両忘の時‐ある日、その時‐

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「ある日、その時」(68)10月ー

<掲載内容>

755.今、ジョルジュ・ビゴーが日本にいたら 756.アホでも言う「考えるより感じろ」<20171002> 757.日本はバランス感覚を欠いたら万事休す 758.「一億総評論家」という風潮?759.歴史教科書から言葉が削除されている?  760.正直者はバカと見なすお国柄 761.日本を自画自賛する番組?762.現状は「完璧な」衆愚政治

 

 

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762.現状は「完璧な」衆愚政治


 衆愚政治とは、今も昔も民主政治の堕落形態であることに変わりはないが、これほど「見事な」民主政治の堕落形態すなわち衆愚政治を目の当たりにすることはかつてなかった。要するに、大衆の大多数がアホであるなら、そのアホが選んだ者たちがアホであることなど敢えて言うまでもないことなのである。そのアホの一人がその気になって、さらにその土壌が整えば独走態勢から独裁政治に移行するのは当然の帰結である。しかし、その独走・独裁政治に歯止めをかけるのもまた「本来の」民主政治という形態より他にありようがないということも「難点」である。そして、何より「やばい事」は衆愚政治のど真ん中にいるという認識すらないことである。それは、健全に堕落一般を堕落しているようなもので却って質が悪い。それは自らの首に縄をかけられている者が笑み周囲にまき散らしながら自らの手でその縄を引くようなものであるが、本人は決してそうは思っていない。良し悪しの判断、思考の埒外に置かれた「もの」、「こと」によって突き進まされているだけと言ってもよいだろう。

 民主政治は、いともたやすく「アホのアホによるアホのための政治」となることを肝に銘じるべきなのである。アホは常に目先の利害に絡んだ「思い込み」ばかりで、論理的思考展開が不能、世界の終焉がどのような形をとるかさえ思い至らない者たちのことでもある。

 近未来のことさえ「仮定」については「申し上げられない」のなら政治に関わるのは辞めるべきである。それは無能の証にしかならないからである。しかし、その「仮定」の下に「再稼働」、「再軍備化」の方は着々と進めているではないか。

                                2017 1216

 


761.日本を自画自賛する番組?


 何についてもそうだが、自画自賛するようになってはもう末期症状で、発展の可能性はない。最近やたらと「日本の素晴らしいところ」などを諸外国人の目を通して語るというスタイルや「再発見」という形で取り上げている番組が多いが、内容的にも皮相的な日本文化の紹介と言うより衰退の一途をたどっているものの自画自賛、糊塗するような面ばかりが浮き上がってくるのである。この違和感、不快感は当然のことで、むしろ異常でさえある。それは負の面ばかりが際立つ政権にそのマイナス面を払拭、相殺させるために補完的に使われているようにしか見えないからでもある。この「オカシサ」を感じないのであれば、センサーもかなりやられているということであろう。なぜこのような傾向が危ういのか、己の「良きところ」、「悪しきところ」を明確に把握できない者に先はないからである。わかりやすく言えば、大した根拠も、知識もなく、日本文化についても浅薄な「日本人」という「黄色人種」が「自分はすごい、すごい」と思い込もうとしているだけということになる。これでは手もなく足を取られ陥穽入りである。つまり、自ら蒙昧の中で将来を閉ざしているということになる。つい、「あなた」と日本の歴史も文化、風土も、国土さえも関係ありませんと言いたくなるのである。

                                 2017 12/12

 


760.正直者はバカと見なすお国柄


「立法府の長」という行政の長が、仕切る政権に常に顔色を窺う司法が付属する三権「融合」の政治形態、はじめから説明責任などするつもりもない。この人間の言動、存在そのものが憲法を蹂躙しているのである。実質的に国民から政治的自由を奪い去り、権力に対する盲従、隷従が「平凡な幸福」の規範のような「錯覚」に陥らせる陳腐な手法に国民の方も徐々に丸め込まれているようである。言うまでもなくそれに全面的に加担しているのが「大手大衆メディア」である。日々流されている一見無味無臭の有害無益の内容をまともに受けていれば、すでに彼らの手中という具合にすべては「調合」されているのである。そんなこととはお構いなしに日々起こる事象に「素直に」、「正直に」反応する者は「空気を読めない」「バカ」と見なされる風潮をごく自然にいかに作るかが彼らの最大の眼目と言ってもよいであろう。「空気を読める者」とは実は思考に発展性がない、独創性がないことの証左でもある。正直者、素直な者も含めて、問い続ける者たちの減少、衰退はそのまますべての衰退の兆候と証にもなり得る。どちらにしても「上」から「下」まで詐欺師ばかりでは話にはなるまい。そして、そのほとんどは「強者」が「弱者」を騙すのであってその逆の方向はほとんどないというのが現実である。

 見るも無残に汚されていく三権、これほどまでに汚辱に満ちた三権を露骨に「目の当たり」にするとは思わなかった。これは日々の現状がすべてを語っている。馬鹿笑いをしている内に首が落ちないことを願う

                              2017 12/6


759.歴史教科書から言葉が削除されている?


 一言でいえば、愚かである。言葉の削除とは思考の削除でもある。要は、将来「有望な」四の五の言わない下層労働者と兵隊には知識は無用ということであろう。歴史教科書から言葉が削除されて、覚えることが少なくなったと喜んでいる層はたとえ削除されなくてももともと大して変わりはないレベルの者たちであることも確かである。漢字もろくに読めない閣僚がふんぞり返っている「お国」である。後は推して知るべしであろう。何かと言えば、飽きもせず「朝日新聞」と「リベラル派」の陳腐な揶揄、これはまったく発展性のない自らの立ち位置をご丁寧に自己暴露しているだけなのである。言葉の削除、言い換え、やればやるほどその「闇」の形状、実態が明るみに出されることとなる。彼らごときの頭脳でそのすべてを隠ぺいできると思うことの方がオメデタイ。実際、その隠ぺい、小細工の仕方などを見ていると、国民に慧眼がそなわることをいかに恐れているかという「証」を見せつけられるだけである。戦時中を思わさるような「情報の遮断」と言う点でもそうである。目指すは神がかった黒き北朝鮮なのかとしか思えぬのである。彼らの一皮むけば薄気味の悪い「人間的」微笑みにいつまでも騙されていると「肉屋を恋しがるブタ」になりかねない。監視するのは我々であることを忘れるといつでもそのようなブタになっていまうということである。

                                  2017 11/25


758.「一億総評論家」という風潮?


 もう名前も出したくない芸人タレント監督のTが「一億総評論家」という風潮があるのは困ったものだというようなことをどこかで言っていたが、とてもそうは思えない。むしろ「一億総白痴化」の拡大細分化であろう。仮にほんとうの意味で「一億総評論家」であったならもう少しましな状態が現出していてもいいはずである。テレビなどの「一億総白痴化」の流れが意識するしないにかかわらず批判精神そのものを衰微させていったことの方が大きいと思われる。またそう考える方が現状の様々な問題をみてもわかりやすいのである。しかし、今まで一億総白痴化路線で食ってきた者が、テレビ離れ、衰退で製作費も削られ、その挙句に不評続きで思うようにいかなると、開き直って視聴者に向かって「それなら、お前がやってみろ」などと言うのは、追い詰められて身動きつかなくなると「対案を出せ」というオワコン政党とどこか重なる。今更、テレビなどという「泥船」に乘ろうなどと思う者は余程の酔狂な者か、自己制御の効かない顕示欲を持ち合わせている「さびしい」者なのであろう。Tに限らず、いつまでも「引っ張らずに」早く退場しなさいよと思わせる者たちが多すぎるというところか。

 少し見まわしただけでも、「上」から「下」まで去り際を知らぬ、身の程知らず者たちであふれているではないか。要するに、みっともないの一言なのである。個的には欲で引き際を見誤る悲喜劇、社会構造的には、既得権益側のあがきと醜態が露呈され続けているだけである。

                                            2017 11/15

 


757.日本はバランス感覚を欠いたら万事休す


 地球儀を持ち出してくるまでもなく、相当のアホでない限り日本がバランス感覚を欠いたらどうなるかすぐに想像できることである。常に綱渡りを強いられる国でもある。地下資源といえばマグマくらいしかない、いつ地震、津波が起こるかもわからず、ほぼ定期的に台風のやってくる海上に浮かぶ細長い小さな「美しい」島国なのである。その島国で誇大妄想としか思えない狂信的な精神論で世界を俯瞰するようなことを青筋立てて訴えてみたところで土台は無理筋なのである。虎の威を借りて蟷螂がその気になってその斧を使えば踏み潰されるのは蟷螂だけである。現にやっていることは「トランペット」が音程の外れたトランペットで不協和音を奏でることくらいであろう。

 ところで、「トランペット」はトランプの運転手もやっているようだ。ハンドスピーカーを持ったトランプに90ホン位の大きさで「ハゲー!違うだろ!」、「お前と俺との仲はその程度か!」、「俺はパールハーバーを忘れていないぞ!」などとでも言われているのか。彼らの「密約」など敢えて聞くまでもない程、明々白々なこと。異例中の異例である者「たち」の間もなく訪れるであろう終幕が「楽しみ」である。

 

※「トランペット」とはトランプのペットと言う意味で遣われていた言葉である。「トランプの運転手」というのは米誌の風刺漫画より。この点については、755「ジョルジュ・ビゴー」でも取り上げたが、このような風刺画が日本では皆無となってしまった。これは何を意味するのか、わかり切ったことである。何気ない批判精神の喪失、これはあらゆる領域での衰微と堕落を意味する。

 

                                     2017 11/5

 


<20171002>

トランプ札は切りもなく、トラペットは吹くばかり、二階の犬はくぐもるだけで足摺岬、地下のひょっとこ金勘定で踊り出し、ひょいと目をやりゃ、菅の間に番犬数匹身を潜め


756.アホでも言う「考えるより感じろ」


 街を歩いていたら、男二人の会話が耳に入ってきた。「ブルースリーが言っていたけれど『考えるより感じろ』って、やっぱりほんとうだぜ」・・・。何もブルースリーを出さずとも誰でもよく言うセリフである。しかしである、「考えるより感じろ」とは誰でも何となくわかったようにさせるが、感性とは知性によってもその質はかなり違ってくるのである。因みに、ブルースリーはワシントン大学の哲学科に進んでいるが、同じ言葉でもある程度のことを踏まえた者が言うのとそうでないのとは雲泥の差があるものである。考える機会もあまりないと言うより考ようともしない、考えるということがどういうことなのかもわからない者が「考えるより感じろ」などと言ったところで「底」はスカスカなのである。それはその人間の「文脈」でわかることである。これもその気になってアホが使っていると失笑を買う言葉である。手垢が付きすぎて新鮮味も、インパクトもない言葉と言ってもよいであろう。

  今はむしろ、感情的に受け取り、流されることを警戒いなければならない時である。「感じることより考えろ」というのが現在の実情でもある。

                                2017  10/21

追記:「考えるより感じろ」などとわかったようなことを言っているから「印象操作」に手もなく引っかかるのである。思考的にも打ち鍛えられていないものが使うべきではない。


 755.今、ジョルジュ・ビゴーが日本にいたら


 今の日本にジョルジュ・ビゴーが時を超えて舞い戻ってきたら、さぞかし面白い風刺漫画を描くのではないかと思っている。私の想像図と照合してみたいものである。現在、風刺漫画もほんの一部の紙面で辛うじて息づいているようだが虫の息である。恐ろしいほどの批判精神の衰退の一面を物語っている。さすがにジョルジュ・ビゴーに匹敵する風刺漫画となると皆無に近いが、それでも以前は俗に大手と言われる新聞も含めてどの紙面もそれなりの風刺漫画があったものであるが、今はまったく見なくなった。それに呼応するかのように内容も平坦というより、むしろ凹んでしまってどこの町内会の回覧板かと思わせるほどである。くだくだともっともらしく紙面を埋めてはいるが、肝心なところで正鵠を得たものなど全くない。やはり金主は「お国」なのであろう。その「お国」を動かしているのが「国を守る」「責任」などと一番欠如しているものを連呼はするが、とても「右翼」とも呼べない「国粋主義者」でもない単なる「ならず者」としかいいようのない者たちでは衰退するしかないのである。彼らは右翼流(筋の通った正統派右翼)に言えば「ほんとうに日本人か」と聞きたくなるほど「保守」でも「右翼」でもない。単なる場当たり的な人気取りポーズの「得票マシーン」で、当然内容も空疎で、たとえ内容があったにしても虚言に満ちている。だから決して「ポピュリズム」でさえないので、西部邁流に言えば、それは大衆迎合主義ではなく単なる軽薄な人気取りの「ポピュラリズム」ということになるのである。詰まる所、私利私欲以外に何もない者たちということになる。要するに、彼らにとっては政治が「最終ビジネス」という位置付けなのである。したがって、選挙ともなれば口先から日ごろ考えたこともないような言葉が出るは出るは、その顔色は人を喜ばせるためにやわらぎ、こびへつらいは底なしということになる。しかし、そこには倫理も倫理性も微塵もない。むしろ、ないからできることでもあろう。

 金主の割れた浮ついたマスコミ用語に振り回されるのではなく、ここは本当の意味で思案のしどころであろう。

                                2017 10/16

 

                                

                             

「ある日、その時」(67)9月10日ー

<掲載内容>

737.またぞろ「人づくり改革」とは  738.やはり「儲け話」と「ただ」ほど危ないものはない 739.「一院制」云々で知れる本体、本性 740.「O157騒動」で 741.国辱的な「保守」742.アベ・シンドローム(Abe syndrome) 743.「憲法改正」という遣い方は不適切 744.「国家神道」を奉ずる者たちとは

 

 

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744.「国家神道」を奉ずる者たちとは


 わかりきったことを改めて言うことになるが、「国家神道」を奉ずる者たち、すなわち俗に「右翼」あるは「国粋主義者」などという美称で呼ばれる者の集団と民主主義とは完全に相反するものである。アメリカの若き研究者の指摘通り、「古代ローマ帝国の皇帝崇拝と日本の国家神道とは驚くほど似ている」のである。すなわち、国家神道に寄り添う者たちとは民主主義とはまったく逆方向で、上からの権力を振るうことによって強制的に統治する「帝国」を志向しているのである。現政権とその周辺はすべてこの「帝国」を志向している者たちである。選挙の時だけの「泣き」と「笑顔」と「ハイタッチ」、さらには日本酒などに騙されていたら後は何をされるかわからないのである。

 場合によっては、今度の選挙が民主主義下で行われる最後の選挙ともなりかねないところがある。それほど巧妙に仕掛けられた罠が至る所にあり、民主主義を装った反民主主義、非民主主義的な国家神道を奉ずる者たち、あるいはそれを装う者たちに牛耳られる可能性が大きいということである。要は、目先の目くらましに惑わされずに、「民権主義」とは真逆の「国権主義」を許すか許さないかの選挙であることを忘れないことである。

                                2017 10/12


743.「憲法改正」という遣い方は不適切


 「憲法改正」ではなく、「憲法改変」である。憲法改変についての是か非かまず問題なのであって、「改正」では変えること自体がすでに是という前提に立った話である。世の中が変わったから憲法も変えるなどとはとんでもないことである。そのことについては以前にもこのサイトで取り上げたが、簡潔に言えばすべては米国の都合に合わせてということなのである。何かというと米国に押し付けられた憲法だからとバカの一つ覚えのように繰り返すが、またぞろ米国の都合で変えさせられているだけなのである。恥を知れと言いたくなるような米国に対する媚びへつらいようはもはや「同盟国」などと言う範疇にない。こんな人間が世界中で恥の上塗りをしているかと思うと同国人としても恥ずかしい限りである。憲法とは、国の根本法であり、社会情勢が変化したからなどと簡単に手を加えられるものではない。そんなことは法律でいくらでも調整できることである。これは完全な確信犯である。こんな者たちが「日本を守る」とは、おぞましく、寒気立つ思いがする。

マスメディアもよくこんな言葉を平然といつまでも垂れ流していられるものだと思うが、その程度のことなのである。低劣である。

                               2017 10/8


742.アベ・シンドローム(Abe syndrome)


研究者にとっては格好の研究材料でもあろう。次から次へと生々しくも提供されるさまざまな病的傾向、そして、それが形作られた遺伝的、生物学的一般的感情傾向そのもの歪みと変異・・・この狂気そのもののとも言える「軽さ」が本人の感情のすべてに行き渡っている。そうかと言って、決してこの「軽さ」で自らの死に至ることはないという狂気の変種ともいうべきもの・・・この異様な反知性的「軽さ」こそ、変種のマキアヴェリズム派生体、日本的権謀術数の変種とも言えるものである。宗教が最終ビジネスと言った男と、政治が最終ビジネスと考えている者たちとは同一でこのシンドロームに入る。わかりやすく例えれば、戦後70年形骸化され続けてきた民主主義の中で限界点を超えて衰微する資本主義の陰りの下でいつの間にか育っていた毒キノコのようなものである。これは保守政権などではない。それ程限定的でもないので限定的に捉えているとポイントがズレる。したがって、このシンドロームの圏内にいる者の政策論争も公約もすべて無意味というより騙すための方便と見た方が賢明であろう。サイコパスの集団が増殖を繰り返すうちに作り出してしまった「もの」を見てもこのシンドロームの伝播力、感染力は強い。しかし、増殖率が高いとはいっても所詮は毒キノコで、食べるわけにはいかないので消去するしかないのである。

