の歴史を都合のいいように、恣意的にある方向に持って行こうとする姿勢は至る所に見られる。

「否定者」とは直訳的でピンとこないところもあるかと思われるが、少なくとも単なる肯定、否定のような否定ではあるまい。文脈から考えてても、認識の混濁・転倒している者という意味合いも含めて捉えるべきであろう。

 人間は、間違えしか犯さないのではないかとさえ思える時が多々あるが、そのエラーの部分を粉飾してばかりいるのではやはり絶滅危惧種と言わざるを得ない。前頭葉と欲望は反比例すると思っている。押さえの効かなくなった欲望はあらゆる弊害を生み出すことに異論の余地はない。                                     

 

※1998年→2014年 「誤報」→「捏造」

                                      2018 12/7


 

798.名月に穂垂首


 

 実に、味わい深い名月であった。テレビでもその名月を紹介していたのでつい観てしまったが、軽めの男の局アナが言うに事欠いてその名月を「おいしそうですね」と言ったのである。それは一瞬にしてすべてを興醒めにした。この「何気ない」親しみを装った取り留めもない感性のなさ、すなわち知性のなさである。以前、櫻井よしこがテレビのキャスターを務めていた頃、映し出された水槽の中に泳ぐ魚を見て、「食」とは無関係な文脈にも関わらずやはり「おいしそうですね」と微笑みながら言ったことがあった。その時に感じた薄気味悪さは今なお鮮明に甦ってくるが、それはそのまま正鵠を得ていると思っている。両者とも、意識するしないにかかわらず「対象」を自己の欲望の対象のひとつにしか感じていないということである。

 彼らにとって、名月も魚も、すべては「わが物」とすることができるかどうか、所詮は穂垂首程度のものでしかないのである。

                                2018 11/24

 


 

797.「ねじれ」とは民主主義国家の証

 


 

 アメリカの上院、下院の過半数が民主党と共和党に分かれたことに対して、またぞろ日本マスメディアは「ねじれ」という言葉を遣っているが、日本のマスメディアは民主主義というものがまったくわかっていないのか、敢えて「ねじれ」という言葉を遣うことで、暗に批判も検証も認めない、一党独裁の快刀乱麻を断つような政権をよしとする方向に導いているとしか言いようがない。大本営発表が一番似つかわしいのかもしれない。これでは全体主義国家であろう。現状がその悪しき証左でもある。これをさりげない巧妙なマインドコントロールというのであるが、この手の言葉が多いことに気付いている人は少ないようである。実態、実情を隠す軽い、親しみやす言葉は極めて危険であるということである。

 例えば、親しみやすく「野球内閣」と自らいうその実態とは、神道政治連盟、日本会議の懇談会のメンバーである。それは「旧大日本帝国」を再構築築しようとする集団でもある。したがって、「改憲」も必然的に「大日本帝国憲法」に倣うものとなる。今時、自国の民族宗教に依拠して振り回されている政権など、少なくとも先進国にはない。また、それで先進国という名に値すると思う方が異常である。

 

                               2018 11/7

 


 

796.デマゴーグ


 

 戦場カメラマン・渡部陽一の名前を使って、「戦場取材の掟」などと称してまことしやかにネット上に流していた者がいたそうだ。渡部陽一氏は「フェイクである」と怒っているという。箇条書きにされたその「掟」の中の一つに「捕まる奴はその時点でジャーナリスト失格」というのがあったが、渡部陽一氏が怒るのも当然であろう。現場を熟知している戦場カメラマンがこのようなことを言うはずがないのである。これは明らかに、己の義務、責任もろくに果たさず、国民にその義務、責任だけを要求する者たちのデマゴギーである。これが彼らのよく使う「自己責任論」につながってくる。無能で無責任な議員を何人も飼っていることの方が税金の無駄使いであろう。彼らの目論みにまんまとはまって騒ぎ立てる者たちを、明日は我が身ということもわからない愚かな「民」というのであるが、騒ぎ立てているのは「民」ではあるまい。完全なデマゴーグ、すなわち煽動政治家、民衆煽動家の類である。フランスでも同様のケースがあったが、「自己責任」を持ち出し非難したのは極右のルペンだけである。要するに、このような事態に対する「自己責任」などというコンセプト自体が極右の独裁的全体主義者の言動に一致するのである。

                                  2018 10/28

※ジャーナリストの山路徹氏が「自己責任論が噴出」している中、自身の体験も踏まえ危険も顧みず戦地に赴くフリージャーナリストに敬意を表している。自身のボスニア内戦取材時、イタリアでは「無事で何より、取材活動に感謝する」と言われ、ローマの日本大使館では「なぜ渡航禁止勧告に従わないのか?」と言われたそうである。(内容については山路氏のツイート参照のこと)

さらに、漫画家の小林よしのり氏の見解なども自己責任論を振り回す者たちの像を的確に捉えている。それについて「左翼化」したなどという珍糞漢(ちんぷんかん)な御仁もいるようだが、それが「左翼化」なら「右翼化」とは愚蒙化に過ぎいない。もういい加減、100年一律どんなアホでもできるそんな安手な振り分けはやめたらどうか。それはそのまま無能の証、まったく無意味。

 

 


 

795.「コミュ力」?


 

 コミュニケーション能力のことであるが、この手の省略言語が最近やらと多い。この簡略化、省略化で思考回路が拡大展開できるとはとても思えない。案の定、この「コミュ力」を重視しているといわれる者たちが「批判」、「対立」を忌み嫌う傾向があるという。何のことはない、コミュニケ―ション能力が根本的に脆弱だということである。確かに「縁なき衆生は度し難い」、コミュニケーションが成り立たぬこともあろう。しかし、「縁」の有無なども含め、両者の「批判」、「対立」をただ回避するだけではダイナミックな展開は成り立ち得ないのも明らかなのである。利害関係だけで成り立っているような「お友達の和」さらに言えば「悪友の輪」でしかないものの中でコミュニケーション能力の有無を楽しんでいても、それは一時的にハレーションのような明るさをもたらしはするものの、やがて縮小再生産の道筋をたどることになるのは避けられまい。元々、コアな領域において欠陥のある、あるいはそこにおいて物事を直視しようとしなかった者たちの「共感」、「共有」などは幻影以外の何ものでもない。

                                2018 10/12ー

                              


 

794.本庶佑特別教授のスタンス


 

