両忘の時‐ある日、その時‐

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「ある日、その時」(37) 2014年10月1日ー  

<掲載内容>

435.すべては「キッチュ」 436.タナトスの増殖と「自爆」 437.中村修二教授(本年度ノーベル賞受賞)の「怒り」 438.広告の「FIRE」に思わず失笑 439.逆に真あり さかしまにあからさまなる現(うつつ)440.怖ろしき「リニア新幹線計画」 441.「巨大噴火のおそれ0.25%」という「恐れ」442.「一億総白痴化」推進委員・K何某の曰く

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442.「一億総白痴化」推進委員・K何某の曰く


 馬鹿番組で稼ぎながら、一方で映画を作る。そのこと自体はさしたる問題でもなく、そのエネルギーには敬意を表したいくらいであるが、その言動には常に何とも胡散臭いものが残る。努力のかいあって映画もその「斬新」な「稚拙さ」が買われて賞も取ったが、今度はいつのまにか大御所気取りで相も変わらない「毒舌らしきもの」を吐く。「毒舌」は力のある者に向かって放って初めてその本来の意味が際立つがこの御仁の毒舌の対象は常に自分にとっては痛くも痒くもない「熊さん八さん」ばかりである。要するに弱者に向かって毒突ているのである。彼のような存在が日本の愚かしい文化傾向に拍車をかけているのであるが、もはや断ち切ろうにも断ち切れないサイクルができ上がってしまっている。そのような流れの一つの象徴にもなっているのである。実際に原発推進の広告塔にもなっていたということは周知の事実で、大衆迎合路線で実質的には大衆を裏切っていくというパターンは、目的のためなら手段を選ばないという戦後与党の常套戦略に絡め取られつつやがては自らもミイラになっていくのである。すでにウォーキングミイラになっていても本人は気付いていない、もしくは気付いていても手の施しようがないというのはこの御仁だけではないが、このパターンの当然の帰着点である。

  最近、この御仁は「宮崎駿なんて大嫌い」と言っていたらしいが、そもそもがそれでどうしたという程度の話である。察するに、反原発派、改憲反対派である宮崎が気に入らないのであろう。またぞろ、その筋から金が流れているのかと思わせるような発言でもある。彼の舌鋒は毒舌でも何でもない、よく聞いていると小心な走狗の虚勢、戯言の類ではないかと思われる。何はともあれ80歳過ぎていそいそと映画作りをしているゴダールなどの映画人がいる国や、大中小問わず1ー3か月公演が普通という欧米の演劇事情がもたらす「無形のもの」は計り知れなく大きい。そして、その差はやはり歴然としているのである。すべてにおいて問題意識の希薄な単なるタレント並みの「映画人」と「演劇人」ばかりではできるものも知れているだろう。何をやってもその場かぎりの打ち上げ花火、後は野となれ山となれに等しい継続、維持、問われているのはもっと根本的なことなのである。

 しかし今や、「アイデア」程度のものすなわち「カンフル剤」でしか生き延びられない状態になっているのかもしれない。

                                           2014 10/26


441.「巨大噴火のおそれ0.25%」という「恐れ」


 今後100年で巨大噴火が起こり得る確率が0.25%というのが発表されていたが、これが確率の怖さでもある。100年で1%未満、この数値でもし多くの者が巨大噴火に対する不安をいくらかでも払拭できたとするなら、それはあまりにもオメデタイ話である。確率というのは時間の特定は不可能で明日起きても0.25%ということなのである。そこを間違えるととんでもない錯覚を起こす「根拠のある」データということになる。しかし、地震大国で0.25%という数値にどれだけの意味があるのかと思う。人間ごときの「計算」で辛うじて照合できるのは大自然の裾の綻び程度である。

                                             2014 10/22

 金に目がくらんだ方々、巨大噴火を「なめたらいかんぜよ!」、そこに原発である。もはや戻るところはない。鹿児島最期の日とならないことを祈る。

                                                                                                                       11/2     


440.怖ろしき「リニア新幹線計画」


 この地震大国で原発もさることながら活断層を貫く地下トンネルがあちこちにあるリニア新幹線にまた途方もない税金が使われようとしている。専門家に聞くまでもなく、それは無謀な愚行である。宇宙規模のエネルギー活動に対してまったく防ぐ手立てもないまま後先も考えずにただ金に動かされて作り出そうとしているのがこのリニア新幹線である。たとえ開業したにせよ何が起こっても不思議ではない。そして、その消費電力は従来の新幹線に比べて3倍もかかり、当然のごとく原発稼働が必要となってくるという段取りである。原発を欠くことのできないものとするためのリニア新幹線の登場といってもよいであろう。それ以前にそもそも開通するかどうかも不明な危険すぎる難工事でまた多くの作業員が死ぬのは目に見えている。この工事が今までにない桁外れな「戦場」になることは専門筋ではなくとも充分わかる。これは、360度の視座をフル活動させても「是」とする要因は現在、未来のどこにも見つからず、絵に描いた様な木偶が権力を握ればかくあるという近代史上にもあったことと同様の、現代史上の愚かしい自滅への前進、致命的「退歩」の一事例である。すでに経済的にも「採算は取れない」、「絶対にペイしない」(JR東海前社長)などと言われていることでもあるが、問題はそれだけではない。少なくとも私は万が一開業してもこのリニア新「棺」線には決して乗らないし、他人にも勧めない。そうでなくとも反原発、脱原発を考えている人々は乗るまい。それは文明の利器を恐れる、恐れないなどというレベルの問題ではない。分かり切っている納得できない愚かしい行為の加速に加担したくないからである。

                                                     2014 10/17

                                                                                                                               10/18 一部加筆   


439.逆に真あり さかしまにあからさまなる現(うつつ)


 これ程までに世の中に嘘がまかり通ってくると「詐欺師」との遭遇戦を常に余儀なくされる。そのせいか世人も身近にいる名もなき詐欺師には厳しくなってきたが、それでも相も変わらず「有名な」詐欺師には何度でもそれこそ嘘のように騙されている。最近では以前のように「テレビで言っていた」、「新聞に書いてあった」などとその内容を鵜呑みにするものは少なくなってきたように思われるが、まだまだ、その「選択された」情報、クローズアップの仕方についての吟味は極めて甘い。西欧では、ニュースキャスターの表情一つ、わずかな言葉の変化でその内容の「嘘」を見抜く子供がいるくらいであるから、それに比べれば日本はどこを見ても「鴨葱」音頭に調子を合わせる者ばかりで騙す方はさぞかし楽なことであろう。

 「やる」は「やらない」、「やっている」は「やっていない」、「考える」は「考えていない」、「安全」は「危険」、「上昇傾向」は「下降」、「善処する」は「無視」、「専門用語、比喩、形容詞、形容動詞の多用」は「ごまかし、めくらまし」と見るべきで、民主主義は「人を信用する」ことではない、言動の限りないチェックである。したがって、吟味を怠り、易きに付く者が多ければ多い程すぐに手痛いしっぺ返しを食らうことになる。

 さかしまになること自体疲れるが、時にはそのくらいのことしないと現実はほんとうには見えてこない。

 

 「アベノミクス」なるもの、内容的には「アベコベミクス」といった方が適切で,実のところThe spell economy(呪術経済)と変わるところはあるまい。おそらく三本の矢は藁人形にでも刺さるのであろう。

                                                 2014 10/16

 


438.広告の「FIRE」に思わず失笑


 先日、電車の中にある広告に目が留まった。全体の構成、図柄から「FIRE」は炎を意味する熱情という程の意味で遣われているのであろうが中央に置かれた「FIRE」の文字の書体、大きさからつい解雇という意味の「くび」を連想してしまった。実際、「FIRE」」という言葉は「くび」という意味で日常的に頻繁に遣われている。あの広告を見た英語圏の外国人も思わず苦笑したのではないかと思われるが、私が笑えたのはやはり今の社会状況とも関係している。そして、もしあの広告の「FIRE」が「くび」という意味ならなかなかインパクトのある広告であると思われたがそうではあるまい。それでは広告にならない。確か大手のビール会社の広告であったと思うが炎という意味の「FIRE」の文字を入れたのがかえって全体を安っぽくしているように思われた。それとも普段からリストラが頭から離れず、つい本心が現れてしまったのだろうか。ともかくも「FIRE」を炎としか読み取れない者には問題ない広告である。

 

                                                 2014 10/11


437.中村修二教授(本年度ノーベル賞受賞)の「怒り」


  中村教授の「怒り」は、総じて日本の「文化的営為」に対する姿勢そのものを見事に言い当てている。しかし、すぐに結果が出ない、金につながらないものはすべて「無駄飯食い」扱い、これで一体何が得られるというのか。それでは研究成果は得られないどころか実質的には研究そのものを、「文化的営為」そのものを否定していることにもなる。以前、私は日本では「自由に研究すること」はできなから海外に出た方が賢明であると言ったことがあるが、中村教授は身をもってそのことを実証してくれた。中村教授のような人たちを「無駄飯食い」扱いしていた者や同等視していた者たちが今度は「国家の誇り」などと言いだすから始末が悪い。そもそも個人の研究の成果などは国家などとはまったく関係ない。況んや企業とも、日本人として誇りに思うなどという人々とも質そのもの、構成要素自体がまったく違うのである。何でもかんでもすぐに都合よく勘違いする(同体化する)身の程知らずな者たちでは自分が持って行かれる方向さえも気が付かないのは道理である。

 ともあれ、中村教授のようなノーベル賞受賞者が現れたことは今までにはなかったことで若き研究者の今後の指針となることは間違いないだろう。再び付け加えるが、日本ではどのようなことを言っても「文化的営為」を育むような精神構造そのものが根本的に欠如しているので今後も自由に研究活動ができるなどということはどの分野でも決してあり得ないと思われる。小手先の詭弁に騙されては時間を無駄にするだけである。日本の「枠」に囚われていては何も為し得ないことはこれからも変わることはないだろう。

                                            2014 10/10

※後日、この中村教授の言動には落胆させられた。それについてはまた別のところでも書かざるを得なくなったので取り上げた(443)。他の受賞者については然もありなんと言う程度で敢えて書く必要もあるまい。

 


436.タナトスの増殖と「自爆」


 死んだ表皮のような言葉も環境が整うとバクテリアのように活動を開始する。たとえ空疎な言葉を乱用しているだけであると見えてもそれにエロスと同様にタナトスが絡んでくると異様な「残光」を放ち始める。最近の事象を見ているとタナトスの意のままに動かされ、その隷属と化したような姿が多く見られる。タナトスは滑り込む瞬間を巧妙に作り出し僅かな間隙を縫って増殖を繰り返し、遂にはコントロールが効かないほどにその人間を支配下に置き破滅に導く。放置されたタナトスが自然消滅することはない。それはさらなる増殖の機会とはけ口を窺っているだけで、いつ噴出してくるかは定かではない。「切れる」などということも要するにキャパシティのないことの証拠でもあるが、それは同時にタナトスの恰好の猟場でもある。餌はもちろん「憎悪」である。たわいもない対象に容易く「憎悪」が収斂していく様相はすでに巷間においても枚挙に暇がない事象となってしまった。「タナトスは自らに身を委ねたいかなる者にも暫しの間「何か」をやっているという充足感を与える。それはエロスの手口と同様である。しかし、どのような経路をとってもタナトスはそれが成り立ち得る負の無限連鎖をその指向性として持つ内的構成要素そのものから必然的にそれに身を任せた者の「自爆」をもって消失・完結する。しかし、エロスに身を捧げている者が正常で、タナトスを感じるものが異常なのではない。それほど単純なことでもない。タナトスは誰にでもあり得るが多くは水面下で水面の泡立ちでそれと知れる程度であるということに過ぎないということである。だから怖いのである。多くの者の中に水面下の泡立ちに気を取られ過ぎてわざわざ潜ってタナトスの開口部を押し広げ、それに酔い痴れる者がいればそのような者たちが周辺の者たちのタナトスを活性化させてしまうのである。「憎悪」を駆り立てるいかなる言動もタナトスを呼び起こし、行くつく先は自滅以外にはあり得ないというのが順当な摂理である。そこから逃れる術は完全に閉ざされている。

                                                   2014 10/5


435.すべては「キッチュ」


 「キッチュ」とはドイツ語本来の意味では「まがいもの」、「俗悪」ということであるが、70年代から日本でも今までの価値基準の「揺れ」の中で「キッチュ」に独特な価値基準を置くようにもなった。しかし、現在のようにすべてが「キッチュ」ではないかと見間違うほどに「キッチュ」が溢れかえっている状況の中では「キッチュ」はただ見苦しく、面白味もない、むしろ不快感しか残さない浮遊する表皮程度のものにしか見えない。

 現に、「表舞台」に立つ者の言動が浮遊する表皮以上のものではないことは日々証明されていることでもある。「表舞台」とは「キッチュ」が一番似合うのではないかとさえ思える時がある。それは形態模写の域を決して出ることのない三文役者のような存在である。「キッチュ」には深化などありようもなく、一方では深化を拒否したところにその存在意義を見出そうとしてきたのであるが、もはやその作為自体が滑稽なほどに無意味なものとなっている。無意味なものがその存在をいくら形作ったとしても、声も形状も鮮明ではなくその実態はイルージョンとしても像を結ばないのである。やがて「キッチュ」そのものとして、作為的な意味づけは削ぎ落とされ本来の単なる「キッチュ」として闇に消えていくのであろう。

 「キッチュ」はどのように捉えようと「キッチュ」なのである。それは否定されるべきものでしかない。たとえ、それが既成価値基準の「揺れ」の中で生じ、「周縁」からのエネルギーを吸収し得たものであったにしても、それは飽くまで瞬時の「徒花」で、やがてはにせもの独特の悪臭を放ち始める。

 「キッチュ」は「キッチュ」に寄り添い、同意を求め、抱き込もうとするが「キッチュ」自体が持つ構造的欠陥によってやがては内的崩壊を余儀なくされるが、「キッチュ」は「真摯さ」から乖離する、乖離させるという意味でも罪作りなのである。

 「キッチュ」などでは到底太刀打ちできないのが、自然災害であり、原発でもある。それは人間ごときがたとえ全身全霊をかけて向き合っても勝ち目のない相手である。それらの災害、事故などが今後も頻発するであろうことは「素人目」にも明らかである以上、「キッチュ」の領域は今後次第に間隙に押しやられることは想像に難くない。

 

                                                   2014 10/2

 


 

「ある日、その時」(36)2014年9月6日ー

<掲載内容>

427.「自殺の9割が他殺である」なら 428.ヴェロニカ ポリタ 429.脳死状態のメディア 430.「ノーベル平和賞」の「平和」とは? 431.「悪い思い出を軽減する技術」ーマサチューセッツ工科大学ー 432.「いやな奴」 433.「夢中になれること」が大事 434.「法螺(ほら)を吹く」者

 

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434.「法螺(ほら)を吹く」者


 実際に、法螺を吹くのも高音部、低音部と中間音で5つの音域があってなかなか難しそうである。奥州古街道の霞が立つようなところで普段は「金勘定」ばかりしている者たちによって作られた「法螺吹き」の教本片手に「中間音」だけで世界の舞台で「法螺を吹く」というのも尋常な神経ではないが、それを聞く方もまた相当なめられたものである。とてもこれで通るとも思えないが、法螺を吹く方は悦に入っているようであるから始末に負えない。己を知る必要もない傀儡的存在とはかくあるということを改めてまた見せつけられもしたが、傀儡を動かす者たちも顔こそ見えぬが手は出る、足は出るやらと何とも無様である。これ程明々白々とした事態においても文字通り金縛り状態で誰も手の施しようがないとはやはり何が起こっても不思議ではないと思われる。そのすべてが恥ずべき事態ではあるが、厚顔無恥になるとは言い換えれば欲望の奴婢になるということでもある。私利私欲の奴婢はもはや法螺を吹き続けるより手立ては何のかもしれぬが、馬鹿を見るのはその法螺に乗せられた者たちである。

 先日、ロールスロイス、フェラーリ、ポルシェなどが日常レベルで使われている地区からある駅に戻って来るとその「段差」に思わず躓きかかった。駅前にはビール箱をテーブル、椅子替わりにした大衆酒場、その傍らには国旗が翻っている。何か吐き気のようなものがこみ上げてきた。そこにあるのは恐ろしいまでの「格差」そのものである。昼はコンビニでカップヌードルとおにぎりを手にレジの前で並び、夜は夜で安酒を呷りながらに何を食わされているかわからないものを口にする。やがてなけなしの貯金は医療産業に吸い上げられていくのであるが、それでも自分は強かに生きていると思っている人々。そのような人々とフェラーリで子供の送り迎いをしている人々との間には「段差」、「格差」があるなどというレベルではなく絶壁程の高低差がある。そして、特別仕様の高級車などが行き交う街には日本の国旗などはどこにも見当たらなかったというのも象徴的なことである。それはどんなに力んでも国旗などを振り回しているのは常に「してやられる側」の者たちであることを如実に物語っているのである。それは欲望の奴婢の忠実なる下僕。不自由が着慣れた服のように馴染んでしまった人間達でもある。勢い「あっしには関わりのねえこってす」と足早にその場から立ち去りたくもなるが、それもまたライフをどこかで捨て切る覚悟がなければ言ったまでの話で、ついには棺桶に片足を突っ込んだまま社会との関わりを引きずりながら「惨めな姿」をさらすことにもなる。

                                                    2014 9/26

  これはもう3日も前に書き留めたことである。「今」などといっているのはすでに「今」ではないが、内容が今を超えていれば展開も可能であろうと思われる。


433.「夢中になれること」が大事


 モチベーション、内容の吟味はさておき、「夢中になれるもの」を持っていること自体で計り知れない「正」のエネルギーを心身にもたらすことは様々な視点からもいわれていることでもある。したがって、そこでは分別臭い、中途半端な俗流の「客観的視点」などというものは、無意味なのである。それが「世間」あるいは「世界」で通用するしないなどということも飽くまで二義的なことである。そんなことは俗世間とメディアに任せておけばいいどうでもいいことである。肝心なことは要するに心身が一体となる我を忘れる瞬間の有無なのである。したがって、「夢中になれるもの」を持っている者に対して物知り顔で不用意に水を差すようなことは絶対にするべきではないが、それに反応するのもまだ「未だし」であろう。

 「夢中になれるもの」とは単なる「受け身」的なものではなく自ら心身ともに関わり創り上げて行く、できればハートとボディが一体化するような「正」のエネルギーを最大限に引き出させる方向のものが望ましい。それは、自らにとってもこの上ない「快」なのである。

                                                        2014 9/21


 432.「いやな奴」


 いやな奴とはほんとうにどこにでもいるものである。その「いやな感じ」も受け取り方(本人の資質にもよる)次第で様々に増幅されるが、いやな奴の不快感の放出というものは実に微に入り細を穿っているのである。何でそこまで入念に他人に不快感を与え続けられるのか不可解でもあるが、それがその人間の生きることと表裏一体となっているので要するに死んでも治らない「病」源を知らず知らずにため込んでしまったと見るべきであろう。そのような人間とどう接するか、各自が考えるしかないが本屋に溢れているハウツー物はどれも程度の差こそあれ波風を立てないセルフコントロールの類ばかりであるといってもよい。結局のところ「いやな奴」をのさばらせるだけということになりかねないが、やがては自業自得ということになる。微に入り細を穿った不快感を発することができるということは実は小心翼々とした者ともいえるのである。それはシュリンクする精神の「核」しか持ち合わせない者でもある。彼らに存在意義があるとすれば「反面教師」くらいではなかろうか。そして、彼らに教え諭す程無意味なものはないというよりそのようなことをすれば逆恨みされるのがオチなのである。他人に不快感しか与えないのであるから当然賢い者ではない。「いやな奴」とは煎じ詰めれば愚者ということになる。だから「バカ!」といわれるのである。彼らにはやはり「反面教師」、「こっぱ役人」などが一番似合っているのであろう。歯牙にもかけないような存在ではあるが、やむない事情で周囲にいられると兎にも角にも鬱陶しく五月蝿い(うるさい)。

                                                    2014 9/19

 


431.「悪い思い出を軽減する技術」ーマサチューセッツ工科大学ー


マサチューセッツ工科大学といえばノーベル賞受賞者を多く輩出しているアメリカでも1,2を争う理系の大学である。しかし、優秀であればあるほど必然的に軍事技術、軍需産業にも貢献しざるを得なくなるという現状がある。実際、マサチューセッツ工科大学も1940年頃からカリフォルニア工科大学などとともに軍事産業に関わっている。その最先端技術を生み出すマサチューセッツ工科大学がこの程「思い出を軽減する技術を開発」したらしい。メディアからは「記憶を書き換えることも可能になるのではないか」とそんな未来を期待する声も上がっているという。どこのメディアか知らぬがこの「ノウテンキ」さにはまた改めて恐れ入る。確かに今使っている「便利な」パソコンも軍事技術との密接な関係の中で生み出された最先端技術の名残でもある。最先端技術そのものを必要以上に恐れることも否定する必要もないがそれは常にマッドサイエンスと隣り合わせでもあるということである。

 「悪い思い出を軽減する技術」はすでに「削除」する技術に発展していると思われる。例えば戦争の後遺症に悩むものから「悪い記憶」を「軽減」、「削除」する。果たしてそれを単純に喜べるのか、その人間が否応なく背負わされてしまった戦争の悪しき一面がその人間の中から「軽減」され消え去る。それは同時にその人間から生々しい歴史的現実が「消える」ことでもある。戦争に対する「悪い思い出」が「軽減」し、良い思い出(?)しか残らないというのは明らかに狂っている。それはもはや「人間の境涯」にはいない者の世界でもある。薄笑いを浮かべて嬉々として戦争について語る者のことを想像してみればすぐにわかることである。記憶の収められているニューロンを特定し、それに光を照射して記憶の正負をコントロールするそうだが、危うい点は多々ある。産学共同路線特有の専門大学には「制御」、「自浄」の役割を果たす強靭な哲学的知性に基づく倫理的視座が成り立ち得ないこともその一つである。したがって、マッドサイエンスは舞台裏で同時進行しているというSFのようなことが起こり得るというより、むしろそれ以上のことが現実には起こっていると見る方が現実的でわかりやすいのである。今や「虚構」は現実の表皮以上のものを伝えることはできない。

                                                   2014  9/15

追記:蓋し「過去を忘れること」にかけては天下一品の人々にはこの技術はあまり必要ないかもしれぬ。


430.「ノーベル平和賞」の「平和」とは?


