両忘の時‐ある日、その時‐

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「ある日、その時」(58)12月13日ー

<掲載内容>

669.テレビドラマとは「手抜きドラマ」のこと 670.糊塗、ねつ造、すり替え、言い換え、美辞麗句のオンパレード 671.「偏向報道」,「普通の報道」という御仁にも・・・672.いい年をして「戦闘ゲーム」にハマるとは?673.「金もない、時間もない、気力もない」という者たち  <番外日誌20161230>ー抒情詩人気取り 674.「デラシネ」のリバイバルとは? 675.「法華経」も「田中角栄」も方便とは

 

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675.「法華経」も「田中角栄」も方便とは


 保身のためなら手段を選ばぬという恰好の手本のような人物である。ある時は、「法華経」に理解をみせ「ある層」の支持を取り付ける。そして、この期に及んでは米国の意のままに動く「多くの者」とともにお膳立てされた正義を振りかざし「先陣」を切って葬り去った人物を今度は英雄、天才扱いで祭り上げ自己正当化を図る。すべては、自己保身、「義」などは爪の垢ほどもないことなどすでに一連の言動で実証済みである。実際、この人物のどこに「法華経」の世界が息づいているのか、田中角栄が多少なりとも持ち合わせていたと思われる矜持と義侠心ですらこの人物のどこを探してもあるまい。今頃「田中角栄」を掘り起こして持ち上げる、これが本心なら今まで何を見ていたのか、やっていたのかと改めて問いただしたくなる。どちらにしてもまた何らかの「効果」を考えてのことであろう。そういう人間なのである。その「効果」の要とは、己の欺瞞性の攪拌、霧散というところであろう。政治活動にはかねがかかる。アメリカ型民主主義は、かねを集められない者は政治の舞台には立てないのが現実である。選挙、政権運営はかねがかかるものである。それが実情である。それを「金権政治」というコンセプトでまとめ上げて鬼の首を取ったようなことを言ってみてもそれ以上の追究がなされなければ何の意味もない。あたかも「徳の政治」が実際にあり得るかのごとき「金権政治」に対する嫌悪、それは画餅に等しいというより、したたかな罠に容易にはまる「未成熟」さといってもよい。要するに、選ぶ方も選ばれる方も、書く方も読む方も「餓鬼」なのである。そこには程度の差しかない。

                                  2017 1/1 


674.「デラシネ」のリバイバルとは?


 「デラシネ」とは、周知のとおりdéracinéというフランス語で、「根こそぎにされた、根無し草になった」、名詞として使われる場合は、「祖国(故郷)喪失者、根無し草」などがある。日本では五木寛之が「デラシネの旗」を書いた頃、すなわち学園紛争が盛んであった1969年以降よく遣われた言葉でもある。しかし、雰囲気的に遣われた言葉でもあり、本来の言葉の意味の厳しさはない。最近の「ノマド」という言葉の使用状況とさしたる違いもない。「デラシネ」(帰属なき者)にとって「かくあるべし」とは呪縛以外の何ものでもなく、「願望」はあるが特定組織に終始なじめず、どこかにある疎外感が常に「余計者」意識を醸造し、それが全身全霊身を投じて行動するところまで行くと自己乖離を引き起す。「余計者」という意識は、「臆病者」の意識構造とは違うが、覚めざるを得ない意識が否応なく抱き込む「臆する」領域の多さも否めない。それは疑心にかこつけて都合のいい回避も強いてくる。「デラシネの旗」の主人公はパリの五月革命のさ中、昔の同士にも会えず再び「宙ぶらりん」のまま愛人の脱いだ紫色のブラウスを旗に見立てて凱旋門に向かって行進する。「宙ぶらりん」、「中途半端」、「余計者」、どこにも属することのない者、それらを称して「デラシネ」とでもいうのだろうか。小説では主人公が自分の今の社会的位置に後ろめたさを「持ち続け」ていたということであるが、それも現実的にはどこまで可能なのか、そして映像に映った昔の同士の姿に自分の当時の熱き思いが蘇り、五月革命のパリに向かうという行為であるが、これも実際にはほとんどあり得ぬ話である。パリの五月革命の実情と本人の「思い」とは何の関係もない。ここにこの人間がほんとうは何をしたいのかという疑問も出てくるのである。この主人公は過去の「熱き思い」に振り回されているだけではないのか、だから現状の世界の問題とはズレが生じてくるのである。この「ズレ」を「デラシネ」と観念的に誇張気味に捉えているとも思えなくもない。「わが青春に悔いなし」ではなくわが青春に悔いが残ったので悔いの「打ち直し」にパリまで来たがもはや遅すぎて居場所がないというわけである。居場所がないというのは余計者ということである。それを「デラシネ」という言葉で言い換えた時点で余計者は単なる「根無し草」となり、いつしか自恃と矜持を失う。

 日本で遣われた「デラシネ」という言葉、観念的過ぎてどちらかというと負の正当化として雰囲気的に多用されたきらいがある。そして、今「難民こそ現代のデラシネである」と「デラシネの旗」の作家は言う。強調するまでもなく、難民が祖国喪失者という意味のデラシネであることには今も昔も変わることはない。彼の言う「新しい『デラシネの時代』」」とは、今までのような観念的な領域に留まらず具体的な祖国喪失者の時代ということであろう。しかし、新旧の「デラシネ」など存在はしない。旧来のものが不適切に、雰囲気的なものとして遣われ残滓が残り過ぎたということに他ならない。今、何もわざわざ手垢と埃にまみれ、「時」にデフォルメされた言葉を敢えて遣う意味はあるのかと思われるが、作家自身が「デラシネ」という言葉に与えてしまった観念的で抒情的意味合いを払拭し、難民という確たる具体的な状態として、ある意味でエネルギッシュな意味合いを持たせたいのであろうが、どうであろうか。

 正直なところ、こうしたレトリックにはあまり興味はないが、ややもすれば「殺人」を「ポア」、「積極的平和」と言い換えてみたり、アベのミックス風すり替え、言い換え、情緒的言語の多様、置換のレトリックと大した違いはなくなる危うさを持っている。常に情緒、雰囲気に流されるのが大衆でもある。それを知っていてやっているとすれば確信犯である。少なくとも文化に関わる者、学者、作家などは知らなかったでは済まされぬのである。

                             2016  12/30


<番外日誌20161230> 抒情詩人気取り

これは「抒情詩 人気取り」ではなく、あたかも抒情詩人のように「歴史上の事象」を語っていることをいっているのである。この幇間詩人が幇間政治というものを取り仕切っているように見えるが実は周知のように傀儡幇間である。よく見れば手足もバラバラ、最近では糸もこんがらかっている。そのうちに切るより仕方なくなるだろう。どんな仕草になるか楽しみである。



673.「金もない、時間もない、気力もない」という者たち


 日々仕事に追われ、帰ったらテレビをつけっぱなしで食べて寝るだけという50代後半の下層労働者。日々の流れ以外の世界にはまったく興味を示さない。考えることも面倒だという。生きている限り今の状態を続けざるをえないのでできれば死んで早くこの状態から解放されたいと思う気持の方が強い。要するに奴隷とさして変わるところはない状態なのである。違いは具体的に鎖を付けていないというくらいで、精神、肉体ともにまったく閉ざされた状態にある。しかし、本人はそのことに気付いていないか、たとえ気付いていても「なす術もなく」日々が過ぎていくというのが実情なのであろう。そして、「予定通り」体を壊し、病死あるいは餓死ということになる。結局のところ、彼の人生は本人の意識とは別に、生きる術を見出した時からその世界にからめ捕られ、とても人間といえない生活を送ってきたのである。生まれて、いつしか自分で選び取ったかごとくに奴隷となって、その境涯が何なのかもわからず死を迎える。それは、とても「人生」などという代物ではない。それが明確にわからないからこのような状態を甘受できるのであろう。もし、そのような「人生」にも価値を見出そうと意味付けてもそれは単なる気休め以上のものでもなく。真剣にその作業をすればするほど滑稽にもなってくる。そして、その時点で完全に「詐欺師」の術、手中に収まっているのであるが、たとえ気付いても手遅れなのである。大方はそこまでには至らず現状の自己とはまったく異質である強者の論理と自己を同体化させ、所詮は弱者間での弱者攻撃でしかないことで己の位置を満たそうとする。そこにわずかな差異を見出すことによって辛うじて自己を納得させているのである。

 「目くそ鼻くそを笑う」、笑っているうちはよいが、現状ではそれでは済まなくなっているであろう。「目くそ」にも「鼻くそ」にも実のところ「『人』生」など存在はしない。もし、あるというのなら語ってみよ。その「気力もない」というのなら人生など存在しなかったのである。

 街には、男か女かも区別できない同じような衣服の者たちが溢れ、そこかしこには必ずと言ってよいほど迷彩服の男女いる。ベビーカー、子供用の自転車ヘルメットまで迷彩色であることも多い。売家、売地、シャッター通り、それらがまったくない街の通りに佇むことは今やあり得ないと言ってもよいくらいである。

 万死に値する者たちが平然と世を動かしているのであるからこの風景も情景も当然のことなのである。色彩の消えた面白味みないグレー一色の世界である。どうしてここまで来てしまったのか。風に吹かれていい気なことを言っている場合ではあるまい。因みに、ボブ・デュランは決していい気なことは言っていないし、歌ってもいない。

                                2016 12/25 12/27


672.いい年をして「戦闘ゲーム」にハマるとは?


 「30代、50代がハマる」という「戦闘ゲーム」のコピー、これがほんとうならいい年をして何をしているのかと思われるが、それは現在の30代、50代というのが思っている以上にいかに幼稚であるかを如実に物語っているのであろう。この幼稚さには致命的欠陥すなわり想像力の欠如があり、それは自ずと思考停止状態を作り出す。専門領域以外はまったく無関心というのも一種の思考停止である。(その実例は枚挙に暇があるまい)そして、いつの間にか「戦意高揚プログラム」の一環にまんまとハマることになる。現状は小理屈、薄っぺらな正義、正当性にかこつけた、ただ銃弾を消費したいがための戦闘映画が溢れ、それがまた妙に美化されつつ、暴力の心地よさを喧伝することになる。「忌むべき非日常」に憧れとロマンさえ感じさせる「戦意高揚プログラム」は「平和とは戦争である」ことを前意識、潜在意識へと隈なく浸透させるのである。それは「人間の境涯」が辛うじて押しとどめていたものを解き放ち、いともたやすく自らの脆弱さも忘れ思考停止の戦闘マシーンへと導く。自分自身の置かれた実情も忘れさせる根拠のない全能感は極めて剣呑で、悲惨である。この手のプログラムの最終結果は、もはや類推することがまったくできないほどの荒廃しかない。

 

○ずる賢い計算の上で、あたかも「義」があるがごとく弱者の大量殺害を行った殺人犯の許されざる「幼稚さ」。これも「作られたもの」である。

○もんじゅ高速増殖炉廃炉について、「もんじゅはわが子のようにかわいい」と言う元所長の「幼稚さ」。これもまた「作られたもの」である。

この「幼稚」さは、それ自体がマッドを生む要因でもある。

 「餓鬼の目に水見えず」とはよく言ったもので、餓鬼には目先のことにしか頭にない。大局を見渡す想像力など餓鬼はまったく持ち合わせてはいない。だから、幼稚だ、ガキだと言うのである。

 しかし、高速増殖炉に文殊(もんじゅ)とは恐れ入る。これも「平和は戦争」という類であろう。さすがの文殊菩薩もついに堪えられなかったのであろうか。

                                   2016 12/21


671.「偏向報道」、「普通の報道」という御仁にも・・・


 「偏向報道はいい加減にして、普通の報道をしてほしい」と一見もっともらしいことをいう作家・ジャーナリストがいたが、この御仁のオスプレイについてのコメントには笑止。この御仁曰く「米軍によって公表されていること。これ以上何が問題なのだろう」云々、これはもうジャーナリストでも作家でもあるまい。要するに問題にすること自体が「偏向」だというのである。この御仁の「普通の報道」とは「米軍発表」、「政府発表」をそのまま流し、それで事足りるべし、納得せよということのようだ。これでは「大本営」が公表していること、これ以上何が問題なのかと言っているようなものであろう。これで作家だ、ジャーナリストでございとはとにもかくにも噴飯ものである。単なる売文業者ということでもこんな見え透いた内容で商売してるとはお里が知れるというものである。

 昨今では、売文業者でしかない者も作家といい、垂れ流されたものをただ溜め置きしているジャーのようなものをジャーナリストと呼ぶらしい。

                              2016 12/20


670.糊塗、ねつ造、すり替え、言い換え、美辞麗句のオンパレード


 「疑似独裁者」の宿命なのか、よくもこれだけ空疎な実体のない言葉を次から次へと連ねられるものである。この「疑似独裁者」が言っていることは、すべて官僚組織が放った「家庭教師」のような首席秘書官の口移しで、勢い場当たり的な「かわし方」が中心となり、肝心の問題は常に放置されたままとなる。すべてはポーズと言ってもよく、何かやっている振り以外には実質的には進展どころか危ういところだけが増殖して行くばかりである。それでも何かやったような印象を与えるためのツーショットの「絵」だけは流される。「言ったこと」や「放置したこと」の忘却の繰り返し、それに対する微塵の忸怩(じくじ)もない。これも自分で考えたものではない証左である。「家庭教師」の決して責任を負うことのないその場限りの打開策をそのまま自分の考えのように言っているだけである。したがって、時折言うべき「セリフ」を忘れたり、即興性が必要な領域に入ると、もろに主体の欠陥が露呈する。敢えて言うまでもなく、「疑似独裁者」とは木偶人形、操り人形のことで、自分自身というものはほとんどないに等しい。官・財の「風」次第でどのようにも動く。当座は「オメデタイ」者たちを騙せてもやがて世界レベルの信用の失墜は免れない。それにしても、メディアのこの木偶人形に対する北朝鮮並みの煽り方には思わず虫唾が走る。取り分け「傀儡師」の周辺は、罪作り、阿漕で溢れかえっている。彼らは止めようとする者がいない限りどこまでも暴走することだけは確かなのである。「ええかっこしい」、沈黙、無関心こそ彼らが望むところでもある。

                                                                                                       2016  12/16

 


669.テレビドラマとは「手抜きドラマ」のこと


 もはやテレビドラマなどは手抜きドラマにしかなりようがないのである。そのようなものに関わる者(製作、俳優、スタッフなど)も、そのようなものを観る方もどちらにとっても百害あって一利なしというところであろうか。垂れ流し同然に繰り返されれば、脳細胞もキッチュそのものに変質するか、神経細胞に変性をきたしかねない。もっとも、何をやっているかもわからぬ日雇い労務者のようなスタッフ、不動産屋がやっている芸能事務所のにわか仕立てのタレント役者などには一利くらいあるであろう。この傾向、実態は互助会並みの「よいしょ集団」の笛の音ばかりが聞こえるだけで当分変わることはあるまい。言ってしまえば、A級、B級、C級などといわれる段階でもなく、その埒外でワンショットも観るに堪えるものがないということである。総じてテレビ一般についても、よくこんなもの作って金をもらっているなという思いひとしおの昨今である。企業も疲弊し、感性が劣化しているのであろう、よくこんなものに金を出すものである。マーケット・リサーチなどでは大衆の屈折した心情を捉え切れないのは当然であるが、いくら「プロ」まかせとは言え宣伝効果も上がらないものに金を出しても仕方あるまい。無駄に銭を使っているだけである。実際、CMなどにしてもつまらぬCMが多過ぎる、というより逆効果ではないかと思われるものの方が多い。要するに安手の「『プロ』まけせ」という発想自体が安易なのである。ついでに言えば、企業のブラック化とは無能の証、人材不在の企業に明日はない。

 テレビの「テ」は手抜きの「テ」、「レビ」とは「レビー小体」が関係しているとしか思えないのである。

                                   2016 12/14

 


 

 

「ある日、その時」(57)10月31日ー

<掲載内容>

661.知らぬは国民だけ  662.「アスリート ファースト」? 663.「日米同盟は普遍的価値」?664.ドラコマルフォイと見間違えた  <番外メモ20101112>土人大臣 <番外メモ201611114>「ポチ政権」の今後の粉飾 665.「内閣支持率50%超え」?最悪の冗談 666.「日本の損得」?667.「男の約束、友情」?668.テレビ報道も94%が嘘

 

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668.テレビ報道も94%が嘘


 テレビ報道も94%が嘘であると思ってみているとある種の「整合性」が見えてくる。報道されるべきものが報道されていないことは実に怖いものである。これは明らかに意図的なことで、報道されないこと、すなわち歴史の隠蔽、改ざんが日常化しているということでもある。実は、国民の多くが気になっているが、そのことについてはまったく報道されないということはそれなりの理由があるのである。それは問題が自然消滅、解消したわけではなく、見る見ないに関係なく今もなお確実に問題として在り続けている、というよりむしろそれは見えないところで逆に肥大化していると見るべきなのである。それを忘れているとやがて取り返しのつかないことになる。「今日は常に昨日の明日」であることに変わりはない。昨日を根拠としない今日という明日は語りようがないのである。語りようのないこと語ろうとすれば巧言で凝り固めるより手立てがなくなる。「4年後」のことなどに気をとらわれていれば現実に起こっていることすら捉えきれずやがて足をすくわれることにもなる。「現」(うつつ)を見ることもなく、ギャンブル、祭典に「現」を抜かす者ばかりでは何事においても埒は明かないのは自明の理。しかし、現状はさらに複雑に「現」を「見る」からこそ何ものかに「現」を抜かすように仕組まれてしまっている。彼らは仕組まれていることすら気づいてはいないだろう。そこには「自分だけは」何とか切り抜けられると思う気持ちが其処彼処で渦を巻いているからである。それこそが実は御す側の思う壺の一つであることも知らずに。

                               2016 12/4

                            


667.「男の約束、友情」?


