両忘の時‐ある日、その時‐

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「ある日、その時」 (7) 2011年3月27日ー

 


<掲載内容>  

136.Au sujet d'un accident de centrale électrique nucléaire   137.日刊ゲンダイ1面ー5面について 138.野田秀樹が「アエラ」表紙に抗議したそうだが・・・ 139.瞬時によぎる「振幅」(1) 140.専門家という盲(めしい) 141、国家的犯罪から世界的犯罪へ 142.「計画停電」という戦略 143.瞬時によぎる「振幅」(2)144.ー鎮魂歌ー145.マッドサイエンティストとマッドマーチャントと 146.突然、文明が滅びる時 2011 3・11ー 147.老いたるは皆かしこかり・・・148.チェルノブイリのレベル以下、以上の愚かな議論 149.振り切れた針 150.おかしな話、おかしな論理 151.放射性物質は垂れ流し・・・152.Non pas un murmure・・・153.瞬時によぎる振幅(3) 154.オバマよ、お前もか・・・155.私のブログに対する姿勢 156.暗鬼を生ずるものは

                                                  (転載・複製厳禁) 




156.暗鬼を生ずるのは疑心ばかりではない


 疑心 暗鬼を生ず、とは言うが暗鬼は疑心からのみ生じるわけではないところが厄介なのである。それは「平常心」などと一般的に言われている状態ですらその間隙を縫って「暗鬼」は生じるのである。信じていればそのようなことはないということ自体がすでに「暗鬼」に取り込まれていることもある。すなわち人間という「境涯」にあり続ける限り「暗鬼」と「語り続ける」より他に生きる道がないということになる。もし、その「暗鬼」が消失した瞬間が<あり続ける>のなら、それは「成仏」(必ずしも死を意味するわけではない)の時か、「鬼畜」「修羅」そのものになっている時であろう。その判別は「欲望」の度合いである。「私心」の濃淡である。

                                                   2011 5/7


 

155.私のブログに対する姿勢


 むやみに謙虚になるつもりも、そうかと言って傲慢になるつもりもない。日々心に浮かび上がってきたものをそのまま自由に書き連ねているだけである。私はツイッターの多くの者が他者に求めているような共感、同意、交流、手応えなどにはさして興味がないというよりあまり必要とはしていない。時代の社会の変転についてその都度の思い、感じ、考えを一市民として伝えることが私にとっては一義的問題で、それをどのように他者が捉えようがそれは各自の自由で、私の問題ではない。ある時は適度に謙虚に、またある時は適度に傲慢に、そしてさらに大胆に、それが自由に書くということである。その姿勢に関しては微塵の揺らぎもない。ブログをはじめてそろそろ2年、原稿用紙で1000枚程にはなったであろうか。今後もこうして書き続けていくであろうからどの位の枚数になるのかとも思う。最近はさらに書くペースが速くなってきているが、それが良いことなのか、悪いことなのか、それも私の問題ではない。

                                                     2011 5/7



※ 節電はテレビから、ライフスタイルをシフトさせる絶好のチャンスである。



154.オバマよ、お前もか・・・


 ノーベル平和賞などというものが、どれほどの意味があるのか知らぬが、ビンラディン「殺害」でさらに意味をなくした。このことでアメリカは確実にまた報復の危険性にさらされる。なぜこのような戦闘の火種を周期的に撒き散らすのか、それは周知のようにアメリカ社会内部に巣食う銃器産業を抑えることができないのと同様に、軍需産業自体の構造的要請であるからである。オバマの「弱腰」を批判する者の多くは軍需産業関係者であろうことは容易に推定できる。今、アメリカはアルカイダの報復を待っている。そして、国際的に大義名分が整ったところで、全面介入、すなわち戦争である。それで、10年程で蓄積された兵器が一挙にはけると同時に開発兵器の実験である。しかし、今回アメリカはイスラム世界に対して大きな「ミス」、「挑発」を犯してしまった。ビンラディンを水葬にしたことである。これについては、イスラム教スンニ派の最高権威機関アズハルの総長顧問は「水葬はイスラム教に反する」としている。これでアメリカはアルカイダを殲滅させるどころかイスラム世界全体を敵に回したことになる。ビンラディンは飽くまでもイスラム教徒なのである。それについての米高官の「引き取り手がなかった」などという釈明がどこまで通用するのか。それ以外の見方にも無理がある。近々、火の手は上がるであろうが、「信仰者」と傭兵の戦いで、どのような最新鋭の兵器を持ってしても最終的に傭兵が勝利することはない。

 ビンラディン「殺害」で歓声を上げている余りにも単純で愚かしいアメリカ国民には微塵の共感も持ち得ない。そして、また多くの血が流されるのである。これでは亡くなった者達も浮かばれまい。

 オバマが暗殺されない理由がよく分かる。既得権益側の白人の言うがままの成り上がり傀儡政権で、黒人の階層を完全に裏切っているからである。オバマは単なる黒い帝国主義者であった。                                                

                                                                                                                                                2011 5/3

 なぜそうなったか、一つにはオバマが2期目を射程に入れた時点で、保守共和党の「オバマはイスラム教徒」、「オバマは反戦運動家でホンネはアメリカを守る気はない」などのキャンペーンを何としても封殺する必要があったからである。それが今回のビンラディン殺害である。まんまと軍需産業に後押しされた共和党とその過激な突撃隊「ティーパティー」の謀計にはまったと言うよりはなるべくしてなったと言うべきなのであろう。

 オバマが自己の無実を証明したかのように、ビラディン殺害を伝えた時、マスメディアが「一般市民」の歓喜のごとく取り上げている跳ね上がった共和党支持者以外は、何かある種の「異様さ」を感じたのは否めない事実であろう。ノーベル賞審査委員会はオバマに授与した「平和賞」を剥奪するべきである。それはオリンピックのメダリストも不正があれば後日メダルを剥奪されるのと同様である。そうでないと多くの人々はますます混乱することになるだろう。もっとも「ノーベル平和賞」などがその程度のものと認識している人々にとってはどうということもないことではある。しかし、 今になって、アメリカがこれはイスラム世界に対する攻撃ではないなどと弁明したところでもはや虚しいことだとどうして気がつかないのか。もうすでにアメリカは全イスラム世界を敵に回しているのである。ビンラディンのイスラム教に反する屈辱的な葬り方に対してイスラム圏のすべての者が表向きはどう言おうと反米感情を持つのは当然のことであろう。今更何を言っても遅いのである。無防備の者を最新鋭の武装集団が奇襲して、殺害、その上相手の「武将」の死を辱める。たとえどのような戦闘であろうと後味の悪い誇れる戦いではないのは事実。アメリカは大きな禍根を残してしまった。

                                                          5/4 


153.瞬時によぎる振幅(3)ーこの項は別枠として同時進行ー


〇「日本沈没」、「日本滅亡」などと言われて久しいが、それがさらに現実的なものとして差し迫ってきているというのが昨今の実感である。この国がそれを選び取っているのだから如何ともし難い。

〇俗に言う三大新聞社説の低俗さ加減

 その確証・根拠のないものをあたかも既成の事実であるがごとくにしたり顔で展開するその「お話」にはすべてに渡ってひとつひとつ引っ掛かる。こんなものを読んで分かったような気になっている者達の気が知れないのである。これでは世界の情況分析を根本的に見間違うことになるだろう。今、そのすべてを具体的に取り上げ逐一検証したら一社の社説についてでさえ恐ろしく長い文章となってしまうのでここでは避ける。

〇震災によって日本科学未来館の天井も崩落した。日本の科学未来を象徴しているかのような出来事である。この地震大国日本で天井の崩落は想定されたものではなかったようだ。私には「想定外」などという言葉が通用すること自体がいまだに解せぬ。世が世なら「想定外」は自己の無能と同時にそのまま死を意味した。そして、その国は滅んだのである。この言葉を平然と発する一本線が抜け落ちているような御仁達には「想定外」とは命と引き換えだということが分かっていないらしい。もし、その「想定外」が「想定内」だとするなら、それは万死に値し、亡国の徒ということになる。                                                                                                            

                                                                                                                                                       (5/6)

〇「アメリカは何様のつもりでいるのか」、「堕落した官僚ども」、「地に堕ちた大マスコミ」、これは巷でよく耳にする言葉である。もっともである。アメリカは世界の「正義」だとでも思っているようであるが、いつかその鼻っ柱をへし折られる時がやってくるのであろう。少なくともアメリカの隷属国家である今のままの日本ではそれに加担することすらできまい。日本の官僚組織については、もはや根底からひっくり返すことでしか、日本が真に前に歩みだすことはあり得ないのであろう。そして大マスコミ、彼らが地に堕ちているなどということは今に始まったことではないが、その常軌を逸している様にはもはや呆れ返ってものが言えない。

 

〇ビンラディン殺害についてコロコロ変わるアメリカの講釈・釈明で、アメリカがイスラム世界からの反発に対して動揺していることが見えてくる。ビンラディン殺害に関してアメリカは何とでも都合のよいようにでっち上げることは可能である。どちらにしても加害者側の見解だけを鵜呑みにするのは「普通」ではない。それをそのまま取るか、どこまで検証・推理するかで世界情勢の解読に生じてくる誤謬の度合いが違ってくる。

〇最近よく耳にする「罪もない一般市民を巻き込んで云々」、「罪もない」などと形容詞までつくと「一般市民」などがあたかも「純真」、「純粋」の代名詞のように思われるがそうではない。常に何らかの形でどこかに関係して、それに拠って立っていている以上「純真」、「純粋」ではあり得ないのである。私自身はテロを認めるわけにはいかない世界に生きてはいるが、「一般市民」という「特別な領域」があるわけでもなく、罪があるかないか知らぬがそのような「在り方」自体が実は世界中どこにも存在しないということをあらためて確認しておいた方がよいだろう。したがって、戦場であれば非戦闘員を巻き込むことはあっても「罪もない一般市民」というものが意味するものを巻き込むという事態は起こり得ないと見るべきである。

〇死人に口なし、殺害者の言いたい放題である。ビンラディン殺害についてアメリカの講釈は飽くまで殺害者側の一方的な講釈に過ぎない。その内容をそのまま事実であるがごとくに載せる無能な「新聞屋」さん達は今やまったく無意味な存在に成り果ててしまった。ビンラディン殺害について、裁判にかけるべきだという意見があるようだが、それはアメリカの実情を知らな過ぎる理想主義的原則論で、ビンラディンを「裁く」ほどアメリカの刑事司法文化は成熟もしていないというのがアメリカの情況に精通した識者の見解でもある。現に、ビラディン殺害で歓喜する保守派共和党支持者、共和党極右の「ティーパーティー」グループの様を見ていてもその単細胞加減には呆れ返ってしまうが、それがアメリカの実情である。やはり、アメリカは最初からビンラディンを裁判にかけるつもりなどなく、ビンラディン抹殺が最大目的であったと見るべきであろう。ビンラディンは、ブッシュと言うよりはブッシュをバックアップしていた巨大利権組織の罠を明確に把握していた可能性もある。そうだとすればこれは完全な口封じと、さらなる挑発でもあろう。

                                                                                                                                         (5/5)

〇政権のサポーター朝日、毎日、読売、テレビ、これらは政権マスメディアで、まったくジャーナリズムではありえないことを肝に銘じて読み取るべきである。 

〇原発推進を中心的に担ってきた渡部恒三よ、いつまで三文芝居を続けるつもりなのか。そんなどさ回りの三文芝居が通用する時代は終焉した。あなたは国民を騙した国家的犯罪者なのである。潔く去るなり、責任を取るべきである。あなたを見ていると、放火しておいて火事場で逃げ惑う人々の様子を見て講釈を垂れている放火魔を彷彿とさせる。こんな政治屋を事あるごとに登場させたテレビなども同罪である。

 

                                                                                                                                             (5/4) 

〇これぞまさに明晰な状況分析と的確な判断をした指導者・社長の一例であろう。

「2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、弊社福島県育成牧場分場が被災に遭いました。幸いにも管理馬・社員に怪我はありませんでしたが、その後の度重なる余震や、食糧・水・ガソリン等の入手が困難な状況、そして、福島原発から69kmの位置にありましたので、放射能の恐怖にさらされてしまいました。政府の発表にも疑問を感じ、弊社はいち早く避難をすることを決断し、3月19日までに競争馬100頭・従業員30名とその家族の移動を完了しました。ー後略ー。  株式会社 吉澤ステーブル 代表取締役 吉澤克己」

                                                                                                                                                       (5/3)


152. Non pas un murmure mais un fait  et


 Même maintenant l'argent recueilli pour une oeuvre de charité n'a pas été donné à la région ravagée.(Fukusima)

Pourquoi est-ce que la distribution de l'argent pour les sinistrés est en retard ?

Maintenant le gouvernement participe à la distribution de l'argent recuilli pour une oeuvre de charité.

Et  beaucoup de gens ont la méfiance dans le mouvement du gouvernement.

La matière radioactive est toujours versée dans la mer.Ce n'est pas un problème de Japon mais un problème dans le monde.

Je crois que le désastre de centrale électrique nucléaire Fukusima a tourné en  site de l'expérience d'un désastre de centrale électrique nucléaire commode pour les Etas-Unis.

Il n'y a pas d'homme politique au Japon. politiciens partout    C'est une honte!

En tout cas il faut s'en tirer tant bien que mal aussitôt  que possible

                                                                                                                                                                           

                                                                                                                                       2011 5/1                                                                       


 151.放射性物質は垂れ流し、義援金はいまだ配分されず。前代未聞の無策政府に何の動きも見せない議員とジャーナリズムを放棄した大マスメディア。


 こんな時だから事を荒立てず様子を見ようなどと言っている場合ではない。少なくともそのようなことで何かができる政府ではない。それは有能な指導者がいる場合に限るが、この政府はちょっと見れば分かるがムチャクチャなのである。今に始まったことではないが、この国がいかにずる賢い無価値な者達によって牛耳られてきたかがよく分かる。要するに彼らは二枚舌の亡国の徒に過ぎなかったのである。

 福島県はもはやその美しい大地と海を取り戻すことは決してない。そして、その山の幸や海の幸も以前のように味わうことはできない。そのことを明確に把握して置かないと、亡国の輩の無思慮な行為によって残された大地さえも侵されかねない。こうしている間にも時々刻々放射能汚染は進んでいるのである。生存の危機に瀕している。福島県民は立ち上がるべきである。そして、言うべきことを徹底的に言うことである。あなた方には第一義的にその権利がある。

 世界の日本国民に対する褒め言葉は、その多くは良くも悪くもその国の為政者の思惑を反映している。問題が起きても実におとなしく、何度も変更される国の間違った指示にも従順に従う、彼らにとっても御し易い最高の民に見えるのであろう。したがって、その褒め言葉をそのまま賞賛の意味だけで捉えることには問題があるというのは言わずもがなで、一方では「普通なら」抗議するのが当然であるにも拘わらずよくぞおとなしく「羊」のようにしているものだという驚きと不可解さの入り混じっていた思いがある。

 議員諸君よ、大マスメディアよ、あなた方の存在意義はもはやない。これほどまでに地に堕ちた姿をまざまざと見ることになろうとは、歴史に残る、記すべき失墜である。そうでなければこの国は世界でも稀に見る忌まわしき「秘境」ということになる。

 裏で蠢く、アメリカの意のままである森派の諸君と官僚と、それに操られ右往左往している菅とその周辺、それでは「政策決定が場当たり」になり、「誰が決定しているのかが明らかではない」というのも当然であろう。そこには独立国家日本の姿はどこにも見えない。今や実質的にはアメリカの属国なのであろう。このまま行けばその内にアメリカの州の一部になることであろう。アメリカ合衆国東洋州日本。それでもいいのか、悪いのか?それが問題であろう。

                                                                     20111  4/30


150.おかしな話、おかしな論理


 原発推進派の都知事石原慎太郎が、さすがに息苦しくなったのであろうか、何日か前に自動販売機を撤去して、パチンコ屋をなくせば原発1基分位の節電をできると言い出した。それに対して蓮舫が、それで生活している人達もいるので云々などと言ったそうだが、それで何か言ったつもりになっているのことが不可解。私は石原の政治的スタンスからは真っ向から対立するが、自動販売機とパチンコ屋に対する問題提起は理解できる。むしろそれに対して「それで生活している人もいるので簡単に切り捨てることはできない。」などと言っていること自体に大きな問題があると思っている。人間は常に間違える、だから間違った方向に進んでいると思ったら思い切って軌道修正しなければならなくなる時が必ず来る。その時点で、それで生活している人がいるから云々では済まされないのである。具体的には違う受け皿をきちんと設けて業種を切り替えてもらうということである。「そこで生活している人がいるから切捨てられない」式の話では、必要とされない危険な原発も「そこで生活している人達がいる」から作り続けることになる。ミサイルも、原爆も「それで生活している人達がいるから」切り捨てられないということになってしまう。今後、自動販売機やパチンコ屋などのあってもなくてもいいような「無駄」な電力消費でさらに原発を必要とするような事態になるのであればそれは絶対に避けるべきなのである。

チェルノブイリの現状を見ても、「悪魔」に加担したその代償は余りにも大き過ぎる。我々はまだまだ電流も放射性物質も食することはできないのである。

 日本では、原発を推進してきた渡部恒三という厚顔無恥な「政治屋」が国会でぬけぬけと福島県民に対して同情の意を表する三文芝居を演じたようだが、さもありなんである。この男も「悪魔」に加担した男である。テレビにもよく顔を出した男であるが、今までテレビに登場した者達はほとんどが「悪魔」に加担した者達である。すなわち、テレビそのものが「悪魔」に加担しているということである。

                                                             2011 4/29


 


※節電はまずテレビから、そして身も心もリフレッシュ、ライフスタイルをシフトさせる絶好のチャンス

テレビ、新聞に絡め取られず、見ざる、聞かざる、思うところを主張する。それでいいのだ。


149.<振り切れた針が戻らなかった時>


※何を言ってみても、どのようなもっともらしき言説を展開したところで原発は悪魔の誘いということに変わりはない、人間ごときに御せる代物ではないのである。原発推進派とは悪魔の手先と成り果てた亡者の群れのことである。一旦彼らに身を委ねたらもはや世界に未来はない。後は廃墟を待つだけである。原発が世界の趨勢なら世界の滅亡は不可避なことなのであろう。それを回避するには悪魔と手を切る方向で具体的な方策を探るより仕方あるまい。

※節電はまずテレビから、呪縛から解放され、ライフスタイルをシフトさせる絶好のチャンスである。報道を分かりやすく伝える番組ほど胡散臭いものはない。そのほとんどは分かりやすく歪曲、捏造されているので細心の注意が必要。まんまと引っかかれば、毒の糖衣錠を飲まされるか、自殺も明日はわが身ということになる。

※「三大新聞」不買の勧め、買って読んでは彼らの手の内。現政府と一体化している彼らの言説にジャーナリズムは存在せず、単なる政府の宣伝広報紙で,真の情報源には決してなり得ない。そんなものは買って読む価値はない。取り敢えず彼らを封じ込めるには徹底した不買行為であろう。見ざる、聞かざる、そして正当な権利を主張する。見せられるのも、聞かされるのも嘘であったならどこまでその真偽を正せるか、もし正すことができないのなら残された正当な権利のみを拠り所に判断すべきである。もっともらしい詐欺師の論理に取り込まれたら命は危うい。「御用」と名の付く者達、「御用ジャーナリスト」「御用キャスター」etcそれは国民を騙す犯罪者の別名なのである。

※義援金は政府絡みの日赤、ユニセフは避けて、できれば被災地の状況を見て信用できる地元の組織にピンポイントで直接渡したほうが早いかもしれない。(何に使うつもりなのか、いまだに義援金は配分されていない。)政府は被災地のことなどはほとんど考えていないと見るべきで、たとえ考えていたとしても政治利用の手段としてのみである。こんな為政者に命を預けなくてはならない国民は悲惨である。

 ※復興支援と増税を絡める謀計

 増税だ、馬鹿も休み休み言え!馬鹿に付ける薬はないが、この際、放射性物質を封じ込めるコンクリートで固めるしか放射性物質の対応と呼応したような愚かしい動きを封じる方法はなさそうである。

 

 

                                                        2011 4/29



 148.チェルノブイリのレベル以下、以上の愚かな論議


 福島原発事故をチェルノブイリ原発事故と比較しての論議が多いようであるが、比較にはならないと思っている。すべての「科学的データ」と称されているもの自体が旧ソ連体制の隠蔽体質の中でのものでしかないにも拘わらずそれを基本ベースにさももっともらしい「論理展開」をしているものがほとんどで、まったく信用に足りるものではない。※今回の福島原発事故が初めて世界の視座に晒されて正確なデータを提示できる、日本にとっては悲劇的ではあっても、世界にとっては貴重なデータとなるのである。したがって、この福島原発事故は今後の展開次第ではチェルノブイリを遥かに上回るものともなり得るし、まったく予断を許さないと言うのが実情なのである。福島原発事故がチェルノブイリ以上などとはデマだとかそうじゃないと言ったところで、そのようなことはまったく無意味な論議なのである。そして、今までのあるかないか分からないような乏しい「科学的」データをいくら漁ったところで何をも言い尽くせないことを思い知るべきである。日本は,この「悪魔の科学」を御し得る程の技量も哲学をも持ち合わせてはいない。いまだに商人(あきんど)の論理だけでは成り立ち得ないことがまったく分かっていないのである。しかし、それが日本のすべてであり、それが現在の結果である。そして今、1000年単位でも取り返しが出来ないことが着実に進行しているのである。日本滅亡が具体的に目前に迫っている時に、原発に関連してそれで生活している人々もいるのだからでは済まされないのである。そのようなことはもはや単なる寝言戯言の類に過ぎないと言わざるを得ない。業種をシフトすべきなのである。

※原子炉内部の事故究明はもちろんのこと、今後30年程度の期間で徹底的な追跡調査をすれば放射線量と癌との関係も今までにない明解なデータを得ることができる。世界最大の原発保有国アメリカは千載一遇の好機とばかりに日本以上に調査を徹底的に行っていることであろう。あらゆる面での科学的根拠となり得るデータ収集を行っているはずである。 

                                                  2011  4/26 


147.老いたるは皆かしこかり この国に身を滅ぼすものすべて若人


 これは与謝野晶子の夫でもあり歌人でもあった与謝野鉄幹の歌である。なぜこのような歌を取り上げたか、すでに変節漢としてもその名を世間にとどろかせている与謝野馨の言動があまりに無恥で情けないので与謝野鉄幹、晶子の末裔などという血縁関係なるものがまったく無意味で何の関係もないものだという極当たり前のことに今更ながら感じ入ってしまったからである。具体的には、福島原発事故に関して与謝野馨は関係していたことについても、事故以後の現在においても何らの反省も謝罪すらしようとはしない。今も多くの原発作業員が劣悪な条件下で何時終わるとも知れない「戦い」を強いられているにも拘わらずである。そして、今もって声高にそのその「正当性」のみを唱える戦時中の狂信集団の頭目のような者達がいるが、与謝野馨も同類であろう。鉄幹に白刃もて迫られても不思議ではない人物である。

 原発関係者には以前より「原発教」とも言いうる何か根本理念の希薄な新興宗教のような「匂い」がするのを払拭することができなかったが(この点に関しては小泉政権時の「国立大学の独立法人化」にも関係してくるのでここでは詳細は避ける)、先月、原子力学会元会長らが「建言書」で、原発が安全だと言い続けたことの間違いを認め、被曝覚悟で30km圏内の1万5000箇所の放射線量測定に動き出したということである。そのメンバーのひとり放射線管理の専門家・柴田徳思(69歳、東京大学名誉教授)の曰く「この測定には若い者を行かせるわけにはいかない。自分達のような年寄りや、教授連中が行く。」これこそが指導者たるもの、または導き手でもあった知識人の最も重要な腹の括り方である。今、彼らの爪の垢を煎じて飲ませてやりたい輩が余りに多過ぎる。因みに、文化省の線量調査は計測地点が少な過ぎて不十分。

 

                                                                                                                                2011 4/20


146. 突然、文明が滅びる時  2011 3・11ー


われわれ人間は

多くの生けるものたちに

生かされている

牛に生かされ

魚に生かされ

草木に生かされ

時には猫に、犬に、小鳥たちに

こんな当たり前のことが

忘れさられる時

人間は人間の境涯を

忘れ去っている

そして、ある時、突然

文明を支えていた利器が

隆盛を極めた文明を滅ぼす

過去にも「誇らしい」文明があった

しかし、ある時突然姿を消した

今、文明が消え行く予感がする

そして予感は実感となって

立ち現れた

 

偽り人の巧みな言葉に頷くな

汝の言葉で真実を語れ

幇間のごとき言葉など

もはや誰の心にも届きはせぬ

 

なぎ倒された花々よ よみがえれ

土に返るには早すぎる

花の重みに耐え 起き上がれ

偽りの人の 巧みな歌に頷くな

大地の声を聞け、自らの心に問いかけよ

何が大切なのか、何が心安きことか

偽りの人は 須らく遍く(すべからくあまねく)亡者

その旗印は「欲望」と言う名の「希望」

その「希望」に光が射すことは決してない

 

                                                 2011  4/17

 

 


145.マッドサイエンティストとマッドマーチャントと


 今回の原発事故で日本にどれ位のマッドサイエンティストがいるのか具体的に判明したと同時にマッドマーチャントがいかに様々な組織と絡み付いているのかも明確になり、その全体像がより一層浮き彫りにされた。マッドポリティシアンについては今更言うまでもない。今後は原発推進派、反原発派を問わず世界の明確な「論理」に晒されることになるのは明らかで、単なる利害関係でしかない愚かな感情論、詭弁などは今までのようには通用しなくなるだろう。

 最近、日本原子力安全・保安院が福島第一原発事故の国際評価尺度を「レベル7」に引き上げたが、IAEAはチェルノブイリとは比較対象にはならないと強調して、レベル引き上げにに疑問を呈した。これは今までの経緯を見ても本来なら逆であろう。たとえIAEAがレベル7に引き上げっても、様々な「影響」を考えて日本側はレベル5を固持したのではないか、もし、実質的に「レベル7」であるなら日本側がIAEAに正確なデータを提示していなかったことになる。

 いずれにしても、福島第一原発事故以後、我々は何十年いや死ぬまで意識するしないに拘わらず喉もとに切っ先を突きつけられたまま生き続けるより仕方がなくなってしまったのである。その影響は日本全国に波及して行くことだろう。そこで出て来るであろう楽観的見解、能天気な思わせぶりな「ご意見」はすべて思い込みによるイルージョンか嘘であると思った方がよい。甘い言葉が常に犯罪的行為を秘めているのは何時の世も変わらぬことで、どこぞの好好爺のような「御用」学者、ジャーナリスト、評論家の「迷調子」を取りとめもなく流しているテレビなどと同調していたらそれこそ思考回路は寸断され、焦げ付き、機能しないまま朽ち果てるより他あるまい。

 したり顔の学者諸氏の「ご意見」は、ほとんどその科学的根拠として提示されたデータでさえも疑問点が多く、どうしてその程度のことを科学的根拠として展開、結論付けられるのかが不明なのである。さらに言えば科学的根拠として提示された多くのデータそのものがある領域の確率でしかないにも拘わらずそれを根拠に絶対命題のごとく言い切る。そのこと自体が非科学的なのである。絶対に「安全」、これはまったく根拠のない非科学的な言辞であると同時に「人間」の傲慢さをよく表している。私に言わせれば単なる阿呆なのである。

 今、思いついたままに言えば、放射線とがん細胞の関係がよく取り沙汰されるが、そもそもがん細胞自体も完全に解明されている訳ではない。がん細胞の病理学的分析などと言っても、要するにがん細胞の形態上に類似点を見出しているに過ぎないので見逃している場合も大いにあり得るということである。放射線についても、その放射線量、その照射時間も不明瞭のまま、さらに、未知な領域にあるがん細胞発生との因果関係を的確に把握することなどは不可能と言ってよいだろう。しかし、放射線が細胞に多大の影響を与えることは事実で、放射線量が高くなれば細胞の癌化は明確に捉えられるだろう。ただ100ミリシーベルト程度の放射線量では100人に1人か2人にがん発生が見られるなどとは言っても、そこでは何人かの者が見逃されている可能性は否定できない。またこのようなデータには経過時間が抜け落ちていて、3年後には10人、5年後には20人になっている可能性もあるのであるが、その調査はなされていない。実際このような追跡調査を正確に行うことは不可能に近いのである。そして、放射線の影響はがん細胞だけではない、奇形、奇病など言われているものにも関係しているが、それについてもまだまだ不明な部分が多い。現在、一般的に科学的根拠と言いながら、語り得ぬことまで敷衍していることに気付いていない者、若しくは気付いていても敢えてそれを詭弁で糊塗する者達があまりに多過ぎる。厳密な意味で果たして科学的根拠足り得るものが存在し得るのか。今、改めてそれを問いたい。

  真実は常に隠されているの。なぜなら、そこに人間の取り留めのない欲望があるから。

                                               2011  4/12

 

 

 

 


 144.被災地の方々へ捧げる ー鎮魂歌ー


荒れ果てし わが故郷

奪い去られし 爪あとだけの

街並みは 涙こらえて佇めば

回り始める 走馬灯

悲しみは夕陽に向かい船を出す

軋む(きしむ)想いは揺れ揺られ

軋む(きしむ)音にも涙がこぼれ

ああ、過ぎ去りし日々よ

去り行きて戻らなかった人々よ

漕ぎ続け 漕ぎ続け

漕ぎ続け どこまでも

そしていつかは あなたのもとへ

 

※福島は私の亡き母の生まれ故郷でもあり、会津藩士の流れを受け継ぐ祖父は村長をしていた。彼らが今の福島の惨状を見たらと何と言うだろうか。村民から慕われた義人であり武人であった祖父は少なくともこの福島の現状に黙ってはいなかったであろう。 

                                                                               2011 4/11


143.瞬時によぎる振幅 (2)ーこの項は別枠として同時進行ー


〇総じて、なぜテレビには見るべきものもなく、何から何まで白々しいのか、それは小賢しく、ずる賢い嘘ばかりであるからである。もし彼らが目の前にいたら何を言い出すか分からない。若き日には、愚かしくも灰皿をテレビに投げつけブラウン管を壊してしまったこともあったが。今、落ち着いて見ていられるのは競馬の実況と案内者の登場しない風景くらいであろうか。心を徒に千々に乱すものには近づかぬ方が賢明なのであろう。(5/2)

〇テレビは知らず知らずの内に脳髄を破壊し、思考を寸断させ、愚かしいイルージョンに誘い、見る者を意のままに操り(見る者にもよるが)真の自由に恐怖感を抱かせ、みすぼらしい空間に閉じ込める。それが人生というのであればそれもよかろう。しかし、それが無味乾燥な生ける屍の人生であることに間違いはない。実に哀れである。                                                (4/29)

〇政府の巧妙な増税戦略、国民はまた騙されるのか?復興支援と彼らの増税戦略とはまったく関係ないと見るべきである。彼らの誘導尋問は徹底的に拒否しなくてはならない。これ以上騙されてどうするのか?ここに至っては「こころ優しき日本人」はいまだ目覚めぬ秘境の民と同義語となってしまう。そして、その多くは滅び行く絶滅品種である。                                                                                  (4/27)

〇地に堕ちた「朝日新聞」、こんな新聞を読んで納得している者達がいるとは!日本もあわれ狂っている。冷静さを完全に欠いている。この新聞のどこにジャーナリズムが存在するというのか。他紙も大同小異であるが、特に「朝日新聞」は狂った内閣と歩調を合わせて日本を崖っぷちに持って行こうとしている。菅は完全に狂っているマッドポリティシアンの典型である。もはや強引にでも引きずり降ろすか、封じ込めるしか手はあるまい。

※現在の朝日新聞の幹部、記者、論説委員は全部チェックしておく必要がある。「増税会議」に出席している元朝日新聞論説委員・高成田享・仙台大学教授なども要注意である。       (4/26)

〇節電はまずテレビから、そして身も心もリフレッシュ。ライフスタイルをシフトさせる絶好のチャンス。

(政府、東電の末端広報機関の流すものを観ていてどこが面白いのか、不可解。百害あって一利なし。)

〇東京都知事をはじめ原発推進派の諸君には目先の欲望に走って日本沈没の時期を早めることのないようにくれぐれもお願いしたい。もうすでに1万年単位で福島原発周辺は元に戻ることはことはないのであるから。

〇節電で街に適度な闇が戻りほっとしている。今までが明る過ぎたのである。もはやこれ以上電力は必要あるまい。これで充分である。軽薄な電飾の世界も終焉の時を迎えた、パチンコ屋も自動販売機もなければさらに快適である。 テレビも同様で、民放などは金を貰っても観たくはないものがほとんどである。愚民政策の名残か、国民を完全になめている。

                                                      (4/23+)                                                                                                                                                         

〇自称東電新入女性社員

ネット上で東電擁護をぶち上げ、騒動を起こしている者がいるようだが、実際にこのような社員はいるであろう。東電はどんな阿呆でも関係者のコネで入れるところでもある。当然この手の内部意識を知る意味では格好の手合いが登場してくる。この女社員はネット上で「電気を使えるのは誰のおかげですか?文句あるなら電気使うな!」、「普通の人は東電頑張れと応援してくれてます。」、「批判する人は自分で原発に行けばいいんじゃないですか!」などと言っているらしい。言っている内容、知能レベルは小・中学生以下で、やはりコネで入ったような漢字の読めないテレビ局社員と同レベルであろう。私はこれを愉快犯の仕業とは思わない。これは東電の根本的なところにある意識であると思っている。どのように平身低頭して謝罪しても変わらない意識である。それがたまたま押さえのきかない、単細胞の者の口からもれたに過ぎないが、それを粉砕し、彼らを完膚無きまでに切るにはまず我々自身のスタンスをライフスタイルをも検証し、切り取らなくてはならない。我々自身に、肉を切らせて骨を切るくらいの気概がなければ彼らの薄笑いは当分続くだろう。

  簡単なことで、要は必要以上の利便性を追求しないことである。電力会社の戦略以外の何ものでもない「オール電化」など愚の骨頂なのである。それはあらゆる分野で言えることで、単一性を志向した時点で事が起これば「全滅」することが容易に起こり得るということである。現に電気が使えなければもうそれで終わりであろう。

                                                          (4/25)

〇「ひとつになろう日本」?どのようにひとつになるのか?訳の分かったような分からぬようなこの手の標語は危険でもあり、一体何を言いたいのか不明な言辞の典型の一つでもある。試しに、この意味を人々に聞いてみればいい、おそらく各自ばらばらであろう。それが結果的に現政府とひとつになることなら、そうしたいと思っている人達はほとんどいないであろうし、たとえいたとしてもそれは極稀な人々である。(4/22)

〇「1人じゃない」、嘘をつけ。今まで何人の者達が一人で息絶えたのか。瓦礫の中から足だけを天空に差し出している遺体の前で、野ざらしの前で「1人じゃない」と言っているようなもの。,いつまでも政府広報の「お手伝い」のようなことはせず、政府などとは関係なく各自が、各集団が出来ることを精一杯すればいいだけのこと。義捐金、支援金などもできれば政府が介入している日赤、ユニセフなどは避けて確実に、出来るだけ早く被災者の所に届く確実な組織を捜すべきであろう。  (4/20)

〇大手3大新聞の内容は単なる特定機関の広報の類で見るべきものはないが、最近は週刊雑誌がジャーナリズムの本道に戻りつつある。たとえば、「週刊現代」、「週刊ポスト」etc 少し前は(特に「小沢問題」の関連記事)これらの雑誌の記事内容もほとんど見るべきものがなかったが特に大震災以後記事内容が変わってきている。3大新聞、その系列新聞、テレビなどではもはやまったく期待できなくなった1歩も2歩も踏み込んだ、切り込の鋭い本来のジャーナリズムをそれらの雑誌記者達には期待したい。また期待できると思っている。ジャーナリスト魂をどこまで燃焼させるか、それが勝負であろう。                                    (4/19)

〇東電への抗議行動が毎日のようになされて、逮捕者まで出ていると言うのにテレビ報道などはまったくなされず、どこか白々しい変に明るい話ばかりで埋めつくされている。これはやはり異常である。大手1社(東電)に独占されればこうなることはわかり切っている事である。もはや報道の自由など画餅で、特定組織、若しくは政府広報であると思って見ていた方がよい。ほとんどは狭い視野での社会の極一部の切り取りだけで、重要なことは報道されないと見るべき。そうしないと選択を誤る。  (4/19)

〇Les marchands fous ruinent ce pays. Ils n'ont pas une capacité de diriger une crise.

Dans ce cas les marchands sont les personnes impliquées dans une centrale électrique nucléaire.

Les marchands fous  les scientifiques fous  les politiciens fous  Ce pays sera ruiné par eux.

Et maintenant  ce pays ne tient qu'à un fil.

                                                                                                                                                (4/18)

〇東電・政府の茶坊主たち

様々な分野から限りなく現れる東電・政府の茶坊主たち、こんなに茶坊主どもが群がっているいるとは思わなかった。余程美味しかったのであろう。何を言おうが、何をしようがすべては商人(あきんど)の腹積もり次第。どちらにしても茶坊主も走狗もその行く末は同じであろう。                                                       (4/17)

〇もはや政府の発表することなどほとんどの者が信用してはいないと言った方がよかろう。国の認定基準値、暫定基準値などと言ってはみてもそれがまったく当てにはならないことは多くの者が知っていることである、自らの責任で出来る限り調べ、考えて行動しなくてはならない時にきている。知らない、分からないでは済まされない、そんなことをしていては命がいくらあっても足らなくなってきている。情報不足は否めないが、原発被災地周辺の住民がいまだに原発が終息して我が家に帰れると思っているようだが、もはや帰ることなどできないのである。それは死地に赴くようなものである。新たな土地を見出すしかない、それが現状である。それを否定し得る科学的根拠など皆無に等しいのである。もし、そのような者がいるとしたらそれは詐欺師である。

                                                                                                                                                

〇腹括ることもできぬ者達が会議ばかりをして言うこと為すこと痴れ者のごとく。「様々な意見を聞いて」いる内に被災者は見殺しにされているのが現状である。この恥知らず者たちによってこの国は滅びるのだろう。現内閣、菅、枝野、岡田、千谷、その他、そして東電社長清水正孝の傲慢不遜な態度は万死に値するが、それを許しているのも政府の腰抜け達の所業である。彼らを決して許してはならない。彼らを許すことはこの国を将来を閉ざすことになる。目先の「あめ」に絶対に手を出してはならない。何としても彼らの策略を殲滅させなくてはならない。

〇自動販売機の撤廃、パチンコ店の節電に賛成する。この程度で原発の供給分を補えるのであればこれ以上原発を増やすこともなく、大いに結構なことである。個人にのみ節電を強いるのではなく、こうした電力消費の多いあってもなくてもいいような余計なものを真っ先に節電、撤廃するべきである。日本は今、憂慮すべき危急存亡の事態に立たされている。個人のライフスタイルの検証もさることながら、該当する会社、関係者は違う業種にシフトすることを考えたほうが賢明である。都知事はどんどん推し進めるべき、ついでに無駄な電力消費の典型である民放の2つ3つも潰してもらいたい。

〇また「希望」の安売りが始まった。

それは「希望」と言う名の「欲望」である。それもほんの一握りの者達の取り止めもない欲望である。その欲望のために犠牲を強いられるのはまた「国民」なのである。

〇マッドポリティシアン ーこのような政府は不要、増税などとんでもないことであるー

 被災地で活躍する民間レベルの支援活動には目を見張るものがある。もちろん、消防、自衛官達の活躍もある。しかし一体、政府は何をしたというのか。いざとなれば民間、海外の協力頼り、被災地の人々は1か月も経つというのにいまだに食事も満足に食べられず悲惨な難民状態である。さらに義捐金も行き渡らず滞ったまま、何のための義捐金なのか。「一丸となってがんばる」?何を言っているのか!一番がんばらなくてはならないところがやるべきこともせず。被災地の人々を見捨てているのであろう。

 つくづくこのような政府はない方がよいと思われる。税金など取る資格のない政府である。増税などとんでもないことである。

〇国民の苦渋に満ちたしたたかな選択?

選挙前(知事選)、巷に溢れる声は投票すべき人がいないということと、民主党に対する嫌悪感である。ここまで露骨にことごとく国民の期待を裏切った政党は前代未聞であろう。今回のこの結果は自民党が返り咲いたということではなく、多くの場合単に他にいなかったと言うことに過ぎないだろう。実質的には、この国の政体は官僚独裁機構と言った方がよいようなもので、自民であろうが、民主であろうがその機構そのものに切り込める政治家がいない限り、巧妙度の競い合いだけで国民に対する姿勢は結局のところ朝三暮四である。どちらに転んでも国民は今までのようにただ口を開けて待っているだけでは済まなくなる。

 しかし、今回の都知事選、今までにも況して投票すべき候補者がいなかった。これだけ、原発事故が世界的規模で問題になっている時に、原発推進派の旗手のような存在が「大差」で当選するとはまったく解せないものがあるが、そうかと言って他の候補者がいくら脱原発,反原発を唱えてみてもその実効性はほとんど期待できない。むしろ原発推進派である「機を見るに敏」な石原慎太郎がメルトダウンのカウントダウンの中で今までの原発推進を如何にソフトランディングさせるかを見た方がその責任を取らせる意味でも「面白い」のかもしれない。もし、そこまで読んでいるのならしたたかな選択とも言えるが、実はそうではあるまい、まだまだ民主主義政治などというものには程遠いと言わざるを得ない。

                                                                                                                                         (4/11)

〇原発「安全」キャンペーンに使われるアニメの不気味さ

それは一言で言えば「人殺し」を「ポワ」と置き換えるに似て、限りなく軽いことからくる薄気味悪さである。それは目に見えない、質量すら感知しえない放射能と同様に、何のリアクションも、手応えすら感じ得ないない「殺し」の不気味さである。

 

〇天皇の被災地訪問

収束の見通しは立たずとも、政府がやるべきことをして国民もある程度の納得ができている時に天皇が被災地訪問をするのでれば人心の慰撫としても効果は見込めるのであろうが、政府に対する不満が右肩上がりに膨れ上がっている時に天皇を登場させるとは、政府による天皇の政治的利用がここまできたかという思いがした。政治的不手際を天皇の「存在」で補完しようとする稚拙な作為が透けて見えてすべてが逆効果であった。この一点を見てもこの政府の底を知らぬ恥知らずな振る舞いが留まることを知らないことがよく分かる。これもいつか見た光景ではあったが今は異質であろう。

〇変動時に見える風景

 あまり見たいものではないが、このような時期には人の醜悪な部分と同時にその真価、ほんものかニセモノかがはっきりと見えてくるものである。実際にもうかなりの個人、組織の実態が明るみに出され明確になってきた。見えてくる時にはいやでも見えてくるものだというのが昨今の実感である。

〇人が嘘にて生きる世に

 世の中が右往左往している内に、国会ではネットを監視、チェックする法律を成立させている。風評被害、デマなどを防ぐためなどともっともらしいことを言ってはいるが、やっていることはどこぞの国と同様で、要するに言論統制、監視である。そうであるなら国民の側も国に対する監視をさらに強固なものにすればいいだけのことである。風評被害などを前面に押し出して、その統制、監視について国民の納得の得られるような方向に持って行くつもりなのであろうが、そもそも風評被害などは政府が正確な情報を流し、きちんと対応していればある程度抑えられたのである。それを怠った結果が現在の風評被害である。言ってみれば政府が起こした風評被害とも言えるのである。ある「御用演劇人」がそれに関連して、デマの怖さについて関東大震災時のデマで多くの人々が殺された例を挙げていたが、そのデマを流したのは実は官憲であったという説もあることを知っておくべきであろう。国民の知らぬ間に着々と事を進めている政治家不在の「民主体制」はどこに行くつもりなのか。言論統制、監視を強める政体とはどちらにしても民主制からはかけ離れてくる。この国はやはり実質的に独裁的官僚主義国家と言った方が一番適当なのかもしれない。そうであるから「ウィクリークス」的な動きになり得るネット上の交信を必要以上に警戒しているのである。しかし、この「世界的動き」はもはやどのようなことをしても止めることはできないことを知るべきであろう

 〇「御用演劇人」とは

「御用学者」、「御用評論家」、「御用ジャーナリスト」がいるように演劇界にも「御用演劇人」がいる。「御用学者」達が研究費欲しさに東電、政府に尻尾を振り、その隠蔽工作に加担するように、「お国」の文化行政と「足並み」揃えて、経済的援助を受ける一方で、いつしか「お国」の広告塔、もしくはその尖兵、走狗と成り果てる演劇人のことを「御用演劇人」と言う。多くは製作費が充分に確保されているので、その程度はできて当たり前という作業がほとんどでそれ以上ではない。

                                                2011  4/7ー4/8ー 4/10


142.「計画停電」という戦略


 「計画停電」なるものが、政府、東電、原発関連諸機関による戦略であることは今更言うまでもないことであろう。彼らは国民にきちんと丁寧に通知するこもなく、一方的にかつ必要以上に勝手に電源をつけたり消したりしているというのが実情に近いと思える。なぜそのようなことをするのか、それは明白であろう。国民に国策の一環である原発がなくなるとこういうことになると思い知らせなくてはならないからである。しかし、それはやりすぎると抗議行動を起こさせることにもなりかねない、そうかと言ってやらなければ、今度は原発などなくても済むものだと思われてしまう。その兼ね合いを考えながら、つけたり消したりしているという方が現実的には理解しやすい。なぜなら供給電力不足ということが今もって具体的に見えてこないからである。それについては今実施しているような規模の「計画停電」が本当に必要なのかという意見もあり、また今やっているような大掛かりな停電を国民に強いることなくほんの僅かな節電で事足りるという実例を示したものもあり、供給電力が足らないという数値が計算上合わないという意見もあるのである。確かにある量の供給電力が突然なくなったのは事実で、不足分を何とかしようとすることも分かるが、問題はどのような不足分が生じたのか、またその補完作業自体の内容である。そして、今度は夏場に向けて供給電力不足が生じることが叫ばれているが、それは必然的にやはり原発がないとクーラーさえも使えないと思い込ませる操作ともなる。このことですでに原発事故が夏になっても収束しないということが暗に示されたことになるが、それだけでは済まないということはもはや周知の事実であろう。巧妙なマインドコントロール数々、やはり彼らが日本全土を死地と化す亡国の輩であったとは。

                                                    

                                                     2011 4/6


 141.国家的犯罪から世界的犯罪へ


 福島原発事故の初動のミスから始まり、現在(4/4)までの経緯を見ていてもまったく人災以外の何ものでもないにも拘わらず東電、政府はその放射線量については「直ちに人体に影響を与える放射線量ではない」などと未だに能天気なことを言い続けている。しかし、着実に「最悪の事態」に突き進んでいるのは明らかであろう。仮にその寸前で抑えられたにしても長時間に海洋に流出した放射性物質は計り知れない量で、三陸海岸沖にある寒流と暖流がぶつかる潮目という魚の宝庫とも言える領域はもはや存亡の危機に瀕している。それどころではない今や確実に放射性物質は世界の海に拡散しているのである。東電、政府、原子力安全委員会は検出された数値に対して人体に影響する数値ではなく海洋に出れば薄まるなどと言っていたが、放射性物質が継続的に流出した場合、自然界の生命体の中でその数値がどのように加算されて行くか、蓋然的な数値さえ提示できず、それとも敢えてしようとしないのか、もしできないというのであるなら「安全」であることに明確な科学的根拠がないということになり、「1年間食べ続けても0.6ミリシーベルト以下で許容範囲内」などという一見具体的でありながら現実的ではない机上の数値で片付ける訳にはいかなくなる。どのような魚をどの位の量を食べるかも明示されないまま、ペットでもあるまし「1年間同じものを食べ続けても」などと言ってみても現実的には意味のないことなのである。どちらにしても、風評被害ではなく実害として、日本の魚の宝庫に点在した漁港は壊滅的打撃を受けるか消滅し、いずれ日本の食卓から次第に魚の姿は消えて行くことだけは確かであろう。それだけではない、世界の漁港にもかなりの被害が出てくることは必至で、さらに原発事故に対する今までの政府、東電、原子力委委員会の対応が明確に世界にさらけ出されれば、その時点で日本へのエールは憎悪に変質しているだろう。今、世界は自国の「安全」を維持するためにも、なす術もなくうろたえる日本国政府に協力しざるを得ない。このまま放置されたらその被害は世界規模で拡大して、それに伴う損失も計り知れないものとなるからである。その内に、東電、政府、原子力安全委員会の国家的犯罪とも言える行為は世界的犯罪行為として追及されることになるだろうが、その時には、それまでの隠蔽工作もすべて白日の下にさらされ、日本の測定基準値は世界基準とは違うなどと、狂信集団の戯言のようなことは言ってはいられなくなる。

                           

                                              2011  4/5


140.専門家という盲(めしい)


 今更、敢えて書くほどのことでもないが、このところ否応なく目に入ることが多いのでついまた書き出してしまった。

 専門家、学者と称する者達の意見、見解を聞いていても腑に落ちるということなどはとんとなくなってしまった。むしろ疑問点ばかりが増えていく。なぜそういうことになるのか、学者のレベルの問題はさておき、一つには専門家、学者と言われる者達が多くの「知識」を持っていることでかえって一瞬たりとも留まらぬ現実そのものを「在るがまま」に把握し切れないということ、そして持っている「知識」そのものが「創造的に、あるいは想像的に機能しなくなるか、逆に「知識」それ自体が疎外する方向に働くからであろう。そして、そのようなことに振り回されているだけというのがどうも実情のように思える。そして、彼らが「これは個人的な意見ですが」と条件付きで話す内容に辛うじてその「息遣い」を感じる程度である。もう一つは、現在この種の者達が一番多いのだが、「御用学者」と言われる人々である。たとえば今回の原発事故でもその安全性だけを強調するためにだけいるような存在である。彼らが拠って立ているところが「産官学」路線であるからその見解は聞くまでもなく、「真理」などは二の次、「産官」のためなら根拠のないことでも平然と「作り上げて」しまうような、肩書きはあっても果たして学者と言えるかどうかも不明な者達である。このようなことについては枚挙に暇がないが、原発関係の記事の中からたまたま手にしたものを取り上げてを見ると、プルト二ウムは過度に恐れる必要はないという前原子力安全委員会専門官の武田邦彦(中部大学)の一見客観的かつ科学的な言説があるが、今その疑問点を探ってみよう。「今まで原爆工場事故や末期がん患者への実験投与など、10以上の集団被曝事例を多くの科学者が研究しましたが、軽度のプルトニウム被曝で発がんしたと科学的に判断された例はありません」この文章で彼が言いたいことは、さまざまな実験をしてきても軽度のプルトニウムの被ばくで発がんしたと科学的に判断された例はないということだけである。それではその疑問点とは、まず「末期がん患者の実験投与」とは具体的に何をしたのか? 「10以上の集団被曝例」10以上とは実際に何名の被爆者を対象としたのか? そして、10程度の事例で何が結論づけられたというのか? 多くの科学者とはどのような科学者か?「軽度のプルトニウム被曝」とはどのくらいの線量か、その数値は、またその照射時間はどのくらいで設定されるのか。さらに、がん細胞の実体そのものががまだ不明瞭にも関わらず、どうして「プルトニウムの被曝で発がんしたと科学的に判断された例はない」と言い切れるのか?その「科学的判断」とはどのような判断か、具体的に示してもらいたい。まだまだあるが、ここではここまでにして置く、わずかこれだけの文章でこうである。この教授には原発の付近に住んでもらい、プルトニウムは体内に取り込まれても99.5%以上が便などとして排出されると言っているのであるから「健康を害さない程度に」プルトニウムを飲んで戴こう。それが身を持って証明することである。体内に残った0.5%のプルトニュームが気になるところだが、それについては何の説明もしていない。一時が万事なのである。

 ※武田邦彦(中部大学) 「御用学者」から国民の側の視点にシフトしたようだが、完全には抜け切ってはいない。まだ軸足は原子力推進派にある。その言説には上記のような不明な言辞も多く、論点のすり替えなどもみられる。因みに、彼は東大教養学部基礎科学科卒で原子力工学の専門ではないが、原子力関係で「教授」の肩書きを持つ者はすべて「御用学者」であると見てよい。なぜなら現状では「御用学者」と言う在り方でしか、どのように優秀でも「教授」にはなれないからである。テレビに出て来る教授などはすべてこの類で、現状認識が欠如している「安全信仰」派である。武田邦彦ですらテレビ出演依頼がないということであるからいかにテレビが無益なものかが分かる。 

                                                   2011  4/4

 

 


139.瞬時によぎる「振幅」 (1) ーこの項は別枠として同時進行ー


〇「原発教」と言う名の金に群がる狂信集団

 福島原発事故以来、政府並びに原子力発電所の関連諸機関とその「ご利益」に与る「学者」、「専門家」などの「御託」はとても聞いていられるものではなかった。これは世間にまかり通っている「学者」、「専門家」とはいかにいかがわしい存在であるかを多くの人々に見せ付けたと言ってもよい。今こそ、誠実な学者諸氏は声を大にして現在の在りのままの真実を告げない限り、その存在意義自体が問われることになろう。

〇「ひとつになろう日本」? もっともらしいが、軽佻浮薄の偽善者の響きがする。「ひとつになる」ということがどいうことなのか、それで何か言ったつもりになるのではなく、現実的にそれが何を意味するのかもう少し考えるべきであろう。そして、その標語のもとに行われるキャンペーンがやるべきこともやらない政府の民間頼みを増長させ、正当化するだけのことであってはならないし、またそれが当然抗議されてしかるべき内容を封殺する方向に働くのであればさらに問題が出て来る。

〇それでも原発の「安全神話」にしがみつく者達よ

米倉弘昌(日本経団連)、石原慎太郎(都知事)、そして、有象無象のテレビ「学者」達・・

 あなた方が原発の周囲半径30キロメートルに住居を構えるのであれば信用もしよう。そうでなければ日本原子力研究開発機構が1993年に作ったPRアニメのようにプルトニウムを飲んでその安全を証明するのが筋であろう。話はそれからである。「安全」と言っているのであるからそれくらいのことは容易であろう。そうでなければ今まで嘘をつき通してきたということになる。少なくとも原発の「安全」を訴える者、推進派は、その家族も含め半径30キロ圏内に住むか、プルトニウムを飲むか、それくらいのことはしてもらわないともはや話は先に進まないのである。それ以外に何を言っても、本来なら説得力もなく、嘲笑されるのが落ちなのである。しかし、「利」のために四六時中何とか相手を丸め込むことだけを考えている者達である。次にどのような手を打ってくるか、騙されるな路傍の草の花々。

 (原子力PRアニメについては、日刊ゲンダイ4/4  より)

 

〇菅の被災地視察は、これは「歴史に残る」大災害と記念撮影をしたいという一心の表れであろう。この男が「歴史に残る」という修飾語を遣ってこの「大災害」を語った時、この男の顔にはある種の「歓び」さえ仄見えた。これは歴史に名を残すためであるなら何でもするという「歪んだ人格」形成の道を選んでしまった者達共通の劣悪極まりない回復不能な根源的「心情」である。例えばアドルフ・ヒットラー、ハインリッヒ・ヒムラー・・・・etcサダム・フセイン・・etc・・・。しかし少し前にも、ヒットラーの「我が闘争」を偉人伝だと思って小学生の子供に買って与えていたという馬鹿な母親がいたが、それもまた愚かしい現実の一面である。そう思わせたのも実はマスメディアなのである。今考えられる最善の方法は、彼らを忌まわしき無様な標本の一部として、冷徹に「明確な形」として残すに留めるべきで、不用意に歴史に登場させることは避けねばならないだろう。

〇政府広報のような「がんばれ、日本」、タレント、役者、etc揃いも揃って君達には言われたくないという者達ばかり。海外のエールなら分かるが日本人が「がんばれ、日本」ではないだろう、「がんばるぞ日本」、「助けるぞ、日本」であろう。一体どこにいるつもりなのか。こういう者達にとってはおそらく火の粉が飛んできても「対岸の火事」なのであろう。「買いだめはやめて」と言う前に、「正確な情報」をきちん伝えるべきなのである。政府の落ち度を国民の協調性のない「エゴ」にすり替え攻め立てる陳腐な手法はもう止めた方がいい。「官民一体」となって?「官」は助かるはずの多くの人々を見殺しにしただけであろう。今以て義捐金の配分さえ決まっていないと言うのに何を「視察」するのか。そんな事は国として打つ手をすべてやってからのことであろう。やるべきこともせず政治的駆け引きに明け暮れ、ここらでひとつ「視察」でもと言う程度のこの変節漢の所業は大方の国民にはすでに読まれてはいるが、それにしても真底恥知らずな人間とはこういう人間のことを言うのであろう。こうした政府の動きを見るにつけ本当に義捐金は被災地のために使われるのかという声さえ聞こえてくるのが今の実情である。要するに、何から何まで信用されていないのである。 

〇絶対「安全」だと言い続けて、原発事故が起これば後始末もできず、右往左往の狼狽振り。その挙句に「どうしてよいか分からない」,これはもう万死に値することでもあろう。時折、登場してくる「学者」の解説も、その存在意義と同様に何とも虚しい。菅直人、斑目春樹、石原慎太郎、その他の関係者(原子力安全委員会など)は国家的犯罪者であろう。徹底的に糾弾されてしかるべき者達である。因みに、日本原子力委員会はIAEAの見解を否定しているが、これも信用できない。彼らは日本向けと海外向けに、いとも容易く報告内容を使い分けることなど朝飯前である。今までの経過を見ればどちらを信用すべきかは分かり切ったことであろう。なぜ政府はIAEAの指摘を無視して避難、退避圏内を広げないのか、それをすると避難民が膨れ上がり金がかかるからである。人の命の「保障」より金の心配である。官僚達のそろばん勘定に合わせた言動で、それ以外の根拠はほとんどないと言ってよい。モニタリングをしながら何を検討しているのかも不明である。、また何人もの死者が出るのをモニタリングしてからの話なのであろう。

  3月30日になって東電は原子炉を廃炉にする方針を発表、今頃廃炉にすることを決定するということはまだ使う気でいたのかと思うと空恐ろしいことである。だからアメリカの初動の協力を拒否したのである。アメリカでも問題視されていた欠陥原子炉を安く購入して危機管理もろくにせず「安全」と言い続けて地域住民を騙してきた罪は極めて重い。

〇「専門家」を含めて様々な選択肢を検討して、ある段階で政治判断をする。もっともらしい政府の「ご意見」であるが、これではすべてが後手になるのは当然で、何をやっても勝算はない。因みに政府が言う「専門家」とは多くの場合、「官僚」であると思って間違いない。何をやるにも「官僚」と相談する政治家不在の独裁的官僚政治であることをここで改めて確認するべきであろう。

〇3月28日、ようやく海外の医療活動(イスラエル)が開始された。それまでにもすでに何か国から申し出があったが、日本の医師免許がないという理由で活動させなかった。因循姑息な「官僚」の介入である。彼らはその間に何人死のうが知ったことではないのである。

〇「自主避難」、これもこの国のというより「官僚」の「せこさ」を如実に物語る対応である。自己の判断、責任で避難してくれということで、それについては後はどうなっても、たとえ死んでも知りませんということである。この「国」とはこんな「国」だったのである。身を捨つる祖国はありやである。国民は思い知るべしである。

〇被災者はおにぎり1個で耐えているというのに、毎回テレビに出て来る枝野、並びに政府関係者は日増しに肥え太り、被災時と何ら進展のない無意味な虚しい記者会見を繰り返している。何を質問しても結局モニタリングして検討しているということで終わってしまうのである。おそらく彼らは日本沈没の直前までモニタリングをしているのであろう。こんな輩と付き合っていたら体がいくつあっても足りない。彼らは、この忌々しき一大事にまったくやつれる気色も、やせる様子もない,けだし不可思議である。「精一杯やっている」、「命懸けで」、「努力している」などとは言ってはいるが、なぜかすべてが空々しくリアリティをまったく感じさせないのは、その肉付きのよさ、血色のよさである。これでは、この一大事に菅、仙谷やらとまた飲みながら食いたい放題やっているのだろうと勘ぐられても仕方あるまい。少なくとも保安院の方は相変わらずの訳の分からぬ報告をしているが、日ごとに顔が黒くなってきて、「原発焼け」かと思わせる妙な不気味さがある。それにしても東電、安全保安院のていたらくは想像を絶するひどいものであった。

〇原発に対して山火事の消火並みのことしか思いつかない「専門家」、「学者」諸氏。それでもまったく手に負えないのが現状であろう。完全に確実に収束させる手段も持たず、効果的方法を聞かれても答えることと言えば、結局のところ「水をかけ続ける」ことくらい、そして、その後に出てきた「アイデア」たるや、原子炉周辺を放射性物質が飛散しないよう布で覆う、さらには樹脂で固める、その内に神主でも登場して来るのではないかと思われる有様である。また一方ではこの期に及んでなお「千年に一度の大災害」云々とその「安全性」について言い訳がましいことを言い続ける往生際の悪い詐欺師の集団がいるが、彼らはもはや亡国の輩、国家的犯罪者でしかない。

 初動ミス、そして原子炉に冷却水を注いでいるポンプ車の燃料切れによる中断、放射性物質の測定値の計算ミス、呆れ返る程の幼稚なミスの連続、もはや危機管理がどうのこうのというレベルではなく、まったく話にならない状態である。その内に作業員も逃げ出すであろうから、後の作業は原発推進派にやってもらうしかあるまい。「絶対安全」と言い切ったのである、それこそ命を懸けてやってもらいたいものであるが、こういう輩に限って我先に遠隔地の逃げ出しているのである。今後マスメディアにはこういう輩の追跡調査を徹底的にやってもらいたいものである。

 こんな状態のままいつまで空中に、海洋に放射性物質を垂れ流しているつもりなのか。これではその内に世界中から損害賠償を迫られることにもなりかねないだろう。もうすでにレイキャビク(アイスランド)で海水から放射性物質が検出されているということである。やがてサンフランシスコ、ロサンゼルスにも至るであろうし、さらに広範囲に世界の海に広がって行くことであろう。世界では「直ちに影響がない」、「飲み続けなければ影響がない」、などの詭弁は通用しない。

 海外の日本の原発事故に対する協力も、実のところ、そのあまりのひどい日本の対応に見ていられなくなってのことであろう。これは日本だけの問題では済まなくなってくるからである。何ともみっともない、情けない姿である。世界に、国民に,おんぶに抱っこの要介護国家、自分で始末もできないものに手を出すな!