 ノーベル賞受賞もさることながら、京都大学特別教授・本庶佑氏のスタンスには、やはりそれにもましてすばらしいものがある。たとえば、あらゆることに好奇心を持ち、すべてを疑ってかかるという姿勢。本庶氏に言わせれば、「サイエンス」、「ネイチャー」という1級の科学誌ですら9割が嘘、10年もすれば使い物にならないものが多いということである。だからこそ、自分の頭で確かめることが大事なのであるという。さらに、基礎科学、根本的なものなどの追究は無駄が多い、しかし、その無駄がなければ先には進めないということ。教授の言う一言一句を現状に照らし合わせると、さまざまなことが浮かび上がってくるであろう。京都大学の学生は今このような教授がいるということが誇りでもあろう。よくわかる。

 超一級の科学誌ですら9割が嘘、それでは日々マスメディアが得意げに流していることすべては一体何なのであろうか?嘘の嘘か、自分の目で確かめるだけの能力はなくとも、少なくとも、マスメディアなどが流していることをそのまま真に受けるという愚は避けることは可能であろう。まず、すべて疑うことから始めればいいだけのことである。そして、「なぜ」という「問い」を納得するまで続けることである。そうしなければ、どこにでもある記者クラブという談合忖度組織の記者の書いたようなろくでもない内容に振り回されて終わりなのである。

                                                                                                       2018 10/2

 後日の、大阪万博に対する彼の前向きな表明は、研究費もろくに出さない日本の実情に対する、後進のための犠牲的な痛々しいまでの内容であるともとれる。しかし、もしそうでないなら残念ながらやはり専門バカと言わざるを得ないだろう。

                            


 

793.「ウインウインの関係」?


 

 何かというと馬鹿の一つ覚えのように「ウインウインの関係を築いていく」と言う御仁、そもそもそれは目指すべきことではないであろう。「Total win」が目指すべきことで、そうでなければ「No Deal」(取引しない)という選択肢も考えるのが取引、交渉である。最初からウインウインを目指し、「取引しない」という選択肢を考えていなければルーズウイン「Lose-Win」で相手の勝ちは端から決まっている交渉なのである。それを「ウインウインの関係」などとあり得ない関係をさもあるかのごとく理想化して言う。「100%一心同体」ということは「取引しない」という選択肢はないという言い換えに過ぎない。ということは、相手の思うまままで、「ウインウインの関係」などは存在せず、常に「ルーズウインの関係」ということなのである。これ程の隷属に甘んじ、「美しい日本」の「建設の礎」などと宣う。それは風光明媚なところが多いと言ったまでの話なのであろうが、それすら今や存続の危機である。どちらにしても、歴史に対する反省、教訓化もなされないまま突き進む「ところ」は必ず滅びるのである。歴史認識の欠如、欠陥、それは致命的でさえある。

                               2018 9/29

 


 

792.「芝居にはその人の生き方が出る」


 

 これは最近亡くなった樹木希林があるインタビューで答えたということであるが、何も彼女が初めて言い出したことでもない。ただし、これは改めて再確認すべき重要なことなのである。私は舞台演出を長くやっていたこともあって、「舞台上」ではすべてがさらけだされてしまうということを常に目の当たりにしてきた。本人は隠し通せると思っていることでも否応なく現れてしまうものなのである。そして、慧眼の士ではなくともその俳優の全体像はその演技を通して大なり小なり読み込まれているのである。恰好よくやろうとしても無駄なこと、作為はすべて見抜かれてしまうものである。今までの「生き方」、心底どういう思いで周囲と接してきたかという「世界観」がすべてそこに凝縮されて現れているということである。「コツ」だの「ハウツーもの」で処理される世界とは根源的に違うのである。

 そして、そのインタビューで語ったという「本が読める俳優」ということであるが、久しぶりに聞く言葉で懐かしくもあった。「本が読める」ということは一般読者が本を読むのとは訳が違うのである。実際、本が読めない、読んでいるつもりになっている俳優が多いのも実情である。

 樹木希林が、本も読めて、生き方にも共感したという黒木華と多部未華子という若き二人の女優、私は現時点でその演技を観ていないので詳しくは言えないが、今後何かの機会に観てみようと思っている。

                            2018  9/23


 

791.パリのポリドールにて


 

 パリのポリドールはいとも容易く人をフラッシュバックさせる。より正確に言えば、デジャビュをフラッシュバックさせるのである。ある時は斜向かいにヘミングウェイが食事をしていたり、振り返ると窓越しに虚空を見つめてランボーがワインを飲んでいたりと、そういうところなのである。「ミッドナイト・イン・パリ」を見るまでもなく、想像力を掻き立てる趣が細部に行き渡ってたくわえられているところでもある。もちろん、その佇まいは明るく軽いものではない。

 あの黒光りした肋骨のようなミイラを彷彿とさせるスチームヒーター、江戸時代にはすでにあそこに置かれていたのである。

 私は知人がポリドールの近くに住んでいたこともあって何度かそこを訪れたことがあった。

 なぜか今、パリのポリドールがフラッシュバックしたので記して置くことにした。

 

                                 2018 9/16

 


 

790.アベが内乱予備罪で刑事告発された(9/7)


 これもまた当然のことであろうと思われる。告発状を最高検察庁に提出したのは元参院議員の平野貞夫氏らである。告発内容は「日本の権力を私物化するために、国の統治機構を破壊し、憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として、現憲法からその根本原理を抹消することを策謀し、政府等の組織を使って、改憲が正当であると、国民を誘導、国民に認めさせ、国民の反対運動を威圧するなど改憲を強行しつつある」、よって「刑法78条の内乱予備罪を行ったものと思料される」ということである。今までの国の根本法の扱い方、それに伴う民主主義国家を転覆させんばかりの言動についてはあまりにも多過ぎてここで取り上げることはできないが、それは憲法違反であろうというものが多すぎるということである。それは合法的に憲法を骨抜きにさせる手法の乱用と言ってもよい。

 それにしても、記者説明会にいた記者クラブの記者たちのていたらく、もはや権力によって完全に去勢された者たちの集まりといってもよいだろう。彼らが発信する安手のコピーライターのような内容に踊らされているのであれば、バカを見るだけである。まだ米国の方がエネルギッシュである。活力があればまだ救いがあるが去勢された豚では先がない。そもそも「記者クラブ」などは「御用記者クラブ」、「政府広報記者クラブ」といったところでそれ以上ではないことは周知の事実。彼らは、この事態を情けないとも思うまい、せいぜい肥え太り、「成長した」と思うくらいが関の山なのであろう。衰退の一途をたどっている。