 「保守」を単に「現状維持をすること」などと考えているととんでもないことになる。維持するだけでも補修、点検は常に必要不可欠なのであるが、そんなことはお構いなしにあるかないか不明な「人間的なつながり」、「土下座」程度で2選3選させているからこのような事態になるのである。西部邁も言うように「伝統とは、その国の歴史が残してきた慣習そのものではなく、その中に内包されている平衡感覚のことを意味している」、その「伝統」から大きく逸脱していれば改革を断行するのが保守なのである。保守が保守にもなっていない国、現状維持どころか、伝統さえもおろそかにする者たちには即刻退場してもらうしかあるまい。                               

                                      2017 10/5


741.国辱的な「保守」


 私は学生の頃から、能、狂言をよく観に行っていた。仏教、神道についても、特に仏教については学んだという以上のものを私の中に残している。そして、その当時傍らには言うに言われぬものに突き動かされるように読んだ海外の書籍、たとえばキルケゴール、カント、ヘーゲル、マルクス、フッサール、メルロ・ポンティ、サルトルなどの書籍もあった。母の影響もあって、華道、茶道の心得もいつの間にか身についていたので、その後思わぬところでその影響を再発見することもあった。それはそのまま今は亡き母の思いにもつながっている。日本の文化の質についても肌で感じることが多く、愛すべきものと感じている私が日本の「保守」といわれるものに共感することがないのはなぜか。特に現政権のような者たちが「保守」と称することには違和感以上のものを感じるのである。どうみても文化もへったくれもないような者たち、それが権力に群がる者たちの常道などと言って済まされる領域をはるかに逸脱している。単なる亡者といってもいいような者が「日本の伝統文化を守る」、「美しい日本」云々、などとくると、つい虫唾が走るのである。「保守」という従来のコンセプトはもはやまったく意味をなさない。むしろ今は、実質的に日本文化、国土の破壊者といってもいいような者たちが保守と言われているのである。さらにやっていることは日本の品位を落とすことしかやっていない。それでも「保守」と言うのなら、名を返上した方がよい。この体たらくであるから、少しでも思慮があれば「保守的」位置にいる者も「保守」擁護の見解から外れざるを得ないのであろう。実情は明確な「保守」も「革新」「リベラル」もいないと言った方が適切である。詐術のレトリックだけで作り出されたようなボケたような状況を明確にするいい機会である。

                               2017 10/1


740.「O157騒動」で


 食料品関係でこのような騒動を起こしたらまず廃業であろう。しかし、、今回の調査でもそうだが、かなり細かく調べたにもかかわらず感染経路が不明ということである。しかし昆虫類、ハエなどのことはまったく考えられていないようだ。店は自動ドア、食品はただ大皿に盛られて並べられているだけというのがほとんどであろう。お客の出入りでハエなどは簡単に入り込んでくる。ハエ一匹で簡単に店などはつぶれるのである。実際、私はそのような状態になった店を身近で見たことがる。近郊ともなれば家畜小屋もあろう、そのようなところから飛んできたハエであればO157などは簡単にばらまかれるのである。トングばかりに注意がいっているようではお話にならないが、これもまた一事が万事。それに推理力、想像力の欠如が加われば、ピンボケのままただただ右往左往するばかりであろう。

 因みに、私は棚にそのまま並べてある食料品(パン、惣菜類)を買うことはめったにない。

                                2017  9/19


739.「一院制」云々で知れる本性、本体


 2009年、小泉純一郎が「一院制」を取り上げたが、そこには安倍晋三も森喜朗いた。これは憲法上の問題(憲法43条)にもなることである。そのようなこととは別にスピーディーな「解決」、議員の削減などが全面に出て、利点ばかり強調され喧伝されていたが極めて危ういことである。独裁的色彩が強くなればスピーディーになるのは当然であるが、それでは民主政治とは遠ざかるばかりである。一頃、小泉などに乗せられたマスメディアがやたらと「ねじれ国会」などという文言を遣っていたが、どこの独裁国家かと思われたものである。「ねじれる」ことも、「時間のかかる」ことも覚悟しなくてはならないのが民主政治でもある。現状を見れば、「一院制」などにすればどうなるか、火を見るより明らかであろう。そんなことは中学生でもわかることである。

 どちらにしても、今また「一院制」などを持ち出してくる者たちは危険である。調べればすぐにそのバックは判明する。

                             2017 9/16


738.やはり「儲け話」と「ただ」ほど危ないものはない


 儲け話、すなわち「経済最優先」の結果がこれである。そして大学無料化、「ただ」にして何をどのように指導しようというのか、すぐに役立つ目先の実利重視の企業と一体化した産学共同路線の低レベル教育によるヒューマノイドの大量生産であろう。これでは文化もへったくれもない。そうでなくとも文化レベルは落ちる一方なのである。時間ばかりかかる一見無駄に見えているものが実は燃え尽きることのない底力を養うのである。小手先だけの目先の技術を磨くだけでは先細りになることは目に見えている。企業戦士などの美名でその気にさせ、さんざんこき使った挙句に今度は燃え尽きる前に兵隊として駆り出し文字通り燃焼させるのである。彼らの言ってる着飾った「もっともらしいこと」のすべては、国民のためではないことを前提にして考えないと取り返しのつかないことになる。

 今やっていることは、どれもこれも国を滅ぼす方向にしか向いていない。それがわからないようでは話にならないのである。そして、それを止めることができる者がいないのであれば、「他に適当な人がいない」のであれば、この国の滅亡はやはり必然の成り行きなのであろうと思っている。そのことで私は悲観も楽観もしていない。在るように在るだけである。そもそも現在は、自分だけ助かりたいと思うこと自体が不可能であると同時に無意味なのである。

                             2017 9/15


737.またぞろ「人づくり改革」とは


  よくもまあ次から次へと悪びれもせず何かありそうな見せかけだけの大言印象操作、詐欺師のレトリックそのままである。実際、何一つ「中身」のあった例がないが、執拗に繰り返すことで何かやっているように見せかける。これもまた、大衆は小さなウソには敏感だが大きなウソに簡単に引っかかるというヒットラーに倣ってのことなのであろう。よくヒットラーを持ち出す失言大臣もさることながら、ヒットラー語録を片手に政を行っているような、歴史に何一つ学ぶことをしない彼らとはやはり一線を画す必要がある。同じ過ちを何度でも繰り返すからである。

 「小さなウソ」ということでは、最近のつまらないスキャンダルに目くじら立てて騒ぎ、煽るマスメディア、そしてそれに乘る柄にもない者たち、肝心の問題はどこへやらである。政治家などが聖人君子であるはずもなく、叩けば埃の一つや二つ出てくる取りあえずの大衆の代表であるということに過ぎない。だからこそ身ぎれいにしておく覚悟が必要であるが、要はどのようなことを国民ためになしたかがすべてで、プライベートなことをいちいち取り上げて問題にすることでもない。「人生いろいろ」、「あんたもそうでしょう」それで終わりなのである。個人的問題について「説明責任」云々、いい加減にしなさいよ、大衆の手なぐさみのような芸能人でもあるまい、そんなものは聞きたくもない。それよりもっと重大な問題の説明責任の方を追及すべきであろう。今現在まで、肝心なものの説明責任は何一つなされていないのである。

 ここにきて内閣支持率が上昇したと大手メディアグループが騒いでいるが、何のことはない北朝鮮の影響である。支持率変動と北朝鮮のミサイルは密接な関係があることは今では周知の事実でもある。北朝鮮が「がんばる」ほどアメリカは日韓に武器も売れるし、言うことはあるまい。日本の防衛費の膨張に文句を言う者もいなくなる。そのことについて下手に抗議すれば「非国民」扱いという構図をつくりだすのが狙いであるが、すでに出来上がりつつある。何だかんだともっともらしいことを言ってみても利するのは「軍産複合体」とその関係筋の「パシリ」だけなのである。国民などは徹頭徹尾その「だし」以外の何ものでもないが、「人づくり改革」でロボット化してしまった判断停止の疑似人間にはもはや何も見えないという寸法である。

 

※「パシリ」:この場合の、「パシリ」とはかなり広範囲である。上は「ヘッド」からほんとうの使いっパシリまで、「御用」と称される「学者」、「評論家」、「ジャーナリスト」、「作家」なども含まれる。あらゆる分野に存在するが、「褒美」を受け取る者から思い込んで身銭を切る殊勝な者までと範囲も広い。

                               2017 9/12 


 

「ある日、その時」(66)7月29日ー

<掲載内容>

729.「科学的特性マップ」とは、すなわち「亡国マップ」730.最近、よくわかること 731.「内閣人事局」732.「承認欲求」ということ 733.史上最低の大統領と首相と 734.KKKの幹部の言うことと 735.「分断の時代」?736.自己顕示欲という痛々しい様相

 

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736.自己顕示欲という痛々しい様相


 金の亡者、権力の亡者などもしかり、執念に取りつかれて亡者の領域まで行ってしまった者たちの動きは共通している。自己顕示欲なども度が過ぎて、自己顕示そのものが執念化してしまったのではないかと思われるような人物をよく見かけることがある。その言動のほとんどが自己顕示欲を根拠としているとしか思えない内容であることからもこの欲望の根の深さも推察できる。彼らは自己顕示欲そのものによって自己を喪失しているのである。したがって、その見方、感じ方も実のところ肥大化した自己顕示欲そのものよって変形、変質させられているのであるが、本人にあまり明確な意識はない。やがて四六時中本来の自己とは乖離した自己に振り回されることになり、自らの死すら自己顕示欲に奉仕させるところまでくると、もはや手の施しようがない。見ていても痛々しいものがあるが、詰まるところ自業自得なのである。前にも取り上げた「承認欲求」も自己顕示欲と相乗作用を起こしやすく、いつの間にかとんでもないところに「自己」は運ばれているものである。さらに厄介なのは大した内容でもない「こと」、「もの」に酔い痴れさえして、敢えて「急流」に飲み込まれて行くことである。

                                       2017 8/25


735.「分断の時代」?


 なぜ「分断」なのか?なぜそのような言葉で括るのか、それで何か言い当ててつもりになっているとするなら根本的なスタンスを疑わざるを得ない。それはあたかも誰かにあるいは何者かに分断されているようなニュアンスさえ感じさせるが、それでは「分断」以前にどのような「統一」されたものがあったというのか。「分断」という言葉が、何か第三者的な、歴史の枠外で高みの見物をしているようなあり得ない「位置」を提示するから不適切なのである。「分断」ではない「対立」というべきなのである。今なお綿々と「対立」が続いているということに過ぎない。「分断の時代」などという言葉で曖昧に世界を括るのは危険でさえある。それは飽くまで「対立」なのである。それは常に「統合」を志向しざるを得ない「対立」でもある。そして、さらに高次の「統合」が求められるという展開の基本的常態の一様相であるに過ぎない。「分断の時代」などというはあまりにも皮相的でさらに世界情勢を曖昧化させる方向にしか役立たない極めて不明瞭な表現である。こんなことを言い出した者の頭の中が透けて見えるようだ。言葉を置き換えることでさらに物事が深化し、新たな展開につながるのならよいが、これはむしろ逆であろう。

                                2017 8/20


734.KKKの幹部の言うことと


  米国で人種差別で問題を起こした白人至上主義集団KKKの幹部が、トランプ大統領が望んでいることをしているまでのことなどと言っていたが、確かにトランプは彼らを刺激、扇動するようなことを言っていた。これは安倍に対する籠池の言動、さらには障碍者施設で発生した大量殺傷事件の容疑者が殺害は国のための行為で、「安倍晋三様」に伝えてほしい旨が書かれたものを衆議院議長公邸に届けたということも彷彿とさせる。要するに、実質的に種をまいているのはトランプであり安倍なのである。元凶である彼らのその場限りの大衆受けする空疎なワードの連鎖にたやすく取り込まれるのは決まって浅薄な単細胞的な貧困層であるが、山師の類もまた多い。そして、彼らに取り込まれた者たちはいつしか「突撃隊」のような役割をすることで自らの存在理由を見出そうとするが、その結果次第、あるいは状況次第ではたやすく切り捨てられるのが常なのである。ツイッターなどを見ていてもその内容から貧困層のものであろうと思われるものはかなりある。その多くはやはり「突撃隊」予備軍のようなものである。

                                                                                                                   2017 8/15

 


733.史上最低の、大統領と首相と


 史上最低の、大統領と首相と、そして狂った北の窮鼠と。史上最低というのは史上最悪でもある。これだけ重なると何が起こっても不思議ではないが、トリガーを引けば、すなわち「ボタン」を押せばその時がすべての最期の始まりであることは確実である。「戦争は現地で起きる。大勢死ぬとしても向こうで死ぬ。こちら(米国)で死ぬわけではない」とトランプは言ったそうであるが、こういう見方は何も彼だけではなく基本的に彼らの中にあるといってもいい。ただし、今後の起こり得る戦争、それも「北の窮鼠」との戦争は、ICBM,核弾頭付き弾道ミサイル、などを持っていなかったフセイン、カダフィーなどとの戦闘とは根本的に違う。米本土が直接狙われる可能性があるということである。その前に潰してしまえということであれば、窮鼠が何をするか、韓国、日本の被害は想像を絶するものとなることは確かであろう。「軍産複合体」にとっては、好ましい方向でもあろうが、今回は同時に終焉を迎えることにもなり得る。「軍産複合体」の「狂人」を仕立てておいて刈るという今までの常套パターンも通用しなくなってきている。戦争などはどのようなことを言ってみても愚者の所業なのである。「守る」、「防ぐ」などと言ってはいてもいつしか「攻撃」に移行しているのが現実の常である。戦争が人間の無限の愚かしさの証左であることについては敢えてここで言う必要もあるまい。日本には「平和ボケしたタカ派」と「平和ボケしたハト派」しかいないというのも難点ではあるが、一番危険なのは「平和ボケしたタカ派」の言動である。それは軍産複合体と容易にリンクする。要するに、戦争屋の太鼓持ち、野太鼓の類で、彼らは言うだけで制御などはまったくできない。その怪しげな言うだけの正論とやらに乗せられれば命はいくつあっても足りないということになる。もっとも「着飾った」無駄死がお望みなら話は別である。

戦争屋 : 先生、また最近、平和主義が幅をきかせてきましたね、何とかうまい具合にそういう偏った風潮ひっくりかえせませんか。

先生:   平和主義が偏っていることをわからせればいいだけのこと。「ガラパゴス平和主義」なんてのもあったが、まあ考えてみよう。どこを刺激すれば効果が上がるかやってみましょう。

 こんなやりとりが、それこそ至る所で行われているだろうことはよくわかる。

                                2017 8/12

                                                              、

 


732.「承認欲求」ということ


 誰かに認めてもらいたいという欲求、願望は大なり小なり誰でもが持っている「欲望」でもあろう。大なり小なりというのはそれなりに幅があるということでもある。中には他者の「承認」がそのまま自己の存在理由のような人間もいれば、他者の思惑などどこ吹く風のように見せることができる者までと様々である。例えば、「SNS」などの売り文句でもある「友達を輪を広げよう」式の「安易なつながり」には、当初から様々な問題を感じていたので私はそのようなシステム自体に距離を置いていたが、案の定「SNS」などが持っている「承認欲求」ともいうべき一種の「罠」に自らハマって身動きが付かなくなっている者たちが後を絶たないようである。それが現在様々な問題ともなっているが、私に言わせれば、すべてが安易過ぎるということでしかない。「思い込み」、「安手の自己愛、自己顕示」、「友達の輪」、「絆」等々、それらが「視聴率」のように数値化もされ、あたかも現実に「実体化されたもの」として現実の自分自身に帰ってきていると錯覚する。そもそも、そこに「何かある」と思うことが幻想なのである。実は何もないに等しいと言ってもいいくらいである。これは以前にも書いたが、そこで実質的に利する者とは当事者ではなく情報管理者とそれを「商売」にしている者たちだけである。そのようなことを充分承知の上で行う、しっかりと自恃の念を持っている者であるなら「承認欲求の罠」などにハマることもなく自由自在な境地は常に確保されるはずである。要するに、いちいち他人に同意を求めるのではなく冷静に「自分の位置」で自分自身を見つめることができればそれでよいのである。そうであれば意見、見解の違い、共有などは照合の内に底が見えてくる。そこでは、人に言いくるめられることもなければ、逆に言いくるめることもない。

                                2017 8/7

 


