両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

52.今、現実、事実は演劇、小説などよりも奇である。

 玉石混淆などとはいうものの、心などというものが石のようなものでも玉のようなものでもない以上、たとえここでいうような玉のような存在があり得たとしても混淆という状態の中ではいつまでも存続することは不可能である。したがって、玉石混淆などということも実質的には有象無象の集まりとさして変わりはなく、そのこと自体から何かが生ずる、すなわち今後の期待し得る展開が見えてくることなどは決してない。

 世の中には有象無象の集まりが多い、というよりほとんどが有象無象の集いであると言ってもよいだろう。例えば、演劇の集団なども言ってみれば「落伍者の群れ」そのものでもあるというのが大方の実態である。それはある意味では褒め過ぎでさえある。実際、彼らの中で演劇が自分にとって止むに止まれぬ必要不可欠なもので、ほんとうに慈しむ対象となっている者がどれだけいるかということになると99%が除外されるだろう。残る1%も有象無象の中で、ほとんどが一瞬のきらめきさえ認知されずに消えて行く場合が多い。

 以前は、有象無象の中に身を置くのも演劇という「不純芸能」の仕方のない「業」と思っていたところもあるが、やはり有象無象はほんとうの有象無象でしかなかった。そこから何らかの「奇」なるものが浮かび上がるのではないかというある種の「幻想」も「幻想」以上のものではなく、今現在では、現実そのもの、事実そのものの方が演劇的営為など以上にいかに世界が「奇」で満ちているかを見せつけてくれることの方が多い。

 

                                                                                                                                                                                          2014 3/8

※このサイトに、たまたま縁あって記録の意味も含めて載せている方々は良質なものを持っていたことを一言付け加えておきます。。

51.きららの空に 告天子

 きららの空に 告天子

 春である。

 

                   2015年 2月某日

50.「過去に目を閉ざす者は、未来に対しても盲目となる」

 これは1月31日になくなったドイツ連邦共和国第6代大統領・リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーのメッセージである。この場合の「過去」とは忌まわしいナチス・ドイツのヒットラーの12年間である。知性と感性を併せ持ったこのレベルの政治家は日本では皆無に等しい。絶対に肯定すべきではない過去ですら,隙あらばいかに粉飾、糊塗するかだけを考えているような過去に囚われた亡霊としかいいようのない者たちに現在に対する明解な状況分析などできるはずもなく、況や未来図など描きようもないのである。たとえ描き得たとしても反転させれば地獄絵図である。死すべき亡霊たちの、目先の利に飢えた亡者の「夢」に踊らされればどうなるか、多くを語る必要もあるまい。                                                

                                                                                                                                                                         2015 2/1

49.終結の見えない戦に敢えて入り込んで

 「君子危うきに近寄らず」が普遍的正当性を持つものであるなら、終結の見えない戦の渦中にわざわざ入り込み、「正義」の騎手気取りで負を背負い込むなどは愚の骨頂、軽佻の極みで、君子どころか「同じて和すことのない」単なる小人であろう。このような人物が陣頭指揮に立つところは悲惨である。地球儀を弄ぶだけの世界情勢の分析の甘さもさることながら「人道支援」などという詭弁が通用するのは国内だけである。何はともあれもはや引き返すことはできないということだけは確かなことである。それが歴史の絶対一回性というものである。それにしても直接に関係した者たちとその周辺の状況把握の甘さには驚かされる。やはり状況が見えていないというより状況を見ることさえできないのであろう。

  廊下の奥に立っていた戦争はこちらに向かって歩き始めている。

                                                                                                                            2015 1/23頃

48.「良いお年」 くぐもりけりな 年の暮

 年の瀬の極普通の挨拶にしてもこれ程まで「良いお年を」が言い難いことはなかったように思う。「良いお年を」と言おうとすると口、唇で何か分解、溶解していくような感覚に襲われるのである。たとえ言い得たとしても発せられた同時に瞬時に言葉が凍てつき砕け散る。しかし、そんな風に感じるのはどうも私だけではなかったようだ。路上で携帯電話で話す若者も同様であった。「・・・年賀状でハッピーニューイヤでもねーし、今日だって誰も『いい年を』なんて言わねーしーな・・・」。そうなのである。この時期には街のあちこちから聞こえた「良いお年を」は確実に消えている。余程オメデタイか、特殊な人間以外は、実のところ誰も「良い年」などにはなりようがないと思っているのである。いくらお先棒をかつぐだけのメディアが煽り立てても認知症予備軍など以外はすでに来る年の悪しき兆しを感覚的に察知しているのである。