                                 2018 9/9

  因みに、時の権力に是も非もなく、ただ尾っぽを振るだけの保守でも右翼でもなく、いわんや左翼でもない者たちの単なる「お友達の輪」を利用した金主頼りだけの有象無象がネットにも新刊駄本にも溢れているのが昨今である。彼らの書く必然性と言えば、金主様よりの「ご褒美」だけである。内容的には空疎そのもの、御大層な学歴が何の意味も成していないので、学者としても、評論家としても「落ちこぼれ」の類で、傷つくことだけは三人前の顕示欲の強い者たちの人生最期の「あがき」、「賭け」なのであろうと思われる。ただ、こういう者たちはやたらと騒々しいのが特徴で、相手を執拗に振り回すことを至上の喜び(「ご褒美」も含め)としているから質(たち)が悪いだけでなく危険でもある。「理」で行き詰まれば必ず情動に訴えてくるが、それも虚偽の情動である。この手の類は自分の言ったことすらいざとなれば「記憶がない」と言い逃れる。決して責任は取らないということも肝に銘じて置くべきであろう。その気になった方が常に憂き目に会うのである。とにもかくにも情報の取捨選択、受け取り次第で自ずとどうあるべきかの方向性も決まってくるのである。

 

「ある日、その時」(71)6月3日ー

<掲載内容>

779.国史改ざんの「現場」 780.日本人が「日本」に酔ってどうする?781.「賢く生きろ」の結果がこれである 782.「記憶にない」と言う者たちとは 783.やはり、「毒々しい虫のよさ」である 784.「異邦人のムルソーを生み出す現代日本」? 785.ある日、我に返ったら 786.「悪しき古き人々」に再生の道はない 787.徒に100歳生けらんは 788.焼かれるのも順番待ちとは 789.西郷隆盛像で見えてくるもの

 

 

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789.西郷隆盛像で見えてくるもの


 一言で言い切れば、日本人好みに作られた虚像で、西郷隆盛の像からイメージされるものとその実態とはまったく異質であるということである。私は以前から西郷隆盛のような人物に違和感と同時に不信感を持っていたのでなおさらであるが、要するに、目的のためなら何でもあり、何でもするという手合いの典型なのである。したがって、その目的を成し遂げるためのアドレナリンジャンキー的な「情熱」は半端ではない。だから、騙し、策略、殺戮などは日常茶飯事ということになる。実際やってきたこともその通りであろう。天皇の命令さえねつ造する、単なる暴力装置「赤報隊」(後に西郷自身によって処刑される)を組織する等々。知性もない、緻密さの欠如した熱に浮かされたような行動に走る者、巻き込まれる者たちの最期は決まっている。西郷と人たらしの戦争屋とどれほどの違いがあるのか、もっともらしことが何とでも言えたということくらいではなかろうか。

 あたかも明治政府に対する人々の反感を集約させたように映った西郷隆盛、その像、イメージなどに騙されていると、いつまで経っても同じ手合いを生み、同じような手口で騙されることになる。いつまでも愚かしい幻想から解き放たれないと状況は劣化するばかりであろう。現に明治150年、黒船来航以来何が変わったのか、不平等条約の内容はさらに悪化する一方ではないか。脳も芸もないとはこういうことで、自分で自分の首を絞めて「してやったり」とは、ポーズと自虐趣味も前代未聞である。とことん騙されて堕ち行くか、一矢を報いるか、民となるか国民となるのかの瀬戸際でもある。どちらにしても「負」はすべて一般人が背負うことになるので知らぬ存ぜぬでは済まされないのである。

                                 2018 9/2

 因みに、NHK大河ドラマは今まで見たことがないので当然最近やっているという「西郷どん」などもまったく見ていないが、スポーツ紙の芸能記者がその「西郷どん」について、視聴率の低迷もあってか、「全体に暗く、スカッとした明るさが足りない」云々などと言っていたが、歴史物、それも実質「テロリスト」としかいいようのない人物とその周辺を取り上げて「スカッとした明るさ」はないであろう。だったらドラマなどやらずにミーハー路線でスポーツ追っかけていればいいではないか。創作意図もすでにみえているので原作も読んでいないが。歴史上の人物を安易にとらえて偶像化したり、身近なところに引き寄せて理想化するのは極めて危険である。スカッと明るく「テロリスト」を描くのか、ミーハーの怖さである。これでは世界の実態の一片の姿さえ見えてくることはない。 


788.焼かれるのも順番待ちとは


 団塊の世代が終焉を迎えることで、しばらくは医療産業、葬祭業が活況を呈するのであろう。菩提寺があっても家を継ぐ者がなければそれまでのことである。大方の者にとって家のローンが終わるころには墓探しである。それも適当なものが見つかるとは限らない、さらには焼き場さえ順番待ちである。人生ここまでままならないとは思ってもみなかったのではないか。そうかと言って、インドのようにガンジス川に生焼けの遺体が流れていても、その前で結婚式を挙げられるほどの信仰心と人生に対するコワな信念は「我々」にはあるまい。止むにやまれず、あるいは敢えて望んで散骨葬をするのもよくわかるし、それは文字通り合理的な方法でもある。

 最近では、海、山に散骨するだけではなく宇宙葬というもあるらしい。どちらにしてもそれらは生きている者の思いに添うという意味合いの方が強い。

 本来、墓などはどうでもいいことなのである。釈尊にすれば、「野ざらしを心に風のしむ身かな」なども未だしといったところであろう。野ざらし(されこうべ)、野垂れ死にすらその心にはないはずである。それは飽くまで死体の一様相で死そのものではない。そんなことに思いを馳せたり囚われているより今やるべきことがあるであろうということである。私にとっては、すべての墓は名前の刻まれた「無縁仏」でしかない。無縁仏の意味するものが、過去世において仏と因縁を結んだことのないということでも、弔ってくれる縁者のいない死者ということでも同様である。弔ってくれる縁者の有無など取るに足らないこと、やがてはなくなるのが必定なのである。墓石なども100年200年もすればすぐに苔むす石ころで、さらに天変地異の多いこの地では苔むした石の所在さえ定かではなくなるだろう。

                                2018 8/23


787.徒に100歳生けらんは

 最近、なぜか100歳を過ぎた人々の「おめでたい姿」とやらをしきりに紹介しているが、何が「おめでたい」のかさっぱりわからない。それも、食事と笑いが大事などというところでまとめようとするから「違和感」以上の気持ち悪さを感じてしまうのである。「徒に100歳生けらんは恨むべき日月なり悲しむべき形骸なり」という教えさえあるであろう。へらへらと笑って食って、考えることもせず、何も気づくこともなく100歳を生き延びたところで何かあるのか、それは単なる形骸、すなわち生きる屍ということにしかならないと言っているのである。そんなことよりともかくオリンピックを前に100歳を過ぎた高齢者がとにかく元気に過ごしている「アンダーコントロール」された「幸せな国」ということを印象付けたいのであろうが、むしろ逆効果でこのような高齢者の姿を見て誰も100歳まで生きたいとは思わないのではないか、また、そんなことができるのは限られた一部でしかなく、大方はそれどころではなくさらに悲惨なのであるからなおさらである。