 アメリカの大統領・オバマはノーベル平和賞の受賞者でもあるが、彼の言動から、「ノーベル平和賞」というのは一体どんな意味があるのかと思う人も多いのではないかと思われる。もちろん彼以外にも不可解な人はいるが、現役の政治家に「平和賞」を授与すること自体に無理があるともいえる。特にアメリカは定期的に戦争を起している国であることは周知の事実である。今後、現役の政治家に「ノーベル平和賞」は授与されことはないのではないかとも思われる。そもそもノーベル賞の基金はダイナマイトで得たものであるから戦争とは相性がいいのかもしれないなどと皮肉りたくもなる。「平和、平和」とお題目のように唱えながら一方では戦争である。やはり「平和とは戦争であり、戦争とは平和のことなのだ」と言いたくもなる。無意味な賞の一つである。

 文化勲章、勲何等の類が質屋などにあるのを見たことも聞いたこともある。賞などというものは本人にしか意味がないのである。

                                                  2014 9/14

 2014年10月6日付け日刊紙によると、「憲法9条を保持する日本国民」がノーベル平和賞の最有力候補に躍り出たそうだ。これは「平和賞」として実質的にも歴史的にも意味を持ち得る。こういうことこそ世界に誇るべきなのである。

 神奈川県の主婦らが中心となって「憲法9条をノーベル平和賞に推す運動」が活発化しており、10万人を超す署名が集まっているということである。目の付け所、行動共に頼もしいことである。神奈川県のママさんたちにエールを送る。

                                                  

 

                                               


429.脳死状態のメディア


 大方のメディアの臨終は間近であろうが、思考回路断裂のまま延命処置が施されている。

 それは「時事」の取り上げ方そのものに現れている。実際一部大衆の極端な未成熟化は否定しようもなくあるが、それに便乗するかのような幼稚な「煽り方」そのものに自らの存在意義を投げ捨てているのである。もともと存在意義などというものがあったかどうかも定かではないが、問題の取り上げ方が実に安易で以前にも増して浅ましい姿が臆面もなくさらけ出されている。終にここまできたかという感しきりである。その怪しげな「もっともらしさ」には「身売りした」延命処置だけで動いている者特有の高圧的で妙な「落着き」が見て取れる。とても冷静さとバランス感覚を兼ね備えた「基準値」とも成り得る「本来の大人」が発する言動とは思えない。「本来の大人」という存在を排除する偏った方向ではとても成熟した社会など望むべくもなく、すでに「崖っぷち」までの道はきれいに舗装されているといってもよい。なぜ舗装されているか、それは、論理的にも明確な経済破綻に為す術もなくなった時に、自らのミスリードは棚に上げ「恰好よく」机をひっくり返し「Go to war!」で滑り出しをよくするためでもある。どちらにしても今の状況はすべてにおいて今までの「邪道」が常態化した結果でしかない。札びらだけで金の切れ目まで動くのは極限られた愚者だけで、愚者に「明日」は語れない。愚者には「明日」がないからである。それにも拘わらず「明日」を語ることができない者が平然と「明日」を語っているというのが今の実情でもある。「邪道」は飽くまで「邪道」、やがて糾弾されることはまぬがれない。「盗人にも三分の理」のようなことをいつまでも言い続けること自体が見苦しいのである。とても恥を知る国のものとは思えぬ。目先の欲望にかられた「義」のない者は何とでも言えるものである。そして、いざとなれば自分だけは天井裏に、そしてある者は穴に隠れてその挙句に捕らえられ体中の穴を拡大鏡で覗かれてもなお生き延びようとする。自分だけは逃げ道を用意しているそのような者達の口車にまんまと乗せられて崖っぷちを転げ落ちるのも自業自得と言ってしまえばそれまでである。

 最近、ある人が「今日、娘が帰って来る」と言う。思わずどこからと聞くと「自衛隊を辞めて帰って来る」のだと言う。どういう事情で入隊したかは知らぬが迫りくる危機的状況を肌で感じているのであろうか。世の中には「右」に鎮座する「お上」と同体化したようなwarlikeな人々もいるが、そういう人々は男女問わず安全地帯で四の五の言っていないで、もしそれが正しいと思うのなら真っ先に自らの生命をも顧みず「その地」に赴くべきである。当然妻子も運命共同体とならざるを得まい。もしそうでないのなら単なる教唆扇動の詐欺師でしかない。大口を叩くだけなら誰でもできるのである。

 「老いたるは皆かしこかり この国に身を殺す者 すべて若人」 ー鉄幹ー

 今ではその若人も少ない 老人ばかりの それも食糧自給率も覚束ない、再び地震でも来れば原発は閉じることもできないパンドラの箱となるというのが否定しようのない実情である。現実を直視させない捏造、歪曲の業師、詐欺師の視座に明日はない。

                                              2014 9/9


428.ヴェロニカ ポリタ


 どこからともなく流れてくるヴィヴァルディの「四季」を聞いていると今年見た大寒桜と染井吉野の折々の姿がまた目に浮かんできたが、なぜかその時足元に咲いていたヴェロニカ ポリタの姿が妙に印象的に甦ってきた。ヴェロニカ ポリタとは和名「イヌフグリ」の学名である。私はこの花のことも決して和名では呼ばないことにしている。

 「やがて死ぬ けしきも見えず 蝉の声」  蝉の声をうるさがる人がいた。

 そして、もう9月である。立秋も過ぎて早1か月、今度は虫の音を機械音と間違えて苛立つ人間が出てくるのであろう。

                                           2014 9/7


427.「自殺の9割が他殺である」なら


 「自殺の9割は他殺である」と監察医としても名高い上野正彦氏は述べている。2万体以上の検死とその実証からくる結論は実に重い。年間3万人以上の自殺者を出す日本でどれだけの者の死が自殺として葬り去られているか不明で、概算でも毎年万単位の人間が「殺されている」という可能性も否定できないのである。そして、その加害者は平然と日々の暮らしをしているということである。自殺の9割を「殺人事件」として取り上げれば今でも下降の一途辿っている警察の検挙率は一挙に地に堕ちるだろう。残念ながら、検死のエキスパートが告げる「自殺の9割は他殺である」というのは客観的事実に基づく実情である。さらには多くの検死さえ省かれたものに関してはその実態を知る由もない。

 最近でも「報道の王道」に殉じた岩路真樹氏の「自殺」、「怪死」が大手メディア以外では問題となっているが、「自殺の9割が他殺である」ということを考えなくても状況的に彼の死が単なる自殺ではないことは充分考えられることである。特に彼のように「JUSTICE」のために戦う「戦士」は尚更のことである。彼自身は真相も明かされないままの死さえ覚悟していたのかもしれない。しかし、彼はやるべきことをやり続けながら死んで行ったのは事実である。それについてやるべきこともしない者がとやかく言う筋はまったくない。彼の死を隠せば隠す程、その実態は見えてくるものである。当分、彼の真相について追う者はいないだろう。そして今、外に現れてくる選択された「報道」ばかりに気を取られていると「危うき所」に持って行かれることになるというのはすでに多くの者が薄々感じていることでもあろう。しかし、「危うき所」に近づかないというのも並みの精進ではなかなか勝ち取れるものではない。「危うき所」というものの実態がはっきりと見えていなくてはできないからである。この際、あらゆる幻想はかなぐり落とした方が賢明であると思われる。

 現実の底なしの恐ろしさが見えている者には「ミステリー」などはどれも子供だましか、学芸会、漫画にしか見えないものである。特に日本の「ミステリー」などはそうである。そして、多くの者にはやはり現実の恐ろしさは見えていない。ただ現実を見ているつもりになっているだけで実は現実を見ることさえできていないということに気付いていないのである。

                                                                2014 9/5

 


 

「ある日、その時」(35)2014年8月2日ー

<掲載内容>

418.「流行作家」の限界性 419.騙すことの心地よさ 420.「心理」解析とは「真理」にあらず 421.人生の味わいを失った人々 422.「ガス抜き自在弁」 423.「75万部突破」?ー朽木の下、群盲は我が身を忘れー424.いつまで続くmonkey showあるいはMachiavellism comme les jeux de singe 425.依存症とは隷属のことである 426.9月3日

 

                                                  (転載・複製厳禁)



426.9月3日


猿芝居 猿も逃げ出す 夜郎自大

実行実現するのは集団的自衛権行使と原発再稼働と増税と・・・

誅求には覚悟すれば逃散などという手立てもあるが。

 


425.依存症とは隷属のことである


 「ギャンブル依存症」、「アルコール依存症」、「ドラッグ依存症」etc 、依存症に陥っている人々とは敢えて奴隷状態になっている人たちともいえる。賭け事、液体、わずかな粉末に全身全霊を支配されているのであるから当然「まともな会話」は成り立つはずもなく、話す内容の展開も完全に閉ざされている。あるものに依存するということはその時点で自らの自由の放棄と他者への隷属の始まりを意味する。憂さ晴らしから始まった依存症というのは絵に描いた様な隷属の始まりであるであると同時に秘かな愚民化政策の功の一端さをも窺わせる。そういう意味では、弱みを握られて決して逆らえない未成熟な大人の大量生産に依存症は欠くことができないものともいえる。実際、投票権だけはあるが名ばかりの「市民」では自ずと先は見えてくるのである。現在、「ギャンブル依存症」だけでも何百万単位でいるそうであるから、それに「アルコール依存症」やその他の依存症を加えればどうなるか、さらに少子高齢社会であることを考え合せれば投票率が低いことも、とんでもないない「人間」が突然登場するのも頷ける。思考停止状態の依存症の者が生活に追われているだけという、今後ますます多くなるであろうこのような現状を考えれば、「アホ」に考える隙を与えぬというすべての流れは戦略として功を奏しているともいえる。また、たとえ「考える隙」があっても群盲(非市民)ばかりということになれば「小人閑居して不善を為す」ということにしかならない。

 因みに、私は依存するものも借金もない。足かせとなるものも一切ない。

                                                2014 9/1


 424.いつまで続くmonkey show あるいはMachiavellism comme les jeux de singe


 Machiavellismなどはマキアヴェリ以前(15世紀以前)からあったことで世界史を見渡せば然もありなんという一つの統治様式であるが、一応民主主義国家であることを標榜している国が権謀術数主義を露骨に尚且つ平然と為し得ていることには御多分に洩れず違和感以上のものを感じざるを得ない。Machiavellismを似非民主主義のフィルターを通せばすべては遠回しな虚辞、歯の浮くような美辞麗句の類にならざるを得なくなるのは当然のこと。だから、何もかもが「猿芝居」にしか見えないのである。そして、重要なのはMachiavellismの信奉者は例外なく「似て非なる人間」とならざるを得なくなるということである。彼らの言動のほとんどは「虚言」、極まれに出る「近似値」は次の目的達成のための布石に過ぎない。どちらにしても騙されるのは徹頭徹尾大衆であることだけは確実なのである。それは権力的統治様式そのものからくる論理的帰結である。

                                                          2014 8/29


423.「75万部突破」?ー朽木の下、群盲は我が身を忘れー


 「75万部突破」、「100万部突破」等々、よく本屋の宣伝などで見られる広告であるが、今までこのような数値表示で買った本は一冊もない。内容紹介を見ているとさらに読みたくなくなる。よくこの程度で買う気になるものだと呆れ返る事が多いが、売れるとはこのようなものなのであろう。おそらく、楽しみ方、充足度の基準値が根本的に違うのであろうと思われる。昔、「Potboiler」という粗製乱造文学の作家を皮肉った芝居の演出をやったことがあるが、金が目当ての書き殴り、それ以外に書く必然性のない「いかさま師」、すなわち俗物のどこにでもいそうな人物設定であった。世の中にはそのようなPaperback writerが作り出す「いかさま」で事足りる者とそれでは「楽しめない」者がいるということに過ぎないが、俗物のことがよくわかるというのは自らが俗物である証でもある。俗物ではない者には俗物の描く世界は不快感を惹き起こすだけでまったく興味の対象外になる。非俗的領域の住人にとっては、「わかり易い」抒情に棹さすだけの実は「何もない」通俗小説、あるいは商業演劇(日本に特化したコンセプト)などの類は結局のところどこにも「面白味」を見い出せないままその捉え方、切り取り方の浅薄さだけが見えてしまうのである。これは他のジャンルにおいても言えることで、例えばハウツーものなどについても同様である。ダイジェスト、小冊子程度の知識ですぐにわかったつもりになる者とはPotboilerなどの恰好の餌食でもある。

 もし、「わかり易い」ハッピーエンド、あるいはアンハッピーエンドなものが常にベストであるなら、「日本人」は根本的には「水戸黄門症候群」から抜け出すことは困難であろう。何をどう取り上げても白地に赤で描く、またはその逆の描き方にしかならないからである。だから虹を描いても、地獄を描いても赤のグラデーションにしかならないのである。それは他の色彩の存在を知らないかのようでもある。観想など為し得ぬ者が観想のよすがとするような単色で世界を再構成しても何も見えてこないのと同様に、小動物を踏み潰していることさえわからぬ群盲が朽木の下で「仮相」の巨象に群れていくら撫でまわしてみてもその実態は何も見えず埒もないのである。

                                               2014 8/27


422.「ガス抜き自在弁」


 「ガス抜き自在弁」とは、主にテレビなどで適度に「庶民」に「ガス抜き」をさせるキャラクターの総称である。政治、経済などの社会情勢について分かったような分からないようなことをとうとうと意味ありげに痛くも痒くもない「毒舌」と称する気分操作を交えながらお茶を濁す者たちのことである。結局、後に何も残さないことをその主な務めとするのが「ガス抜き自在弁」である。彼らを買い被っているとえらい目に合うのは多くの視聴者だけである。彼らは「ガス抜き自在弁」として高額な収入を得るが、それを見ている者はただ馬鹿を見るというだけの話である。それは「踊るアホに見るアホ、同じアホなら踊らなにゃ損、損・・・」とばかりの操り踊りをしているかのようでもある。「ガス抜き自在弁」の大衆に媚びた自虐的な傾向は一時視聴者を惹きつけはするが、それは飽くまでそれまでのことで何かあるようだが何もない。実のところ終始一貫体制内の「ガス抜き自在弁」としてしか機能していないというのが彼らの実態である。

                                                     2014 8/24


421.人生の味わいを失った人々


 人生の味わいを失った人々、それはそのまま人生の「味覚」を失った人々でもある。何とも哀れでもあり愚かしいことであると同時にそれは危うい存在でもある。その国の現状を見るのに情報収集も専門筋の分析も必要ない。特に青年層に浸透している文化一般の様態を観察すれば自ずとその行く末は見えてくる。文化の低迷とは言ってみれば人生の味わい方を知らぬ人々の集積体が自ずと醸成する内容の浅薄さである。それは「エスプリ」のなさとも、センスのなさとも通底してる。

 その国の盛衰に大きく影響する少子高齢などという社会現象も因果応報、すべての必然的結果に過ぎない。今更小手先、詭弁の類の「抜本的」対策で修正できることではない。今となっては、人生の味わい方も知らぬ親に育てれた子が親を反面教師とすることを願うばかりである。

                                                  2014 8/23


420.「心理」解析とは「真理」にあらず


 世間を賑わす「出来事」について、登場する「心理学者」の「解釈」を読んでいると思わず失笑、噴飯ものがよくある。「分析」というにはあまりにも皮相的で、そうかといって何を語っているか、語りたいのか,これでもし何かを語り得たと思っているのならあまりにも「おめでたい」ということである。「心理学的枠組み」の中で語り得るものがこれだけだとするなら「心理学」とは一体何か、何か意味があるのか、どちらにしても「真理」に至る道どころか「真実」、「事実」などとも乖離しているのではないかと思われることの方が多い。多くの者もこれで何かわかったようなつもりになっているのならやはり何ともオメデタイ話と言わざる得ない。そして何となくわかった気にさせるのが「心理学」の役割であるなら、その役割自体が問題となる。大衆の「心理」を掌握する「術」を駆使すれば、大衆の制御は比較的容易でもあろう。黒を白にするのもグラデーションをつけるのも可能である。そこでは問題が問題化することもなくそれ以前に制御する側に都合のよいように問題が「感覚化」され歪曲化されてしまうのである。特に「ものわかりのよい」未成熟な大人をコントロールするのは手もないことであろう。                                   

                                                    2014 8/14


419.騙すことの心地よさ


 「我はなど思ひてしたり顔なる人謀り得たる」時は楽しいと平安期の才気煥発な乙女も書き記しているから鼻持ちならない「ドヤ顔」の人間の鼻を明かすのはさぞかし気持ちのよいことに違いない。「騙すことの心地よさ」とはその程度のことである。しかし、考えてみれば「嘘も方便」といった類の嘘から二枚舌の「大ぼら」までわれわれは嘘に囲まれているともいえる。許せる嘘については人さまざまとして済まされるもするが、許せない嘘というのは規模の大小にかかわらず個々の許容ですまされる問題でもなく被害も甚大となる。許せない嘘のターゲットも最近では「したり顔」の「強者」ではなく「弱者」が中心という体たらくである。これもまた「上」から下々まで金太郎飴状態であるというより、むしろ「上」が率先してそのような状態を作り上げているという節さえある。何かというと「弱者」がターゲットにされるということはその社会の脆弱性の証左であると同時に本来向かうべき方向に矛先が向けられていないということでもある。それはどちらにしても「したり顔なる人」の思惑どおりということである。いつまでも朝三暮四の猿ではしかたあるまい。