                                     2011 \ 3/30 \ /  3/31 / \ 4/1 /4/2ー


138.野田秀樹が「アエラ」表紙に抗議したそうだが・・・


 時々「アエラ」はチェックしていたが、今まで野田秀樹が「アエラ」に連載していることも知らなかった。「アエラ」の表紙が風評被害を広めると批判された問題を受けて「アエラ」の連載を降りるということである。改めてその「東京よ、冷静になれ」と題した連載ものに目を通したが、逆に野田の拠って立っている姿勢、立ち位置が明解に見えてきた。そもそも「冷静になれ」などとは官房長官の枝野などや大手マスメディア、テレビなどが福島原発事故当初から繰り返し言ってきたことである。東電、保安院、政府などの不明瞭な対応、「正確な情報」も流さず、ただ、「冷静になれ」などとはとんでもないことである。これはさらに正確に言えば「おとなしくしていろ」ということに近い。野田はチェーンメール、ツイッターにかなり煩わされているらしく、それは古いデマゴーク以外の何ものでもないと言っている、確かにそれらには問題点もあるが、ただその「決め付け方」からは野田の立ち位置が明らかに既得権益側(この場合東電、原発関連諸機関など)にいることが見えてくる。さらにマスメディアなどが何度となく図解入りで解説している放射線量と人体の影響をそのまま援用して、その「安全性」について述べながら、その報道について「冷静さを欠く報道の在り方」、「安易に恐怖心を煽るだけの姿勢」などと言っているが、それではいつ「正確な冷静」な報道なるものが存在したのか、正確な事実報道がいつ成し得たというのか。また、そのような報道の在り方が「悪い方向に導くもの」とも言っているが、その「悪い方向」とは具体的にどのような「方向」なのか。「反原発」のことを言っているのか?

 やはり、野田は自らも言っているように、能天気なものを書いていた方がよかろう。このようなことを書き出すとすべてにおいて隙だらけで根本的な姿勢が透けて見えて白ける。

                                              2011 3/29


137.日刊ゲンダイ1面ー5面について


 この日刊紙の1ー5面はよく取材して的確に焦点を絞って、時には荒々しい言葉を連ねるが、その内容には共感できるものが多くあり、執筆者も面白い。ただ、時折、折角の内容を台無しにする見出しがあるのが残念である。例えば、「赤い仙谷」、「市民運動上がりの青二才」(菅のこと)、これは逆効果で、むしろ褒め過ぎであろう。そもそもが「赤い」、「市民運動上がり」などの形容詞がすでにかび臭い死語である。仙谷などはどちらかと言えば「黒い」ほうだろうが、まあそれではインパクトがないだけの話であろう。それから「市民運動上がり」、これには実際に市民運動をしている者達は離れるのではないか。もっともこの日刊紙の読者にはそのような類の人間はいないのかも知れない。どちらにしても、赤くても黒くても、市民運動上がりだろが、役者くずれであろうが、物書きくずれであろうが、そんなことは関係ない、要するに政治的センスがあるかないかというだけの話である。「赤い仙谷」、「市民運動上がりの青二才」、これだけ見ていると戦争直後の「右翼」の機関紙を見ているようであるが、もはや「右翼」、「左翼」なども死語となってしまった。そのような片隅に追いやられてしまった湿った言葉を遣うよりもっと斬新な言葉で切り込むことを期待したい。

 

                                                 2011 3/27

 

 


136.Au sujet d'un accident de centrale électrique nucléaire


 Le gouvernement japonais montre encore seulement l'attitude imprècise à l'accident de centrale électrique nucléaire.La politique de Japon est substantiellement la politique par les bureaucrates.Par conséquent  le jugement politique qui doit être hâté est aussi  en retard parce que un politicien est la marionnete de bureaucrtes.Et puis la plupart des cadres qui appartient à l'organisation d'énergie nucléaire sont des bureaucrates précédentes .

 Maintenant encore il peut voir partout la dissimulation.Naturellement l'information exact n'est pas passée.

Les savants deviennent comme un négociant et ne disent pas la vérité.

Et il ne peut pas comprendre tout ce que les employés de TEPCO ont dit.

Ils négligent ses devoirs.Même maintenant  TEPCO n'a pas mesuré la matière radioactive d'une région du refuge. 

(TEPCO est la compagnie d'électricié qui possède  la centrale électrique nucléaire.)

Ce ministère est complètement incompétent et a trahi des gens dans toutes les significations.

 Et ce premier ministre est un traître sans précédent. Je ne pense pas qu'il soit normal.

Malgré tout le grand mass média ne critique pas ce ministère parce qu'il ne poursuit pas les droits acquis et intérêts du grand mass média. qui fait problème.

                                                                                       

                                                                                                              Suite au prochain numéro

                                                                                                                    2011 3/27           

 

                           

「ある日、その時」 (6) 2011年1月18ー

 




<掲載内容>

110.「空気を読む」者達に仕掛けられた罠   111.小沢一郎は利用されただけなのか 112.相も変らぬ大手マスメディアの扇動 113「.白い巨塔」を降りた医師たち 114,鳥越俊太郎 降板に見える嘘 115.官房機密費の行方と検察審査会の徹底検証 116.問答無用 117.ラ ノゼ 118.市川房枝を語る騙り119.雪だるまが消えた街 120.Politique de Japon 121.もはやネット上に匿名は存在せず122.封建的な圭角とは123.最近の民衆蜂起に思うこと 124.噂のようなマスコミ報道 125.内閣支持率17%??? 126.マルグリット・デュラスの「苦悩」 127.アルジャジーラとアルアラビーヤ 128.自然の猛威の前で 129.原発事故報道の疑問点 130.放射線の影響 131.国民に「冷静さ」を強いる無能な政府 132.今頃、「命懸けで立ち向かう」?! 133.今度は救援、復旧作業が遅れたことの言い訳か?134節電はテレビ局から <番外>菅(すげ)枝の 蓮(はす)朽ち果てて 迷い舫(ふね) 135. 風評被害 136.「放射能がなぜ怖いか・・・」音楽家・坂本龍一



 


136.「放射能がなぜ怖いか。その理由がわかります。」(音楽家 坂本龍一)


  これは柳沢桂子著「いのちと放射線」(2007年9/10 ちくま文庫)と言う本に坂本龍一が書いた所感である。この本の内容は「私たちは原子力に頼っていて本当によいのか。なぜ放射性物質による汚染は、科学物質とは比較にならないほど恐ろしいのか。放射能によって癌や突然変異が引き起こされる仕組み、大人より子供に影響が大きい理由を、生命科学者がわかりやすく解説」」した本である。すでに原発保有国になってしまっている日本の国民が危機管理の上からも、自らの生命を守るという意味からもしっかりと把握しておかなければならい内容なのであるが、「国策」の名の下に「甘い汁」に群がる者達があたかも「神の技」のごとくその「技術」を誇りながら「絶対的安全」をでっちあげ、そのような見解を封殺してきたのが今までの実情である。3年半前に出版されたこの本は現在、出版社には在庫もなく、絶版状態であるが、それだけではなく東京23区の図書館にもまったくないのである。普通ならどんなつまらない本でもどこかの図書館に1冊くらいはあるものであるが、それが驚くほどまったくなく、現在入手不可能の本になってしまっている。これは一体何を意味するのか。参考までに、東京都知事の石原慎太郎は原発推進派の旗手である。この本だけではないが、過去にもこのような事例はあった。その時も指摘追及されたある大手会社が出版された本を瞬時に買占め、人の目に触れることもなかった。こうした社会的に「影響」のあるものに対する実質的な「言論統制」は今も平然とまかり通っているのが現実なのである。巧妙な「あめとむち」の「悪魔の囁き」に乗るのはもうやめて「あめ」を相手に投げつけるくらいの「気概」を持って生きない限り、たとえ、一時「あめ」にすがって自分に「利」をもたらしたとしても、このままでは拠って立つ日本国全体が「崩壊熱」で崩れ去ることにもなりかねないということを肝に銘じるべきであろう。より賢明な選択が否応なく求められてくる。

 今回の見るも無残な福島原発の結果、そして、おそまつな事故の終息への経緯(現場で命懸けで終息に向けて作業をした人々のことではない。),どこを取っても、何を言っても言い訳の余地はない。

 

 

                                                                         2011  3/26               


135.風評被害


 火のないところに煙は立たずというのも風評であるが、火のないところにも煙を立たせるというのも風評である。風評被害と言う以上は後者であることは言わずもがなであるが、それは、私憤、愉快犯によるデマ、扇動に至るまで今まで様々な形で起こされてきた。そして、多くの者達が「火のない煙」に動かされてきたのも事実である。風評被害に対して「冷静な対応」を呼びかける政府、マスメディア自体も今まで不明瞭な「風評」、偏った不正確な情報、見解を押し付けてきたのも事実であろう。どちらにしても、風評の類に対しては受け取る側も「冷静」というより「賢明」な判断を余儀なくされるのである。そして、もしそれができなければ自分自身も悪しき風評の渦中に飲み込まれ身動きできなくなってしまうということである。

 農作物の放射性物質による汚染についても、一旦出荷規制、停止が出てしまえば、まったく放射性物質が検出されないものにまでもその被害は及ぶ。たとえば、ほうれん草と言えば「関係のない」すべてのほうれん草もシャットアウトするという類である。これは明らかに風評被害と言えるが、そのあまりの「冷静さ」を欠いた過剰反応に驚きもする。しかし、買う側に正確な信頼できる情報が流されていない以上、また賢明な判断能力がなければ、ある意味ではその反応は致し方ないものがあるだろう。そして、原発がある所ではどこにいても常にその危険性はあるということである。さらに、今回のような事故が起こり汚染されれば、その土地は復旧も再興も不可能な「死の大地」となってしまうことを明確に認識しておかなければならない。

 それから、今回の地震、津波の「大災害」について語る者が、誰が言い出したかは知らぬが、「千年に一度の」という表現を枕詞のように遣うが、これはまったく根拠のない言葉で、「想定外」と同様に人知の「浅はかさ」、「傲慢さの」の表れであると同時に、捏造した「安全性」が容易く打ち砕かれたことに対する「言い訳」でしかないことを押さえておく必要があろう。

                                                2011 3/25


<番外> 菅、枝野、蓮舫、仙谷・・・

      菅(すげ)枝の  蓮(はす)朽ち果てて 迷い舫(ふね)

      迷い舫 千石積みて 沈み行き

      沈み行く 国をとらえて 縄を綯う

              

           


134.節電はテレビ局から


 テレビ局は軽佻浮薄な番組を垂れ流しているよりは節電した方が世のためである。節電が死活問題になっている人々に対して節電の協力を求めるより、あってもなくてもいいような番組を流しているテレビ局が節電することの方が先決である。それが不可能なら、そんなことはあり得ないが、視聴者が今必要な情報以外はテレビを消すことである。これでいくらかでも節電ができる。現状は、供給不足は言うに及ばず、電気は突然切られる、原発は煙を出している、農作物、水道水は汚染する(現在は微量であっても今後は保証の限りではない),そこから派生する様々な問題、疑問を抱えて右往左往しざるを得ない人々の不安で充ちている。このような状況の中で誰が三文役者並みのニュースキャスター気取り、コメンテイター、タレントの話など聞く気になるのか。そんなことをしているよりもっと現地取材をするべきであろう。今、テレビの報道番組、その他の番組で節電以上の価値を見出せるのは極限られている。

 今後は、軽佻浮薄な番組は益々「白々しさ」を増すだけで、多くの者の共感を得ることはできなくなるだろう。今までの病的な「笑い」の希求そのものがそのまま絶望的状況の証左であったということに過ぎないが、今や、その「絶望的状況」を「甘受」することすら許されないというのが実情に近い。しかし、どういう訳か今まで以上にテレビの画面に出て来る者達が何か「未成熟な」、「奇怪な」感じがしてしまうのはなぜか、そして矛盾だらけの事象をどこでどのように整合させているのか不可解な「尤もらしさ」でまとめて納得してしまう者達、それらの様子はさながら世にも不思議な物語を見ているようでもある。

                                                 

  今回の原発事故で、この小さな豊かな文化を持つ日本国を取り返しの付かない破壊に導く者達の正体が鮮明になってきたのではないか。我々は利便性のみを追及するのではない自らのライフ・スタイルを真に検証すべく迫られている。

                                                                                                                                              2011 3/24


133.救援、復旧作業が遅れたことの言い訳か?


 個人の財産の問題もあるので、壊れていても泥だらけでも簡単には撤去できない、それをびくびくしないでスムーズに行うためには法的整備が必要ではないのかと言う法務大臣。それではその問題があったから今まで補給路すら確保できなかったとでも言いたいのか。この非常事態で生死を彷徨っている人間が数え切れなくいる時に、救助、補給のためにたとえ家屋を壊したり、排除したからと言って誰が咎めるというのか、もし、そのために「びくびく」して行動が取れなかったとするならば、「命懸けで立ち向かう」と言うのは口先だけということになろう。今後も政府の不手際で何人も死ぬことになるのかと思うとぞっとする。今に始まったことではないが、この国の為政者達は一体誰のために、何のためにいるのか?

 今回の大災害に対する一連の政府の動きに対して、いまだに「政府発表の指示に従って」、「政府も大変なのでしょう」などと政府擁護の発言をしながら「物資も人手も足らない」などと民間レベルに訴えているが、訴える方向が違うのではないか。政府がやるべきことをやってそれでも足らない部分を民間レベルが補うというのなら納得できるが、実情は逆である。

 そして、アメリカの福島原発事故の分析結果に多くの国民がいくらかほっとしているのが現状であろう。自国の事故の調査、分析を諸外国に頼らざるを得ないとは情けない話で、それまでの「政府発表」、「専門家」、「学者」、※「解説委員」などのマスメディア報道はほとんど信用されていないということである。それは無理もないことで今までが今までなのであるから仕方あるまい。根幹部分の改革をしない限り、今後もそれはますますエスカレートするであろうし、たとえ隠蔽してもすぐに世界の視野に入って来るので今までのような日本流ディベートでは隠し通せなくなるのは必定である。

            

※原発事故のテレビ報道の中ではNHKの解説委員・水野倫之の解説が最も誠実、的確であった。その他はすべて見るべき、聞くべき価値のある内容ではなかった。

                                   

                                                        2011 3/22                                


132.今頃、「命懸けで立ち向かう」?!


 巷から聞こえてくる声は、「馬鹿菅」、「阿呆菅」、「トロ菅」、「ボケ菅」、「ぶん殴ってやりたい」、「顔を見ると吐き気がする」、「首にロープをつけて原発まで連れて行って働かせたい」etcそのような声が其処彼処から聞こえてくる。念のために、これは「時」の「首相」のことである。そのように「呟く」人々の多くは被災者のことを考えて今はそれ以上は言わず、その気持ちを押さえ込んでいるようにも見える。被災したその日、どのようになるかはある程度は掌握できたにもかかわらず、国民にメッセージも出さず、2日も経って顔を出したと思ったらヘリコプターで被災地「見学」である。そんなことしている暇にやるべきことはあったはずであるが、それらのことも原因して初動が大幅に遅れ、その後も途方もない後手対応となってしまった。これに関しては原子力安全保安院、東電、関係諸機関すべてが該当するが、「基本的」危機管理が欠如してるとしか思えない。3/20になって漸く医薬品が送り出された。ここは一体どこの国なのか、補給路を断たれた激戦地か、これは明らかにいつまでも政治力学に現を抜かして者達の単なる初動、管理対応の初歩的ミスである。こんな初歩的ミスで全国民が危険に晒されているのである。巷の「呟き」には心底からの怒りが込められている。果たしてこの国に税金を取る資格があるのか。妄想都知事に迷走首相、ディベートだけの三文役者ばかりが亡者となった集団ではお先真っ暗である。今後、国民がマスメディアに踊らされることなく賢明な選択をすることが求められている。

  このような状況下ではその「人間」の「人間性」が否応なく丸見えになってしまうものである。我先に遠隔地に逃げる者達、被災地に救援に向かう者達、被災していながら救援活動を続ける者達、冷静に見続けながら今できることをいかにするかを考える者達、そこではどのような人物が信用するに足るのかが確実に見えてくる。

 それにしてもこの大変な時に政治家の被災地「見学」はやめて欲しいものである、ただ邪魔なだけである。政治家とは何んなのかもう一度捉え直した方がよい。現実的には、その救援活動全般を事あるごとに「妨害」して、すべてに渡って致命的な遅れを生じさせただけなのである。

 この原発事故を真に教訓化して「与太話」に惑わされることなく、全国の原発周辺地域の人々は明日はわが身と思って考えておく必要があろう。「自信」を持って「安全性」を訴える者は「御墨付き」の詐欺師だけである。取り返しのつかないことが起きることのないよう今はただ祈るのみである。

                                                    2011 3/20


131.国民に「冷静さ」を強いる無能な政府


 「賢明な冷静さ」を求める者であれば別であるが、政府が国民に必要以上に求める「冷静さ」とは「賢明な冷静さ」とはまったく別物で、むしろそのようなケースは稀といった方がよいであろう。それは、言ってみれば「お上に逆らわぬ愚直な冷静さ」とも言えるものである。「賢明な冷静さ」を求めるものであれば、要求する内容自体について「明解な」部分が多く、納得することは可能であるが、「愚直な冷静さ」を強いる者とは、内容的には「自己」の利害関係でしかないものを「必然性」を装って糊塗していることが多いので不明瞭な部分、すなわち嘘が多いということである。そして、その虚偽をベースに「論理」をでっち上げ、その間隙に「心情」をうまく練り込む作業で、自らに向かってくる「行動」を巧妙に封殺しながら悲惨な状況に置かれた人々に対して「冷静に」「静に死に往く」ことを強いるものである。

 たとえば、最近、政府は福島原発事故の諸外国の反応を「保守的対応」という訳の分からぬ言葉で括り、いとも「容易く」「片付けた」が、これで何が分かるのか。これについても「記者か?サクラか?」「選ばれた記者」達は当然のごとく質問しない。原発事故に対する「保守的対応」とはどのような対応なのか?またそのように言い得る根拠は何か?むしろ諸外国の反応の方が正常であって、日本の反応の方が異常なのである。今後は諸外国の分析を基準に考え、行動した方が賢明であろうと思われる。なぜなら、直接利害関係がないだけに、嘘は少なく、彼らにとっても自国の格好の研究材料になるので、その指摘は客観的で容赦がなくなるからである。それに反して、日本の「識者」諸氏はほとんどが当てにならないと見るべきであろう。研究費欲しさに「本音」(=真実)が言えない2流の学者の話などをいつまでもありがたがって聞いていても意味はないのである。彼等は実質的に政府の隠蔽工作に加担している者達ということになる。

 現在、日本には60基以上の原発(建設中、準備中含めて、運転中は54基)があるが、アメリカの1州、カリフォルニア州の面積にも足りない日本の国土でアメリカの半分以上の原発を保持しているのである。それこそ冷静に見つめればぞっとする光景である。目先の利に駆られた者達によって日本が滅び去る日は近いのかもしれない。

 世界各国から、的確に現在必要な救援物資(防護服、マスク、etc)が次々と送られてきている。これだけの量の原発事故に絞った救援物資を一国(フランス)で送れるということは危機管理体制がいかに整っているかの証左でもあろう。わが国では屋内退避指示を出しておいて、今もってまったくの放置状態である。多くの国は救援の手を差し伸べようとしているにもかかわらずいまだに受け入れ態勢も整わない。まったく国としての機能をなしていないと言える。そのことを察してか、阪神淡路大震災との規模の違いを説明することで現在の対応の遅れを言い訳しているような局の解説もあったが、何と恥知らずなことをやっているのかと思う。そんなことは被災日、少なくともその2日後にはその実態は把握できたはずである。そして想像力のある為政者であれば次に何が必要になるのか、どうなるかは読めたはずである。この政府はやはり心底無能な人々の集まりであった。さらに、原発に関しては以前よりあった恐るべき危機管理能力のなさが世界の前にさらけ出された。放射性物質にホウ酸を柄杓でかけた作業員(3か月後死亡)がいた東海村原発事故(1999年)以後も、実質的に何も教訓化されず、危機管理体制も充実されぬまま捏造した「安全性」にただ己の利害のためにのみしがみついてきた結果であろう。

 そして、気になることとして、政府が最近強調し始めたのが原発作業員、自衛隊、警察関係者が命がけで原発事故の終息に向けて努力しているということであるが、それは確かに大変な作業ではあるが、それと政府の危機管理の怠慢と危機管理能力の欠如は別問題で、それらは否定できない事実であることを明確に認識するべきである。現実的には危機的状況でしかないにもかかわらず「安全性」という机上の空論のみを強調するのは詐欺にも等しい行為である。さらに言えば利に目の眩んだ狂信集団の言動と同様であろう。この事故は山火事の消火作業とは訳が違うのである。相手はまだまだ未知の領域を秘めた悪魔的な力を持つ「怪物」である。その「気分」次第では一瞬にしてすべてを廃墟と化してしまうのである。

 今尚、民放のチャンネルからは、「バライティー」が映し出される。世界は笑っているいる内に終焉を迎えるという言葉が頭を過ぎる。少なくとも最期まで直視し続けたいものである。

 

                                                                                                                                          2011  3/17


130. 放射線の影響


 東京まで飛散した「微量」の放射性物質。政府、マスメディア関係者は「人体に影響のない程度」と言うことを繰り返し、レントゲン、CTスキャンを受けた程度などと具体例を出しているが、レントゲン、CTスキャンを長時間、必要以上に繰り返されることはあり得ないことであるが、現実にはそのレベルの線量を長時間浴びることになるのである。その照射「時間」を考慮せず、割り出された数値のみについて具体例を出して説明しても意味はなく、そのような「分かりやすい」比較で即「人体には影響を与えるものではない」と断定することには問題がある。分子生物学者の柳沢桂子は「いのちと放射線」(2007年)の中で<放射線はいくら微弱でも体内へのダメージは確実にある。特に小児、胎児への影響は計り知れない>というようなことを述べている。もし、それを否定するなら科学的根拠を提示しながら、もしくは踏まえて解説するべきなのだが、そのようなことはまったくせず、「見解」の相違程度で片付けて容易く「断定」する、それはもはや「思い込み」にも等しいことなのであるが、それを平然と行っているのが実情である。そして、たとえ今回の事故が原因であったとしても時間の経過とともにその因果関係は究明困難となる。

 今回の福島原発事故で、原発の「安全性」を常に訴え続け推進してきたことでも「有名な」東京都知事 石原慎太郎とその関係者も当然その責任を免れ得ないであろう。

 また、この大災害に対する被災者の「忍耐強さ」が世界的視点から好感を持たれたようだが、それは国家とはまったく別問題である。現在(3/16)に至っても被災地の声からは、国の「救済の動き」はまったくと言って程見えて来ない。この国は国家として体を成していないとも言えるだろう。被災地の各地からは、個人はもちろん知事レベルからも※「正確な情報がほしい」、※「国の救援を求める」という悲痛な声が聞こえてくる。このような事態を見て、これは国家として恥であると言った者もいたが、当然であろう。

 

※「正確な情報」 特に原発事故関係は政府、原発関係者の直接報道を聞いていても何を言っているのか不明な部分が多く、これでは不安になるのも当たり前である。(1)官房長官の記者会見にしても、説明は常に不明瞭で、記者も国民が聞きたいような質問をすることはなく、通り一遍で切り込みもなく、とても記者の質問とは思えないものが多かった。その後、避難範囲は3キロ、10キロ 20キロ と拡大し、 30キロは屋内退避となり、変更のたびに被災者は移動させられたがその説明はまったくなされていない。ただ、「落ち着いて」、「冷静に」では、いくら「おとなしい」国民でも不安が膨れ上がるのは当然であろう。屋内退避も政府指示であるにも拘わらず退避させたまま放置状態でライフラインはまったく確保されていない。これではそこで餓死せよと言っているようなものである。非常事態であるからいくつかの段取りのズレは生じるのは致し方ないが、もはやその限界は通り越している。こんな政府ではむしろない方がもっとうまく機能するのではないかとさえ思われる。もう見たくもなかったが、また、政府の無能な実態が露呈した。

 被災地は1週間も経過してなおあらゆるものが不足しているにもかかわらず、蓮舫「担当」大臣は「買いだめ」の状況の視察と称してスーパーの視察である。その間にも多くの被災者は衰弱し、どれだけの者が死んでいるのか。これでは被災者は助かったまではよかったが今度は生き地獄である。

 今後、二次災害を最小限度に食い止め、回復に向かったとしても、それは民間レベルの救援と海外の協力を抜きにはまったく考えられないことであり、政府のやっていることは被災者をただ死に追いやっているだけで、すべてに於いて問題がある。

(1)官房長官の記者会見は、政府側が選んだ記者しか会見室には入れなかったらしい。然もありなんである。

 

※「国の救援を求める」 これを発した「屋内退避」を強いられた人々、SOSを発信した人々、雪降る中、水もない、食料もない、毛布もない、電気も灯油もないと発信した人々は今生きているのだろうか。これは日本国内の目と鼻の先で起こっていることである。

<3/18日現在の状況> 

 孤立地域では、低体温症になる人が増加して、食料は一人一日おにぎり一個。医者も医薬品も足りない。イラク戦争やコソボ紛争などの戦争取材でも、これほどヒドイ状態は見たことがありません。<現地取材中のジャーナリスト 森住卓の報告より>

                                                    3/18追記

                                                            2011 3/16

 


129.原発事故報道の疑問点 


 政治報道に関しては驚くほど一律であった日本のマスメディアは、自然災害、原発事故の報道内容ではばらばらであった。これは本来なら逆でなければならないことである。特に政府、原発の直接担当者は、肝心なところになると「現時点では分からない」の連続。3月15日に至っても同様である。一体彼らは何のためにいるのか?分からないと言っていながら具体的な避難範囲の特定だけは早く、そして、「念のため」であることを強調する。ここで察知能力の高い者ならすぐに感じたはずである。案の定、避難範囲は半径3キロ以上、10キロ以上、20キロ以上と拡大し、結局30キロ以上(3/15)まで拡がった。原発事故の現象面だけを見ていても深刻な事態であることは見て取れるが、1号機爆発の事故当初から、「原子炉は確保されているからそれ程心配ない」、「放射物質の量も微量である」、「人体には影響ない」、「海水で冷却するのでその内終息するだろう」、etc そして、とにかく「落ち着いて」、「冷静に」の連呼である。そんな中で3号機爆発、2号機爆発、4号機火災である。相手は詭弁の通用する人間ではない良くも悪くも正直に結果が出てくる。今までの危機管理、検証のあまさが見事に現出したまでである。それでも「努力」の評価を求め、楽観論を装う政府関係者、それは今後9基の原発を建設するための布石なのか。彼らは事故の詳細についてはすぐに直接の担当者に振ってしまうが、その直接の関係者である東京電力、原発の安全保安院がまた何を言っているのかまったく不明瞭で,その何かを隠しつつ縫うような話し方は聞いている方をますます混乱させた。その対応の仕方そのものは1986年に起きたチェルノブイリ原発事故時の対応内容と酷似している。

 現在(3/15)3号機付近の観測では400ミリシーベルトの放射能が検出されている。これは人体に大きな影響を与える放射線量である。さらに4号機の火災で放射性物質は大気に舞い上がっている。これがどこまで到達するかは不明である。現在、微量ではあるが200キロ圏まで放射性物質は広がっている(3/15)。これはスリーマイル島原発事故と言うよりむしろチェルノブイリに次ぐ規模と見た方が妥当であろう。

 政府は正確な情報公開をすべきである。今後、たとえどのように隠蔽しても、いずれは世界の視線の前で厳しく問われるこにとになるのは確実であろう。そこでは日本国内でしか成り立たないようなディベートはもはや通用しないのである。

 それから、被ばくについて、「直ちに健康に影響を与えるものではない」という奇妙な、不気味な文言があるが、それは「直ちに」人体に影響を与えることはなくとも時間の経過と共に影響が出てくる可能性もあるが、その因果関係については不明ということなのか。そうでないなら「直ちに」は取るべきである。

 

                                                 2011  3/15


 128. 自然の猛威の前で


 実に人知の及ぶところではないことを思い知らされる。まったくなされれるままなす術もない。日本の観測史上初の巨大地震(マグニチュード8.8→9.0)の前であらゆるものが無力化され、多くのものが消え去って行った。残された我々がやれることは、また「人知」が試されるのはこれからであろう。そう思わずにはいられない。

 地震の影響で起こった原発事故ついても、様々な状態を「想定」して作られたものではなかったのか?この地震大国、日本で関東大震災(M7.9)レベルを想定した設計でしかないのなら、「安全」などと言える根拠はなく、それは「人知」の浅はかというより「無謀」と言ってもよいものであろう。世界でもM9クラスの地震は何件か起きているのである。少なくとも「安全」と言うのならM9クラスを想定しなくてはなるまい。一頃、原発を増やしているのは日本だけであったが「地球温暖化」、「エネルギー供給」等の問題などで世界も再び原発を再検討し、シフトしている国もあるようだが、今回の原発事故にしてもやはり「人知」の「思い上がり」、「浅はかさ」を露呈したとしか思えないものがある。そして一旦放射能汚染されれば元に戻すことは難しく、場合によっては還元不可能になる。それは現在のみならず将来に渡って取り返しのつかない危険を背負って生きることでもある。3/12 9::00地震の影響で原子炉は止まったが、冷却装置が故障したと言う。冷却装置が機能しなければ原子炉は高温、高圧となり爆発する可能性も出てくる。ここで政府が出した避難命令は「念のため半径3キロ以上に避難して下さい。」これは飽くまで「念のため」であることを強調していたが、それから数時間後、避難指示は半径10キロ以上に訂正になった。しかし、その時点でも原発関係者の話は原発内部についての具体的説明はなく、要領を得ない。その後、避難指示は半径20キロに変更になったが、その理由についての具体的説明は20:45以降でほぼ12時間後である。その説明内容の中でM8.8(→9.0)は想定外であったことを何度か言い訳のように繰り返していたが、それは設計時の設定のミスでしかなく、言い訳にもならない。要するに「安全」ではないのである。

 現在、地震、津波、火災の被害は甚大であるが、その上、放射能汚染ともなれば、あまりにも失うものが多す過ぎる。

<原発事故内容>

〇冷却装置が機能しない。

〇ベントもうまく機能しない。(ベント=排気口)

〇水素爆発で外壁が飛ぶ。1号機に続いて3号機も爆発(3/14)、さらに2号機も冷却するため海水を注入していたがポンプの燃料切れでできなくなり、炉心が露出しメルトダウン寸前となる。

〇被ばくが検出される。

〇炉心溶融ー日本原発では初めて

 

 政府説明は、今以て「安全」、「落ち着くこと」を強調するばかりであるが、疑問点が多い。

 たとえば、※海水とホウ酸を混ぜたものを原子炉内に入れると言っているが高圧、高熱の原子炉内にどのように入れるのか、原子炉と原子炉を囲むものとの間にいれて間接的に冷やすのではないのか?もしそうならやはり原子炉内の炉心は露出したままで、これでは炉心溶融は防げないであろう※。このような未知の(効果検証データがない)一事しのぎ方法でどこまで維持、改善できるのか。最悪の事態は避けたいが、それも考えられるということではないのか。無意味な「安全神話」をでっち上げるより、被害を最小限に止めるためにも最悪のことを考えるべきであろう。現に政府、関係機関がもたついている間に数キロから10キロ近く離れたところにいた者が爆発直後に被ばくしているのである。それは単に放射性物質の多寡の問題ではなかろう。それとも、その程度は想定内とでも言いいたいのか。もしそうならその「想定」は「原子力エネルギー」に関しては「絶対」にあってはならないことである。

※海水は消火系配管を使ってポンプ車で原子炉内に注入するということである。(3/14 20:20)。そして、ポンプ車の燃料切れで注入が出来なくなり炉心が全部露出してしまったという。これはメルトダウンのカウントダウンであろう。その後すぐにまた注入を開始したというが、まったく危機意識、危機管理がなっていない。これは国家の責任である。

 3/14 3号機爆発の際、6人の負傷者が出たがその詳細は不明、1号機の時も体調不良を訴えた者がいたが当局は後日、打撲などと言っていたがそれも信憑性が薄い。そのような事態に於いても政府は「格納容器の健全性は保たれている」ので「大量」の放射性物質の放出という心配はないというようなことを繰り返し述べ、現場の「専門家」と確認をとりながら対応していきたいと言っているが、実はこの「専門家」にとっても今回の事態は「未知の対応」であろう。「大量」の放射線放出はないということは、「大量」ではない「中量」「少量」「不確定」な放出は常にあるということである。1号機より大型な3号機の爆発である、放射能放出はさらに多いはずである。原発事故には常に不鮮明な、隠蔽工作の匂いがつきまとうのはなぜか?これは過去の事故事例の教訓化も明確になされないまま目先の利潤の方にのみ軸足を置いてきた当然の結果とも言えるだろう。そして「専門家」、「識者」と言われている者達が(御用学者は論外)現実的には、いかに無力で<「事実」だけを伝えるもの>以上の価値さえどこにも見出せないことが改めて確認できたのではないか。その「判断」、「判定」に明確な根拠、確証がないのである。自然とはいつも「人知」をはるかに超えているのである。かつてニュートンは自分の発見したものは海浜の砂粒ひとつに過ぎないと言ったが、もう少し自然に対しては謙虚になるべきなのではないか。(追記)

概して、政府関係者、原発関係者は要するに何を言っているのか不明なところが多く、特に政府関係者は国民にきちんと知らせるべきものも知らせず詳細は告げず言い逃れができるような持って回った言い方ばかりが目立つ。それが虚しく、苛立たしくも響く。                                               

                                                        2011  3/12

 


127. アルジャジーラとアルアラビーヤ


 両者ともアラブ系のメディアであるが、アルジャジーラはその沿革を見ても分かるように今でも自由な報道姿勢は変わっていないが、アルアラビーヤはアラブ首長国連邦に本部を置く英国資本の衛星放送MBCの傘下で、サウジアラビア政府、企業がMBCに多額の出資を行っている。米政府高官などのアラビア語圏のテレビ出演はアルアラビーヤである。ブッシュ、オバマもそうである。アラブ系メディアである以上、報道傾向が完全に欧米向きということはあり得ないがその統制化にあることは明らかである。最近の一連のアラブ情報も主にアルアラビーヤが流しているか、それ経由であろうと思われる。したがって、その情報がデマゴーグなのか確かな情報なのか判別しにくい。どちらにせよ検証不能な一方向のみの報道を鵜呑みにするのは危険でもあり、それが真実とは言い難いということは多くの者が「経験」しているはずである。「アルアラビーヤが報じた」というのは、ただ単に「報じた」に過ぎないのであって、検証に堪え得る証拠が提示されない限り、それは、事実であるかどうかも不明で、それに正当性があるかどうかも保証の限りではなく、飽くまで一つの「主張」の範囲でしかない。況や現在のイスラム圏内の民族問題も含めたアラブの情勢分析などは「既成」ジャーナリズムのレベルで到底成し得ることでもない。実際に納得できる報道内容も説得力のある報道も見出すことはできない。すべてがある陣営からの意識的に断片化された定点観測ではいつまで経っても全体像は見えてこないのは誰も否定できない道理であろう。

 すべての報道はどのような些細なことでも一言一句検証するしかあるまい。それが実感であるが、日本の大手マスメディアに関しては今更言うも疎か、もはや瓦解、解体寸前で内容的に検証する段階にもない。要するに買って読む価値がないということである。だからどこかの待合室、食堂でパラパラと流し読みをするだけで充分なのである。不買、これも抗議の一つである。

 私には特別会計330兆円を隠し持って、平然と増税を強いる国の方が悪しき不可解な国に見えてしまう。もしそれを否定するなら,もうすでに既得権益側に巧妙に絡め取られているということであろう。

                                                    2011  3/8


126. マルグリット・デュラスの「苦悩」


 昨日、バスで静岡まで行ってきた。マルグリット・デュラスの作品「苦悩」を観るためである。内容はレジスタンス、解放、収容所と決して明るい題材でもなく、「恐るべきテキスト」(パトリス・シェロー)であるが、1時間20分のドミニク・ブランの一人芝居は実に素晴らしいものであった。彼女の感性、知性が程よく溶け込んだ想像力溢れる演技は舞台上のどの位置からも「存在すること」の面妖さを意識の変容の中で確実に捉え再現してくれた。そして、一切の無駄を排した簡潔な舞台演出にも好感が持てた。

 ドミニク・ブランは周知のように2008年「他者」でヴェネチア国際映画祭最優秀女優賞、2010年この「苦悩」という作品で2度目のモリエール最優秀女優賞を受賞している。映画ではルイ・マル監督の「5月のミル」などにも出演している。

 昨今、私はこのレベルの日本女優を、舞台をまったく知らない。それは単に演技的、演出的領域だけの問題ではない。おそらくこのような「恐るべきテキスト」を取り上げることすらしないであろう。この作品を敢えて取り上げ苦痛でさえあるその時代と向き合い、それを声高ではなく現代に向けて発信しようとしたドミニク・ブランと演出のパトリス・シェローの仕事にあらためて敬意を表する。

 日本ではどうしてこのような舞台が存在しないのか。存在し得ないのか。

 先月、ひょんなきっかけで某劇団の再演作品「ササフラスの枝にそよ風」(ルネ・ド・オバルディア)を観たが、初演時(1976年)とあまりの質の格差に驚くと同時にその「後退の姿」をまざまざと見せ付けられ、役者と演出に対して憤りを通り越して「積み重ね」の出来ない時間の虚しさを感じたばかりであった。そして、寒さも緩み始めた頃、2010年フランスで出会えなかった「苦悩」という作品に出会い、まったく異質の、次元の違う心地よさと味わい深さを感じることができた。これこそが真の演劇の醍醐味であろう。

※マルグリット・デュラス(1914-1996) フランスの女流作家。「モデラート・カンタービレ」、「広場」、映画シナリオ「ヒロシマ、わが愛」(映画名「24時間の情事」アラン・レネ監督)。1984年ゴンクール賞受賞。 

 

                                                     2011 3/5

 

 


125.内閣支持率17%???


  今でも17%もあること自体が不可解。これまでのケースでは平均±5%が操作領域である。したがって、12%程度が実際の数値であろうと思われるが、効果を考慮しての調整であろう。私に言わせれば、支持率数%以下がいいところで,民主主義の常識から考えても即刻退陣すべき内閣なのである。

 世界でも類稀な超少子化、超高齢化とは、国民の<前意識>の段階にあるものから発せられた国家に対する日本人らしい奥ゆかしき反逆である。しかし、それは取り返しの付かない恐ろしき反逆でもある。これは「少子化対策」などという取ってつけたような方策で解消できる問題ではなく、政治全体の問題である。これでは日本は近い内に世界的枠組みから外れてしまうか、取り残されるしかあるまい。

 戦後、アメリカに「レイプ」された「女」はしたたかに、形振り構わずアメリカにしがみつきながら、それでも格好をつけて生きてきたが、もはやそのアメリカから見捨てられる日も近い。そこでマスメディアなどが煽っているのが総じて「アメリカのご機嫌うかがい」(TPPなども含めて)である、その様、娘を売り飛ばした守銭奴のごとく、気になる一事は金主の顔色ばかり、娘の様態などは知ったことではない。どうしてここまで堕ちたか、それは今に至るまでこの国が自らを見極めもせず、独自の「道」を見出すことを怠ってしまっただけのことである。遅かれ早かれ、この国の実態は余すところなく、「アメリカ自身」から逆に明かされることになるのだろう。アメリカとは良くも悪くもそういう国なのである。

 それにしても「小沢問題」を担当した検事達はもはや蜘蛛の子を散らしたようにいなくなっている。さすがに察知能力も逃げるのも早い。もはや責任の所在は不明である。要するに実質的に「無罪」を証明しているような動きである。今まではそうやって逃げ切ってきたのだろうが、これからはそうはいかない.今ではこの検事達の名前、現所属なども日本国内はもちろんのこと世界に簡単に知れ渡ってしまうのである。これは検事たちに限らず、「政治屋」、マスメディア関係者も同様である。この一連の「小沢問題」は最初から彼らの想定内の「戦略」で、明らかに「政治的介入」であるということは良識ある識者であれば誰も否定はするまい。

 時間稼ぎのためにだけ、また権力維持のためにだけあるような内閣、とっくに彼らの出番は終わっているにも拘わらず、まだ退陣の「サイン」がでないのか?裏の準備が整わないのか。だらだらと続いている。それにしても何もないのに時間稼ぎだけの役割と権力維持だけが最大目標とは、もはや支離滅裂もすでに通り越し、普通の「人間」なら狂うところであるが、それでも狂わないのはすでに完全に狂っているからである。もう少しがんばって日本をガタガタにしてくれると真の意味の「政変」が起きるかもしれないなどと思ったりもするが、その前に何とかしなければ明日の糧にも事欠くことになり兼ねない。

 

                                                   2011 3/1

 

 



124.噂のようなマスコミ報道


 連日マスメディアを賑わしているアラブ諸国の政変についての報道内容は「小沢問題」同様、芸能週刊誌並である。情報源も乏しい上にアラビア語も出来ない記者が大方であろうからせいぜい英語圏経由の情報を取るのが精一杯、勢いリビアのカダフィについてはアメリカのレーガン政権時に遣われた「アラブの狂犬」などという形容をそのまま遣うお粗末さ、ジャーナリストの意地などは微塵も感じられない。何かと言えばカダフィの枕詞のようにその言葉は飛び交い、内容もそれに合わせて取り繕われたようなものばかり、私はカダフィを弁護するつもりも、その理由もないが、そのあまりに現象面だけをなぞっただけの、事実のみではない無用な形容詞の多用は逆にジャーナリズムの視点、切り込みの甘さが見えてくる。それは要するにアメリカ戦略機構のコピペと言ってもよい程のものである。それはどこで拾って来たか分からない噂話、ゴッシップ記事レベルのものを体よく収めた寄せ集めのようなものでもある。そこに登場するのは毎度お馴染みの、読売、毎日、朝日、産経etc,そしてテレビ、今更言うまでもない有名無実の報道機関が名前を連ねる。それは日本政府の政府広報からアメリカ政府の政府広報に変わっただけの話である。アメリカの戦略機構の走狗のような報道ばかりでは世界全体を捉え切ることはできまい。少なくともジャーナリズムの名に値するものであれば、日本政府、アメリカ政府はもちろんのこと、社会主義諸国、アラブ・イスラム世界からも距離を置いたところから明解な論理的視点を保ちながら問題提起をするべきであろう。もちろん、対象から「距離を置く」作業は対象そのものを充分に把握していないとできることではない。それを正体不明の井戸端会議ごときものから拾ってきた情報を、またはでっち上げに等しいような情報まで検証もせず大真面目な顔をしてそのまま載せているようではその存在意義は皆無、むしろ罪悪である。走狗はいずれ煮られる身ではあるが、尻尾を振りながら自ら煮られる日を待っているに等しい状況をいつまでも続けるしかないというのは、ただ情けないの一言に尽きる。

 

                                                2011 2/26 


123.最近の民衆蜂起に思うこと


 国民のことをまったく顧みない我が事のみの独裁的国家に対して民衆蜂起が起こるのであれば、分かりやすく至極当然のことと思われるが、事ほど左様に簡単には行かないのが世の常である。チュニジア、エジプトまではその「動き」が明確に見えるが、リビア、アルジェリアの民衆蜂起となると、いくつかの疑問点が出てくる。まずリビアであるが、リビアは2008年度国民一人当たりのGDPはアフリカ最上位で16114ドルと比較的裕福なのである。因みに、チュニジア3900ドル、エジプト2160ドル、アルジェリア4588ドルで比較して見れば一目瞭然であろう。さらに、現在リビアの反体制運動の旗は以前の王政時代の旗が使われている。これは先祖返りにも成りかねない由々しき側面も同時に持っているということを意味する。リビアもアルジェリアとも天然資源が豊富でリビアの石油埋蔵量はアフリカ最大である。両国ともソ連、中国との関係が強いのでアメリカにとっては隙あらば介入して現政権を倒して親米路線を確立したいのである。当然CIAは暗躍しているであろうし、それによって反体制運動が動かされていると見る方が現実的である。カダフィの「過剰反応」もそうしたアメリカの動きを察知しての行動である。カダフィはこの民衆蜂起を自然発生的な「一般民衆」の蜂起とは見ていないはずである。王党派などにアメリカの工作員が入り込み扇動していると捉えざるを得ない状況であろうと思われる。これはカダフィにとって欧米諸国、特にアメリカとの歴史的因縁を持つ「対決」の再開である。この「対決」をカダフィはアメリカとの「最終戦」と捉えていることであろう。何があっても不思議ではない。もはや流血を避けらることは不可能であろう。もし、フセイン政権打倒を画策したCIAがカダフィとフセインを同一視した戦略を立てているとするなら、それは大きな誤算を生じるのではないか。しかし、すでに戦いの火蓋は切って落とされてしまった。もはや小手先の「技」では収拾はできまい。

 エジプトでは、リビア情勢について「カダフィ追放がリビアに光をもたらす」と訴えたそうであるが、その光とはどのような光なのか、王党派によるアメリカの傀儡政権樹立のことを指して言っているのか、それではまた元の木阿弥であろう。どちらにしてもまた多難な道を歩まざるを得ないことだけは確かである。 

 

                                             2011 2/25

 それにしてもカダフィ政権は長すぎた。それが実質的に独裁政権であれば、如何なる者であろうといつしか危険極まりないものとなる。そして、御多分に洩れず血族の骨肉の争い、後はお決まりのコースで衰退の一途である。カダフィの息子達は「国営石油会社から大金をせしめていたが、石油輸出は停止になった。資金源を失った兄弟間争いで政権瓦解ーというのが最良のシナリオかもしれない。」(春名幹夫).それに近いところで収まるようならそれが現状の必然的帰結であろう。しかし、この国の反対勢力は確認できるだけで五つある。表向きは「兄弟争い」であったにしても実は内情はリビア国民連盟と王党派もしくはイスラム系過激テロ組織の争いであたり、そして欧米諸国が自国のためにテコ入れするのがリビア救国国民戦線なのか、リビア民主同盟なのか、王党派なのかによってもさらに違った様相を呈することにもなろう。当然、欧米諸国の出方によってはソ連、中国も「動き出す」ことになる。

 英仏首脳はカダフィの退陣とEUがリビアの「国民評議会」を「唯一の交渉相手」とするよう求めたと言う。「国民評議会」とはリビア国内にある反対勢力の民主主義政権確立を目指す「リビア国民連盟」、「リビア民主運動」のどちらかを言っているのか、合体したものなのか、または別の新たな組織を言っているのかその内容は不明である。この国もカダフィ以後は、また欧米の、中ソの思惑で激しく揺れ動くのであろう。 

 実のところ、カダフィはもうずっと以前にすでに終わっているのである。そして、将来を見据えた体制作りをして去るべき時に去っていれば、国民にとってもよかったであろうと思われるが、権力とは恐ろしいものである。すでに時遅し、このような事態には成るべくしてなったとしか言いようがない。

                                                     3/10加筆

 


122.封建的な圭角とは


 封建的な圭角はどんな仕事に於いても邪魔になるのである,と大佛次郎は「敗戦日記」に書いている。これは岸田国士が地方文学について書いたことについて、大佛次郎がその見解を述べたものではあるが、敷衍すれば「封建的な圭角」とは、たまたま運よく齢を重ねて手に入れた小さな世界の経験則を金科玉条のごとく思い込み傲慢に振舞う者達のことでもあり、また因循姑息な者達のことでもあろう。彼らの言動の多くは内容的には希薄であるにも拘らず小振りにまとまっているだけに強圧的でもある。これはすべての世界に共通することでもあるが、精神的な歩みを止めて「思い込みの」世界にだけ生きる圭角とは自ずと邪魔な存在となってしまうということである。それは、彼らが意識すとしないに拘わらずこれから育つものの芽を摘んでしまうか、押さえつける方向にしか働かないのである。自然界では自ら精一杯生き、そして時がくれば次世代の者達にすべてを託すことが極自然に行われていることであるが、この「人間界」ではどうもそうは行かないようである。宇宙における「最低の知的生命体」、すなわち我々が今出来ることは何かをまず考えなくてはなるまい。

 それから・・・、そう・・

 最近、アラブ諸国の政変を興味深く解読しながら、地図を見ているうちに改めて国境について考えてしまった。地球上に無数に勝手に描かれた線引き、それらをつくづくと見ていると「ここは本来わが国の領土」と言いえる根拠とは一体何なのか、それはいつまで遡ってどこを基準に定めての見解なのか、たとえその基準点が定められたとしても歴史的にはかなり怪しいものが残る。今更、美辞麗句で粉飾するのはやめた方がよかろう。これは煎じ詰めれば結局のところ「人間」の損得勘定がなせる「技」としか言いようがないものである。この「技」の如何によっては「人間」はいつでも「最低の知的生命体」の名に最もふさわしいものになってしまうであろう。そして、もしこの「技」の使用方法を間違えれば「人類の英知」などとは画餅ほどの意味さえもなくなってしまうのである。

 

※(アラブ諸国の政変については、「新しい形の大規模な民衆蜂起によって既存の体制を倒すことが出来るという認識が、チュニジア、エジプトの実例によって定着した。」(池内恵 東京大学)というのは確かであろう。それは当然、先進諸国の社会運動、政治運動などにも様々な形で影響を与えると同時に世界は新たな局面を迎えることになる。)

 

 「人間」の損得勘定に関しては、ある意味では、「頭のよい者」と見做され周囲から認められていた者が、実は明解な智慧を持つ「賢い者」を意味するのではなく、目先の利にさとい現実主義者でしかなかったこと、換言すれば単に理念、理想のない現実主義者に過ぎなかったということに対して我々が今まで何ら問題意識も持ち得ず、少なくともそれをよしとしてきた世界そのものがもはや限界を通り越して自己矛盾に耐え切れず瓦解し始めていると見ることもできる。もう少し具体的に今の日本の状況に合わせて言うと、目先の利にさとい現実主義者とは「究極の現実主義者」すなわち自己目的のためには「何でもあり」の「人間」達のことである。彼らにとっては理念のある現実主義者の存在はどうにも邪魔なのである。官僚、大手メディア、既得権益側がバックアップするのも「理念なき現実主義者」、すなわち実質的に傀儡として否応なく反国民的ならざるを得ない者達だけなのである。それを直接的にも、間接的にも容認してしまうことがどういう意味を持つのかを考るべきなのである。

 

                                                2011 2/20

 


121.もはやネット上で匿名は存在せず


 1週間程前、「新宿で人を殺す」などと掲示板に書き込んだ中学生が翌日には逮捕されていた。実に早い。本人は匿名で分からないと思ったのだろうが、すでに捜査当局にキャッチされていた。掲示板などで無責任に言いたい放題、憂さ晴らしをしていると当局には筒抜けということでもある。もうすでにかなりの者がリストアップされているのであろうと思われる。愚かな犯罪には適切な対応であってもこれもまた度を越すと問題になってくる。

 私は匿名でものを言うこと自体に不信感を持っていると同時に,そのことによって真実を伝え得るとは到底思えないので、匿名で書かれたブログ、ツイッターなどは「参考」にする程度で信用はしていない。その多くは2,3行の文章でその人間の精神構造が透けて見えてしまうものばかりであるが、書いている者にはそのことが分かっていなのであろう、だから得意になって書けるのである。自分の「人相書き」をわざわざ差し出しているようなものである。必要があってさらにその人間にポイントを絞れば経歴、住所まで特定できるのが現状である。言えば言うほど捜査当局に証拠を提出しているようなものである。どちらにしても、いい大人であるならもっと責任ある言動をすべきであろう。とは言ってもこの国のヘッドまでがあれではそれ以上は言はん方なしである。

 

                                               2011  2/19


120. Politique de Japon


 Politique de Japon est démocratie   mais seulement de nom. La politique réel est l'autocratie du bureaucrate. Le premier ministre n'est qu'un pantin mû par la bureaucratie.  La  plupart  des peuples   se laissent attraper par les façons adroites.