 政治レベルの事柄に「男の約束」、「男の友情」とは恐れ入る。それは思い込み、詐術の類以外にはありようがあるまい。強きを助け、弱きをくじくような者が任侠道よろしく男の約束、友情を装ったところでそれ自体が空疎の証左でもある。今後いかなる「非公開取引」をしようともその内実は相手、周囲から明るみに出されることになろう。実際、すでにツーショットの相手方は舌の根も乾かぬうちにその「思惑」とは正反対の動きを示している。そもそも公約で全面に出した内容ですら、そんなことは言った覚えがないと平然と言える者たちの「約束」、「友情」である。後はすべて推して知るべしであろう。それは国内向けの、国内でしか通用しない「偏らない」政府一辺倒のマスコミのコピー専用文句ともいえるが、執拗に繰り返されることによって刷り込まれ、黒もやがて白のようになってしまう領域もあるということを忘れるべきではない。

                                  2016  11/27


666.「日本の損得」?

 トランプ誕生以後、「日本にとってどちらが得か」などという文句をよく見かけるようになったが、それを「庶民」がその気になって考える必要もあるまい。それは「庶民」レベルなど埒外のところで成り立っている話なのである。この「日本にとって」というのはごく一部の大財閥ことで、言い換えれば「日本の大財閥にとってどちらが得か」ということである。それを「庶民」の生活の損得に取り違えると痛手を受けるのは庶民自身である。「大財閥」と同調する「庶民」が常に裏切られるのは歴史が証明しているところでもある。大義がありそうな「日本にとってどちらが得か」は、実は「庶民」など不在なのである。「庶民」不在では成り立ちようがないのが国であるが、その成り立ちようがない日本と「庶民」を暗に結び付け、さも意味ありげに言ってみせているだけのことである。「日本の損得」、「この道しかない」とは正確に言えば「日本の大財閥の損得」の「道」で庶民の損得とはほとんど関わりがない。こういう文句ですぐに乗せられていては身が持たないのも道理であろう。

                                                2016 11/23


665.「内閣支持率50%超え」?最悪の冗談


 「内閣支持率50%超え、云々」、これは全国の18歳以上の2000人を対象に行った世論調査(時事通信)の「結果」であるらしいが、よく臆面もなく2000人程度の調査で「世論」調査などとして出すものである。これが「世論」? 現在の内閣支持率がほんとうに50%以上もあるのならもはや「回収不能」、行き着くところまで行って「落ちる」か、「落とされる」しかあるまい。これは意識の有無を問わず「大衆操作」が人々の中にあまねく行き渡ったということでもある。首に「縄」がかけられているとも知らず、「のり弁」ばかりを持たされピックニック気分になっているということである。やがて何で自分がそうなるのかもわからず死に至る最悪のパターンとも言える。

 「夢」だ、「希望」だ、「未来」だなどと、こんな言葉が頻出するようではもう末期的症状である。具体性が問われている時に、気分的な、情緒的言語ばかりでは無能の証左以外には何もない。

                                2016 11/17


<番外メモ20161114>「ポチ政権」の今後の粉飾


 「ポチ政権」が「ポチ」である限り殺されるようなことはないが、今まで以上に生かされることも決してあるまい。そこで今後起こり得る一つ一つの事象の粉飾がさらに際限もなく手を変え品を変え繰り返されることであろう。そもそもこのような「ポチ政権」が自主憲法だ、憲法改正だと騒ぐこと自体がいかがわしいのである。「ポチ」のどこに「自主」がある、自立した「ポチ」は叩き出されるだけである。しかし、血税で札びら切って媚び打って世界を股に掛けた風を見せて、その実何もないという希代の迷君様に一体何がある。そうかと言って「ポチ」を脱して「自主」だ、「自主憲法」だというほどの大義はどこにもない。たとえあったにしても場合によっては孤立化を強いられるか、潰されるだけ。彼らはよく未来を口にするが彼らほど未来を考えていない者たちはいないということを思い知らされることばかりである。根本は、今自分たちだけ良ければ後は野となれ山となれなのである。実際、現在の問題に対する責任も取れない者たちがどうやって未来に責任を取るというのかということである。もともと責任など誰一人として取るつもりはないのである。この厚顔無恥は半端ではない。常軌を逸しているということを肝に銘じるべきであろう。あなたたちが「他に適当な人がいないから」などという中途半端な知識で選んだ者たちはすべて「人間の境涯」を逸脱している者たちなのである。

粉飾その1.トランプと「夢を語り合う会談」?すなわち何もないということであろう。青臭い書生っぽ、三百代言、「御用」学者でもあるまいに「政治家」が夢を語り合ってどうする。今後この手の粉飾言語がますます氾濫することになる。

 汝の偽りごとのためにわが生に触れるな。


<番外メモ20161112>土人大臣

内閣府特命担当大臣 鶴保康介、 「土人」というのは差別用語ではないというのであるから自分あるいは身内の者が土人と言われても動じることはないはずである。だからわかりやすく土人大臣と呼ばせてもらう。


664.ドラコマルフォイと見間違えた


 トランプの幼年時代の写真が映し出された時、ドラコマルフォイかと思ってしまった。そのくらい内面の現れ方が似ているのである。ドラコマルフォイについては、ここで多くを述べる必要もあるまい。彼の父は、「例の人」すなわちヴォルデモート、旧姓メフィストフェレスとも呼ばれた者にかしずく者である。当然、その息子であるドラコマルフォイもその影響下にある。

 今、米国では「ティーパティー」を始め、教理も怪しげな新興宗教並みの動きをする数多くの集団の動きも活性化してきている。しかし、これも今に始まったことではない、今更驚くのは幼過ぎるだろう。トランプの登場自体を今更ながら驚いているようではアメリカという国を知らなさ過ぎるのである。米国の実態がより一層明確化されるという意味でもこういう事態はしっかりと受け止めれば違う展開の道も開けると見るべきであろう。「トランプが何を考えているかわからない、彼とのパイプがない」などと「もっともらしく」騒いでいる者たちがいるが、言い換えれば既得権益が崩されかねないことを恐れているだけとも言えるのである。既得権益側にもいない庶民が彼らと一緒になって騒ぐ必要はまったくない。ただ政権の無能さ故の付けを回されることはある。それは、彼らを思いのままにさせていた付けでもある。現在の自浄能力さえ皆無になってしまった日本の状況ではもはや自国内での自力の問題収拾、解決は困難であろう。こうした場合は、危険な面もあるが第三の不確定要素、それも現政権とは相反する方向を持つ影響力の強いものの存在が必要になってくる。ある意味では、「毒」を以て「毒」を制するしかない時もあるということである。今更、安倍政権に対して柄にもない分別臭い政権批判などしたところで虚偽の無限連鎖で対応するしか手立てのない政権にとっては何の意味もなかろう。それはあらゆるところで実証済みである。政治とは要するに「効果」である。彼をほんとうに倒すつもりがあるのならトランプのようなやり方に有効性があるということに過ぎない。実際に今、安倍政権と官僚機構に今までにない痛手を負わせたのは皮肉にもトランプの誕生そのものであろう。

 因みに、私はトランプのようなタイプの「人間」とは全人格的に水と油である。

 

                                2016 11/11


663.「日米同盟は普遍的価値」?


 これもまた昨今の米新大統領誕生に伴って「我が国の長」が発した言葉であるが、いかなる同盟であろうと普遍的な価値を持ち得る同盟などは存在しないし、今後も存在し得ることはない。この程度の歴史認識しかないものが講釈を垂れるのであるから堪ったものではない。たとえリップサービスだとしても「普遍的価値」という意味も正確には捉えきれていないのであろう。気の利いた言葉だけは次から次へと出てくる耳学問だけはある飲み屋の老若男女と同様、思慮分別、誠実さの決定的欠如が露呈している。これは何もこの御仁に限らないが、前代未聞のひどさがすべて渡っているというのも前代未聞である。

 他国の心配事については根掘り葉掘、自国については心配事が皆無であるかのような報道全般である。それは、いつかまた博多の陥没事故のように、「ある日突然」当然起こり得るものが見えないところで着々と進行しているということでもある。あまりにも「ないことにしていること」が多過ぎる。

 現在、実質的に日本は報道管制下にあると見るのが妥当であろう。少なくともそのような意識がないと足をすくわれる。伝えられるのは政府広報的な内容ばかりで、内容の吟味はすべて各自に負わされている。したがって、油断すれば自ら発言しているようで実はそのように思わされ、言わされていることに気が付かないことにもなる。

                                 2016 11/10


662.「アスリート ファースト」?


 「アスリート ファースト」とは、もっともらしいがこれもまた国民不在である。オリンピック競技場についてアスリートの気持ちを最優先させ、そのためには経費の増大も止むを得ないというのであれば、それは違うであろう。国民生活もままならないまま、さらにその負担も多くなるという時に、税金を使い祭典などに現を抜かしている場合かというのが多くの多少はものを考えている人々の率直な気持ちでもある。「アスリート ファースト」で国民(the people)は二義的(secondary)ということでは困る、というよりそういうことをしてまでやる意味はあるのかということである。それについてもまたもっともらしい「講釈」はいくらもあろう。しかし、「オリンポスの果実」はすでに腐っている。オリンピック利権の絡む者たちだけにとってそれは「おいしい」と言うことの過ぎない。このことについては以前にも書いた。(652)

 肥満した本体に何を着せても腹も足もはみ出すのは当然、どのような言葉で粉飾しても本体は変わりようがないのである。これも本体隠しの虚偽に導く手練の類である。

 いつまでも引き際も知らずのさばる老人は醜い。老害とは老醜の極みでもあろう。実際、利権にむしゃぶりつく者たちの面構えは例外なくどれも卑しい。百害あって一利なし。

                                    2016 11/8


661.知らぬは国民だけ


 「起こっていること」、「起こったこと」をまともに報じられないマスメディア。今に始まったことではないが、これではマスメディアの本来の意味はない。本来の意味など最初からあるのかないか不明な大メディアに性懲りもなく寄りかかってしたり顔の身の程知らずという者は意外に多いものである。そろそろ気が付いてもよさそうなものであるが、相も変わらず口八丁手八丁の何かありげな三百代言にころりと騙されているというのが実情のようである。しかし、これ程までに騙されるとは、要するに弱みを握られている、足下を見透かされているとしか言いようがない。いつでも骨抜きの棚ぼた状態では埒は明かない、時には肉を切らせて骨を切るくらいの気概がなければいつまでも経っても薄ら笑いを浮かべるしかない卑屈な奴隷根性とは決別できまい。もともと大メディアとは基本的に「御用」なのである。しかし、「御用提灯」ばかりでは飽きられるので多少異質の目立つものを取り上げているだけのこと。国民は国内事情に目も耳もふさがれ、肝心なことは何も知らされず、どうでもいいような情報ばかりが流されて中和された現状しか見えなくなっているということにもなる。日本人だけが日本の国内事情をよく知らないという実情はやはり異常であろう。そして、国民自身がさらに知ろうともしないというということが、「由らしむべし、知らしむべからず」、すなわち知らせる必要はないただ従わせればよいという為政者にとっても都合がよい事態となっていく。これでは「主」であるはずの「民」が自ら権利を放棄したことにしかならない。

 大衆の感情を代弁しているような振りをする、言い換えればそれを商売にしているお笑い芸人の類と大差ない者たちのズレたとんちきポピュリズムに同調しているようでは爆笑と勘違いのうちに悲劇の幕は一気に降ろされる。その瞬間、客席は静まり返り、やがて引きつりを起こし始めた焦燥感が辺りに充ちる。どこからともなく聞こえてくる嫋嫋とした笑い声は観客席からではなく降ろされた緞帳の隙間の奥からである。

                                 2016 10/31


 

「ある日、その時」(56)2016年10月5日ー

<掲載内容>

653.舞台監督と演出家の違いも分からずに 654.追及されると外遊させて 655.ノーベル賞を期待する作家とは 656.「日本よ、そして東京よ!」?¿¡ 657.一億総活躍とは一億総強制労働のこと 658.見渡せば、「御用」と「キッチュ」ばかりなり 659.「ピコ太郎」の登場の仕方 660.「東京国際映画祭」?

 

                                                                                                                      <転載・複製厳禁>



660.「東京国際映画祭」?


 経産省の勧めで1985年に始まったこの映画祭、観てみたいと思うような映画が一本もない映画祭である。つい先ごろも映画祭の「レッドカーペット」の上で見知らぬ女優と一緒に安倍晋三が詰まらぬ冗談を言って一人悦に入っている映像が流されていた。経産省(助成金は35%、2億4500万円)がかんでいる以上出てくるなとも言えまい。しかし、他にやるべきことは山積しているだろうと思われるが目立つところにはとにかく顔を出す男である。その割には、安倍晋三はまったく人気はない。TBSラジオ番組のリスナーアンケートでも84%が「安倍晋三は嫌い」と答えているのである。その理由もあまりにも当然すぎて、否定すべき箇所はまったくないから驚く。すなわち、テレビは安倍晋三の画像を映し出しす度に視聴者の意識から乖離しざるを得なくなっているのである。さも何かやっていそうなタラップの上り下りの映像、その空疎なパフォーマンスを繰り返し映し出すテレビに多くの人々はうんざりしているのである。

※内閣支持率50%という数値のからくりは少し調べれば誰でもわかること。

 「東京国際映画祭」は安倍晋三の登場でどれだけの人々が興ざめしたかは推して知るべしであろう。もっとも諸外国では、当初より安倍マリオの映画祭程度にしか取っていないのかもしれぬ。確かに諸外国の映画祭に比べればレベルは数段落ちる。もっとも当初より私のように見ている人たちにとっては今更敢えて言うべきことでもない。

 最近、やたらと「レジェンド」などという言葉を耳にするが、やっていることは本末転倒。

                                  2016 10/26


659.「ピコ太郎」の登場の仕方


 「ピコ太郎」の登場の仕方、実にいい。「これでいいのだ」と生きていたら赤塚不二夫も喜びそうである。今後このような形で自己表現の道を進む者も多くなることであろう。そういう意味でも画期的なことである。怪しげな芸能事務所とテレビ局のしがらみの中からはもう斬新なもの、面白いものは出てこない。

 さりげなく出てくる「ペン」と「リンゴ」の取り合わせ、ここでもうすでに「お座敷芸」の域は超えているのである。欧米の子供たちが「I have a pen」、「I have an apple」と繰り返しながら喜んでいる姿がなぜか印象的であった。もちろん、大人のイマジネーションも刺激する。これは単に言葉が短く単純だからわかりやすいというレベルの話ではない。

