両忘の時‐ある日、その時‐

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「ある日、その時」 (17) 2012年1月4日ー

<掲載内容>

250.人の列 いずこの国の 松の内 251.「希望」という罠 252.テレビはロボトミー、新聞は腐った油? 253.雉は鳴かずとも打たれるだろう 254.ソフトランディングー軟着陸ー255.3人市虎を成す 256.月夜の蟹 257.お断りした「いい話」 258.ヒットラーとミーハー(lowbrows)259.「プロパガンダの天才」

                                                                                                                                (転載・複製厳禁)



259.「プロパガンダの天才」


 その名をヨーゼフ・ゲッベルスという。アドルフ・ヒットラー率いるナチスドイツの宣伝相である。小児麻痺で片足の成長に影響が出て足の長さが一方の足より短く、終生足を引きずるように歩いていた身長150センチの美声を持つゲッベルスはいつしかヒットラーに取り込まれ、それまでに蓄積したすべての能力を彼に捧げることになる。そして、ヒットラーの死後、一家心中で幕を閉じるのである。現在でも使われているCMの技法はゲッベルスの考え出した手法でもある。宣伝とは気づかれないないように行い、大衆が心に抱いているいるであろう不安、疑問、欲望を遠回しに刺激し、爆発させる。彼は常に知能レベルの低い階層に合わせてた宣伝を心掛け、それが自分の意見であるがごとくに思わせる方向に、さらにはその感情さえも彼らによって作られたものであることを悟らせない方向に巧妙に持って行くのである。その手法は実に巧みである。それは洗脳ではなくマインドコントロールで、社会心理学の技法の領域である。現在でも、この社会心理学的テクニックを駆使して大衆のマインドコントロールは頻繁に行われている。「御用学者」とは何も原発村ばかりではなく、この社会心理学の領域にも多いのである。そして、ヒットラーを祭り上げたゲッベルスのように情報、文化の操作を担っているのである。テレビ、週刊誌等で談笑の中で繰り返されるもっともらしい言説が、いつの間にか自分の思考回路全域に広がっていることに気づかない者も実に多い。バカバカしい程の単純化と暗示で彼らがターゲットにしている階層はたやすく動くことを彼らはよく知っているのである。それによってどのような「事」が、「心情」が起き上がってくるのか、そして、その「事」、「心情」によって何がもたらされるのかを見れば彼らの意図する「こと」、「もの」は浮かび上がってくるはずであるが、そこまでは自分でものを考えない階層に焦点を合わせている以上、すでに彼らの思惑は十全に果たされているのである。ドイツ国内にいち早くラジオを普及させたのもゲッベルスで、現在でも多くの人々が毎日否応なく見ているであろうCM、既得権の大きな新聞、テレビのショー的ニュースの類は、未だに実質的に「ゲッベルス」の影響下にあると言ってもいいだろう。そして、「アドルフ・ヒットラー」はいつでもいつの間にかお茶の間から現れてくるのである。メフィストフェレスと契約を交わした者の言葉は、事実とは裏腹にとんでもなく自由で、「人々」を幻想に引き込み惑わせ酔わせるのである。もしその言葉に乗せられれば、それと引き換えに取り返しのつかない負を背負わされるのはそれに引き寄せられた者達の方である。今ほんとうに必要なことは、事実を見据えた冷静で堅実な言動で、人を引き付け酔わせる珍奇な言葉、虚言の類ではない。

※最近の世論調査のデータはさらに注意が必要である。彼らはいかようにも操作する。それだけが主な仕事と言ってもよいくらいなのである。(3月)

                                                     2012 2/18


258.ヒットラーとミーハー(lowbrows)


 以前、「神戸連続児童殺傷事件」(1997年)という事件があったことをご記憶の方も多いことであろう。14歳の中学生が自らを「酒鬼薔薇聖斗」と名乗って起こした事件なので「酒鬼薔薇聖斗事件」などと呼ばれてもいる。殺人現場は快楽殺人特有の凄惨なものであった。なぜ彼がここまでに至ったか、その前段階に至るまでの経緯を端折って簡潔に辿れば、彼が小学生の頃に小動物を殺害している時に異様な興奮を感じて射精してしまったことがあった。このようなことがあってから彼は母親に自分は何かおかしいということを告げているが、まともに取り合う事もせず、今までとおりの放置状態であった。そして、あろうことかこの危機的時期にその母親は彼にアドルフ・ヒットラーの「わが闘争」という本を与えている。この母親にしてみれば、歴史に出てくる「偉人伝」のつもりであったのであろうが、そのあまりの無知さ加減、ミーハー振りに私は驚きを通り越し絶句して、怒りを覚えたことがある。最重要岐路に立たされた子供が最後の危険信号を出している時にそれを察知しようともせず、それどころかさらに増幅させる方向で彼を追いやってしまたのである。ヒットラー自身も死体を見ると恍惚となっていた「人物」である。どのような過程を経ても一旦快楽殺人が思考回路にセットされてしまうと、その人間は人間を殺し続ける以外に性的快楽は得られなくなってしまうのである。つまり、快楽殺人は繰り返されるということである。治療の機を逃してしまった精神医療の虚しさえを見せつける事件でもあった。この段階に至っては単なる精神治療での回復は全く見込めないというのが実情で、人道主義的見地からの社会復帰を目指す矯正などはまったく無意味に等しいというより欺瞞でさえある。当時、精神医療の研究者としても見逃せない事件であったので、私も御多分に洩れずついついのめり込んでデータ収集をした覚えがあるが、利己的でしかない母親の作為的な母性と事実認識の欠如からくる無知と歪んだ虚栄心が今でも印象深く残っている。しかしながら、現在でもこの母親の愚を笑えないのが実際の状況である。有名であることだけを根拠に何をしたかも不明のまま仰せごもっともで鵜呑みにする。それ自体が異常なことで、異常なところから異常なものが生まれくるのも必然であろう。有名であることだけでその言動がすべて正当性を持つとは限らないという至極当然のことが忘れ去られているのである。況やこの場合はヒットラーである。このような人々をミーハー(lowbrows)というのである。彼らは市民ではない、飽くまでlowbrowsなのである。今でもこのようなミーハーの健在さを見せつけられる度に、さぞかしヒットラーも草葉の陰で狂喜しているであろうと思われることがよくある。ミーハーの気持ちを微に入り細を穿ち捉えることができるということは自らもlowbrowsであることの証左である。歴史に登場することだけを夢見て、圧倒的多数のlowbrowsを手中に収めたヒットラーも言ってみれば究極のミーハーとも言えるのである。

 ある時、放置状態のままお金だけは渡されているが,まともに親との交流もない小学生の極度に鬱屈した精神が小さな生き物の生命を奪い取ることで恍惚となる。その突然の異変に彼自身も驚き、不安にかられて母親に訴えるが、それを忌まわしきものとして封印したまま、母親は「偉大な英雄伝」で彼の「矯正」を図ろうとする。この母親は、猟奇殺人者として名を馳せたエド・ゲインの母親ほどではないにせよ、どこかに男性性器に対する嫌悪感、もしくは息子の性的堕落を極度に恐れるあまり結果的には息子の性的衝動を封じ込める方向でしか接していなかったのではないか、そしていつしか捻じ曲げれてしまった彼の性衝動はその矛先を母親の目に適った方向で模索し始める。やがて、堕落の象徴でもあった男性性器は、殺人という密かな神聖な儀式を通して彼の中で<昇華>する。彼の劇画的名称、自己陶酔した言動はすべてはそのことによって意味づけられ、ネガティブな領域の中でポジティブに快楽殺人へと収斂されていくのである。一瞬間、彼は自分の「偉大さ」に天にも昇るような気持ちになっていたことであろう。

 ミーハー(lowbrows)とは、いともたやすく怪物を生むのであるが、それに気づかない。そして、いずれは自分が生み出したものによって食い殺されてしまうのであるが、それでも気づかない者達のことである。

 

 

〇書き始めたらついつい長くなってしまった。 切りがないのでここらで休憩。他にも書かなくてはならないもの、仕上げなくてはならないものがあるというのに・・・、何でこれを書き始めたのか、それは「太陽のせいだ」とでも言いたいところだが、当たらずとも遠からずでそれは日本の現状のせいである。

                                                

                                                   2012 2/17

 


257.お断りした「いい話」


 ある人物をスケッチしている時に、過去に誘いのあったいくつかの仕事の話が思い出された。なぜ断ったのか具体的な詳細部分はかなり忘失しているが、その時にはそれなりの理由があったのであろう。フランスなど海外からの仕事(演劇やライター)、特にライターの方は月収制でかなり具体的に細かな数値が提示されていたことを記憶している。日本国内では大学で教えてみないかという話や、劇団関係者から共にやらないかという協力の依頼なども戴いた。それぞれの時点で共通しているのが、できることならこれ以上煩わされるのは避けたいという気持ちであったと思う。ただ生きているだけでも,もう充分過ぎる程煩わしいのである。今後も自分の思ったこと、やりたいことだけを志向して行くつもりである。それが利他的なことか利己的なことか私だけでは判断できかねる。善かれと思ってしたことが裏目にでることは日常茶飯事なのである。利他的行為などとは言っても、厳密な意味でも、現実的にも阿弥陀仏にでもならない限り、少なくともそれを志向しない限り、それは為し得ることではない。偽悪を為すより偽善を為せという意味での利他的行為なら少しは現実味があるだろう。「いい話」の内容がだんだんそれてきたが、利他的行為を問題にするのであれば、まずそれをすべきは、生きることすら覚束ない99%の「貧民」ではないことだけは確かであろう。

 

                                                     2012 2/7


256.月夜の蟹


 「月夜の蟹」とは、月を指させば指先を見るがごとし。それは、否応なく「中身を細らせる」方向でしか生きられないものたちの悲喜劇である。たとえ、いくら月そのものについて語っても、決して月を見ることはない、常にあらぬところにしか意識が働かない、「業」のようなものとして見えてくる。これは「「中身のない」ものが世界を小さくまとめることでしか生きられないという共通項で、ほとんど閉ざされていて展開は不可能である。ある意味では、結晶化の始まってしまったものの象徴とも言える。

                                                     2012 1/30 


255.3人市虎を成す


 3人市虎を成す、すなわち何人もの人間が同じことを言えば、それが事実無根のことでも信じられてしまう。現状でもよく見かけられることである。しかし3人寄れば公界(くかい)で、そこに意図的、作為、虚偽があればいずれは表出してしまうことも確かであろう。そこに及んで、すべては天網恢恢疎にして漏らさずなどとしたり顔で言いたいところだが天罰などを当てにしていたらいいように持って行かれるだけで埒が明かない。歴史解読にせよ現状分析にせよ、現在の官僚と為政者のごとく、その詐術を見抜くのも容易ではない。しかしながら、時系列的に表立って現れてくるところはすべて詐術と言ってもいいくらいに検証が必要である。その詐術をバックアップしているのが言わずと知れた御用学者、御用評論家の御用御用の諸氏と金主本位のマスメディアである。明解な検証能力がなければ真実どころか事実さえも見抜けないというのが相も変わらない実情のようである。

 しかし、世の中には騙す者と騙されたい者がいるだけとしか思えない様相を呈しているが、どちらにしてもそれは普通ではあるまい。異常の末に何かある。世の中は何かつねなるあすか川きのう「瀬」ぞ今日は「淵」になり・・・そして、また淵は瀬となるのか、危ういところである。

                                                            2012 1/26


254.ソフトランディングー軟着陸ー


 世の中一般が、「下降」、「衰退」、「縮小」などの抜き差しならぬ負のスパイラルに吸い込まれて行くかのようであるが、それが偽らざる実情でもあろう。このような状況で打ち上げられる「希望的観測」、「予想屋的煽り」は胡散臭というより虚偽、目くらましの類としか思われない。現実的には離陸のあり得ないこの現実をいかに正確に受容してソフトランディングさせるかというのが大方の冷静な目を持つものの見解であろうが、このソフトランディング自体にどれだけの集中力と精神力、そして技術力が必要であるかが具体的に分かりにくくなっている。離陸にしろ着陸にしろどちらにしてもかなりの集中力と判断力が問われることに変わりはないが、重量オバーでコンピューター制御も不能、さらに破損した翼を持つ機体であれば尚更である。一瞬の隙、判断ミスが命取りとなりかねない。

 時代に対する「下山」という発想もそこに弛緩したものが出てくると思わぬところで足をすくわれることになる。それはその「山」の捉え方によっても異なり、それによっては「下山」の方法も気構えも違ってくる。危険なのは「下山」というイメージがもたらす精神的隙である。吉田兼好は、高名の木登りという段で、人が高く危険なところを登っている時には何も言わず、人が降りはじめて軒下位の所に来ると、その名高い木登りは「あやまちすな、心して降りよ」と言ったそうだ。何事も「あやまちは安き所に成りて必ず仕る事に候ふ」と言うことである。ゆめゆめ油断は禁物である。尻餅をついたまま最期まで滑降では様になるまい。

 

                                                    2012 1/16


253.雉は鳴かずとも打たれるだろう


 俚諺としてはもちろん「雉も鳴かずば打たれまい」が正しい。それ以外にも、「口は禍の門」などという舌禍、筆禍を諌める類の俚諺がある。実際にもそのような事例には事欠かないが、果たして鳴かなければ打たれなかったのかというと実はそうでもない。私自身は鳴いても鳴かなくてもそれ程変わらないと思っている。雉はその時鳴く必要があったのであり、そして、そこに猟師が居合わせただけの話であろう。最初から猟師が雉を狙うつもりであれば雉が鳴こうが鳴くまいがすでに命はない。現実的には一声すら上げられず、何もできずにその存在すら認知されずにいつしか抹殺されてしまうものの方がはるかに多い。そのようなことを考えれば一声でも発し、言わざるを得なかったことを言って果てる方が本望であろう。この俚諺はつまるところ体のいい「口封じ」で、適度に麗句をあしらった「脅し」とも取れる。たとえそれ程の意図も意味もなかったにせよ、この俚諺はいつか作り手の手元を離れ詐術としての効果を発揮することになる。何の抵抗も感じさせずに前意識の襞の奥深く根を張り、発話に対する脅迫観念を形作ってしまうのである。そして、多くの者が様々な場面でその戒めが身を守る唯一の賢い方法でもあるがごとくに一言も発することもせず人知れず消え去って行くのを見ていると、このお為ごかしの詐術的俚諺は一体誰のための何のための俚諺かと思えてくる。口は災いの元などと言って何もかも半端にしか語ろうとしないことをよしとしていると国内では通じても海外では通用しないということを肝に銘じておいた方がいい。その内、それが習い性となり自分が発するファジーガスで自分自身すら見えなくなってくるのである。

                                                     2012 1/12


252.テレビはロボトミー、新聞は腐った油?


 昔、とは言ってもいつの頃だったか忘れたが、毎日,朝日が昇る頃には人々は新聞を(読)んでは油を(売)っていたものであるが、昨今ではとんとそんな姿さえ見かけぬようになった。聞いてみると、新聞を片手に売れるような油もなく、それどころか油に砂や泥が混じっていて、そんな油を頭に塗った日には頭が腐るという話である。そしてテレビであるが、テレビが薄く大きくなってからというものほとんど見ていないという。中にはこの前の震災で倒れて故障して以来,枕元の隙間風を防ぐ程度にしか使っていないという者もいた。テレビを見ていると生きる楽しみがなくなり、自分の人生が奪われていくような気がするらしい。確かにテレビは間接的にロボトミーを施し、見ているだけで脳の前頭葉白質の一部が消失して行くのではないかとさえ思える時がある。実際に四六時中テレビ情報、報道に頼っている者の顔の表情、発話、言説はすべて共通している。今や、新聞、テレビの報道の利用価値はほとんどなく、すべてが一律で危険水域をとっくに超えていることだけは確実なのである。実のところ私は、テレビも新聞も、もはやロボトミーや腐った油ほどの存在価値さえ持ち合わせてはいないと思っているが、ただ彼らには必要となれば同一内容の繰り返しがいくらでも可能な大きな金主がついていることが無視できない危険なところでもある。わずかな文言を人々に刷り込ませるためにだけに何億もの大金が遣われるなどは日常茶飯事とも言えるのである。そのようなことを生業とするものにいくらまともなこと言っても通じるはずがないのは自明の理であろう。それでは我々には何もできないのかというと、そうでもない、日々の日常生活と共に力まず一人でも立ち向かえるものがある。それは、まず見る必要のないテレビはすぐに消すこと、まったく無意味である。そして、読む必要もないお上の御触書のような新聞は買わないことである。さらに拡大させることも可能であろうがそれは各自が自由に考えればいいことである。

                                                   2012 1/11


251.「希望」という罠


 もし、我々が「すべての希望を捨てた世界に生きている」のであれば、それはある意味ですばらしいことである。なぜなら、「希望」とは現状を忘れ、やるべきともせず根拠もなく未来を夢見ることを増殖させる人間にとっては最大の罠の一つともなり得るからである。しかし、果たして「希望」が本当に捨て切れているのか、敵をみくびってはいけない。「希望」はどのようにも変容し人々の傍らに寄り添うことにかけては天下一品なのである。現に幻想とも言い得るような「コミュニケーション」を求めてツウィターに夢中になっている者の数は計り知れない。また、さまざまな領域においてブログを発信している者もいる。さらには本を書き、語り続けている者もいる。彼らが、すべてとは言わないが本当に「希望」を捨て切っているとはとても思えないのである。むしろ良くも悪くも勝手な思い込みの中で作り上げた「希望的」観測にがんじがらめなのではないか。それではこうしてブログを書いている私はどうか。それはきっかけはどうであれ,もはや日々の確認以外にはないと言えるだろう。それではなぜ公開するのか、それはブログをファジィーではない「他者」の介入を想定した「航海日誌」として位置付けているからである。そこには未来を夢見るような「希望」の入り込む余地はない。むしろ、もう一つの敵である「恐怖」との葛藤の方が強いと言える。

 某作家が現在の様相を捉えて「カジュアルなニヒリズム」などという表現で括っていたが、これは昔から学生時代に暇さえあれば雀荘に入りびたっていた者たちの総称でもあろう。「カジュアルなニヒリズム」、何とも軽いいかにもと言う感じであるが、陳腐な新語である。実質的には「阿Q的」ニヒリズムであろう。すなわち、観念操作でいかようにも自分の都合の良い方向に持って行く、たとえ失敗であってもあらゆる手を使って成功と自分に思い込ませる。そして、常に自己の優位性に結び付け、あらゆることを受け入れてそれでも「自然体」を崩さぬことで何か「大物」になった、達観した気にさせる錯覚・幻覚状態である。彼らは死の直前になっても自己の在り様について明確な意識を持つことはない。なぜなならその「明確さ」を避け続けてきたからである。「カジュアルなニヒリズム」、この言葉のシニフィアンとシニフィエの間からだらしなく動物性の油脂がにじみ出てきて不快である。

                                                       2012  1/6


250.人の列 いずこの国の 松の内

 人の列 いずこの国の 松の内  (魯孤)

 風に飛ばされそうな飾り松、行き交う老若男女の出で立ちはどれもダウンにジーパン。マフラーさえも色を成さず。街からは完全に色彩が消えたが、白黒で切り取るほどの手応えさえも覚束ない。いつとはなしに子供が消えてしまった中間色の街。いくら花火を打ち上げても街のくすみは度を増すばかり。ダークグレーの、ライトグレーの奇妙な静けさ。嵐の前の静けさとも見える。

 

※魯孤:平山の俳号、異称。

                                                          2012 1/4


 

「ある日、その時」 (16) 2011年12月1日ー

<掲載内容>

238.「吠える」ということ 239.参与観察 240.「東京文化発信プロジェクト」の問題点 241.「迷宮」でまどろむ人々242.先日、前首相は都内の某レストランで・・・243.国の見立ては根も葉もなく244.「哲学」できない人々245.「あがき」の美称 246「帚木に 影というもの ありにけり」(虚子) 247.坊ちゃん刈りのおっさん達 248「3.11日常」を観て 249.ジャーナリスト・上杉隆の決断

 

                                               (転載・複製厳禁)



249.ジャーナリスト・上杉隆の決断


 彼は2011年12月31日をもってジャーナリストを無期限休業することを宣言した。これは本来のジャーナリストであれば当然の帰結であろう。したがって、これは本来のジャーナリストに戻ることの宣言でもある。検察問題を真摯に追及する彼の姿を見て以来、いずれこうなるだろうとは思っていた。そして、今回の休業宣言とともに記者クラブと政治家の癒着を示す40万枚のメモを公表し、日本のメディアの不健全さを表す象徴的なものとして日本の皆さんに問いたいということである。自らの身の安全のためにも狡猾な策謀を封じるためにも発表の仕方は考えているようであるが、賢明な方法であろう。このようなことは何もジャーナリズムのみならずあらゆる領域でまかり通っていることでもある。この国には「上下左右」似て非なるものしか居場所がないというのが大きな問題であると同時に致命的なことなのである。上杉隆が志向しているのはジャーナリズムの本道である。そのような人間を実質的に追いやるということは、この国の衰退の証の一つともなる。いつまでもニセモノにまみれていては腐るよりほかはあるまい。日本にこだわっている必要はない、厳しいとは思うが活動の拠点を世界に移すべきである。惰眠を貪り、目先の欲望に振り回されている人生よりどれほど豊饒であることか。

                                                2012 1/1


248.映画「3.11日常」を観て


 このような映画の批評はできるだけ避けたい。ただもう少し福島の現状に迫れなかったのかとは思う。京都大学助教・小出裕章(原子力工学)氏については著作もすべて読み、すでに充分に知っていてそのスタンスにつても共振しているので、映像からは彼の身近な日常以外は改めて発見するものはなかった。強いて言えば彼自身を再確認できたことか。そして、マスメディアではほとんど取り上げられなかった経産省の前で10日間のハンストをした4人の若者を確認できたことも今後の参考となった。177人の収容の映画館に3,40人くらいの観客が来ていたが、今なお問題意識を持っているのはこの程度位なのであろう。それは少ないとも言えるが多いとも言える。ただ今もって福島原発が進行形である以上、今までのように「一過性」の事象として済ますことはたとえそうしたくともできないということだけは確かなことで、今後も次から次へとその原発事故の「結果」を見せつけられることであろう。無味無臭の透明な有毒物質は痛みもなくただちに発症することもなく着実に肉体を蝕んでいくということを一体誰が完全に否定しうるのか。緩慢なる自殺の道を、あるいは私利私欲の「壊国」の道を歩んでいる者以外は真剣に考えなくてはならない問題である。

                                                2011  12/28


247.坊ちゃん刈りのおっさん達

 坊ちゃん刈りのおっさんでも「おっさん」という言葉が出ず、よく似合っているなと思えたのは画家の藤田嗣治くらいであろうか。多くは童顔であればあるほど薄気味悪くなってくる。「内面」と「坊ちゃん刈り」と「装い」の内角の和が定まらずで、180度すなわち「一直線」にならないのである。どこか歪みが生じていて形にしようにも形にならない。それに「ヌーボー」とした要素でも加わればもはや魑魅魍魎の住人としか思えないが、あにはからんや、可愛いもので、頭の中は損得勘定だけでそれ以外には驚くほど何もない。似て非なる素朴さ、誠実さとでも言おうか、やがて取ってつけた縫い目はほころび始めるがそんなことにはお構しないというのが彼らの一般共通項である。

                                                                                                                               2011 12/27


246.・・・・・帚木に影といふものありにけり (虚子)・・・・・・・・

・・・・・これは「帚木」以外には成り立ちようがない写生を超えた写生句である。有の実相あるいは無の実相を見事に捉え切ることになった一句・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011年のある夏の日を想い描いて・・・・・

                               ーある日の散歩ー     2011 12/25                                    


245.「あがき」の美称


 シュトレーバーによれば、俗物とは努力型成功主義者ということになり、蘇東波に言わせれば俗物とは治療不可能であるらしい。

 赤心を推して人の腹中に置くなどは愚者の典型とされる世であれば、赤心片々たる者にとって社会との「距離」は正当な「距離」である。

 来年は大方の予想をはるかに上回る(歴史の動きとは常にそうであるが)前代未聞の事態の幕開けになることは充分に考えられるが、巷ではいまだに何の根拠ともなり得ない歴史的前例を持ち出して「頑張れる」と思っているのが実情のようである。実際に事実や客観的現状すら明確に捉え切れずに単なる「ガンバル」の連呼に象徴されるすべての動きはやがて悪しき「あがき」の様相を呈することになる。徐々にその進行の度合いを深めつつ早めている世界の変動はいつしか激動となり、あらゆる人間の「本性」が至る所でむき出しにされることは火を見るより明らかなことであろう。その様を見て、少なくとも「人間とはこうしたもの」などとうそぶく側にはいない者としては、それによってもたらされる自らの「揺れ」を現在の生きる証として受け止めるより今のところ手立てはない。巷間に流布している「状況分析」なるものも大方が単なる「参考資料」程度か、それ以下で信用に足りるものではない。どちらにしても、我々に与えられるものは常に「咀嚼物」か「吐瀉物」かも定かでない、含有成分も不明な毒とも薬とも言えない「糖衣錠」であることだけは確かなことである。肝心な真実に近い「極秘事項」などに匹敵する内容はウィキリークス的行為もしくは本来のジャーナリズム的機能が介在しない限り流れることはないからである。ただし、「権威」などとはほど遠く何のしがらみもない視座で客観的状況を掌握し得た者の言説が問題の焦点を穿つこともあり得るだろう。しかし、果たしてそのような「立ち位置」を確保、維持できている者が現在どれだけいるのかということにもなる。多くは、口にはチャックし下半身のチャックだけは開放されているというのであれば話にもならないが、もしそうであるならそれはそのまま俗物の俗物であることの証左ともなる。そして、蘇東波の言うとおり俗物とはもはや治療不可能な対象なのである。

                                                     2011  12/22ー23

〇「御用学者」とはマッドサイエンティスト、マッドスカラーのことである。またそのような認識すらできない者を真の「御用学者」と言う。

最近では、アメリカの国立衛生研究所が生物兵器防衛計画の一環として、オランダの「エラスムス医療センター」のロン・フォウチャー教授に作らせた遺伝子操作をして人にも感染するようにした強い毒性を持つ鳥インフルエンザがある。これもマッドサイエンティストの類である。この化学者もその内ノーベル化学賞ではなく、ノーベル平和章でももらうのであろう。

〇「能書きを垂れるな」などと、だらだらと能書きを垂れる己を知らぬうつけ者、それを俗物、スノッブ、小人とも言う。


244,「哲学」できない人々


 基本的にも哲学(知を愛する)できない人々とは、言い換えれば明確な世界観を持ち得ず、論理的にも思考展開できない人々のことである。周知のように仏教国と言われながらも現実的には「生ものは扱わない」葬式「仏教」、現生利益のおよそ「信仰」とはかけ離れた悪しき神仏習合ばかりが目に付くのが日本の偽らざる実情である。確かに、京都大学教授・カール・ベッカーの言うとおり、外来の借り物仏教で、仏教の基本概念である輪廻の考え方も定着しなかったのである。そして、「日本人が死体に抱く霊魂観は原始宗教レベル」そのままなのである。さらに、哲学に関する言葉もドイツ語か英語、漢語で、日本語(和語)には「観念」、「概念」、「理論」、「妥当性」などの言葉も存在しない。要するに「大和言葉で哲学することはできない」ということになるのである。それは根本的なところでマザータング(母国語)ともいうべきものの欠如であり、その言語的不安定さは即 精神的脆弱さとなって現れる。多くの一般的な日本人においては思考的短絡は常態と言ってもよいくらいに日常茶飯事である。そこでは「考えること自体」がいつまでも自分自身の「もの」とはなり得ていないのである。もし「大和言葉」に利するところがあるなら、それはその不安定さによってさらに増幅され揺れ動く感情表現の領域においてのみであろう。その一つの「結晶体」が和歌、俳句であるが、同時にそれは、底辺に蠢く社会問題でさえ感情面だけの「狂騒」で終わらせてしまう鎮静要因としても作用する。そのことはよく知られている歴史的事実からも見て取れることで、そこに見えてくるのはそれがあたかも「純粋」であるがごとくの感情的領域だけである。1096年の永長の大田楽しかり、幕末の「ええじゃなか」しかりである。「和語」には美しい感情表現もあると同時に巧妙に仕掛けられた支配システムが内蔵されている。それが我々のDNAレベルまで入り込んでいると見ることの方が我々自身を捉えかえす意味でも有意義であると思っている。

 自らをどぜう(どじょう)という言葉で譬えることで、多くの者の一部の感情が収まってしまう意識構造とは、感情とはその程度のもので、それだけで動いているものが多ければ多いほど御しやすいのも事実であろう。ただし、この手で通用するのは日本国内だけである。

追記:仏教にまで言い及んだのでついでに前回243のブログと関連させて言えば、サルトルの「人間の死が予告されている云々」という箇所を、ブディスム的観点に立って捉え直せば、そもそも「人間」などというのは一つの境涯に過ぎないのであって、非常に不安定なものでいつでも他の境涯に移行し得るものなのである。だから、人間の形はしているが生存状態が「修羅」、「餓鬼」というのは容易に成立するのである。ブディスムではその境涯にいる者達を「人間」とは言わず、「人間」という概念そのものが常に一定して存在し得るものとしては捉えられていないのである。

                                                   2011 12/11


243.国の見立ては根も葉もなく


国の見立ては 根も葉もなく 

世の本流はイミテーション

流れに抗し 握りしめるは 根無し草

哀れなり うんちく傾け したり顔

然もありなんと うそぶく間にも 堤崩落

 

 取り留めもない言葉がぐるぐる回っている内に、天井の節穴が鮮明になってきた。

 久しぶりに、サルトルの「シチュアシオン」を手にする。「Aprés la mort de Dieu ,voici qu'on annonce la mort de l'homme 」が目に飛び込んでくる。「神の死後、今や人間の死が予告されている」、この前の文章には、「我々の誠実さ、勇気、善き意志が、もはや誰にとっても意味のないものになり、それらが邪心、悪しき意志、恐怖を携えて根源的な不明瞭さの中に沈み込むであろう前日なのだ。」という文がある。そして、「Il faut que je sois ,en ce jour ,même et dans l'éternité,mon propre témoin.Mortal parce que je veux l'être, sur cette terre minée.」 すなわち「今日というこの日を、そして未来永劫にわたって、私は私自身の証人にならなければならない。この蝕まれつつある地上にあって、私自身がそうであること望むからには、自分自身の倫理的証人にならねばならない。」とある。これは原子爆弾の管理者となってしまった共同体の中にいることがどういうことなのかについて述べた箇所であるが、これはそのまま原発の管理者となってしまった共同体が負わねばならない今の我々の問題でもある。この「生物界の枠組みを踏み越えた」共同体には、日ごとに、そして一分ごとに、生きることへ同意し続けることが必要になるであろう。」ということである。これは実際に意識するとしないに拘わらずそうなのである。そして、それが現に今ここで起こっていることの生々しい実情なのである。

