両忘の時‐ある日、その時‐

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「ある日、その時」(27) 2013年 3月7日ー

<掲載内容>

354. 恐れ入谷の鬼子母神  <番外日誌>2013312   355. 齢人(よわいびと)の迷走と暴走  <番外私設掲示板>2013326  356.衆院選の「無効判決」(広島高裁) 357.再び「策士策に溺れる」 358.「竹光」と「本身」359.顔 360.傀儡師(くぐつし)の・・・政治が無頼漢の最期の拠り所では・・・361.「ぶっちゃけ」て隠されるもの<番外私設掲示板>2013612 第三の矢か第四の矢か知らぬが

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<番外私設掲示板>2013612

 「第三の矢」だか「第四の矢」だか知らぬがこんな子供騙しのようなレトリックが通用するのも「先進諸国」の間では日本だけであろう。取り巻きの有識者(官僚も含め)とやらの見識、すなわち彼らの知性、感性共に怪しく、幼稚でもある。その点では国民の意識レベルと同体化しているのであろう。彼らの手に押されて緩めに結ばれた日の丸鉢巻姿の安倍晋三が的もない矢を放っているという姿、そのような戯画が海外のマスメディアに出ていても何ら不思議ではない。もうすでに描かれているのかもしれないが、最悪なのは放たれた的のない矢の行き着く先が実は自国民ということである。また、国内で破綻をきたし今もって収束のめどの立たない不良品を海外に売りつける、商人の風上にも置けない者が経済人として能書きを垂れる。どこをどう取り上げても笑止などと言って収まるものでもない。結局、射られるのは国民自身で明日は我が身ということである。

                                                


361.「ぶっちゃけて」隠されるもの

 「ぶっちゃけ」などという言葉が枕詞のように遣われる内容についてはどうしても距離を置かざるをを得なくなる。たとえどのようなことであれ事の真相を包み隠さず告げることは容易なことではないからである。「ぶっちゃけ」などという「リズム」に乗せられて導き出される内容は大なり小なり恣意的であることから免れることは難しく、少なくとも現状の一部を辛うじて告げるだけで全体を見渡せるものとは成り難い。

 「本音」などというものも、現実的には「欲しい」「やりたい」などの欲望のテリトリー以外のものではあり得ず、「本音」の「「本体」を敷衍させ、行き着くところまで行けばいつか犯罪領域に足を踏み入れていることにもなるというのが現状でもあろう。「本音」と「建て前」を並立させ「本音」に意味を置き過ぎるのは実は危険なことでもある。「本音」は真実ではなく、単に欲望(個人、集団)に突き動かされていることの方が多いからである。

 「人間」には個々の「本音」などにはお構いなしの「建て前」というものが必要なのである。そうでないと都合の良いようにどこまでも崩れて行くのが「人間」なのである。

※ここで言う「建て前」とは「モーゼの十戒」、「戒律」、各国の「憲法」なども含まれる。これらの根本「原則」に「時代の都合」などは関係ない。日本の憲法も多くの日本人の血によって導き出されたことに変わりはない。「時代にそぐわない」などという理由で安易に手を出すべきではないということである。

                                                    2013  6/1


360. 政治が無頼漢の最期の拠り所では・・・


   傀儡師(くぐつし)の 木偶(でく)は何処へ 青天井

   傀儡(かいらい)の 主はなしや 裏鬼門

        狂い咲き 一期は夢の 木偶坊

   木偶坊 主もなしに 徘徊し

 

    呟き言も世事に追われ、囚われているとついつい五七の点描風になってくる。

   どちらにしても政(まつりごと)はもう少し頭の良い者、それなりに研究した者がやらない

       といけない。そうでないと詰まる所私利私欲の亡者達に蚕食されて国は朽ちるだけである。

                                             2013 5/8  



359.顔

 最近、のっぺりとつるんとした顔なしのような顔ばかり見ているせいかクリント・イーストウッドのような「年輪」として確実に刻み込まれた皺を持つ顔を見るとほっとする。実際、今でも現役で監督、俳優として活躍しているイーストウッドの顔は実にいい顔をしている。残念ながら日本ではこのような人物に出会うことは稀になってしまった。それは常に「肝心な『もの』、『こと』」(「避けて通れない問題」、「根幹を成す問題」など)を真正面から見据えることなく回避し続け、回帰なき遁走に身を委ねるしか生きる術を持たぬ脆弱な者達が多くなったからともいえる。「抵抗感」のないその軽さは「洗練されたもの」とはまったく似ても似つかいもので、内容的には空疎で、あらゆることに関して「のっぺりとした」「つるんとした」ままである。これでは顔に年輪が刻まれることはあるまい。おそらく彼らには個的にも社会的にも歴史は存在しないのであろう。たとえ存在したにしてもいつでも消せる可逆的なものとしてしか映っていないのではないかとさえ思われる。それに加えてまた世の異常なまでのアンチエイジングと健康志向である。肌はつるつるで、のっぺりつるんとした顔はさらに磨きがかかるが果たしてその内情はとつい意地悪く聞きたくなってしまうのである。のっぺりつるんとした「表皮・表情」とは裏腹に、その内実には底知れぬ「闇」を潜ませていることが多々あるのが現状でもある。やはりそのような「表皮・表情」を形成すること自体が不自然なのであろう。自然にでき上がったと思われる「のっぺりとつるんとした」「表皮・表情」でさえ実は偽装で、内に潜む持て余し気味の「闇」の隠れ蓑としていつとはなしに形作られたものと言った方が適切なのかもしれない。「年輪」として確実に刻み込まれた皺を持つイーストウッドの顔にはそのような不自然さはなく、つい「御身もまた人間か」という思いが湧き上がってくるが、のっぺりとつるんとした顔を持つ者から湧き上がる思いは何もない。一方は「闇」を直視してきた大人の人間の顔であり、もう一方はガス状の「闇」をいつまでも際限もなく内にため込んでいる未成熟な人間の顔だからである。その分岐点はすでに明らかであろう。できれば、ため込んだガス状の「闇」の膨張が臨界点に達する前に自らの状態に気づくべきである。それは「ガス抜き」などという単純作業のレベルの話ではない。言ってみれば「肝心な『こと』、『もの』」は決して回避しない外さないというスタンスの問題でもあるが、それは自らが危険な状態に陥ることを避けるためにも必要なことである。

 

                                                                       2013   5/7


358. 「竹光」と「本身」


 現在の日本の文化レベルは総じて「竹光」文化と言ってもよいであろう。指をこすり付けても切れない「竹光」に慣れたものには「本身」が触れただけで血が出てくることさえ感受できなくなっていくものらしい。「本身」の存在を明確に捉え切れずに、避けるように「竹光」に偏向していくことはどのように意味づけされても精神の「退行」、「衰退」、の証左にしかならないだろう。「竹光」は似て非なるもの、似非文化がまかり通っているということは感受者自身の感受機能そのものが「汚染」、劣化して実態を正確に察知できなくなっていることを意味する。

 身近なところを一瞥しても、実態は「メディア幇間」としか言いようのない者達が「ジャーナリスト」、「ディレクター」、「大学教授」等々という肩書で「もっともらしいご開陳」をしているのが日常茶飯事である。彼らに共通している点は「機を見るに敏」というより機を見て逃げるに敏といった方が具体的で適切であろう。彼らの自らの言動に対する責任感は皆無と言ってもよく、その気にさせられた者だけが陥穽に堕ちることになる。もちろん、一方にはそのような「共通項」とはまったく無縁の「真剣」の諸氏達もいることは付け加えておく。。

 「竹光」は文化だけにはとどまらない、日本の民主主義も「竹光」であったことがこの間の経緯で改めて証明された。それは完膚なきまでに露呈されたといってもいい。最近の経済政策にしても敢えて識者に聞くまでもなく、「深読み」するものが馬鹿を見るという典型で、そのあまりのお粗末さは不気味でさえある。それに呼応したというわけでもあるまいが、昨今の東大の入学式での学長の言「死にもの狂いで勉強しろ」は言近くして意遠しの感がある。「普通」に見ていればこのままでは「日本沈没」も目と鼻の先という危機感を持たざるを得なくなるのである。

 とにもかくにも、「本物」を知らず、知ろうともぜずいつまでも「竹光」志向の状態のままでいることを本人以上に喜ぶ者達とはご存じのとおり「由らしむべし、知らしむべからず」を肝に銘じている者達のことである。それは何をしようが痛くも痒くもなく彼らの掌の中にいてくれるからである。

                                                   2013 4/24

追記:日本の文化は今や「まんが、アニメ文化」とAKBというのが中心的且つ象徴的なことのようである。今更ながら何をか言わんやなのであるが、これで「のっぺり、つるん」とした顔の形成過程とその関わり方も合点が行く。明確な自己認識もなされぬまま突き進むことが、あるいはそれを故意に回避して時間に身を委ねることがどれ程の危険を内包し増殖させるかは歴史のみならず様々な分野でも明らかにされていることである。

                                                         (5/14)  


357.再び「 策士策に溺れる」


 「策士策に溺れる」とは策に頼り過ぎて自滅するという程の意味合いであるが、策を弄している内に自らその策にはまり身動きつかなくなることも意味する。あらゆることに関してこれだけ「嘘」が平然と日常化されてくると「謀略史観」などというオメデタイ名称など持ち出さなくとも現実的に行われている「策」などと称されるものの多くが実は人が人に仕掛ける「罠」という以上の意味を持ちにくくなってくる。「一般人」などとして括られる領域は言ってみればマインドコントロールされていることすら気が付かない人々の囲われた「安住の領域」でもある。すでにマインドロールされている人間がその自己認識もなくマインドコントロールについて云々するなどは滑稽でもあり、話がさらにややこしくなってくる。「罠」にかかっている者がそれに気が付きもせず「罠」について「健全」に語るという現状、人が人に仕掛ける「罠」とは巧妙であればあるほど実体的には捉えがたく時間と共に常に変質し続けるのでいつか自らも明確に捉え切れなくなりなり、その結果自分の仕掛けた「罠」に自分自身がはまっているということが起こる。それが「策士策に溺れる」ということのある面の実情でもあろう。

 日本人に一番欠けているのが明解さと論理性というのはよく言われることでもあるが、今でも変わることがない。だから、「はっきり言う」者に憧れはするが自らそうなろうとはしない。馬鹿をみる、割に合わない正直者にはなりたくないのである。しかし、誰もが賢しらな顔で黙っていては半歩たりとも前には進めまい。敢えて馬鹿をみる、自分自身で考える者が何人出てくるかで今後もまた決まってくるだろう。「賢しらな顔」とは一応に押し付けられた仮面である。「深読み」を弄するのも観念の罠である。「お仕着せの賢さ」、それはすでに「罠」に堕ちている証左でしかないということである。

明日は4月1日、エイプリルフール、今となってはこの日ばかりは嘘をつかない日にした方がよかろう。

                                                       2013 3/31

追記:官僚の役割が「国民を騒がせない」ことにあるなら言葉巧みに「深読み」を弄させるのも、「お仕着せの賢さ」を浸透させるのもその務めである。そしてそれを吹聴するのがご存知大手マスメディアと似非学者、似非識者、文化人などの有名似非集団である。今や「プロ」などという言葉がどこか空々しく、ニセモノの代名詞の感さえあるのも当然といえば当然のことであろう。風に吹かれて時折耳に入る風鈴の音などに興を感じて何かあるがごとくに思うことなども「深読み」、「お仕着せの賢さ」に棹さすことにしかならないのが現状である。


356.衆院選の「無効判決」(広島高裁)


 1票の格差是正に関して今までの区割りを見直す時間もなく違憲状態のまま行われた衆院選が無効であるとの判決が出た。この件に関しては私も2012年12月18日付のブログで抗議も含め書いているが、最高裁で「違憲・無効」が確定すれば選挙はやり直しになり、今までに採決されたものも無効となる。憲法違反で選ばれた者が改憲を説き、法律を定めるなどとは国家の体を成していないどころかそれこそ「無法者国家」であろう。これで最高裁が司法の独立を守れないようではこの国もほんとうに救いようがないところまできている。

                                              2013  3/26


<番外私設掲示版>2013326

「安倍飲薬(アベノミクス)」と「T(è)P(et)P(et)」 :mateのつもりでcheckmateされる。すなわちfool's mate. さもなければfoolocracy.


355.齢人(よわいびと)の迷走と暴走


 有名無名問わず齢人の迷走と暴走は昨今よく見聞するところであるが今後ますます増え続けることであろう。世間に名前の通っている者達の暴走は時に体よく冒険などと置き換えられたりもするがよく見ればその御仁のもともとの「作り」そのものからくる必然的帰結という場合がほとんどである。いつか迷走、暴走を余儀なくされる根幹部分の脆弱さ、すなわち思想的「核」の不在によってもたらされるものといえる。それは死を目前にしてさらに増幅される。資本主義経済体制の中で常に他者を利用して自己を複製させる「構造体」としてしか生きることができなくなってしまった者達の終焉。すなわち「核」を持った細胞の統合体としては存在しえないウィルス的模造人間の終末を見る思いがする。

                                                 2013 3/16


<番外日誌>2013312

「富裕層」とは自分だけが「幸せ」では飽き足らず、さらに他人が「不幸せ」であることが必要なのである。

                                                    2013 3/12

Possessions jalouses de bonheur !   幸福の嫉妬深い独占!


354. 恐れ入谷の鬼子母神


 「先進諸国」といわれている国では起こり得ないことが起こるのが日本でもある。一国の中心的為政者が、糖尿病性腎症によるネフローゼ症状を起こしているのではないかと思われるような場合でもお構いなしなのである。言い換えれば傀儡になり得る者であれば、健康面で問題があっても操る側にはさしたる問題にはならない。巷で騒がれているいかがわしい「経済政策」にしても「経済原論」あたりをしっかり勉強している経済学部の学生にとっては失笑の対象となるレベルではないのか。80年バブル経済に浮かれている時にもまともな視点を持つ者にはその破綻はすでに見えていた。今回も同様であろう。それにしても総じてメディアは欲ボケした感想しか持てぬと見えて見聞に堪えるものではない。しかし、飽きもせず四六時中流されているラジオ、テレビにつぎ込まれてる政府バックアップの指示資金は相当なものであろうことは推測できる。

 今まさに米国に捨てられかけている大年増の妾の狂乱を見ているようである。「20世紀で最も完璧な人間」と言われた人間が半世紀以上も前に発した「なぜ日本はアメリカの言いなりになっているのか」という単純明快な問いかけは今尚生きている。それにまともに対峙することもなく己を知らぬ「イエローモンキー」(西欧社会の一般的前意識)は我が身を顧みる間もなく恥も外聞もなく米国にすべてを明け渡し、隷属しながら富だけを目指してきた。その結果が現在であるにも拘わらずさらにまた「ご主人様」の機嫌を損ねてはならぬとばかりにその「貢ぎ物」のことしか頭にない。これには恐れ入谷の鬼子母神もひっくり返っていることであろう。そこにまた最近再び勃興しているカルトの類が入り込むから堪ったものではない。今カルトが至る所で蔓延するのも当然なことで、それもすべてにおいて経済活動最優先で突き進んできた弊害、これも一種のカルトとも言い得るであろうが、それ自体が精神的脆弱性を自ずと引き寄せるのである。本人は辛うじて逃げ切ったにしてもその影響を受けた家族がいつかまた違った形態のカルトに絡め取られることになるのも頷ける。日本はカルトの天国である。実際に大、中、小その数は数え上げたらきりがない程である。因みに日本では公に認められたかのような政治的にも影響力のある宗教団体などもフランスなどではカルトに分類される。内容、形態、成り立ちから見てもそれは当然であろう。況や後は推して知るべしなのである。なぜそのようなことになるのか、それはそれに対抗し得る強靭な宗教思想、倫理がほんとうのところで根付かず、生きていないからである(その原因について述べるとまた長くなるのでここでは避けるが)。現在、多くの日本人にとって「宗教」は実質的には現生ご利益を願う対象か、人の不幸や死をきっかけに入り込む心の「乱れ」を癒し封じ込める「もの」としか映っていない。それが経済「カルト」の中で「最終ビジネス」としていとも容易く形成されてしまうのである。それは変幻自在に形だけを変える「ネズミ講」のようにカルトに入り込む隙を与える。そのような状況下では幻術、妖術の類の「麻薬的効用」ばかりが中心となり、本来的に明解な哲理にも対応できる領域を持ち得る「宗教」に接することはほとんど不可能になってくる。日々を律する「規範」、それは宗教思想のカテゴリーでもある。日々を離れて、日々の実践を離れて「宗教思想」は存在せず、息衝くこともない。日々「無反省」に嘘ばかりつき、いがみ合い争っているっている人間が「私は仏教徒」であると言ったところで実のところそれは何の意味も成さないのと同様である。日本では「非仏教徒」と言おうが、「無神論」と言ってみてもそこには何の「葛藤」も「抵抗」もなく、言っても言わなくても内容の深化は望むべくもなく、むしろその方が「普通」であると思われている。それが実は世界レベルでは「普通」ではないのである。そのような社会からはたとえ一部であろうと「神に捧げる身を富だけに捧げる訳にはいかない」とさりげなく人々のために行動を起こす者などは現れようはずもない。日本の富裕層が拝金教のごとくに最後まで金計算だけに執着し、税金対策以外の領域では慈善事業、救済活動、芸術活動援助にほとんど興味を示さないのもすべての「展開過程」そのもの中に西欧社会と根本的な質的相違があるからである。喜怒哀楽ですら共振領域がある程度重なり得るというだけで実は質的相違、特に「深み」に違いがあるというのも当然といえば当然なことなのである。

 数行のつもりがまた長くなってしまった。「恐れ入谷の鬼子母神」と何気なくでた言葉に鬼子母神の忿怒の相が取りついたのか、限りもないのでここまでとしよう。

                                                 2013 3/7

「ある日、その時」 (26) 2013年1月6日ー

<掲載内容>

346.「トモダチ作戦」で米兵が集団訴訟 347.運と才能とは全く無関係 348.「充実人生」、「老後の楽しみ」?? 349.ホスピス殺人事件 350.塀の外の懲りない面々351.愚直を装う策士達 352.今 神社の神木を切り倒すメンタリティとは 353.最近の取材で改めて感じたこと

 

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353.最近の取材で改めて感じたこと


 やはり「蟹工船」などの本に老若男女が共感する理由がよくわかったということである。特にいつのまにか追い込まれやむなく就いた職業などには端的になおかつ露骨にそれが現れている。「蟹工船」当時よりさらに巧妙になっているだけにより陰湿でもある。社会的格差と共に否応なく入り込む「差別」意識が「底辺」で働くもの者達の中にも巣くい渦巻き隙あらば「目くそ鼻くそを笑う」がごとくの様相はさり気なく飽きもせず繰り返されている。しかし、ここで人間のメンタリティはいつになっても変わるものではないなどと半ば諦観気味に繰り言を並べ立てるつもりはない。むしろメンタリティは止まるところも知らず衰退・後退し続けていると見る方が妥当であろう。それは時折、目に入ってくる「ツブヤキ」のやり取りなどからも窺い知ることができる。そこに散見されるのはあまりにも無残な残骸という他ないメンタリティの構成因子そのものから来る想像力の貧困さである。金もなく、安酒と質の悪い脂肪で肥え太り、その上精神も貧困では「勝負所」はまったくなく閉ざされてはいるが、現状の貧困層の昼食時間もない残業ばかりのような職場では思考能力は自ずと低下するのは当然で、そこから発せられる「ツブヤキ」などもヘド同然にならざるを得ないのも納得できる。現状は敢えて愚民政策などを講じる必要もなく愚民化の方向ですべてが機能しているのである。しかし、愚民化路線で自ずと生み出された「兵士」などに一兵たりとも有能な「兵士」は存在しない。現在、低所得者層に限らずかなり広範囲な層のサンプリングの検証でも「衰退」、「後退」などがキーワードにしかならない。将来のことはすでに現在の内にあるとすれば楽観的な見解のすべては飽くまで主観、個人的な希望的観測としか言いようのないものに過ぎないと思われる。

                                                2013 2/22

 


352. 今、神社の神木を切り倒すメンタリティとは


 神社にある神木といわれるヒノキの大木の幹に穴を開け除草剤を注入して枯らし、切り倒す口実をつくり伐採する。とうとうここまできたのである。それはある意味で日本で現在進行中のすべての象徴ともいえる。これは、需要があればたとえ違法であってもその需要を充たすために供給手段を選ばないという倫理の欠如した終末資本主義経済の日常茶飯事に過ぎないかもしれぬが、もはや単にそれだけに止まらないところまできている。今、これだけ世界的に自然環境の問題がでてきている時に、日本でそれも神社の神木にまで手を出すメンタリティとは完全にある一線を越えてしまったということでもある。経済最優先の「再興」の名の下に隙あらば後始末もできない原発の全国的な再稼働を目論み、そして必要とあらば人間の何世代分の100年単位の樹木を次々と切り倒す。倫理なき資本主義経済の根幹でもある「後は野となれ山となれ」をそのままに突き進んでいるのである。もしこのような現状を伏せる方向で語られる「将来」や「夢」があるとすれば、それはどのようなものであれ崖っぷちで目くらましをくらわせているようなものである。私は必要以上に「日本人」を強調する「派」には与しないが、そのあまりのノウテンキな精神的荒廃に驚かざるを得ないのである。これではやはり何が起こっても不思議ではあるまい。日本列島そのものが外敵を想定する以前に現実的に自滅の危機に瀕しているのである。

                                                 2013 2/5


351.愚直を装う策士達


 策士、ペテン師の類は例外なく人たらしであるということはAはAであると言っている以上の内容ではないが、口先だけで丸め込まれる者とは余程浮世離れしたものか、欲などに「目のくらんだ」者、痴れ者だけであろう。そうではない者達が騙される場合は口先だけではない「愚直さ」が巧妙に入り込んでいる。それは同情の対象でもあり、それを否定すること自体に罪悪感を感じてしまうものである。同時に相手に対して「愚直さ」を感じ始めると「ヒトがいい」、「裏表がない」、「一途なヒト」などということでその人間がどのようなことを言おうがその「人間性」そのものを受け入れざるを得なくなり肝心なことに関しては「眼がくらんで」しまう傾向がある。しかし、「人間性」などということも実際にはあって無きに等しいものである。言葉尻をとらえて茶化すつもりはないが「裏表がない」人間などが具体的にいたとしたらそれは「化け物」であろう。少なくとも四次元世界では到底成立不可能である。それは水木しげるですら描きようがない「妖怪」でもある。もし「裏表がない」という「こと」が現実可能態としてあり得るならそれは唯一、真実を語ろうとする者、志向する者の中にしか存在し得ない。「ヒトがいい」、「一途なヒト」なども実質的にまったく無意味な言葉で、そのような不明な言葉は実に多い。そして、死語、美辞麗句、ホンネと称する卑小な欲望の共有、露悪趣味の羅列、そのようなやり取りに一体どんな意味があるのか私には分からない。ただ、そこには「幻想」、「幻影」以外の何ものもないことだけは確実なのである。

                                                        2013 2/2


350. 塀の外の懲りない面々


 塀の中の懲りない面々とは、それ以外に生きようが残されていない、選択肢の少ない何とも「仕方のない」人々の群れともいえるが、一方の塀の外ではいくらでも選択肢があるにも拘らず敢えて自ら自由を放棄して選択肢の領域を狭めている人々もいる。俗に「亡者」と言われる人々、これはもう病膏盲に入りで手の付けようもなくおそらく死んでも治らないと思われる、縁なき衆生度し難しといわれるような類の面々でもある。何ものかに取りつかれた人間というものはよりよく展開するする領域を自ら閉ざしている者とも言える。彼らに「取りついている本体」そのものとはこれ以上分かりやすいものはないくらいに分かりやすい。すなわち倦むことのない欲望ということに尽きるのである。その欲望に関しては多くの者は同調し易いがその規模は「大衆」と「富裕層」の間には雲泥の開きがあり、その差は決して縮まることもない。大衆がそのようなことに同調すればするほど「富裕層」との格差が大きくなるという仕組みになっているからである。「金」、「権力」、種々雑多な固有の「欲望」に取りつかれた「善悪」の区別もできなくなった不自由な人々、それが塀の外の懲りない面々の実態でもあるが、彼らを「素っ裸」にすると実にその虚飾に満ちた「恰好」に反して例外なく「貧相」なものである。

 ここでいう「富裕層」とは数億数十億円程度の資産家、秒速で1億円を稼ぐ等々のいつ塀の中に入ってもおかしくない面々などは対象外で、そのような人々とは及びもつかない桁違いな「層」のことである。日本ではおそらく100万人もいないであろうが、諸外国ではそれすら「富裕層」の埒外である。

 いつか、忍び返しのついた塀に囲まれた豪邸の前を通り過ぎる夫婦の会話から「どんな悪いことをしたらこんな家に住めるのかしらね」という呟きが漏れ聞こえた。確かに「まともな」生き方では巨万の富は蓄積できない。もし、「まとも」であることが「無能」の証なら喜んで私は「無能」な生き方をする。埒もない「何ものか」に振り回され四六時中「取りつかれている」状態で生きるのは性に合わないからである。

                                                   2013  1/30

 


349.ホスピス殺人事件


 昨年12月5日、介護福祉士・入沢亜加音(21歳)はホスピスに入所中の老女(当時85歳)のベッドに火をつけ殺害した。以前にも国の福祉行政につては介護職員の問題も含め取り上げたことがあるが、今後もこのような事件は後を絶たないことは容易に想像がつく。最近では、昨年の12月3日にこの問題についてブログで取り上げたが、煎じ詰めれば両者(容疑者と被害者)とも弱者を排除する脆弱な社会構造から必然的に生み出された痛々しい犠牲者ということになる。ベテランの介護職員でさえ自らの精神衛生管理は難しい世界である。若い介護職員が資格を取ったからといって仕事を維持できるとは到底思えない。介護業界は慢性求人難、人手不足である。雇い主も何か問題の起こることを恐れて経験年数、上級資格を要求するなどハードルを高くするが賃金の方は頭打ちでどのようにフル活動しても賃金は上がりようがないのである。これでは成り手は減少するばかりで質の向上など望むべくもない。福祉などという美名の下に善意とスキルアップ(自前)ばかりが要求されるが、そこにはワーキングプアがひしめき合っているというのが現状である。雇い主の方も他業種からの参入も多く、福祉業界とはまったく無関係な居酒屋、警備会社、不動産、塾経営者などをやっていた者達が「これからは福祉だ」とばかりに経営に乗り出してきたのが現在の高齢者施設の実情でもある。当然、雇用者側の多くも単にそれだけの「乗り」でこの世界に入った者も多いが、やはりその後の展開もままならずまた転職を余儀なくされる雇用者も続出する。就業後、1,2日で辞める者、神経症を発症する者などの事例は枚挙に暇がない。肝心の国のやっていることといえば美辞麗句に反して目先の経費削減のための小細工ばかりではあまりにも無策な施政としか言いようがあるまい。「桐一葉落ちて天下の秋を知る」ではないが、衰退の兆しは至る所に出ているというのが偽らざる日本の現状である。寂びれた街に「2020年東京オリンピックーーー夢の力が必要だー」という旗が凍てついていた。多くの弱者を切り捨てて見る夢などにどれだけの意味があるのか。おめでたさもここに極まれりである。

                                                  2013 1/18 


348.「充実人生」、「老後の楽しみ」??