                               2016 10/23

追記: 本人自身も、たまたまその時持っていたのがペンとリンゴであったというようなことを言っているらしいが、そういうことはよくあることでもある。しかし、その「偶然性」にだけ焦点を合わせてこの「ピコ太郎」現象を「解説」するとやはり死角が出てくる。それは「コロンブスの卵」にもなりかねない。また、世の中にはリンゴが落ちるのを見て、何も感じない者と感じるがそれ程ではない者と、そこに「真理」さえ見い出す者とがいるだけのことである。それはそれまでの生き方の経過そのものが影響してくることは言うまでもないこと。ペンとリンゴに気づき一つのものに「仕立て上げる」作業そのものは万人にはなかなかできることではないのである。閃きの質にもよるが、閃きから具体化までの速度は連鎖反応に似て速い。だから、一瞬の内にできあがってしまうのである。

 しかし、現在どれだけの者がペンを片手にリンゴを持っているなどという時間を過ごしているのか。企業のブラック化は歯止めもかからず、思考、判断停止状態で認知症か夢遊病者のごとくアイフォン片手に動き回らざるを得ないサラリーマン諸氏にはそれは夢のまた夢でもあろう。勢い、日々俗悪番組の垂れ流しに終始することになり、そのまま洗脳状態になる。

 


658.見渡せば「御用」と「キッチュ」ばかりなり


 「御用学者」、この言葉も一頃よく遣われた言葉であるが、昨今では「御用メディア」、「御用タレント」、「御用評論家」、どこまでが「御用」でないのか区別する方も大変である。「御用」とは、要するに立ち位置も、軸足もスタンスも多くの人々の側にはいない者のことである。従って、必ず無理なこじつけ、すり替え箇所がある。今後ますます「御用提灯」も変幻自在となっていくことであろう。「心理学」、「メディア論」、「国際政治学」等々を駆使して、現状認識を変質させ、「キッチュ」に慣らしていくのである。「キッチュ」は本物を知っていないと面白味も、味も素っ気もないのであるが、「キッチュ」しか知らなけば悲惨である。しかし、現状は「キッチュ」の「キッチュ」といってもいいような状態である。「キッチュ」に慣らされてしまうとどこに行ってもそこから抜け出すことが難しくなってくる。それは、がん細胞と同様、細胞レベルの問題にも似て困難なのである。

 要するに、「要」隠しの「キッチュ」天国、「御用」天下では面白くないのである。ただ騒々しいだけの話である。「騒音」出して、さほど文句も言われず金儲けできるのは、得体の知れぬ街宣車の類とバラエティー化したマスメディア位であろう。

                                                                                                        2016 10/20


657.一億総活躍とは一億総強制労働のこと


 最近の電通の女子新入社員の自殺を見ていても、総活躍どころか総強制労働といったところである。こんなことをやっているから「まともな人間」が育たないのである。それは遅かれ早かれ必ず燃えつきるか、自ずと「精神的奇形」を作り出す。その世界でたとえ生き延びたにしても人間失格、あるいは人間破綻と同格の者にならざるを得なくなるのである。そのような状況の中でも生き延びた者を「勝ち組」などと言うのは醜悪以外の何ものでもない。「勝ち組」などとは言ってもその内情とは恐ろしく虚ろなものであることが多い。それは自らを殺し、あるいは他者によって殺された領域が多過ぎるからである。企業がエコノミックアニマルと称された時期の旧態依然とした社訓を金科玉条のごとく実践しているのならエコノミックアニマルはさらにエコノミックインセクトにならざるを得まい。この時点ではもはや喜怒哀楽すら希薄となり、「人間」としての様々な可能性は断たれたことになる。万が一「明日」があったとしても本当には感じ取れまい。消耗するだけの者にろくな仕事はできないのはどの領域でも同様である。

 一億総活躍とは一億総強制労働のことなのである。鉄格子もなくドアの開閉も自由であるが自分で自由に使える時間はほとんどなく、四六時中監視され、思考停止状態で働かされるのを一億総活躍と言っているのである。「彼ら」はすべての者を管理下に置いた有刺鉄線のない強制収容所を作ろうとしているのである。それすら感じ取れないなら感性そのものが腐っているか、すでにエコノミックインセクトそのものになっているのである。エコノミックインセクトとは「人間」としては敗者であり、ホモサピエンスの劣化、後退である。

追記:後日、電通の現役社員の言うことには呆れ返るばかりであった。飼いならされるとはこういうことをいうのである。しかし、こんな社員が「作り出すもの」、「出来」などは自ずと知れるというものである。残業、待遇については「他はもっとすごいのでは」の勇ましい「ご意見」にはもはや打つ手なし。ご勝手に、死ぬまでやってなさいと言うしかない。

 ただし、敢えて言うまでもなく、死ぬほど働くことが「生きがい」という人たち、働いていないと間が持たないという人たち、また、働いていた方が身のためという人たちもいることであろう。「小人閑居して不善を為す」ということもある。働くこと自体についてとやかく言うつもりはない。消耗しかもたらさぬ働き方を問題にしているのである。

                            2016 10/19

追記:2016年12月 電通は日本ブラック企業大賞を受賞した。人間を放棄するか死に急ぐ者のみ入社が可能ということである。運よく退職するまで持っても後遺症が残るのは当然で、それも自業自得。元電通とあったら要注意。ただし、5年未満であれば再生の道もあろうかと思われる。


656.「日本よ、そして東京よ!」?¿¡


 「日本よ、そして東京よ」、ただ醜悪なだけの男が、棺桶に両足を突っ込んでまで何を寝言を言っているのかというところである。そんな男の与太話を「このような時」に載せるとはさぞかし深い縁があったのであろうと思わせる産経新聞である。徹頭徹尾、自分のことにしか頭にない男がこの期に及んで己に酔ってまだ言うことなどあるのか。見苦しく、みっともないということに尽きる。早く消えた方が身のためであろうがそうも行くまい。汚泥を身の隅々に浴びて三途の川を渡るがよい。三途の川も放射能汚染されていることであろうが気にすることはないはず。

 因果応報の一言で言い尽くせる。

                             2016 10/18


655.ノーベル賞を期待する作家とは


 ノーベル賞を期待されている作家、それも「文豪」と称される名も知らぬ作家たちがいて、今回のボブ・デュランの受賞に異議を唱えているそうだが、それ自体でお里が知れるというもので、作家の質もわかる。自分がどれだけのものであると思っているのか知れぬが、世界には異議を唱えるべきものは他にいくらでもあるだろうと思われる。ノーベル賞にこだわる姿勢そのものが「未だし」である。「自分たちが馬鹿にされたようだ。」と言っている者もいるそうだが、その通りであろう、あなたたちは馬鹿にされているのである。そもそもノーベル賞がどれだけのものであると思っているのか。以前、日本では大江健三郎がノーベル文学賞を受賞しているが、彼に多大な影響を与えたサルトルはノーベル文学賞を辞退している。

 今、世界は自己完結にしか興味のない諸人が集いて四の五の言っている場合ではなかろうと思われる。時として、その鈍感でナルシスチックな「欲望」に容赦なくメスを入れたくもなるが、所詮は「金」や「賞」などで「成仏する」者たちと世界の情勢とは乖離するだけなのである。私は決して文化的営為を否定しているわけではない、むしろ逆である。文化的営為は一見「無駄である」ように見えることが多いが、実は様々なところで「根幹部分」となるべきものを形成し、視点、視野に多くの展開可能なことを提供し続けるものである。要するに、簡単に「燃えつきる」こともなくなるということである。現実社会では無駄であるようようなことを必死になってやってきた、いわゆる「遊びの時間」を持ち得た者と、小器用に現実的なテクニックばかりを身に付けた者とはやはり時間経過とともにその「搭載エンジン」の差を見せつけられることになるのである。目先の需要に気を取られて「専門バカ」ばかりを量産していては実質的に全体として衰微の道を辿るのは必至である。それは民度の高低差としても表れる。

 それにしても、時を経るごとに何もかもがますます「せこく」なっているというのは実情であろう。

                                2016 10/14

 


654.追及されると外遊させて


 責任追及されて、危なくなると外遊させてほとぼりが冷めるまで待つ。いつものパターンである。何をやっているのか内実は不明のまま「やっている振り」、「アリバイ作り」だけは巧みな何でもありの目くらまし「集団」であるから昨今では「ああ、また例の手か」ということで、さほど驚くこともない。しかし、至る所に「目くらまし」を仕掛けているので油断をするとすぐに足を取られることにもなる。そんな「目くらまし」に引っかかって何人かが転倒する程度であれば何とか防げるが、集団で転倒されると有無を言わさず巻き込まれてしまうから覚悟も必要になってくる。

 しかし、これほど派手で空疎なパフォーマンスをご丁寧に逐一映像として伝えているのがテレビであるが、そこまでやるかという恭順ぶりについ「いくらもらっているの?」と聞きたくもなる。

 見過ぎ世過ぎは草の種、それでも拘泥するのはやはり金か名誉か、それ以外にはあるまい。金に振り回され、他人の目に振り回された人生。そこには、結局のところ何もない。そういうことがほんとうに認知可能になるのは臨終間際というのも何とも筆舌に尽くしがたいものがある。後は野となれ山となれ、「欲望」に突き動かされている者たちには恥も外聞もない、矢継ぎ早に歯の浮くような美辞麗句も命懸けで出て来る。欲望が命懸けであるように見せるのである。さしたる根拠も見当たらない内容でも大義名分化し、「悲願」などと言ってみてもそれもまた「欲望」であることに変わりはない。従って、当人はこの「悲願」そのものによって自滅することもあり得るということになる。「悲願」に正当な根拠が見出し得なくなればなおさらである。

                                2016 10/10


653.舞台監督と演出家の違いも分からずに


 某週刊誌の中に「舞台監督 蜷川幸雄」というのがあったので思わず失笑。いつから蜷川は舞台監督になったのか、さすがの蜷川自身も草葉の陰で苦笑いをしていることであろうと思われた。これは単に小さな誤りということではなく、ある意味で大方のマスメディア、週刊誌などというものの内容の取り上げ方、持って行き方に必ずといっていいほどある「浅薄さ」を象徴していることでもある。要するに、実はよくその実態を「知らない」、肝心なところがボケているのである。下手な鉄砲も数打てば当たるで、とにかく耳目を引き付けて売れる「言葉」を見つけてそれに対象を合わせるというのがマスメディア一般とも言えなくもないが、それも昨今では自主規制しているからさらに目も当てられない。舞台監督と演出家の区別もできない者が、舞台についてあるいは「演出」についていっぱしの口をきくのであるから失笑を買うのも当然であろう。それと同様のことが様々な分野で行われている。半可通ほど物言いはもっともらしく、口幅ったいことを平然と言うというのはどのジャンルでも共通である。ただ、黙って聞き流していられるのも限度というものがあるということである。

 

 

                                2016 10/5

「ある日、その時」(55)2016年8月21日ー

<掲載内容>

645.夏、かく去りぬ  646.耐乏生活は美談にはなり得ぬ 647.「人生は 一回こっきり」(某CMコピーより)648.「今はまだ人生じゃない」(某お笑いタレント)?649.「義」のない男の哀れな末路 650.豊洲のイメージは致命的 651.「本音」という装い 652.オリンポスの腐った果実

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652.オリンポスの腐った果実


 スポーツの「良き」面とは別に、「オリンピック」と銘打って繰り返される度にオリンポスからは諸神が消え去り、いつの間にかヘルメスだけとなり、「商売」、「盗み」ばかりが際立つヘルメスが跋扈する祭典となっている。それは、現実的な「人間」の相などと言って収まりきれるものではない。一見ピュアに見えるアマチュアの領域を利用した「プロ」の三百代言、政治屋、その関係筋の類だけがその「果実」を貪り食い、オリンポスにはもはや腐臭を放ち始めた果実しか残っていない。腐った果実ばかりが残る土地に残されるのはパンと見世物を「要求した」その土地の貧しき者たちである。

  血税を湯水のごとく使い、使い道を問われれば「決めた人」は現れず、「決まったこと」などという説明で済まそうとする。国民に「赤字、赤字」と言いながら「経済大国としての見栄がある」などとは論外。大赤字でありながら、山積する国内問題はそっちのけで、単なる「見世物」のために経費だけは数倍に膨れ上がるのを「仕方ないこと」として放置することなどできないというのが「普通の感覚」であろう。そのつけはすべて都民、国民にくるのであるからなおさらである。「がんばろう!」はいいが、どのような方向でがんばるかが問題なのである。「満州事変の頃は日本も元気だった」では困るのである。もはやその方向では例外なくすべての者にとって「戻れるところ」はなくなる。

 国内事情も無視したオリンピックなどは必要ない。何のためのオリンピックなのか。オリンピックそのものを捉え直す時期にきている。オリンピックがなくなったからといってスポーツがなくなるわけでもない。それに代わる新たなものを作ればよいだけのはなしなのである。

 弱者を切り捨ててまで成り立たせようとする見世物としてのスポーツの祭典が一体どれほどのものなのか。一時を忘れるドラッグのような「夢」、「希望」、「元気」にどれほどの価値があるのか。それは単なる幻想であろう。現を忘れ「ドラッグ」に酔いしれる、だから為政者にとっても利用価値があり、都合がよいのである。

 今様ヘルメスは、マイアもゼウスさえも殺したのではないかと思われる勢いである。ヘルメスだけとなったオリンポスも終焉の時が来たのかもしれぬ。

                                                           2016 10/2


651.「本音」という装い


一頃「ぶっちゃけた話」というのが何かというと枕詞のように使われたことがあったが、その割にどうということもない話の内容であったような覚えがある。「本音」などと言う時点でその内容自体はすでに都合のいいように脚色されているものである。それは「本能」という言葉の遣い方とも近似する。「ほんとうは何を感じていたか」などということは、敢えて「本音」などと言わなくともその人間の言動の其処彼処に現れているものである。すでに見透かされているのに本人だけが隠し通せていると思い込んでいるケースは実に多い。そのような者に限って「本音」などという言葉を多用するからおかしなものである。それで本人は何か言った気になる。大層なことを言ったつもりになっているから「小人」と言われる域を出ることもないのであろう。小人閑居して不善をなすというのがインターネットの世界にも露骨に現れているようだ。「本音」が「ほんとうに感じていること」であるとして、それをただぶつけ合うだけのことなら「人間」としての発展はまず望めない。場合によっては至る所で刃傷沙汰ということにもなりかねないのが愚かな人間の実情でもある。もし本然的に在り得るとしても、「本音」、「本能」などはいかに自在にコントロールできるかが人間としての肝心要の事柄である。「本能」自体が「定型」としてあり得ない「人間」にとって「本音」などというのも実は「作為的」に作り出されたものでしかないのである。要するに、「ぶっちゃけた」という作為の中での作り出された感情の収斂に過ぎない。そして、その感情の収斂をその時点で選び取った自己の在り様が問題なのである。「本音」ということを装う者の「言動」は総じて皮相浅薄。真実などとは無縁のせいぜい神経症的反応の検証材料の域を出ない。己を甘やかし放題甘やかした結果で、何が起きても不思議ではないというだけの話である。

 しかし、昨今の弱者に矛先を向けたヒステリックな攻撃、堕ちるところまで堕ちる人間と社会の脆弱さを見せつけられるだけである。社会の歪みは真っ先に弱いところに集約される。弱者に矛先を向けるということは、例外なく巨悪に立ち向かえぬ怯懦(きょうだ)であることの自己証明に過ぎないのであるが、実質的には常に弱者同士の争いとなり元凶はぬくぬくとしているのが実情である。私は臆病者にもなりたくないので、「仕組まれた」弱者同士の争いには一切関与しない。問題の「核」を見い出し得ない、あるいは外した「争点」はただ無益なだけである。

                                          2016 9/26

追記:後日、「本音論」などと称するブログの御仁が「本当は弱者のふりをした卑怯者は交じっていないのか?と訴えたかった云々」と釈明していた。これぞまさしく頭に「御用」がつく「正義感」、すなわち結果的に「走狗」の立ち位置に軸足がきてしまっているのである。と同時に捉え方も浅薄である。確かに唾棄すべき人間性を培ってしまった「庶民レベル」、「貧困レベル」の者たちもいる。しかし、そのような者たちに向かって「特捜」「地検」気取りでメスを入れてもそれは単なる自己満足の域を出ないのである。なぜ、肝心の巨悪に立ち向かえぬのか、無難な小悪をさも根源の悪のごとく扱い自らを本音を言う正義漢として形創ろうとしたのであろうが、ピントがずれればこの通りである。実は、これが「本音」ではあるまい。