731.「内閣人事局」


 内閣人事局を発足させたのは稲田朋美で、菅義偉と組んで実現させたものということである。これは内閣に官僚の生殺与奪の権限を与えたようなものである。官僚が命乞いするように虚言を吐くのも避けられない現実の一面である。「政治家が人事をやってはいけない。」(福田康夫元首相)、それも質の悪い政治家なら尚の事であろう。このような事態がやはり「国家の破壊に近づいている」と危惧されるところである。

 内閣人事局の強化も、日本の政治を官僚主導から政治主導に変えるためにアメリカの制度を「マネ」したものだが、あくまで「マネ」だけで、政治任用に関しても議会のチェックが健全に働かない日本では行政機関の独立性は保たれないのである。そこでは国民不在の「忖度」だけがまかり通ることになる。

 三権分立とは言うまでもなく、国民の政治的自由を保障するためのものであるが、この政権はまったくすべてが逆行しているのである。だから「国家の破壊」に向かっていると言われるのである。

 やがては沈む 泥船の 行方知らずも 沈むさまさえ  見届けんとす

泥船に乘った者たちの最後の微笑みである。

                                   2017 8/3


730.最近、よくわかること


 最近、よくわかるというか、身を切りるように思い知らされることは、やはり人間の愚かさが無限であるということである。愚行はありとあらゆる手段で粉飾されるのが常である。空疎な言葉、虚言にわらにもすがる思いで飛びつくのもわからないでもないが、そこには実のところ何もない。しかし、その営為、所業でもたらされる弊害は計り知れず、それこそ無限大に拡散し、「人間」の終焉を近づける。そして、今すでに「人間」は終わっていると解釈する方が楽なくらいである。

 

                                    2017 8/1


729.「科学的特性マップ」とは、すなわち「亡国マップ」


 経済産業省資源エネルギー庁が作り、発表している「科学的特性マップ」を見て少なからず薄気味悪さを感じた人は多いことであろう。それが普通というものである。科学的特性マップ公表用サイトには、「原子力発電に伴って発生する『高レベル放射性廃棄物』は、将来世代に負担を先送りしないよう、現世代の責任で、地下深くの安定した岩盤に埋没する(=地層処分する)必要がある。」とある。原子力発電を続ける限り日本全国に「高レベル放射性廃棄物」が埋められることになるのである。放射性物質についても地殻変動についても、そのエネルギーは人知をはるかに超えている。どのような専門家であろうと、それについては結論を出せないのが実情である。地震大国の小さな島国に原発以外に、高レベル放射性廃棄物の地層処分である。地殻変動で異常隆起が起こり地層処分された高レベル放射性廃棄物が地表に押し出されたらどうするのか。人知をはるかに超えているとはそういうことなのである。

 将来世代に負担をかけないというのであれば、即刻止めて、廃棄物の量を最小限に抑えて地層処分というのがしかるべき現実的な方法であろう。再稼働などとはとんでもない、それを推し進める者とはどのようなことを言ってみても、後は野となれ山となれの亡国の徒であるという誹りは免れない。

                                   2017 7/29

「ある日、その時」(65)6月21日ー

<掲載内容>

721.歴史への冒涜とはかくのごとし 722、「講演会」などに何かあるのか? 723.ファッショの「お飾り」724.投票率51.27%でも低過ぎる 725.無党派層を棄権に追いやる者たち 726.「こんな人たちに・・・」727.無党派層が落選運動すればいいだけのこと 728.一点の曇りもなく真っ黒

 

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728.一点の曇りもなく真っ黒


 閉会中審査、これで「一点の曇りもなく」真っ黒であったことが明確になったということである。何をどう言ったところで、言えば言うほどその「黒さ」は増すばかりである。

山口4区、神奈川2区、島根2区、東京3区、8区、11区、24区、16区、福岡8区、10区、和歌山3区、福井1区、秋田2区、愛媛1区、まだまだあるがそれは各自が調べればよいこと。もし彼らが再び登場すれば選挙区の有権者の責任である。中には戦前からの巨大な闇を背負った者もいるが、これ以上闇を大きくしないためにも彼らに居場所を与えてはならない。それが主権者の務めである。ヒットラーの手法でやればいいなどと平然と言った麻生なども、戦前から忌まわしい過去を持つ麻生炭鉱(現「麻生セメント」)、その麻生財閥の三代目当主であったことからも「ヒットラーの手法云々」などは極自然に出てくる言葉なのである。安倍の「こんな人たちに負けるわけにいかない」と言うのと同質である。このような人間たちが今なお政権の中心にいること自体が、それこそ不可思議な「取り残された島国」なのである。なぜ麻生が福岡8区なのか調べればすぐにわかること。

  最近、底の割れている「作家」だの、「評論家」などと称する者たちが、まことしやかに「分析」、「評論」などを書いているようだがどれも参考にするほどのこともない。特に、手を変え品を変えた「憲法論議」、中でもその改憲の方向に向けた微に入り細をうがったような手の込んだ「論述」、それ自体にすでにその安っぽい核心部分が透けて見えているのである。

                                2017 7/24


727.無党派層が落選運動すればいいだけのこと


 落選運動するターゲットはもうすでにチェック済みであろう。「許せない者」は落とせばいいだけのことである。彼らに主権者の存在意義を思い知らせるにはそれしかない。適当な人物がいることに越したことはないが、そのような人物がいないからと言って放棄すれば、それこそ口八丁手八丁のいかさま師の思うつぼである。適当な人がいるかどうかより、まず現実的にも「許せない者」をいかに引きずり下ろすかが最優先問題なのである。そうしない限り「闇」はますます大きくなるばかりで、手の付けられないものになってしまう。ほんとうに自分の意に沿う候補者など現実的にはほとんどいないというのが実情でもあろう、しかし「許せぬ者」を放置すればやがて自分の首も危うい、そのような時、「許せぬ者」と対峙する者に投票するという選択肢もあるという「大人」の選択、政治家以上に政治的な国民になること、その時に初めて国民は主権者らしき者になるのかもしれない。国民にとって、ほんとうに適当な人物とは自ずと育つものであり、また国民が育てなくてはならない。訳のわからぬ三百代言風の「出来合いのもの」にすべてを託していてはとんでもないことになってしまうことを今回の「安倍一座」の「三文芝居」はいやというほど見せつけてくれたのである。今後、「座長」の首をすげ替えただけで済む問題ではない。「座員」すなわち関係閣僚は一蓮托生を覚悟すべきである。

 落選運動と不買運動、これが主権者としては効果のある奥ゆかしい最強の方法でもある。落選運動にしても、不買運動にしてもアイデア次第でその効果はさらに期待できる。「相手」は話したところでわかる「相手」ではない、妄執にとらわれた者たちである。具体的に目に物見せるしかないのである。巷では、「論破」、「正論」などと「お子ちゃまたち」がかまびすしいということであるが、そんなことは「物好き」にやらせておけばいいだけのこと。要するに、主権者たる国民を騙し、裏切る者たちを二度と国会の場に立たせないこと。それだけのことである。

                                                                                                        2017 7/10


726.「こんな人たちに・・・」


 周知のとおり、「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないのです」と叫んだ御仁についてである。もうすでに様々な分析、反応がでていて、その中には的を射たものから御用の筋の皮相なものまでと幅もある。私は、この御仁のすべてがここに隠されていると思っている。すなわち、彼には幼少期の岸信介の時代から「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないのです」という言葉は周囲によって呪文のように刷り込まれていたのである。「こんな人たち」とは、「選民的」に選ばれた自分たちとは異なる、「安保反対」を叫ぶ者たちであったり、ある時は一般庶民でもある。また、彼の意識にある「私たち」とは単に彼の所属する政党だけを言っているわけでも、もちろん一般市民を代表して言っているわけでもない。彼の中にある「こんな人たち」とは「選ばれた」自分たちの「意思」に逆らう「非国民」的存在に過ぎないのである。現にあの場で「安倍やめろ」のプラカードを持っていた年配の女性に「お前は朝鮮人か」と言ってすごんでいる安倍支持者の様子が映し出されてもいた。「負けるわけにはいかない」、これを選挙中の単なる選挙の勝ち負けを意味するように収めようとする向きもあるようだが、「節穴」、「浅薄」、「寿司友」の類であろう。これは窮地に立たされ、さらに直面しざるを得なくなった現実に向かって思わず放たれた長年培われた呪詛である。それは国民全体(すくなくとも90%以上)に向けられた宣戦布告でもある。言ってみれば、「美しい日本を守る」とはこのような者の呪詛の裏返しなのである。

 わかりやすくもう一度繰り返すと、「こんな人たち」とは、自分に刃向かう、あるいは自分を認めないすべての国民、「私たち」とは一族、同族のことで、間違ってもこの演説を聞いている多くの国民ではあり得ないということである。そこを取り違えると気付いた時には首が反転していることにもなる。

                             2017 7/6


725.無党派層を棄権に追いやる者たち


 実際、無党派層が選挙権を行使したくなるような人材がいないというのもわかるが、だからといって、それで実質的に自分たちと敵対するものたちをのさばらせることになっては自分が唯一持っている参政権の意味があるまい。選挙権をどう使うか、それが問題なのである。「ジャーナリスト」、「評論家」と称する者たちが「裏事情」をからませて「知ったようなこと」を言い、「誘導尋問」まがいのことをして混乱させたり、確信犯的行為を行っている者もいる。どちらにしても無党派層の参政権をできるだけ奪うことを主眼と考えている節がある。それは詭弁の類を駆使し、混乱させ、必要以上に面倒くさくさせ、できるだけ選挙権行使から足を遠のかせることである。現在の無党派層の状態は彼らにまんまとはめられている状態でもある。「政治家」が実際に行った事、やろうとした事について、「イエス」か「ノー」かそれだけである。それ以外は「弁解」、「謝罪」も含め一切関係ない。後は誰を選べば「イエス」になるのか「ノー」になるかというだけのことである。今回の都議会選挙の結果についても早速、「新人ばかりで不安」の声などと言うことを流していたが、一体誰が言っているのか、良ければそれを育てるのが主権者の務めでもある。出来合いの「政治家」については今まで何をやっていたのかが問題となるだけである。今回の選挙結果も、「主権者」をさんざん踏みにじったことに対する、その抗議の結果であろう。その結果について、存在理由も不明の「ジャーナリスト」田原何某が「ヴィジョンがない」とくる。それは「あんただ」とつい言いたくもなるが、実質的に、この手の者たち(※)が無理なく無党派層を棄権に導く「風」を作っているのである。それ以外にも「プラトニック枕営業」の得意な「政治家」、「評論家」、「心理学者」等々、取捨選択能力もなく彼らの言葉に頼り過ぎると彼らの罠にすぐにはまることになる。無党派層の参政権不履行も「自身の判断」と思わされていると言った方が正確であろう。実は緻密に計算され、「判断停止」状態、あるいは「自由意志」が作り出されているという面もある。それは催眠術的詐術と言ってもよい。

 こうした状況を作り出す一翼を担っている心理学者についても、少しだけ触れると、「意見をはっきりさせることも大切だが、時にはあいまいなまま、白か黒かで判断しないあいまいなままの受容は心の健康の一つなのだ」という見解がそのスタンスをよく物語っているであろう。要するに、心理学的解釈で何かわかったような気になるのは錯覚で危険でもある。それは「あれは月です」と言われて月そのものがわかったつもりになるのと同様である。「ブーメラン効果」なども同じである。そもそも「心理学」などは「第二学問」で一義的で本質的なものは何もない。したがって、詭弁、詐術の手段としても使われることも多々あるということである。

(※)「この手の者たち」については、この間の言動を基に具体的に名前を挙げられるが、それは各自が調べればよいこと。余程のことがない限り、趣旨に反することは避ける。

                                2017 7/5

 


724.投票率51.27%でも低過ぎる


 これだけの事があってまだ投票率51.27%とは低過ぎる。60%はあっても不思議ではないだろう。自民党が歴史的な大敗するなどとは当然のことで、どうでもいいこと。議席23でも多過ぎる。自民党などがやりたい放題闊歩しているのもすべては無党派層の選挙権放棄の責任であるというのは周知のことでもあろう。60%の投票率ではもともと自民党などは一挙に片隅に押しやられるような存在なのである。「落とせるものなら落としてみろ」と言っていたものが今度はしおらしく「厳しい結果を謙虚に受け止めて初心にかえって」云々、そんなことより、もういいから辞めなさいと多くの者たちが言っているのである。しかし、まだほんとうにはわかっていないようだ。要するに、もはや問答無用なのである。彼らには私利私欲以外には、実はもっともらしい明日などないということを見抜かれているのである。だから、今後もやればやるほどボロを出すことになるだろう。そう、私利私欲以外はボロしかないので常に取り繕うのである。今や彼にとって政治とは「取り繕い」そのものになっているのである。彼らの言う過去も現在も未来さえもすべて「取り繕い」なのである。

                                  2017 7/3


723.ファッショの「お飾り」


 現在の政権については、多くを語る必要もないほどファッショ化は進んでいるということはどこを見てもうかがい知ることができる。それは多くの者が感じていることでもあろう。そこにはまた一方でマフィア的に浸透している「日本会議」の存在もある。「有るような無いような」日本精神、言ってみれば大衆受けするような浅薄な「精神」を誇大増幅させて、それを拠り所に互助会的に拡大されている組織でもある。要するに利権の組織内分配で絶対に部外者、すなわち一般国民は外されているのである。親分子分の「契り」を結べば、憲法違反だろうが、法律違反だろうが「力」でかばうという構造である。国民としてはこれ以上彼らの思うがままにしておいては決して身のためにならないことだけは火を見るより明らかである。少なくとも、今、我々は民主主義国家の中に「いるはずである」。それにしてもファッショの「お飾り」でしかなような評論家、学者、ジャーナリスト、作家、俳優、タレントなどの有象無象の手の込んだ「小細工」の数々、微に入り細を穿つ涙ぐましい「努力」、生きるためとは言え無益な「営み」である。そこには新た「発見」などまったくあり得ない。

                                  2017 7/1


722「.講演会」などに何かあるのか?


 私などは、今まで講演会なるものに行ったことがない。その人間の書いたもの、言ったことなどをみれば一目瞭然で、それ以上のものに興味がないからである。実際に以前、ある著名な作家が自らの講演に来た者たちに講演会などに来る時間あるならやるべきことがあるだろうというようなこと言ったことがあった。因みに、私はその講演会にも行っていない。それは後で文書で知ったことである。最近では、講演を「キャンセル」された、「言論弾圧」があったなどと騒いでいる者たちがいたが、転んでもただでは起きない根性は見上げたものであるが直接的にも間接的にも権力の介入として言論弾圧があったわけではない。講演会を主催する方も、受ける方も実のところ安易な、「小商売」程度の領域で問題意識も緊張感にも欠けるからそのようなことになるのである。「左翼系」の者たちから「抗議」があった、「右翼系」の者たちから「抗議」あったなどということで腰砕けになっていたのでは話にならない。その程度のものなのであろう。「」をつけたのは実態が不明であるからである。主催する方も興味本位のテレビの「2級」ディレクター並み、受ける方も顔をつなげるものならバライティーでも何でもいいというような感覚なのであろう。どちらにしても講演会などで得るものはないという証左でもある。お笑い芸人の芸もない「客いじり」で「なんぼ」の世界と大した変わりはない。

                                2017 6/26


 721.歴史への冒涜とはかくのごとし


  日々見せつけられている公文書の隠ぺい、変造等々。このようなことが平然とまかり通っている現状を見れば、過去のある時期の歴史を都合のよいように変形、歪曲することなどいかに容易であるかが手に取るようにわかる。それはやはり何をどのように言い尽くしても歴史認識としては決定的瑕疵(かし)を持つ。やがてその瑕疵自体が増殖し新たな展開可能なあるべき真の営為、世界観までも台無しにするということになる。ここまで露骨にねつ造、隠ぺい、すなわち歴史への冒涜が行われているのを現前で見続けることになるとは、「ある意図」を持った者が歴史を読み変え変形させていく過程を今現前で生々しく見せつけられているのである。読み取る側にもそれなりの知的レベルと想像力があればどのような状態であっても見抜くことは可能であるが、大方は残念ながら与えられたデーターの読み込みさえままにならず、さらには想像力さえおぼつかない。そこで、今までの悪しきマインドコントロールを解くとばかりに三百代言風の大口のマインドコントロールを施されると 今まで個的な別問題で委縮していた自身にも力がみなぎるようにも思われ、いつしか内なる「自虐的なるもの」も「他虐」的なものへと転化され、大したいわれもない「全能感」に満たされる。それは、愚者の安易で怠惰なありふれた経緯でもあるが、歴史への冒涜とは、「目をつぶされ」、「耳をふさがれた」愚者を思うがままにその気にさせ巻き込む陳腐な常套手段ともいえる。一部の賢い亡者たちにとって愚者とは「人間」ではなく、自由に操れる「エネルギー」の一部に過ぎない。彼らが愚者に対して必要以上に「人間主義的」なものを口にし、それを全面に出す時、それは愚者がエネルギーとして燃やされる最期の時でもあるということである。