どこからか舞台の台詞が甦る 

「愚かな臣民どもよ!騙されることの心地よさが骨の髄まで沁み込んだとみえる。どうやら集いたるところも見失って、後は余の思うが儘・・・。」

                                             2014 8・8

 


418.「流行作家」の限界性


 「流行作家」とは、やはりそつなく、当たるような障るようなそれでいて何も当たらず障らず、結局のところ社会的諸問題に対しても「縫うこと」だけは巧みな売文を生業とした者と言った方がよいのかもしれない。「縫うこと」だけはしたたかであるということは必然的に「核心領域」も縫わざるを得なくなるものである。読ませる「技」も才能の内ではあろう。なるほど誰もが器用である。しかし「技」だけではすぐに飽きる。「ダイジェスト版」、「速読」、「ライトノベル」などで「充分な」者にはそれが手頃なものなのかもしれないが、やはりそれでは物足りないと思う者がいても何の不思議もない。またそうでなくては「肝心なもの」の深化、展開はあり得ないだろう。何でもすぐに分かったような感覚を与えるものとは実のところ右から左で何の役にも立たず養分にもならないということの方が多いものである。また単なる「慰み」、「娯楽」などとはいってもその皮相的な部分が実は「根本」部分と常に微妙な相関関係を形成している以上、「本物」あるいは「本物」を求める者にとってはただ「縫う」だけの「技」だけでは「慰み」、「「娯楽」としても成り立ちようがないというのも当然のことである。幸か不幸か「本物」、「偽物」の区別が不鮮明である者とは「本物」の「在り様」すら知らない「おめでたい」者ともいえる。実際、「流行作家」のみならず、いかにも「本物」らしきものが実はまがいものであったという具体例は昨今では「上」から「下」まで枚挙に暇がない。そして、多くの者は妙な「光りを放つ」まがい物に引っかかることはあっても、本物に引かれることは少ないというのも実情である。しかし、そんなことは何も今に始まったことではない。

 人はうそにてくらす世に なんぞよ燕子が実相を 談じ顔なる  

                                                   ー「閑吟集」ー

 

                                                     2014 8/3

「ある日、その時」(34) 2014年6月28日ー

 <掲載内容>

410.「だめだ、こりゃ」  <番外日誌20140703>「官僚の覚悟、政治家を動かせ」 411.「大手報道機関」とは「大手」の報道機関。 412.某芸能レポーターの曰く  413.サッカーの悪しき一面 <番外日誌20140714>週刊誌、月刊誌は見るも無残  414.「みだりに東西に走りて浮草に似たり」 415.「何の問題意識もなかった」とは416.冷静さが強いられる時 417.生き延びたこと自体に「是」はあらず

                                                                                                                                (転載・複製厳禁) 



417.生き延びたこと自体に「是」はあらず

 時折、生き延びることが「至上命令」、またそうならしめるのが「勝者」であるという錯覚に陥っているものに出くわすが、いかに詳細に述べ立てても皮相な俗流処世術の域を出るものではない。 どう生きたが問題なのであって生き延びたこと自体に「是」を見出すことは難しい。そして、どう生きたかというような生き方の「質」が問われる場合は「世俗的成功」などの類からは大きくかけ離れていてもっと本質的な問題が関わってくるのである。例えば、多くの者が死に瀕している時に自分「だけ」が助かる道を必死に模索したとする、そのような行為全般を種の保存という意味合いも含めて「本能的」などと分かったような言葉を掛け合わせて言い表してみても「是」というには程遠い位置でしか収まりようがない。「何としても生き延びる」ということそれ自体は否定されるべきことではないが、異常な事態を「生き延びた」ことによってもたらされる「後遺症」は免れないないだろう。その「後遺症」は自覚症状があるうちはまだよいが、特に本人の自覚もなく人格の「変形」に大きく影響を与えることもある。後はその人間の人生の選び取り方にもよるとしか言いようがないものがあるが、その「後遺症」の負の領域の波及効果は自己の意識的操作ではどうにもならないものを持っているのが実情のようである。もしそのようなことにまったく無自覚であるなら、「生き延びた」ことはいつしか「選ばれし者」という意識を形成し始め、さらに「後遺症」の負の領域を拡大させ、本人の意識の持ち様とは関係なく、自身も明確な認識も得られないまま他者を「危機」に巻き込みながら破局へ突き進む。実際、そのような実例は身近な出来事の中にも多く見られる。

 どちらにしても「後遺症」は避けられないのであれば「後遺症」の「正」の領域を拡大させるにはどうするか。それは、生き延びたこと自体に「是」を見い出すことより、今までの生き方を根底から捉え直す方向で新たな人生を選び取り、その展開にすべてを掛けるしかあるまい。そこでは遅い早いは問題にならない。

                                               2014 7/27


416.冷静さが強いられる時


 感情に流されるのは容易で、一時は気持ちもよかろう。しかし、ただそれだけの話で何の展開にも、解決の道筋にもならず、事によっては取り返しがつかないことにもなる。また瞬間的にも感情に身を任せると感情自体が反芻増殖を繰り返し、やがてその呪詛から逃れることが難しくなる。感情の自縛力とはかなり粘液質で、もの事を鮮明に見えにくくする。今、誰でもが冷静さを失いかけている時だからこそ冷静さがさらに必要になってくるのである。感情的になるのは自分自身が状況に振り回されている時でもある。それによって引き起こされる諸々の事象は自分にとって「負」の積み重ねにしかならない。「負」の積み重ねは決して「正」には転化することはなく、詰まる所あらゆる局面で「危機」をもたらすことになる。

 現状は、冷静さが求められるという段階ではなく、冷静さが強いられているのである。冷静さとは,言いかえれば「思い込み」、「幻想」など、すなわち客観性を持たぬ非論理的な要素を極力排除する作業でもある。各自がそのようなことをいくらかでも意識して行動していれば大挙して愚行に走ることは避けられるかもしれない。あるかないか分からぬもの、すなわち「虚」に安易にすがること自体が己の脆弱性の証、その隙間にやがて「愚かさ」と「魔」が滑り込む。そして、「愚かさ」が「魔」の衣をつけていっぱしの者であるがごとくの振る舞いを始める。「愚かさ」の極みである。

                                                2014 7/24


415.「何の問題意識もなかった」とは


 「当時は何の問題意識もなかった」とはSTAP研究で名を馳せた「O嬢」であるが、私は彼女の言ったことを額面通りに受け取っている。だから余計に危うさを感じるのである。彼女の行為は極普通に「常識的な領域」でなされていたということを物語っているからである。これも日本の「特殊事情」というべきか、実に怖いことでもある。本来の道から完全に外れているにも拘わらずそれに対して何の疑問も感じることなくそれが当然のことのようになされていたということは本人自身の問題も皆無ではないが、そのような行為全般が許容される環境がすでにでき上がっていたということでもある。彼女の場合は取り上げた研究が大き過ぎただけに問題が一挙に浮上したが、そうでない者たちの「コピペ」行為、すなわち剽窃行為などはそれまでどれだけあったかは容易に推測できる。実際、細部に渡って調査すればかなりの量が出てくるのではないかと思われる。「O嬢」の問題を他人事のように扱っている者たちも自分の学生時代のことを考えてどれだけそれを否定できるのかということである。「コピペ」行為を要領よく日常茶飯事行っていたのではないのか、それが取りも直さず日本の似非文化の形成の一翼を担ってきたということは否めない実情でもある。だから、今その現状があるというに過ぎないのであるが、「O嬢」の問題は日本の似非文化の総体を実に「素直に」見事に映し出している。

※「O嬢」:敢えて固有名詞は出さない。

                                                  2014 7/20


414. 「みだりに東西に走りて浮草に似たり」


 それにしてもよく動き回る。それが何もない証左ともなる。その動きをよく見ていれば「めくらまし」以上のものではありえないこともわかる。実際、どこにも「根を張る」ことはできまい。もはや動き回るより他に手立てがないかのようである。「静止」はただ忌まわしき想念、事象を際立たせ浮き上がらされるだけであることを知っているのであろう。三文役者もまた「世界観」を明確に提示できぬが故にそれをごまかすためによく動き回り観客を欺く。大衆は小さな嘘には敏感だが大きな嘘にはころりと騙されると稀代の独裁者は言ったが、その「大きな嘘」の効用にも期限はある。真実など口が裂けても語れない以上、とにもかくにも西に東に動き回っては何事かをやっているように見せかけるしか方法はあるまい。相手の反応などはお構いなしの都合のいい勝手な解釈をそれに施し、何か成果でもがあったごとくの幻想を作り上げる。もはやそれ以上の問題回避の手段がないのであろう。彼の「忌まわしき想念」はすでに世界の至る所で看破され、寄る辺なき亡霊船のごとくに漂っている。世界はそれほど甘くないというのはサッカーだけにとどまる話ではない。今では国内で「成立する」ものの大半は「特殊事情」によるものと見做した方が賢明であろう。世界レベルではいかんともし難いものばかり、そうかといって今更ヒステリックに開き直ってみたところでもどうなるものでもあるまい。

 しかし、その様見れば見る程、まこと、「みだりに東西に走りて浮草に似たり」である。

                                                    2014 7/15


<番外日誌20140714>週刊誌、月刊誌は見るも無残

 要するに、「やることなすこと」すべてが見え見えということである。あることないこと織り交ぜてスキャンダラスに仕上げねば発行部数も減る一方なのであろうが、実に失笑モノの「話題」、「内容」作りばかり。なぜそうなるか、それは常に「肝心」な問題をいかに回避するかだけに神経が注がれているからである。ほんとうにスキャンダラスであれば大衆の関心も引くであろうが、「重要な」問題は手に余ると見えて重箱の隅を突いてはどうでもよい瑣事をほじくり返しているというのがその実情である。総じて、その状態は末期症状である。

メフィストとの契約は一度取り交わせば、それが最後である。後は堕ちるところまで堕ちるしかあるまい。


413.サッカーの悪しき一面


 私はスポーツ一般が好きで特にサッカーファンというわけではないが、ネイマール選手が「攻撃」を受けている映像を見て何とも言えぬ不快感を感じた。それは多くの者が感じたことでもあろう。たとえ「加害者」にいくらかの弁解の余地があったにしてもサッカーは格闘技ではない。これで反則も取られずゲームが成り立つのがサッカーであるなら少なくとも私はサッカーファンには絶対になり得ないだろう。不幸中の幸いでネイマール選手に後遺症はないということであるが、これで再起不能ということにもなれば「攻撃」をした選手の選手生命も絶たれることは容易に想像できる。そうでなくともすでに過激な抗議、物騒な話まで出ているらしいから今後も何が起こるかわかるまい。「攻撃」した選手自身はもとよりその妻子も大変である。国柄を考えても、後ろ指を指されるなどという生易しいものではあるまい。そして、もはやどのような謝罪も釈明も通じることはない。あわれであるというより、やった本人が謝罪程度で済むと思っていたとしたらあまりにも愚かである。彼の子供はもちろんのこと、サッカー少年、一般青少年に到るまで、将来に渡って払拭しがたい暗い影を落としてしまったということである。そして、スポーツ史上でも稀なこの汚辱に満ちた映像は半永久的に繰り返し流され,人々の脳裏に焼き付いていくことであろう。

                                                   2014 7/12


412.某芸能レポーターの曰く


 ある芸能レポーターが「芸能レポーターって、いわば芸能人の寄生虫なんですよ、芸能人がいなかったら芸能レポーターという仕事は成り立たない。」と言っていたが至極当然のことを言っている。しかし、このように明確に自分の位置付けがなされている者は意外と少ないものである。「番記者」などの類も寄生虫の一種であろうが、取り付いている本体の咳払いひとつで簡単に落ちてしまうような寄生虫では寄生虫としてもその存在意義が疑わしい。そのような者に限って御大層にジャーナリズム云々などと言いだすものだから話はややこしくなる。この芸能レポーターのいう「寄生虫」とは寄生も共生の一形態としての見立てで共利共生(相互に利益がある)という意味合いもあるだろうが、一般報道、特に政治報道では報道の対象と共利共生では報道の客観性は保たれない。むしろ片利共生(一方しか「利益」を受けない。この場合、「寄生虫」の側の「利益」)でしか成り立ちようがないのが報道の「純度」でもある。だからこそ、それなりの「覚悟」が必要になるのである。

 これも今更いうべきことでもないが、日々テレビなどで繰り返されるコメンテーターの「コメント」、解説者の「解説」は何の保証にも参考にもならない。分かったような気の利いたことを言ってみても言ったまでのこと。「騙り事」程度にみていた方が賢明で、その方が逆におかしな発見があるかもしれない。言い出しついでに、テレビの討論会もどきもそうである。テレビの枠で議論してどうなるものでもあるまい。実際、今までそれで何か意味があったのか?何かが変わったなどということはまったくといっていいほどない。つい「・・・それで?」とさらに問いただしたくなることばかりである。これは単なる「ガス抜き」なのか、それとも「ショー」か。三流のショーを見てまたガスをため込んでいるより、とにもかくにも「自分の頭」で考えて「やるべきこと」をやるのが先決でろうと思われる。暗闇の中で薄笑いを浮かべて生き長らえるか、鮮明に世界を切り取り得るか。それもやはり「覚悟」なくしてはできることではない。

                                                    2014 7/7

※少し前に書いたことをそのままにしてしまった。


411.「大手報道機関」とは「大手」の報道機関


 「大手報道機関」とは「大手」の報道機関で,「既得権益」側の報道機関なのである。したがって「大手」(1%の富裕層)にとって不利なこと、都合の悪いことは取り上げないということである。「大手報道機関」に一縷の幻想でも持っていると現状を見間違える。彼らにとって都合の悪いことは、真実どころか単なる事実ですら報道することは稀であると見るべきである。要するにスポンサー、資金提供者の批判になる事などたとえそれが事実であったとしても言えるのかということである。したがって、多くの者が共感を持つものでも「報道が少ない」ということは煎じ詰めれば彼らにとって「都合の悪い」こと、できれば取り上げたくないことでもある。それについては、それ以上語り得る領域がないといってもよいほどである。もし、もっともらしい事例を挙げてそれを否定し、語ろうとする「ジャーナリスト」がいたとすれば、それは似非ジャーナリストの類と言わざるを得ない。どのような講釈、弁明をしても事実を事実として伝えようともしない、その覚悟もない者をジャーナリストとはいわないからである。中には自らが身過ぎ世過ぎ今までやってきたことを棚に上げ他人事のように「興味本位」に取りあげることを「恥ずべき行為」などとしている者さえいるのが実情である。実際、「安倍君」とその周辺の者たちは、それ程のことかと思われることでも頻繁に報道されているであろう。それは「都合の良い」ことで「大手」の報道機関として経済的にも成り立つからである。後は飽くまで推して知るべしで、たとえ彼らに詳しく問うたところで彼らが本当のところを決して言うことはない。世の中は「大手報道機関」が日々伝える出来事だけで成り立っているわけではない。それは極限られたものである。彼らが伝えられることは彼らにとって都合のいい現実のほんの一部でしかないということを認識しておく必要があろう。そして、いつまでも彼らが咀嚼した現実を鵜呑みにしているようでは現実は決して見えてこない。隷属が骨の髄までしみ込んだ者に彼らがもたらす偏狭な現実の捉え方は隷属化をさらに進行させるだけである。  

                                                                           2014 7/4


<番外日誌20140703>「官僚の覚悟、政治家を動かせ」

 大衆受けするもっともらしい題をつけた「政治家の覚悟、官僚を動かせ」という本がある。虚言、詭弁を弄することを生業としている者が書いていることであるから信を置くに足るものではない。むしろ「官僚の覚悟、政治家を動かせ」とした方が実情に即していると思われる。

 集団的自衛権の閣議決定に至るまでの千万語を弄しての煙の巻き方、動き方はとても「安倍君」をはじめその周辺の者たちだけでできるものではない。そんな能力は彼らにはない。だからすぐにボロを出す、それでは困るのでボロ出さずに済む法律も作った。しかし、隠せば隠すほどボロの「形状」は見えてくる。単細胞的な私憤、欲望以外にこれといった「内容」を持たぬ者を利用するのは容易い。途中で目覚めることも、顧みることもなく突っ走てくれる。「安倍君」の動きは「官・財・〇」と一心同体でその動きを身をもって体現しているのである。したがって彼の甘言のすべては一部の利害のために多くの者たちを「死地」に追いやる方便であると見るのが至極当然の帰結でもあり、冷静な視点でもある。「官・財」の「覚悟」はいかに「政治家」を操るか、そして、マスメディア制御のために税金が湯水のごとく使われる。どれも陳腐な戦略なのであるが、それを見抜けない「いい大人」が今もって50%もいるというのであるから、これこそまさに国辱である。戦後70年、成長するどころか退化しているのである。これではその内に子供にまで愛想を尽かされ、見捨てられるのが落ちで、辛うじて憐れみの対象にはなり得ても尊敬の対象になることは決してない。


410.「だめだ、こりゃ」

 昔、「アッと、驚くタメゴロウー」なんていうのが流行ったが、かなり前からブラックジョークですら然もありなんで、ジョークとしても成り立たずブラックの色調も意味がなくなっている。ブラックがブラックとして明確に把握されないままいつの間にか黒く塗られているというのが実情に近い。そして、本人の意識の持ち様とは無関係に必然的にその負の領域、闇の領域は拡大、増強していく。やがて、それが何らかの形状を取り暴発するのは当然であろう。

 誰がどのような文脈で「平和ボケ」などと言ったのは知らぬが、その意味する内容はわかり易いようであるが、実は不鮮明である。そして、何かと言うとこの造語を意味ありげに遣う者とは概して自分自身が一番ボケていることに気づいていない場合が多い。要するに「平和ボケ」とは「経済ボケ」、「欲ボケ」の言い換えでしかないものをある意図のもとに恣意的に遣われてきた言葉ともいえるのである。民主主義では「主権者たる」国民がボケていたら成り立たないのと同様に平和という状態もボケていたら決して長くは続かない。「平和ボケ」で辛うじて成り立っている自分の社会的地位から今度はその支持基盤に向かって「平和ボケ」と他人事のようにいうのだから笑止というほかあるまい。言ってしまえば、「欲ボケ」の者が「平和」という現状自体が邪魔になってきたというだけのことで(今に始まったことではないが)、そのために千万語の詭弁を弄しているのである。多くの血の代償ともいえる「根本法」を「解釈改憲」などと弄んでいるのであるから戦争で死んだ者たちも浮かばれまい。ミスリードはどのように言ってみてもミスリードである。過去の誤りを正当化するような方向では発展の道は確実に閉ざされる。それについては古今東西、諸般不変である。

 それにしても平和とは戦争のことなのであろう、集団的自衛権に加担している「政党」が法華経の信奉者を支持母体としているというのだから筋が通らないこと甚だしい。これではカルトといわれても仕方あるまい。

 そして、新刊本のコーナーには「何が起きても、大丈夫」というのがある。またどこかの新興宗教の教祖などが書いているのだろうと思ったら「ジャーナリスト」という肩書の「御仁」であった。今、ここにきて「何が起きても、大丈夫」というのであるから薄気味悪いことこの上ない。ジャーナリストもピンキリではあるが、権力の走狗と成り果てた者も実に多い。

 福島原発の現状、解釈改憲の現状、集団的自衛権の閣議決定等々・・・そして、「教祖様」の「何が起きても大丈夫」となれば、これはもう何が起きても不思議ではない。後は舗装された道を走るように加速されて行く、その先は敢えて言うまでもない。もはや、「だめだ、こりゃ」で笑っていられたのも昔話なのである。

                                                                                                                                        2014 7/1

 

 