                               2018 8/9

追記:戦争中、激戦地から奇跡的に帰還した100歳前後の人々の戦争について語る瞬間については100歳の齢を重ねた意味もあると思われた。辛く思い出したくもないであろうが語らねばならないのである。

 


786.「悪しき古き人々」に再生の道はない


 次から次へと悪しき古き者たちの悪行の結果が雨後の筍のようである。どれもこれも見苦しい釈明、開き直りばかりで、謝罪、再生の決意表明など聞いてもどうにもならないのである。そんなことで解消できるほど事は小さくない。すべては彼らの存在自体、在り様が問題なのである。彼らの存在そのものが問題なのである。したがって、彼らの存在が継続する限り再生の道はないということである。謝罪、決意表明などで事足りる程、事態は軽くもないし、それで済むはずもない。まずは悪しき古き人々は去るべきなのである。それがすべての始まりであろう。これ以上その醜悪な姿をさらしてどうするのか?

                                 2018 8/3


785.ある日、我に返ったら


 ある日、我に返ったら孤独であった。それは穏やかで心地よいものでもあった。まず、誰に踊らされることもない、煩わされることもない本来の「我に返る」ことが先決なのであろう。人間は本来的に孤独なものであることに気付けばいいだけのことであるが、孤独であるから「我に返る」わけでもない、「我に返る」ことが本来の姿であって、その姿が結果的に孤独の様相を呈しているだけで、実は孤独でさえあり得ないのである。むしろ、「我に返る」ことがすべての「出発」の大前提となる。常に群れ集い、何者かに頼っている内は「我に返る」ことはできない。「我に返る」ことができなければただ流されるだけの、ただ踊らされるだけの人生を送るより手立てはないのである。しかし、現在進行形の中で「我に返る」ことが悲惨な現実しかもたらさないこともある。要するに、「我に返る」ことができないのである。その段階では自らにも嘘をつき通すことでしか生きることができなくなっているのである。その人生は嘘の塊と化すがそれでは身が持たないので嘘の合理化を図るのが常である。場合によっては、どんな悪いことでもいったん自分がやらかしてしまった以上は美名をつけてごまかしてしまえということにもなる。ここに至っては自分のなした行為について「説明責任」などということをまともにやる人間がどれほどいるのかということにもなり、またそれを期待する方もあまりにもオメデタ過ぎるということになる。現状は、本来なら追及すべき機関までが癒着で機能不全なのである。「説明責任」の有無などということで済ましていては、ますます状況を悪化させるだけである。

 

                               2018 7/22


784.「異邦人のムルソーを生み出す現代日本」?


「異邦人のムルソーを生み出す現代日本」と題した文章の中で某作曲家は、「ムルソーの感覚は、新幹線のぞみ号で三人を殺傷した小島一郎容疑者や、交番を襲撃し二人を殺した島津慧大容疑者と同じだろう。」と言う。しかし、それは全く違うといってよいだろう。やはりそのような見解自体が一頃カミュやサルトルの「不条理、とか実存主義とかにかぶれた」程度の人々と見なし得る要因ともなる。ムルソーは状況内で徹頭徹尾「素直」に反応しているだけなのである。だから「異邦人」なのである。加害者の二人は「単なる狂人ではない。もちろん、その心情はまともではないが、人生に絶望し、行き場のないむなしさを抱えていたのであろう。」と言うが、その点についてもムルソーとは異質である。ムルソーはもちろん狂人でもなく、その心情はあまりにも赤裸々で、絶望、行き場のないむなしさとも無縁である。彼は殺人の動機として「太陽がまぶしかったから」と言うが、それは余計な粉飾のすべてを取り除けばそれが瞬時の直接的動機としては充分成り立ち得るものである。そして、「今日、ママンが死んだ、もしかした昨日かもしれない」にしても、そこからすぐに「母親の死にも無感情」でという通り一遍の解釈しかできないのは、本質に先立つ実存というものの在り様からは程遠い。それは単に日常性の中に埋没したカラクリの中のしだらな感情から見れば、「違和感」を感じるということに過ぎない。説明的な通り一遍の感情を持つことで世人、裁判所も納得するというのは、人並な感情を「演じる」こと、嘘をつことでしかない。「歪み」によって生じたもの、すなわち「個性的な感情」というものにウソをつくことになるのである。言っておくが、この「歪み」はムルソーに限らず万人にあるということである。だから個から発した素直な感情の流れそのものが逆に「異邦人」を形作るのである。先の加害者二人は「作られた」自分に気付くことも、対峙することもなく閉塞感のなかで押しつぶされた許されざるあわれな者たちということにならざるをえないのである。

 この作曲家氏は、日本中に蔓延しているこのような閉塞感の元凶は安倍政権であると言っているのであるが、その点については同感である。しかし、

もう一つ、付け加えれば、現状を見るにつけ「絶望感が深まるばかり」というが絶望感は基本的に深まらない、その内に腐臭を放ち始め、朽ちるだけである。絶望は到達点ではない。すべての出発点である。救いようのない絶望ですらそうである。そうかと言って、安っぽい希望、未来、夢などにすぐに引きずられているようではまともにものも見えずに一巻の終わりなのである。

                                2018 7/7

 


783.やはり「毒々しい虫のよさ」である


 追及されてなお、ふてぶてしい態度の昨今の「政治家」などを見ていると、「後悔や内省は若い、批判などからは完全に目をおおったところで『人間ができた』とうことになり、それが恰も人生の深処に徹したかのごとくであるが、根底には功利的計算があり、悔いるべきところを悔いまいとする毒々しい虫のよさがある」というようなことを言った坂口安吾を思い出す。要するに、彼らは「一途に毒々しい」のである。もっともその程度のことは顔を見ればわかることでもあるが。「自分にとって不利な批判的精神というものを完全に取り去ろうというのだから、これほど素朴であり唾棄すべき生き方は他にない。」のである。「一途に毒々しい」者たちに対する対処法を考えないとどこまでも食い尽くされることになるということである。彼らはそれこそ「何でもする」のである。今やその事例には事欠くまい。

                               2018 6/27

 