                               2017 6/24

「ある日、その時」(64)6月3日ー

<掲載内容>

713.「いじめ」はその土地の文化レベルの指標 714.読売の社会部長が反論?715.「主犯格」が素直に自白するか?716.「バライティはくだらない」717.「日本会議」との関連性はチェックポイント718.「面従腹背」とは、また正直過ぎて 719.自由におびえる者たち 720.「中枢の狂謀罪」の方が先決

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720.「中枢の狂謀罪」の方が先決


 「共謀罪」を成立させるより、現在の日本の中枢の「狂謀罪」を成立させる方が先であろうと思われる。誰が見ても、明らかに「オカシイ」、「狂っている」、「尋常ではない」、「異常だ」と思われることが平然と行われているのであるからそれは当然のことでもある。陰謀が渦巻く現政権にまず真っ先に「共謀罪」が適用されてしかるべきであろう。それは「狂謀罪」という名がふさわしい。

 その内に、実例のとおり、自分の娘が強姦されても、犯人がわかっていても場合によっては犯人逮捕はできないということにもなる。また、居酒屋で政府のこと、アベ、ガースについての話など、どちらにしても100%不満、批判になるであろが、その帰り道、公園で立小便しただけで任意同行、やがて逮捕ということもあり得るということである。「共謀罪」を運用する側に「良識」を求める方が土台無理なことくらいはこの間で証明済であろう、「良識」云々などはそれこそ「人間」を知らぬ、何のために法規があるかもわからぬオメデタイ者の放言である。それこそ「オメデタサ」の極み。

                                2017 6/17


719.自由におびえる者たち


 国有地を我が物顔に「知人」、「友人」、尻尾を振る「関係者」・「団体」に「分配」する。内閣府に難色を示す者は容赦なく処分する。スポーツの祭りに合わせて「共謀罪」を成立させ、さらには改憲までもしようとする。どこの国に「体育祭」に合わせて悪法を成立させ、国の根本法まで変えようとする国がある。あったとするなら、世界史から抹殺しなくてはならぬ例の国(ナチスドイツ)だけであろう。その徹底した反省、教訓化があるからそのような在り方が見えてくると世界は警戒するのである。先進国の中で「あってはならぬ方向」にあたかもそれに「義」があるごとく「オメデタイ健全さ」で推し進めているのは日本だけである。このようなおバカな者たちに二度と政治をさせてはならない。他にいないからといって「犯罪者」に政治をさせてどうするのか。確実にやられるゾ。だから、名前と顔、所業を彼ら以上に監視、銘記すべきなのである。それだけが我々の武器である。もし、それを忘れるなら何をされても仕方あるまい。

「岩盤に穴をあけて」なだれ込むのは、現内閣の大方が所属している例のマフィア化した日本会議の関係者だけであろう。要するに、国民など埒外で、私利私欲だけというのは彼らの所業を見れば明らかなのである。しかし、ここまで露骨なのも前代未聞。

                               2017 6/16


718.「面従腹背」とは、また正直過ぎて


 これも少し前の話題になってしまったが、前川・前文科事務次官が言ったこととして取り上げられ、ここぞとばかりに柄にもない者たちが彼に集中砲火を彼に浴びせていた。よき「政」を行っているのであれば「面従腹背」とは悪しき者ということになるが、糊塗、ねつ造、隠ぺい、すり替え、虚偽が日常茶飯事に行われている「犯罪的な」政権において面従腹背とは当然のことであろう。悪しき「政」を行う者たちに対して行う面従腹背とは、ごく自然な「普通」のことであると思われる。そうでないと言うのであれば、狂っているか、ウソを本当であると思い込める者か、単なる「パシリ」、すなわち走狗である。

 最近では、「岩盤規制を突破」などと勇ましいことを言っているようだが、何のことはない、辛うじてあった「公平性」を自分たちだけ、国民などは論外、この場合は自分の「お友達だけ」に都合のいいようにするということを言っているに過ぎないのである。

「国家戦略特区諮問会議」(議長・安倍晋三)の民間議員を務める八田達夫が内閣府で記者会見し「加計問題」について、「政策判断、規制改革のプロセスには一点の曇りもない」と述べたとある。この民間議員の中にはあの竹中平蔵などもいる(しかし、どこにでも顔を出す男である。)。結局、規制の合理性の根拠を示せなかった文部科学省に責任があるという落ちである。だから、自分たちは「岩盤規制の突破」をしたのだというところに持っていきたいのであろう。「まあ、お上手、お上手」とほめそやしたくなるような糊塗、ねつ造。「有識者」たちの議長におもねった自己陶酔気味の悪だくみも見事過ぎて現実離れしたおとぎ話、夢物語に近い。自分の行為をここまで粉飾しざるを得ないとはあまりにも醜悪であり、稚拙である。真摯なところが皆無というのも前代未聞である。馬脚をあらわしているにもかかわらず、今度は馬脚が堂々とあいさつしているようなものである。 

                                 2017 6/13


717.「日本会議」との関連性はチェックポイント


 今後、その人物が「日本会議」に関連しているかどうかは大きなチェックポイントになるであろう。この間に見えてきたことから言えば、この組織は、「大和心」に象徴される、ある種「不明瞭なもの」に「帰依する」ことによって日本人である「証」を作り出し、それを錦の御旗として信奉するカルト的な「互助会」と見ることもできる。「安直」であるという意味では「現世ご利益」と同様で、それこそ「安直に」広まり易い。しかし、この組織が目指す方向はたとえ民主主義を装っていても必然的に民主主義とは正反対とならざるを得ない。中枢の一部の指導部(者)とそれに付き従う信奉者、すなわち臣民となった大衆である。このような「質」を持つ組織の一員ということは、たとえ個人的には「ご利益」を得るだけが目的であったせよ組織自体の「力」によって、反民主主義の方向に引きずられていくのである。やはり、「日本会議」と関連する人物とは実質的に民主主義を否定する人物ということにならざるを得ない。それは、当然、民主主義的立場からすれば「要注意人物」ということになる。このような組織に入ることで安易に「日本人であること」の証を求めること自体が安手な「日本主義」なのである。もし、「日本人であること」がそのように偏狭なレベルであるなら、あらゆる面でさらなる展開はありえず、深まりようもあるまい。いわんや世界を一つの家するなどというカルト世界にも頻出しうる八紘一宇などという言葉を再び自己正当化に遣う神経は、展開どころか錯誤と後退しかもたらしようがないということである。日本古来の穏やかで度量の在る精神、美意識すら歪めて拡大乱反射させてしまった平田神道などを根拠に何を再び蒸し返そうとするのか、その愚かしい自己完結は、本来、日本人が持ち得たものを損なう方向でしかない。

                                 2017 6/10

 「日本会議」を丁寧に捉えれば以上のようになるが、そこに所属する大方にとっては権力にどこかでリンクする利権がらみの「互助会」で、「おいしい思い」、「夢よもう一度」程度のことであろう。言ってみれば、それが日本流マフィアを形成しているのである。もっともらしい「お題目」に反して、ここに所属している大方の者の下心は見え見えである。とにもかくにも要注意であることに間違いはない。


716.「バライティはくだらない」


 何も倉本聰が敢えて言わなくても大方の思慮ある者はそう思っている。バライティなどに出演して自分は何者かであるがごとくに思っていること自体が大きな間違いなのである。それは閉ざされた無思慮な者たちによって「ささえられている」だけのことである。さらに言えば、その無思慮な者たちの単なる粗悪な「おもちゃ」に過ぎないということでもある。したがって、そこで何か言ってそれが多くの者に受け入れられていると思っていると勘違いも甚だしいというところであろう。物事をきちんと見ている者とっては「バライティ」などは無用の長物以外の何ものでもない。ただ、バカの確認のし合いが妙な「空気」を作り出し、それがいつの間にかあたかも揺るぎのない「共通認識」のようになりうることもある。それが危ういのである。「バライティはくだらない」、そこに何か「意義」を見出そうとすること自体が、地獄の底でへらへら笑っているような「おめでたさ」を引き出す。言ってみれば、「病的な」能天気さを作り出すである。しかし、これで誰が「一番」喜ぶのか、それは実は視聴者ではないことはわかりきったこと。バカが多ければ多いほど、あるいはいつまでも寝ていてもらった方が事を進めやすい者たちが確実にいるのである。「バライティ」には、倉本聰が敢えて言いたくなるような単に「くだらなさ」以上の「もの」がある。それについて、また「お笑い芸人」が噛みついていたが、やはりわかっていない。意識の問題ではなく、存在自体、その在り様が走狗であるということなのである。これ以上、走狗の「互助会員」を相手に何を言っても埒は明くまい。また言うつもりもない。「バライティはくだらない」、見るも無残、「お笑い芸人」も同様、ただそれだけのこと。無視すればいいのであるがそれによって「作り出されたもの」が身近でうるさくなるからつい言いたくなるのである。

                                     2017 6/7


715.「主犯格」が素直に自白するか?


 「主犯格」が素直に自白するか? いわんや権力を持っている人間が、「ハイ、そのとおりです」などと言うはずがないということはわかりきったこと。すなわち、ウソをつき通すということである。恥知らずであれば尚更である。いちいち彼らの弁解、意見など聞く必要もない。判断するのは彼らでもマスメディアでもない主権者である。生きている時は政治屋に身をまかせ、死ぬときは坊主にまかせていたら、何もかもぼったくられるだけなのである。たまには主権者として生きている重みを感じなくては人生も面白味もあるまい。何かと言えば左だ、右だと振り分ける騒々しいだけの空疎なパシリは無視して、是(道理にかなったこと)は是とし、非は非として思ったところを押し通せばいいだけのことである。

                                                                                                           2017 6/6

 


714.読売の社会部長が反論?


 読売新聞(5月22日付)が前川前次官の出会い系バー通いについてスクープした記事についてであるが、読売は、5月3日付けの朝刊で原口隆則社会部長の名前で「反論文」を掲載した。結論から言えば、堕ち続ける者の悪あがきという一言である。「反論文」を出そうが出すまいがさして変わりはしないが、それについて言えば言うほど読売がいかに安倍政権とべったりかということを白日の下にさらすことになるのである。「加計疑惑とは全く別問題である。私たちはこれからも政権・行政の監視という報道機関の役割をはたしていく」、スクープ記事については「報道すべき公共の関心事、公益目的にもかなう」などとどこまでもその正当性を述べるに至っては、それなら「証明してみろ!」とでも言いたくもなる。国民の関心事、公益目的に関しても常に政権の顔色を窺いながら取り上げてきたものがここにきて「加計疑惑とは全く別問題である」、そんなことが通用するとでも思っているのか、もしそれで通るなら読売の読者とは完全にバカ扱いされているのである。言うだけなら何とでも言える、そのことも安倍、菅と同様である。そして、「反論内容」が、これまた安倍・菅のシンタックス、レトリックそのままで区別がつかない程である。我々は彼らの言動、表情、発話、一挙手一投足に至るまで監視している。監視するのは権力側ではない我々国民一人一人であることを思い知らせなくてはなるまい。

                               2017 6/4

 


713.「いじめ」はその土地の文化レベルの指標


 最近のいじめを苦に自殺した中学生の事例を見ても、教育関係者の怠慢は敢えて言うまでもないが、やはりその土地の親たちが、すなわち周囲の大人たち作り出しているとしか思えないのである。要するに、その「地域」の大人たちの「生き方」そのものが必然的に「いじめる」子供達をつくっているのである。子供は親の言動をよく見て、そのすべて吸収している。したがって、「いじめ」の元凶を追っていけばその「地域」の親たち、周囲の大人が作り出している「もの」ということになるのである。そして、いつも、いじめの対象は、おとなしい、繊細で真面目な子供なのである。実際に、親たちが自分の子供に対して、人を殺してはいけないこと、ウソをついてはいけないことなど根本的なことを「きちんと」ほんとうに教えられるのか。「きちんと」ほんとうにとは、言うだけではなく身をもってということである。そんなことは「当たり前なこと」として、ばか笑いに興じ、空気を読む小手先ばかりの処世術と金計算ばかりを考えている親では、その子も同様であるが、「当たり前なこと」「根本的なこと」はいつの間にか抜け落ちているのである。それは本来なら自分自身をも救うものを結果的には殺していることにしかならないのである。やがて、その子供からごく「自然に」同じような仕打ちをされることになる。子供(=親、大人)たちが「いじめの対象」にしていた「もの」とは、実はそれを大切にすれば自身を救うことにもなるものであったことを忘れているのである。

 以上のような意味で、「いじめ」が問題となっている地域の人々の状況がどのようなものかは具体的にもよくわかる。子供のことを考えるなら孟母三遷ではないが私なら決してそのような地域には移り住まない。いい子であればあるほで悲惨なことになるのは目に見えているからである。私自身もそんな大人たちのそばにはいたくない。

 ピアニストになるのが夢であったという子供を殺した「地域」に対しても、文化衰退の歯止めが効かないどころか実質的に文化抹殺の方向でしか事を成しえない者たちに対しても無性に怒りがこみあげてくるのである。この「地域」というのは当然国の現状の縮図でもある。ただ、地域によってはその影響の度合いが比較的少ない「地域」もあるということに過ぎない。

                               2017 6/3

「ある日、その時」(63)5月14日ー

<掲載内容>

705.「トランプが何をするかわからない」?706.「子育てで何が重要か?」707.主計大尉に何がわかる?708.「強行採決」ー俺様詐欺ー 709.国連特別報告者の指摘 710.えげつない官邸である 711.北朝鮮のミサイルで「騒いで」どうする?712.主権者に忖度は必要なし

                                                                                                                         <転載・複製厳禁>



712.主権者に忖度は必要なし


「御用コメンテーター」の量もさることながら、「笑えない」「お笑い芸人」が様々なジャンルに顔を出し、いっぱしのコメンテーター気取りである。思ったことを個人として言うことには何ら問題はないが、彼らの「主張」や「振る舞い」は飽くまでそれで飯を食っている「お笑い芸人」の立ち位置での物言いなのである。すなわち、「権力やスポンサーへのこびへつらい」から抜けきらぬままの「空気を読み」ながらの忖度渡世といってもいい。怖いものでそれがいつの間にか世の中一般の「規範」のようなものを形作ってしまっているのである。言ってみれば、彼らの存在そのものが権力の構造の補完として機能しているということである。「笑えない」「お笑い芸人」に何の意味がある。あるとすれば「御用」の提灯持ちくらいなものである。忖度の必要のない主権者になるにはそんな御用提灯は切って捨てるしかあるまい。もうすでに彼らの存在自体が目障りなのである。忖度に振り回されているより確固たる主権者に立ち返ることである。

                               2017 6/1


711.北朝鮮のミサイルで「騒いで」どうする?