650.豊洲のイメージは致命的


 生鮮食品の扱う豊洲のイメージはすでに地に落ちている。もはやこんなところで何をやってもすべてはイメージダウンにつながるだろう。それも生鮮食料品などとは論外である。豊洲しかり、原発しかり、無思慮の極みである。「欲望」で日本の国土を限りなく「汚し」、日本人を消滅させるつもりなのかと言いたくもなる。

 豊洲は、移転しても負の遺産とイメージで食い尽くされる。原発同様、いずれは廃墟であろう。愚かしい浪費であったとしか言いようがない。亡者に突き動かされ、踊らされた結果である。

                               2016 9/18

※「基準値」とは何か、「基準値以下」と安全と同義ではない。巷ではハエ一匹で惣菜屋はつぶれるのである。たとえ「基準値以下」だろうが「毒物」が出た以上そこで終わりで、いくら「風評被害」などと言い繕ってみても始まらないのである。

 因みに、「豊洲」とは美称であるが、荒川のヘドロで埋め立てられた所である。「夢の島」しかり、美辞麗句の本質を具体的に物語っている。それは、何かというと「未来」や「希望」という言葉を遣う者の本質的な領域と重なる。


649.「義」のない男の哀れな末路


「豊洲問題」でまたぞろ出てきた元知事の醜悪な姿。こういう人間に騙され続けてきた者たちも哀れである。私はこの人間については当初より何一つ認めていない。何一つ認められないというのは私にとっても珍しい例である。どんな人間でも一つや二ついいところがあるものであるがそれが見当たらないのである。その昔、「文才はともかく、何かしでかす男であろう」と見抜いていた作家たちもいたが、今はもういない。この男、やはり最期の最期まで醜悪であった。これも自業自得で、これこそ「天罰」であろう。「伏魔殿」にいてやりたい放題していたのはこの男自身ではないのか、都合の悪いことはすべて他に転嫁する。それがこの男の本領なのである。「君には義がない」と言った作家はやはり慧眼であった。最近の老醜をさらしたこの男の映像を見ているとつくづく「人間」はここまで堕ちて行くものかという想いに駆られもするが、もともと美意識などとは程遠い単なる俗物だったということで簡単にけりはつくのである。

                               2016 9/17

※任期13年、豪華外遊34回総額5億455万円。身内を優遇したTWSに7億2200万円。強引に設立した新銀行東京で1000億円を失い、追加分を500億円の税金で穴埋め。そして、豊洲移転、盛り土問題・・・等々。原発推進派であるこの男が東電との関わりの中で何をなしたか、暗躍したかは推してしるべし。さらに、改憲論者が異口同音に言う「押しつけ憲法論」はすでに「マッカーサー書簡」の発見でその論拠を失っているのである。この男のいう改憲論も然り。この男の言動が「作家である」ということによって免罪される余地はまったくない。


648.「今はまだ人生じゃない」(某お笑いタレント)?


 結論から言えば、実際そんな人生は一瞬たりともない。虚像に生きようが、会社の一部と化し身を粉にして働く会社員であろうが同様で、それ以外に別の人生はない。どのような「道」を選んだかが問題となったり、興味の対象になるに過ぎない。それ以外に語り得る人生などはない。「夢が破れてからが人生」、退職してからが人生、そのような「区分け」ができるほど人生は甘くない。やったことがすべてで、「今はまだ本当の人生じゃない」などという発想は目的のためには手段を選ばぬあらゆる「道」にも通じる。「夢に捧げた命」あるいは組織に捧げた命などというものですべてを正当化し、本当の自分の人生は「それ以後」、「それ以外」にあるなどというのは御託、詭弁の類である。実際に、そうはいかないのである。それを思い知るだけのことである。そして、後戻りできないということについては劇的であるか平凡であるかに関わらず同様なのである。

 このお笑いタレントにとって、すべては手段であったのであろう。

                               2016 9/11

 


647.「人生は 一回こっきり」(某CMコピーより)


 一期一会などと言うよりわかりやすく、身近に感じさせるものがある。さらに「わかり切った」ことを言えば、人生は、再現もやり直しも元に戻すことなども絶対にできないということである。中には「やり直す」ことが、あるいは「元のようにする」ことがいつでも可能であるかのように思っている御仁もいるようだが、それはとてつもない「思い込み」で、悲惨な事態を引き込む要因を作り出すだけである。

 過ぎ去ったものは、決して取り返せない

 起こってしまったことは 元に戻すことはできない

 「人生は一回こっきり」、何もかも続いているようだが

 実のところ、そのすべてが「一回こっきり」

 そして、それがすべてで、それ以外には在り様がない

 

 「あの世」を想定しようが、成仏するより成仏しようがなくても、

 良くも悪くも取り返せない「一回こっきり」というのが実情である。

 

 

                               2016 9/7


646.耐乏生活は美談にはなり得ぬ


 「成功者」の恵まれぬ時期の耐乏生活を面白がって取り上げているものがあるが、そんな時期も当然あったのであろうとは思われるが、特に気になるのがその食についてである。最低価格の「カップ麺」の類を毎日食べていたなどという緩慢なる自殺行為を自慢げに話しているのを聞くと、何ともやるせない気持ちにさせられる。やがて死なないまでも必ず何らかの厄介な病を抱え込むことになる。実際、漫画家志望の若者がそのような困窮生活を続けトイレで死んでいたという実例もある。そんな生活をしてまで手に入れるものなどは人生にはほとんどない。たとえあったにしても愚かしさの方が先行するだけである。「成功者」のかつての耐乏生活の美談化、奨励ともとれる話には違和感以上のものを感じる。そんなことをしていたら体は確実に壊れる。安物には食べられるものはほとんどないのが実情で、言ってみれば、毒を食らっているようなものなのである。食を切り詰めなければ生活できないのであれば生活できないことをしいられているのである。それでも食うや食わずでいつの間にか富裕層の美辞麗句、お為ごかしに乗せられているのでは愚の骨頂、お笑い草である。それでは心底奴隷根性しか持ち合わせていないことを証明しているようなものであろう。

                                  2016 8/26


 645.夏、かく去りぬ


 巷の喧騒の中、時折風で流されてくるスピカー音のようにオリンピック報道の声が聞こえて来る。今年の夏の様相は大方の思惑、希望的観測とは違って、私には、遠雷に カラスばかりの 終戦日といった感じであった。昨今の不安定な気象のせいか虫さえもその鳴き声を控えている。もう秋なのである。金銀銅とかまびすかった日々も終わり、やがて長い夜のとばりに包まれてくる。陽はまた昇れども、「もの見える」夜明けが訪れることは決してあるまいと思われる。自らの境涯も知らで、かく望んでいるからである。

                               2016  8/21

 


 

「ある日、その時」(54)2016年7月12日ー

<掲載内容>

638.「7・10」 スネイキーなロープ  639.「戦闘ゲーム」も一種のマインドコントロール 640.都知事選 立ち位置見れば 一目瞭然 641.今や日本人はAbeで、+トランプである 642.障碍者施設大量殺傷事件 643.当世書生気質 <番外日誌20160803> 644.オリンピック断想

                                  <転載・複製厳禁>




644.オリンピック断想


 一頃のような思いもなく、仕方なくオリンピック中継を垂れ流している時もあったが、選手たちの隙の無い全身全霊の「具現」にはやはり魅せられるものがあった。それは、スポーツ自体が引き起こすもので、オリンピックに関わる金塗れの周辺の醜悪さを一時的にも払拭してしまうから恐ろしいものである。

 競技である以上、選手がメダルに拘るのも当然であろうが、それが個的なものからいつのまにか離れて勝手に独り歩きをして当事者をがんじがらめにしているという実情を見せつけられる度に何とも痛々しい思いに駆られる。オリンピック理念とはかけ離れて現実的には「次期オリンピックを目指す」とは、ある意味では刑務所内で「特殊強制労働」を4年間耐えることにも等しく、苛酷なことであろう。そして、ようやく「出所」してもメダルを取れればよいが、取れなければ「暗黒」に突き落とされる。

 金メダル獲得者に「次期オリンピックは連覇を!」銀、銅メダル獲得者には「次期オリンピックには金を!」と期待するのは勝手であるが、選手には実質的に4年間の「特殊強制労働」を強いているのである。その「期待」を真っ向から受けて立つ覚悟とスタンスを持っていればよいが、そうでなければ辞めるべきであろう。マスメディアなどに振り回される必要はまったくない。続行するかしないかは選手自身が決めることで周囲の者がとやかく言うことではない。したがって、すべては誰が頼んだ訳でもなく、自己選択、自己責任なのである。

 私は、密かにオリンピックの金メダリストがほんとうに「最高位」なのかと思っている。知られざる「ナンバーワン」は他にもいるのではないかと思える時があるからである。しかし、実際に見られない以上それは証明しようがない。金のメダルという「最高位」の位置は立った瞬間から実質的に失われていくが、すでに個人で金メダルを22個も保持して最高位に立ち続けている水泳のフェルプスのような選手を見ていると、彼の中ではもはや金メダルを取ることが最大の目標となっているとは到底思えないのである。フェルプスは、北島と同時期に登場した選手であるが、勝って「チョウー気持ちいい」などと素直な表現をしたことでも耳目を集め、マスコミに追っかけまわされた北島とは好対照な歩み方をしていると思われた。現状を見れば、両者の本質的違いは明らかで、「成り立ち」、モチベーション、展開の方向性などの質的相違は敢えて言うまでもないことである。

 体操の内村航平,ここまで来る者の共通の精神構造を持っている。今回もまたマスメディアの圏外にあった者たちの活躍が目立った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 後日、つい気になってテレビをつければ、金で辞職に追い込まれた元知事がオリンピックの選手について講釈している。どうなっているのかと思うのは普通の神経を持っていれば当然のこと。こういうことが許される、許す「ところ」とは? 一体どういうところなのかとあらためて思う。         (8/11以降の某日)

                                    2016 8/11


<番外日誌20160803>

 御用聞き専門のマスメディアでは、「お上」の同属間の単なる私憤による恨み、復讐を「意趣返し」と言うらしい。さももっともな理由がありそうな表現でもある。隅々に至るまでの気の使い方である。要するに、何でもありの醜い権力闘争を「異趣」を添えて「庶民」に伝えようとする涙ぐましい努力なのである。


643.当世書生気質


 最近の学生諸君と接する機会もないので彼らが何をどのように捉えているかなどということを具体的に知る由もないが、それで特に困ることもない。また、最大公約数的などちらかと言えば皮相な学生たちなどにはそれほど興味もない。某作家の長く続いているタブロイド紙のコーナーに学生との会話が出ていたが、そこから見えてくる学生像とは以前とさほど変わり映えのしない一般的な、言ってしまえば思慮浅薄な学生の姿である。いつの時代もこのような学生はいた。そして、実はそのような学生ばかりではないのであるが、最大公約数的なところでしたり顔に「文化論」などを言い連ねる者とは概して「迷うこと」すなわち「考えること」を「知らない」偏狭さで其処彼処が閉ざされている。自己の感性だと思い込まされている領域で小さくまとまり過ぎて、若くして「硬化」が始まっているのではないかとさえ思われる。これでは「生前硬直」が起きるのもそう先のことではない。もちろん、そのような者たちばかりではないだろうということも付け加えておく。

                                 2016 8/3


642.障碍者施設大量殺傷事件


 加害者の精神鑑定も必要であろうが、この加害者には人を殺したという「暗さ」、「重さ」がまるでない。この軽さは「思考停止」状態の者に共通の軽さでもある。嘘も常態化されているので何とでも言うし、言い逃れるだろう。さらに根深いコンプレックスと薬物と自己陶酔をもたらす文言による「全能感」である。薄っぺらな小冊子程度の内容で誰でもヒットラー気分になれる安直な「お決まりのコース」である。因みにヒットラーなどもコンプレックスの塊のような男で、つまらない絵を描いていた時期もあった絵描き崩れである。そして、悪しき時代の流れが希代の三文役者を独裁者に仕立て上げ、やがて三文役者は狂気そのものとなった。

 この件も、「放置」、「孤立」、「性的歪み」、それらが精神形成時期に作用し合いながら潜伏潜行していた「自己顕示」と自己「回復」を肥大化させ、「誇大妄想」的思い込みを増殖させていった一例に過ぎない。いくらでも手繰り寄せるキーワードはあると思われる。「心の闇」などとわかったようなことで片付けることは今となっては危険でさえある。形よく粉飾されて、愚かしい模倣犯もしくは美辞麗句まみれの合法的予備軍を作り出すだけである。

※このサイトでも3年ほど前に、この種の事件は今後さらに繰り返されることを指摘した。

                                   2016 7/30


 641.今や日本人はAbeで、+トランプである。


 トランプの登場に驚くのはアメリカ幻想に酔いしれていたオメデタイ人々だけだろう。アメリカの本体が以前から持っていたものが噴出してきただけのことである。あからさまなるアメリカの姿である。そして今、日本人は否応なくAbeになり、同時に米の悪しき面も背負わざるを得なくなった。日本人だということはもはや何の冤罪府にもならなくなったということである。そのことはすでに実証済みである。世界はAbeを通して日本人を見ている。それはトランプをあそこまで押し上げるアメリカとも「同体」と見なされているということでもある。もはや「私はAbeではない」と言ってもどこまで通用するか定かではない。国の「人道支援」に「駆り出されて」自分では良いことをしているつもりでもそうは見ない者がいても不思議ではないということである。

                                                                                                                  2016 7/22


640.都知事選 立ち位置見れば 一目瞭然


 騙す者は、何とでも言うし、言い逃れるのは世の常。実質的に多くの者のためにならないことやっているにも関わらず、自分たちに敵対する者たちを選ぶなどは愚の骨頂であろう。 テレビなどが「企画」「製作」する政策討論会などは言ってみれば詐欺師の独壇場でもある。そのような「お話し」を聴いて参考にしようなどと思うこと自体に詐欺師のつけ入るすきを与えることになる。何か意味があるように思う方が愚か。すでにその者の立ち位置が明確に語っているのである。このような場合の「立ち位置」とは簡単明瞭、多くの人々の側にいるのか、いないのかということである。それすら読めないのでは何をか言わんやである。議会制民主主義を破壊し一党独裁を許しているフリーズ状態の老若男女、やがて壊されるのは自分自身である。現在進行形のすべての事象から外れて「いる」ことは意識するしないに関わらず不可能なのである。

 一方では、マスメディアは「オリンピック、オリンピック」と煽り立てているが、オリンピックも今となっては「ダサイ」の一言。世界ランキングがどうだというのか。メディアだけが幇間のように喜んで遣う、実はそれしかないのだが、「世界に飛び立つ」「世界の〇〇」などという一見格好のよい言葉も実は自ら偏狭な島国であることを認めているだけのことである。イギリスやフランスで「世界に飛び立つ」などという表現が成り立つのか?