 今日できなかったことは明日もできない。時間ができたら、余裕ができたら、いつかしようとなどと思っていることは一生できないものである。たとえその機会が与えられても時間の経過がもたらしたものに立ち向かえるほど人間は強くもなく、能力もない。「充実人生」などと訳の分かったような分からないような言葉の指示内容がどれほどのものかは知らぬが、「知足」すなわち「足るを知る者は富む」ということであれば何もお題目のように唱える内容でもあるまい。また「老後の楽しみ」などという発想そのものも後ろ向きで、楽しみそのものを敢えて終焉の楽しみとして位置付けているようなものである。それでは何をやってもいわゆる抹香臭さは払拭できまい、と言うよりほんとうの「楽しみ」ということが分かっていないのではないかとさえ思われる。

 現状の日本の負の問題に関しても「団塊の世代」は大きく関わっている。にも拘わらず「団塊の世代」といわれる人々が自分だけの老後の確保と楽しみだけにしか余念がないというのも情けないことである。個人の意識の持ちようなどとは関係なく各自は否応なく時代の責任を背負わされているからである。自分のことしか考えない「大人」からはやはり自分のことしか考えない子供しか育たないのは当然といえば当然のことである。子は親の鏡とはよく言ったもので、次世代に都合のいい期待などは持たぬ方が身のためである。そして、ほんとうの意味で人生の「楽しみ」というものはすでに今までの生き方の中で育まれ見い出されるものであって改めて老後に発生する「楽しみ」などは存在しない。本を読み始めたからと言ってところで賢くなるとは限らず、情報、知識を得て「もの」が見えるようになる者も限られている。また年を取ったからといって急に読み取れる知恵など身につくものでもない。そもそも人の「生き死に」が生命保険会社の類が提示する人生プランに沿って展開するのであれば、哲学も宗教も必要ないのである。すべてのもくろみは向こうから外れるというのが世の常でもある。

                                                      2013 1/12


347.運と才能は全く無関係


 以前、今は亡き著名な演技派のベテラン女優と話していて、彼女は「雨の日に出てきたものと、天気の日に出てきたものとは違う」というようなことを言ったことがあった。誰が言い出したかは知らぬが「運を引き寄せるのも才能の内」などとしたり顔で言っている者には単に自分が運がいいだけであることを知らないのである。さもなくば傲慢である。どのような分野でもその時代であれば認められなかったものがある時代には承認されることなどはよくあることである。自分の誕生時期を選ぶことはできない。ただ時の差異しか見いだせない同質の内容がある時期には認められ、ある時期には認められないとしたらそこにあるのは運、不運しかあるまい。同等の才能を持ったものでもベテラン女優の言うとおり雨の日に出てきたものと、天気の日に出てきたものとは自ずとその在り方、質も違ってくるのである。運は才能の内ではないのである。運は自分自身ではどうにもならない,才能などという領域とはまったく別のところで予測不可能な自然現象のように動いている。雨の日を天気に変えるなどは呪術師か詐欺師の類でもない限り不可能である。また、雨の日に開花する才能は天気の日には開花しにくいこともよくあることで、その逆もまた真である。だからといってそれを俗流運命論などで割り切るつもりも割り切れるとも思っていない。そこから先は自らの生き方の根幹部分に抵触する思想が選び取ったスタンスの問題になってくる。

                                                   2013  1/7


346.「トモダチ作戦」で米兵が集団訴訟


 これもまた当然過ぎる程当然な行為であろう。そして、こういう形でしかほんんとうのところ切り込めないのが日本の実情でもある。彼らに自国民と同様の巧妙な隠ぺい工作は通用しない。彼らは3・11以降の正確な放射能データーを米軍当局、若しくは関連筋jから手に入れているはずである。そしてそれをどこまで知っていて東電・政府が隠ぺいしたかが問題となるのは当然であろう。その当時東電・政府が正確な発表をしなかったこと、結果的に事実を隠ぺいしたのは明らかなことで、それは今では国内でも周知の事実でもあろう。しかし、肝心なのはそこから先の行為、それをどうするかなのであるが、国内の動きは鈍い。原発事故当初、日本国内では「放射能は笑っている人には影響ありません」などといった世界の失笑ものがまことしやかにまかり通っていたのである。「ストロンチュウムは飲んでも大丈夫」などといっていたマッドサイエンティスト、すなわち「ジョカー」のような原発学者が平然と授業を行っていたのも目にした。その他の有象無象の金で買われた「学者」、「評論家」、「文化人」と称される者達の虚言も枚挙に暇がなかった。つくづく恐ろしい国だと思ったものである。どちらにしても誠実に関わろうとする者がまともに生活できなような国はろくでもない国なのである。さらに人々の意識面、社会の構造面から見てもその自浄作用が機能しないような社会ではこのような「外科的手法」も必要であろう。それは問題点を冷徹な論理しか通用しない世界に白日の下に引きずり出すことでもある。そこでは土下座の謝罪も懇願も何の意味もなさない。残念ながらこの国は海外からのこのような訴訟が先兵としかなり得ない国なのである。

                                                2013 1/6

 


 

「ある日、その時」 (25) 2012年11月23日ー

<掲載>

337. 武器商人たちと, そして・・・ 338. 愚かしい試論、三島由紀夫と安倍晋三 339. 介護職の実態 340. 北朝鮮のミサイル騒ぎは出来過ぎたシナリオ 341.世論調査の実態 342.もはや何をか言わんやである。343.今回の衆議院選挙は憲法違反で無効 344.狐につままれたような最高裁栽判官国民審査 345. 全原発で地下構造の調査!?

                                              (転載・複製厳禁)



345.全原発で地下構造の調査!?


 今頃になって全原発で地下構造の調査とは何から何までただあきれるばかりである。以前にも書いたが周知のとおり日本は地震大国でもある。小さな地震大国が原発大国を目指すことは国土そのものの壊滅と世界の人体実験場と化す危険を併せ持つことになる。そのことについてはアメリカ、フランスの原発の位置、国土面積、地震発生率、原発事故に対する姿勢・対処などを検証しても明らかなことである。実質的に原発事故に対しては「お手上げ状態」で後始末もできない上に、どこで地震が起きても不思議ではないのが日本である。「美しい国」はいつでも「死地」と化すのである。「地下構造」などは容易に知り得るだろうが地下のエネルギーの流動、変動などをどのように察知するのか。「地下構造」を知ったからといって地震に対する実効的な対応策にはならないのは現在までの経緯そのものが如実に物語っている。況や「地下構造」、予想される災害規模などを知っていても「手抜き」が発覚している現状では何を言ってもその信用に値するものとはなり得ないだろう。またその責任の所在も明確にならないようになっているからさらに質が悪い。美味しい汁だけ吸いつくし後は野となれ山となれという資本主義構造の最悪パターンを地で行く恥も外聞もない行為はもういい加減避けなければ将来に残すのは日本人の愚かさだけということに成りかねない。

 世界に通用する自国の類まれな技を捨てさせ、「景気対策」という実態なき無策に「国民」を翻弄する者達、その姿の影さえも感知し得ぬとしたらそれは単なる衆愚であろう。

                                                2012 12/28


344.狐につままれたような最高裁裁判官国民審査


 ほとんどの国民にとって、事前に配られた「最高裁国民審査公報」だけをを読んで審査の根拠をつかむことはできないのが実情であろう。さらに日本の最高裁裁判官は内閣が決め、米国のような国会(上院)の同意を必要としない仕組みになっているので公聴会などが開かれることもなく、裁判官自身の実態が見えにくくなっているのである。言ってみれば実質的な隠ぺい構造である。この隠ぺい構造に関しては日本ほど巧みな多種多様な小技を持っている国はないと思っているが、この最高裁裁判官国民審査も同様である。結局のところ審査判断の根拠となる事に関しては、「民は之に「由(よ)らしむべし、之を知らしむべからず」なのである。その挙句「わからない」といって投票用紙を白紙で出せばそれがそのまま信任票となるのである。「分からなければそのまま入れて下さい」と「誘導」する選管スタッフもいるという。これでは戦後、国民審査で罷免された裁判官はいないというのも頷ける。

※国民の取るべき具体的姿勢、考え方については、ジャーナリスト・江川詔子氏のサイト「最高裁裁判官の国民審査をどうする?」(2012年12月14日)を参照されたい。

                                                                2012 12/21


Les élections  législatives sont contraire à la Constitution.

343. 今回の衆議院選挙は憲法違反で無効


 最高裁が「違憲状態」とした一票の格差を生む選挙方式が廃止され、新たな選挙制度改革法が衆議院解散の11月16日に成立した。「しかし、今までの区割りを見直す時間もなく、衆院選は違憲状態のまま行われ、最大格差も2.43倍に拡大した。」 これは明らかに憲法違反で、憲法違反のままなされた選挙が無効であるのは当然である。新たな選挙制度改革法成立の前に旧選挙方式で有利に衆院選を済ませておきたかった候補者も多かったであろう。11月16日を衆議院解散としたのも、いかに「政治的」駆け引きが切迫したものであったかを物語るものでもある。できれば新選挙法制度改革法成立の前に衆院選を片付けておきたかったのであろうが、それもできないまま新選挙制度改革法が成立しているにも拘わらず「区割りを見直す時間がない」などということを口実に最高裁が「違憲状態」とした選挙方式で強引に選挙戦に入り、選挙そのものを既成事実化しようとした。その結果、「違憲」とされた選挙方式で選ばれた議員が法律を作り、国を動かすことになるのである。憲法違反を事もなげに行う民主主義国家が一体どこに存在するのか、言語道断であろう。これでは言葉通りの「無法者国家」で、こんなことは到底を許されることではない。今回の衆議院選挙は無効であるというのが正当な見解である。

                    

※12月17日、二つの弁護士グループ(代理人・升永英俊弁護士)が選挙無効を求めて一斉提訴                                                    

                                                        2012 12/18

                                                         12/19 追加

                                         


342. もはや何をか言わんやである


 こういう事態は予想はされていたが投票率、各党の得票数を見ると改めて絶句しざるを得ない。これが「大衆」というものの実態であるとは何度も思い知らされてはいたが、この危機的重要な転換期にこの結果である。日本の「大衆」の特異性ということがまた浮かび上がってくる。それは,それ自体が論理的検証対象にはなりにくいDNAレベルに埋め込まれたといってもいいもので、常に何者かが何とかしてくれるという主体性、論理的思考の欠如である。

 どちらにしても、これで消費税増税は確定なのである。これは国民が消費税増税を確定させたということでもある。そして、原発再稼働、米製「自主」憲法制定、TPP等々。今頃は官僚、財界などの面々が祝杯を上げていることであろう。 国民はまんまと彼らの手中に収まったのである。

 もはや何をか言わんやである。

                                                  2012 12/17


341.世論調査の実態


 実際に世論調査を受けた知人の報告など基にその実態について具体的に述べることにする。その知人は朝日新聞の世論調査を受けたが、「読売」、「毎日」なども大同小異であろう。

 その知人のところに何度か朝日新聞の世論調査の電話がかかってきてその度に忙しということで断ったが、あまりしつこいので4回目には質問に応じたらしい。総じて調査姿勢の横柄さは否めないものがあり、質問の内容も矮小化した選択肢ばかりでどちらを選ぶかという問題ではないようなものが多かったそうだ。やはりその流れは誘導尋問に近く、その結果で推定できる範囲には限界があるというより都合のいい方向に結論付けることはいくらでも可能であるということである。当然、そこから割り出されたまことしやかな数値の蓋然性はかなり怪しいものとなる。「調査」終了時、電話口で担当者は「この結果は〇月〇日の朝日新聞に載ります」と言ったそうだ。事程左様にこの国の世論調査は海外では非公式レベルのものが公式レベルとして平然と行われているのである。そもそも詳細な世論調査にはかなりの費用がかかり頻繁に行えるものではないのである。専門の調査機関に依頼するのが本来の世論調査で新聞社が行うものではない。特に日本のようにとてもジャーナリズムとは言えない政府広報紙のようなところが世論調査したところでその信憑性はほとんどあるまい。頻繁に行う世論調査がおざなり調査となることは避けられず、またそれはどのようにも手加減できる世論調査と見るべきなのである。

 知人のところに世論調査の電話がかかってきたのは平日の9:30、14:00、19:30、20:30の計4回である。

                                                  2012 12/12


340. 北朝鮮のミサイル騒ぎは出来過ぎたシナリオ


 北朝鮮がほんとうに「その気」になってミサイル発射を考えているのならほんとうに愚かな国と言わざるをえない。それこそ米国の思うつぼであるからである。これは、米国にとっては結果的に不本意なものになってしまった日本の「平和憲法」を「自主憲法」の制定という名の下に米国に都合のいい内容に変えさせる絶好の機会でもある。安倍晋三の動きに合わせたような北朝鮮のミサイル騒ぎ、そのすべての流れがあまりに出来過ぎているのである。北朝鮮と米国との間に「ある取引」が成立しているようにさえ思える。実際にそうであっても何の不思議もない、それが政治戦略というものである。そこで一番割に合わないことになるのが99%の日本の国民自身であるということは敢えて言う必要もあるまい。安倍晋三、石原慎太郎、ノダ何某などはいかなることをどのように言ってみても国民の側にはいないということを再確認しておく必要がある。彼らには国民のことなど徹頭徹尾眼中にない。このような者達が治める国は衰退の一途をたどるだけというのが古今東西変わることがない必然的流れでもある。

                                                    2012 12 /8


339.介護職の実態


 「なぜ介護職を選んだか?」という質問で、ある若者は「他に採用してくれるところがなかったから」と素直な答えをしていた。そして、ベテランの介護福祉士でも「できればこんな仕事は絶対にしたくない。」とも言っていた。中には「思う所」があり介護の仕事選んでやっている者もいたが実際にはほとんど長続きはしない。それでも続いている者とはどこかでその仕事が「性に合っている」者か、能力的にも容貌においても他の仕事では通用しないだろうと思われる者が多い。中高年の介護従事者も身内の介護などの延長でこの仕事に就いてしまったというごく自然な流れを持つ者いるが、やはり他に仕事がなくなってしまったという者も多いのがその実情である。

 総じて、技術面は別にして若い介護職員の精神的、知的レベルは低い。それでも素直な誠実なものがあればある程度いい仕事もできるだろうが、実際には中学、あるいは高校卒業した程度で要領だけは叩き込まれ精神的には未成熟なままあるポジションに就くようになると、観察力もなく普通の対応もできないまま運動部のノリで新人ヘルパーを叩くようになる。それもようやく仕事に就いた他に行き場所がなくなったような中高年に向かってはより一層強くなる傾向がある。安い賃金でクライアントのクレームは受け、上からは理不尽に叩かれるではいい仕事はできまい。この現象は介護と言うより高齢者の適当な時間つぶしと言った方が適切なデイサービスなどの施設に顕著に現れているようだ。

※デイサービスとはコンセプトが不明瞭な実態の見えにくい和製造語であるが、要するに託児所ならぬ託老所である。

 現在、介護は民間に丸投げ状態のまま、福祉削減は巧妙に進んでいる。そのような状況で事業所同士の競争も激しくなり、クライアントは増える一方で介護職は慢性人手不足のまま益々仕事内容は粗くなっていくだろう。実際に彼らには高齢者を思いやっている時間などはないのである。だから形ばかりの、安手の演技ばかりが先行する。特に若くして介護職に就いた多くの者は高齢者に対する敬愛の情などは全くなくなるであろう。これは「職業病」などといって簡単に片付けられるものではなく、やはりその人間にとってはひとつの悲劇なのである。

                                                 2012 12/3

 <追記>介護職にまつわる美辞麗句には枚挙に暇がないが、現状はただ痛々しいだけである。余程自分自身に「核」となるものを持っていないと知らず知らずの内に肉体のみならず精神障害を引き起こすのは避けられないだろう。ある意味では、これも脆弱な社会機構を持つ国の犠牲者とも言える。


338. 愚かしい試論、三島由紀夫と安倍晋三


 これも敢えて取り上げる程の本でもなさそうなので軽く流す程度にしておく。「約束の日」小川榮太郎著のタブロイド判新聞の広告に載っている本文P197ーP198の抜粋部分だけでその全貌が見える。

 著者は、昭和45年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入した時の三島由紀夫のバルコニーでの演説を抜粋して、三島由紀夫と安倍晋三を並べるのが無茶な比較であることはいうまでもないとしながらも「安倍が、首相として挑戦した「『戦後レジーム』の『濁流』はかって、三島由紀夫が自衛隊のバルコニーでの演説中に強烈な無力感をもって対峙していた『ヤジ』の背後の、有無を言わせぬ圧倒的な力と同質のものだと思われるからだ。」という。そもそもこの二人の比較検証にどれだけの意味があるのかが問題になるが、意味があるとすれば現役の「政治家」である阿倍の人物的捏造、脚色であろうが、こうしたことはいつの時代にもあったことである。安倍が「戦後レジーム」の「濁流」に挑戦したとあるが、「戦後レジーム」とは「戦後民主主義」そのもので、その濁流とは「欺瞞性」といってもよいが、それでは安倍がいつ戦後民主主義の欺瞞性にどのような方向で「挑戦」したのか。後期の三島にはギリシャ的肉体謳歌の解放された美意識がその核にあるが、それは当然、戦後の似非民主主義の欺瞞性と真っ向から対峙しざるを得なくなる。「演説中に強烈な無力感をもって対峙していた『ヤジ』の背後の云々、この時には三島の中に無力感など微塵もなかったはずである。そんなことはすでに想定内のことでそれより彼の中では「美の完結」に向かって収斂することにすべての神経が注ぎ込まれていたと言った方が適切であろう。それは彼の描いた美的世界と現実世界との見事な融合の瞬間でもある。彼が切腹の際、腹を真一文字切り裂き、さらに腹上方に慣例どおりの寸法に切っていることからもそれは窺い知ることができる。後になって安倍が何にどう「挑戦」したかについてなどは何とでも言えることである。三島由紀夫と、いざとなれば「お腹が痛い」などと言って逃げ出す安倍晋三とではどこをどう取っても比較にはなるまい。むしろ、浮ついた形骸化した言葉に酔う、義のない者を嫌った三島とは対極にいるのが安倍である。さらに言えば、三島が対峙した「ヤジ」の背後に存在したとされる「圧倒的な力」と安倍そのものは同質である。

 これは憲法改正(9条)に漕ぎ着けるための布石でもあろう。自主憲法の制定とは聞こえはいいが、それは米国のかねてからの要請でもあり、米国によって押し付けられ、今度は米国の都合で改正されようとしているというのがその実情であろう。憲法9条の「手直し」は日本が米国の思うがままになることでもあり、これが一旦崩されたら世界に誇れる、人類が誇れる米国にとっては不本意な日本の平和憲法の消滅ということ同時に民主主義国家の崩壊にもつながりかねない。そして、当然のごとく徴兵制度、国防軍、核兵器、海外出兵等々が済し崩し的に起こってくるだろう。これは「自主憲法」の名の下に実質的にアメリカ合衆国日本州になることでもある。隷属国家になることなど三島にとっては看過できることではない。戦後日本は「米国によってレイプされた女」のように誇りも何もかなぐり捨てて逞しくも拝金主義のタコ女郎のように生きてきた。たとえエコノミックアニマルと蔑まれようとものともせずただ邁進し経済大国にまでのし上がった。当然それによって失われてしまったものも数知れない。それは三島の「美意識」からすればとても許せる状況ではなく、いずれ彼が何らかの形で「切り込まざる」を得なくなる「濁流」ともいえる対象であることはわかるが、そのような状況の中でむしろ「ヤジ」の背後にあるものと同質化して存在し得た安倍の立ち位置から一体どのように何に対して「挑戦」したのかは不明というより、その必然性が見い出せない。著者のいう安倍の「挑戦」と三島の対峙したものが同質だという見解は全く見当はずれで、似ても似つかぬ程異質である。

 この本が紀伊国屋書店第1位だそうだ。信じ難い。文芸評論家も質が落ちたと言うべきか、もともとその程度ものなのかどちらにしてもさしたる興味もない。

  これは安倍の関係団体、事務所などが宣伝のために大量に買い取り支持者に無料配布するしかない程度の本である。

                                                     2012 12/1


 337.  武器商人たちと、 そして・・・


 周知のように、武器商人は個人営業もあるが最大の武器供給者は国連安保理の常任理事国である米英露仏中である。戦争で儲けている者達とは、言ってみれば戦争がなければ商売が成り立たない者達で、ある時は戦争の火種を見つけては煽り、またある時は戦争の火種を自らを蒔いて武器の在庫整理をし、あるいは最新鋭の武器を提供しながら巨万の富を蓄積する。

 2012年4月17日、前東京都知事・石原慎太郎が東京都による尖閣の買い上げについて「最初」に開陳したのはアメリカのヘリテージ財団のシンポジュウムにおいてであるとベンジャミン・フルフォードも指摘している。これは石原がいかにアメリカの新保守主義系シンクタンクと密接な関係にあったかを示すものである。ヘリテージ財団は表向きは慈善活動を行う団体となっているが、実は保守派の情報ブローカーが立ち上げたネオコン系のシンクタンクで、「今やアメリカの政治に欠かせない存在」となっている。ネオコンすなわち新保守主義とは「小さな国家」、「市場重視」、「規制緩和」、「民営化」と聞き覚えのある言葉がいくつも出てくるが、「自由や民主主義の価値を広めるためには武力行使も辞さない考え方、政策」を持つものでもある。一見きれいな言葉が並んではいるが、ここにも武器商人たちが暗躍する隙間が遍在する。日本においては、アメリカからの武器買付を正当化させるためには中国、北朝鮮の脅威をさらに煽ることが必要不可欠なことでもある。そこで石原は以前使って無視されたカビの生えたような「尖閣の買い上げ」というカードを取り出し中国を刺激してアメリカの役にも立たない「最新鋭」の武器を日本に買わせる口実に使うというブローカー的役割を果たした。石原はさぞネオコン系の者達には感謝されたことであろう。この男が今度は核保有などと言い出しているのである。その先は推して知るべしであろう。アメリカのポチがその気になってその内アメリカとも中国とも敵対し自滅の道を歩むことだけは避けなければならない。今までもアメリカの都合でいつの間にか作り上げられてしまった「怪物」はアメリカ自身の手によって潰されてきている。もっともこの老人にはポチを脱する気持ちなどはもうとうなく、時間もない。ただし、何を託すつもりかその後継者だけはいる。

 この間の情勢を見ていると、日本と中国間に局部的な猿芝居のような戦闘をおこさせ、アメリカのテコ入れでもあるかのような北朝鮮の在庫ポンコツミサイルの整理処分で日本を威嚇し、それに乗じてアメリカは日本に武器を供給する機会を得る一方で中国国内では日本を出し抜いて着実に市場を広げるというのがその落ちであろうと思われる。どちらにしてもアメリカに損はない。そのようなアメリカの意向に沿えるのが石原なのである。そこで確かなことは、そのすべてのしわ寄せは日本の99%の国民自身であるということである。石原慎太郎は1%の日本人であって、99%の日本人ではないことも明確なことである。彼の頭には99%の国民のことなどは微塵もなく、いかに国民に孤媚(こび)、ありもしない「義」をぶち上げ、自らが利するかである。

 

                                                2012  11/23

「ある日、その時」 (24) 2012年10月17日ー

<掲載>

327.日本版「毒舌」とは  328. 「右傾化してる」ということ  329. 石原慎太郎とは老醜の極み  330. 怖ろしき商魂 331. A childish-looking man .  /comme sujet / 332. 臆面もない国の省庁 333.「日本は平和ボケ」と吹く男(おのこ) 334. フェイスブックの危険性 335.C’est toujours la même histoire 336. テーブル・ターニングポリティックス

                                           (転載・複製厳禁)



336. テーブル・ターニングポリティックス  Politics of " Table-turning"

La politique du Japon est  "Table -turning politique".