"Problème Ozawa"   aprés tout  c'était  la bataille  entre la bureaucratie et un homme politique.   Et elle a éliminé l'homme politique qui le sacrifie à démocratie. C'est tout.

Un autre jour  l'autocratie de bureaucrate se brisera. Sans cela  il n'y a pas d'avenir  au moins nous ne pouvons pas avancer.

 

                                                                                                                        2011 2/16

 


119.雪だるまが消えた街


 寒い、寒いと言いながら、迷惑そうに雪掻きをする。雪は無造作に脇に寄せられている。それは極普通の冬の風情でもあろう。しかし、そこにはいつもどこかに佇んでいた雪だるまの姿がなかった。雪国の、家が潰されかねない大雪であれば雪だるま位置も存在もそれほど気にはならないが、積雪5-10センチの雪である。積もるそばから雪は払い落とされ、排除され、、街の其処彼処に掻き集められた雪はごみのように、汚れた包帯のように打ち捨てられている。雪だるまの消えた街は、「遊び心」のなくなった街、子供のいない街、「余裕」のなくなった街とも言える。街には路面を削る雪掻きの音だけが響き渡り、どこにも雪だるまの姿はない。

 私は、今年ばかりの冬往かんとす、久しぶりに「キュ、キュ」と靴の底で鳴る雪の感触を楽しんでいた。

 

                                           2011  2/ 雪の日に


118.市川房枝を語る騙り


 あらゆるジャンルでよくあるパターンと言ってしまえばそれまでである。

彼は(名前を出す気にもならない)は権力を握ったから変貌したのではない。そうかと言って、もともとそのような要素が実体的にあったと言うつもりもない。意識されてていたかいないかは別としてすべての「関わり方」そのもの中にすでに立ち現れていたものがさらに増幅され、具象的に現在のように明確なものとして現れたに過ぎない。市川房枝という存在を今でも自分の都合のいい見え透いた文脈の中で利用して行こうとするその「幼児性」、それは欺瞞を欺瞞とも思わない、裏切りを裏切りとも思えないように容易く正当化し得る恐るべき「幼児性」である。サイコパスという人格障害を歪められた「幼児性」の発露として捉えると、サイコパスの「普通」では考えられない独特の幼児性を帯びた「情念」が見えてくる。以前にもサイコパスの典型的症例とも言える首相がいたが同根であろう。このような人間を「究極のリアリスト」と称するなら、「究極のリアリスト」とは悪である。

 それは、目的達成のためには人を殺さなければ何でも良しとすることを実質的には奨励しているような現代のある一面を体現しているとも言える現象である。

 また、政治的にはこの一連の動きは、小沢一郎無罪に備えたものとも言える。小沢無罪でもその責任の所在をぼやかし、その胡散臭さを限りなく残すために今では皆無となってしまった「清廉潔白」の政治家、市川房枝の存在が必要なのである。自分を市川と重ね合わせ、それに対する「政治と金」=小沢一郎という分かりやすい単純な図式で検察、大手マスコミと結託しながら「推定有罪」を限りなく「取り仕切る」つもりなのであろう。言っておくが、市川房枝とこの男とは根本的なところで類似点を見出すことは不可能である。むしろ本質的に違うと言った方がよい。

 しかし、この往生際の悪さは前代未聞である。内閣、検察、大手マスコミはもはや恥も外聞もなくなったと見える。これでは恥知らずな日本人が多くなっても仕方あるまい。市川房枝も草葉の陰で泣かずにはいられないのではないか。いやいや今にも飛び出して来そうな形相になっているのが見えるようだ。

 

                                               2011  2/12

 


117.ラ ノゼ


  久しぶりに会った友とつい最近の社会情勢の話になった時、彼女は「ラ ノゼ~」と半ば歌うように言った。それについては私も同感なので具体的な話も野暮なのでそれ以上の話はせず、自ずと他の話題に移って行った。「ラ ノゼ」とはフランス語で「吐き気」のこと、すなわちサルトルの「嘔吐」に引っ掛けて茶化したまでのことではあるが、彼女の軽く流した底には激しい怒りが秘められていることが感じ取られた。彼女もまた一通りの日本人ではなかった。<生きている>「人間」である。

                                                   2011 2/11


116. 問答無用


 これは現政権、民主党執行部に対して持っている多くの者の感情であろう。これだけ裏切られ弄ばれた上に、黙って言いたいことを言わせているとしたらこの国の国民は世界でも例がない国民となってしまうだろう。それはまさに世界の「秘境」である。もし「普通」に反応できる人々がいるとするなら、それら多くの人々の中には怒りを通り越した憎悪が蓄積されているのではないか、そして、それがもはや限界点に近づいているのではないかとさえ思える。このようなエネルギーがどこに向かって収斂して行くのか、また収斂されて行くのか、もし、それが一視点の拡大解釈に過ぎないのなら、また、実際にそのような気配すらないとするなら、これはやはり「普通」ではなく、完全に大手マスメディアに洗脳された阿Q的愚民かマゾ的趣向をもつ「秘境」の民としか言いようがない。まさに悪しき為政者の天国である。今も舞台裏では毎度お馴染みの官僚諸氏が暗躍しているのが透けて見えている。このような官僚の傀儡政権はもはや拒否すべき政権であるにもかかわらず、明解な批判もせずむしろ政権維持の方向でただ煽り立てているのが反国民的な大手の、大手による、大手のための大手マスメディアである。そこにはもはやジャーナリズムなどまったく存在し得ない。そのような彼らの口車に乗ったら、それですべては終わりである。彼らと妥協すべき点はもはやない。国民が言うべきことは、即刻退陣、「解散」、「総選挙」、これだけである。それで困るのは国民ではない。今でも「政治生命をかけてやる」などと、この期に及んでまだ寝言戯言を繰り返しているが、傀儡に政治生命などはない。

 彼らが選んだ大先生の「ころころ一国の首相が変わるのは如何なものか」というもっともらしい戯言を聞いて分かったように頷いていてはもう彼らの手の内である。駄目であるから変えるのである、ただそれだけのことであろう。

 しかし、これだけ騙されて大衆の抗議運動が巻き起こらないことに関しては様々な意見があるようだが、たとえば、この国の国民は自分のことで精一杯、自分のことしか考えていない、エネルギー不足etc,そのようなことは今に始まったことではない。私は、執拗に繰り返され、捏造され、脚色された大手マスメディア報道、すなわち官僚独裁政治に完全にマインドコントロールされている結果だと思っている。よく見れば人々の顔もどこか以前のオウム真理教の信者の表情をほうふつとさせる。血の気は失せ、肝心な何かが抜き取られている感じである。これでは抗議行動どころではない。これは、小さな檻、それは牢獄と言ってもいいようなものの中に何の抵抗もなく自ら入り込んで幻想に囲まれて朽ち果てるしかない者の表情である。そして、さらに悲惨なのは自分は自由に生きていると錯覚していることである。

 そして、多くの国民がこの政権はその内潰れる、だからわざわざ抗議行動を起こすまでもないと思っているとしたら、しかし、そう思わせるのが政治戦略だとしたらどうするのか。これは巧妙な抗議行動封殺の戦略でもあり得る。どの政権もその内終わるのである、それは確かであるがその間に彼らはやれるだけのことをやってしまうのである。こうしている間にも裏面では様々なことが着々と進められている。

※2/13 イタリアではイタリア女性が首相の辞任を求めて100万人デモを展開。この女性グループは2月初旬に創設された「もし今でなかたら、いつ?」というグループである。何ともさり気なく粋な名称である。会長は映画監督のクリスティーナ・コメンチーニ。(2/14 加筆)

 現在、問題になっている検察審査会にしても、その権限が「勧告的議決」から「強制起訴」の権限を持つようになったのは2004年小泉政権の時からである。何のために抽選で選ばれた無責任なメンバーに「勧告的議決」から「強制起訴」などと言うその責任を背負い切れない強い権限を持たせたのか。これについては違憲であるとする論文が最近発表されている。このようにして彼らの「思惑」の中で次から次へといつの間にかなし崩し的に物事が決められているのである。それは反国民的なことであることに間違いはあるまい。

 

                                                      2011  2/10


115.官房機密費の行方と検察審査会の徹底検証


 今の大手マスメディア、検察の動きを見ていると、やはり官房機密費や検察審査会の徹底的検証も必要になってくると思われる。これでは民主国家とは名ばかりの巧妙な官僚独裁国家である。「小沢問題」で中道正義は我にありとばかりに煽る大手マスメディアの言動はもはや度を越して狂気さえ帯びている。そこから見えてくるものは、既得権益、検察の「黒い巨塔」にメスを入れようとしたことから巻き起こった凄まじいまでの反撃である。

 そのようなことから、口封じと扇動活動費として大手マスメディア関係者にどの位の官房機密費が使われたのか、実際に誰に渡ったのかという尽きせぬ疑問も湧き上がってくる。また検察審査会の怪しげな実態とは(これについては以前にも書いたので詳細は省略するが),たとえば、「無作為に選ばれた」と言う審査員の平均30.9歳以下になる確率は0.12%,これは奇跡に近い数値であるとすでに数学者が指摘しているところでもある。このようなことが不明のまま「独裁的権力」を握った者がどのようにでも国家を動かすなどとは民主国家を装った独裁国家としか言いようがあるまい。これは「小沢問題」で丸見えになった、多くの者が感じた具体的「恐怖」であろう。そして、このまま進めばこれは単なる「小沢問題」では済まされない危険な状態になってくることは容易に想像できることである。

 大手マスメディアの欺瞞的報道内容はすでに多くの者によって見透かされているにも拘らず、いまだに恥じも外聞もなく、むしろ憐れみさえ感じさせるほど一律である。もはや政府広報以外は解体の道しか残されていないのであろう。検察も正義があるというのならスネィキーなまねはせず世界にその実態を示したらどうか。その時に現れるものがアメリカに隷属する「独裁者」の姿でないことを願っている。とにかく検察に対する徹底的な真相究明は不可欠であり、急務である。

 今も尚、独立した民主主義国家としての日本国の姿はまったく見えない。

 今後も決して忘れてはならないことは、忘却が「彼ら」を増長させ、巨大化させてしまうということである。1市民として今すぐできることはあるはず。彼らの言動を記すべし。ただそれだけでその欺瞞性は炙り出されて来る。そして、そんなことをして何になるという人々が多ければ多いほど日本の滅亡の時は早くなる。ただ、それだけのことかも知れない。

                                                   

                                                  2011  2/4

 


114. 鳥越俊太郎 降板に見える嘘


 以前にも、報道には製作費をあまり使えないのでという報道内容の質の劣化に対する言い訳のような「弁明」があったが、それは嘘であろう。製作費削減という名の下に局の方針に合わないコメンテイターの排除がその主な眼目である。事情通、マスコミ関係者と称する者達の意見の中には、「70歳という年齢を考えれば仕方ない面もある。」とか、「そもそもメイン司会者よりギャラが高いコメンテイターというのも変な話しなんです。」などと分かったような分からないようなもっともらしい意見もあるようだが、どれも解せない。鳥越は「スーパーモーニング」では唯一「良識」を持った、ものごとを歪曲せず「普通」に問題を投げかけることのできるコメンテイターでもあり得た存在である。安く、局の方針(=政界、財界)に従順に従う社員を司会兼コメンテイターとして使えば局にとってはそれは言うことはないであろうが、そこでなされる報道などは、不偏不党、報道の自由などとは絵空事の偏向報道、誘導報道、広報機関としての扇動報道にしかなり得ないというのが実情である。実際、そうでないと明確に言い切れる者はいないはずである。大手マスメディアの報道とは大手による、大手のためのマスメディア報道であって、いくら庶民的なポーズをしても、理路整然と「お為ごかし」を言ってみても、決して「国民」、「市民」、「庶民」のためのマスメディア報道にはなり得ないと言うことを再度確認する必要があろう。

 

                                                 2011  1/29


113.「 白い巨塔」を降りた医師たち


 近藤誠医師の著書に出会ったのは、母を癌で亡くした直後であるからもう20年近くも前になる。その内容は様々な点で納得のできるものであったが、当時は乳癌などもハルステッド手術(癌細胞の周辺を広範囲にすべて切り取る手術)が主流で、近藤医師の主張は今までの方向をくつがえすものであった。彼は患者たちの悲痛な姿を見るに見かねてこの本を書く決意をしたと言っていたが、それは医師としての出世の道を閉ざすことを意味していた。当時ですら、ハルステッド手術は欧米ではもはや時代遅れと言われていたが日本の医学界全体の趨勢がハルステッド手術であった。これに異を唱える者は「白い巨塔」から突き落とされた時代でもある。しかし、彼は患者を救う道を選んだ。彼の本が出た時、私はどうしてもっと早くこのような本を出してくれなかったのかと彼を恨んだ。母の死の前に近藤医師の著書を読んでいれば具体的に対処プランが立てられたからである。母は気丈な人で、術後も担当医師に言われるままに抗がん剤治療その他の治療を続け、かなり苦しそうであったがよく耐えていた。そして、63歳で亡くなった。

 時折、母のことを想うと、登場してくるのは担当医師ではなく、直接にはまったく関係のない近藤医師なのである。私の無念な気持ちと、それ以前にはどうしても登場できなかった近藤医師の葛藤がどこかで共鳴し合っているのかもしれないと思った。

 最近、某日刊紙に近藤医師の写真が載っていた。本文を読むと20年前と内容も基本姿勢もまったくブレていない、揺るぎない姿勢で研究を重ねてこられたことが見える、嬉しくもあり、懐かしくもあった。

 どのような道においても同様であろう。捨て身にならなければ、何がもっとも重要なことなのかが見えてこないのである。

                                               2011 1/26

                                                



112. 相も変らぬ大手マスメディアの扇動


 言ってみれば、「由(よ)らしむべし知らしむべからず」の為政者の広報機関と成り果てたと言うべきであろうが、今やそれは現在の「弥縫(びほう)内閣」を補完するかのように、と言うよりこれ幸いとばかりに肝心なことは一切伝達せず、一方向に「煽る」ことばかりをしているというのが実情である。実際、1社たりともそのメリット、デメリットについて適切に語っているところがない。たとえば、「TPP」(環太平洋連携協定)の問題がそうである。ここまで来てしまっては、新聞、テレビなどはもはや必要ないと言わざるを得ない。心身に百害あって一利なし、知らなければ知らないで済んでしまう内容である。特に、最近では注意深く検証すれば情報収集には事欠かない。むしろ、大手マスメディアの記事、情報内容こそ細心の注意が必要なのでる。すべてを疑ってかかるべきであろう。もはや彼らは悪しき為政者以上に為政者気取りなのである。彼らの最大の問題は、「言論の自由」を盾に「扇動」しておいて肝心なところでは自らの言論に責任を取らないということである。馬鹿を見るのはその扇動に「乗せられた」者達だけである。すなわち国民なのである。今、ひとりひとりが自らで考え、感じるべき時である。大手マスメディアの新聞社、テレビの解説者に頼って、いいように丸め込まれていては明日はない。

 現在では、見ざる、聞かざる、買わざる、されど言い得るのである。各自がしっかり現状を見据え、感じさえしていれば「面白い」時代でもある。

                                                    2011 1/25

                       


111. 小沢一郎は利用されただけなのか


 小沢一郎の財力と政治的行動力をうまく利用し、目的達成後は予定通りアメリカの政治戦略機構と検察がさらに強固に手を組み、その手先として容易に動く為政者を中枢に置き、マスメディアを巻き込みつつ、政治主導を最期まで押し通す既得権益側には極めて有害な小沢に対して訳の分からぬ微罪をあたかも巨悪のごとくでっち上げ排除したというのが、今までのデータ検証から割り出した私の簡潔な見解である。

 したがって、小沢は五体がばらばらになっても戻らねばならないのである。それが政治家である。今では市民の名に値する多くの者がそれを望んでいることだろう。

 

                                                     2011   1/23


110.「空気を読む」者達に仕掛けられた罠


 大手マスメディアがなぜ経費を節約した世論調査、支持率などを必要以上に頻繁に提示するのか、それは「空気を読む」ことに長けた国民の性向を熟知していて、それを逆手に取って彼らの「思惑」通りに誘導しようとするひとつの現れでもあり、同時に彼らの「効果測定」の意味もあろう。「5ポイントアップ」などあたかも精度の高い数値のように見せているが、そもそもこのように割り出された数値などは彼らの意のままにできる数値なのである。自社の新聞社の調査であれば尚更である。実際に、最近の内閣支持率においても、新聞社の自社調査で29%(毎日  )34%(読売 )という数値が出ているが、もし毎日新聞社の5ポイントアップの29%が正しければ、読売新聞社の34%はさらに5ポイントも「下駄をはかせている」ことになる。このようなことが極当たり前に行われているのが現状である。おおよそこの程度ということで見ておけばよい数値でしかないものを、それを根拠に毎回妙に細かな分析を始めるのが気になるところであるが、どちらにしても、これで特に読売新聞社関連がこの内閣をバックアップしていることが見えてくる。、私にしてみれば、この内閣の支持率が29%ー34%もあるということ自体がとても信じ難いことである。万が一これが実情であれば為政者、官僚、その他の関係機関にとってまだまだ続く「天国」であろう。それは国民にとっては「地獄」ということである。

 このような実情を鑑みて、抗議の手段として非買運動があるように私はテレビ、ラジオの非視聴をすすめる。現実的にテレビ、ラジオをまったく排除することは不可能であろうから、観たくない、聞きたくない部分があればすぐに消すことである。垂れ流しが一番危険である。特に、ニュースをバライティー化して見せるニュースショーは「空気を読む」者達に仕掛けられた巧妙な罠が至るところに敷設されている危険性が高い。彼らは総じて口がうまい、それが彼らの仕事であると思っていないと、観ている者はいつの間にか朝三暮四の猿にされてしまうということである。テレビをすぐに切る。このことだけで電気代も節約できる、読書の時間は増える、考える時間は増える、言うことはないはずである。

 因みに、私は祖父母の代から東京都に住んでいるが、父母からも、私自身も世論調査、視聴率、支持率など関して聞かれたことは一度もない。 その間少なくとも半世紀以上である。                                              

                                                     

 今でも時折「報道の自由」などということを耳にするが、毎日、朝日、読売各紙の報道スタンス、内容はほぼ同一、NHK,民放などもその報道内容は横並び一列(最近、一部で変化は見られるが),本当に「報道の自由」が実践されているのであれば、このような現れ方はしないだろうし、あり得ないことである。これは言論統制下の報道の自由ともいうべき「一律さ」である。新聞社、局の単なる社員なら別だが、ジャーナリストであろうとするならこんな堕落したところにはいつまでもいられまい。「報道の自由」などと称していつまでも当たり障りのない「報道のコーディネイト」などしている間に、自分の足で探り、自分の頭で問題点を論理的に追求すべきである。そういう記事はやはり「面白い」のである。それに反して低レベルで俗悪なのがテレビ局の社員であるコメンテター(解説者)である。それに呼応して局の女性アナウンサーまでその気になっているのには呆れ返る段階を通り越している。具体的には、TBS「朝ズバッ」、テレビ朝日の三反園(みたぞの)がその典型的例であろう。どこの広報局といいたくなるくらいである。その内にまた内閣官房機密費の流れもチュックしなくてはならないのではないかと思われる。節約の折、金を出してくれるところがあり、安く使える者がいれば誰でもいいのであろう。三反園などは数年前から問題視されている人物であるが、テレビ朝日は社員である三反園をそのまま使い続けているといのがその実情である。

 まあ、古き残滓が剥がれ落ちるのを待つしか為す術はないのかもしれないが、それにしても人間の営為とは常に「人類の英知」などとはかけ離れたところにある、と言うより「人類の英知」からかけ離れたところでしか成り立ち得ないかのような様相を呈している。すなわち、「人類の英知」などとは実際には「無」に等しく、あり得ない「もの」の美称なのである。空語と言ってもよいだろう。空語に取り囲まれて、吸い寄せられ死に絶える者達・・・それがわれわれである。

                                                     2011   1/20加筆

                                                                                                                                     2011   1/18

 


 

 

 

 

ーある日、その時ー(5)<掲載内容> 2010年12月~

(78.安直さに潜む危うさ 79.「戒厳令の夜」 80.世界に通用しない日本のジャッジ  81.Wikileaksは本来のジャーナリストの姿 82.蘇東坡の朱竹 83.平田オリザと鈴木忠志の対談 84.奇妙な風景 85.怪人鉄面皮 86ワンワード・ポリティクスから阿Qポリティクスへ 87.ツイッターの無意味さ)→<(4)に移動 >  88. <物語>を拒絶する 89.夏草や兵どもが糞袴 90.過去を忘れる必要はない 91.スタジオパーティー 92.寂しき街 93.あまりの月の美しさに 94.三文役者と政治屋と 95.師走 96.心地よい符合と先取り 97.悲劇の女王 ブエナビスタ 98.2010年度 報道功労賞 99.12月 劇作家 ピエール・ノットと会う 100.2010年 元旦 年賀状 101.4000年前のブログ 102.「笑えて、悲しくて、感動させる」?103.改めて「視聴率」とは?「世論調査」とは?104.折に触れて・・・105.テレビ報道の虚と誘導 106.「倒された」ガブリエル・ギフォード 107.タイガーマスクの喜捨108.「立ち止まって考えよう国民会議」に賛同する。109. ある夫婦からの便り

 

 

「ある日、その時」 (5) 2010年12月15日~

 


109. ある夫婦からの便り


 

久ぶりに上京して、1週間ばかり都内を見て回り帰ったある夫婦から便りが来た。自分たちが行ったところを書き綴ったものであったが、その中に、帰りがけに友人宅の近くの神社でよく見かける猫があまりに自分の家に遊びに来る猫に似ており、つい猫の缶詰を買い慣れてきたその猫にやっていると、「何をしているのですか」と聞かれ、猫の糞で困っているので餌をやるのはやめてくれと言われたらしい。そして、そのことで折角の神社のいい風情と心地よさが一瞬にして消し飛んでしまったと言っていた。

 「猫の糞で困っている」ことにどのような正当な理由があったにしても、神社で猫を追っ払って、箒で猫を叩いている様子などを思い浮かべると興ざめで、この神社なからましかばと覚えしかである。夫婦の気持ちが壊されたことはよくわかる。猫はその餌などを食べなくとも鼠を捕って食べたり、どちらにしても生き物である以上どこかに糞はするのである。餌をもらう場所と糞をする場所との因果関係も不明である。

 私が以前教師をやっていた時に、普段遅刻することのなかった生徒がその友達と一緒に遅刻したことがあった。教室に入ってくるなり「すみません、公園で猫が弱って倒れていたので餌をやっていましたので・・・」と言った。私はその時、謝ることはない君達はいいことをした、とだけ言って彼らを席に着かせた。

 糞害、フンガイだと大騒ぎする人々にも一理はあるだろう。しかし、「害虫のいない小鳥と蝶が飛び交う街」作りをしているのではないか。害虫も糞もなければ小鳥たちは存在し得ないのである。去勢された家猫ばかりでは通りには一匹の猫もいなくなってしまう。そんな風景が想像できるだろうか。そこには異常繁殖した鼠が我が物顔で歩いていることだろう。人間の目先の浅知恵とはこんなものである。

 子供たちが野良猫に餌をやっている、傍らで黙って見守りながら糞の後始末をする。それが「大人」の役割でもあろうし、「大人」というものである。子供はよく大人の動きを見ている、そして、大人の感情はそのまま子供に伝わる。程よい、大切な情緒が育たないのもそうした細やかな世界との関わり、積み重ねが欠如しているからとも言える。

 

                                                       2011 1/14

 

 


 

108.「立ち止まって考えよう国民会議」の趣旨に賛同する


 

 「週刊朝日」(1/21)の「意見広告」に載っていた「立ち止まって考えよう国民会議」の趣旨には賛同できる。

 この趣旨内容は私がブログなどで1年半近く言ってきたことと相通じるものがあり、方向もほぼ同じであろうと思われる。このような会が真の「市民」を一人でも多く育てていくことを期待している。

 私は匿名のツイッター、ブログの無責任な内容については、かなり否定的な検証をするか破棄してしまうかのどちらかで、基本的にはまったく信用していないので、この会の趣旨でもある姓名の「公表」を前提とした「『自立した個人の責任』を明確にする集まり」というところについても共感がもてる。

 

                                                  2011 1/13

 


 

107.タイガーマスクの喜捨


 

 つまらない社会分析は不要。最初にタイガーマスク(伊達直人)と名乗る者が一歩を踏み出し、喜捨(寄付)したこと、このこと自体が重要な意味を持っている。そして、今後こうした「喜捨の文化」がまた復活することを期待したい。これは今年最高の出来事、最高の賞に値するだろう。

 今の「内閣」が「無閣(ナイカク)である以上何も期待することはできない。「無いもの」に向かって何を言ってみたところでそれは「無」である。そんなこととは関わりなく「一歩を踏み出した」「伊達直人」その行為そのものが何ものにも換え難い。「喜捨の文化」は昔からあったが、絶えて久しい。このような文化が再び甦ることを祈りたい。

                                                                                                                                     2011 1/12

                                                       ため息に笑みが零れた夜

 


 

106.「倒された」ガブリエル・ギフォード


 アリゾナに住んでいたある日本人によると、下院議員ガブリエル・ギフォード(民主党)は穏健派として、まともなことを言う議員として知られていたということである。そして、「移民法」(アリゾナでは移民が証明書を持っていなかっただけで逮捕される)と戦って中間選挙で当選とある。これに対して共和党支持者、Tea Party支持者の反撃は当然あったであろう。そして、どちらかの支持者の中に狂信者(銃乱射の犯人は22歳の男)がいても不思議ではない。実際、このアリゾナ州では彼女以外はすべて共和党議員である。さらに、この州はアメリカの中でも銃規制が非常に緩慢なところで、犯人の男も去年11月に簡単に小型の連射銃を手に入れている。そのような状況の中で以前にもアリゾナ大学で教授3人が軍出身の学生に大学内部で射殺される事件が起きている。そして、今ではアリゾナ大学のドアのすべてには銃持込禁止のマークが貼ってあるという。

 中間選挙当選の経緯などを見ても、彼女が「移民法」に対して何らかの改正を試みて、移民たちの票が彼女に流れたことは納得できるが、ツイッター、ブログなどの中には「ギフォード議員は銃規制に反対し、不法移民の取り締まり強化を唱えていたことでも知られている云々」とか、「ギフォード議員は民主党所属ではあるが、いわゆるリベラルではなく、市民の銃所持権や違法移民取り締まりといった比較的保守的政策を支持している。云々」などと、あたかもそれが客観的事実のように伝えているものもあるが、それではなぜこのようなテロをうけたのか、要するに、これらの発言は今回の事件は共和党、Tea Partyとはまったく無関係な者の単なる精神に支障をきたした者の犯行と言いたいらしい。少なくともそのような方向に持っていこうとする意図が見える。

 実際、ギフォード議員は共和党支持者、tea party支持者からポスターをはがされたりかなりの妨害を受けていた上に、tea party支持者が推す共和党候補を僅差で抑えたという経緯がある。さらに、アリゾナ州はすきあらば議員を暗殺しようとする人が数多くいる土地柄でもあるという。そうしたことから孤軍奮闘する彼女の姿は浮かび上げてはくるが、先ほどのツイッター、ブログの主張からはかけ離れてくる、もしその主張の通りなら他のすべての共和党員、tea partyの主張ともほぼ同一で孤立も、狙われる必要もないからである。それでも狙われるとするなら、反オバマ路線の同一線上にある人種問題が絡んでくる。因みに、彼女の夫はパイロットで海軍大佐、現在NASAの宇宙飛行士であるという。

 彼女がいる病院には市民がろうそくを持って集まり賛美歌を歌っているという。アメリカの「良心」とも言える彼女の回復を祈りたい。

 

※Tea Party(ティパーティ運動)

2009年からアメリカ合衆国で始まった保守派の政治運動である。オバマ大統領就任後に始まったことから反オバマ運動の側面も持つ。2010年の中間選挙で共和党躍進の原動力ともなったといわれている。「保守派(共和党非主流派)の草の根運動」の代名詞となっているともいわれるが、特に中心となる明確な理念、思想があるわけではなくかなりばらつきがある。反オバマということからもつながり得る「人種差別問題」、彼らは「白人優位主義者」と言われることを否定しているようだが、「集会、集会参加者の中には弁護のしようのない人種差別が見られたのは事実である」というのも頷ける。これは骨格となり得る理念、思想のない各自勝手な思い込みで集合している「集票マシン化」した反動勢力の集団である以上避けられないことであろう。何が起こっても不思議ではないが、こうした動きに距離を置いている人々の共感を得られるかどうかまったく不明。tea party のメンバーにしてみれば、ガブリエル議員のテロ事件で反tea party感情が高まることだけは避けたいところであろう。

 しかし、その狂信的ともいえる扇動的行為がもたらしたテロに対してはもはや釈明の余地はない。その責任は否応無く取らざるを得ないし、距離を置く「中間層」はこの事件で確実にに離れるだろう。また、このテロに対する世界的評価も同様であろう。誰が見ても、自国の民主主義を崩壊させるようなテロの扇動を平然と行っておいて、「民主主義国家」、「自由の国、アメリカ」はないと思うのは当然である。世界的視点からも、これではテロを断ずる資格なしと見えるだろう。この「tea party」の行く末、限界はもう見えている。この「共和党の突撃隊」は共和党によって何らかの形で切られるだろう。

 

※2002年 10月28日 アリゾナ大学構内で女性教授3人が射殺された。

 

                                                                                                                 2011 1/11、1/13 1部加筆

 

 

                                                                                               


 

105.テレビ報道の嘘と誘導


 

 もう今更マスコミの欺瞞構造とファッショ化した検察については言うつもりもない。それらについてはジャーナリストの魚住昭、田中良紹なども具体的に指摘しているところでもある。しかし、性懲りもなく巧妙に繰り返されているその様を見ていると、つい何度でも言いたくなってしまうと言うより上下左右壁面に攻められて精神的息苦しさを感じるのである。それらを無視しようと思えばできないこともないが、この俗世間に身を置いている限りその息苦しさは如何ともし難いものがある。彼らにいくら問いただしたところでそれが組織である以上、たとえ非を認めたとしても急停止も、方向転換もできない。彼ら自身も余程の馬鹿でない限り、その凋落を肌で感じているだろうが、それでも隙あらば非を訴える者を単なる視点の相違程度の領域に留め、自らの立場をさらに強固なものにすべく保身に全身全霊を費やさざるを得ないのが現状であろう。

 そのような負のスパイラル的状況の中で、彼らはまた蠢動を開始した。もちろん舞台は政治であるが、私の習い性となってしまった演出者的視点で観ているとあまりも見え透いた安手の構成・演出に腹立たしさがこみ上げてくる。こんな三文芝居をいつまで続ける気なのかと思うが、そんな三文芝居を営々と今まで作り続けてきたのがテレビを中心としたマスメディアである。

 はっきり言えば、この程度の「演出」、「切り取り」で納得してしまう、または反応してしまう者達とはやはり愚かである。その愚かさ具合を充分知り尽くしてやっている方はさらに罪があるのは確かで、それは「認知症」の人間を「認知症」と認定せず弄んでいるようなものである。

 最近、よくテレビに画像に出てくる「政治家」などは、<官僚機構+マスメディア>によってキャスティングされた彼らにとって一番都合のいい人間と言うほどの意味でしかなく、すなわち彼らの傀儡ということである。今、彼らが何を執拗に取り上げるかを見れば<官僚機構+マスメディア>のシナリオは明確になる。

 しかし、既得権益を死守したい気持ちもよく分かる。せっかく築いてきた「おいしい部分」を壊されてなるものかと思うのは聖人でない限り当然のことであろう。既得権益に限らず、当初より成立自体に内部矛盾を内包しているものは、そうでないものが果たして歴史的に存在したかどうか思い当たらないが、その矛盾がある時から複合的要因で増殖し始めていつの間にやら手の付けられぬ末期症状となって本体そのものが崩壊して行くということは言ってみればよくあることでもある。しかし、その期に及んでさらに瓦解寸前のものを建て直し、維持させようとすることは、虚偽、デマゴーグも厭わなくなる方向に進むざるを得なくなる。それはその渦中の者がとても個的に止められる作業ではない。糊塗、糊塗の連続、でっち上げは日常茶飯事となる。もし、そこでテレビを観る側に「テレビには正しい報道は存在しない、それは不可能なことである。」したがって、飽くまでひとつの報道はひとつの見解として読み解くという認識が成り立っていなければ、それらの報道の虚偽には弱者を騙してその保険金を騙し取るに等しい罪深さがある。

 現状の画一的な報道内容の虚偽は、おおよそ報道の自由などとは懸け離れた統制であろう。明らかに民主主義国家の報道ではあり得ないことだけは事実である。もしそれが統制ではないというのなら自由な報道のあり方について再度明解な釈明が必要であろう。今、改めて「正しい報道」をせよとは言わない、「報道の自由」をきちんと実践しなさいと言わざるを得ない状況にあることだけは確かなのである。

 深いため息ですべてを収めたいとは思うが、なかなか儘ならぬのが世の常か。

                                                   2011 1/10   

 


 

104.折に触れて・・・


 

 折に触れて、書き連ねて、はや1年半。

 私はジャーナリストでもなく、特に社会面に関してはその時々に感じたままを誰に気兼ねすることもなく自由に書いてきたつもりであるが、たまたま検証資料として取り寄せた書籍の中に、田中良詔氏の2005年に出版された書籍があった。それは、事実に即してジャーナリストの視点で明解に論じられた内容の本であった。その中で、この間私が書いてきたことと著者が収斂させる方向が、期せずして符合していることを確認できたことは大いに参考になった。そして、このようなジャーナリストがまだ存在していることにほっとする思いがあった。もちろん、他にも真にジャーナリストと呼びうる人々はいるし、実際に確認もされている。

 しかし、このメディアの「イカサマ」について指摘した本が書かれたのは数年前になるが、いまだにまんまとその手に乗る人々とは一体何者なのか?やはり見れども見えずか。

 

                                                     2011  1/7

 


 

103. 改めて「視聴率」とは?「世論調査」とは?


 

 日本の視聴率調査は、1962年に設立したビデオリサーチという会社が「独占的に」行っている業務である。3種類の調査方法があるが、「無作為」に抽出した家庭に視聴覚集計専用の機械をTV側に設置し、その家庭が発信するデータを集計して「割り出した」数値である。調査員によって行われる場合もあるようだが「無作為」なので具体的には不明。少なくとも私の周辺では聞いたこともない。この「無作為」というのはクセモノでどうとでも言えるのである。それについては、最近でも「無作為」で選ばれた者達の検察審議会について問題になったことがある。

 そして、視聴率調査を「独占的」に行うこの会社の相関関係、利害関係は以下のとおり。

この会社の主な株主

株式会社TBS、日本テレビ放送網株式会社、株式会社フジ・メディア・ホールディングス、株式会社テレビ朝日、株式会社テレビ東京、株式会社毎日放送、読売テレビ放送株式会社、株式会社電通、株式会社博報堂、etc.

 

 以上のことは、世論調査についても敷衍できる。アメリカには「複数」の世論調査の専門会社があり、その正確さに会社の信用のすべてをかけて行っている。このように専門の世論調査会社が「複数存在」する国と、わが国のような新聞社、テレビ局のやっつけ仕事のような世論調査とは根本的にその精度が違うのである、精度が違うだけではない、いくらでも捏造できるのである。もともと「わが国の新聞とテレビには捏造報道の伝統がある」と言われているくらいである(その例は枚挙に暇がない)。また、新聞社の世論調査担当者が「新聞社の世論調査で分かるのはトレンドだけ」と言っていることからも、正確な世論などが反映されていないことは誰の眼にも明らかなことなのである。

 頻繁に行われる世論調査は、その頻度に比例して精度は落ちてくるのが実情である。現在は一頃の10分1の予算で下請けにやらせている上に、その頻度が増せばどういうことになるか、当然最低必要な「金」も出ない「やっつけ仕事」は度を越してくる。その作業は固定電話にしかかけられないシステムでの電話応対のみである。手っ取り早く「当局」が必要とする回答だけを導き出すのは彼らにとってはお手のもの、それが中心の世論調査と言ってもよいのである。

 やはり日本の大手マスメディアにはジャーナリズムは存在しないと言ってよいだろう。それは、言ってみれば、「既得権益側」と「政府」、もう少し正確に言えば、アメリカの権力機構の下でいつの間にかその中枢に位置するようになった「検察」、そして「既得権益擁護の政府」、それらの「広報機関」とも言えるようなものである。そう思って見れば逆によくものが見えてくる。彼らが執拗に強調することで、何にが彼らにとって都合の悪いことなのか、何をすり替えようとしているのかが分かり、、繰り返し流す映像で彼らが何をアピールし、何を排除しようとしているのかが知れる。微妙に数値を置き換える作業、さり気なく削除している箇所などもすべてが同様の手口で、彼らが提示するその逆の部分に、彼らが隠したい都合の悪い、「隠された真実」が存在する。それこそが問題の中核で、それが彼らには一番の脅威なのである。それを丁寧に吟味すれば、金と権力を死守しようとする彼らがどこに持って行こうとしているのかが見えてくる。しかし、権力と金まみれの者達が「政治と金」というお題目を芸もなく唱え続けて一体何をしようというのか、何を排除しようとしているのか。それはもはや小沢一郎一個人の問題では収まらない、民主主義の要の部分を排除しようとしているのである。これでは政治は単なる愚者達の危険なお「マツリ」騒ぎである。実に悲惨な滑稽さである。彼らに共通して言えることことは国のこと、国民のことなどはまったく眼中になく、最大の関心事は彼等自身にとって都合のいい国の在り様と国民統制である。そのことをゆめゆめ忘れてはならない。

                                                      2011  1/4 

 


102. 「笑えて、悲しくて、感動させる」? 


 

 モーパッサンではないが、大方の読者、観客というものは「慰めてくれ」、「楽しませてくれ」、「笑わせてくれ」、「悲しませてくれ」、「感動させてくれ」などと要求するものである。しかし、少数の選ばれし者達だけが「あなたの気質に応じて、一番よくあなたに適している表現の仕方で、何か美しいものを作ってください。」と要求する。そして、「創り手」はそれを試みて成功するか失敗するか、ただそれだけのことに過ぎないが、その成否についても大方の読者や観客と選り抜きの者達とは反応が同質ではない。

 あらゆる文化的営為の「大衆化路線」、言ってみれば大方の人々の要求を取り込んだ方向というものはどちらにしても「内容」そのものを希薄にさせることを免れ得ない。そして、それはやがて形骸化の道を歩み、文化的営為そのものに堕落を招き寄せることになる。少なくとも、その堕落をさらに増長させる方向で加担してしまうか否かで、その「作り手」の「真価」も問われることになろう。

 しかしまあ、テレビに出ている「タレント」集団、「怪物ランド」あれは一体何なのか、無芸無能、意味不明の楽屋落ちの連発、いまだにその実体がよくつかめない「落伍者」の群れである。テレビは互助会、救済センターなのかと思えてしまうが、無理やり見せられる方はたまったものではない。

  しかし、そのようなテレビ番組の中でも極僅かではあるが企画の面白さなどが見られるものもある。いつだったか海外のCMをいくつか紹介していたが、そのセンスの良さ、面白さ、エネルギーの強さは日本のCMとは比較にならない。そのCMの格差がそのまま現在の世界と日本の格差と言ってもよいくらいである。決して日本人にセンスがない訳ではない。以前はあったなどとも敢えて言うつもりはない。ただ、いくら元気を装っても日本のすべてが衰微しているのである。残念ながらそれが否定し難い実情でもあろう。

 

                                                        2011    1/3

 


 

101. 4000年前のブログ


 

 ー今日は誰に話しかけたらよいのかー

 「今日は誰に話しかけたらよいのか。兄弟はわるい。今日の友人たちは愛らしくない。今日は誰に話しかけたらよいのか。人々は貪欲だ。誰もかれもが隣人のものをぬすむ。今日は誰に話しかけたらよいのか。優しさは消えうせた。すべての人々は傲慢だ。今日は誰に話しかけたらよいのか。満足げな顔色をしているものは悪人で、善人はどこでも相手にされない。今日は誰に話しかけたらよいのか。何人も過去のことを忘れ、善をほどこした人に善をむくいようとするものもいない。今日は誰に話しかけたらよいのか。人々の顔は見えない。誰もが面をふせて、同胞をまともに見ようともしない」

 これは、実は4000年以上も前に「生にあきたものの自己の心との対話」と題してパピルス(葦の茎から製した一種の紙)に記されていたものである。しかし、何気なくブログに書き込まれていたらそのまま現在のブログとしておさまってしまう「内容」である。

                                                 

                                                          2011  1/2    


100.  2011年元旦 年賀状


 

  私は、元旦から年賀状を書く。

毎年、賀状を戴く方の中に、ある著名な声優さんがいるが、

その賀状の中に、

「長らえて さても傘寿の 綱渡り」とあった。

もうそのようなお年になられたのかと思うと、星霜の過ぎ行く様にただ驚くばかりである。

私は、その賀状に対して傘寿を祝いながら、「初日の出 傘寿米寿と 綱渡り」 と返した。

 「綱渡り」とはN氏らしい表現で、其処から伝わってくるお元気な様子を思い浮かべて思わず微笑んでしまった。しかし、私には今や、すべての老若男女が否応なく「綱渡り」を強いられていると思えてならないのである。もちろん、生きることこと自体が本来「綱渡り」であることは確かであるが、そのような認識が個的に充分成り立っていれば「足もと」を「照顧」することで、ある程度のバランスを維持できるのではないかと思われるが、しかし、実情は半ば強引に訳も分からず後ろから押し出されるように綱の上に立たされ、「足もと」など見る間もなく足を踏み外し、落下して行く者達があまりにも多過ぎるということである。それでは一体「誰が」あたかも安全な方向であるかのごとくの錯覚を人々に起こさせ「綱の上に」導き、押し出しているのか、それをじっくりと冷静に見極めることも同時に必要なのではないかと思っている。

 思いつくままのたとえで言えば、少子高齢化社会、人口の減少などは今更驚くべき問題でもあるまい。当然の帰結で、それは取りも直さず、衰退の証でもある。この国の施政はすべに渡って常に「渇に臨みて井を穿つ」という「後手施政」なのである。どうしてそうなるか今更言うまでもないことであろう。もしそれが分からないというのであればそれはとても「市民」などとは言えない、単なる訳の分からぬ「人々」ということになってしまう。

 私も幸運にも「綱渡り」を始めて久しいが、やはり普通の感覚、判断力を持っている人間であれば、かくのごとき祖国に身を捨つる甲斐ありやと思うのが至極当然であろうと思われる。正確に言えば、それは祖国ではない施政そのものである。

 

※脚下照顧 

足もとを見よという意味で、いたずらに外に向かって「真理」を追い求めることをせず、まず自己自身を明解にさせよ、明らかにせよという程の意味である。

                                                2011年 元旦

 


 

99. 12月 劇作家ピール・ノットと会う


 

 彼は少々疲れ気味であったが、すぐにいつもの笑顔を見せた。最近のフランスの演劇事情などについても話しながら、食事をしているといつしかパリにいる時のピエール・ノットに戻っていた。彼の著作の電子書籍化なども含め話を進めていると、あなたは舞台の演出をやめたのかと聞くので、私は、やめた訳ではないがよりよい作品を創るために妥協をしたくないだけであると応えた。そして、来年、日本で演出する自分の芝居を観に来るかと聞くので、私は、あなたの演出はパリで観ているので観に行かないかもしれないということを伝えた。他にも理由があることは彼も知っているので、それ以上のことは言わなかった。

 その時、私は30年程前のニコラ・バタイユが日本人俳優を使った舞台を思い返していた。バタイユには独特のメソードがあったが、それでも日本人俳優は感情の程よい制御が出来ず、思ったようなテンポも出ず、シャープさ、滑らかさにおいてフランスの舞台とは質的に「別物」になっていた。メソードが確立されていて、稽古日数も確保されていてもその調子である。もし「メソード」が共通認識としてない場合、フランス流「振り付け」に対してどこまで日本人俳優が内的に埋められるのか、それをするにはやはり創造的集団の「共通言語」としての「メソード」が徹底されていなくてはならないであろう。そうでない限り、それはばらばらな単なる質の悪いギィニョール(人形)芝居に終わってしまう可能性がある。もしそうしたフランス流「振り付け」の演出の方向でやるのであれば、私にはまず日本人俳優の「作られた」顔の表情は必要ないので、仮面劇となるだろう。

 

 いつパリに来るのかとピエールが言う。できれば来年と言ったが日取りは決めていない。

翌日、ピエールからメールが来た。

 Vos présences  votre générosité  votre attention  vos sourires font d'un parisien perdu dans Tokyo

l'un des hommes les plus heureux  sur la terre.