                                               2011 12/8


242.先日、前首相は都内の某レストランで・・・


 前首相は、レストランで、「私は構わないが、子供や女性がいるので野菜は西の方のものにしてくれ」というようなことを言ったらしい(知人の事情通)。さもありなんであるが、ただただ絶句である。このような者達が数多くいることは想像に難くない。そして、都内の某町会運営のレンタルスペースでは誰がどのようなルートで持ってきたのかは知らぬが、定期的に福島の伊達、飯館の野菜が売られている。そこで若い女性が安く手に入れた白菜を抱えて帰って行くのを目にしたが、中を見ると中年の女性でごった返している。「お毒見方」がいてもすぐには分からぬ放射性物質が相手である。何年か先に発症しても追跡調査は不可能であろう。福島県民も現在の土地に拘泥せずできるだけ早く新たな土地で生きる道を見出した方が賢明であろう。そうしない限り、本人の頑張りとは裏腹にさらに実質的な被害を広げる方向に加担することになってしまうからである。放射性物質は専門家が(政治家は論外)どのようなことを言おうが人間の手の内に収まる代物ではないことだけは確かなことなので、論証不能領域が極めて大きいのである。このような場合、やはり大事を取ることが鉄則であろう。もうすでにゼネコン関係が仙台に入り、瓦礫は「お宝の山」とばかりに仙台の一部は浮かれているようであるが、これがいずれ福島でも展開されるのであろうが、放射性物質の除染方法も徹底しないまま行われる下請け業者の汚染・撤去作業がどのようなものになるのか、たとえ作業が終了したにしてもとても山歩きなどできない地域になるのではないかと思われる。このまま行けば、数十年、場合によっては途方もない時間を経ても消えない有害物質が広範囲にまき散らされるだけの除染・撤去作業になると心配している。「私は構わないが」と言うのは当然嘘である。私は結果の出る頃にはいないというのなら分かるが、権力に執着した者が生に執着しない筈もなかろう。そうでなくとも人間はいくつになっても、たとえ明日をも知れぬ身であっても生に執着するものである。

※最近よく野菜、果物の訪問販売を目にするが、どのようなルートか検査も不明なこのような野菜、果物の販売は今後ますます増えることであろう。また「自己責任」で対処せよということか。      

                                                2011 12/5


241.「迷宮」でまどろむ人々


 ギリシャ神話などでは迷宮の中心にはミノタウロスという怪物が住んでいて、迷宮に入り込んだものはその怪物と対決し、勝利してそこから脱出して新たな世界を獲得するという筋立てであるが、泉鏡花の「草迷宮」のテーセウスたる主人公は怪物を殺そうともせず、そうかと言って逃げ出そうともしない。迷宮から脱出する意志はまるでなく、あろうことかそこで眠り込んでしまうのである。怪物の設定も「日本的」であるから成り立つことではあるが、これがミノタウロスであればすでに命はない。「草迷宮」の主人公は怪物と戦う意志ももなく、試練を経て新たに生まれ変わる自己を獲得することもなく、「永遠の母性憧憬という夢のなかに、その自我をぬくぬくと眠らせたままでおく」のである。これは結局、「彼みずからすすんで、迷宮という一つの退行の夢の中に落ち込んだ」ことを意味する。このような点が鏡花の「超越の志向」が欠けているとよく言われるところでもあるが、これはそのまま日本人の精神構造の根幹部分に蔓のように絡みついていて、そこではあらゆる障害を乗り越えて、「新たな自我」を勝ち取るという過程そのものが存在し難くなっている。要するに「見苦しい」葛藤を回避させる方向にしか働くなっているのである。最近でも、欧米諸国から、日本人の不可思議な「優しさ」について空世辞をよく聞かされたものだが、この「優しさ」とは、一つにはこの退行のまどろみの中にあると思っている。澁澤龍彦が奇矯な言辞を弄するようではあるがと前置きしながら言っている箇所に、その退行が実は「マイナスの超越」、「逆超越」ではないかというのがあるが、それが起こり得るのは飽くまで泉鏡花自身とそう読み解けた澁澤自身の中においてのみであろう。

                                                2011 12/4


240.「東京文化発信プロジェクト」の問題点


 文化を世界に向けて発信するということ自体をとやかく言うつもりは毛頭ないが、主催が東京芸術劇場(公益法人東京都歴史文化財団)、東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団である。しかも文化芸術振興費補助金までもらっているにもかかわらず日本公演は一部の学生割引を除いて一律7500円である。ニューヨーク、ロンドン、香港公演もあるようだが料金は不明である。海外公演ではまさか3500円ということではあるまいな。主催は実質的に東京都で、さらに補助金まで出ていて日本の観客だけに7500円を出させるというのであれば、税金で行われるオリンピック誘致活動の小型版というより他あるまい。そこには「世界に向けた発信」だけが最優先され日本人観客のこと、日本の文化レベルの底上げなどは全く眼中にないことが分かる。また、現状の日本の状況では、政治・経済・文化、あらゆる面で追い込まれているだけにそれどころではないという実情もよく見てとれる。野田秀樹の使命は、言ってみれば日本はこんなにも元気で躍動する感性で満ちているというところを誇示する演劇行脚と言ってもよいであろう。どちらにしてもその負荷を負わされるのは99%の日本人だけである。しかし、東京都もせこい話で、東京文化発信プロジェクトと言うなら、この際1000円位の料金でできるだけ多くの日本人観客にも観劇させるくらいの気持ちがどうして持てないものかと思う。つくづく文化的営為そのものが分かっていない国である。実質的に市民意識など持ち合わせていない者が仕切っているのであるから致し方ないが、どこを切り取っても国民不在の国なのである。この時期に一体誰が7500円も出して製作予算(税金)も充分取っている「お墨付き公演」をありがたがって観るのかと思ってしまうが、これも市民不在の国ならではである。

 これは演劇に関わる大方の人間が日ごろ感じていることでもあろうが、利害関係上あまり公言したがらないので敢えて確認の意味で改めて問題提起をしたまでである。これは、今後少しでも文化的営為の何たるかを検証しつつ最善の方向に日本の文化そのものが進展することを願ってのことである。

※東京都知事・石原慎太郎は周知のように典型的な原発推進派である。野田秀樹は「アエラ」の表紙(放射線防護服を着た者のアップ写真)に神経質気味に抗議して連載を降りたが、その内容は、要するに放射線危機を必要以上に「煽る」ものということであった。ここで敢えて言うまでもなく彼の立ち位置は明明白白であろう。ビートたけし然り、金で買われた命の帳尻合わせの四苦八苦というところか。

                                               2011 12/3


239.参与観察

 参与観察には、意識的に行われる場合と、種々の要因でいつの間にかそのような位置に立たされてしまっている場合もあり得ると思われる。参与観察は、その社会に一員として入り込み、行動をともにしながら観察する質的調査のことであるから、本来の意味からすれば前者の方であるが、広義に捉えれば後者も現実的にはスタンスとして成り立ち得ると考えられる。そして、そのような位置にいる者に対する周囲の共通認識は「一体何者なのか」という排除概念を形成することで常に一過的にも結束し得る方向に向かう。その社会内で、多くは作られた「目的意識」を持って、あるいは自己のさまざまな欲に絡め取られて行動する者達からすれば、「参与観察者」のスタンスとはどれだけ彼らと行動を共にしても、それはその社会の「深入り」具合にもよるが、常に「違和感」を伴う「何か違う」者達でしかない。それは立ち位置も諸関係に対する関わりも異質なことからくることで当然のことでもある。前者の立場であろうと、後者の立場であろうと、社会をさらには自らを探ろうということが一義的になっていることには変わりがないが、特に後者に至っては、存在の在り方そのものが「観察行為」それ自体をさらに拡大、深化させることを要求してくる。そこでは現実の世俗世界が新たに照射されて現出されてくる分、現実世界の中ではリズムのズレにも似たの齟齬が生じてくる。しかし、このようなズレのすべてを引き受ける以外にスタンスとしての「参与観察」は実質的に成り立ちようがないのである。

                                                 2011 12/2

 


238.「吠える」ということ

 3・11以後、マスメディアにおいても、巷でも「吠える」という言葉が頻繁に遣われ始めた。それだけそのような事態が多かったということでもあるが、盗人にも三分の理のような開き直りの類は別として、その多くは義もあり理もある内容でとても「吠える」などという言葉で括ることはできないような、政府に対する一般人、識者の抗議、批判までもが「吠える」という言葉で置き換えられていた。「言葉とは、主体がその意味の世界のなかでとる、その位置のとり方を表しているのであり、あるいはむしろ、その位置のとり方そのものなのである。」というメルロ・ポンティの指摘のとおり、言葉とは、その言葉を発する者のその位置のとり方そのものを明確に表している。したがって、何気なく遣われたにせよ、むしろその方が怖いのであるが、「国民」、「市民」としての当然の要求である批判、抗議声明をまでもこの「吠える」という言葉で歪曲、卑小化させてしまう意識構造とはいかなるものか敢えて説明する必要もないであろう。3・11以後遣われた「吠える」という言葉の使用事例だけを見ても、やはりこの国は極一部を除いて「市民」不在、「市民意識」の欠片程も存在しない国であるとしか思えないのである。

                                                                  2011 12/1

 

「ある日、その時」 (15) 2011年11月3日ー

<掲載内容>

227.九電会長夫人の暴言に見る日本人の意識構造 228.ダライ・ラマ14世は何のための来日か?229.目のやり場もなく、目に付くこと 230.「冷温停止、年内達成は可能」は全くの嘘 231.いつか、パリでレオナルド・ダ・ヴィンチと 232.ペットビジネスの危うさ 233.軽佻浮薄は性に合わず 234.凡夫の凡夫たる所以 235.アルバトロスとアホウドリ236.「散逸構造」と心の様相と・・・237.不可思議な日本の「左翼」ぺシミズム

                                              (転載・複製厳禁)



 

237.不可思議な日本の「左翼」ぺシミズム


 

 日本には「保守本流」と言い得るものも存在せず、したがって、「左翼」も「右翼」あるようなないような極めてその存在が希薄である。そして多くのマルキズム的思考回路を持つ者たちが、その方程式、または「敷衍式」であらゆる状況を裁断、分析・展開して見せてはくれるが、いざ行動となると自己の「殻」に閉じこもって黙ってしまうか何やら呟き始めるだけというのが実情である。ネグリとハートの「帝国」を話題にし「共振」したのであれば、アントニオ・ネグリの「行動」も倣うべきであろう。少なくとも、それなりに範を垂れる必要がある。オートノミズムに「共振」する者であれば日々の抵抗は欠かせないものとなる。そのような具体的行動も取らずに「ペシミズム」に陥っている暇などないはずである。だから、すべては行動が伴わず言ったまでの話で終わってしまうのである。彼らが今まで連綿と言い果せてきたこととは一体何なのか。単なる西欧思想の紹介なのか。このようなことは、日本の「左翼」あるいは「左翼的」と言われている者たちが必然的に招き寄せた「息切れ」にも似た「ペシミズム」」そのものの「病巣」を点検、検証する「術」も持たずに西欧思想の「さわり」の移入のみで事足りていた事情そのものを改めて検証する時期に来ているということを意味している。そこには日本の精神風土の検証ということも含まれてくる。このことに関しては以前ブログでも述べたが、少なくとも本居宣長以降の冨士谷御杖まで時間反転させて検証、再構築させる必要があろう。

                                                                                                                                          2011 11/29

 


 

236.「散逸構造」と心の様相と・・・


 

 「散逸構造」とはベルギーの物理学者でもあり化学者のイリヤ・プリゴジンの提唱した非平衡熱力学の理論で、それによって1977年ノーベル化学賞を受賞している。この「散逸構造」の理論は心の様相を知る意味でも大いに参考になると思っている。それはまたブディスムの根本思想の「空」、「無」、「縁起」などとも関係してくるのである。「空」とは固定的実体のないこと、実体性を欠いていることであるが、「空」を表すサンスクリット「sunya」とは「あるがまま」と言う意味もあり、それはそのまま「縁起」(paratiya-samutpada)にも繋がっているということをより分かりやすく示してくれる要因ともなっている。

※サンスクリットは表示できない記号が抜けている。

                                                                                                                                              2011 11/29


 

235.アルバトロスとアホウドリ


 

アルバトロスとはアホウドリの英名で、フランス名もalbatorosで発音も「r」以外はほぼ同音である。そして、ゴルフの用語としても遣われているが、当然のごとくどれも和名からくるイメージはまったくない。

 しかし、アホウドリに対する和名の卑称の類には驚く、例えば「馬鹿鳥」、「阿呆鳥」、「叔父だまし」、などであるが、中には「沖の太夫」、「籐九郎」などとどことなく愛嬌のあるものもないことはないが、欧米諸国の名称が呼び起こすイメージには程遠く、その名称に多少なりともインテリジェンスを感じさせるのは辛うじて「信天翁」とい字を当てたことくらいであろう。この漢字がなければ何とも人間の「あさましさ」だけが滲み出てくる和名である。同一のものに対する呼称が多いということはそれだけその地域の人間の生活と絡み合っていたということを意味する。実際、羽毛目的の乱獲で1949年には絶滅に瀕していた鳥である。天空を飛んでいる時のアルバトロスの姿は実に見事であるが、地上に降りると大きな翼が却って動きを妨げて機敏な動きができず容易に捕殺されてしまうのである。1910年に羽毛の貿易が禁止されてからも国内向けに約6300000羽が捕殺されたと推定されている。そして絶滅に瀕してから61年後の2010年現在で2750羽が確認されているという。捕殺が容易だというので「馬鹿鳥」、「阿呆鳥」である。人間よ、それはないだろうと思うが、「阿呆鳥」扱い、または「おかしな鳥」扱いしなければ、いくら金のためとは言え600万羽も殺すことの自己正当化は容易ではなかったのであろう。是非は別にして、そのお蔭で人間達は生活できた訳で、要するに彼らに食わせてもらっていたのは人間様の方なのである。本来なら感謝すべきところを「馬鹿鳥」扱いである。これは大量捕殺の「正当性」をでっち上げ、罪悪感からの解放のために付けられた名称である。今の世も変わらぬが、金になれば手当たり次第ではすべてはやがて絶滅してしまう。今の子供達には天かけるアルバトロスの見事な滑空を見ることはほとんどできないであろう。

 私には、アルバトロスに対して特別な思いがある。以前、ボードレールの「アルバトロス」という詩に和して「アルバトロスよ、地上に舞い降りるな・・・」という詩を書いたことがあるからである。だから、私はアルバトロスのことを絶対に和名では呼ばない。「アホウドリ」、その響きに反してその名の由来と歴史は陰湿で血にまみれている。

                                                                                                                                             2011 11/26

 


 

234.凡夫の凡夫たる所以


 

 一言で言えば、心底真面目になれない人々のことである。いざとなれば適当にやることを心得ている者、その場に合わせて要領よくやり、ごまかしも厭わない不真面目な者たちを凡夫というのである。そして、「それが世の中」と言わんばかりの凡夫たちによって世の中の大方は占められ、彼らによって動かされている。すなわち、不真面目な者たちによって世の中は動いているのである。心底真面目な者というのは「現実」世界においては除け者、狂人扱い、そうでなければ自殺に追い込まれるというのが多くの事例からも導きだされる。そうならずに自己の生存を可能にさせた者とは「自らの道」を見い出し、切り開き得た者だけである。才人、天才、偉人など言われた人々は例外なく心底真面目な人間たちばかりである。彼らと凡人との決定的な差異はその真摯さの中にある。凡夫が凡夫という境涯を一瞬でも脱することができるのは、彼らが何らかのカタストロフィの体験で全人格的変容をもたらさざるを得なくなった時だけであろう。総じて、凡夫とは本質的に真面目さを欠いている者達のことなのである。庶民とはこの凡夫の言い換えに過ぎず、その言葉を遣う方も遣われる側もそのファジーな意味合いの中で安住してはいるが、その実態は不真面目な集合体ということでしかないのである。だから、何回でも同じ過ちを繰り返すのである。

                                                                                                                                               2011 11/23


Bonjour Monsieur

Il y a longtemps que je ne vous ai vu. Que devenez - vous?

Beaucoup de Japonais sont toujours dans le même état.Je pense que  la plupart de gens font  semblant de ne pas voir l'accident de la centrale nucléaire de Fukushima . Cet état ressemble au traitement de la mort. En d'autres terms ils font semblant de ne pas voir la mort. Il me paraît que ils éliminent   la mort pour elle- même. Par conséquent ils ne peuvent pas voir la réalité de Japon.

                                                                                              2011  11/23

 


 

233.軽佻浮薄は性に合わず


 

 軽佻浮薄は性に合わず、過去を忘れるとて今生を酔生夢死とするもよしとせず。さりとて、語りて何か変わるとも思えず、しかすがに語らず死に果せるほどの気もなし。元より、何か変わると思いて語りたる例とてなく、唯ひたぶるに心に起きて已まぬことのみを書き連ねたるなり。言の葉に乗せてここまで来ると、後半は何やら吉田兼好のごとくなってくる。煎じ詰めればどちらにしてもそこに行きつくのであろう。この境涯、漱石のごとく「高等遊民」とするのも憚られて逸民とでもしておこうか。そうかと言って、自らを「聖代の逸民」と言う国木田独歩とも質を異にする。聖代などと言えばまた「いにしえの聖代、すべて起請文につきておこなはるる政(まつりごと)はなきを、近代、このこと流布したるなり。また、法令には、水火に穢れを立てず。入れ物に穢れあるべし。」などと言う兼好法師が戻って来て、つい現(うつつ)の政に目をやることになる。その様如何にと問われれば、、起請文の有無などとは関わりなく、そもそも政の体も成さず、ただただ政、民への配慮もなく、お為ごかしの業、私利私欲の所業あるのみで、今や「入れ物に穢れあるべし」どころではなく、ただちに入れ物など朽ち果てぬべしと言った方がより現実に近い。

 こはいつの世のことかと目疑うことのみ多かりし。その事訳言い果す者多々あれども、大戦の後60余年の帰一せるところとぞ覚ゆる。

                                                                                                                          平成23年霜月22日  

 


 

232.ペットビジネスの危うさ


 

 友人の話を聞きながら、好きなものを仕事にすることの危うさを改めて感じた。その友人の話では、知り合い(仮にY氏とする)で今年になって会社を退職した年配者が、年金だけでは退職金もすぐに底を突いてしまうので何か第二の人生に適当な仕事を探していたところに「犬の散歩」というのがあったと言う。Y氏は以前から犬や猫などを飼っていたこともあり、すぐに応募すると年齢と住所を聞かれ、研修会に出てくれということになったらしい。研修会では、テレビで放映された動物のビデオが流された後、各地域の担当者の話し合いになったのでその日は退席した。後日、その会社の代表から電話があり、大変だけれどやりますかということで、これも何かの縁だろうとまだ残っていたわだかまりを払しょくするように承諾をしたが、その電話のやり取りでまた気になることがあったと言う、それは対応が「お客様対応」で、若い人には無理ということで中高年の存在を必要以上に強調することである。Y氏はそれがどうにも気になり契約直前に電話で確認すると、案の定、保証金、独占販売権,開店資金として数十万円を支払わなければならず、これではやはり若い人には払えまい、だから「無理」と言ったのである。Y氏はその程度の金額は払えないこともなかったが一挙に不信感が広がり、辞退する旨を伝えると、「フランチャイズチェーンだから当たり前、退職した人間がそんなことも分からないのか」という捨て台詞のおまけまで付いたということである。フランチャイズチェーンであればその保証金、独占販売権、開店資金などの金額は必ず明記されているはずであるがどこにも記載されていなかったと言う。確かにそれは前もって確認されてしかるべき重要事項である。友人の話を聞いていて、これはペットブームと中高年の第二の人生の夢を商売にした、小銭を持っている中高年限定特定産業と言う意味での「ニュービジネス」なのだと思った。「この地域にはまだまだ私の知らない犬が100匹はいる。これからも拡大できる思う。」と言っていたこの会社社長のような第二の人生は、今後ますます貴重になる時間をどのように送ろうかと思っているのでできることなら避けたいと言ったY氏に私も同感である。今後も日本にはこのような隙間産業的職種が手を変え品を変えますます増えることであろう。

※上記のような企業ばかりではなく、動物そのものに真摯に関わっているところもあるだろう。またそうであることを願う。                                              

                                                                                                                                               2011  11/19

 


 231. いつか、パリでレオナルド・ダ・ヴィンチと


 

 これはモナリザの絵画のことではない。石の模様のことである。

 あの瞬間、思わずその「石絵」の見事さに身動きできなくなってしまった。20歳の時にパリに来ていればどれほどの絵描きになっていたか分からぬなどと思い上がってしまうほど素晴らしい「石絵」がどこにでもある。「見つめる」ことを知っている者なら想像力は限りなく飛翔し時の流れを忘れる。絵描きであればこの石の文様を観察すべきではないかと、あの時は新たな発見をしたかのごとく高揚したものだが、すでに500年以上前に1400年代後半にイタリアでレオナルド・ダ・ヴィンチが弟子たちに石の壁を観察するようにと教えている。しかし、石の文様に吸い込まれていくように感じたあの瞬間の連なりが感覚に沁み込んでからというもの、その感覚が蘇り反芻し始めると、どこからともなくレオナルド・ダ・ヴィンチが数百年の時を隔ててやって来る。

 いつか、下水溝の水音だけを残し、パリの街角が白昼夢となった。石畳を音もなくゆっくりと歩いて来た初老の男が佇み、やおら石塀に跪く、何やら語っている、内容は聞き取れなかったが母音と子音の発音はイタリア語である。時折、彼はその石に触れ、その構図と表情を写し取っている。そのデッサンは明らかにダビンチのタッチであった。

                 2011 11/18  ふと思い出されたこと・・・   


 


 

 230.「冷温停止、年内達成は可能」は全くの嘘


 

 また始まったかという感じである。そもそも細野何某という原発相は「冷温停止」の意味が分かっているのか?「冷温停止」などという専門用語を巧妙に遣うことでまた隠ぺい工作が始まったとしか思えないのである。東電自身ですら隠し通せず、炉心が溶け圧力容器の底が抜けていると言っているのである。「冷温停止」とは「圧力容器の中の健全な核燃料を100度未満にする」ということである。圧力容器が破壊されていてどうして「冷温停止」が可能なのか、それとも途方もない放射性物質を浴びながら圧力容器を修理をしたとでも言うのか。全く無意味なことを、100%あり得ないことを達成可能とする「認識」それ自体が「走狗のこじつけ」以外の何ものでもないのである。すなわちそれは全くの嘘ということになる。こんなことを臆面もなく平然と言える、またそれを無批判に垂れ流しているマスメディアとは呆れ返って、ただただ絶句するのみであるが、もし、こんな無内容なことをまともに受けている国民がいるとするなら、それは単なる衆愚としか言いようがないだろう。そして衆愚だけの国家にはよき為政者は育たず、やがて滅亡するのは必定なのである。そして、今どのようなこと言ってみても、地震大国の小国が、大きな展望もないまま目先の金に目がくらみ周到な用意もなく、後始末もろくにできない原発に手を染め、自国の一部を失い、さらには世界の海も汚し続けているのが現状だということである。「がんばろう日本」ですむ問題ではないことにいつになったら気が付くのだろうか。TPPしかりこの国の「壊国」は歴史的必然なのかも知れぬと思っている。問題はその後である。

 

                                                                                                                                            2011 11/18

 


 

229.目のやり場もなく、目に付くこと


 

 放射能問題しかり、ホメオパシーしかり、それ以外の問題においても<証拠がないことを根拠にものごとを証明することはできない>(未知論証)ということが、全く理解されずに当然のごとくそのような言説がまかり通っていることに唖然とさせられることがよくある。たとえば、「科学的根拠も有効な統計も存在しないにも拘らず、それを有効とするのは虚偽である。」云々の類である。これは実は何も語ったことにはならない。なぜなら、科学的根拠(証拠)がないことを根拠に証明するすることはできないからである。そして有効な統計とは何か、またそれがどこまで証拠として有効なのかも問題になる。そこから導き出せるのは唯一<論証的には何も言えない>ということでしかない。それをもっともらしい結論に結び付けるからおかしなことになり、結果的には騙り、プロパガンダと言われても仕方のない恣意的な偏向をもたらすのである。

 ただし、法廷においては、未知論証の誤謬は例外的に証明責任で代替される。たとえば、Kが「検察は小沢氏をこの事件の犯人と推理しているようだが、そのような証拠はないので小沢氏は犯人ではない。」これは証拠のないことを根拠にした未知論証の誤謬であるが、検察には挙証責任があり、検察が法廷に対して小沢氏が犯人であるとするに足りる証拠を挙げることができなければ未知論証ではあるがKの主張は正しいことになる。

 しかし、この間の経緯を見ていても、この国には「推定無罪」は存在し得ないのだろう。「あいつは怪しい」の一言で簡単に犯人に仕立て上げられてしまうのである。これを煽っているのがまた大手一律マスメディアを中心とするマスメディアである。信じられないことに「無罪でも限りなく怪しい」などということを平然と言ってのけるのがこの国のマスメディアである。何とも恐ろしい国である。しかし、これは今に始まったことでもあるまい。今までは何とか「経済」成長の中でカモフラージュされていただけで、ここに来てすべてが否応なくさらけ出されてきたということに過ぎない。未だに燻り続ける「小沢問題」にしても、それに関するアメリカのスネイキーな動きは余程の衆愚でない限りはある程度は察知できることでもあろう。反小沢即親米路線で括られてアメリカのプロパガンダになるしか生き延びる手立てが見い出せぬまま右往左往しながらステレオタイプな文言の組み合わせに日夜あくせくとしているのが大手を始め大方のマスメディアの在り様である。要するに、手も足も出ないのである。これは「アメリカにレイプ」されて以来、「経済勃興」だけを夢見て何とかしたたかに生き抜いてきたつもりになってきた小さな島国国家が、気付いてみれば身も心も蚕食され尽くされていたという現状でもあろう。

 話を戻せば、身近に溢れかえっているお為ごかしのさもそれらしい記事などには惑わされず、とにかく検証することが先決であろうと思われる。この未知論証の誤謬もその点では現実的に役立つとは思うが、ただ、実際には「有効とするのは虚偽である。」というような断定は避けられていて、あたかもそうであるがごとくの巧妙に誘導するレトリックが遣われている点は注意すべきである。そして、なぜそのようなレトリックを遣う必要があるのかを考えるべきなのである

 もう一つ、面白い例を出そう、映画史上でも名画として名高いエイゼンシュタインの86年前の作品「戦艦ポチョムキン」の中でウジの出た腐った肉を食べさせることに対して水兵が医者にその肉を見せて抗議、詰め寄るシーンがあるが、その医者はその腐肉を見ながら、「これはウジではない、ハエの幼虫だから問題はない」と言う。これはそのまま「プロトニュウムは飲んでも問題はない」と言った現代の「専門家」に重なってくる。未知論証どころではないこんなブラックユーモアとしもどうかと思われるような「内容」を通そうとするのが「1%紳士淑女」なのである。

 

                        2011 11/11          


 

228.ダライ・ラマ14世は何のための来日か?

 


 

 結論から先に言えば、ダライ・ラマ14世は語り得ぬことについては語らぬ方がいいだろう。

「脱原発だと貧富の差が広がる」などとは意味不明である。厳密に論証を必要とすることをファジーな見解でまとめるべきではない。ここで仏教について述べるつもりはないが、日本人の多くはダライ・ラマ14世を「純粋仏教国」の頂点に立つ人くらいな認識であろうから少しだけ簡単に説明しておくと、チベット仏教は7世紀頃、インドから入ってきた大乗仏教とヒンドゥー色の強い密教とを合体させたものである。多くの仏教伝播国がその国の民族宗教と習合していったことを考えれば致し方ない流れではあるが、釈迦の説く仏教とは次第にかけ離れてくる。密教に至っては絶対的存在Vairocana(大日如来)を中心に据えている訳であるから当然、釈迦の説く原始仏教(original Budhism)とは遠のくばかりなのである。釈尊を開祖とする教えが仏教であるなら、密教とはその教えからは導き出せないものとなる。特に加持・祈祷に至っては仏教とはもはや全く異質のものと言わざるを得ないのである。チベット密教がヒンドゥー教の色彩が強いということは、ヒンドゥー教の捉え方にもよるが、それは仏教とは似て非なるものとなる。

 残念ながら、ダライ・ラマ14世のどの発言内容を見ても納得し得るものは何もない。要は、不確定事項の羅列なのである。これではあまりに無責任であろう。これでその気になっているのは東電、政府、原発関係者だけくらいである。もしそうでない者がいるとするならその理解できたという内容を聞きたいものである。これらはすべて反証不可能な領域に安住し過ぎた者の言辞と言ってもよい。さらに言えば、ここには本来の「仏教者」としてのあるべき「合理的」判断がないのである。ただし、彼は「脱原発」の直接的な批判、パレスチナ、尖閣諸島、TPPの問題についてはコメントは避けている。彼の「TPPについては勉強していない」という発言くらいが正直というべきか。しかし、今、なぜ彼にこのような質問をするのか?それで何を導きだそうとしているのか?経済面、精神面の両面において独り立ちできない腰砕け状態の日本人は彼に一体何を期待しているのか?逆に問いかけばかりが多くなってしまうが、それにしても東電、政府、原発関係者を喜ばせただけの何ら発展性のない無意味な記者会見というべきであろう。

 

                                                                                                                                                                2011 11/7

 


 

227.九電会長夫人の暴言に見る日本人の意識構造


 「やらせメール問題」で九電会長・松尾新吾夫人に記者が詰め寄った際に発せられた暴言が「あなたたちって共産党?」、「日本人?」、「あなたたちだけよキチガイは!!」等々ということらしい。いかにもという感じで驚きも何もない。地方の名士夫人のレベルとはこの程度と言うつもりもない。これは現在の日本人の「一般的意識」レベルと言ってもいいもので、発展途上国の意識レベルとそれほどの差異はないだろう。豊かな歴史と文化を持つ国民の意識とはとても思えない。どうしてこうなるのかについては遡れば切りがないが、少なくとも本居宣長以降の冨士谷御杖、平田篤胤くらいまではすぐに辿り着く。そして、宣長以後の平田篤胤らによって短絡する方向で国学を「宗教化」したものが日本人の日常の隅々にまで根を張り、それが「主流」として今でも生き続けているのである。その浸透度の計測を抜きにして日本人の意識構造を検証してみても仕方あるまい。だからと言って、今ここでそこから話を始めるつもりはもうとうないが、とにもかくにもこれは「ここ数年の日本の社会のありよう」ではないのである。現実的に想起し得るところから始めても、数十年前から何ら変わっていない。ジャーナリスト・斉藤貴男が「政府や巨大資本のデタラメを批判すれば、必ず返ってくるのが、『バカ、アカ、サヨク、非国民』だ。」と某紙で語っているが、確かにこれはとても「先進国」としての民主主義国家に属する国民の様相とは言い難く、あまりに幼稚過ぎるのであるが、しかし、これこそがまさに「『ひたぶる』な非倫理性あるいは狂信とが、論理的屈折を経ることなく共存している」宗教感情なのである。すでに日本人の精神構造に入り込んでいる平田篤胤の「神道」イデオロギーを巧妙に取り込んだ戦前、戦中の軍部のマインドコントロールの残滓は消えたわけではない。それは環境的変動で、またわずかな条件ですぐに蘇るのである。実に単純極まりない2,3行の言の葉で人間を絡め取り、思いのままに動かすのである。怪奇もの、スリラーが好きな御仁なら平田の怨霊が今も息衝いているとでも言いそうであるが、しかし、それが「宗教」というものでもある。ただし、ここでさらに問題になるのが冨士谷御杖のような緻密で現代哲学にも通じるような繊細で強靭な世界観とは裏腹に、「国学」を神道化する展開方法にも難点の多い平田篤胤の神道思想を軍部がさらに教化浸透し易いように「加工」したことで、結果的には深まることのない「信仰」のみを国民の意識の奥深くに植え付けたということである。このような「信仰」は「精神の豊穣さ」とは乖離概念にしかならないのである。これは冨士谷御杖の視座に立てば歴然としてくることでもある。このような流れの中から当然、豊かな文化、歴史を持つ国民とは思えぬ低思考回路からの情動的言葉のみが飛び交うのである。そういう者たちに逆に聞きたくなることがある、「あなたほんとうに日本人?」。

 「平田神道」は「宗教」ではあるが、展開内容から言っても民族宗教のレベルから決して脱するものではない。日本人の意識に深く入り込んだ、前意識を丸ごと飲み込んで、深層心理にも大きな影響を及ぼす「信仰」とはどのようなものか、想像することは容易であろう。彼らは天皇を戴く「日本国信者」なのである。信者には、国に対する如何なる正当な批判も「ご神体」に対する罵倒にしか聞こえないのである。彼らにとって、国を批判する者、抗議する者とは「異教徒」的存在でしかない。ここにも本居宣長の「国学」に発する「情念」を政治的世界に短絡させる方向で展開させた「平田神道」の難点と、浅薄さが見て取れる。このような日本の「特殊性」を充分に検証しないと、いつまで経っても世界の常識は日本の非常識、日本の常識は世界の非常識で終わってしまうのである。

 因みに、平田篤胤は「主流」、冨士谷御杖は「傍流」として扱われているが、やはり真実は主流にあらず、傍流にありと思わざるを得ない。そして、主流が傍流に、傍流が主流になるのも、それは「時」のなせる業である。

 今まで経済最優先で突き進んできたこの国の精神的脆弱さは事あるごとにその貧相な姿を白日の下に晒してきたのである。現在、もっとも時間のかかる根本的な問題に直面しているとも言える。

 

                                                                                                                                                 2011 11/3

「ある日、その時」 (14) 2011年10月4日ー

<掲載内容>

217.後始末もできないものに手を出すな!218.「御用学者」がもの申す。219.孟母三遷、蓋し遷すべき地ありや 220.進水式に沈没とは!(中国甘粛省)221,愚かしく、虚しい東電試算 222.暴走記者と「お達者クラブ」と 223.千葉県柏市の57.5μSv/h 224.動物虐待に見る未成熟、若しくは成熟不能の残虐性 225.あるべき知識人の姿ー京都大学大学院・中野剛志准教授 226.「テレビは余命7年」、新聞は?