 日本の政治は概して「こっくりさん政治」と言ってもよい。日本のポリティシアンは今日は東に明日は西、南を見ながら北に手を出す足を出す何やら奇態な仕草。その様とても尋常の者とは思えぬ風情である。これでは見物の方も堪ったものではない。そうかといって下手に投げやれば物の怪たちの思うつぼ。またぞろ物の怪跋扈の世となり、路頭に迷うは巷の衆ばかり。

 テーブル・ターニングとは「こっくりさん」の起源で、「テーブル・ターニングポリティック」とは要するに「こっくりさん政治」ということになる。そこでは論理も理念もまったく通用しないというよりむしろ排除され、論理、理念を通すものは「魔女裁判」のごときものにかけられるか、黙殺、封殺されることとなる。テーブル・ターニングの「潜在意識」と分析されるものがテーブル・ターニングポリティックスでは具体的に何に該当するかはすでに周知のとおり。この国は未だに民主主義国家でも法治国家でもないことを明確に把握しておかないといつの間にか彼らの手中に収まることとなる。多くの者にとっては、テーブル・ターニングポリティックスとパラサイト的イエロージャーナリズムに翻弄され続けとうとうここまで来てしまったというのが実情でもあろう。しかし、騙され上手も度が過ぎれば単なる愚者でしかなく、世界の物笑いのネタにもならない。

                                                     2012 11/18

<追記>大手マスメディアと称される「朝日」、「毎日」、「読売」、その傘下のメディア、テレビ等がいくら「庶民派」、「国民派」を装ったところでその根幹は財界側のメディアである以上、財界の不利になるようなことは一切伝えないのは当然のこと。況や敵対する者に対してはあらゆる手を使って抹殺しようとするのが今までの常套手段でもあった。彼らが否定的に捉える「すべて」は財界側にとって都合の悪いこと、そして肯定的で支援さえ惜しまないものとはすなわち反国民的な内容でしかないのであるが、それを国民自身がありがたく物知り顔に聞き入れてきたというのが今までの経緯である。大手マスメディアの「失墜」は今に始まったことではない。それは構造的に反国民的であるからである。そして今、大手マスメディアに対する徹底抗戦と糾弾は始まったばかりである。

                                                    


335.  C'est toujours la méme histoire

Après tout   le Japon n'est pas digne d'être appelé démocratie parementaire.

La séparation des pourvoirs n'est pas réalisé.Plus exactement  le Japon n'est pas un pays gouverné

par loi.Si l'on cite un exemple ,  c'est Ichiro Owaza(homme politique) procès.

                                                                                                                                 2012 11/16


334.  フェイスブックの危険性


 フェイスブックの危険性についてはすでに指摘されているとおり、実名でその人物のプロフィールと交友関係などの個人情報がすべて公開され、監視されるということである。それを承知の上で利用するのは個人の自由であるが、これは監視する側にも極めて都合がよいということを覚悟しておく必要があるということである。最近ではFacebookを採用に用いる企業が激増しているという。そのために学生達はフェイスブックの友達を無理やり増やしたり、企業が望むような人物像を「ねつ造」することに余念がないという。社会への第一歩が「いかに嘘をつくか」、「いかに取り繕うか」ということになる。これでは有益な人材の確保などは困難であろう。学生もそんなことばかりに追われ肝心の学業も疎かになっていては世界レベルでは通用しなくなり、それはそのまま企業に跳ね返ってくる。企業もフェイスブックを参考資料としてどのように解読するかが問題になってくるが、フェイスブックはサイコパス的人間にとっても都合のいい伝達手段でもある。今の流れを見ていると「誠実」で能力は充分あるが、友達の少ない学生は排除される傾向にある。そこで「自分」を使い分けるとは聞こえはいいが、それが肝心な部分にまで浸食してくるとやがて「自己」の分化に長けた「境界例」を作り上げることにもなりかねない。それは飽くまで「正常」ではあり得ないのである。今後も「素直」に自分を表現すること、思ったこと、感じたことを発信することがそのまま排除の対象となり、否応なく「村八分」にされてしまう可能性が出てきた。企業の採用にフェイスブックが利用されるということは「マイナンバー制度」の導入の序曲でもあり、非常に危険な面がある。一見便利なものはその副作用もかなり強く、読み取り、扱い方を間違うと「本体」そのものの瓦解にもつながるということでもあろう。このまま行けば有能な人材どころかまたさらに「マッド」と名のつくもの、詐欺師が横行するのは必定。この流れは断ち切らなければなるまい。

 因みに、「マイナンバー制度」の監視主体は国家のみならず、その最高情報責任者(CIO)は財界推挙の遠藤紘一・元リコー副社長(2012年8月任命)である。

                                                2012 11/12


333.「日本は平和ボケ」と吹く男(おのこ)


 国盗りを始めた地方の長が、思いのほかの逆風についにほざいた戯言のごとき陳腐な世迷言。それが最近の「日本の平和ボケ」の遣われ方でもあるが、国民が「平和ボケ」しているから登場できたような者にそのようなことを言う資格がどこにあるかとも思われる。そもそも現在の日本の政治状況は常に暴動が起きても不思議ではないというのが識者の共通した見解でもある。今や老若男女問わず余程焼きが回った者でもない限りテレビなどは見ない。そのテレビをステップに現れたような者がその基盤である層を否定したら成り立ちようがあるまい。

 日本全国津々浦々とまでは言わない、身近なところをよく見てみれば日本が今どういう状況になっているかすぐにわかるはず。たとえば、自殺者、ドメステイック・バイオレンスは共に年間3万以上、高齢者の行方不明、生活苦等々。自殺者数は世界のトップレベルで、銃社会のアメリカでさえ47位(2009年WHO)である。よく経済状況で比較されるギリシャは日本とは比較にならないほど自殺者は少ない。「蟹工船」を思わせるような日本の現状を見るにつけ、それは「平和ボケ」などという生易し状況ではなく、実のところ抗議の声も出ず、ただ力なく衰退の一途を辿っているだけという最悪のパターンなのである。まだ「声」が出せる余力が残っている者は当然何らかの発信、意思表示はすべきであろう。そうでなければすべてが止まるところも知らず堕ちて行くだけである。一般的にもやはり恒産無ければ恒心無しで、まず国が今やるべきことの具体的な優先順位は自ずと決まってくるはずである。今まで巧妙に国民を見えない「檻」に囲って利用するだけ利用して憔悴させ、思いどりにならなければ「平和ボケ」していると自国民を嘲り、その上また「国防」云々である。ほんとうに頭の方は大丈夫かと聞きたくなるが、それもまた愚問である。政・官・財の複合体とパラサイト・メディアそのものが計り知れなく異常なのである。その解決方法、すなわち解体の手法は手段を選ばずひとつひとつ白日の下に引きずり出し、できれば同時に多方面から微に入り細を穿つ吟味・検証である。現実的にはそれしか手立てはあるまい。実際、「相手」はどのような「ホラー」も吹っ飛ぶような想像を絶する変幻自在の「怪物」と言った方が適切なのである。これに立ち向かうべく勇ましく「ほざく」のは勝手ではあるが、この実態を明確に把握し得ない限り今後も先に進むことは不可能である。「シロアリ」などという安易な捉え方だから待っていましたとばかりに簡単に足をすくわれるのである。

 アインシュタインは無限なものは二つあるという。それは宇宙と人間の愚かさである。むべなるかな。

                                               2012 11/11


332.臆面のない国の省庁

 La bureaucratie du Japon est impudente et incapable pour le peuple.                                          

Les dettes de l'Etat    983000000000000YEN.  C'est la preuve d'incapacité.


 最近また財務省が国の借金が983兆円に膨れ上がったと発表したことが報じられた。これは財務省が公務執行能力に欠けるということを改めて自己暴露していることに過ぎない。本来ならこの組織の再点検か場合によっては全員更迭である。これで今までよく続けてこられてきたと思うが、許されることではない。公務をはき違えている無能な官僚をいつまでも放置してきたこと自体が重大な問題なのである。これは財務省に限られたことではなくすべての省庁に関して言えることでもある。何か勘違いしてはいないか、国の借金があたかも国民のせいでもあるかのように借金額を提示しているが、実はそれは財務省がいかに無能集団であるかを如実に物語るものでしかないのである。官・財の傀儡政権が借金額のみを提示して得られる効果とは。そう、それが狙いであろう。今でも彼らの発表を戦時中のごとく真に受けている者もいるようだが、やはりすべてにおいて仕切り直しが必要である。

                                                   2012 11/9


C'est dans et par le langage que l'homme se constitue comme sujet.     ー E・Bー
331.  A childish-looking man

 A  man with a baby faceとも言うらしいが、いわゆる「父ちゃん坊や」である。なぜか日本で「のし上がる者」にこのタイプが多い。日本的な意味合いでは、「一人前の年齢に達していながら、思慮、分別などに幼い面のある男」ということになるが、ただ単に「思慮、分別が幼い」のでは「のし上がる」ことは不可能であろう。しかし、思慮、分別が幼いからこそ大胆に悪賢く,罪意識もないと見れば合点も行く。要するに「baby face」は仮面そのもので、その下では狡猾さが渦を巻いているということになる。彼らにとって「baby face」は相手の防備を解除させる手段でもあり、それは相手の隙を着実に捉え、その弱点に入り込むのを容易にする。実際、ヤクザでさえ騙されるのもこの「baby face」の類である。一定の年齢になればそれなりの「年輪」が顔に刻まれるのが自然なことではあるが、彼らの顔には加齢が現れても「時」が刻まれることはない。すべての負の情念がごく「健全」に「恥部」を隠すように仮面の下に封じ込められ,それに反比例するかのように最大公約数的な表情のみが仮面ににじみ出てくるのである。総じて彼らの普段の顔そのものは「のっぺり」しているが、実はそれも技巧的でどこか不自然なのである。それは、取って付けたような最大公約数的な表情に埋め尽くされた「ぎこちなさ」と言ってもいい。この世界に生き続けて、そのすべてが集約される顔がいつまでもbaby faceであり続けるということ自体が不自然で、それは仮面化されたbaby faceの中でグロテスクなまでに変形されたモンスターを育てていることにもなる。詐欺師としても最適なのはやはり親しみやすいbaby faceタイプかイケメンタイプということに異論の余地はあるまい。少なくとも、誠実にものを考える者がbaby faceあるいはboyish lookで「あり続けた」ことはまったくと言っていいほどない。だからと言って「醜悪」な顔の者が「善人」などと言うつもりはもうとうない。やはり人間の最大の「恥部」は顔だということであろう。よく見ればすべてが読み取れる。それは読み取る側の解読能力にもよるが。

 いい「大人」がbaby face,boyish lookを敢えて全面に出しているのはやはりdangerousと見るべきであろう。

                                                     2012 11/5


Fact is stranger than fiction. You are OK?

330. 怖ろしき商魂


 直接殺人に手を染めなければ何をしてもものともしない商魂たくましい起業家が増えているようだ。その時だけ自分にとって最適であれば後は知ったことではない。これは資本主義経済の根本的な生命原理で、今更改めて驚くことでもないがそこに何らかの歯止めがない限り現実的にはそれによって被害を被る者は後を絶たない。「詐欺師の時代」は今に始まったことではない。ただ、それに「市民権」があるごとく暗黙の了解が周知の事実としてはびこり、その矛先が弱者中心になってきたのは1985年豊田商事事件あたり以降からではないか、それに対しても為す術もないまま病んだ種子を蒔き続けて地滑り状態のままここまで来てしまったというのが実情でもあろう。

 明日を夢を見るのは勝手だが、分かり切った負の部分について一つでも解消する方向で動こうともせずただ夢を語っているだけでは実質的には悪夢を彷徨うことになる。「希望を持とう!」などと呼びかけるのもカンフル剤的効果以外は個人の力を超える忍耐を強いる方便でしかない。かつて国民に向かって「痛み分け」などと平然と言い抜けた為政者がいたが、国と国民との間に「痛み分け」などという状態は存在しない。現実的に痛むのは99%の国民だけである。「恐ろしき商魂」を「華麗なる商魂」と名称変更したところで、殺人を「ポア」といったところで内容は何ら変わるところはないというよりむしろその「作為」が加わった分さらに現状は悪化している。そこで「夢」、「希望」、「願望」、「幸福」などをいくら取り上げたところでその言葉自体があって無きに等しいもので、ただ空中楼閣を構築させるのに都合のいい忌まわしい幻想形成に使われているだけである。今、安易に「夢」、「希望」、「願望」、「幸福」の類を口にするものはすべて「ニセモノ」と見た方が賢明である。もっと絶望一般を真剣に絶望してみてはどうかとつい言いたくなってしまうのである。あまりにヤワ過ぎる。どうもこの国には強靭な精神というものは育ちにくいとみえる。

 「朝のない夕べ」を歩み続けるだけの覚悟があるとも思えず、安っぽいニヒリズムで恰好をつけている場合ではないのだが・・・。浅薄なニヒリズムの蔓延は腐臭を放ち始めた体制の防腐剤でもある。

                                                    2012 10/31


329. 石原慎太郎とは老醜の極み


 石原慎太郎とは老醜の極みである。いまだに欲望丸出しのこの老人に金になるとばかりに腰巾着のように群がる節制のないメディアの罪も計り知れないものがある。石原慎太郎の語ることを今更「拝聴」しているものなどいるのかとは思うが、要するに彼の今までの検証済みの言動がすべてを物語っているのであってそれ以上では決してないということである。すなわち、その言に信置けずということに尽きるのである。

 「正義」を振りかざす「義」のない者に付き従った者達の最期は悲惨である。少なくとも、三島由紀夫には役者の欺瞞性、偽物性を嫌うあまり自ら「本物」を提示しざるを得なかった面もあるが、石原慎太郎は最期まで主役志向の三文役者の域を出るものではなかった。彼は今でも役者であり、それも楽屋に引っ込めば何を言っているか分かったものではないという類の有象無象の役者のレベルと同等である。ここにきて人生最後の幕切れを華々しく飾り立てようと躍起になっているのであろう。それが災いしてか汚点、死角ばかりが現れてくるように見えるが、実は今まで何とか取り繕っていたものが一挙に噴出してきてるといった方が適切であろう。(今までマスメディアが敢えて報道しなかったことも含めて)。それにしても頭にあるのは自分のことだけというのは、プロファイリング的にも目を見張るものがある。「義」のない者とは、言っていることとは裏腹に機を見ては簡単に寝返る者のことである。最近では寝返るところもない者達も多いようだが。

 老醜を晒さずに生きるのも至難のわざであるが、己の「業」で多くの者を巻き込み、犠牲にしてまでも生きながらえる老醜とは老醜の極みである。

                                                2012 10/30


328. 「右傾化している」ということ


 最近またよく聞く言葉の中に「右傾化している」というのがあるが、そもそもが中心軸も分からぬままだらしなく「右」に傾き続けてその傾斜も明確ではないといのが実情で、一般的に言われているような「右傾化」とは思考回路そのものが単細胞化しているということに過ぎない。すべてを概念的に単純化して感情に棹させば必然的に客観性と論理性は排除されるかシュランク(減少)していくのは当然のこと。いずれにせよ明確な現状認識もなく経済的抑圧の中で感情論に振り回され突っ走れば自己崩壊は必至なのである。現実的な一例を挙げれば、軽佻浮薄な世の中に弄ばれていた者がある時日本の現状について書かれた小冊子的知識を手に入れたとする、それは漫画入りで実に分かりやすいが吟味する能力のないものにとってはいつかそれが世界の概念図となりいともたやすく「信念化」されてしまう。そこに宗教的要素が絡めばなおさらである。「幸福」と「戦闘」が何の矛盾もなく、「平和とは戦争のこと」となる。それは「迷走」繰り返していた自らの「情念」にとにかく「道筋」を与えてくれるような幻想を起こさせる。「右傾化する」現状とは、トリガー(引き金)を軽やかに引ける兵士の大量生産の準備が整いつつあるということでもあろう。しかし、今の日本で少子化の上に妊娠中の配慮にも欠ける母親が産む善悪の区別もつかない子供が多くなればどうなるか想像に難くない。日本の文化も歴史も理解せず、神道、仏教の区別も分からないまま、日本国土の特異性も検証しないどころか宮崎県と宮城県の位置的相違も定かでないような状態で「日本人である」こと、またそこから派生することのみを強調し、緻密な政治力学も範疇外で皮相な「政治」面ばかりに終始することにどれだけの意味があるのか?それは未だにアメリカにとって都合のいい利用価値のある「右傾化」でしかない。日本の「右傾化」をアメリカは今後もフルに活用し隷属国家として仕立て上げることであろう。実際、一隷属国家が緩慢なる崩壊の道を辿ろうとアメリカにとっては痛くも痒くもない。むしろその方が都合がよいであろう。今、「日本人が、日本人として」などど咆哮するより「人間」としての「英知」が真に問われているのである。「リーダー格」の者が「我が、我が」ではやがて周囲からも倦厭されそのチームの先は見えているのと同様である。

                                                   2012 10/22


327. 日本版「毒舌」とは


 概して、毒にも薬にもならず「辛辣な批判」などとは程遠く、安全地帯に身を置いた悪たれに近い。その毒舌の対象たるや自分と同等か「熊さん、八さん」の世界の住人、さもなくば過去に登場した名のある者達で、決して現在の権力や大きな力を持つ者には向けられることはない。何とも甘ったれた言いたい放題と言った方が適切で、これなども未成熟文化の最たるものであるが、単細胞的にこれが繰り返されるといつの間にかそれが当然のように単細胞的に刷り込まれていく。この調子では今後もまた万葉集」を「マンバ集」と読んでわかったような気になってしまう者たちが増え続けることであろう。やがて、それはあらゆる領域にに敷衍して行く。文化を不当に貶める内容の否定的単純化、ダイジェスト化にはファッショの臭いが付きまとう。ナチスもそうした大衆誘導は巧みであった。要するに、日本版「毒舌」とは大衆のものではなくむしろ大衆に向かって放たれた即効性のない毒矢と言ってもいい。しかし、その毒は時間をかけて脳細胞全体にくすぐるように浸透して行き想像力と論理性を完全に奪ってしまうのである。これ以上自分自身を矮小化してどうするのかと思うのだが、その先に見えるのは一寸法師の兵士となった自分自身の姿である。 

                                                           2012 10/17


 

「ある日、その時」 (23) 2012年8月25日ー

<掲載>

317. オリンピックパレードに50万人? 318. イエロージャーナリズム 319. 「近頃は上から下まで乱れていますからね」 320. 武力紛争とは常に生き地獄と知るべし ートリガーの感触は限りなく軽いー 321. 東は石の原、西は橋の下にていと怪しげなり  /comme l'art de la fugye・・・/ 322. あな いみじ /La piéce est la même sous d'autres maqsques/   323. 絶滅危惧種に人類も含まれていたとは 324. 御多分に洩れず「あとは野となれ山となれ」 325. 恋する最強の馬オルフェーブル 326. 悪人跋扈    /La situation politique・・・

                                            (転載・複製厳禁)



 La situation politique est si grave que'on ne peut plus y porter remède.

Les escrocs gouvernent un pay. Que puis- je dire?                                       2012 10/13 


326. 悪人跋扈

 上から下までとにかく悪人跋扈の様相を呈している。最近では誠実な人間などに会うことが稀になってしまった。「善人」などは馬鹿扱いというような風潮は今に始まったことではないがそれにしてもここまで堕ちるかという感は否めない。困ったことにそれが当然で、むしろ新たな実践的「正義」さえあるかのようなもの言いをする者が後を絶たないということにも呆れ返る。要するに、生き残るためには「悪知恵」を働かせるなどとはもはや陳腐過ぎて先が見え透いているのである。さらには「生き残った者が勝ち」だという愚かしい勝手な思い込みを恥ずかしげもなく開陳するに至っては今更何をか言わんやなのである。彼らにとっては戦争で死んで行った者達はすべて敗者なのであろう。そう言っているのである。徒に人生をだらだら生き延びるのはもはや人間の形骸に過ぎない。それを「勝ちだ」の「負けだ」のとカルトの教祖のように偉そうに判断することが自体が愚にも付かない思い込みなのである。生き延びても生きる屍(広義)では仕方あるまい、その質は当然問われて然るべきなのである。それは一般的に言われる「クオリティ オブ ライフ」などという生易しいものではない。

 身近に起きる事件を見ても未解決をいいことに悪人跋扈は際限もない。陳列棚から任意に取り上げても「島根女子大生遺棄事件」、もう3年も経つが捜査当局は明確な証拠がないと釈明しつつ、「みなさん知りませんか、情報を待っています」のいつものパターンである。「世田谷一家殺害事件」にしても周知のように初動捜査のミスを指摘されて12年が経過している。この事件などは犯人の手掛かりとなる証拠、遺留品などこれ以上犯人も残しようがないだろうと思われる程ありながらやはり「みなさん知りませんか、情報を待っています」である。捕まえてくださいと言わんばかりの犯人でさえこの調子である。証拠を残しても残さなくてもこの調子ではではいつまで経っても犯人逮捕などには至るまい。やった者勝ちの悪人跋扈は平然とまかり通っているのである。陳列棚にも乗らないこの種の事件などは枚挙に暇がない。

 絶滅危惧種と言ってもいい「善人」と、悪人や小悪党達の跋扈、この異常なアンバランス、もはや悪人、小悪党の戯言、開き直りなど聞いている時間もないのであるが、相も変わらず盗人猛々しい者が三分の理を説き、「善人」は沈黙するか秘かに「つぶやく」。今やその沈黙、「つぶやく」内容の可否すら厳しく問わざるを得まい。たとえ「生き残らなくても」人生そのものの質を「問う者」がいなくなってしまってはやはり「人間」は死んだとしか言いようがなくなるのである。当面の問題としては「人間であること」の「証明」を各自が各瞬間ごとにどこまでするかにすべてはかかっている。それは、現実的にはサル目ヒト科ヒト属だけが存在しているかのごとく、「人間」としての概念そのものが瓦解しその規定は不可能となり,「人間」の「本道」などというものが消失してしまっているからである。そのような状況を踏まえずただしかつめらしく「人間」の「本道」、「間道」などを説くものはすべて検証を必要とする。そして、その多くは偽物、虚偽の類である。なぜ偽物、虚偽が悪いのか、それは結果的にはすべての可能性を遮断することになるからである。すなわち未来を自ら閉ざすことになるのである。

 「人間」の浅はかな愚かしい言動のすべてを封殺できるのはやはり現前の厳然たる自然の地球規模の猛威しかないようだ。「人間一般」を霊長類などとはをこがましく、むしろ脳が局部肥大化した懲りないサル目ヒト科ヒト属と言った方が適切なのかもしれない。

                                                 2012 10/13


325. 恋する最強の馬オルフェーブル 「 Après vous」


 人の思惑通りには走らぬところもさすがである。凱旋門賞のオルフェーブルはかなりのハンディを背負わされたにも拘わらず問題なく優勝馬の走りであった。伏兵がいたからでも調子が悪かった訳でも騎手のせいでもない。多少調教師の判断ミスは否めないがそれでもそれが直接の原因ではない。要するに、女性の国フランスでソレミアという「女」に勝ちを譲っただけである。男同士の戦いであったら間違いなくオルフェーブルは優勝していたはずである。オグリキャップもジャパンカップで心を寄せた葦毛のオーストラリア「女」フォーリックスに優勝を譲った。共に騎士の称号を与えたいくらいの馬である。自分の最期は人間以上によく知っている、最期は華麗に燃え尽きるだろう。オグリキャップもそうであった。このレベルの馬を見ているとつくづく人間以上に教えられることが多い。勘違いしてはいけない、人間が馬に食べさせてもらっているのである。決してその逆ではあり得ない。人間よ、驕ることなかれ!