「ある日、その時」(33) 2014年5月14日ー

<掲載内容>

403.「どんな芸術も・・・」?404.「Kさんのおもちゃ箱」とは 405.侠気と熱と 406.見るも愚か、聞くも愚か 407.貧しき者たち ーネット上の安易なつながり、そして「共感」?ー 408.空言人の絵空事  409.Aの曰く、そして、日々戦場 <番外日誌20140621>サッカーが日本の現在の文化レベル <番外日誌20140625>キッチュはキッチュである。<番外日誌20140630>ブッラク企業まで「風評被害」としらを切る

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<番外日誌20140630>

 ブラック企業に至るまですぐにわかる嘘を「風評被害」としらを切る浅ましさである。一介の経営者ごときが従業員の全人格に介入して思うが儘に動かそうとすること自体が精神的にも未成熟で低レベルな内容なのである。企業のカルト化、それは貪欲な成功主義者にとっては悪魔の手招きでもある。それについては以前にもブログで取り上げたので今更繰り返すまでもないだろう。遅かれ早かれ破綻は必至。


<番外日誌20140625>

 キッチュはどう意味づけても、たとえそこに何らかの価値を見出し得たとしてもキッチュである。キッチュに慣れ親しんだも者の人生もまたキッチュで、想像力の貧困な者には致命傷でさえある。キッチュは全感性に簡単に浸透してゆく。


<番外日誌20140621>

 日本サッカーは現在の日本の文化レベルの様態、在り方をも具体的に象徴している。後は何をか言わんやである。すべてにおいて、実のところものを知らない、知らされていない状態とは常にこのようなものであろう。いい加減マスメディアに踊らされるのはやめたらどうかと思うが、そこから脱却するのは容易ではなさそうである。


409.Aの曰く、そして、日々戦場


 久しぶりにAに会った。彼も人と会うのは私ぐらいらしく、喋り出すと堰を切ったようになる。しかし、とてもそのすべてを書くわけにはいかない。またそんな必要もないだろう。差し障りのないものを思い出しながら・・・

 Aの曰く「先日、電車に乗ったが、さすがに日本の三代新聞など読んでいる者は少なくなったが、それでも読んでいる奴がいるとつい気になって新聞名と顔を見てしまう・・・、やはりそうだろうなと納得する。今じゃ、みんな下向いて携帯電光掲示板ようなものいじっているから目のやり場がないということはなくなったが、週刊誌の吊るし広告を見ていると、ようこんなもの読む気になるなと思うが、読む奴がいるんだろうな。あんなもの見て読もうと思ったことある?」。今更私に聞くことでもあるまいと思ったが、私は「買う気すら起らない、すべて底は割れているし、何を言いたいのか、何を狙っているのか手に取るようにわかる。どうしても気になる事があれば斜め読みで充分。大したことは書いてない・・・」と答えると、「そりゃ当然だ。内容的には今も昔も50歩百歩だが、アホらしさが露骨になってきた」。私が「要するに買わなきゃいいんだ」と言うと「だから買わせるためにアホらしさがますます過激になるんだな、脂ぎったおっさんの妄想でも何でもいいんだ」。「通用するのは日本だけ」。「いやいや、そういうの多いな」。・・・・・またAの曰く「外じゃ何を食わされるか分からんので飯まで自分で作っている。どの店に行っても福島産なんかいつも大量に売れ残っているしな、何だかんだ言ってみたところでみんなそういうことだけは敏感なんだ。今までだって安心して食えるものなどなかったが、ここにきてさらになくなったという感じだ。長生きしたいなどとは思わないが、訳の分からぬ奇病で死にたくはない」。私も「国内産などという表示は今は何の意味もない、むしろ逆に勘ぐられるだけだ」というようなことを言った。

 Aは、「大手」マスメディアなどが日々さり気なく提示している「すべて」はその逆がほぼ正解に近いという。「大丈夫」、「安心」は「危ない」ということ、「危ない」はほぼ起こり得る可能性がないということである。ただし免罪符程度にあるいは全体を本当らしく見せるために1割程度の事実、実情に近いものも紛れ込ませるのでその注意も必要であるという。要するに「主権者」が最低のチェックも怠り、単なる「人任せ」ではどうなっても自業自得ということなのであろう。また、事実を糊塗、隠ぺいする者に一分の容赦も必要はないともいっていた。

 コーヒー一杯の2,3時間の再会ではあったが、何があっても起きても不思議ではない俗臭、腐臭芬々たる世にAもよく耐えて生きてると思われた。

 

 しかし、最近、私の目の感度、位置は戦場カメラマンのそれに近くなってきていると感じる時がある。

                                                            2014 6/20

 


408.空言人の絵空事


 空言人の絵空事とは、もちろん空中楼閣であるが、トロンプルイユ(trompe-l'oeil)で地上にあるように見える。またそのように見せるために種々雑多な「御用」の者たちと多くのメディアが存在するといってもよい。この基本構造は何ら変わってはいない。権力の周辺に集い,嘯く(うそぶく)者たちの作り笑い、微笑み、深刻ぶった表情、論理破綻をきたせばすぐに「感情の虚偽」で繕うあさましさ、どこを取ってもB級映画の「詐欺師」並みである。「現実とはそんなに甘くない」という「現実」とはこのB級映画に出演できないことを指す。 

 昨今では、凡夫が詐欺師なのか、詐欺師が凡夫なのかと思える程であるが、その一方では、日々の自殺者である。彼らを簡単に「負け組」などと振り分けていると明日は我が身である。むしろ、彼らの方が恥もあり良識もある人々であるとさえ思えてくるから不思議である。どう見ても詐欺師でしかあり得ない厚顔無恥な者が自殺したという例を私は知らないからである。自殺者自身の意識は別にして自殺自体はすべて社会に対する無言の抗議でもある。そう見れば自殺者は今後もますます増え続けることはあっても減ることはあるまい。自殺者の数はその社会の無能無策を測る尺度にもなるが、それを「文明国では普通の数値」などとのたまう「識者」が現れるから困ったものである。物知りの 浮かれ腰、落ち着く先は 常に親方日の丸とでもいうべきか、敢えて言うまでもない。 もし生き残る者が常に鉄面皮で、良識の欠片もない詐欺師ばかりということであればその社会の破綻、破局は目に見えている。日本が実際に「沈没」するより先に人心の劣化とRS(放射性物質)の負の無限連鎖で荒廃することの方が問題となる。地球物理学上からも危うい所に位置する日本列島に50基前後の原発があること自体も不可解なのである。小松左京の「日本沈没」と時を同じくして1970年ごろから原発の建設は始まったが、現在では自然災害が〈自然対人間〉などという単純な枠の中だけで捉えることはできなくなっている。自然災害による原発事故はRS(放射性物質)の流出、拡散という事態を引き起こし、多くの大地、森林、山々が半永久的に死地化するということである。福島原発の現状を見ても、それを否定し得る明確な根拠も、論拠の提示できないのが現在の実情である。3・11以後の経緯は、RS(放射性物質)に関する妙に楽観的な見方をしている者のいかがわしさを見せつけもした。そういう意味でもRSとは実によいリトマス試験紙であった。40年以上も前の「日本沈没」という作品は今や単なるSFでも正月映画でもなくなっているが、さらに悪いことには人間的タームを遥かに超えているRS(放射性物質)のある原発が日本全土を包囲していることである。そして、忘れた頃にやってくる大きな自然災害というのは、常に人知を超えた計り知れないエネルギーを持っているものである。そして、それはあまりも「劇的」過ぎて一瞬映画を観ているような感覚を与えるが、次の瞬間には恐怖心など起こす間もなくすべてを飲み込んでいくのである。

 青天井 空言人の 絵空事  

正気付くのはいつの日か・・・

地獄を見るまで果てはせぬ・・・、

さあり、さありと成り果てん・・・

 

と、どこからか妙に明るい三部合唱まで聞こえてくるようである。

 

                                                     2014 6/7


407.貧しき者たち ーネット上の安易なつながり、そして「共感」?ー


 貧者にめくじらを立てるのも貧者で、直接いがみ合うのも常に貧しき者たちである。そして、ほくそ笑むのは・・・

 最近では、貧者の浮かれ歩きを目にすることはなくなったが、そこ彼処の薄闇から独り言のように、一人芝居のような会話が聞こえてくる。こちらに向けられた言葉かどうかも定かではない時に、耳からイヤホーンコードを垂らし、自由になった両手から様々なジェスチャーが突然現れるものだから一瞬身構えてしまうこともしばしばである。月天心 貧しき者が 蹲り、うずくまっているからどうしたのかと思えば、やはり独り言のような会話が聞こえてくる。ある時は激高し、ある時は陳謝し、自らを見据えることより他者とのイリュージョンに身を託す。イリュージョンに裏切りは存在しない。嘘に向けられた嘘に、あるいは嘘と本音の間に作り出された「思い込み」に明確な裏切りと言い得るものはありようがない。実際、勝手に裏切られたと思い込み、自らを犯罪に追い込んでいくというケースもこれまでにいくつかあったが、それもイリュージョンに突き動かされているとしか言いようがないものが多い。「優しい言葉」も「慰めの言葉」も「憎しみの言葉」も「共感の言葉」さえも発信者にその言葉の明確な根拠を見い出すことは不可能である。簡単に共感し、容易く唾棄するのはそうした事情に因る。そして、唾棄されれば全人格的に否定されたように錯覚する。もはやその時点で人間が人間を全人格的に否定することなどは「神」でもない限り絶対に不可能であるということが完全に忘れ去られている。他人の「気持ち」、「共感」などを追い求めること自体がさもしく「貧しい」のである。それは日々やるべきこともせず賽銭箱に小銭を入れて大願成就を求めているのと大して変わるところはない。安易な「つながり」、「共感」に一喜一憂するより自分自身を見つめ、叩き直す方が先決であろうと思われる。

 「知り合いと交流」、「情報をシェア」、「オープンでつながりのある世界」、素晴らしい世界への誘いのようだが陥穽(落とし穴)はいくらでもある。実質的なメリットは本人以上に「第三者機関」の方にあるだろう。かくして万人の「自分をわかってほしい」という「切ない思い」は発信と同時に現状報告と自主的告白ともなる。ただし、それに見合うメリットがあると思えば使えばいいだけのことである。

                                                    2014 6/3


406.見るも愚か、聞くも愚か


 これも以前取り上げたことではあるが、どうして後始末もできない、人間の手に負えない「原発」に再び手を出そうとするのか。ここでまた現実的正当性を説く経済的諸説など聞くつもりもないし、聞き飽きている。要はそんな次元の問題ではないのである。この「原発」に関しては、人間の能力をはるかに超えているものを人間が「操作」しているつもりになっているだけで、いわんやしたり顔で放射性物質に対する恐怖感を払拭させようとする有象無象の学者の講釈など当てになろうはずもない。不明領域、危険領域のあるものに関しては何事も大事を取るのが鉄則で、特に放射性物質はいくら危険視しても足りるものではない。原発事故などの放射性物質の影響については、どのように隠ぺいしようとしてもやがてその影響は白日の下にさらされるのは必至である。よく実態調査もせず何もかも「風評被害」で片付けようとする者たちは自国民どころか世界の人々も裏切っていることになる。彼らと彼らに同調した者はいつか必ず裁断されるだろう。原発事故について何をどう言いくるめてみても事態がそれを裏切る。現状から真相が漏れ出てくるのである。「放射性物質」は人間の姑息な糊塗、捏造などで太刀打ちできる対象ではないことを再確認すべきなのである。その超時間的エネルギーに人間的作為などは瞬く間に覆されてしまう。福島原発事故は日本にとっても最後の警告といってもよい。それを無視して突っ走ればどうなるか、再び事故が起これば死地は拡大し、もはやこの小さな国に戻る大地はない。

※最近の「吉田調書」に対する政府の動きを見ていても、「機密保護法」施行後はすべては「風評被害」として実態調査もなされないまま処理される可能性があるということを肝に銘じておいたほうがよい。吉田調書の「事故直後に9割にあたる約650名が吉田所長の待機命令を無視して”逃亡”云々」などの内容を原子力規制委員長も読んでいないということである。後は推して知るべしであろう。火のないところに煙を立たせるのも昨今の事情ではあるが、真の「風評」は起こるべくして起こるのである。

                                              

                                                                                                                                     2014 5/22


405.侠気と熱と


 立夏を過ぎてなお暁を覚えずといった日々であったが、風音の中でどこからともなく鉄幹の「人を恋うる歌」のいくつかの節が頭の中で流れ出した。 

「友を選ばば書を読みて六分の侠気 四分の熱」、今となっては侠気と熱など右を見ても左を見てもどこにも見当たらなくなった。侠気とは、強きをくじき弱きを助ける心だてのことである。いつの頃からか弱きをくじき強きを助けるような無粋者ばかりが跋扈し始めるようになってしまった。「おなじ憂いの世に住めば 千里のそらも一つ家 己が袂というなかれ やがて二人の涙ぞや」、現状は「右」だ「左」などといっている場合ではない。是か非かである。「右」だ、「左」だなどともっともらしく振り分け、問題の焦点をぼやかし、貧しき者同士を無益な争いに駆り立て漁夫の利を得ようとするのは一体誰なのか。もし損得に聡いのが取り柄であるなら事は明快であろう。

 「ああ、われ如何にふところの剣は鳴りをひそむとも 咽ぶ涙を手に受けて かなしき歌の無からめや」

「天地を恋うるなさけは洩らすとも」、「世をいかる はげしき歌をひめよかし」であることも充分わかってはいるが、鉄幹自身もどこまで抑えられたか。大声で歌い「酒に狂う人」とまでいわれているではないか。わたしは今では一滴も酒を飲まなくなってしまったので酒に狂うこともない。というより、今のわたしには酒に狂うということはそのまま死と同一線上に立つことを意味する。それはもちろん健康上の問題ではない。

                                              2014 5/20


404.「Kさんのおもちゃ箱」とは


 かなり前、私は、「それはKさんのおもちゃ箱のようなもの」という言葉であるものをたとえたことがあった。どこかに夢の欠片を感じさせる表現ではあるが、ある意味では残酷でもある。自分にとって一番大事なおもちゃは箱などには放り投げない。おもちゃ箱に入っているものとは、言ってみれば興味の薄れたガラクタ同然のものなのである。その人のおもちゃ箱に入れられたということは、もはや気が向いたら使う程度の対象でしかないということなのである。それでも行くところのない者には唯一の自己証明の場でもあったのであろう。しかし、それは同時に怠惰な愚かしい人間の温床でもあった。

 ある時、私の遣った表現をそのまま遣っているいる文章に出くわしたが、その文脈からは残酷な意味合いは抜け落ちていた。うまく「取った」つもりでもコピペのレベルとはその程度のものなのであろう。

                                                   2014 5/18


403.「どんな芸術も・・・」?


 「どんな芸術も何世紀もかけて作った自然の景観にはかないません。」繰り返されるありふれたコピーのような内容であるが、もっともらしい嘘であると言ってもよい。自然の景観を見て自己の世界観が根底から覆った者が果たして何人いるか、しかし、ほんとうの芸術といわれるものにはよくあることである。私は、自然の景観を見てというよりそこに身を置いてはじめて自分の世界観がひっくり返ったという日本人を一人だけ知っている。それはアフリカの大地でのことである。ネイチャーショックともいえる環境格差が彼を圧倒したのである。しかし、そのことには彼が日本を出ると思い立った時の「精神状態」も大きく影響している。彼ですら「自然」というより「芸術」に圧倒されているのである。「自然は芸術を模倣する」というワイルドの言葉を出すまでもなく、人間の精神的営為の結晶、すなわち芸術は様々な人間の自然の「読み取り」を指し示しているのである。その積み重ねがなくしては人間は「自然の景観」など「見る」ことさえできぬといっても過言ではない。何世紀どころではない紀元前の芸術は未だに生きて、われわれの五感の隅々に影響を与えているのである。実のところ芸術なくしては自然の享受の仕方もわからないのが人間でもある。たとえどのような素晴らしい自然の景観を見たとしても、それはそこにあるだけのことにしかならないのはそのような事情による。

                                                          2014 5/13


 

「ある日、その時」(32) 2014年3月22日ー

<掲載内容>

395.おかしな国のおかしな国民  396.TAMORI ? 397.列を作ることが好きな人々よ!398.大寒桜から染井吉野へ 399.「伝説の番組復活」?400.しけた世の変な人々 401.「東京人」?402.?!??∞=  <番外メモ20140508>「本屋大賞」?

                                                (転載・複製厳禁)



<番外メモ20140508> 「本屋大賞」?

 分かり切ったことを言い連ねれば、本屋とは本を売る店であり、「みんな」とは大衆のことである。「本屋大賞」とは今一番売れている、「みんな」が買っているものということで「一級品」などという意味合いではない。「みんなの〇〇」などというのも実質的には「大衆の〇〇」ということで必ずしも迎合すべき内容とは限らず、いかがわしい内容も多々ある。「本屋大賞」とは言い換えれば「大衆大賞」といえなくもないが、「本屋の」、「みんなの」などに共通している「部分」が自己判断のできない、あるいは避けることに長けた右顧左眄の恰好の「糧」であると同時にその製造過程そのものということである。さらに言えば、「本屋」と言ってももさまざま、「みんな」もいろいろなのであるが、それらを括る「総元締め」の「判断」次第でその色具合、イメージも変わってくる。いつの間にか本屋も一色、みんなも一色ともなり得るのがいつものパターンともいえるが多くはグラデーションのかかった一色ですぐにそれとはわかりにくくなっている。そもそも、その一色が好きな色なら別であるが、好きでもない色に敢えて合わせる必要もあるまい。これからは否応なく読み手、買い手の「質」そのものが問われる時代となる。なぜなら「曖昧」、「蒙昧」であることは近未来さえ自らの手で閉ざすことになるからである。


402.?!??∞=


 最近は「?!??∞」で息つく暇もないというと少々大げさかもしれぬが、すべてが今まで以上に「?∞」で、留まるところを知らないというのが実情でもある。そして、同時に容赦なく「行為」を迫られる。先送りが効かない上に疑問点は膨れ上がっているのである。実学的にも理論的にも「事」はすでに見えているともいえるが、その視座自体も実は危うい。メディアに溢れかえっているあたかも「事態を収める」、「収めた」かのような「講釈」もレトリックの範疇を一歩も出ることなく瞬く間に反り返り、耐用期限切れの劣化も甚だしい言葉の置き換えだけが奇妙な姿を露呈する。「?∞」はかなりのエネルギーを必要とする。自分としてはいつの間にか病を得て不本意に生きながらえるつもりもなく、できれば自死も避けたい。もはや夢だ、希望だなどというお題目で操られることもないが、不思議なもので内奥の底知れぬエネルギーは以前にもまして強くなっている。それが私を生かしているともいえる。最近はイリュージョンの残滓の形骸を街中で目の当たりにする機会も多いが、哀れというより脳細胞の変調の一様相に自らを迷い込ませているとしか思えない時がある。

                                                 2014 5/3


401.「東京人」?