       

 

                                                                                                                              (複製・転載厳禁)



226.「テレビは余命7年」、新聞は?


  今のテレビ業界は、あと7年で崩壊すると警告を出している本があるという。7年という数字は微妙でその根拠についてはまだ読んでいないので何とも言えないが、その見解には正当性があると言うより現実的な流れでもあろう。私の予想では5年以内に実質的な本体崩壊で、後は残滓整理というところである。そのようなことについては以前何度かブログでも書いたことがあるが、それは至極当然の流れである。テレビ業界の収益の80%を広告収入が占めているのでは、広告主の言いなり、巨大資本の思うが儘、偏向報道などは当たり前ということである。いくら作り手が「真実の報道や心温まる番組」を心掛けたとしても現在のシステムを根本から見直し、転換させるしか再生の道は残されていない。現に未だに、大量生産してしまったタレントのバーゲンセール、助け合いショーのようなことをやっていること自体、完全にアンテナがさび付いているとしか言いようがないのである。土台部分だけはしっかり固定されている錆び付いたアンテナを持つ本体は建て直すしかないのである。もはや小手先操作でシフトできる段階ではない。実質的な本体崩壊と残滓整理が同時進行していると思われる。

 さて、大手新聞社の方であるが、これについても今までうんざりする程ブログで取り上げてきた。煎じ詰めれば、日本の今の三大新聞、読売、毎日、朝日、3社の必要性の有無である。その必要性が一体どこにあるのか、内容的にも大同小異で、ただ煩わしいだけなのである。「フィガロ紙」(仏)、や「ニューヨーク・タイムズ」が3社あっても仕方ないのと同様である。もっともこの日本の「三大新聞」には「フィガロ」、「ニューヨーク・タイムズ」程の切り込みも、質もないので正確な譬えにはなり得ない。

 この「三大新聞」の行く末も、大方の識者、慧眼の士達にははっきりと見えているはずである。もはや語るべき余地すら残されていないのかもしれない。これもまた残滓整理の段階に入っていると見るなら、後はただその「あがき」を見届けるだけである。

                                               2011  10/31


226.あるべき知識人の姿ー京都大学大学院・中野剛志准教授


 中野准教授だけではないが、最近このような学者、識者、専門家、すなわち本来の知識人のあるべき姿を具体的に身を以て示す人々が少しずつではあるが現れてきた。喜ばしいことである。それは、日本の「最悪」な状況の中でようやく灯り始めた一灯とも言えるようなことなのである。

 中野氏のTPPに関する明解な発言は、彼が生出演した(10・27「とくダネ!」フジテレビ)スタジオ内を「凍りつかせた」ようだが、それはただ単に今までの報道関係の取り上げ方が余りにも切り込みのない嘘偽りでお茶を濁してきたかということの証左でしかない。このような知識人が現れるようになったことで却ってほっとしているのは私だけではあるまい。他にも様々なやり方で活躍している人々を思いつくまま挙げれば、TPP関係では東大の鈴木宣弘教授、慶大の金子勝教授、原発関係では東大の児玉龍彦教授、京大の小出裕章助教など、ここでは長くなるのでこれ以上は差し控えるが、それ以外にもまだまだ多くの方達が本来の識者、専門家としてその良識に従った言動をしていることが見て取れるようになった。

 3・11以前、原発推進、原発行政はそのメインストリームであった。そのメインストリームの成り立ちはやはり虚偽で溢れ返っていたことがこの間の経緯そのものが具体的に証明した。「主流」とは一体何か?それは決して「真実」とは同義ではない。「主流」とは似て非なるものと言ってもいいほど歴史的に見ても偽りの多いものである。、「真実」は傍流にあり、主流にあらずというくらいの視点をわが物としない限り、歴史も、現実も見通せはしないと言うより、「見る」ことさえできないのではないか。

 

                                                  2011  10/30


224.動物虐待に見る未成熟、若しくは成熟不能の残虐性


  何度となく繰り返される犬の悲痛な鳴き声に近所の住民が動物愛護団体に通報した。担当者が駆けつけると、マンションの3階ベランダに犬が放置されている。部屋には主は不在で、後日また来ることにしてその日は引き上げることにした。帰り際に再びベランダにいる犬を観察すると、かなりやせ細り、やつれて餌をまったく与えられていないということが分かった。犬の種類がラブラドールと言うのもその時はっきりしたが、社会性もあり、おとなしく賢いラブラドールがこのような鳴き声をするのは余程のことなのである。

 日曜日に再度、担当者が訪れると、若い男が子犬を抱きながら出てきた。担当者がベランダに放置されている犬の事情を聞いていると、その若い男は「あんなに大きくなるとは思わなかった、大きくなり過ぎてかわいくなくなったから外に出している」と言う。担当者は、このような状態で犬を放置するのは動物愛護上にも問題があり、近所にも迷惑になることなどを説明してその犬を引き取ることをその男に承諾させた。男は黙って頷いただけであった。担当者がそのラブラドールを抱きかかえようと近づくと、その犬はよろよろしながらも飼い主の方に必死になって歩み寄ろうとしている。その時、担当者は思わず涙がこみ上げ、その男を殴り飛ばしたい気持ちになったらしい。男の表情は喜怒哀楽の痕跡すら感じさせない無機質のまま、担当者が異様に軽いラブラドールを抱いて部屋を出ると、背後で鉄製のドアが閉まる音が響いた。

                                               2011 10/27


223.千葉県柏市の57.5μSv/h


 この数値は文科省が「原発事故が原因の雨水」と認めた数値だが、それにしても異常な数値である。単純計算しても年間500ミリシーベルトを超える数値で、文部科学省の積算方法で計算しても約298ミリシーベルトと、国が避難の目安としている20ミリシーベルトの15倍程度の被曝量になる。これは福島県内の校庭の安全の目安にしている放射線量1マイクロシーベルトの57倍以上になる。この地域は以前よりホットスポットとして騒がれていたところであるが、実際に測定もせず、大手マスメディア・読売新聞社などが原子力安全技術センター(天下り財団)のコメントを「そのまま」垂れ流し、それ以外から発信されたものすべてをデマ扱いして、「公的機関や報道機関などの根拠のある情報を確認してほしい」と呼びかけていた地域でもある。いつものことながら公の、「お上」からの指示・通達などを待っていたらすでに遅過ぎるのである。今回のことでも賢明なる経営者、管理・指導者諸氏はまったく公的機関、報道関係の「根拠のない」情報などは端から信用せず、的確な行動プランの基に避けるべき難を免れている。デマかそうではないかの検証は常にしなくはならないが、今後ますます必要となってくることは確かで、すべてを「権威主義的」に公的機関に頼っていては身がいくつあっても足りないことだけは事実なのである。

 以前にもブログで書いたが、放射性物質はまだまだ人類の手に負えるものではなく、これについての「権威」なるものは未だに実質的には存在しないということを明確に押さえて置かなくてはならない。したがって、あらゆる根拠の定かではない「科学的」楽観論は一番危険であるということになる。さらに言えば、すべてが実のところ手探り状態で、それを脱し切れてはいないということでもある。「公的機関や報道機関などの根拠のある情報を確認してほしい」などと、あたかも「公的権威機関」があるがごとくに取り繕っているが、そんなものは実際にないに等しいのである。だからこそ、そんなことを言っている間に実際に問題になっている、この場合は噂になっている、または「デマ」発生の要因を作っているホットスポットをしらみつぶしに測定すればいいだけのことであるが、何を恐れているのか(その理由は推定可能であり特定可能でもある)、それすらしようとせず根拠もなく単なる「デマ」として片づけてしまったことに関しては犯罪的な職務怠慢と言わざるを得ない。そして、今回またその一角が露呈したに過ぎないのである。これも前に書いたことであるが、この放射性物質は人間の「思惑」などとは一切無関係に「結果」を出し続け、「思惑」そのものに矛先を突き付けてくるだろうということである。したがって、どのようなことを言ったにしても早晩その是非については結論が出され、尚且つそれが隠し通せないものとして容赦なく我々に突き付けられてくることは間違いないのである。

                                                       2011 10/25


222.暴走記者と「お達者クラブ」と


 さすがに大手マスメディアの読売新聞である、人材には事欠かない。小沢一郎自身が出席し質疑応答をする会場で、何を勘違いしているのか、本社指令の会場荒らしの「やらせ」なのか、一人上り詰めてまたぞろ小児病的「政治と金」路線だけで小沢を問いただす。国会で説明責任を果たせなどと言っている連中は、こんなことをまた国会でやろうというのか、何のために?愚かしい政争で国の衰退に拍車をかけているのは蒙昧な政治家自身である。そこには国民の存在などはまったくない、ただ既得権益死守の方向で官僚、マスメディアと結託して国民を都合のいいように巻き込んでいるだけである。それについては今更、何をかいわんやである。

 また一方では、「よみうり寸評」なるもので、カダフィー殺害についてのしたり顔なるその語り振りである。      「最期の地は生地でー略ー『ふるさとへ廻る六部は気の弱り』は洋の東西を問わないようだー略ー梟雄の末路は哀れ」などと一句ひねって悦に入っている「お達者クラブ」の俳人気取りの風情。以前、9.11貿易センタービル崩壊時にたまたま現場に居合わせた「俳人」が季語まで入れて詠んだ句を思い出した。そこからは時事変化する全体的かつ立体的な世界の動きそのものの片鱗すら読み取れていないことが分かる。時々刻々変容する風紋の砂一粒の動きさえ捉えられていない。この「よみうり寸評」のお達者「老人」は、冒頭E・トッドの引用文を出しているが、敢えてトッドでなくとも少々分析力があればこの程度ことは誰でも言えるであろう。トッド独特の人口統計学、家族形態などを中心とする人類学的視点の明快な「切り取り」(経済的、宗教的視点はないと言うよりそれらをシフトさせた視点とも言い得る)を感じさせる引用文ではない。先程も言ったようにトッドの名前がなければどこにでもいる「評論家」が言ったとしてもおかしくない程度の内容である。時の趨勢に則った権威論証のきらいさえ感じられるものである。要するに、その持って行き方、集約の仕方そのものが何とも「哀れ」なのである。既成の観念の中に閉じ込められ絡め取られている「哀れ」などという言葉を蘇生させ,収斂させようとしてもそれ自体にもはや無理が生じているのである。このようなことから導き出される観念体系からわれわれは今や何も得るものはないと言うより、それでは一歩たりとも歩み出せないところまできているのである。それはむしろ不快でもあり、むかつきさえ覚えるものなのである。

 本体が方向を見失っていては震え筆も収まらず小手先もままならないというところか。

 

                                                         2011 10/24

 


221.愚かしく、虚しい東電試算


 5000年に一回起きることとは、明日起きても不思議ではないと知るべきである。このような確率のマジックを使った試算をまたぞろやっている東電とはつくづく懲りない連中であると思わざるを得ない。これで一体何が言いたいのかと敢えて意地悪く聞きたくなる。1000年に一度のことは7カ月前に起きた。一億年に一回と言うのなら少しは聞き耳を立てて付き合ってもいいかなという程度のことである。さらには、「安定化の目標である『冷温停止状態』を維持する云々」などと言っているが、今、原子炉は具体的にどのような状態になっているのか?「冷温停止状態」などというもはや不可能なことを「安定化の目標に置く」などとは「奇跡」を目標にすると言っているようなものであろう。こんな子供だましのような希望的観測ばかりを算数大好きグループの割り出した数値を基に得意げにあたかも確定事項のごとく話すのではなく、もっと現実的事象に目をやりそれに即した見解を述べるべきであろう。このような話は生命保険会社の生涯プランと同様で、そこには何ら科学的エヴィデンスもなければ、生きるために必要な哲学的命題の片鱗すらない。東電の算数・理科教室発表とは裏腹に日本の現状は思っている以上悲惨なのである。3・11以後、原発に対する「不手際」を常に世界に向けて発信し続けながら、実質的にも客観的にも世界の恰好の「人体実験場」と化しているというのが嘘偽りのない日本の実情でもある。このような現状にあるにも拘らず、この国は国民を守るどころか「生贄」のごとく世界に差し出していると言ってもよいくらいに国民不在の、極一部の者だけがその恩恵に浴するシステム作りに余念がないのである。そして、その一部の「勝者」になることが唯一自由競争の「本来の在り方」と刷り込まれた者達がすでに「過去の幻影」に過ぎなくなろうとしているものにいまだにしがみつきあがき辛うじてこの「非合理的(台)国家・日本」を支えているのである。そして、このような東電の算数・理科教室発表をまた嬉々として御大層に論じているのが言わずと知れた「我らの」大手マスメディアである。彼等の存在理由は一体何か?あるのか?

                                                   2011 10/18


220.進水式に沈没とは!(中国甘粛省)


 このような地域に何でこのような豪華遊覧船が必要なのかと思ったが、甘粛省はシルクロードのコースでもあり観光客を当て込んだ企画の一つであろうと思われたのであるが、なぜかその妙に派手で場違いな船に対する違和感が払しょくできずにいたので少し調べてみると、やはりこの地域には原発建設予定地があった。日本でも原発建設予定地にはその土地にはそぐわないモダンな真新しい建物が立ち並ぶのはいつものことである。この甘粛省にも何らかの形で大きな金が動かない限り突然の豪華遊覧船の登場は考えにくい。そして、進水と同時に沈没である。もし、これがすべて「原発マネー」の賜物であるなら象徴的な出来事である。どこでもそうであろうが、原発関係の式典に立ち並ぶ人々の顔は不安と後ろめたさの入り混じったような表情でどこか硬い。

 中国には現在、南シナ海、東シナ海沿岸に数か所の原発があり、稼働中であるが、今後の原発建設予定は広範囲な内陸部も含めて30か所程ある。しかし、原発関係についてはすべて軍事機密なので何があっても正確な情報は期待できない。したがって、気流などの影響で直接被害が考えられる日本では、ある日、黄砂のように降り積もった物質がすべて放射性物質であったなどということが決してないとは言い切れないのである。日本国内では今もって福島原発事故の収束の目処も希望的観測以外にはまったく見えてこない。こんな状況で中国で原発事故でも起こされたら悲惨である。しかし、現実的には中国でもうすでに原発故障、事故などが起こっていても何の不思議もないのである。ただし、それに関するすべては軍事機密であるから我々が正確な情報把握をすることは極めて困難である。今後さらに中国が原発を100か所増設したとしても、日本が原発推進路線取る限りそれについては何も言えないだろう。今でさえ狭い日本全土が世界でも稀な原発密集地帯なのである。アジアの中でいち早く脱原発路線を明確に打ち出さない限り、早晩日本全土が放射能汚染地域となってしまうということがますます現実味を帯びてきているのである。食料はない飲料水はない、輸出もできないで、それで一体何をするつもりなのか?世界に向けて「風評被害」などという弁明は全く通用しないのである。そして何よりも日本を「世界の実験場」にしてはいけないということである。犠牲になるのはまた国民だけである。

                                                  2011 10/17


219.孟母三遷、蓋し遷すべき地ありや


 孟母三遷とは、もちろん人間の成長にとっていかに環境が大切であるかと言うこと譬えでもあるが、今やそんな所はどこにもあるまいと思うのでつい悪態をつきたくなるのである。やはり「三つ子の魂百までも」で環境、社会というものは否応なくその人間の意志とは関係なく成長過程に入り込んでくるものである。そうかと言ってその人間の人格形成のすべてを環境、社会の所為にするのも問題があるが、個人の力ではどうにもならぬ限界領域があるのも事実であろう。環境・社会によって、特に幼年期に不可抗力的に「悪しき歪み」が生じてしまい、そのことによって自分では何とも収拾のつかない思っても見ない方向に持って行かれてしまうこともある。そのような意味でも子供のために環境を整えてやることは確かに必要なことではあるが、それではどこにそのような子供の成長に適した場所があるのかということになる。残念ながら、どこにもそのような地があるとは思えないのである。

 「思っても見ない方向に持って行かれる」様態のある部分を古来、日本人は「虫」たちの所為にもした。「疳の虫」、「虫が好かない」などの体内に巣食う計り知れない「虫」たちである。西欧には「虫」よりもさらに大きな大中小取り混ぜた「悪魔」群がいて、その現れ方も「囁き」から「憑依」までと様々である。しかし、「虫」の方は「囁き」もしなければ「憑依」もしない。すでに体内の一部となって存在していて、それが「時」に触れ、「場」に触れ、「人」に触れ発現し膨張・収縮しながら作用するだけである。特に「憑依」については日本では「虫」の領域ではなく、「鬼」も領域でもあるが、「鬼」もまた「隠(おに)」で隠されている「観念」と言う意味では「虫」と同一なのである。「鬼」の存在そのものも本質的には観念的なものでありながら、「虫が住みつく」というような意味での内在的観念とはなり得ず、飽くまで外在的観念である。その点では「悪魔」の在り様と類似している。したがって、それは様々な形で具象化されることが可能であると同時に具象化することを強いる「存在」でもあったはずである。「観念」の外在化を強いるということは、対象化し距離を保たないと「人間」の存在そのものが脅かされ瓦解する可能性もあるということで、それは取りも直さず社会基盤そのものを崩壊しかねない恐怖の対象としての「存在」でもあったということである。

 しかし、そのような「恐怖の対象」についても、現在の日本では前意識レベルの自己防衛装置が働くことによって恐怖心を起こさせる対象を何とか「飼いならそう」または「ねじ伏せよう」とする営為そのものから導き出される「積極的な創造」とは逆に、「対象」そのものの直接認知は極力避けその周辺を徘徊する傾向ばかりが強く、そこから日々必然的に紡ぎ出される妄想と限りない逃避がもたらす「対象」に対する無関心と矮小化で辛うじて「自己」を維持しているしか思えない状況でもある。そのような中からどこからともなく現れてくるのが愛嬌のある「悪魔」であり、「鬼」である。これは恐怖心を起こさせるものを乗り越えた訳もなく、自分にとって単に都合のいい安易な置き換えでしかない。そこには人間の証ともなる「対象」との直接全面関与から生み出されるものが全くないのである。換言すれば人間の真の抽象能力は奪い去られ、失われ、「鬼」、「悪魔」の具体的分身だけをが大量生産されている一方で、「鬼」、「悪魔」が誕生した闇の領域はますます広く、深まっているということでもある。それは「理不尽な」恐怖に怯えながら自ら捏造したハレーションの中で人工的に作り上げた「闇」に弄ばられている「生」と言ってもよいかもしれない。

 闇は見ても見なくても確実にそこに存在しているのである。今、闇の深淵を直視し佇む勇気が必要なのではないか。

3・11以後、今まで隠ぺいされ続けていたものが様々な形で一挙に噴出しただけのことではあるが、そのような現状を見るにつけても子を持つ者であれば誰しも子のために少しでも良い環境を探そうとするのは当然のことであろうが、果たして今、そのような所がこの国にあるのかどうか、遷すべき地ありやと思ってしまうのは私だけではあるまい。

                                                   2011  10/11-10/12


218.「御用学者」がもの申す。


 「御用学者」と言われた者が、言い訳とも開き直りとも取れるようなことを言っているのが時々見受けられるが、何とも情けないないと言うかみっともない。「御用学者」などと言う言葉は以前から遣われていた言葉ではあるが、3・11以後特に原子力関係の学者について頻繁に遣われるようになったが、私自身はその少し前からブログで政治情勢などについてまとめる際によくこの言葉を遣っていた。その時から変わらぬ「御用学者」についてのコンセプトは、たとえ専門分野でどれほどの業績を残したにせよ、問われた事柄について自らの専門領域で誠実に答えていない者、また時の政権やそれに関連して利害関係が生じる組織の意向に沿う方向で事実内容を意図的に偏向、改ざんする「学者」ということになる。

 たとえば、ヒットラー政権時に協力的であったドイツの世界的哲学者ハイディガーにしても、その著作の内容的価値は今でも変わらないが、、第二次大戦後ナチスドイツの協力者としての汚名は一生引き受けざるを得なかった。「御用学者」も程度の差はあっても本質的には同様で、それは「意識」の問題ではなく、その時点での「存在」の在り方が問われているのである。したがって、そこに人間主義的領域の事柄が入る余地もなく、いかなる弁明、講釈も無意味なのである。私の知る限りではそれについてのハイディガー釈明は聞いたことがない。「御用学者」、「御用メディア」の講釈、弁明のひとつに「その時点では危機感を煽るようなことは避けた」というもっともらしいものがあるが、すでにこのようなことを発する発信者の立ち位置は明確であろう。被害を被る側にはいないのである。起こり得ることに対する当然の危機感の検証、提示を「煽り」で置き換える「作為」が逆にまた問題となるところではあるが、危機が迫っていることが明らかな時に専門的知識を持っている者が被害を被る側に立ていれば自ずと事実の伝え方は違ってくるはずである。彼等はそれを確実に怠っているのである。「学者」は何のために存在するのか今一度問い直すべきである。たとえば、ハイディガーが自分は実際にユダヤ人をアウシュヴィッツに送った訳ではないと言ったところでそれが通る話でもないのである。「御用学者」の在り方、為していることを考えれば、時の政権すなわち実質的に権力が集中している複合体が為したこととは抜き差しならぬ共犯関係が成立するのは否定しようがあるまい。

 ※先日、福島原発で作業中の作業員に3人目の死者が出た。それについては被曝との因果関係はないと報じていたが、これですぐ納得してしまうのは今や日本人くらいしかいないだろう。これについてもマスメディアはそれ以上のことは何も語らない。3・11直後から作業をして現在は現場を離れている者からも体調を崩したりあういは死んだ者たちが出ているはずであるが彼等についてはもともと存在しなかったかのごとくである。彼等の存在は日々抹殺されてまた都合のいいデーターばかりが収集されて日本向けの「研究データー」が仕上がるのであろうか。

                                               2011  10/6


   217.後始末もできないものに手を出すな! 


 後始末もできないものに手を出す者を文字通り「餓鬼」と言う。いまだに福島原発の収束の目処も全くつかない状況で原発を再稼働する、新設するなどとはこの国は「餓鬼」の集団なのかと思われても仕方あるまい。そもそも後始末もろくにできないものになぜ手を出すのかということがこの問題には常に付きまとっているのである。もっともらしい見解は多々あるが、福島原発事故がこの間に現実的に提示した様々な問題、そしてさらに提出し続けるであろう問題に対してどの見解も何ら明解に対応し、答えられるものではなく、むしろそれらの見解の忌まわしい胡散臭さばかりが浮き上がってくるのである。すなわち、それは「まともな人間」のやることではなく「餓鬼」と称される者達の所業であるとしか言いようのないものである。周知のようにその「餓鬼」達によって作り上げられた今日の現状は、日本の「恥部」を惜しみなくそれもだらしなく世界にさらし続けているのである。あれほど勇ましく大言壮語を吐いた原発に群がる「御用学者」達は実際には何の役にも立たず、いまだに恥も外聞もなく鉄面皮に「御用評論家」と共に戯言を繰り返している。これは犯罪的と言うよりも犯罪そのものである。この犯罪者達のリストは後の世のために書き記して置く必要があろう。

 いまだに福島原発の現場の状況(作業員の実情も含めて)を旧ソ連のごとく隙あらば隠ぺいしようとする東電、政府は為すべき測定ポイントの正確な測定もせず、さらには最近分かった児童の甲状腺異常についても因果関係がはっきりしないなどと言っているが、今からこの調子では今後どこまで追跡調査をするのかはかなり怪しいもので、これでは旧ソ連より巧妙な民主国家とは名ばかりのただの隠ぺい国家と言わざるを得ない。要するに、東電、政府関係者の頭の中には、日本国のことも、国民のことも、事故現場で働く作業員のこともない。あるのはこれ以上明らかにされたくない、探られたくない「恥部」の隠ぺいと補償金、今後の原発行政のことだけなのである。このようなとても「まともな人間」の領域すら持ち得ぬ「餓鬼」達のことを亡国の輩と呼ばずして何と言うべきか。

  福島原発の事故現場で働く作業員に「功労賞」を授与したのはスペイン皇室である。この時、日本政府は「なでしこジャパン」に国民栄誉賞を授与するかどうかを審査していた。日本と同様に事故当初から隠ぺい工作が多かった旧ソ連ですらチェルノブイリ原発事故の作業員に勲章を授与している。一応国家の体なしている国は形だけにせよその国の国民、前線で作業する者達に対しては「気遣い」を示すものである。ところが、この国は教える者も救わず見殺しにして、訳の分からぬ「会議」と「会合」(宴)を繰り返し、「やることはやった」と嘯くような国家なのである。そして、今なお被災地は救援物資も不十分、金銭的にも困窮の極みに達しながらも「難民生活」を強いられている。さらにここに来て増税である。地震と津波だけであるなら忍耐強い東北人のことであるから何とかがんばりようもあろうが、時間的にも空間的にもとても人間業では対処できない放射性物質が相手では手の施しようがないのである。それに関連して今でも不用意に口にされる「風評被害」にも問題がある。ある意味では、「風評被害」などというものは当初より存在しなかったとも言えるのである。それは「風評被害」ではなく正確に言えば東電、政府が起こした被害である。この言葉は、東電・政府サイドが自分達に向けられた矛先をかわすために都合のよいように着せ替え再生産した言葉であるということをきちんと押さえて置かないとその言葉を遣うことでいつの間にか東電、政府の思惑通りの土俵に上がってしまうことになるのである。早い時期に的確なポイントの正確な測定を行い、その測定値を公表し、適切な対応をしていれば「風評」の形成される隙もできず問題にはなり得なかったとも言える。もし、それでも「風評」と言えるものが起こり得たならば、それは「風評」ではなく「現実の状態」ということになり、逆に「風評被害」という「風評被害」が発生したことになる。どちらにしても、「風評被害」であると思われているすべての事態に関する主犯は東電と政府なのである。それを焦点のぼやけた不特定多数の者達になすり付けても埒も明かないと言うより、そのような方向に持って行くこと自体が結局のところ主犯の東電、政府の思うつぼということになってしまうのである。彼等は政府発表以外のすべてを「風評」と称しているのである。現実に今、政府発表だけを信じている者がどれだけいるのか?

 この時期に原発についての討論会などやっている場合でもなく、その必要性もないだろう。そんなことを敢えてやっているのは討論イベント屋か、後手勝負専門の取り繕い業者・マスメディアくらいなものであろう。もはや専門筋の話も無用、要は後始末もできないものに手を出すなと言うことに尽きるのである。今や、日本も危急存亡の時である。智慧を絞り出さなければすぐに終焉の時を迎える。実際に脱原発、反原発の方向で具体的プランはいくつも出されているはずである。もうすでに向かうべき道筋は決まっているだろう。

                                                    2011 10/4

 

「ある日、その時」 (13) 2011年9月6日ー

<掲載内容>

209.そして、穴に消えた夫婦  210.ブッシュとビンラディン211.フランス原子力関連施設で爆発 212.連綿と低迷する日本のテレビドラマ 213.驟雨と美辞麗句 214.そして、女優もいなくなった。215.恥ずかしくはないか、本来なら逆であろう。216.(財務)官僚の騙しのレトリック

                                                      <転載・複製厳禁>



216(財務)官僚の騙しのレトリック


 

 彼等官僚の常套レトリックと言ってしまえばそれまでだが、こんな陳腐なレトリックにもいとも容易く引っかかるのがこの国の国民である。震災復興のことなど「現実的には」彼等の頭の中にはほとんどなく、国家予算はあるにも拘らず震災復興の名目で「復興増税」(「期間限定」の所得税、法人税の増税)を打ち出す、そして、「社会保障と税の一体化」ともっともらしいお題目で近々消費税10%アップをする。実際には義捐金同様何に使われたか不明、名目とは裏腹に、ある割合でその税収が使途不明金となる。この増税路線に60%前後が賛成、反対が30%前後である。どこまでオメデタイのかと思うが、これが現在の日本の国民の一般的意識レベルである。やはり世界の「秘境」と言われても仕方あるまい。まず、なぜすぐに国民の首を絞めることしか考えていない彼等の言いなりになるのか、納得してしまうのか、彼等は国民のことなど全く眼中にはないのである。油断すれば何を考え出すか分からない連中であるという認識が国民の側にないということが大きな問題なのである。そして、彼等に影のように寄り添っているのが多くのマスメディアである。マスメディアとは彼等の都合のいいスピーカーでしかないことを何度でも再確認すべきである。こんなことを何度も言わざるを得なくなることが何とも情けないが、相手が何度でも仕掛けてくる以上その度に振り払うしかないだけのことである。そして、また改めてこの国の国民というのは、たとえ崖縁に導かれても尾っぽを振ってついて行く国民なのだということを思い知らされる。しかし、もうそろそろほんとうに目を覚まさないと命はない。彼等の騙しのレトリックは必然的にホームレス、自殺者、犯罪者、貧しい者同士の争いなどを増加させる要因ともなる。それは他人事でない、明日は我が身なのである。自分だけはと思っている者が一番危ない。想定外のこと、すなわち自己のパラダイムでは収まり切らないことはいつでも起こるのである。

                                                    2011 10/1


Sur le problème de Ozawa

Le parquet de Japon est déraisonnable et absurde.Il fabrique le coupable sans  preuve . Dès qu'on gratte un peu le vernis on truve le pays terrible. La justice de Japon est toute pourrie.Et on ne peut pas ajouter foi aux articles de journaux(surtout grand média)  On peut conclure du particulier au général.