Après vous (どうぞお先に),それは紳士の淑女に対するエチケットでもあり、余裕の心遣いである。

                                                      2012 10/9


324. 御多分に洩れず「あとは野となれ山となれ」


 「あとは野となれ山となれ」、これは自身の生存が成り立てばあとはどうなっても知ったことではないというお馴染みの資本主義的権力機構の根本的な「生命原理」でもある。さらに権力機構が末期症状を呈してくればそれは露骨に現れてくる。今までの世の流れもイヤーゴ的人物をむしろどこかで受け入れ増長させる方向で突き進んできた。そして、さらなる奸計の策士が登場するかと思いきや狂気を帯びた幼稚さだけのサイコパスとモノマニア的集団のオンパレードであった。この集団は各自の根幹的思考回路が一定せず、全体を見据えたプログラムが成立し得ないことである。したがって、具体的な帳尻合わせに長けた官僚組織に頼らざるを得なくなり、「過不足」が出る度に方向転換を繰り返し、やがてその信も失墜して官僚機構のみが機能していることになる。この段階ではもはや手も付けられず「あとは野となれ山となれ」である。その結果、自己解体が現実となるその寸前までできるだけ手を変え品を変え続けること自体が目的となり、それ以外には他にやりようもなく、すべては「やっている振り」ということになる。この段階に至った彼らの本音は飽くまでも「わがあとに洪水きたれ」である。当然、彼らが口にする「将来」などはあり得ないことでしかなく、妄想に現実味を帯びさせることだけは長けたすなわちサイコパスの言動ということになる。そこではすべての国民は彼らの「都合」と「体裁」の「出し」でしかない。

 人間事象には残念ながら謀がつきものである。況や権力の集中したところではなおさらである。「謀略史観」などという造語があるらしいが、歴史事象についての謀略などは常に検証されてしかるべき問題だということに過ぎず、「これは謀略史観だ」などというもっともらしい括り方に一体どれほどの意味があるのか、このコンセプト自体が空疎なのである。これは日本でしか通用しない造語で、歴史解釈そのものを平板化させる要因ともなりかねない。歴史事象の謀略に焦点を合わせた歴史解釈と言えばまだわかるが「史観」などという言葉を遣うから混乱を生じさせるのである。「史観」(geschichtsauffassung)とは歴史に対する明確な世界観を必要とする。「謀略」だけで体系的にその世界観を構築できるとは到底思えない。「謀略」とは関係性の中から染み出て常に変形が加えられる表層概念で本質的な概念にはなり得ないかあらである。多くはこの造語を使う側の方に問題がある。

 ※イヤーゴ:シェイクスピアの「オセロ」に出てくる旗手で奸計の策士。

  サイコパス:自己中心的で慢性的に嘘をつき、罪悪感の欠如などが見られる人格障害。

  モノマニア:偏執狂。

                                                    2012 10/6


323. 絶滅危惧種に人類も含まれていたとは


 人類の英知などというものはもはや画餅の典型でしかなくなってしまったような現状を見ていると、人類そのものが絶滅危惧種ではないかと思われてくる。そして、もし人類に英知が存在していたとしてもその絶滅時期を多少なりとも遅らせることくらいではなかろうかと思っている。

 実際に明日をもわからないのが人間の実情であってみれば放射能半減期千年万年などという時間の単位は人間にとって及びもつかない範疇外のことである。人間の手に負えないものを野に放ったのも人間自身であるが、そのことによって滅びるというよりもそのようなことをあたかも「善」として為す人間そのものよって滅ぼされると言った方がより正確かもしれない。今尚、滅亡への歩みは止まることを知らない。人類滅亡の一過程として、日本は人類史上稀有な反面教師として浮上してきている。英知なき復興などはさらに滅亡時期を早めこそすれ決して復活・再生することはない。一つの世界観を持ち得た者の多くが指摘する通り、血の歴史が語りかけることを無視して突き進んでいること自体が滅びの道そのものなのである。

 地球の最期が炎に包まれたものか凍結したものか知る由もないが、いずれにしても地球にも終わりが来ることは確実なことである。何事においてもそうであるが終極は何の前触れもなく突然やってくるものである。言い方を変えれば、「前触れ」は常に現れているが人間にはまだそのすべてをキャッチできる能力がないというだけのこととも言える。「何万年に一度」などという人間の割り出した試算値、算定基準なども明日起こっても不思議ではないということ以上の意味は持たない。したがって実際には何の根拠にもなり得ないのである。そのことについては不幸にも日本においてすでに実証済みのこととなった。

 「ああ壊れていく、壊れちゃった」ではもはや済まされないところまできている。人類が絶滅危惧種たる所以は己の利する行為をあたかも当然の権利のように執拗に繰り返す点であるという極当たり前のことからきているのである。偏執狂(モノマニア)とは人類の一般的特性でホモサピエンスのサピエンス(叡智)の流れは飽くまで一部でしかなく、むしろホモモノマニアと言った方適切かとも思われる。何億ものモノマニアの営為の集積とサピエンスとは一線を画されるものである。

                                                 2012 10/1

 


La piéce est la même sous d'autres masques. ーE ・Bー

Au fond de tout patriotism il y a la guerre ; voilà pourquoi je ne suis point patriote. ーRー

Vous avez  raison  ーM・Hー

                                                                                                                     2012 9/30


322.  あな いみじ


石破る 思いばかりの 心なき身 身の程知らずとは さもありぬべし

安達ケ原 親子二代で 石の原 

石の原 親子共々 鳥辺山

傀儡師 乱れて故意の 仕舞うた芝居 野太鼓に合わせる所作もあるまじき

 最近はあまりにもばかばかしくて世の流れについていちいち書く気にもならないが、いつとはなしに去勢を嫌う自由な「思い」は野辺の田の澱みを越え飛び回っている。そこから具体的に見えることは、現状について何をどういってみても本質的な骨子は今もって何も変わっていないということは敢えて言うまでもないことではあるが、今、現実的対応として最も危険なことは木を見て森を見ずという姿勢ではないかということである。まず危機を最大限回避する、これが賢き者の必須条件であると同時に生存の掟でもある。それ以外の道とは謀る者のみが都合の良い、木だけを見るように仕向けられた愚者の道である。それもその先に何があるかもわからぬ絶妙なこう配をつけられた下り坂の道である。とは言うものの、愚者は多く、さらに賢き者でさえその賢さより愚かさの方が上回るのが実情であるならもはや言わん方なしなのではであるが・・・。

                                                 2012 9/23


Comme l'Art de la fugue  comme le travail de Sisyph   C'est là notre chemin unique・・・        (M・H)                                                                                                           2012 9/20


321. 東は石の原、西は橋の下にていと怪しげなり


 政などなきに等しき時世にて

東は石の原、西は橋の下にていと怪しげなり

貧者がいがみ合い、富者がほくそ笑む

そはいつの世も変わらぬ密なる謀なり

われ先の果てることなき世迷言

欲望の奴婢ばかりが集いて何かある

         ・

放置された福島はもはや単なる被災地ではなく

放射能汚染の加害地である。

今後ますます放射能汚染加害国としての日本に対する世界の糾弾は強くなるだろう。

これは一国の姑息な手段で処理できる問題ではないからである。

         ・

もはや木々を見て今までのように病葉(わくらば)を病葉と素直に言い得る時は存在しない。

                                                2012 9/16 


320. 武力紛争とは常に生き地獄と知るべし ートリガーの感触は限りなく軽いー


 「これは戦争ではない、地獄だと思いました」とは戦争中ある凄惨な光景を目の当たりにした者の言である。このことから彼はその時まで戦争とは地獄以外の「何ものか」で、「正当な戦い」の場であり決して地獄ではありえないと「思い込まされてきた」ことがわかる。しかし、その「何ものか」にたとえどれほどの「正義」があったとしても戦争とは本来的に生き地獄そのものである。もし、多くの者にとって地獄とは目前に現れない限りわからないものであるなら戦争は人類が滅び去る時まで繰り返されることであろう。それを回避するのが人間の英知でもあるのだがその存在もいまだに覚束なく常に苦渋に満ち、欲望は限りもなく、転げ落ちる先が見えてもなおその寸前まで上り詰める。

                                                   2012 9/5


319. 「近頃は上から下まで乱れていますからね」


 これは40年ほど前の「刑事コロンボ」というテレビドラマの中でコロンボがさりげなく言う台詞である。ここで日本のテレビドラマの警察モノと比較するほど愚かしいことはしたくないので避けるが、概して内容的にも大人と未就学児童ほどの開きがある。

<フラッシュバックー1ー>

「近頃じゃ、上は乱れているというより手も付けられませんな、あれだけ嘘がまかり通るんじゃ私の商売なんか馬鹿みたいなもんですよ、確証をつかんだって簡単に揉み消されてしまう、実に因果な商売ですなー」と言うと、

コロンボは、例のオンボロ車のドアを開けながら葉巻を手にした方の腕を軽く上げ、微笑んだ。

「それじゃ、またお邪魔させて戴くかもしれません」

 

 私に向けられたコロンボの笑顔が最後にならないことを願った。

 

※因みに、コロンボの日本語吹き替えをやっていた俳優・故小池朝雄氏とは紀伊国屋劇場と彼が出演していたパルコ劇場で話をしたことがある。

                                                2012 8/27


318. イエロージャーナリズム


 日本のジャーナリズムと称されるものは概してイエロージャーナリズムである。イエローとは黄色人種を意味している訳ではなく、19世紀末のアメリカの新聞でその連載漫画の主人公が黄色い服を着ていたことからそのような名称で呼ばれることになったのであるが、その内容たるや発行部数を増やすために私的生活の暴露、扇情的なものばかりを取り上げていたのでそれ以後そのような類のものを総称してイエロージャーナリズムと呼ぶことになったのである。どのような形を取ろうがこの手の売文業はなくなりはせぬがそれよりまず社会に対する明解な問題提起と解明の糸口を提示できる者、機関がほとんど存在しえぬことの方が問題なのである。何においても真実を求めることは命がけにならざるを得ないのである。命はかけない金だけは欲しいでは勢いねつ造、計算されたリークの垂れ流しにならざるを得まい。オウム事件の時、オウムの施設内に夜間単身乗り込み調査してオウムの広報部長に「お前は嘘つきだ」と迫ったのはフランス人ジャーナリストである。現在どこを見回してもこれだけの気概を持ったジャーナリストは皆無といってよいだろう。人が言ったことをただ書き留めて伝えるだけでは「伝言板」と変わるところはない。「Aは何々と言った」というのは飽くまで「言ったこと」であって真実であるかどうかは不明なのである。そんなものを寄せ集めてまことしやかにまとめているのが大方の日本の「ジャーナリズム」である。したがってイエローカードを何枚もぶら下げているという意味でのイエロージャーナリズムともいえるのである。それは彼らの言説が根本的に無責任であることを見据えておく必要があるということでもある。その証拠に今までにも言説の間違い、読者のミスリードに対していつ正式に謝罪したことがあるのかということである。その場限りの言いたい放題、そんな「良心」の一かけらもないものに対して自恃の念の乏しい読者が抱く「思い込み」などは哀れな幻想としかいいようがないのである。

※日本では、タブロイド判の一紙のみが他紙と比べてもその切り込み方に見るべきものがあるが、他はすべて完全に底が割れているものばかりである。読むだけ時間の無駄で不買運動の対象物にしかならない。

                                                                                                                           2012  8/26


 317. オリンピックパレードに50万人?


 「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」とばかりに繰り出した一部熱狂に身をやつすことが好きな崖っぷちを転がり落ちることにかけては引けをとらない人々とは別にいい意味で「冷めた」あるいは「白け上手」な者の割合も今までとは異質な様相で増え続けていることは確かなようだ。高円寺の阿波踊りの動員数にしても例年2日間で100万人とされているがこれも警視庁の割り出した数値なのでどこまで信憑性があるか分からないとは関係者自身の弁である。それにしてもデモなどの数値とお祭り騒ぎの数値の「下駄の履かせ方」、脱がせ方はまさに露骨にして漫画的でもある。以前より警視庁発表と主催者発表の数値は一桁違うのは多くの者が知るところでもあるが、あまりの違いにいつも驚かされる。「国民を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」と怒り出す者が現れても何ら不自然ではない。

 しかし、ここでまた税金を使ってオリンピックパレードをやるか、その魂胆は大方の人々に見透かされてはいるが、都知事の半ば呆けたような老獪さにはこの間の言動も含めただただ呆れ返るばかりである。そのような様を見続けても「誰がやっても変わらない」などと「物わかりのよさ」に自ら溺れていると「シロアリの巣」はますます巨大化するだけのことである。これは確実に国民自身の首をしめる方向にしか働ないというのが論理的帰結であって、それをどのように解釈してみてもその方向からズレる分だけ詭弁にしかなり得ないのである。

 どちらにしても、先進諸国一般には、日本人は「ドジョウ」であり、ご都合主義の為政者のいうがままの国民であると映っていることであろう。これは民主国家の国民ではあり得ないということである。

 

                                                   2012 8/25

 

「ある日、その時」 (22) 2012年7月11日ー

<掲載内容>

306.そは君子豹変にあらず、をこなる暴君跋扈の正体なり 307.東京スカイツリーの薄気味の悪さ 308.どちらにしても子は親の鏡 309.呪われている大飯原発再稼働 310.ジョーカー(バッドマン)とは現代の狂気そのもの 311.オスプレイしかり、原発再稼働しかり 312.昔、「見ざる聞かざる言わざる」と言いしが 313.反・脱原発・再稼働反対抗議に対する陳腐な懐柔策 314.餓死、孤独死、老老介護に認認「介護」・・・315.「脱原発デモ」に対する蒙昧な「報導」 316.「平常心」では競技には勝てない

 

                                                   (転載・複製厳禁)



316.「平常心」では競技に勝てない


 今回のオリンピックを観ていて、選手たちに度々遣われる「平常心」という言葉が気になった。それが意味する心の状態の再現、使用方法を勘違いしているようにしか思われなかったからである。結果、成績は芳しくない。平常心などという普段どおりの平静な心の状態を否応なく高まる緊張の「場」に「不用意」に持ち込んでも平常心という心の状態は不自然に歪められてむしろマイナス方向にしか有機体機能を導かない。「不用意」といったのは、「自然体」同様「平常心」を恒常的に維持しうること自体が並みの精進では実現できないからである。それは戦場で常に「平常心」を保てるかということでもある。

 異様に高揚する「場」、すなわち日常とは時間の流れ方がまったく違う「場」に平常心」という日常的時間の中でしか成り立たない心の在り様を持ち込めばどうなるか、異常な時間の流れ方をする中で心身がそれに自然に反応しつつ集中させている時に、むしろそれに逆行する方向でしか働かない拡散性の精神状態に頼ることになるのである。それはその個体が本来持ち得る集中力を削ぎ落とし、集中力が心身にもたらす「超越性」を敢えて捨てることにもなりかねないのである。分かりやすくいえば「火事場の馬鹿力」は「平常心」からは決して出てこないということである。このような「場」に「魔物を見る」のは心の在り様に隙ができているからで、集中力が途切れているだけのことである。

                                               2012 8/13


315.「脱原発デモ」に対する蒙昧な「報導」


 限りなく見え透いた「報導」ばかりが続く中、その一つ一つを取り上げたら枚挙に暇もなく、それ程正面切って受けて立つ程の内容でもないので流し読み程度で済ませる。

 「『脱原発デモ』の熱狂を冷めた目で見る若者達」と題して,ほんとうにそのように言っているかは確かではないが以下のような「声」を載せていた。〇「デモより有効な手段があるように感じるので、デモには参加しません」、「有効な手段」とは?これでは「有効な手段」が見つかるまで意思表示ができまい。政府の思うつぼである。〇「正直,デモなんかやって意味があるのか」、これも為政者を喜ばせるだけの隷属が身に沁み込んだ「賢い見解」である。〇「そんなことをやっているより、しっかり今後のエネルギー政策をどうするか、議論する方が先のような気がします。」、それができない、一向にしようともせずむしろ逆行しているから否応なく抗議行動をしているのであろう。このような不明瞭な「声」に共通しているのが今までの原発問題に関してどのような経緯が社会的にあったかという社会的動きそのものもつかめておらず、自分の問題として考えたことさえないということである。これを「冷めた目」などとは言わない、「報導」が作り出した「蒙昧な目」と言った方が適切である。

 「声」の中には「夏の炎天下のなか、子供連れで参加する母親の姿勢には疑問を持った」(20代の女性)というものまであった。これなどはデモを取材することが目的になっている者、またはそれに近い状態の者の視点である。抗議意識からの乖離の度合いが別の目的意識の様相を具体的に示しているからである。子供というものは親の懸命な姿を見て成長するものである。炎天下を避けて子供を冷房の効いた部屋に残しておくことが果たして賢明な親といえるのか。その答えはいずれその親にかえってくるだろう。

 また、ジャーナリスト気取りで、すなわち宙に浮いた第三者意識で「お祭り気分のデモ」などと言っている者達もいるが、それはこの大きな「うねり」を敢えて「大きな音」としか捉えようとしないない者達と同類であるということ自ら宣言しているようなものである。それと同時に彼らは「煽る」者でもあり得るという点に注意しなくてはならない。この手の無責任な「煽り」に乗れば一挙に潰されるだろう。すなわち偽装工作である。今、必要なのはガンジーの抵抗運動にも似た非暴力、不服従の休むことのない限りない抗議である。それがそのまま市民の交流の「場」となればよいと思っている。もはやすべてにおいて因循姑息な者達に明日はないことだけは確かなのである。

<追記> ある報道カメラマンが現在の東日本の状態を伝えるべく写真報道をいくつかの出版社に持ち込んだがすべて断られたという。出版社側がいうには日本人は飽きっぽくもう東日本は興味の対象ではないというようなことをいったらしい。改めて呆れ返ってしまったが、「飽きっぽい日本人」を作りだし、作り続けているのは取りも直さずマスメディアそのものであろう。事ほど左様に大方がマスメディアに踊らされて、踊らされていることすら気づかないのである。現在流されている報道に関しても、またオリンピック報道(選手とは特に関係はない)しかり、政治報道しかり、その幼稚さに無神経さが加われば狂気としかいいようのないものが現れるのは当然であろう。                                             

                                                        2012 8/12


314.餓死、孤独死、老老介護に認認「介護」・・・天下国家など論ずるつもりもないが、これだけ見てもとても日本は先進国、文明国などと呼べるレベルではない。


  以前にもブログで取り上げた内容であるが、現状を見ていると何度でも取り上げざるを得なくなる。それは見て見ぬ振りをできるほど希少な出来事でもなく、あまりにも多過ぎて、その都度絶句しざるを得なくなるからである。老人たちの様相を見ていればその国の現状は読み取れる。そして若者の様相はそのまま近未来を予言している。報道は全くと言っていいほどなされないが、餓死、孤独死、老老介護(老夫婦がどちらか一方を介護)、認認介護(認知症の夫婦がどちらかを「介護」)、毎年多くの老人が行方不明となっていることが今やこの国の常態となっているのである。これは明らかに異常なのである。そのような実態も知らずに、さらには「健康で最低限度の文化的生活」の意味すら明確にしようともせず、結果的には憲法を無視している実情が意味するところは「先進国」、「文明国」とは名ばかりのその形骸すらとどめぬ場当たり的なご都合主義国家と言った方が適当ではないかと思われる。高齢で体が不自由な者同士がより重症なものを介護する、また認知症同士の介護が現実にはなされている。これは極めて危険な状態なのである。その上に餓死、孤独死、そしてこの夏も扇風機も、クーラーもない一室で熱中症で死んで行った高齢者たち。どこの国の話と思うが、これが東日本の被災地のみならず日本で日々繰り返し起こっていることなのである。これは明日は我が身で、へらへら笑っていられる状況ではない。今まで国を支えてきた高齢者たちをできるだけ早い時期に「処分」しようとしているとしか思えない「国家戦略」に乗せられれば65歳以後の老後など99%の国民には存在しないと思った方がいいだろう。「身捨つるほどの祖国はありや」などという感慨は霧深い海を前にしなくとも今や多くの者が日々即物的に捉えていることでもある。実のところ「明るい話」などしたくともないというのが大方の現状でもあろう。もしそうでないという者がいたら、それこそ政府広報の三百代言か極楽蜻蛉の類である。今、妙に「明るい話」などしている者達に対して抱く不信感は、「ものは気持ちの持ちよう」、「内面の平和」などのお題目を唱えている者達に対する不快感と類似している。テレビなどはもはやその存在そのものが「異常なもの」と化していると言ってもいいだろう。「明るい話」ばかりを求めること自体がすでに病的なのである。「暗い話」は避けたいが目を背ければ明暗のバランスは崩れ、有機体自体の構造に否応なく「欠如態」を作り出し、勝手に増殖し始める。そして、それがいつしか「心の闇」を形作る要因ともなる。これほど「異常」が意識化されないまま容易に常態化することに対しては怖いというより、有無を言わさず「ある覚悟」が強いられているように思われる。

                                                 2012 8/4


313.反・脱原発・再稼働反対抗議に対する陳腐な懐柔策


 毎週金曜日に行われている首相官邸前の反・脱原発・再稼働反対の抗議デモを取り上げるメディアもほとんどなく、取り上げてもほんのわずかである。最近、「主催者」側の代表者と現政府が「面会」し、「話し合い」の場が設けられたという。現在、抗議側と政府とが話し合うことなどないはず、要する一時も早く首相が辞めて政権が変わること以外に解決の道はないのである。そのために忍耐強く限りなく続けざるを得ないガンジーの無抵抗抗議にも似たムーブマンが今回の流れなのである。今回の「話し合い」の場をおぜん立てしたのは前首相・菅直人の関係者の社会学者・小熊英二であるという。また「御用学者」の登場である。彼らはどのような政権であろうと依頼があれば手際よくその政権のために動き回るが故に「御用」という文字が冠せられているのである。言ってみれば政権擁護請負人で、そのためには事実のねつ造、歪曲、糊塗などを「アカデミック」にこなすことなど朝飯前なのである。彼らがどのようなもっともらしいことを言おうが、その「立ち位置」を見れば一目瞭然である。そういう意味では、社会学者・小熊英二が抗議内容そのものに理解を示す方向で動くことは100%ありえないということである。その目的は言わずと知れた懐柔策を弄して手なずけることであるが、それで事態収拾可能と見ているなら途方もなくあまく、時代錯誤と言ってもよいであろう。今後も為政者と「御用学者」の「ホンネ」と「タテマエ」などにいちいち耳を傾ける必要などはないことはいうまでもないことで、彼らが「やったこと」がすべてであってそれ以外には何もないのである。「私個人の本心は原発はいらないと思っています。」などと言ってみても、現実の動き自体が方向違いでは意味のないことである。実のところ「ホンネ」も「タテマエ」も作られているのである。身近な例でも、「ホンネ」だけを打ち明ける振りをしてまったく「ホンネ」の実態が見えてこないことなどはよくあることでもある。「ホンネ」だけでは自己解体するしかないので「手を加えて」いる内に内容そのものが変質してくるからである。

                                             2012 8/3


312.昔、「見ざる聞かざる言わざる」と言いしが


見れども惑わず すなわち見ざる

聞けども眼光奥底に徹して すなわち聞かざる

而して耳澄むこと限りなく もの言えば一糸乱れず

すなわち 益なきこと一条たりとも言わざる

かくあるを三猿といい、古来言われし義 死に猿に似たり

 さらに、「沈黙は金、雄弁は銀」などと言いしが、語るべきを語らずを無分別というのであれば金を手にした無分別に何かある。雉であれば鳴かずともいつかは打たれるもの、鳴くも鳴かずも時のなせる業、打たれるのはその雉が鳴いたからだけではない。鳴けども打たれない鳥たちなどがやがて煮られるのもよく知られたところである。