 

ありがとう ピエール・ノット

またパリで会いましょう、マリーによろしく。

                                                  2010 12/29    

 

 

 


 

98. 2010年度報道の功労賞


 

〇「週間朝日」

 検察報道に始まり終始一貫、圧力に屈することなく本来のジャーナリスト精神の在り方を示すと同時に、誠実な姿勢で問題提起をし続けた。

〇「日刊ゲンダイ」

「小沢問題」に関係する様々な政治情勢を日々的確に、具体的に国民の側に立って提示し続けた。

 残念ながら、それ以外のすべての報道は横並び一列で言論統制下の内容と変わらず、ジャーナリズムなどとはとても言えない代物であった。そのほとんどが論を重ねれば重ねるほど胡散臭く、見るべきものはなかった。ジャーナリズムは因循姑息な方法では成り立ち得えない、常に検証されてしかるべきものであろう。

 

                                                2010  12/28

 


 

97.悲劇の女王 ブエナビスタ


 

 有馬記念で2位となったが、やはり誰が見てもブエナビスタは最強馬であろう。あの位置取りから追い上げて同着と言ってもよい写真判定の2位である。騎手も前回の「日本の判定基準」を気にしてか、誰にも文句の言えない位置から追い上げようとしたのであろう。それでも勝てる馬だという思いがあったのは確かである。それはよく分かるが、「慎重」になり過ぎた。しかし、それは騎手にも馬にも責任はない。因みに今回の有馬記念は1位2位 3位まで外国人騎手である。

 前回のジャパンカップのブエナビスタ降着については、いくらもっともらしいことを言われても多くの競馬ファンには「すっきり」しないものが残ったのは事実である。そして、今回の写真判定である。今回については前回ほどの問題はなかったにせよ、前回のことが尾を引いているのは明らかなことで、このようなことは様々な形で波及する。現実的には、経済効果にも大きな影響が出てくるだろうし、それだけではないブエナビスタを悲劇の女王に「してしまった」ことは多くの人々の意識面に暗い影を落とし、マイナス方向のベクトルが強くなるのは否めないだろう。

 それにしても、あの状態でペルーサを4位につける安藤勝己騎手はやはりすごいと私の競馬好きの友人は言っていた。そして、彼だけが唯一世界に通用する頭と腕を持っている日本人騎手であるとも言っていた。

 

                                                             2010 12/26

 


 

96.心地よい符合と先取り


 

  今年1年分の私のブログなど(原稿用紙500枚前後)を読み返してみて、私が、ジャーナリスト、評論家、作家、学者として認める人々と見解が符合していたこと、むしろ2,3週間、場合によっては1か月、1年程度も先取りしていた見解もあったことを再確認できたことは、少なくとも今年1年、自分自身はまだ「死んではいなかった」ということの「証」にもなって心地よかった。

 私が先取りして「比較的自由に」書けるのは、「自由」な立場にいるからに過ぎないが、「奇異でないようなものの見方というものは、虚偽である。」ということを今一度かみ締める勇気が必要であろう。

                                                2010 12/25    

 


 

95.師走


 

師走、かくあることぞ有り難き

月影に目を移せば

傍らに猫をりしこと忘れぬ

・・・・・

つくづく人の世を眺むる間に

命絶えぬるとも

そをもてよしとす。

 

                                        2010年師走 某日 寒き夜半に記す

 


 

94. 三文役者と政治屋と


 

  両者は血縁関係があるのではないかと思える程実に良く似ている。いっぱしの口をきくがそれ程の内容もなく、状況次第でいかようにも変節する。簡単に言えば信用できない存在である。自分の都合の良いように自分のことは棚に上げ、でっち上げ脚色、解釈する。これだけ臆面もなくよくできるものであると思うが、それが彼らの彼らたる所以なのであろう。もはや彼らにはスタンス、理念などは概念としも存在していないのである。彼らに巻き込まれないように距離を置いていても、そのあまりの数の多さに回避するのが困難な状態である。まともに「政治家」と言い得る者が「天然記念物的存在」になっている今、「役者」などと言い得る者に出会うことも「奇跡」に近くなっている。本来、「役者」も「政治家」も、「詐欺師」ではない。もし、天才的詐欺師が「役者」として、または「政治家」として存在し得るなら、それは「狂気」としてしか存在しない。それに乗せられる者も「現実的」ではないという意味ではやはり狂っているのである。

 まともな「政治家」、「役者」が成り立ち得る「機」がこのような状況の中では「醸造」されにくいのかもしれない。それに加えて下降一途の大手マスメディア、芸能関係ならまだしも報道関係で内容の歪曲、増幅、矮小化はお手のものであっては困る、と言うよりそれは犯罪的行為でもあろう。視聴率、発行部数を上げることに躍起となっているのだろうが、だからますます衰退すると言うことを思い知った方がいい。この先いくら既得権益にしがみついたとしても、やがては崩壊しざるを得ないのである。既得権益にしがみつくこと自体が世界の大きな「うねり」に逆らっていることになるからである。今言えるのは、せいぜいその「うねり」の目算だけでも誤らないでほしいとしか言えない。それ程、閉塞的で悲惨な状況である。

 そして、ここにきて裸眼で観られる3Dテレビの登場である。技術開発者には悪いが、そのようなテレビで観る内容のものが果たしてテレビで放映されているのかということである。おそらくDVDなどの外部ソフト専用のテレビになるのであろう。もしこのようなテレビで今あるテレビ番組(内容)を毎日見せられたら発狂する者が現れても不思議ではない。ニュース報道など見せられたら尚更であろう、思わず手が出たり、吐き気をもよおすものも現れるのではないかと思われる。私のところでは、転居時に買った薄いテレビが放置されたまま、黒板のように埃をかぶっている。

 4Dテレビが出たら買うつもりであるが、その必要もあるまい、その頃には私はもはや存在しない。

 

                                                      2010 12/23

 

                                                   


 

93. あまりの月の美しさに


 

 佇んでいると、風が体を通り過ぎて行く

言の葉も軽やかに私の中を流れて往く

Le vent  se lève ・・・   il faut tenter de vivre ・・・・・

訳したくはない。

風が私の中を通り過ぎて往く・・・ああ、生きなくては・・・・・

 

                                              2010 12/22  月夜に

 

 


 

92. 寂しき街

 


 

 私の住んでいる周辺の商店街も例年になく閑散としている。以前はもっと活気があったがその面影すらない。師走らしき音も光もない。2か月振りに会った人も、そのあまりの変わりように駅を間違えたかと思いましたと言っていたが、その人自身も2か月程で随分と痩せてしまった。一人で2,3人分をこなさなくてはならず、仕事がかなりハードになっているらしい。部下を自殺させてしまったと悩んでいた人も今はもういない。

 帰宅時には、駅の周辺から商店街に通じるどの通りも足早に通り過ぎる人ばかりであるが、その人通りも以前からすると少なくなってきている。商店街を離れて住宅街の方に行くと、そこでは12月らしく点滅球が広範囲に渡って飾り付けられているところがまだ何箇所かはある。夜半ともなると、月影の中で音もなく明滅する飾り付けだけが其処彼処で浮いて見える。

 寂しき街は貧しき街、変容を余儀なくされていることだけは確かであろう。再生するのか滅び行くのか、それすら定かではないが、このままでは滅び去るより仕方あるまい。

 

                                                     2010  12/21

 

 


 

91.スタジオ パーティー


 

 12月18日、スタジオパティー(スタジオ・エルアイレ)を行った。例年行っているものではあるが、一般的な「忘年会」ではない。ここのところ毎年パワーアップされてくるように感じる。各自が持ち寄ったものを食べ、語り、飲み、踊る(フラメンコ)パーティーであるが、その一つ一つが実に凝っている。楽しめる。2時間の予定がいつの間にか4時間になってしまった。今年も終わろうとしているが、このような「場」の高揚感を味わえる瞬間とは何ものにも換え難いものがある。こうした事を通して1年を締めくくることができることは幸いであると思っている。今の日本の事情を考えると尚更である。

 

 帰宅後、メールに私の舞台にも出演した役者の急逝を伝えるメッセージが入っていた。3週間程前、彼の元気な姿を舞台上で観たばかりである。12月17日朝、死去とあった。何があったか分からぬが、つくづく一期一会、老少不定を感じる。

 

                                                    2010 12/19

 


 

90. 過去を忘れる必要はない  (再)


 

 忘れようとするからまた愚かなことを繰り返すのである。過去を忘れようとすればするほど過去は追って来る。そして、過去は「文脈」を離れて増幅され、自分を追い越す。そのような事態は今、自分自身が前に向かっていない、閉塞状態であることの証でしかない。さらに一歩を歩もうとしている者の前では、見るも「無残な」過去も、「栄光」の過去もともに徐々に溶解し、分解され再構成されてくる。それでも「過去の声」は聞こえるが、もうすでに聞こえ方が違う。そこでは過去の「文脈」からもぎ取られた「単語」だけが勝手に独り歩きをすることも、それによって自らが呪縛されることもない。

 師走の夜、ジングルベルではなく、どこからともなく「過去なんて忘れなよ」の歌詞が流れてきたのでつい・・・

 

                                                           2010    12/17

 


 


 

※90の文章途中から78まで、同一箇所がどういう訳か消えてしまうので現在調査中。この箇所の文章消失は2度目である。以下が消失箇所。原版はあるのでいつでも再生可能。<随時再生加筆>

<調査結果>一項目の許容量を超えたため同一個所が消失。

 


 

 


 

89. 夏草や兵どもが糞袴(くそばかま)    (再)          2010 12/16


 

 

 「夏草や兵どもが夢の跡」という芭蕉の句を卑しめるつもりも、茶化すつもりもない。ただ、戦そのものはどのような「正義」があろうともそのようなことはお構えなしに凄惨を極めるものである。「凄惨を極める」などというと、どこかその凄まじさだけが強調されるが、それだけではその戦場の生々しさを伝えることはできない。実際、私はそのような映像、映画を観たことがない。もちろん戦場に居合わせてこともないが、どれもこれもきれい過ぎるのである。戦場の生き地獄を体験した兵士は、戦場には「正義」はない、生き死にを懸けた、ただの殺し合いだと言う。そして、生還した今、精神に支障をきたしている。それが普通の「人間」であろう。その通りであろうと思う。戦場には「人間」の「思い」など微塵もない。あるのは果てしのない憎悪と殺し合いだけである。その場で戦う兵どもに夢などはない、あるのは目前の生き死にだけである。国取りに果てしない欲望をたぎらせているのは、高みにいる極一部の者達だけであろう。

 糞袴(くそばかま)とは、歴史書にも出てくる生々しい表現である。敗走する兵が恐怖のあまり糞を袴の間から垂れ流しながら逃げる様を言ったものである。戦闘とは常にいつ終わるかも分からぬ24時間の戦闘である。自分の都合のいい時だけ戦うことなどできない。食事、睡眠、用足し、そんなことなどとは無関係である。奇襲、不意打ちは日常茶飯事、どんな武者であろうが、24時間隙なく構えていることなどできることではないが、それを余儀なくさせられるのが戦場である。出陣する前に、まさか自分が糞袴で死に行くとは想像だにしないだろう。しかし、戦場ではそれは誰にでも起こり得ることなのである。

 「夢の跡」とは、野望と憎悪と糞袴の跡でもある。そこにロマンはない。

                                                   2010  12/16

 


 

88.<物語り>を拒絶する    (再)                                               2010  12/15


 

  ある演劇の案内に、<さあ、人生に物語を取り戻そう!>というコピーがあったが、「誰一人、生活が筋のある物語に変わってしまうことの不幸に気がつかないらしい」という阿部公房の悲痛な叫びが甦ってきた。「残されているのは、物語という檻の中を、熊のように往ったり来たりすることだけである。」

 「どこかの馬鹿が、またせっせと小説などを書いている。とんでもない話だ。息をひそめた囁きや。しのび足が求めているものは、むしろ物語から人生をとりもどすための処方箋・・・」そして、「いっそ、この物語という檻の悲惨さを、ぶちまけてしまったらどうだろう。」と思うのは私も同様、この一見平易な演劇のコピーを素直に受け取れないのは、見飽きた<檻>にまた戻されるのではないかという感覚と、それでは一体どのような<物語>を取り戻せるというのか、という反発が同時に起こった所為だろう。

 このコピーの上には、さらに<人生に物語を描くのが困難な現代こそ・・・>とあった。果たしてそうなのか?もうすでに人生に貧相な<物語>を作り上げてしまっていて、敢えて自らそこから身動きできなくしてしまっているのではないか。そうであるなら、そのような人々が求める<物語>とはさらに<心地よく>自身を縛る<筋>であろう。それはやはり不幸なことである。

                                                  2010  12/15

 


<以下87ー78は許容量オバーの為ーある日、その時ー(4)に移動>

 


 

87.ツイッターの無意味さ                                                 2010   12/14


 

 86. ワンワードポリティクスから阿Qポリティクス         2010  12/13


 

 85. 怪人鉄面皮                                                              2010  12/10


 

 


84. 奇妙な風景                                                                2010 12/8

 



83. 平田オリザと鈴木忠志の対談                                  2010 12/6


 

 


 

82.蘇東坡の「朱竹」                    2010 12/5



 

81.Wikileaks(ウィキリークス)は本来のジャーナリストの姿      2010 12/1


 

 


 

80.世界に通用しない日本の「ジャッジ」                 2010   11/29



79.「戒厳令の夜」                              2010   11/22



 

78.安直さに潜む危うさ                           2010  11/21


 

         

「ある日、その時」 (4) 2010年11月21日~12月15日



ーある日、その時ー(4)  掲載内容  2010 11/21ー12/15

78.安直さに潜む危うさ 79.「戒厳令の夜」 80.世界に通用しない日本の「ジャッジ」 81.Wikilieaks(ウィキリークス)は本来のジャーナリストの姿 82.蘇東坡の「朱竹」 83.平田オリザと鈴木忠志の対談 84.奇妙な風景 85.怪人鉄面皮 86ワンワードポリティクスから阿Qポリティクスへ87.ツイッターの無意味さ




87.ツイッターの無意味さ


 日本においては、残念ながら拾えるものがほとんどない。簡単に言えば、自分自身の考えというものがまるで見えないのである。何者かに言わされていることに気が付いていないとも言える。日本の異様とも言える大手マスメディアの横並び一列の意見、コメント、それに呼応するかのようにツイッターの内容もほぼ横一列である。ツイッターが自分の感情だと思っていることさえもすべてマスメディアに飼い慣らされ、コントロールされている感情である。たまに特殊「政治」結社の小冊子の100年一律の文言が飛んだり跳ねたりしているが、思い込むのは勝手であるが、傍迷惑。結局、現在のところ日本国内のツイッターなるものはマスメディアが仕掛けた効果確認の意味程度しかないだろう。まだまだ日本の民主主義なるものは形も成していないという思い頻りである。このまま形も成さず消滅する可能性すらある。すでに半世紀近く前、日本の民主主義は死んだという説も出されたくらいであるから、然もありなん。この半世紀、市民意識は育つどころか退化しているのである。

 ツイッターにはもっと生き生きした「ノイズ」を期待したが、「ノイズ」にもなっていない。これではただ大手マスメディアを喜ばせているだけであろう。

                                                2010  12/14


86.ワンワード・ポリティクスから阿Qポリティクスへ


  この題だけですべてを読み取る人もいるだろうが、一応説明しておくと、ワンワード・ポリティクスとはひとつの言葉、お題目を繰り返すことですべての政治上の問題を乗り切ろうとするかなり強引で、でたらめな持って行き方であるが、「分かりやすく」大衆受けする政治的手法でもある。何を問い質しても「論点すり替え」を巧みに使い「構造改革」を繰り返す類である。「阿Qポリティクス」とは魯迅の「阿Q正伝」から引いた私の造語であるが、どんな悲惨な結果に終わろうが、勝負に負けても、自分の都合の良いように置き換え、変換して自分を「勝利者」にしてしまう。現実はまったく逆であるにもかかわらず、観念的操作で自分に適した、自己合理化、正当化できる状態を作り上げる政治戦略である。因みに阿Qの最期は銃殺である。

 個的症状から見れば、ワンワード・ポリティクスも阿Qポリティクスも共通する症状はサイコパス的傾向を持つことである。

※サイコパスの特徴

〇良心の異常な欠如 〇他者に対する冷淡さ、共感の欠如 〇 慢性的に平然と嘘をつく 〇 行動に対して責任が取れない 〇罪悪感がまったくない 〇過大な自尊心で自己中心的 〇口達者で浅薄な魅力

 現実的には、その現れ方はそのまま現れている場合もあれば、以上のような要素を巧妙に隠す方向でむしろ逆の現れ方をする。「不自然」に強調されていれば、まったく逆と観るべきであろう。

 ただし、この手のチェックリストは専門的な知識を持つ者がチェックすべきで、きちんとした知識もない者が面白がってやるべきではない。単純な採点方式による評価は危ういものがあり、項目別、個的分析は最低必要条件であろう。しかし、世の中には実に様々な「人間」がいて、善良で実直な人々ばかりではないということ、そして、そのような誠実な人々が自分自身を通して他者を見る時に、必ずその死角に入る「人間」が数多くいるということの一つの参考資料にはなるだろう。

 

                                             2010   12/13

 


85. 怪人鉄面皮                                                                                2010  12/10


 


 84.奇妙な風景


  先日、来日したフランスの劇作家が東京で撮った写真をメールで送ってきた。電車で口を開けて寝込んでいる若者、耳にイヤホーンをして携帯電話をしている者、パリでは在り様のない「殺風景」な街路、ちんけな店のネオンサイン(12月のパリではシャンゼリゼ辺りでは豪華な光の乱舞である。),何でこんな写真を、どこが面白いのかと思ったが、そう言えば電車内で口を開けてだらしなく寝ている者や、携帯電話に夢中になっている者達などはパリではもちろん、スペインの片田舎でもほとんど見かけたことがない。だから、彼らにとってはそれらが奇異な光景に見えるのであろう。しかし、彼らには面白くとも、それは薄気味の悪い実情を露呈していることにもなる。そこには飼い慣らされて弛緩した精神そのものが横たわっているからである。「単に疲れているだけじゃないの」と言って収まるものであれば、もうすでにその視点そのものも眠らされていると言える。やはり、よく見ればどこか奇妙なのである。しかし、この奇妙感はどっぷりその状況に漬かっている者には見えてこないものである。その国の若者の食事を見ればその国の将来は見えるとはフランスの格言であるが、それは何も食事に限らない。もし、その通りなら日本の近未来のデーターは解析され、もうすでに読み取られているはずである。

        

                                                       2010 12/8

 


83.平田オリザと鈴木忠志の対談


  「なぜ、劇場なのかが問われる時代へ」と題して、問題になっている「劇場法」と日本の文化的状況についての対談内容は大筋のところ納得できるものであった。

 その中で、「この新国立劇場を含む国立の文化施設に関しては、審議会を作ってゼロから見直す方向になっている。」とあった。新国立劇場が俳優養成所を作って、芸術振興基金まで貰っておきながら、授業料を取り、挙句の果てに、発表会を終えた者達を自分のところでは使わず芸能プロダクションに入れているようではやはり根本的に見直す必要があろう。

 また、平田は、「ー略ー 自分では作家の方が強いと思っているんです。まあ、作家としては、日本は滅びると思っています。」などと言っていたが、私もその点に関しては同感ではあるが、平田が本当に作家の方が強いかどうかはその内分かるだろう。この対談は鈴木忠志の切り込み、フォロー、持って行き方なども程よく、現状の流れを伝えるものとして参考になった。

※ただし、「平田オリザが内閣官房参与を務める政治情勢を奇貨として、劇場法に希望を託すのも一法であろう。」(鈴木滉二郎)などとは思わない。政治情勢を奇貨とし得ると思えるところに状況分析の難点がある。逆に奇貨とされてしまう可能性の方が高いであろう。平田の近未来的構想には現状の問題点を踏まえた面白いところもあるが、やはり文化の多様性、表現の自由と言う点においては、画一的にならざるを得なくなるような行政との連携システムには問題が多過ぎる。「『国が文化を創る』ということになり、到底、表現の自由と文化の多様性が守れるとは思われない、このような国主導の文化政策は、発展途上国のものであり、時代錯誤の代物である。」(鳥取大学/文化政策・野田邦弘)と言われても仕方あるまい。しかし、作家である平田が「日本は滅ぶ」と思っているにも拘わらず、なぜこのようなことに精を出すのか不可解。その内に国に義理を通すあまり、作家としては不誠実にならざるを得ない状況に追い込まれるのではないか。「その意に反して」演劇をさらに形骸化してしまうことだけは回避してもらいたい。

 

                                                      2010  12/6


 82.蘇東坡の「朱竹」



81.Wikileaks(ウィキリークス)は本来のジャーナリストの姿 


 ウィキリークスに対しては、誤解を生じさせたり、騙すように意図的に作られたものが社会に出回ってしまうという懸念などがあるようだが、それはすでに日本でも大手マスメディアがやってきたことであろう。最近の例でも、大手マスメディアは検察のリークをそのまま何の検証もせず流していたが、それこそが懸念されるべき対象である。ウィキリークスは、少なくともリークされた文章を充分な知識を持った世界中の人々によって精査し、議論の対象として取り上げているという。その動き、内容などを見ても実際にその通りあろうと思われる。一方的なリークをそのまま既成事実のごとく垂れ流しているわが国の情けない大手マスメディアとは根本的な質の違いがあるのである。ウィキリークスに対してもっともらしい心配をするよりジャーナリスト不在を恥じるべきであろう。其処彼処いるのはパートタイムの政治家とジャーナリストばかりでは、喜ぶのは既得権益にすがる者達だけである。やはり、ウィキリークスの登場には歴史的必然性を感じる。今後も益々拡大するであろうし、もはやそれを止めようとしてもそれはできない。それが世界の大きな「うねり」とも言うべきものである。そして、この「うねり」には大きな「力」が秘められている。目先の波頭にばかり気を取られていてはこの「うねり」の底力には気付きようもない。

                                                    2010 12/1

 


80.世界に通用しない日本の「ジャッジ」 


  日本の「ジャッジ」なるものはどの分野においても世界では通用しないものと見える。

 昨日、競馬をこよなく愛する私の友人と酒を飲み交わすことになった。私自身は競馬に疎いので、黙っているより仕方ないのであるが、彼が言うには間違いなく勝っている馬があの程度のことで降着にさせられるのはどうしても納得できないということであった。彼は競馬の専門用語を遣ってもっと具体的に話していたが、私にはそれ以上のことはあまり分からなかったが、それでもその理不尽さに憤る思いは伝わってきた。

 彼はさらに続けた。そして、「武豊が世界で通用しないことがよく分かった。要するに騎乗が下手なだけで、武豊があのような勝ち方で喜んでいる姿を見ているととんでもなく情けなくなり、怒りがこみ上げてくる。それから、農水省の役人達で構成されている審査そのものにも問題があり、あれでは今後も世界に通用する騎手などは絶対に育たない。」と言い切った。

 私は、また官僚の登場かという思いで彼の話を聞いていたが、役人が庶民の娯楽の領域まで顔を突っ込んで競馬ファンの気持ちを逆撫でしているのである。このような問題が起きる度に、この場合は審査対象基準であるが、それを因循姑息な方法で処理していたのでは世界の趨勢とはすべてにおいてマイナス方向でズレるしかないのではないかということを感じてしまう。

 彼は、ブエナビスタは不運な馬だと言った。そして、日本の騎手の馬に対する感情は、自己の欲望、単なる生活の手段以上のものを感じさせないことの方が多いとも言った。私は、そこで驚いたのだが、彼はレースが開始される前から馬と騎手の一挙手一投足まで観察しているのである。おそらく一般的な「競馬」というコンセプトでは捉え切れないレベルで競馬を捉えているのだろうと思ったが、しかし、それが本当に「好きだ」ということでもあろう。一事が万事、そのような彼であるから、その夜も心地よく飲みながら話もできた。活動の分野が違ってもそういう人達との話は実に面白いのである。

                     

                                                      2010  11/29

 


79.「戒厳令の夜」



78.安直さに潜む危うさ


 

2010年4月21日~11月22日<掲載内容>

ーある日、その時ー(3)  ≪2009年5月ー2010年4月中旬までの掲載分は ーある日、その時ー(1)<45件>、(2)<13件>に掲載≫

1.無党派層諸氏へ  2.「等身大」と「自然体」3.消されるテレビと新聞「紙」と  4.「高級紙」と「大衆紙」・・・ 5.誰もいない店 6.テレビ、新聞報道に見る「全体主義国家」 7. Il y a quelque temps・・・     8. 何度でも国民がコロリと騙される手法  9.「専門誌」の実態 10. 昨今の評論  11.「民主主義」はやはり死んでいたのか?   12.マスコミ報道の実態(2) 13. 日本の国民性の一端なのか本質なのか  14.舞台撮影 15,Il y a quelque temps・・・ 16.刺激的な日々 17.10000本の矢を放つ 18.サッカー報道に見るマスメディアの醜悪さ 19.奴隷の祈りなどとは無縁 20.改めて、「識者」とは何者なのか? 21.ジャーナリスティックなタイトルの本であふれる・・・ 22.「自殺」に想うこと  23.人生の最終章は「中世歌物語」24. オグリキャップはやはり「馬格」が違う 25.民主主義に「迷走」、「ねじれ」は付きもの 26. 「明るい話題」ばかりの異常さ 27.谷岡ヤスジのような「夏」 28.愚かな税率論議 29.今年ばかりの春行かんとす 30.哀れな「偽悪者」の死  31. 笛吹けど踊らなくなった時 32.「人間」の役に立つより・・・33.死を待ち望まれる人々 34.「人を殺さなければ、何をしてもよい。」とは? 35.仏教と墓とは無関係 36.臓器移植に想うこと 37.「死ぬときに後悔すること25」について 38.「野ざらしを心に・・・」39.死体の体温は40度 40.「コピー・アンド・ペースト」について 41.不明言語群 その1 42.五月蠅い者達(その1)43.「小沢問題」は実に有意義 44.ミステリアスな自殺者数 45.エネルギッシュな国民と・・・46.コロコロ変わって誰が困る?「誰が」?47.越えてはならぬ一線を越え続ける検察 48.-日々盛装ー 49.わが愛しき「ダークマター」よ 50.落書き 51.走狗は煮られる 52.フランスのブドウ畑と我が家の庭 53.死語となった「左翼」と「右翼」54.「悪魔的」な「匿名性」 55.なぜかヒムラー似 56.中学で「人生設計を考える」?57.「生粋の文化」?58.不気味なコンビ 59.演劇の神に・・・60.Divertissement 61.検察審査会11人の素性 62.Au sujet du- 63.巨大な絵画 64.とある神社で 65.髑髏が原 66而して後 衆を離れぬ 67.「自浄作用」とは?68.谷亮子は真の大和撫子 69.最近の弁護士上がりの政治「家」たち  70.電子書籍の限界性 71.フランスからの便り 72.コピペ「作家」たち 73.「内閣官房室参与に聞く」?・・・ 74.「コツ」壺ばかりの闇 75.てんびん社の電子書籍 76.「赤い」官房長官?77.存在しない「街の声」

 

                                                    (転載・複製厳禁)

「ある日、その時」 (3) 2010年4月ー

 


77.存在しない「街の声」 


 どれもが例外なくマスメディアにコントロールされた「声」である。それでも本人は「自分」の意見のつもりでいるから何とも恐ろしい現象である。その意見たるやTBS系、日テレ系、フジ系、朝日系、読売系、毎日系などの大同小異の見解の受け売りである。これら日本のマスメディアの報道内容の同一性ということに於いては軍事政権下の言論統制されたマスメディアとほぼ同じ様相を呈している。その間にある僅かな差異は「巧妙さ」だけである。これは異常であろう。この異常さに気付かない健全な異常さというものはカタストロフの「下準備」がすでにできたということの証左なのかもしれない。

 

                                              2010 11/21


76.「赤い」官房長官?どこが?


 ピンボケの一言で片が付く。「赤い」官房長官などと言う比喩で何か気の利いたことを言っているつもりならとんでもなく滑稽で、時代錯誤も甚だしい。戦中、終戦直後ならともかく、もはや「赤い」などという形容詞は指し示す実体を失っている。少なくとも、現在に至るまで共産主義は理論として存在していても実現不可能なものであることを証明したに過ぎない。現実にあるのは共産主義とは名ばかりの単なる独裁体制国家というものがほとんどで、たとえそうでないにしてもその変質を余儀なくされているのが実情である。今の世界の現実的動向からすればそのような訳の分からぬ「赤色イメージ」に拘っている限り明晰な判断ができなくなり、結果的に足を掬われることになる。敢えて言えば、仙谷何某などは限りなく黒に近いこげ茶であろう。色彩感覚すら失った「ジャーナリスト」、政治「家」などは受像できぬアンテナを持ち歩いているようなもので、もはや無意味と言うより百害あって一利なし、むしろ危険なデマゴーグともなり得る可能性がある。君子危うきに近寄らず、巻き込まれたら最期、くれぐれも怠りなきよう見定めるべしというところであろうか。

 そして今や,政治不在でシヴィリアンコントロールが崩れ、大戦前夜のような軍部独裁を恐れる声もあるが、大戦前夜とは状況がまったく異質である。官僚機構のある部分が巨大化する恐れはあるが、それがたとえ独走したとしても現在の世界情勢の中では待ってましたとばかりに寄ってたかって一挙に潰される可能性の方が高い。それが客観的視点というものである。もし「巨大化したもの」に独走を許せばそれが日本の滅亡の時であろう。日本が「分割」されぬよう政治レベルでの手腕を発揮すべき時に何をやっているのかという思い頻りである。

 

                                              2010 11/20


 75.(株)てんびん社の電子書籍


 

 11月17日、(株)てんびん社の申請がApple本社の審査も通過し、登録され、その最初の電子書籍として再登場するのが「日本古典演劇遺産の問題」(辻部政太郎)である。そして、その次のフェーズがてんびん社とも関係が深い京都学派の流れを汲む「天才美学者」・中井正一の登場である。近年、再びそのメディア論が注目され再評価の動きも高まっていると言われている。

中井正一の著作「生きている空間」、「アフォリズム」、「論理とその実践」などを予定している。

尚、(株)てんびん社のHPは現在再調整製作中。11/26製作終了 http://www.tenbinsha.com/

 

                                            2010  11/18

 


74.「コツ」壺ばかりの闇


 どこの本屋に行ってもあるのが、「How to」モノ、と「上達のコツ」シリーズである。人生の何から何までほんとうに「やり方」、「コツ」で何とかできるのではないかと思わせる勢いである。「How to eat」、「How to live」、「How to sex」、やはり人間には根本的に「本能」などというものは欠如しているのであろうとつくづく思う。さらに例を挙げれば、「話し方」、「見方」、「歩き方」、「走り方」、「書き方」、「読み方」、「踊り方」、「考え方」、等などの「コツ」シリーズ。このように簡便に「見て」、「聞いて」、「話す」コツを伝授されたからと言ってどれだけのものが身に付くというのであろうか。たとえ、それを巧みに身に付けたとしても単に著者の分身を演じているだけであろう。そして、その著者がつかんでいると思っているやり方、コツなどというものも果たして他者に合致し、他者を生かし得るのかどうかも実は不明で、さらにそれを文字で伝えるとなればその著者の「文才」、言語的「閃き」などによっても伝わり方が違ってくるはずである。結局のところ、何をするにも急がば回れということを思い知らされのが落ちで、事ほど左様に何事も簡単には行かないのが世の常であろう。

 いくら「コツ」を拾い歩いたとしても生きた我と我が身を生かし、成り立たせることは到底できない。そんなものは「コツ」壺に封印して、すべてに於いて全身全霊、体当たりで行くくらいの気迫で生きるより仕方あるまい。小賢しい生き方では、せいぜい利き腕の手の内に入るものしか手に入れることはできない。

                                                2010 11/11


73. 「内閣官房参与に聞く」?一体何を?


 

 こんな見出しは「週刊文春」、「文芸春秋」ですらつけまい。これは演劇の季刊会報の特集の見出しである。大方の者が現在の内閣には呆れ返っているのが実情であるにも関わらずこの見出しである。(今までの内閣がよかったなどと言うつもりは微塵もない。)ただ、「演劇関係者」の意識も「ここまで」来てしまったのかというのが正直な感じで、演劇の基軸も随分と変質してしまったものだと言う思いが一入である。一方では社会的に認知させるための組織固めが優先して、会員を増やすことに躍起になっているのが大方の組織、協会と言われているものの実情である。窮すれば通じるならよいが、貧すれば鈍するであっては困る。

 「内閣官房参与」などは学者であれば、私は「御用学者」ですと言っているようなものである。行政の中枢と末端との取り持ち役、言ってみれば「密偵」のようなものである。権力に近づいてミイラ取りがミイラになる例は枚挙に暇がない。それだけ危険が伴う。このようなことは何も演劇に限ったことでもなく、あらゆるところで起こり得る。たとえば、仏教においても、天海などと言う僧侶は徳川幕府の権力を背景に大衆に仏教を根付かせるがごとき体裁を取りつつ、実は「寺請制度」などをはじめ様々な形で民衆を監視させる行政の末端として機能させる(権力)構造を整備させ、実質的に日本における仏教を形骸化させた張本人でもある。この点に関してはまた切りがなくなるのでここまでとする。

 要は、「内閣官房参与」などという「役職」で多くの者達(この場合は演劇関係者達)に意義あるコンテンツを発信し得ることなどはないということである。あったとしても一部関係者のみであろう。なぜなら、この「役職」(役割)自体が持つ方向性が違うからである。

 批判ばかりしていても「対案」を出さなくてはいけないというようなことをこの「内閣官房参与」は言っていたが、もうすでにどこかで聞いたような慣用表現になって来ている。批判ばかりしていても確かに埒は明かぬが、それでは批判するものはすべて対案を持っていなくてはならないということになるが、それはおかしな話で、対案提示を求めることは自己の無能、さらなる改善の余地に対する不誠実な姿勢を露呈すると同時に相手の意見封殺にもなりかねないことをこそ戒めるべきである。「国民」に対案を求めてどうするのか?ということにもなる。「国民」と称される人々は「批判」だけで充分なのである。(ただし、単なるマスメディアの受け売りではなく)むしろ、その彼らが自主規制を始めた時の方が危険であろう。

 

 <追記> 最近、床屋に行って蜷川幸雄(演出家)が文化勲章を受章したことを知った。半ば照れたような自嘲気味の言葉と写真が載っていた。彼は反新劇路線でラディカルな舞台作りをしてきた演出家でもある。この時、私の脳裏には文学座の杉村春子が毅然として文化勲章を辞退した姿が蘇っていた。民間の賞はお受けしますが、「お上」からの賞、文化勲章などは自らの姿勢に反すると言う理由からの辞退であった。その時、私は彼女の精神的「核」とも言うべきものの激しさを感じ取ったのを覚えている。そして、床屋の椅子の中で、やはり蜷川などは質的にも「軽る」過ぎるという思いで彼のいくつかの舞台を反すうしていた。                                                     

                                                       2010  11/9


72.コピペ「作家」たち


  「コピペ」とはコピーアンドペースト、他人の文章などをそのままいただいて自分が作り上げたごとくに貼り付ける作業全体を指して言うことである。

 かつて、立松和平が他の作家の文章をそのまま載せて問題になったことがあるが、(この当時はPCもいま程普及しておらず「コピペ」などというコンセプトもなかった。)今やそれどころではない。簡単に他人の文章をコピーして貼り付け全編ほとんど貼り付けたものを自分の作品として発表することが日常茶飯事化しているようだ。しかし、悪いことはできないものでこのコピペを発見するソフトがもうすでにできているのである。(これについては以前にも書いたことである。)コピペは遅かれ早かれ発覚する。

 出版業界も斜陽業界になるつつある上に、この不景気である。なんとか新人流行作家を出して復興を図りたいのであろうが、邪道は邪道である。中にはどちらが作家か分からぬ編集作業もある。もっとも、このような邪道は今に始まったことではないが,どちらにしても否定されるべきものであろう。いつの時代も真贋はその内分かる、発覚する。今後コピペ発見ソフトが急速に発展することは必定で、それによってその書き手が誰と誰の影響が強く、どこまでそれを浸透させているか単なるコピーかどうかさえ容易にかつ的確に絞り込めるようになるだろう。

 因みに、タレント本などの類の本の気の利いた文章、表現などはすべてとは言わないが大方は本人によるかまたはゴーストライター的編集者によるコピペ若しくはそれに近いものが多い。実に、虚構の中の虚飾の世界である。

                                                      2010 11/6

 


71. フランスからの便り


 久ぶりにフランスから便りが来た。

私の企画にフランスの作家も喜んでいるという。

 それから、パリ大学の名誉教授である私の知人が自宅のサロンで知人、友人たちの希望でレクチャーの会を定期的に始めたということである。第1回目は、ジュリアン・グラック、アヌイ、クロード・シモンが挙がっているという。何とも羨ましい次第である。社会的には大規模なストライキが起こる社会情勢の中でのこの余裕である。ここで重要なのは彼らがその情勢から目を逸らしていないということ。そして、これが特別の人々の集まりではないということである。これだけのことでも、もはや日本と比較する気にもならない。比較すればその精神構造の格差に眩暈を起こすからである。これはある意味では夏目漱石以来西欧の文化に真摯に関わった多くの者が否応なく感じざるを得なかった格差でもあろう。

                                                   

                                                2010 11/1      


 70. 電子書籍の限界性


 電子書籍は確かに便利な面もあるが、人類の眼球が今のままであり続ける限りは紙面上の活字の方が自然で、優しいことは確かであろう。個人的体験からも液晶パネルから発せられる文字は過度に眼球に負担をかけ、何度も読み返すのにはやはり不適当であると思われる。ここ数年、パソコンの普及に伴い、目薬を差している人間が多くなったこともその証左であろう。人類もその内、漫画のキャラクターや宇宙人のように眼球が大きくなっていくのではないだろうか。その時には電子書籍のようなものが趨勢となり今ある書籍などは博物館か古文書館などでしか見られなくなってしまっているのだろう。しかし、液晶パネルにような発光パネルに適応した将来の人類の眼球とはどのような大きさ、形となりうるのか、いつか眼科医に聞いてみたいと思っている。

 ここで言う「電子書籍の限界性」は電子書籍そのものの存在意義を否定するものではないし、またそれは否定するしないに関わらずくあり続けるものであろう。敢えて言えば、現段階での技術的な改良の余地のある問題を含めた「限界性」という程の意味である。

 

※「流されゆく日々」(「日刊ゲンダイ」連載10・21)「電子書籍に何を望むか(3)」と題した五木寛之氏の考え方に対しては共感できるし、同感である。いますぐにというのは難しいかもしれぬが今後はそのようになっていくのだろうと思っている。

<以下「電子書籍に何を望むか(3)」より抜粋>

 「私は新しい技術や様式に対して、いささかも偏見を持っていない ー  つもりである。」、「国会図書館が丸ごと電子化されて、それが自由に読めるようにでもなれば、どんなに面白いだろう。」、「私の個人的な希望をいえば、絶版になっている今後、復刊される当てのない作品は、無料で公開してもいいと思っている。・・・中略・・・こういう作品は、著作権などとケチなことをいわずに、無料で電子書籍化して、青空文庫のように自由に読んでもらえばいいのだ。・・・」等々。 

                                                  

                                                        2010 10/19

                                                          10/20加筆


69. 最近の弁護士上がりの政治「家」たち


 今のところ共通しているのが、法的逃げ道は心得ているが根本的理念の希薄さ、大局的見通しのなさからくる目先の小手先勝負ばかりが目につく。やはり微動だにしない根本理念を持った人間の側近として初めて生きる者たちなのだろう。秘書、側近などとしては限りなく能力を発揮する者でも政治の表舞台ではその能力が開花しない者たちはいくらでもいる。そのような政治的センスを持ち合わせていない者達がその気になってものを言うものだから余計にこんがらかってしまうということもよくある。そうかと言って、自民党の復活などはあり得ないのは同調者以外なら誰の目にも明らかであろう。いつの間にやら現体制そのものが自民党政治の写し絵のようになってしまっていて今や自民党の存在理由などはほとんどないに等しいのである。彼らが現体制にいくら「吠えて」みたところでそれはそのまま自身に返ってくることばかりで滑稽以外の何ものでもない。何か醜悪な「茶番劇」を観ているような気がして気恥かしささえこみ上げてくる。本人達が気付いていないとしたら悲惨だが、分かっていたとしてももはや動きようがないというのが実情であろう。どちらにしても終焉の時である。

 今後の可能性としては、現体制の徹底的な再編成という方向で動き出すか、それこそ「真」の第二政党の結党を目指すしかあるまい。そうでないなら詭弁的逃げ口上で作り上げたその写し絵もまたいつしかぼかし絵となり、写し絵以前に描かれたはずの国民の思いのこもった原版は棚上げされたまま葬り去られる。国民の衰退は国の衰退である。国会で裁判所の真似ごとなどをしている時間はない。今、往来に出て人々をよく観察すればすぐに感じられるはずである。彼らは荒みまったく生気がない。そうかと言って彼らにどうしたらいいかなどと問いを発する愚行は政治家としては失格であろう。それを考えるのが政治家である。国民は問題を提起するだけであって指針を与える者ではあり得ない。

                                          2010  10/18 

                                          


68. 谷亮子は真の大和撫子


 ヤワラちゃん時代(彼女が柔道の選手として登場してきた頃)は本当に気立てのよい元気なそれでいて芯の強い女の子と言う感じがしていたが、最近は妻となり、母となり、さらに自ら思うところに誠実にかかわろうとする彼女が醸し出す凛とした姿勢、言動は今の日本女性が喪失してしまった真の大和撫子を彷彿とさせる。そのような女性に異論を唱える者はまずもって大和撫子ではあり得ない、または堕落せし者と言わざるを得ない者達なのであろう。大和撫子に小賢しさ、右顧左眄は似合わない、思うことを思う通りにやればいい、ただ最後まで一本の筋を通すことだけは忘れずに。今後の歩みを密かに期待している。

                                             (2010 10/16一部加筆) 

                                              2010 10/15

 


67. 「政界の自浄力」に関連して「自浄作用」とは?


 「自浄力」、「自浄作用」などと言う比喩表現がまだそれなりに有効性を持ち、「説得力」を持ていたのはもう過去のことである。「自浄作用」に期待する行為そのものは「他力本願」の範疇であり、ある意味では「神頼み」の領域でもある。「他力本願」を「人任せ」のように誤用し、相手を攻撃する言葉として遣っておきながら雲行きが怪しくなると、今度は本来その言い換えでしかない「自浄作用」にすがる。このようなご都合主義の意味不明のやりとりで腑に落ちる人々とはどのような人たちなのであろうか。「欲望」というフィルターにかければその構造も3Dの立体画像となって鮮明に浮かび上がるのであろうが、その「欲望」自体に振り回されて自浄能力が限界点に達している者達に「自浄作用」などは期待できない。それは人間界に対してと同様に自然界に対しても同様である。今後はさらに個々の者がすべてに於いて意識するしないに関係なく否応なく何らかの決断に迫られるとしか言いようがない。果たしてそのようなすべての「動き」そのものを称して「自浄作用」と言い得るものなのか、もし、そうならまさしく「政界の自浄力」などと言う比喩も「他力本願」そのものの派生比喩とも言えるが、しかし、そこには単に誤用として遣われる意味の「人任せ」「神頼み」以上のものは読み取れない、肝心要の「人間」に於いては「自力」も「他力」も根源的には同一であるという「厳しさ」がないのである。

 

 「ある日、その時」というコンセプトで始めたブログなので、次の「その時」には違う思いがよぎる。

 テレビなどのニュース報道がここまで堕落した元凶はニュースを「ニュースショー」化したことから始まったと思っている。それについての詳細な論述は長くなるのでまた違う機会に。

 

 しかし、国会での質疑応答はすべてが見え透いた茶番劇、何のためにこんな無意味なことをいつまでもやっているのかと思う。この際すべての政党は解体、再構築した方が賢明であろう。自民党の諸君ももう悪あがきはやめた方がいい、みっともない。もし二大政党としての存在価値をマスメディアと共に作り出そうとしてるのならこんな稚拙な茶番劇ではその内ブーイングの嵐である。とは言っても「国民」不在では観ているのも撮影しているカメラマンくらいなのかもしれないが、そう言えば最近なぜか国会中継のカメラマンは市川崑(映画監督)並みのカメラワークが多くなった。そのせいなのか「出演」議員もすべてもっともらしい振舞い、しかし所詮は三文役者、見え透いた小技ばかりが目につく。内容的には何もないに等しいのだからもう少し「芸」をするべきであろう。無内容の割には感情過多、声もよくない、顔も悪い、芸もない。蓮舫がたまたま受けたのは多少「芸」があったということに過ぎない。しかし、彼女もすでにその方向性を見誤っているか、すでに完全に絡め取られてしまっている。なぜそうなるか、それは権力構造の中枢に、またはその周辺に身を置く者が陥り易い陥穽でもある。それを越えるには文字通りの政治生命だけではない、自らの命をかけるくらいの気迫がなければ到底越えられるものではない。小賢しい政治屋さんでばかりでは埒は何時まで経っても開かないのである。これは彼女だけではない、このままでは他の多くの者も身動きがつくまい。だから、解党、再構築が必要なのである。もう一回、いや二回でも三回でも再編成した方が世の為である。しかし、それはあくまで因循姑息な官僚制度維持者と政治屋さんの為の再編成ではないことを肝に銘じて戴きたい。(2010 10/16 一部加筆)

                                                                                                                              

                                                        2010 10/14


  66. 而して後 衆を離れぬ


 深夜、散歩をしていて頭が妙に漢文調になってきたのでそれをそのまま言の葉に乗せてみた。

  狂人 狂気を知らず

  堕落 奈落を知らず

  愚者 無知を知らず

  賢者 その悉くを知るも

  もはや為す術もなしに

  而して後 衆を離れぬ

 しばらく歩いていると、いつかの猫を思い出した。

  月天心 八幡の森 猫とをり

 それが行きつく先と言うより、本来の姿のような気がした。

 

                                                   2010年 10/13

 



Au sujet  du mass média de Japon   c'est  inutil quoi qu'il puisse dire déjà sur cela. Je reste bouche bée. et puis c'est très pitoyable. Pourquoi est-ce qu'il est tombé comme cela?(principalement  le grand mass média)

Le Parlement n'etait qu'uncoup monté d'absence nationale.

 

Tous les jours je n'en reviens pas.

 



 65.髑髏(どくろ)が原


 これは最近の棄老現象を言っている訳ではない。京都の鳥野辺一帯を六波羅(六原)と言うが、それは「髑髏が原」が転訛したものだろうと言われている。その名の通りこの辺りは髑髏が散在していたのである。

 日本の各地もまだあまり知らないのに、世界旅行なんてと言う人が時々いるが、私などは逆に※「今の日本の町は、どこへ行っても人間の欲望が満ちていて」どうも行く気がしなかったが、ただ、京都、奈良だけは別であった。しかし、かつての日本の町はそうではなかったはずで、※「人間が生活するささやかな空間は、死霊が生活する、より広い空間に囲まれていた。」のである。この京都の東にある鳥野辺という辺りは死者を埋葬する場所であった。埋葬とは言っても死者の遺骸をこの地に捨てて、後は鳥たちに任せたのである。「捨てる」などとは聞こえがよくないが、古い日本語では埋葬のことを「ハフル」と言い、「放る」「捨てる」を意味したのである。このようにかつては死の場所と生の場所が常に隣り合わせに「生きて」いた。

 そこでは「生」と「死」の空間がほど良いバランスで共存していたのであろう。「明」と「暗」がどちらかに偏り過ぎるとやはり精神にも支障をきたすものらしい。「闇」を執拗に排除する現代文明は精神を絶えずハレーション状態に置き、ものが直視できない環境を作り上げる。その結果恐怖心ばかりが必要以上に膨れ上がる。その一方では精神的強靭さは損なわれ委縮して行く。「怪奇ブーム」的現象一般なども「ごっこ」的な「闇」の代替物の設定であるが、飽くまで間に合わせの「闇」の代替物で、代替物がもたらすものはやはり代替物でしかありようがない。言ってみればニセモノなのであるが、ニセモノであるが故にそれはかえって危険な面も持っている。

 このようなことを考えているとすぐに思い浮かぶことがある。それはガンジス川の畔で結婚式をあげている若い二人の後方をガンジスの流れに従って死体(遺骸はガンジスに流される)がゆっくりと動いて行く、その遺骸を鳥が啄んでいるという風景である。明暗が対等に配置され生活の中にバランスよく溶け込んだ姿でもある。

 常に明るいハレーション状態の中にいるという不自然な状態に置かれた者は、自己の内部に「闇」を人工的にため込む、その「闇」は蓄積し、必要以上に「増幅」し続ける。この「闇」は非常にやっかいで、それは途方もなく増殖しながら浮遊する妄想と言ってもよい。これは病的な状態となって進行する。こうなると一生その「闇」との葛藤か、それに押しつぶされてしまうかである。

 その昔、髑髏が原の近辺では宴の席にたとえ人骨が飛んできたとしても、それを何らかの吉凶の判断として使う「作為」がない限り、本来は「闇」そのものの部分の一つの「現われ」として全身で受け止めていたことであろう。そこには、不自然に増殖した「人工的な闇」の入り込む隙はない。

 

※部分は梅原猛の著作より

                                                               2010  10/11


64.とある神社で


 私が帰り道いつも立ち寄る神社で、さい銭箱の脇で深夜黒人の男と日本女性が絡み合っていた。毎日様々な思いを込めて人々が祈りに来る場所である。黒人に対して不快感を持ったのは当然であるが、日本女性に対しては今いる自分の位置がまったく分かっていないことに対して強い腹立たしさを感じた。同時に日本の女もここまで堕落してしまったのかという思いがした。女が堕落すれば当然男も堕落する。そして、その国も止めどもなくころがり落ちて行く。この黒人も自国の礼拝堂の前でもこのような行為に及ぶのであろうか。もちろんこのような人間ばかりではないが、日本や海外での外国人排斥の感情も、彼らのような無知蒙昧からくる無軌道さが経済問題と相まってその国の住民感情を逆なですることからも起きる。そして、悲劇はいつでも起こり得る。この日本女性は単なる娼婦であったのだろうか。

                                                   2010 9/10


63.巨大な絵画


 最近、高架線に乗ると思いだすことがある。8月の終わりころであった。高円寺から新宿に向かう電車の中で車窓に流れる風景を見ていると、北西の方向に見事な色彩の饗宴、不思議なグラデェーションを持つ巨大な絵画が現われた。分かりやすく少々雑に言えば、オーロラの中に惑星を誕生させた時の様な光と影と色彩の乱舞である。私は思わず声を出してしまったが、誰一人その巨大な絵画に気付く者はいなかった。その時、車内には、本を手にしている者、携帯電話の上で手を小刻みに動かしている者、眠っている者、食べている者など数十人はいたであろうか。

 私はその絵画が視界から消え去るまで夢中になって見続けていた。パリのオルセー美術館にいたときのように。

 今はもうその方向にはグレーの空間があるだけで、あの時の跡形すらない。私は天文学的確率の瞬間に居合わせたのだと密かに思っている。

 

 

                                             2010 10/9                


62.Au sujet du problème Ozawa

 いやいや、まったく「小沢問題」に関する大手マスコミ報道の馬鹿らしさは筆舌に尽くし難い。本当にどうなっているのか、自分でやっていること言っていることの意味が本当に分かっているのだろうかと聞きたくなる。とても報道担当者、ジャーナリストとは思えない。居酒屋談義の酔漢並みである。酔漢の方がまだ正直なところがある。それからアナウンサーのお兄さん、お姉さん方、何か勘違いしてないか?君たちの作られた底が割れている感想など聞いてみても仕方がない。むしろ不愉快になってくるから気張らないで余計なことは言わない方がいい。

 もうあきれて日本語で書く気もしないので、それにだんだん言葉が強く汚くなって来そうなのでJe murmure à haute voix

C'est un fait que les média ne fonctionnent pas normalement.

Les mass-média de Japon sont fous.Si ce n'est pas juste  ils sont complètement corrompus.Ils peuvent dire qu'il n'y a déjà aucune qualification comme un journaliste.Dans un certain sens la situation de Japon est en désordre terriblement. Ce spectacle est vraiment atroce.

 Je pense que la conscience de citoyen ne grandit pas encore dans le peuple japonais. Pas encore pas encore-----

Dans une étape présumée  c'est innocent.  Est-ce qu'ils comprennent cela? Ils vont fabriquer le crime d'une façon ou d'autre.Cet acte en lui-même est affreux.

Maintenant  le but de média est agiter le public par le mensonge maladroit. 

A partir de maintenant  la vérification approfondie est exigée sous toutes ses aspects.

 

                                                                                                                  

                                                                                                                                 2010 9/7

                                                                                                           


61. 検察審査会の男女11名の素性


  「抽選」で選ばれた男女11名、まずどのような「抽選」であったのか具体的に聞きたい。そして、「国民の代表」などと「言われる」者たちである以上はその名前、経歴くらいは発表すべきであろう。この11人によって政局が大きく変動する可能性があるのであれば大多数の国民もその11人については知りたがっているはずである。さらには、その審査過程の詳細な報告もなされないまま、秘密裏に進められている事に関しては良識ある多くの国民が不信と不安をつのらせているのも頷ける。今まで検察が組織的に「見込み」捜査をしてできなかったものを「素人集団」の男女11名の「判断」と言うより根拠の定かでない(「国民」感情)で吊るし上げようとしているならそれも大きな問題であろうし、それ自体も吟味が必要となってくる。また、検察サイドもしくはその関係団体(広範囲)がそのようにお膳立てしたとしか思えないような検察審査会の「もの言い」に対して胡散臭さ以上のものを感じるのは「衆愚」ではない国民であれば当然であろう。これで納得してしまう国民とは一体どんな国民なのか?それこそ「ねつ造」「改ざん」された「国民」であるとしか言いようがない。とにかく、ここまで来れば裁判で決着させるしかあるまいが、しかし、この時期に敢えて起訴するということは小沢一郎が冤罪であるにしても(冤罪は確実であろうが)政治的効果としては有効性を持つもので、それを狙ったということは否めない事実であろう。そして、「巨大」検察が「投げてしまった」ことを今度は「弱小」弁護士集団で何ができるのか、彼らも「できる」とは思ってはいまい、もし、やれるとするならまたしても「ねつ造」か政治戦略の走狗と成り果てることでしか成し得ない事柄である。しかし、「彼ら」はすでに起訴に持ち込むということだけで充分その政治的的効果は発揮され、政治戦略の走狗としての機能は果たしているのである。この政治的策謀で一体誰が「一番」利するのか、それを見ればその策謀の主体は明らかであろう。

 

  しかし、「推定無罪」であるにもかかわらず、あたかも「犯罪者」のごとくに扱うマス・メディアとそれに踊らされる者たち、この国は民主国家としても法治国家としてもまだまだ未成熟なのであろう。すべてを徹頭徹尾検証しなければならない時期に来ている。それなくしてはもはや「その先」もないのだろう。

  

 この際、良識あるジャーナリスト諸氏に是非お願いしたい。この審査会の11人とそれに関係した者たち、そして、その審査内容は近い将来重要な資料となるので調査し、機会を見て発表してもらいたい。

 <以下随時追加>

※「週刊朝日」は知りたいところをよく押さえて丁寧に調べて情報を提供している。良識あるジャーナリストががんばっている証左であろう。以下「週刊朝日」の情報を参考に検察審査会の不明部分について、私が思っていたことに確証が得られた部分のみを書き加える。

 まず、検察審査会の審査員が抽選で選ばれたと言っているが、住民基本台帳から東京都の20歳から69歳の人口(今年元旦)881万6900人。平均年齢43.659歳。審査員の平均30.9歳以下になる確率は0.12%でコインが10回連続で表を出す確率だそうである。「今回の審査会が本当に無作為で選ばれたとするならば、極めて珍しいことが起こったとしか言いようがありません」と数学者の芳沢光男氏は語っている。ますます秘密裏に何が行われていたのか気になるところではあるが、検査審査会の委員長を務めた者が「新聞で小沢さんの議決の要旨を読んだが、ああいう難しいことは、審査員は書けないし、言わない。そもそも、検察官が何度も調べて不起訴にしたのに、素人が数回会議したところで分かるはずがないですよ」と言っている。因みにその時の審査員はスナックのママ、個人タクシーの運転手、赤ん坊を抱えた若い女性などであったらしい。

 そして、ある検察関係者は「素人の審査員なんて簡単に誘導できる」と言っている等など。もう充分にその審査内容については何がなされていたかは察知できる。いつの間にか、選ばれ方も不可解な実態不明の匿名集団の検察審査会は「世論」の代名詞となり、巧妙に操作されつつ恐るべき権力機関として膨れ上がってしまった。それに加担し続けたメディアの責任も大きい。根本的な検証、改善は早急の課題であろう。

                                                       (2010 10/11)  

※小沢問題で起訴議決が出されたのは9月14日(民主党代表選)それについて上記の11名を審査補助した吉田繁実弁護士は「重なったのはたまたま。当日は一日中審議しており、影響はなかった。」と言っている。「重なったのはたまたま・・・」こんなことが通ると思っているのだろうか、これ自体がすでに審議すべき由々しき事態である。さらに、この吉田繁実は暴力団の共謀の成否が争点となった判例などを持ち出して、「暴力団や政治家という違いは考えずに、上下関係で判断して下さい。」と11名ののものに訴えている。いやしくも国民が1票を投じた「政治家」に対して暴力団との違いは考えずになどとは、何をか言わんや、言はん方なしである。権力の走狗と成り果てると「与えられた」自分の「仕事」しか見えなくなるものらしい。いや、自分の「仕事」しか見えなくなった時、いつの間にか権力の走狗として重宝に使われていると言った方がいいのかもしれない。この弁護士もいずれ「煮られる」ことになるのだろう。ご愁傷さまである。

 

※10/9の朝日新聞の紙上で、検察にこよなく愛されている立花隆が「検察審査会の強制起訴によって事件はようやく原点に戻った。」などと言って喜んでいる。視野狭窄になっている検事、弁護士ならともかく、こんな葦の髄から天井をのぞくようなことをやっていてよく評論家だ、ジャーナリストなどと恥ずかしげもなく言えるものかと感心する。余程検事か何かになりたかったのだろう。常にその姿勢は検察とべったりである。そして、さらに気になるのはその言動に緻密さがないことである、例えば小沢が関わっている傍証なら「山ほどある」という、それならばその「山ほどある」傍証を全部どのようにチェックしたのか、「山ほど」ある傍証が改ざん、ねつ造されたものではないと検証できたのか、ありとあらゆる手を使って検察は行き詰まったという結果はすでに出ているのである。したがって、それを言うならそれ以上の「もの」、「こと」についての確証があって初めて言えることでろう。にも拘らず、言っていることはただそれを認めることができないというだけに過ぎない、それ以上の域を出ないものである。その姿を見ていると、それに乗っかって作り上げた自らの行き詰まった説を何としても死守しようとする憐れな老人と言った感は免れ得ない。だから検察審査会そのものの検証などどうでもいいのである。しかし、怖い話である。彼らの言うことを仰せごもっともなどと聞いているといつの間にか崖っぷちである。傍証はいくらでもある、あいつは犯人だということが簡単に成り立つということである。推定有罪である。これは、いつあなたもこの手で犯人に仕立て上げられるか分からないということでもある。  (2010 10/9)

 

 

 

                                                         2010 10/4


60. Divertissement


<Qui a pris les quatre saisons de Japon ?>

Il pleut aussi aujourd'hui

Même l'image d'été qui a disparu soudainement

ne peut pas être trouvée

Aujourd'hui l'automne est mort

peut-être hier  je ne sais pas

Et  l'hiver est venu

 

un murmure  d'un jour  un jour d'un murmure 

et  sans doute le murmure sans date

 

                                                               ー M・Hー

 

                                                                                                                             2010 9/30


59. 演劇の神に見放された日本の演劇


○もはや日本の演劇の舞台に神が降り立つことはない。

 それを暫くの間というべきなのか?

 

Dieu ne descend plus sur la scène de théâtre de Japon.

Est-ce qu'il devrait l'appeler "pendant quelque temps"?

 

                             M・Hirayama                                                                                                                                                                           

                                                   2010 9/28

 


58.不気味なコンビ 


  芸能評論家の肥留間何がしとか言う者が、「どうしても考えを聞きたい数少ないコメンテーター」として岸井成格(毎日新聞 主筆)の名前を挙げて、「政治を語らせたらこの人の右に出る者はいない」などと持ち上げていたが、この岸井などは基本姿勢そのものが「大本営発表」のスピーカーで、とてもジャーナリストなどとは思えぬ者達の筆頭であろう。私はこの男とみのもんたの公共の電波を使った醜悪な政治工作的コメントを聞いていて腹が立ってテレビからさらに遠のいたと言ってもよい。したがって、このヨイショには許せないものを感じるのである。「口髭のトレードマークを政治家は一目も二目も置いているのである」、この書き方、典型的な芸能担当者のイイカゲンさがにじみ出ている。それでは一体その岸井に一目も二目も置く政治家とはどのような政治家なのかを聞きたくなる。そこが一番問題なのである。もっとも、そんなことを芸能評論家などに問いただしたところで仕方あるまいが、それにしても言うなら言うでもう少し内容的に「詰める」べきであろう。これでは単なる岸井のファンクラブ代表の弁である。これで芸能評論家とはそんなところからも金をもらうのかと思われても仕方あるまい。

 こんなことは書きたくもないことであったが、テレビが唾棄すべきものになってしまった一つの要因となってしまったことなのでついつい書いてしまった。馬鹿は休み休みも語るべきではない。

 

※以前にも書いたが、テレビにも10%ほどの比率で見るべきものはある。誠実に丁寧に作られているものもある。最悪なのがこの政治報道なのである。肥留間の言うように「いい加減にしてくれ」というようなコメンテターは実に多いのも事実であるが、そうかと言って岸井の考えていることなど聞きたいとは思わない。なぜなら今までもそうであるが、彼が何を言うか言う前にすべて分かってしまうからである。何時だったか知人に、次は岸井はこのように言うぞと言ってその内容を言い当てて大笑いしたこともあるくらいである。この男の立ち位置、方向、利害はその「揺れ幅」も含めてすでにすべて掌握済みなのである。だから、これ以上聞く必要などはまったくないのである。もっともその「揺れ幅」以上に方向が変われば別であるが、それは総合的に判断してあり得ないことである。そして、その他の主婦を装った、主婦にも失礼であろうと思われるようなぼけたコメント、質問などをするコメンテイターなどはもう論外であろう。

                                                   2010 9/27

 


57. 「生粋の文化」などは存在せず。


 以前、何のCMだったか忘れてしまったが、京都、奈良あたりの風景をバックにしてどこかのおばさんが和服で出てきて「日本のこころ云々」というコピーで始まるコマーシャルがあった。学生時代から京都、奈良には好きでよく行っていた私としては、それを日本文化、日本のこころなどと言われてもどこかピントのずれた、胡散臭いものにしか感じられなかった。戦時中に中学生であった某作家は、日本文化、日本精神の故郷などと言われて、京都、奈良を見て回ったあげくについつぶやいてしまったそうだ。「何だこれは、みな朝鮮とシナじゃないか」。これはまったく素直な、頭脳明晰な青年の反応であろう。歴史的に見ても京都、奈良は朝鮮、シナの影響を受けているのは歴史的事実である。もし、これらの事実を排して、これを純粋な「日本精神」の故郷などとするなら歴史の流れをまったく無視したものとなる。文化そのものは異文化との接触、ぶつかり合いの中で展開、成長していくものであってみれば「生粋」、「純粋」などという言葉に酔う必要もなければ、実際にはそのような在り様をする文化などは世界史的にも存在しないのである。

 

                                                     2010 9/26


 56.中学で「人生設計を考える」特別授業?