 自恃の念、想像力の欠如、卑屈さの裏返しでしかない大した根拠もない傲慢不遜な態度。しかし、至る所ほころびと継ぎ接ぎだらけの衣を着せられた者の哀れなバカ踊りのフリーズとも見える。

                                2016 7/17

 


639.「戦闘ゲーム」も一種のマインドコントロール


 「無邪気」に遊んでいる「戦闘ゲーム」も実は一種のマインドコントロールである。いつの間にか「仮想空間」と現実空間が交錯しつつ重なって「全能感」を作り出す。それは自分の手足が吹っ飛ばされるまで気づくことはない。すぐに首でも吹っ飛ばされれば、死ぬまで気が付かないことになる。そのような「人材」育成が静かに、密かに進んでいるとしか思われない現状でもある。戦闘アクションでストレス解消になるなどという御仁の脳細胞もかなり危ういところである。想像力の欠如と単細胞化はそれに拍車をかける。「美しい戦い」など現実空間では皆無。いい気になっていると身近なところで「戦闘ゲーム」の呪縛が現れるてくるだろう。生兵法は大怪我の基であるが、死に急ぎたい方はご自由に。

                                  2016 7/13


638.「7・10」 スネイキーなロープ


  多くの者たちにとって「7・10」はAKB(AbeとkeenerとBabbitt)の総選挙であったのであろう。この奇妙な「軽さ」が悲劇の種をまき散らす。生活に追われて、追い立てる者の顔も判別できないのである。これでは笑っているうちにご臨終である。

しかし、敢えて言うまでもないマスメディアのしだらなさも然ることながら、死票獲得が目的の目くらましのような「別動隊」の多さも気になった。以前、指摘した通り、目的のためなら手段を選ばない何でもありの政権である。口を開けているうちに下あごは外されることにもなりかねない。どちらにしてもこれで、スネイキーなロープはすべての者の首に巻き付いた。後はどのように締め上げるかであろう。

 真摯に考えているものが7万票程度で、何の問題意識もない者が100万票以上。要するに良質な部分とは10%にも満たないのである。

 考えることが損とばかりに考えない人々、その内に首に巻き付いたスネイキーなロープの存在に気が付くのであろうが、その時は手遅れである。

 

※keener: 追随者   Babbitt: 中産階級の物欲に凝り固まった平均的人間

                           

                                      2016 7/12

「ある日、その時」(53)2016年5月25日ー

<掲載内容>

630.保守勢力によって壊わされている「日本人」631.「しつけのために放置した」?632.「自由の国」というコピーに乗せられて 634.「内閣支持率50%」??何をしてたの70年?635.「舛添問題」で週刊誌は本来の役割を果たした? 636.「Abe シンドローム」? 637.「ソフト・ランディング」、「下山」・・・<番外メモ20160708>気分はいつぞやの巫女さんと同様

 

                                <転載・複製厳禁>



<番外メモ20160708>

 気分はいつぞやの巫女さんと同様、最近では例の「〇〇党」と聞いただけで「ラノゼ」である。即(嘔吐)を催す。

 しかし、目隠しされ、耳も口もふさがれ、静かに首に縄がかけられるとも知らず彼らの言うなりになっている姿を見ていると・・・絶句。無関心も棄権も彼らを認めることにしかならず、今後彼らに何をされても何も言えなくなるということである。絶句を知らぬ舌先三寸の闊歩で、露骨に首の絞めつけだけは強くなるということだけは確かである。それでも彼らを選ぶとは全く不可解、不可思議、世にも不思議なホラーショーを見ているようである


637.「ソフト・ランディング」、「下山」・・・


 多くの者にとっては、高低差のある凸凹な道が限りなく続いているだけであろう。「ソフト・ランディング」、「下山」などというコンセプト自体がなぜか勝手に上り詰めた者の好い気なものにしか見えないのである。「ソフト・ランディング」も「下山」もわずかな気流の動き、位置、地形で大きな変更を強いられる。「現状」をどのように見立てようようとも、どのように「まとめ」てみても限りなく零れ落ちる絶対一回性の現在進行形である歴史(時間)の中にいる以上、見ようが見まいが、意識するしないにかかわらず我々は常にタイトロープの上にいる。そういう意味でも、「ソフト・ランディング」はいつでもハード・ランディングにならざるを得なくなる。「下山」もまた未知で、いつ断崖絶壁が立ち現れるかもしれない。必ずしも麓に辿り着けるとは限らないのである。

 先頃も、地震速報より「政権」放送に現を抜かしていたNHKのことが報じられていた。おそらく地震もアンダーコントロールされているのであろう。

 

※ここでは「ソフト・ランディング」、「ハードランニング」共に経済的カテゴリーでの限定使用の意味はない。緩やかな着地、溶暗、あるいは緊急、強引に終了させるほどの意味で遣われるものである。

                                  2016 7/1


639.「Abe シンドローム」?


 サイコパスとは病的に嘘をつき他者に害を及ぼす反社会的人格障害。「Abeシンドローム」とは社会的あるいは脱法的人格障害。自己正当化,粉飾のためにはそれこそありとあらゆることをするという人格的障害。火のないところに煙を立たせるなどは日常茶飯事。場合によっては地水火風の神と話が付いているがごとくのことまで言い出す。一見、心臓に毛が生えているように見えるが実際は蚤の心臓。それが露骨に反社会的にはならない要因でもあるが非社会的なことは人並外れている。今、人が何人死のうが常に自分の一番の関心事のための自己正当化のことしか頭にない。このシンドロームの特徴は、空疎な内容が引き寄せる病的な嘘で塗り固められたその「全能感」である。この「全能感」に酔いしれた男の言動をまともに受けていたらどうなるか。ついには国を焦土と化しても最優先させる国策などというものを持ち出しかねないのである。「焦土外交」などとは愚の骨頂。それについてはすでに歴史が教えるところでもある。大衆は小さな嘘には過敏に反応するが、大きな嘘には寛容であると言ったのはヒットラーでもある。今更、ヒットラーのコピぺが成り立つのかと思うが、歴史から謙虚に何一つ学ぼうとしないから、「自虐史観」などという愚かしい言葉を作り出してまで自己正当化を繰り返す者たちの「全能感」に引っ掛けられるのであろう。自己正当化ばかりしていても、自己完結を「目指して」いても発展は決してあり得ないのである。歴史は自己完結を拒否する。よくご覧あれ!「Abeシンドローム」の現在を、限りない自己正当化と自己完結に終始しているだけである。

                               2016 6/24


635.「舛添問題」で週刊誌は本来の役割を果たした?


 私は以前、週刊誌の無意味さについて書いたが、最近の「舛添問題」で一部ではあるが週刊誌が本来持ちうる力を発揮したのではないかと思っている。それは体裁ばかりの無内容な御用聞きのような「大」新聞では到底できるものではない。ただし、それ以上の追及がないのは今までと変わりはなく,それがこの手の雑誌の限界である。時折、とは言ってもごく稀に「読売新聞」などを広げて読んでいる者を見かけると思わずその顔をカウンセラーがクライアントをみるように観察してしまうのであるが、やはりさもありなんと思われるのが常である。要するに、体よく騙されるタイプなのである。

 自分たちで作り上げておいて、勝手に独り歩きを始めると「切る」というパターンは権謀術数の常套手段、その内に升添を切った手合いも切られるか、梯子を外されることにもなろう。目くそ鼻くそを笑っている場合ではないだろうと思われるが、突如目くそが鼻くそに食らいついても異臭ばかりが鼻に付くだけである。それをいいことにいつの間にやら傍らには得体の知れない巨大なクソまで紛れ込む始末である。マスゾエという男、「ミイラ取り」の振りをして「伏魔殿」に入り込んだが、実のところは「ミイラ」になりたかっただけなのであろう。発見された時には包帯の中ですでに形骸すら留めず粉塵と化していたということである。この「舛添問題」に関連して、前知事の猪瀬を登場させるメディアとは、臆面もなく出る方も出る方だが、アンテナが完全にさび付いて機能していないか本体が狂っているのであろう。もし、「作家」、「ジャーナリスト」として出てきているのなら「作家」、「ジャーナリスト」としての「質」が問われても当然である。しかし、昨今の動きを見ているとすでに「本体」が見透かされているにも関わらず鉄面皮な者が余りにも多いと感じるのは私だけではあるまい。「恥」を感じるのであれば「在り方」が変わるはず。要するに「悪い」と思っていないのである。

後日、 何気なく読み返すと気分は狂歌風になってくる。

・・・ abeとasoとアホノミックス、

的のない三本の矢に矢じりもなく

カンカンという不快な音にトンチンカン・・・

バズーカ片手に戦仕掛けるジジババに 呆れカエルも逃げ出して

火山の上でいつも震える小さな国は

「美しい、美しい」と言われるだけで捨て置かれ・・・

 

 行方不明高齢者10000人弱、自殺者約30000人、「90歳過ぎて老後の心配、いくつまで生きる気なのか」と言うaso。abeとasoとその仲間たちに任せておいたら生き地獄は誰もが目視確認できることになる。

 

 

                                 2016 6/15ー6/18


634.「内閣支持率50%」??何をしてたの70年?


「内閣支持率50%」、これは何をしてたの70年?と言いたくなる最悪の冗談である。abe様を奉るマスメディアご一行様の健気さ、ちょちょらにも恐れ入谷の鬼子母神であるが、これがもし実際の数値なら日本人の意識構造、知能は劣化の一途をたどってきたという証左でもあろう。abe様とその周辺はその象徴ともいえるのである。派手なパフォーマンスばかりで内実は限りなくゼロに等しい。売名行為と選挙対策、これだけしか頭にはないというのも陳腐だがここまで露骨というのも近年珍しい。この手の者の口車に乗ればすべては自業自得だと思って死んでもらうしかない。abeの「立ち位置」ではたとえ逆立ちしても絶対に国民に寄り添うことは不可能なのである。だから空々しい嘘が次から次へと着飾って際限もなく出て来るのである。これには、さすがの巷の詐欺師たちも肝を冷やすという程であろう。

 憲法改正の問題は?、原発再稼働の問題は?最近の彼らの宣伝コピーに「目指す」というのが頻出しているがこれをポジティブな姿勢と捉えると「詐欺」という行為は存在しなくなる。お為ごかしばかりで、彼らが人々のことを考えることなどは微塵もないということは明々白々としたことでもある。「自分(たち)」が思い上がっているから「立法府の長」などと言い間違っても気づかないのである。こんなことが単なる言い間違いで済まされるのは寛容を通り越している日本くらいなものであろう。abeのオツムの具合とは、要するに国民のオツムの具合なのである。これで世界に羽ばたく?どうもがいても、これでは世界の果てにまっしぐらであろう。

 何をしてたの70年?それはすべての者に降りかかる問いかけである。黙っていても、何もしなくとも大なり小なりその責任を取らざるを得なくなることは確かなのである。

                                     2016 6/9


632.「自由の国」というコピーに乗せられて


 「自由の国、アメリカ」などという観光のキャッチコピーレベルの内容を今でも真に受けている人々がどの程度いるかは知らぬが、たとえば、映画「イージーライダー」(1969年)や「マディソン群の橋」(1995年)などに登場するその土地の者たちの様相がそのままアメリカの実情でもある。「イージーライダー」の中でライダーたちに向かって「彼らは君たちの自由が怖いんだ」と言うジャック・ニコルソン扮する弁護士が土地の者たちに撲殺されるシーンはそれまでアメリカに抱いていた「安易な」一般的イメージを具体的に引き裂く。「マジソン群の橋」でも同じような人々が登場してくる。そして、「マディソン郡の橋」撮影終了後も残っていた建物は何者かによって放火されたそうであるから、映画で描かれている人々の様相はそのまま現実そのものでもあったということにもなる。私が今でもアメリカだけは行く気がしないのは一つにはそうした事情もある。アメリカの抱えた問題に良質な人々が耐え切れず発信してくるものだけを受け取っていれば充分で、わざわざ現地に行くほどのことでもないと思っている。

 最近の大統領候補のトランプにしても、何も最近突然現れてきたわけではない。「彼「は以前からアメリカのある階層の人々の現実的姿としてあったもので、人々が「前意識」で常に持ち続けている負の感情を心地よく拡大させることができる存在でもあるのだ。トランプの存在はアメリカのある現実を如実に示している。誰が大統領になろうとも、トランプ支持のパセンテージが示すアメリカ国民の意識構造は明確である。「ティーパーティ」しかり。それは元々あったものがさらに肥大化したということでしかない。

  少数の良質な見解を平均値と見間違うとエライことになる。「自由の国」アメリカの国民の平均的意識レベルは「自由」のバーゲンセールばかりで、実は不自由極まりないというところであろう。トランプの口から「ジャップ! イエローモンキー!フリーズ!」などと言う単語がいつ出てきてもおかしくはないというのはその文脈からも、位相語からも当然考えられることである。それは、位相語を操り人心を掌握しようとする俗物,すなわち拝金主義、マネーモンスターの権化ともいえる。

 

                               2016 6/5


631.「しつけのために放置した」?


 それがほんとうであったとしても「しつけ」になっていない。五分程度のことであれば隠れて子供の様子を見ていればいいだけのこと。監督不行き届きで、無責任である。こうした場合の近所の評判などはほとんど当てにならない。評判が良ければ良いほどなおさらで、人前では説明的な行動を取るケースが多いからである。他に目的があったのか、未必の故意までの吟味が必要であろう。まったく身に覚えのないことであったにしてもオメデタ過ぎる。

  一方では、臓器売買に関連した組織が世界的に暗躍しているという実情もある。

 私の推定が外れることを願う。

                                2016  6/1

 幸いにも、私の推定は外れたが、想定内の親子であった。子は親の鏡、今後も大いに問題あり。末恐ろしい面が多々ある。


630.保守勢力によって壊されている「日本人」


 「日本人」の特性、「美徳」、伝統、文化などを壊しているのは保守勢力そのものである。彼らには、個的な欲望、欲動しか存在し得ない。他者はそれを満たすための手段でしかない。欲しいものを手に入れるためなら手段は選ばない。彼らは、恐怖感を適度に盛り込みながらあらゆる「オタメゴカシ」をいうことであろう。何のことはない、そのすべては彼らの個的な欲望、欲動で片付けられることなのである。彼らに大衆を守るなどという意識は爪の垢ほどもないことはすでにあらゆる事象から割り出せることである。拝金主義の根本は、「後は野となれ山となれ」であることは今更言うまでもないことであろう。反主知主義傾向の自浄能力を失った保守勢力とは拝金主義そのもので、それ以外は驚くほど何もないといってよい。それは「八九三」と見分けがつかないほどである。したがって、彼らの手中に落ちれば、堪えた挙句に焼野原、はげ山を歩かされることになるのである。もう充分に分かり切った方向を見せつけられているにもかかわらず、また言葉巧みに騙されて「裏切られた」などとおめでたいこと言っているようでは裏切られた方にも責任がある。

「 問題」が「問題」にもならない国とは、やはり異常なのである。そこには左翼も右翼もない。もし、それでもその振り分けが起こり得るなら、それは似非なるねつ造された左翼、右翼であろう。それにしても、逆に「あなたはほんとうに日本人か?」と聞きたくなるような保守・右翼が多過ぎる。また、全くその存在意義を失った負の効果しかない左翼過激派の政府に反対する小さな動きを大きく取り上げるマスメディアの実態など今更言うまでもないが、「問題」をすり替えるための手の込んだ、あるいは幼稚な「ヤラセ」としか言いようがあるまい。

 今後ますますテレビで垂れ流される空疎な政治イベントは多くなるだろう。その映像をそのままうのみにしていると判断を誤ることになる。嘘で塗り固められた「Abe」の在り方から「本当のこと」が語られることは100%ない。すべては「ポーズ」なのである。微に入り細を穿って細工されている映像。それが現状の否定し難い流れである。

                                            2016 5/25

※「反主知主義」などという言葉は、ほめ過ぎで単なる「白痴化」「単細胞化」という方が適当である。

「ある日、その時」(52)2016年4月27日ー

<掲載内容>

622.今、ゲームに夢中になっている場合なのか?<番外日誌20160428>茶髪の猿 <番外日誌20160429>アホかホラか、ホラーかホラか 623.「最高責任者」様、どちらへ?624.神戸製鋼は安倍系企業であるということ 625.「法華経」を信奉する者たちが・・・629.マスメディアよ!他国の批判などしている場合か

                                                                                                                          <転載・複製厳禁>



626.マスメディアよ!他国の批判などしている場合か


 腐る程ある自国の政府批判はほとんどせず他国の批判などをしているマスメディア、「私は立法府の長」などと言い出すおっさんとその周辺の走狗たちの脅しに屈してできないというべきなのか、どちらにしてもこの事態は不健全なこと極まりない。その挙句に他国の漫画的分析である。それを大真面目でやるものだから、どこかの未成熟国家を彷彿とさせるのである。それはそのまま自国の戒め、批判にもつながることばかりであるが、あろうことか国会で「立法府の長」などと言って平然としている御仁のクローズアップだけを垂れ流しているマスメディアの責任は大きいというよりやはり共犯である。しかし、この程度の「おつむ」の具合であるからどのような「でたらめ」をしておいても何食わぬ顔をしていられるのであろう。彼らの「甘言」はすべて選挙対策用のもの、騙し、目くらましであることを忘れて選択肢を間違うと今度という今度は国民にとって致命傷となることだけははっきりしている。