 

 しかし、世上は相も変わらず「金」、「金」と喧しい。そして、そのような動きに自らを失い自滅していく選手を見ていると痛々しくなるばかりでスポーツ自体を楽しめないことが多いが、マスコミの死角で健全に「心・技・体」の「心」を育めた選手の活躍にはつい手を休めてしまう。マスコミ報道が「焦点を合わせ」取り上げるようなものとはスポーツでさえ当てにならないというのは既知のこととなってしまったが、その動きすべてにおいてやはり十年一日安易で阿漕(あこぎ)であるとしか言いようがないものがある。「スポーツの祭典」というより「金の祭典」と言った方がいいような状況になっているのがその実情である。

<追記>

 しかし、日本のオリンピック出場選手のよく泣くこと、特にでかい図体した男子柔道選手の泣く姿には「心・技」の不充分さ、とりわけ「心」の領域の生育、調整が抜け落ちているとしか思えないものがある。これなどは「サムライ・ニッポン」などという幻想も今や微塵もなくなっていることを世界に示した適例といえるだろう。総じて金、銀などと騒ぐ前にスポーツに対する根本姿勢がなっていないともいえる。大方のマスコミ、特にテレビなどのオリンピック報道も史上最低レベルではないかと思われる。これはオリンピック報道に限ったことではなく報道に対する関わり方そのものが問題なのである。一事が万事とはよく言ったものである。(8/2)

                                                        2012 7/30


311.オスプレイしかり、原発再稼働しかり


 オスプレイしかり、原発再稼働しかり、日本は地理的にも世界の恰好の実験場なのであろう。すでに福島原発事故でチェルノブイリレベルもしくはそれ以上になるのではないかと思われる人体実験にも等しいデーターを提供し続けている。さらに原発再稼働で世界にまたとない「貴重な」データーを今後も供給するのであろう。そこにまた悪名高きオスプレイの登場である。アメリカ国内での飛行は大きな問題を起こしかねないオスプレイの日本上空での飛行はそのルートを見ても機体のデーター収集、事故調査のためとしか言いようのないものでもある。やっていることすべてが自国民(99%)の生命など二の次、三の次というような「政治」ではその国の将来などあろうはずもない。同盟国なのかそれともアメリカ合衆国日本州なのか、このような状態(政治)をいつまでも「受け入れている」こと自体が次世代の存続すら危ういものにしているのである。国の中枢にいる者達が「詐欺師」、「二枚舌」などと言われても平然と臆面もない言動を繰り返しているのでは世の中一般で「詐欺師」、「二枚舌」が常態になるのは当然で、子供の教育どころの話ではあるまい。その挙句には「理想のリーダー」の待望論などが出てくる始末。これではまったく民主主義などが根付いていなかったことを証明しているようなものである。「理想のリーダー」など必要ないという覚悟が国民の側に必要なのである。リーダーなどというより民意を的確に反映させる代表を国民自身の手で育て上げるという方向で具体的な検討がなされるべきなのである。そうでなければ、いつでもとんでもない方向に突き進む危険性が出てくる。すでにその兆候は随所に現れているというのは大方の知るところでもあろう。

                                                2012 7/225


310.ジョーカー(バッドマン)とは現代の狂気そのもの


 7月20日未明、コロラド州デンバー郊外にある映画館で「バッドマン」上演中に銃乱射事件が起きた。死者12人、負傷者58人(11人が危険な状態)。逮捕されたのはコロラド大学神経科学博士課程学生・ジェームズ・ホームズ(24)。

 ホームズは逮捕後、警察関係者に「俺はジョーカーだ」と話したという。詳細は不明だが、人付き合いは下手で、それほど目立つ存在でもなくこのような事件を起こすとはとても思えないタイプであったようである。この手の人物評には新たな視点の手掛かりは見当たらないが、ホームズが神経科学専攻の学生であったことは今までの銃乱射事件とはまた違った局面を見せている。神経科学は精神医学とも密接に関連する脳神経関係の脳と心の研究の最先端科学でもある。少なくとも彼はいつからか自己の中に蓄積し始めた「狂気」については「普通」の者よりはっきりと認識していたはずである。周囲の者達にホームズがそれ程目立たなかったのも彼自身が自己の内部で脈動する「狂気」そのものを神経的に隠そうとしていたからで、むしろ彼の動きは愚鈍にさえ見えたのではないか。ホームズが「俺はジョーカーだ」と言う時、それは自己の「狂気」そのものに圧倒されてしまった「人間」の素直な心情吐露であると同時に自己同一性をわがものとした瞬間でもあった。それ以上の検証についてはそれこそ神経科学と精神医学の領域であるが、現段階では明確な結論は望むべくもない。況や警察などがその動機について調べてみたところで一体何が分かり得よう。それは現代の狂気の動機について過去の事例を基に法的処置を講じるだけで本態を垣間見ることさえできない。そしてまた三文週刊誌の類が「女に振られた腹いせ」、「チケットが取れなかった腹いせ」などと、ある意味では怖ろしい程の単純化で矮小化された俗流解釈の売文で紙面が埋められることであろうが、そこからは何も得るものはないというより危険でさえある。なぜホームズは自身が「ジョーカー」に成り切ることで「本来の自己」に収まるように思えたのか、それは「ジョーカー」が現代の「狂気」と絶対悪が持つ「自由」そのものを体現しているからである。それは完全なる狂気とも言えるもので、それに同一化することでしか自己同一性を獲得することができないまでに彼の内部は「狂気」で充満していたということになる。そこには陳腐な人間主義的な道義的解釈など入り込む余地はない。むしろそれはその「狂気」そのものに拍車をかける要素にしかなり得ない。この事件を起こす2か月前、すなわち準備を開始した時にはすでに彼は完全に「ジョーカー」になっていたはずである。「ジョーカー」とは「狂気」の臨界現象の現実態といってもよいもので、そこに至ってはもはや「生還」することも元に戻ることもできない。それでは今、我々にできることとは何か、それはまず「狂気」そのものの恐ろしさを俗流解釈ではなく各自の中でしっかりと「受け止める」ことから始めるしかあるまい。目を背けるといつの間にか忍び込んで増殖するのが「狂気」でもあるからである。我々は否応なくそういう時代に生きているのである。だから、時を得れば「狂気」はいつどこでもあたかも突然起こったかのように具現化してしまうのである。

 切もないのでこの辺で上演していた「バッドマン」の話を少ししようと思う。この映画の中のジョーカー役はジャック・二コルスン、その後ヒース・レジャーが演じている。ヒースは「時計仕掛けのオレンジ」の主人公アレックスを参考にしたといっているがこれは意味深である。両者とも狂気そのものを見事に演じ切れる役者である。日本では幸か不幸かここまで狂気を演じられる役者を私は知らない。しかし、このような映画がホームズを登場させた訳ではない。「ジョーカー」以前に「ジョーカー」は名づけ得ぬものとしてすでに存在していたのである。ホームズ自身は例えば記号式のようなもので自分を捉えることもできたかもしれぬが、それを分かりやすいもので置き換えれば一般的で具体的ものとして「ジョーカー」になるというということに過ぎなかったのである。

<追記>7・25

 思った通り、さっそくこの男のペニスの長短と「自己防衛」などというコンセプトでお決まりの初級心理学講座のような解説が始まったが、これで納得できるおめでたさには何とも辟易してしまう。「時計仕掛けのオレンジ」のアレックスのような男はとてもペニスの長短など気にしているとも思えないし、また小さいとも思えない。それでも彼はなぜすぐ逆上するのか?DSMーfourあたりを根拠に脳疾患性障害とでも括ってしまうのか。ペニスの長短を一つの手がかりとするのは<リピドーの発達段階の屈折、歪みが無意識化され蓄積された集合体>(ブログT/Z301「心の闇」?)という意味でもまったく無意味という訳ではないとは思うが、それだけに終始していては「狂気」に至る本態に迫ることなど到底できない。そして、今また改めて思うことは総じて心理学用語は陳腐である。これでは現実を捉え切ることは不可能であろう。川の水も海の水も、同じ水としか捉えられない者には現実は単純、簡単明瞭に見えるが、含有物も知らず同じように扱えば時には危険でさえある。要するにH two Oだろうといってみても水の本態を捉え切ったことにはならないのと同様である。おそらくこの手の心理学者にかかるとノルウェーの銃乱射事件の犯人も「ペニスの小さな男」ということでまとめられてしまうのであろう。

※その場に居合わせて犠牲となった方々に対して謹んで哀悼の意を表します。また負傷された方々の一日も早い回復をお祈りしております。

                                                     2012 7/22

 


309.呪われている大飯原発再稼働


 現在、世界は原発について否応なく慎重にならざるを得なくなっている。そのような時に、福島原発事故の検証もろくになされぬまま無謀にも大飯原発は再稼働を開始した。今、経済レベルの問題、この夏の電力の有無などを論じている場合ではない。実質的に危急存亡の時に自らの領土に「禁断の炎」を放っているようなものである。自ら自滅の道を進んでいるこの国に攻め込む敵など存在しないだろう、ただ見ていればいいだけのことである。「日本沈没」ならまだ分かりやすいが、実際には「眼に青葉 山不如帰 初鰹」の状態のまま人が住めない国土となるのである。福島原発周辺がその具体例で福島原発は今なお放射性物質を放出し続けている。今となっては再び大規模事故につながらないことを願うしかないが、大飯原発もその内、大中小の事故が頻発するだろう。それでも寝言を言い続けるのが亡者の亡者たる所以なのである。足りなくもない夏の電力供給と訳の分かったような経済談義に現を抜かしている間にこの狭い国土の居住範囲は徐々に狭まれて行く。これ以上原発に関わること自体が取り返しのつかない、復興なき亡国なのである。

                                                   2012 7/18


7月16日、過去最大の脱原発集会が代々木公園で行われた。

「さようなら原発10万人集会」

呼びかけ人:大江健三郎、瀬戸内寂聴、坂本龍一,鎌田慧、内林克人、澤地久枝(敬称略、順不同)

 「大衆」から「市民」に徐々に変容する意識総体を未だに捉え切れずに脱原発に否定的な因循姑息な割には大口を叩くチープでマッドな走狗としてしか機能しない者達がいるようだが、その存在自体が実に哀れで無意味と言わざるを得ない。このムーブマンはすでに第2第3のオンデュラシオンを内包している。

〇 700万人以上の署名を提出したが、その翌日大飯原発は再開されたという。今後もますます拡大させ、脱原発の方向で具体的な動きが見えるまで忍耐強く続ける必要があるだろう。

〇 電力会社の社員、その関係者の発言内容は、非常に危険であるというよりもはや認知症の域を出ないと言った方が適切である。 



308.どちらにしても子は親の鏡


 最近また中学生の「いじめ」による悲惨な自殺が相次いでいる。そのような「事件」の発生・経緯などを見ていると、それは「いじめ」というよりやはり「犯罪」と捉えるべきなのであろう。教育委員会、学校、教師、親、警察などにもその責任があることはいうまでもないことであるが、改めて感じることはほんとうに「大人」と言い得る者がどのパートにもいないということである。今回は「加害者」の親が開き直って攻撃的になっていることにも驚かされた。まだ義務教育の段階ではすべては親の責任といってもよいくらいで、監督不行き届きで責められるのは当然なことである。それを何を勘違いしているのか「自分の子供が自殺したらどうするのか」と周りのものに向かって言い放っている。前にも言ったことだが家庭内でのしつけから始まる養育、教育などで初めて子供という「人間らしき形」をしたものが「人間」になる「核」を作り上げるのである。放って置いたらどのような「動物」、「化け物」にでもなるのが「人間」なのである。中学生の段階でこのような行為を犯す「人間」に育てたことについては親の責任は大きい。この親にしてこの子といいたくなるが、「加害者」の親はまず開き直る前に自らが罪を背負うつもりで反省、謝罪すべきであろう。親はそのくらいの気迫をもって少なくとも中学までは子供の教育に関わるべきなのである。それとは別に教育委員会、学校、担当教師、警察は結果的には明らかに不祥事を起こしてしまったといえる。職務怠慢以外の何ものでもなく、これでは「税金泥棒」などと言われても仕方あるまい。思わず「頼むからきちんと仕事だけはしてくれ!できないなら辞めればいいだろう」と言いたくなる。やるべきこともせずそんなにびくびく生きてどうするのか、そんな生き方をしているから子供に見くびられるのである。そんな調子で長生きしてもいずれは見捨てられてしまうのがこの国の落ちなのである。巷では今日もまた居宅介護の住居から高齢者と家族のやり合う声が往来まで漏れ聞こえてくる。「うるせい!」、「早よう、死ね!」それはある意味で、自らが為したことがすべて形を変えて自分に返って来ているだけともいえる。

                                                   2012 7/16


307.東京スカイツリーの薄気味の悪さ


 私はこの手の類のものにはまったく興味がないので上ったこともないが、たまたま仕事の関係で下町辺りに行くことになりその姿を見ることになった。その時、何とも薄気味の悪いものを感じた。これは観光施設を装った軍需施設ではないのかさえ思えたのである。少なくとも関東一円の電波制空権は掌握できる設備は持っているはずである。高いところに上る気にもならない私は今までに何度もパリに行っているが一度としてエッフェル塔に登ろうと思ったことがない。それでもエッフェル塔の方はパリの街並みに何とか馴染み妙な違和感はあまり感じない。それに比して東京スカイツリーの不気味な違和感はどこからくるのか。それはおそらく都市構造上の問題、また位置的なことにもよるが、その色とその構造物に目一杯埋め込まれているであろう内臓物がデザインに収まり切れずにはみ出し、目的最優先の「軍需化」が表出しているからである。実際にどの位置からでもスカイツリーが現れると軍需施設内にいるような錯覚に襲われ、下町情緒などその土地の歴史から香り立つものが一瞬にして消え去ってしまうのである。エッフェル塔も出来た当初はパリの街並みを愛する者達にとっては不人気であったらしいが、そのような感覚とも異質な何とも不気味な違和感を感じさせる構造物なのである。それは東京スカイツリーの下にはステルス戦闘機でも待機しているのではないかと思われるような違和感なのである。

                                                   2012 7/15


306.そは君子豹変にあらず、をこなる暴君跋扈の正体なり


 大阪市民も今後はさらに慎重な選択を迫られるだろう。時に民意に阿り、機を見ては得手勝手に済し崩す、これは西も東も同質で両者とも民主政治とは似ても似つかぬ道筋を志向している。戦後民主主義も根付かず未成熟なまま、再び自由を放棄して思い付きにも等しい無思慮な非政治的な「快刀乱麻」に「心地よさ」を感じるようでは戦後民主主義などは根こそぎにされるだろう。もし、それがこの国の歴史的必然であるなら、堕ちるところまで堕ちるより他に真に「覚醒」される道もないのだろう。しかし、現状はまだ一縷の望み以上のものを残している。それは市民と言い得る人々の意識の変容である。これは3・11とその後の惨状と社会的関わりの中から全人格的に感得したものによって必然的にもたらされたもので人為的なものではない。したがて、この意識内容はいかなる者の糊塗も寄せ付けない、また屈しない強靭さを秘めていると思われる。

 これは予期し得ることではあったが、最近大阪市の首長は以前の主張を覆し、現政府擁護の致命的とも言える発言を始めた。ただし、これは都の首長ほどに老獪ではないというに過ぎないことで、両者の質的相違を探す方が難しいくらいである。どちらにしても彼らの偽りの「夢」に乗せられたら国民はまた魔境を彷徨うことになる。いくら詭弁を弄しても決して彼らには官僚政治を倒すことも、切り込むこともできない。そもそも利害関係が一致する者同士がどうしてそんなことをする必要があろうか。民意に一時的に阿ることにかけては妙、すなわち機を見るに敏ではあるが、「政治的配慮」に欠けるスタンドプレーの多い義もない者達としかいいようがないのである。彼らの狙いに沿えば国民が利するところは皆無である。そして、そのすべてはもうすでに透けて見えている。

                                                           202 7/11

「ある日、その時」 (21) 2012年6月9日ー

<掲載内容>

293.「国立ハッカー養成所」?294.被災地で「心のケア」? 295.La démocratie de Japn  296.「お子様ランチ」と「イエローケーキ」の好きな国 297.オルフェーブルよ、それでよい・・ 298.青葉、青物、草いきれ 299.首相官邸前に45000人、事実は海外から聞け!300.台本を読むがごとくの街の声 301.「心の闇」?302.6 月29日 首相官邸前に※15万人の抗議デモ303.極薄テレビは風に揺れ・・・304.国民自身が真に試される時 305.クラゲにまで抗議された大飯原発

 

                                              (転載・複製厳禁)



 305.クラゲにまで抗議された大飯原発


 大飯の原発はクラゲの大量発生で2次冷却水を冷やすのに必要な海水の取水量を制限したことで電気出力が1.7%低下した。この地域でのクラゲの出没は今に始まったことではない。今回もクラゲの量次第では原子炉のフル稼働が遅れる恐れもあったと伝えられている。クラゲの発生だけでこの調子である。おそらくクラゲの発生も想定外なのであろう。この地域は越前クラゲ(直径1メートル、重さ150キロ)の生息地でもある。以前、この大型クラゲが異常発生したことがあったが、そうなればこの程度では済まないだろう。冷却水の取水口が完全に塞がれて出力低下どころの騒ぎではなくなる可能性もある。一寸先も読めない目先の利害だけに突き動かされる者達に対する自然界の警告と見る方が「人間」としても賢明であろう。海中に大量に浮遊する海月(くらげ)を見ていると、首相官邸前で再稼働に抗議する人々の「思い」とどこか重なってきて、つい多くの人々の「思い」が彼の地でクラゲに姿を変えてなどと、「人間」と大自然との交感点まで考えてしまう。やはり、「思い」だけとなったクラゲの方は少々過激であったようだ。身を挺して電気出力を1.7%も低下させてしまった。これはそれだけで済む話でもなく、このままではその内に越前クラゲも引き寄せてしまうのではないかとさえ思われる。クラゲにまで抗議された大飯原発は3・11以後の再稼働原発として世界の記憶に刻まれるであろう。それは、総じて「汚点」であるにも拘らず、日本を原発実験場と捉える国には今後も原発データ収集の宝庫としてあり続け、人類の盛衰という視点から見れば間違いなく忌まわし汚点の一つでしかないものとして記されるということである。人類の手に負えないものをどのように「平和利用」できると思っているのか、できると思うことが愚かであろう。「悪魔」をすなわち「悪」を明確に認識できない科学は「不充分」なのである。マッドサイエンスにもはや人類というカテゴリーは存在しない。

                                                      2012 7/8

                                                 


304.国民自身が真に試される時


 国民自身が真に試される時はこれからである。原発再稼働についても、稼働を開始してしまったから終わるというものではない。手を緩めれば第2、第3の原子炉が再稼働を開始するだろう。原発再稼働に対する抗議は忍耐強く常に繰り返し行う必要がある。しかし、それに耐え得るほど人々の気持ちは強く、深いと思われる。それから、増税に関しても、政府広報の大手マスメディア系は連日、消費税増税法案が確定したかのような報道であるが、京都大学大学院教授・藤井聡氏の言うとおり「この法案の第18条(いわゆる景気条項)には、景気の動向を加味した上で、時の政権が増税するかどうか「判断」することが明記されている。ー中略ー(仮に法案が成立しても)増税するか否かは、遅くとも来年夏に誕生する新政権の判断に全て委ねられているのだ。」すなわち、選挙民の賢明な判断にすべてはかかっているということになるのである。当然、既得権益側の利権を守るために政府広報の大手メディア系はあらゆる手を使って目くらましを投げかけてくるだろう。これに引っかかれば増税法案は施行されるということになる。要するに「財政困難」「金がない」など財務官僚と同じようなことを言っているような政治家を選べばそれでアウトということになるのである。政府広報の大手メディア系とは99%の国民側(非既得権益側)にいるようなポーズをとることが実に巧みな、1%の既得権益側の代弁者であるということを肝に銘じて置かないと簡単に彼らの常套手段に乗せられてしまうことになる。難しいことは分からないというのであれば、簡単である。彼らが言っていることを逆に考えてみる作業、それが99%の者たちの義である。「確定」は「未確定」、「限りなくグレー」は「ホワイト」、「金がない」は「金はある」、「ない」というなら見せてくれと言いたくなりはしないか。それが市民の気概というものだ。現に金がないというわりには変なところに使っているではないか。彼らが貶すものはすべて彼らにとって「都合の悪い」ものに限られているというこの当たり前のことを今再確認しておいた方がよいのであろう。彼らには公平も公正も義すらも存在しないということだけは確かなのである。

                                                2012 7/7 

                                                                                雨雲が垂れ籠めて何も見えぬが

                                       牽牛と織女は天の川を渡れたのだろうか


 303.極薄テレビは風に揺れ・・・


 極薄テレビは風に揺れ、「毎日」出づる「朝日」に向かいて鳴く鳥の声にぞ怪しく驚かれぬる

「コケッ、コケッ、コケッター、コッコケーキョーコケー」、!?

見れば「読」むに足る「売」りものとてもなく、あるは「せん妄」「徘徊」ばかりなり。

耳を澄ませば、溺れる者の藁をもつかむ声しきり・・・

 何処の世界でも堕ちるものは静かには堕ちぬもの、周囲の者を一人でも引きずり込もうとする。いつからかアメリカ合衆国日本州になってしまった日本もそのようである。「ドジョウ」は「ポチ」以下であった。独立国としての矜持もどこへやら、今では日本人を見て「侍」をイメージするものは稀であろう。やはり「ドジョウ」である。そうかといってここで時代錯誤の「龍」などを持ち出されても「ブラックホール」に一瞬の内に飲み込まれるだけであろう。「ドジョウ」などという自己認識も実は今に始まったことではない、少なくとも戦後、日本がアメリカに対して常にどこか無意識の領域で持ち続けていたものも「ドジョウ」などという表現で象徴されるものである。それが、期せずして一匹の「ドジョウ」の口から零れ落ちたに過ぎないのである。そいう意味では「正直」なのである。「ドジョウ」の生簀に酸素を送り続ける者たちにとってもそれは都合のいい自己認識である。「ドジョウ」は決して前には進まず上下動しているだけで、いざとなっても藁をつかもうとする必要もないが、今や生簀の土台そのものが瓦解し始めているのである。半ば「酸欠」状態でこの生簀の「酸素」目当てに近づけば結局死なば諸共という事態となる。そして、もうすでに再生不能の完全な死に体状態を呈しているのである。もはや彼らが何をどう言ってみても無駄であろう、自己矛盾と欺瞞をさらけ出すだけである。今後の最重要キーワードは<行為>そのもの、すなわち<何をいかに為したか>である。「ドジョウ」と共に堕ちる者達にもはや明日はない。

 「狡兎(こうと)死して走狗煮らる」は世の常  覚悟はできているかな。

                                                                                                                                         2012 7/2


302.6月29日(金曜日)午後6時、首相官邸前に※15万人の抗議デモ

150000citoyens manifestent contre une mesure arbitraire du gouvernementLe cotenu principal d'une protestation est sur la réopération de centrale électrique nucléaire.


 これは市民としての「健全な」在り方を示すもので、問題のある政府に対する抗議行動は至極当然のことである。しかも、それが自然発生的であることが今までにはなかったことである。原発再稼働しかり、消費税増税しかり、これで黙って何もしないのであればもはや市民不在の国家としか言いようもなく、世界の市民レベルからすれば「信じられない!」国民としか見えないだろう。そこに至っては「寛容」、「優しさ」などという日本人に対する形容は愚民の言い換えでしかなくなる。

 まず意思表示としてその場所に集まることが最優先である。そして、世界に向けて発信し、日本国内にもかくあるという市民の存在を知らしめることが重要である。抗議のためにそこに「いる」ということ自体が大きな意味を持つのである。それが10万人以上ともなればどのような緻密な計算も、作為も無効化する計り知れない相乗効果を生む。実際に参加しようとして参加できなかった市民も含めると優に100万人は超えるのではないかと思われる。そして、それを支援する人々の数はその数値をさらに大きく上回っていることだろう。

 愚民で終わるのか、市民として目覚めるかの岐路に否応なく立たされているのが現状でもあるが、ここ一連の抗議デモを通して多くの市民が「助け舟」としてすでに先例のある便利な通信手段を有効活用する術を実践的に体感したのではないか。それも大きな手応え、実体験の一つとなって今後もさらに大きく拡大していくことであろう。

※当初20万人とあったが主催者発表で最終的に15万人となっていた。フジテレビなどは数の勘定すらできないとみえて14000人と伝えていた。すべてがこの調子なのである。報道機関として一桁も見間違うようでは何の役にも立つまい。「警視庁調べ」などというのも同様で、特にこの種の件に関しては当てにならない。どちらにしてもその内、画像解析した正確な数値なども出てくることだろう。      

                                                    2012 6/29


301.「心の闇」?


