両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

42.ポワロは「ボケ老人」になったのか

 もちろんアガサ・クリスティのエルキュール・ポワロが「ボケ老人」というわけではない。また主演のデヴィッド・スーシェが「ボケ老人」というわけでもない。日本語版吹き替えの「声優」のことである。何もかもアニメの「ノリ」では困ると以前にも言ったが、またぞろである。主演のデヴィッド・スーシェが研究し尽くしたポワロ像も台無しであろう。日本のテレビドラマは言うに及ばず演劇も敢えて語る程のものがない以上、つい気分転換に観るものといえば海外ドラマとなる。それがまた日本人の台詞回しでどれもが薄っぺらな人物に仕立て上げられてしまっているのであるからたまったものではない。それはもう何をどのように言ってみても根本的に「役作り」ということがわかっていないということである。この程度の者が日本の演劇界の指導者的位置にいるのであるから後は推して知るべしであろう。最近では海外ドラマはとにかく吹き替え版でなければ何でもよいという感じになってしまった。ストリーを追いかけているだけでは実際には人物も何も見えてこない。声の「肌合い」、その微妙なニュアンス、音感そのもの、そのすべてがニセモノに慣らされているのであるから怖ろしい話である。これでは何にでもすぐに騙されるだろうことは容易に想像できる。私は、電話の声と話し方だけでその人物の性格、状況、体型、顔つきまでほぼ特定することができる人物を知っているが、その人は嗅覚も味覚も敏感である。ひとつの感覚の鈍磨は他の感覚にも拡がる。知性もあり感覚も優れているそのような人の感性であれば信用に値するが、ニセモノにどっぷり漬かった者がそのことすら気付かず何かといえば感性などを持ち出しても実のところ何の役にも立たず、指標にもならない。むしろ害になる。

 これは役者などが「片手間」にできる仕事ではない。況や役者でもない者がやるのは無謀。特に主役クラスの一級の俳優の吹き替えなどはとんでもないことで、それはもう罪悪である。

 因みに、先日亡くなったロビン・ウイリアムズも何本か「声の出演」をやっているが、さぞかし英語版吹き替えなどは充実していることであろう。また、観ている方もそのくらいでないと納得できないのだともいえる。これも文化レベルの格差の一例であろう。

※ロビン・ウイリアムズの死は、最近たまたま観ることができた「いまを生きる」という映画の後だったので何とも言い難い痛々しい思いにかられた。私にとってその映画は他人事ではないのである。

 

 追記:R・ウイリアムズの「うつ病から自殺」などの記述、特に「こころの病」に絞ったものにはいっさい興味はない。芸術家などはよく精神病理の対象にされることがあるが、一見現実的なこの作業は(作業の視座をクリエイティブなものに変換すれば別だが)すべての問題点を矮小化させる方向にしか働かない。「現実的な作業」に終始すれば、事もなげに一応「収まり」はつく。しかし、結局「それで?」ということにしかならないのである。「原因不明」の気分障害の一種などはどこにどう生きていても成り得るもので、さらに一つ二つ気分障害を増幅させる「重大事」が重なればすぐに「気分」の制御は効かなくなる。だからといって「笑っている者には起こりません」とばかりに笑い興じている者が「正常」なのかといえばそうではなかろう。本来なら笑えないところで笑っているのであるから、むしろその方が「狂気」である。R・ウイリアムズの自殺はある意味では「正常な反応」とも言える。

                                                                                                                                                                     2014 8/12

41.無始去来ー碧落に百日紅(ひゃくじつこう)ー

 ー無始去来ー

 

碧落に百日紅あり

千年の木陰に坐し、無始去来

見上げれば 柘榴(ざくろ)の実

節くれ立つこと 巌のごとく

幹うねること 糾える縄のごとし

朽木にあらず 老木にあらず

樹間の涼風 柘榴(ざくろ)を揺らす

 

                                         ーM・Hー

            平山 勝

 

※動植物に関して、「百日紅」を「さるすべり」、アルバトロスを「あほうどり」などと命名する類は嫌いである。何か人間の浅ましさばかりが浮き上がってくるのである。誰がつけたか知らぬが対象を卑小化するだけの、想像力を阻害する方向でしか機能しない命名である。