※Ichiro Ozawa: homme politique

                                                                                                              suite à prochain numéro

Le journalisme de Japon est à la mercie de gouvernement et n'a pas le jugement sain.

Les bureaux du journal de Japon (Asahi .Mainichi.Yomiuri.Sannkei.Tokyo.etc)

Et les informations de télévision ne disent pas sur la catastrophe de la centrale nucléaire comme si de rien n'etait.  Lavage de cerveau et la dissimulation On dirait que la plupart de gens ne peuvent pas encore comprendre la gravité de la catastrohe . 

                                                                                                                2011 9/30ー10/1ー


 215.恥ずかしくはないか、本来なら逆であろう。


 一人の俳優が社会的に目覚めて、個人として主体的に選び取り直接的な抗議行動を起こす。欧米ではよくあることではあるが、日本では極めて稀なことと言える。それもテレビを中心に活動していた俳優となれば尚更である。これはもちろん山本太郎のことである。また一方では、映画監督の大林宣彦が九州電力のイメージキャラクターを務め、ビートたけしは東京電力の原発の太鼓持ちをやる。両者とも一応映画監督である。確たる「世界観」がその中枢になくては成り立たぬ職種でもある「映画監督」がこの調子なのである。一役者が社会問題に真摯に立ち向かい、映画監督がこの様である。これは本来なら逆であろう。大林の鵺(ぬえ)のような言動などはそのまま九電玄海原発のイメージなのであろう、そして、たけしの安全地帯のいくらでも方向転換可能な屁のような「毒舌」キャラも東電には都合のいい「タレント」なのであろう。要するに、金で動いているだけで、金の出所は問わないのが彼等の彼等たる所以なのである。このような者達が作る「作品」世界などは観る前から底が割れているのである。実際、彼らの作品を今まで面白いと思ったことは一度もない。三百代言風な世界観しか持ち合わせていない彼らにはもはや展開の仕様があるまい。唯一残された方法とは、どうにもならない愚かしい自分自身を描き切ることしかない。もし、そのような方向で展開するのならまだ救いはあるが・・・それはあり得ない。

                                                    2011 9/25ー9/26


 214.そして、女優もいなくなった


 今、日本の女優はと聞かれれば、正直なところインテリジェンスはない色気もない声質も耳触りで声量もない。その上、リズム感もなく動きにも滑らかさもない、一体これは何なのかと言うよりほかに答えようがないのである。これはもう女優と言うより、人目ばかりを気にする目立ちたがり屋のどこかのお姉さん、おばさんがそのまま出てきてそれらしい「物真似」をして何かを「演じている」つもりになっているだけのことである。本来、演技者というのは身も心もさらして「いくら」の危険な世界の住人なのであるが、そこら辺のところがまったく分かっていないというか、分かろうともしない。多くは干乾びた臍の緒のような「心」を三重底にしまい置き、当初より予定され作られた「実体らしき」心の「露出」、それが役者であると思い込んでいる。「役者らしい役者」として何人かの男優は思い浮かぶが、女優らしい女優となるとすぐには出てこない。ワンシーン、ワンカットの監督サイドの切り込みで際立ったところで浮かび上がる女優が辛うじている程度である。それに比して欧米の映画、舞台などでは女優の存在感をひしひしと感じさせるものが数多くある。日本における「女優の不在」ということが意味するするところは極めて大きい。簡潔に言い放てば、それは目覚めた女性の不在ということでもあり、それは結局のところその国の意識レベルの低下ということになってくるのである。このようなことを嘆いているよりプロデューサーとしてはAKB48のようなプロデュースをしている方が金儲けとしては賢いやり方であろうが、またぞろお手軽路線の「キャラ女優」の大量生産で、日本経済と同様、場当たり的な小手先勝負ばかりが横行し将来的に期待し得るもの、継承されるべきものは全くない。海外での、特に欧米諸国の一般的意識レベルから見てもAKB48などは日本人の「幼児性」、「未成熟度」の「興味ある」分析対象にしかならないであろう。

 

                                                                                                                          2011 9/25                                                    


213.驟雨と美辞麗句

 驟雨などと言うと、どこかリリックで吉行淳之介の小説を思い出してしまうが、昨日の雨は台風の影響もありかなりエキセントリックであった。そんな雨の中を傘もささず堂々と歩いている女がいた。茶髪のロングヘアーで美形、スリムな体形で170cm位あるだろうかと思われた。その様はファションモデルがそのまま見も知らぬ街に迷い込んでしまったような感じであった。軒下ではジーパン姿の若い男が雨宿りをしている。どこの軒下にもいるのはズボンを半ばずり下ろした若者と影のようになってしまった男達で、うつろな眼差しと耳から垂れたコードだけが目に付く。傘をさしている者達の間を縫うように女が自転車で突っ走って行った。いつもなら見かける介護人もなく排泄物を下半身にため込み悪臭を周囲にまき散らしながら忙しなく小幅で歩く機械仕掛けの老人の姿もなかった。

 廃屋のような家屋の下見板にはなぜか「美しい日本」の文字だけが残っている。すべての街路灯からは「がんばろう日本」の文字が垂れ下がっているが、幾重にも重なっていて翻ると何が書いてあるのかも分からなくなる。いつの世も為政者の宣言は勇ましく、やっていることとは逆によくもここまで虚偽を奇麗にまとめるものだと感心する。そして、いつしかその文言だけが独り歩きを始めるのである。民主主義の標語のように遣われるリンカーンの「GOVERMMENT OF THE PEOPLE   BY THE PEOPLE  FOR TEH PEOPLE」などにしてもリンカーンの実際にしてきたことを考えればTHE PEOPLE とは MY PEOPLEのことでしかなく、つまるところはMYSELFEということになる。リンカーンの実際の姿として大きく浮かび上がってくるのは、民主主義の体現者としての奴隷解放論者でもなく、アメリカインディアンの最大の抑圧者、大量虐殺者であるということである。小学生ですら知っている「歴史」、「偉人伝」に出てくるリンカーンにしてこの調子である。況や「政治屋」などと称されている者達に一体何が期待できるのか。しかし、現在日本の中枢にいるのは「政治屋」どころではない、そうかと言って「素人集団」などと言って捉え切れるものでもなく、相も変わらず美辞麗句と詭弁だけは達者な単なる「騙り」(かたり)の集団と言った方がより正確であろう。そうかと言ってここで国民自身が身を引いてしまってはそれこそこの国はどん底まで行ってしまうのではないかと思われる。もはや悠長に安手のニヒリズムに浸っている時すら残されていないのである。今やどん底の一歩手前で止められるかどうかの瀬戸際と言ったところであろう。3・11以後、実は何よりも国民一人一人が否応なく問われているのである。低線量放射性物質のごとく意識するとしないに拘わらずその影響は避けられず、もし日本に将来があるとするならその責任は重い。

                                                     22011 9/17                                             

 


212.連綿と低迷する日本のテレビドラマ


 それは衆愚からは良き指導者が現れないのと同様、受け手の感性が鈍磨されていれば質の良い作品も現れないのと同じである。発信者と受信者との絶妙な交信が作品の質をさらに向上させるのは本来いつの世も変わらぬ真実であろうが、そのような関係がまったく成り立ちようがない状況の中でただ右顧左眄の「山師」のような者達が右往左往して遣っ付け仕事をこなしているというのが大方の実情である。勢い視聴率をとるために鈍磨した感性に歩調を合わせあざとい皮相な業ばかりが横行し作品の質はさらに低下して、その相乗作用で底なしの負のスパイラルを形成している。

 総じて、日本のテレビドラマは基本的に落語の世界観を超えるものではない。そして、その縮小再生産はあっても拡大展開させるものは全くと言っていいほどない。常に小さな世界の中で、批判・攻撃対象は向こう三軒両隣にいるような「クマサン」、「ハッサン」の類似か、その変種であり、決して権力者に向かうことはない。分かりやすい例で言えば、チャップリンなどは万人にとって限りなく身近の存在でありながら、一方ではヒットラー政権時にヒットラーを茶化した「独裁者」という作品も作っている。そこには作り手の質とスタンス、そしてそこから派生してくるものによって継続的に更新、触発され続けてなお怯むことのない明確な世界観があるが、それに反して日本の特にテレビドラマなどは、常に強者にひれ伏した、あるいは強者に楯突くポーズだけの弱者同士の葛藤、または重箱の隅を突いて一喜一憂している怨念「御用学者」のような在り様が唯一の「現実」の様相であるがごとき描き方から一歩たりとも越えられない、越えようとはしないというのが実情で柔軟なパワーを感じさせる明解な世界観の片鱗すら感じさせることはないのである。時代劇にしても、刑事ものにしても、恋愛ものであれ、家族を扱ったものであれ、すべてそうである。それは「等身大」を装った(「等身大」とは何かという問題もあるが、長くなるのでここでは控える)偏執狂的現実主義の手法で導き出された実は何もない展開不能な不毛の世界とも言い得るものである。そして何時まで経ってもそれに終始するばかりでそこから脱することことなど思いも及ばないかのようである。そこで、ただとぐろを巻いていることが「人間」の「宿命的」レーゾンデートルだと思い込んでいるかのように微動だにしない。そして今や、そのままとぐろをまいたまま朽ち果てようとしているのである。もし仮に、そのような状況の中で特定の役者の演技が際立たとしても、それは気違いじみた悪しき虚偽の演技と言わざるを得ない。言い換えれば、「実」の領域が明確な奥行きをもって存在し得ない、作為的に自己膨張する「虚」だけの演技をしていると言うことである。さらに言えばそれは視野狭窄な偏執狂的演技と言ってもよい。 そのような演技も時として壊れたコップの断面が放つ光にも似た輝きを持つことがあるが、コップの原型はとどめていない。すなわち有るような無いような、実は何もないと言ってもよいようなものである。

 今後は、取り上げ方、描き方の濃淡軽重は問わないがメインストリームや時の権力構造そのもと対峙するようなドラマを作って見たらどうか。いくら「小手先芸」で目くらましをやってみても「切り込み」が甘ければすべて同じ「浅薄芸」の域を出ない作品となってしまう。そのようなことも含め根本的ところが問われているのである。

 ともかく、いつまでも興信所の調査項目にあるようなどうでもいいような題材をテーマにちまちまと重箱の隅をほじくり返すようなことをしていても、出てくるのは固形化した埃にまみれて干乾びている吸血昆虫の死骸が関の山であろう。それがどうしたというのか、それでどうしろというのか。それで?反芻する収縮波も限界にきているのである。

                                               2011 9/15


211.フランス原子力関連施設で爆発


  福島原発事故の時ですらパリ中がその原発事故の話で持ちきりで、喧々諤々としていたくらいであるから今頃どうなっているか容易に想像できる。日本では3・11以後そのような議論など街のどこからも聞こえてこなかった、4月になると東北大震災関係の話が出ると「まだ、やっているの?」などと、むしろ回避しているとしか思えないような人々の動きの方が多くなった。「国民」の多くはお上の(国)の言っていることをそのまま丸呑み、一部メディアを除き多くのマスメディアの報道内容は一律で問題提起をすることさえしなかった。「優しい国民性」などとは裏腹に,ある意味では「恐ろしい国」の一面をまざまざと見せつけた。

 確かにフランスも原発が多い、そして、そのほとんどが川沿いにある。セーヌ川上流にもある。今回のマルクール核廃棄物処理施設は南仏のローヌ川の川沿いにある施設である。ローヌ川にはそれ以外にも運転中の原発が4か所ある。この事故を機にまた原発論争が盛り上がることは必至であろう。フランスはEC最大の農業国であり福島のようなことになれば一国の問題ではなくなる。どこで事故が起きても食の問題は当然、観光客は激減、隣国、スイス、イタリアなどにも即影響する。イタリアは原発を廃止している国でもあり今回のフランスでの事故はまたイタリア国内の反原発運動を刺激することであろう。脱原発、反原発はもはや世界のすう勢にならざるを得ないのである。人間の食も、居住空間も確保できずにいくら紙幣を握りしめていても仕方あるまい。チェルノブイリ、スリーマイル島、福島、そして・・・これらは人間の行き過ぎた押さえの効かないすべての欲望に対する警鐘と見るべきで、それを見過ごしていると行きつくところまで行くしかなくなる。その時は人間の業では奇跡が起きてもとても取り返すことはできない。今でも福島の復旧、復興と妙に喧しいばかりで、半減期が2年程度のセシウム134、30年のセシウム137、8日のヨウ素131しか問題にされていないが、そこには半減期1570万年のヨウ素129、や半減期が87年から2万年余が必要なプルトニウム238、239、240、さらにはストロンチウムがいつしか自然消滅したかのごとく表示されていない。これらを勘定に入れてはプランが立たないからであろう。この復興プランのいかがわしさはそのような点にもある。東電・政府は、藁をもつかみたい住民の気持ちに触れたくない逆なでしたくない、とにかくその場を何とかやり過ごしたい、できれば保証枠も最低限度に留めたい一心で根拠もない「故郷に戻れる希望」をねつ造しているだけで、彼らのやっていることを信用しているととんでもないことになる。彼らは「ただちに影響の出ない」低線量放射性物質の特性をフルに活用しているだけで、たとえ故郷に戻れたとしてもいずれ自らも含め子供、孫の代には何らかの形で明らかに影響が出てくると思った方が賢明である。そうでないと言い切る「科学者」はどのような「権威」(≒御用学者)であろうがマッドサイエンティストで「正常」な「科学者」とは言えない。なぜなら、その言明自体に絶対的根拠がないからである。不明な部分が数多くある場合、不用意な楽観的態度は悲劇を生むだけなのである。それは今回の東北の震災でも、原発でも実証済みであろう。まあ、戦時中でも大本営に踊らされた狂信的楽観主義者はいたのであるから、現在でも政府・東電の対応をそのまま何の問題も感じず受け入れているのであれば、もはや何をか況やで、気付いたときにはボロボロと言うことのないように覚悟して自己責任でやってもらうしかない。ただし、3・11以後の原発推進派(黙認も含めて)の原発事故に関してはもはや被害者は存在しない。その住民も含めてすべては自業自得の共犯者であることを確認しておく必要がある。

 そして、この国の「暫定基準値」は世界の非常識であることも知らなくてはならないことであろう。これはいくらでもでっち上げが可能なご都合主義的「基準値」で、「安全基準値」ではないのである。それを承知の上で「出荷」した場合は「出荷」した者にも道義上の責任、場合によってはそれ以上の責任問題は生じてくる。したがって、「暫定基準値」以下、以上であることをいくら述べてもまったく意味のない事で、実は何も言っていないに等しいのである。言ってみれば単なるその場しのぎの言い逃れ、詭弁なのである。彼らとの話し合いはもはや必要ないのである。必要なのは「抗議」と「要求」だけである。もの分かりのいい者は彼らの恰好の「餌食」になるだけである。

 しかし今、避難先で故郷に戻ることだけを夢見てがんばっている高齢者のことを考えると、もはや彼らに真実を伝える必要はないと思っている。それはあまりにも酷であろう。                                                       

                                                          2011 9/12 


210.ブッシュとビンラディン


 最近、またアルカイダの問題が頻繁に出るようになり、当然両者の顔もよく画面に映し出されるようになった。それで改めて両者の顔を見比べらざるを得なくなってしまうのであるが、ブッシュの顔はやはりその経歴を見るまでもなく底が割れていてすべての思考回路が容易に想像、推定できる、しかしビンラディンの顔を見ているとそこまでに至る経緯は分かっているがついいくつかの問いを発したくなるような顔なのである。どちらにしてもビンラディンの方が高潔さ、知性の面でブッシュより遥かに上であろうと思われる。こう言っては何だが、何回見てもブッシュのような顔はニューヨーク市警の指名手配の写真に少なくとも10数枚はあるのではないかと思われてしまうのである。この上もなく軽く、悪賢い顔である。ブッシュはアメリカ国内でも史上最低の大統領などと言われているようだが、それでは例えばリンカーンなどはどうなのか、確かにブッシュなどよりはそれらしい顔はしている。

 しかし、リンカーンにしても「奴隷解放の父」などと持ち上げられているが、本来奴隷解放論者でもなく南部の経済体制を崩すために奴隷解放を政治戦略の一環として行っただけである。また一方ではインディアンに対しは大量虐殺も指揮した徹底したインディアン排除論者で、それは終生変わることはなかった。リンカーンにしても彼が師と仰ぐヘンリー・クレイにしも共に身内をインディアンに殺されているという事情があるにせよ「人類全体からのインディアンの消滅は、世界的には大きな損失ではない。私には、彼らが人類として保存されるだけの価値があるとは思えない。」と言ったヘンリー・クレイの見解も、それに同調するリンカーンの姿勢も当然否定されるべきものである。しかし、多くのアメリカ人の中には対イスラムについても対インディアンと同様の意識構造が潜みくすぶっているのが実情でもあろう。ただ、イスラムとインディアンとではその質も量も比較にならず、自国内のイスラムですら容易に排除できる対象でもない。そして、もしイスラム全体を敵に回すことになればもはやアメリカに勝算はないにも拘らず、アメリカの現状は自国内の反アルカイダのイスラム教徒さえ敵に回しかねない状況である。ここで再びテロでも起こったらと考えると暗澹たる思いになるが、同時にそのような恐怖感を巧みに利用して何でもありのCIAやFBIがまたどのような工作活動をするのかも考えざるを得なくなってくる。すでにCIAやFBIの暗躍の匂いがふんぷんと立ちこめている。10年前のニューヨーク、貿易センタービル上空にはアメリカ空軍機が一機も飛んでいなかったことが思い起こされる。その時、ブッシュはどこにいたのか?そのような不審点がいくつもまた甦ってくる。煽られた恐怖心に後押しされ「安全」という大義による過剰防衛で再び殺戮が繰り返されることは極力回避しなければならないだろう。

                                                       2011 9/9ー9/10

 


209.そして、穴に消えた夫婦


 少し前、誕生日を前に夫を驚かせようと妻が友達と浜辺に穴を掘り、夜間に携帯電話の明かりを頼りに夫を浜辺に誘い出し誤って二人ともその穴に落ち死亡したという事件があった。「サプライズ」を楽しむための「計画」であったようだ。夫婦とも新婚の23歳、妻が友人たちと嬉々として掘ったであろう穴の深さは2.5m、この深さに対して誰も何の危機感も感じなかったのであろう。もし感じていたとするなら、それは「未必の故意」すなわち前意識に「殺意」があったことになる。この「出来事」に対して多くの者は一瞬驚くと同時に「呆れかえり」、そしてやがて「愚かしい事」として捨て去り、忘れ去ることであろう。しかし、これは現在の日本を象徴しているとも言える「出来事」の一つであると思っている。実際に「愚かしい事」と思った人々と彼らとの線引きはそれ程明確でもなくかなり危ういものがある。「サプライズ」などというメディアが作り出したコンセプトに簡単にはまり、乗せられそれをそのまま実行して、死のサプライズでジエンドである。海外で滝つぼに落ちた日本の女性観光客などもこの類であろう。これだけを取り上げても、そこには「判断力」、「想像力」が恐ろしい程欠如しているのが見て取れる。この「落とし穴事件」なども「現代の在り方」そのものがオートマティックに作り出す巧妙な罠に絡め取られた結果とも言える。死の直前ですら全く状況が認知し得ていない、本人達の意識とは全く別次元の最悪の、そして滑稽ですらある作られた「心中事件」である。それは、「サプライズ」などという軽いあたかも別世界を暗示させるような響きに乗せられて現代の闇に頭から突っ込んでしまったとも言える「出来事」である。ここまで露骨ではないがこれに似た「出来事」は緩慢な時間の流れの中で日常茶飯事である。「現代の在り方」そのものによって必然的に編み出され仕掛けられた罠とは、簡潔に言ってしまえば「判断力」、「想像力」をさり気なく心地よく鈍磨させて奪い去ることである。そして、それは小さな世界に幽閉されていることを決して相手に悟らせず、直接感覚的には僅かな痛みさえ感じさせずに弄んだ挙句その寝首をかくことである。今、辛うじて生きている者達は、たまたま運がいいだけの話で本人の意志努力、意識の持ち方、賢さなどとは全く関係ないと見る方が賢明であろう。

 自ら仕掛けた、実は仕掛けられた罠にはまらぬよう気をつけるべきである。

 

                                                   2011 9/6

 


 

「ある日、その時」 (12) 2011年8月17日ー

<掲載内容>

202.世の取り沙汰も75日、そしてまた繰り返される。 203.東京大学教授・児玉龍彦氏への賛辞  204.ブラックハレーション 205.山高故不貴 以有樹為貴 206.意味不明な保安院の言説 207.「アルカイダが狙う原発テロ」は福島のみと言う「専門家」とは?208.「鬼 怒鳴門」

                                               <転載・複製厳禁>

 



208.  「鬼 怒鳴門」


 「鬼 怒鳴門」(キーン・ドナルド)、これは日本文学研究者、文芸評論家として広く知られているドナルド・キーンが日本に帰化した後の名前として考えている漢字表記の自身の名前であると言う。彼は2011年3月11日の東日本大震災を機にコロンビア大学を退職後、日本国籍を取得し日本の地に骨を埋めるつもりで「来日」した。そして、まず被災地を訪問すると言う。彼は1922年6月生まれであるから今年89歳である。彼のような人間の在り方を実際に眼の当たりにすると、つい、日本から脱出する日本人や被災地に目を向けることもしない自分のことしか考えられない者達などと比較してしまい、「人間」としての「資質」の根本的な違いとしか言いようのないものを見せつけられる。そして今、果たして彼と共に日本文化(文学)・歴史について対等に語り合える日本人が日本に何人いるのかと思う。おそらく数人もいないのではないか、さらに日本文化(文学)・歴史を、日本を愛しているということになるとまた限られてくる。そのようなことが天衣無縫にできるとするなら、彼のように日本について豊かな知識を持ちながらもそれを身を以てさり気なく示すことができる「人間」だけである。「愛すべき対象」について鮮明な像も結ばず、知ろうともしないで「国を愛する」などと言う言葉は本来成り立ちようもなく、それは妄想的幻影で虚しい「暴挙」と言ってもよいものであろう。もっとも、「愛する対象」が不鮮明にしか見えないからこそ「暴挙」が成り立つとも言えるが、やはり「自分の言葉」で語り得ないものについては「分かる」という次元に至ることもなく、たとえ100万語を弄したとしても対象はますます不明瞭に遠のくだけである。もし語り得ないのであれば、それは結局のところ「無」としか言いようのないもので、実は「何もない」のである。これまでに一度として、その国の文化・歴史を知ろうともしなかった者が、またそのようなことを通してその「国を愛する」というところに至らぬ,すなわち自らの言葉でそれを語り得ぬ者がいくら「国を愛する云々」などと言ったところで、それは身勝手な偏狭的宗教の「盲信」と同様、とどのつまりが「亡国の輩」にただ利用されるだけというのが今までの経緯そのもので、それはそのまま本質的に何も変わることなく今の実情につながっている。

 「鬼 怒鳴門」の存在を考えても、日本の現状はあまりに許しがたく、本来なら日本人全体が慙愧の念に堪えかねて怒りさえ覚えるというのがしかるべき精神状態であろうと思われるが、日々の事象は相も変わらぬ陳腐なたとえそのままに、砂地に吸い込まれる水のごとく跡形もなく吸い込まれて行く。やはりこの精神的「大地」はすでに完全に砂漠化しているのではないかと思われる。どこからともなく湧いて出てくるのは「明日のない夕べ、的のない矢」という言葉だけ、それがエンドレステロップのように頭の中を過って行く。そして、それが現実なのであろうと思う。安手の「希望」などは飛びつく間もなく一瞬の内に干乾び、風化する。しかし今、「沈み行く船に」また一人「鬼 怒鳴門」という行き着くべきところに行き着いた「人間」が乗り込んできた、そのことを思うと一瞬の清涼感が身中を走る。

 「鬼 怒鳴門」、しかしつくづく意味深な名前である。

 

                                                 2011 9/3


207.「アルカイダが狙う原発テロ」は福島のみと言う「専門家」とは?


  「某軍事アナリストが、『福島第一原発がテロ攻撃の標的とし狙われる”必然性"がある』と強く警鐘を鳴らす。」とあった。そして、「敵の立場で考える」のが軍事や危機管理の基本、「費用対効果」、福島原発の内部構造、配置が大量に報道されている等々とそれについて「具体的」に語っているのであるが、そのようなことは専門家ではなくとも容易に想像できることである。ここで問題なのは「敵の立場で考える」という者自身のパラダイムである。それが「アルカイダ」の視点、見解にどこまで近づいているかが重要なポイントになる、それは様々な世界の視点から見る日本の現状と言い換えてもよい。そして、如何なる「敵」と言えどもそれ相応の「プライド」があり、客観的には「こじつけ」であろうとも戦うための「大義」が必要となる。今や単なるアメリカの属国に過ぎなく、放置して置いても自然に倒れかねない日本などターゲットにしてもどれ程の意味があるというのか。そして、そのような国にテロを仕掛けて、その自らの「大義」すら無化してしまう原爆テロの無差別的「物理的効果」によってもたらされるものに彼らの宗教観も含めた世界観はどのように照合しうるのかという根本的な問いに彼ら自身が答えられない以上、またイスラム過激派集団が「人類滅亡」を志向する集団ではない限り、それはあり得ないと見る。たとえば、「日本軍」に攻撃されたからと言って「復讐を宣言」して台湾を攻撃して、どれだけの効果が得られるのか。効果の問題だけではない、彼らの敬愛する「指導者」が「イスラムに反する」屈辱的な葬り方をされたのである。反アルカイダのイスラム教徒ですらアメリカのイスラムに対する侮蔑とも取れるその仕打ちを全面的に納得する者はいないはずである。彼らの攻撃があり得るなら必ずアメリカ本国か、直接アメリカに影響の出るところであろう。弱体化した瀕死のアメリカからも見放されている日本、アメリカにとっては痛くも痒くもない国、ただ反撃の口実を与えるだけの国などにテロを仕掛けても組織からもイスラム圏の民からも支持、同意は得られないというのは容易に想像できる。彼等にとって日本はキリスト教国ではない。異教徒ではあるが歴史的にも敵対するものではないのである。

 原爆テロによって「世界規模の放射能汚染で大パニック」を引き起こすことができる」などと、その「危機」についても述べているが、その時はイスラム教国自身もその環境内に存在することになり、イスラム教国そのものの自爆にもつながることになる。彼らは単なる「狂信集団」ではない。この「軍事アナリスト」の日本に対する「買いかぶり」と彼らに対する単純化した「見くびり」が気になるところである。それは、アメリカに捨てられつつある者がアメリカと一心同体となってに抱いた「妄想」とも取れるのである。世界的視点に立てば、日本はもはやそれ程の価値もないのである。沈みかけた船に攻撃を仕掛けて何が誇れるのか、これはこのようなことも視野に入れて検証しなければならないことで、仮想「敵を想定する」ことばかりが先行していては思わぬところで足をすくわれる。まず「敵の立場で考える」より「相手の立場で考える」ことが先決であろう。要するに、この軍事アナリストはアルカイダを敵と想定して福島第1原発をそのターゲットとした場合、アルカイダにとって千載一遇のチャンスであることをあたかもゲーム感覚の乗りで事細かに述べているのであるが、しかし、日本はもはやアルカイダの「ターゲット」だけには留まらず、どこの国に攻め込まれてもひとたまりもないのである。どちらにしてもこれ以上日本が世界の「実験場」となってしまうことは避けなければならない。そして、それを推し進めようとしている者とは何者なのかを見極めなければならないということである。

 この軍事アナリストは繰り返し「ターゲットの条件を満たしているの原発は福島第1しかないのである。」と強調しているが、それではどうすればいいかは全く述べられていない。これは「警鐘」と言えるのか「妄想」なのか。それとも軍需産業の下地作りの広報なのか。おそらく彼がその対策を具体的に述べ始めた時、彼の「本体」が見えてくるだろう。万が一、彼の言う通りであったならアルカイダはイスラム圏からも完全に浮いた単なる「狂信集団」となる。そして、仮に彼等がその作戦に成功したとしても後味の悪い大きな禍根を残すことになるだろう。彼らが直接手を下さなくとも「自然に」福島原発は限りなく放射性物質を放出しながら地下に潜行して行くのである。原発とは日本列島に「移植された」悪性腫瘍である。そして福島は末期悪性腫瘍でもはや手の施しようがない地域となってしまった。今はこれがさらに日本全土に転移しないことを祈るよりほかはないというのが実情である。この「悪性腫瘍」の「移植」に手を貸したすべての者は「犯罪者」であり、それを許した者は「共犯者」と言わざるを得なくなってきている。これから先、実行犯ではなかった多くの者も「共犯者」として意識するしないに拘わらずこの「負の遺産」を全身に浴びつつ生きるより仕方ないのである。もはや「自分だけは」などと言う戯言も通用せず、逃げ切れるものではないと知るべきである。

                                                   2011 9/1

 


206.相も変わらぬ意味不明な保安院の言説


 保安院・森山善範が「『原子爆弾は一瞬に爆風、中性子を放出し、破壊するもので、単純に放出量で比較するのは合理的ではない』と述べた」とある。それではそのことについて自ら「合理的」に展開・提示すべきであろう。科学的ではないというのなら分かるが、その言葉は使えないので「合理的」とい言葉を使ったのであろうが、その使用方法そのものが彼らの姿勢を示している、意味不明の言説である。そもそも物理現象について「合理的」などという言葉がどこまで使用可能なのかも不明で、未知数が数多く存在するもの対して合理的(論理に適っているという意味で)であるかそうではないかは成立し得ない。彼らの狙いは受け手が「合理的ではない」という意味を「科学的ではない」と言う意味にすり替えて取ることであろう。事ほど左様に油断は禁物なのである。また、もし彼らが「合理的」という意味を「目的に合っていて無駄のない」と言う意味で遣っているのなら論外であるが、そこからさらに別の大きな問題が生じてくる。すなわち、その目的とは何か?要するに、これは彼らにとっては「逃げ」の利く一石「三鳥」の言葉なのである。