  これは大田区の中学校で行われた保険会社が主催した特別授業だそうだ。校長のもっともらしい意見も含め、正直言ってあきれ返っている。中学でもう一生の金計算である。夢が最初からプラスチックである。これではすぐに行き詰まってしまうだろう。大事な時期の教育者としてもっと他にいくらでもやることはあると思うが、もうこれ以上中産階級幻想にどっぷり浸かった守銭奴を作りだすことはあるまい。たとえば、河川敷や長屋でゴルフの練習などをしている姿はどうみても「旦那様ごっこ」をしている「召使い」である。もちろん、中には仕事上やむなくやらざるを得ない者もいるだろうが、それはともかくとしてそのような「旦那様ごっこ」などするより自分たちにしかできぬ独自の「遊び」を作りだすくらいのことはして欲しいものである。そのようなことを含めての教育である。日本の中産階級などは実質サブプライム、すなわち貧困層である。そんな虚しい恰好の付け方ではなく、やれること、やらなくてはいけないことが他にいくらでもある。最近では、「5000万円あれば安心の老後」などと何を根拠に割り出したかわからないような数値を出しているようなものまであるが、笑止である。できるできないは別としてこの時期の子供にはそのような金計算より「根本的なこと」を教えるべきであろう。そのようなことが予想外に強靭なエネルギーを生むのである。(このことは私が以前、小・中学生2000人以上を教えて得られた実践的データからも割り出せることである。後に聞くところによれば、私が辞めた後も生徒の中に私は存在していたようである。)現在、そのようなことことが教えらる教師不足は否めない事実ではあるが、教育が重要というのであれば教師育成に励むべきである。小・中学校の教師は本来なら大学の教授クラスと同等レベルの「見識」がなければならない。(最近は特に教師の情けない記事ばかりが目につく)知的レベルはともかく、小学校教師の社会的地位が大学教授レベルという国は実際にもある。それほど児童教育は重要なのである。このままでは精神構造は委縮する一方である。それはそのままこの国の委縮でもある。

                                                  2010 9/24


55.なぜか顔つき、表情がヒムラー


 ハインリッヒ・ヒムラーとは、ナチス・ドイツの親衛隊隊長で何百万ものユダヤ人たちを死の収容所アウシュビッツに送り虐殺した男である。いわゆる「地獄の使者」である。しかし、その顔つきは童顔で、笑みは子供のようである。彼を見ていると、頬に傷跡、脛に傷もつ刺青者が分かりやすく安心できるから不思議である。

 ようやく表に出てきた検察官僚、検事達の写真を見ていると、その顔つきはどれもこのヒムラーとどことなく似ている。机上操作は「正義の使者」のごとく迅速かつ明敏に、最後の仕上げの「操作」、「細工」はお手の物、上司の意に沿う業務を速やかに完遂させる。そして、出世街道まっしぐら、少なくとも今までは非の打ち所のないみごとな「仕事」であった。しかし、実際にやっていることは「地獄の使者」とそれほど変わるところはなかったのである。その深みのない童顔がヒムラーを彷彿とさせるのも頷ける。

 それにしても、検察の走狗と成り果て名をなしたジャーナリストはその顔ですら醜悪そのものであるのはなぜか?どちらにしても走狗は「時間」によって煮られるのがその宿命。もはやその全貌が見え過ぎてしまったものをこれ以上追いかけても無意味であろう。

 

                                                    2010 9/23

 


 54.「悪魔的」な「匿名性」


 匿名性という世界は「自由」な領域でもあるが、同時にその一隅には「悪魔」の居住地がある。「悪魔」に酔わされることはさぞかし心地よいのであろう。それに突き動かされる者は崖っぷちに立たされるまで気が付かないか、たとえ気付いたにしても崖っぷちを崖っぷちとして認識することすらできなくなっている。一種、麻薬に侵された状態である。そして、余裕もなく、許容量の少ない者たちはわずかな事で過剰反応し、攻撃態勢に入る。その様は、あたかも溜め込まれた吐しゃ物と共に自らのすべての体液を相手に向けて吐きだすがごとくである。この状態は「悪魔」がこの上もなく喜ぶ姿でもある。そして、さらに極限まで追い詰めるがもはやこれまでと思うと「悪魔」はすぐさまその「人間」を現実世界の「地獄」に捨て去るが、本人は気が付かない。その「人間」はと言えば、相手にぶつけた言葉、その内容について作家が書くように鮮明に覚えていることはほとんどない。、それもそのはずで、そのほとんどが感情にまかせて吐き出した吐シャ物のようなものばかりであってみればそれは当然であろう。彼らは自分の「やった行為」そのものだけを記憶にとどめ、時折突き上げてくる自らが吐き出したお気に入りの類型的表現を反すうすることで事足りているのである。一方、やられた方はひき逃げされた者のごとくに倒れ傷ついている。

 このようなことを見ていると、以前、自宅を開放し、貧しき者たちを救っていたアメリカの牧師が黒人に惨殺された事件やそれに類するいくつかの事件を思いだす。インターネット上で外に開いた自由な交流などというのは確かに広がりを持つものでそれ自体決して否定すべきものではないが、それには常に危険が伴うのも事実であろう。匿名にする必然性がある場合を除いて、匿名使用者の背後には常に胡散臭さが付きまとうのである。そにには時折、「人間」の声というより、「悪魔の波長」にはまってしまった者特有の「うねり」が見えることさえある。そのような時にいつも痛感することは、放置すれば「人間」などというコンセプトはいとも容易く壊れるものだということと、「悪魔の波長」を「人間の波長」と見間違えてしまうとすぐに悲劇は序奏を開始するということである。

 

 「戦い」の萌芽はつねに平和時の文明の中にある、という15年も前の作家の言葉を思い出す。そして、その萌芽はすでに「花」をつけ、「戦い」の火ぶたは切って落とされているのである。

 

                                                      2010 9/22


53.「左翼」、「右翼」などはもはや死語


 それは死語でなければ「死に体」であろう。であるにも関わらず雑誌、新聞などではいまだによく遣われる言葉である。もう少しその実態を的確に具体的に表す言葉はないものかと思う。なぜなら、もはやそのようなコンセプトでは捉え切れないか、あるいはそれが本来指し示すべき「本体」そのものがないか、変形、変質してしまっているからである。

 たとえば、仙石由人について「仙石は典型的な左翼活動家気質の政治家なんです。<中略> 熱くなるのは権力闘争に興じているときだけ、理想を掲げ、国民を引っ張る熱意があるとは思えません。」(某政治家)などと言ってみても、実際のところ何を言いたいのか不明で、これで何か言っているつもりになっていることも不思議である。仙石が「左翼活動家気質」などと言っても、東大闘争時代の中枢にいた者は彼の名前さえ知らない。たとえ、その渦中にいたとしてもおそらく安全地帯でその周囲を徘徊していた戦力外の人間であったのであろう。これはその当時としては普通の学生の状態である。中にはこれ幸いとばかり麻雀に明け暮れていた学生もいたが、このような人間達に対して左翼的、右翼的などと言ってみてもあまり意味のないことである。問題のある体制に対して反体制的な見解を持つことは、安っぽいニヒリズムをチラつかせる臆病な利己主義者以外、利害関係のないごく普通の人間にとっては自然な成り行きであろう。ただし、それには「理念」も「理想」も特に必要とはしない。しかし、そのような者がその気になって政界入りでもすればいつしか権力闘争に絡め取られて身動きできなくなるというのは見あきた風景でもある。権力闘争自体に絡め取られることなく権力闘争をするにはまた別の能力を必要とするが、問題を段階的に解決するにせよ、それを阻むその時々の真の「敵」を明確につかみ、最大優先事項を定められないような政治家を政治家とは言わない。「理想」も「理念」も特に必要としない単なる抗議集団の長ならともかく、それでは一国のかじ取りは不可能である。

 

                                                                 2010  9/21


52.フランスのブドウ畑と我が家の庭


 これらには何の関連性もない。ただ、そこにいた1980年代の日本人に共通するものがあるだけである。

フランスのブドウ畑では、 

あるとき、フランスの豊かな農村を、日本のある会社の社長と一緒に旅行をしたことがあった。その社長曰く、

「フランス人ッてバカだねぇ。こんなところで葡萄なんかつくらないで。ゴルフ場にすれば儲かるのにねぇ」

                                            (「日々の過ぎ方」堀田善衛より)

我が家の庭では、

 父が丹精込めて作り上げ、手入れの行き届いた庭を前に客人と酒を飲み交わしている時である。その客人が言ったそうである。

「この庭のスペースもったいないな、もっと有効活用すれば儲かるのに」

 その結果が現在の日本の姿であろう。どんぶりだけは日本製、中身はすべて外国製といった状態は何も食料事情だけではない。精神的営為もその通りであろう。緑もない、スペースもない、収容所ではないかと見紛うばかりの建物が林立する中で身を粉にしながら働き、精神的に支障をきたしていることすら分からず、初めて見る緑の空間が青木が原の樹海ではあまりに悲しいのではないか。そして、多くの者が自分だけはそうならないと思っている、思わされているところが余計に憐れである。

 

                                                  2010   9/20

       


51.走狗(そうく)は煮られる。それが鉄則。


 2010年は、実に走狗たちが浮き彫りになった年でもあった。まだ終わっていないが。

走狗と成り果てたジャーナリスト、学者、マスメディア、そのそれぞれの固有名詞を並べ立てて批判することは可能であるが、私にはそのような無意味なというか、一瞬でもできればそのようなことに関わりたくないそれほどの価値もない、時間の無駄という思いの方が強い。そもそも走狗は煮られるのが鉄則であってみれば、何も私などが時間をかけて手を下す必要もないことである。いずれ必ず何者かがやらざるをえなくなることでもある。すでに走狗たちの数多くの消しようもない事実、証拠は残されてしまったのであるから。

 

※走狗  他人の手先となって使役される人。「権力の走狗」など。

                                                  2010 9/19


50. 落書き


  先日、久しぶりに公衆便所に入った。小便とへどの臭いに耐えながら用をたしていると、落書きが目に入ってきた。そこには裏切り集団 無能菅助、万石千太、主婦連蓬、他にもいくつかあったが読み取れなかった。酔いの頭に最初は何のことか分からなかったが、あくびのような笑いがこみ上げてきて、ついほくそ笑んでしまった。傘を忘れて戻ったがそこにはもう傘はなかった。

                                                 2010 9/ 16 深夜

                                               

 

 


49.わが愛しき<ダークマター>よ、御身の名は<無>なり。されど、あらまほしき<もの>なり。


 <無>とは実は何もないことではないく、我々にはそれを「実体」として把握することが「不可能」なもの、あるいは形を成さない無限のエネルギーを持つ動き、働き、作用そのものというような<もの>で<ある>。

 そのような<在り方>をする(「実体」として把握できないもの)ひとつとして<ダークマター>の存在が科学的に確認されつつある。「特異点」しかり、「ダークマター」しかり、それらはブディスム的世界観の「無」をますます豊饒なものにしていく。紀元前の賢者の「直観」にあらためて敬服する。

このダークマターについてテレビでは立花隆が解説していたが、なんでこの人間が出てくるのか不明。今迄の科学者たちの心地よい誠実さに溢れる説明が一挙に消し飛んだ。検察と連携することによって得られた情報を基に活動してきただけと言ってもいい人間がとうとうボロを出し始めた最近の言動。その厚顔無恥さ加減にはあきれ返っていた矢先に今度は「ダークマター」である。要するにこの男にとって耳目を集められる「ネタ」であれば何でもいいのである。空間に浮遊するダークマターが彼の周りから逃げて行ったように思えた。 

※賢者とは釈尊のこと。

※「ダークマター」とは、存在する証拠は得られているが、電磁波での観測では見ることができない未知の物質のこと。現在、宇宙で観測できる(目に見える)物質は全体の4%程度で、その数倍がこの「ダークマター」が占めているということである。今後、新しい理論による未発見の素粒子の解明が必要となる。そのひとつが「ニュートラリーノ」という素粒子である。

 

                                                 2010  9/13


48.ー 日々盛装ー


  1日1日をできるだけ大事に生きようとすると、着のみ着のままならともかく、1日中スウェット上下で過ごしたくはない。たとえば、世界の少数民族を見ていると、祭りの時はもちろんのこと、作業する日常の時間帯の中でも「おしゃれ」である。そこには自分達のルーツに対する敬意と誇りと日々生きることに対する「思い」が混然一体となって流れている。弛緩した顔はなく、笑顔は限りなく優しく、眼には濁りがない。

 我々は時にはスウェットを着る、しかし、日々それで間に合わせてしまうという姿勢そのものが、その時間の流れ方そのものがその人間の死生観を形造っていまうということに気が付かないことが多い。半ばズリ落ちたスウェットパンツのまま尻をかきながら携帯電話をかけることが習い性となってしまった者と、日々盛装しながら作業し、生きる彼らとは1日の生き方の充実度が根本的に違うことは明らかであろう。老少不定であってみれば日々盛装は理に適っている。それは生き方の基本でもある。(日々盛装とは単に着飾ることだけを言っているわけでもなく、ファッションなどとはまったく関係ない、たとえ「ダサク」てもいいのである。そのような「気持ち」で生きることが大切であると言う意味である。、しかし、彼らの衣装の色使いは実にあでやかでファッショナブルである。)

 私はやはり絶滅少数民族に近いのか、いやいや、パリにいる知人(パリ大学名誉教授)は私ごときを出迎えてくれるのにいつも蝶ネクタイの正装である。彼もまた日々生きることを非常に大事にしている人である。今ごろはまた例の美術館で一人瞑想しているのではないかと思う。

 

※「日々盛装」とは私の造語である。

 

                                                                                                                                               2010 9/11


※このブログを始めて早いもので1年と4か月、いつのまにか原稿用紙500枚ほど(整理したものも含めて)になってしまった。この間にこのHPに訪れた方は意外にも多く、もうすでに何万という単位に達してしまった。このHPで私は名前、プロフィールを出してはいるが、それは無責任なことを言いたくないので出しているまでである。私は匿名の「憂さ晴らし」風のものには一切興味がないし、信用もしていない。そうかと言って単なる個人的行状記を逐一記すつもりもない。それは多くの者にとって見も知らない他人のスナップ写真を見せられているようなものであろう。井戸端会議、ツイッター、掲示板の書き込みなどにしても公衆トイレの落書きのようなもので、裏面で蠢動するものの1部をキャッチするのには面白いのではないかと思う程度である。実のところ、その類はあまり見ることはないのであるが、またその内に公衆便所にでも行った時に見られるだろうと思っている。

                                                                            2010 9/10


 


47.越えてはならない一線を越え続ける検察


 それは検察のファッショ化(独裁化)を意味する。検察批判を真っ向から受け、改善すべきところは改善し、追及すべきところは徹底的に追及するという懐の広さもバランス感覚も喪失してしまったような、一見追い詰められた者のなりふり構わぬめった切りのような様相を呈しているが、それが計算された政治戦略なら、それはもはやいかに取り繕っても「正義」の使者ではあり得ないことの証左になる。

 「捜査で世の中や制度を変えようとすると検察ファッショ(検察独裁)になる。それは許されない。」とは一体誰が言ったのか。それは東京地検特捜部の生みの親、河井信太郎である。本来、検察はこのような人々で構成されていなければならない。それによって初めて検察の存在意義が鮮明となり、国民の信頼度も増すのである。しかし、現状は恐ろしいくらいに異質なものになっている。今回の検察の一連の動きはいずれ検察史上の汚点ともなり、事あるごとに検証され、負の参考資料として有効利用されることであろう。今後、このような問題点がさらに「高密度」なものとしていかなる形で噴出してくるかが「楽しみ」である。

※今回の「小沢問題」における世論操作による政治的介入は検察ファッショ(検察独裁)を如実に物語るものである。それは許されないことである。

 

                                                  2010  9/9

 

※「郵便不正事件」データ改ざん 主任検事逮捕 (2010  9/21)

<この主任検事は、逮捕前の聴取で、コピーしたデータの中身を書き変えて遊んでいたことによって起こったもので、故意ではないなどと言っていたそうである。>(時事通信より)

※主任検事の単独犯行と言うより組織的な犯行であることが立証されつつある。(2010 9/22)   

<当時の大阪地検特捜部長が、証拠品のFDのデータが改ざんされた可能性があると指摘を受けながら、地検上層部に「問題ない」と報告していたことがすでに明らかとなっている。> (時事通信より)                                               

 

                                                                                                                                           


46.コロコロ首相が変わって困るのは国民ではない


 必要ならば、いつでも首相を変えることになんら問題はない。コロコロだろうがダラダラだろうが問題があれば変えるべきである。それについての御為ごかしや否定的言説は詭弁であろう。それならどのような「長期政権」がお望みなのか伺いたい。最近の「(長期)政権」(小泉政権)の行った経済面での総括も明確になされないまま今に至ってその教訓化の片りんすら見えない状況の中で何をか言わんやである。「ファシスト政権」をお望みなら話は別である。そのような例なら歴史的にも、現実的にも存在する「長期政権」がある。おおよそ「長期政権」などと言われているものは健全な民主主義国家とは相反するもので成り立つか、民主主義そのものを形骸化させることでしか維持することはできない。特に、このような時期には常に変動するのが当然であろう。これを「対外的に見ても」「一国の首相がコロコロ変わるのは如何なものか」などとご大層な「客観的」状況分析風の言説もあるが、それは、実のところ自分たちにとって都合が良いか悪いかいうことであろう。これは明らかに既得権益側にとって都合が良いということであって、我々国民とはまったく関係ないことである。すでに彼らにまんまと乗せられた「国民」もいるようだが、これは自分の首を切ろうとしている首切り役人と微笑みながら握手をしているようなものである。寝ぼけ眼で50年以上が過ぎ、まだ寝足りないとみえる。その内に寝ぼけ眼で青木ヶ原、東尋坊などを彷徨うことにならないように気を付けた方がよかろう。愚かな、見ていても恥ずかしくなるようなテレビ、大手マスメディアの「御為ごかし」には乗らない方が賢明であることは言うまでもないが、彼らも「正義」のため(この場合は「正当な報道のため」と言った方が良いだろう。)ではなく、金で動いていることを忘れてはならない。すなわち、自らが不利益なことは絶対にしないということである。それがたとえ「正義」であろうとも。

 蓋を開ければ、「金」と「私憤」で突き動かされている者ばかり、しかし、それが凡夫の唯一のエネルギー源でもあるという事実はいつの世も変わらないということを改めて思い知らされる。紀元前から変わることのない、発展変容の兆しすらないその事実はやはり真実なのであろう。

 しかし、テレビドラマもひどくなったものである(内容、演技共に)。観ていると(数10秒位)こっちがほんとうにそれこそ鳥肌立つほど恥ずかしくなってくる。ここまで堕ちたかという感しきりである。ため息か呼吸か区別がつかぬ昨今である。何をやろうとしているのか?愚民政策の一環か?フウーーウ・・・

 

                                             2010  9/7

 


45.エネルギッシュな国民と去勢された国民と


 フランスでは、年金改革反対で100万人規模の一斉抗議行動が起きている。一方、日本の国民は何が起きても微動だにしない。大したものである。それは、もちろん問題がないと言うことではなく、我慢強い(これに関しては悪しき我慢強さ)、さもなくば完全に飼いならされているか、去勢されてしまっているとしか言いようがない。たとえば、日本であれば黙々と死地へと赴くのではないかと思えるような者でもパリではメトロの中で恥も外聞もなく(日本的観点)自分の受けた不当解雇について熱く訴えたりしている場面に出っくわすことがある。これは「お国柄」で日本とは違うなどと分かったようなコンセプトで割り切れるものでもなく、またそのような収め方は不当でもあろう。問題は飽くまで問題であり。その問題について異議申し立てをする、抗議することは正常な状態と言うべきである。それがなされていないということは、この国はと言うより国民は正常な状態に置かれていないと見るべきであろう。簡単に言えば、恰好をつけることばかりに気を取られる国民の「性向」を逆手に取って、巧みに操作されてしまっていると言ってもよい。もはや、日本は経済大国ではないが、そうであった時ですら欧米の富裕層とは一桁も二桁も格が違うのである。今、日本は残念ながら精神面でも、経済面でも「貧しい国」に成り果ててしまって、実際のところ恰好のつけようもないのが実情なのである。特に、精神面での凋落は甚だしいものがある。

                                

                                               2010  9/6


44.ミステリアスな自殺者30000人超


 日本の自殺者数は1998年以降30000人以下になったことがないのはもうすでに周知の事実であろう。この自殺の問題については2001年の公演の折、私も少し触れたことがあるが、最近思いがけない事実に直面した。その自殺者数の中には殺人事件、他殺の可能性もある者も含まれるということである。日本では「かなり疑わしい死体でも司法解剖にまわされないケースが多く、2007年の司法解剖率はわずか3.8パーセントにとどまっている。」(欧州諸国は50パーセント)ということである。「刑事訴訟法では検視官が変死体の検視を行うと規定しているが、実際には警察官による法医学者の判断も伴わない非科学的手法で代行されるケースが大半だという。」

 2006年の殺人事件の検挙率96・8パーセント。(「犯罪白書」)だそうだが、どうも現実的に不可解な数値であると思っていたが、それは殺人事件の「認知件数」自体が最小限度に抑えられているのであるから「検挙率」は高くなるのは当然なのである。司法解剖率3.8パーセントという世界最低レベルのところでいくら「検挙率」を割り出しても現実の問題とは乖離するだけである。

 殺人事件であるにもかかわらず、自殺、事故、病死などとして片づけられる可能性も大いにありうるとするなら、30000人を超える「自殺者」は実は自殺者だけではないことになる。

 

※参考書籍 「強いられる死」 斎藤貴男著

                                                    2010 9/3

 


43.「小沢問題」は実に有意義であった。


 この「小沢問題」によって旧体制とマスメディアの具体的結びつき、さらには検察の実態が改めて白日の下に曝されたと言っても過言ではない。そういう意味では、すでに小沢一郎は充分にその役目を果たしたとも言える。本来なら機を見て、若い世代に民主政治を任せたかったのであろうが、ふたを開ければ頭の薄くなった「オコチャマ」政治家や右顧左眄組ばかりでそうも行かず複雑な心境であったであろう。しかし、この問題で特に大手マスメディアは戦後最大レベルでその存在意義と信頼度を完膚無きまでに失墜させた。もはや何を言っても、言えば言うほど滑稽ですらある。小沢一郎を「むきになって」攻撃すればするほど(それはアジテーションに近い)逆にその本体を曝け出してしまうのである。それが、この資本主義体制の民主主義国家の中での小沢一郎の「在り方」そのものなのである。馬鹿の一つ覚えのごとく「政治と金」などという単純化した無意味なコンセプトで捉え切れるものではないものを「単純化」する。それこそが「彼ら」の狙いであったのであるが、それが逆に彼ら自身の醜悪さを曝け出すということに気づいていないか、気付いていたとしてももはや奈落への加速は多少の減速くらいが関の山で防ぎようもない。それにだまされるのは国民とは名ばかりの単なる衆愚以外の何者でもないであろう。そして、今や単純化したものを執拗に繰り返すことによって相手に忌まわし像を強引に焼き付けるというファシズム的デマゴーグの常套手段を言論の自由の名の下に行っているだけである。これが大方のマスメディアのやっていることである。(これで金の流れが特定できる) 公の場における言論の自由とは他の視点を封殺した上で成り立つものではあってはならない事は言うまでもない。今、民主政治を衆愚政治へと拍車をかけているのはマスメディアそのものである。なぜここまで身を持ち崩したのか、それは常に旧体制と結びついた既得権益の死守というものが大前提にあるからである。要するに「金」である。この際、マスメディアも金の流れを洗い直してできるだけ「まともな報道」ができるような状態を作り上げるべきであろう。ただし、それはリフォーム程度の小細工ではもはや不可能である。

 「人間の英知」などは、いともたやすく欲望と名のつくもので変質する、そして、その有無でさえ判然としない。しかし、その頼りないものに頼るしかもはや「人間」が生き延びる手立てはないというところに、この最低の知的生命体の宿業を見る。

                                             2010 9/1


42.五月蠅い者達 (その1) ー売れる安易な商売ー


 某週刊誌で有名人の写真を載せてはファッションチェックしている(イチャモンと言った方が適切)ファッションデザイナーがいる。普段はそんなものは気にも留めないが、その週刊誌を定期購読(情報チェックのため)しているのでついつい目に入って来るのである。「お遊び」と言ってしまえばそれまでであるが、何か妙に小蠅のように小うるさくなる時がある。小気味よくハチャメチャな内容であれば「お遊び」として楽しめるが、空疎な割にはもっともらしいのである。

 たとえば、「人の内面はファッションに出るって本当だ。」 本人が言ったのか、誰が言ったのか知らぬが、この場合の「内面」とは、実際には、その時の気分程度のことを「内面」などと言っているのであろうが、こういう訳の分からぬことをあたかも分かったように括って生業にしているものが実に多い。それでは、申し分のないファッションはそれを着こなしている人間の「内面」も申し分のない「内面」であるということになる。この男に言わせれば、「ダサイ」恰好をした作家はその「内面」もダサク、、たとえば着のみ着のままであったゴッホやモディリアー二などもダサイ「内面」の人間達なのであろう。

 この男、人の「内面」は顔に出るということが分かっていないらしい。ファッションは言わばカモフラージュなのである。顔はたとえ特殊メイクをしても「目」の動きで心的状態は察することができる。この男の写真をいくつか観ると、その写真から言動の一部始終は察知できる。彼自身のファッションも言ってみればサーカスのピエロかマネージャ、「人の内面はファッションに出ている」のなら、彼の「内面」はマネージャ兼ピエロと言ったところであろう。さらに言えばその内面の「哀れさ」もよく出ている。

                                                     2010 8/30 


41.現代不明言語群 その1 (「世論」、「市民団体」、「クリーンな政治」etc)


 ○「世論」

 「世論」とは、結局「何者」かによって「選ばれた」1000人の「意見」、「感想」に過ぎなかった。選択基準は今もって不明。「世論」という名の「私論」をでっち上げることなどはいかようにも操作可能。

 

○「市民団体」

「市民団体」と言うと、「一般市民」と言う人々があたかも存在するかのような錯覚を起こさせるが、実際には存在しない。現実に「市民団体」として成り立ち得る集合体の多くは革新系左派の「市民団体」、保守系右派の「市民団体」、そして、社会問題化した問題解決のためにそれに賛同するものたちが集まった団体などである。左派系、右派系などという分類自体がもう古いと言うか、ある時期に停止してしまったコンセプトでもあるのでどこか釈然としないが、より具体的に言えば旧体制の既得権益擁護の側にいるのか、そうでないかと言った方が現実的であろう。例えば、小沢問題を追及している「市民団体」が「政治と金」なるものを正義の御旗に「機」(政治的動静)を見ては行動しているのであれば、これは保守系右派の「市民団体」などというコンセプトは通り越して「市民団体」と言う名の政治結社もしくは政治工作班、敵対する政党の別働隊と見る方が適切であろう。マス・メディアは敢えてその実態を明かそうとはしない。その点も問題で、ここまで社会的に影響を与えた「市民団体」である以上、その「団体」の実態、代表者、中心メンバーの名前は伝えるべきであろうが、つまらぬ饒舌ばかりが多く、国民の「知る権利」にはまったくと言っていいほど答えていない。

 

○「クリーンな政治」

 小学校低学年生か、大の大人が言葉に酔うのも程がある、ここまで来ると気持ちが悪くなる。歴史上こんな政治がいつあったのか聞きたくなる。言う方も言う方だが、それを取り上げるマス・メディアもそんな見え透いた演出などに現を抜かしていないで、少しは我が身のこととして「クリーンな報道」を心がけた方がよかろうと言いたくなる。この国は資本主義国家ではなかったのか、資本主義大国のアメリカは「政治は金だ」とはっきりと言っているではないか。資本主義国で現実的に金が集められない者には政治ができないのは否定できない事実であろう。この点がこの国の中途半端で、むしろ欺瞞的な面であろう。要は、自分が政治家として支持してくれる国民からどれだけ金を集められるか、そして、それを私利私欲ではなく自己の政治理念を通すためにどれだけ有効に使うことができるかが問題であり、それが政治家としての指標でもあろうことは資本主義国家にいる以上至極当然のことであろう。

「害虫のいない、蝶や鳥の飛び交うクリーンな街造り」この標語の矛盾点にすら気付かず、空疎な美辞麗句に酔っているのと同様で、「クリーンな政治」、「クリーンな人間」、「クリーンな戦争」etc.このような意味不明なものは目指しようがないのである。

 そして、いまだに続く薄気味悪い横並びのマスコミ報道。「金と政治」、「ねじれ国会」、「迷走」etc,いつまでヒステリー女の繰り言のような内容を垂れ流し、子供じみた内容に拘泥してるのか、そんな暇はないはずである。公共の電波を使い一方的に言いたい放題の報道を流しているこの不健全さは同時に「メディアと金」の全貌を浮き上がらせる。

 

※「朝日」、「毎日」、「読売」の横並び報道にはもはや異様を通り越して、命運尽き果てるものの断末魔のあがきとしか見えないものがある。そして、仮にその横並びの報道を冷静かつ客観的分析であると思っているようであれば(「こっけい」、「劇画的」などの使用語句からも伺い知ることができる) あわれ、アンテナの根元が傾いている。もしそれすら認知できないのであれば終焉はほんとうに間近なのであろう。

 

 マス・メディアよ、報道につまらぬ演出はいらぬ。もし君達が演出を加えればそれはマインドコントロールになる。君たちの見え透いた3流の演出などはとても観てはいられないと言うよりうんざりなのである。そうかと言って1流の演出も必要ない。そして、最悪なのはテレビ報道などで、つまらないキャラで小細工を弄して国民を愚弄することである。もうこれ以上国民を巻き込み、愚弄するのはやめなさい。君たちは何もしなくていいのである。もはや国民は君たちの汚れた唾液で噛んで含められる対象ではなくなりつつある。ただひたすら事実を伝えなさい。取捨選択するのは君達ではない国民である。 

 

※テレビ局の現状は人不足、金不足などで「報道や言論」などは二の次」だそうだが、そんなものを聞かされる方たまったものではない、もしそうなら一度解体すべきであろう。事実を事実としてきちんと伝えるという根本的な姿勢が崩れているということを指摘しているにも関わらず、人不足、金不足で「報道や言論」が二の次になっているという弁解がましい現状説明、そして、二の次、三の次になっている割には事実に巧妙な加工、作為を施す時間と労力を惜しまないのはどう言う理由なのか。(分かり切ったことを敢えて聞きたくなる。)                                           

 

2010 8/26  mada mada tuzuku・・・

 

 


40.「コピー・アンド・ペースト」について


 「コピー・アンド・ペースト」(コピペ)とは「他人の文章を切り張りして自分の文章にする」こと,とある。これは文字通りそれがそのままその人間の人生であり、「実り」などはまったく期待できない。要するに、身についていない、借りものの人生では肝心な時に機能しないのである。さらには糊付けされたものがはがれでもしたら悲惨な状態となる。いかに社会の動きの速度が増しても、いざという時に自らが自らに問いかける核心の部分の育成には時間がかかるのである。今、必要なことは他人の思惑など意に介さず平然と「自己の課題」に誠実に立ち向かう姿勢そのものであろう。

 「コピー・アンド・ペースト」とは自分にも他人にも嘘をつく作業であることを肝に銘じるべきである。その行為自体が将来的には結局、「身から出た錆(さび)」というようなことになってしまう。錆(さび)が出る頃にはもう本体は回復不能で手遅れなのである。

 

                                                     2010 8/24


39. 死体の体温は40度


  クーラーも扇風機もない部屋で、熱中症で死んだ男の体温は死後数時間も経っていたにもかかわらず40度もあったそうである。これはもう体温と言うより物体の温度と言った方が正確であろう。「熱中症で死亡」と言うと何か気象現象などの不可抗力で死んだような印象を与えるが、実は必ずしもそうではない。この夏、何人もの高齢者、経済的弱者と言われている人々が灼熱地獄で息絶えた。見渡せば、野辺は野辺と化し、棄老による髑髏(どくろ)はそこかしこ現われ出でて、自ら命を絶つ者は跡を絶たず、ここはいずちの国かと聞きたくなるのも不思議ではあるまい。これがこの世の「現実」と、したり顔でもの言う者も、たまさかの運の良き事にかこつけて勝者気取りでいれば明日は我が身ということもつゆ忘れ、自らの力及ばぬところから自身の境涯を思い知らされる頃にはもはや打つ手もないというのが実情であろう。

                                     

                                                2010  8/23


38.「野ざらしを心に・・・」、やはり「棄老」は伝説ではなかった。


 「野ざらしを心に風のしむ身かな」とは、言わずと知れた芭蕉の句である。旅の行く末に、また自らの道半ばで「野ざらし」となることも辞さない寥々たる中にも清澄な思いを感じさせる句である。「野ざらし」とは風雨にさらされた髑髏(どくろ)ことである。しかし、今や旅という非日常性の中で自らの死を予感するまでもなく、ありふれた日常の中で「野ざらし」が至る所でころがっているというまさにブラックユーモアのような世界がそのまま今の日本の現状である。この国で「老いる」ということは、どこにいようとも「野ざらし」を覚悟しなければならないということでもある。もはや芭蕉の句は台所で、トイレで「呟く」句となってしまった。そこにあるのはただ寥々たる思いだけであろう。これが先進国、民主国家と言われている国の実情である。国家的「未必の故意」とも言える「棄老」は伝説としてではなく現実の事実として残った。これはどのような詭弁を弄しようが旧体制によってもたらされた必然的結果であることを付け加えねばなるまい。そして、それが充分に想定内であったと考えるなら、これは国家的犯罪とも言えるだろう。

 

                                                       2010 8/20 


37.「死ぬときに後悔すること25」について


 某週刊誌が緩和医療医の著作を紹介していたが、その中に「死ぬ時に後悔すること」として25項目が挙げられていた。この医療医は1000人以上の死を見届けてきたらしいからその内のほとんどの者がこの25項目のどれかに振り分けられるのだろう。25項目の内2,3を除くと、その内容は具体的であると同時にやろうと思えばすぐにでも可能であったであろうと思われるものばかりである。その1歩が踏み出せないままこの地上から消え去って行く、何とも情けない話である。これがほんとうに死ぬ直前の思いなのか、実はまだ死ぬとは思っていないのではないか、この質問が発せられた時期がその患者のどのような時期であったのかは定かではないが、このような質問の前で言いたいことは山ほどあるがまとめようがないことからくる強引な括り方、恰好の付け方ではないかとも思える。

 25項目の中の一つ「夢がかなえられなかったこと」なども、棒ほど願って針ほど叶うのが世の常であってみれば、これは万人のツブヤキでもあろうし、これはその個人である必要がない「後悔」でもある。また、「子供を結婚させなかったこと」、これは親が考えることではあるまい。考えてどうにかなると思っていること自体が不可解な「後悔」である。そして、「生と死の問題を乗り越えられなかったこと」、ここに至っては絶句。これは古今東西の聖人、哲学者、などですら完全には答えられない、乗り越えられていないと言ってもよいことである。言っている意味、事の大きさに気づいていないのであろうか、これは人が一生を賭しても見出し得るかどうか分からぬ問題で、「後悔」の対象にはならないだろう。

 ただし、終末医療に関わる者としては相手の全的「受容」が大前提としてある。したがって、「死ぬときに後悔すること25」はすべての一般的価値基準を排除して患者の発信したものすべてをそのまま拾った結果であろう。しかし、私はそのような作られた「受容」の中で、演出された「穏やかな死」を迎えるつもりはない。たとえば、雷鳴とどろく中、稲妻に向かって握り拳を振りかざして死ぬのも一つの生き方、死に方でもあり、また、ある高僧が死の直前に「死にとうない」と言って見守る弟子たちを驚かせたというのもまた一興であると思っている。 

 

 

                                                     2010 8/16


 36.臓器移植に想うこと


 臓器移植でしかもう直しようがない、また助かる見込みがない人々に対して、私には沈痛な思いで見守るしか他になす術もないが、どうしても解せないことが常に残る、と言うよりは時に恐怖さえ感じることがある。それは一縷の望みとして臓器移植を提示されることによって他人の死を待ち望むことになるというそのこと自体から発生する。臓器提供者が現われたということは、移植を待っている人間には朗報であるが、それは他人の不幸によってもたらされたものである。

 そして、一方では臓器移植は医療産業にとって大きな利潤をもたらすものでもある。10数年前のことである、某国では死刑が頻繁に行われていたが、その死刑囚の死体はすぐさま臓器移植に回されるということを、ある大学の講師から聞いたことがある。そして、臓器移植のために死体を一体解体すると病院が一棟建つというくらいに利潤を得ることができるということであった。その話から、私はいつの間にか姿を消してしまうストリートチルドレンのことも考えざるを得なくなってしまった。需要がある限り、供給は止むことはなく、それは我々の限りない欲望に突き動かされてすぐに度を越してしまうということを我々は今迄にも何度となく見てきたはずである。「人命救済」という名の下に医療産業の「思惑」が見え隠れするのである。

 そして、何よりも脳死はほんとうに死なのか?と言う問いに対してもまだ「完全」には答え切れていないのが実情である。もし、将来的に脳死は完全なる死ではないという結論が明確な科学的根拠をもって出されたら一体誰がその責任をとるのか。脳死の後、まだ生きている細胞が「暫くの間」その脳の代替活動を担っているとしたら、たとえそうではなくとも脳死の直後にすぐに解体される死者の最後は「やすらかな死」ではあり得ないことだけは確かであろう。

 

                                                 2010 8/10


35. 仏教と墓とは無関係


 先日亡くなった つかこうへいが、私は仏教徒でもないので墓は不要、骨は対馬海峡辺りにでもまいてくれというようなことを言ったらしいが、本来、仏教と墓とは何の関係もない。釈尊(釈迦)自身も死者の為に丁重に葬儀を行い、墓を作って埋葬すべきであるなどとはどこにも言っていない。むしろ、そのようなことは生きている者に任せて、今生きて道(この場合は仏道)に励めということしか言っていない。要するに墓を持つなどはどうでもいいことであり、それより生きて励むべきことに集中せよとだけ言っているのである。

 私は、厳密なる仏教として原始仏教から中論、そして日本における「正法眼蔵」に至る仏教の経緯の中にしか真実の仏教は見出し得ないと思っているので、残念ながら今の世俗葬式仏教には全く興味がない。もちろん、日本にも数多くの素晴らしい僧侶は存在したが、彼らの真の「教え」はほとんど浸透していないと言ってよいだろう。つかこうへいなども仏教を日本の一般的通俗仏教の枠の中でしか捉えていないことがそのもの言いから知れるが、彼の意に反してやっていること、為したことについてはブディスム的であるとも言えなくもない。

 私は、イスラム教、キリスト教でも、また神道のような民族宗教の前でも「合掌」する。それはそれぞれの「祈り」に対する「敬意」である。

 

                                                    2010  8/8

 


34.「人を殺さなければ、何をしてもよい。」とは?


 「するべきこと」ということに身動きつかなくなった者に対して、少しでも自己の欲望に忠実になれという過激なエールとして成り立たなくもないが、同時にそれは危険な要素も併せ持つ。「人を殺さなければ、何をしてもよい。」ということは、「人を殺さなければ、いかなる嘘をついてもよい。」ということでもあり、それは現実世界にまたさらに「嘘の殿堂」を拡張することにも繋がり、それによってまた人々の疑心暗鬼による心の歪みも増長し、「未必の故意」なども日常茶飯事となるということである。また、それによる「殺人」も許容の範囲にもなり得るだろう。罪となる事実の発生を積極的に意図、希望したわけではないが、自己の欲望の果てに、結果的に他者を追い詰め、死に至らしめることを承知しつつも、それを回避しようとはせず、是認する方向に向かう、その時、直接的には人を殺していないということだけでそれをいかようにも自己正当化することが可能になる。それはまた新たな「地獄」を、「地獄」の変種を作り上げる作業とも言える。

 「人を殺さなければ、何をしてもよい。」とは各自の自由活動を後押ししているようだが、「人を殺さなければ、どんな地獄を作っても勝手、たくましく疑獄を生き抜こう。」などと言うくらいに捉えていた方が無難で、危険な面を持っていることに気が付かなくてはなるまい。殺人以外は何でも可という「自由活動」の破たんはすでにあらゆるところで噴出している。その「自由」のツケは意識するとしないに関わらず各自が背負うことになる。

因みに、刑務所内の囚人の間では殺人犯は単なるドジな馬鹿者扱いであるらしい。 

                                                2010 8/4


33. 死を待ち望まれる人々


  30年近くも前に、長く入院している年老いた父親の面倒を見ている知人が、「こんなことは言いたくないが、早く死んで欲しいと思っています。」と言った。その時、彼もすでに30代半ばを過ぎていたと思うが、いくら残業しても給料の半分以上は医療費に持って行かれて自分の生活もままならず結婚などはとても考えられないと言う。その後、彼とは会う機会もなくどうなったのかと思うが、まじめな彼のことである父親の面倒を最後までみたのであろう。そうだとすれば彼には家庭を持つことはできなかったはずである。また、もはや持ちたいとも思わなかったかもしれない。「早く死んで欲しい」という気持ちが起こることに対して一番無念に思っているのは彼自身ではなかったか。自分の今やれることのすべてを出し切っても打開できぬ問題を抱え込んでしまった人々の心に「殺意」をいだかせ、追い詰めて行くものの所在は明確なのである。たまたま運の良かっただけに過ぎぬ者達が彼のような境涯に置かれた者達の「呟き」を真っ向から責め立てるのは身の程知らずの傲慢さと言わざるを得ない。これは個人で解消できる問題ではない。国が助けなければらない問題である。今ごろ少子化問題など取り上げているようでは遅過ぎるのである。たとえ取り上げたところで為す術もあるまい。そこには経済、医療、保障問題などのすべてがからんでいるのである。だから少子化問題対象者の中でも無謀な人々以外は政府が打ち出してきた少子化対策程度で踊り出すことはないのである。(少子化問題の対象者は一般に「富裕層」ではない)

 最近では、100歳以上の老人の行方不明者が続出、それも2,30年前にすでに行方不明となっている者達である。多くは行方不明の届出も出しているのか定かではない。事実上の「厄介払い」であろう。このままでは、この国は先進国とは名ばかりの「棄老伝説」姨捨山を地で行くことになるだろう。私の身近なところでも、最近、老人の腐乱死体が発見されたり、商店街を垂れ流し状態で悪臭を放ちながら歩く老人がいたりと具体例には事欠かない。このような醜悪な姿を常に見せつけられる者達がこの国にいる我が身の行く末をどう感じるかは分かり切ったことである。身を捨てる程の国家ではないと思うのは当然のことであろう。長寿を祝うなどと欺瞞的なことをやっている前にやることは山積していたはずである。しかし、とめどもなく出てくる旧体制自民党政権下の負の遺産である。彼らは一体何をやっていたのか?

                                                  2010 8/3


32.「人間の役に立つより、神様の役に立て」


 これは、ある作家の父親が息子に言ったことである。

 もはや、「人間」そのものが特定できない状況の中では核心を衝いた表現である。「人間」の役に立つこととは何なのか、「人間」を楽しませることとは一体何なのか、この恐ろしく怪しげな化け物「人間」、この「化け物」の「役に立つ」こととは、この「化け物」を楽しませることとは、一体何なのか。もちろん、これは「人間」という多面体の一面を言っているに過ぎないが、それは確実に存在し、光の方向を見失えば一瞬にしてその全面を覆う一面でもある。このような在り方しかできないのが「人間」である。したがって、なんびとに対しても必要以上に謙虚になる必要はもうとうないのである。謙虚に受け止めるべきは「人間」の作為が遠く及ばぬ「神」の領域(広義の意味で、例えば大きくは「大宇宙のリズム」、小さくは「人間」の他面で辛うじて息づく限りなく祈りに近い「呟き」とでも言うべきもの)の「声」である。

 「人間の役に立つより、神様の役に立て」とは、「人間」を楽しませるより、「神」を楽しませたいと思うのと同様に、それが誠実な精神の在り様であろう。それは「偽善」からも「偽悪」からも距離を置ける唯一の道でもある。

 

 

                                                      2010  7/30

 


31. 笛吹けど踊らなくなった時


  マスメディアがいくら笛吹けど踊らなくなった時、それは各自が「旧体制」の呪縛、洗脳からようやく解き放たれた時でもある。そして、各自が真に「自らのリズム」で踊り始めた時、ある部分の「洗脳」は解けたと言うべきであろう。いつまでもマスメディア一般が旧体制から脱却できないのも、日刊新聞法(1951年制定)、電波法、放送法などに守られた既得権益の問題があるからである。そして、旧体制は少なくともその既得権益について切り込むことはなかった。今まで連携していた相手が自滅して行く中で慌てふためいているというのがマスメディア一般の実情に一番近いだろう。あわれ、彼らのアンテナは完全に狂っている。否、アンテナはそもそもなかたのかもしれぬが、アンテナではなくもうすでに本体が腐臭を放っているのである。

 

※良識ある1部マスメディアは除く。

 

 

                                                                                                              2010 7/26     


 30. 哀れな「偽悪者」の死


 ある「作家」が書いた本に「反応」して、読者が作家を殺すという事件が起きた。それだけ見ると、そこまでインパクトを与える作家がいたのかと思う反面、事態が考えている以上に深刻化しているのではないかとも感じたが、敢えて調べるまでもなくその構図は見て取れた。適度に味付けされ、加工が可能な「偽悪」は面白がられ、マスメディアはそれにすぐ乗るが、雲行き次第では途中下車、いつものパターンでもある。これは作りだされた「偽悪」作家とそれに踊らされた者との「悲劇」である。さらに詳細な事実が判明したとしてもこの基本構造は変わることはあるまい。我々は幸いにも「絶対善」にも、「絶対悪」にも到達することは稀であり、むしろ不可能と見る方が賢明であろう。残された方向は「偽善」か「偽悪」しかない。両者とも嘘が多く常に「検証」を必要とするが、「偽悪」は悪臭を放つだけで、何ものをも創り出さない。そして、今や、「偽善者」よりも「偽悪者」の方が多いのではないかと思われる状況である。「偽悪」的、一見「反体制」的言動も何か「事」が起きれば、その後は「反省ポーズ」ですぐにその「腐敗しきった」「社会復帰」を目指すというお決まりの回路である。その程度の「偽悪」でこれ以上社会を「下品」にすることはない。もうすでに充分に、文化レベルも含めて「下品」なのである。「偽悪」は反理想主義的という意味でも、その「反体制的」言動にも関わらず実は「腐った体制」に都合のいい「体制的」な要素を持っている。

 

※犯人は「神経症」云々とまたいつものの精神病理上の規定もあったが、今生きている者たちに精神病理の精密検査をすれば、ほとんどの人間が何らかの病名を言い渡されるだろう。テレビなどに出演している者達などもある意味では精神病棟にいてもおかしくない者ばかりである。したがって、精神病理上の規定を行為の根幹要素の解釈として必要以上に援用するのは避けるべきである。

                                          2010 7/24


29. 今年ばかりの夏行かんとす


 正岡子規の短歌に「いちはつの花咲き出でて我目には今年ばかりの春行かんとす」という短歌がある。この短歌は、自らの死を悟って、もはや二度と訪れることのない「春」そのものに対する惜別を詠ったものである。しかし、私にとっては春夏秋冬すべてが「今年ばかり」なのである。本来、すべての出会いが一期一会であってみればそれはごく自然な道理である。もう二度と味わうことができないと思うと、この酷暑も何らかの生きた証となって自身に残る。暑さは飽くまで暑く、しかし、そのただ中で暑さそのものが必要以上に「私」と対峙しないのである。

                               

                                               2010 7/23


28. 愚かな税率論議


 「増税で経済成長を唱える愚かなメディアと評論家」

 彼らは多くの視聴者の状況からはまったくかけ離れたところにいて、既得権益死守の代弁者的「自己主張」を続けている。欧州の例を出して税率論議をするのであれば、まず日本の「消費税」の実態について正確に伝えるところから始めなければいけない。それについては、田中康夫が指摘するとおり「欧州と同様にインヴォイスを導入した上で、付加価値税としての消費税の在り方を論議すべき」なのである。そうでない限り、結果的には「税率引き上げによって、零細業者から大企業への大規模な所得の移転が生じてしまう」のである。またまた巧妙に国民を欺く罠を仕掛けようとしているメディアとその周辺機器である。

 

                                                   2010 7/20


27. 谷岡ヤスジのような「夏」 


 今年の「夏」は、「全国的にナツー!!!」と「ムジ鳥」が空中で羽ばたいているような突然の到来であった。こんなことを連想するとはつくづくと時の流れを感じてしまうが、同時に自分の中にもまだ分別臭さを感じさせぬアナーキーなエネルギーが残っているのかと思えることが楽しい。「ムジ鳥」が空中で雄叫びを発し、周りにいる者たちは鼻血を「ブー」と大量に飛び散らす。何とも異様なパワーを感じさせる世界ではある。今の人たちでは、見ているだけで貧血を起こすのではないかと思われる漫画である。当時、私は谷岡ヤスジの漫画はあまり好きになれなかったが、よく知ってはいた。それがどうして今頃そんなことを連想させるのか、それは現状に流される安っぽい「ニヒリズム」(虚無主義)と、いつからともなく巧妙に「去勢」されて行くことに対する拒絶反応なのかもしれない。

 サンングラスをして、耳にはイアホーン、口にはマスクで本を読んでいる姿、あるいは携帯電話をしながら無灯火で自転車を走らせる者、これだけのことでもすでにおそろしく「異常」である。しかし、その状況にどっぷり浸かっている者にはその異常性が見えてこない。だから、今、あの異様とも思える「ムジ鳥」が何とも言えず「人間性」を帯びてくるのであろう。それは健康的でさえある。

 久しぶりの強い日差しの中で、「ムジ鳥」が鳴いた。「ナツー!!!」、今、この酷暑が心地よい。

 ぺタシ、ぺタシ・・・・・「然り」とつぶやく声がする。ぺタシ、ぺタシ・・・・・

 

※「ムジ鳥」も「ぺタシ」も谷岡漫画のキャラクター

                               2010  7/ 夏になった日


26.明るい話題ばかりの異常さ


 「こんな時代だから明るい話題をする」何ともお粗末な話である。だから、ますますおかしくなるということに気が付かなければならないだろう。まず、我々には知る権利がある。そして光と影があることでものを全的に捉えることができるのである。「明るい話題ばかりする」ということは影の部分を排除するこでもある。そうするとどうなるか、簡単に言えば、頭の中はハレーション状態で、ものが的確に見えない状態で闇の部分だけは人工的に増幅されていくのである。

 日本のマスメディアは特に、「暗い」ニュースを避ける傾向がる。「明る」、「暗い」は関係なくあった事実をできるだけ正確に伝えるのが本来の務めであり、我々には知る権利があるにも関わらずそれがほとんどなされていない。たまにそれらしきことがあっても必要のないところまで「ボカシ」がかかている。彼らにとって国民はいつまでたっても18歳未満であるらしい。国民をなめているとしか言いようがないのであるが、一方では国民自身もどこかでそれに甘んじてきたということもあるだろう。踊らされているにも関わらず、自分自身の意思で踊っていると思っている日々。そのようなすべての結果が今の日本の現状である。

 五木寛之が「新聞にしても、テレビにしても、ジャーナリズムが暗いニュースを故意に無視すれば、ろくなことはない。」(7/15 日刊ゲンダイ)と言っているがその通りである。頭の中がハレーション状態のものは「闇の部分」を執拗に排除しようとするのである。しかし、「闇の部分」を見つめることを避けては、光と影が織りなす全体像は見えてこない。事実としてある「影の部分」を避けて、または隠ぺいして明るい部分だけを取り出すということは、ものが見えていないハレーション状態の人間に拍車をかけるようなものである。そのようなことを少しでも避ける意味でも、明るい話題だけではなく、日本の、世界の悲惨な状況も含めた事実を事実としてきちんと伝えることから始めなくてはなるまい。頭がハレーション状態のいくつになっても18歳未満の「お子ちゃま」国民ばかりを育てることは「植民地政策」「愚民政策」を地で行くことにもなりかねない。光も影も全身で受け止めるられるようなたくましい人間を育てることが全体をより良くするためには不可欠なことであろう。

                             

                                                          2010 7/15


25.民主主義に「迷走」、「ねじれ」は付きもの


 またまた、マスメディアの分かったような分からないような「一言くくり方教室」が始まった。「迷走」するのが民主主義、「ねじれる」のが民主主義、逆に「迷走」もせず、「ねじれる」こともない快刀乱麻にものごとを決められたのでは怖いものがある。今まで半世紀以上も1党独裁で飼いならされて結果であろうが、マスメディア自体もそれに歩調を合わせて1歩たりとも前進した気配すらもない。余程、全体主義的傾向を持つ一党独裁が好きだと見える。今までのような薄汚い「政治屋」よりは、「お子ちゃま大臣」、「アマチュア政治家」と呼ばれながらも叩かれて(ある意味では情けない)僅かでも成長していくことを期待しざるを得ないというのが大方の「良質」な国民感情であろう。これは国民にとっても、政治家にとっても、民主主義そのものを真に見直す良い契機である。つまらぬ「騒音」に惑わされることなく、「迷走」しながら、「ねじれながら」熟慮前進するしか道はないのである。因循姑息なヒステリー女のように苛立つのはマスメディアとその「周辺機器」だけで充分である。国民はそんなヒステリー女の「煽り」に揺らぐことなく、このヒステリー女を影で操るもう一方の「主権者気取り」のあり方と位置に細心の注意をはらいながら、この際、真の「主権者」に成るべきであろう。「迷走」、「ねじれ」などと言うのも、現象そのものの様態を言っているに過ぎないのであるが、マスメディアの「くくり方教室」ではいつの間にか見るも無残な醜悪な現象という意味合いばかりを敢えて一人歩きさせて、それに則って「話」を増幅させているというのがその実情である。「迷走」、「ねじれ」という現象そのものは、国民自身が問題の所在について関心を持たざるを得なくさせる、またそれによって社会問題を、自分自身の位置を確認することにもなるのである。何でも人まかせにしておいたらどうなるか、身の回りについて少し思いを馳せればすぐに分かることである。いいように食い荒らされて残ったのは残滓だけなどとならぬよう細心の注意が必要だろう。