 「良いお年を」が口ごもるからといって、人里離れて住んでいるわけでもないので他人と会えば挨拶をしないわけにもいかない。今度言い淀んだら仕方がない「メー」と言うしかあるまい。そして、狼たちの執拗な攻撃を少しでも避けられるよう祈るだけである。

 

                                                                                                                                                             2014 年の暮れ

47.Je suis totalement étranger à Face book.

私はFace bookとはまったく関係ありません。I have nothing to do with Face book.

その理由については以前にも取り上げたことなので今更言うこともないでしょう。

 

※現在このウェブサイトには400字原稿用紙で千数百枚程度、本にして4,5冊分の量が入っています。今後も増え続けると思いますが、全体的に従来の「ブログ」という「コンセプト」では捉え切れないでしょう。一つには,単なる「情報」、「意見」の公開、交換の「場」などとしては考えていないからです。 

                                    2014 12/10

46.「今は映画を撮っている時じゃない」

 これは11月28日に亡くなった俳優・菅原文太の3・11以後の2012年の俳優引退宣言の際のメッセージである。菅原文太については以前から骨のある日本では稀な俳優であると思っていたが、最近の言動からもそれは窺い知ることができた。私も2011年3月11日東北大震災以後、改めて根本から捉え直さざるを得ない状況になったのでそれまで呼吸するように何とか継続していた、時には「呼吸困難」にもなりかかった自己確認、状況確認も含めた活動のすべてをペンディングもしくは停止することにした。それについては以前このサイトでも取り上げたので詳細についてはここでは避ける。

 「今は映画を撮っている時じゃない」というのは、当然敷衍されてしかるべきことで、何も「映画」に限ったことではない。古い表現を借用すれば、現に「打ち震えている」人間たちを前にして「映画」、「演劇」、「文学」、「音楽」がどれほどの意味があるのかということでもある。それを見据えてどこまで何ができるのかということになるが、それは「どんなことをしても」自己満足の領域を出るものではあるまい。そして、それは「自己満足の質」そのものに当の本人の自己確認がどこまでできるのか、また、その作業に終始することにさらに「意味」を見い出せるのかということになるが、日本の現状の中では稀なケースを除いて、もはや継続続行自体が総じて「守銭奴」、「ヤマ師」の群れに与していることの自己証明でしかなくなっている。

 

 菅原文太しかり、吉永小百合の明確な社会的発言などにおいても同様であるが、このようなしっかりと自分の世界観をもった俳優諸氏が諸外国に比べて日本は極めて少ない。そして、なぜかその小賢しさばかりが目につく者が多いのである。それがやはり役作りにも影響していて本当のところ説得力に欠ける、すなわちすべてにおいて「迫力」に欠けるということになる。俳優修業などという小手先の作業よりもっと根本的な世界観から叩き直した方がいいのではないかとも思われる。やはりそれも「民度」の差の現れなのである。

 菅原文太のメッセージはしかと受け止めた。というよりはその方向性をいくらかでも分かち合える者がまた一人逝ったという気持ちの方が強い。昔、若くして自死した飲んだくれの「物書き」がカウンターに半ば崩れながら「菅原文太いいねー、ほんまものの男やねー」と絞り出すように言ったのを思い出した。