                                                                                                                    22016 5/18


625.「法華経」を信奉する者たちが・・・


 「法華経」を信奉する者たちがどうしてこのような政党を支援しているのかまったく解せない。それはどのような詭弁を弄して償い切れないことをなしているからである。暴走する政党の「ストッパー役」などというのもその詭弁の類である。「善」を為すには無定見ではできない、常にある程度の見識が必要になってくるのである。そうでないと「善」と思ってなしたことがいつの間にか「悪しきこと」にからめ取られてしまっているということになる。もはやいかなる「正義」も「平和」も成り立ちようがない「政党」の選挙補完、パラサイト的様相を呈している政党の支持母体が「法華経」を信奉する者たちとは世にも不可思議な現象である。もし、そのことさえ気づかないのであれば完全に「悪」に食い尽くされているか、丸め込まれていることになる。「法華経」を信奉していると思われる者が「悪いことは」はしまいという思い込みは捨てた方がよかろう。それは「法華経」を信奉しているのではなく、利用しているだけなのである。敢えて言うまでもなく、現政権が実際にやっていることは99%の国民の首を絞め、国土を汚し、「平和」を切り崩しているというのが実情で、それ以外は何をどう言おうが糊塗、ねつ造、パフォーマンスなのである。まさか、「法華経」を信奉している自分たちだけは「救われる」などと思っている訳ではあるまい。もしそうだとしたら、「法華経」などとは縁もゆかりもない人々ということになる。「労働組合」とは名ばかりの集団とさしたる違いはない。

 世界三大宗教の中で、仏教だけが宗教戦争の領域外なのである。「戦い」とは無縁の宗教がここにきて戦争放棄を捨ててどこまで突っ走るかわからぬ政党と同調しているのでは仏教とは無関係の「法華経」信奉者なのであろう。

 また、いまだに「他に適当な人がいない」などと世迷言を言っているような選挙民ばかりでは自死の道を自ら開拓しているようなものである。

                                 2016 5/12


624.神戸製鋼は安倍系企業であるということ


 神戸製鋼は安倍系企業、これだけでほぼすべての動きは了解できるであろう。戦車、潜水艦、などの軍需産業、原発機器などを一手に引き受けて神戸製鋼はさらに巨大化する。憲法改正、原発再稼働についてもっともらしい理由付けをしてはいるが、安倍系企業のためには何でもするというのが安倍の立ち位置。その見返りに計り知れないバックアップと全面支援である。その経済効果でおこぼれにあずかろうなどと思っている者たちには「おいしいこと」はない。安倍系企業以外は排除されるからである。大方のメディアの動きも同様。安倍系メディア以外、そのようなメディアがどの程度あるかは知らぬが、余程大胆な決断をしない限り経営的破綻に追い込まれることになるだろう。しかし、1%の「都合」、「利潤追求」でしかないことに「これしかない」とすべてを託し、そのためには厚顔無恥なあらゆる手段を講じるその「方向性」そのものからはすでに至る所で大小様々な「ほころび」、「傷」が生じているのである。そして、その「ほころび」は縫いつける間もなく裂け、「傷」の止血帯はすぐに真っ赤に染まるというのが実情であろう。それは「方向性」そのものからくる必然である。「結果を出す」ではない、結果はすでに出ているのである。死の商人の「挑戦」などについて行く者はどのような美名で飾られようとも実質は犬死同然である。

                                   2016  5/4


623.「最高責任者」様、どちらへ?


 福島の実情は密封、いまだに天災に怯えながらその日の暮らしもままならない状態を強いられている熊本の人々に対して二の次三の次の処遇をしておいて、挙句の果てにゴールデンウイークに「最高責任者」様はご夫婦で「欧州訪問」、物見遊山ではないなどと弁明なさるであろうがさしたる意味も生じないまたぞろ豪華な「海外旅行」である。巷は巷で「被災地に元気を送る」と称してこれまた自分たちの都合でしかない空騒ぎとバカ騒ぎ。「元気を送る」などというのは危機を脱して「一段落」した人たちに向けられるもの。現に今不安におののきながら日々の生活も思うようにできず、いつまた生命に関わることが起きるかわからない状況の中にいる人々に向かって言うことではない。オリンピックなどもしかり、いかにも経済効果があるようなわかったようなことをおっしゃる御仁もいるようだが、現状ではまったく逆であろう。オリンピックが致命傷になる可能性もある。実際、全国で行われる大中小のイベントは隙間風が吹いている。要するに、すべてが空元気、言ってみれば嘘っぽい、空疎なのである。一挙手一投足、吐く息まで嘘の「お方」とどこか共鳴し合っているとも思われる。

 今、つけっぱなしのテレビから憲法改正などはまだ先のことであろうと安倍さん自身も言っているなどとしたり顔の評論家が出ていたが、これは非常に危険であると同時に阿部流虚言操作であると見た方がいい。そして、この手の類は時間の経過とともに何とでも言えるのである。そして、「先を読んでいた」、「苦渋の決断」、「悪い人ではなかった」などの人間主義的矮小化が始まり、問題点は不明瞭になっていく。あろうことかドラマ「進行中」に悪役自ら出てきて「俺がいなければ成り立たない」といっているようなもの。これは個的にどう認識しているかの問題ではなく、どの「位置」に「いて」何をなしたかがすべてということである。最終的にも根本的にもそれが問われるだけである。そもそも、まともな評論家などメディアの表舞台には出られない、あるいは出ない状況を考えれば、どのような評論家であるかは明らかである。内輪話のようなものが何か真実であるかのような「錯覚」からは早く脱するべきであろう。そこには内輪話をする者の自己ねつ造を通した様々な誘導が張り巡らされていて、いつの間にか多量に相手の思惑通りの検証のしようのない呪縛言語を吸引することになる。

                                2016 5/1


<番外日誌20160429>アホかホラか、ホラーかホラか


 アホな大ボラを悪びれることもなく為す鉄面皮、鉄面皮が群れを成せばやはりホラーである。ホラーは所詮ホラ。ホラだらけのホラーが現実の一部であるなら、生き延びる手立ても創造的に考えねば身が持つまい。生き延びること自体にはさほどの意味もないのと同様、自死にも意味がないのであるから。

 ろくでもない結果ばかりを出しておいて、「結果を出す」と豪語し、100%退化としかいいようのない状態を「常に進化する」という、これはもう厚顔無恥が鉄面皮となったホラーとしか言いようがない。文字通りの意味での鉄面皮となったシロアリの軍団を想像してみればよい、ホラー映画など以上にホラーである。そこには「人間」の痕跡など微塵もない。これが現在の日常的現実なのである。いつまでも能天気でいればいつの間にか居住空間さえなくなっているだろう。「彼ら」の操る言葉に騙されてはならない、「彼ら」とは「そういうもの」たちなのである。彼らの存在そのものがホラーなのである。


<番外日誌20160428>茶髪の猿


 茶髪の日本人を見る度に、茶髪の猿にしか見えない。それもジーンズを腰より下にはいた短足茶髪では見世物小屋から出てきたチンパンジーそのものである。ただ目立ちたい一心なのか、己を知らぬというか、自虐趣味なのかどちらにしても大層ちんけに見える。そうかといって和服を着るべきだなどというつもりもない。茶髪の猿、それはもはや枯渇してしまったエネルギーの裏返しとも見える。


622.今、ゲームに夢中になっている場合なのか?


 こんなレベルの話をするのも憚られるが、43歳にもなってゲームのアプリのレベルが下がったことに腹を立てて実際に爆破宣言した男がいたが、改めて現状を確認することにもなったので取り上げることにした。いつまでも漫画しか読まない、ゲームばかりしているというのは緩慢なる自殺の道を突き進んでいることになる。たばこが緩慢なる自殺などといわれて久しいが、たばこも吸わずサプリなどで健康に気を遣う者が四六時中ゲームに夢中になっているとしたら、とても健全なる精神は健全なる身体に宿るどころか、病的かつ脆弱な精神が健全なる身体に巣くい増殖していることにもなる。考えることと言語は不可分である以上、必要最低限度の簡略化された言語しか遣わないということは健全なる脳細胞の萎縮、すなわち精神の衰退を余儀なくされるというのは当然のことであろう。「がたい」は「大人」であるが精神的には未成熟ということにもなるが、現在そのような事例を見ることがあまりにも多過ぎる。このような未成熟な人間が何をするか、今後予想されることは、単に未成熟であることからくる善悪の区別もできない「人間」というコンセプトを逸脱した行為、またそのような者たちを利用する者たちが多くなることであろう。昨今の実学偏重傾向はこのような現状をさらに悪化させるだけで、「人間」の成熟からは遠ざかるばかりである。未成熟な人間の増殖を喜ぶのは一部の利害しか考えぬ未成熟な「者」たちだけである。ただし、そのような未成熟な「者」の「論法」で世界を騙すことはできない。原発のアンダーコントロール云々以後繰り返される大風呂敷は広げられるばかりで、知らぬは自国の人々だけということではお話にもならない。それは怪しげな北の国と同様でもあるが、すでに目くそ鼻くそを笑う段階を通り超している。つい鏡なす「ある思い」に駆られてしまう。虚偽のレトリックを悪魔的に操る「ところ」が生産したいかなるものも全面的には信用できなくなるのはどこでも同様。今後、評価の高かったものですらその信用度はますます失墜していくだろう。要するに、自業自得なのである。

 未成熟な者とは気付くことがない者たちのことでもある。自分がなぜそのような状態に置かれているのかさえわからない人々なのである。

                               2016 4/27

「ある日、その時」(51)2016年3月24日ー

<掲載内容>

614.派手な「経歴」のちんけな人々 615.テレビ、限りなく薄く歪んで溶けていくもの <番外日誌20160328>如何様師ゴルフプレイも振りばかり、飛ばされた球も有るや無しやと思われる 616.「便所の落書き」などと言う者たち 617.「エリート」とは程よいパーツ 618.すべては選挙後に 619.ホイットニー・ヒューストン 620. 緩慢なる他殺 621.「No think so happy」とは?

 

                                 <転載・複製厳禁>



621.「No think so happy」とは?


 これは何の商品だか忘れたが、そのコピーである。敢えて「No think」などと言わなくとも凡夫は放っておけばすぐに「No think」の状態、すなわちfoolになるのである。このわかったようなわからないような軽さが危うい。現状の問題の多くは無思慮が起因しているのである。このコピーをたとえ軽い一服のひと時という意味合いで使ったにしても、「No think」は重く、ズレを生じる。むしろ、これ以上の「No think」はmortal(致命的)であると思った方が「so happy」が実はどういうことなのかよりよく「わかる」近道であろう。

 当然のことながら、この文脈から「No think」を「Non thinking」、「selfless」なども含めたコンセプトとしては捉えられない。

 さらに付け加えればこの手の「No think」は、実質的な「文盲化」で、当の本人以上に「由らしむべし、知らしむべからず」の「お上」にとっては都合がよいということである。「ブーブー」言わずに、「No think」でいれば「so happy」になれるのか?そこにあるのは手なずけられ、飼いならされた蒙昧さだけであろう。知らなかったでは済まされぬことも含めて無知蒙昧とは「人間」としては罪にならざるを得ない。「No think」は詰まる所「人間」の放棄、拒否ともなる。罪を背負うだけの果敢さもなく、現実直視もできず「No think」では半歩も前へは進めまい。残滓をかき集めて辛うじて「so happy」を装ってもやがて瓦解することは目に見えている。

                                             2016 4/22・23


620.緩慢なる他殺


 「緩慢なる自殺」というのはよく聞かれる表現ではあるが、緩慢なる他殺というのはあまり聴き慣れない言い回しであろう。何か巧妙な保険金殺人の類かとも思わせれるが、あにはからんや、そのような局部的な出来事ではなく、かなり広範囲にわたり日常的に身の回りで起こっていることでもある。例えば、食品の原材料、添加物など、中には「緩慢なる自殺に等しい」などと言われる「有毒物質」を含む食品が平然と出回っているが、それは不特定多数を対象とした緩慢なる他殺といえなくもない。よく調べれば巷には健康を害する食品は至る所にあふれているのである。それを敢えて選んでいるのであれば緩慢なる自殺ともいえるが、様々な事情で選択の余地がないのであれば緩慢なる他殺というしかあるまい。現状は「有毒物質」を含まないものを探すのに苦労するといった状態である。さらには基準値さえ都合によって変更させる放射能汚染物質のずさんな管理である。能天気に生きていればたやすく緩慢なる他殺を寿命として迎え入れることになる。「問題ない、大丈夫」という方々には「証明して見せてください」と言えばいいだけのこと。ストロンチウム90を飲んでも大丈夫と言った者にはその場で飲んでもらうことである。自分は決して口にしないものを他人には勧める。もはや残滓形骸だけとなった「人間」に何を言っても無駄であろう。できることはそのような者をその「位置」から引きずり下ろすことだけである。「証明されたこと」以外のいかなる言説も信用には値しない。因みに、単なるパフォーマンス的なものは証明行為にはならない。今、「省」、「庁」の発表、見解など根も葉もない単なる「大本営発表」と同様である。「認可」なども「推定有罪」、あるいは信を置くには不充分過ぎるといったところである。現に、今回の熊本地震に関しても、気象庁は多くの地震学者が断定を避ける中「阿蘇山噴火と地震とは関連ない」と言っているのである。天気さえ当てにならない気象庁が「地の神」と話がついているような物言いである。

                                2016  4/18


619.ホイットニー・ヒューストン


 今更改めて言う程のことでもないが、八重桜の下で一服しているとホイットニー・ヒューストンの歌声が流れてきた。やはり、歌声だけで人を魅了する本物の歌手である。これだけの歌手はこのジャンルでは日本にはいない。彼女のような歌声をごく普通に日常的に聴いている国へ「プロ」の歌手として歌いに行く日本人がいるが、やはり、ものを知らない怖さであろう。未だに肥大化したキッチュで「プロ」として成り立つのは日本だけなのである。

 見事な八重桜と歌声、何気ない偶然の一瞬に感謝 至福の一服。

                                2016 4/17


618.すべては選挙後に


 すべては選挙後になし崩し的に、あるいは一挙に決めてしまおうという腹積もりである。これで騙される選挙民とは? 金と「恫喝」でメディアを手中に収め、ホットなイメージ作りに懸命な者たち、ポスターで宣言することはその時々の都合のいいことだけ。問いただせば、「そんなことは言ったこともない」と居直る始末。騙して丸め込むためにはあらゆる手段を使う。政治と詐欺行為がこれほど区別がつかなくなったのも珍事中夭。騙そうとする者の手練手管のあらゆる様相が凝縮されて現れている。テレビなど観ているより現実の方がバカバカしく面白いのである。ただし、現実を直視できればの話である。この際、あらゆる「思い込み」は捨て去らなくてはならない。

                                  2016 4/14


617.「エリート」とは程よいパーツ


 「エリート」というとさぞかし頭脳明晰でオールマイティーのように思えるが、実は「専門バカ」といわれるような、視野狭窄的で、思慮の足りない者のことでもある。最近では、その具体例に事欠くまい。総じて、「エリート」は「ものを考える」ことはない。これは逆説的な表現でもなく、言葉通りの意味である。彼らは常に「既成体」の「精巧な」パーツ以上のものにはなり得ないのである。思慮深さはむしろ邪魔になるというより彼らの中で実質的に存在し得ないと言ってもよい。それがそのまま彼らの限界性である。わかりやすい科学の分野でいえば、ニュートンもアインシュタインも「エリート」ではない。根本的に「ものを考える」人間は「精巧なパーツ」にはなり得ないからである。さらに言えば、「エリート」とは、現実的な実利だけを求めた頭の「回転」だけは速い「パーツ」ということにもなる。産学共同路線のパーツとなることもその一例である。この回転数だけとなった頭が「罪」を限りなく創出しているのであるが、そのことを彼らが意識することは決してない。なぜなら、その時点で彼らは根底から崩壊するからである。「エリート」と「思考」(思慮分別)は乖離概念でしかなく、創造的に「ものを考える」などという行為は望むべくもないのである。もし、そうではない「エリート」がいたとするなら、それは「エリート」というコンセプトを超えているか、もともと「エリート」という範疇にはいなかった者である。