 これは一体何に対する「援護射撃」かと思われるが、これで何がもっともらしく「粛々と」進むのかを見れば 謎は解ける。改憲、防衛費の拡大を「認めさせる」には絶好の機会でもあり、事象でもあり、その下準備ともなる。実際、ここぞとばかりの騒ぎようであるが、騒いでどうするのか?国民の下意識に戦闘の正当性を沈殿させて戦でも始める気なのか?米から武器を買いあさって、日米韓合同でどうする?ミサイルの落下地点のすぐ先には若狭湾の原発がある。原発のあるのは若狭湾だけではない。狭い国土のそこかしこに原発はあり、地震大国でもあり、食料自給率はきわめて低い上に人口の減少は歯止めもきかず、それも少子高齢社会。こんな状態では「自衛」すら、おぼつくまい。いつ梯子を外されてもおかしくない「日米同盟」、「あの」安倍と「あの」トランプが「気持ちが通じ合った」仲ならなおさら剣呑であろう。何もないに等しいが、それ以上に質が悪いはずである。

 ここにきて特に安倍の舞台設定には余念のない渡辺組の読売などの騒ぎようは尋常ではない。他紙も五十歩百歩で、朝日の論調が左派などと言っているようではお里もオツムも知れるというもの。

 しかし、このところ「御用コメンテーター」の類がやたらとかまびすしいが、類は友を呼ぶで、やはり安倍寄りの人物のいかがわしさは半端ではない。「御用」は余程「おいしい」のであろう。しかつめらしい語り口で何を言い出すかと思えば、現実の皮相部分をあたかも本質論に見せかけての論点すり替えの御託ばかりである。

                                             2017 5/29

 

                


710.えげつない官邸である


 どこまでもえげつない官邸である。何一つまともに答えることもなく。やばくなると陰でこそつきながら手あたり次第のえげつない攻撃に転ずる。提起された問題に対して、ひとつとしてまともに答えたことがない。ウソ、目くらまし、すり替え、隠ぺいは朝飯前で道学者気取りの物言い、提起された問題には答えようともしないで、問題をはぐらかす。黙って聞いていると、よくぬけぬけと言うなという内容ばかりである。それが事実であるかどうかなど彼らが勝手に決めることではない。「かん」だか「すが」だか知らぬが官房長官や安倍の言動、とても「日本人」であるとは思えないのである。要するに、「日本人」という範疇を外れて、恥を知らな過ぎるのである。「恥」は日本の重要な文化的要素でもある。その「恥」の領域が欠如しているのである。おそらく家系をさかのぼれば「日本人」ということも怪しいものであろう。DNAレベルの作りそのものが違う、「冷血」の度合い、色合いが違うのである。彼らだけではなく官邸周辺もすでに「日本人」以外の者たちに乗っ取られているのではないかとさえ思える時がある。経済最優先と言っている「経済動物」の割りには「反中」、「反韓」の姿勢に「妙に」こだわるのは「身内の骨肉の争い」が綿々と続いているとも思えるのである。距離を置く冷静な判断が取れるのであれば高度な外交も成り立つが、前頭葉に支障があるのではないかと思われるほどの感情過多では話にならない。彼らが主導する「共謀罪」「改憲」、考えただけでも身の毛がよだつというものである。下目を使った何食わぬな顔の菅の言動を見れば一目瞭然、へらへらしている内に場合によっては立ち小便してもしょっ引かれることになる。

 ここでは、民族主義、差別主義の器量のなさは論外で、日本人以外は認めないなどということを言っているわけではない。日本人の文化的差異を言っているだけである。日本人も冷血漢はいる、詐欺師、偽悪、偽善、アホ、バカ、クズの類、大中小の悪人もいる。そして、概して「悪」系の割合が多いほど感情過多の主張も多くなる。ただ、わかりやすく簡潔に言ってしまえば、その「度合い」、「色合い」が違うと言っているのである。

                                2017 5/26

 


709.国連特別報告者の指摘


 国連特別報告者とは国連人権理事会から任命された者である。その国連特別報告者が「共謀罪」の新設について指摘したことに対して日本政府が抗議したとある。抗議する以前に指摘された内容に答えるべきなのであるが、「日本政府の意見を聞かない」、「一方的な主張に過ぎない」と非難した。どちらが一方的で、意見を聞こうともしないかは明らかである。実際、日本政府の抗議文には国際組織犯罪防止条約加入のために共謀罪の新設が必要だという内容があるだけで、法案の欠陥に対する憂慮に対しては一言も言及がなかったということである。指摘されたことには何も答えず、逆に抗議しているのである。ほんとうに一事が万事の「何でもあり」内閣である。今でも世界的には肝心なところは蚊帳の外であるが、こんな調子では今後はさらに孤立化の道を辿らざるを得まい。この政府の発信することをまともに受ける人はもはやいないと思うが、説明を求めても無駄であろう。状況証拠もあり、物的証拠もある「犯人」が黙秘と「目くらまし」を繰り返しているようなものである。

 オリンピックという「お祭り」を目指して改憲、共謀罪の成立。このまま行けば、2020年の東京オリンピックは忘れえぬ忌まわしき事の始まりとなるだろう。

「共謀罪」成立によって「何で、私が?」ということがそこかしこで起こることであろう。

                               2017 5/24 5/26

※他の国連特別報告者には日本政府は叙勲を行っていたということである。叙勲も口封じには便利なのであろう。


708.「強行採決」ー俺様詐欺ー


 「俺様」を作り上げてしまったのも国民である。詐欺師としか言いようのない言動の数々、そして理不尽な「強行採決」を平然と行う。そのような状態にしてしまったのも国民である。今の国会の醜態はそのまま主権者たる国民の醜態でもある。どうにもならない国会議員ばかりを選び出してしまった者たちの責任である。真摯な姿勢を持つものと口八丁手八丁の詐欺師たちを見抜けない主権者たる国民の責任でもある。詐欺師は、だますためには「ありとあらゆること」をするから詐欺師なのである。放置すれば確実に選んだ者たちのすべてを搾り取ろうとする。そこまではしないだろうなどというあまい幻想は持たぬ方が賢明であろう。権力が集中し始めるとその周辺も含め、簡単に「人でなし」になっていくのである。一旦トリックに引っかかった者たちは手を変え品を変え時間をかけて骨の髄まで搾り取られることになる。詐欺師はその世界から完全に葬り去るより他に方法がないにもかかわらず、「A級戦犯」クラスの「だまし」をやっていた者がまたいつの間にか返り咲いているという妙な国情もそれを許している選挙民自身の問題としてある。もともと日本は「ポスト・トゥルース」で、客観的事実より「偽りの」感情や個人的「思い込み」の方が影響力を持つという国柄でもある。現に今の国情、国会の状態が露骨にそのことを示している。

                               2017 5/19

5月23日 「共謀罪」法案、衆院通過 自公維の賛成多数で可決。

 おのおの方、しかと覚悟をなされるがよかろう。糊塗、隠ぺい、ねつ造、虚偽の著しく多い「集団」から充分な説明もないまま怪しげな「薬」を強引に飲まされたようなものである。やがて、いばら垣を裸身で潜るようなことにもなりかねないことは容易に想像できる。今後のさらなる間断なき吟味、検証は不可欠であるが、もし少しでも手を緩めれば、忘れたころに一挙にその「薬」の効果は出てくるであろう。それが彼らの狙いでもある。


707.主計大尉に何がわかる?


 戦時中は主計大尉であった中曽根康弘は、自分は戦争を知っているというようなことを以前言っていたが、それは飽くまで主計大尉と言う立場での話である。彼は、砲火の中や血と汗と汚泥にまみれることもないところにいた者である。実際、一体何を知っているのかと思われるようなことも多い。戦争の悲惨さをいやと言うほど見せつけられた優秀であった者たちの多くは母国の土を二度と踏むことはなかった。彼らが生きていれば決して中曽根と同じ方向は取らなかったであろうということは容易に推測できる。要するに、中曽根の「戦争」についての「話」とは後方部隊で金計算、駆け引きしかしていなかった者たち、すなわち戦争を机上でしか行っていなかった者たちの「話し」である。言ってみれば、戦時中に「いい思い」をした連中の「夢よもう一度」に近い「話」なのである。そんな「話」に乘れば大多数の者は血と汚泥にまみれるだけである。老いた中曽根の顔には「戦争」を経たという「歴史」がない。それは刻み込まれるはずの「悲惨さ」の欠如でもある。そこにあるのは「非常時」をうまくかいくぐったという自己に対する驕りに近い思いしか見えてこない。最近の安倍との改憲協調路線は中曽根の内実をよく物語っている。

 両者の軽重の違いなど言わずもがなのこと。一方は効果がありそうだと思えば何にでも抱き着く、抱き着き詐欺師同様で、他方はそれなりに概念操作の鍛錬はなされているという違いはある。

 もし、安倍とは違うというのであれば、石破茂と同様に明確に一線を画すべきであろう。

                                2017 5/17


706.「子育てで何が重要か?」


 「子育てで何が重要か?」という「記者」の問いに、菅という「政治家」は即座に「私はやはり、ウソはついちゃダメだということだけはずっと言っていた」と答えたという。まさに不条理の極致であろう。その臆面のなさ、病的ともいえる欺瞞で満ち足りている。「一般人」であるならとてもついていける世界ではない。言っておくが、子供に「ウソはダメだ」と教えること自体は大事なことで、それについて問題にしているわけではない。ここで大いに引っかかるのは、「子育てで何が重要か?」と問われてこの政治家が「即答した」「ウソはダメだ」という文脈が流れ過ぎることである。それは出来過ぎているということでもある。それにもかかわらず、さらにわかりやすく言えば、巨大なウンコのようなウソのど真ん中にいる御仁が「子育て」について明敏に「ウソはダメ」だと言っているから臆面のない不条理なのである。

 「子育て」ということから少し離れて、ここでも見えることがある。それは、自分にはできないこと、やろうともしないことを平然と他者に強要するということである。この手の人間は、他人には「正直である」ことを求め、自分が詐術を弄することに対しては何とも思わぬのである。戦時中「生き恥をさらすな」と勇ましいことを国民には言っておきながら自らは生き恥をさらし生き長らえる類である。要する信用できない手合いの典型ともいえるのである。

 あたかも自分はウソをついたことがないかのごとく、つい何を柄にもないことを言っているのかと言いたくもなるが、そんな輩が実に多いのも実情である。実際、この御仁のどこを見て言っているのかわからないような下目気味で言うコメント、警察の取り調べ室なら「間違いなく」「黒」と判定される人物であろう。「父ちゃんの仕事はうまくウソを言うのが仕事なんだ」ということですべては正当化されるのか、やはりそれはどのようなことを言ってみても許されざることであることに変わりはあるまい。

                                 2017 5/16


705.「トランプが何をするかわからない」?


 当然であろう、トランプ本人が何をやっているかわからないのであるから。私は以前にもアベとトランプは同質であると言ったが、「人間的」にも重なり合うところはいくつもある。そのトランプの言いなりなのがアベである。アベの「この道しかない」というのはアメリカの言いなりになって同盟国などという範疇をはるかに超えて隷属国家のごとくかしずくことを意味する。憲法をいじくり回しているのもそのアメリカの意図をくみ取ってというよりアメリカの「至上命令」に近いものであろう。その方向を取っている限りつぶされることもないと思っているのである。実に安易である。要するに、憲法をアメリカの思惑通り変えて、世界各国アメリカ軍と共にどこへでもお供できるようにしたいのである。今後、日本人の戦死者が出てくるのは予想されることであるが、その時点では一般市民が抗議、反戦デモなどを企てても今度は「共謀罪」で事前に逮捕されるということになる。反対の意思表示すらできないことになるであろう。「お国の政策」に反対するものは一般市民ではなく「プロの市民」(?)ということで「共謀罪」適用。「親分、あいつ怪しいですぜ」、「そうか、しょっぴけ」三文時代劇さながらのことが現実の巷で繰り広げられることになる。

 

                                 2017 5/114

「ある日、その時」(62)4月22日ー5月12日

<掲載内容>

697.あわれ、この国は狂っている・・・698.「自主憲法」? 699.薄笑いの消えぬ人々 700.与謝野鉄幹・晶子の孫、だから?701.ワライダケ(笑茸)とテングダケ(天狗茸)だけでは 702.過去を美化する逃亡者 703.「対案を出せ」???704.「蚊帳の外」で「梯子を外されて」いる者

 

                                                                                                                            <転載・複製厳禁>



704.「蚊帳の外」で「梯子を外されて」いる者


 それは、大中小様々な世界の中で、見出される者たちでもあるが、「村八分」といったわかりやすいものでもなく、「のけ者」というほど露骨で幼稚な世界の在り様でもない。いつの間にか「蚊帳の外」にいるのである。と同時に必然的に「梯子は外されて」いるということになる。あまりにも自然なので本人も周囲さえも気が付かない。「蚊帳の外」にいることに気づかないというのはやはり自己を含めすべてに対する冷徹な認識が欠如しているからである。そうでなければもはや見て見ぬ振りしかできなくなっているということになる。見て見ぬ振りを始めれば当然「梯子を外されている」ことも見て見ぬ振りである。それはやがて強引な糊塗、ねつ造、思い込みの確執を次から次へと生み出すことになる。それ以外に生きる道を見出せなくなっているからである。

 もっとも、遥か群衆を離れている者にとっては、蚊帳の外だろうが中であろうが、梯子を外されたからといってさしたる問題にはなるまい。

                                  2017 5/12

 


703.「対案を出せ」???


これも以前このサイトで取り上げたことであるが、またぞろ文化程度も最悪の私利私欲ばかりの権力の亡者のディベート・マニュアルの陳腐な「決まり文句」、「対案を出せ」という言葉が出てきた。批判、反対、抗議などをすれば「すぐに」「対案を出せ」とは、無能の証左といってもよいものである。「すぐに」と言ったのはこの言葉が出される時期が早ければ早いほどその無能の度合いが高いからである。「ああ言えばこう言う」式の三枚舌のアベは今や周知のことで、「アベしてる」とは「ああ言えばこう言う」二枚舌の者をいうのであるが、これほど「国民」を愚弄したむちゃくちゃな首相も前代未聞である。批判され反対されてさらにより良いものを作り出すのが「権力の中枢」にいる者の務めであってみれば、これはその放棄の兆候、証でもある。国民、あるいは国民の側にいるものは批判、反対、抗議するだけで十分で、対案を出す必要はない。ただし、その吟味、検証、批判をすることを怠ればすぐに意に反して独裁政権の誕生につながるということは肝に銘じて置かなくてはならない。「対案を出せ」ということで実質的に批判、反対、抗議が封殺され、言う方も委縮しているのであれば、これはさらに深刻な問題でもある。現実的には批判などに対応しきれなくなった時の逃げのような言葉でもあり、反対意見の排除、無効化するのが目的といえなくもないような「対案を出せ」などという「姿勢」そのものにいちいち反応する必要はまったくないとうことである。これは理念も義もないカルト集団の「手の込んだ」第三者には見え透いた猿芝居のセリフともなる。実際に議論も説明義務もまったく無視で、その場限りの出まかせを言い続けているのがアベである。「右翼」ならずともアベの背後の日本の国旗が惨めに思われるであろう。走狗のような「右翼」ばかりでは話にならないが、戦前の実行力も精神的なものもそれなりに持っていた右翼の「日本精神は左翼である」と言う言葉はここにきてさらに意味深長なものがある。アベと日本会議は相似形で、実のところ、私利私欲だけの軍産複合体にも似てそれ以外には何もないに等しく、理念も倫理もへったくれもないから節制もなく何とでも言えるし、何でもやるのである。「美しい日本を守る」というような派手で空疎なパフォーマンスもすべては恥も外聞もないスタンスからきているもので信頼できるところは微塵もないことは敢えていうまでもないことであろう。以前、三島とこのアベを重ね合わせて美化していた御用評論家もいたが、その時はさすがの三島も草葉の陰でこらえきれずに首と腹をつなぎ直して出てくるのではないかとさえ思われたものである。

 オリンピックを目指し、憲法という国の根本法をその時期に合わせて変え、同時に国民を縛る方向でしか働かない「共謀罪」を成立させるという。オリンピックとは一体何なのか?浮かれ騒いでいるうちに身ぐるみはがされないように気を付けるべきであろう。彼らにとって、我々の生き死になどまったく眼中にないものであることだけは日の出、日の入りと同様に確実なことである。それでも何事もなく治まっているのであれば、それは「病的である」と言わざるを得ない。

                                          2017 5/9

 


702.過去を美化する逃亡者


 「昔はよかった」などという訳のわからぬ繰り言を言う者も後を絶たぬが、コラージュ風に「美しく」アレンジされた過去に遁走を繰り返す老若男女も多いようだ。

「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上づうづうしい、いやなやつで埋まっている。元来何しに世の中へ面(つら)をさらしているんだか、解しかねるやつさへいる。しかもそんな面に限って大きいものだ」ー

 私がこのサイトのどこかで思い余って言ったような内容だが、これは1906年(明治39年)に漱石が「草枕」の中で書いていることである。それは、今、現状に対して感じることと大して違いはないということでもある。「昔はよかった」などと寝言のようなことを言っているのでは一体何を見ているのかということにもなるが、自分に都合のよい過去の部分だけを切り取り貼り付けコピペのようなアナクロ頭で現状回避、現実逃避をしつつ勇ましいことを打ち上げても実質的には半歩も前に進むことはできまい、それは崖っぷちを後ろ向きで歩いているようなものである。

                                  2017 5/7


701.「笑いだけ」と「天狗だけ」だけでは


 「ワライダケ」でも食べているのではないかと思われる引きつったヒステリックな笑いとともに液晶テレビに映し出される人物の表情を見ていると、これは「テングダケ」の症状ではないかとも思われたりもするが、ことほどさように世の中全般も何か「狂気」をはらみつつ右往左往しているだけのようにも見える。「笑いだけ」を求めて笑いのうちに終焉を迎えるのも人生、何の根拠もなく「天狗」になって高慢に自身の思い込みの中で生きるのも人生といってしまえば言えなくもないが、その様相はまさに「人間界」を通り越した「魔性の世界」に近い。だから、どこか薄気味悪さを感じるのであろう。因みに、「天狗だけ」というのは「Death cup」(死の杯)とも言われている。その「天狗だけ」をあえて食べた人もいるようなので世の中はいろいろである。その味は、味の素の塊を口にしたようだという。あたかも「死の杯」を手に死と戯れているようでもある。後は何をか言わんやである。

※「ワライダケ」、「テングダケ」ともに毒キノコである。

                                 2017 5/6


700.与謝野鉄幹・晶子の孫、だから?