                                                                                                                                                          2014 7/28

40.碧空に遠雷

 

碧空に遠雷

わくら葉に文記し

文鎮に川原石

啼鳥 遠雷 

なお碧空にあり

                            ーM.Hー

                             2014 7/某日

39.Bonne nuit au langage

 Adieu mon ami(さらば、友よ)というのはいつでも現実的にあり得るが、「Adieu au langage」(「言語よ、さらば」)となるとそうはいかない。ゴダールの「言語よ、さらば」という映画はいつか観る日を楽しみにしているが、ワンシーンでゴダールとわかる。それは絵画のタッチで画家がわかるのと同様である。映画の内容はsimple(単純)で、男女の出会い、別れ、再会、さすらう一匹の犬がいつの間にか彼らの間にいる・・・。métaphore(メタファー)をどれだけ読み取れるかでも観る者の味わい方も違ってくるのであろう。「タッチ」と展開、老境に達したとはいえやはりゴダールである。

 Adieu au languageも言葉である。自分自身でも御せもしない観念、言葉でただ泥だらけになっているだけという多くの実情を見ざるを得なくなると、つい「言語よ、さらば」とでも言いたくなるが、私はBonne nuit au langage(言語よ、お休み)とでもしておく。

※Adieuは長時間、あるいは永久的に別れる時に遣われる。Adieu mon amiのadieuはadieu pour toujours(永久の別れ)の意味合いが強い。

 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督作品など他にもいくつか観たい作品はあるがいつになることか。

 ※カンヌ国際映画祭とゴダール

 ゴダールは1965年「気狂いピエロ」を発表した年に「アルファヴィル」でベルリン国際映画祭金熊賞受賞。1967年,商業映画との決別宣言文を発表。1968年5月、五月革命の中、第21回カンヌ国際映画祭に映画監督フランソワ・トリュフォー、クロード・ルルーシュ、ルイ・マルらとともに乗り込み賞の選出を中止に追い込んだという経緯がある。

                                                                                                                         2014 6/5

38.カンヌ映画祭のゴダール

 「言語よ、さらば」(原題)で映画監督ジャン・リュック・ゴダールは今年のカンヌ映画祭で審査委員賞を受賞した。ヌーヴェルヴァーグの騎手も83歳であるが、矍鑠(かくしゃく)としているというより,内に嚇灼(かくしゃく)としたものを秘めているといった感じで、さりげなく醸し出す雰囲気はやはりパリジャンである。そして何より「若い」、さすがである。私は4月20日の「東京人?」というブログでゴダールのことを思い出して書き加えたが、現在もなお現役であるとは思わなかった。「言語よ、さらば」というゴダールの最新作も観てみたいが日本で上演されることはまずないだろう。カンヌ映画祭の海外の受賞作品などは、パルムドール受賞作品でさえ日本で上演されることはほとんどないといっていい。事ほど左様に映画芸術に限らず、日本では世界の胎動する「息吹」を感じ取ること自体が困難なのである。限りなく続く大小様々な「新たな波」の動きを閉ざしているのでは「酸欠状態」のまま矮小化する退行の道しかあるまい。これではやはり日本の文化レベルの低下は免れない。実際、その好例については枚挙に暇がない。

※カンヌ映画祭の日本の映画監督としては、作品(「狂った1頁」、「十字路」、「地獄門」等々)は敢えていうまでもなく、身近に具体的に感じることができる人として衣笠貞之助氏がいる。最期に彼の姿を見たのは銀座のとある劇場で女優・演出家に手を取られながら杖を持って階段を下りてくる姿であった。何の気負いもなく、洒脱な風情であった。とてもあれだけの桁外れのエネルギーで突っ走ってきた監督・俳優とは思えなかった。昨今の事情では彼のスケールを測れるスケールそのものがない。

 

※追記1.