                                                          2011 8/27


205.山高故不貴 以有樹為貴(山高きが故に貴からず 木有るをを以て貴しとす。)


 これは平安時代に成立し、鎌倉時代に普及した「実語教」という五言の対句集の中の一つである。江戸時代には寺子屋の教材としても広く使われた書物でもあるが、この「山高きが故に貴からず 木有るを以て貴しとす」に対して「富士を見ぬ 奴がつくりし 実語録」という川柳があるらしい。これによっても江戸時代にこの書物の内容がいかに人口に膾炙されていたかを窺い知ることができる。この書物には確かに儒教的色彩があるが「富士を見ぬ奴」が作ったのではないことは時代的背景からも浮かび上がってくる。すでにこの書物の成立以前、奈良時代には「常陸国風土記」(713年)に富士山の貴き様相は描かれている。その後807年、空海(弘法大師)も富士山に登り石仏を勧進したとある。さらに1149年「本朝世紀」には富士上人が山頂に「一切経」を埋納したとある。そして、平安文学の「更級日記」(1059年頃成立)にも登場してくるくらいであるから富士山は霊峰富士として「実語教」成立時期にはよく知れ渡っていたと見る方が適切である。川柳と言ってしまえばそれまでだが、この「実語教」にある「山高故不貴 以有樹為貴」は「富士を見ぬ奴」が作ったのではなく、「富士を知っている奴」が作ったのである。富士が「貴く」見えるのはその高さではなく、その形である。もし、「富士を知っている」者が敢えて富士山をイメージして「山高きが故に貴からず」と言っているのなら、これは「ただ者」ではないが、言おうとしていることは山は高ければよいというものでもなく、そこには緑の木立が生い茂っていなければ山としての貴さもないと言うほどの意味であろう。それだけでも充分現代的に生きる言葉である

 福島の猪苗代町には一切経山という山がある。名前の由来は、諸説はあるが一説には弘法大師が一切経を埋めたとされることからきている。標高1948mとさほど高くもなく、木立もない、現在も火山活動を続けている活火山である。伝説とは言え、なぜこのような霊峰の面影すらない山に一切経という仏教経典を埋めるのかと思われるが、この山は当時から火山活動が活発で「山を鎮める」という意味もあったのではないか。近年でも1893年に大噴火し、最近では1977年に噴火、2008年には300m程の噴気が確認されている。今の福島は東に原発、西に活火山、そして原発はいつ収束するか全く不明、これで火山活動でも活発になったらどうするのかという状況である。福島県知事などは弁解がましいパフォーマンスなどやっている場合ではないと思われるが懲りない連中である。実際に、福島県は原発次第では廃県になるかならぬかの瀬戸際であろう。この場合の廃県とは死地と化した廃墟である。※改めて言うが、政府の原発「収束」に向けての工程表、試算などはそれ程の根拠もなく(彼らの言う不確かな根拠はある)、当てにならない希望的観測と見た方が賢明である。

                                                  

※2011年8月25日の時点での見解。3・11以後の政府・東電の隠ぺい工作なども含めた総合的な判断である。今後徐々に発覚してその対応を迫られる結果については不明であるが、根本的な姿勢が変わらない限り現状維持の方向で進むことに変わりはない。

                                                      2011 8/25

 


204.ブラックハレーション


○ブラックハレーション

 今や至る所「イヤ―ゴ」ばかりで其処彼処でブラックハレーションを起こしている。たまたま、「普通」に生きている者に出会うと後光が差しているように見えるから不思議であるが、それも束の間、凡夫とは身近な愛すべき者が死なない限り、すべては他人事なのだということを改めて思い知らされる。実際、現代版ペストのような放射能汚染ですら、未だに他人事のような者がいるのである。三文役者の三文役者による三文役者のための政治、それもその三文役者がすべてイヤ―ゴの手下では遅かれ早かれこの国は滅ぶしかあるまい。すなわち、主となるべき「明」も存在せず、「暗」を担う小振りなイヤ―ゴばかりが跋扈しているのである。それでもなお我々は自らの足元だけでも光を当てて進むより手立てはなさそうである。

※イヤ―ゴ:シェイクスピア劇の「悪人」

○風評被害とは便利なコンセプト

 風評被害とは、煎じ詰めれば国が起こした被害なのである。風評被害とは加害者を「特定できない便利なコンセプトでもある。国が定めた基準値にどれだけの信憑性があるのか。国を頼りにできないことは3・11以後いやと言う程「思い知った」はずであろう。多くの者が見殺しにされたのである。しかし、「被害者」自身が、加害者は特定できるにも拘らず、漠然とした「風評被害」が実体としてあるかのごとく、その原因であるかのごとくこの言葉を頻繁に遣う。それを聞いていると何とも言いようのない気持ちになってくる。おそらくまた例の政・官・財・マスメディア一体となって責任回避の誘導尋問とマインドコントロールを繰り返した結果なのであろうが、つくづく阿漕な事を際限なく繰り返す輩であるという思いに駆られる。

※放射性物質検査済みとは言っても、何について検査したのかも問題になるところである。ヨウ素131の表示はあっても半減期が1570万年のヨウ素129の表示はない。またセシウムもセシウム134、137の表示はあっても半減期が13.1日のセシウム136の表示がない。これでは根拠のある推定も憶測も成り立ち得るのは避けられまい。

○多種多様な奇妙な職種

「○○アナリスト」これだけでどれだけの職種があるか、おそらく、普通名詞の数だけあるのであろう。そして、それらと評論家との線引きはどこら辺にあるのか。「○○ジャーナリスト」などもその類で、レポーターとの内容的違いはその自己主張、見解の程度、強弱位ではなかろうかと思われる。さらに「国際文化人」という名称に至っては皆目見当もつかない。世の中には、まだまだ実態不明の肩書がいくらでもある。昨今では「○○大学教授」、「識者」と言えどもいかに「危うい人々」でもあるかが実証されたばかりであろう。それでは誰を信用すればいいのか、完全に信用できる人などはいないと思った方がいいだろう、ただ、職種に拘わらずその人間の言動、方向性、立ち位置を検証すれば信用に足る人物かどうかは推定できる。立ち位置とは、たとえば既得権益側にいるのかいないのかである。医者であればその軸足が医療産業にあるのかないのかなども検証対象となる。詰まるところ、いつまでも人に頼ってばかりいないで自分で考えるということであろうか、やはり自恃の念というものが必要となってくる。それなくして、働いて、食って、遊んで、寝ることが生きることだと思っているとすぐに根底からひっくり返されてしまう。

 ○Wir alle fallen

われわれはすべて落ちる つまり今やらなくてはならないことがある われわれはすべて落ちる だから未来を道連れにしてはならない われわれはすべて落ちる そこで未来に託さねばならないことがある 未来を道連れにしてはならない。

未来を道連れにせし者よ

疾く 落ちなん

末に託せしものひとつ

現身ひとつで落ちばやな

 

                                             2011 8/24


203.東京大学教授・児玉龍彦氏への賛辞


 今、漸く人間に出会えたという思いである。これこそが真の学者の在りようであると思っている。児玉教授の言動は「似非」なるもののすべてを明快に浮かび上がらせ、切り捨てた。彼こそ本当の勇者であり、すばらしい科学者である。その瞬間、再び集積し始めたすべての欺瞞的なマスメディアの言説がハレーションを起こしながら音もなく心地よく霧散して行くのを感じた。児玉教授は、現場の状況を的確に押さえ、科学的検証を最新の技術で割り出しながら一瞬のくもりもない明晰な論理を展開して行くが、そこには偏向的知性ではない人間としての全的知性に裏打ちされた感性が確実に息づいていた。

 万が一、これに異を唱える者、あるいは単に様々な意見の一部として見る者がいたとするなら、それはどのようなことを言ってみても詭弁であり同時に虚偽となる。そこに至っては救いようのない人間失格となってしまうことを思い知るべきなのである。そのような者達とは、言ってみれば日本を滅亡に導く「もっともらしい詭弁」と「お為ごかし」だけは巧みな単なる金の亡者達のことでもある。今では、我々がまずこの地上にどのように生存できるのかが最大の問題になってきているのである。そこには一義的に「金の亡者達」などが出る幕はない。

 しかし、児玉教授のような日本の誇りとも言える教授のことを一切伝えぬテレビ、新聞などはもはや全く意味のない、必要のない「衆愚育成装置」としか言いようがないものである。生かさず殺さず脳細胞を緩慢に劣化させる「衆愚育成装置」の唯一の利点は、何も知らずに騙されたことも分からず大口開けて笑っている内に死を迎えられるということくらいであろうか。

                                                2011 8/19 8/20加筆


 Le 27 juillet 2011.Professeur Tatuhiko Kodama(Université de Tokyo) a parlé del'influence de la santé sur radiation. Il a critiqué sur la négligence gouvernementale  en disant la situation présente de Fukusima.Et il était fâché au  gouvernement qui ne prend  pas les mesures qui correspondent  la condition présent. Cependant sa déclaration était logique et claire.Le professeur Kodama est scientifique vrai et est un être humain merveilleux. Bien que regrettable  sa parole et conduite ne sont pas prises par le mass média.C'est le destin de ceux qui disent la vérité?

 Je pense que j'ai rencontré l'être humain vrai après un long silence.


202.世の取り沙汰も75日、そしてまた繰り返される。


 人の噂も75日とはよく言われることではあるが、お隣の韓国では90日となる。季節の変わる頃にはすべては忘れ去られ、人の心も変わるということでもあろう。そして、世の中にはそのような人の動きをよく心得ていて巧みに人を操る者もいる。その多くは,内省などとは全く縁のない軽佻浮薄、厚顔無恥な三百代言と言ったところが一番似合いそうな手合いである。彼らはどうも日陰が嫌いだと見えていつの間にか表舞台に立っている。自己顕示欲の所為なのか、歪みの生じたその欲望自体が軽佻浮薄、厚顔無恥を支えているかのようでもある。愚かしい失策も、スキャンダルも75日で取り戻せると思っている彼らにとってはその日数は自分に生じた負を払拭、挽回するための期間であり、そのために他人を傷つけることはあっても、反省、後悔などが一瞬たりとも彼らの頭の中を過ることはない。そこが彼らの彼らたる所以で、そこから発せられる奇異な言動もすべて常人の常識の範囲外である。

 それでは、常人はいつも彼らにドラスティックにやられているしかないのかと言えば、そうでもない。消極的ではあるが確実な方法は、彼らの所業を絶対に忘れないということである。つまらない日常的瑣事や井戸端談義の内容などはすぐにでも忘れてもいいものであるが、世の中の忘れてはならないことを忘れ果て、朝三暮四の猿になっていては彼らの思う壺である。災害やら増税なども常に忘れたころにやってくるのである。「絶対に忘れてはならないこと」などと言うと悟りすました御仁には抵抗があるかも知れぬが、そこに彼らの付け入る隙ができるのである。凡夫の「一矢」とは、凡夫が自らを凡夫として明確に位置付けられた時にしか手にすることができないものである。もう少し具体的に言えば、それは「空気を読む」「気の利いた」などとは全く異質のところにあり、何者かに吹き込まれたものに動かされているのではなく、自分自身の本当の思いをどこまで自分なりに素直に表現できるかにかかっているということである。

 残念ながら、この国には現在に至るまで主権たり得る「民」は存在していないと思っている。主権在民などとはおこがましく、画餅に等しい。そもそも戦後民主主義などいつ現実的にあり得たのか。今の現状は、単に戦後の形式民主主義の限りない衰退と言った方が分かりやすいであろう。もし、主権たる「民」があり得るのなら、それは「ご都合主義」ではなく「考える」ことを強いられ、同時に行動する「民」なのである。それは「がんばろう、日本」などという標語で簡単に了解して一丸となる「民」ではない。そこで、またぞろ登場して「一丸となる」ことを煽り立てるマスメディアとは、大戦中も終始一貫「大本営」の広報を務めたマスメディアと何ら変わるところはなく、全く同質の機関である。このような現状を見るにつけ、やはりこの国の国民には「思考停止」をすればすぐに現出するファシズムの「不自由さ」が最も適しているのかも知れないなどと思ってしまうのである。それは自由を真に「わがもの」とできない「民」と言い換えてもよいだろう。

 今年2011年で戦後66年、やがて「世の取り沙汰も75日」となり「過去を忘れて」また「愚かしい事」が繰り返されることだけは避けたいものである。もっとも、その頃には低線量被曝の影響でそれどころではないのかも知れないが、2011年3・11の福島原発事故以後の原発事故については当該地元住民も共犯であることを改めて確認しておく必要があろう。再び原発事故が起こればもはや経済危機がどうのこうのと言っている場合ではなく、日本の国土で生きること自体が困難となることは必至なのである。すなわち亡国、日本国の滅亡の時である。それは何としても食い止めなければならないことである。戦時中の病的精神論のコピーのような「がんばろう日本」などを連呼するより、今、本当の意味での日本人の「英知」が問われているのである。それがなければ後は最悪の状態に陥るだけである。

 そして、最期に付け加えれば、「過去を忘れない」とは「愚かしい行為」を二度と繰り返さないという方向でしかその意義は発揮されないということである。ただ「忘れるな」だけでは何の意味もない、それではむしろ自らの人生の精彩さを欠く方向に進むことになるだけである。それから、戦時中の「精神主義偏重」を批判することが大東亜戦争論と一線を画すると思っている向きもあるようだが、全く意味のないことである。なぜなら、戦争中にあったのは「悪しき精神主義」、「病的精神主義」そのものでそれを「精神主義」という言葉で括ること自体においてすでに大きな過ちを犯していると言えるからである。そもそも、日本国にとどまらず世界に通用する「精神主義」とはある意味では非常に「合理的」に構築されているものであり、生半な姿勢で扱える代物ではない。分かりやすく至近卑俗な例で簡潔に言えば、その過ち、虚偽とは「下心」しかない者が「真心」を唱えているようなものなのである。それは「小国が生き延びる手立て」として考えられ「活路」と称されたものに「美辞麗句」を施した程度のものと言った方がよいかもしれない。より正確に分かりやすく言えば、「戦時中の取って付けた病的精神主義の偏重」ということなのである。そう捉えない限り日本文化に深く根ざしていた本来の「精神性」そのものまでもその「悪しき精神主義」の反動で忌み嫌われ排除されることになるのである。そして、それが戦後、日本人が悪しき拝金教的経済動物と変貌していく要因ともなっているのである。また一方では、そのような不自然な営為そのものによって必然的にもたらされ、増幅される「心の闇」が似非宗教、呪術などを容易に誘発させる土壌を作り上げる。そして、「宗教は究極のビジネス」などと嘯く教祖などが現れることにもなるのである。しかし、それはそのまま、戦中、大本営も「究極のビジネス」として成り立ちうる「宗教」すなわち似非精神論をフルに活用させ人心を掌握、操作し、それによって侵略そのものを正当化しよとしたことにもつながっているのである。したがって、戦後、突然化け物のような教祖が現れ、「ポワ」(殺人の言い換え)などという言葉で殺戮を繰り返した訳ではなく、それは、すでに戦中から地下で脈打っていたものが機を得て再び噴出したということに過ぎないのである。多くの者が戦中よりあまりに似非精神論に翻弄させらてしまった結果、今度は真の「精神論」をも拒否、排除し、その挙句、皮肉にも人々の中に精神的脆弱性が生み出され、再び似非「精神論」、似非宗教に絡め取られるというような事態に陥っているということである。このような実情を見ていると、やはり精神構造が質的変化したとはとても思えず、むしろますます衰退、退行しているとしか言えないのである。「小国が生き延びる手立て」とは原発推進論者も頻繁に遣う文言でもある。彼らと大東亜戦争を仕掛けた、「病的精神主義」の文言で飾り立てた下心だけの者達とは同質なのである。このような状況下でまた似非精神主義を振りかざす者が現れればひとたまりもないのではないかとも思われる。現に似非宗教、似非呪術師が跋扈し、時折摘発されているが、見ているとどれも実に馬鹿げたことで騙されている。しかし、それも氷山の一角であることを考えるとまた恐ろしくもある。これで経済状態が最悪になれば、当然「ヒットラー」の登場の準備は整うのであるが、ただし、そこには今までの歴史上あり得なかった宇宙的エネルギー、すなわち「放射性」物質が現前の存在として「人間」を、または「人間」の想定し得るすべての「営為」を拒否するものとして立ちはだかることになる。まだまだいつ終わるともなく「人間」の無能の証である「想定外」は続くのである。                                                        

                                                       2011 8/17

                                                        8/18加筆

「ある日、その時」 (11)2011年8月1日ー


〈掲載内容〉

197. 「七行絶句」 198.国民栄誉賞?哀れである。 199.「本当のニュースを伝えるところが1局だけある」 200.「知足(足るを知る)」とはよく目にするが・・・201.また8月15日がやってくる。

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201.また8月15日がやってくる。


 8月15日、それは父の祥月命日である。戦争に関わった人間が終戦記念日に亡くなる。なかなかできることではない。身内の者にとっても忘れようようにも忘れることのできない日である。父の友人の中には、ゼロ式戦闘機の生還者や、日米開戦直前アメリカから強制送還されたアメリカ事情に詳しい人物でアメリカに勝てる訳がないなどと明言し憚らず周りの者達を常にひやひやさせていた者もいた、また、「8月15日、われら爆死せり」などと記した友もいたりと様々であったが、皆すでにもう他界している。NHKなどでも毎年この時期になると激戦地で終戦を迎えた人達の話を放映したりしているが、80代から90代前半になった元日本軍兵士の途切れ途切れに語ることは実に生々しく痛ましい。そのような姿を見るたびに戦争をどのような視点からであろうが、またどのような形にせよ絶対に「美しくし」語ってはならないという思いがまた改めて強くなる。もし、平和や反戦を唱えつつ、戦争に「人間」の本然的なものを見たり、語ろうとするなら、それはやはり危険な領域に入り込んでいる者と見なされても仕方あるまい。戦場に大義など微塵もない、あるのはただ殺すか殺されるかだけの殺戮であるということは日本兵に限らず帰還兵が異口同音に言うことでもある。そして、大本営は敗戦直前に、食糧もなく、武器弾薬も底をついた疲弊しきった連隊に対して総攻撃の命令を下している。常軌を逸した大本営の醜態はその後も8月15日まで限るなく続き、終戦も知らず徒に命を落とした者達も数知れない。この狂った機関である大本営の釈明、弁明とは「想定外」と同様、すべてにおいて無能の証左でしかない。そもそも,その当時のアメリカを知る一民間人ですら日米開戦を無謀な戦いと位置づけているのである。敵も知らずに戦いを仕掛けるものを愚者と言わずに何と称するのか。恐怖心と空々しい大義を植え付けられ死に追いやられた人々のことを考えると何とも言いようがないが、敗戦が確実に見えていたにも拘わらず、多くの兵士を無駄死にさせた大本営の責任は極めて大きい。的確な状況判断ができていれば広島も長崎もなかったのである。そして、この戦いで有能な人間達を死地に追いやったことはその後の日本にとって大きな損失となったことも確かである。実際に、戦後の日本の中枢部で実権を握るのは、自らを戦争を知る「戦争体験者」としている机上の操作に明け暮れていた主計大尉・中曽根康弘など大本営の安全地帯で、もしくはその周辺で自己保身を画策していた者達である。当然、激戦地で無謀な作戦と知りつつ大本営と対立しながらも戦い続け、息絶えた有能な将校たちにとっては大本営の現状無視の「命令」などは唾棄すべきものであったことは容易に想像できる。そして、その多くは「玉砕」などという美称とは程遠い汚泥にまみれた死を余儀なくされたのである。果たして、今、生き残った「戦争体験者」がどこまでその敗戦の教訓を生かし戦後の日本をリードしてきたかは現在までの経緯を見れば明らかであろう。そして、それが2011年3・11以後、それこそ「想定外」の事象によって様々な形で否応なくその実態が一挙に露呈し、集約されてしまった、または集約されつつあるのである。戦後とは、一言で言えば「似非」主流、「似非」なるものへの止むことのない希求でもあった。2005年、「勝つ高揚感を一番感じるのは、スポーツなどではなく戦争だ」などと平然としたり顔で語っていた都知事・石原慎太郎は、大戦中は戦もしらぬ12,3歳の少年であった。これを聞いたら、地獄の戦いを強いられ死んでいった兵士達は一体どう思うのであろうか。ヒットラーは死体を見ると恍惚となっていたと言われているが、石原もその類なら今更何をか言わんやである。そして、さらに被災地に対して「天罰」が下ったなどと臆面もなく言っている石原とは、無責任な政・官・財複合体の「はらわた」そのものをそのまま身をもって具現している者でもある。それを言うなら、石原自らも含めた政・官・財に対して「天罰」が下ったと言うべきなのである。このような機を見てはすり替える手口、決して自分達の責任にはしない姿勢そののものは、そのまま大本営でもあり、現在の官僚組織そのものなのである。因みに菅何某も「似非」なるものを求めて止まない似非政治家の典型であろう。試しに思いつく名詞に「似非」を付けてみるとよい。その際の基準は言動の「「欺瞞性」、「方向性」、とその存在論的位置などである。枚挙に暇があるまい。

 

                                                                         2011 8/12


200.「知足(足るを知る)」とはよく目にするが・・・


 この言葉も「自然体 」と同様その遣われ方によっては何か奇異な感じのする言葉である。「自然体」などは一般的には「ナチュラル」程度の意味で遣われているのであろうが、「ナチュラル」でさえ人それぞれ様々な捉え方で一定していない上に「自然体」となるとさらに分からなくなる。本来の意味からすれば、「自然体」とは無駄な力の入っていない基本の構えであったり、それを敷衍させて身構えたり先入観を待たないあるがままの態度ということになるが、基本の構えはともかく身構えず先入観を持たずあるがままの態度で人と接する人間などは現在では皆無に等しい。もし、いたとすれば「仙人」に近い存在でもあろう。時折「私は自然体です」、「あの人は自然体です」などと言うのを耳にすると、何を勘違いしているのかと思ってしまうのである。見ればそれはとても「自然体」などと呼べる精神状態ではない。敢えて言えば単に「イイカゲン」であったり、「だらしない」だけではないかと思われることの方が多いのである。

 「知足」も過度の欲望を諌める言葉としては有効でもあり納得できるものであるが、たとえばそれが難民もしくは難民のような状態を強いられた人々に対して遣われるのであれば不適切なものとなる。また探究者にとっても「知足」などという精神状態はむしろ妨げとなるだけで、決して生きる方向ですら効力を発するものではあり得ないだろう。ただし、「マッド」の付くような探究者は論外である。なぜこの「知足」と言う言葉を目にする度にその遣われ方がここまで気になるのか、一つには不適切な遣われ方によってこの言葉が問題のすり替えとして容易に蔓延してしまうということである。そしてもう一つには、もし「知足」と言うのが正当であるなら「百尺竿頭一歩を進む」という限りない真理追究、すなわち生きる気迫ともいうべきものはどうなのかという疑問である。

 

今日は暑かった。 窓を開けると火花が散るような激しい稲光がして轟音とともに近くに落雷した。

                                                   2011 8/7


199.「本当のニュースを伝えるところが1局だけある」


 これは「ハリー・ポッターと死の秘宝」の20章でロンがラジオを取り出し、周波数を合わせながら言うところである。

 「一局だけあるんだ」ロンは声を落としてハリーに言った。「ほんとうのニュースを伝えるところが。ほかの局は全部「例のあの人」側で、魔法省の受け売りさ。この局だけは・・・聞いたら分かるよ。すごいんだから。ただ毎日は放送できないし、手入れがあるといけないから、しょっちゅう場所を変えないといけないんだ。それに選局するにはパスワードが必要で・・・」。とても「良い子」の「児童文学書」、「ファンタジー」では収まる作品ではない。この作品の中で使われている「魔術」とは言い換えれば「想像力」そのもので、それが様々に仕掛けられたメタファーによって駆り立てられるが、「魔術」自体にそれ程の意味はない。したがって、この作品について「魔術という古い世界と現代のティーンエイジャーの世界の交錯がこの作品の醍醐味」(明治大学・高山宏}とは思わない。さらに宗教的観点からの批判なども的外れで愚かしいの一語に尽きる。この作品に「オカルト」、「悪魔的要素」を見る者もいるようだが、それについては逆にその見る者の精神状態が病的に浮かび上がってくるだけである。よりよく生きるためには想像力は不可欠である。それを阻害するものとは、この作品に則して言えばDementor(邦訳「吸魂鬼」〈人を狂わせるもの〉)である。かつてこのような世界を忌み嫌う「聖人」がどこにいたというのか。彼らもまた皆「探究者」であった。構築されてしまった偏狭的な宗教観からは、たとえ、それがイスラム教、キリスト教、仏教であろうとも、その「祖師」達が真に現在に甦ることはあるまい。偏狭な宗教観を持つ者達がやっていることと言えば、そのような「祖師」達を過去に封じ込め、甦ることを妨げているとさえ思える。もっと本質的なものを見るべきである。作者が第1巻の原題「the Philosopher's Stone」をアメリカ版で出版社から強引に「the Sorcerer's Stone」に変更させられたことを未だに後悔していることからも作者の意図が垣間見られる。「魔法使いの石」ではそのまま過ぎて分かり易い半面、作者が描こうとしているダイナミックな人間の様相そのものが浅瀬で変容、変質して行く恐れがあるのである。案の定、アメリカでは偏狭なキリスト教関連団体が抗議行動を起こしている。これが「魔女の宅急便」のような内容であれば悪魔と言おうが魔王が出て来ようがさしたる問題にもならないだろうが、この作品には1級の文学作品が必ずと言っていいほど持っている滑らかな「深い彫り込み」がある。読者はそれに気づいても気がつかなくとも楽しめるようになっている、それが名作の名作たる所以でもあろう。しかし、精神を標本化しようとしている者達、あるいは、あたかも自分が何者かであるがごとくに錯覚している者達には、まずこの作品の現象面に囚われ過ぎて引っかかり、躓き、戸惑い、不安だけが増幅され肝心の「深い彫り込み」などは全く見えてこないのである。一部の宗教関係者などがこの作品に対して示す難色とは大方が以上のようなことに起因するものである。この作品についてはまだまだ切りがないのでここまでとするが、ロンが「ほんとうのニュースを伝えるところ・・・」と言ったことについては、最近では、2011年1月ウィクリークスが効果的にリードしたチュニジア、エジプト革命、さらに日本の報道の見るも無残な現状、あるいは中国の報道規制を見てもあまりにその通りなので呆れてしまうが、それは同時に作者が何気なく差し出す(2006年ー2007年)社会的視点が実に的確に世界を捉えているということでもある。この本はすでに67言語に翻訳され、4億部以上が刊行されているが、その中にはロンの発した言葉さえ見逃さず明確に聞き分け、想像力を豊かに培っている子供達が数多くいることであろう。J・K・ロリングは間違いなくこの時代に現れるべくして登場した作家と言えるだろう。彼女は決して興味本位の時代に迎合した流行作家ではない。

                                                     2011 8/5

 

 


198.国民栄誉賞? 哀れである。


 実に、この国の文化・スポーツ振興のレベルを窺わせる「イベント」である。顕彰する側の「スケベ心」が丸見えなのである。もし顕彰したければオリンピックまで待って、それがたとえ3位に終わろうとも今までの功績を称えて顕彰する。それが選手たちを育てるということも含め文化・スポーツ育成の「健全な」流れであろう。いつものことながらマスメディアはプレイヤーのことなどお構いなく「金」「金」と騒ぎ立て、その上こんな重ったるい勲章までぶら下げられたら、今までのフットワークは遠のくばかりであろう。これで優勝でも逃せば何を言われるか分からない。全員切腹を申しつけるなどとは言うまいが、すでに彼女達の不安硬直は始まっている。哀れである。国まで一緒になっての「便乗商法」、「菅便無思慮」なら然もありなんか。

 

                                                  2011 8/1


197.「七行絶句」


踊る大根、双子のトマト、巨大なスイカ、こんな姿を見て思わず微笑みがこぼれた時代は過ぎ去った。今ではガイガーカウンターの登場である。福島はもう充分過ぎるほど超現実的なものを現実として我々の前に見せつけた。しかし、それは黙示録の序章に過ぎなかった。そして今、人間の小賢しい隠ぺい工作などは全く通用しないということが日々新たに思い知らされるだけなのである。空には3本足の鳥や三つ目の蜻蛉が飛び交い、地上では双頭の猪が森から顔を出し、蛇のような蚯蚓が地中に潜って行く、そして、屋根裏では足が160本に増えた百足(ムカデ)が15センチ程のゴキブリをリンゴを齧っているような音を立て食べている。そして、これが絵空事ではなく「想定内」で充分起こり得るというところが恐ろしい。その時には、我々の食せるものはすでにない。

                                                    2011 8/1


 

「ある日、その時」 (10) 2011年7月11日ー

〈掲載内容


(186.痛くはなのか、恐くはないのか、それでも生きられるのか・・・ 187.性懲りもなく繰り返されて 188.久しぶりにテレビを観れば・・・〈番外〉祝 なでしこジャパン 189.それを「冷静な対応」とは言わない)以上突然消失→カテゴリー「五叉路」ー非編年体時々その2ーにて再構成

190.「なでしこジャパン」に思うこと 191.小沢一郎に関する百冊 192.「彼岸にて」の制作発表 193.ノルウェーのテロ 194.発電か生命か、それが問題である。195.東電OL殺人事件についての2,3 196.嘘つきが「私は嘘つきです」というのであればまだ・・・

 

                                                (転載・複製厳禁)



 196.嘘つきが「私は嘘つきです」と言うのであればまだ・・・


 ペテン師が「私の言葉に責任を持ちたい」と言う。誰がそれを信じるのか。わずかこれだけの語句に巧妙にかわせる言葉がひしめき合っている。まず「責任を持つ」とは具体的にどうすることなのかが不明。さらに「持ちたい」という「希望」「願望」を表す助動詞の使用、それは飽くまで「願望」を言ってるだけで現実的にはどうなるか分からないと言っているに過ぎないのである。正確には、彼は「私の言葉に責任を持ちたいと考えている」と言っているのであるが、これでは「責任を持つ」という「願望」を「考えている」ことになりますます分からなくなってしまうのである。要するに、彼は「自分の言葉に責任を持つ」とは一言も言ってはいないのである。今までのすべてがこの調子であった。この程度の詭弁に翻弄されてきた方も情けないが、このような「人物」といくら「議論」をしていても先には進めない。どこを取っても「菅」は実は「官」で、これが政治不在の実情なのである。(最近では現役の官僚の中にも気骨のある者が出てきたが)事ここに至っては、それこそ衛視にさっさと片付けてもらうしかあるまい。