782.「記憶にない」と言う者たちとは


 肝心なことが記憶にない者とは、心神喪失の禁治産者か、認知症か、あるいは記憶の集積体でもある人間を自ら放棄している者であろう。当然、信を置くに足りないどころか、場合によっては危険極まりない人間ということにもなる。このような者が理事長などのトップの役職についていること自体が大問題なのである。「記録」もない「記憶」もないで済む国とは一体何なのか?これで先進国?、トップがボケかまして説明責任をしているつもりになっている。それで通ると思っていること自体が恐ろしい。このような「心身喪失者」の類がたとえ「大きな問題」に取り組んだところで、いざとなれば今度はさらに手の込んだ「大ボケ」をかますだけである。実際、内閣などもすでにもう崩壊しているのである。その残滓が瓦解を繰り返し最悪の方向に進んでいるだけである。彼ら自身にも止めることはできないところまできている。「心神喪失」者に導かれて行き着く先は、自ずと知れたところでもあろう。同じ時代を生きたすべての者たちの責任はもはや回避できない。自分だけは避けられると思っている者はオメデタイだけである。それもやがて思い知らされることになろう。そこには遅すぎるか、早すぎるかの違いしかない。

                               2018 6/20


781.「賢く生きろ」の結果がこれである


 「賢く生きろ」の結果がこれである。この場合の、「賢く生きろ」とは「ずる賢く生きろ」に最も近く、本当の意味での「賢さ」の意味は微塵もない。「寄らば大樹の陰」、「長い者には巻かれろ」式の生き方にも一理はあるが、是は是、非は非としなければ結局「大樹」は朽ち、長い者もやがて果てることになる。「政治的な話はするな」ということなども何も今に始まったことではないが、政治的に非があれば、それを非として認めても認めなくともそれは必ず自分に返ってくることで無関係ではありえないということである。非があればその結果は必ず現れるが、「思い込んでいる人々」には厳然たる事実は永遠に訪れないものである。そのような人々と心中したければ別であるが、そうでなければしっかりとした現実認識は持つ必要がある。政治の話を職場の仲間と話しづらいのであれば(それはよくわかる)話さなくてもよいのではないか、現在ではネットの活用も考えられる。ただ、「政治的な話はするな」という風潮は「何者か」によって「作り出されたもの」であるという認識は必要で、たとえそのような風潮はあっても「私はこう思う」というものがしっかりあればよいだけのことである。過度な「承認願望」は全く必要ない、むしろ危険でさえある。自らの明確な思考回路を守るためには現在どうしても政治的な問題を含めざるを得ないのは、それが思考回路を破綻させるウイルスのようなものだから防御しざるを得ないということである。

                               2018 6/17


780.日本人が「日本」に酔ってどうする?


 日本人が「日本」に酔ってどうするのか?日本人はいちいち説明するまでもなく否応なく日本人なのである。あるようなないような、実際には何もない空疎な言葉に酔って「日本人の魂」などの類を「歌い上げて」みても、そこにあるのは安手な空中楼閣しか存在しない。それはあまりにも安易な観念である。放っておけばいつの間にか自己増殖する抒情の中で「情に棹差して」ばかりいてはやはり流されるだけなのである。そもそも「無いもの」に棹差しているのであるから死に急ぐための都合のいい口実をでっち上げているようなものである。いつまでもそのような「幻影」を求めている内は自らの未来を閉ざすことにもなるということである。

                                 2018 6/9

 現に、あらゆるところで閉ざしているではないか。それがわからないようでは自業自得の道しかあるまい。

 


779.国史改ざんの「現場」


 現在、我々は、言って見れば国史改ざんの「現場」にいて、その経緯の一部始終を見ているのである。「国史」なるものが絶対的根拠に成り得ぬということの「標本」のようなものを生々しく見せつけられている歴史的「現場」のただ中にいるともいえる。それは、「国史」が時の権力によっていいように都合よく改ざんされ得ることを前提条件で読み解く必要があるということを意味する。この間の公文書の改ざんを見ても「起こった事」をいかに変質させていくかがよくわかるであろう。すなわち国の歴史を扱った「国史」に書かれていることをそのまま受け入れるだけでは「知性の欠如」と「信仰心」の証明にしかならないということである。作家などが「書き記されていること」を基に「想像力」を駆使して作り上げた作品の方が、すなわち見てきたような「嘘」の方がより真実、事実に近いということも充分にあり得るということである。そのようなことも考慮しつつ、国史に「書かれていること」のみを絶対視して、それ以外を「外れている」もの「真実」ではないとすることも単なる「信仰心」の領域でしかないということも押さえておく必要があろう。

 

                                             2018  6/3         

「ある日、その時」(70)3月1日ー

<掲載内容>

769.民主主義と「安定」とは相容れない 770.「固有なもの」を維持しつつ「共存」771.羽生結弦の姿に「国境がある」のか? 772.百田何某の逃げる姿に 773.「ブーメラン効果」?774.「曲学阿世の徒」とは 775.死んだ者も浮かばれまい 776.「蚊帳の外」どころか 777.またぞろ一事が万事ー日大の不祥事ー 778.飛べないコガネムシを見ていて

 

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778.飛べないコガネムシを見ていて


 飛べないコガネムシの姿がテレビに映し出されると、2008年に上演した「背中にナイフ」というピエール・ノットの作品を思い出してしまった。私の演出の舞台でもあったので細部にわたってフラッシュバックが繰り返された。飛べない羽を持ってしまった者にとって羽は背中に突き刺さるナイフのようでもある。このコガネムシも羽ばたきながら仰向けに落ちていった。最後には少しは飛べたにせよ、いっそ羽などなかった方がよかったのではないかとさえ思われる。飛べなければ歩いて行けばいいだけのこと。

                                 2018 5/31

 


777.またぞろ一事が万事ー日大の不祥事ー


 日大アメフトの不祥事、これはスポーツの単なる反則行為で済む問題ではない。これはスポーツマン失格、それがわからないのであれば人間失格である。それも大学という教育の場でもあるところでこのようなことが平然と行われているのであれば絶対に許されることではない。日大アメフト、監督の汚名はもはや払しょくすることはできない。こんなところでも「トカゲのしっぽ切り」と言われてしまう行為が当たり前のように行われているのである。これで現政権の「体質」を連想し、重ね合わせてしまった者も多いことであろう。「上」から「下」までどこを切っても金太郎飴である。「許されざる行為」を黙認していても、やがてその結果は否応なく現出してくる。その時にはすべては遅すぎるのである。現在でも議員失格、人間失格という者たちがのうのうと血税をむしり取り、さらに自分たちに都合のいいように法律を作り、憲法にまで手を出そうとしているということである。断ち切って終わらせなくてはならない要因は枚挙にいとまがないという現実だけは否定しようもないということである。