 現在、日本では3人に一人がうつ病であるといわれ、統合失調症(精神分裂病)と言い得る者は自らをそれとは認めたがらないのが実情でもある。現代の「狂気」そのものを病院施設に封じ込めれば事足りるとは思わないが、具体的処方である程度の生活が甦るのであればそのようにした方が賢明であろうと思われるケースは多い。フロイトですら精神分析の対象を神経症に絞り、精神病を対象外にしているのである。統合失調症を心理療法で治せるなどと思う方がその「病根」(器質的なものも含めて)の状態を知らな過ぎるとも言える。そうかと言ってそれを「心の闇」などと置き換えると、それは手の施しようのない人間の不可思議な領域があるかのような印象を与えると同時にそれが人間であることの「証」のような錯覚さえを与えかねない。「心の闇」の領域に踏み込んだフロイト、ユングなどが炙り出したものを手掛かりにして捉え直せば「心の闇」などというものもリピドーの発達段階の屈折、歪みが無意識化され蓄積された集合体と解した方が少なくとも「人間」に対して必要以上の幻想を抱かなくなる。「心の闇」を人間の「特権的位置」に置くことで「人間の証」としてはならない。むしろ、「心の闇」の捉え方、在り方次第では「人間」と自分自身が乖離概念にしかなり得ないという視点が必要であろう。

                                                2012 6/29


300.台本を読むがごとくの街の声


 6月26日、衆議院で民主党政権とその周辺が自民党と公明党の助けを借りて消費増税法案を圧倒的多数で可決させた。それについてのNHKの解説は簡単明瞭、特に社会保障についての説明は漫画解説のように簡潔であった。実際には、その仕組みは頻繁に修正、訂正され続けて煩雑になっていて官僚にしか分からないような内容で議員ですらなかなか手が出せないのが現状である。ここまでくると根本から手直しするか白紙再検討するしかないところまできていると思わざるを得ないのだが。このような説明で分かったようになること自体が不可解極まりないことである。したがって、「増税と社会保障の一体化」などといってみても具体的には意味不明で検証の余地などまったくないとも言えるのである。言ってみれば増税するためにのみ都合のよい言葉をくっつけただけともいえる。そして、またそれについてのいつもの「街の声」であるが、多くの市民にすでに見透かされているというのにまだ性懲りもなく続けられている。もっともらしく流暢に話すどこかで聞いたことのある増税賛成の「街の声」、取ってつけたような稚拙さを印象付けるためだけの増税反対の声。すでに小学生にも見抜かれている、「あの人書かれているの読んでいるみたい」。しかし、増税賛成をぶつ若者、老人の顔をこれ程までにまじまじと見たことは過去になかったように思う。少なくとも彼らは大多数の国民の側にはいない者達であるということだけは確かである。もしそうでないなら自らの立ち位置を裏切っている走狗である。

 今、国民としては義士57士に期待するより手立ては残されていない。彼等を助けるためであれば国民は何でもするのではないかとさえ思える。

                                                      2012 6/27        


299.首相官邸前に45000人、事実は海外から聞け!


6月22日夕方、首相官邸前で45000人の一般市民が抗議デモを行った。いよいよ市民と言い得る人々の動きが活発化してきた。各地でもデモがあり今後もさらに大きなうねりを生じていくことであろう。これは市民であれば当然のこと、もはや止めようとしても止めることはできない。

 この件については海外メディアも報じているにもかかわらず、日本で報じたのはテレビ朝日だけだという。一事が万事この調子で、政府公報のような日本のマスメディアの話をうのみにしていたら何においても知らぬはすべて日本人ばかりなりということになりかねない。放射能測定しかり、これではいくつ身があっても持つまい。事実を知りたければ、やはり海外の動きを見聞した方が賢明であるということになる。

                                                     2012 6/25  


298.青葉、青物、草いきれ


 青葉、青物、草いきれ、「青臭い」ものが好きである。総じて、未熟と言う意味で「青臭い」という括り方をするものの境涯の方が肌に合わないことが多い。それは実のところ「円熟」とも「枯淡」とも程遠く、俗臭ふんぷんたるものであったりもするからである。そして、時には腐敗臭、死臭さえすることがある。そのような位置にいるものから発せられる「青臭い」という言葉からは行き場のなくなった閉塞空間を変容、転化させようとする意味作用そのものを無化させられることに対する苛立ちのようなものが立ち上がってくる。枯渇ではない枯淡の境地そのものにあるものにとっては「青臭い」などという形容すらもはや思い至らず、ただその「位置」が明確にわかるだけであろう。この比喩自体にすでに俗臭がしみ込んでいるのである。香を嗜んだものにとって「抹香臭い」などという言葉も俗臭が立ち込めていて不快なものを感じる。

 青葉、青物、草いきれ、

 樒、沈香、白檀、

 何処に厭う理やある

                                                   2012 6/24


297.オルフェーブルよ、それでよい・・・                                        


6月24日、オルフェーブルは己を忘れて、熱き思いを寄せる人々のためにだけ走り続けた。それでいいのである。君と馬が合わない人間達のことなど忘れろ!そんなことに関わっていたら君自身が壊れる。君はすでに見たはずだ、己自身に関わり過ぎた凍えるような風景を・・・・・・おめでとう!よくやった!

                                                       午後の5時


296.「お子様ランチ」と「イエローケーキ」が好きな国


 どこを見てもほんとうに「大人」がいるのかと思われる程「大人」の少ない国である。だから、何をやっても「お子様ランチ」の国なのである。ただ目先の欲にかられて地震大国の小さな国であることも忘れ、身の程もわきまえずに取り留めもなくイエローケーキに手を出す。今や全身イエローケーキ塗れであるが、それでも飽き足らずさらに欲しがる。その様は「人間」を逸脱していて不気味でさえある。ここでまた「人間」は「人間」の形をして生まれてくるから「人間」なのではなく、放置すれば何になるのか分からないのが「人間」でもあるということが思い起こされる。動物界の中でも、その育てられ方によっては容易に狼にも豚にも、あるいは「化け物」、「悪魔」の類にも成り得るのは「人間」だけだからである。以前から日本人の精神的脆弱さを指摘する見解はよく散見されてはいたが、そこに見えてくるのは煎じ詰めれば唯物論的世界観、この場合の近似の意味は単に「金がすべて」ということになるが、結局のところそのことだけに身をゆだねてきた結果としか言いようのないものでもある。それは同時に「精神的なもの」を「計測不能」、実利とはかけ離れたものとして排除、軽視するあまり、逆に精神的「耐性」が次第に欠如して子供だましのようなカルトの類の言説にも簡単に絡め取られてしまうという精神的脆弱性を必然的に導き出すことにもなった。しかし、宗教を最終的ビジネスととらえるカルトの指導者と国政を最終的ビジネスととらえる者と一体どれだけの質的相違があるのか、両者にそれ程の質的差異があるとは思えないが、ただ両者に共通して見えてくるのはたとえどれだけ社会的影響力を手中に収めても「人間」としては成育過程で多くの欠如態を持つ「大人」になりそこなった、なり得なかった者の姿である。ここでいう「大人」とは、少なくとも常に検証に耐え得る何らかの「世界観」を持った、すなわち、常に現実との照合を怠らない「理念」を持ち続けることのできる「自由」の意味を真に心得ている者とも言える。それは完結することのない歴史の全体化作用にしっかりと身を置ける者でもある。

 「壊れちゃった」と平然と言える自分のことしか考えらえない未成熟な連中の中でいつの間にか国が崩壊していたということのないように願うだけである。

                                                   2012 6/21


295.La démocratie de Japon ne tient qu'à un fil. Ou elle n'est pas là dès le commencement・・・・・


La politique de Japon n'est pas politique et la démocratie ne tient qu'à un fil.

Les faibles abandonnés・・・・  le souhait du public a été trahi.・・"A bas la bureaucratie" c'est là notre souhait unique.Qu'est ce que la bureaucratie? Dans un certain sens c'est le fascisme.・・・・

                                                                                                                                     2012 6/13


294.被災地で「心のケア」?


 同時にやるべきこと、優先順位を間違えていないか?

 被災地で「心のケア」と称して遺族らに「お話をお伺いします」などと呼びかけているらしいが、すでにその姿勢自体に「驕り」があると思われる。いくら研修を受けてもそれで人の心を癒せると思うことが誤りなのである。場合によっては他に意図があるように思われても仕方あるまい。善意の押しつけは人の心を酸欠状態にする。被災地で、身体的にも、物理的にもすべてがまだ未解決のままで「心のケア」とはすべてにおいて不自然なのである。現状は難民キャンプに等しい、そのような状況の中で「心のケアに参りました」、「悲しみはこの時期にこうなり、今後はこうなる」などと講釈を垂れることにどれほどの意味を見い出し得るのか、それも救済者のような姿勢で押し作られては遺族は戸惑いと鬱陶しさを感じるだけであろう。敢えて言えば、そこにはカルト集団の「営業活動」と同質のものさえ感じられる。そのようなことより、遺族がそこの瓦礫を取り除いてほしいと言えばそれが先決である。僧侶といえども場合によっては僧衣を捲し上げ遺族と共に「池を掘る」のがほんとうの僧侶の姿である。

 人の悲しみなどは他者が救済できるものではないと思い知るべきである。特にパターナリズムのような姿勢では全く不可能である。激しい身悶えするような悲しみから少しでも穏やかな悲しみに自らの力で立て直す方向に随伴することしかできないのがカウンセラーであり、僧侶でもある。場合によってはそれすらできない時もある。そういうことを知らなさ過ぎるから不自然なのである。哲学のない心理学は容易に政治戦略と結び付く。そして、また「御用学者」の暗躍ということになる。現実は何も変わっていないにも拘らず気持ちだけは「天国」というようなものではそれもまた一つの「狂気」と言わざるを得ない。もしその実態がこのようなことであるなら、それはあまりにもお粗末な解決方法と言わざるを得ないし、何の展開も内面的深化の手掛かりも見出せないことになる。それでは「薬物」依存と変わるところがない。

 

                                                2012 6/9


293.「国立ハッカー養成所」?


 このような企画は2003年頃から持ち上がっていたようであるがここにきてますますまた現実味を帯びてきた。今まで犯罪者扱いされていたハッカーが今度は国の要請で合法的な存在となり、それを何と称するのかは知らぬがそれに対するものを「クラッカー」とでも呼び識別するのであろうか。どちらにしてもまた際限のない攻防戦の幕開けである。この世界では高いレベルのハッカーを「グールー」と呼び、さらに最高レベルのハッカーは「ウィザード」と呼ばれているそうである。そして、彼らが基本的に攻撃目標としているのは「巨大」という形容動詞の語幹がキーワードとなる権力サイドに限られている。したがって、彼らが権力者側に付かない限り我々市民レベルは攻撃対象にはならないので、妙な恐怖心を煽られ踊らされる必要もない。

 思うに、国に囲われる者の中からは決して「ウィザード」は現れないであろう。すべてに於いてそうであるように突出した「才能」を持つ者は余程の特殊な事情がない限り国とは相容れなくなるからである。たとえば、この間に再びその名を馳せた「御用学者」に象徴される「御用集団」などとはそもそもの成り立ちが異質なのである。最近、防衛相になった某大学教授なども「御用学者」の類で、政治的には何もできないことを見越された上で、程よい傀儡に成り得るから選ばれたようなものである。ただ「素人」の怖さが残るが、それも教授としての自分の才に見切りをつけた者がどのような徒花を咲かせようとしているか計り知れないところもあるという意味でである。もしそうでないとすると相当におめでたい人物であろう。テレビに頻繁に出てくる「識者」、「ジャーナリスト」などはこの程度のもので,「本物」は皆無に等しい。総じてテレビは安易であるだけに却って黙って観ているだけでかなり危険なものとなる。自転車と同様である。

                                                   2012 6/8

「ある日、その時」 (20) 2012年5月5日ー

<掲載内容>

282.レビー小体型認知症並みのテレビ、疓(ダイ)メディアの報道 283.人間に生まれたから人間なのではない 284.この国の近未来?285.「小沢裁判」控訴という恥の上塗り、己を知らぬ愚行の極み 286.貶められてしまった「ノマド」 287.そんなに小沢一郎が怖いのか?288.ヴィクトリアマイル(G1)3連単 289.策士策に溺れるのは世の常 290.毒舌版「哲学者の言葉」?陳腐な盲蛇の戯言 291.「生活保護は恥」という再刷り込みに躍起となる御用集団ー「自立」という名の経費削減ー292.マスメディアが作り出す正体不明の「庶民」と「世論」

                                                     (転載・複製厳禁)



292.マスメディアが作り出す正体不明の「庶民」と「世論」


 そもそも「庶民」とは一体何者なのか?その遣われ方を見ていると「国民」とも「市民」とも微妙に違うようである。「庶」という字には「多くの人」、「もろびと」というような意味がある一方で、官位のない「平民」、「正妻ではない女性から生まれた子」、「本家から分かれ出た家」、「分家」という意味がある。それがこの言葉に仕掛けられた巧妙な「罠」ともなる。少なくとも独立した「自由意思」を持つ「市民」とでは言葉が前意識、無意識レベルに働きかける資質の分子構造そのものが違うのである。マスメディアが「親しみ」を込めて頻繁に遣うこの言葉の呪縛からそろそろ解放されてしかるべき時ではないのか。今では遅きに失する感さえする。

 そして世論」であるが、「庶民」などと併用してよく遣われるその調査数値のほとんどはろくに金もかけずに新聞社が1000名程度の「国民」に電話で行う「誘導尋問」に近い方法で割り出された数値であるといってもよい。それが大方の「国民の声」の実態なのである。「正式に行う」妥当性のある世論調査などはかなりの金額がかかるのでそんなに頻繁にはできるものではない。1000名程度で割り出した数値に新聞社がさらに「金主」の顔色を窺いながらその意向に沿うように「下駄をはかせる」というのがその実情であろう。したがって、「空気を読む」ことしかできない者、はっきりとした見解がない者達はこのような操作に簡単に乗せられることになる。そして、自らの手で自分の生首を絞めていることに気が付かないのである。いつまでもこのような愚かしいことをやっていたのでは民主国家云々どころか1%のサドと99%のマゾの国ということになってしまう。現在の見るも無残な「大手」マスメディアの醜態は単にその本質が現れたに過ぎないが、さらにそこに浮かび上がってくるものは「金主」から「大手」マスメディアに相当の「圧力」がかけられていること、そして自らも追い詰められて形振り構わず既得権益死守に突っ走っている姿である。そして、あろうことか各紙の記事内容はどれもこれも官報、政府広報のごとく一律で(この傾向は今に始まったことではないが)、少なくとも先進諸国と称される国ではこのような事態はあり得ないことである。これでは日本の「新聞屋」は命運尽きたと言われても仕方あるまい。まったくその存在理由がなくなっているのである。仮にあったとしても単なる権力の走狗という程度の意味合いしか持ち得ない。三大新聞終焉の時が具体的に近づいているのである。

 「面白いものがない」、「気持ちが悪くなる」、「嘘が多い」というのが最大の理由でもあるが、抗議の意味も含めてテレビ、新聞などを見なくなってどのくらいの年月が経つのだろうかと思う。買わなければいいのである、見なければいいのである。それが今一人できる最大の抗議であることを随分前のブログで私は提起した。取捨選択できる能力さえあれば情報源はいくらでもある。

 

                                                     2012 6/3

                                               


 291.「生活保護は恥」という再刷り込みに躍起となる御用集団

ー「自立」という名の経費削減ー


  「自立」ということは確かに生きる上に必要であり、且つ重要なことではある。しかし、弱者にただ鞭打つだけでは無能の行政、その国の社会的脆弱性を露呈しているに過ぎないことになる。現在、介護保険についても加齢とともに進む介護レベルも逆に「自立」の名の下に厳しくチェックされ介護レベルを格下げすることで実質的には大幅な経費削減を行っている。言い換えれば、今まで通りの安全性が確保できない介護にもなり得ることを民間レベルに丸投げし、今まで以上に責任を負わされた現場担当者がさらに削減された賃金で働くことを余儀なくされているというのが実情である。また、生活保護についても「生活保護費が自立どころか生活費にもならず、遊興費目的に消えているのが現実である。」(「週刊ポスト」6/1)などと受給者全体がパチンコ三昧をしているかのような書き方で生活保護費給付制限を煽っているようなものまである。そして、ほんとうに必要としている人々についての記述はどこにもないのである。このような動き全体を見ていると、国民の憲法で保障された権利を何としても再び「恥」に置き換えることでほんとうに必要としている人々までも給付から追いやることに躍起になっているとしか思えないところがある。今年度予算の生活保護費3兆7500億円、国の無駄な支出5兆円などを削減すればすぐに浮く話でもある。天下りでろくな仕事もせず年収2000万円も貰っていいる者から比べれば月に一度の給付日に一円パチンコでストレス解消するなどはカワイイものである。この際、ほんとうに「最低限度の生活を保障する」という「最低限度」について検討し直してみてはどうか。まさか刑務所生活以下ということではあるまい。そして、「健康で文化的な最低限度」とはどういう状態なのか、WHO(世界保健機関)の健康についての定義は「健康とは、完全に身体、精神、及び社会的によい状態である。」とある。病もなく辛うじて食えて寝るだけの生活を健康とは言わないのである。そして今、くれぐれもマスメディアといっしょになって貧者、弱者が貧者、弱者を攻撃対象にすることは避けなければならない。一円パチンコをやっているのは99%の国民がなり得る姿であって、そのような姿に給付制限の恰好の理由を得たとばかりに笑っている者達にこそ矛先を向けるべきなのである。

                                                  2012 5/27


290毒舌版「哲学者の言葉」?陳腐な盲蛇の戯言


 敢えて取り上げる程の本でもないが、ある意味では日本の文化レベルを象徴しているのでつい言いたくなってしまった。「盲蛇に怖じず」とはまさにこのことで、これでは日本文化など衰退の一途であろう。あんまりにも幼稚で低俗な、著名人を利用した自己暴露本の類で、それはお笑い芸人が書いているので当然だといえばそれまでだがそれにしてもあまりにもおそまつである。毒舌という以上は、そこにはそれなりのエスプリがあってしかるべきであるが何もない、ないことが丸見えでバライティか何かで喋っているようなノリの内容である。取り上げているいる人物はおよそ彼が普段考えたこともないだろう人物ばかり、言い換えればいくら悪口雑言を垂れても安全地帯にいられる対象であるということである。要するに、ダイジェスト版読者のダイジェスト版読者によるダイジェスト版読者のための単なる憂さ晴らし程度の何ともお恥ずかしい身の程知らずの言いたい放題といったところである。これを金を出してまで読むか?昨今の事情では、これも国の愚民政策の一環ではないかとさえ思ってしまう。

 「毒舌」などとはおこがましい。それは単なる「駄舌」と言った方がいい。「芸人」ならもう少しきちんと焦点を定めて体を張ってやるべきであろう。今ではもう何を言っても限られた者にしか答えない者達に向かってそんな下種な吠え方で一体何が得られるというのか、まったく無意味。死んでしまった者達の屋敷の塀に向かって立ち小便したくらいで何か言っているつもりになられてはただ騒々しいだけで傍迷惑。存在自体が五月蝿い(うるさい)のである。

 こんなことでその気になっている、またその気になれるのが今日の日本文化の負の転移性の一面でもある。すなわち何の積み重ねにもならず発展性もないものに自らはまり込んで行く営為、方向を敢えて選び取っているのである。下種は下種の勘繰り以上にはいつまでも脱し切れないから下種なのである。そして困ったことに下種は常に自分の方に他者を引きずり込もうとする。意味があるとすれば愚民政策の一環ということでしかないこのような「下種文化」にこれ以上日本が蚕食されないことを願うばかりである。

                                               2012 5/19

 

                                           


289.策士策に溺れるのは世の常


 策士というのはさぞかし自分を賢いと思っていることであろう。しかし、そのこと自体にすでに盲点、死点がある。現政府の「構成員」の中で政治家といえる者が一人もいないというのは余程の物好きでもない限り大方の共通見解でもあろう。それでは何と呼べばよいのか、その動きを見ているともはや政治屋でもなく、単なる策士が徒党を組んでいるだけともいえる。策士というのは一見巧妙な策を弄して敵対するものを窮地に追いやるが、その巧妙さ故に思わぬところに内部亀裂を生じさせていることに気が付かない。自分で仕掛けた罠に足をすくわれ、やがて自らの利権の死守に見境もなくなり振り回され、転げ落ちて行く。しかし、これほどまでに唾棄されるべき策士達と無能な人々が雁首を揃えたというのも珍しいことでもある。その理由については今更述べることでもあるまい。そして、多くのマスメディアの実態とは何のことはない、芸も身も蓋もない幇間、太鼓持ちの類に過ぎなかったということである。

                                                                                                                                     2012 5/15

                                            


288.ヴィクトリアマイル(G1)3連単


 ヴィクトリアマイル(G1)で3連単を的中させ、競馬ファンに拝まれてしまった。

 横山典弘騎手もドバイでホクトベガが自らの死をもって教えたことをよく自分のものとして人間的にも成長してきたのだろうと思う。無理のない人と馬とが一体となった良い騎乗であったと思う。レース後も人馬共にいい顔をしていた。おめでとう!これでドバイで散ったホクトベガも浮かばれるであろう。

12.ホエールキャプチャ 16.ドナウブルー 1.マルセリーナ

素晴らしい馬たちである。

                                              2012 5/13  午後の5時


287.そんなに小沢一郎が怖いのか?