                                                     2011 7/30


195.東電OL殺人事件についての2,3


 この事件の受刑者ゴビンダ・プラサド・マイナリ(ネパール人)は比較的早い時期に被疑者として割り出されていた人物たが、その後の捜査は状況証拠の積み重ねだけで決定的な直接証拠が欠けていて当初より冤罪の可能性が指摘されていた。そして、2000年4月、東京地裁で無罪判決が出されたが、検察が控訴、同年12月東京高裁で無期懲役の判決が出た。さらに2003年10月、最高裁で上告が却下され、無期懲役が確定した。最近の検察の捜査内容・方法についての問題点は枚挙に暇がない程であるが、14年前の検察の実態もご多分に洩れず、戦時中の特高警察、江戸時代の岡っ引きなどがやっているようなとても現代の司法が為せる業とは思えない信じ難いものであった。実際に、現実的にはそうであったと言われれば反論の余地はあるまい。それは時代劇の岡っ引きが下手人を攻め立てる場面となんら変わるところがない。「おい、お前が犯人だと言うことは分かっているんだ。早くそうだと言ってしまえ!」このような類のやりとりが繰り返し毎日数時間、十数時間続くのである。そればかりか現代ではやろうと思えばできる鑑定、鑑定結果さえ検察が作り上げた筋書き先行で、それに見合わないものを敢えて避けたり隠ぺいしてきたと思われても仕方がない節が多々存在するのである。なぜそのようなことをするのかということに絞れば、その筋書き作りには当然何者かの介入、圧力もあったであろうと考えざるを得なくなるのである。漸く最近になって、14年も経て重要な証拠のDNA鑑定の結果、ゴビンダ受刑者のものとは一致しないことが判明して、その結果、第三者の存在が浮かび上がってきているが、その第三者の存在についてもすでに事件後間もなくしてその存在は推定の領域には入って来ていたのである。それについては状況証拠と推定の域を出るものではなかったが、今回当然のごとく第三者の存在が確定された。しかし、未だにその第三者の特定には至っていない。そして、いずれ近い内に直接に手を下したものが逮捕されたとしてもその背後関係まで含めた真相究明となるとまだまだ先の話と言うより、また藪の中かも知れぬ。

 ゴビンダ受刑者がオーバーステイのネパール人であったことも検察のシナリオ作成には都合がよかったであろうことは容易に想像できる。これが韓国人、中国人、もちろん欧米人であったらまた話は別で、検察のシナリオは成り立たなくなるか、軌道修正を余儀なくさせられたのではないかと思われる。ネパールは日本が援助している国家でもあり、ネパール国内でもゴビンダ受刑者の冤罪を訴える声が上がっているにも拘らず日本に対する抗議にまではいかないのはネパール国家にしても、ネパールの「人権団体」にしても自国の重要な援助国家である日本に対してそこまではできないという共通認識が成り立っているからでもある。要するに、金で「正当な動き」を封じられているのである。したがって、この件に関してはネパールからの抗議行動などの圧力がかかることもなく、今までは何とか検察の「体面」も保たれてはいたが、殺人現場で被害者と直接関係した第三者の存在が確定してしまった現在、このまま放置したりすれば日本の司法に対する不信感とその根幹部分の恥部を世界にさらすことになるのは確かであろう。この間の経緯で、もうすでに検察の威信などは充分過ぎるほど失墜しているのである。今後、司法が「健全」に機能することだけを切に祈りたい。

                                                   2011 7/29


 194.発電か生命か、それが問題である。


 原発による発電によって生命が脅かされている時に、電気なしでどうするのか、原発なしでは必要電力は確保できない(そんなことはあり得ないが)、産業が立ち行かないなどという話はどのように体裁を整えようが人類の危急存亡の時に扇風機が動かなくてもいいのかと言っているようなものなのである。

 驚くことに未だに「ー略ー東電に責任を押し付けるのはおかしい。ー略ー日本は農林水産だけでは食べていけない。ー略ー」などとまことしやかに毎日新聞紙上で述べている電力総連関係の藤原正司という民主党参議院議員がいるが、決して忘れてはいけない、このような目先のものしか見えない一見現実的な者によって確実にこの国は滅ぼされるのである。電力総連とは正式には全国電力関連産業労働組合総連合で飽くまで自己産業に関連する者達のためにあるだけのような団体で多くの国民の側に立つものではない。当然、「原発村」すなわち「原発マフィア」と言ってもよい「複合体」とも関連を持つ組織でもある。したがって、彼らの発言は終始一貫自分たちの関連機関の「利害」に基づく発言であると見るべきで、そこで語られる一切の「お為ごかし」、国を憂えるがごときのもっともらしい「論」もすべては虚偽であると思って間違いはない。そこにあるのは「民」の視座でも、その生存に拘わる配慮でもなく、「国と称した」複合体と一部の者達の「利害」に関わることだけである。

 3・11以後、化けの皮が剥がれてしまった者達の狼狽振りは見るも無残であるが、狼狽するのはまだ良い方で、呆れることに逆に開き直って何事もなかったごとくに「正論」を嘯く者さえいる。つくづく「人間」とはどうしようもなく欺瞞的な生き物だというのが最近の日々の実感で、このままでは日本人は世界に先駆けて絶滅するのではないかとさえ思えてしまう。もうここまで来ると、中には死なば諸共などと考えている者もいるのではないかと思うが、いてもまったく不思議ではないという状況である。実際に、こうしている間にも原発は「活動中」で毎日途方もない汚染水を排出している。日々あきもせず繰り返される「幕間狂言」の幕一枚裏側は絶壁なのである。

 自然災害だけであれば、日本の復興ももっとエネルギッシュで再生の意義も見つけ易かったであろうが、常にその上にはいつ終わるとも知れない人間の手の負えない不可視な「化け物」が覆い被さっているのである。一体誰が責任を持ってこの「化け物」を取り除けるというのか。先ごろ亡くなった小松左京は福島原発が運転を開始した2年後に、今から40年近く前にSF小説「日本沈没」を書いたが、それは地殻変動が起こす巨大地震によって日本が沈没するという話である。現在の日本各地の原発情勢を見れば、日本は沈没しないまでも成り行き如何では日本全土が死地と化す可能性が高い。日本の風土を愛し、歴史を大切に思う者であれば、絶対に原発依存だけは避けなければならないというのがすべての大前提になるはずである。それに異を唱える者とはもはや日本人とは言えまい。それは日本のすべてを滅びに至らせる者ということしか意味しないからである。

                                                   2011 7/28


193.ノルウェーのテロ


 結論から言えば、これは単なる「私憤」から発せられているものに短絡的に「正義」を与え、生殺与奪の至福の時を味わった自己陶酔型の狂人の所業と言えるだろう。そこには、ある意味ではファシストの原型とも言えるものが見える。自分のことを「キリスト教原理主義」などと言っているようだが、それは、最近欧州でも出始めた多文化主義の問題と移民排斥運動、そのような状況の中で単純に構図化されたイスラム教対キリスト教、そこから派生する反イスラム、反移民、そのような感情に訴えやすい単純化された内容の「題目」、「名称」が繰り返されることで形造られてきたと言ってもいい空疎な便宜上の名称程度以上のものではない。しかし、そのような執拗な繰り返しによって日々喚起される「憎悪」は秘かに人々の中に蓄積されていく。日本の「政治と金」などという単純化された分かったような分からないような括り方などもその類である。そのような状況の中でやり場のない「私憤」を抱え込んだ者が繰り返される「題目」にいつしか取り込まれ触発され、一気に「自己実現」の道を見出し突っ走ってしまうということは容易に想像できることである。家庭的にも恵まれなかったこの犯人が元外交官で労働党支持者でもあった父親に「見捨てられた」と思い込み、日頃から父親に対する憎しみを募らせながら移民受け入れを行った労働党にも敵意を膨らませる。そして、彼の中で反イスラム、反移民の方向ですべてが心地よく収斂されて行く。彼は「自己実現」と父への復讐を同時に果たしたのである。彼には協力者もいたであろうが組織犯罪とは成り得ないだろう。彼のようなタイプは利用され易いが、組織にとってもリスクが大き過ぎて、敬遠されるか、あるいはいずれ切り捨てられてしまうような存在である。ナチスドイツの突撃隊のようなものである。彼と接した者は、「私憤」に振り回されてコントロールが効かない「人間」の危うさと奇妙な「共感」を感じたはずである。彼が射殺した多くの青少年達は、彼にとっては自分を捨てて「父が選び取った」青年達でもある。

 これ程の大量殺人を行ってもノルウェーは死刑廃止国家で、最高刑は禁固21年である。しかし、この件に関しては死刑復活、無期懲役の声もあるようだ。もし彼が禁固21年ということになれば21年後、「自分は無罪である」と言い切っているこの53歳の狂人が再び世界に登場することになる。その時は彼の興味の対象でもある日本にも来るのではないかと思われる。忘れることとすぐに風化させるこにかけては右に出るものはいない日本国民である。その時には、この男の所業も忘れられているのであろう。

 最近、この男の精神鑑定が行われているようであるが、ここまできてしまった「人間」の精神構造を変えることは我々「人間」には決してできない。もし、できるという者がいるなら、それは「神」を騙る恐れも知らぬ者とも言えるだろう。さらに敷衍すれば、我々は柄にもなく「神」のごとく振る舞う「もの」や「こと」すべてに対してをもっと警戒すべきだということでもある。(7/26)

                                                  2011 7/25

                                       


192.2041年「彼岸にて」の制作発表


「彼岸にて」  作・演出・美術 平山勝

〈出演〉

原田芳雄      太地喜和子

緒方拳       杉村春子

中村伸郎      岸田今日子

仲谷昇        賀原夏子

三国連太郎

山崎努

 特別出演

三島由紀夫

 

場所  テアトロ彼岸

此岸期日 2041年365日 上演時間 24時間

※出演者、スタッフ等の変更、追加については随時通知。

                                                  2011 7/23


 191.小沢一郎に関する百冊


 小沢一郎にに関してこれ程の量の本が書かれているとは思わなかった。それもどれもが人目に引く売れ筋狙いの題で、内容的には大方が小沢批判である。これらの本によって小沢は百人近い売文業者を食わせていることになる。「大したもの」である。一般的に「大物」批判をやれば本は売れるのである。そういう意味でも小沢は「大物」と言うことになってしまう。今これだけの本が出ている現役の政治家は小沢一郎くらいしかいないのではないかと思う。私は、小沢が「大物」であるか「小物」であるかそんなことは興味もなく、知るつもりもない。況やプライベートのことなどどうでもよいのである。ただ、彼の言動、政治的理念を追う限りでは、一筋縄ではいかぬ気骨ある「政治屋」ではない「政治家」であるとは思える。そして、「本来」の民主政治自体が、愚民政治を仕掛ける者達によってますます遠のいている現状を鑑みると、執拗な小沢排除の「論」がどのような体裁を取ったにしてもいかがわしいものに見えてくるのは当然であろう。そして、気になるのはどこから金が出て何のために書いているのか、売文業者やマスメディアの「金回り」、金の流れの方である。今でも手を変え品を変え飽きもせずさり気なく行われている「小沢=悪」の構図の刷り込み、これだけは実に異様な熱の入れようである。これは怪しいと思うのが「普通」の感覚で、彼ら(既得権益側)にとっていかに小沢が脅威であるかの証左であると同時に、それは取りも直さず政治家・小沢の立ち位置が常に国民の側にいることの証ともなっているのである。しかしながら、国民各自がもっと民主主主義国家の一員として成熟しない限り、「官報」のようなマスメディアにまるめ込まれている幼稚な段階では小沢の出番はないだろう。小沢を物知り風にCTスキャンのごとく分断、分析しても、身近なものが身辺雑事をその本質であるがごとくに書き記したところで、その総体、全体の機能は見えてこない。それは脳を取り出して、いくら切り刻んでもその志向性、理念などは何も見えてこないのと同様である。

 ある対談の中で、小沢は、「よく言うように、国民のレベル以上のリーダーは出ない。衆愚の中からは衆愚しか生まれない。だから、国民のレベルアップをしないといいリーダーも育たない。その意味でどうしたらいいのか。そういうことをもう少し日本人は自分で考えなきゃいけない。」と言っている。すなわち、民主主義は一人一人が「考える」ことが前提となっているのである。それは「判断力」と「意識」をもった人々がいない限り成り立たない「珍しい」政治体制ということでもある。もし、それが成り立たないのであれば民主主義とは名ばかりで、実質的にはファシズム、愚民政治に移行していると見るのが妥当であろう。現状を見る限りでは、国民には「民主主義」を育てる気も、再生させる気もないのではないかと思われることの方が多い。そして、すぐに安手の「ニヒリズム」に逃げ込む、実はこれは「ニヒリズム」でも何でもない、単なる怠惰な「ご都合主義」に近い。これがやっかいなのは、自分では賢いつもりでやっているこの怠惰なご都合主義が何の痛みも伴わず自分自身を壊死させていくことである。その壊死は蚕食されるがごとく拡がっていく。そして・・・                                                  

                                                        2011 7/21

 


190.「なでしこジャパン」に思うこと


 彼女たちのプレーを楽しませてもらったひとりであるが、帰国後のマスメディアなどの一連の動きを見ていると寄って集って彼女たちを弄んでいるようにしか思えない。今後もこのような動きは続くのであろうがそれによって彼女たちの純度の高いスピリットが失われて行くことを懸念している。いつものことと言ってしまえばそれまでだが、そこには興味本位ばかりが先行して「見守る」という感性が全く欠如しているのである。実際に、彼女たちはほとんど誰の助けも借りずに自分で自分を育ててきたと言っても過言ではない。それは諸外国の文化・スポーツに対する国を挙げての育成ということから比較しても言えることで、そこには雲泥の差があるのである。したがって、今回の勝利は彼女たちのスピリットが導きだした奇跡的とも言える結実なのである。もちろんこの勝利は今後も彼女たちにとってもまた周囲にとっても「突破口」の象徴ともなり得るものであろう。

 しかし、それに反して相も変わらずのマスメディアの対応はマスメディア全体の旧態然とした内情をよく表している。特にテレビなどの視聴者を馬鹿扱いした構成、そして、「街で   ※この部分から186までいつの間にか消えていた。以前にもあったがこういうことがあるのである。要注意!  〈以下再構成〉

「街で拾う声」、これでは街には「お子チャマ」と「おバカ」しか歩いていないのかと思われても仕方あるまい。もう少し何とかならないものかと思う。

                                                  2011 7/20

 

189.それを「冷静な対応」とは言わない

188.久しぶりにテレビを観れば・・・

187性懲りもなく繰り返されて

186痛くはないのか、恐くはないのか、それでも生きられるのか・・・

※以上の個所が消失したのでカテゴリー「五叉路」ー非編年体時々その2ーにて再構成※

「ある日、その時」 (9) 2011年6月13ー

 

 

<掲載内容>


173.ジャーナリズムが成り立たない国、日本  174.被災地住民はもっと怒るべき 175.菅原文太と西田敏行にある正当な義 176.「水戸黄門症候群」 177.水桶、柄杓、ホースで宇宙の方程式に立ち向かう様は・・・ 178. 今宵、余のために集いたる愚かな臣民どもよ・・・ 179. 不死鳥は決して飛び立たない  180.白々しい復興音頭と「冷静さ」を煽る者たち 181.「原発文化人」の似非深度 182.レディーガガに花を贈るより前に・・・ 183.熊取6人衆番外 184.「われあり、故にわれ思う」派とは?185.政治不在の狂人政治・・・

          

                 

                                         (転載・複製厳禁)

 




185政治不在の狂人政治


 首相を頻繁に変えることに対してもっともらしい疑問を投げかけ、政治不在の「不安」を煽り、導びかれてきたのが現状でもある。しかし、実はこの現状こそが政治不在そのものであった。既得権益の「複合体」がどのようにも手の内で転がせると思っていた「人間」が実は狂っていたことにようやく気付き始め、思うように動かせぬというその「誤算」に慌て始めたというのが今の実情に近い。常にその「複合体」と連動していた大方のマスメディアは国民をその意図する方向に誘導し、それによって作り出されたものが結果的に破綻を生じてくると今度は国民の側に立って物知り風な「ふくみ」をもたせてながら自らが導いた政治体制を嘲笑う。そして、そのミスリードにつての謝罪は一切しない。いつものことながら、そのあまりの無責任さに呆れ返るばかりである。改めて彼らとは一体何者なのか?騙りか三百代言か。近い内に彼らの実態(主に金の流れ)も詳細に検証しなくてはなるまい。

 今、国民の中に、放っておいてもいずれ近々つぶれる内閣などという「思い」があるとするとかなり危険な事になるのではないか。そもそもこの「首相」は典型的な亡者の権化と言ってもよい類の「人間」である。彼にしがみつかれたら大方の人間は命の危機にさらされることになる。だから、誰も近寄ろうとはしないのである。すべてが政治的駆け引きの対象でしかないこの「人間」には理念も倫理も微塵も存在し得ない。あるのは権力に対する異常な執着と執念だけである。

 しかし、鳩山の元側近と言う民主党議員が海江田議員は経産省の官僚にも「頭がいい」と評価されていると得意げに話していたが、どうやらこの議員は官僚に評価されることが「政治家」であると思っているようである。官僚達に「頭がいい」などと言われてその気になっているようでは情けない。それは御しやすい半人前の政治家でしかないという意味である。未だにこんな未成熟な議員がいるようでは日本の民主主義まだまだ遠く、官僚政治から抜け出すことはできないだろう。私の知る限りでは、官僚関係者の発言として、元大蔵官僚幹部の口から直接聞いた「小沢一郎は政治家らしい政治家です」と言う一言が意外でもあったので今でも印象に残っている。彼は小沢一郎については決して「頭がいい」などという表現は使わず、「筋が通っている」ことを強調していた。実際にこのような場合、「頭がいい」とは「筋を通さない」または彼らにとって「都合のいい」ことの言い換えに過ぎない場合が多いのである。その時、彼は財界人の経済学の不勉強についても「経済原論さえ理解していない」と嘆いていた。僅かではあろうが、官僚と言われる人々の中にもこのような「人物」が「いた」ことも事実なのである。そして今、政治家らしい政治家がいないのも事実である。国民は「頭の良い」政治家など求めてはいない。それは官・財にとって都合が良い「頭のよさ」でしかないからである。

                                                   2011 6/8


Le premier ministre de Japon est fou à lier. Il est possédé du démon du pouvoir.En ce moment ce qui est en question c'est la pruduction d'électricité d'origin atomique.Il a l'intention d'utiliser la tendance d'antiénergie atomique pour la stratégie politique.Le mensonge à  effet  c'est tout.


184.「われあり、故にわれ思う」派とは?


 これは周知のようにデカルトの「われ思う、故にわれあり」(cogito ergo sum)を「もじった」某作家が遣った表現であるが、「われ思う、故にわれあり」という命題自体も世界に知れ渡っている割にその真意はどこまで把握されているかかなり疑わしいものがあるにも拘わらず、その「もじり」となるとさらに分かったような分からないようなことになる。どうしてそうなるのか、それは「われ思う」という認識論から「われあり」という存在論は導き出せないというところからくる。もちろんデカルトの哲学世界ではそれを「成立させよう」とはしているが、彼のそこまでに至る過程を追わないとその本来の意義、面白さは見出し得ないだろう。私はこの命題をスピノザのように「私は思いつつ、ある」と解釈している。そして、カントがergo(故に)を不要だとした考え方に納得できる。要するに、この命題を三段論法的展開としてではなく単一命題として捉え直すと理解できるのである。デカルト自身もergoの不要性については考えていたようである。したがって、「われ思う、故にわれあり」と言おうが、「われあり、故にわれ思う」と言おうが、そもそもそれは「認識論」から「存在論」を、またその逆も導き出せない命題なのであって、それは「経験的命題」、「自意識による」ものでしかないということになる。「われ思う、故にわれあり」にしても「われあり、故にわれ思う」にしても「私は思いつつ、ある」という単一命題に収斂されて行くのである。もしその「もじり」に何か見出そうとしても「自意識」の不明瞭な差異程度のものしか見出し得ない。

                                                 2011 6/5


183.熊取6人衆番外


 「歌よみが幇間のごとく成る 場合場合を思いみながら しばらく休む」と「詠った」のは土屋文明である。それでも強引に成り上がろうすれば自ずと幇間のようになって行くのは避けられず、時折作る厳しい表情さえも醜悪さだけが際立ってくる。人生、事ほど左様に手の内には収まらぬもので、今までの所業のすべてが顔に、声に、挙動、あるいは芸術一般にまで敷衍され、凝縮され表出されてしまうものである。

 「声を聞いて道理を理解し、表情を見て心理を判断する」とは古くから中国にある「千字文」という漢字4字から成る韻文の中にある。30年以上前、映画監督・衣笠貞之助に認められていた女優でもあり演出家から、ある時、「あなたは電話で話をしただけなのでしょう?どうして相手のそんなことまで分かるの?」と聞かれたことがあった。実際に、聴覚だけで作られたその人物のイメージと実際に会って得た人物像にそれほどの狂いはなかった。今でも声の抑揚、発声、声質、息継ぎ、言葉遣いで相手のスケッチは出来上がってしまう。後は色付けだけである。「表情を見て、心理を判断する」というのは誰でもがやっていることではあるが、表情はいくらでも嘘をつく、瞬時に去来するものを読み取り損なうと面倒なことにもなる。そうかと言って実際には相手の顔をじっと見つめることもできない。その結果いつからか「声」の読み取り作業が始まったのであろうと思われる。、私にとっては「表情を見て、心理を理解する」などとは二義的なものでしかなく、「心理」などにはあまり興味もなく、もっと「本質的なもの」を探ろうとしていたのかもしれない。「表情を見て、心理を判断する」ことが巧みであればある程、それは「幇間芸」の領域でもある。今では日本の演出家と言われている者の多くはこの「幇間芸」ができないと成り立たない状態になってしまっている。それは演出家に限ることでもないが、試しに思いつく日本の演出家と言われている者たちの顔を思い浮かべて比較して見ればいい。どこか共通するものが必ず見つかるであろう。そこに立ち現われてくるものは、妙に人当たりのよさそうな相手の心理を「読む」ことだけは巧みな「幇間」の顔である。

 少し前、土屋文明のような気分で、私は舞台演出の仕事に関しては無期限の休止を書き記した。昔、援助するという「誘い」を意に反することはできず断ったことを改めて確認し、納得している。今の心境はと問われれば、今まで経済的にも思うようにできなかったという面もあるが、ある意味では「熊取6人衆」のように爽快である。

※幇間:(ほいかん)たいこもち、男芸者。

※「熊取6人衆」:原子力利用の危険性について研究し、追究してきた京都大学原子炉実験所原子力安全研究の6人の科学者の通称。最期まで科学者の誇りを忘れずにメフィストの買収にも応じず首尾一貫そのスタンスを崩さなかった科学者達である。海老沢徹、小林圭二、川野真治、現職では小出裕章、今中哲二がいる。1994年に瀬尾健(58歳)が亡くなり、現在は5人。

※衣笠貞之助:欧米で最も早く世界的評価を受けた日本人映画監督。1926年「狂った1頁」→1982年にサウンド版を全世界で公開、大成功を収める。1928年「十字路」、1953年「地獄門」カンヌ国際映画祭グランプリ、米アカデミー賞名誉賞、ニューヨーク映画批評家賞外国語特別賞。1958年「白鷺」カンヌ国際映画祭特別賞。私は彼の最晩年に会ったことがある。

                                                  2011 6/4


182.レディーガガに花を贈る前に


レディー ガガにバラの花を贈る前に、東日本大震災以後、過労死、突然死、自殺へと追い込まれた人々に対して哀悼の意を添えて花を手向けるのが筋ではないのか。

 ガガとは関係ないが、菅直人が贈った花を市川房枝がごみ箱に突っ込んだという話を思い出してしまった。こういう夫婦なのである。

 どのようなこと言っても、政権を担当している以上、それは国民の意思だと見なされる。諸外国の多くの人々は一国の首相を通して日本人を見ていることを忘れてはならない。史上最低の大統領と言われたブッシュを通して世界の多くの人々がアメリカ人を見ていたようにである。

 因みに、レディー ガガは、ビジュアル性も然ることながら、歌唱力もあり、感性を全開できる素地を持っている。さらにシンディー・ローパーなどもそうであるが社会に対する意識が非常に高い。日本にはこのようなシンガーは一人もいないと言うより、そのようなシンガーが育ち得る土壌さえもないと言った方がいいだろう。詩人ライナー・マリア・リルケを愛すると言うレディー・ガガ、やはり明確なスタンスを持ってる。

 

                                                                                                                                                           (6/3)


181.「原発文化人」の似非深度


 先日、6月30日に佐高信の「原発文化人50人斬り」を読んだ。私が今までブログなどで書いてきたこと、考えていたことと共鳴し合うところも多かった。今後も徹底的にこの種の「原発文化人」を追跡するべきである。なぜなら、忘却こそが彼らの滋養で、忘却が彼らを復活させる「呪術」となるからである。彼らを忘れ去った時、彼らは再び甦ってくるのである。原子力政策を強行に推し進めてきた、アドルフ・ヒットラーを唯一尊敬する中曽根康弘にみごとに絡め取られた梅原猛、そして吉本隆明、彼らの思想的間隙とその間隙を埋めようとするかのような言動から危うさが仄見える。ビート・たけしにしても、タモリなどよりは買っていたが、今となっては「おいら」などという言葉で「自然体」の「庶民」を装った妙に「自虐的な」ポーズから発せられる「台詞」なども茶坊主の井戸端談義に過ぎなかったということになる。権力の忠実な下部が「安全地帯」で発する「言いたい放題」を「毒舌」とは言わない。それは毒にも薬にもならぬ単なる下世話な「ひねり」でしかない。因みに、彼の映画にしてもそのエネルギーは認めていたが、佳作も秀作も1本もないと思っている。

 彼らだけではない、この本の中に登場する者たちは以下の通りー

班目春樹、渡部恒三、大前研一、堺屋太一、弘兼憲史、与謝野馨、幸田真音、茂木健一郎、養老猛司、荻野アンナ、松本零士、大林宣彦、中畑清、渡瀬恒彦、寺田農、中島みゆき、星野仙一、三宅久之、草野仁、大宅映子、木場弘子、そして「電波芸者」田原総一郎etc 

 東電は以上の者たちに湯水のごとく金を使ったのである。 後は知りたければ買って読むべき、今後の参考資料となるだろう。

  この本の中には出てこないが、中曽根康弘とレーガンの日本での対談を「仕切った」のが演出家・浅利慶太(劇団四季)であるから彼も「中曽根系文化人」の一人であろう。そして、原発推進派の旗手である東京都知事・石原慎太郎と密接なパイプを持つ野田秀樹(東京芸術劇場・芸術監督)、現政権の内閣官房参与・平田オリザetc このような人物達も含めすべての相関図はさらに検証されてしかるべきである。後の世のために。

 ※ナチス・ドイツ時代に世界的知性の一人でもあった哲学者・ハイディガーですらアドルフ・ヒットラーに絡め取られたのである。「人間」は間違いを犯す、だからこそ、その後の姿勢、言動が重要になってくるのである。しかし、上記の者たちにはその「重さ」が見えず、誠実さに欠けるところがある。

                                                                              2011 6/1



私が言う、B・B・C・I とは

BARK  BITE  CLAIM AND INSPIREのことである。すなわち、吼えろ、噛みつけ、主張しろ、そして、それを通して自らに霊感を与える、自らの心に働きかけよということである。ACTIONなくしてINSIREは起こり得ない、INSPIREされないACTIONは無意味である。

恐怖におののく自意識などに明日はない・・・・


180.白々しい復興音頭と「冷静さ」を煽る者たち


 実際に「傷」を受けた者のしか「傷の痛み」はほんとうには分からない。こんな当たり前のことが自分に、または身内の者に起こらない限りやはりほんとうには分かり得ないのも「人間」である。被災地住民に向かって行われる「がんばれ」の連呼と「癒し」の押し売り、やっている方は気持がいいだろうが、多くの深手を受けた者たちにとっては、さらに他者に対する気遣いまでしなくてはならずむしろ苦痛でさえあるのではないか。彼らが辛うじて作る笑顔、あるいは流す涙は訪れた者に対する感謝ではなく、一瞬にこみ上げる「慈悲」のようにさえ見える。人助けをするということは、自己の善意の証、存在証明を考えるのではなく、たとえ相手に無視されようがさり気なく寄り添い継続的に助けるくらいの覚悟が必要になってくる。政府、マスメディア関係者、その他の「著名人」などの「被災地詣り」には歴史的事象との記念撮影、存在証明以上の内容はほとんど見出せないので論外とする。

 また、一方では放射性物質に対する「冷静な対応」の偏執狂的「呼びかけ」である。今ではこれだけで発信元の「底」が割れてしまうという現状になってしまっているが、こんなことを言わなくとも被災地住民はもう充分過ぎるほど「冷静である。一部被災地住民の放射性物質の過剰な反応を「感情論」として諌めるような記事もあるようだが、異常事態の正常な反応で何ら問題のあるものではない。問題にする方がむしろ問題である。この期に及んで「冷静さ」を呼びかけている方が異常に見えるのである。「冷静さ」を呼びかける本当の理由は一体何か?そして、個人的にガイガーカウンターを購入してまで身を守らなくてはならないように追い込んだのは誰なのか?そのような市民の当然な動きに対して、測定の不備を指摘して公的機関が行う空間放射線量調査に従っていればよいと言わんかりの主張は大いに問題となるところであるが、現在、東大の研究者グループが福島の15000か所での測定を行っているはずであるからその内に正確な数値が出てくることであろう。さらに、放射線の専門家も個人的に福島県内の実態調査をおこなっている。そのような調査の結果を見て判断すれば済むことである。このようなことは本来、国が主導してやるべきことである。それにも拘わらず、「冷静さ」を呼びかける者たちは、「いま必要なのは、やみくもに測定より正しい知識である。まして『煽り派』は、放射能をバラ撒いた東電以上に国を悪くしている。」と言う。それでは「正しい知識」とは何か。ここで言っているのは「技術的知識」のことでそれも「ガイガーカウンターの操作要領は慎重に」という程度のことである。これは機器の仕様書を読んでいて突然国家論が出てきたような文章である。その程度の文章なので「綻び」を逐一取り上げていると切りがないので、一つ例を挙げると、文章中で「『年間20ミリシーベルト』が『間違いなく健康被害が出る被曝量』ではないことも事実である。このレベルで被曝の健康被害が確認された疫学データは世界に一つもない」と言っているが、まず、「健康被害が確認された」という「確認」の問題である。どのような確認なのか、確認方法は?そして、「疫学データ」とは、どのように絞り込もうが蓋然性の域を免れない領域である。すなわち飽くまで相対的であるということである。したがって、この文章をより正確に「分かりやすく」言い換えれば、蓋然的かつ相対的なデータを基に割り出された結果によれば、年間20ミリシーベルトで健康被害が現在の科学的パラダイムの中では認められるものはまだ一例も見出されていないということである。したがって、この内容自体が結論として断定し得るものではないにも拘わらず、それを根拠に「間違いなく健康被害が出る被曝量ではない」ことを事実として措定しているのである。「世界に一つもない」ということは、その時点で調査対象漏れがまったくなかったことを前提にしたうえでの「一時的報告」であって、それ以後増える可能性も否定でないことを意味している。さらに因果関係のはっきりしない確認の枠外の特異例は外されていることも考え合わせる必要がある。それもすべて現時点での科学的知識の枠組み内での判断である。誠実な科学者であれば、未知の領域に対する断定は海浜の砂一粒程度のものでさえも避ける。シーベルトに関しては、その砂一粒の確実な発見さえもないデータ検証のみであることをそれこそ「確認」しておく必要があろう。核エネルギー、放射性物質に対してたかだか半世紀程度のデータで分かったようなことを言うのではないと言うのが私の見解である。「想定外」などということも、金に目がくらんで「自然」を「宇宙の方程式」をなめた結果であろう。核エネルギーについては正当に恐れなくてはならないのは今後も変わることはない。その恐れがなくなった時が人類の本当の最期となる。