                               2018 5/18

 後日、日大アメフト監督・内田何某が辞任。「トカゲのしっぽ切り」も大中小があるのであろう。ようやく謝罪したというが、それも選手にけがをさせたということについてだけで自らの指示については認めていない。「壊してこい」、「殺しても云々」についてなどの監督の指示内容についてはまったく説明はなされていない。監督として、教育者としても話にならないだけではないが、このような人間失格者に導かれて優勝などしてもすべてにおいて人生最大の汚点となるだけであろう。しかし、女子レスリングの志學館にしても、この日大アメフトにしても基本的なところで大学としての範疇を逸脱している。大学などとはおこがましいのである。また内田の言うことが「真摯に受け止めて云々」、どこかで聞いたことがあるような紋切り型のセリフである。その内に「その点については記憶が定かでない」とでも言い出しそうであった。

 関係者も想定外であったであろう選手自身の単独会見で、「加害者」の選手は謝罪し、潔く真相を語った。覚悟の上であることは読み取れた。これだけの人間であればアメフトなどに関わっている必要など微塵もない。それにしても監督、コーチなどはスポーツをやる資格がないどころか人間として否定されて当然であろう。事の重大さが当初よりまったくわかっていない様子である。彼らの言動からは、戦時中「生き恥をさらすな、死んで来い、殺してこい」と国民や兵士を盛んに煽っておいて自らは生き延びた「指導者たち」を彷彿とさせる。何の反省もなく、まったく展開の余地のない者たちがいまだにこのようなことを繰り返していること自体が罪悪なのである。この際、被害者は大学に対して刑事訴訟をすべきであろう。そうでなければまた繰り返される。それから、今回の不祥事とは関係ない者たちが「風評被害」などと言っているが、そんな陳腐な言葉を遣って逃げることも虚しく恥知らずと知るべし。これはこの大学全体の問題でもある。現に、この監督は監督は辞めても大学の幹部職は辞めていないではないか。コーチは?選手は?コーチなども同罪であろう。こんなところでは良いものを持っていてもボロボロにされるだけである。日大などにもともと社会的信用などあったかどうかは知らぬが間違いなく信用は加速度的に失墜するだろう。

                                   5/22 

 案の定、ようやく出てきた監督、コーチの会見たるや国会の答弁と同様、それ自体監督、コーチの無能さの証明にしかならず、ほんとうに「事の重大さ」に気付いていないようだ。それにしてもよくこんな者たちが今まで指導的位置にいられたものである。「膿そのもである」者たちが「膿」を他人事のように転嫁して言う「カラクリ」はどこをとっても同質である。潔く真相を語った選手以外は人間としての質が問われる。

                                                                                                                              5/24  

 アベ、アベ友しかり、いつからこれほどまでに日本人は恥知らずになったのか。この「日大アメフト事件」もその一角の象徴的事件であるが、これはエコノミックアニマルが生み落としたものから必然的に生成されたものということに過ぎないのか。これは単なる「精神論」、「悪しき精神論」などでさえない。むしろ精神的レベルが基準値以下に退行した結果の単なる我執、妄執の類、愚鈍な亡者の常套と言ってもよい。このような凡夫たちの自分だけは何としても「勝ち組」に入りたいと思う「気持ち」が大中小の独裁者を生むことにもなる。すべては一事が万事で、謝罪、辞任で済みことでもない。日大も廃部どころか廃校が似つかわしいだろう。

 


776.「蚊帳の外」どころか


 実際、日本は世界の趨勢の「蚊帳の外」どころか家の外の路傍に放置されているといってもよいであろう。その状態について、まだわかっていないのかブラッフなのか、政権担当者はそのようなことはないと主張しているが、この政権の「主観」的主張など聞くまでもないこと、むしろ空疎すぎて罪悪なのである。わざわざ日本の政権担当者やその周辺が語るまでもなく、今や世界の動きそのものが日本の位置づけとその実情を雄弁に物語っている。愚行の果ての因果応報と言ってしまえば身もふたもないが、それが実情で路傍に放置された姿は語るも因果、見るも因果といったところである。さらには陳腐な常套手段の内憂から目をそらす外患のもっともらしい論調なども総じて幼稚、稚拙すぎてとてもお話にならない。もしこれで納得できるのであれば余程の能天気か自らの思考自体の幼児性に気付いていない者なのであろう。

                                   2018 4/27

 


775.死んだ者も浮かばれまい


 「私の記憶の限りございません」、「それについてはコメントできません」、これは巷間の凡夫の犯罪の取調室での問答ではない。国会で、過分の権限を持った者の「言い訳」、それで済むのか?済むはずはあるまい。逃げ切れると思っているのならどこまでも追い詰めるべきである。一事が万事で、ここで追及の手を休めてはこの手のことがさらに横行するだけである。偉そうに「大義」を振りかざすのなら根本的に自らの処し方が違うであろう。今でも、「李下に冠を正さず」などとしたり顔で言っている者がいるがそこにある欺瞞と確信犯的なものは払しょくできない。「ゲスの勘ぐり」に至っては、もはや論外でどこを見ているかと言いたくもなる。

 何か事が起きても、肝心なことについては「私の記憶の限りそのようなことはありません」、「それについてはコメントできません」では、それによって死なざるを得なかったような者たちは浮かばれまい。彼らの死も、生すらも抹殺されているのである。彼らは存在しなかったことになるのである。

                                  2018 4/11

 


774.「曲学阿世の徒」とは


 一般的な言葉の意味としては、真理を曲げた不正な学問をもって権力者や世俗におもねり人気を得ようとする者ということになるが、現状では、彼らの言説の骨子は、権力者や世俗に迎合するような内容を都合よく張り合わせ合成したようなコピペと同様で、たとえそれが一見学問的な体裁はとっていてもそれは飽くまで体裁で、言いたいことのすべては権力者、世俗迎合に感情的に集約されている。すなわち、「曲学阿世の徒」とは、世俗、権力者に媚びる者の総称ともいえる。またそのためにはいかなることも辞さない者たちのことでもある。したがって、それは飽くまでも政権擁護の徒であって、政権批判をする者たちに対して「曲学阿世」などというのは、的外れどころか根本的に言葉の遣い方を間違えているのである。これも自ずと「お里が知れる」という類であろうか。

                               2018 4/8


773.「ブーメラン効果」?