 悲劇は自らを追い詰めた「犯罪者」に手を振っていることである。

 

                               2010 7/14


 Para mi amigo

¡ Enhorabuena¡

Campeonato Mundial de Fútbol

Para  ustedes   el fútbol  es el deporte rey

Recuerdos a Sr .Pulpo 

 


24. オグリキャップはやはり「馬格」が違う


 人間も「人となり」があるように馬にも「馬格」がある。騎手、厩務員、調教師などの話を総合してみてもやはりこの馬は並みの「馬格」ではない。そうは言っても馬には人間のように人品下劣というような「馬格」も存在しない。並みはずれた「馬格」とは人間との共感、共鳴領域が非常に広い馬とでも言えるようなものであろう。「彼」はひたすら走ることだけで多くの人間に勇気を与え、救った。この事実だけでも、本来なら人々に生きる勇気を与え、救わなくてはならない務めを持つ人間達は自らのやっていることの卑小さを改めて思い知らなくてはならないのであるが・・・

 オグリキャップに救われ、勇気をもらった人達はオグリキャップのことを「この馬」、「あの馬」とは言わない、「この方」、「あの人」と言う。これは「人」としても極自然な気持ちの流れであろう。そして、一方では、人一人も救うこともできない者達が、相も変わらず大きな顔して「識者」でございますとばかりに出てきては、したり顔で虚しい寝言、戯言をまくしたている。その無残な様を見ていると、オグリキャップがますます神々しく見えてくる。人間というのはそれとは分からぬままとんでもなく愚かにもなるものらしい。すぐに,いい「下限」が分からなくなるのである。

 

                                                                                                                                        2010 7/11


 23.人生の最終章は「中世歌物語」


 私とは一面識もない演劇人、平林恒茂(舞台演出)が癌宣告を受け、余命6カ月で選んだ人生最後の演出作品が「オーカッサンとニコレット」であったことをドキュメント(7/8放映)で知った。そのことだけでこの人物に対して何とも言えぬ共感を持ってしまった。聞けば、22年振りの舞台演出だそうで、以前は「オンシアター自由劇場」に在籍(1976-1986)していたということであるから、おそらく私とは六本木のどこかで会っているのかもしれない。当時、私はNLT(六本木)に在籍していたのでオンシアター自由劇場にも何回か行ったことがあった。NLTでの「オーカッサンとニコレット」の初演は1978年(本邦初演)で、私も違う芝居の演出をしながらもNLT在籍中はNLT公演すべてに関わっていたのでこの「オーカッサンとニコレット」も例外ではなかった。特にこの芝居は今までのNLTの枠組みから外れていたので興味深かかった。座長の賀原夏子さんもこの芝居の一般上演にはかなりの勇気を必要としたのではないかと思う。(稽古開始から上演までに1年以上かけている。)案の定、劇団内部では賛否両論が渦を巻いていた。私も賀原さんから何度か感想を聞かれたが、その不安は痛いほど分かった。この芝居はかなり「訓練された」役者がやらないと、ややもすると「学芸会」風にもなりかねない「怖い」面をもった芝居なのである。幸い、本邦初演となるこの公演は連日満員で、「ぴあ」のベストテン入りというオマケまでついた。実際に、このような芝居の場合、劇団組織でも思っている以上にかなりの稽古時間を必要とするのである。緻密にやろうとすればなおさらである。

 私も2年程前、シアターχでこの芝居を演出したが、公演形態がプロデュース公演だったので大変な作業となった。しかし、なぜ彼が人生の最終章に敢えてこの芝居を持って来たかったかということもよく分かる気がする。そして、登場人物の老婆に「人の生き死には不公平なもの」と言わせたそうだが、その台詞は、賀原さんとの打ち合わせの折、彼女が何気なく「雨の日に登場したものと、晴れの日に登場したものとでは全然違うのよ」と言ったことを思い出させた。30年以上も前のことである。

 見知らぬ友のご冥福をお祈りします。

※残念ながら、今年1月に上演されたと言う平林演出の「オーカッサンとニコレット」は観ていない。

 

                                 2010 7/9


22.「 自殺」に想うこと


悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て

此大をはからんとす。ホレーショの哲学竟に何等の

オーソリチィに價するものぞ。萬有の

眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。

我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。

既に厳頭に立つに及んで、胸中に何等の

不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は

大なる樂觀に一致するを。

 

 これは1903年(明治36年)5月22日、日露戦争前年、当時16歳の旧制一高生の藤村操が華厳の滝に飛び込む寸前にミズナラの樹肌を削って書き残した遺書「巌頭之感」である。

 藤村操の死は、美少年で一高の秀才でもあり、その「動機」がプラトニックラブの破たんであったのでこうまで世間の同情を引いたのだという説もあり、それがいつしかあれは単なる失恋の果ての自殺だと半ば嫉妬まじりの俗流の間で矮小化されていく中、彼の高校時代の教師でもあった夏目漱石は「吾輩は猫である」、「草枕」などの中でも取り上げて、彼の自殺に関する一連の矮小化に対して一線を画している。特に「草枕」の中での藤村操の死についての漱石の主張には説得力がある。すなわち、

「昔し華厳の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して、急湍に赴いた青年がある。余の視る所にては、彼の青年は美の一字の為に、捨つるべからざる命を捨てたるものと思ふ。死其物は洵に壮烈である、只其死を促すの動機に至っては解し難い。去れども死其物の壮烈をだに體し得ざるものが、如何にして藤村子の所作を嗤ひ得べき。彼らは壮烈の最後を遂ぐる情趣を味わい得ざるが故に、たとひ正當の事情のもとにも、到底壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある點に於いて、藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。」要するに、この自殺を俗流の解釈でしたり顔をするものに笑う権利はないといっているのである。また、その「文学論」では、噴火口に飛び込み自殺をしたと言われている古代ギリシャのあのスファイロスの哲学者エンペドクレスの例にまで及んでいる。

 さらに、黒岩涙香にいたっては、「我国に哲学者無し、此の少年に於いて初めて哲学者を見る」とまで述べている。この点に関しては今でも同様であろう。命を賭す気概に於いても、また誠実さに於いても充分に納得でき得るものを持っている者は稀で、皆無に近い。単に重箱の隅を突いているだけのようなアカデミスムに明け暮れ、辛うじて見つけた吹けば飛ぶようなものにしがみついている輩とは異質であることは確かである。(黒岩涙香の指摘は、西田幾太郎が哲学者として世に登場する以前と見るべきだろう。「善の研究」は1911年である。)

 三島由紀夫もこのような死に方をすれば、完璧な切腹とともに自己完結的な美を厳頭の彼方の日輪に見て、やがてその身は飛瀑の虹の中に直下し、消えて入ったはずであるが、二番煎じを極度に嫌う彼の事である、決して厳頭に立つことはなかったであろう。そうかと言って、かのギリシャの哲学者のエンペドクレスのごとく火山の噴火口に飛び込むことなどは美的領域の住人にはできることではない。それが本来の哲学者と美的殉教者との根本的な違いである。黒岩涙香も本来の哲学者と言う意味で「我国に哲学者なし」と言ったのであるが、藤村操は、漱石が「美の一字の為に、捨つるべからざる命を捨てた」と言うように、その哲学的文面にも関わらず、哲学者というより美的殉教者に近いのではないかと思われる。

 現在、日本の自殺者はここ12年間連続、年間30000人を越えている。いくつかの事例で推測するしかないが、少なくとも藤村操のように飛び込む寸前に樹肌を削ってその思いを書き連ね、それこそ「悠々と」飛び込んだ事例は後にも先にも聞いたことがない。毎年30000人以上の死者を出す内乱状態かと思わせるような自殺者の量、そして、その多くの「動機」が「借金を苦にして」、「いじめを苦にして」、「老後を苦にして」、等々、安手の週刊誌並みの括り方で分かったようにすべては収められている。それらの遺書の多くは先立つことの「詫び」と「感謝」で終わる、「お父さん、お母さん、ありがとう」。中には戦時中の特攻隊の遺書と見間違うばかりの遺書もある。実のところ、その「動機」の多くは語られず、自己の悲痛な叫び声を上げることすらできない状況の中で、すべてを自分自身の中に溜め込みながらほぼ衝動的に死んで行くのである。これはもう武器なき内乱状態であると言ってもよいほどである。

 漱石自身も藤村操の自殺については「只其死を促すの動機に至っては解し難い。」といっているが、誠実な見解である。それについての江藤淳などの分析的論述は、特に精神分析的手法での「断定部分」に関しては「解せない」ものが残る。たとえば藤村操の「神経症」、「父からの体質遺伝」等、これを言い始めたら、すべての人間はどれかに当てはまるだろう。芸術家にその例を探し求めたら切りがない。そもそも、地球上で限りなく愚行を繰り返す人類にどれ程「まともな」人間がいるのかということにもなり、これは不治の病にただ病名だけを付けて何かをつかんだかのように思い込んでいるのと同様である。ただし、この自殺についての江藤淳の「時代に底流する不安と変化の兆候を先取りしていたことは否定しがたい事実である。日本の社会はこのとき、まさに未知の新しい時代の重圧を受けて、自らそれと知らずに激しくきしんでいたからである。」と言うその当時の歴史的背景に関する指摘は頷けるが、それでもなおこの藤村操の自殺については漱石のごとく、理解できない部分に関しては「解せない」として、そこに「見え隠れするもの」を手掛かりに綿々と各自が持ち続けるべき問題でもある、それに耐えかねて「チンケな答え」にしがみつくことは自分自身の人生を「チンケ」なものにするだけである。ドン・キホーテを単なる「誇大妄想狂」として捉えるのか、精神の冒険の守護神として捉えるのかでは自ずとその方向も展開内容も違ってくる。少なくとも前者には先がないということだけは言える。

 この藤村操の「巌頭之感」は、事件の影響を恐れた当局によってすぐに抹消されたが(その直前、地元の写真館がミズナラの大樹に墨書されたものを撮影している)日露戦争前夜の16歳の少年の自殺は当時のマスコミを賑わし、2か月余りに渡って言論界の中心的話題となった、とある。

 因みに、某週刊誌(1986年 7/11号)では<ー略ー83年後のいま自殺は「哲学的な死ではなく、恋の片思いが引き金だったことを証明する操の「恋人への遺書」が見つかった>とある。またまた俗物どもがよろこびそうな「ネタ」である。これで一体何が証明されたと思っているのか、また思いたいのか、藤村操の精神状態の一部を探る手掛かりになる程度のものですぐこの調子である、それがその真実のすべてであるがごとくの書き方である。24年前の週刊誌の記事である。「チンケな答え」にしがみつく一例である。今も変わらずこんな捉え方しかできないのが「大方」のジャーナリスト、評論家の類である。漱石に倣うなら、彼らは藤村操より人格的にも劣等なのである。

 

                                  2010 7/2


  Avec le temps 


 Avec le temps    Tout s'en va

Il y a eu la marque que l'oiseau prenait un bain froid au vase des anges.

Je n'ai plus le temps de discuter du sexe des anges.

                                                                                                             

                                                                                                               2010  6///////////////


21.ジャーナリスティクなタイトルの本であふれる新刊書コーナー


 ジャーナリスティックな題の本というのはほとんどが裏切られると思った方がいいだろう。出版社がとにかく読者に手に取ってもらい買わせるためにのみ腐心したといってもよいような題である。ジャーナリスト、編集者、若しくはどこぞの編集部などが紹介する書籍なども皮相的な内容のものが多い。実際、生前の筑紫哲也が推す書籍などでさえそうであった。ほんとうに読んでいるのかと聞きたくなるような本もあった。例えば、読売、毎日、朝日の各紙が絶賛などとあったとする、これで多くの読者は何を感じるのか、おそらく世の中全般から支持を得られているという「お墨付き」があるものと勘違いするであろうが、新聞社自体がものを言うはずもなく、各紙の担当者(多くは個人名不明)の個人的見解に近いものを載せているに過ぎないのである。

 「○○の正体」などという類の本も切り込みが甘く、胡散臭いものが多い。何より書き手に誠実さが欠けている。一つの例を挙げよう、論述の根拠となる文献の都合のよい部分だけを抜粋して、後半の相反する論点の根拠になり得る箇所は削除されているというようなことがある。(ここまで気付く読者は少ないであろうが、だから不誠実なのである。)ここまでやるかというくらいの典型的な我田引水の論述である。

 ドキュメンタリーでも、書き手の取材の努力は買うがそのような取材で一体何を伝えたいのか、伝えてどうするのか、書き手の姿勢を改めて問いたくなるような内容のものが多い。例えば、レンタルチャイルドー神に弄(もてあそ)ばれる貧しき子供達ー、ジャーナリスティクな題であるが、特にこの副題はこの書き手の理念の危うさとそのスタンスを否応なく明示している。「神に弄ばれる」,ここに書き手の根本姿勢がすべてが集約されていると言ってもよいだろう。この書き手はどこに行っても何を見ても結局のところ「神に弄ばれる」事象でしかないのではないか。そして、この「神」とはどのような神なのか、どのような「神」であれ、「神」が「弄ぶ」ことは決してない。これはメタファーとしても成立しえないのである。このような表現でインドの悲惨な状況(実際はインドだけではないが)を括ってしまう、または括ろうとする日本人である書き手の意識構造そのものがやはり問題となってくる。どちらにしてもこのような不用意な括り方は「神」との葛藤を持たぬ日本人でしかできることではないことだけは確かである。

 以前、ヴェトナム戦争の従軍カメラマンの写真がピューリツァー賞を取ったことがる。その写真とは、今にも死にそうな幼児が立ちすくむ背後でハゲタカがじっとその様子をうかがっている写真である。このカメラマンは後に追及され、良心の呵責に耐えかね自殺した。

 また、2001年9月11日、ニューヨークの貿易センタービルの倒壊の現場に居合わせた日本の「俳人」がご丁寧に季語まで入れて俳句を作って悦に入っている本に出くわしたことがある。そして、その周辺の者はその句を名句とばかりほめそやしている者がいると言う。もはや何をか言わんやである。

 ジャーナリスティックな題とは、耳目を引くことを狙った奇を衒った題でもある。その題を凌駕するような内容はほとんどないとい言ってもよい。そこには今日まったく忘れ去られてしまったとも言えるあらゆる創造活動に不可欠な誠実さの欠如がある。書店に山積みされている書籍も愚かな、敢えて愚かと言うが、そのような「知的遊び人」の営為以上のものはどこにも感じられないものがその大半である。頭の回転数だけで競い合って、弄んでいるような内容には吐き気を催すだけで、本来我々には必要のないものでもある。それは、時折発せられる「観念」の高速変則回転の音に思わず反応はするものの、その後には何も残らない、ある意味ではどうでもいいようなものでもある。音だけはけたたましいが一向に前には進まぬ「空ブカシ」にも似て苛立たしく、煩い。そして、それはまた音色を使え分けた「騒音」とも言える。

 求めているものは、より「本質的なるもの」の酸化鉄の匂いを持つ「軋み」である。それはただ「観念」を弄んでいるような、いざとなればいち早く安全地帯に逃げ込む輩からは発信不可能な領域のひとつでもある。如何に巧みに言葉を使い分けようが、如何に回転数を誇ろうが、どのような「権威者」であろうが、誠実さを欠いた「知的遊び人」の領域にいる人間の言説は胡散臭く、いかがわしく信用することはできないということである。たとえその言説が少しばかりは聞き得るものがあったにしても、それは僅かに「もて遊べる」程度のもであって、やはり信用できないことに変わりはないのである。

 

 

                              2010  6/26 


20.改めて、「識者」とは何者なのか?


 一般に「識者」と称される者達は「知恵」がついている分、基本的に詭弁を弄することが可能な人達である。したがって、彼らの「言っていること」よりも「やってきたこと」を基軸にその言っている内容を検証する必要はある。「○○大学教授」、「○○新聞論説委員」(新聞社によっては言いたいことなどは読まなくても言い当てることが可能である。)、「○○アナリスト」、「ジャーナリスト」、「○○評論家」etc。これらの肩書は彼らの言説を何ら保証するものではありえない。それらの肩書で今まで何を具体的に行ってきたのか、それが問題なのである。どのようなことを言ってみても自らが行ってきた以上の何者でもない以上、そのことがすべてなのである。しかし、マス・メディア一般はそのようなことは不透明にしたまま、聞く方も聞く方だが答える方も答える方であるというような茶番劇を綿々と日々繰り返しているというのが今の実情でもある。キャスティングされた「識者」の顔ぶれですでに聞くまでもなく、観るまでもなく、読むまでもなくその「方向」は明々白々なのである。 その「方向」とは、最近特に強くなってきた反民主主義的な民族主義を前面に押し出した全体主義国家への「方向」である。また繰り返すつもりなのかという思いである。

 日本の文化に親しみ、愛でてきた者の一人としてそのことを政治戦略の手段として使われることに不快感と憤りを感じる。日本の美意識、文化一般については日本人以上に理解し、詳しい者が諸外国にも数多くいる現代において「美しい日本」式の浅薄な日本文化の理解者がどうして真に日本を理解し、愛することができようか。もし、「理解し、愛している」と言うのなら、日本の歴史、文化も含めたすべてについて総合的に述べ伝えるべきであろう。それができないのであれば、また敢えてしようとしないなら、それは自己のアイデンティティに関わる単なる「思い込み」の領域に逃げ込むことでしかなく、検証の余地もない。自身に明解な筋道を持つことも望まず、自分の凝り固められた「意見」をただ強引に相手に押し付けることしか考えない者ばかりになることは回避しなくてはなるまい。日本の象徴的存在の名のもとにそのすべてを正当化させようとする行為は、またいつか来た道へと退行することになり、歴史を教訓化できていない愚かな国民と成り下がるだけである。敢えて歴史は繰り返されるということを地で行く必要もなく、人類には「英知」は存在しないことの「証」を作り上げる必要もない。

 妙な数学者が日本人、日本国について自己陶酔的に論述するのは勝手ではあるが、それは以前にもよく登場した民族主義者を彷彿とさせる。このような「識者」だけを前面に押し出すマス・メディアの目論見は何なのか、それは火を見るより明らかである。

 

                                           2010 6/24


19.奴隷の祈りなどとは無縁


 「私は退屈な芝居小屋から出て行く。その時、天空に神殿の扉が開かれるだろうが、なお私は言うだろう。すべては虚偽であり、すべては空の空である。」と、同時にそのままそのとおりであると。

 今日も「光と瞑想にみちた日」であった。そして、私の「牙」は常に私とともにあり続ける。たとえ、それが自らの口腔を突き破ろうとも。

<あなたがたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、なくてはならないものはひとつである。>人生はあってもなくてもどうでもいいことに関わっている程長くはない。捨て去るべきものは捨て去らなくてはなるまい。

 私には、死を前にして恐怖におびえてしか見えてこない者達の神などとは無縁である。

                        

                           2010 6/22


18.サッカー報道に見るマスメディアの醜悪さ


 私はスポーツが好きである。少年時代もベアーズ(映画「ベアーズ」のできるずっと以前である。)という野球チームに入っていた。その後、柔道、剣道、フェンシングもアーチェリーもやった。サッカーに夢中になるのもよく分かる。しかし、マスメディアが騒ぐ方向が何とも白けるというより、あまりに醜悪な幼稚さである。もう少し違う書き方があるだろうと思う。スポーツの祭典があれば、特大の色つき「金」の活字の乱舞、金、金、金・・・。マネー(カネ)、マネー、マネー、としか見えない「拝金教」を地で行く下劣さ、そうかと思えば国威高揚路線の空疎な言葉の羅列、サッカー報道にしても同様である。何を考えているのか、どこへ持って行くつもりなのか、その妙な「煽り方」が否応なく匂うのである。1946年の時点でマスメディアについて太宰治はその書簡で「大醜態」、「戦時中の新聞」と何ら変わらないと言っている。(このことについては5/20のブログでも取り上げている。)実際、半世紀以上も経って日本のマスメディア一般は今もってまったく変わらず同質なのである。彼らには歴史に学ぶなどという姿勢は端から持ち合わせていないと見える。彼らのやっていることは単なる無芸な「騒音」と言ってもよいのだが、それが一つのマインドコントロールの一環でもあることを明確に見据えておかなくてはなるまい。たまには「騒音」なしで静かにスポーツを観戦したいものである。スポーツは彼らに乗せられて観戦するわけでもなく、また「煽られて」観るものでもやるものでもない。このことは何もスポーツだけに限らない、一事が万事である。

 

                               2010  6/18    


17. 10000本の矢を放つ


 2010年4月、30年振りにアーチェリーを再開した。2か月で7000数百本の矢を放ち、来月10000本を越える。20000本は可能であろうが、腕が持たない。

 私は原初的な弓が好きなので、弓には一切付属品を付けない。最近では的に刺さった矢の頭に矢が刺さることがあるので矢の破損も多くなった。

 時折、冗談半分に聞かれる。

「オリンピックにでも出るつもりですか?」

「誰を殺す気ですか?」

そして、10000本越えたら祝宴などと嬉しいことを言ってくれる友もいる。

これは、要するに私の「気」に合っているスポーツなのである。

    

                                 2010  6/14


 16.刺激的な日々、1週間 2010 6/7-6/13


 非公開舞台(フラメンコ舞踊)のビデオ撮影が6月13日終了した。実に刺激的な日々であった。構成・振付・出演のフラメンコ舞踊家 橋本ルシアの独舞である。橋本ルシアの秘めたる自由な側面が全面開示で舞台に表出した。それを5台のカメラが追う。最近ではスタッフの質の低下も甚だしいが、今回のスタッフは全体的に良質であった。とりわけ照明の西島竹春氏、彼とはもう30年以上のお付き合いになり他と比較するレベルにはないが、多くのスタッフが現場ズレしてただ「感性」を摩耗させ惰性に走る中、未だに舞台に関わる姿勢に微塵の変節もない。彼には「更新」に耐え得る「知性」があるのである。

 そして、(株)ビデオの撮影スタッフ、私の言う意図を的確につかんで舞台撮影にかかわる姿勢は申し分がない。共同作業の現場の動きとしてもよかった。

  今後の編集作業も橋本ルシアの「月華独舞」と題した彼女のフラメンコ世界にどこまで迫れるかが最大の課題である。「安手」の演出などはただうるさいだけになるだろう。

 因みに、私は「観光フラメンコ」、「フラメンコショー」、そして内的必然性のない時代の趨勢に便乗するだけのすべてのアートにはまったく関心がない。真実を語り得ない単なる嘘だからである。 

                             2010  6/14

 

 


15.Il y a quelque temps     à Tokyo  (6)


Bonjour Monsieur

Dans votre conversation  il semble que j'apparaissais au caf'é Chez Francis.Je suis heureux de cette nouvelle.

Si nous vivions   nous nous reverrions au café Chez Francis.

Quelquefois  je pense sur tout ce que je pouvais vivre jusqu'à présent.

Aprés tout  mon professeur était la mort.  Accepter la mort  affronter la mort   c'est impossible  mais très important.  La vie et la mort   l'instant qui oublie tous les deux. C'est  le temps magnifique.

 

A  bientôt

                                                                                                                               2010  6/12  


14.非公開舞台(フラメンコ舞踊)のビデオ撮影(6/7ー6/13)


1週間に渡る劇場での舞台撮影(ビデオカメラ4台)の監督としてその作品にかかりっきりである。連日、劇場に9時間以上はいる。この作品の編集終了は9月の予定である。(何もない作業灯だけの舞台でも充分成り立つ、求心力を持つ舞踊を最大限生かす方向での映像製作になるだろう。) 

 

  先日、フランスの友人からメールが来た。カフェ シェ・フランシスの前を通るといつも私の会話になるという。嬉しい限りである。

 

                               2010  6/10


 13.日本の国民性の一端なのか本質なのか


 古代より常に日本の民衆は「良き」専制的統治者が「やって来る」ことを待ち望んできた。そして、近代、現代になってもしかり、当然「市民革命」らしきものはいっさいないと言ってよい。日本人は「市民意識」に繋がり得る過程がどこにも見出し得ぬ「湿地帯」の住人なのである。だから、いともたやすく絡め取られてしまうのである。そして、自らが作りだしたとも言える「湿地帯」で手をとられ、足をとられてもなおこれが「この世」とばかりすべてを「個人の問題」として集約させようとしてきた。したがって社会問題となりうる問題でも社会を変える「大きなうねり」とは成り得ないのである。いつの時代にも為政者にとっては恰好な国民であった。

 そして、未だに「マスコミ報道」を「玉音放送」のごとくに「無批判」に聞いていること自体が「市民意識」欠如の証左でもある。新聞、雑誌などに書いてあること、テレビで流されたことなどをあたかも「お上の通達」、「権威者のご意見」のごとくにありがたがってそのまま鵜呑みにしているのである。そこにはやむにやまれぬ自らの「思考」がない。それはカネに絡むこと以外は「思考停止」状態で生きてきたといってもよいだ程の「思考」のなさである。だから、「生きる姿勢」そのものの中に怪しげな宗教や集団の入り込む隙ができるのである。歴史的に見てもそうだが、この国にはやはり「市民意識」などは育ちようがないのかもしれない。今は、再び「悪しき」専制的統治者が現われないことだけを願うのみである。

 

                            2010 6/3


12.マスコミ報道の実態 (2)


 今更、マスコミ報道の実態について多くを語る必要もないが、ただ一言、変わることのないのは既得権益死守。「報道の自由」もへったくれもありはしない。既得権益死守のためならなりふり構わず、恥も外聞もない、もし「報道の自由」というのであればきちんと起こった事実を余計な「手」加えずすべて正確に伝えるべきである。自分達にとって都合のいい「ニュース」をだけを「報道の自由」の名の下に垂れ流しているのでは話にもならず、これは国民を愚弄するものであり、明らかに罪悪である。ただ巧妙になったというだけで戦時中の権力機構と癒着した偏向的な報道と本質的には何ら変わるところはない。これではやはり「機構」そのものを根本的に変革するより手はあるまい。

 何時だったか、知り合いの作曲家が、「朝日新聞」は左派系で、「毎日」、「読売」は保守系で云々などと言い始めたので、一瞬戸惑った、「朝日」が左派系などと思っている人が今でもいるのかという思いがしたからである。この3社については内容的には五十歩百歩で、右派系ということで括ることができるだろう。そして、多少の差があるとすれば、あるかないか分からぬ「良識」の度合いの差でしかない。

※「読売新聞」は最近、「1週間無料お試し」コーナーまで設けて読者確保に余念がないようだが、読者が減るのは当然であろう。

 現在、その他の有象無像の新聞、雑誌の論調はほとんどが右派系であると言ってもよい。今では左派系の出版物などは皆無に等しい。このこと自体がすでに不自然で偏っているということの証左でもある。

 今後も、マスメディア一般は「売れる」、「儲かる」となれば何でもする輩とたいして変わるところはないということを肝に銘じておく必要はあるだろう。したがって、すべての報道をまず疑ってかかるべきである。そして、その中から導き出された数パーセントの事実を検証すること、それが主権者たる国民の務めでもある。もしそうでなければ、今まで通りの単なる「カイライ」国民にすぎない。もちろん「カイライ師」はさらに罪は深いと言うことは言うまでもないことである。どうもこの「カイライ師」は「迷走」しない国家が好きなようで、すぐに全体主義的傾向になる。概してマスメディアの動きはファシスト,またはファシスト的人物の誕生を煽り立てるような方向にいつの間にか向かっているというのも何とも情けないことである。それは「理念」も持たず場当たり的に重箱の隅を突っつく作業だけに余念がないからである。その作業だけでは真実からは遠のくばかりで全体像は見えてこない。そのような作業から導き出される「結論らしきもの」がすべて類型的であるのも当然なことで、それは、その類型的なサンプルを提示するための微に入り細をうがつ意図的作業としてしか成り立っていないからである。

 忌々しいが、民主主義国家に「迷走」は付きもので、それをヒステリックに切り捨てることは民主主義の根幹部分を揺るがすことにもなり兼ねないので余計苛立つのであるが、ヒステリー女の状態はマスメディアの「常態」で、我々の「常態」であってはならない。しかし、どうしてこうも「女の腐った」ような輩が増えてしまったのか「憂国」どころか「憂人」の感しきりである。

 

                                                                  2010  6/1


11.「民主主義」はやはり死んでいたのか?


 1960年にもうすでに「民主主義は危機に直面している。」、「民主主義死んだ。」という説は出ている。そして、「戦後の民主主義は、民衆の中から発生したものではなく、はじめからイデオロギーとして出発した。はじめからそれは不動の権威であった。したがって、それは自己否定の契機を持っていなかった。そのために、おのずからそれは形式的なものとなる。」※ それは日本国民は当初より「民主主義」を形式的にしか理解していなかったことを意味する。そして、すでに1960年代に民主主義イデオロギーそのものは挫折し、「形式的民主主義の虚偽性が自己暴露した」※のである。言ってみれば「戦後日本」はこの時点で終息してしまったことになる。その14年前、1946年に太宰治はその書簡の中で、「いまのジャーナリズム、大醜態なり、新型便乗というものなり。文化立国もへったくれもありはしない。戦時の新聞と同じじゃないか。古いよ。とにかくみんな古い。」などと書いているが、それはそののまま今日の、変わることのない日本のジャーナリズムの「大醜態」でもある。

 2010年の日本の現状は、「民主主義」そのものの意義も分からぬまま右往左往しながら、限りない欲望の達成に余念のない大衆をいいことに、半世紀以上もジャーナリズムと結託して国民をたぶらかしてきた結果と言うより仕方あるまい。半世紀も経って未だにまったく分かっていない大方の国民は、為政者にとってほんとうに都合の良い大衆でしかなかった。騙されることが好きな、騙され上手な国民はこの先どここへ行くつもりなのか。 国民を誘導する、「空気作り(世論調査etc)]に余念のない悪しきジャーナリズムの手に導かれる限り、明日はない。

 「民主主義」そのものをとらえ返す「自己否定」の契機を自ら放棄することは、「民主主義」が危機に直面していると言うよりは「民主主義」はもうすでに死んでしまっていたのだと言うしかあるまい。

 

※の箇所 1960年の森本和夫の論文より

                                2010年 5/20

 

 


 

10. 昨今の評論


 昨今の評論は概して、「ぺダンチック」で「我田引水」的なもの、「挨拶批評」が多い。そして、たとえ「専門的」にほぼ完璧に書けていたとしても「言いおおせて何かある」ということになる。それで?と問い返す間もなく、その傍から細かく述べられた内容の消失が始まっている。況や印象に残るもの、感慨深く納得のいくもの、新たな発見のあるようなものはほとんどないと言ってよい。評論家と言う者はやはり「現役のクリエーター」(現役の実践者であるかどうかは別)でなければならないと同時に知的領域の広さ、造詣の深さを持ち合わせていなければできない作業なのである。多くが、「ぺダンチック」、「我田引水」、または偏狭な知識の中での「重箱の隅」的作業に終始してるということは、どちらにしても創造者としての関わりが弱く、知的領域の狭さなどが大きな要因としてある。その中にはあまりに偏執狂的な言述(哲学論文のような厳密さではなく)が多いので敷衍も、普遍化もできないものもある。つい、誰のための評論かと聞きたくなる。今では面白い評論(的確に切り込んだという意味)に出会うことはほんとうに稀になった。それだったら、大したこともない自己の眼力をひけらかすよりまだ「挨拶批評」の方がどれだけ「世のため」になるかとも言えるが、一方ではその「挨拶」も「強者」にはするものの、「弱者」に対してはしないという場合がある。そして、「お車代」次第で取り上げるかどうかが決まり、その論調まで変わるのでは今更何をか言わんやである。

※「良心的」かつ「誠実な」評論家が皆無と言っているわけではない。一部にはまだ確実にいる。

 

                                  2010 5/19

 

 


9.「専門誌」の実態


 一般的に、「専門誌」などと言われているものの実態はジャンルを問わず「業界紙」の域を出るものではない。それだけならまだ良い方であるが、身内、親しい者、周辺の関係者だけの「内輪」の雑誌と言っても良いようなものや、中には露骨に社長の女房、愛人、知人、利益の共有できる者達だけで成り立っているようなところもある。最悪なのは、その掲載内容までもそのような関係者が中心となっているということである。その周辺に集う「評論家らしき」、「評論家気取り」の者達の書くことと言えば、歯の浮くような皮相的な「お追従評論」ばかり、そうかと思えば「狂人を装った」小心者の「戯言」。「プロ」などと言われている者達の一面を見る思いがする。見方によっては「飯を食う」とは何と楽なことかとも思える。「専門誌」などとは体裁が良いが、この種のものは所詮は他人のフンドシたよりの「寄生虫」的なもの。「寄生虫」と共生できる「体質」の者もいれば、生理的にも受け付けないものもいる。今後、景気の如何を問わず出版業界全体も決して右肩上がりになることはなく,衰微の一途をたどる状況の中でそれは早い時期に消え去るものの一つであろう。

 

                                  2010  5/16


8.何度でも国民がコロリと騙される手法


 「論点のすりかえ」、「一般論への還元」、「感情への訴え」この3点の虚偽を巧みに使え分け、または合体させながら強硬に自己展開したのが小泉純一郎である。彼はまた「アドホックな議論」、「チキンゲーム」なども得意とした。特に大衆は「チキンゲーム」をする者に憧れる傾向がある。それは強者に自己を同一化しようとするからである。言ってみれば「狂気を装う」、または「狂気そのもの」の「狂人の理論」でもある。

 「チキンゲーム」を除いて、「論点のすりかえ」、「一般論への還元」、「感情への訴え」、「アドホックな議論」はマスコミ(TV,「有力新聞」3社など)が今頻繁に使っている虚偽である。したがって、余程注意しないと適当に操作され、あらぬ方向にいつのまにか持って行かれてしまう危険性がある。しかし、小さな嘘には目くじらを立て、大きな嘘にはまんまと引っ掛かるのも大衆である。そのことについても小泉は熟知していた。それはまたヒットラーの基本指針でもあった。

「何度でも国民がコロリと騙される手法」と言うより、「何度でも国民がコロリと騙されたい手法」と言った方がいいくらいに、この国の国民性はマゾ的である。何とも為政者にはありがたい国民性である。民主主義国家で少なくとも国民と言う名に値する人々なら、すべて「何様」でよいはずである。そして、その「何様」は一方的に流される「報道」をただありがたがって聞いているだけではなく、それが事実のすべてなのかどうかをもっとマスコミにも問いただすくらいの気概があってしかるべきなのである。常に「報道」は事実の一部しか伝えず、そしてそれすらも歪曲、矮小化されているものが少なくない。我々には余りにも知らされていないことが多いのである。

 

※「アドホックな議論」 矛盾した2つの主張を都合の良い文脈で使い分ける議論

※「チキンゲーム」 度胸を試すため、どちらが先に引き下がるか争うゲームのこと。正面衝突を避けるためハンドルを先に切った方が負けという類のゲーム。

 

                                   2010  5/14


7.   Il y a quelque temps      à Tokyo  (5)


  Bonjour Monsieur

Aujourd'hui  il fait un temps couvert

Sur la crise grecque      Je supposais depuis longtemps ce que la creise grecque arriverait.

Sur les nouvelles de Japon    Tous les nouvelles (TV.  Grand journal) rompent l'equilibre et elles sont tous pareiles comme l'Etat totalitaire.

Cela n'a fait aucun progrès depuis longtemps. maintenant c'est la situation embarrassante donc il faut voir comment vont tourner les choses.

Mais  ceux qui ne pouvaient pas affirmer  sa personnalibté sont  très  nombreux au Japon.  Je l'ai confirmé  une fois de plus.

A bientôt

                                                                                                                                 2010 5/10

                                                                                                                                     


6.テレビ、新聞報道に見る「全体主義国家」


  偏った「全体主義国家」の様相を呈するテレビ、新聞報道には抗議するか、完全無視するか。それともそれらを一切見ない、聞かない、買わないことにするか。何らかの具体的行動を迫られている。「彼ら」の報道は真実ではない。都合のいいようにつなぎ合わせた虚偽である。「彼ら」のもっともらしい恥知らずな口車に乗ってどこへ行こうというのか?毎日ほぼ決まった時間に繰り返される欺瞞報道、国民の心理のひだに巧妙に入り込む心理作戦は、アドルフ・ヒットラー率いるナチス・ドイツの巧みな大衆誘導作戦を彷彿とさせる。味付けは「お茶の間」風になっているが質的には同じである。この何気ない繰り返しがやがて功を奏するのである。経済的に疲弊している状況も、あの当時のドイツ程ではないが類似している。このことだけを根拠に近未来を「予告」するつもりはないが、油断のできない状況であることには間違いない。すでに怪しげな人物達が誌面を賑わしていることからもその兆候は表れている。「彼ら」にとっては我々は都合のいい愚民でしかないのである。そのことを「彼ら」は我々に強いているのである。もしそれすら気が付かないようではもはや手のつけられぬ愚民と言うしかあるまい。「彼ら」の報道は完全に国民を愚弄するものである。改めて、ここまで来たかという思いである。

 

いつか、この「歴史に残る政治陰謀」に加担したテレビ、新聞報道は再びその責を問われることになるだろうが、そのときまで今のような形態でテレビ、新聞が残っていればの話である。これは遠い将来のことではなく、近未来のことである。

 

 そして、良識ある識者、ジャーナリストも自分が今まで述べたことを機会あるごとに、と言うより機会を作ってでも自分も「他者」も辟易するくらい繰り返し言述するべきである。そのくらいやっても現実的には足りないだろう。ここまでくれば後は体力、気力の問題である。

 

                                                            2010 5/9


5. 誰もいない店


 「日本テレビで紹介された店」、「NHKで紹介された店」、「TBSで紹介された店」、「フジテレビで紹介された店」、「テレビ朝日で紹介された店」「○○新聞で紹介された」などと表示された店のほとんどは閑古鳥が鳴いている。中にはつぶれてしまった店もある。その内カラスでもやって来そうな店ばかりである。それに反してテレビにも取り上げられないような片隅で人知れず黙々とやっているような店が繁盛している。要するに、もはや大方の人間はテレビなどにあまり影響されず、それほど信用もしていないのである。一頃のようにテレビに出ると「何様」になったような気になる者も、そのように見る者も少なくなった。もう随分と前からテレビに出たということは2流 、 3流の証となってしまった。それでも、いつまでもそれに気が付かないとすべてに「ズレ」が生じる。その様、憐れである。

 おそらく、「世の評価」とは「でっち上げられたもの」が多いことに気付き始めているのだろう。

                              2010  5/8  


4.「高級紙」と「大衆紙」・・・


 

 「英国高級紙2紙が1日、与党労働党へ支援を撤回 云々」(産経新聞)とあった。日本では「有力紙2紙」などという表現が一般的になじみ深く分かりやすいが、「高級紙」となると何とも奇異に感じるのは、日本の新聞にはこうした「高級紙」、「大衆紙」などという区別がないので仕方あるまい。

 日本のマスコミも、今までもまったく成し得なかった「不偏不党」、「中立」などの欺瞞的ポーズは取らずに「○○党支援」とハッキリ打ち出せばよいのであるが、半世紀以上も実質「一党独裁体制」に慣らされていて旧体制(自民党政権下)支援が常態になっているものだからそこから脱し切ることは容易ではなく、その変動に対応できない、というより長期にわたる既得権益が災いして対応しようとはしないと言った方が適当かもしれない。したがって、彼らの報道は未だに実質的に「自民党支援」が中心となっていると言った方が正確なのである。

 「政治とカネ」などと騒ぎ立てている者達も結局は「カネ」で振り回され、「カネの問題」(既得権益etc)で抜き差しならぬ状態になっているのがそのほとんどである。「政治とカネ」などという日本の「大衆紙」並みのタイトルで日本の「高級紙」といわれている者達が何を論議しようというのか、実のところ何もない、虚しい、「大衆紙」的エネルギーもない論議に終始している。もっと本質的な論議がなされてしかるべきであるが、まったくその方向には行かない。本来なされてしかるべき議論は少なくとも小泉政権時の総括と、さらには今までの政治システムの根幹部分の変革、洗い直しの方向での論議である。それを抜きにして現状のシステムのままでいくらああでもないこうでもないなどと言ってみても、「政治とカネ」それがどうしたということに過ぎない。いくら「身綺麗」にしたところでカンパだけで政治などできる訳もなく、どうしても「カネ」の問題が出てくる。今のところは、明確な「理念」の下で私利私欲ではなく、どのように「カネ」を使ったかということで判断するより手立てはない。実際問題、現状のままでは政治と「カネ」を切り離して一体何ができるのかということになってしまう。マスコミなども既得権益にしがみつきながら柄にもなく「理念」などを取り上げてはいるが、「理念」で自らも動かず、そのようなことで「人」がほんとうに動くとも思っていないにもかかわらず、そのような美辞麗句で糊塗して、自分にとって都合の悪いもの(利権を脅かすもの)を「言論の自由」の名の下に独占的に使用してきた電波を通して排除しようとしているのが実情である。「理念」一つとってもそうだが、実際には「精神文化」についても、そのようなものは二の次三の次で「経済第一主義」(拝金主義)の状況の中で生きてきたというのが、ここ数十年の日本の実情であることに変わりはない。その代償として払わされた「精神の荒廃」も含め、その全ての「なれの果て」が今日の日本の現状である。

 そうでない生き方をした者、生き通した者は確かにいるが、極めて稀である。彼らの動向はつかみにくい、それは彼らの行動形態が「表」には出てこない、出ることを好まない、ある意味で存在そのものが「寡黙」であるということからくるものである。当然のごとく、彼らは「ツイッター」などと呼ばれているものなどにさえ登場してこない。それに反して、簡便な「感情吐露」を繰り返している「ツイッター愛好者」からは大衆感情の一部が垣間見えはするが、それ以上に参考になるものは少ない。そもそもの始まりが「ツブヤキ」なのであるからそれも致し方ないのかもしれないが、その「ツブヤキ」の中には彼らを「操作」しているものの「存在」さえ感じてしまうようなものもあることは否めない事実である。それがたとえ「純粋」な大衆感情であったとしても、今のところそれは瞬時にくつがえる程度の底の浅いもの(「権力複合体」から適度に「中和剤」を散布されるとすぐに収まってしまうという意味)であるからいちいち「取り込む」程のこともないだろうが「よくも悪くも」実に騒々しい面も持っている。それはまた巧妙な「マインドコントロール」の恰好の餌食ともなりうる側面も持ち合わせている。今後、「純粋な大衆感情」を装った巧みなデマゴーグに使われる可能性は充分あるだろう。(もうすでに使われているだろうが)その一方では、単なる言っただけの「ガス抜き」のための、規模は大きいようだが実は「小さなおマツリ」騒ぎで終わってしまう可能性もある。

 「ツイッター」に関連して一言付け加えると、読売新聞の「ツイッター批判」とは一線を画する。なぜなら、彼らは明らかに「ツイッター」が彼らの既得権益を脅かす要因となり得るので「神経質」に反応しているのである。そして、その「ツイッター批判」擁護の中には「思いつきの軽い言動が国民の生命財産をも危険にさらすリスクが潜在していることも認識せず、云々。」というのがあるが、それでは読売新聞の記事内容にどれ程の信憑性があるというのか、最近でも確証のない「誤報」を大々的に流し、それについての謝罪はないにも等しいものであった。さらには敢えて「悪意のある誤訳」をして開き直る。このような例は枚挙に暇がない、僅かな最近の例でもこの調子である。歴史的に見ても、常に「国民を惑わす者達」の側につき、一翼を担ってきた者達がよくも偉そうな口がきけるものだと改めてあきれ返っている。

 ただ、「ツイッター」には先程も言ったような「危険性」が付きまとうのも事実であろう。したがって、実名ではない、匿名の「発信地」のはっきりしないものは、読解、解読作業に自信があれば別であるが、注意を要する。特に「恐怖心」、「不信感」を煽る内容のものついては慎重に対応する姿勢が各個人に否応なく問われてくる。

 

 

                                 2010 5/7


3.消されるテレビと新聞「紙」と


 薄くやせ細り、時たまスイッチが入れられても十数秒後にはいともたやすく消されてしまうテレビ。それは「自分の時間」が「つまらぬもの」に消されて しまうという痙攣的嫌悪感でもあろう。

 新聞は紙くずのようにポストに押し込まれるが、すでに新聞は最初から紙くずだったのである。そして、リサイクルされるためにだけ印刷されると言ってもよいような週刊誌の数々。多くのマスコミ報道は疑わしく、それらを鵜呑みにして事足りるのは、命知らずか、マゾか、自堕落か、どちらにしても本来あるべき普通の市民感覚ではないことだけは確かである。

 風吹く日、ポストは壊れた風鈴のような金属音を立てているが、なぜか心地よい。そして、時折、「たより」の来たことを告げる無愛想な音。この「テンポ」が、実は自分と世界の程良い距離を保ちながら世界を捉え直すのに一番適した「速度」であることに気づくのに時間がかかった。

 「いわれない」ことで「不安」と「恐怖」を加速させ、この「テンポ」を崩そうとするものには対峙しなくてはなるまい。「おがくず」でこの貴重な「間」を埋めさせたりはしない。もはや、それすらできなくなった時が危機的状況の最終章となる。そして、もしここで「未来」について、「未来を想定して」、それについて事細かに「自信を持って答えられる者」が登場するならば、それはどのような体裁を取ろうが本質的に詐欺師以外の何者でもない。我々にできることは過去の歴史から学び取った明確な、限りのない教訓化から導き出されることを頼りに、致命傷には至らぬ「実りある」試行錯誤を繰り返す以外に現実的手立てはないのである。

「カラン、カラカラ、ボトン」 (こんな風に聞こえるのである。)

何か「たより」が来たようだ。しかし、いつまでも寒い日が続く4月である。

 

                                               2010 4/27

※テレビにも一部ではあるが、観るべきものはあるということを付け加える。

 


2.「等身大」と「自然体」


 どちらの言葉も最近ではあまり遣われなくなったが、それでも時折 目にすることがある。その遣われ方は感覚的で、気の利いた表現のつもりなのであろうが、いつも戸惑う、と言うよりはこれで何を言おうとしているのかが不明瞭なのである。たまたまこれらの表現が遣われた対象を知っているケースから、それらを比較対照、類推すると、「等身大」と「自然体」の共通する意味内容は、自分の欲望に逆らわない、「理念、理想の欠如した」現実主義的状態に「甘んじて」身を置けるもの、というような意味内容が浮かび上がってくる。そして、さらにそれぞれについて言えば、「等身大」とは、想像力の世界とは全くかけ離れた現実主義的世界にだけ関わりを持つことで成り立つ「身の丈」とでも言おうか、誰が言い出した言葉か知らぬが、少なくともその言い出した者は「人間」の「大きさ」については知っているつもりなのであろうが、「人間」の概念自体が危うい時に何とも「オメデタイ」話である。だから、戸惑うのである。

 「自然体」は本来の意味での遣われ方が次第に稀となってきて言葉の皮相的意味内容が勝手に歩き出したという点で「他力本願」という言葉の遣われ方に似ている。「他力本願」という言葉もどこかの愚か者が、他人の力だけを頼りにすることが「他力本願」などと、もの知り風に言ったものだから、それ以来一般的にはそのようにしか解釈されていない。さぞかし親鸞も草葉の陰で泣いていると思いきや・・・さすが親鸞である・・・

 「自然体」などと言う表現も、それが真に実現し得ているケースは「悟り」と同様稀である。この言葉もどこぞの愚か者が、たかだか「ざっくばらん」、「欲望の赴くまま」、「気さく」程度のことを知ったかぶって遣ったのが始めであろう。

「最も憎むべき狂気は、ありのままの人生に折り合いをつけてあるべき姿のために戦わぬことだ」。一般的に安易に遣われる「自然体」、「等身大」などという言葉は、私にとっては「ありのままの人生に折り合いをつけている」姿であって、「最も憎むべき狂気」なのである。

 

 しかし、我々は実に多くの意味不明、不明瞭の言葉の中で分かったように生きているものかと改めて驚かされる。

 

 

                                2010 4/22


1.無党派層諸氏へ


 今こそ、その「存在」の恐ろしさを見せつけ、その存在の在り方の意義を明確に提示する絶好の機会である。完全に有権者をナメテいる旧体制とそのタコ女郎的付属機関と成り果てた大マスコミ(新聞、テレビ、雑誌etc)の偏向的大ボラと煽動と誘導をいつまで黙って指をくわえて聞いているつもりなのか、もはや限界を通り越している。そして、あなた方の不気味な無反応、もし、この状態であなた方が放り投げ、逃げるのであれば彼らの思うツボである。そして、彼らは無党派層に対する嘲笑、国民に対する侮蔑をさらに増長させながら、再びほくそ笑みつつその利権に群がって行くだろう。

 今回の「政権交代」と呼ばれている「変動」について「無党派層」の選択の役割は大きい。その選択についてマイナス面だけを全面に押し出し、あげつらいせせら笑っているのが大方のマスコミである。これは言ってみればあなた方を、国民の選択を嘲笑っていることになる。彼らに毎日のように侮辱され、こけにされているのは取りも直さず我々国民なのである。そのことを明確に認識して置かなくてはならない。民主主義に「迷走」はつきものである。無謀な「快刀乱麻」は心地よいが非常な危険を伴う。少なくとも、今は「鳩山政権の苦渋」は否応なく我々の苦渋でもある。それをアメリカ側に立ってあたかもアメリカの属国のような卑屈な姿勢で「鳩山政権の苦渋」を責め立てているマスコミ。これは我々の止むに止まれない選択についてアメリカの視座で非難、中傷していることにもなる。これについては純粋国粋主義者ではなくとも、彼らの姿勢を「売国奴」的姿勢であると言わざるを得ないだろう。

 我々が選んだ「方向」である。今は、それを矯正しつつも何がなんでも「育てる」ということでしか、頭の中は既得権益死守で埋め尽くされた彼らのデタラメな姿勢に対抗できる手立てはない。方向転換は「その気になれば」いつでもできる。

 再び彼らの巧妙な欺瞞的手中に収まるのか、そして、無党派層は去勢された無益な集団と見なされたいのか。自殺する命があるなら立ち上がるべきである。

これが私の無党派層に対する最期のメッセージである。

ご心配なく、私は「幸運にも」[V FOR VENDETTA」ではない。

 

                               2010 4/21

2009年5月ー  <掲載内容>

ーある日,その時ー (2)  2009年5月より

1.「改めて1億総ヒョウロン家」2.「市民団体」意味不明 3.「高円寺純情商店街殺人事件」4.「日本のプロデュース公演」5.「をりにふれば・・・」6.「対象化する」ということ 7「.アルチュール・ランボーの母音の色」8.「やまと心の病患」9.[「ポストは空洞のままがいい」10.「宇宙における最低の知的生命体」11.「腐った安定よりも、」12.「わが師は、死なり」13.「危険なマスコミ報道」14.「解読変換コード?」15.「日刊ゲンダイ、斎藤貴男」16.「東京新聞(1/24)  17.「失速した週刊誌」18.「散歩」19.「飛べないものは・・・」20.「情報ライブ ミヤネ屋」の危うさ 21.「正真正銘の一個人」22.「「テレビはますます薄く・・・」 23.「Il y a quelque temps ・・・(1)  24.「市民団体という政治結社」25.「死の達人とは」26.「ここ2,3年のこと」27.「ハリー・ポッターとJ・K・ローリング」28.「恐ろしき国」29.「テレビは愚民政策?」30.「週刊朝日(3/12)について」31.「立花隆のズレとブレ」32.「おにぎりを買いそびれ・・・」33.「「ピカソ」というバー」34.[Il y a ・・・」(2)  35.「イルカ漁に想うこと」36「何ための世論調査」37.「Il y a ・・・」(3) 38.「今、新宿ゴールデン街では」39.「相手を攻撃しつつ・・・」40.「Il y a ・・・」(4) 41.「どこまで堕ちるマス・メディア」42.「朱蒙(チュモン)について」43.「日本の御用学者達(1) 」44.某「作家」の曰く 45.符合すること

 


ーある日、その時ー (1)

1.「機を見るに敏とは」2.「テレビ 90% ノイズ」3.「上演時間9時間で驚く日本の演劇事情」4.パリで(1) 5.パリで(2) 6.大和大路にて 7.演劇評論家K氏と 8.「人間とは思えない」?  9.パリで(3) 10.パリで(4) 11.「世の評価は、言い伝え」12.「マスコミ報道の嘘」 13.「素朴な真剣さ」14.「温故知新とは」

 

※その他の整理削除件数 10件(2010年4月現在)

 

                                 (転載・複製厳禁)


 

「ある日、その時」 (2) 2009年11月ー


≪ブログT/Zは転載・複製厳禁≫



 45.符合するということ


  自分の考え方、帰結が他者の言述に符合することは、共に現代を歩んでいることを実感できて、何とも心地よいものである。ブログを始めて1年が過ぎようとしているが、この間にブログに書き、掲載したものは原稿用紙(400字)で優に300枚を越えてしまった。そして、その内容が後日のジャーナリスト、識者、作家の言述と一致していることが多々あったということは、そこに自分自身の姿を再確認できて楽しいものである。それは今まで見知らぬ人でしかなかった人々がその見解の確認を通じてより身近に感じられるようになるからである。

 最近も、作家の五木寛之氏が某日刊誌(4/19)で「遠慮なく言えば、新聞ももう終わった業界である。テレビは終わりかけている。出版もすでに、その歴史的使命を終えた。活字を紙に印刷して全国に配布する、というシステムはいまや20世紀の文化遺産だ。」と述べている。私も1年近く前からブログで、新聞、テレビ、出版物についてはほぼ同じようなことを書いている。(実際にそれについて書き始めたのが2009年ということで考え始めたのはもっと前である。)このことも一つの明確な確認ができた内容で、日頃感じ、思っていることを書き、それを他者の中に再び見出すことは「確認」以上のものを自分自身に与えてくれる。

 

                                 2010 4/20


 44.   某「作家」の曰く・・・?