 私個人は最初から小沢一郎という政治家を支持していたわけでもなく、むしろ彼とは異質の世界観を持っていたといった方がいいだろう。小沢一郎という現実の政治家を通して政治家がいかにあるべきかという在り方そのものに関心を持つようになったきっかけは私の師でもあり、元大蔵官僚でもあった人物が現役時代を振り返りつつ「小沢一郎はほんとうに政治家らしい政治家ですよ」と言ったことである。そして、この間のすべての動きの中でそのことを再確認できたことも彼に対する関心度と親近感をさらに高めたとも言える。同時に私の中にストンと入り込んで来たもの、それは現状の無残な日本の民主主義国家の実態そのものであった。わが師といえる人物がまだ現役であった頃からどのくらいの年月が経ったのか、その頃から小沢一郎は「敵側」の参謀が認知しざるをえない闘将だったのである。

 テレビ、「大」メディアとその周辺に徘徊する「識者」のそこまで堕ちるかという恥も外聞もない執拗な反小沢キャンペーンを見るにつけ小沢一郎をいかに怖がっているのかがよくわかる。「庶民」を装うテレビ、「大」メディアは決して「庶民」の側にはいないことを何度でも確認しておく必要があろう。それは民主国家、法治国家が何なのかさえ認識できない失禁状態の形振り構わぬ反小沢キャンペーンといっても言い程である。とても先進諸国に見せられる代物ではない。そして、いざ責任を問われれば彼らは準禁治産者でも装うつもりなのかと思われる程無責任であることも肝に銘じておいた方がよい。それほどに質が良くないのである。ここらでそろそろ小沢一郎も本当に名誉棄損でテレビ、メディアを悉く訴えてはどうか。ものには限度というものがあろう、そうすれば、その背後にいるスネイキィーな者達の尻尾もつかまえられるのではないか。彼らは民主主義国家の法治国家としての根幹を糜爛(びらん)させ、その国の憲法さえ無視することを「小沢裁判」を利用して今なお平然と行っているのである。本当に阿漕ないかさま師は誰なのか、それを見極める時に来ているのである。

                                                      2012 5/12


 286.貶められてしまった「ノマド」


 その本来の意味から外れ矮小化され空疎に再構成された言葉は実に多い。最近見かけるこの「ノマド」もその一つである。以前、私はまったく違う遣い方で「ノマド」をブログで取り上げたことがあるが、ここに来てその親しき者の無残な姿に再開したような思いに駆られて、ついつい黙っていられなくなって再び「ノマド」を取り上げることになった。

 「ノマド」は確かに「遊牧民」という意味はあるが、現在の「一般的な」遣われ方をみると単なる風俗小説の中に出てくるOLのような乗りの意味内容とでも言おうか、いくらそれを脚色してみても本質的にはフリーターの言い換え程度の内容でしか遣われていないということである。「遊牧民」をラテン語、イタリア語、スペイン語で置き換えてみてもその言葉を遣う側のその指示内容そのものが単なる我田引水的な閉鎖的意味内容しか持ちえないのであれば矮小化と言われても仕方あるまい。言ってみれば、そのこと自体が反ノマドなのである。「ノマド」とは根本的に違う「タジク」(定住民」の枠の中で「「ノマド」というコンセプトそのものがどのように成り立ちうるのか。実のところは、日本の「便利屋さん達」が「ノマド」という言葉をあたかも斬新なコンセプトであるがごとくに感覚的に体制内の自己合理化の方便として遣っているだけなのである。「ノマド」とは単なる「遊牧民」ということ以上に、徹頭徹尾反タジク(定住民)、すなわち完結性、閉鎖性からの離脱、自己を壊しつつ自己を作っていく変幻自在な生を徹底的に生きる生き方そのもの意味する言葉でもあり、すべてにおいて反権力的な動きそのものを指しているとも言えるのである。したがって、日本の「ノマドワーク」などと称されるものが意味するものとは雲泥の開きがある。日本で遣われている「ノマド」並びにその合成語はまったく意味不明な言葉と言ってもいいくらいで、むしろこれで何かわかったようになることの方が怖い。おそらく「ノマド」をここまで貶めたのもコピーアンドペーストの得意な売文業者であろうが、この程度の意識レベルでこの言葉を日本以外では遣わない方が身のためである。これは日本人が思っているほど生易しい言葉ではないのである。もし、遣うならそれなりの覚悟が必要であろう。

                                                  2012 5/10


285.「小沢裁判」控訴という恥の上塗り、己を知らぬ愚行の極み


 これで小沢一郎はさらにその名を歴史に深く刻まれることであろう。小沢一郎は法廷闘争を続ければいいだけのことである。今後、彼の法廷闘争はそのまま民主主義擁護の闘いとしてその意味をさらに強め、後世に貴重な教訓として銘記されることであろう。一方の愚かさもここに極まれりという感の、その後ろ盾も大方の知るところとなっている指定弁護士達はここでまた日本の司法の汚辱をその意に反して世界に知らしめることとなるのである。見れば指定弁護士達も結構な年の者ばかり、人生最後の締めくくりがこれではあまりにも情けないが、後世その汚名は払拭できないまま末代の恥として残ることになるだろう。それ程にこの「小沢問題」は大きいのである。

 しかし、目先の政治的効果にしか目がいかない者達、重箱の隅をほじくり返すだけが生きがいとする者達の為すこととは斯くのごとしで、小沢一郎を民主主義擁護の闘将として引き上げているだけということに気が付かないのである。賢いつもりが何とかの浅知恵、未熟な国家の未熟な為政者による未熟な国民相手のお粗末な三文芝居もそろそろ見飽きたところである。この際、最後まで徹底的にこの国の司法の穢れた恥部を白日の下に晒してもらおう。もはや検察も以前のような隠ぺい工作は通用しないことを肝に銘じた方がよかろう。指定弁護士達とその背後組織は自らの首を絞める選択をしたが、それも時代の趨勢である。

※指定弁護士:村本道夫、大室俊三、山本健一

 

                                               2012 5/9


284.この国の近未来?


 この国の行く末について御大層な題目で「識者」と称される者たちが「専門的」にそれ程の意味もない「具体的な検証」を繰り返しているようであるが、要するに「専門家」とは何のためにいるのかと言うことに尽きるのである。既得権益にしがみつくことが一義的なっている者達、またその周辺を徘徊しているものにとっては何をどのように言ってみてもその論調は的確な現状分析からはかけ離れてくる。昨今の大メディアなどの取り返しのつかない醜態はその恰好の証左であろう。さらに他紙並びに他誌については敢えて言うまでもない。単なる売文業者としてもよくもこんな無責任なレベルで「仕事」が成り立つものだと感心している。

 この国の行く末など「専門家」に聞くまでもない。巷に出てよく観察すればすぐに見えてくることである。老若男女の簡便で粗末な食事、高齢者の決して良いとは言えない千態万状の様態、これだけ見てもその国の近未来は見えてくる。最近では高齢者の犯罪も増えてきているとのこと、充分予想されていたことではあるが、これで何が見えてくるかといえば、その国の社会的脆弱さとその品位のなさである。民主主義国家云々以前に、社会的品位すら地に堕ちているというのが偽らざる日本の現状であろう。

 今日もまた、歩くこともおぼつかない老婦が老父を車椅子に乗せて押していた。そして、いつもの四つ辻ではまた認知症の妻を認知症の夫が大声で怒鳴っている。夜は夜で自分の位置さえ分からない老人がライトに浮かび上がる。今でも老人の行方不明者は後を絶たない、これが日々何気なく繰り返されていることである。アイホン片手に「独り言」を繰り返している者達にはまったく見えない事象でもあるが、今後もさらに確実に増え続ける現実の1様相なのである。

  古言にある「一葉落ちて 天下の秋を知る」、そして、「近きを以て遠きを論ずるなり」というところか。

                                                                  2012 5/8


283.人間に生まれたから人間なのではない


 人間に生まれたからといって誰でも人間になれるとは限らない。スイスの動物学者ポルトマンは「人間ほど未熟な脳を持って生まれてくる動物はいない。人間は生理的に早産だ。」と言っている。早い話が、オオカミに育てられればオオカミに、「悪魔」に育てられれば「悪魔」にもなるのである。放任しておけば何になるか分からない危険な動物なのである。未熟な脳を持っている以上、自然に人間にはなり得ないのである。すなわちきちんとした教育がなされない限りまともな人間になることは不可能であるということである。そして、何より子供の最初の教育者は親である。親の為してきたことのすべてが無意識の領域も含めてそのままその子に移され、吸収され増殖していく。要するに「親の因果が子に報い」というようなことがその言葉通りに起こってしまうということでもある。どのように取り繕ってもその子はその親との交流によって成長した人間であることに変わりはないのである。

 人間を危険な動物にしないためにも、もう少し謙虚に子供の教育を考えるべきなのではないか。少なくとも乳幼児期、児童期までの子供の放任主義、学校任せなどは親の怠慢以外の何ものでもない。産めよ増やせよの無策な少子化対策の中で、父性も母性も希薄なまま子供の教育もろくにできない親のもとではとてもまともな人間形成がなされるとは思えない。それはいつでもオオカミや「悪魔」を登場させる要因にもなり得ることを意味する。

                                                  2012  5/7


282.レビー小体認知症並みのテレビ、疓(ダイ)メディアの報道


 今後もテレビ、疓メディアの報道と「市民」と呼び得る人々との交信、関わり、すなわち相乗作用はあり得ないだろう。もし、あり得るなら自らのセンサーのモニタリングをした方がいいと思われる。国民全体の30%位が辛うじて「市民」と言える国でしか成り立たない事態である。例えば、統合失調症の多くは自らが精神の病に罹患していることに気が付かないことが多い。明らかに常軌を逸している者が相手のことを「常軌を逸した行為」と言うのと同様で、ほとんど自分のことが見えていないのである。残りの70%の国民が何らかの精神的疾病を持っているとしたら、たとえそうであっても少なくともそれを自覚している人々であってほしいと思いつつも現状を見るたびに広義の「精神的病」に振り回されているいると見た方がある意味では納得できてしまうことの方が多いのが残念である。これでは社会に目は向かないはずである。そして、これから高齢者の数はますます増え続け、当然脳血管性認知症、アルツハイマー型認知症、糖尿病性神経障害などを発症する者も増加の一途をたどることであろう。それを考えると30%の市民意識の確保すら覚束ないように見えるが、それは今いる30%の市民の今後の動き次第でもある。

 歩きながらアイホンに夢中になっている若者たちの間を無燈で走る抜ける自転車、おそらく崖っぷちに立たされてもアイホンをやり続けているのではないか思わせるその姿を見ているとなぜか憐れになってくる。結局のところ実態不明、正体不明のものに振り回され、自分が仕掛けた罠に自分自身がはまって行く、そして、いつなぜ自分が死んだのかも分からず消えて行く、実質的に殺されたにしても「幸せに」死んで行くのではないかとさえ思われる。そこには現実を見据える目がどこにもないのである。アイホン結構、「小さな幸せ結構」ただし、足元にはくれぐれも注意した方がいいという至る所にある「足元注意」の話である。しかし、この単純明快なことが難しいのである。

 

                                                    2012 5/5

 

「ある日、その時」 (19) 2012年4月6日ー 

<掲載内容>

271.「継続」とは一体何の力になるのか? 272.シニアの就業 273.為政者の挙動もチェックできないマスメディアとは 274.アメリカ合衆国日本州 275.「お友達幻想」に振り回されて 276.原発停止で集団自殺をするのはほんとうに国民なのか?277.「戦時中から変わらぬ日本組織の謎」?278.<番外編>乱調日本囃子 279.小沢裁判無罪で辛うじて保たれた司法の面子(めんつ) 280.オルフェーブル11位 281.法華津寛(馬術選手)、漸く現れた誇れる人物

 

 

                                               (転載・複製厳禁)



281.法華津寛(馬術選手)、漸く現れた誇れる人物


 法華津寛氏は次期オリンピックで世界が注目する日本の選手である。と言っても日本ではそれ程の注目度はない。多くの日本人にとってそれは予想だにしなかったことであろう。ここでも世界の視点と日本の視点はズレているというより明らかな差があることを感じざるを得ない。このギャップは何もオリンピックに限らず、政治、文化至る所に現れているが知らぬは日本人ばかりなのである。それにしても通用するのは日本だけというのが多過ぎるのが昨今の日本の実情でもある。

 最近、オルフェーブルについて2回ほど書いたが、そこには全く見られなかったものが法華津氏と馬との関係には見えてくる。「人馬一体」とは斯くあることをいうのである。見事に馬との交流がなされていると思われる。さすがに世界レベルの視点では他の選手達との本質的な質の違いが見抜かれているのである。

 「金だ」、「銀だ」とただ騒々しく無責任なマスメディアに乗せられて、自分を見失う者達、またそれを何とか跳ね除けてもただ「チョー気持ちイイ」だけではあまりに幼すぎて、さらにいつまでもそればかりでは品位も何もあったものではない。やはり超一級のレベルには達し得る方向にはいないのであろう。

 問われれば「爺さんたちの励みになれば」と、70歳過ぎた法華津氏の淡々とした物言いも風情がある。彼は世界的視点を持った真の国際人でもあると思われる。これでは日本の幼稚で下種なマスメディアも取りつく島もなく、餌食にしようにも為す術もあるまい。

法華津氏の人生に乾杯!そして密かに日本人として最大限のエールを送りたい。

                                                 2012 5/3


280.オルフェーブル11位


オルフェーブルよ

最強の馬よ

あの走りのどこに

君がいたというのか

君を殺したのは誰だ

凍てつくような走りに

君は見たこともない

風景を見たはずだ

折り合いなどつけるな

小賢しい折り合いなど

君には似合わない

オルフェーブルよ

思うがままに戦え!

君を分かろうともしない

人間どもに従うな!

                                             2012  4/29


279.小沢裁判無罪で辛うじて保たれた司法の面子(めんつ)


 未だに懲りずに空疎な内容を盾に物知り顔に小沢批判を繰り返している者もいるようだが、まだわかっていないようだ。これは小沢一郎という政治家一個人の問題で済むことではないのである。このような裁判自体が成り立つことの怖さなのである。この裁判でもし有罪判決が出れば、すべての者にとって「明日は我が身」ということになるのである。これは民主主義国家の健全な司法の在り方そのものが問われているのである。この小沢裁判が有罪となれば、それは三権分立以前の18世紀に逆戻りで、いつでもアメリカ合衆国など諸外国の「属州」になり得る「お手軽国家」として日本は世界の物笑い種となるところであった。そして今、小沢裁判で無罪判決を出したことで辛うじて世界に対して司法の面子だけは保たれたと言ってもよいのである。しかしながら、この裁判の経緯そのものは民主主義国家としての司法の破綻への道筋でしかなかった。ロックもモンテスキューも、この司法が「死法」としてしか機能しなかった国が今なお存在し得たことに対してさぞかし苦笑いしていることであろう。あれから200年以上も経って、やはり日本は傀儡政治か独裁政治がお似合いだとでも言っているようである。いつまで経ってもあまりにもすべてが幼稚なのである。もう少し何とかならないものかと思いつつ・・・つい何度でも言うことになってしまうが、テレビ、「大」メディアの「報道」の無責任さには目に余るものがある。それはとてもジャーナリズム云々のレベルではなく、単に阿漕(あこぎ)であるとしか言いようのないものである。非「庶民」である阿漕な者達が「庶民」を装い「物申す」という典型的な「操作」が飽きもせずまかり通っているのである。操作」された「世論」、操作」された「街の声」、それらは「空気」を読むことが「賢い」と思っている「国民」の性情をよく心得た「操作」なのである。見渡せば、上下左右阿漕な者達ばかりということではどちらにしてもこの国の三権分立などは画餅であろう。

  〇指定弁護士側(検察側)が控訴するかどうか検討すると言っているらしいが、これ以上恥の上塗りをするのは単なる愚行である。法曹界の人間としても、日本社会の一員としても世界に日本の司法の恥部をさらに晒すことになるのである。「恥を心得る」者であるなら、これ以上みっともない真似はやめてほしいというのが率直な思いである。しかし、一方ではこの際徹底的に「膿」を出すという意味でも「冤罪を作り出す日本検察の手口」、司法のありのままの姿を世界に晒すべきなのかもしれないとも思うが(続行すれば必然的に司法の機能不全が問題として浮かび上がってくるだけなのである)、日本の状況を全体的に捉えればそのような時間もないだろう。 

 これは小沢一郎の民主主義信奉者としての法廷闘争なのである。したがって、たとえここで控訴されても彼は耐え得るであろう。そして、我々は日本が民主主義国家ではあり得ないと言われて久しいことを再確認すべき時に来ているのである。                                                  

                                                                                                                                            2012 4/26


<番外編>乱調日本囃子 

泥鰌(ドジョウ)はミンチにして朱鷺(トキ)の子に それが世のため人のため ソオレ、ソレ、ソレ

泥鰌の切り身はどうだ そりゃわしらが決めることでもあるまいなー 朱鷺に聞かねばなるまいよ

アーソーレ、ソレ、ソーレ、ソーレ、ソレ、ヤレソレ、アーソーレー

 これでは「ええじゃないか」の平成版であるが、あれから僅か150年近くで本来「民」が内に持っているエネルギーもその発現の道を閉ざされ巧妙に削ぎ落とされてしまったかにみえるが、現状は良くも悪くも単にそれだけではあるまい。時折、その大きなうねりの一角が私の身にも伝わってくる。

                                               2012  4/某日


277.「戦時中から変わらぬ日本組織の謎」?


 それは第二次大戦を起点にするようなことでもない。それについて辿れば切りもなく歴史的に形作られてきた日本人の精神構造の根幹部分に否応なく行き着く。それは謎でも何でもなく、煎じ詰めれば日本人の「論理性の欠如」である。それは、常に論理との全面対決のないまま、「更新」も「イノベーション」もしようとはせずにただ既得権益にしがみつき、論理的に解消しざるを得ない時点に至っても論理的に成立する新たな視点、内容に対して拒否反応を取り続けてきた老齢性退行固執症候群とでも言うべき身の処し方と、そのようことを暗黙裏に許す精神風土そのものである。今、その精神風土そのものが根底から問われているのである。このままでは立ち行かないのは誰の目にも明らかであろう。これほど論理の厳しさを知らぬ「国民性」も珍しく、その一生は常に全身がしぐれていくかのようである。組織の様相もまた然りである。なぜこの国の動き一般が事の当初だけは調子がよいのか、それは「思い込み」と「小手先勝負」が論理性を排除する方向で、また本質的な理念のすり合わせを避ける方向でしか進みようがなかったからである。どのような詭弁を弄しても結局のところ、そのような時間のかかる肝心な部分の作業を排除、あるいは避けることで、展開しようのない方策を非論理的に受け入れる精神構造を保持し続けることが「できた」からである。なぜ「できた」のか、それについては余りにも長くなるのでここでは避けるが、現状を見れば一目瞭然なことで今までの当然の論理的帰結が現出しているだけなのである。それでも「思い知る」ことのない「竜頭」蛇尾の繰り返しでは持続展開などあり得ようはずもない。今、そのような精神構造そのものが根本から問われていることだけは確かなのである。そのようなことを抜きにして真に先に進むことなどはもはやあり得ないと思われる。もしあり得るなら、そのすべての「動き」はさらなる後退でしかないだろう。

                                                  2012 4/20


276.原発停止で集団自殺をするのはほんとうに国民なのか?


 仙谷由人は、東大全共闘の名を汚し、「かつての友」を裏切り、さらには国民をも裏切った。それとも当初より彼の言動はすべて虚偽であったのかもしれない。当時、東大全共闘の中枢部いた者は彼のことなど見覚えがないと言っているが、これもまた彼の戦略的操作の一環であったのであろう。機を見るに敏な、「庶民」受けする目くらましのような放言を「物議を醸す」と称する原発推進論者・石原慎太郎などとも共通するものがあるが、一方は現段階では原発についての発言は避けるところが両者の相違点であるが、根幹部分は同質である。

 今や福島は世界の生体実験場と化し、陸海空は汚染され続け、今なお30万人以上の同国人が目と鼻の先で難民生活を強いられているのである。この事態に対して何ら有効な具体的方策も打ち出さず、原発再稼働をもくろんでいるのが「霞が関」、財界と一体化してしまった彼らである。「原発停止が国民の集団自殺をもたらす」とは?これが考えた末の脅し文句なのか。原発停止は飽くまで官・財の「集団自殺」であって国民ではない。この国の最悪の事態に直面して自分たちの無能を棚に上げ国民に対して脅しをかけるとは以ての外であるが、これが官・財の実態なのである。ここで我々が確認して置くべきことは、現在の民主党が短期間で我々に見せつけてくれた醜態のすべては自民党が官・財に取り込まれて行った経緯の縮図そのものであるということである。仙谷由人も官・財の「伏魔殿」のメッセンジャーボーイになったということに過ぎないのであるが、3・11に象徴される時代の転換期といものは実際何が起こるか分からないというのが偽らざる実情であろう。それは、一つにはこの転換期そのものが内包するコンプレックスエナジーとも言うべきものが活性化してくるからである。その「力」が、外圧に対しては恐ろしく強固であった「霞」の中に潜む「伏魔殿」を自己崩壊に至らしめる内部矛盾をさらに誘発、促進させ、本体そのものの「変形」もしくは「分散」あるいは「再統合」を余儀なくさせるということは充分に考えられることである。今後「霞が関」が、今までのような「悪魔の方程式」では片付けられぬ名状し難い事態、現象が常に「想定外」で継続的に現出することによって何らかの「変更」を迫られることだけは不可避である。

※コンプレックスエナジー:これは私の造語であるが、無意識的な過程で働く心的内容の集合で、さらに個人を超えた普遍的無意識をも想定した集合的に作用するダイナミックなエネルギーといった意味で遣っているが、それはコンプレックスのユング的解釈の意味内容に近似の概念である。

                                               2012 4/17


275.「お友達幻想」に振り回されて


 友人だと思っていた者に裏切られれば、それはショックであろう。それではいつ互角に友としての交流がなされていたのかというとかなり怪しげなものが多い。単なる一方的な「思い込み」であれば友情など存在せず、「人間」の間でごく「当たり前」なことが起こったまでで、そもそもそこには「裏切り」などという御大層なものも成立しようがないのである。TwitterにしてもFacebookにしても、あるかないか分からぬ「友達の輪」を求めて自分の周辺事情を書き連ねている者も多いようである。その点だけを見ると安易な自己顕示欲としか思えないが、それも使い方次第なのであろう。最近でもTwitterなどでは災害時の通信、変動する社会のメッセージなどとその効果の程も実証されている。しかしながら、平常時の交信を見ていると、その多くは個的に矮小化された広がりのない身辺雑事が中心で、すぐに企業戦略の一環として利用され絡め取られるのが関の山というような均一的ものばかりでとても個的メッセージが有効活用されているとは思えない。それは何者かにセットされたアンケート用紙に日々書き込んでいるようなもので、情報収集している調査機関には垂涎三尺の対象でもあろう。Twitter,Facebook系でよくある妙に親しげな同等目線で、これが曲者なのであるが、「今、何してる?」という問いかけに素直に応答する者達とはあまりにもオメデタイのではないか。何をしていようが余計なお世話だという思いが起きないことが不思議でならない。どうしてそこまで自由を恐れ、他人に管理されたいのかと理解に苦しむところであるが、そこにはやはり自立性も、孤立を恐れない気迫も失われた、自己との対面ができない未成熟な自己顕示欲だけが炙り出されてくる。そのような状態にどっぷり浸かりながら世界に二つとない掛け替えのない自分などという言葉に酔っているから余計に始末に負えない。二つとない掛け替えのないものであるなら自由と孤独は避けられないのであるが、それがまったく抜け落ちたまま「輪」だの、「一体感」だのというものだから限りなく嘘っぽく、実のところそれは無に等しいものの置き換えでしかない。もともと無いものに喜怒哀楽を使い果たし空ブカシをする、ご苦労なことである。もう少し個々にとって有効な道を探るべきではないのか。

                                                      2012 4/15


274.アメリカ合衆国日本州


 現在、日本の食糧の中で自給率100%のものは一品目もなく、全体では40%である。因みにフランス130%、アメリカ120%、ドイツ91%、イギリス71%、多くの「専門的」データなどは必要ない、たとえいくら緻密なデータを根拠に国の行く末について推論を立てたところで結局のところは「予言」域をでるものではない。現に福島がいい例であろう。これらの数値を見ただけで、あるスパンにおける「勝ち戦」、「負け戦」、その国に自国のことを考えた為政者がいるかいないかが判定できる。自給率40%というのは状況次第で60%以上の国民が切捨てられることでもあり、世界的危機が訪れればすぐに自滅する国だということである。「防衛」のためという名目でいくら軍備を整えてみたところで何のことはない兵糧攻めで一巻の終わりになってしまう国なのである。その上、場当たり的な原発管理である。もし、敵対するする国があったとしてもほとんど手を下す必要もなく自滅する国であることは多くの分析を待つこともない既定の結論でもあろう。いくら虚勢を張ったところで自給率40%では完全な自立はあり得ず、それは常に依存的自立しか成り立たないことを示すあからさまな数値でもある。今までは技術面での躍進でその不足分も何とか取り繕われてきたが、現在ではその技術も海外流出の一途である。さらには3・11以後、日本は世界の原発実験場と化し、それについての様々な詳細なデータも流出している。現在の日本は世界が見守る解剖学研究室に横たわっている死体に等しいのである。

 海外に出る優秀な若者達も多いと聞く、その理由を聞けば「日本の大学はレベルが低いから」、「自分が将来やろうとしていることがこの国では見い出せないから」、当然のことであろう。さらには日本の大手企業のリストラによる技術者の大量海外流出である。日本国内企業の負け惜しみとも取れる「採用には日本人だけではなく、海外枠も設定している」等々。残念ながらその海外枠で来るのは海外では外された者達だけで、そうでなければ物好きか怪しげな外国人だけであろう。まだよくわかっていないとみえる。

 官僚機構を「シロアリ」にたとえ、攻撃目標にしていた口先だけの者たちの体の皮膚一枚下は「シロアリ」で埋め尽くされてしまった。「霞の中」でしか通用しない「シロアリ」軍団を殲滅するには「霞」そのもの消し去るしかないが、「シロアリ」はやがて移動を始めるだろう。しかし、そんなことには関係なく若人は世界に向けて飛び立つべきである。もはや日本で得られるものは「残滓」か悪臭を放つ「負」しかない。すべての領域で今までのものは衰退し、徹頭徹尾「新たなもの」に向けた志向のみがわずかに呼吸を開始するだけである。

                                                 2012 4/11


273.為政者の挙動もチェックできないマスメディアとは


 福島市長が山形から公用車で通っているという噂を講演の中で使ったことについて、市長側は警告文を出し、神戸大学教授は謝罪したらしい。不用意に噂などを使うべきではないが、噂があるのは事実であろう。私もそれが噂とは思えず、然もありなんとしか思えないのはこの間の文脈を捉えているからである。それもその土地の代表格の者の行為であれば尚更見過ごす訳にはいかない。要するに調べればいいだけのことで、それをやるのがマスメディアでもあるのだが、大方が腰砕け状態で、毒にも薬にもならない微細なものを安全地帯で御大層にもてあそんでいるだけというのが実情である。福島市長のみならず県知事、さらには政府関係者に至るまで放って置けば何をするかわからない者たちばかりである。それは実質上、独裁権力機構である官僚機構の為すがままであるということでもある。ここでまた頭に過ることは、以前にも書いたが官僚機構の中枢にいる者達とはほんとうに日本人なのかという思いである。それはもはや死語でもある右翼、左翼などという範疇とは関係なく自然に湧き起ってくる「彼らはこの国を亡ぼすためにだけやっているのではないか」という思いである。今、原発の脅威は厳然たる事実なのである。煽っても煽らなくても人的作為・操作とは関わりなくやがて結果は出てくるのである。推定を推定でしか否定できないにも拘わらず断定する無責任な発言に乗せられるより国土のことだけを考えてみても大事をとることの方が最優先課題であろう。原発に対する警鐘を単なる煽りとする一方では、北のポンコツミサイルに継ぎ接ぎだらけの大団扇で危機を煽っているマスメディアの姿には愚かというよりただ哀れを催すだけである。そこまで堕ちたのである。そう思って観ている者が多いことも知らずにやっていることが二重に哀れである。

 「福島は安全です」と言いながら、自身は西の食品を食べているのが為政者、似非識者の偽らざる姿であろう。それに一体誰が異論をはさめるのか。詐欺師達の繰り返される猿芝居に辟易して限界点に達している者も多いことであろう。思わず出る溜息にわずかな潤いもなく、喉が焼けるように感じる今日この頃である。

 夜半、満開の桜に我を忘れる・・・

 

                                                     2012 4/10


272.シニアの就業、そして自殺


 働く意欲のあるシニアが、「年齢不問」とあるので問い合わせると、「60歳までです。」「定年は65才までですがよろしいでしょうか?」と言われるそうだ。そのシニアはある中小企業を定年退職したばかりだが、とても年金では暮らせないのでゼロから始めようと一念発起したらしいが受け入れてくれるところがないという。年金では暮らせず働き口もなく、そうかといって生活保護を受ける程の「最低基準」も通らない。「結局、この家も何もかも食いつぶせと言われているようなものだ」と言った。最近また介護疲れで夫を刺して自分も死のうとした妻のことが報じられていた。自殺の少ないギリシャでも年金受給者が国会議事堂の前で「ごみをあさるのだけはいやだ」と言って自殺をした。自殺率では世界でも1,2位を争う日本である、今後も高齢者の自殺は増加の一途をたどることであろう。

                                                     2012 4/7


271.「継続」とは一体何の「力」になるというのか?