 しかし、今でも、「国を悪くしている」などと言い得る人間がいること自体にに奇異な感じがしてしまう。この論者はよほど今までのこの国がよかったと見えるが、すでにこの国はこれ以上悪くなりようがないところまできているのである。それすら見えていなのであろうか。これでは、「東電」、「政府」から後押し、すなわち金が流れていると言われても仕方あるまい。このような内容で今までやってこられた、済んでいたといのが、日本の大方のマスメディアの現状なのであろう。そこにはジャーナリズムなどは微塵もない。もちろん理念もない。

                                                 2011 6/28

 

 


 179.不死鳥は決して飛び立たない


 嘗て、焦土と化したいかなる大地の灰からも不死鳥は飛び立った。しかし、チェルノブイリ、スリーマイル島、福島からは不死鳥は飛び立てない。たとえ、甦っても不死鳥に片目もなく、片翼だけの一本足であれば、それはもはや不死鳥ではあるまい。それは焦土ではなく2度と「人間」の手には戻らぬ死地なのである。不死鳥が飛び立てないところに「人間」の復活など決してありえない。それは「人間」の完全なる敗北、死を意味する。「人間」が半減期2万年の「動的」物質」に対応することも、責任など取ることもできないのは明々白々なことである。1年先さえ覚束ない寿命7,80年程度の生命体である「人間」が今後数万年も「生き続ける」ものを相手に一体何ができると思っているのか。

 現在も福島では、増え続ける放射能汚染度土が産廃業者の不法投棄のようにごみ袋に入れられ山積みされ防水シートで覆われている。事故の当初からの不手際、その後の子供だましのような対応を見ていて、ふとこれは近々神主でも現れるのではないかと思ったくらいである。多くの者は、手の施しようがないものに対する場当たり的な思いつきとしか言いようのない一時しのぎの対処を見続けて、一体今まで何をしていたのか,今後どうするつもりなのかと思ったことであろう。今でも実際やっていることと言えば原子炉を相手に「江戸火消し」と何ら変わるところがないのである。この際、「学者」、「政府」、「東電」の諸君は原子炉建屋の前で「火消し」の「木遣り(きやり)」でもやるべきであろう。そうでなくとも県民は芸も実もない土下座などにはもう見飽きてうんざりしているのである。蔭では薄笑いを浮かべて「燃え尽きるまでやる」などと威勢のいいことを言っている口先出まかせ男には梯子のてっぺんで決めてもらおうではないか。どちらにしてもこのままではこの国は産・官・学に食い尽くされ滅ぼされるしかあるまい。すべての「楽観論」はこの産・官・学の複合体から発せられ、それによって動かされていると思って間違いない。それが虚偽であるということは破壊された原発自体が徐々に確実に証明していくことであろう。そして、さしたる根拠もない「楽観論」に酔った者達は、さらに様々な事象で虚偽に振り回され、結局「詐欺師」たちに踊らされただけということを思い知らされることになる。国民は、この原発事故の現状、事実を見据えない限り、この「民」不在の複合体によって亡国の道を歩まされることになる。今、確実に言えることは、実質的に復興、復旧などはあり得ないこと、もはや決して元には戻れないということと同時に将来に対する人類の判断の枠組みを通り越したところで未来の一部にして全体が閉ざされたということである。

 「原発マフィア」、すなわち「原発村」と称されている(政)・産・官・学の複合体とそれと一体化している多くのマスメディア、それから派生する関与機関のすべて、それらに関係する者達を一人残らずリストアップしてその相関図を作成してみれば、「いかさま師達」の今までの行状、経緯がより鮮明に見てくるはずである。それがそのまま日本の実情でもある。因みに、「御用学者」、「大本営発表」などという名称は2009年頃に私のブログで頻繁に遣った言葉でもあるが、最近ではそのコンセプトの具体例に枚挙に暇がない程で、どぎつく鮮明になり過ぎてしまった嫌いさえある。しかし、実質的な志向性を的確に捉えている名称だと思っている。

                                            2011 6/25

                 


178. 今宵、余のために集いたる愚かな臣民どもよ・・・・


 ふと、どこからともなくそんな声が聞こえてくる。

 相も変わらず「議論」、「討論」と称して政治ショーのイベントが繰り返されている。話している方はいいが、聞いている方は堪ったものではない。しかし、いつも思うがそれを聞いている者達の忍耐強さには恐れ入る。決して半歩も前進することのないいつ終わるとも知れない空疎な「議論」、「討論」。これはもはや「議論」でも「討論」でもあるまい。そこにあるのは決して核心部分に触れることのない政治ショーを仕切る者と「製作者」との線引き合戦で割り出された可もなく不可もない、形骸化した内容のものばかりで新たな発見などはない。結局、何が言いたいのか、やりたいのかも不明。抽象的世界で受け取り手の不具合でキャッチできないのとは別次元の問題で、具体的世界でこれでは意味を成さない。「ガス抜き」にもならず、これは「ガス」をため込ませるつもりなのかと穿った気持にもなってしまうが、そんな「ガス」もわずかな時間の経過で自然消滅していつしか所在不明の滓となる。結局のところ、何も残らないないのである。

 今宵、余のために集いたる愚かな臣民どもよ・・・。為政者は、この姿勢で臨むのがやはり国民にとっても自然なのかも知れないなどとと思ってしまう。いつかノーマン・メイラーも「人間は子供の時から命令されるのに慣れていて、ファシズムの環境の方がむしろ自然なのだ」と言っていたが、人々の「動き」を見ているとつくづくそう思える。また、彼は「次世代のために、毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義のやり方だ。その退屈さに耐えるには、判断力と意識をもった人々がいることが前提になる。」とも言っている。今、日本に「判断力」と「意識」を持った本当の意味での「大人」が一体「何人」いるのか。この間の政治に対するマスメディア、国民の「動き」を見ていても未成熟さばかりが目につき、そのような「大人」を見ることは稀であった。「政治と金」などという単純なレッテル工作で、レッテル工作は単純で繰り返しが容易なものが効果的であるが、簡単に分かったような錯覚に陥り頷いてしまうようではとても「大人」の領域にはいないことになる。これは以前にも何度もブログで取り上げたことではあるが、この日本ではいまだに民主主義は形式だけで一度として成立したと言い得るような経緯はないのである。それは「民主主義は常に育てていくものであり、再生させていかなければならない」という意味でもそうなのである。今まで、国民の中にいつ民主主義を「育てる」、「再生させる」などという意識があったのか。

                                                      2011 6/24

 


Maintenant  encore  Fukusima (de Japon)  est  comme le camp de concentration. Il faut de la mesure en tout. Mais la situation de Japon depasse les bornes. Le gouvernement  et  les mass-medias ne disent pas  toujours les faits. Je crois que la plupart de japonais sont les sujets apprivoisés.Dans cette situation  ceux qui restent  maître de soi-même sont les sujets apprivoisés ou les métaphysiciens.Naturellment  ils ne sont pas les métaphysiciens・・・

177.水桶、柄杓、ホースで宇宙の方程式に立ち向かう様は・・・


 その様、いつかどこかで見た風景でもある。第二次大戦末、愚かな指導者の下で「竹槍」で立ち向かうことさえ強いられ、ついにはヒロシマ、ナガサキで止めを刺された人々。しかし,今度は相手が違う。

 福島原発事故で働く現場作業員の多くは雇用契約書もなければ、社会保険もない、すなわち原発で働いていた証明書がないことになる。アリバイがないのである。許容以上の放射線を浴びているにも拘らず現在所在不明となっている者もいる。現状を見ているとこのケースは今後ますます増大するであろうと思われる。その結果、人体に対する放射性物質の影響の正確な追跡調査は困難となり、また仮にこのような人々が何年か後に放射線の影響で障害、疾病を起こしても存在証明がないので保障されることも、データに残ることもない。これは実質的に、旧ソ連のチェルノブイリと何ら変わるところはなく、現場作業員の存在は必要がなくなれば「抹殺」され、被曝調査対象から外されているのである(6/20現在で、125名が被曝測定不能。69名程度の者が身元特定不能である)。これでどれだけ正確な被曝調査ができるというのか。この日本の社会問題もやがて世界の視野に入ってくることであろう。この福島原発の事故は明らかに人災であり、それは原発を国策として進めてきた国家の取り返しのつかない責任である。今後その容赦のない責任追及を免れることはできまい。

 当初、福島の被災地住民を見て、日本人の「自制心」について高く評価する海外の声もあったが、一方では、ヒロシマで敗者となった戦後の日本は自らの伝統、精神性を放棄しつつ、勝者の価値観に同調しながら突き進んできた小国、そして、人々は馬鹿丁寧にぺこぺこし、常に「自制心」を失わず、能率の良さ、時間を厳守する。これらについては何の魅了も感じないという海外の視点もあることをこの際再確認すべきであろう。この状況の中で「自制心」を殊更取り上げ強調し、天皇までも登場させ「人心」を操作しようとする為政者、これもいつか見た光景である。実際に、この間日本を動かしてきた「エコノミック・アニマル」と称された日本の「戦士達」がまったく自らを顧みることもなく「突撃」を仕掛けた結果が現在の日本の状態で、その無謀な行為の弊害を否応なく今被らざるを得なくなっているだけのことである。しかし、その代償は具体的な領域だけには留まらず、自らが依って立つ伝統、精神性もすでに跡形もなく蚕食され尽くされていたということである。空洞化された精神の脆弱性については様々な事件の中にも見出せるが、まだ記憶に新しい「オウム真理教事件」などにも見られる。麻原彰晃(教祖)と菅直人(首相)の間に本質的な違いは見出せぬと思っている。そして菅や麻原はどこにでもいるのである。両者ともに戦後の「すべて」を吸収していることだけは間違いない。それが一体何を意味するのか。なぜそうなったのか。すでにその「答」は見えているであろう。

                                                    2011 6/22


176.「水戸黄門症候群」


 大方の日本人には「水戸黄門症候群」と言ってもいいような「症状」が見られる。すなわち、自らの位置を忘れていつの間にか権力側の論理に巻き込まれ権力側に立ってものを見ていることに何の不思議も感じなくなっているのである。そこには「寄らば大樹の陰」などと言う、ある意味では小賢しい「冷静」な視点はない。むしろ陰にいることさえ忘れて大樹と同化して自らを大樹と思い込んでいると言った方がいいかもしれない。ただ、両者に共通するところは相手を「下」と見なした時には強圧的になるが、「お上」、「権威」に対しては端から腰砕け状態で恐ろしく従順なのである。この傾向はあらゆる所で立ち現われてくる。

 たとえば、「ウィキリークス」についても、自分が所属する「庶民レベル」では何の問題にもなりようがない、むしろ関係のないことでも「ウィキリークス」がターゲットにしている独裁的政府、独占的大企業と同調するかのような反応を示すことがある。これも言ってみれば「水戸黄門症候群」とも言える症状である。自分が依って立っている「庶民レベル」の位置とそのような政府、大企業とは対極にありすべてにおいて対峙しざるを得ないということがまったく忘れ去られているのである。「ウィキリークス」はニューヨーク・タイムズをはじめすでに海外ではジャーナリズムとして認められているにも拘わらず日本のマスメディアだけが否定的なのである。これだけを取って見ても日本のマスメディアがいかに視野狭窄的で偏向的かが分かるが、それと同時にそこには根本的にジャーナリズムから外れてしまった政府広報誌のような不健全さ、異常さが見られるのである。どちらにしても「ウィキリークス」を否定する者達や恐れる者達とは、結局のところ暴かれてはまずい悪事、または何か後ろめたいものを隠し持っている者達ということになってしまうのである。そのような者達といしょになってまったく関係ないものが好き好んで気をもむこともあるまい。

 そして、「アノニマス」についても賛否両論であるが、それを否定する者達の「見解」はと言えば、「どれだけ正義を尽くしもいたずらでしかない」、「所詮犯罪」etcである。もう少しもっともらしい論点すり替えの「お為ごかし」などが出てくるかと思いきやあまりに素直に権力側に立って陳腐な「正論」を言っているので呆れてしまった。為政者にとっては、彼らはどれほど愛しい奴隷、臣民達であろうかと思われる。少なくとも「アノニマス」には当初より「義」があった。シャーウッドの森のロビン・フッドが単なる犯罪者ではなかったのと同様にである。今やロビン・フッド達もVフォーベンデッタ達も一国に留まる必然性がなくなっただけのことなのであろう。

 今後、「アノニマス」に便乗した全く異質の「義」のない集団も現れることであろうが、その検証は比較的容易である。その集団の矛先を見ればよいだけのことである。その矛先に巨大組織、独裁権力機構があるかどうかである。ただし、偽装集団が常にそうであるように巧妙にフェイントをかけてくる場合もあるので注意が必要である。

                                                                                                                         2011 6/21


175.菅原文太と西田敏行にある正当な義


 昨今では、「演劇人」、「芸能人」と称される者達の小賢しい浅薄さばかりが目につき、そのような世界からは距離を置くようになってしまったが、菅原文太、西田敏行のようなレベルの俳優達が原発に対して明確な意思表示をすることは現状では重要な意味を持ってくると思われる。これはもはや原発だけにとどまらず、意識するとしないに拘わらず、今までの政治の在り方、国の在り方の根幹部分に対する検証を迫っていることにもなる。

 菅原も西田も東北には深い縁のある俳優達で、福島原発事故は現実的にも他人事ではあるまい。菅原については、「小沢問題」の時以来、やはり気骨のある役者であるということを再確認していたが、現在も山梨で自ら農業を行っているという。生き方としても立派である。茶坊主ばかりが跋扈している芸能界にあってはこのような俳優は少数派である。西田にしてもそうであろう。西田は「釣りバカ日誌」で各地の日本の風光明媚な土地、海を見ているはずである。そんな彼が今回の福島原発で失われて二度と戻らぬ故郷の大地や海を見てどのような思いでいるのか。それは今回の彼の意志表示ではっきりと伝わってくる。このような俳優、すなわち「人間」が真の意味で「復活」しない限り、「芸能一般」に限らず、全ての領域での衰退は避けられないだろう。もはや、今までの用意された選択肢から選びと取れる状況ではないのである。原子炉の炉心溶融もさることながら、肝心の「人間」の炉心溶融は何としても回避しなくてはならない。もし、それが開始されれば世界のメルトダウンは目と鼻の先である。文太の「反原発三国同盟」(日本、ドイツ、イタリア)は面白い、大いに賛成である。現実化すべきである。

  私は、あなた方が発した「義」に対し賛同し、応援する。

                                                2011 6/17


174. 被災地住民はもっと怒るべき


 大震災後3か月以上も経とうというのに被災地の現状はとても日本だとは思えない目を疑うばかりの状況である。誰が見ても被災地住民は見捨てられているとしか思えないであろう。これはもう震災だから仕方ないでは済まされない段階である。しかしながら、国は、民間に頼れるものは頼り、金銭的には出し渋るボランティア依存国家の様相を呈している。実際、政府のやっていることと言えば役にも立たない「専門家」、「識者」を集めたアリバイ工作にも似た「歴史に残る」「実績作り」とマスメディアが取り上げ易い目立つ被災地の気休め程度の「配給」、そして、死に行く人々などまったく眼中にない金の配分計算と増税である。さらに、いつまで続くか分からぬ「終息」のない国辱的な原発事故である。被災地住民はいまだに強制収容所のような生活を強いられている。これから,さらにそこには熱気と悪臭、集団発生した蠅や蚊、そして台風までが襲ってくるであろう。また死者が出ることは分かり切ったことで、事は急を要しているのである。そのような充分に「想定内」のことですら今もって具体的方策は出されていない。これもボランティアに任せる気なのか、やはりこの国は国としての体を成していない国家であると言わざるを得ない。このような国家に誰が信を置くと言うのか、もしそのような者がいるとするならそれは「狂信者」であろう。

〇6月11日、相馬市の酪農家が自殺。牛乳が出荷停止となり、牛乳を搾っては捨てることを繰り返し、6月上旬までに30頭の牛を処分。出荷停止となった上に、国からの補償もなければ死ねと言われているようなもので、がんばりようがあるまい。

〇南相馬市では義援金を収入認定して、住民に対してしっかりとした説明もないまま(同市福祉課の意見と住民側の意見は食い違っている)生活保護を打ちきり(厚生省通知)である。その結果、住宅扶助もなくなる。これでは生活再建どころか早く死んでくれと言わんばかりである。 国民は政府の対応を冷静に見て、これ以上義援金を出すことを見合わせた方が賢明である。「一つになろう」で使途不明の義援金を無心するは、その上増税では堪ったものではない。

〇 「福島原発のリスクを軽視している」とされる長崎大学教授・山下俊一の解任要求は当然である。

山下俊一は、放射性物質と人体の影響について「科学的根拠」を明確に提示してる訳ではない。例えば、水の分子構造がどのようなものかというような明快なものを積み上げた結果の「推論」「推定」であればある程度納得もできようが、彼の言っていることは旧ソ連のチェルノブイリなどでの20年程度の「データ解析」を根拠にしているだけである。それだけでは揺るぎのない「科学的根拠」とは成り得ないのである。たとえば、「100ミリシーベルトで5人くらいの癌リスクが上がることが長年の調査結果で分かっている。100ミリシーベルト以下は分からない。明らかな発癌リスクは観察されていないし、これからも、それを証明することは非常に困難」」。この彼の言説で納得できる人たちを私はまったく理解できないのである。まず、「長年の調査結果」とはどのような調査なのか、また旧ソ連の国家体質の中で調査対象はどこまでの範囲で可能であったのか、データ観察から割り出した「5人<くらい>の癌リスクが」上がる」という「結論」が何を科学的根拠とした「絶対結論」なのか、そして「100ミリシーベルト以下は<分からない>」ということである。ここで重要なのは<分からない>ということは<放射性物質の人体に対する影響がない>ということではないということである。核分裂生成物は何百種類もあるのである、この教授はヨウ素と癌の関係くらいしか調査してないと見えるが、核分裂生成物質の人体に与える影響は何も癌だけに限らず、奇形、心臓疾患、まだいくらでも不明の部分があるのである。にもかかわらず、彼は「放射線はニコニコ笑っている人には来ません。クヨクヨしている人に来ます」などと福島県民をおちょくった発言をしている「学者」でもある。また、彼は文科省原子力損害賠償紛争審査会の委員でもあり、典型的な「御用学者」なのである。こんな人間にかかったら明らかに癌と放射線の因果関係のあるものまで隠ぺいされてしまうのではないかと思われる。。しかし、この福島県民の山下俊一解任要求について、ツウィターなどでは「専門家でもないものが、感情論で盾ついても意味ない」とか、「科学的実験に基づいて反論してほしい」、中には「ヒステリックな魔女狩りだけは止めておいた方がいい反論は科学的根拠に基づくべき」etc.彼らに共通していることは、福島県民の立場にいないこと、県民の痛みがまったく分かっていないということである。そして、それらの文章からは「権威」「お上」にはすぐにへつらう独立心の欠如,自我意識の成育不全が垣間見られるのである。「魔女狩り」に至っては笑ってしまったが、そもそも権力の中枢部分に位置してその意図をくんで行動している者がどうして「魔女狩り」の対象となり得るのか。この山下俊一解任要求は福島県民の当然の「抗議」である。核分裂生成物と人体の影響に関してたとえどのような権威だろうが、どのような調査結果であろうが、いまだに明確な科学的根拠を提出し得ない領域が存在するのである。したがて、そのような領域に関する断定的言辞は避けるべきであり、もしそのような断定的言辞が発せられたら虚偽と見るべきである。

 「国の指針に従うのが国民の義務」と言った山下俊一のような「学者」は戦時中にも戦前にもいた。彼は長崎の被爆二世であることが自らの中で何ら教訓化されていないのであろう。これは恐るべきことである。これを「御用学者」と言わず何と呼ぶのか。明らかに国に非があるにも拘らず、このような「似非学者」の言う通りにしていたら福島県民に明日はない。

                                                   2011 6/15


 173.ジャーナリズムが成り立たない国、日本

    ージャーナリスト・上杉隆についてー


 2010年2月12号の「週刊朝日」に掲載された検察問題を扱った「子供を人質に女性秘書『恫喝』10時間」と言う上杉隆の記事内容以来、日本にもようやく気骨ある体を張った真にジャーナリストの名に値する者が現れたと思い、できることは応援しようと喜んでいたが、2011年、彼は「ジャーナリスト無期限休業宣言」を出した。残念ではあるが、これも彼のジャーナリストとしての誠実さの表れと見る。確かに彼のスタンスを維持するにはあまりに日本の現状は筆舌に尽くしがたく酷いものがある。ジャーナリストを名乗り続けていられること自体が欺瞞の証ともなり得る状況でもある。彼自身も言っているとおり、この日本の現状ではジャーナリストを名乗ることなど不可能と言うよりも、ジャーナリストを通そうとする姿勢そのものが成立しないのである。このような中で、彼一人が果敢に戦ったにしても多勢に無勢で、ただ無駄に命を削るということにもなり兼ねない。ここはさらに前進するために一歩後退した方が賢明かもしれない。日本では、彼のようなジャーナリストと呼ぶに相応しいスタンスと覚悟を持ったジャーナリストは私の知る限りでは数人しかいない。(テレビに出てくる者の多くは論外)その他の者達はジャーナリストとは名ばかりで、やっていることは因循姑息な官僚や内容空疎な小手先勝負の「政治屋」達と何ら変わるところはない。ニセモノが闊歩するのはいつの世も変わらないが、所詮はニセモノ、いずれ自ら溶解するか、糾弾の対象となることは避けられまい。

                                                     

※上杉隆の「子供を人質に女性秘書『恫喝』10時間」の記事については、2月3日東京地検次席・谷川恒太の名前で抗議文が出されたが、現在に至っては、検察問題は様々なところで露呈され、すでに周知の事実であろう。また、この記事については検察と密接な関係にある立花隆が検察擁護をしていた。、

                                                                                                                                         2011     6/10

 


 

「ある日、その時」 (8) 2011年5月11日ー

<掲載内容>

157.自ら滅亡の道を選び取った日本 158.瞬時によぎる振幅(4)<「パニックになるのを恐れて?」、「ツウィター」、「一つになろう日本」??、「日赤」「ユニセフ」の危うさ、「原発は風呂屋の釜か!」、「ビンラディンの日記」、「今、フランスでは・・・」etc> 159.滅亡の時 160.坊主来て くわえタバコで 位牌書く 161.「御用演劇人」 162.癌と放射性物質に思うこと2,3 163.パニックを恐れるあまりに,風評作り 164.瞬時によぎる振幅(5)<「原発事故報道記事は・・・」、「日本のマスメディア」、「簡潔に言えば・・・」、「「急流で馬を乗り換えるな」とは!?「舟歌」さえも奪って・・・、etc>165.身に染み付いた「平和ボケ」166.「冷静さ」の押し売りとボケた「楽観論」167.小出裕章氏(原子力工学)に対する共感 168.「政争」、「ドタバタ劇」という言葉に見える狡猾さ 169,福島原発は国の恥 170.青森県知事再選に見る国民性 171.報道管制下の日本 172.原発村ではなく原発マフィア

 

                                               (転載・複製厳禁) 

 



 


172.原発村ではなく原発マフィア


 「原発村」などとはその実態とそぐわない名称で、やはり「原発マフィア」が一番妥当であろう。したがって、原発推進派とはこの「原発マフィア」の一員であると位置付けして置いた方が賢明である。彼らは(政)・産・官・学の複合体の一員で、あらゆる機関と密接に繋がっている。今まで、彼等にたて突くものはすぐに「抹殺」されてきた。ある時は「遠吠え」として無視され、客観的かつ正当な論、言説は「反原発的」であるという理由で排除され、いとも容易に葬り去られてきた。そして、この「原発マフィア」の「情宣部」を大方のマスメディアが担ってきたのである。そのように全体を捉え直すと、すべてが浮き上がって鮮明に見えてくる。

 しかし、この誰も手出しができないと思われた巨大で堅固な「原発マフィア」の一角がすっ飛んだ。土手っ腹を穿ったのは皮肉にも彼らが信奉する「ご本尊」、すなわち原発、原子炉そのものであった。いよいよ「原発マフィア」の崩壊が始まったのである。今後も福島原発事故の「収束」の動きにほぼ比例してあらゆる実態が白日の下にさらされることであろう。「商人」のもっともらしい講釈もそのよって立つ基盤、大地さえ覚束なくなれば、肝心の「商売」なども成立せず、その行為自体がまったく無意味なものと化す。現状のままの「商い優先」で進行すれば明らかに立ち行かなくなることは目に見えているのである。それは、日本だけでなく世界的規模でもそうであろう。

※以下参考までに「週刊現代」が面白いアンケートをしたのでそのいくつかを載せる。

アンケート内容は単純明快「原発やめますか、続けますか?」それを大手企業100社に向けたものである。

いくつか現状に即した誠実なコメントをする企業もあったが、そのほとんどは、「無回答」、「答えられない」「社長不在、確認とれず、」「該当なし」などであった。

選択肢 1.国内にある54基の原発を、できる限り早く、全て運転停止するべし。(全て停止)

      2.段階を踏んで、順次停止していくべき。(段階的に停止)

      3.福島第1、浜岡の2つのみ停止し、それ以外は稼働を続けるべき。(福島・浜岡は停止)

      4.浜岡原発も含め、安全性が確認され次第稼働すべき」(条件付きで稼働)

      5.答えられない。 

○敢えて「原発マフィア」の「情宣部」に絞ってみると、「朝日新聞」(該当なし)○「毎日新聞」(答えられない)○「読売新聞」(アンケート受け取り拒否)○TBS(社長の時間がとれない)○テレビ朝日(無回答)○電通(答えられない)etc 因みに、噂のソフトバンクは「アンケートを辞退したい」

※読売新聞は社説(6・10)で、原発の再開を強く説いている。このような新聞を読んでいられる読売新聞の読者とは、原発推進派かその方向で体良く丸め込まれている羊たちの群れのような存在であろう。この守銭奴達の代弁者にいつまでも誘導されていては日本は亡国に至る道を歩むより他はない。今に始まったことではないが、毎日、朝日なども同様で、そこにはジャーナリズムなどはまったく存在しないと言ってよい。彼らをジャーナリストとは決して言わない、もしそう言い得るのであればジャーナリストを定義し直さなくてはならない。

※今頃もっともらしく「脱原発と電力確保のトレードオフをどうするか」である。この国は上から下まで目先の利にしか頭にない無能集団が群れているだけなのかと思われる。原発事故も然り、相も変わらずどこを切り取っても「泥棒を捕えて縄を綯う」で、想像力の欠如か、普通に考えれば出てくるレベルの帰結が見えていなか、敢えて見ようとしない者ばかりである。独立国家としての矜持も緊張感もないまま、だらだらと日米同盟によりかかってきた経緯そのものが全ての者にしみ込んでいるとしか思えない。「保護者」であるアメリカに、ある時は「淫らに」恥も外聞もなく、ある時は子供のようにすり寄って何とか取り繕ってきた経緯そのものが全ての日本人を未成熟な「未成年」のままの状態に留め置いたとも言える。脱原発と電力確保がトレードオフの関係にあるなどと誰に向かっていっているのか?これでもし何か言っているつもり、または分かったようになっているとしたら、それ自体がすでに仕掛けられた稚拙な罠にはまっていることになる。

 未成年者達が国の中枢でさらに未熟な未成年者達を仕切っている国、それが日本である。                                                          

                                                       (6/13加筆)

                                                      2011 6/7

 


171.報道管制下の日本


 現在、福島原発の現状についての詳細は、あたかも原発事故が収束に向かいつつあるがごとくに報道されていないが、放射性物質は音もなく確実に大地に海洋に広がっているのである。これでは風評被害が出ても仕方あるまい。この状態は、自国の悲惨な状況については自国民にも海外にも見せようとはしない反民主主義的な隠ぺい体質の欺瞞的国家と同質である。テレビなどを観ていても、報道番組に限らず、ほとんどの番組で何か白々しさを感じるのはなぜか、それは事実から執拗に目をそらせようとする不自然な「明るさ」と作為的「高揚感」が全体主義国家の報道管制を思い起こさせるからである。福島原発事故の悲惨な状況に関しても自国民は正確な情報も知らされないまま放置され、諸外国の方が的確にその状況を把握しているということもその一例であろう。実はこの報道管制は3・11以後始った訳はなく今までも巧妙に継続的になされていたのであるが3・11以後それが鮮明に具体的に否応なく「露呈」されたと言った方が適当であろう。

                                                       2011 6/6


 170.青森県知事再選に見る国民性


 青森県では原発推進派の知事が3期当選を果たした。

一言で言えば、日本の塀の外の懲りない面々の性(さが)をよく表している。目先の利害だけに明け暮れ、絡め取られて、結果的には自分の故郷の、国土の喪失につながることに対して何の主張も抗議もしない。そこに、飼い慣らされ、無知に甘え切った日本の国民性の一面を再確認できるのである。それはDNAレベルで培われてきた国民性と言ってもいいくらいに手の施しようのない根強い「症状」であり、目と鼻の先にある自国の福島原発の事故でさえ何ら教訓化できない、または敢えて教訓化しようとしない恐ろしく「貧しい」人々ということでもある。このような県が多くなればなるほど日本の「死期」は早まるだけなのである。これは先進国とは名ばかりの未開発後進国の精神状態と言った方が現実的には適切であろう。

 このことは東京都についても同様である。東京都民は、たとえ都知事候補者に適当な者がいなかったにしても、福島原発事故の最中に原発推進派である石原慎太郎を知事にしたのである。しかし、今となってはこのような否定しようもなく増殖する現実を前にして原発推進派が徐々にでも元原発推進派、脱原発派にシフトすることを期待するしかあるまい。もし今後さらに原発を推進をさせるのであれば、その方向の先に見えるものは、この小さな国の至る所に現れる石棺と汚染された大地と海洋である。、そして、それは同時に世界の格好の放射性物質の実験場にもなるだろう。それが経済大国すなわち精神的営為を疎かにしてきた拝金国家の成れの果てである。そうではないと明言できる根拠は何もないのが実情である。