 「東京人」などと言っても、数年前、十数年前に地方から出てきた、それも少なからず欲望をたぎらせて登ってきた者たちというのがほとんどで、地方出身者の「ごった煮」というのが東京の実態でもあろう。時折、「東京人」に対する印象などとまことしやかに行われる「アンケート調査」の類にはただあきれるばかりであるが、どちらにしても何の意味もなく勝手なイルージョンを作り上げているだけである。「あなたの接したのは数年前に起業家を目指して〇〇県大字小字から出てきた者です。それを『東京人』というのですか?」と、つい意地悪く聞きたくなってしまうのである。私は、服装、話し方、ものの捉え方などで「東京人」かどうか、北出身か南出身かくらいまでは何とかわかる。最近はあまり長く人と話すことがないので、書かれたものか、服装で判断するしかないが、私にとっては「東京人」とは少なくとも生まれた時から東京にいるか、申し分ないところでは三代以上は東京にいた者という基本枠がある。身なりはシティーボーイ、シティーガール、中身は「粘液質」な、あるかないか不明な「ゲマインシャフト」への郷愁で絡め取られているのではどこかがズレてくるのは当然である。東京の地方出身者同士のイルージョンの「ぶつかり合い」の中で、それを「東京人は冷たい」などと県人会のゲマインシャフト復活のよすがとされてはたまったものではない。実のところ、ほんとうの「東京人」といえる者たちに会っているかどうかは不明なのである。それにしても「東京人」、「「東京っ子」などの内容はフランスでパリジャンなどと称されるような全人格的に「都会的センス」を持ち合わせているようなものともまた異質である。一般的に遣われている「東京人」とは何か取って付けたような、実に「田舎臭い」というより「田舎」そのものなのである。

 参考までに、私の20代前半は、ゴダールの映画が感覚的に素直に自分の中に入って来るものを「都会派」として認め、何ともわからない、馴染めない、感覚的に受け付けない者たちを「田舎者」と簡単明瞭に振り分けていたが、その正答率はかなりのものであった。中にはポーズで理解を示す者もいたが行為がそれを裏切っていた。断っておくが「田舎者」に対して何ら差別意識はなかった。むしろ地方の「底力」に敬意さえ持っていたくらいである。

                                                     2014 4/20


400.しけた世の変な人々


 毎日のように起こる鉄道の人身事故であるが、それもすでに日常化してしまっている。そして電車の中ではおもちゃを与えられたサルのように人々は「文明の利器」に打ち興じている。しかし、「打ち興じている」わりには顔は引きつっている。それはむしろ「文明の利器」にもてあそばれていると言った方が適切かもしれない。中には必要な情報収集に余念のない者もいるが、さすがに車内では「三大新聞」などに目を通している者はほとんどいなくなった。混み合う電車で「This is my every day, ひどいものだ・・・」と降りる知人に呟いた外国人は一人になると付箋のついた分厚い本を取り出した。久しぶりに見る光景である。私自身も、自国民に対するこれ程の距離感を感じたことは今までになかったことかもしれない。危なくて見ていられないからつい身をそらすのである。危険が恒常化すれば身は常にそらしたままの状態となる。それが意識化されていれば自ずと距離感が生じ、増大する。何の不思議もない。「意識化されていなければどうなるのか?」、精神はそれとは知らず迷走し、肉体が「変形」しているのも気が付かないまま、やがて医療産業もしくは葬儀産業に囲い込まれ、ついにはそれらに貢献することとなる。「意識化されていない」以上彼らは決して現実の「根幹部分」の問題に向き合うこともない。すなわち、自らを騙しつつ「他者」からも騙されっぱなしの人生を送ることになるのである。愚かさも ここに極まれり 賢しら心とでも言いたくなる。無知は罪悪、そして明解さを欠くことは方向性を持たぬが故に迷走と「空ぶかし」を余儀なくさせられ、結果的には去勢された隷属状態に自らを追い込む。

                                                               2014 4/11


399.「伝説の番組復活」?


 「伝説の番組復活」とは、要するにもう出尽くして何もありませんと宣言しているようなものである。今まで一体何をしてきたのかということでもある。「伝説の番組」などというものがもし実際にあったとしてもやらない方がお互いのためである。「名舞台」などといわれているものの再演もそうであるが、そのままやれば時代的齟齬(そご)と俳優自体の「変質」が作品を当時のものとは「別物」にして、決して前作を凌駕することはない。作り手がそれ以上の「何か」をもっていない限り、なぞっただけでは失敗は必至である。「伝説」かどうかは別としても、それほどのものであるなら尚更であろう。現状の自分が見えている者であれば避けるが、愚かであればその気になる。多くは「復活」自体があり得ないので見なくてもよい実態がさらに鮮明に見えてくるだけである。もちろん、見える者だけに限られるが。

                                               2014 4/10


398.大寒桜から染井吉野へ


 今年ほど桜を満喫したことは今までになかった。花見をしようと思ったわけではない。そんな暇はない。たまたま出かけたところがすべて見事な桜の並木道があるところでそれも3月中旬から始まった大寒桜の満開から4月5日頃の染井吉野の満開まで約2週間ほぼ毎日のように桜の並木道を歩き、思わず足を止め体全体で桜の花の息吹を感じ取ることができた。これこそまさに「有り難き」ことでもある。開花寸前から満開へ、そして落花と花の時々の様相を充分に味わうことができた。そんな稀有な時を得たことを感謝している。もう染井吉野は葉桜になりつつある。もうこんな機会は2度とないだろう。すべて一期一会である。

                                                2014 4/8


397.列を作ることが好きな人々よ!


 何かというと「買いだめ」に走り、そして、長蛇の列を作る。その顔には「安堵」の表情さえ現れている。我先に手に入れようとする険しさはあっても怒りの表情はまったくない。なぜこんなことをしなければならないのかということは問題にもしない。やがて買いだめたものは底を突くのは分かり切ったことであるが、それで急場しのぎができれば何とかなると思っているのか、ただ、あきれるばかりである。これは「したたかに生きる」ことなどとはかけ離れている。そこにあるのは、「忍耐」などというコンセプトとは異質のただ去勢された卑屈な愚かさだけである。それは最悪のパターンともいえる。私はどのようなことでも並ばされ「列を作る」ことが嫌いなので「不当な処置」で追い詰められ日々の糧を得られなければ、抗議行動の方を選ぶであろう。

                                              2014 4/5


396.TAMORI ?


 これは批判などというレベルの話ではない単なる率直な感想に過ぎないが、「タモリ」はまだやっていたのかという感じしかない。「さんま」などもイワシと区別がつかなくなって久しい。概して煮ても焼いても食えないものが多いが、「たけし」の「毒舌」、「切り込み」なども底が割れてしまっていて「道化」すらその逃げ口上にしか見えず痛々しいばかりである。その他のお笑い系芸人については言うに及ばず、ただ存在自体がうっとうしいだけとしか言いようがない。それは、時代というものがそうさせているとも言えるが、もはや彼らの「在り方」そのものがまったく「無意味なもの」と言うほどの意味すらもなく、むしろ百害あって一利もなしになってきているからでもあろう。笑う対象を見ればその人間の質がよくわかるともいうが、今更「八っさん、熊さん」の類をネタに笑っている場合かということでもある。言ってみれば「八っさん、熊さん」などは緩慢なる自殺対象者でもある。チャップリンは同時代の現役のヒットラーを笑いの対象としたが、こうした肝心な部分は常に抜け落ち、「お茶の間」などという実態不明のコンセプトで当たり障りのない皮相的な「切り込み」、物まねだけがバッコするように仕立て上げられているのが実情でもある。本来の「毒舌」、「切り込み」などもイマジネーション豊かに自在に時の様相を「切る」ことにその役割を辛うじて見い出せるものであるが、実際は妙に媚びた憎まれ口程度のものでしかない。「タモリ」にしてもアナーキーな猥雑なエネルギーを持っていたのは赤塚不二夫などの共感を得た初期のライブ活動だけである。それ以後は世評とは逆に下降の一途である。そして、最後にこともあろうに今後あらゆる問題の起点ともなり得る時の「権力者」に長寿番組であることを褒められるなどは最悪な「終わり方」であったとも言える。これも「継続」が堕落の門戸と隣り合わせという標本のようなものであるが、もともとその程度のモチベーションと思えばそれはそれで納得もできる。猥雑なエネルギーのラジカルな面もすぐに剥ぎ落され小賢しい小手先だけの「垢抜けした」濡れ手に粟の稼ぎに終始するなどはあまりにもお決まりのコースと言ってしまえばそれまでなのであるが、それ以外に何もしていない以上そう言われても仕方あるまい。それは自己の「起点」を忘れた者の宿命とも言える。その点については「たけし」は別な面、ある内的必然性を持っている。そのことについてはまた長くなるのでここでは避ける。大衆に寄り添い、大衆の代弁者のような顔をしている者の多くが実は大衆とはまったくかけ離れた大衆蔑視の生活をしているというのは日本でもよく見られる現状である。因みに、比較するのも憚られるところではあるが、アルパチーノ(俳優)はプール付の豪邸に高級車何台も持ちながらスラム街を彷徨するのが常であったと聞く。俗に言う「ハングリーな気持ちを忘れないため」でもあるが、それだけを見てもやはり生き方の迫力について根本的な差は歴然としている。もっとも、ニセモノ文化の中で自分自身も含めニセモノとして捉えその中で泳ぎ切ることのみを目指しているのなら今更何をか言わんやであるが、それは結局ニセモノの大量生産にさらに拍車をかけることになるので「一利」どころかむしろ「害」になることの方が多いということである。要するに、どう体裁を取っても愚民化政策の一翼を担っているのである。

 マスメディアに頻繁に登場する者たちの中で「これは本もの」と言える人物が何人いる?まさか彼らがすべて「本もの」であると思っているわけではないだろう。

 初期の「タモリ」にしても、「たけし」にしてもアナーキーな自在な「感性」を少なからず持っていた。それが大衆の「感覚」に心地よくストレートに入り込んだのである。しかし、その「感性」も明確な方向性を持つ「知性」の補完性が働かない限りすぐに衰微し枯渇する。知性を併せ持つ「感性」のみが大衆の「感覚」に入り込み、継続的に揺さぶりをかけることができる唯一のものかもしれない。やはり「感覚」だけでは迷走を余儀なくされることになる。現に、「たけし」は、「オウム真理教」と「原発」の件については明らかに迷走している。知性に裏打ちされていない単なる感覚による快刀乱麻の致命的欠陥ともいえるが、その一方では何の反応もせず、それが賢い方法とばかりに口にチャックの者が皮肉にも時の危うい権力者に「抱きつかれ」一矢も報いることができなかったということはその者のすなわち「TAMORI」の現在の成り立ち様をつぶさに物語っているとも言えるだろう。

                           2014年 3月 「忙」日の走り書きよりーA君の質問に対してー


395.おかしな国のおかしな国民


 東京で代々居を構えた家に育ち、長く暮らした私ではあるが、つくづくおかしな国のおかしな国民であると思われる時がよくある。どうしてそのような思いに至るのか、簡潔に言えば言えなくもないが、それは昨日今日始まったことではないので際限もなくなりそうである。

 先日、ある超高層ビルの屋上から東京の360度全景を隈なく長時間眺める機会を得たが、やはり「焼け跡」から場当たり的にその場しのぎに何の長期的展望もないまま作られた都市であると思った。それは決して「美しい」などとはいえる代物ではなく、むしろ「見苦しい」と言った方が適切かもしれない。すぐに目に入る東京タワーの配色にしても赤と白でビル建設に使われている巨大なクレーンと同じ色である。窓から見えるこのような景色を四六時中見ていて何を感じるのか、私にはこのようなところに住みたいと思う気持ちがまったく解せない。おそらく住人は実際にはその居住空間にいない時の方が多いのであろう。この雑然とした景観の中に何か猥雑なエネルギーでも秘めているのならまだしも今では末期の吐息程度の「熱量」しか感じ取れないのだからさらに悪い。それぞれがある範囲で小さく収まってはいるものの全体としてはアンバランスで、どの視点から見ても美的共感はほとんど得られない。歴史を感じさせるような家屋もいつの間にか取り壊され、その跡地には折り紙を糊で固めたような家屋がすぐに数件建ち並ぶ。その一方では高層ビルが雨後の竹の子のようにところ構わず増え続けているのである。

 すべてはこの都市の景観が示す通りである。原発再稼働についても然り、目先の経済事情ばかりを優先させ(優先順位の基準、根拠も実は不明)後先はまったく考えられていない。その場しのぎとはいえ事故当事国が隙を見ては原発を再稼働させようというのであるから海外から見ればまったく不可解、奇異でしかなく、とてもまともであるとは思えないのであろう。自分の姿が自己認識できないということは怖いものである。現状の己のあるがままの姿を見ようともせず、いわんや強引に「敵」をでっち上げてアイデンティティーを作り上げるなどは無能無策な者がする常套手段。そこまで堕ちてもしたり顔でいられるのはどこかタガが外れているとしか思えないのである。だから、何かおかしく思えるのかもしれない。敢えて自らの将来を閉ざすことにしかならないことをしていながら「夢」や「希望」を唱える。やはり、どこかおかしいのである。

                                                     2014 3/22


j 

「ある日、その時」(31)2014年1月ー

<掲載内容>

386.再びFace book,ツウィター、ブログにつて(削除) 387.東京都民の意識レベルが真に問われる日 388.(削除)389.雪が降る・・Tombe la neige・・・390.「世界の街歩き」中で・・・391.藁(わら)をもつかむ思いで392.アイフォン片手の無灯火自転車 <番外日誌20140311> 393.「〇〇騒動、マスコミからも批判」?394.「まねし権兵衛」 <番外日誌20140320>父親も茶髪、母親も茶髪・・・

                                             (転載・複製厳禁)



<番外日誌20140320>

 父も茶髪、母も茶髪、父親の手には漫画本、耳にはイヤホーン、母親もゲームに夢中、その前方には二人の子供が両親に負けず劣らずの出立ちで歩いている。子供の名前も「龍」だの「ダイ」がつく名前のようだった。

 少子高齢・格差社会を「物ともせず」突っ走る一群にはこのような人々も含まれるだろう。その先の事態は火を見るより明らかであるが、彼ら自身にはやはり何も見えていない。


394.「まねし権兵衛」


 「まねし権兵衛」とは岡山の方言で、すぐ人のまねをする者をいうらしい。安直に他人のものを戴いたり、まねをすることは達者だがそれ以上ではないというのはやはり肝心なものが抜け落ちていると見るべきであろう。「他人のもの」を自分流に使っても、それに見合った「文脈」がなければそこだけが浮き上がって、その不自然さは如何ともしがたいものとなる。それでもすぐにその気になってそれで済むと思える者とは、我と我が身を知らぬ、事をなし得るに必要不可欠な誠実さが欠如している者ともいえる。おそらく、「まねし権兵衛」は何でもできる気でいるのであろうが、それは飽くまで皮相部分だけで、「ほんとうの領域」には一歩として入り込むことはできない。実際に何ものも「手に入れる」ことはできないだろう。今後、ますます多くなるであろう「まねし権兵衛」の座右の銘とは「人生とは要領の良さ」だけである。それは要するに、それに見合った人生しか展開のしようがないということである。「ダイジェスト版」はどこを取っても「ダイジェスト版」、「本体」とは本質的に異質であるからである。

                                                2014 3/20


393.「〇〇騒動、マスコミからも批判」?


 「マスコミからも批判」?意味不明、実のところ噴飯ものである。加害者が被害者に説教しているようなものである。そもそも日本のマスコミ(極一部を除いて)に批判能力などあったのかという話である。「批判」の対象次第では幼稚園児並みの正義感をふりかざし、取材も必要としないような陳腐な真偽の程も怪しい内容に裏事情を織り交ぜてのもっともらしい「ご開陳」である。要するにやるべきことをやっていないのである。プロなら命かけて取材すべきで、一体何様のつもりでいるのかと聞きたくなるのである。聞くも愚か、見るも愚か、だから見ない聞かない読まない買わないのであるが、それでも現実生活を営んでいると拷問のように否応なく目や耳に入ってくる。見ざる聞かざるにも限度があり、つい言わざるを得なくなるというところである。

                                                  2014 3/12


<番外日誌20140311>

Remember,remember,the11of march・・Nuclear power plant disaster of Fukusima・・・・・・never forget!

忘却は、新たな「深み」に我々を押しやるだけで何の展開ももたらしはしない。そして、再び3・11の福島原発事故のような「深み」にはまればもはや何の救いも、未来もないと思い知るべきである。


392.アイフォン片手の無灯火自転車


 アイフォンを操作しながら無灯火自転車がかなりのスピードで走り去って行く。日本ではそんな光景はもはや見慣れた光景になってしまったが、現状の様相を象徴的に見せつけられる思いがする。想像力の貧困としか言いようがないその行為は日常的にロシアンルーレットをやっているようなものであるが、その意識がまったくないのである。これでは海外に行って何があっても不思議ではないが、国内にいてもどこに向かって突っ走るかわっかたものではない。いつの間にか崖っぷちに立たされていても、崖っぷちという意味も実態も見えてこない。おそらく滝つぼに飲み込まれる瞬間までアイフォンに気を取られて現実の感触がないのではないかとさえ思われる。

 平和時の文明の利器が次の大戦の要因となる。そのようなことを言った女流劇作家がいたことをまた思い出した。

 暗闇を無灯火自転車で走ること自体に何の抵抗も感じなくなって行く感性が怖い。アイフォン片手に現前の事実をきちんと見ることもせず走るのであるから、何があってもおかしくはない。一事とは万事なのである。やがてはどこかに最悪のケースが現れるということは避けられまい。現に、日本の現状は闇夜に突っ走る無灯火自転車そのものである。それも見たこともないような崖っぷちに向かってまっしぐらである。

 さらに最近では「まじめな人」に出会うことさえ稀になってしまった。どこを見ても半端でヤクザなお笑い芸人のような手合いばかりである。こうした有象無象のわがもの顔の態度に不愉快の域を通り越している者もまた少なくはないはずである。「まじめではないこと」が凡夫の証であることは以前にも書いたが、凡夫とは「普通の人」でもなく、そうかといって「庶民」、「市民」でもない。「歪められた」人々というコンセプトの方が近似の領域を見出せる。

 多くの者、すなわち凡夫とは、「根源的」にまじめに「なる」ことが不可能なのである。ほんとうにまじめになる瞬間があったとしても、せいぜい「愛するもの」の死の前後くらいであろう。したがって、凡夫にとって「愛するもの」の不在は、まじめになる瞬間が皆無であることを意味する。一瞬たりともまじめに世界を捉えることのできぬ者たち、「阿Q」ばかりでは行く末は悲惨である。当然何ひとつとしてものにならず、だらだらち生き延びて、言うことは常に言い訳がましい自己正当化ばかり、よく飽きもせず生きていると思われるが、阿Q同様、死を目前にしても「ご託」にうつつをぬかす、死んでも治まらない不治の病であるともいえる。たとえ生き延びても生ける屍ではいかなる意味づけも無意味であろう。

 小さき幻影にすがる者はやがて大きく足をすくわれる。

                                                    2014 3/5

 


391.藁(わら)をもつかむ思いで


 「藁をもつかむ」とは、すでに「溺れている」いうことである。この段階では傍に「救命具」があっても気が付くまい。後は藁を握りしめ沈んでいくだけである。世にものが見えなくなる要因はいくらでもある。単に一定の生業や収入がないことだけで人は精神も不安定になり、たやすく「道」から外れもする。いわゆる恒産なきものは恒心なしで、いとも容易くものが見えない状態に陥いることになる。恐怖心はいかなるものからも容易に芽を吹き世界の「切り取り方」次第では一瞬にして巨大化する。その多くは妄想そのものか、それに限りなく近い。だから怖いのである。そこでは「知」の領域が成り立ちようがなく排除されているからである。一旦恐怖心に捕えられると前意識中でも自己増殖を繰り返し、やがて理不尽に自己を追い込みとんでもない行動に駆り立てられることになる。

 「世界に冠たる・・・」云々の連呼は、必然的に原発再開、新設を引き寄せる。小さきものが「大」を冠するには尋常のことでは事足りず、かなり無理をしなければならなくなる。そして、気が付けば本体が手の施しようもなくボロボロになっていたということなど個的にも歴史的にも枚挙に暇がない話である。この小さな国で「世界一」を達成するために、原発増設が正当化され、まったく収拾のつかない領域がさらに増え続けるのである。原発とその廃棄物に囲まれて城でも建てるつもりなのか。そして、誰もいなくなったというのが冷徹な者が見据える未来図である。まだ溺れてもいない者が「世界一」という糠(ぬか)のようなものにまぶされた「藁」を握りしめ、敢えて前人未到の取り返しのつかぬ深みにはまろうとしているのである。結果は明々白々である。しかし、自らが選んだ道だという意識すらないところがさらに恐ろしいところでもある。現実的にはまだ「溺れている」とは言い難い者も藁にすがるのである。