 「継続」が、継続させること自体に重きを置いた時、それは不誠実な証でしかなく実際のところ何の「力」にもなり得ない。惰性で実質的な更新が成り立たないようにそれは決して新たなものを創出し得ないからである。もしそれが常に更新していなければ「継続」そのものが成り立たないという意味ならば、ある範囲内でそれも「力」というより「効果」としては機能するであろうが、しかし、その時点でもどこまで今までの「原型」を留めているか不明なので、果たして何の「継続」なのか、どこまで「継続」として捉え切れるのか疑わしいものがある。そして、「力」が意味しているものとは何か、誰が言ったか知らぬが「継続とは力なり」という言葉は私にはまったく意味不明の言葉でしかない。「継続」、「力」が定かでないまま宙に浮いているのである。これで了解できる人はさぞかし頭脳明晰か、思い込みの激しい人であろう。少なくとも、私にはその言葉の意味する内容に近づくことも凝縮されたエスプリを垣間見ることさえできない。おそらく、一つのことを続けていれば必ず報われる、積み重ねていくことがひとつの力となり得る云々と言ったような意味合いで俚諺を模してつくられた現生利益的自己啓発、正当化の類なのであろうが、それでも結局のところ意味不明で私には口にするのも憚られる言葉である。

                                                         2012 4/5


 

「ある日、その時」 (18) 2012年3月3日ー

<掲載内容> 

260.エコノミックアニマルからエコノミックバイオへ、そしてハザード 261.社会の品格 262.国を滅ぼすもの 263.首都圏直下型地震で騒ぐ愚かさ 264.馬が合わないオルフェーブル 265-268.現(うつつ)とは三文芝居を通すこと (265AIJの社長の曰く 266.北が動けば、米 実る 267.TPP,国民不在の属州の強国志向 268.いつか、歌に乗せられ奈落の底へ) <番外>ドバイ必勝法 269.ホームヘルパーが大挙して消える日 270.忙しい日々

 

                                              (転載・複製厳禁)



270.忙しい日々


 あまりにも忙しく、慌ただしく時が過ぎていく。しかし、すべては自分で選んだことなどで、心を亡ぼすと書くような忙しさではなかった。この間の3年間が一年位、いや半年位の時間経過tとしてしか実感できない。ようやくこんなことを思えるようになったのもこれも何かの節目かとも思う。スケジュール表に書き込まれた今年中にやらなければならないことを見ながら時間調整を考えている。しばらく海外に行くことはない。近々、仕事の関係で奈良に行くつもりである。

 帰途、取り留めもない想いの中でふと、原発、TPP推進者とはほんとうに日本人なのかと思った。 

                                                                  2012 4/1


269.ホームヘルパーが大挙して消える日


 厚生労働省のやり方をただ無批判にまたは都合よく取り込んでいるだけの為政者の言動を見ていると、ホームヘルパーが大挙して辞める日は近いと思われる。そうなるとどうなるか、高齢者の死がさらに跳ね上がり、路上病死などがあちらこちらに見られることになるだろう。これはおおげさなことではなく、実際に年間の高齢者の行方不明者23668件、発見17849件、死亡548件、未発見357件(平成16年 警視庁調べ)という8年前のデーターがあるが今ではさらに増加しているはずである。2004年時点で死亡、未発見を含めると905名いるのである。マスメディアはその数値をほとんど発表せずきれいごとで処理しているが、これが高齢者福祉の現状である。それは辛うじて体裁を整えているものの実のところ綱渡り状態であるということである。現在でも高齢者福祉の最前線にいるホームヘルパーはコンビニと変わらない賃金(950円以上程度)でその専門性と責任を問われ、時間に追われストレスを抱えながら飛び回っているのが実情である。ヘルパー研修は必要であろうが、今後は「一本化」、「専門性」、「責任」という名の下にさらに必須研修を設けるつもりらしいがその費用(15万円)は一切援助しない。ヘルパー資格を持っていない者は介護職員基礎研修500時間すべてが必要で45万円かかる。専門性を追究するのは結構なことだがそれについてはまったく支援なしで賃金は一般アルバイトと同様で今後も実質的にさらに削られる方向に進んでいる。ヘルパーは過剰なストレスを抱えながら安い賃金で働かされ身も心も変調をきたしリタイヤする者も多いと聞く、当然であろう。現在でもヘルパーは不足しているが、それでも何とか高齢者福祉の現場を取り繕っているというのが実態である。その彼らが突然大挙してコンビニでも転職すれば、実際にそのような声がすでに上がっているのである、単にそれだけのことでその場限りの日本の福祉行政の醜態を世界にさらすことになろう。「これからは介護だ」、「人助け」、「感謝されることが生きがい」と踊らせる言葉は枚挙に暇がないが、身体介護(食事、入浴、排せつ、etc)という個的対応、時間制限、配慮、クレーム対応に追われている彼らにほんとうの笑顔はない。前線で働いている者達に必要なものも与えず、費用削減ばかりを考えている美辞麗句だけは達者な「大本営」では1%の富裕層以外のすべての高齢者はよくて「収容所送り」になるだけであろう。しかし、どこを取っても、発想、方法、展開において「国民」の存在しない「国」である。どちらにしても、国の出方一つで近い内に当然の結果は出てくるであろう。

                                                        2012  4/1


<番外>ドバイ必勝法

 ドバイまでの道のりは遠く、どちらにしても愛すべき馬を疲弊させてしまうので参加させることはよしとするところではないが、それでも参加させるというのであれば、まず馬を小さい時から大観衆の歓声とドバイで打ち上げられるような花火の音と光にに慣らしてみてはどうか。日々、厩舎から出る直前から大歓声の音を入れ、花火を打ち上げるのである。牧場は地方の広い空間、クレームもあるまい。騎手は内外問わず本当に馬を愛している者以外はNG.功名心だけの騎手は馬に見破られる。はやる心が馬との交流を阻害するのである。ただし、残念ながらドバイまで行き着かぬ馬にいくらそのようなことをしてもその効果の程は如何なものか。少なくとも歓声に必要以上に驚かなくなるという程度の効用はあるだろう。とにもかくにも、走らせることばかりではなくもっと馬のメンタリティも考えるとよいのではないかということである。特に天才馬・オルフェーブルのような馬はそのメンタリティーも非常に強いのは当然なことである。因みに、オルフェーブルには今更その必要はあるまい。

                                            卯月一日の日和に任せて


ー現(うつつ)とは三文芝居を通すことー

265.AIJ社長の曰く 266.北が動けば、米 実る 267.TPP、国民不在の属州の強国志向 268.いつか、歌に乗せられ奈落の底へ


265.AIJ社長の曰く・・・

 AIJ社長の曰く「もう100億あれば巻き返せた」、どこのどいつが年金をばくち打ちに託したのか。その挙句に、1092億円の消失の責任をこの一人の博徒に負わせ葬り去るつもりらしい。まさか「単独犯」ではあるまい。見え見えの猿芝居のかくのごとくの在り様が現のこととして通ってしまう。

266.北が動けば、米 実る

北が動けば、ミサイル配備、戦艦配置である。沖縄にもミサイルが配備されたそうだ。これで何が正当化され、何が読み解けるか。北がミサイルを発射させる効果は何か。どちらにしても、これでアメリカの世界正義と防備の必要性を焼き付ける戦略は一歩前に進んだことになる。またCIAの諸君の影が舞台裏でちらついている。今や日本の現状は北のポンコツミサイルより恐ろしい状態にあり、自滅寸前の乗るか反るかの瀬戸際だと言ってもいいのである。これもまた見え見えの猿芝居のかくのごとくの在り様が現のこととしてある例であろう。

「ブラックブッシュ」のノーベル平和賞は平和とは戦争のこと、戦争とは平和のことそのままである。ダイナマイトによる基金で成り立つノーベル賞もこの際理系だけに限った方が紛らわしくなくてよかろう。

267.TPP,国民不在の強国志向

日本の傀儡首相は「TPPはビートルズのように」などと訳のわからぬそれでいてアホのようにわかったようにさせる表現を遣い始めた。ということはメッセージをある対象に絞り始めたということでもある。これはナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの手法そのままで、非常に危険な領域に入ってきたことを意味する。この傾向は大阪においても見られる。そして、まず現傀儡首相の「任務」は増税で徹底的に国民を疲弊させることにあると見える。そして、そのリバウンドを利用してさらにいくつもの「安価な幻覚剤入りの糖衣錠」を少しずつ飲ませ一挙に「思惑」通りのプランに持って行こうとする魂胆とも取れる。どちらにしても国民不在であることに変わりはない。彼らにどのような名称を与えようが、国をもてあそび、私利私欲だけの滅びの道に誘い込む者達であることに変わりはない。アメリカ合衆国「日本州」もわずかに残っていた誇りすらすべて打ち捨ててしまったようである。ここでまた猿芝居に乗せられたら奈落の底であろう。

268.いつか歌に乗せられ奈落の底へ

ある作家が「国民大衆の情念を大政翼賛に向かわせたのは」大衆演歌、映画、とりわけ歌であり、軍歌である。「海行かば」などを聞くと心の奥にうごめき起こる情念があるという。そして、歌の力とはそれほど恐ろしいものだと締めくくっていた。なるほど軍歌などには確かに人を引きずり込ませる負の情念の怪しい揺らぎがある。大伴家持の歌の劇的に高揚した一か所の「その狙い」に合わせた抜粋は鼻につくばかりであるが、それを感じさせなくしてしまうところが音楽の怖さでもある。華麗に構成された音は負の情念の揺らぎに静かに油を注ぎ込むのである。「水漬く屍」、「草むす屍」・・まともな精神状態で遣える言葉ではない。すなわちこの歌が現実の様相と重ね合され斉唱できた時代とは尋常な時代ではなかったということである。それは狂人が自らの狂気を感じ取れないのと同様である。今では怪奇映画の幕開けかと思うものさえいるのではないか、さらにはそこに死体愛好の偏執狂的美意識すら嗅ぎ分けるものもいるのではないか。 懐古趣味的にせよこの歌の封印を解き美化すること自体が危険因子を抱え込むことになるということを明確に意識すべきなのである。

                                                        2012 3/25


264馬が合わないオルフェーブル


 第60回阪神大賞典のオルフェーブル、天才と凡夫がまったく反りが合わないことを見せつけられる競馬であった。要するに、天才馬にはそれなりの騎手が乗らないと収まらないということであろう。このような兆候は以前にも表れていた。それは、「一位にはなったが、それはお前(騎手)と馬が合ったわけではない」とでも言いたげな一般的には大人げない挙動であるが、最も重要なものを問いかけているとも言えるのである。天才を「バケモノ」にしてしまうのは相方でもある。オルフェーブルは「バケモノ」ではない。自分の手に負えないものを「バケモノ」扱いするか「無視」するというのはいつの世も変わらぬことではあるが、それは単に自分がついて行けないだけという場合が多い。このケースも騎手が常に後手に回って、馬が合っていれば読める一瞬先が見えていないのである。オルフェーブルは騎手が気に入らないのだろう、だから騎手の存在を無視して「劇的に」走るのである。あれ程コースを外れ、外ラチから一挙に9頭の馬をごぼう抜きにして1位なるかと思われる勢いで2位となる。とんでもない力を秘めた馬である。短距離走の覇者・ボルトの遊ぶような走りを彷彿とさせた。

                                                     2012 3/19


263.首都圏直下型地震で騒ぐ愚かさ


 首都圏直下型地震の「恐れ」があることが国の肝いりで最近発表された。こんなことは私は30年も前から覚悟していたことである。前のブログでも取り上げたが、日本は地震大国でいつ巨大地震が起きても不思議ではない国なのである。そして、地震発生時、寝たきり老人でもないかぎり自分はどこにいるか分からないのが実情である。2,3日前、知人が地震に備えて500万円かけて家を改修するというから、その愚かしさを指摘してやめさせた。どのように科学的にアプローチしようが地震発生時刻、規模を特定するのは不可能である。そのようないつやって来るかわからぬものに対して怯え、狼狽えること自体が愚かなのである。人間死ぬときは、いかなる方法を駆使しようが、我先に逃げても死は避けられず、そして死の瞬間でしか死を察知することはできない。それが死である。いつ来るかわからぬそんなものに振り回されていることの方が無益で愚かしいことなのである。それよりは「今やらなくてはならないこと」に専念すべきなのである。国の肝いりでなされた首都圏地震の発表も、それを煽るような3流雑誌の三文記事もすべて連動している。またか、小賢しい猿芝居という感は払しょくできない。我々は世界に冠たる地震大国に住んでいるのである。巨大地震がいつ来てもおかしくはないところにいる以上、日頃からその点をしっかりと見据えて覚悟していれば彼らの常套手段に(この場合は恐怖心を煽り、大衆の目をあらぬ方向にそらし拡散させること)踊らされることはない。

                                                     2012 3/16


262.国を滅ぼすもの


 ここに国際地震センターISCの世界地震分布図がある。地震大国日本は地震発生ポイントで真っ黒に全土が塗りつぶされている。アメリカは太平洋側に集中し、内陸部では容易に数えられる程度である。フランスも地震発生ポイントは僅かである。アメリカもフランスも原発大国ではあるが、日本と比べれば地震発生率から考えてもはるかに安全性は高い。このような地震発生ポイントに覆い尽くされた日本の国土に原発を建設し続けてきたこと自体が異常なのである。世界地震分布図には日本の国土は存在しないと言ってよいほど黒く塗りつぶされている。これだけを見ても、ここに原発を増設する、再稼働させるなどとは狂喜の沙汰で、日本のことを「考えている」とはとても思えないのである。これがフランス、アメリカであったら決してあり得ないことであろう。福島原発の現状、これは厳然たる事実で、これを隠ぺい、糊塗するものとは一体何者なのか?日本を滅亡に導くものとは、どこをどう通っても霞が関界隈に辿り着く、実質的にもやはりその中枢に位置する官僚組織全体であることは今更多くを語る必要もあるまい。そして、そこはハーバード大学に留学しアメリカ戦略機構を徹底的に叩き込まれた者達が「活躍する場」でもある。この組織が「悪魔的」にしか機能しないことは様々な事例からもすでに明らかで、国民無視・不在の組織であることは大方の「ものが見えている」者達にとっては自明のことでもあろう。さらにここで当たり前のことを確認すると、民主党=官僚組織全体ということで、すなわちシビリアンコントロールともいうべきものが現在まったく機能もせず、成り立っていないということである。自民党が潰れようが、民主党が潰れようがそんなことはどうでもよいことで、まずこの官僚機構をコントロール、改革できないものには何もできないということである。中途半端に切り込んだ程度では待ってましたとばかりすぐに逆に彼らに都合の良いように改悪、改修されてしまう。彼らは現実的作業を如何に的確に巧妙に行うかに長けている理念なき集合体なのである。彼らの集う所を「伏魔殿」とはよく言ったもので、悪魔には理念などは必要もなくただうっとうしいだけのものに過ぎない。言ってみれば、官僚組織とは百鬼夜行の集団で、それらが牛耳っている官僚独裁国家といのが日本の実態である。彼らの傀儡だけが事もなげに「政治家」を生業にできるのである。官僚独裁国家の「臣民」のままでいるのか、この際ほんとうの「国民」なるのか、その選択は迫られている。

 言ったことではない、成したこと、それがすべてでそれ以外には何もない。それでも彼らは黒を白と見せることなどいとも容易くやって見せる。「増税、冗談じゃね!」それでいいのである。彼らの巧妙な戦略でしかない釈明に分別臭く乗ってしまたらもう彼らの手の内である。狡知にかけては右に出るものがいない集団である。庶民レベルの分別などで対抗できる相手ではない。彼らに対抗できるものは理念とストレートな反応すなわち「単純」に簡潔にものを見ることに徹する姿勢である。知ったかぶって裏読みを始めたらすでに彼らの軍門に降ったとみるべきなのである。連綿と続いている官僚独裁というのが亡国政治と同義なのであって、亡国の「政治家」などある意味では一人として存在しなかったとも言えるのである。

 未だにドジョウは官僚の手桶の中で浮き沈みしているだけである。この間、官僚組織と全面対決を強いられたのは誰なのか?官僚と実際に対峙した政治家こそが国民の側に立った政治を行える唯一絶対条件であると同時に大きな証ともなる。人が成したことで見るとはそういう意味である。

                                                                           2012 3/15


261.社会の品格


 ボーヴォワールならずとも老人に対してどのように接しているかを見ればその国の品格は自ずと分かる。そして、若者の食事を見ればその国の将来は分かるというのも容易に頷ける。また、強かな者しか生きられない社会というものもその社会が脆弱な社会構造であることの証左でしかないというのも納得できる。今日の日本社会がまさにその通りなのである。老人福祉にしてもとても先進国家の名に値するものではない。少子高齢社会は今突然始まったわけではない。年金問題にしてもガキの算術ではあるまい、間違えました足りませんで済む問題ではない。国の責任で処理すべきでなのである。「社会保障と税の一体化」などとは笑止。自ら政治不在を宣言しているようなものである。たとえば、老人福祉の問題についても現在「老老介護」(老夫婦の一方が介護している状態)は「当たり前」で、さらには成立するはずもない「認認介護」(認知症の者がより重度な認知症の家族の在宅介護をしている状態)をしている家庭が順番待ちで施設にも入れず「半ば」放置状態なのである。これは何が起きても不思議ではない状態である。「半ば」と言ったのはたとえそこにヘルパーが介入しているにせよ認知症というのは24時間介護が必要で目が離せないものだからである。たとえ運よく施設に入れたとしても夫婦だとその費用は毎月50万円は超えると言う。これはとても年金で払える額ではない。払い切れない者はどうするか、そのまま見捨てられるのである。これがこの国の老人福祉の実情であるが、それでも国はできるだけ支出を押さえ民間レベルに「丸投げ」し、同時にその責任をも回避する方策を着々と練っているようである。今後もますます増えるこうした惨めな老人の姿を常に目にして多くの者、特に若者は一体何を思うか。まともな神経であればこの社会にいる限り明日は我が身と思うのが普通であろう。そうした反応がすでに様々な形で生命体レベルにも影響し現れているというのも見て取れる。このことに関してはもはやどのようなプロパガンダもほとんど通用せず、少子化は防ぎようがあるまい。世界に類のない完璧なまでの品位に欠ける少子高齢社会の出現である。至る所で拘縮、委縮が始まっている社会ではもはや羽ばたくスペースすらほとんどない。今や世界に羽ばたくのは大きな夢でも何でもなくなった。ただそれが残されたの生きる道筋となってしまっただけなのである。このようにしてしまったのは誰なのか、何なのかを検証し、見届けるのも残された我々の務めの一つであろう。

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 260.エコノミックアニマルからエコノミックバイオへ、そしてハザード


 朝のない夕べはないごとく、いつかまた同じように「春」が巡って来ると思っている人々がまだいるようである。春という事象はいつでも現れてくるが、「人間不在」なところには「春」は存在しない。今、また改めて「人間」そのものが問われているにも拘わらず神がかり的な「春の到来」に希望という怪しげな輪を被せようとする。芽吹きの時である春を抹殺する方向で突き進んできたのは「人間」そのものである。言ってみれば「人間」は本来の「春の到来」を拒む方向でしか進んでこなかったとも言えるのである。そして、今また「春の到来」を待ち望むというのはあまりにも日本の現状が見えていない人々ということ以上にそこには日本人独特の「甘え」も見えてくる。日本人の中には常に何をしてもいつかは八百万の神々が自分達を救い上げてくれるという思いが原始宗教の状態のまま何ら発展深化もせずどこかに根強く残っており、それが必然的かつ容易に「何とかなる」という思いを引き起こすことにもなる。そして、行き着く先も見ようともせず文字通り猪突猛進して、「人間」としては考えられないことを起こしてしまう。それはやがて世界の驚愕と侮蔑の中で「エコノミックアニマル」という奇怪なものとを登場させることにもなる。今となっては「アニマル」という言葉も体温すら感じさせるが、それはさらに止まることも知らず収斂されうるポイントも検証されないままさ加速され、ついには「エコにミックバイオ」と言ってもいいようなものに変身して行く。すでにそこにおいては従来の「人間」のコンセプトから大きくかけ離れてしまっているのであるがそれすら気付かぬまま今に至ってしまったのである。このエコノミックバイオは現在では試験管の中で取り残され身動きつかぬまま世界の培養検査の恰好の材料となってしまったとも言えるのである。少なくとも今、不気味な極楽蜻蛉のように「春の訪れない季節はない」などとしたり顔で言っている場合でないことだけは確かなのである。

 「何とかなるさ」という言葉の遣い方にしても、西欧人と日本人とでは根本的な相違があることを押さえておく必要があろう。現状を見据えながら一寸先は闇だが、何とか生き抜く道はあるという意味で「何とかなる」と言うのと、いつかは八百万の神々が元通りにしてくれるという「甘え」が無宗教性の名のもとに得体のしれない「信仰」としてずる賢く巣くっている状態で正確にものを見ることもせず「何とかなる」と言うのとでは現状の捉え方も、今後に対する覚悟も自ずと違ってくる。そして、当然なされるべき検証もなされないまま再び「奇跡」を望むなどとはまんまとメフィストの手中に収まるようなものである。それはそのままこの国の解体を意味する。今後は、この得体のしれない日本人の奥深くに潜む「信仰」そのものが一つ一つ検証されることになるだろう。と言うよりも、そのようなことをしていてはもはやすべてにおいて通用しなくなることを思い知らされることになると言った方がいいかもしれない。

 いつだったか、比較文化論的に遠回しに日本の庶民の権威主義的側面を皮肉っていた作家がいたが、然もありなんである。現在、今までの権威主義的な日本の庶民意識・感情そのものが徐々にではあるが変質、瓦解し始めているのも一面の事実ではあろうが、しかし、そうだからと言って市民意識が自然に育つわけでもなく、むしろ新たな「権威」の対象を求めるだけということにもなりかねないのである。なぜなら、そこにはわれわれの「受容器」そのもの変換を強いられるような大きな作業が残されたままだからである。

 相も変わらず繰り広げられているヒステリックな「明るさ」、「笑い」は終末医療のドラッグ投与の効用としか思われないが、実はそれ以上に哀れである。

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