                                2016 4/6


616.「便所の落書き」などと言う者たち


 「保育園落ちた云々」などを「便所の落書き」などと言う者は政治などやる資格はまったくない。「日本死ね」に過剰反応しているのであろうが、それで冷静な判断を欠くようでは普段の姿勢もうかがわれる。それとは逆のことをさんざんしておいて一瞬痛いところを端的に突かれたというところであろう。この「落書き」の発信者はやろうと思えばこの種の川柳の一つもひねり出して現状を表現し得る素養はあると思えるが敢えてこのようなストレートなパンチの効いた表現を選んだのであろう。もし川柳的表現をしていたら、それが巧みであればある程今度は切迫さに欠けるものとなって小さく収まってしまうことになる。このエネルギーのある「落書き」的表現が現状の問題を的確に浮き彫りにしている。「名句」である。このような「庶民」の声を聞き分ける配慮もなく、見抜けない者が一体何をしようというのか。何をたくらんでいるのかと言いたくなるが、もはやそのような者たちの底は疾うに割れていて毒気さえ放っている。たとえば、元杉並区長・山田宏、区民もよくこのような人物をいつまでも区長にしておいたと思われる。つい「選んだのは誰?」とも言いたくなるが、すでに私は100年以上も続いた杉並の家を捨てて、今では杉並区民でもない。しかし、どこにいても「区」長、知事、首相の「三重苦」からは逃れられない。「区」民税、「都」民税、国税どれも納得できるものなら喜んで払うが、納得できるものは探すのに苦労するくらいである。すなわち悪政なのである。成金趣味のお上りさんまがいの海外渡航、何か勘違いしているとしか思えない行状、それも他人の金で、実のところ諸外国から見れば阿保の鴨葱といったところであろう。御里が知れる公人ばかりでは旗を振る気にもならないのは大方の人々の素直な心情である。臭いものには蓋ばかりで、足の踏み場もないほどの蓋にブルーシートをかけて「祭」りに備える。やることなすことこんな調子では、さぞかし臭い「祭り」になることであろう。これでは、ガス中毒、ガス爆発も起こりかねない。

                                                                                                                                   2016 4/2


 <番外日誌20160328>

如何様師ゴルフプレイも振りばかり、飛ばされた球も有るや無しやと思われる。


 何をやっても吐く息までも嘘に見えるから不思議なものである。これもすべて自業自得であろう。この人間の真実とは肉体に宿る病巣くらいであろうか。

  これは大陸より追われし家系の怨念がなせる業で、あまりにも非合理てきであるが故にそうとしか言えないのであるが、それがすべてにおいて冷徹さを欠くこととなり結果的に「和国」を滅びへと導いているのではないかとさえ思える。


615.テレビ、限りなく薄く、歪んで溶けていくもの


 一時期辛うじてあったテレビの効用もすでに失われ、もはや見る影もない。ただみすぼらしいだけである。あったことをほとんど伝えぬニュース、大衆に媚びるだけのドラマ、世間では通用しない有象無象の内輪の互助会的空騒でしかないバラエティー番組、平和ボケしたような者が喜ぶ戦闘シーンのオンパレード映画、外国映画をすべてアニメ化してしまう罪づくりな声優たち。見るべきものは皆無に近い。さらに存在の有無さえ定かでないNHKの支払い要求である.。世界の笑いものにもなる政権の「電波停止」という「恐喝」まがいの行為でビクついているテレビ関係者。テレビなどなくても生活にまったく影響はない。むしろない方がすっきりすると思っている。

 後は、スマホで目をやられ、頭もやられ、下り坂で転げ落ちないように注意が必要。盲点は月も、星空も、足元も見えていないことであろう。転ばぬ先の杖を用意して現前の石につまづくことである。

  今,ベルギーのテロを間一髪で逃れた人のお土産のチョコレートを食べながらアールグレイの紅茶を飲んでいる。

                                2016  3/27


614.派手な「経歴」のちんけな人々


 派手な「経歴」の真偽などはその人間の言動を見れば一目瞭然であろうと思われるが、そうでもなさそうなのがメディアの作る世の中の流れのようである。耳目を集めるためにだけ勝手に作り上げておいて、雲行きが怪しくなると糾弾側に回る。典型的な「マッチポンプ」であるがそれがあまりにも常套化しているので、「ああ、またか」という言葉さえ出てこない。

 派手な「経歴」のちんけな者というのは、その言動がすべてを語っているのであるが、見抜けないのはその肩書、著名度などで肝心なものを見落としているのであろう。それは逆に受け手の自恃の念の希薄なブランド志向の盲点を突いているとも言える。発信対象、すなわち受け手を低レベルに設定しているだけなのか、実際に思考停止状態で葦の髄から天井をのぞくことしかできないのか、これは前者か後者かということではなく、発信内容を見ればどのように取り繕っても自ずとその人間の全体像は見えてくる。

 案の定、すべての結果、その終焉は意外に早くきた。どのように権威付けられていても、内容に虚偽、合理性を欠いたところがあれば己が原因でつぶれていく。

 余りにも不届き千万な世の流れに対して「復讐するは我にあり」という思いにかられる時もあろうが、それはあなた自身が手を下すことではないというバイブルの教えでもある。しかし、それは単なる「神頼み」というようなことではなく、ある意味では「因果律」、因果応報であると思っている。だから、現在の自らの言動を正さなければならないのである。

                                   2016 3/24


 

「ある日、その時」(50)2016年2月14日ー

<掲載内容>

<番外日誌20160205>ツイッターの哀れさ 605.愚かさも 極まりけりな 空騒ぎ 606.「隙間政治家」とは幇間政治家のこと 607.笑っているのか怒っているのか <番外日誌20160224>経済状態を悪くすれば支配しやすい  608.詭弁と詐術の範を垂れる 609,「家族と支えあって」? 610.「特養入れぬ、日本死ね」にもなる 611.その場しのぎの支離滅裂政権 612.原発事故訓練?613.死んだクジラの上でガッツポーズ?

 

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613.死んだクジラの上でガッツポーズ?


 おちゃらけやっている兄ちゃんとして密かに家族のアルバムの中にあるのであれば何とか許されもするだろうが、それでも意識、前意識レベルでは問題となってくる。そんなことすらわからず写真コンテストなどに出せばどうなるか。それはお気軽にネットに流すのと同様にその安易さ故の危うい結果をもたらす。この写真一枚で彼の「内容」のほとんど読み取られているということが本人だけが知らないのである。しかし、そんなことより何よりこのような「作品」を最優勝賞に選ぶという審査委員の見識のなさは罪でさえある。この写真が北海道立オホーツク流氷科学センター(北海道紋別市)の主催した写真コンテストで「征服」という題名で最優秀賞をとったというのであるから一悶着起きるのは当然であろう。それは権威の有無でも有名であるかないかとは関係なく公の場に登場したという意味である。題の付け方、写真の撮り方どれを取っても他者に共感を求めること自体がおこがましい程度のものである。敢えて題をつけるのなら「人間の愚かしさ」という題名が一番似つかわしい。この写真を選んだ審査員(女性)は「海岸に流されてきた?クジラに乗ってヤッタゼ!と言った得意のポーズの青年!滅多に見られない作品作りに成功されたと言ってよいでしょう」と選評しているが、その後の人々の反応に対して「クジラは生きていると思った。その上に乗っかるなんて勇気があると思ったし、感動したので選んだ。それが冒涜と言われると何といっていいかわからない」と話しているが、やはり感動することもその人間の知性、感性の在り様、質をよく表しているということである。審査員を審査したいようなコンクール、コンテストは巷にあふれている。鍛え上げられた強靭な知性もなく、一時はあったであろう偶然のなせる輝きを頼りにすでに色あせてしまった今の感性を重ね合わせれば「ものは見える」と思っているようだが、そのような傲慢さが頑迷な蒙昧さとなる。豊かな知性から香しく匂い立つようなもの、それが揺らぐことのない良質な感性の最大要因である。

                                   2016 3/17


612.原発事故訓練?


 これは火災訓練とは訳が違う。起きた時は二度と以前のようには戻らぬ、その地域と人々の「終焉」の時でもある。「終焉の時」の訓練とは、何と言うべきか,絶句に近いものがある。原発を再稼働させることは、大陸から離れて浮かぶ地震大国でもある小さな島国を再び危険にさらすことになるのである。核エネルギー施設の時限装置をONにするのにも似て危険過ぎる。日本全国にあるすべての原発を再稼働させれば、経済論議、国防論議以前に日本滅亡の現実的かつ実質的な姿が見えて来る。思慮が少しでもあればすでにマッドサイエンスの愚かな学者たちの口上は聞き飽きたはず。最悪の事態になっても彼らもまた現在の為政者同様責任は一切取らないであろう。現に、今でも責任どころかその回避に躍起になっているのが実情である。後は推して知るべしである。福島が絶対的な負の遺産を背負わされてしまったのは誰の目にも明らかなこと。それとは違う取って付けたような「イメージ」を為政者とメディアが作り上げているだけのことである。特に、民主主義が根付いていない、形ばかりの国であればなおさら、大手メディアなどは構造的に政府の広報機関にならざるを得ないのである。受け取る側も彼らの取り上げ方を信じ切って、ただ伝えられるままに受け取っているだけでは「自分で考える」ことなどは到底不可能である。いつの間にか都合のいいようにマインドコントロールされた「自分」を「自分」であると思い込んだまま果てることになる。彼らにとって我々は飽くまでレトリック上の「人間」であるに過ぎず、実情とはあまりに乖離しているのである。

                                       2016 3/13


611.その場しのぎの支離滅裂政権


 身も心も1%富裕層に捧げ、後は舌先三寸でいかに「国民」を目くらまし、たぶらかすしか考えていないのであるから,やることなすこと支離滅裂になるのは当然である。何を言ってもただその場しのぎを言っているだけのことなのである。よくこんなものを支持する者たちが40%以上もあるものだと驚いている。99%の者たちの首をしめる手立てばかりを企てているものを支持するなど明らかに狂っているとしか思えぬが、1%のおこぼれをいただき、1%の者たちにあやかろうなどとは下種の極みでもある。またそのような詐術で国民を操れると思うこと自体が「国民」を愚弄するものである。要するに完全に「国民」を見下しているのである。メディアを含めた「野党」批判はそのまま99%の国民に対する嘲笑と見る方が賢明であろう。どのようにだらしなくとも野党の実態がそのまま「国民」の実態である。いつの間にか「黄門様」の立ち位置になっていると、愚弄される者が愚弄する者と一緒になって「高笑い」をしているという何とも滑稽なこととなる。そして、真っ先に「やられる」のはそのような者たちであるからますます笑えないのである。

                               2016 3/10

 


610.「特養入れぬ、日本死ね」にもなる


 「保育園落ちた、日本死ね」はそのまま「特養入れぬ、日本死ね」にもつながってくる。特養とは、特別養護老人ホームであるが、現実的に認知症の老人がいる家庭では働きに出ることも買い物に出ることも、おちおち夜眠ることさえもできなくなり、家族の者はできればその認知症の高齢者を介護施設などに入れたいと思うのはごく普通のことであろう。しかし、その特養に現在50万人以上の高齢者が入れないで待機状態なのである。その全員が認知症を発症しているかどうかは定かでないが、自宅での家族介護が不可能なのがその実情であろう。50万世帯以上の者が陥っている状態を救えないのであるから「日本死ね」と言われても仕方あるまい。こんな状態でいくら外憂を煽ってみたところでそれどころではない。それ以前に体力は使い果たし青息吐息で自ら立っているのもおぼつかないのである。この問題も後手の対応さえできていない詐術的事象である。「庶民」レベルでは、子供がいる者も、認知症の高齢者がいる者も食つなぐことさえ困難で、すでに「棄民」の適合者ということなのであろう。だから、「日本死ね」ということにもなるのである。「一億総活躍」とは言ってみれば「一億総白痴化」のパロディかパスティーシュであろう。さらに言えば、「一億」の「棄民」該当者のさらなる隷属化である。

 働かざるを得なくなっても子供を預けるところもない、家には夜昼何をするかわからない認知症の高齢者、挙句の果てに何かあれば「監督義務」が問われる。このような世帯がどれだけあるのか、「支え合って」などという言葉がどれほど着飾った空疎な言葉かということをいやというほど思い知らされていることであろう。それは当然の成り行きで、支えようにも個人の限界を通り越しているのである。社会問題を個人の問題に収斂してどうするのか、「家族で支えあう」ではあるまい、このような問題は社会で支え合うのが健全な社会の在り様である。社会保障の名目で増税したものは一体どこに使われているのか、それも言わずと知れたことである。このままでは「庶民」の多くはこの先いくつもの地獄を経巡ることになるだろう。それは時間が経てば経つほどさらに悪化するだけなのである。

                                 2016 2/5

追記:「保育園堕ちた、日本死ね」について、「何でも行政にせいにするのはどうか」、「自分で工夫すれば」等々の声もあるようだが政府関係者ではないかと思われるようなレベルである。自分の立ち位置もわからず、恐ろしく問題のある政府と一緒になっているのであるからオメデタイも通り超している。民主主義とは正反対の方向を向いていることも気が付かず、自分の問題と社会問題の区別もつかないのである。

 中には「便所の落書き」などと同一視する杉並区議まで出て来る始末。事の重大さがまったくわかっていないのである。会派は「美しい杉並」だそうであるから恐れ入る。見識も政治センスもない何でこんな人間が議員をやっているのか不思議であるが、下心は見え見えである。ホスト、半グレなどの舌先三寸のやからと何ら変わるところがない。選んだ奴は誰だと言われても仕方あるまい。


609.「家族と支えあって」?

 起こるべくして起こっている「介護」についての諸問題、家族と支えあってもできないから起こっているのである。名古屋地裁、高裁の「監督義務」についての判決には介護の実情の無知さにあきれ返えるが、最高裁の小法廷での判決でかろうじて落ち着きはしたもののこのような事故、事件は今後も増えることはあっても決して減ることはない。93歳の要介護1の認定を受けている妻に、働かざるをえない長男に「監督義務」を負わせて760万円の賠償を命じたり、妻に360万円の賠償責任を負わせたりすることがどういうことなのか考えるべきである。夜昼関係なく行動する認知症の者を監督するには四六時中見ていなくてはならないのである。要介護の妻にも、外に出ざるを得ない長男にもそれはできまい。現実的にやれることは「開かずの間」を作るか、倉庫にでも閉じ込めて置くしか手はないのである。しかし、そのスペースすらない者には夜もまともに寝ることはできないはずである。やるべきこともせず社会保障費を削減し、起こるべくして起こっている問題を放置している責任はどこにあるのか、それは明らかなことである。

                                 2016 2/4

                            


608.詭弁と詐術の範を垂れる


 一国の「長」が自ら率先して詭弁と詐術の範を垂れているにもかかわらず支持率が激減しないということは、衰退し続ける国の実情を見事に体現している。この反照としても国中に詭弁と詐術がはびこることは避けられまい。前代未聞の糊塗、ねつ造の常習、常態化、どこをとっても一つとして拾えるものはない。ただ唯一「取れる」ものは、その醜悪な実態の現前化であろうか。今後、各自がこれをどのように教訓化、経験化するかで決まってくるというのは言うまでもないこと。見れども悟らずという者は論外。それは言い方を変えれば、どのようなことがあっても悟れない者なのである。

 いつまでも詭弁と詐術の範を垂れていれば、金になれば何でもするという根性の浅ましい連中はいくらでも増える。箱物ばかりはご立派で「内容」はお粗末で空疎なものは今でも巷にあふれている。要するに、そこで「やるべきもの」がない、例えて言うなら、オペラ劇場でカラオケ大会をやっているようなものである。それは実体のないものを詭弁と詐術でごまかしているすべての「もの」、「こと」と重なり合う。経済を破壊し、文化を破壊し、社会を味も素っ気もないものに変えようとする詐術行為をいつまでも許していればそれだけ回復時期は遠のくだけのことである。もし、それが「不治の病」であれば「復活」を期して死するより手立てはあるまい。

 しかし、「体力」の衰退している時期というものは精神も脆弱化するものらしい。

                                 2016 2/26


<番外日誌20160224>経済状態を悪くすれば支配しやすいというのも一理あるだろう。「ハイリスク、ハイリターン」の博打経済論、どちらに転んでも支配する側には持って行き方はある。ものの道理も知らで、見で、聞かで、言わで、黙々と働く民が相手であるからなおさらである。