 「生きる意味なんか考える必要がなかった時代。だからこそ生命の輝きがありました。」 何とも分かったような分からないような安手のアフォリズムの匂いがする内容である。さらに某「作家」氏は言う。「ー略ー 生きる=生存する、ということであって、生きることに意味なんか考える必要がなかった。今は生きることを一生懸命意味づけしようとするけど、それは現代人、というよりも先進国の病みたいなものかもしれませんね」。要するに、終戦直後の人々のエネルギーを讃えながら、「考える」ことを「先進国の病」と位置づけているのである。これは時代錯誤であり、状況把握が視野狭窄的で皮相的である。そこにあるのは流行作家的「狙い」の視点だけである。そもそも、これ以上「考えない人間」を大量生産してどうするつもりなのか、喜ぶのは「為政者」「権力者」の類だけであろう。むしろしっかりとものごとを考えないからオカシナことになるのであって、この「作家」の言っていることは的外れであると同時に他に「もくろみ」があるとしか思われない。今後は今以上にしっかりと「考えて」いかなければ「病」はさらに「狂気化」してしまうところまできているのである。この「作家」の「憂さ」は「酒と女と笑い」で晴れるようだが、それ以上に斬新な切り口、視点の面白さなどは感じられない。よくある「あの時代はよかった」式の回顧趣味的発想で展開されたのではさらなる飛躍など望むべくもなく、「病」の「狂気化」する過程を食いとめることなどできない。そして、戦後に焦点を合わせている以上、その描き方、論調次第では戦争肯定論に道筋を与え、さらにそれに拍車をかけることにもなりかねないのである。

 総じて、売文業者の「他意」は感じても、作家としての「良心」を感じさせない言述であった。もし、彼が作家であるならもう少し「深み」のある、説得力のある言述をすべきであろう。

                                                                                                                  20104/19


Sur les savants aux gouvernementaux 

de Japon   (1)

  43.  日本の「御用学者」たち (1)


 「週刊朝日」誌上、<国の未来があった頃・・・「坂の上の雲」の時代に学べ>と題した特集、正直言ってまたこのパターンかという気持ちである。「第二の明治維新」などと誰が言ったか知らないが、異常なまでの長期にわたり政権を担当した政党が自ら瓦解し続けた果てに民主党が形作られたというのが限りなく実情に近い。政治体制は変わらずに急激に「改革」されたかのような印象を与えたので「第二の明治維新」などと言っているのだろうが、世界情勢も歴史的状況も全く違う。感覚的に遣っている言葉と見てよいだろう。そのような言葉で括って分かったように話を進めるからますます国民は混乱するのである。以上のような指摘箇所は際限がないので、この誌上に関してはまず最初に共感できる箇所を絞ると、作家の関川夏央の「現在の日本とは社会構造が全然違う。ー略ーあの時代から直接学べることはありません。」として論を進める姿勢。そして、霍見(つるみ)芳浩(ニューヨーク市立大学教授)の「1990年代後半から小泉純一郎政権を経て、ものづくりよりも一攫千金をねらう金儲け至上主義がはびこってしまいました。これでは経済はつぶれるに決まっています。現代が取り戻すべきは、開明的な日本経営の「神髄」です。経営者の責任は金儲けではなく、社員や地域社会を守ることだと、今一度はっきりさせなくてはなりません。」という意見。この両氏の視点には納得できるが、ここで問題なのが山内昌之(東京大学大学院教授)の「カネより人だった明治期 民主党よ「志」をもて」と題した論述である。この「学者」は小泉政権、安部政権とも密接な関係があり、政財界の中枢部とも関連をもつ、要するに権力側(彼の場合は自民党を中心とした複合体としての権力機構)からの発信しかできない典型的な「御用学者」である。彼のもっともらしい「ご意見」を逐一ここで取り上げ批判している時間も惜しまれるので一つ二つ取り上げると、小泉政権時、その一翼を担っていた人間がどうして「カネより人だった 明治期」などと題して臆面もなくものが言えるのか。長く権力の中枢に関わると「人」としての羞恥心すらなくなると見える。「学者」としても、その言動から「データー解析」の域を出ない「学者」とも言える。そして、その「学者」が「事業仕分け」について、<「世界一じゃなきゃいけないのですか」という発言がありましたが、これは学問や科学技術に携わる人間に対する最大の「侮辱」と言ってもよいでしょう。1番を目指して競争して初めて、2 番、 3番という結果がでる。」(ここでつい笑ってしまった。)こういうところにも「知の軽視」が表れています。」と、こうである。一見ごもっともな「ご意見」ようだが、すでに自分は2流の「学者」ですと明言しているようなものである。今までに1番  2番を「争う」ことでやってきた「学者」にノーベル賞受賞者はいない。(ノーベル賞は分かりやすので出したまで)。あの時担ぎ出された日本のノーベル賞受賞者にしても研究費削減について抗議したまでで、山内の言っていることは、我田引水的なマスコミ、政治戦略に近い。その証拠に彼の意見に同調してそれ以上に発言する関係者はいない。と言うより真の研究者ならそんなことに関わっている時間すら惜しいのである。彼らは本来「競争」などとは無縁の人々なのである。

 最後に、山内は<理念、すなわち「志」を見極めることが大切です。そうした理想こそ、あの時代に学ぶべきことではないでしょうか。>と言ってはいるが、それでは彼自身が関わった小泉政権時のどこに「理念」が、「志」があったのか?むしろ、そこから学ぶべきであろう。実は橋本派を潰すことに過ぎなかったことを「自民党をぶっ潰す」などと三百代言風にぶち上げ、まんまと国民をその口車に乗せた小泉政権の経済面での総括すら未だになされないまま、負のすべてを棚上げしたままもっともらしいことを言い続ける、言わん方なしである。 

                                   2010 4・/10


 42.「朱蒙」(チュモン)全81話 94時間30分


 今まで観る機会がなかったので、最近になって10日間くらいで一気に全81話を観た。ある時は1日14時間連続で観ることもあった。英国BBC製作のシェイクスピア全作品などよりよくできている。脚本、演出、出演者、スタッフ全体が非常によいアンサンブルを作っている。なかなかこういう作品に巡り合うことはない。日本ではこのレベルの作品はテレビドラマとしては皆無。日本のテレビドラマなどは5分と観ていられないものがほとんどである。10分観ていられれば良い方で、中には視聴者を完全に馬鹿にしているのではないかと思われるものさえある。これをカウチポテト状態で観ている人間がいると思うとぞっとする。またそういう人間しか観ていられるものではない。だからと言ってテレビスタッフだけがいくらもがいてみても10分を15分は観ていられるようにするくらいがオチであろう。それはひとつには日本の演劇状況そのものの積み重ねからくることでもある。役者、スタッフのスタンス、意識変革などそう簡単にできるものでもない。なぜ日本のテレビドラマが5分と観ていられないか、具体的にいえば脚本が薄っぺら、観客に媚を売ることばかりの演出で、演出者の皮相な人生観、世界観、哲学のなさ、演技のあまりの稚拙さ、見え透いた小手先だけの演技、存在感、深みのなさ、でっち上げられた浅薄な才能等々、それらについては枚挙に暇がない。勘違いも甚だしい、何時からこうなったのか、少なくとも私の知る限り25年以上前から下降の一途で、一見日本の演劇は活況を呈しているようではあるが、役者、スタッフの知的レベル、エネルギーの低下(演技上、舞台上の求心力も含めて)は認めざるをえないだろう。今、「演劇」も根底からひっくり返すか、検証、洗い直しを迫られている。

 

※この作品、韓国では前代未聞の平均50%の視聴率を維持したというのも頷ける。視聴者側にもエネルギーがある。

                                                 2010  4/1     


41.   どこまで堕ちるマス・メディア


  日本のマス・メディアの堕落は今に始まったことではないが、もはや恥も外聞もなくその「本性」をさらけ出している。都合のいいように歪曲化し、粉飾した「事実」の押しつけと重箱の隅を突っつく作業に未だに明け暮れている、と言うより既得権益死守という立場上,身動きつかぬ彼らにはそれより他にやりようがないのである。

 民主主義は、ある程度の「迷走」を余儀なくされる政体である。「快刀乱麻」のリーダーシップの希求などはともすれば「全体主義」への第一歩にもなりかねない、と同時にそれは主権者である国民の堕落をも意味する。的確な批評をしつつ、その方向性に納得できるのであるなら、「迷走」しながらもその原因を見極め「育てる」という苛立たしい経緯を辿らない限り民主主義国家などは育ちようがない。そうした意味でも今回の「政権交代」は生々しい政局を国民に見せつけ、考えざるを得なくしたという点においても、また民主主義そのものの再認識という意味でも有意義なものを残したとも言える。もし、それさえも否定するのであれば、それは反民主主義的であると言わざるを得ないだろう。そして、その先兵としての役割を常にマス・メディアが担ってきたことは周知の事実で、そのことは今までのその言動からも実証されている。それは取りも直さず、日本のマス・メディアが常に「権力」と結びつき、さらには御用学者と三百代言の「政治屋」に守られて民主主義的展開を阻害する方向でしか機能してこなかったということでもある。

 

※「政権交代」という言葉は便宜上遣っているだけで、まだ2大政党の「競合」などとしては捉えられない。(一方は崩壊寸前、他方はヨチヨチ歩き)主義主張なども根本的に違っている訳でもなく(少数派は別)同一母体の「改革派の移動・再集結」と言った方が実情に近い。それでもそこに国民は「現状より違うもの」を期待しざるを得なかったのである。ともあれ、もはや後退はできない。

 

                                  2010  4/1

 


40.  Il y a quelque temps      à Tokyo      (4)


Bonjour  Monsieur

Le changement politique ne va pas sans ennuis de toute sorte.Mais  le peuple se laisse attraper facilement par des manoeuvres subtiles   des hommes de ressources et des nouvelles déformés.Je pense que le peuple japonais n'est pas encore mûr et l'article du journal n'est pas du tout  impartiale. Autrement dit   le peuple japonais ne comprend pas bien la démocratie.et le fait n'est pas le fait dans le journal.(Il y a beaucoup de mensonge) Donc Jusqu'à  maintenant  je n'ai pas pu croire tout ce que disait le journal.(principalement les grands journaux )Et puis même maintenant  le Parquet fait cavalier seul. Dans un certain sens c'est le fascism du Parquet. Je crois que c'est trés dangereux.

 

※On le présume innocent ; C'est dire qu'il n'est pas innocent au Japon.

                                                                                                                              2010  3/22 

                                    M.Hirayama

 

<Schéma conceptuel>

Adaptateur ,  Metteur en scène----------------------------↓ 

                    ↓ ||                    ↓       

             《 Parquet》   -------------------------------- ↓        ↓                                                                           

                  ↓      ↑                                              ↓        ↓   

     ↓      ↑ ーーーー   Régisseur        《Ministère》                            

     ↓                                                     ↑

Acteur       《TV , Journal   etc》-------------↑                           

                   ↓    ↓         ↓ (Il y a beaucoup de nouvelles comme un lavage de  cerveau.

                   ↓             ↓           ↓        C'est généralement le journal de Yomiuri. et  le journnal  

                 les  faits  déformés        TV  d'obédience  Yomiuri. Naturellement  il y en a beaucoup

                    ↓            ↓           ↓           d'autres)   

     ↓            ↓     ↓    Le grand média attaque obstinément le ministère pour défendre

Spectateur    《  peuple》        les droits acquis jusquéà la mort. Cela n'a aucun  rapport avec la

                                                       justice sociale. En ce moment  le gouvernement  a l'intention de

                                                        détruire les droits acquis qui deviennent  un problème.               

                                                        Alors  qu'est-ce que les droits acquis?.

                                                        Par exemple     les capitaux déterminés possèdent plusieurs

                  médias  (TV. Journal etc) etc.   C'est tellement nombreux qu'on ne

                                                      peut  pas compter.

 

                                                          (  L'événement  récent  )

                                                          Un certain Ubukata est  ridicule comme le jouet de média.Je ne

                                                         peux pas croire que Il soit  l'homme politique. Il est le malade de

                                                         démocratie.C'est  poltron  égoiste et puis Il justifie même la

                                                         trahison  au nom de la liberté de parole.Le grand publie n'est ni

                                                         stupide ni sage .et  bien sûr n'est pas Dieu . J'imagine que son

                                                         avenir soit  misèrable. 

 

○Sur le schéma compréhensible.  Le détail est pour des besoins futurs.

                                  

 


39. 相手を攻撃しつつ、自らの「本性」をさらけ出す 


 ここのところ、どこの本屋に行っても「小沢一郎」の顔と名前を目にする。そして、その内容はどれも例外なく「反小沢路線」である。今、この問題が一番売れ線なのであろうが、内容そのものはほとんど全体主義的傾向を持つ右派のものである。いつ小沢は「左翼」になったのかと見紛う程の「脅威の対象」となっている。「小沢問題」を取り上げれば、反民主側からは援助が得られる、出版物は売れる、出版社としては言うことはないのだろう。

 しかし、「脅威の対象」として小沢を取り上げ、攻撃を強めれば強めるほど逆に攻撃する側の実態も鮮明に浮かび上がってしまうから不思議なものである。新聞報道、テレビ報道、報道企画モノ、etc その構成内容の「狙い」はもうすでに見え見えなのである。つい口をついて出る言葉は「何がそんなに怖いの?]」である。それがすべてなのである。そして、本来なら一番冷静でいなくてはならないマスメディアが冷静さを装いながら一番舞い上がっている。これ自体が異常なことで、だからつい「どうしてそんなに舞い上がっているのか?」と聞きたくなるのである。しかし、この期に及んでよくもまあここまで鉄面皮にいつまでも訳の分からぬ糊塗的コメントを垂れ流してやっていられるものであると感心する。日本の民主主義とは名ばかりであると同時に未だにジャーナリズムも未成熟であることはすでに充分に証明されている。どちらにしても彼らとその裏でうごめいている者たちの「不安」と国民の「不安」とはまったく異質なのである。それを無理矢理同質化して国民を煽り立て巻き込むことだけはやめてほしいものである。しかし、そのようなことをいくら言っても虚しいことは十二分に了解している。倒れる者、落ちる者は必ず周辺を巻き込むことで自らの痛手をできるだけ最少限に食い止めようとする、彼らは国民を巻き込むことでしかもはや成り立ちようがないのである。そして、異常な程の「小沢バッシング」などもやっている方は叩いているつもりでいるのであろうが、なぜか怯えた小型犬がただ吠え立てているようにしか見えない。何が怖いのか、小沢を「独裁的権力者」に仕立て、それに立ち向かうジャーナリストとしての体裁は整えてはいるが、実は国民とは全く関係ない自分たちの,小沢によって脅かされる既得権益の死守が最重要課題なのである。それは当然検察の利害とも一致する。以前、立花隆が検察と同調しつつ、金権政治の問題を囲い込むように追及できた時代とは歴史的状況も、検察の在り方も違う。それをそのまま検証もせず当てはめようとするからおかしなことになるのである。歴史は常に動いているのであり完結点はあり得ない。小沢を田中角栄とダブらせる必要もなければ、無関係と言う必要もない、彼は保守政党の1民主主義信奉者でしかない。ただこの民主主義信奉者を叩いて、国民を煽っているのが既得権益死守のマスメディアと検察、保守残党、そして全体主義的傾向の強い右派であることを見れば、そこに見えてくるものは自ずと明らかであろう。この巧妙な罠を見ぬけないようでは死ぬまで騙され続けるしかあるまい。テレビの政治関連のニュースに素直に反応し、耳を傾けていられる内は彼らの手の内である。私にはただ五月蠅いだけである。

 

                                                                                                                          2010  3/19


38. 今、新宿ゴールデン街では・・・


  スタッフとの打ち合わせを終え、久しぶりに新宿ゴールデン街まで足を伸ばした。たまたま入った店は5坪ばかりの小さな店であった。この店のオーナーはコメディアンであるという。1人カウンターに入って働いている青年は映画を創りをしていて、脚本、監督で某コンクールで新人賞を取ったこともあるらしい。こういう前向きな人間と話していると酒の喉越しもまた違う。カウンターの傍に置いてあったこの店によく来ると言う作家の本のページを繰っていると、

「本は読みますか?」とその青年は聞く、あまりに直接的なので一瞬戸惑ったが、

「読むけど、あまり流行作家の本は読まないね。」

「どんな本を読むんですか?」

本にはさまれていた写真が2,3枚カウンターに落ちた。

「これは・・・」

「それは、ジェームズ・キャメロン監督です。隣は奥さんで、手前が僕です。」とその青年は言う。来日するとこの店にくるらしい。その写真の位置からすると私が座っているところにジェームズ・キャメロンは座っていたようである。その時、プール付きの豪邸に住みながらスラム街を彷徨うアルパチーノの姿が思い出された。やはり、アーティストとは本来どのような状態に置かれようと常にハングリーであり続けことでしか成り立ち得ないのだろう。

 心地よい酒だったせいか、30年程前の紀伊国屋公演の折、役者と来た店にも寄ってみた。主人はもうすっかり禿頭になっていった。

※ ジェームズ・キャメロン  脚本、監督、プロデューサー

「ターミネーター」、「エイリアン2」、「タイタニック」(アカデミー賞 監督賞)「アバター」、etc

                               

                                                                                                                                 2010  3/16 

 


37.  Il y a quelque temps    à Tokyo    (3)


Aujourd'hui il fait  un temps nuageux.

Je vous remercie beaucoups de votre aimable recommandation.

Mais à mon grand regret  comme je suis japonais  

Je suis désolé de ne pas pouvoir vous rendre ce service.

 

                                                              Masaru Hirayama

 ※ http://www.mlml-h.com

                                                                                                                              2010 3/15 


36. 何のための世論調査なのか?


 頻繁に行われる世論調査は何のために行われるのか? 国民が必要としている訳でもない。<大マスコミと有象無象+検察+保守残党>が合体して行っている民主党に対するネガティブキャンペーンの効果をその都度確認しているとしか思われない。このようなミスリードにまんまんと乗せられているようでは国民が主権とはなり得ないし、未成熟な国民と言わざるを得ない。「新たな芽」は宇宙でもなく、水中でもなく、土の中から出てくるのであるからどうしてもその新芽のどこかに「泥」が付着する。この「泥」についてはすでに「検査」は終了しているにもかかわらずその微細な「泥」に焦点を合わせ、その「泥」の「成分分析」ばかりをしているのが<大マスコミと有象有象+検察+保守残党>のグループである。 これにどのような意図があるのか? それは誰が見ても明らかであろう。真実を知りたいなどとは笑止、出てきたばかりの新芽(既得権益崩壊の萌芽でもある)を何が何でも踏みつぶしたいというのがその本心である。国民が蒔いた種から出たその萌芽をどのように育てるかは国民に課せられた「真に為すべきこと」であり、彼らの「都合」に合わせて彼らと一緒になって「泥の成分分析」などする必要もなければ、そんな時間もない。今、国民はその萌芽を育む実権を握っているのであるから、「詐欺師の口車」に乗ってそれを手放してはならない。それでは彼らの思う壺である。その芽が花を咲かせる前に、実をつける前に何とかその新芽を地中深く葬り去りたいというのが彼らのホンネである。なぜなら、その花も、実も、彼らにとってはすべて「都合の悪い」ものでしかないからである。要するに、国民にとって「都合のいいもの」は彼らにとって「都合のわるい」ものなのである。それを今までの政権政党は口八丁手八丁でごまかし、嘘をつき国民を欺いてきたのである。

<大マスコミ(新聞、テレビ)と有象無象+検察+保守残党>は「既得権益死守」ということでも完全に一体化しているということを明確に押さえて上で、彼らのもっともらしい主張とオタメゴカシを聞くべきであろう。「萌芽」をつぶされないためにも。

                                                                                                                        2010 2/14


35. イルカ漁に想うこと


 日本でイルカ漁があることは最近の映画の報道で知ったことであるが、このこと自体がすでにおかしい。日本人が現に日本で行われていることを知らされていない。それを外国人によって教えられる。ここにもまた日本のマスコミ報道の実態を見る思いがする。今まで何を報道していたのか、当たり障りのない可もなく不可もないものばかりを適当に混ぜ合わせ、隠ぺいし、問題のあるものも問題にせずやってきただけとしか言いようがない。今回のイルカ漁も当事者が「正当な理由」もあり、「問題ない」と考えているのであれば、隠す必要もなかろう。なぜ隠すのかが問題である。

 捕鯨の時もそうであったが、なぜ豚、牛、羊などは問題にせず、クジラ、イルカなどだけが問題になるのかということは確かにある。それは生き物を殺す「殺生」ということには何ら変わりはないからである。それは植物においても同様である。どちらにしても「殺生」しなくては「人間」も生きられないのである。その事実を大方認めた上で一言付け加えると、「人間」は本来、草食動物であり、植物には動物に食べてもらうことでその「種の保存」が成立する植物も多くある。したがって、そのような植物だけを食することが可能であれば「殺生」を避ける道もあることはあるが現実的にはそれはなかなか難しいのではないかということに過ぎないということである。そして、「人間」の場合は「殺生」が「生業」となることで否応なく利潤の追求が求められる、それは必然的に必要限度を越えることになる。どこかで制御しない限り環境バランスが崩れるのは当然のことなのである。「人間」そのものが「不自然」な生き物である以上、どこかで途方もないエネルギーを持った「有限」な自然と折り合いをつけて生きて行かなくてはこの「不自然な生き物」の今後はないのである。

 話を元に戻すと、イルカ漁の当事者は、「昔からやっているし」、「法的にも問題ない」と言っているようだが、「昔からやっている」から「よいこと」にはならず、「法的に問題ない」からと言ってそれは飽くまで相対的なもので、「絶対的に許される」ものでもない。しかし、当事者がそれだけ問題はないと言い切っているのであれば、堂々とやればいい、何も隠すことはない。なぜ隠すのか?

 また、食文化をその国の文化と関連させる意見もあるようだが、「文化」と言う名の下にすべてを正当化することはできない。やむなくそれを食べざるを得ない土地に住む人々の食は別として、「人間」の欲望の限りを尽くした食(王朝料理など)の中にはグロテスクなものもある。そのようなものが「(食)文化」であるからと言って継承される必要もないし、いずれは「悪しき(食)文化」として消滅しざるを得ないだろう。今でも韓国には犬を食べさせる店があるが、犬に癒された経験のある者達にとってそれは堪えがたいものであろう。またイルカも同様で、それによって癒された者達にはイルカ漁そのものが苦痛以外の何ものでもないだろう。

 私は犬の肉を食べたいとは思わないのと同様にイルカの肉も食べたいとは思わない。もし当事者がほんとうにイルカ漁を「誇れる生業」と思っているのなら隠す必要もあるまい。しかし、もはや世界に知れ渡り、なす術もない。今後また日本での映画上演に抗議するらしいが、それは恥の上塗りにしかならないだろう。この種の「イメージ」の払しょくには優に100年はかかる。

 

                                                                                                                                    2010  3/13 


34.  Il y a quelque temps     à Tokyo   (2)


Aujourd'hui il fait beau

Mais comme d'habitude  les restes de parti coservateur survient à honte dans la Diéte

Ce  que disent les journaux  c'est  toujours la même chose et dérangé (sur le problème politique)

Il ne s'agit plus de discourir.

Le journaliste qui s'appelle Takasi Tachibana  n'est ni journariste  ni critique   parce  que il partage l'attitude  du parquet .C'est la corruption. ( On dit qu'il est auteur d'oeuvre documentaire.)

Généralement parlant  je pense que tombe le niveau  intellectuel de Japon(certainement  l'intelligence n'est pas de simples connaissances).

Sur ce point  si l'on cite l'exemple    mais c'est tellement nombreux qu'on ne peut pas compter

Et puis   à propos de la chasse  du dauphin au Japon

Récement je l'ai su .    C'est dommage.

                                                                                             

                                                                                                                                    2010  3  12

 

                                                                                                                     M・HIRAYAMA


33. 「ピカソ」というBar


 これは高円寺にあった一番古いバーである。2年程前に通りがかったがすでに空き地になっていた。1948年、太宰治が山崎富栄と玉川上水に入水自殺をした頃にできたバーである。そのバーの作りはどことなく太宰が自殺する前年まで飲んでいた銀座のバー・ルパンに似ていた。カウンターから下の部分の壁面がレンガ作りなのである。おそらく太宰も酔って帰って、山崎から「また、ルパンですか」と言われることがあったのではないか。こういうバーで飲むとズボンの膝の辺りにレンガが付着してすぐにそれと分かるのである。

 ピカソに最後に行ったのは2003年である。夭折した画家の夫と共に始めたというバーで、薄化粧をして身綺麗にしていた80を半ば過ぎたその老夫人が語る過去を、飲みながら黙って聞いていた自分をその空き地の隅に見つけた。

 バーには「幕が降りてから芝居が始まる。’80」と書かれた安岡章太郎のセピア色に染まった色紙があった。50年前、文士、画家達が行き交った大路、小路、路地裏に至るまで今はその面影はない。今は終戦直後を模したような店と古着屋、アジア、インド系の店や風俗店が軒を連ねている。

 

                                                                                                                                         2010 3/7


32.  おにぎりを買いそびれて・・・


 コンビニでおにぎりを買おうとしたら、おにぎりの包装ラップに「庶民派」を「お商売」にしているみのもんたの顔、顔、顔、とても買う気にはならずすぐに店を出た。なぜかその時パチンコ屋の騒音まで聞こえてきた。幻聴か。

 朝は、みのもんたの何のエスプリもない庶民派気取りの開き直りトークで始まり、昼飯時には、みのもんたの顔入りおにぎり食べて、仕事終わればパチンコ屋の軍艦マーチで玉はじく・・・これ、完全に「洗脳」だよ・・・頭はいつしか思考回路ゼロでおがくず状態、断線すればすぐに火がつきイケイケ突撃モード、そして、いとも容易く自爆する・・・ホント大丈夫かね、これで・・・

 みのもんたが保守残党のプロパガンダを担っていることはその言動からも明らかで、それは取りも直さず既得権益死守の側にいるということでもある。それは庶民とはまったく正反対の位置にいることになる。その人間が庶民の味方のような顔をして取り仕切っているのである。

 こんな男がでっちあげた「似非庶民」を「庶民」などとは絶対に言わせない。それはマスコミが創り上げた「虚像」でもある。彼らが作り上げた「庶民」にあえて自分をはめ込む必要はまったくない。拒否すべきである。なぜなら、それは結局は自分の首を絞め、自分をおとしめることになるからである。

 

                                                                                                                                                  2010 3/4


 

 31. 立花隆の「ズレ」と「ブレ」


 ジャーナリストとして、昨今の「小沢問題」に関連した彼の一連の言動はそのスタンスの基本軸の「ズレ」と焦点に大きな「ブレ」がある。誰が言ったのかは知らぬが、もし立花が「知の巨人」であるなら、今の日本の知的状況は憂慮すべき事態を越えている。「更新」されない「知」の集積など何の意味もない。彼にはもう状況が見えていないのである。バーゲンセールのような「知的販売人」達ならまだしも、彼の場合は少なくともそれだけでは済むまい。常に「生きた知性」を維持するためには「実践」(広義)が必要なのであるが、彼の言動にはもはやそれがない。やっているとしても、実践なき古びた「データー解析」のみであろう。それでは「現実」、「状況」に対してほんとうの「視座」は確保できない。それは研究論文ばかりに明け暮れ、名誉衝称号だけは手にしている「名医」が実際の手術は碌にできなくなっているのと同様である。その気になって手術台に望めば(現実に向かえば)どういうことになるかは分かり切ったことである。

 もし、「知の巨人」と言われた者であるならば、その影響力も大きく、その罪も深い。もうこれ以上、糊塗的欺瞞報道に現を抜かす新聞各社を倣わず、乗せられず、沈黙することを勧める。

             

                                             2010  3/3

○最近の新聞のインタビューで立花隆は「検察の捜査は終わっていない。立件するとすれば、脱税容疑だ」とその根拠すら明示せず語ったらしいが、これはもうジャーナリストでも評論家でもないと見るべきだろう。そこには、世の耳目を引くことだけに拘った根本的な世界観(哲学)を持たない単なる流行作家(ノンフィクション作家)の姿が見える。「知の巨人」などとはよく言ったものである。


30. 「週刊朝日」(3/12)記事について


「民主党バブルはなぜ崩壊したか」、この見出しの付け方でその内容は大方分かるが、さらに「党首や幹事長の金銭疑惑などが災いし、歴史的な政権交代でバブルのように膨らんだ民主党への期待は、わずか半年ではじけた。云々」。「バブル」という言葉の遣い方もすでにどこかピンボケで、この言葉の遣い方だけでもすでにその意識構造と方向性が見え透いている。これは今までの朝日新聞社の言説に対する自己弁護と正当化以外の何ものでもない。このことは何も朝日に限らず、読売、毎日も同様である。以前にも言ったことであるが、同一内容の記事を誤報も省みず繰り返し載せるような新聞社が3社もある必要もなく1社で充分であると思うのは読者の側からすれば至極当然のことである。

 「週刊朝日」は「朝日新聞」の記事とは一線を画していると思っていたが、やはり、土台切っても切れない縁、どこかに「朝日新聞」社の路線が顔を出す。私は特にこの間の3大新聞(朝日、毎日、読売)を含めた新聞各社の欺瞞的報道に関しては今でもまったく許し難いと思っているし、ジャーナリストとしてよくぞここまで堕ちたというのが今迄の実感なのである。

 対談内容は案の定、もしこれがほんとうに「気鋭の論客3人が縦横無尽に語りつくした。」という内容であるなら、この程度の事かと思うだけで、こんな分かり切ったことを今更「安全地帯」で対談する意味がどれほどあるのか?改めてその対談者の「立ち位置」、「志向性」を問いたくなる。痛くも、痒くもない「位置」での「商談」と言ったところである。対談最後の「・・・大丈夫かな。(笑い)」がすべてを象徴している。「識者」とは何のために,誰のために存在するのか? 今は根本的なことが問われているのだということに未だに気づいていない「識者」がなんと多いことか。

※「大丈夫かな」は危うい行動をする民主党に対して言っているのである。

 

因みに、その他の週刊誌については手にとることもない。その取り上げ方、内容はすべて確認済みで、単なる資源の無駄遣いとしか言いようがない。

                             

                                                                                                                           2010 3/3


29.  ー テレビは愚民政策の一環 ー


テレビは、実のところ常に「旧体制」の玩具で、うるさく、無味乾燥で、人生の味わいを半減させるものというのが実感である。人生の一角からテレビを完全に抹殺してみると、また別の世界が見えてくるのも確かである。報道関係の「コメント」などは90%以上無意味と言える。それは大事な「事実」がつまらぬ「コメント」で手込めにされ、粉飾され、歪められ、われわれのところまで来る間にほとんどその原形をとどめていないことの方が多いということである。「事実」に対する他人の「解釈」ばかりに頼るということは、ものを考えないことになる。大衆を手取り足とり面白おかしく導く、できるだけ自分自身で考えないように仕向けること、新鮮な事実は隠ぺいし手垢をつけたものだけを大衆に与える、これが要するに「愚民政策」なのである。これは「権力」にとってはこの上なく都合がよいことである。どこまで騙されれば気が済むのかということにならないようにじっくり考えることが必要である。マスコミ報道で参考にできるものは2~3%程度であると思っていないとまんまと乗せられてしまう。週刊誌なども左派系、中道系、右派系などと、自由主義諸国では一般的に分けられているが、日本ではほとんどの週刊誌が右派系で、辛うじて1社位がリベラル派と言った程度で、左派系、中道系のマスコミなど今や皆無といってよいだろう。右派系というのは基本的に生活に追われている人々とは縁もゆかりもない者たちが依って立っているところである。しかし、「体裁」は飽くまで「中道路線」である。これは、「政治法則として、全体主義体制確立のためには、ある時点で、国民の目をいったん「中道政治」の幻で、瞞着せねばならない」という政治戦略にも一脈通じるものがある。ある時は、「庶民の味方」、またある時は「主婦の味方」を装って、嘘をつくのが仕事のような三百代言、いかさま師がそのプロパガンダ的役割を担った広告塔として跋扈しているのが今のテレビの実情である。

 

クルップ (椅子にゆっくり腰をかけて)そうだな。今やわれわれは安心して君にすべてを託すことがで    きる。アドルフ、よくやったよ。君は左を斬り、返す刀で右を斬ったのだ。

ヒットラー (舞台中央に進み出て)そうです。政治は中道をいかなければなりません。

 

 ヒットラーとは、もちろんナチスドイツの総統アドルフ・ヒットラーのことである。このやり取りは三島由紀夫の「わが友ヒットラー」という戯曲の最後の台詞である。実際には、ヒットラーはこんなことも言っている。大衆は小さな嘘には敏感だが、大きな嘘にはすぐに騙される。日本にも劇場型などと言われた時期に小振りな「ヒットラー」がいた。そして、人々はまんまと騙されたにもかかわらず、今でもテレビカメラはその人物を追い、おばさん達が「ジュンちゃん」などと奇声を発して駆け寄って行く様を映し出している。騙されるのが心底好きなのであろう。騙されても騙されてもすり寄っていく、為政者にとってはほんとうに堪えられない国民性である。

 「ヒットラー」はいつの時代にも登場する機会を窺っている。人々の心の襞に入り込み、心地よく酔わそうとその出番を待っている。後は機が熟すのを待つだけである。10年、30年、100年、経済的混乱とそれによる人々の精神状態の乱れ、人々が冷静さを失った時、その時こそ彼が登場する絶好の機会となる。そして、彼のスケールはその時の経済的混乱の程度で決まる。人々の錯乱こそ彼の養分である。「ヒットラー」とはすぐ身近にいる人々にも住みついている隠れた「1要素」に過ぎないのでる。すなわち、権力(目的)のためには嘘を嘘とは思わぬ「狂気」でもある。

 そんな「化け物」を登場させないためには、思うように遅々として進まぬ民主主義の言ってみれば負の側面を国民一人一人が担わなくてはなるまい。なぜなら、主権は国民にあるのだから。国民が苛立ち、あせり、その不安を増殖させるのをその「化け物」は嬉々として待っていることだけは忘れてはならない。

 

                                                                                                                                      2010 2/25


 

28. ー恐ろしき国ー


 「特高」、「秘密警察」のごとき権力機構が暗躍し、一方表舞台では権力の宣伝機関と成り果てた大マスコミとテレビ局が正論を装い虚言、妄言を吐く。残念ながら、これが今の日本の現状である。この国はほんとうに民主主義国家なのか、法治国家なのかと改めて問いたくなる日々の連続である。今、国民が大マスコミのもっともらしい言説に乗るということは、まんまと権力の手中にはまるということである。それは結局自分の首を絞めることになるということを見据えておく必要があろう。

 古来、偽りの者ほど巧みに声高にものを言い、美辞麗句は心なき者の十八番である。

 今は、ただ、国民1人1人が日々実感していることを大事にして、それを具体的に反映させるにはどうしたらよいのかを考えなければならないだろう。権力と結びつき、自己の利権にしがみつく固執した学者、評論家、コメンテターの話などはいくら聞いても無駄である。なぜなら、彼らがいくら詭弁を弄しても、国民のことなど微塵も思っていないことだけは確実であるからである。詭弁そのものは、言ってみれば詐欺なのである。だから、詐欺商法に引っかからないよう慎重に対応するのと同様に対処すればよいだけの話なのではあるが、ついつい騙されてしまう人が跡を絶たないのも実情である。そうかと言って、政治家の言った一字一句に拘泥し過ぎると今度は単なる挙げ足とりになり、気の利いた文言、言説に引かれ過ぎると情に流される。要はそういう些末主義にも陥ることなく、流動的な歴史の流れの中で政治家が自分の言説に則り具体的に何を為したか、為そうとしているかが最重要問題なのである。歴史は常に動いている。人間には神のごとく歴史を俯瞰することはできない。人間(政治家)に「神の技」を要求することは最も危険な選択肢を選ぶことにもなる。   

 突然、「秘密警察」が訪れて身の覚えのないことで逮捕されるなどということは今も誰にでも起こり得ることなのである。いつまでも人任せにはしないで、少しは我が身のこととして考えないと大変なことになる。

 

※「小沢問題」は現在の大マスコミと検察の醜悪な実態を白日の下に晒したことは明らかである。そして、これによって国民はさらに「政治」を捉え直そうとしていることも見逃せない事実である。もし、小沢がここまで考えていた政治家であるなら並みの政治家ではない。実のところ、小沢自身はもういつ議員を辞めても本望なのではないかと思う、しかし、この期に及んでは糞尿を浴びてもやらざるを得ないだろう。今、これだけ金と政治が取り沙汰されている中、どいう言う訳か彼には論う程の私利私欲というものを感じないのである。そう思う根拠は、簡潔に言えば、変節漢ではなく、一本筋が通っているということに尽きる。政治屋ではない本来の「政治家」としての必要条件を備えていることである。それが既得権益にしがみつく因循姑息な者達には怖いのである。ただ、小沢自身としては無用な騒動を避けるためにも、自由な研究者ではないのであるから言説はもっと慎重になった方がよいとは思う。

※2月5日号の「週刊朝日」で「検察のずさんな捜査が結果として政治不信を招き、テロやクーデターを誘発するのではないかと指摘」しているが、すでに不穏な動きが現われている。現在、小沢周辺は厳戒態勢である。 (マスコと検察が癒着する流れの中で、その「ずさんな捜査」を「正義の遂行」のごとくに煽ったマスコミにもその責任は当然ある。その報道内容はどこの全体主義国家かと思わせるようにすべて一律であった。これは非常に危険な状態にあることの証左でもある。) 

※国会図書館に行けばこの間の一連の新聞社各社の欺瞞報道のすべてがチェックできる。大マスコミの報道実態とはこの程度のもので、それに踊らされることがどんなにばかばかしいことか思い知ることができるだろう。

 

                                   2010  2/23


27. 「ハリー・ポッター」とJ・K・ローリング


 私は基本的にどんなジャンルのものであれマスコミが騒ぐものには飛びつかない。理由は簡単明瞭、ほとんど裏切られるからである。このスタンスの難点は多少、世の中の流れとズレルこと位である。しかし、逆に今はそのズレを楽しんでいる。この「ハリー・ポッター」もそうである。世の中が騒げば騒ぐほど私の気持ちはこの作品から離れて行った、と言うより他に読む本がたくさんありどんどん後回しの対象になっていったと言う方が正確かもしれない。しかし、最近DVD(最終章未公開)のすべてを観て、著作をチェックしてみたが実に面白い。この作品は全作品を観なければ、また読まなくてはその本当の面白みは分からないだろう。海外では、この本が出る度に本屋に子供が並び、本を手にすると路上に座り込み夢中になって読んでいるという。「活字離れ」などと聞いた風な言葉で括って収まっている人々とはとんでもなく違う光景がここでは展開されている。前代未聞の発行部数を誇るこの本を全世界64か国以上の国々の子供達(もちろん大人も含めて)が全巻読んでいるのである。1巻だけ読んで、もしこんなものかとそこで終わってしまうのが日本の子供たちだけであったとしたら情けないことである。それはただ単に「活字離れ」などといって片づけられる問題ではないからである。

 

原作者 J・K・ローリングについて

 地獄、または真実を直視するということは、ある意味で何ものかを喪失することでもある。その喪失感(ある時は致命的な喪失感)を埋め合わせようとする命がけの営為そのものが「芸術」である。J・K・ローリングの何気ない一瞬に見せる眼差しに、淵の底を見てしまった者の寂まくとした心の様相を見る。

 彼女は確かに、奇跡が起こり得る領域に存在する「人間」である。

  もしかしたら、彼女はマグルとウィッチのハーフかもしれない。

                                     2010  2/22


26. ここ3,4年のこと(2006年~)


 スペイン、フランス、公演、転居と、実に慌ただしく過ぎ去った日々である。転居とは言っても100年以上経った一戸建ての転居である。廃棄処分だけで4t車4台、それだけではない、それに先立つこと3か月間に捨てた分を含めると4台どころか何台になっていたのか見当もつかない。さらには移動する荷物の本体である、それを運ぶのに4t車が実際に何台来たのか覚えていない。とにかく一旦は倉庫行きになった。

 転居して2年目に入るが、未だに完全には整理し切れていない。今年(2010年)は「できるだけ」静かに自分自身と回りの整理に明け暮れようと思っている。

 

                                                                                                                                   2010  2/22 


25.「死の達人」とは


 いつであったか、テレビで、初老の女性が「今後どのように暮らして行きたいですか?」と聞かれて笑いながら発したのが「ピンピンコロリ」という言葉である。要するに、死ぬまで元気で死ぬ時はコロリと逝きたいということである。しかし、これは「死の達人」の域で、実際には望んだとしても中々そのような死に方はできるものではない。この言葉を口にしたこの女性は少々肥っていてどう見ても「ピンピンコロリ」とはいかないように思えたが、やはりそのような生き方、死に方ができればよいという切なる思いがあるのだろう。

 私には「ピンピンコロリ」ですぐに具体的に思い描ける2人の老人の死がある。

 昼食時になってもいつまでも降りて来ないので、部屋まで呼びに行くと、窓は開け放たれ、揺り椅子に揺られながら眠るように死んでいたという92歳の老人のこと。

 そして、仕事の手を休めることもなく「きれいに死にたかったら、最後まで精いっぱい仕事することよ。」と言っていた93歳の老婆のこと。それから1年後のある日、その老婆は眠りから覚めることがなかった。

 私はこのような人々のことを「死の達人」と呼ぶ。それは「生の達人」なのかもしれない。

 

 


24.「市民団体」という名の「政治結社」


「市民団体」イコール民意の「現われ」のような捉え方はこの場合は危険である。「市民団体」というのならその実態を明確に提示するべきである。元新聞記者などの10人程の集団が「民意」の「現われ」などとはとんでもないことである。大体、元新聞記者などというのも胡散臭い、メディアと検察の癒着がこれだけ問題になっている時である。どこの新聞社の記者だったのか聞きたくなるのも当然である。この市民団体は小沢を起訴まで追い込んだ後(起訴できればの話だが)すぐに解散というところではないかと思っている、もしそうでないならこれだけ世間を騒がせているのだからどこのどういう団体なのか、なぜ今ここまでしなくてはならないのか、国民の前できちんと説明すべきである。それができなのであれば「市民団体」とは名ばかりのいかがわし単なる「政治工作団体」と見なされても仕方あるまい。

                                                                                                                                       2010 2/14 

 


23. Il y a quelque temps     à Tokyo   (1)


"Le problème de Ozawa" a mis au grand jour la tromperie de journalisme  et l'épouvante de Parquet

Je crois que le vrai peuple sait tout ce qu'ils mentissent par omission et usent de subterfuge sauf les fanatiques et le peuple stupide

 

 Aujourd'hui le ciel est gris et il fait froid    mais peut-être demain  je ne sais pas  ce n'est pas  mon problème

 ※simindantai:  「simindantai」 est  l'association de citoyen. Mais  dans ce cas là   tout ce que l'associacion de citoyen dit   n'est pas toujours la volonté de peuple. plutôt  les paroles et les actes de l'organisation politique(anti Ozawa)                                                                              

 ※Le journalisme  japonais (TV  journaux  revue etc)  s'unit avec le  parquet  et  les restes  du parti  conservateur.     Par   conséquent  on ne peut pas ajouter foi aux articles de journaux et commentaires de TV. 

  Celui qui est digne d'être applé journaliste n'existe presque jamais au Japon..

<TV comme démagogie  ( sur les nouvelles)>

TBS( 6chaine) (la personne chargée de TV est MINO  MONTA)+l'éditorialiste de YOMIURI >    NIPPON TV ( 4 )  >  ASAHI TV(10) >   FUJI TV(8)  etc      Sur les autres chaines de TV, c'est à peu près la même chose.

<Les  journaux comme démagogie  ( sur les nouvelles)>

YOMIURI  > SANKEI > MAINITI > ASAHI      etc      Sur les autres journaux  c'est à peu près la même chose.      Mais, sauf「NIKKAN GENDAI 」(P1-P3)  (C' éait  imprévu)

                                                                                                                        20102/12  . 2/16

       ¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

○On dit que les connaissances de mon ami  ont enfin cassé  TV  par la hache.

Quel dommage de casser le poste de tv.  Mais  Je comprends bien un tel senntiment..

      ¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

○Les restes du parti conservateur survivent  tourjours à la honte dans la Diète.

   Quell pitié !    Mais   Il est vain de dire aux éhontés.

 

                                                                                                                       M・HIRAYAMA


22. テレビはますます薄く、不鮮明に、 新聞はすぐさまゴミ箱へ。


 それならば、いっそのこと見まい、聞くまい、取るまいということになるのは致し方あるまい。

 テレビが薄くなるに従って、内容もますますペラペラになり、嘘が多くなってきた。画面も大きくなってはきたが、ものごとの捉え方の枠組みはその画面の大きさとは反比例して小さくなっている。画面の鮮明さも、出ている人間の鼻毛、しわがよく見える程度で内容はボカシの比率が次第に多くなるばかりで不鮮明になっていく。

 

 新聞のレベルは下がる一方である。それは錆びついたアンテナたよりに日々の糧を得るだけの旧体制の「御用」ジャーナリストの集合体に成り果ててしまっているのだから仕方あるまい。「3大新聞」(朝日、毎日、読売)同一レベルの同一内容では3社ある必要もなく、今後のためにも会社合併を勧める。テレビも同様、どの局も五十歩百歩、同じようなものを垂れ流しているのでは民放がいくつにも分かれている必要性も、必然性もない。整理した方が賢明である。こんな状態では遅かれ早かれそうならざるを得ないだろう。もう遅いくらいである。

  

 国民が口をぽかんと開けてマスコミの言うがままになっている内に巨大な権力を蓄えてしまった検察権力に対して真っ向からジャーナリストらしい見識と感覚と取材で報道をし続けてきたのは意外にも「日刊ゲンダイ」(1面ー3面)、そして「週刊朝日」のみである。それ以外の欺瞞的報道に関しての具体的指摘は原稿用紙何百枚にもなるのでここでは差し控えるが、欺瞞的報道の共通点は、国民をある一方向に煽ることだけで国民の側の立った視点を持たない、見識がない、支離滅裂、肝心な核心部分を避け安全地帯での冗長な詭弁の繰り返しに終始しているということである。「小沢問題」を追っているなどと言われている「ジャーナリスト」なども「資金の流れ」を追った検察の視座の轍からは外れることはない。それでは検察の「吹いた風」に吹き飛ばされているだけの話である。これではジャーナリスト気取りのデータマンか、何の心配もない「御用」ジャーナリストの耳目を集める対象を扱った単なる「お商売」である。「限りなく黒に近いグレーだ」とか何だかんだと、その様、憐れで滑稽である。そんなグラデェーションを楽しんでいる前にもっとやることないのか? これが「第二の世論」の大多数の考え方である。

  

 そして、今これだけ「検察の独走」が取り沙汰されている中で、「週刊文集」は「特捜部は何をしているのか」である。そして、「小沢を起訴できるじゃないですか。」上層部に詰め寄った検事の声はなぜかき消されたのか、云々。これでは安手の刑事ドラマの台本である。あたかも起訴できる証拠はあったかのごとくの書き方であるが実はないのである。この手の書き方が他の週刊誌にも実に多い、無責任極まりない。正確に言えば、結果的に裁判所で無罪になるのは承知の上で、それでも強引にでっちあげれば起訴はできるという意味である。起訴自体にこだわり過ぎると今度は政治的意味合い強くなる。それを敢えて避けたということで、それは今後の検察にとっても賢明な判断であったと思われるが、それについてイチャモンをつけているのだから、どこの政党、政治結社のプロパガンダなのかと問われても仕方あるまい。この際はっきりとどこのスピーカーなのか、どこから資金援助をえているのか、どことつながっているのか明確にするべきである。他誌についても同様である。

 

 

                                                                                                                                  2010  2/11 

 


21. ー彼は社会的に重要な人間ではない。正真正銘の一個人である。ー (セリーヌより)


 これは,何ものにもしがみ付くことなく不安と真っ向から向き合い真に生きようとした者の意識の覚醒を描いたサルトルの「嘔吐」という作品のエピグラフ(巻頭引用句)でもある。

 何ものかに取りつかれたような狂信集団の群れではない「正真正銘の一個人」の内なる叫びが日増しに強くなるのを感じる。

 目先の事(多くは利権)ばかりに追われている因循姑息な輩の思惑とは裏腹に、人々は覚醒してしまったのである。もう後に戻ることはない。未だに小手先の詭弁を弄して保身に身をやつす者たちに対して、人々は今や憐れみさえ感じていることだろう。「覚醒」してしまった人々に真に応えられない限り何を言っても無駄なのである。もう戻ることはできない。そこには大きな歴史の「うねり」がある。その「うねり」は、今、音もなくますます大きくなっている。その背後にはすでに第二のさらに大きな「うねり」が見えている。

                              2010 2/5  2/9 加筆

 


20. 「情報ライブ ミヤネ屋」(日本テレビ)などの番組に対する危惧


 この手の番組(みのもんた等も然り)は芸能、スポーツだけやっていればいいものを時事報道解説まで芸能、スポーツのノリでやりだすから困ったものである。今回の「小沢問題」でもそうである。一見日常感覚でもっともらしい質問、提言をすること自体は構わないと思うが、公共の電波を使い一応は不偏不党をうたいながら「正常な」庶民を装って伝えるその内容にはかなり偏向がある(キャスティングされたコメンテーターの質も含めて)。にもかかわらず敢えてその偏向的方向にもっていこうとすることは巧妙なマインドコントロールであると言わざるをえない。この手のマインドコントロールは時間を経て功を奏してくるものだけに、その原因となるものについては次第に焦点が絞りにくくなってくるのである。

 同種の新番組誕生に際し、フジテレビ関係者が異口同音に「宮根(宮根誠司)が成功すればテレビ界が大きく変わる」と言っているそうだが、そこには以上のような意味も含めて不可解な部分が多々ある。特に、報道に関して言えば、根拠も定かでないものを適当に都合のいいように流しておいて、いざその責任を問われればオチャラケでごまかしてしまうことが今まで以上に日常茶飯事となるということである。今までの番組構成、流れを見ていてもそれは歴然としている。それは芸能、スポーツを巧みに織り交ぜることで「事の重大さ」を中和させ、肝心なことから人々の眼をそらしながら「都合のいい報道だけ」を人々にインプットさせるということである。そこには報道におけるジャーナリストとしての厳しい眼と責任はない。「ニュースショー」と言われているものの陥穽(落とし穴)である。

 笑っている内に、世界の終焉につながる幕引きをやってしまうことだけは避けたいものである。子供たちのためにも、それが「ほんとうの大人」のやることである。「老いたるは皆かしこかり、その国に身を殺す者 すべて若人」では困る。

                                    2010  2 / 4


19. 飛べない者は・・・


 飛ぶことばかりにこだわり続けるのも、一つの生き方ではあるが、飛べないなら、歩いて行けばいいだけの話である。飛ぶのに適した羽を持っているものもいれば、そうでないものもいるということ過ぎないのであるが、中には充分飛べる羽を持っているにもかかわらずそれを使いこなせないものもいるので、事ほどさように単純でもない。さらには、飛べる羽を持っていながら、飛ぶことができるにもかかわらず敢えて地を行くものもいる。地を行くにしても、大空を自在に飛びまわるにしても、死と背中合わせであることだけは確かである。

 こんな言葉がある。「勝って地獄、負けて暗黒」。これは「勝ち負け」にこだわる限り、またそのパラダイムでしか見ない、見えないものにはその先に待っているものは「地獄」か「暗黒」しかないということでもある。それは、たとえ「勝った」にしても人生はバラ色ではありえないということである。ただ、「地獄」は極彩色で「暗黒」は漆黒の闇という違いはあるだろう。

 

                                                               2010  2 / 1


18.  ー散歩ー


 とある駅を通り過ぎようとした時、まったく動かないのでそばに行くまで気が付かなかったが、じっと座って前方を見つめている犬がいた。おそらく主人を待っているのだろう。その姿はどこか凛としていて、眼差しは限りなくやさしい。足を止めてしばらくその犬の顔を見つめていると、私に気づき、少し首をこちらに向けた。その表情は、こちらが恥ずかしくなるような、とげのない思慮に満ちていた。微笑みかけると、わずかにうなずきながら元の姿にもどった。数歩歩いたところで振り返って見ると、携帯電話をしながら自転車に乗った男がその犬のそばにツバを吐いて行った。 

 動物と共に生きたいと思う人々の気持ちが痛いほど分かる。

人はうそにてくらす世に

なんぞ燕子が実相を

談じ顔なる

 「閑吟集」の歌謡の一節が思い出された。

 

○燕子(エンシ)  ツバメのこと。  ○実相  実際のありさま。真実の姿。

 

                                   2010  1/30


 17 ー失速した週刊誌報道ー


 普段は週刊誌など手にすることもないのであるが、待合室などの場所では、つい派手な見出しにつられて読んでしまうがいつも100%裏切られる。そのあまりにやすっぽさの目立つセンセーショナルなタイトルから、相当発行部数が落ちているのだろうと余計な心配までしてしまう。

 たまたま、このとき手にしたのは『週刊現代』(1・25)であるが、その中で立花隆と宗像紀夫(元東京地検特捜部長)が対談しているところがある、そこで立花が「実際、検察からのリークはあるんですか。」と尋ねると、宗像が「意図的なリークというのはないんです。云々」ここでもうばかばかしくなってしまった。立花のこんな質問にまともに応えるアホな東京地検関係者がどこにいるのか? この対談の無意味さはここに集約されている。立花がボケているのか、なれ合い対談なのか、大宅壮一が生きていたらそれこそ「馬鹿野郎」ものである。こんなボケた質問でも実りの多いものとして成り立たせるには、今のところ検察を内部告発した三井環(元大阪高検、公安部長)くらいしかいないだろう。

 しかし、今ごろ出てきてこんな対談しかできない立花は「ロッキード事件」以後一体何をしていたのかと改めて問いかけたくなる。

 それから、これは全体的に言えることであるが、ただ感情的に煽り立ててばかりいないで、もう少し冷静に自分自身で書いている内容について論理展開上問題はないのかチェックをしてみたらどうかと思う記事内容が多過ぎる。

<その1例>

「『やはり、マスコミと検察との癒着を徹底的に調査しなければならない』との議論が始まって会議が盛り上がり、云々」この個所の内容がいつの間にか「政権与党の最高意思決定機関において、公然と『気に入らない報道を潰していまえ』という話し合いが行われるなど自民党政権時代にも聞いたことはない。」という内容にすり替えられている。この書き方で読者をどこへ持って行きたいのかは明白であるが、ここに論点すり替えの虚偽がある。それ以外にも感情表現による虚偽 etc.