                                                                                                                                                                2014年12/3・・・12/7

45.日本の映画界も演劇界も最低である。

 今更言うまでのことではないが、こんな調子ではいつまで経っても同様であろう。すなわち、「本物」は育ちようがなく、すべてがキッチュであるということである。「〇〇受賞」の俳優、作品を観てみれば一目瞭然、諸外国と比較するまでもなく俳優の演技力、作品の切り口、監督、演出のスタンスなどの点でも見劣りするというより比較の対象にもならない。そのような状況に際し、それではどうすべきかなどという「対案」などで処理できるほど傷口は浅くない。もはやすべてが解体するより手立てはないのである。現状の構造のままの継続には更新すらあり得ず、シュリンクする負のスパイラルが待ち受けているだけである。もはや継続自体が何かをもたらすだろうなどというあまい考えは捨てた方がいい。身過ぎ世過ぎで関わらざるを得なかった者たちも人生に目的を求めるのなら死すべき時であろう。それは「人生の目的は生きることではなく、死ぬことだ。」という意味においてである。念のために説明しておくと、これは自らの生命を惜しげもなく「思うところ」に託すという意味で、自らの生命を全開させて事に当たるというかなりポジティブなスタンスでもある。

 さらに説明、補足を加えれば、「日本の映画界も演劇界も最低である。」というのは、単なる「引かれ者の小唄」などの類で切り捨てられるようなものではなく、現状はそのことを全面的に引き受けるしか先がないと言っているだけで、それについての妙な自己正当化の類はすべてマイナス方向にしか機能しないことを再確認した方がいいという意味である。

                                                                                                                                          2014 10/25  11月某日補足

 

44.ネック・チャンドへのオマージュ

 インドの「ロックガーデン」を創ったネック・チャンドの生き方そのものに「芸術」に携わる者にとって不可欠な創作姿勢の根幹部分の様相を具体的に見せつけられる思いがする。最近では彼の動きの一部始終が連続したフラッシュバックで甦るようになってしまった。その姿は厳しい求道者かとさえ見間違える程であるが、彼はそうではない。彼の穏やかな容貌からはとても計り知れない、どこからそのようなエネルギーが湧き出てくるのかとも思われるが、その淡々とした明快な話し方、受け答えに彼の世界観を垣間見ることができる。彼は思うことを、やるべきことをやっているだけなのである。先送りにすることは一切せず、今やれることを、やるべきことをやっているのである。そこには一分の嘘もない。やるべきことをやる、それはそのまま凡夫ではないという証でもあるが、芸術が、「虚構」がその意味を強烈に放ち得るものとなるのはネック・チャンドのような関わりがなくては成り立たないというのはいつの世も変わることはないということを生々しく具体的に伝えてくれた。

 彼の生き方に敬意を表すると同時に、彼が長い歳月をかけて創り上げた「A Fantasy」に惜しみない拍手を送りたい。

                                                                                                                                                     2014 9/22

43.「現実世界」の奇々怪々

 「現実」というものがほんとうの意味で視野に入ってくると、すなわち現実世界が見えてくると敢えて他人が創りだす「虚構」などほとんど必要としなくなる。この「現実世界」の様相はミステリー、前衛劇などよりもはるかに奇々怪々として異様でもあり、奇異荒唐、奇怪千万でもある。それは「人間の境涯」から「ずれた」、またはすでにそこにはいない者たちの言動で織り成されているからでもある。「箱物」で、あるいは屋外で繰り広げられる「虚構」が原作が本来持っている照射範囲以上で迫ることもなく、むしろすべてがシュリンクする方向でしか見えてこないようなものに費やす時間はもはやない。また、どう観ても「サイコドラマ」以上のものではあり得ないような、それ以上展開不能なものに対しても今ではまったく無縁というより興味の対象外のものとなった。そうかと言って「商業演劇」(日本に特化したコンセプト)などというものも、虚飾に満ちた虚栄以外には成り立ちようがないほどの空疎な「箱物ショー」にはただただ「嘔吐」を催すだけである。

 今後考えられるとすれば、現実をきちんと見据えることができている人々が観客としてその場にいて成り立つような舞台であろうか。金にはなっても大衆に媚びたすなわち大衆蔑視の上に成り立つようなものに先はない。

 

                                                                                                                                                            2014 9/7

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