                                                  2014 2/26


390.「世界の街歩き」の中で・・・


 ノルウェイーの街角で、路上の片隅に咲いている花を摘んでいる小学生くらいの男の子たちに、「それをどうするの?」と聞くと「ママにプレゼントするの」と言う。日本では津々浦々どんな片田舎に行っても決して見ることはできない光景であろう。それはもう生活習慣の違いなどと言って済まされる問題ではなく、精神文化の根幹から派生してくる一断面でもある。たとえ習慣にしても「良き習慣」を顧みようともせず、「悪しき習慣」に身を委ねていることさえ気が付かないようではやはり根幹部分に致命的亀裂が生じているとしか言いようがない。

 私は、「人間」を探しているのか、久しぶりに「人間」の子供に出会った思いがした。

※スカイパーフェクトTV「旅チャンネル」より

                                                2014 2/22

                                            


389.雪が降る・・Tombe la neige・・・


 20年(→45年)振りの大雪だそうである。20年前(45年前)と言えばと様々な思いを甦らせている人々もいることであろう。窓越しに見える白いスクリーンに「カット」インしたりアウトする心象は取り留めもなくコラージュ風である。しかし、なぜか「mon coeur s'habille de  noir」で心は重くなる。

 何年か前、芝居がハネてピエール・ノットやそのグループとカラオケのある店に行き、ピエールと二人でアダモの「Tombe la neige」を歌いながらかなり戯画風な当て振りをしたことがあった。あの時の「Tu ne viendras pas ce soir」(あなたは来ない)のTuは「En attendant Godot」(ゴドーを待ちながら) の「Godot」のようになっていたような気がした。それはもちろん男でも女でもなく、神でさえなく「何か」であった。

その単調な白の積み重ね

白い質量は

埋め戻された不在と

孤独を呼び覚まし

それが罪でもあったかのように

やがて汚辱にまみれ消え去る

 

※13年→20年→45年振りと降雪量の変化とともに過去に遡っていった。確かに自宅の庭の塀の積雪も5センチ、10センチ、23センチと増えていったが、最終的には27センチまでいったそうである。

                                              2014 2/8

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388.(削除)「D夫人云々」敢えて語るに如かず

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387.東京都民の意識レベルが真に問われる日


 今回の都知事選挙は東京都民の意識レベルをいやが上にも世界に向けて発信することになるだろう。関係ないでは済まされず、今後どこに行ってもその意識レベルの世界判定が付きまとうことになるのは必至である。すなわち、「市民意識」の欠如の有無、その「社会的堕落」の度合いを具体的に否応なく世界に向けて開示することになるということである。言ってみれば日本人に関する世界認識に対する「最期」の自己表明、意思表示の時であるとも言える。そして、その結果が今後もまたあらゆる領域で影響を与え続けることになるということである。たとえどのような意思表示をするにしてもも少なくとも現政権維持の方向がプラスで働くことは決してないことだけは確実なのである。「誇りを持て」などと言ってみても実際にやっていることが先のない単なる「終焉」に突き進むだけの独善的なエコノミック・イエローモンキーでは世界の嘲笑と非難は避けられない。

                                                    2014 2/2

追記:小さな地震大国に後始末も出来ない原発を次から次へと稼働させること自体が大変な間違いを犯しているのである。況や増設、再稼働などは論外である。そのことについていかなる釈明をしてもそれは所詮亡者の詭弁の域を出るものではない。これは日本の近未来の将来を閉ざすと同時に国土自体を修復不能な死地と化すことになる。欲望に目が暗みものが見えなくなった人間の自然に対する驕り、自己過信が露骨に現れる時、常に最悪な事態が用意されてしまうというのは過去の事例が物語るところでもある。この時代に生きたすべての者が成り行きの如何によっては将来断罪されるというのが歴史的必然でもあり、我々は今その岐路に立たされているのである。一つくらいは子孫に「誇れるもの」を残してやってはどうか。「誇れるもの」の一つとは、すなわち原発の放棄である。


386.再びFace book,ツウィター、ブログについて

敢えて今更語るに如かず。(2014 2/14)削除

 

                                                                        2014 1/29

 

「ある日、その時」(30)2013年11月8日ー

<掲載内容>

377.煎じ詰めれば総じて因果応報 378.世界の趨勢に逆らった「悪法」 379.「有名であること」と信頼性の有無は別物 380.一頃「ねじれ国会」などと喧伝していたのは?<番外日誌20131215>年の瀬も 381.オルフェーブルのラストラン 382.それを「作家」というのか 383.枯葉さんざめき 384.芹何某の曰く  <番外日誌20140124>それでも、人生は魅力的である。それは・・・385.石原何某の言動とは?

 

                                           (転載・複製厳禁)



385.石原何某の言動とは?


 残念ながら、彼の言動そのものが現在の「日本の文化レベル」と思ってほぼ間違いない。機に乗じては他者の誹謗・中傷を平然と行う「義」のない元芥川賞選考委員にして元都知事。もうこれ以上恥の上塗りは止めた方がいい。とても見聞に堪えるものではない。石原に対する三島由紀夫の見立てにも寸分の狂いはなかった。彼の存在そのものが「まともな」日本人にとっては好い迷惑なのである。彼が1955年34回芥川賞を受賞した時の選考委員の評には彼の今の姿を言い当てているものがある。当時はまだ眼力という点でもさすがと言い得る作家たちがいたという証左でもあろう。彼の現在までの経緯を見ても彼の「太陽」は徹頭徹尾Fakeであったということに過ぎないが、それは取りも直さず現在の「日本の文化レベル」がFakeであることを指し示す大きな指標ともなる。「文化レベル」というのがわかりにくければ「意識レベル」と絞り込んで置き換えてもよい。

                                                         2014 1/24


<番外日誌20140124> それでも、人生は魅力的なものである。それは・・・

Mais la vie est charmante.C'est selon le verre par lequel on le regarde.


384.芹何某の曰く


 ある日、芹何某という御仁が「整形美容の院長が世相を斬る?・・・、世相のどこを斬るの?、斬る前に底が割れている感じだね。切るのは女の顔だけにしておいた方がいい。高級外車乗り回している成り上がりの軸足がどこにあるかなどは分かり切ったこと。臆面のなさというか、すぐにその気になるのが多過ぎるね。実に多い,このパターン」と言いながらPCを閉じた。

 何を今更わかり切ったことを思ったが、まあ、芹沢何某の気持ちもわからない訳ではない。「斬る」だの、「毒舌」などと言ってみたところで個人的「悪口」、反キャンペーンの一環の域を出ないものがほとんどで、大方は当たり障りのない自分の身に危害が加わる恐れのない対象に限られている。そうでなければ大きな後ろ盾を持っているからできるという程度のものであろう。後ろ盾を持てば今度は自由な毒舌という訳にはいかなくなる。すなわち自由闊達な毒舌などというものはあるようで実はほとんどないといってもよいのである。そして、ほんとうに核心部分を「斬る」ことができる者とは、「こだわり」や「欲望」などを自在に断ち切れる位置に身を置く者,すなわち自由自在な者だけに限られる。しかし、それは必然的に「表舞台」などというものとは乖離概念にしかなり得ず、相容れないものとなる。したがって、核心部分を的確に「斬る」ことができる者とはやはりよく見ていないと見落してしまうようなところにしか存在し得ないということになる。どちらにしても真実の近似値はそう簡単には手に入らないということであろう。一般的な「毒舌」、「斬る」などの内容は暇人の「お遊び」と見た方が実情に近い。況や「裏話」の類は「真実」どころか人が小便を「○×公園」でするしないの域を出ない。

                                                     2014 1/21 


383.枯葉さんざめき


公園の片隅で

少女のブランコは振り切れている

叫声と奇声が

冬木立を縫う

枯葉さんざめき

冬木立の切り取った青空を

少女は全身で受け取った

あー、風が気持ちィー

 

 

 

                                    ー2014年 1月の雪の降りそうな昼下がりー 

 

 


382.それを作家というのか


 媚びへつらい、当たり障りのない「要領」だけの作り手を「作家」とは言わない。それが書き手であれば売文業と言うのが一番実態に即している。中には巧みな「技」、「奇」を習得した売文業者もいるがやはり「作家」というには何か「本質的なもの」が欠如しているのである。「才能」などというものは「きらびやかなもの」ではない。「本質的なもの」に近付けば近付くほどその「光量」は「きらびやか」などという範疇には収まりきれないものとなる。見え透いた要領だけの作り手がこねくり回した世界が瞬時に色褪せるのは精神の「葛藤内容」の質的浅薄さからくるのであろう。それがどうにも鼻持ちならないのである。だから印象に残るものがない。たいした才能もない者が才人気取りでいるのはどこの世界も同様である。

 いつだったか「ジャーナリスト」氏が以前の某流行作家に対して「面白くないから売れないのだ」などとしたり顔で言ったことがあったが、これなどもは実質的には金にならないことは無意味、金になることをすべきであると自己暴露しているようなものである。売れる売れないがすべての基準であるなら、ゴッホもモディリアーニも生前は画家ではなく、カフカも作家ではなかったことになる。売れなかった「面白くない」作家・カフカと今を時めく売れる「面白い」作家・村上春樹とどちらを取るかは各自の勝手であるが、そこでは売れない売れなかったなどという価値基準はまったく意味を成さず、質的価値基準を設定することも無意味である。もちろんゲーテの「若きウェルテルの悩み」が当時のベストセラー作品であったことにも、前代未聞の発行部数を誇るJ・K・ローリングスについても面白いから売れたのであって、それについて異論をはさむつもりはない。しかし、面白いのに読まれなかった、観られなかった作品も多くあることも知るべきなのである。そして、どうしてこんな本が売れるているのか、どこに面白味を見い出せばいいのかわからない本が多いのも実情である。だから似て非なる御仁の「面白くないから売れないのだ」などというもっともらしいが、どこか怪しげな説には難癖を付けたくなるのである。歯牙にかける程の内容でもないが、それは「ある日」の「その時」に去来したものに対するその時の腹加減にもよるということでご容赦願いたい。

                                               2013 12/25


381.オルフェーブルのラストラン


 見事である。その一言に尽きる。誰が騎乗しても同様であろう。もともと人間の思惑などとは無縁な自在な馬ではあるが、この日、これが自己の力の限りを出し切れる最後の機会であることを察知した君は無心に走れた。ただそれだけのことかもしれない。2位との差は8馬身、その差はさらに大きくなることはあっても縮まることはなかった。自らの力を見せつけるということもなく、持てる力を余すところなく出し走り去った君には自己の最期の証明などという思いすらなかったであろう。興奮冷めやらぬ君の横歩きに何とも奇妙な潔い心地よさを見た。

 それにつけても何とも醜悪さばかりが際立つのが人間の所行である。人の嘘にて生きる世に、動物達に心を寄せる人々の思いは痛い程よくわかる。特にオルフェーブルのようなレベルの馬になるとその感受能力は人間のそれをはるかに上回っているように思われる。

 時の関心事に自己を重ね合せ巧みに合成するのも「成り上がり」、「為政者」のありふれた手である。御多分に洩れず駄馬と比較するのも憚れる者が、「来年は駿馬のごとく障害を乗り越える」と得意そうに言ったそうだ。それは「乗り越える」のではなく「素通り」、「見て見ぬ振り」、「排除」と言った方が適切であろう。正すべき襟さえ持たぬ者たち、それが「為政者」というものの実態となってしまった昨今、すべての動物たちがさらに神々しくさえ見えるのは感受作用の当然の成り行きでもあろう。足元も見ずして「偽りの夢」を騙る者たちに振り回されていてはオルフェーブルのラストランの半歩にも及ばない。オルフェーブルを名馬に「仕立て上げる」のではなく彼を見倣うべきなのである。

 オルフェーブルは常に「感じる心」を持ち続け、それが時には仇ともなったが、多くの人々と共にありながら己をとおした馬なのである。

 オルフェーブルよ!

 君は人々の心の中から決して走り去ることはない。今もなお走り続けている。

                                                                                                                                 2013 12/22

                                                     


<番外日誌20131215>

年の瀬も 「冥土の旅の 一里塚

もの言えば 唇染(し)みる 一里塚

 人間が「自由であるべく呪われている」のなら、後は覚悟があるかどうかであろう。できること、やるべきとを各個人が実行するしかあるまい。言い訳がましいこと、もっともらしい理由付けなどやめた方がいい。「内患」から」目をそむけ、「外憂」を煽り立てて「悪法」成立の釈明の理由とするなどは忌まわしき者達の常套手段である。食糧自給率もほとんどない、拡大する放射能汚染地域を抱え解決の目途も立たない、少子高齢社会の国がいくら勇ましいことを言ってみても「分析」以前に現実的に勝算は全くない。やがて「兵糧攻め」でも片が付いてしまうのが落ちなのである。愚者か走狗か、走狗であるなら何者の走狗か。走狗も梯子を外されればそれで奈落の底である。そんな分かり切ったことを敢えて反芻してしまう昨今である。現状は、大局的な視座に立った世界との協調、それが最優先課題であると同時に最終課題であることは明らかであろう。今となっては、すべてにおいてそれしか残こされた道はないからである。それを逆走すればどうなるかは自明の理。それにしても「絶滅危惧種」としか思われない選択肢の選び方である。タナトスでも取り付いたのか。

 

追記:「できること、やるべきことを実行する」とは実は誰にでもできることではなさそうである。「Un héros c'est celui qui fait ce qu'il peut」(Rolland) すなわち、自分にできることをする人間は英雄と呼び得るものらしい。言い換えれば、凡夫とは自分ができることさえもしない人間ということになる。

 


380.一頃「ねじれ国会」などと喧伝していたのは?


 「ねじれ国会」などという安手の「コピー」で人はいとも容易く煙に巻かれ、その挙句がこれである。「ねじれ国会」などと煽り喧伝する意図は最初から見え透いている。私は以前のブログでも書いたが、この「ねじれ国会」などという「コピー」の「コンセプト」自体がすでに<反>民主主義的なのである。だからこの「コピー」をマスメディアが垂れ流し始めた頃からそのあまりにも粗悪な「コピー」の内容に不快感以上の吐き気に近いものを感じていた。これで「了解」できる者とは民主主義の意味が分かっていないか、その方向性を持たない者ということを意味する。そして、その場限りの「売れ線」狙いといってもいい「コピー」の乱用、合成のようなもので簡単にその気にさせられ、やがて恐ろしく危険で安易な「概念」を「作り上げ」巻き込まれていく。発信側も現実的には国民を衆愚としてしか設定していないので敢えて意味不明の空疎な「わかりやすい」コピーをまき散らすのである。実際、「ねじれ国会」をなくそうという思いで投票所に行った人々が何人いるのか。徹底的に馬鹿にされ、何度裏切られてもそれでもまだ尾を振る者たちとは何とも哀れである。民主主義とは国民に「考えること」を否応なく強いるのである。それを放棄した瞬間、民主主義などは鼻息程度で簡単に崩壊する。日本の場合は崩壊も何も、もともと民主主義の「体裁」を取っている国といった方が適切で、その「形骸」に見合った「中身」を注入することを常に怠ってきただけともいえる。そして今、その「体裁」すら危ぶまれているのである。

                                                      2013 11/30



379.「有名であること」と信頼性の有無は別物


 「有名であること」と信頼性の有無は別物であるということが至る所で発現している。然もありなんである。以前の「雪印」の衛生管理上の問題にしてもその原因は明らかで、そうなることがわかっていてやるべきことをやっていなかったのである。最近の食材偽装もどこか「未必の故意」に近いものがある。例えば、福島産のものであっても交通ルートを変えて「西のもの」を装っている「闇」業者は後を絶たないと聞く。そのような業者が入手ルートを偽って安く「一流店」に卸そうとすれば分かってはいても背に腹はかえられないというのがその実情であろう。食材偽装の連鎖にしても昨今の事情からどこでもやっているという感覚がいつしか「未必の故意」に辛うじて残っていた罪悪感すら払拭していく。私自身は止むを得ない場合を除いて食材の質が見えないもの、加工食品も含めて自分で選べる食材しか口にしない。それは延命云々の次元の問題ではない。それは生き方の根幹を成すものでもある。

 「有名であること」を敷衍すれば、「有名であること」だけを根拠にその言動のすべてを受容するととんでもない誤りを犯すことになるのは今も昔も大して変りのないことである。名もなき者は言うに及ばず著名人といえども書いていることや、実際に「行ってきたこと」がそのすべてでそれ以外は何ものでもない。私の今までの単なる経験則から考えても、マスメディアに頻繁に登場する「有名である」者の90%程はその言動から似て非なる者、ニセモノとしての感触しかない。彼らに共通しているのは、簡潔に言ってしまえば物事を処理する「要領」しかなく、自らの言動に命を賭するほどの覚悟もないということである。したがって、「何とでも言える」がそれは常に反証の対象にしかならず、(「反証可能性」を持つという意味ではなく)信用するに足りるものではないということになる。しかし、今までのようにテレビなどのマスメディアに出ているということだけでその言動のすべてを「許す」ほどオメデタイ人間も減少傾向にあるようにも思われる。それも単なる錯覚過ぎず、実質的には何も変わらずテレビから違う伝達手段に移行しただけのことなのかもしれない。しかし「移行」自体が「無意識」の内に、明確に対象化できないと言う意味であらゆる「契機」をすでに内包していることを考えれば悲観楽観問わず余談を許さない。

 月影に自らの姿が映し出されていても、月が見えない動物がいる。見えるのに見ようともしない者もいる。もちろん、太陽は直視できない。見事な月を背に「小さな利器」の発する光に顔をうめて歩く者、数人。電柱には帯を垂らした老婆が寄りかかっている。これから何が起ころうとしているのか。

 

                                               2013  11/18


378.世界の趨勢に逆らった「悪法」


 悪法であることがわかってはいてもそれに従って毒杯を呷ったソクラテスのような人物ばかりが世の中にいるわけではない。「悪法」はやがてそれに対峙しざるを得ない者たちの繋がりを強固にし、その中から義を尽くす者が必ず現れてくる。世界の趨勢から逆行する「悪法」は一体何をもたらすか。起こり得ることは多岐にわたり、事程左様に意のままにならぬのがこの世界であるということが明らかになるだけである。

 厳密に言えば「歴史は繰り返す」ことはない。歴史は絶対一回性の不可逆変化そのものである。歴史を検証し、参照することは有意義なことではあるが、それを基に状況が類似していることだけを理由に「警告」を発しても多くの者は具体的に何も見えてこない。中にはセピア色の郷愁さえ感じてしまう者もいることだろう。たとえ「体験」が甦る者がいたとしても「体験」だけを拠り所とすれば検証・分析より「思い込み」の方が先立ち、目前の事象を正確に見ることを妨げ却って根拠のない希望的幻影を再構成することにもなりかねない。そういう意味では再び「歴史は繰り返される」とも言える。しかし、「虎」の尖兵と成り果てて(尖兵として成り立つかどうかは不明)「新ファシスト」とはあきれるばかりである。「新」などとは遣わない方がいい、「亜流」と言った方が妥当で、実態は「亜流傀儡ファシスト」である。

 希望的幻影は自信を喪失したものに絵に描いたような「夢」を与える。日本でしか通用しない特殊な歴史認識もその夢に加担し、普遍性のない途方もない「夢」はいつしか肥大化し「悪夢」となる。だだし、その「悪夢」は過去の事象と相似形ではあり得ても質的に一致することはない。その質の変容の全体的把握は人間には困難であろう。現状では具体的「手応え」が見えにくくなってはいるが、進んでいる方向は見える。しかし、何においても受け身で縫うように生きるのが賢い生き方であると思い込まされている隷属が身に沁み込んでいる人々である。民主主義などとは本来的に相性が悪いのではないかとさえ思える。実際、1960年前後には民主主義はすでに形骸化し、それをそのまま今日まで引きずってきたその付けがこの間の「珍事」を縫って今このような形となって現れたと見る方が理に適っているからである。