 「人間」においては「サラブレッド」などという在り様は存在しないという好例、証左でもある。そこには「歌よみ」と「幇間」ほどの隔たりがある。

 総じて、「血縁関係」なるものは法的問題に関係する程度で、それ以上のことは各個人の問題で第三者が「かくあるべき」などと「押し付ける」問題でもない。

 しかし、何か事あるごとに、与謝野鉄幹・晶子の名前を出されては本人もかなわないであろうが、それを利用しているのも実情であろう。言うまでもなく、「血筋がよい」などという「ブランド」は実質的に人間には存在しようがないということである。それなりの由緒があったにしても痴れ者、統合失調、サイコパス的凡夫にたやすくシフトするのも「人間」なのである。たとえ過去にどのような「素晴らしいこと」をなそうが、現在やっていることが常に問題となるだけで、現在「良きこと」をなしていても近未来まで「良きこと」をなしうるかは保証の限りではない。その逆も同様、それがすべての実情である。それ以外は「幻想」といっても過言ではない。そのような「幻想」を「実相」と 「思い込む」のは各自の勝手ではあるが、その行為自体は不誠実であるということに過ぎない。

                               2017 5/5


699.薄笑いの消えぬ人々


 誰に対する「薄笑い」か、それは言わずもがな、「臣民」に対する薄笑いである。もはや「彼ら」の中に「国民」は存在しないのである。それはその言動から明らかである。映像に映し出された「彼らの」言動の「すべて」(「言語内容」、「表情」、「声」、「仕草」、「挙動」、)からもそれは割り出せることであるが、現実的に少しでもチェックすれば彼らのやっていることすべてが「筋の通らぬ」、「怪しげな」、「詐欺行為」であることはすぐにわかることである。「国民」を朝三暮四のサルくらいにしか見ていないということは以前にも言ったことである。サルの方も朝四暮三だろうが朝三暮四であろうが怒りもしないどころか「見ザル聞かザル言わザル」が賢い生き方くらいにしか考えていなのであるからやはり「特殊」な国民性を持つものなのであろうと思わざるをえない。というより「目からウロコが落ちる」という言葉は知っていても実質的に「目覚め」を知らぬ人々ということになる。「わかっていない」から現状があるという冷徹な認識がない限り、忌まわしい連鎖は限りなく続くのである。

                                2017 5/4


698.「自主憲法」?


 戦後の憲法は「押し付けられたもの」であるから「自主憲法」が必要という当然のようなウソの話がまかり通っているようである。まず「押し付けられたもの」ということ自体に実情にそぐわない虚偽が多々ある。さらに「自主憲法」の誕生が自国の必然的流れのごとく言われているが、この憲法「改正」そのものも米国の「押し付け」であろうことはその流れからもわかる。この米国隷従亡国政権に「自主憲法」などとは無縁、何のことはない米国の都合で国の根本法が変えられようとしているのである。そこには日本の矜持などは皆無である。そして、矜持を捨てたものはやがて見限られるのが常である。どちらにしても、この「『国民』不在」の政権で「憲法改正」とは最悪のシナリオであろう。

※この件についても以前このサイトで書いたことがある。何度も書かざる得なくなるのが現状である。

                                  2017 5/1


 697.あわれ、この国は狂っている・・・


 あわれ、この国は狂っている・・・

大方はこの狂気が見えてはいまい

 繕い切れない所業の数々

お先棒をかつぐことでしか生きられない 

「現実主義」気取りの 危うい舵取り

何という低劣さ ゲスが稟性(ひんせい)とでもいうのか

 「一強で何が悪い」とうそぶく走狗が

得意げに開き直り開陳する内容たるや、聞くに堪えるものではない 

彼らは民主主義とは縁もゆかりもない者たち、すなわち詐欺師

 

 

似非ジャーナリストに売文業者、御用学者に政府お抱え評論家

その恐ろしくもっともらしい言動の連鎖が日々流されている

恐ろしく危うい怪しげな、その「すべて」は詭弁でおおわれている。

怪しい金で動いていれば言動も怪しくなるのは至極当然のこと

人はどこまでも堕ちるのものである 奈落の底にぶち当たるまで

 

彼らに「意味がある」とすればその存在そのものの「罪悪性」くらいであろう。

 

                              

                                 2017 4/24ー

 

 

 

 

 

 

「ある日、その時」(61)3月27日ー

<掲載内容>

690.「万博誘致委員会」のアンバサダー?691.気になる不明言語 692.内閣府調査の説得力のなさ 693.教育勅語活用「懸念ない」?694.議事録末梢、重要書類廃棄、公開拒否、種々の隠ぺい行為 695.「平和ボケしたタカ派」の勇ましい空論に踊らされれば 696.アベとは一体何者なのか?

 

                                                                                                                      <転載・複製厳禁>



696.アベとは一体何者なのか?


 これもまた案の定、北朝鮮に対して冷静な対応が求められている時にサリンだ何だと騒ぎ立ているのがアベ自身ということである。騒ぎ立てているというより煽り立てているといった方がよいだろう。「こいつは一体何なのだ」と改めて言いたくなるのもよくわかる。ある者にとっては「死神」であろう。またあるものとっては「疫病神」でしかないだろう。感情的に煽る、この一事でも「首相」失格であるということは言うまでもないが、これで自分の本性をさらけ出している愚かしくも危険な陰謀から国民の目をそらそうとするのであるからさらにタチが悪い。今までもアベが「大丈夫」と言っている時は例外なく「危険な状態」であった。要するにこの男の言っていることをウのみにするのは非常に危険であるというより、そんなことをしていたら身がいくつあっても持たないということである。黙っているとどこまでも恥知らずに何でもするのがこの男である。現状は確かに国際的にも危機的状況ではあるが、そういう時こそ、すべてにおいて冷静さが必須条件となり、明晰な頭脳も必要となるのである。しかし、この男には現状と乖離した類型的な言葉に酔うことくらいしかできぬと見える。具体的であるはずの数値さえ抽象性を帯びているのである。

「放っておけば、こいつにもろにやられる」、「乗せられれば、地獄の一丁目はすぐそこだ」、「こいつは一体何者なのだ」等々  数のマジックとしか言いようのない2000人程度の世論調査の支持率に反して聞こえてくるのは反アベばかり。その一方で「一強でどこが悪いの」「教育勅語のどこが悪い」などというポイントのズレた方々もいるようだが、そのような戯言に付き合っている時間もない。

 戦後の問題としても、オウム真理教が出現したときにすでにアベ政権の出現は予期し得ることであった。ともに避けてきたこと、対峙せず素通りしてきたことが暗部裏面で潜行拡大していたことでもある。彼らの存在自体とその在り様が取りも直さず戦後の問題の「一面」を開示させる。それは多くの者にとって見たくない一面でもあろう。特に弛緩した精神にはなおのことである。なぜなら、それは弛緩した精神の内奥の宿り、常に増幅拡大を繰り返してきたものであるからである。アベ政権に賛同、媚びを売る者とは自らの欺瞞に目をそらして「究極のビジネス」に身を捧げる者、あるいは黙認加担する者ということにもなるが、それは命と引き換えであること知るべきである。そして、その先はないというところが今までと全く違うのである。

 チャーチルは、ヒトラーを誕生させてしまったヴェルサイユ条約を第一次大戦の戦勝国の失敗として明確に位置付けたが、アベのグループは歴史から学ぶどころか、自己正当化ばかりで敗戦時の国家体制に戻そうと躍起になっているのであるから自ら未来を閉ざしているようなものである。今後も繰り返される隠ぺい、情報コントロール、発展なき盲信。これは完全に狂っている証左である。教訓化できぬ者は確実に衰退するか、滅ぶのである。

 天罰とは、天網のこと、それは広く大きく疎にして漏らすことはないということである。すなわち因果応報なのである。そういう意味で、このままではやがて「天罰が下る」ことは避けられまい。

 

 桜を見て、紋切り型の言葉を並べ立てている場合ではあるまい。しかし、「臣民」が何人死のうがこの男の頭の中では簡単に整理できるのである。「今日のよき日に、余のために集いたる愚かな臣民どもよ・・・」、「従僕」に埋め尽くされる日を夢見ているだけの者どもである。

  因みに、この日「アベ閣下」のために新宿御苑に集められた「臣民」諸氏(芸能人、スポーツ選手など)は一万数千人だそうである。選挙に向けてのキャスティングと褒章授与のチェックであろうか。

                                 2017 4/15

 


 695.「平和ボケしたタカ派」の勇ましい空論に踊らされれば


 高いレベルの「外交能力」が問われている時に、「振り」ばかりの無能に等しい者が訳のわからぬことをやっているのであるから悲惨である。案の定、後先見境もない「義」を装った「敵地攻撃論」まで自民党の一角から政府に提出された。これは軍事の専門家も「平和ボケしたタカ派の空論」と一刀両断の内容であるが、アベにとってはこの時期に提出されたことで自分に対する矛先を少しでもかわすのに好都合なことくらいにしか考えていないであろう。そういう「人間」なのである。どちらにしても、現在は高次元での冷静な対応が求められている。できなければそれこそ「沈没」である。すでに目くらまし経済、目くらまし外交の結果も出ている。

 どこから金が流れているのかは知らぬが、アベ、日本会議関係の売文業者の必要以上に危機を煽る「邪論」を「正論」のごとく言い放つ内容には注意が必要である。彼らもまたは自らの言動に責任を取ることは決してないということだけは確かなのである。ただ「言い放っている」だけで、それに乗せられ者たちだけが被害を被るのである。驚くことに、今でも「首相が言っているのですから、ウソを言っているとは思われない」などと平然と言う「ジャーナリスト」?がいるのであるから恐れ入る、後は推して知るべしである。

                                 2017 4/10


695.議事録末梢、重要資料廃棄、公開拒否、種々の隠ぺい行為


 このようなことが国の中枢部分で平然と日常茶飯事に繰り返されている異常さ。どちらにしてもこれで先進国などとはおこがましい。国民の思考ゼロ状態の結果でもあるが、この思考ゼロの状態に巧妙に追い込んでいる(マインドコントロール)のもまた行政である。身の毛もよだつおぞましさである。この道の先に道はない。この方向では、「自分だけは違う」と思うこと自体も必然的に奈落を抱え込むことになる。飽くまで「希望的観測」でしかない明るく美しい言葉、「笑い」が異様に「あふれている」のも、それが単なるバブルである証でもある。あとは野となれ山となれの決して責任を取ることのないない政権の言動などに乗せられていれば悲惨な最期は避けられまい。それこそ自己責任、自業自得の結果ともなる。その時になって「どうしてこんなことに」などと言っても始まらない。最近の復興相の発言にしても、原発問題にしても、原発のある地域の人々は明日は福島の人々と同様で、いざとなれば切り捨て御免の恫喝を覚悟すべきであろう。「何が」美しいのか知らぬが、要は「美しい日本」を守ることが第一義で、国民の命は二の次、ということであるらしい。さらには、見るな、問うな、語るな、これを愚民政治、「民従」政治と言わずして何と言えるのか、たとえそれに異を唱えても見苦しい自己正当化に過ぎなくなるのが現状であろう。

 しかし、現に行われている「議事録末梢」、「重要資料廃棄」、「公開拒否」などの隠ぺい行為は過去の歴史上の事柄についても「都合の悪い部分」については同様のことが行われていたことを具体的に示している。

 

                                               2017 4/8


693.教育勅語活用「懸念ない」?


 おいおい!冗談は顔だけにしなさいよ!憲法や教育基本法に反しない形での「教育勅語」の教材活用を否定しないとする政府答弁書について「適切な配慮の下、教材使用自体に問題はない」。それなら何も「教育勅語」である必要はないだろう。なぜ「教育勅語」にこだわるのか?中国の儒教思想の徳目だけに注目して「どこが悪いのか」と開き直るオツムの具合を疑わざるを得ない「嫌中派」までいるのだから始末に負えない。要するにこの政権は、憲法、法に反するものでも「反しない」形でやることが可能であるといっているのである。よくぞここまでの悪行を強行できるものである。この反動、やがて現れるであろうが、新たなものも作れない、その技量も器量もないのはよくわかるが、そのようなことより何より国民を巧妙に「臣民」とすることが最大の目的なのであろう。中国の儒教思想による徳目の影でうごめく平田神道(平田篤胤の復古神道)。本居宣長以後の国学の主流とされた平田の復古神道などに展開の余地はない。

 「やまと心」の問題にしても冨士谷御杖の視座に立って検証すべきもので、そうでなければ「やまと心」の「疾患」ともいうべき「この上なく細やかな思いやり」と論理的屈折を経ることのない非倫理性、「狂信」などの共存の解明などできるはずもない。冨士谷御杖についてはこのサイトでも8年前に取り上げているが、御杖は宣長以後の平田と同時期の国学者である。

「教育勅語」を活用しながら再び短絡した平田神道を通して「やまと心」の育成を図ろうとすれば、日本人としての「アイデンティティ」なるものは世界レベルの「哲理」を見出せないまま、「やまと心」は「疾患」としかいいようのない様相を呈したまま逆行、退行しざる得ないであろう。何かと言えば、日本人、日本人として、まるで枕詞のように遣う「日本人」、なぜそこまで日本人を強調するのか、短絡した平田篤胤の復古神道を根拠にその気になって上り詰めているのか、そうでばければもはや自分には「日本人であること」しか残されていなのか、「日本人であること」が不確かであるかであろう。

 一番わかっていない者が「日本人のこころ」などと、したり顔で言ってのけるのである。その所業を見れば一目瞭然、今更、敢えてその具体例を挙げる必要もあるまい。限りがない。

                               2017 4/4

 


692.内閣府調査の説得力のなさー「社会意識に関する世論調査」?


 「現在の社会に全体として満足しているか」との質問に「満足している」と答えた国民が65.9%あったという。そして「社会に満足」過去最高66%という「結論」をはじき出した内閣府調査(時事通信)。その説得力のなさというべきか、いかがわしさというべきか、あまりにも実情と乖離した数値は一体何なのであろうか。つい、どのような方法で、何人の国民を対象に、どのような質問形式でなされたのかと聞きたくなる。この「現在の社会に全体として満足しているか」という質問にしてもそうだが、「全体として」といわれると焦点を絞れなくさせてしまうが、それを「『社会に満足』過去最高66%」ということでまとめてしまうのである。これもまた「印象操作」であろう。 政治、経済、その他のどの分野をとってもまったくと言っていいほど国民レベル、視座で納得できるものは一つとしてないというのが実情である。どうしてこの時期にこのような目くらましのような調査を「権威」を装って、さも具体的な数値であるかごとくに発表する意味があるのか。あるとすれば選挙対策以外に在り様があるまい。毎度のことであるが実に手際が良く、手が込んでいる。その巧妙さは日に日に増している。

 このパーセンテージをそのままうのみにすると危ういというのは言うまでもない。具体的であるようにみえるこのような「数値」には常にマジックがある。現在の内閣府であればなおさらである。もし、その数値が現状を正確に伝えているとするなら民主主義政治の堕落した形態である衆愚政治ということになるが、伝えるべきことを伝えなかったマス・メディアの罪はさらに深い。

「現在の社会に全体として満足している」、これが意味する内容をほんとうにわかっているのかとも思われるが、これがほんとうならどこまでもオメデタイ人々で、「民が主である」という観点からすれば衆愚というほかない。そして、目をふさぎ、耳をふさいで愚民を大量生産する衆愚政治は必然的に独裁体制を生む。

 「道徳教育」なるものも衆愚をさらに体制にとって従順で扱いやすい人間に仕立て上げるものであるなら誤りである。「道徳」などというものが「強者の都合よきものが形に現れる」だけで、実のところ強きを助け、弱きをくじく精神を養うということでは、良き社会を作ることにはならず、人生に何らかの貴重な意味を見出す手がかりともなる倫理学、哲学も育つはずもない。すなわちより良き「人間」が育たないのである。ただ偏狭な視野しか持たぬ「兵隊さん」たちを大量に作り出すだけではその国の文化も衰退するだけであろう。

 このままいけば、やがて、「言論の息の根は止められる」。すなわち「都合の悪い」思考回路はすべて断ち切られるということになる。

 「酩酊した頭」には、格闘技とスポーツ、賭け事、そして騒々しいだけの「お笑いトーク」が流れるだけでは・・・

 

                                     2017 4/1


691.気になる不明言語


 世の中には、何気なく遣われている言葉でわかったようなわからないような、それでいてその言葉の遣われ方でその言葉を遣う人間の世界観の全体が垣間見られるということも多々ある。

 たとえば、「脇があまい」、「人間的にすごい」、これは渦中のボウ国の首相夫人について遣われていた表現でもあったのでさらに際立った。その内容は推して知るべしであろう。これで何か気の利いたことを言っているつもりになっている者の思考回路、根本的なスタンスまで推し測ることができる。結局のところ、内容的には何もないというより、そのような表現を遣うことで自分自身の様相を余すところなく語っているのである。「脇があまい」、「人間的にすごい」などという表現で問題、内容を人間事象に矮小化することにはほとんど意味がない。むしろ処世術的「忖度」だけが浮き上がるだけである。

                                 2017 3/29


690.「万博誘致委員会」のアンバサダー」?