                                                       2011 6/5


169.福島原発は国の恥


 読売の「全国世論調査」(?)によると、次期首相候補のトップは前原誠司(14%)で次いで枝野、岡田だそうだ。これは読売新聞社が推す候補者と読むべきであろう。それによって読売の近未来は確保されたにせよ日本の未来はない。これはその程度かそれ以下のものでしかない。どちらにしても菅直人の尻拭いどころか、この危機的状態に火に油を注ぐような顔ぶれである。共通しているのは官僚指令はもちろんのこと、それより何よりワシントン指令に逆らわない者たちであるということである。今後もますます福島原発事故はアメリカの格好の実験場と化して行くであろう。(このことについては3月の時点でもブログに書いた)。アメリカは今後少なくとも2,30年間に福島原発事故に関して日本などとは問題にならない程の世界でも類のない極めて貴重な実験データを手にいれることになるだろう。アメリカにしてみれば、福島原発はチェルノブイリとは比較にならない程、当初より自由に何でもできたはずである、日本の知らぬ、または知っていても公表しないデータはもうすでに膨大な量になっているはずである。知らぬは原発事故当時国の日本だけということにもなりかねない。このような状況の中で、金に目の眩んだ傀儡、ピエロ、守銭奴ばかりでは日本の行く末はまったく見えてこないと言うより限りなく暗い。どんなに取り繕ったところで、効果的な方策も具体的プランも定まらぬまま国土は着実に放射性物質によって汚染されているのは事実であり、やがてそれはそのまま世界に広がって行く。この日本の実情はそのまま国の恥としてを世界に向けてさらされているのである。今は、一刻も早く原発事故「収束」(飽くまで一時的「収束」で、終息はほぼ永遠に来ないと見た方が賢明である。)に向けて持てる力のすべてを出し切るしか手はない。それでも予測不能なのがこの「怪物」である。それは「神の火」に手を出してしまった人類が背負わざるをえない報いであり、そして、くすねた「神の火」の消し方も知らず、扱い方も不十分なまま突き進んできた結果でもある。

 つくづく人間の「愚かさ」ばかりが際立って見えてくる昨今である。テレビに、新聞に登場する「人間」達の顔を見ていると、やはり、もう本当に「人間」は死んでいるのかもしれないと思ったりする。そうでなければ「人間」そのものの定義をし直す必要があろう。神は死に、「人間」が死に、次に死ぬのは何か?すなわち誕生するものは何か?今のすべては、「立ち止まること」を忘れてしまった者達の、「考えること」を放棄してしまった者達の集積の必然的結果である。

                                                     2011 6/4

 ※6・4 福島原発1号機で「水蒸気爆発」を起こし、周辺の放射性物質は3・11以後最大の4000ミリシーベルトに達したがテレビなどでは詳細な報道はまったくなされていない。東京にある私のガイガーカウンターも一瞬ではあるが今までにない数値(0.47μsv/hー平常時ではありえない)で警告音を発する時があった。残念なことではあるが今や多くの人々にとって、温度計、湿度計の他にガイガーカウンターを観ることが日常化してしまった。私はと言えば、もう腹を括っているのでそれほど気にしている訳ではないが、ただ虚偽で振り回されることだけはできるだけ避けたいという思いがある。

○「水蒸気爆発」という言葉は一瞬マスメディアに現れたが、現在は「湯気が立ちあがり」という表現になって、あたかも温泉地のようなのどかな風景を思い浮かべさせるような細工が施されている。そのような小細工の前にそうであるなら「水蒸気爆発」の厳密な定義をするべきであろう。このようなどちらとも取れるようなことをしているから「風評被害」なるものが発生するのである。「風評被害」を生んでいるのは政府・東電・マスメディアであることを改めて確認すべきである。


168.「政争」、「ドタバタ劇」という言葉に見える狡猾さ


 とうとうここまで来たか、すっとこどっこいと言う感じである。日本のマスメディアは、「迅速なる復興」を妨げてきた張本人である菅直人に関しては特に追及もせず、むしろかばうかのような言動が多いのが実情である。被災地救済、復興などを含めた現在の危機的状況から必然的に出て来たのが「内閣不信任案」である。それにも拘わらず、マスメディアは一見被災地住民に寄り添うポーズを取りつつ予め用意された「政争」「ドタバタ劇」などの言葉で括るべく被災地住民を誘導尋問的に導きながら、現政府の最大の問題点をぼやかし、ようやく首相「退陣」に迫る動きさえも現状維持路線の方向でこれが「被災地の声」とばかりにその論点を反らす声の「作成」に余念がなかった。この狡猾にして稚拙な「演出」に気がつかない者は以前ほど多くはないと思うが、まだまだ気を許す状態ではない。今更敢えて言うほどのことでもないが、彼らは明らかに政府の広報戦略機関である。彼らが「拾った」と言う住民の声を注意深くチェックすると、そのパラ言語からその前に発せられたマスメディアの誘導尋問の内容が見えてくる。たとえばこんな調子である。

<マスメディア 「こんなに皆さんが大変な状態なのに、政治争いなんかやっている場合じゃないですよね。そう でなくとも復興が遅れているのにネエ、まったく・・・>

ー以上はオフ、映像・音声は出ない。以下の部分が画面に現れるー

住民   「ほんと、ほんとに怒っている。そんなことしている場合じゃないわよ。私、何にも持っていないのよ。どうすればいいの、何とかしてよ、そんなことしているよりここの状態見てほしいわ・・・」

 こんな具合である。現政権には矛先が向かないように何気なく誘導されている。他の例でも現政権に対する抗議はまったくない。と言うよりたとえそのようなものがあったにしてもカットされているのであろう。海外であれば、握りこぶしを挙げて「辞めろ、菅」「打倒、菅政権」の掛け声くらいは入ってくる、また、それを取り上げて流す局も必ずある。しかし、日本ではどれもこれも自主規制、整理されて同じなのである。これは薄気味悪く異常な現象で、少なくとも健全ではないことだけは確かである。それにしても被災地の首長は県民のことを思っているのならもっと強く現政権に対して抗議するべきであろう、弱過ぎる。

 

 それから、鳩山由紀夫(前首相)さん、あなたは政界に不向きである。動乱の世にも策士達にいいように弄ばれて利用された心優しい「お公家さん」達がいたが、あなたを見ていると彼らの姿と重なってくる。あなたは少なくとも政治屋ではないが政治家でもない。「政治家」は優しい人では務まらないのである。菅直人は策士の中でもかなり質の悪い策士である。一瞬の油断が命取りとなったまで、しかし国民のことを本当に考えているならもっと厳しい態度で臨むべきであった。今後、菅政権で日本はさらにボロボロになって行くことだろう。しかし、今となってはそのような日本を直視しながら私は私なりに被災地に手を差し延べようと思ってる。しかし、「一つになろう」などという「加害者」を助けるような連帯は断固拒否する。

                                                     2011 6/3

 


167.小出裕章氏(原子力工学)に対する共感  

※この文章の途中から157まで、いつの間にか抜け落ちていたので再度書き込み中(6/10確認)。数日前、突然パソコンが修復不能に陥り、現在修理中である。


 彼の生き方、そしてその選択と覚悟に対しては共感以上のものを感じる。それは、彼のような人間がまだ実際に日本にも存在していたということが奇跡のようでもあり一縷の望みにもなるからである。やはり、自分が選び取った生き方、スタンスというものは風貌にすべて表われるものである。彼のその凛とした姿からは、敢えて仕官の道を自ら切って捨てわが道を歩んだ武士(もののふ)の姿を彷彿とさせる。私にはどこか懐かしい原風景である。

 一方、彼を排除してきた者達はと言えば、ある者は肥え太り脂ぎり、またある者は目と口だけがアンバランスに僅かに動く蝋人形のごく、そして、貪欲そうな死んだような眼は己が深い闇を覆い隠し、言葉は二つに裂けた蛇舌から零れ落ちる間もなく霧散する根も葉もない形骸ばかり。

 さて、どちらの者が信用するに足りるのか?

 科学の領域においてもまだまだ未知のことばかり、「権威」などと言われる者達の「判断」が如何に危ういものであるかは枚挙に暇がない。定量分析にせよ、定性分析にせよ、それは飽くまで客観的目安であって、それを絶対根拠として論を展開し、「結論付け」、敷衍させることは「客観」信仰を生み、逆に科学万能主義に戻ってしまう危険性がある。それは、人間の驕りと思い込みでしかない。絶対結論は存在し得ないのである。

 一般人が科学の学術論文を読み解くのは困難であろう。したがって、科学者と称し、それが真実と言うのなら自ら「体」を張って」説明し、実際にできるものについては見せて証明しなくてはならない。たとえばプルト二ウムが飲んでも安全なものであると言うのであれば、自ら飲んで証明しなくてはならない。(大橋弘忠教授に学者としての責任と良識があるのなら、できるだけ早い時期にプルトニウムを飲まなくてはいけない。)放射線についても同様である。一体何のための、誰のための「科学」なのか、マッドサイエンスが好みなら別だが、再度そこから「科学」を検証し直すべきである。

 それでもなお、金と詭弁に丸め込まれて原発と共に麻薬中毒者のような病んだ人生を選び取るなら、それが人類の宿命なのであろう。

もし、そうなら

C'est ton affaire!     Adieu!

                                                                                                                          2011 6/1


166.「冷静さ」の押し売りとボケた「楽観論」


 原発事故という非常事態に「冷静さ」と「楽観論」を諭す異常さは、異常な状況の正常な反応さえも奪い取り、麻痺させ、中和させようとするものである。そして、今なお崩れ去った「安全神話」にしがみつきながら隙あらばその「正当性」を差し挟もうとする金に絡め取られた「原発教」の「狂信集団」は政・官・財・マスメディアにネットを張りマフィアのごとく連携している。「理念」も「人格」も「倫理」も全くない「何でもあり」のこの集団には常にチェックを入れて置かないと何をするか分からないという状況である。彼らの「お為ごかしの」の講釈、論議に巻き込まれないように、それこそ「冷静に」一つ一つ微に入り細を穿つがごとく検証しないといつの間にか地の果ての崖っぷちである。彼らの「論理展開らしきもの」には必ずさり気なく隠された盲点、死角がある。その中にはどのように取り繕っても、その整合性に変形要因が見られるものが多々ある。変形要因とは、言ってみれば<自己増殖する虚偽> である。それはやがて「作りだされた真実」となる。事実を適度に配合させながら自分の「金主」に都合のよい方向に展開させる「論理」、それは<増殖する虚偽>そのものである(このようなことは「人間」の歴史が始まって以来繰り返されてきたことではあるが)。「そこが知りたい」などと言ったところで、それが「核心部分」であればあるほどそれにまともに答える者などは皆無であるということを思い知った上で行動し、詰めていかないと物事は何も見えて来ないし、始まらない。

 簡潔に言えば、原発推進派には「庶民」などというものは存在しないのである。少なくとも自分たちと同じ「人間」であるとは思っていないということである。だから、彼らの言動はどのように「遠回り」しても、結局のところ安全地帯から発する原発の「正当性」と「安全性」とその「お為ごかし」に行きつくのである。福島県民に土下座している東電関係者も、政府関係者もその意識構造は動物園の檻の中にいる「動物」に向かって頭を下げているようなもので、とても「人間」に向かってやっているとは思えない。原発推進派とは、もはや「人間の尊厳」を捨て去り、金のために身も心も「悪魔」に委ねた者達ということでしかなくなってしまった。今や福島は有刺鉄線のない緩慢なるアウシュヴィッツになりつつある。もうすでになっているのかもしれない。さらに、放射性物質による細胞レベルの時間的致死・変形作用を考えると、来年の「収束」も覚束ない原発が放出、流出し続ける放射性物質の影響には恐ろしいものがある。それを完全に否定し得る根拠がまったくない以上、それが日本の実情なのである。たとえ、どんなにそれを否定するための「資料」、「論文」を拾い集めて原発擁護論を構築したところでそれ自体が愚かしい無益な作業である。

                                              2011  5/31

 


  恐怖におののく自意識などに明日はない・・・

冷静に矛先を定めよ そこに見えてくるものが明日の手掛かりを創る。

En regardant cette situation tranquillement .Bark!  Bite! Clain! Now silence is not gold. It's death.

Action!!!

                                                         (5/26)


165,身に染みついた「平和ボケ」ー金で買われた命ー


 「平和ボケ」は今に始まったことではない。少なくとも40年前1970年代には始まっている現象である。したがって、現在40歳前後、またはそれより若い人々は大なり小なりこの「平和ボケ」の中に育ち、「成長」したことになる。もちろん60歳代でもそれに該当する者はいるだろう。この「平和ボケ」が身に染みついてしまった者達の共通する特徴の一つに「本物」に対する現状認識の希薄さがある(これについては想像力の問題も絡んでくるが)。たとえば、モデルガン(imitaition)などの扱い方はよく知っていて上手だが、本物のガンには触れたこともない(マニアックな者たちは、問題点が違うのでここでは除外する)、また模造刀は自在に操れるが本身(本物の刀)は手にしたこともない。要するに、本物の「怖さ」を知ることもなく、また知ろうともしない内にいつしかニセモノ文化に飼いならされ、手なずけられてしまっていることに本人自身も気がつかないということがある。本物の危険性を知らないまま過ごしてきたということは、本物に接した際にも本人にとってはそれはどこか「ニセモノ」で、そのような捉え方扱い方では危険度が増してくるにも拘わらず、それを本人は現実的には認知し得ていないのである。そして、それが本物であると<真に><「気付いた」時>にはすでに致命的な状況になっているということが起こる。

 いまだに、実際の原子炉の危険性を漠然とは感じていても、その危険性を「現実的」に「把握」できていない者が多いのは事実であろう。危険なものは危険で「恐ろしい」ものなのである。そこに「平和ボケ」した楽観論が入り込むから却って危険な状態を作り上げるのである。すでに原発の安全神話は崩壊したが、本来なら危険なものを危険なものとして明確に把握した上で具体的に対処すべき問題であるにも拘わらず、隙あらばその安全性のみを強調し、あたかも原発そのものが安全であるがごとくに思わせるのは明らかに詐欺行為であると言う以上にそれ自体が極めて危険な行為であると言わざるを得ない。原発に関わったすべての驕り高ぶる者達は、もはや如何なる弁解もできぬということを思い知るべきである。さらに言えば、今後の状況次第では「未必の故意」による大量殺人ともなり得る。その加害者とは政府、東電、学者である。

 今もって、チェルノブイリと比較するのは「大袈裟だ」などと言う見解を出すマスメディアがあるが、その根拠は不明。チェルノブイリ、スリーマイル島、福島原発事故をどこまで検証したのか。福島原発はいまだに「収束」のめども立たず、「収束」至る工程表さえ覚束ず、今なお進行形なのである。「大袈裟だ」などと能天気なことを言っている場合なのか。この「大袈裟だ」と言う不明な「結論」の先にはまた「想定外」の言葉がちらつく。言ってみれば、これが「平和ボケ」そのものなのである。まだ、「敵」の恐ろしさが分かっていないと見える。今はもう、金で買われた命が「作り出す」「真実」に耳を傾ける時間はない。

 

                                                     2011 5/26


 164.瞬時によぎる振幅(5)ーこの項は別枠として同時進行ー


○小沢一郎が5・27にウォール・ストリート・ジャーナルとのインタビューで語った自らの心境・姿勢は、数ヶ月以上前に小沢一郎について私がブログで書いたこととすべてに渡って一致していた。然もありなんである。

○小泉元首相は、原発行政の非を認める発言をするなど実にまともな政治家であることをアピールしてはいるが、そのまま素直に受け入れることはできないだろう。少なくとも、与謝野馨などよりは機を観るに敏と言う意味でも是非は別として政治的センスは確かにある。だから、国民は翻弄されたのである。彼の言っていることは間違いではない。しかし、彼の政治家本体としての問題がある。それは理念の欠如もしくは不明瞭な点で、大衆が求めていることには敏感に反応するのよいとしても、それに合わせて実は「考えてもいない」(理念に照合させた論理的かつ具体的プランがないという意味)ことを平然と言えてしまうとい「政治家」としての資質である。したがって、彼の言動は危険な要素も秘めていることを見据えて置かなくてはならない。要するに、ポイントの絞り込みはいいが、理念に基づく緻密なプランがないということに尽きる。ある意味では、その場で一番受けそうなことを言うことしか頭にない「タレント」などと本質的には同質だとも言える。ただ、一方の虚偽は許せないものとなるが、もう一方の虚偽は笑いで相殺されると言う違いはある。それは三文タレント菅直人についても同様である。そして今、小泉が原発行政の非を言い出しているということは、それを認めた上でないと今後の行政を展開することはできないことを意味している。しかし、、いざとなれば吐き出される小泉の「迷言」は今までも事欠かなかった。「人生いろいろ」(閣僚の進退を問われて)、「私が知る訳ないでしょう」(自衛隊派遣の際、非武装地帯の安全性を問われて)etc。彼には追及されれば用意されている言葉は山ほどある。そして、「民」不在の実態不明の「構造改革」の御旗の下に「民」にのみに「痛み分け」を強いた彼の政治工作はまだ記憶に新しい。その「負の遺産」は国民各自に背負わされたままで、今もって何ら解決されていないのである。

                                                             (5/27)

○原発事故関係の報道は、警鐘から「煽り」までさまざまであるが(ここでは愉快犯のごとき売れ筋狙いの「煽り」は論外とする)、その中には警鐘までも「煽り」と取らせるような意図的偏向報道もある。なぜそのようなことをするかについて今さら多くを語る必要もない。時間の無駄である。概して、原発事故について「冷静さ」を強いるもの、またはその「安全性」を訴える傾向にあるものの多くが地元住民の側、すなわち「民」の側にはいないことだけは確かなのである。彼らの「お為ごかし」の言説がいくら「真実を装っても」説得力に欠けるのは、彼らの立ち「位置」に起因するのである。どこから、どこの視座からものを言っているのかが問題なのである。よく観れば、どこにポイントを絞っているかが言葉の端々に現れてきて、すぐにその発信者の「位置」と全貌が浮かび上がってくる。原発事故に関しては、人間ごときが気張って「真実」などを書く必要はない。日々変化する事象の的確な観察を基に事実だけを書けばいいだけの話で、遅かれ早かれ「真実」は真実となって極自然にこの透明な「怪物」自身が告げてくれるはずである。それでも隙あらば歪曲化、捏造するのが亡者でもある「人間」である。

 

                                                                                                                                                      (5/26)

 ○日本のマス・メディアの金の流れもすべてチェックする必要があると思っている。話はそれからである。論調、登場人物でおおよそはその金の出所、流れは推定できるが、金の動きがすべてなのか、そうでないのかはジャーナリズムの生き死にがかかてくる問題である。現状は悲惨である。ジャーナリズムの体を成していないものがほとんどである。解体するしかあるまい。

○「急流で馬を乗り換えるな」!?それは馬にもよるだろう。目も利かず、足も不自由な馬に乗っていては急流に流される仕方あるまい。これは言い換えれば、日本は急流に飲み込まれるより他に道はないと言っているようなものである。今や日本は衰退の一途をたどることはもはや避けられないことで、とても対症療法で救える段階ではない。だからこそ賢明なるソフトランディングが必要なのであるが、菅政権下では日本は良くても胴体着陸で突っ込んで解体してしまう確率の方が高いのである。すでにいくつものその劣化箇所が認められている以上、そして、さらにその劣化が進んでいる今、それは火を見るより明らかなことであろう。しかし、いまだに内閣支持率が30%もあることには驚かされる。何と御しやすく、おめでたい人々よ。日本にいる限り彼らと共に滅亡の道を歩まざるを得ないのかもしれないとも思う。また一方の不支持60%にしてもどこまで期待できるのかその内容にもよるだろう。どちらにしても、もはや夢のような日本の「回復」は絶対にあり得ないと思っていた方が現実的で、それが日本の実情に最も近い。またそのような認識に立てば、目先の我欲だけで突き動かされている「守銭奴」達の甘言に乗せられて日本の死期を早めることもないだろう。

                                                            (5/23)

○原発事故で変容してしまった都はるみの「舟歌」

「沖のかもめに深酒させてヨー 愛しいあの娘を奪い去り、海や大地も荒れ果てて、何もかもが消え去った・・・断腸ネェー・・・海が見える窓さえあればよかったあの時に、想いを馳せればこみ上げる、ああ断腸ネェー・・・ルルルール、ルルルー・・・・     

地元の漁師も、もはや昔と同じようにこの歌を聞くことはできないだろう。

                             


163.パニックを恐れるあまりに、風評作り


 パニックを恐れて「ストレートな報道を手控える」とは一見筋の通った道理のように見えるが、一方では新たに危険な状態を作り出すこともある。「ストレートな報道」を控える主な理由は、突発的な危険を目前にして多くの者が視野狭窄的な思い込みで認知混乱に陥ることを回避することでもあるが、それは操作を誤ると報道の信ぴょう性低下させ、繰り返されることにより必然的に風評の発生を煽ってしまうことになる。そして、その風評が新たな恐怖を作り上げる。またそのようなことと同時並行的に人々の中には「正常化バイアス」(optimistic bias-楽観的バイアス)が働き」始める。すなわち、いつまでも事態の緊急性、危険性を認めない、または認めようとしない判断バイアスで、実際に致命的危機の直前までその実情を認知できない心的状態に陥る。ある意味では非常に危険な状態である。分かりやすく言えば、「自分だけは大丈夫(危機的状況にはならない)」という盲信のような楽観的思い込みそのものの危険性である。「ストレートな報道」の規制・操作、自主規制は、すなわち真実を伝えぬ報道は、この「楽観的姿勢・見解」を増長させるだけで、それが一体何を意味するのかについては多くの解説は必要あるまい。

 それは、破壊された原子炉建屋の前で笑みを浮かべて記念撮影をしているようなものである。

                                                     20111 5/22

     


162.癌と放射性物質に思うこと2,3


  今回の福島原発事故以後、被曝とそれに伴う発癌率の問題がよく取り沙汰されて、25年前のチェルノブイリ原発のデータ比較などからいとも容易く「神経質になる必要はない」、「心配ない」などとしたり顔の「学者諸氏」が数多く登場してきたが、彼らが断定的に主張するその「安全性」の根拠となるものにさしたる確証はない。その「根拠」らしきものを形作っているのは、具体的には横断面資料と時系列資料を併用した分析であろうが、25年程度の時系列分析の暫定結果に過ぎないようなものを根拠に断定するにはまだ証拠不十分であろう。それ以外の方法で驚異的な分析方法があるのなら別だが、多くの場合その分析方法は具体的に示されていない。なおかつ旧ソ連の社会体質の中で果たしてどれだけ正確なデータ収集が可能であったのか、それは限りなく疑問の余地を残す。そして、その分析は主に癌と放射性物質の関係が中心で、心臓疾患、その他の疾患について、さらに病名のない奇病に関してはほとんど言及されていないと言うより分からないと言った方が適当なのであろう。そこに於いて、は分からないものは「存在しないもの」として論が進められているということに注意しなくてはならない。それは、現時点では癌だけに絞る方が分かりやすい、それしかできないと言った方がより正確かもしれない。換言すれば、放射性物質と癌の関係がようやく分かってきたということに過ぎないのであって、それ以外に放射性物質の影響がまったくないという証明はなされておらず、まだその領域に関しては充分に把握できていないというだけのことなのである。それを研究され尽くした結果であるごとく説いている「学者とは無能と言うよりは犯罪的であるとしか言いようがない。

 このような嘆かわしい状況の中でも福島原発事故収束に向けて、老体に鞭打って「次世代に負の遺産を残さないためという思い」で「原発決死隊」(福島原発爆発阻止行動プロジェクト・山田恭暉)を立ち上げた大学教授、エンジニア達もいる。頭が下がる思いである。「プルトニウムなど飲んでも大丈夫」、「神経質になることはない」、「メルトダウンはあり得ない」などと言っていた「御用学者」」達はどこに行ってしまったのか?

※横断分析: この場合は、放射性物質の影響について、放射性物質と癌の関係を分析するために被曝した様々な人々を一定時点の統計資料に基づいてする分析。

 時系列分析: この場合は、被曝した人、あるいは一定範囲の被曝した人を集計したものを対象として時間経過によって変動する様態を観察した資料に基づいてする分析。

(文章中では、「横断分析」、「時系列分析」を以上のような意味でつかっている。)

                                                  2011 5/21


 161.「御用演劇人」


 最近は、「御用」と名の付く者達が其処彼処でその全貌を惜し気もなく見せてくれる。演劇界にも数多くの「御用演劇人」がいるが社会的にもそれ程の意味もなく害もないので問題視されることもなかったというのが実情であろう。「芸能界」などは敢えて「御用」などと付ける必要もなく、大方は実質的に茶坊主である。ここで登場してもらうのは、よくマスメディアにもにこやかに顔を出す野田秀樹と平田オリザである。野田は、少し前「アエラ」の表紙に抗議した文章そのもので彼自身の存在証明をすると同時にその姿勢と立ち位置を様々な関係性の中で明らかにした。その内容は要するに原発事故による放射性物質の拡散について、その危険性を必要以上に「煽っている」ことに対する抗議であった。これは政府・東電・学者が原発の「安全性」がさらに崩されることに神経質になり、正当な危険性に対する警鐘さえも封殺することに躍起になっていた時期でもあった。抗議文からはそのような動きと一線を画するような見解はまったく見られず、むしろ、「煽り」そのものに対する感情的な反発が不自然に全面的に出ていた。実際に、野田は原発推進派の都知事・石原慎太郎との関係もある。原発推進派とは産・官・学に広範囲なネットを持つ組織の一員とも言えるのである。今やその組織の一角が崩れ始めている。

 さて、平田については以前ブログでも取り上げたが、今回のソウル市内での発言は当然であろうと思っている。平田が内閣官房参与として、ソウル市内で「東京電力が福島原発から放射能汚染水を海に捨てたのは米国の要請だった」と言ったことについて、どの程度の確証があったかも定かではないが、これで東電、政府に対する責任追及をかわすつもりであったのであろうが、ここでもうすでに完全に権力構造に取り込まれているのが見て取れる。それについては平田を擁護する政治レベルの「穿った見解」もあるようであるが、どちらにしても、それは政治ゲーム愛好会の「穿ち組」、「深読み組」の領域で本質的なことではない。

 真の芸術とは敢えて言わない、すべての芸術は本来、根本的に「反権力」なのである。

 茶坊主に成り果てた者達に一体何ができるというのか。

※中曽根康弘とレーガンの日本での会談を仕切ったのは浅利慶太(劇団「四季」)であるが、彼の場合は「演劇人」と言うよりは演劇実業家と言うべきであろう。

                                                       2011 5/20


 160. 坊主をり くわえタバコで 位牌書き


  このような時代というものは、地に堕ちた者同士がどこかで結託していると見えてあらゆる領域でさまざまな形で問題が一気に噴出してくるものである。例えば、日本仏教界なども葬式仏教と言われて久しいが今もって大方がその通りである。そして、相も変わらず日々見聞きすることと言えば、儲からない「生もの」は相手にしない葬式仏教そのもの(これは完全な本末転倒である)、その一つ一つを述べ連ねるのも億劫なので七五調で流す。

棺(ひつぎ)背に くわえタバコで 位牌書き

布施(ふせ)せがむ  坊主外車で 通夜法話

葬儀せず 寺と葬儀屋 ぐるになり

門前に 殺猫剤まく ご住職

 これは俳句でも川柳でもない。ただ、気になる事象を五七五で留め置いたまでである。

                                                    2011 5/18


 159. 滅亡の時ーメルトダウン「開始」、どこまでのカウントダウンかー


  すべての楽観論は虚偽である。

そうかと言って「悲観論」で身を苛むのも愚かである。ただ、それが実情であるということを認めざるを得ないと言うことである。

しかし、私が生きている時に、実際に人類滅亡の序曲に直面するとは思っていなかった。チェルノブイリ、スリーマイル島、福島原発事故、そして今後も続くであろう原発事故と、人間には実質的に不可能な放射性物質の後始末。このままでは、もはや日本の、世界のどこに逃げても無駄であろう。せめてもの「幸せ」は人類滅亡の最終章にいなかったことくらいであろうか。今、私は「人間」のここまでに至る「愚かしさ」、「醜悪さ」、「狂気」を徹底的に見据えてから死のうと思っている。だから、取り繕われたすべての軽々しく明るい嘘に自ずと身は添うことを拒み、叛く。それは汝の偽りごとのために我が時を奪うなという思いでもある。「人間」の愚かしく狂った脳髄の様を、そして、我々人類が地球にとって如何に「悪質」な生物であったかを見届けてから死ぬということは、同時必然的に「人間」に辛うじて残されている「良質部分」の抽出、検証ということにもなる。単細胞的に陥りやすい安っぽい「人間讃歌」は危険であると同時に、明快な世界観の欠如した楽観論が虚偽であるように虚偽である。

                                               2011 5/13(金)

<現在、消失箇所確認再生中>


158.瞬時によぎる振幅(4)ーこの項は別枠として同時進行ー 


〇「パニックになるのを恐れて真実を伝えなかった」?それは嘘である。まず第一に、政権・既得権益崩壊を恐れてのことである。その代償として今後も多くの被爆者を出し続けるのである。パニックを恐れて「ストレートな報道を手控えた」にしても限度がある。当初の政府発表の避難地域は「念のため半径3キロ」である。この直後にアメリカは半径80キロを提示している。以前にも言ったことであるが、相手は「怪物」である、人間ごときの「浅知恵」、「狡猾さ」、「小手先」、「小細工」などで収まる対象ではないのである。たとえパニックを恐れて操作された嘘であろうと、嘘はその日の内に覆される。今やこの「怪物」の息の根を止めることはできなくなっている。福島は完全に死地となりつつある。そして、いまだに住民はいつか戻れると思っている。これでいいのか?これは地域住民を騙していることであろう。

 このまま突き進めばチェルノブイリどころではなく、世界最大の原発事故となり得ると思っている。

                                                               (5/17)

〇「一つになろう日本」、これを聞くたびに鳥肌立ち、虫唾が走る。要するに、この標語自体が手の施しようもなく、とんでもない欺瞞性に満ちているということである。これで納得できる者達、こういう標語でしか動けない者達とは何時の時代にもいる、簡単に為政者に取り込まれ同調する自分自身がない者達である。

〇国と一体化している「日赤」、「ユニセフ」は信用できないので、「国境なき医師団」に東北大震災の義援金を送った。以前、黒柳徹子もユニセフ親善大使などと称してジャーナリスチックに「活動」していたが、これもユニセフの広告塔の役割を果たしただけの単なる演出された偽善的行為であったと言うしかあるまい。そうこうしている内にユニセフはいつの間にか立派な「自社ビル」を建ててしまった。その金は一体どこから出て来たのか?我々の支援金であろう。私も一時期「ユニセフ」には支援金を送っていたので裏切られたという思いが強い。

                                                         (516)

〇今、フランスでは・・・

 原発大国でもあるフランスでは、福島原発の成り行きに神経をとがらせていて、日々絶え間のない論争が続いているらしい。日本とはえらい違いで、どちらが当事国なのか分からない状況である。そして、4月の段階で、彼らにとって日本はもはや偲ばれる国となっているのである。

                                                       2011 5/12

<現在、消失箇所再生中>


 

 

 

 

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