 因みに、体制内「変革」を志す者、体制内「変革」に誘い込む者は「偽りの人」である。因循姑息な枠内での「変革」などというものが実質的に「民」のための「変革」とはなり得ないからである。野党は永遠に野党として与党の脅威として力を持つべきで、それが現状の最低限度の健全なあり方の一つでもある。

 

                                               2013 11/10

追記:偽装の一連の出来事、一事が万事である。「一流ブランド」レストラン、ホテルでフランス産と称された韓国産に舌鼓を打つ。五感すべてがニセモノにならされているのである。また偽装の総元締めのような者が福島産に「舌鼓を打つ」、ほんとうに「風評被害」などということで済む問題なのかと思うのも当然であろう。

                                               2013 11/15


377.煎じ詰めれば総じて因果応報


 因果応報とはよくいったものである。それは世上を見ていてもよくわかる。人を欺く者もその当然の結果が思っても見ないところから具現し、やがて凋落していくという具体例は古今東西枚挙に暇がない。それは自業自得ということでもあり慈悲の対象ではあっても同情の余地はまったくない。捏造、糊塗、虚偽はいかなる手を講じてもいずれ発現し、当の本体の瓦解をもたらすこととなる。因果応報にしても自業自得にしても本来的には仏教色を帯びた言葉であるが、「にも拘わらず」論理的でもあり合理的な捉え方なのである。

 「親の因果が子に報う」という身近なところから過去の因果が必然的に現在に報うというところまで本質的には同一であろう。いくら現実的に利口な生き方、やり方とは言ってもやはり騙しは邪道、外道で一時の活を得られたしてもその付けは「思ってもみないところから」回ってくるということである。この「思ってもみないところ」というのが味噌である。中には通俗的意味での確信犯もいるが、その者自身に訪れるであろう「因果」の発現箇所も時期についても本人は察知することはできない。わからないからやっていられるとも言えるが、人生そんなに甘くはないということである。そうかと言ってマッチ箱をニトログリセリンのように扱っていても硬直した人生しか見えてこない。要するに賢明な人生を送るにはどうしても「明晰さ」が不可欠ということになる。

                                                                                                                                     201311/9


                                                       

 

 

「ある日、その時」(29) 2013年8月14日ー

<掲載内容>

369.雷鳴のような砲声 370.あまねく空ぶかし、危うし 371.「汚染水」は、拡大する現実問題 372.散りぬべき時知りてこそ・・・373.マスメディアバージョンのアンケート調査を根拠に本を書く安易さ危うさノウテンキ 374.遠吠えは犬ばかりではない 375.霞が関の傀儡 <番外日誌20131012>  376.歴史に「完結点」は存在せず

                                           (転載・複製厳禁)

 



376.物語に「終わり」はあるが、歴史には「完結点」は存在しない


 ごく当たり前のことを当たり前に言っていると新鮮な驚きを感じることがよくある。驕れるものは久しからず。盛者必衰は世の習い。「2倍返し」は「3倍返し」を生むよすがとなり、果てもない。どこかに最終点を見出そうとしても決して完結することのないのが歴史そのものでもある。現時点での国情などもやがてはどのように規制しようともあらゆるところからその虚偽、隠ぺい、捏造、齟齬が読み取られ、いつか衰退を余儀なくされる。国法(憲法)を政官財の都合の良いように合法的に無力化し意のままに操るということは、必然的に「道理を破る法はあれど法を破る道理なし」という方向にもなり、正鵠を得た普遍性を持ち得る「道理」なども簡単に新たな「法律」によって合法的に排除されるということになる。すでに、現状は「無理が通れば道理引っ込む」というような流れで、無理があたかも有理であるがごとくの様相を呈している。その内に「無理」が「道理」となり、それが国の見解となり正論とされる。ただ、たとえそういう流れであったとしてもそれが「完結点」とは決してなり得ないのが高低差のない止まることを知らない歴史の「流れ」でもある。しかし、そこで我々がどれほど正確な俯瞰図を作成したにせよその俯瞰位置にはいられないのも我々の存在の在り様で、それは我々がどのようなところにいようとも何らかの形で歴史の「刃先」に引っ掛けられることは免れられないということを意味する。

 我々は、常に骸に付着した酸化鉄の解析からしか現実が見えないとみえる。今、動いている生々しい現実の総体を明晰に捉える術も、能力も持ち合わせてはいないようである。

                                               2013 10/24

                                          


<番外日誌20131012>


浮かれ鳥 朽木に群れて 騒ぎをり

朽木糞牆 何をか言わんや

朽木 朽ちるべし 旧りたる土塀崩れるべし

そは万有の摂理なり

                       


375.霞が関の傀儡


 霞が関の傀儡が「私は迷わない」と言ったそうだ。それはそうだろう、自ら考える必要はまったくないのであるから。傀儡の恐ろしさは複合体という実態の見えにくい化け物の化身となることである。「化け物」は内容空疎な欲望だけは人並み外れ、自己の能力も知らずに「屈折度」を増した者によく取り付く。そして取り付かれた本体が空疎であればあるほど「化け物」は肥大する。

 最近の動向を観ていると、動物のオルトキネシス(変速無定位運動)を連想してしまう。すなわち、刺激に対して運動の速度は変わるが方向性を持たないので刺激に対する方向の正負が問えないのである。敷衍すれば、「景気が悪い」と「運動」だけは高まりはするが、方向は見えないまま多くの場合その結果としてさらに「景気の悪い」ところに行くつくのである。

                                                   2013 10/5

 


374.遠吠えは犬ばかりではない


 「所詮は犬の遠吠え」などと、したり顔で言う御仁をよく見かける。そこには自由に対する恐怖と猜疑そして自らの位置の揺るぎない幻想がある。日本では「遠吠え」といえば犬で、それも「負け犬」なのである。すなわち、弱い犬が遠く離れたところから尻込みしながら吠え立てるように決して噛みつきはしないできない者という意味がある。しかし、遠吠えをするのは犬ばかりではない。狼もするのである。狼の遠吠えは、群れの仲間との連絡、狩りの準備、自己の存在証明、主張などと様々で、犬の遠吠えとは質を異にする。今、よく耳を澄ませば「狼たちの遠吠え」は共鳴し合っている。そこには「勝ち負け」などという範疇では捉えきれない、メディアの介入も「後追い」も意に介さないものがある。「遠吠え」が犬であろうが狼であろうがそうした周縁の発信内容を単なる「ノイズ」として括っていてはやはり核心部分の実情は目に見えてこない。日本的な「遠吠え」というコンセプトは事態を矮小化して捉える方便としてしか機能していない、というよりそのためにのみ作り出された表現といってもよいくらいである。最近の「復興は必要ない」、「高齢者は早く死ね」などのブログを書いた経産省の課長なども「中枢」にいる者達の意識を忠実に反映している。彼らにとって弱者の抗議などは「所詮、犬の遠吠え」でしかなく、それを切り捨てることに何らの戸惑いもない。ヒステリックな文脈に浮かび上がる「復興は必要ない」という文言からもすでに修復不能のものに金を使う必要などないという既得権益側の「論理」、すなわち権力そのものがが引き寄せる優生「保存」の「論理」が作用していることがわかる。そう、実は修復、復興は不能ということが「彼らの計算上」では分かっているのである。「高齢者は早く死ね」なども然り。そのような「論理」が形成されやすい部位に対する検証が白日の下でなされないままついにここまできてしまった権力機構はどちらにしても不健全、病的と言わざるを得ない。それは病的などという生易しい状態ではなくむしろ病膏肓に入るといった方がより適切かもしれない。今回の原発事故関連で官僚体制も否応なく「内部被曝」を被り、その病巣は全体に転移を始めたと見ることもできる。今後もその兆候が様々な形で国民の目に触れるところで表出してくることであろう。そういう意味ではさらに分かりやすく明解になったともいえる。

                                                 2013 10/1


373.マスメディアバージョンのアンケート調査を根拠に本を書く安易さ危うさノウテンキ


 今まで何かあるごとになされたアンケート調査、世論調査、それも1000人程度の電話応答が主流の簡便な、どちらと言えば先に結論ありきの、時には下駄をはかせたり脱がせたりとしか言いようのない操作修正の類のものが多かった。著者として一つの問題に絞って調査をするにしても1000人程度のアンケート調査を根拠にしてある見解を間違いであると「断定」するには無理があり、問題が多過ぎるのである。匿名アンケートと言えども自己脚色、欺瞞性、曖昧性などを払拭し得るものではないが、その上に誘導尋問のファクターが加われば調査主体の意図する方向にもっていくことは容易である。事ほど左様に現実の「事態」は容易く創り出されてしまうのである。そして、検証能力のないものは常に無様に踊らされていることすら気付かないということになる。私などは筆者の考えなどよりむしろその根拠とした1000人のアンケート調査内容と結果そのもの、そしてそれに関する具体的アプローチの方が見たいのである。もし、筆者自身が1000人程度のアンケート調査で自分自身の今までの見解を変えられたというのであれば、それは筆者自身がいかに皮相的な世界観しか持ち合わせていなかったかという証左にしかならない。それは、見れども悟らず、日々の生き方の根幹部分にまで及ぶことでもあるからである。アンケートの1000人の回答は1000の「事実」でも「真実」でもない。そこにはさらに読み取らなくてはならない「層」が幾重にも重なっているのである。アンケート調査要領を心得ているマスメディアやリーク「機関」と手を組んで簡単に本を出すお調子者のお手軽スタンスには愛想が尽きるが、この手で持論を展開し、「新たな発見」提示したいのなら少なくとも100000人位の調査を自らの手ですべきであろう。

                                                          2013  9/22


372.散りぬべき時知りてこそ・・・


 タレントなのか、お笑い芸人なのか、司会者なのかわからぬ御仁が30過ぎの息子の不祥事で謝罪している場面がマスメディアに流れていたがつくづく他にやることがないのかと言いたくなってしまうのである。今更言うべきことでもないがすべてにおいて自主規制しながらの当たり障りのない内容の垂れ流しである。そのような現状を観ていると完治する見込みが全くないがん患者に医者が軽い冗談を織り交ぜながら楽観的診断で間を持たせているとしか思えない時がある。すでに日本国土の一部は進行の極度に早い悪性の転移性癌に侵されているといってもいい状態である。放置しても、しなくとも時間との勝負なのである。そして、侵されたところは元には戻らず、今後ますます拡散、拡大、増殖するだけである。肝心なことを隠ぺいしざるを得ないということはもはや手の施しようがない状態であるということを物語っているのである。一国の「リーダー」のそこまで言うかという根拠のない嘘は、逆に日本が完治不能の絶望的な状況であるということを意味しているとも言える。そうかと言って彼らが立ち止まれば既得権益は崩壊し始める。だから「美しい日本」、「安全」などと空疎な「お題目」を唱えながら根回ししざるを得ないのであるが、もしこの「お題目」に簡単に乗る「患者」がいるとすれば、それは実質的にカルトの信者と同質であろう。なぜなら現実の様相を全的に捉えようともせず、都合の悪い部分(多くは自己の恐怖心から派生している)を欠落させ「思い込み」の中で再統合させているからである。

 名前だけは知られている「司会者」が自分の進退について、細川ガラシャの辞世の句(「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」)を引用して答えたらしいが、なぜか上の句の一部がなく、「世の中の花も花なれ、人も人なれ」となっていた。これでは俗受けする「人生いろいろ」、しかし「人としてあれ」というような不明瞭な俗流説教節程度の感慨でしかなく、「人生の魔」に拮抗し得るものはない。敢えて省略し曖昧にしたのか、忘れたのか、「散りぬべき時知りてこそ」がなければすべてが色褪せると同時に生のダイナミズムが消失する。さらに言えば、散りぬべき時をも知らで 世の中の 花も形無し 人も形無しなのである。

 彼は、たわいもないあってもなくてもどうでもよいむしろ罪悪(白痴化という意味で)の方が多い番組の担当者でもあった。そのような仕事に長く関わった者がそうそう意識など変わりようもなく、ただ稼げる仕事ではあったことだけが彼をしてかくあらしめたというより他に言いようがないが、今後、豪邸に一人引きこもっていくばくの命なのか。これからがほんとうに「散りぬべし時知りてこそ」という上の句がいやがうえにも迫ってくることであろう。その時見えてくるものがすべてを払拭した己の核でもある。真実の己の姿と言ってもよいだろう。

                                               2013 9/15

※31歳の息子が犯した行為について親が謝罪するという欧米ではあり得ないことについて、後日某タブロイド紙上でその日本人の精神構造を農耕民族であることを一つの原因と見たり、仏教とキリスト教の相違から手繰り寄せたり、「子供を守る意識が強い」などということから割り出そうとしていたが総じて皮相的で正鵠を得るには至っていない。農耕民族云々についても、それでは西アジア、ユーラシア大陸の農耕民族はどうなのか、日本を仏教国として捉えているようだがすでにその視点自体が覚束ないのである。日本人の「特殊性」と言ってもよいこの精神構造は歴史的に培われた根幹部分から派生しているもので、何十年どころか何百年のタームでもそうそう変わり得るものではあるまい。実は現状の「日本の問題」のすべてはこの精神構造の根幹部分の「特殊性」からきているとも言えるのである。今後どこまでこの問題を対象化できる人々の比率が増えるかが大きな問題(キー)となるだろう。


371.「汚染水」は、拡大する現実問題


 拡散する放射能「汚染水」の問題は認識の問題ではない。どのような言辞を弄しても明解な論理的結果を提示し続ける人類の一大事なのである。その問題についても特に「大手」メディア等では「事実と証拠に基づいて」きちんと報道されることはなかった。最近の東京五輪招致を巡るやり取りを観ていても「人間」とはどこまでも堕ちるものであるというのが率直な気持ちである。現実と乖離した認識についてはカルト国家かと思わせるものさえある。その内に「汚染水」などそもそも存在しなかったなどと言い出しかねない様相である。放射能「汚染水」の問題は未だ「収束」の目途さえ立たずに拡散し続けているというのが厳然たる事態である。それに対する不安の有無などを論じている場合ではなく、国土の一部が死地化している小国という否定し難い日本の現状をどのように打開するか具体的に動き出さなくてはならない時であるにも拘わらず相も変わらず場当たり的なその場しのぎの対応しかなされていないというのが実情であろう。況や7年後の2020年の東京五輪開催までには安全は確保され問題は「収束」されているなどという発言の明確な根拠も証拠もどこにも見い出せるはずもない。それはもはやカルト的世界観でしか割り出せない認識なのである。

 聖火リレーを取り入れたのも、オリンピック祭典の原型を作ったのもヒトラー、オリンピックを「国家を宣伝」する大会に変えてしまったのもヒトラーである。第11回ベルリンオリンピックにも巨費が投じられた。東京五輪もどこにどのように使われるのか巨費が投じられ大方の日本人が「金」の獲得と国民意識の高揚に熱狂するのであろう。この「宴」の後に一体何が残るのか。またぞろ後は野となれ山となれであろう。そして、その野や山を彷徨うのは言わずと知れたお馴染みの人々である。

※ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」は監督レニ・リフェンシュタールでベネチア映画祭で金賞を獲得している。戦後、レ二・リフェンシュタールはナチのプロパガンダ、御用監督として厳しい批判を受けることになる。それは、いくら彼女が「美」にしか興味がなかったと主張しても、それはその通りであろうと思われるが、それで通る話ではないのである。彼女は死の3年前、「ときどき私は、ヒトラーの夢を見るわ。そして、刺し殺してやろうと思う。でも、なんだか、母親が息子を殺そうとしているような、そんな気持ちになってしまう・・・・・。だけど、彼は殺さなくてはいけない人間なの」と語っているが、ヒトラーという「狂気」の在り様をさり気なく素直に言い当てている。

                                                            2013 9/8


370.あまねく空ぶかし、危うし


 根幹部分の問題には触れることもなく、一見何事かをやっているがごとくに動き回っているが事は一歩たりとも前進する気配すらない。音はすれども姿は見えず無駄な消費量だけは確実増えていく空ぶかしのような事態がすべてにわたって連動している。動き回っていること自体に三分の理すら見い出すことは難しいのである。論理的に考えれば、全体としては負の連鎖しか現れわれようがないということなのであるが、悪いことには肝心なことはすべて隠ぺいされているので見え難くなっているのである。見え難いということは思考停止を増長させると同時に不安も拡大させる。膨れ上がった不安は常に矛先を身近な周囲に見出すが決してほんとうの的に収まることはない。なぜなら、論理的思考が欠如しているからである。それは「憂さ晴らし」の次元の問題ともいえるが、その憂さ晴らしの次元で自らを消耗させていくのであるからこれもまた「空ぶかし」ということになる。何一つ前に進むどころか全体的には委縮を余儀なくされるのが現状である。そして、「空ぶかし」をしても一部の既得権益サイドだけは懐も心身も無傷なまま、実質的に様々に傷むのは国民各人だけだということは確かなのである。単なる反国民的な既得権益側ということに過ぎない流動的な体制を普遍的な「国」と勘違いして支援を惜しまぬ国民を「自虐的」と言わず何と言おうか。

 「自虐史観」、「謀略史観」などというお粗末なコンセプトがあったが、これで何を語り得るのか、発信元は言わずと知れた処である。「彼ら」の欲望の置き換えでしかないもの、すなわち「他虐史観」の中ではすべてはその合理化のために使われる。そして、それは清く美しい「聖戦」となる。火器フル装備で他人の土地に入り込むのもいつの間にか「進行」となり、「聖戦史」となる。それは飽くまでお手製の「どんぶり史観」の中だけで成立するもので、後の世の人も権謀術数の「奇異な料簡」が成り立ったサンプルとして取り出し参照する程度であろう。

 昔、日本国という処ありけり、その料簡 偏狂にして奇異なりしが故に亡び去りぬ。などと言われぬようにするにはどうするのか。どちらにしても思案の為所はとうに過ぎている。

                                                 2013 8/31


369.雷鳴のような砲声


 天と人事とはやはり浅からざる縁を持つものなのであろう。最近の記録的な猛暑に伴う遠雷は砲声そのものである。砲声のような雷鳴なのではない、雷鳴のような砲声なのでる。

 花火の日、ゆるく着た着物姿の群集の間を冷気を帯びた一陣の風が通り抜けると、花火を引き裂く稲妻、とどろく雷鳴、やがて降り注ぐ雨に顔も衣服も片付け逃げ惑う人々。突然、闇の裾を真っ赤に染めて爆音とともに巨大な火柱が上がった。それは明らかに花火ではなかった。その火柱に向かって雨に濡れながらも拍手を送るいくつかの集団。人の波から辛うじて逃れた時、私はすでにずぶ濡れであった。何とか見当をつけ歩き始めたが、大路では悲鳴交じりの喧騒が蛇行していた。

 天の動きも人事も何か異様なものを感じさせる日々である。感じさせるだけではない、すでに天変地異の科学的根拠もあり、起こり得る人事の限りない負の論理的根拠もある。だから、尚更具体的に現前に見えるのであろう。しかし、そんなこととはお構いなしに「現状に満足」している者が多いのもこの国の特徴である。何か「呪文」でもかけられているのであろうか、さもなくば己に巣くう怯懦が自己を偽らせ、現状を見ることさえできなくしているのであろう。見えていない、見えない人々の集まりほど危険なものはない。意識の持ち様でどうなるものでもなく、すでに我々は冷徹な論理に取り囲まれている。そして、それが人間の感覚器官にシグナルを送り、天も自ずと然りという反応をしているということなのであろう。

                                                       2013 8/14


 

「ある日、その時」(28) 2013年6月22ー

<掲載内容>

362.取り巻きの提灯記事に認知症のごとく 363.オウム真理教のような「ブラック企業」 364.「ねじれ解消」??「The Diet is twisted」??? 365.「ホリエモン」が朝日新聞記者にキレタそうだが 366.行住坐臥アイホン 367.エンターテイメントと医療産産業 368.「ナチス肯定『断じてない』」とは?