 一頃やたらとつかわれた言葉でもあるが、新しいコンセプトなど何もない。実際の在り様を敷衍化、細分化すること自体にはやぶさかではないが、さほどのことでもない場合が多い。「ブーメラン効果」なども要するに、「因果応報」、「自業自得」の水増し、言い換えに過ぎないということである。何かあるようなないような実質的には言葉の軽量化、すなわちオツムの軽便化以外何のあたらしさもなく変わるところもない。これで何か斬新なことを言っているつもりになっているとしたら相当オメデタイと言わざるを得ない。

 同様に、最近やたらと簡略系のカタカナ言語が多いのも気になるところである。これで何か言い当ててわかったつもりになっているということ自体が単細胞化の道筋にはまっているのである。それはあえて自分自身を貧相なものに仕立て上げてしまう「仕掛け」にはまるということでもある。

                                         2018 4/4


772.百田何某の逃げる姿に


 百田何某の逃げる姿が新書の表紙になっていた。「逃げる力」とかいう題であったと思う。百田何某にぴったりでもあり現在の政情、世情とも重なり合う。いざとなれば「逃げる」、これである。その姿にすべては表れている。すなわち言いたい放題、やりたい放題、やったもの勝ち、後は野となれ山となれ、責任など取るなど愚の骨頂とでも思っているのであろう。素早く世の趨勢に媚びて、やばくなれば手のひら返しでとんずらである。その逃げる姿は力でみなぎっている。真偽は知らぬがこれが売れているいるというからやはりまともではない。

 しかし、現状は居座り続けながら「逃げ回る」者たち、すなわち、いかに責任回避をするか、その技に長けた者たちがうごめいているがそれも限度があり、やがて何らかの形で「出て」くるだろう。

                              2018 4/1


771.羽生結弦の姿に「国境があるのか」?


 次から次へと尋常の神経では考えられない「議員」とその取り巻きが登場してくるものである。このような者たちが今の今まで暗躍していたであろうことは容易に察知できる。最近の文科省に圧力をかけていたという御仁についても、蓋を開ければやはり案の定、というよりその筋しか他にないのである。それは、見方を変えれば権力の中枢に対する「取り入り方」の常套手段でもあろう。この御仁は以前にも「ちびまる子ちゃん」(映画)のポスターの「友達に国境はない」という文言にクレームをつけたということがあったというがそれだけではあるまい。この政権の中で、こういう御仁が文部科学大臣政務官、参議院文教科学委員長で教育、文化行政を担ってるのであるから日本の民度の低下が加速するのは当然である。

 羽生結弦の姿にも「国境を設ける」ようなことを言い出しかねない感性の持ち主は、この赤池何某くらいなものであろうが、この御仁を任命している者、選んでいる者も同様である。要するに、感性そのものの劣化、すなわち知性の欠如が一般化してるのである。やっているレベルが低すぎる、実のところ何もわかっていないのである。教育、文化を担う者がこの程度ではすべてはさもありなんというところである。

 

                                 2018 3/25


770.「固有なもの」を維持しつつ「共存」


 「固有なもの」を維持しつつ「共存」するしか人類の進むべき道はあるまい。もはや「帝国主義的」な世界観はいかなる形態を取ろうとも頓挫するしか道はなく、終焉を迎えているのである。「アメリカファースト」などにも表れているように、それは世界の中心たろうとした国の「中心の位置」が不鮮明になりつつ、ズレ始めているということの証左に過ぎない。中国、ロシアなどの最近の「自己主張、喧伝」なども同様である。潜在する、あるいは顕在化している「大きなうねり」、言ってみれば「世界秩序」に逆行する「指導者」はどれほどの大義を唱えても、たとえ亡者であったにしてもその「エネルギー」を備蓄、増殖させることは不可能であろう。要するに、世界のダイナミックな発展過程から乖離しざるを得ないのである。今、「吠えている」帝国主義的な世界観から脱却できない「指導者」の足元は例外なく底なし沼である。すなわち、どのようにもがいても「徐々に」沈み行くしかないということである。今までのあらゆるコンセプト(概念)を極限まで集積させてもそれは防ぎようがないだろう。ここでまた、過去への回帰という正当化と美化しかもたらさない安易な方策に傾くことは二重に逆行することにもなる。自ら進んでスタート地点から逆走、迷走するようなものである。

                                  2018 3/11


769.民主主義と「安定」とは相容れない 


 民主主義は「放置」、「放任」すればすぐに「全体主義」に傾く。何かというと「安定」という言葉をあたかも「正義」のごとく使っていることがあるが、その根幹にある意識構造がやはり不安定要素が「ない」ことを是とする「ねじれ」の「ない」「独裁国家」志向に根差していると思われる。それは易きに付く、最も安易な道筋である。甘言はもちろん、一見当たり障りのない言葉にもひとつひとつ検証が必要になっている時代なのであろう。いつとはなしにある方向しか見えなくなっているというのはやはり極めて危険な状態である。以前からそのような傾向はあったが、今さらにそれが強くなっている。民主主義をほんとうに育てる気があるなら「安定」「不安定」は問わず、「ねじれ」もいとわないくらいの気概が国民の側になくてはなるまい。今頃になって「アベ一強」云々ではあまりにもお粗末、未成熟過ぎる。

 世界的に見れば、国民国家の主権の推移、主権が新たな形態を取りつつあるともいえる現状は過渡期特有のカオスも必然的に現れるであろう。

                               2018 3/8

「ある日、その時」(69)12月20日ー

<掲載内容>

763.「藪の中」は「藪の中」にあらず 764.「国際政治学者」とは?765.「未来」「未来」とかまびすしい、766.「護憲的改憲」? 767.「インナーボイス」は欺く 768「モンココ」のトミー 769.妙なマスメディアの異常さ

 

                                                                                                                                 <転載複製厳禁>



769.ほんとうに妙なマスメディアの異常さ


 まず、知りたいことが一切報道されないことである。問題だらけにもかかわらず、常に「何の問題もない」という「スポークスマン」、自らの官房機密費についてもまったく答えようとしない。すべては、ほとぼりがさめればけりがつくと思っているのであろう。事は、常に知らず知らずの内に勝手に進められ動いて行く。知りたい情報は「ノリ弁」ばかりでは話にもならない。ここまでこけにされても適当に中和させられしたり顔、笑っていられるのではやはりそれは愚民の証ということになろう。彼らに任せたら、何もかも好き勝手にいいようにやられてしまうのはわかり切ったことである。やはり民主主義は危うい、危険と紙一重なのである。あっという間に全体主義国家に移行することがあまりにもあからさまに見えた。そして、やはり凡夫には自由は耐えられないというのも真実なのである。

                                 2018 2/28


 768.「モンココ」のトミー


 トミーはいつもモンココの前で待っていた。

 「モンココ」、その響きと共に幼年期から住み着いてしまった忘れられない言葉の一つである。しかし、「モンココ」という言葉が何を意味し、その由来を知るのはずっと後になってからである。当時の私にはただ大きな門のある不思議な建物という印象しかなかった。家から100メートル程のところにあった「モンココ」は日常会話の中にも頻繁に登場するところで、近隣の人々の待ち合わせの場所にもなっていた。