 やはり、その在り様をよく物語っている。要するに、彼らは男芸者、幇間の域を出るものではないということであろう。「風刺とか、下から上の人たちに何かいうのは、笑いの取り方としては一番安易で楽なこと云々・・・」と聞いた風なことを言っていたが、それは単なる処世術でしかないことを明々白々と物語っている。政界の魑魅魍魎、海千山千の千三たちと同位置で、とても「風刺」などできまい。偉そうにお笑いの「本質論」をぶっていたお笑いタレントであるが、やはり「万博誘致委員会」のアンバサダーという「役どころ」では「一番安易で楽な」ことはかえって難解で一番避けなければならないことになる。できることと言えば、たわいもない戯言を言って「盛り上げる」ことしかできまい。しかし、これこそが一事が万事ということで、結果的には「強き」を助け、「弱き」に目隠しをすることになるのである。「一番安易で楽なこと」とは実は金にもならず、処世術上一番避けたいことであるに過ぎないのである。大体、一つの批判に、感情的に反応すること自体がその先を明示しているのである。「アンバサダー」、予期した通りたいした驚きもなく、さもありなんというところであろうか。言っているそばからメッキが剥がれ落ち、本体自体が自己証明することになろうとは。しかと見届けることにする。

                               2017 3/28

「ある日、その時」(60)2月23日ー

<掲載・内容>

682.感心するCMと 683.「愛国心」を強要する「政権」とは  684.見苦しい男の末路 685.気味の悪い微笑みと涙 686.「お笑い芸人はオワコン」687.「ネット住民に一家言」とは?688.「言葉を刈るのではなく、増やせばいい」という問題なのか?689.「首相、内閣はウソはつかない」???

                                                                                                                          <転載・複製厳禁>



689.「首相、内閣はウソをつかない」???


 これは「森友問題」が出てきた頃に、テレビに出ていたコメンテーターの類がさりげなく言ったことであるが、ここはどこの国かと思われた。要するに、「お上」はウソをつかないと言っているのである。この「感覚」、少なくとも、民主主義義が「根付いている」国ならあり得ないことであろう。たとえ怪しげな学園の怪しげな理事長の言動であろうと、それだけで言っている「すべて」を虚偽と見なすことも問題であるが、その相手が首相、内閣であればさらに論外だと言わんばかりの姿勢そのものにも大きな問題が残る。特にこの「森友問題」については、両者には「日本会議」という共通の接点があり、それを介した関係でもあることは周知の事実。この理事長の「怪しさ」は、言ってみれば首相、内閣の「怪しさ」でもある。そこには表ざたにしたくはない「本音」のつながりがなくては成り立たぬ事柄が多々あり、それを否定する方が困難であろう。憲法を無視した「教育勅語」を前面に押し出した幼児、児童教育にしてもアベの改憲、歴史修正の思惑と一致する。

 しかし、ああ言えば、こう言う御仁は後を絶たないものである。忖度(そんたく)について、「良い忖度もあり、悪い忖度もある云々」などと詭弁を弄している大阪の政治屋さん、それでは良い忖度とは、悪い忖度とはどのようなものなのか、その判断基準とは?そもそも相手の思っていること、考えていることなど正確に知ることなど不可能なことである。その中で忖度するとなれば、その人間の言動に即して動くしかあるまい。忖度するとは、実際に相手のやっていること、言っていることに合わせて動いているのであって、良いも悪いもないのである。個人の善悪判断など入る余地がない。だからあれよあれよという間に怖いことにもなるのである。物証が残らぬことをいいことに、忖度をフル活用すればどうなるか。それが現状でもある。この全体が偽らざる事実なのである。

                                2017 3/25   


688.「言葉を刈るのではなく、増やせばいい」という問題なのか?


 これも某「お笑いタレント」が言っていたことである。「言葉を刈るのではなく、増やせばいい」、一見もっともらしく聞こえるが、そんなことはアベ君たちが日常茶飯事に官僚のおじさんたちとやっていること。同一内容をどう言い回すか、その昔、カルト集団が「殺し」を「ポワ」と言っていたが、実質的なことは何も変わっていないにもかかわらず「もの」、「こと」を妙に「軽く」して、現世離れしたものに変質させ、呪文のように「思い込み」を実行に移しやすくする効果を持たせる。言ってみれば、騙しのテクニックである。

 言葉を「刈る」とはどういうことなのか、言葉を「増やす」とはどういうことなのか、アバウトに感覚的に遣っているとかなり危うい。何事であろうと正当な批判は常に必要であり、またそれについての検証、吟味も必要である。感情過多の反応だけでは何も生み出しはしないということだけは確かなのである。そうでなくとも「ポスト・トゥルース」、すなわち真実からの乖離はいたるところで幅をきかせているのである。あまりにも笑止千万な感情の虚偽が多過ぎるのである。これではいずれ笑止千万なことで死ぬことにもなろう。

 しかし、「お笑いタレント」の三百代言化はニュースのバラエティー化がもたらした弊害でもあろう。いつの間にか何者かになったごとくの言動ではあるが、所詮は走狗の域を出ない。そう、ガキの使いはしないが権力の使いはいつでもするのである。これは何もお笑いタレントに限ったことではないが。                               

                                      2017 3/20

 


687.「ネット住民に一家言」とは?


 私は自分が「ネット住民」だと思ったことはないが、それがネットユーザーという意味も含むのであれば私も「ネット住民」ということになるのであろう。しかし、今ネットユーザーではない者を探す方が容易ではないくらいである。要するに、「ネット住民に一家言」というのは実質的に大多数の国民に向けて一家言を発信していることになるが、その内容たるや支離滅裂でヘートスピーチ系のオヤジとたいして変わるところがない。もともとその傾向はあった男であるが、ここにきてアンテナがさび付いてきたのかますますひどくなってきた。バカ言って稼いでいる奴といっしょになってその気になっていれば大バカになるだけである。この男、バカ言って恰好つけているようだが、以前は東電の広告塔になって原発施設についてお追従を言っていた男でもある。その男がもっともらしく言う内容のひとつひとつに突っ込みを入れてやろうかと思ったがその個所があまりに多くバカバカしく、時間もないのでやめることにした。この男の「正体」も改めて確認、見届けることができた。

 煎じ詰めれば、耳目を引く、金になりそうなことを思いつきで言っているだけとも見えるが、かなり意図的である。

一つ二つ例を挙げれば、「世の中の空気がそうなれば、国会議員も考え直すんだよ。」(オメデタイ人間だ)、「昔だって貧乏人の子だくさん、その時だって飢え死にしたって聞いたことがない云々」(餓死、間引きの実情も知らないのである)、「人から見たらバカげてたって、それで平気でいられなきゃいけない」(今度はバカの賛歌である)等々、支離滅裂というより認知症の域にいるといってもよい。

「お笑いがわかっていないバカが多すぎる。世の中真面目すぎる」(真面目すぎる???)

「ネットをそのまま信用する、本質読み取る力がなくなっているやつが多くて困る」(本質???)

ネットユーザーのどのような部分と接点を持っているのか知らないが最悪の部分とだけ接点を持っているようだ。

             

しかし、「バカ」、「マヌケ」の類の多いこと、ヘートスピーチ系のオヤジとさしたる違いはないと思われる。同じ調子で返すと・・・

「バカが多すぎる」って、それであんたたち成り立っていたんだろ、「真面目すぎる」って、大橋巨泉なんかが全盛期の時代ならまだしも、今はあんたみたいな不埒な奴らが多すぎるんだよ。あんたに本質論をぶつ資格あるのか、バカが本質論をぶつ、インチキ会議、インチキ学園の理事長でもあるまいし、もっとまじめにバカやれよ。・・とでもなるか・・・

 この男は人生相談までやっているというからブラックである。冗談で笑っているうちに死にたい者はこの男の話をよく聞くといい。

 この男はまた、「人から見たらバカげてたって、それで平気でいられなきゃいけない」と自身と「ネット住民」にエールを送っているのである。というより自分が自己撞着を起こしていることさえわかっていないのであろう。

その男とは誰か?言わぬが花であろう。「弱者」の個人攻撃となっては私のスタンスとは離反する。

やはり、これも終焉の時を迎えている。

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これも最終章だな。

                                                                                                            2017 3/13

                              


686.「お笑い芸人はオワコン」


「お笑い芸人はオワコン」とは周知のとおり、茂木健一郎の指摘であるが、そのとおりであると思っているというより私も以前からお笑い芸人についてはほぼ同一内容のことを機会あるごとにこのサイトでも取り上げてきたので茂木の指摘を斬新な切り込みだとは思っていない。これに対して大田何某が噛みつき、吠えているようだが、吠え方も噛みつき方も陳腐である。大田がそう思いたいのはわかるが、これは個人が逆立ちしても何とかなる問題ではない。大田のシンパも援護をしているようだがその内容も実情を直視していない希望的観測と自画自賛の域を出ない。もともとキッチュ文化が蔓延している日本だからこそ成り立つものでしかなかったという認識もなく大層なことをしてきたつもりになっている以上、今後も展開はあり得ない。お笑い芸人だけではなくバラエティー番組なども「オワコン」なのである。そもそもお笑い芸人たちがやってきたことなどは、安易で金になる軽佻浮薄の量産、増幅くらいであろう。さらに言えば、「お笑い芸人はオワコン」などという生易しいものではない、彼らの「在り方」自体がもはや罪悪なのである。それは飽くまで「在り方」の問題で、個人の意識とは無関係。だから自分がどう思おうがその実態、すなわちその在り方が変わらない以上変わりようはないのである。生業を変えた方が賢明であろう。

                               2017 3/10

追記:後日、茂木はお笑い芸人の生業まで奪うのは忍びないと思ったのか、これ以上言ってみても始まらないと思ったのか、「素人が口出しするすることでもないので」ということで「オワコン騒ぎ」を収めてしまったようだ。しかし、「素人の口出し」を拒否したところで何が成り立つのか?政治しかり、視聴者、観客を必要とするすべてのものは素人のきちんとした、時には辛辣な口出しなければよりよき展開は望めないのである。たとえ茂木の見解を否定し、葬り去ったところで何も進展は期待できない。

また後日、松本何某が「風刺とか、下から上の人たちに何かいうのは、笑いのとり方として一番安易で簡単なこと。云々」とまったく進展など期待できない発言があった。安易で簡単ならたまにはやってみたらどうか。チャップリンはヒットラーが勢いを増している時にヒットラーを茶化した。それはあまりにも有名なシーンとして残っている。風刺する「上の者」によっては身の危険さえあるのが普通である。実際、やり方によっては抹殺されることもある。安易で簡単というより怖くてできないというのが正直なところであろう。身近にも好例はいくらでもある。試しにアベ君を風刺してみてはどうか。近頃は風刺漫画さえ見なくなったから刺激になるのではないか。因みにこの松本何某がセンスがあると思ったことなどかつて一度もない。それはセンスではなく単なる処世術であろう。


685.気味の悪い微笑みと涙


 微笑みも涙も、時と場所によっては「人間性」の豊かさの表われともなり得るが、自分の位置も在り様もわかっていないような者が微笑んだり、涙をこぼすのを見ると何とも薄気味の悪さを感じると同時にオツムの具合を疑いたくなる。やはり、わかっていないと思われる場合が多いが、何か勘違いしているのか、なめているのか。そうでなければ根本的なものが欠如しているのである。

 その微笑みと涙もさることながら、最近よく見かける「日本会議」の関係者、驚くほど風貌も精神構造も類似している。薄笑い、イントネーション、アーティキュレーション、間合いetc 特に顔だち仕草などは血縁関係があるのではないかとさえ思われるほどである。日本の文化、歴史を自分たちの都合のいいようにアレンジして、それがあたかも日本の精神風土の根幹であるようような「思い込み」、それで主流を気取っているから恐れ入るが、とても世界に発信できる代物ではない。「日本的」と言われる「十八番」でもあるが、あるようなないような事を美辞麗句で飾って情に掉し流して通用するのは一部の身の程知らずだけである。ほんとうに右派を気取るなら下心ばかりの政治に腐心するのではなく日本文化にも精通すべきであろう。しかし、言うことなすことすべてはそれを裏切っている。実際、言っていることは日本的ムード、ポーズ、単なるイメージ、やっていることは後退を余儀なくされる日本的時代錯誤。それではあまりにも智慧がなさ過ぎる。「気持ちの悪い集団」と映るのは当然である。今後の動きにも注意が必要な危うい「集団」である。

  笑いにも、涙にもやはり質があり、質が文化なのである。何について笑うか、怒るか、涙するかでその人間の資質も見える。資質とはその人間が培ってきた文化の吸収度でもある。そういう意味でもアベとアベの周辺は日本文化とは無縁で、あまりにもペラペラである。そして今では、自身の醜い姿を露呈することになる「森友学園問題」から国民の目が日本海に落ちた怪しげなロケット「花火」に一瞬間でも移ったことを喜んでいることであろう。「お国の一大事に何をつまらない事を」と言い出しかねないしたり顔である。また逃げ切るつもりであろうが、今度はそうも行くまい。この手の「人間」にはポーズと三枚舌が奏でる「音声」だけがあるのみで、自分にとって都合のいい意味しか存在しないのである。第三者を必要としない、他者が存在しないのであるから恥も外聞もないのは当然である。こんな者たちに身を託す者とは余程の命知らずかオメデタイ人間である。

                              

                                                                                                                                       2017 3/5ー


684.見苦しい男の末路


 最期の最期まで言い訳がましい、いざとなると責任転嫁ばかりを繰り返してきた男の末路を今しかと見届けている。そして、生き恥をさらすより死をと勇ましいことを言って人々を死に追いやり、自らは生き恥をさらした者と重ね合わせている。やはり、この男も同じ轍を踏んでいる。因果応報、それこそ「ばちが当たった」のである。見るも無残な最期であるが、やりたい放題してきたのであるから当然であろう。後はどこまで醜くなるか、「座して死を待つつもりはない」のであるから思う存分やるがいい。それがそれこそ最後に残された「けじめ」であるが、果たしてどこまでできるのか。この男に「けじめ」などつけられるのかと思っている。「果たし合い」、「座して死を待つより云々」等々、どれもこれも勇ましいが常に自分自身のこと、自分自身に執着しているだけで他者に対する「配慮」など微塵もないのである。都民のことなど一瞬間も考えようがなかったであろう。あれだけ偉そうなことを言っておいて、肝心なことは「専門家ではないからわからない」と言う。それでは統括、監督責任放棄で、要するに自分は都知事として無能であったと言っているに過ぎない。こんな人間しか選べぬ選挙民も情けないというより愚か過ぎる。同じ三百代言は西にも東にもいるが、大体この手の大口をたたく奴にろくな者はいないと見るべきである。

※この男については、このサイトを始めた7,8年前にも取り上げたことがあるが、案の定の展開、終焉であった。

                                 2017 3/3


683.「愛国心」を強要する「政権」とは


 「愛国心」を強要する政権とは、無能破たん政権という証でもある。「愛国心」などというものはわざわざ言い出さずとも、誰でもが持っている心情である。それは自分が住み慣れた大地、風土に対する親しみ、情愛でもある。「愛国心」を強要する「集団」とは、例外なく自分に都合のいい政権と「国」(定義も不明瞭)とを同一化させ、国を愛するなら身を粉にして国のために、すなわち「自分たち」のために尽くすのが当然であると言っているに過ぎないのである。「愛国心」という言葉は先が見えて追い詰められた「どうにもならなくなった者」たちの最後のよりどころとなるものでもある。自らの力不足がもたらした結果でしかない実情を直視もできず、欲望だけは人一倍あるものたちが最後にすがるものが「錦の御旗」である。日本人はどこへ行っても日本人なのである。たとえ日本人である自分が嫌いであってもわれわれは徹頭徹尾日本人であることから抜け出せないというのが実情である。それを「砂糖は甘い」、「甘い甘い砂糖」と同様のことをいっているようでは、自恃の念の欠如といってもよいであろう。「国」と「政権」とは違うのである。日本の風土を愛するが故に政権と対峙することなどいくらでもあり得ることである。そういう意味でも「愛国心」なるものを強要するものは実は自分自身に酔っているだけで、もはや「旗」以外よりどころを見出せぬ者たちともいえるのである。

 議論にも、日本語にもなっていない国会のやり取り、それこそほんとうに日本人かと聞きたくもなる日本文化に対する無知。質問に対して答えようともしない姿勢はもはや民主政治の議論の場ではなく、「わが政権のやることにとやかく言うな」黙って従えばいいと言わんばかりである。これはどう言い繕ってもやがて衰退を余儀なくされる「全体主義国家」と同様である。

「レイシズム(人種差別)を主張するウルトラ・ナショナリスト教育機関」(英ガーディアン紙)である森友学園、「日本会議」などとただならぬ関係であることがすでに海外でも白日の下にさらされているにも関わらず、なおしらを切る。知らぬは自国民だけというどこかの国と同様では話にもならない。今後はこの御仁の渡航もさらに限られてくるだろう。行くだけ無駄で、「お商売」どころか危険視されて友好さえ危ぶまれる。

・・・終わったな・・・・・

                             2017 3/2

追記:死因は、VXガスではなく心臓発作だという某国、この期に及んでこれである。彼らにとって事実はいくらでもあるのであろう。DNA鑑定ですら遺伝子操作をした云々、その内にあれは交通事故であったとでも言い出しかねない。これは対岸の事象ではなく、此岸とて五十歩百歩なのである。受け取る側が能天気ではいつか五体はバラバラになっている。