 「マスコミと検察の癒着を徹底的に調査しなければならない」という内容がどうして「気に入らない報道は潰してしまえ」という内容と同一なのか、または置き換わるのか、また同一内容であることを印象付けるような引用符で括りあたかも同一関係者が語っているような体裁を取るのか? 正確さを欠いた不明瞭な内容で人心を惑わすデマゴーグの所業とも言える。

 そうかと思えば、違うところでは歴史学の講議である。対談している山内昌之(東京大学教授)は小泉政権時、その私的諮問機関にいた人間でもある。編集部との対談内容は、例によってある時代の歴史上の人物と現代に生きる者との比較・照合とその敷衍である。この作業は現代を見る一つの参考になるだけであって決して近未来の予見すらできないということを明確にして置かないと危険な作業となる。彼の「講義」は全体的には、一部参考になる部分もないわけではないという程度で、ピンボケ箇所もある(特に現代の状況把握の視座に関して)。歴史のまっただ中に自らも「存在」(その「存在」の在り方も問題になる)しているという抜き差しならぬ緊張感がない。もし、それが「学者」と言うのであれば、「学者」にはデーターの解析はできても、今生きている現代の解読はできないということである。そのような意味でも、山内の「俯瞰図」が(どの位置からの俯瞰か、またその解釈などについては今は置いておく)どのようなものであれ、それは何千枚いや何十万枚の俯瞰図のうちの1枚であること以上のものを我々に与えることはない。

 

それ位で、後は見る時間もなかった。また、見る必要もないだろう。

この類の週刊誌はすべて大同小異である。これでは先はない。

ただし、「週刊朝日」は視点、論述、問題提起がしっかりしている。

                                   (敬称略)                                                                      

                              2010  1/28

 


16「東京新聞」(1・24)

ー山口二郎と藤沢久美の論述の的確さー


○「メディアの役割」と題した山口二郎の論述は簡潔にして正鵠を得ている。その1部を抜粋する。

「メディアは、小沢と検察の戦いが政治的な情報戦であることを自覚すべきである。小沢の側に不正があるなら、追及すべきである。しかし、検察が今までに犯した誤りについても、同時に明らかにしなければ、国民の知る権利に応えることはできない。」

 さらに、「メディアは、検察という巨大な権力に対する検証やチェックを怠っていると、私は考えている。」とも語っている。まさにその通りで、私も同感である。これこそまさに異常事態なのである。

 

 それについては、春名幹雄(名古屋大学大学院教授)も「世論操作にたけた東京地検特捜部は3人の逮捕者を握り、今後、小沢氏の不利な情報をどんどんメディアにリークするだろう。それが彼らの定石だ。」とすでに指摘しているにも関わらず、相も変わらずマスメディアはやれ世論だ、民意だなどと言ってはいるが、何のことはない陰で検察が巧みに世論を操作しているに過ぎないということである。こんなメディアのあり方は先進諸国の中では日本ぐらいで普通ではない。これは実際にはすべてが検察(官僚)の言うがままで、検察(官僚)の独裁体制にあるということを意味する。このような状況の中で、未だに「一方的に」検察は正しいなどと言っている人々がいること自体に危機的驚愕を覚える。

 

○「新聞の見識と主義主張」と題した藤沢久美の論述について、

 この論述も現状を的確に捉えた内容である。

「民意」が意味するものの質の変遷についての論述も的確な提示がなされている。

「東京新聞」のバランス感覚ある「読者の声」の選別基準に敬意を表しながらも、そのバランス感覚自体にさりげなく問題提起をしているのも見逃せない。「東京新聞」に限らず、この指摘をしっかり受け止めるかどうかで今後は決まって来るだろう。

 「社会のさまざまな事象の背景やプロセスなどを各方面に取材し、主義主張と見識を持って伝えることが、これからの新聞に求められることなのではないか。新聞も原点回帰の時かもしれない。」と締めくくっている。論点の定まった問題提起である。「新聞社によって編集された情報」がどれだけの「手間」をかけて作られたものなのかは非常に重要なことである。それがない以上、あえて新聞を選んでその情報を読むということはなくなるだろう。

 

 因みに、私の場合は情報収集と言えども、ネットは必要に迫られてやむなく使う程度である。それはネットで収集できるものには限界があり、内容的に浅いものが多いからである。

 

山口二郎 北海道大学教授

藤沢久美 シンクタンク・ソフィアバンク副代表

 

                                     (敬称略)

                               2010 1/25

                                   


 15「日刊ゲンダイ」 斎藤貴男の論述について


 「大新聞よ、今ごろ報道への権力介入を怒るのか」と題したこの論述は大方のところ納得できるものであるが、残念ながら、後半「しょせんは軍事システムでしかないインターネットを神のように崇め奉り、これと融和しないものをせせら笑うことしかできない連中の憎まれ口を、それでも一理あると認めざるを得ない現実がつらい。やるせない。」と少々勇み足気味の感情吐露は、筆者の状況を生々しく伝えるものではあるが、私のように好きでもないインターネットを仕事の関係上使わざるを得なくなり、その延長上に今の状態がある者にとって、「インターネットを神のように崇め奉り」と言う表現は何ともピント外れで、意味不明である。そんな人達もいるのかと言うのが率直な感想で、「これ(インターネット)と融和しない存在をせせら笑う」なども私自身はとても「融和」しているとは思えないので筆者の思考回路の枠外なのであろう。おそらく、この筆者の周辺から類推された「連中」のことであろうと思われる。

 必ずしも共有できるとは限らないものに対する必要以上の否定的誇張、増幅はただ反感を買うだけである。斎藤貴男の論述は「勇み足」の部分を除けば、納得できるものであり、参考になった。

 「つらい」、「やるせない」という気持ちを大事にして、今はもう数少なくなってしまった「真のジャーナリスト」となることだけを切に願う。

                                      (敬称略)

 ※今回の「小沢問題」に関して「日刊ゲンダイ」だけは的確な視点をもって問題提起をしている。このことについては1/20の時点でも私は指摘している。                                                                                                                                                                            

                                      2010  1/25


14 新聞・テレビの報道の解読変換コード」の必要性


 現在、マスコミ報道をそのまま鵜呑みにするにはあまりに危険な状況になってきた。その記事内容(新聞社別、発行所別)、テレビのコメント内容(局別、どのようなコメンテーターを出しているか)を吟味するためにも「各自」でその「解読変換コード」を作ってみると良いと思う。ジャーナリスト不在なのであるから、国民全員がジャーナリストの眼を持つしかない。それは、とにかく情報をそのまま受け取ることだけは避けた方がよいということでもある。それは取りも直さずデマゴーグに振り回され、巻き込まれ悲惨な道を歩むことを回避することにもなる。歴史的に観ても、現代においてもデマゴーグによってどれだけの血が流されたかは枚挙に暇がない。

<参考例> 

○取り上げた対象についての使用語句の頻度によってその方向性を見定める。

 たとえば、「机上の空論にすぎない」、「大人なら~」、「当たり前だ」、「当然だ」、「理想論」、「愛国心があるなら」、「売国奴」etc.以上は詭弁の戦略として使われる言葉でもある。そして、攻撃されていることをねつ造し、または必要以上に恐怖感を煽り、平和主義者に対しては愛国心がない、売国奴であると非難するのはファシストの常套手段であるということも一つの例として確認しておく必要があるだろう。

 特に不明語句の使用には注意を要する・例えば、「市民団体」(誰でもいかようにもでっちあげることは可能。もちろん正当な「市民団体」もあるが、マスコミのその実態把握はかなりイイカゲンである。自分に都合のいいものだけを拾っているだけとも言える。「関係者」、「関係筋」、「関係諸機関」、これらはほとんど根拠のない、確証を欠く、信憑性のないものの代名詞であると思った方が賢明である。

○論理的整合性を見る。今までの例では「論点のすりかえ」、「感情表現による虚偽」、「不明なものを根拠に自己の正当性を補強、展開する」、もう少し具体的に言うと、詭弁(論理展開が誤りである推論)として、主にドミノ理論、未知論証(証拠がないことを根拠に物事を証明する詭弁)、感情が充填された語の多用、根拠を説明せず自説を押し通そうとする詭弁、などが確認される。

 

 検事、弁護士、政治家、と言われる人達は、基本的に「詭弁術」を生業としている人達で、白を黒とすることなど容易な人々である。だから、本人にとっても両刃の剣で誘惑に負けて詭弁を弄するようになれば、いつでも単なる法律屋、政治屋と成り下がる。すなわち堕落である。それはジャーナリストも同様である。

 以上、参考までに挙げたが、分からないないこと、不明なことを分かったことにしないで、引っかかったら立ち止りチェックする。どんな「つまらない」ことでも分かったことにしてしまうとそれは彼らの思う壺にはまるということになる。その姿勢を基本にして独自の「解読変換コード」を作ってみるというのは有効性がある。簡単なものから複雑なものまで各自各様にいくらでもできると思うのでやってみると良いと思う。それはデマゴーグに振り回されないためにも、自分自身のためにも、あるいは、これからの子供たちのためにも必要なことである。

                                                                                                                              2010   1/24

 


13 ー危険なマスコミ報道ー


 今回の「小沢問題」のおかげで、マスコミ報道(主に大新聞、TV)の危うさと、罪悪が今まで以上に具体的に見えてきた。そして、今や影の独裁者となった、恐怖の検察の実情も明らかとなった。さらに、国民の知らないところで、こそついて甘い汁を吸い続けていた恥知らずな輩の実態も浮かび上がってきた。

( 検察の正当性について元特捜部副部長なる者が述べているが、今となっては何ら説得力を持たない。なぜなら検察そのものの実態が露呈されてしまっているからである。安手の刑事ドラマのような「正義」を説いても白けるだけである。「国民の皆さんが、頭をクリーンにする」何を言っているのかと呆れかえる。感情的にならずもっとクリーンにしなくてはいけないのはそちらの方である。「故意的に記載しなかったんだから、単純なミスではなくて悪質な犯罪行為という位置づけをしなくてはいけない。そこで初めて、この事件を違う視点で見られるようになる。」小学生でもあるまいしそんなことは百も承知の上である。さらには、この文言自体にすでに問題がある。その前のところで、彼は、「それが「故意的に」ということは石川容疑者も話しているという。」と言っている。これは伝聞的表現で確定表現ではないがいつの間にか確定したことになってしまっている。一事が万事、これでは本来の使命も忘れた堕落したまマスコミ対しては火に油を注ぐようなものである。それから、この問題を「単純なミスではなく悪質な犯罪行為である」と捉えているのなら、良い機会であるもっともっとこの「小沢問題」を小沢個人だけに留めないで敷衍させるべきである。誰を捜査対象にするかという特定基準も「正義」などとは程遠く、政治的である。世論操作を巧みに行いつつ自分の思う方向に持って行くなどはまったく政治的行為以外の何物でもない。

 ほとんどのマスメディアがこれほど本来の役割を忘れて、客観的正確さを欠いた感情的表現(単なる悪意)を多用したことは近年稀であろう。そのあり方そのものはデマゴーグである。そして、その元は検察である。このことからどういう構図があぶり出されるか、誰が見ても明らかだろう、マスメディアの怠慢(本来ならマスメディアが検察をチェックすべきであるが、それが逆になっているということは闇の権力者である検察に公共の電波は乗っ取られているということでもある)、いつの間にか膨れ上がってしまった検察権力とそこに寄りそう政治屋たち。誰にターゲットを絞って捜査を開始するかは推して知るべしである。今回のことで改めて不偏不党なるものが存在しえないことが露骨かつ醜く実証された。

 最近の一連の報道について「マスコミのせいだって、それはないだろう。」本気で報道関係者がそんなことをいているようではもう心底腐り果てている。まったくマスコミは報道は信用できないということである。

 

 恥知らずな者が相手に向かって「恥知らず」と言う光景も実際にはなかなか見られるものではないが、今回は見ることができた。このような者こそが心底恥知らずな者とも言える。こういう神経の輩が今までの政治を動かしてきたのだから、さもありなんである。良くなる訳がない。「義」などとは程遠い「偽」の政治屋である。

 大新聞、TV報道関係者の多くは、もうすでにジャーナリストの「誇り」などは持ちわせてはいないのだろう。その彼らがもっともらしくコメントなどをする。コメントなどする資格のない者達の言いたい放題と言った方が現状には一番ぴったりする。彼らにいちいち「指差して」もらう必要はない。そんなことはせず、今日起こったことをできるだけ正確に伝えていればそれでよいのである。現状はそのような基本的なことさえできていない。報道に面白さなど要求してはいない。余計なことなど一切するなと言いたい。それがジャーナリストの「誇り」を置き忘れた者たちが唯一最後に表せる「良心」でもある。

 

 最近のコメンテーターがよく口にする言葉「多くの国民もそう思っている」、そう思っているのはあなただけというケースはいくらでもある。

   これは人々の言っていることからではなく、実際の人々の動きから分かることであるが、それは公共の電波を使ってろくでもない、イイカゲンなことを言いたい放題垂れな流すTVなどはもういらない、面白くないと思っている国民が数多くいるということである。

 

 

  いやいや、苛立つ日々であったが、「小沢問題」そのものより、その問題の取り上げ方によって様々な箇所、場所、その位置関係、あり方、繋がりなどが鮮明に浮かび上がってきた。国民も多くは語らないが、マスコミ、などよりは冷静に見守っているはずである。

 

                                                                                                                     2010  1/23 


12.ーわが師は、「死」なりー 


 太陽を直視できないのと同様に、「死」は直視することはできない。だから私がここで言う「死」とは、「観念」のことである。それが私の師である。日々身近にいてよく私の面倒を見てくれる。やり過ぎではないかと思われるくらいの念の入れようであるが、ありがたい。私にとっては常に唯一無二の師である。

 この場合の「観念」とは主観的なものではなく、漠然としか感知しえず、正確な言語表現を与えることができないが、一般性、普遍性をもって実在する、民族や時代の特殊性によって制約され人類を推進しているもの。というプラトン的イデア(観念)に近い。

 今宵、どこからともなく現われた師は、「すべての生きとし生けるものは常に一期一会としか「あり」ようがない。」、「登山家が航海中に死ぬようなことを避けさせるために私が(死)がいるのだ」と言うようなことを呟いていた。以前にも聞いたことがあるが、師がボケているはずもなく、何か必要があって繰り返しているのだろうと思っていると、去り際に、まだ冬だと言うのに「やがて死ぬけしきも見えず蝉の声」などと夏の俳句を、それも奇妙なリズムをつけて吟じる。さすがに私の師である。もう季節感などお構いなし、あるのは生と死のみである。その俳句は芭蕉の句であるが、すなわち「両忘」である。

 


11. ー腐った安定より「変動」を望むー


 日本の大新聞、TVの報道(週刊誌は論外)の堕落、腐敗は今に始まったことではないが、政権交代以後、日に日にその「本性」を白日の下にさらけ出しはじめている。何をそんなに怖がっているのかと言いたくなる。ただ単に自分たちにとって都合の悪いことを、あたかも国民の側に立って国民に都合の悪いような印象を与えつつ、実際には自分に都合のいいように国民を扇動、マインドコントロールしているというのが実情である。これはメディアとして健全に機能していないということで非常に危険な状況である。そこで、我々としては今まで以上にメディアに踊らされることなく、冷静に事の成り行きを見守りつつ判断する必要があるだろう。

 今回の小沢問題に関しても、マスメディアはその使命をまったく果たしていない。検察のリークをそのまま何の検証もせずただ垂れ流しているだけ。先進諸国では、軍隊、検察が勝手なことをしないようチェックするのがマスメディアの大きな使命の一つでもある。ところが、日本の場合は「正義」、「反権力」を装った検察の情報を無批判にそのまま(事実であるかどうかも不明のまま)流しているだけで、またそれに乗って多くのマスメディアが「大合唱」しているのである。この光景、何とも異様で薄気味悪い。(「日刊ゲンダイ」だけは違っていた。焦点の合った問題提起をしている。)

 このような状況に至っては、今や影の権力者に成り果てた検察側とマスメディアの癒着を指摘されても仕方あるまい。これこそ世界的に見れば前代未聞なことで、日本国民は完全にマスメディアに舐められている。今回の問題でも、検察が「執拗」に小沢を追及している背景には、「正義」、「反権力」などという美辞麗句とは関係なく、「検事総長を国会同意人事にする」、「民主主義的統制下に置く」と主張し「聖域」と言われていた検察組織にメスを入れようとしてきたことに対する検察側の「聖域」の死守という構図が浮かび上がってくる。とにかく小沢をつぶしたいのである。本来、検察は「捜査で世の中や制度を変えようとかすると、検察ファッショ(検察独裁)になる。それは許されない」(東京地検特捜部の生みの親でもある河井信太郎の警告)ということをこそ死守すべきなのである。

 この「検察独裁」の方向の中で、陰で煽り立てている政権奪回だけしか頭にない、言い換えれば自分のことしか考えていない恥知らずな残党がうごめいているのも確かで、それらが未だにマスメディアの中枢とつながっているとしか言いようがないのが現在のマスメディアの報道の仕方である。今後、場合によっては、すべての報道関係者はその自分が流した報道に関して国民に謝罪し、責任を取らなくてはならないだろう。

ーマスコミ報道のチェックポイントー

○顔を隠して証言者のような恰好で出てくる者の発言は何ら確証のないものである。何を今取り上げているのかでその局の姿勢はチェックできる。今までも「ヤラセ」はいくらでもあった。

○支持率などの数値そのものはほとんど当てにならないと見た方がよい。または調査方法を確認すべきである。

○コメンテイター、ニュースキャスター、レポーターの発言については、「てにをは」、副詞の使用までチェックするとそのマインドコントロールしたい方向が見える。何気なく言うこともキーワードになる。間投詞に至るまですべて作られていると思った方がよい。

事実 → 虚構化(ねつ造、脚色、歪曲、取捨etc)したもの → 「事実化」して報道。この過程ですべてが「作り上げられる」。

 この作業は、上記のマスコミ報道だけに限らない、出版物に関しても同様である。たとえば、歴史的事実と言われてきたものについて一連の「OO事件はなかった」、「OOはこうして作られた」また「OOの正体」シリーズ、センセーショナルで、ジャーナリスチックな題で耳目を集め、ただ単に出版部数を上げるためにだけ書かれたとしか思えないような空疎な内容の本は腐るほどある。共通しているのは、根拠となるべきものの検証と考察が皮相的であるということ,それにも況して彼らが何としても持って行きたい方向に読者を向けさせるための事実の改ざん、ねつ造などが挙げられる。人が見ていない、聞いていないものについては言ったもの勝ちである。何とでも言えるのである。これではデマゴーグ(民衆煽動者)である。学術的なもの、歴史に関する考古学的なものならその内嘘はばれるが、近代、現代のそれも多くは「人間事象」に関したことである。そのような快刀乱麻では解決できないものをいとも容易く切って見せる、それは視野狭窄か、知的パラダイムが小さいかのどちらかであろう。もしそれをするなら、少なくともいくつかの視点から、さらにはどの時点からの「俯瞰」なのか、歴史の中に自らもいてどの「位置」での、どの「角度」からの「定点観測」なのか、「観測」するにあったってどのような方程式(世界観)で望んでいるのか、そもそも留まることがない歴史の中にあって「定点観測」がどこまで可能なのか、最低この位のことは論述の前提条件としてクリアーされていなければ、読む価値はない。そうでなければ、それは単なるゴシップ記事に毛が生えた程度のものと言わざるを得ない。大衆受けするスキャンダラスな内容で引き付け、漫画的に分かりやすく自分の思うところに持て行こうとする意図が見え透いている。どこに持って行きたいのか、その場所も明白である。「大衆」の「こころ」をつかまえること=金である以上、彼らが必死になるのも当然である。基本的に彼らは金になりそうな題材であれば(これについてだけはえらく敏感である)「右」も「左」も関係ないのである。しかし金があるのは大方「右」である。だからどうしても「右」に尻尾をふる内容となる。しかし。さすがにまだ「ヒットラーは存在しなかった」という本は出版されていない。しかし、滑稽ではあるが、彼らの「論法」ならそれもまた容易であろう。もう、いっそのこと「わが友、ヒットラー」という本でも出した方が自他共にはっきりするのではないか。もっとも三島由紀夫の戯曲ほどの出来栄えは期待できないだろうが。

 それにしても小手先芸というか、巧妙さというか(上記の「事実化」する行為も含め)それが「大人」だと思っている人々だけが集って「大人一般」を「大人」してそこに何が生まれてくるというのか。何も生まれては来ない。縮小再生産の果ての論理的帰結を見るだけである。                                        

                                     etc

※ 我々には、どうしてもこの「事実化」されたものに対する吟味が必要になってくる。一番危険なのはそれに感情的にすぐに反応することである。それでは扇動者の罠にまんまとはまることになる。 

 今やるべき問題は山積しているにも関わらず国民の眼を「小沢問題」を含めた権力闘争に絡め取りながら、反民主キャンペーンを行っているマスメディア、とその残党。そして、それをけん引する検察。「健全野党を目指す」聞いてあきれる。この国では二大政党路線は土台無理な話なのである。足は引っ張る、手は引っ張る、泥をかける、それも大合唱付きである。オイオイ、政策論議はどうなっているんだ。政治屋か政治家の違いで、どちらにしても聖人君主ではないのは確かなことでやるべきことをきちんとやってくれればいいのである。記載漏れだ、通帳がどうのと、多くの者はもううんざりなのである。限界に来ていると言ってもいい。この国の国政はどうなっているのかと言いたくなる。その揚句に、「なかなか進みませんね」、もう空いた口が塞がらない。これではたとえ非民主であっても民主党に同情したくなる。ハッキリ言うと、マスコミも検察も完全に国民の意識からズレている。検察もこれ以上いつまでも引っ張っていると、検察の存在意義を改めて問われることになるだろう。もう充分気持ち悪いほど国民にその存在を見せつけている。

 

 それにしても、毎度テレビでお馴染みの検察の鞄をもった黒服集団のゾロゾロ、今回ほど気持ちが悪いと思ったことはない。

        

                                                                                                                                2010  1/20


10.「宇宙における最低の知的生命体」 


 「人間」、およそ実体的な捉え方ではないこの漢語の成り立ちは意義深いが、私はこの言葉が好きになれない。だからできるだけ遣わないようにしている。それは、手垢と付着物が多すぎて、またそれによって逆に実際は手垢と付着物だけであるにもかかわらず、「形」があたかも実体的に「ある」ような錯覚を起こさせるからである。

 私の頭の中には「人間」などというコンセプトはないと言ってもよい。「ジンカン」、「ヒト」、「霊長目ヒト科」、「宇宙における最低の知的生命体」などの概念が辛うじて私の中で一瞬「人間」の像を結ばせるだけである。J・K・ローリングに倣って「マグル」なども悪くないと思っているが、今のところ「宇宙における最低の知的生命体」というコンセプトが「人間」に代わる言葉として一番落ち着く。

 

 

                                                                                                           


9. ポストは空洞のままがいい


 ポストの中に新聞が強引に押し込まれ、配達人が去ると、そのポストから大量の新聞が一挙に吐き出された。

 読みもなしないのに新聞取っているんですよ。できれば私が白骨化した頃合いに誰かが気づいてくれるんじゃないかと思いましてね。とその老人は言った。確か、手には杖を持っていた。

 公園のベンチに座って、老人は私の方はほとんど見ず、陽射しに眼を細めながら、時折独り言のようにしゃべり続けていた。その内に私もその老人と同じような恰好で話していた。「失礼ですが、おいくつですか」、「お近くですか」と突然、言葉だけが私に向かってくる。

 ・・・そうですね、1人暮らしを余儀なくされたらですか・・・実は私、今、棺桶をベッドにしているんです。時々、いや、ほとんど毎日ですね、このまま死んでもいいと思います。特に誰かに早く発見されたいなんて思いません。ポストは空洞のままがいいです。自分の最後の通知が新聞のあふれ出たポストなんて・・・何か・・・あっ、ごめんなさい・・・・・・

 太陽の目くらましが解けると、そこにもう老人はいなかった。

  私は老人を1人殺してしまったような気がした。もし、そうなら太陽のせいにしよう。

 

 


8. 「やまと心の病患」


「美しい日本」、「日本のこころ」、「やまと心」などと言うのであれば、少なくとも本居宣長以降の国学の主流とされている平田篤胤による短絡する方向での継承について検証してみる必要があろう。それは、「この上なく細やかな思いやりと、「ひたぶる」な非倫理性あるいは狂信とが、論理的屈折を経ることなく、盾の両面のように共存するという、多くの人によって繰り返し指摘された今日なおわたしたちをとらえてはなさぬ「やまと心」の病患」(坂部恵)の検証でもある。

 坂部恵氏の指摘のように、それは平田篤胤と同時期の国学者 冨士谷御杖の視座に立ち戻って検証すべき問題なのである。御杖のその透徹した思考展開が現代西欧思潮にも通低しうるのは、御杖の「人間の生死の場をひろく見渡すひろがりと深さをもっていたためにほかならないとおもわれれる。」(坂部恵)からである。それはある意味では、御杖の思考展開が世界レベルの「哲理」に匹敵するものを持っていることでもある。「主流」といわれる平田篤胤の思考展開ではそれは不可能なのである。

 この点に至ると、すべてのジャンルにおいて歴史的に「主流」といわれているものに果たしてどれほどの意味があるのかという疑問点が数多く出てくる。

 「日本のこころ」と言う表現で、言う方も言われる方も何か分かったような心情に陥るが、実はどれ程分かっているのか、自問自答してみればすぐにわかること、そこには同一レベルの共通項さえ明確には見出し得ないだろう。

 


7. ーアルチュール・ランボーの母音の色ー


  ランボーは母音を色付けし、さらに子音に形と動きまで与えている。それについてはランボー自身さして深い考えもなかったようだと言われているが、その後、様々な解釈もされ、研究、分析もされている。たとえば、「色彩のついた聴覚理論」、色彩と音響の科学学説に依拠したもの、ボードレールとの比較、さらには秘教的解釈、性交時の女体の描写とする説まであるようだ。

 しかし、それらの諸説とはまったく関係なく、私はこの「ランボーの母音の色」と「戯れる」方法を見つけた。実に面白い。それは私にとって時を忘れる作業の一つとなった。

 

 


6.「対象化する」ということ


 「対象化する」という言葉は、「自分を対象化する」とか「「時代を対象化する」などと何気なく遣われる言葉でもある。

 そこには、<あるものを認識するために、一定の意味を持った対象としてはっきり措定する。または自己の主観内にあるものを客観的対象へと具体化し、そとにあるものとして取り扱う>ということが可能であることが前提としてある。それは、まず対象として扱うものが「個」(人間)であれ、「全体」(時代)であれ、それがどのようなものとしてあるのかを明快に絞り込み、把握する作業となる。しかし、<「個」(人間)は、それを対象化しようとするあらゆる試みに逆らうもの、対象として見れば「無」以外の何ものでもないもの>と言う解釈からすれば、<「人間」は、そこにおいて「無」あるいは「空」>である以上「一定の意味を持った対象としてはっきり措定する」ことは不可能なことになる。すなわち「対象化」はできないことになる。それでも対象化しようとすれば、「ズレ」が生じ、それは「嘘」となる。たとえば、寺山修司が「私の少年時代は私の嘘だった。1度対象化されると厚化粧され見世物となる。」と言う時、それは彼の実感であり当然のことであろう。「空」そのものを「対象化」しようとするときに起きる帰結である。

 そこででき得ることは、「自覚化」ということではないかと思っている。この場合の「自覚化」には「対象化」のような認識主体と対象との距離がない。「自己を知る」ということの限りない連鎖の中で「覚醒された自己」にもたらされる対象に向けられた「収斂作用」とも言うべきものである。

 

※「空」とは一般的には「固定的実体のないこと、実体性をかいていることを意味するが、原語のサンスクリット sunnyaは世界史上最初に発見されたゼロを表し、またさらに「裸の」「ありのまま」などの意味もあることを付け加えて置く。

 


5.「をりにふれば何かはあわれならざらん」その壱


○ 「感謝されなくても結構、あなたの生命力が好き」

この獣医の呟きは、私が飼っていた今はもういないすべての愛犬と愛猫の表情を甦らせた。

 

○どうしてそんな言葉遣いをするのですか? そこの美しいお嬢さん

 あなたの発する言葉に引かれて、心も起こり、いつしかその汚い言葉があなたの心を占め、悪魔のようにあなたを引きまわすことも知らずに・・・お嬢さん、言葉は恐ろしいのですよ。

                             

○わずか1グラムにも満たないミリグラム単位の「白い粉」に振り回され、「自由、自由」と叫んでいる割には完全に自由を奪われ、「白い粉」の言いなりとは、何とも情けない、見るも無残な話である。

 <自由をつかいこなせない真面目と怠惰は管理されたユートピアを求めるが(この場合は「白い粉」による管理である)自由を好む「好色」とは、他者(男女)を裏の裏まで理解し、愛しつくすことに喜びを発見する。>のである。要するに何もかもが、薬のようなものに頼るしかない薄っぺらさなのである。そこでは「エロス」が深化されることもなく、当然それに伴う精神的展開もありえない。表面ばかりはデジタル風で内情は退化してくアナログである。

                                                     

 

 


4.日本の「プロデュース公演」(演劇)の限界点


 「新劇」のうまくできあがったものだけを見せる、実験的なことをしない自己完結的な作家中心の芝居作りそのものに面白さを見出せず、私はいつかそこから遠のいていた。(もちろんそれだけではなく様々な問題点を指摘できるが今は避ける。)私は学生時代から芝居に取りつかれていた「演劇青年」でもなく、学園紛争全盛期の行動することを余儀なくされた「文学青年」に近い。そして、その後は個的な「書く」だけの作業から「共有する場」の中での創造作業ができないものかと「演劇」の世界に足を踏み入れたと言った方が実情に近い。しかし、実際は思い描いているものから遠ざかるばかりで、フリーとなってプロデュース公演に関わることになっても、いくつかは成功したにしてもやはり共有する場において「理念的連帯」ができず、その場限りの「技術を提供し合う」関係以上のものは成り立ち得なかったということが数多くあった。

 最近の演劇のプロデュース公演を観ていると、「劇団公演」でも出演者は様々な劇団、事務所の所属者で構成されている場合が多い。観方を変えれば、「他流試合で腕を磨く」、「様々な出会いの中での広がり」、「新しい空気を吸う、入れる」などという美辞麗句で括れなくもないが、そこには大きな陥穽(落とし穴)がある。それは共有する場での「理念的連帯」がなされないまま、ただ、時間の取れるときだけ集まって、今までに身に付けた各自の「技」(出演者、スタッフ含め)をぶつけ合うだけの関係しか成立しないということである。それではとうてい納得のいく舞台は実現し得ない。

 今後は、舞台芸術(演劇)をまず以上のようなことを踏まえた創造の「場」として成り立たせることについて、またそれに伴う一切に対して私自身は妥協をしないつもりである。もし、それができないというのであれば創造の「場」に真に必要なものが成り立ち得ないにも拘らず、私利私欲、アリバイ工作、存在証明などのためにだけ、または組織運営上の問題でやむなくいくつかの舞台を「コナシテ」いるに過ぎないということになる。それが日本の演劇事情の1面かもしれぬが、そこでは「奇跡」なども起こりようがなく、納得できる舞台など望むべくもない。このような事態の継続、引き延ばしは仮にそれによって「生き延びられたにしても」愚かしく、無意味。近未来的には「罪悪」にもなり兼ねない。

 

 ○ 因みに、私が関わった舞踊公演に関してはすでに30年前から、舞踊家、主なスタッフなどとは「共有する場」での「理念的連帯」は常に更新されながら完全に創り上げられてきている。

 

                             2010年 1月


2010年 謹賀新年


  


3. ー高円寺純情商店街殺人事件ー


 高円寺に殺人事件はあったが、このような名称の殺人事件はない。

これは、とある信用金庫で順番を待っていた時に目にした本箱にある百冊余りの本がほとんど殺人事件を扱った推理小説であったので一つの例として出しただけである。「○○殺人事件」殺人事件の前の固有名詞を変えればいくらでも出来上がる「殺人事件」の大量生産である。私はこの類の本は読まないので改めてその量に驚かされた。「歌舞伎町殺人事件」、「幸町殺人事件」、「吉祥寺殺人事件」、「下北沢殺人事件」、「雲取山殺人事件」etc.そこだけ見ているとどこかの警察署内にいるような気になってくる。これは区の図書館が管理して貸し出しをしている本らしい。その詳しい経緯は知らぬが、どのような意図があるのかとも思う、おそらく、信用金庫側のお客へのサービスと図書館側の読まれなくなった図書の最期の再利用が一致した程度の問題であろう。しかし、このような場所ですぐ眼に入って来る文字が「殺人事件」ばかり、金計算に明け暮れて今の状況が見えていないとしか思えない。果たしてこのような泡沫流行作家の本ばかり並べていることがほんとうにお客のサービスになるのかどうか検討すべきである。いくらでもすばらしい本はある。ちょっと紙幣を勘定する手を休めて、考えてみてはどうか。

 

 「活字離れで、出版業界不況」こんなタイトルが思い出された。何を言っているのかと思う。そうではなく出版業界の無能さが「活字離れを」を起こしているとも言えるのである。たとえば垂れ流しのように「殺人事件」を量産しておいて、そのようなツケが返ってきているだけとも言えなくもない事態に、ただ不況のせいにする。芥川賞を取れなかった村上春樹は今や世界的著名作家であり、彼の本は世界的に読まれている。何年か前、俵万智は「サラダ記念日」を出版社に断られ自費出版し、それがベストセラーにもなっている。 まだまだあるが、とどめは、文学を堕落させたのは岩波文庫であると言った川端康成であろう。「活字離れ」を起こさせたのは出版社全体の責任でもある。少しはわが事として反省すべきである。

 

 新聞、週刊誌に至ってはもう2-3%程度しか読むところがない、これは「活字離れ」ではない。内容があまりに貧相で、アンテナが曲がって錆びついているから読まないということに過ぎない。2-3%しか読むところがないものに誰が金を出して買うかということである。だから、私は買わない、取らない、立ち読み程度で十分である。資源の無駄遣い、環境問題も視野に入れて発行部数を大幅に削減したらどうかと思う。不況だ、「活字離れだ」と騒ぐ前に、「わが社は資源、環境問題を考え、さらに内容を充実させるためにも、発行部数を25%削減します。」などと気のきいたことを言うところはないものか。私は、目先の事ばかりに追われる現実主義者には興味がないというより、そんな人間ばかりでは世の中変わりようがないのである。そして、そのような現実主義者は自らの行為が引き起こした結果については、その責任を回避するのが常であると言うこともここで付け加えておく必要があろう。

 

                               2009年 12月


2.「庶民的人間」?意味不明、「市民団体」?意味不明、そして、数字のマジックショー


  「庶民的人間」というと大方の人間は漠然と、気取らず、親しみやすい人間をイメージするだろう。それなら「親しみやすい人」と言えばいいのであるが「庶民的」となるとはっきりしなくなる。それは理想化された「裕福ではない人々」の意味合いが強くなるからであろう。私には「庶民」にも、「裕福な人々」にも同様に質の違いはあるにせよ、それぞれに独特の「病巣」が見える。だから、「庶民的人間」と言ってもどこがいいのか分からないのである。

 一般に「庶民」と言われている人々の動向を最近の情勢に合わせて言えば、彼らは何事に置いても「結果」にばかり心を奪われ、その「原因」にまでさかのぼることはしないという傾向があり、さらに、自分にとって都合の悪いことが起きると必ず身近な者のせいにして責める。これは単なる一例にしか過ぎない。

 

 それから、「市民団体」、この言葉をマスコミはよく遣うがその実態はまったくつかめない。どこが主催していて何を目的に具体的にどのような活動をしているのか、どのような人達で構成されているのかも不明な団体が多い。要注意である。言い換えれば、得体の知れない「市民団体」も数多く存在するということである。したがって、その実態を告げられない、あるいは告げることが憚られる場合にはすべて「市民団体」で括ってしまう傾向があるということである。

 

 ナンバーマジックショー、「○○率」○○%etc.調査方法がほとんど明記されていない。朝日新聞あたりが辛うじて「電話で」とある。どのように選び出した人間かも分からず、ただ電話で1000程度の人々から聞き出したことである。「本社調査」などは社員とその関係者だけという可能性もある。人口1億、中国なら10億である。1000人程度から聞き出した数値で小数点以下までこだわる神経、一体この数値そのものにどんな意味があるのか?ナンバーマジックショーである。

 

                            2009年 11月


1. 改めて「一億総ヒョウロン家」


 これは、「ほんとうの」評論家には失礼な言葉であろうが、実際のところは周囲を、または批評対象を気にした「挨拶批評」の域を出ない批評を書く評論家が多いのも事実である。そうでないと「食えない」からである。しかし、本来、評論家とはその言っている内容が真実に近ければ近いほど孤立を余儀なくされる存在でもある。すだく虫の声ではあるまいし、「一億総ヒョウロン家」などとは笑止。その責任のなさも含めてせいぜい「一億総高みの見物客」と言った方がその実態に近いだろう。

 身近なところでは、「評論風ブログ」などが挙げられるが、中には自分で見たもの、読んだものについて点数まで付けているものもある。「ご立派」と言うしかないが、一方ではかわいそうな人々だと思う。なぜなら、批評家としての眼と、観客、読者としての眼、言い換えると批評することと、楽しむ、感動することとは相容れないものだからである。「評論風ブログ」を書くこと自体が楽しみであるなら(どれもそうとしか思えないブログである。)作品自体を直に楽しむことは不可能である。もし、楽しみはあるというのであれば、それは評論家としての厳しい客観性がないと言わざるを得ない。

 昔、笑いながら怒るということをやって見せていた「奇優」がいたが、それは実現不可能なことをやっているのである。笑った表情を固定して置いて、実は怒っているだけなのである。それと同様に相反するものを「同時」に1人の中で実現させることはできない。「批評すること自体」が「楽しみ」(どのような経緯でそうなったか知る由もないし、興味もないが)になっている人には意識するしないに関わらず作品に対する主観的領域にある楽しみ、感動は失われていく。したがって、もし批評しながら、同時に楽しめたというようなことを言っていたとするなら、それはあり得ない、不可能なことをやっているので、どちらかが嘘か両方とも嘘であるということになる。

 

                                2009年 11月


 

「ある日、その時」 (1) 2009年5月ー

 


掲載内容


 14.「温故知新」とは 13.素朴な真剣さ 12.マスコミ報道の嘘 11.世の評価とは   10.パリで(4)9.パリで(3)8.「人間」とは思えない? 7.評論家K氏と 6.大和大路にて 5.パリで(2) 4.パリで(1) 3.上演時間9時間で驚く日本公演とは  2.テレビの観方90%ノイズ 1.「機を見るに敏」とは

                                               <転載・複製厳禁>

 


14.「温故知新」とは


 「温故知新」(フルキヲタズネ、アタラシキヲシル)とは、「昔のことを調べて、そこから新しい知識や見解を得ること。」とある。しかし、それは実際にどこまで可能なことなのか。

 これまたテレビの「識者」であるが、ある現代の状況が歴史上のある時期に酷似しているので、今後はこのようになるのではないかと預言者めいたことを言っていたが、そもそも「人間」ごときが未来を預言者気取りで予見するなどは傲慢で、不可能なことであることをまず思い知らなくてはいけない。

 「歴史とは、おそらくわれわれに予見する力を与えることはほとんどないが、精神の独立と結びついたとき、よりよく物事を見る一つの助けとはなりうる。」ということで、「アタラシキヲシル」とは未来を予見しうるかどうかということよりも、われわれにとって可能であることは、それが現在の状況を「見る」上で一つの新たな手掛かりになり得るということでしかないのである。それも「見る側」に「精神の独立」が実現されているという条件付きである。

 世界をどのように捉えようが、とんでもない愚者でない限り、われわれは未来に対して常に処女のごとく「後ずさりしながら」進むしかないのである。もし、そうではないと言うものがいたら、それは愚かな「人間」の根拠のない傲慢さでしかない。

 ただし、処女のごとく歩み続ける中での「直観」というものは正当にあり得るだろう。しかし、それも「精神の独立」と結びついている時だけである。

 

 


13・ー素朴な真剣さにほっとするー


 ある日の午後、知人のピアノ発表会に寄ってみた。無料で演奏中以外は出入り自由であった。その演奏会はなぜか私に原初的な新鮮さを感じさせた。最近の量産される内容のない、これ見よがしのこけおどしの舞台に食傷気味になっていたせいかもしれない。

 それは、パリで歩き疲れてとある教会の椅子に腰をおろしてぼーっとしていた時の感覚に近い。俗的な気配のない、言い換えれば音楽の神に仕える謙虚な人々の集いであるとも言える。それが心地よいのであろう。そこには何か「明日」を感じさせるものさえあったように思う。

 それに反して、「食う」ために「だけ」やっている「芸人」(アーティスト)達には「明日」を感じさせることはない。彼らは意識するとしないにかかわらず文字通り「俺たちに明日はない」という姿勢でしかやらざるを得ない人々なのである。もはや縮小再生産の繰り返しと切り売り以外に残された道はない。そして、「奇声」を発しながら消え行く宿命の者達である。「無意識」と「未知なるもの」から発せられるピュアで神聖な苦悩、葛藤を持ったぬ、大したこともない「技」に慢心した者達の姿などはもう見たくはないということである。

 

 

                               2009年11月 


12.マスコミ報道の嘘


事実を事実としてきちんと伝えるのが報道の使命であるにもかかわらず、それがなされていない。やっていることは「事実」と「事実らしきもの」との間に各マスコミ報道関係の「依拠するもの」(この場合、残念ながら「依拠するもの」とは国民ではない。)の「ご意見」をうかがいながら、耳目を集める方向で「脚色」された「事実」をはめ込んでいるだけのこと。伝えるべき「事実」はもっとあるはずであるが「憶測」「推量」でねつ造した「事実」のような嘘を垂れ流すことが多いということ明確に押さえた上でその「報道」を見て行かないと、「彼ら」の巧妙なマインドコントロールに乗せられてしまう。「彼ら」のやっていることは、程度の違いがあるだけで本質的には戦時中の軍部の「大本営発表」と何ら変わるところはない。

 

※視聴率、支持率、平均値etcで.提示されるパーセンテージは数字のマジックを警戒しなくてはならない。調査の具体的方法も明示されていないものは論外。

 

                                                                                                                                                      2009/11


11.世の評価は、ことに言い伝えによって作り上げられものだ。


 何年か前、大手民間企業の企画部長と話す機会があった時に、たまたま話の流れで助成金を得るために出される企画書の話になった。そこで彼が言うには、その企画書を出したすべての人が言うことは、自分は日本で一番、ナンバーワンであるということらしい。かなりの量の企画書が出されるらしいが、一体どれくらい日本で一番、トップ、と言われる人達がいるのかと思う。まあ、自己宣伝であるから基本的には「自称」で臆面のなさも必要であろうが、私のチェックできる範囲の領域で言うと、この人がどうして何を根拠にこんな自己宣伝ができるのかと思うようなものもある。そこに営利事務所がからめばいつのまにか世界的「巨匠」である。

 因みに、毎年国が行う「芸術祭」については、これは「芸」を持った人々が集う文字通り「お祭り」と言った方が正確であろう。芸術祭受賞者には「バナナのたたき売り」、「猿回し」などの人達も含まれていることなどからもそのような表現がその実態に一番近い。そうかと思えば「もっとも権威ある賞を受賞」などと芸歴に書いてあるのを見ると売り込みたい一心であることは分かるが、アーティストがお国の「権威」にすがっていてどうするのかと思ってしまう。

 しかし、余程「ショー」が好きと見える。文学賞、演劇賞etc。今や場末の「ショー」並みの質と量である。その内に質屋、リサイクルショップに「ジョウブツ」した人々の賞状と盾と勲章が山積みされることだろう。そんなもの誰が買うのか? 100年後を見越した古物商?

 

「世の評判は、ことに言い伝えによって作り上げられるものだ。人間の世界におけるごとくに、動物の世界においても、作り話が実話を越えてしまうことがある。」 ファーブル「昆虫記」より

 

 

 


 10.ーパリでー(4)オルセー美術館の四時間は


 美術館を出てきたら4時間半以上も経っていた。急に疲れを感じたが、心地よい。本物の引きつける力とはこのようなものである。久しぶりの「時間」を味わった。私は子供の時から、身近に絵描きがいたのでターペンタインの香りが体内にある。絵は学生時代まで描いていたが、その後描かなくなってしまったというより封印してしまったと言った方がよいだろう。描きだすと歯止めが効かないのである。描き始めたらおそらく今の生活は根底から覆るだろう。しかし、今も描きたと思う気持ちはある。

 パリの風景が焦点を結び始めたのはそれから暫くしてからである。私はとあるカッフェに入った。

 

 

 

 


9.ーパリでー(3)書店にて


 ジャン・ルイ・バローの本を探して、教授と書店に入った。教授がここならあるだろうと思って入った書店であるが、若い?J女店員はジャン・ルイ・バローの名前さえ知らなかったので教授は困ったような驚きの表情で私をみて笑った。その内に店主が出てきて、もう絶版になっていて置いていないという。教授は納得できない様子で独り言ちていたが、地方にある自分の書庫を探してみるという。そして、そこにあったらあなたに送ると言った。

 フランスでもこんなことがあるのかという思いで私は書店を出たが、教授は女店員の反応にえらく不満そうであった。ジャン・ルイ・バローの名前すら知らないということが信じられないという風であった。

 

 

 


8.「人間とは思えない」 それなら一体何なのか?


 「人間とは思えない」、このセリフは犯罪事件などを前にしてテレビなどのコメンテーターなどの決まり文句、枕詞でもある。このような「柄にもない」ことを平然と言える人々はホンネとタテマエをうまく使い分けているようだが実は「ホンネ」など言ったためしがない。「ホンネ」のようにみえる技を心得ているだけである。その内に本人もどちらがホンネかタテマエか分からなくなると強引に「思い込み」作業に入る。

 「人間とは思えない」所業などとは言ってみても、時と場合によっては「人間」は「人間とは思えない所業」をしてしまう「生き物」なのである。そういう認識がない以上、事件はいつも他人事で、「人間ではないものの所業」として片づけられ、葬り去られる。そして、また同じような事件が繰り返される。一見法律で解決されたかのように想うが、法律は何も解決はしないのである。法律には人を殺してはいけないと書かれていない以上、なぜ人を殺してはいけないのか?という問いには答えられない。問題は放置されたままである。「人間の終焉」を告げる者さえいる中で、自ら「人間」と思い込むより先に、「人間」そのものの検証を際限なく試みるより仕方あるまい。

 

 


 7.演劇評論家K氏と


 奈良から戻るとその足で、K氏と会うために中野に向かった。私がぱパリから帰ってきた直後にK氏から電話があり、会うことになったのである。彼は、私が10月中パリにいたことは知らず驚いた様子だったが、今度は実際に彼と会って先ほどまで奈良にいたことを告げても暫くは信じられない様子だった。一緒に観た芝居の話も一段落して、酒を飲み交わしながら話す内容はついフランスの演劇事情になってしまう。時間も迫ってきた頃、K氏は自分が劇評を書いた芝居について話し始めたが、時間切れとなり、続きは次回ということになり、その夜K氏は最終電車で帰って行った。

 

 

                                                                                                                              2009年 11月


 6.ー大和大路 11月ー


 2009年11月、わが親愛なる古代史研究家と10数年ぶりに大和大路に立つことができた。

奈良、京都はこの古代史研究家と以前何回も来たことがあったが、最近は共に忙しくなかなか来られなくなっていたので、私はこの日を楽しみしていた。

 彼女のその豊富な知識、造詣の深さのおかげでどこに行ってもその当時の社会、構図が具体的に立ち現れる、その場所が息づき始める。

 11月のある日、私は1300年前の大和小路にいた。

 その日、天平人の「食」の席に着く。当時のものを再現した器、須恵器、土師器(かわらけ)に盛られた20品目近い食材は基本的に薄味で、藻塩などで自分で調整するものであるが、すべて美味。中でも奈良時代唯一の酪農食品「蘇」は醍醐味である。そして、印象的だったのは「比之」という奇妙な形をした果物、味はどこか栗に似ていた。

※この「天平の食」は、日本料理40年以上の料理人が出土した木簡を参考にして大学教授らと連携して作り上げたものである。

 


5.ーパリでー(2)2009・10 ー地下鉄の落書きー


 ニューヨーク辺りでは地下鉄の車内には所狭しと落書きがあるが、パリのメトロには落書きらしきものはほとんどない。しかし、よく見ると駅と駅の間のトンネルに落書きがある。誰がどうやって危険を冒してまでこんな所まで入り込んで描いたのか、描けるものなのかと思っていたが、考えてみればパリの下水道、地下鉄は映画にも、小説にもしばしば登場している。ある時は、逃亡者の道として、ある時は対独地下抵抗運動の人々の道として。

 メトロを自在に使いこなせればパリの至る所に行くことができる。それと同時に、彼らは迷路のように広がる地下道を熟知していて、パリのどこへでも辿り着くことができるのだろう。

 夜陰に乗じてうごめく姿が一瞬浮かび上がった。それが落書きをしようとしているものなのか、何をしようとしているのか、像を結ばなかった。

 

 


4.ーパリでー(1)2009・10 フランソワ・ラヴォー宅で 


ピエール 僕の芝居どうだった?

HIRAYAMA Tres bien  ”Les couteaux  dans le dos”  C'est l'arbatros qui ne peut pas voler

                    (非常にいい、「背中にナイフ」は飛ぶことができないアルバトロス。

ピエール そう、そう、そう・・・・(子供が欲しいものを手に入れた時のような表情で見つめる)

HIRAYAMA Par exemple, comme L'arbatoros de Baudelaire.

                     (例えば、ボードレールの「アルバトロス」のような・・・)

 

 それを聞いていたフランソワはボードレールの「アルバトロス」の1節を口ずさむ。ピエールはボードレールの「アルバトロス」は知らなかったけれど、飛ぶことができないアルバトロスというのはその通りだという。

 その夜は、12時過ぎまでワインを傾け、私は敢えてメトロを使わず歩いて帰った。ライトアップされたルーブルとチュイルリー公園の間の誰もいなくなった道はどこまで道なのか分からない程広く感じる。ただ前方100メートル程の今にもこちらに疾駆して来そうな金色の馬上のジャンヌ・ダルクの像だけが帰り道の方向を指し示していた。

○ピーエルはピエール・ノット

○フランソワはフランソワ・ラヴォー

※アルバトロスとは信天翁(アホウドリ)のことである。

 


3.≪上演時間9時間で驚く日本公演とは≫

ー「コースト オブ ユートピア」作 トム・ストッパーズ 演出 蜷川幸雄の公演に関連してー


 上演時間6時間、9時間で出演者、スタッフ、観客がこれほど騒ぐのは、日本での公演くらいであろうか。今から14年前、1995年にフランスのアヴィニヨン演劇祭でオリヴィエ・ピィ(劇作家、演出家、俳優、オデオン座芸術監督)が上演時間24時間の自作「常夜灯ー果てしない物語」を7日間連続公演を行っている。また2003年にはクローデルの「繻子の靴」通し上演(11時間)も行っている。こうした海外の演劇事情と日本の演劇事情を考え合わせると、「演劇総体」(観客も含めたもの)のエネルギーの点だけにおいても圧倒的な違いを感じざるを得ない。

 この「コースト オブ ユートピア」の上演に関しては、キャスティングで難航したらしいが、さもありなんである。演出の蜷川幸雄 曰く「日本の俳優の知的水準も落ちたのか、なかなか面白がってくれない、云々」。それは俳優ばかりではない、スタッフ、観客に至るまでそうである。日本の現状は残念ながら知的レベルもさることながら、精神的エネルギーも枯渇している。

 長期公演と言えば、11月に国立劇場でもシェイクスピア作「ヘンリー6世」をやるが、確か1 部2部 3部はばらばらで、通し上演は週末だけである。日本での連続上演は不可能であろう。シェイクスピア作品に関しては英国BBC放送が総力をあげて製作したシェイクスピア全作品にしても、色褪せたシェイクスピアを見せつけられたという思いが強く、映画撮影としても、舞台撮影としても中途半端、際立った俳優もいない。これでは本をった読んでいた方がましである。況や日本のシェイクスピア劇の大方は「学芸会」の域を出ない。唯一今でも脳裏に焼き付いている舞台はピーター・ブルック演出のシェクスピア作品だけである。

                                                                                                                        2009年 6/10 


2.≪テレビの観方ーそれは90%ノイズ、似非(似非)文化の集積所≫


 テレビには観るべきものはほとんどない。味覚、嗅覚、聴覚、視覚においてまったくニセモノに慣らされた者でしか観るに堪えないものが多く、それは拷問といってよいかもしれない。ドラマは言うに及ばず、お笑い芸人の「芸のない」ゲスな面構えとそこから発せられる声には、パチンコ屋に用もないのに何時間も閉じ込められたような感じがして堪えられない。お笑い芸人の互助会ではないかと思われるような番組が常に垂れ流され、これひょとして「植民地政策」の一環ではないかと感じる時がある。お笑いタレントの大量生産はもういい加減にやめて、もう少し芸を身につかせる方向を考えたらどうか。視聴者を完全になめている。この人たちのやっていることは罪悪と言ってもよい。こういう輩と同調しているうちに世界の幕は下ろされるような感じさえする。私はテレビにドラマとお笑い芸人が映し出されるとすぐにテレビを切ることにしている。テレビドラマにしても甘いマスクのお姉さん方、お兄さん方の稚拙な演技のオンパレード、その中に時折、昔取った杵柄勝負の役者がひとりふたり。ニュースにしても、報道の仕方には作為を感じるものばかり。余計な偏向的なコメントとカメラワーク、「街で聞きました」という「クセモノバージョン」(都合のいいものだけを選んでいるという意味)、そう言うこより、きちんと事実を伝えるべきなのである。事実が事実としてきちんと伝わらないニュースはニュースとは言えない。お笑いタレントのような人間がニュース番組をバライティのようにやっているのがあるが、ニュースを面白おかしくやる必要もなく、そんな人間のもっともらしい「ご意見」など聞きたくもないのである。「お前にいちいちそんなこと言われなくてもいい」と言う言葉が語気を強めて出てくる。要するに度を越しているのである。それをやるには相当の力量が必要で、まず見たところそのような人材は皆無。総じてテレビには観るべきものはなく、ほとんど役には立たないが10%の枠内で観るべきものはある。基本的にテレビは似非文化の集積所であるということを肝に銘じて観ていると10%枠内で観るべきものに出会えることもある。テレビに限らずマスメディア一般がその程度のものである。

                                          2009年 5/30         


1. 「機を見るに敏」とは「義」なきことなり


 それは「機に乗ずる者」と言ってもよい。

 ある時、某都の某知事が、何についてだか忘れたが、「僕は潮の流れを読むのは得意なんだが、今回は読めない」と言った。言い換えれば、自分は機に乗ずるのがうまいと言っているのである。それで今までやってきたのである。それは状況次第では、たとえ主張を曲げてもいくらでも方向転換できるということを意味する。それをさらに敷衍すると、平和を愛すると言いながらも、状況次第ではいとも容易く戦争を正当化できるということでもある。もっともこの知事が平和を愛するなどと言ったのを聞いたことはないが。要するに、「義なき者」とは自分の生き方に対する根本原理を持たない、状況次第で、自分の都合で如何様にも変わる嘘つきのことなのである。このような自分だけのことしか考えていない国民不在の政治家はもういらないのである。

 この知事は、確か、以前三島由紀夫(作家)にも対談で「君には義がない」と言われている人物である。北野武(映画監督、ビートたけし)に、最近の一連の行為について「地元の人達に謝れ」と言われた彼の不肖の弟子、九州のどこぞの県の知事も同様である。「義」がないのである。これは飽くまで氷山の一角。

 今回は、「義」がない顔と、「義」のある顔を見比べ検証する良い機会である。「顔が気に入らぬ、40過ぎたら顔に責任がある。」と言ったのは某国の大統領(16代)である。下半身を隠すより顔を隠すべきだと言った作家もいた。要するにその人間の大方は顔に出ているのである。ただその読み取りには修練を要する。そのためにも今回はチャンスである。世紀末はもうすでに終わっている。妖怪が白日の下に晒されれば、ただ薄気味悪いだけになるのも当然。

 

 それから、テレビに出てくる「政治評論家」といわれている人々の顔、政治の裏事情を知っていないと商売にならない、それを知らないと専門家ではないようなしたり顔。そんな裏事情はどうでもいいのである。知ったからと言って何も変わりはしないのである。そんなものは所詮3流週刊誌のネタが関の山。そして新聞社の論説委員、自分が贔屓にしている政治家に守られ、その代弁者になっているとしか思えぬ言動。戦時中の「大本営発表」と本質的に何ら変わるところがない。まったく国民の側にはいないのである。それでもジャーナリストと言えるのかと言いたくなるが。まあ今後、こんな諸々が少しでも変わることを期待するしかあるまい。

 テレビは、出ている人間の人物観察として利用するとよい。彼らは、観ている者にとって「友達」でもなければ、「偉い人」でもないのである。その点を勘違いして彼らの言説を素直に聞いていると間違いを犯す。

 

 

 

                                  ー2009年5月ー

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