 「モンココ洗粉本舗」は昭和8年に創業し、昭和27年に倒産している。詩人・金子光晴の実妹がやっていた会社で、「モンココ」という名前も金子光晴がつけたらしい。実際に金子光晴自身もこの会社に関係して、2年ほど高円寺にも住んでいたようだ。

 トミーはいつの間にか姿を消した。賢くおとなしい犬だった。母は、トミーが犬殺しに連れていかれ殺処分されたことを知っていたが幼い私にはそのことを話さなかったようだ。

 トミーと「モンココ」、詩人・金子光晴、忘れられない哲学者・三木清、もはや高円寺南5丁目辺りにはその一片の面影すらない。しかし、去り行きて戻らなかったエスプリは、私の中でまだ辛うじて息づいている。

                                        2018 2/9ー

 


767.「インナーボイス」は欺く


 「インナーボイスに聞け」とはそれなりによく耳にするもっともらしいことではあるが、、これですぐわかったようになるのもオメデタイというより危うい。手っ取り早く言えば、「悪魔のささやき」、「亡者と化した己の呟き」などもインナーボイスとして聞こえてくるからである。インナーボイスに耳を澄まし、ほんとうにその内容が聞き取れるのは心身を「整えること」ができる者だけである。そのようなことを経ずして聞こえてくるものとは、単なる「作り出された」我を己であると思い込まされた、あるいは思い込んだ者の「インナーボイス」である。現に「インナーボイス」を勘違いした者たちの「声」が巷、インターネットにあふれているではないか。「インナーボイス」も欺くのである。ー

 

                                   2018 1/26ー


766.「護憲的改憲」?


 もっともらしい「改憲論」の派生的詭弁、実際、改憲論自体に護憲などという姿勢はまったく認められない。いままでのすべての経緯を見ていれば「護憲的改憲」など画餅に過ぎないことは誰でもわかること。改憲についてどのような「正当な」お題目を唱えても怪しげな「彼らに」にいったん改憲を任せたらどのようなことになるか、火を見るより明らかなのである。国民の権利は確実にはぎ取られるということである。

目先のことしか見えぬ知能も劣る群盲のような者たちが寄ってたかってものしり顔に憲法談義

血と汗も知らぬ者どもが何を言うか!

 もうそれ以上ふれるな!

それが憲法だ!

                                    2018 1/14


765.「未来」、「未来」とかまびしい


 現在もきちんと見据えることができない者が、どうして未来を見据えることができるのか?「未来への責任」?現在の責任も取れない者がいかに未来の責任を取り得るのか?ただ、その場しのぎのきれい事を言ったまでのことであろう。ある時は「そのような短期的なことについてはお答えできない」、またある時は「仮定についてはお答えできない」。「長期的な展望」とは仮定ではないのか?一つ一つ取り上げていたらキリがない、それはもはや無茶苦茶であることを通り越している。私はこれほど支離滅裂な政権が目指す「方向」などとても認めるわけにはいかない。どれほど一寸先は闇であっても、たとえ藪の中であってもその「方向」は読めるであろう。この時点で、その「方向」をよしとすれば否が応でも我々は「転げ落ちる」だけである。とにかく彼らには美辞麗句、甘言、世迷い言の類が多過ぎる。「普通の者」ならそこで立ち止まり考えるものであるが、それすらさせないような状況を作りながらさらに心理的な揺さぶりをかけ追い詰める。これはまさに詐欺師の手練手管そのものである。

                               2017 1/7


 764.「国際政治学者」とは?


 よく目にする肩書で、大方がハーバード大学大学院博士課程修了などとあるが、結論から先に言えば、ハーバード大学とはこの程度のレベルなのか一体何をそこでやっていっていたのかと思われることが多い。言ってみれば、思考を深化させるコアな領域が希薄なのである。国際政治学、何のことはない政治力学程度のことをその時点ではすでにそれ程の価値もなくなった「情報」を基にもっともらしく分析してみせるのが関の山という「学」というより「技術」に近いものではあるが、位置的に「秘密情報」も手に入れやすという意味では政権に利用される、あるいは利用しながら自らの利益にも結び付けやすいという利点はある。そのためにのみ選んだ専攻分野ともいえるので選択動機自体が「ピュアーなもの」とはかけ離れざるを得ない。要するに、「厳密な学」としては成り立ち得ない要素が多々あるのである。実際、政治のダイナミズムを理論的に分析できるのか?現在ではモーゲンソー程の思考を深化させたコアな領域を持ち得る人物も存在せず、せいぜい「ゲーム理論」のレベルを行き来しているだけであろう。

 

                                2017 12/28

 さらに言えば、彼らは情報取得のためなら「おもてなし」は朝飯前、男芸者、女芸者も厭うまい。ただし、その情報は自分が最も利するためにしか使われないということである。国民に向かって発することなどは、例外なく当たり障りのないまったく無意味、無価値なものでしかない。要するに、そういう位置にしかいないということである。


763.「藪の中」は「藪の中」にあらず


 芥川龍之介の「藪の中」の話を出すまでもなく、「真実」はそれぞれの視座によって異なったものになってくるという事態は常に現実的な実情でもあろうが、しかし「それで?」、「だから?」という問いの無限連鎖は抑えようもない。現状を見ていても明々白々としたものさえ「藪の中」にわざわざ引きずり込んでボカシをかけているのも「人間的営為」の中には頻繁に見られることである。世の実情は「藪の中」だと言ってみても、それは結果的には「あきらめ」とそれにすぐに溶け込む怠惰なニヒリズムに道筋を与えるだけであろう。そして、その轍(わだち)にはまることが物事を知り得た者の姿勢であるかのようなわかったようなことを呟き始める。藪を「突っつけば」蛇も出くれば猪も出てくるのである。「藪の中」であるという認識には「突っつく」という行為自体がもたらす藪そのものの変貌がまったくない。それでは「藪の中」はいつまで経っても「藪の中」、手がかりとなる一片の木肌さえ見つかるまい、むしろ藪の中にある方が居心地がいいと思っているのではないかとさえ思われることがある。そもそも世紀の「大発見」のレベルでも、それは「海辺の一粒の砂」にたとえられるがごとくで、後は途方もない未知なるものに覆われている。そのような認識は謙虚さでも何でもない、人間の限界そのものからくる素直な感慨でもある。

「藪の中」、それは到達点ではなく、それがすべての始まりなのである。

                                 2017 12/21

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