682.感心するCMと


 騒音以外の何ものでもないCMが多い中、感心すると同時に印象深いCMもあるものである。最近のものでは、YKKの「窓」がその一つで、その出来は抜きんでている。以前、サントリーのCMで開高健なんかがかかわっていたころはそのコピーも香り立つものがあったが、最近では安っぽさと上滑りが目立ち過ぎて、センスがいい悪い以前の、ただけたたましいだけの安易なピンボケCMが多すぎる。それがそのままその会社、商品のイメージにつながることが本当にわかっているのかとさえ思ってしまうのである。私が社長だったら絶対に許さないだろうと思われるものがほとんどである。さらに付け加えれば、顔が売れている、「有名」であるという理由だけで作られたCMなどでいいものは100%ない。安易すぎると同時にイメージが限定されて面白味がないのである。これでは消費など伸びるわけがない。

 「なめたら、いかんぜよ」とは何に対しても言えること。やがてそのしっぺ返しは必ずくる。

                               2017 2/23

 


 

「ある日、その時」(59)1月10日ー

<掲載内容>

676.A nightmare of America? アメリカの悪夢? <番外日誌20170112>G・オーウェルと百田などとは「似て」非なるもの <番外日誌20170112>再び空疎な言辞「陰謀論」、「自虐史観」etc <番外日誌20170114>「阿漕殿」のご乱心が過ぎて 677.少しづつ慣らされていく怖さ 678.マッドドッグとゴマすりドッグの会談 679.「地獄耳」と言うべきか 680.もの言えば でんでん(云々?)虫の 殻も割れ681.希望的 観測に乘り 刻船(こくしゅう)

 

                                                                                                                             <転載・複製厳禁>



681.希望的 観測に乘り 刻舟(こくしゅう)


 刻舟とは、船から落とした剣を後で探すために船に目印を刻んだという故事からきている言葉で、時勢の移り変わりを知らず旧習を固守する愚かしさをたとえているが、それ以上に人間の愚かしさそのものを言い当てていて面白いものがある。希望的観測は、将来についての自分にとって都合のいい一見合理的判断のようにみえるが、要するに思い込みである。ともに過去、未来についての時間、空間を無視した人間の迷妄ということでは変わるところがない。もう少し過去、未来に対して謙虚にかかわるべきなのである。過去に対しては緻密な検証、未来に対しては現状の偽らざる認知が不可欠であるということ。人知には限界がある、そのことを明確に把握することから近未来に対する事柄が少しは見えてくるということにすぎない。ある有能なスポーツ選手が「私にはもう行く末がないので」とさりげなく語ったことが印象的であった。己の現状を的確に把握している彼には近未来が見えているのである。それは、それなりの活躍が期待できるということでもある。浮ついた思い込み、ヒステリーが行きつく先は、その程度に比例して破局も大きくなる。

                                        2017 2/14


680.もの言えば でんでん(云々?)虫の 殻も割れ


 迷妄がますます深まり、正気を失っていく過程とはいかなるものか。「官・財」に対するものわかりのよさ、嘘と駆け引きと、すり替え、糊塗、ねつ造、で「わが想い」に腐心するあまり、まともに現実どころか字面を追うのもままならなくなるのもその過程に現れる一つであろう。シロアリ、クロアリ君たちが入り乱れて作り出した論理的には破たんをきたしているシュールな台本も身につく間もなく乱れ飛び、それを補助するプロンプターも「台詞」がどこに飛んだかわからないまま次から次へと場面展開していくというありさま。実のところ、本人たちも何をどう言っているのかさえわかっていないのであろう。ただわかっていることは自分たちの損得勘定だけ。その挙句の果てが、「未曾有」氏はミゾウユウとしか発声できず意味不明となり。先走りか、本心か「立法府の長」氏には、「云々」も「デンデン」にしか見えず、思わずプロンプターも奈落に足を滑らす始末。およそ日本の文化などとは無縁の者たちがその精神性を高らかに歌い上げる時、もし「普通である」なら別の理由が隠されていることくらいは誰でも感じられることであろう。本来、文化、歴史などは「歌い上げる」必要もなく良くも悪くもにじみ出てくるものである。ほんとうに未来につなげ得るものを見い出すには実情をありのままに見つめて、良きものと悪しきものを峻別する必要がある。悪しきことをなかったことにするようなすべての営為は人類を逆行させ、未来につなげる様々な糸を断ち切ることになる。いつまでも一人の人間の「思い込み」に便乗した「官・財」のたくらみに未来を託しているようでは地獄は突然現れる。なぜ「突然」なのか、それはその直前まで恐ろしく「軽いノリ」で進んでしまうからである。言い換えれば、よほど注意していないと意識外で、認識されることもなく悪性癌のごとく進行するということである。その「判例」の類は、世界でも枚挙にいとまがあるまい。

 すでに脳髄の数パーセント程度しか自分だけの居場所もなくなりつつある現在、「安全地帯」でささやき、つぶやき、大口をたたく「戦争ヒステリー」に巻き込まれたら、後はどうなるかわかりきったこと。

 しかし、申し合わせたように北朝鮮は日本海にミサイルを落とすものである。これは、防衛費の拡大に恰好の口実を与えている。一体誰にとって一番都合がよいことなのか。政治(戦略)とは効果である。効果があると思えば何でもするのが政治でもある。それを「陰謀論」などという訳のわからぬ空疎なコンセプトで括るカマトト振りなどいつまでも通用するものではない。どちらにしても「戦闘行為」であろうが「武力衝突」であろうがそのようなことが一旦起きれば、この小さな島国は兵器の効果測定の恰好の実験場となり、「意に反して」原発が点在する国土全体が死地と化す可能性もある。世界がありのままに見えない「戦争ヒステリー」の感染者と同調していると命はいくつあっても間に合うまい。

                                2017 2/11


679.「地獄耳」と言うべきか


  世の中には見るからに福々しく福相を持つと思われる福耳そなえた人もいれば、福耳というよりは頭部の大きさとは妙にアンバランスで、耳全体が大きい人もいるようだ。つい動物の耳、アンテナの類を連想してしまうが、耳全体が異様に大きい人というのは政治などに携わる者に特に多いように思われる。どのような微細な音も聞き漏らさない「地獄耳」というべきなのか。そのような耳の持ち主の言動をよく見ていると、何事もそつなくこなしているようだが自分のことしか頭にないのが見えてくる。政治レベルで言えば、国民のことなど二の次三の次ということになる。大きな「地獄耳」は自己保身には最適なのであろう。福耳と「地獄耳」を取り違えるとえらいことになりそうである。

                                 2017 2/5


678.マッドドッグとゴマすりドッグの会談


 「アメリカ合衆国日本州」(これは2,3年前このサイトで遣った私の造語)のゴマすりドッグとアメリカ本国の海兵隊で鳴らした「殺人狂」マッドドックの会談。日本に来たマッドドッグの顔をつくづくと見てしまった。どのように正当化しようとも大量に人を殺した者の顔にはやはり確実にその痕跡が残るものである。そして、周知のゴマすりドッグの方はといえば、その顔には驚くほど何の痕跡もない。根本的に「作り」が違うのである。それは、自国民を競売に出すようなことをしても、おためごかしとすり替えと美辞麗句で自らも酔いしれて何の痕跡も残さぬ顔なのである。どちらが怖いかというより両者が体現している「人間」というものの怖さである。

 トランプはアメリカのある半面、アベも日本のある半面。しかし、アメリカがトランプによってそのイメージを変質させられた(知識階級にはすでに認知されていたこと)ように、日本もアベによって辛うじてあった「精神文化的イメージ」までも汚泥まみれになってしまった。トランプとアベ、実はその根幹部分は同質である。愚かしい騙りがいつまでも手を変え品を変え繰り返され、それが成功する。「人間」というものを直視できない単なる「お人よし」だからつまらぬ詐欺に引っかかるのであろうが、それは「普通であるなら」ガキでも騙せないような嘘である。そんな騙りにいともたやすく引っかかる者たちとは一体何者なのかと聞きたくもなる。手に「お縄」がかかっていないことだけを誇りに首に「お縄」がかかっているのも気付かぬ人々、このような者たちによって「支持」されているアベ一族郎党、それがそのまま「アメリカ合衆国日本州」を作り上げているのである。

 これも以前取り上げたことだが、すぐに「対案を出せ」という無能な者たちについて、これは「政治屋さん」の類の十八番であるが、否定されるとすぐ口に出すセリフでもある。政治レベルで「対案を出せ」とは民主政治の「いろは」も知らないことを自己暴露しているようなものである。それは国民に対して「対案を出せ」と言っているようなものなのである。国民、野党は常に「批判」、「抗議」するだけで十分である。それすら希薄になっているのが現状であるが、それは「批判、反対ばかりしていても仕方がない」と批判、抗議があたかも反・非建設的な姿勢であるかのように丸め込まれてしまっていることにも起因するのであろう。批判、反対に対して的確な処置、統合ができないのは器量のない証でしかない。あるいはその内容自体に問題があり、廃案すべきものであるということをいっているにすぎない。批判、抗議する側にいる者が将軍様の「御紋」と同体化してただ隷従するのみでは民主政治などすぐに崩壊し、全体主義に移行するのは火を見るより明らかである。

                                      2017 2/3


677.少しづつ慣らされていく怖さ


 それは巧妙に「人間性」を破壊し続ける作業でもある。

 内閣支持率67%、これが本当の数値なら政治的暗愚も極まれりの感がある。それに関連してマスメディアの姿勢、報道内容が常に問題となるが、そもそもマスメディアの情報に全面的に信を置くこと自体が衆愚であることの証でしかないということは何も今始まったことでもない。そうかといってネットなどの匿名集団の怪しげな、あるいは「まとも風」な言説などを無批判に真に受けるのは危険であることは言うまでもないこと。要するに、マスメディアのあらゆる情報について取捨選択する能力がなければただ混乱させられるばかりで,その内にまんまとデマゴーグの罠にはまることにもなるということである。

 マスメディアの 報道の構成シナリオの虚偽をどこまで読み解けるか。ネットなどの真偽をどこまで見抜けるか。感情の虚偽に巻き込まれずどこまで冷徹に見据えることができるかにすべてはかかっている。それが唯一身を守る方法でもあろう。

「変だ」、「おかしい」と思ったら真実は大方その中にある。それに対して誠実に対応するものを良しとし、そこから遠ざかるものはすべてあやしく、いかがわしいものと見る方が賢明であろう。丸め込む方向に進む「権威」と称されるものはいくらでもいるのである。

                                                           2017 1/23

 しかし、自らの終焉の場所探ししか頭にない高齢者とアイホン片手に頭はバライティ状態の者たちが作り出す支持率であるとするなら、すべてはさもありなんである。ただし、それだけではあるまい。わが身に火の粉が降りかからないうちは沈黙するのが賢い方法と思っている者もいることであろう。それがいつの間にか致命傷となるのである。この「少しづつ慣らす」、知らず知らずの内に事を進めるというのは全体を覆う作業の常套手段である。気が付いた時にはすべては手の打ちようもなくなっているということである。

 

                                       


<番外日誌20170114>

 「阿漕殿」のご乱心が過ぎて、行く末も見えたりというところである。

 1兆、2兆と豆腐を勘定するような拝金教の使徒さながらの血税のバラマキ外交。それに乘って周囲は身ぐるみ剥がされているのも知らず裸踊りである。どのようになろうとも「阿漕殿」とその周辺はその責任を取ることは決してないということである。むしろ、責任の取りようがないといった方がいいだろう。責任をとって辞めても、謝罪しても崩されたもの、失ったものはもはや取り返せないのである。その影響がどこまで続くのか・・・、どちらにしても「放置」、すなわち「無関心」は悲惨な状態を限りなく生み出す。


<番外日誌20170112>

 これもまた以前述べたことでもあるが、「陰謀論」、「自虐史観」などの言辞とその遣われ方をみていると、よくもこんな言葉がまかり通るものだと思われるほど内容的にも浅薄で、皮相な人間観察だけが浮かび上がってくる。それはまた独り善がりで稚拙なアフォリズムさえ彷彿とさせる。要するに、わかったようなわからないような、そうかといって判読の余地もない、ただそのような言葉を遣う側の「位置」と「器量」のほどだけがよくわかるだけなのである。それがこれらの言辞の確かなコンセプトともいえる。「実証性」(?)を重んじる者さえ「陰謀論」などという言葉を遣うというから恐れ入る。これらの言葉には厳密な意味は微塵もない。簡潔に切り捨てれば、すべてのことは、悪魔にも天使にもなり得る「人間」がやっていることである。今更どの面さげて柄にもないことを言っているのかということである。権謀術数は時を得れば常に渦を巻く、権力の中枢ともなれば尚の事、歴史観に「自虐」も「嗜虐」もあるまい、ここに至ってはあまりに幼稚過ぎる。都合の悪いことは改ざん、末梢する、現に今やっていることであろう。俗世に生き長らえ、いい年をして「かまとと」振りは醜悪で見苦しい。過去に事跡がないから存在しなかったなどとは言い切れないのは、現に今やっている改ざん、末梢が見事に証明している。

 このような言辞で何か言った気になる、また、わかった気になる、実は何も言っていない、何もわっていないに等しいのであるが、それがわかっていない。これもまた縁なき衆生の類であろうか・・・


<番外日誌20170111>

「カエルの楽園」(新潮社)の出版社の惹句には,大衆社会の本質を衝いた、G・オーウェル以来の寓話的「警世の書」とある。G・オーウェルと百田などとは「似て」非なる典型でもあろう。敢えて言うなら、一方は本物で、他方はキッチュということになる。それは作家と単なる売文業者との違いともいえる。「流行作家」などと呼ばれている者の多くも単なる売文業者であると見た方が賢明な場合の方が多い。そもそもG・オーウェルは百田などとは立ち位置、スタンスが根本的に違うのである。したがって、その作品の内容も後は推して知るべしである。案の定、その内容たるやあまりにも皮相的である。ほんとうに作家と言いうる者であればその「根幹部分」(根本姿勢など)も含めて問題となってくるのが古今東西の揺るぎない実情である。因みに、周知のとおりG・オーウェルは誤解されやすい作家でもある。言い換えれば、本人の意思に反して利用されやすい作家なのである。百田も出版社もそれに乗じているのであろうが、すでに底は割れている。

 それにしても、最近読んだ面白い本は何かという質問に、某社長がこの「カエルの楽園」と石原の「天才」だというから余程読む本を知らないのであろうと思われた。それともそんなところを出しておけば「無難だ」とでも思っているのだろうか?そうではないだろう。だからキッチュ文化が盛んなのである。

 ついでに言えば、1%富裕層100万に取り入れば、またはそれら人々の意思に沿う内容であれば「本屋でNO1」、「ベストセラー『作家』」になることは容易であろう。現在は特にその傾向が露骨になっている。それで食う者、食われる者、そしてほくそ笑む者。


676. A nightmare of America  ? アメリカの悪夢?


  トランプはtrumpではなく、ダークなジョーカーである。

 私は、「自由の国」などというキャッチコピーのような幻想をアメリカに対してかつて一度も持ったことはない。したがって、アメリカに行きたいと思ったこともないし、今後行くこともない。今でも陰湿な軍事国家よりは多少はまだまし程度にしか見ていなが、私自身は「左」「右」問わず全体主義的傾向とはまったく反りが合わないからその傾向が少しでも出てくれば距離を置かざるをえなくなる。これは前にも書いたことであるが、「トランプ」のような存在は何も今アメリカに突然現れた訳ではなく、アメリカの「構成要素」の中に綿々と息づいていたものでもある。それを危うい「良心」のようなもので何とか支えてきたというべきか、取り繕ってきたというべきか、それも限界に来たというところであろうか。いつか登場しざるを得ない存在が表舞台に出てきたということである。身も蓋もない言い方をすれば、イギリスから流れ着いたあまり質の良くない部分の末裔ともいえる存在が自らを省みることもなく自己主張を始めたということである。今まで何とか「よそ者」や「外国人」も含めた「良質な部分」(実際、そのような人々抜きには語れないのがアメリカであろう)が体よく収めてきたものを「偽善」よろしく取り崩し、開き直りの偽悪の権化と化しているのであるから世話はない。それがアメリカの偽らざる実態でもある。見方を変えれば、これはアメリカ「本体」の全体を知るいい機会でもある。トランプが独走態勢に入れば、女優メリル・ストリープがいうようにその内に「アメリカにはアメリカンフットボールと総合格闘技のほかに見るべきものがなくなる」というのは至極当然なことなのである。それは同時にアメリカの悪夢の始まりというより、そもそもの始まりから並走し続けてきた悪夢が一挙に噴出したということである。もちろん、それにただ隷従するだけの日本がその悪夢と同床異夢とは行くまい。

                                       2017 1/11

追記:私は、専門筋の一見理路整然とした分析、説得力のある言説、それについては敬意を払いつつ参考にもするが、さほど興味はない。常に、言い果せて何かあるという思いがある。実際、その通りになる事は稀であろう。

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