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368.「ナチス肯定『断じてない』とは?


 今更どう取り繕っても取り返しはつくまい。実際にやっていることは、改憲の方向で「狂騒、狂乱」は避け、国民の知らない内に多数派を構成し得る改憲派の「慎重な議論」を進めていることは容易に推定できることである。この「慎重な議論」というのが、政府が定めた法律に矛盾する憲法の規定は効力を失うとするナチスの「全権委任法」を何段階にも分けて国民が気が付かないようにもっともらしい名称に変え成立させていくことである。「ねじれを解消」した現在それはいつでも可能なことである。この「全権委任法」に該当する法律によって憲法を形骸化させていくのである。そのような実態が、ナチスの現代史的位置づけ、歴史認識もほとんどできていない者の口から「素直に」こぼれ出たということに過ぎないが、同時にこの程度のレベルの者が日本には数多くいるということが世界にさらされたのである。しかし、その弊害は計り知れないものがあるだろう。もはやバカとかアホとかあるいは人間的集約で済まされる問題ではないのである。以前、「サカキバラ事件(神戸連続児童殺傷事件)」というのがあったが、事件を起こす前に少年が母親に「僕、なんだか変だ」と訴えた時にその母親はヒットラーの「わが闘争」という本をその子に与えていたことを思い出した。この母親には機会あるごとにメディアにのる(ここではメディアの責任は言及しない)ヒットラーが歴史に登場した「世界の偉人達」として映っていたのであろう。恐ろしき無知である。やはり無知は罪悪で、罪は背負うべきというよりこれは因果応報ということが避けられないという証左でもある。

 ヒットラー登場前夜のドイツと現在の日本が酷似しているという識者もいるが、確かに状況は似ている。そして、人類には「ヒットラー」という「狂い」が生じる危険性は常にあるが、その出現要件が酷似しているからといってまったく同様の「こと」が再現されることは歴史上あり得ない。第二次大戦後、日本以外の欧州各国においては明確に「教訓化」されている一国のヒットラー的「狂気」が再び世界を席巻する可能性はどちらにしても「死産」か「流産」を余儀なくされるというのが現在の世界情勢でもあろう。したがって日本が思っている以上にそのような兆候に関して欧州各国は鋭敏に反応する。それがもはや人類の死滅の道でしかないからである。現在進行中の「時代」、時の様相を完全に「距離を置いて観る」ことなどは「人間」にはできないが、最近の日本の一連の動きに対して世界は当然のごとく要注意国家の認識さらにを深めていることは否定できない。しかし、それは飽くまでまだ米国の手の内にあることとしてである。ヒトラーの模造品も米国の手の内にある内は従属国家としてのよりよき実験材料、取引先でもあるが、少しでも手の内から外れれば容赦なく、場合によっては完膚なきまでに叩かれる具体例は現代史的にも周知の事実であろう。今のところ辛うじて米国の従属国家はさらなる従属国家を求めて経済援助の名の下に近隣、「親日」国に手を伸ばそうとしている。「美しい国」などがあり得るのは日本国内の妄想に生きる偽りの民の中にだけで、もはや観光レベルの話でさえ三百代言の言辞のごとく「白むもの」が蔓延してきている。ここに来て以前からあった「金がすべてのガサツなイエローモンキー」という日本人に対するイメージはさらに強まったことであろう。それは「奥ゆかし」さの奥には実は何もなかったということがさらけ出されたということでもある。世界に誇れる文化を持つ国が結果的には自らを貶める偽りの者達にどこまでも蹂躙され続けた必然的結果である。やはり行き着くところまで行くしかないのかもしれない。それが修復不能の奈落ではないことを願うだけである。

 すべてにおいて形骸化が進行性癌のように「人知れず」拡大しているのが現在の日本の実情でもある。

                                                  2013 8/5


367.エンターテイメントと医療産業


 エンターテインメントと医療産業に対する関わり方と捉え方見ているとその人間の蒙昧度とスタンスがよくわかる。無知蒙昧とは「普通」ではなく、それだけで罪なのである。「笑いあり涙あり」などのコピーだけをたよりに群がる人々。「笑いあり涙あり」のドラマを「抹香臭い」薄暗いドラマと比してエンターテイメントに「昇華」したなどと訳のわからぬことを開陳する訳あり芸能ライターなども含めこの国の文化レベルの低俗さは否めない。私はエンターテイメント性のあるものは好きであるがそれがすべてではない。敢えて「昇華」させることを拒否しなければならない内容もあるということである。「抹香臭い」ものもエンターテイメントも引き寄せて同時に味わい尽くすというエネルギーもスタンスも持ち合わせていないから現状を真っ向から引き受けることも見据えることもできないのである。「笑いが健康にいい」、「笑っている人には放射能は影響ありません」と聞けば笑わなければ損とばかりに「笑い」を求める。それは笑い飛ばすという意味合いの「哄笑」とは異質で、どこか病的で引きつっている。それは、暗い時に明るいものだけを求めるということが老若男女問わず人間の捉え方としては不健全で浅薄過ぎるということにも関連してくる。いつだったか前歯のない禿頭の御仁がテレビのAKBの選挙番組に真剣に一喜一憂している姿を見て改めて日本の現状を垣間見た覚えがある。この御仁もやがて医療産業に全身絡め取られて身動きつかなくなるのであろう。体だけならまだしも死を前に相変わらずAKBのテレビを観ているのであろうか。「抹香臭い」ことを嫌う傾向は実は本来の「生」を大切にするというよりはルーティン化された日常に容易に戻れることだけを希求する、すなわち「思考」の拒否を意味するといってもよい。現実の様相は実際には老少不定、しかし、日々生死を考えていたのでは「計算」が成り立たないとばかりに「死」を感じさせるものを排除することに躍起になるのであるが、それによって却って「計算」に狂いが生じることがあるのも自然なことである。その狂いと「抹香臭さ」を前意識の段階で関連付けて忌み嫌うのである。一時「プラス思考」などという俗流ハウツーモノが流行ったことがあるがこれにも決定的な「死角」があるのもそうした事情による。「抹香臭さ」のないエンターテイメントだけを追いかけ、現状を見ることさえできずにわれとわが身の姿も位置も見失い、挙句の果てに訳も分からずに人体実験のごとくに医療産業に貢献する。それが笑いもあり涙もある人生だとでも言いたげに聞こえてしまう。不可解である。現状を直視されては困るのはどこの誰か?簡単明瞭なのである。今では、人生を「笑いあり涙あり」の調子で矮小化されても何が面白いのかと思う者も多いことであろう。実際、福島には日々刻々変化するいつ果てるともわからない収めようにも収めきれない人間の力をはるかに超えた現状がある。そこでは現実を直視することしかもはや抜け出せる道はないのである。そのような状況の中で、歌あり踊りありの泣き笑い演劇を展開してもやる側の満足度の方が観ている側より遥かに大きく、やる側がいかにもっともらしい意味づけをしても「売名行為」だといわれれば甘受するしかないところがある。要するに「飢えた」人々の前で芸術・芸能一般が何の役に立つかということに尽きるのである。もしそのような芸能一般の活動が人々を現実から目をそらす働きかけの一要素になっているとしたら、それは「罪作り」なことをしているに過ぎないことにもなる。そして、現実的にそこでは意識の持ち様とは全く関係なく今後もさらに「原因不明」という名称の原発事故の影響は増え続けることは否めない実情でもある。おそらく放射性物質の影響であったとしても検証不能ということで原因不明となるか、新たな病名をつけて処理されることだろう。文明社会の進行速度と「深刻度」に比例して病名だけは多くなるのが今までの経緯そのものでもある。新たな病名をつけられ者は精密検査ということで医療産業にまわされ、そこで癌が発見されれば原因究明より外科的対症療法にすべてが注がれることになる。

 また、今後もますます話題には事欠かないであろうブラック企業などと称される者達の跳梁跋扈(チョウリョウバッコ)を見ていても、その内に「勝組み」「成功者」としてブラック企業社長の笑いあり涙ありの「奮戦記」でも出てくるのではないかとさえ思える。それが「昇華」されていれば笑って、泣いて「納得」するのであろう。 賢しら心ではなく、少なくとも私にとってはそのような人々は縁無き衆生でしかないように思われる。

                                              2013 7/25

 


366.行住坐臥アイホン


 歩きながら、座っている時、横になっても前後左右お構いなしのアイホン片手の喜怒哀楽。その様、異様である。常にその場には「人間」が不在で周囲をまったく見ていないというより、それは見ることができないかのようでもある。すなわち何を見ても「悟る」(「解読」といってもよい)ことなどは決してあり得ないのである。周囲に対する無関心はそのまま世界に対する無関心でもある。確かに、下手な香具師(やし)の口上のような街頭演説、TVなど見たくも聞きたくもないだろうが、騙されたくなければ、さらに言えば殺されたくなければ現実の読み取り作業は怠ってはならない。それは深慮遠謀、人間主義的見解(「人がいい、悪い」等々)などに巻き込まれることなく、ただ嘘を直感するだけでもよい。そして、それが許される範囲かどうかを見極め今できることをすることである。

 猛暑でさらに頭がやられたのではないかと思われる者が「愛国教育」を唱える。「愛国」より「愛民」が先決であろう。舌先三寸、お為ごかし、隠ぺいばかりで具体的に何処に「民」への配慮があるというのか、民を愛することもできないものが民に国への忠誠を強要する。本末転倒である。そのような国が「栄えた」例はない。亡びに至る寸前の狂気か、悪あがきか。これで「成立する国」とは転落する地点、方向が定まったということでしかなく、そういう意味では「動き始めた」ともいえる。ふとそんな思いに駆られながら夜道を歩いていると、車道を無灯火の自転車が突っ走ってくる、見るとアイホン片手にイヤホンをつけている。これはたまたま見る光景ではなく今や日常茶飯事である。本人は気が付かなくともこれは明らかに「自殺行為」なのである。そんな僅かなことからも見えてくるのは諸外国の「人々」との根本的違いである。それは現実的な「前後左右」の認識とその論理構成がもたらす近未来の察知能力である。アイホンは便利なのであろうが、日本の現状を見ていると数十万の否数百万の「人間」がそこが自分と外部との唯一の接点であるがごとくにアイホン片手に一方向にいつとはなしに囲い込まれながら行進している姿が重なってくる。そして、誰もが前方を、現前をまったく見ていないのである。やはり異様である。

                                               2013 7/19


365.「ホリエモン」が朝日新聞記者にキレタそうだが


 今更、展開の余地のない「大手」新聞などについて取り上げるのも気恥かしくなるが、その下部組織のような週刊雑誌の類もすべて同様である。そこに所属する「記者」という概念はむしろ「無料掲載渉外部員」、または「渉外係無料掲載担当」と言った方がより正確で、旧来の「記者」などというコンセプトとはまったく異質である。それでは以前には「本来」の「記者」という「ジャーナリスト」のコンセプトに該当する者がいたかといえばそれは稀にとしか言いようがない。「記者」ではない「無料掲載」担当の「渉外係」が広義の「大口有料掲載者」に関しては美辞麗句を並べ立て吹きまくるのは当然。無料掲載対象の話題の中心から少しずれたものについては勢い高飛車となるのも彼らとしては「普通の反応」なのである。彼らの書く「記事」の信憑性の度合いをどの程度に見るかは各自の勝手だが、私は10%未満、もしくはゼロかマイナス程度位にしか見ていない。彼らはたとえ書いた内容が誤りであったとしても紙面片隅に2-3行程度の謝罪文で済ませているのが常である。その程度の責任感しかないのである。「言論の自由」とは口から出まかせ、「操作」も含まれる、したがってその内容の精査・検討を必須条件としてしか成り立たないのである。「大手」新聞記事内容の類をただ鵜呑みにしていてはいつか「胃瘻(イロウ)」にもなりかねないというのが現状である。暑さ厳しき折、真の「自愛」とはいかに可能かを考えるべきではないか。

※「ホリエモン」が具体的に記者のどのような対応に「キレタ」かについては他を参照されたい。あまりにも然もありなんのことなのでここでは省略する。

                                                  2013 7/14 (7/16一部直し)


 364.「ねじれ解消」??「The Diet is twisted」???


 以前にも取り上げたがこの「ねじれ」というコンセプト、この言語操作でどの位置から発信しているのかは一目瞭然なのであるが、飽きもせずというのか、能無しの能ひとつというべきなのか、金のため魂を売り渡した者達の常態なのであろうが、「ねじれ国会」、「ねじれ〇〇」等々、とても民主主義国とは思えぬ未成熟な言語使用である。これで何か言った気でいる、またその気になっている者達とはどのような美辞麗句、筋立てをしても根幹部分に致命的な瑕疵がある。要するに民主主義国としては「普通」ではなく、危険であるということである。日本の多くのマスメディアが頻繁に遣う「The Diet is twisted」(国会がねじれている)ということについて民主主義国を標榜する諸外国の人々に聞いてみるとよい。何を言いたいのか分かるまい。分かったとしても逆に「ねじれていない」状態をよしとするお前の国は「one-party dictatorship」(一党独裁)なのか「Despotic government」(独裁国家)なのかと聞き返されるのがオチであろう。「ねじれて」困るのは実質的にも99%の国民ではない。1%の者達の口車にいつまでも乗っていたらわが家は火の車、それも火が点き始めれば我が家は保険金も下りない状態で一瞬の内に消失であろう。

 「彼ら」は、多くの者に偽りの「賢さ」を要求し、手足を縛る。その内に手足は壊死するが自然死のごとくそれとは気づかない。そして、「不自由」であることが「普通」のことのように思われてくるのである。

                                                       2013 7/8


 363.オウム真理教のような「ブラック企業」


 私は以前、まだオウム真理教が「活躍」していた頃に、これは企業経営者としては実のところ垂涎の的ではないかというようなことを言ったことがある。そして、その後ブログでも取り上げた。賃金なしの状態で一日中人を拘束してそれも上位のものに対しては絶対服従で言われたことはすべて命がけでこなして行く。企業経営者に限らず、居酒屋のオヤジでもそれは羨ましくもなるであろう。私はあの当時はオウム真理教の宗教内容について調べていたが、おそらくそれと同時進行で経営のノウハウと人心掌握術をオウム真理教から学んでいた者達は数知れないだろうということは想像に難くない。オウム真理教の類は、今でもそれと50歩100歩のものは枚挙に暇がないが典型的な俗流宗教で簡単にその土地の民間宗教を併合させ現生ご利益的方向、あるいは現世離脱の方向にもって行くのがその常套手段である。企業経営者はその人心掌握の要となる俗流宗教の部分に「拝金教」を持ってきただけなのである。それを右も左も分からぬあまりものを考えない中高生レベルの者を相手にもっともらしい空疎な「格言集」で、要は「金がすべて」という拝金思想で手を替え品を替えマインドコントロールするのである。このような「ブラック企業」と称されるところにいる社員の意識レベルはどうなっているのかということもあるが、自殺に追い込まれる寸前までいるいるということからもいかにマインドコントロールが行き届いているかが窺い知れる。「ブラック企業」とオウム真理教とは体質的にも同質なのである。戦後の経済最優先政策が「宗教は最終ビジネス」と豪語した教祖・麻原彰晃を作り出し、そして今、「ブラック企業」に巧妙に受け継がれているのである。さらに、驚くことに現在では「ブラック企業」以外でも文化系の「ひ弱」な優等生より元暴走族、ヤンキーなどを幹部社員として使う会社もあるという。その人間の「資質」にもよるだろうが、総じてそのような起用は邪道である。そもそも感性も知性も乏しい者の「資質」を企業側がどこまで見抜けるのかということにもなるが、実際に企業が彼らに求めているのは無思慮な鉄砲玉のようなパワーだけであろう。これもまた国内限定バージョンで少なくとも欧米では通用しない。企業にとって彼らとは使い捨ての「カンフル剤」なのか、その内寝首を掻かれないよう気を付けた方がよかろう。どちらにしても企業の質そのものが早晩問われることになるのは間違いないのである。

※因みに、中高生レベルとは必ずしも中学・高校生とは限らず「大学生」・「大人」も含まれる。

<追記>ここで遣われている「マインドコントロール」(和製語)の指示内容は他者の行動の指針となる精神活動そのもの入り込み操作する行為すべてを指している。したがって「洗脳」(訳語由来不明)などとの峻別は煩雑にもなりそれほどの意味もないと思われるので敢えて避けている。もう少し正確に言えば、ここでは自由選択がないまま視野狭窄の状態を操作された「自然な流れの内に」作り出し他者を否応なくある一定の方向に導く精神的操作全般を「マインドコントロール」という言葉で置き換えているのである。そこでは「洗脳」という物理的行為も程度の差はあるにせよそれに包摂される。

                                                 2013 6/26


362.取り巻きの提灯記事に認知症のごとく


 取り巻き連中の提灯記事でその気になっているというより継ぎ接ぎだけの「衣服」を身に着けて過去、現在、未来の時間の混在化の中で積み重ねが成り立たぬ認知症的状態にいる者、程度の差こそあれどの世界にもいる者たちともいえるが、そのような者たちをでっち上げる提灯記事を書く方も書く方でどの程度分かって書いているのかと思われる程の酩酊である。酩酊状態が金まわりを良くするのか、金まわりの良さが酩酊状態を生むのかは知らぬが、そのような提灯記事で飾り立てられてその気になっている者を見ているとつくづく時代に生きていない、生きられなくなってしまった者達の実相を見る思いがする。時代を真に受けとめられず、受けとめようともしない者達が時代の表皮に浮き上がってくるのはいつの世もさして変わらぬことかもしれないが、時は完結を拒み、「生きとし生けるもの」は歴史の「永遠」の無化作用、全体化作用の中に身を置くしかないのが世界内にあるものの在り様でもある。己が位置づけを忘れた娑婆気ばかりの「俗物」とは。現実的には私利私欲の過度な自己顕示欲に取り付かれた者ということにもなるが、「俗物」は自らを「俗物」とは認知し得ずそれが人間の「本性」であるがごとくに思っているが、実はそれ故に俗物なのである。名声、欲望に囚われ取り付かれた者と「豊かさ」への志向とは常に相反する。彼らに自由闊達の領域は存在せず、いくら「善行」、「正義」、「希望」を装っても結局ところ負のエネルギーに集約される志向性しか持ち得ぬのではないかとさえ思える。彼らの言う「建設」とは飽くまで「自己の建設」であってそれ以外の世界の「解体」である。そして、やがて「解体」に余念がなくなる。すなわち平和とは戦争ことであり、戦争とは平和のこととなるのである。

 嘘を嘘とは思わなくなるのは精神障害の一種でもある。それは娑婆気の多い「俗物」の防衛機制とも思える。「生き抜く」ための嘘がいつしかほんとうのこととなり、真実を覆い尽くす。虚偽の上に虚を積み上げても「実体・実態」」からは遠のくばかり。「虚」を「虚」として、嘘を嘘として捉えられなくなってしまってはもはや手の施しようもなく、自浄作用も完全に機能停止となる。

 ここで取り上げた「俗物」とは一日の労苦を終え、湯船に浸かって「娑婆の極楽」などと呟く者達とは異質である。

 世界を「精神病棟」と捉える演出家もいたが、今やそれは医者のまったくいない「精神病棟」と化している。実際にも、すでに認知症患者が認知症患者を「介護」しているというのが現状としてある。すなわち、それは自己認識する者が不在のまま、積み重ねも成り立ちようもなく終焉へと突き進んでいるということを意味する。

                                                  2013 6/25

 

 

 

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