607.笑っているのか怒っているのか


 昔、笑いながら怒るということを器用にやってみせる形態模写風の役者がいたが、最近ではそれが一般的なってきているのか、笑っているのか怒っているのかわからないような人間が多くなっているように思われる。笑っているのか怒っているのかその内に「キレル」という何とも許容量のない防衛機制の「退行現象」のような「甘え」が現れる。この「キレル」という現象は「怒り心頭に発する」などとは異質で、いともたやすく日常茶飯事に起こっている。それはこの言葉に引っ張られているかのようでもある。誰がこんな言葉で自分の心情を括ったのか知らぬが、「キレタ」ものは決して元には戻らないことを思い知った方がいいような場合が多過ぎる。そこには誰かが「キレタ」ものを修復してくれるだろうという幼児的な「甘え」のようなものさえ感じる。だから頻繁に繰り返されるのであろう。今までは何とかそれで済んできたのであろうが、やがて済まない時が訪れる。実際、時、場所によれば、「キレタ」瞬間に即生き死にが問題になることがある。それでも「キレル」のであればそれは簡単に収まらぬものがある時で、それこそ「怒り心頭に発する」といった具合であろう。喜怒哀楽などは人間の普通の感情の在り様であるが、怒ることが「キレル」ということであるなら「怒る」と言えばいいだけのこと。それはごく普通の人間の一様相である。その怒り方が自他ともに収拾がつかないような時に「キレル」などと遣ったのであろうが、もし「些細なこと」で感情のコントロールができなくなるのであれば、そこには知性、感性の許容量のなさ、退行としか言いようのない「甘え」しか見えない。この種の「甘え」は危険で、場合によっては本人の「意に反して」死地に追いやられることになる。「些細なこと」で生き死にまで行く、愚かとしかいいようがないが、それはすべてにおいて余裕がなくなっているということにもなる。

 この「キレル」という言葉は、同時にある状態を象徴的に表している。それは、「喜怒哀楽」という本然的ともいえる感情表出が豊かにできないということである。「怒」といえばそのまま「キレル」という状態しか「作り出せない」ということは、当然「喜」も「哀」も「楽」も深浅自在な表現にはなり得ないのである。例えば、役者たちの変化に乏しいヒステリックなだけの攻撃的な表現、どれも形態模写の域を出ず、すぐに見透かされるほど底が浅い。これしかできないというのは何とも情けないというより役者という表現主体そのものの根幹に問題があることになる。おそらく、「怒る」といえば、彼らの中に具体的にイメージできるのは日常的に目にする単なる許容量のない、「退行」のような「キレル」状態の模倣でしかないのであろう。

 今、いつからこのように「人間」の根幹部分に触れる領域が見る影もなくなってしまったのか改めて反芻している。「人間」そのものがもはや形骸化しているのか、死んでいるのか、そんなことはあるまいとも思われる。現に、ものに触れ、ことに触れて、つい「御身もまた人間か」という全身全霊の思いにかられることもある。人間もまだ捨てたものではないと思い返すこともしばしばあるのである。

                                2016 2/20


606.「隙間政治家」とは幇間政治家のこと


 近くの文字が時折二重に見えて、つい「隙間政治家」を幇間政治家と読み間違えた。「未曾有」や「歯舞」を読めなかった天下の政を掌る諸君とは訳が違う。読めてしかるべきものが読めなかったのと、何気につい読み込みすぎた実情に合った勘違いくらいの差はあろう。昔、歌手の名前を間違えて左遷された司会者がいたが、天下の政とはその比ではないらしい。誰も恥じ入ることもなく平然と居直っていられるから大したものである。一事が万事。それにしても、税金を湯水のごとく使い、保身を最優先した上で、ダメだったから働けない者から早う死んでくれでは政の意味はあるまい。もともと幇間などは自分の世渡りで精いっぱいで、人のことなど二の次三の次なのである。そんな者が何人集まっても致し方ない。意識するしないに関わらず、もうすでに99%の人々の首に縄はかけられているのである。後はその縄をどうするか少しは考えられる道もあるという段階で、もし、このようなことを無視して「夢」、「希望」、「オイシイこと」を言う者がいたとするなら、それは巧言令色のニセモノであることを自己証明しているに過ぎない。その内に「福島原発」ですら「あれは時の政権の誇張、でっち上げ」、「実はなかった」などと言い出しかねないどこにでもいる寄らば大樹の陰に巣くう捏造専門業者の類と見て間違いあるまい。

                                 2016 2/17

 


605.愚かさも 極まりけりな 空騒ぎ


  愚かさも 極まりけりな 空騒ぎ ここに至りて 何をか言わんや

 テレビなど観る機会も、観る気もないがたまたまボタンの押し違いでテレビの映像を開いてしまうことがあるが、そこに見るのは相も変わらない「空騒ぎ」と乱痴気騒ぎ、「ドラマらしきもの」も役者の一声でアウト。若い役者も演技の勉強を根本からやり直した方がいいと思われる者たちばかり。報道は最悪の自主規制。こんな世相を見てそれをネタに書くコラムニストもいくら「軟派」とはいえよくやっていられるなと思われる。一億総評論家などとはよく言われることであるが、一級の批評ができるのは現在日本では皆無に等しい。知性もない当然感性などもない他人によって「作られた」ことも気が付かない堕ち続ける「感覚」を頼りにしているようではいつまでたっても埒は明かない。腐り行く己の生理の域を一歩も出ることはない。要するに「オメデタイ人間」が「オメデタイ役者」を作り上げているのと同様に、「オメデタイ」選挙民が阿保な政治屋を選んでいるのである。「支持率」などを見てもつくづくそう思う。

 今や、テレビの報道などが天気予報以上にあてにならず、流される映像は醜く、騒々しいだけであればテレビで知らされる内容は無視すればいいだけのことであろう。知りたければ自分で知らべればいいのである。テレビで何を言おうが「家はテレビがないので知りません」と平然と言えるくらいで丁度いいのかもしれない。都合のいいことしか言わない政府広報の類を参考にしても仕方あるまい。テレビについて「一億総白痴化」とはよく言ったものであるが、今まさにその効果が如実に一挙に現れてきている。「電波停止」やれるものならやってもらいましょうというくらいの気概がないから何もかも失うのである。「電波中止」もまた愚かさも極まりけりである。これはまたこれで、これがどういうことになるのか思い知らせるいいチャンスでもある。そう意味ではどんどんやってもらいたいと思っている。年間1ミリシーベルト以下というのが何の科学的根拠もないと言う環境相しかり、彼女たちは鬼女というより痴女なのであろう。都合が悪くなれば「謝罪」である。それで済む問題ではなかろう。これで納得するのであれば御しやすいというより能天気なのである。もしそうなら、やはり病膏肓に入るということか。

                                  2016 2/14

 


 <番外日誌20160205> ツイッターの哀れさ

 ツイッターには実に愚かしい、ただ目立ちたいだけというようなものも多いようだ。中には内容も不明で、何を勘違いしているのかと思われるような無様な自分の顔の大写しを載せている者までいる。顕示欲と自虐趣味などが混然一体となっているのであろう。哀れな姿である。

「ある日、その時」(49)2016年1月24日ー

<掲載内容>

597.「自衛隊火器演習」に「感嘆」の「声」? 598.何をしても「記憶が定かでない」599.改めて「プロ」とは何か?600.「日本を元気にする」?601.命は短い 602.切り捨てられた「異類婚姻譚」603.日米軍需産業に貢献する北朝鮮  604.「シャブ漬けのまま衰弱死」

                                                                                                                             <転載・複製厳禁>

 



604.「シャブ漬けのまま衰弱死」


 もちろん、これは清原何某のことではない。

 ある経済学者が、このままでは日本は異常な金融緩和というシャブ漬けのまま衰弱死してしまいかねないと言っていたが、「シャブ漬け」状態というのは経済に限られたことではない。恒産なければ恒心なしという意味でも経済状態が心身に及ぼす影響は計り知れないものがあるのは確かである。現に、息も絶え絶えな、休む間もなく働かされて「思考停止」状態でその日をかろうじて生きている者たちを「シャブ漬け」と言わずに何というのか。「死ぬほど働かされていますよ」という彼らに本当の生気はない。あるように見えるのは、それこそ「シャブ漬け」からくる一時的な「高揚」のようなものでしかない。このまま行ったら後は衰弱死しかないというのは冷徹な見方というより当然の論理的帰結である。

 朝夕、疲れ切った「シャブ漬け」状態の隷属の民に垂れ流されるニュースと称される政府広報、その内に阿保の派手なタコ踊りも頼りになる偉いお方の行状に見えてくる。これもヒットラーの宣伝相などが使った陳腐な常套手段である。

                                2016 2/10

 


603.日米軍需産業に貢献する北朝鮮


 多くを語る必要もないことであろう。北朝鮮が「本気かどうか」などという詮索は暇人に任せておけばよいこと。やっていることは戦の準備に「大義」を与え、軍需産業活性化に貢献しているというだけのことである。どこかでリベートを受け取っているのではないかとさえ思える程である。実際、「この世界」は何でもあり得る、実際に何でもやる「世界」である。そのことを否定したとしても虚しいことである。そして、そこで遣われる「大義」を飾る美辞麗句なども醜悪な凶険無道の化身でしかない。

※特に読売系メディアは日米の「首都圏も射程」などと煽っている。どちらにしても一旦開始されれば勝者のいない世界の終焉に向けた序曲になる。今までのような皮算用すらできまい。

 ベトナム戦争時は松下電器が米軍の軍需産業に加担、その後も電器機器を扱う様々なメーカーが米軍に協力してきたことについては今更改めて言う必要もあるまい。「戦争屋」とその「周辺」はとにかく戦争をしたくてしようがないのである。しかし、賢そうなその皮算用ももはや自己瓦解しかもたらさぬところまできている。戦争とはどう言いつくろっても人類に英知がない証なのである。近未来映画(米国映画に多い)ですら何かといえば戦争である。宇宙の彼方から来ることが可能な「宇宙生命体」が宇宙の最低の生命体のところに攻め寄せるなどという発想自体が愚かしいのである。高度であればあるほど人類との接触など避けるだろう。そう思わないところがまた愚者の極みでもある。

                                 2016 2/4ー2/8ー2/9


602.切り捨てられた「異類婚姻譚」


 ある女史から久しぶりに電話があった。仕事の話などをしていると、突然、最近の芥川賞受賞作だという「異類婚姻譚」という本の話になったが、如何せん芥川賞受賞作などこの20数年手に取ったこともないので女史の話に受け答えもできずにただ聞いているより仕方がなかった。女史が言うには題が面白そうだったので気分転換になるのではないかと中も見ずに他の本といっしょに買ったが、開いて2,3ページで読む気がしなくなったという。こんな文化の香りも感じさせないだらしない文章がよく書けるものだと吐き気さえ感じたそうだ。「ラノゼ、わかる!吐き気よ」、「これが文学?一体何をやっているの、作家って」、「これ作家というより単なるいけ好かない主婦という感じじゃない。とてもいただけないわね」、「また騙されたわ、これじゃ駄目よ」・・・。女史の見解の中にはもっと辛辣で、本質をえぐるような内容もあったがここでは差しひかえる。それは、また違う機会に。私としては、後日、機会があれば女史の憤りの確認の意味で読んでみようとは思っている。

                                                                 2016 2/2


601.命は短い


 肝心なものが見えかかってきたところで終焉を迎える、あるいは一生振り回されただけで終わる者、、忍び寄る終焉にどこかで折り合いをつけるために「諦観」に身をゆだねる、「欲望」にさらに火をつけ身を焦がす者など、人さまざまであるがとにかく命は短い、短すぎるといってもよい。そして、実のところ大方は何もわかるぬまま終わってしまうのである。やはり、「見えかかった」というのが限界なのであろうと思われる。狭い料簡の中で現実が見えているつもりの者は多いが、的確に見えているかとなると極めてまれであるというのが実情である。自分の「在り様」を正視し得る者もまれである。無様であろうとなかろうと正視することができたら、そのように「在る」こともないはずだと思われることが多い。

 しかし、「命は短い」というこの一事で抑えようもなくこみ上げてくるものがあることだけは確かである。

残雪に 「而今」「而今」と 並びをり

 而今とは、ただ今の一瞬間という意味の言葉であるが、酒の銘柄にもなっているようだ。とある街角の片隅で薄汚れた残雪の中「而今」という名の一升瓶が並んでいた。酒、酒席などとはまったく無縁となった今の私には、酒なども残雪に放置された而今のごとく意味もない。そもそも弛緩した酔(態)に而今は感受すら覚束なく、連綿とした混濁が現れるだけである。図らずも、「而今」が一本一本立ち並んでいる姿そのものが辛うじて而今の様相を言い当てているに過ぎない。

                                2016 1/31ー2/2


600.「日本を元気にする」?


 このような発想自体が国家主義的なのである。もし、ほんとうに人を元気にさせる人々がいたとするなら、彼らは「日本を元気にする」ためになどしているつもりはまったくないと言ってよいだろう。彼らは「自分の思うままに」「思うところ」をなしているだけなのである。

 「日本を元気にする」などと称してそれらしき人々を「救世主」扱い、あるいは「一般化」しようとする意図は何かということになる。「日本の元気」を根こそぎにしている「張本人」、その元凶についてはほとんど言及せず、そんなことより「日本を元気にする」云々もないであろう。そんな「重り」を勝手につけられた方もかなわないが、「思うところ」を「思うままに」常に更新し続けている者にとってはまったく関係もないことであろう。要するに「日本のため」などというコンセプトは彼らには皆無であると同時に必要もないことなのである。「国家」と自分を同一視するしか他に能がない空疎な人々は別にして、個々が自分の思うままに才能を開花させればいいことで、その結果として多くの人々を元気づけているということになればさらによいというだけのことである。そこに「国」などが入り込む余地はまったくない。否が応でも日本人である者が「日本人である」ことを強調してどうするのかと思うが、必要以上の安易な「強調」は自信喪失、空疎であることの裏返しでもある。

                                 2016 1/30


599.改めて「プロ」とは何か?


 現在、改めて問いたくなるものは枚挙にいとまがないが、「プロ」などというのもその一つである。簡単に言えば、「プロ」ということで何かが保証されることがあるのかということであるが、実際は覚束ないことばかりである。むしろ、生活のためにやむなくやっているのが「プロ」というだけで、経験則から割り出された要領ばかりが多く、悪く言えば手を抜く要領を心得た者が手慣れた「プロ」と称される場合の方が多いようにも思われる。「巧遅は拙速に如かず」などということも「プロの仕事」のように言われることがあるが、それも時と場合や内容にもよることで安易に一般化できることではない。「プロの仕事」などと呼ばれるものよりは「趣味」が高じた素人の方が内容的にはるかに優れているケースも多々ある。それは、「趣味」が目先の利害にとらわれずに嬉々として没頭できる自由な領域にあるからである。さらに言えば、今後新たな視点を獲得できるのももはや既成のプロ集団ではあり得まい。現在、「それで食っているだけ」の「プロ」などから得るものはあったとしても小手先の技術以外には何もない。単なる経験則、小手先の技術など時を待たずとも根底から覆されるものである。

 なぜ分かり切ったことを改めて言いたくなるのか、それは現状がそうさせているのである。

                                  2016 1/28 


598.何をしても「記憶が定かでない」


 それこそ何をしても肝心なことは「記憶が定かではない」のである。すなわち、責任回避、責任能力がないと見るのが妥当であろう。突然の「記憶障害」、「記憶喪失」、こんな人間の言動を信じ込む方が愚かというだけのことである。中には、泣き、叫び、土下座はする、頭を丸めるなど、ただ騒々しいだけの者もいる。この調子で今までひとを誑し(たらし)込んできたのであろうと思われるが、これで済むなら世はまさに悪人天下、実際、世の趨勢は悪徳に倣わなければ時流に乗り遅れると言わんばかりの勢いである。単なる「お人よし」と「無知」は無恥な悪人をはびこらせるだけで、罪であることを知るべきなのであるが・・・。

                                    2016 1/27


597.「自衛隊火器演習」に「感嘆」の「声」?


 それにしても自衛隊の火器演習を見て感嘆の声を上げているとはやはり「平和ボケ」の極みであろう。これは花火ではない、本物の殺人兵器である。一旦トリガーを引けば、銃口はいつでも自分にも向けられることになる。「平和ボケ」とは要するに想像力の貧困さなのであろう。それが単なるアドレナリンジャンキーなら言うもおろか、すべては自業自得。どちらにしても「すりこ木のような神経」であることに変わりはない。日常的に「生」を真摯に問う姿勢がなければ「すりこ木のような神経」はいつでも形作られる。それは、いたるところ断線している神経の集合体の様相を呈している。思考拒否、停止、言語能力の劣化、擬態語、擬声語で占められた世界に「救い」はありようがない。それはごく普通に「人間」の領域を逸脱しているのである。

                                  2016 1/24

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