 日本の女流監督の「これが私の最高傑作です。」には恐れ入谷の鬼子母神。映画に限らず自分の作品を自らが最高傑作という「作り手」を今まで知らなかったからである。これでは今後これ以上のものは作り得ないと言っているようなもので、「引退宣言」とも取れる。まだ作品そのものを観ていないのにとやかく言えた義理ではないが、監督のスタンスが透けて見えるようで興ざめであった。監督、演出などはスタンスで成り立っているといっても過言ではないので尚更である。日本では成り立ちようがない(「内容」、「問題性」の深浅、「視点」の明確さが問題となる)このような場で活躍する監督、俳優に期待するものが大きいのでより厳しくはなるが、内容そのものに真摯に向き合うことより賞の獲得、営業戦略ばかりが前面に出てきては多くが引いてしまうのは否めない。大いなる勘違い、残念なことである。カンヌ、ヴェネチア、ベルリン、どの映画祭も世界の鼓動を感じ取る「トニック」には充分なり得るものであるが、常に「誰かに解説してもらたい願望」で終始しているような日本での取り上げ方では「トニック」どころか毒にも薬にもならない。

 

                                                                                                                                                              2014 5/26

37.「日本語吹き替え版」ですべては台無し

 「日本語吹き替え版」の質の悪さについては以前にも取り上げているが、役者でもない者が外国のそれも一級の役者の台詞の吹き替えなどできるわけがないのである。声質が合わないことも然ることながら、多くは何を言っているのか聞き取れないというレベルで、声だけ聴いていると三文芝居、学芸会並みである。これでは映画に出演している役者の演技、作品も台無しで、これはもう映画芸術に対する冒涜といってもよいであろう。「アニメ」レベルの映画以外はすべて原語でやるべきで、字幕スーパーの方がまだ被害が少ない。視聴する者も「日本語吹き替え版」でただ意味内容が伝わればいいなどと思っていると感性自体にとんでもない脱落、欠損領域が生じ,それがすべてに広がっていく。一音,一声、イントネーション、アーティキュレーションのすべてはその俳優の役柄の世界観から湧出してきたものである。だから、怒り方も笑い方も喜び方も違う、もちろん「話し方」も異質な、劣位の別物になってしまうのである。これではますますホンモノもニセモノも区別がつかなくなるのは当然であろう。日本語吹き替えなどは「アニメ」だけにすべきである。

                                                                                                                                             2014 5/25

 因みに、わかり易い最近の例でいえば、アメリカでヒットしたテレビドラマ(ブラックコメディ)「ブレイキングバッド」の主役ブライアン・クランストンは俳優・声優・演出家である。もちろん彼ばかりではないが、それを「層の厚さの違い」などということで片が付くと思っていること自体が安易で怠惰なのである。要するに、それは根本的な手間のかかる肝心なことを常に疎かにしてきた結果の集積でしかないのである。

 

36.手をこまねいている内に

 事に臨んでいつまでも手をこまねいていれば、いざ動かす段には手も足も動かなくなっている。自家の火を対岸の火のごとくにしか感じられなくなっているのも視覚、聴覚が「迷走」させられているともいえる。もはや火の粉が降りかかったときには振り払っただけで事は収まるまい。「火の粉」さえも「粉飾」されていて距離も量も感知され難くなっているのであればなおさらである。もはやすべては他人事では済まされず、やがて自分にも降りかかってくると覚悟したほうがいい。行為に「適切な時機」などというものは「人間」にはあり得ない。もし敢えてそれを言う者がいるとすればそれは詐欺師か無知な者と言わざるをえない。人間のやることは常に「遅す過ぎるか、早過ぎるか」で、「適切な時機」を得るなどとは実は人間の技、力の領域をはるかに超えている。日常レベルでよく遣われる「思い立ったが吉日」などは本来の意図とは別に人間の限界性をうまく言い当てている。有象無象の学者、評論家の「ご神託」まがいの無責任な遠望深慮に巻き込まれていたら何もなさずして、すべては遅過ぎたということにもなりかねない。彼らは語り得ぬことをも平然と語るということを押さえて置く必要がある。為政者などについてはその方向性が問題になるだけで、後はすべてその方向での「効果」と「戦略」に収斂されていくだけである。そもそも政治レベルとはそれ以上でもそれ以下でもない。したがって、政治レベルの対決とは明確な方向性を持ち、「戦略」、「効果」に長けた者だけができるということになる。市民活動レベルの「正義」をそのまま現体制の政治レベルに持ち込んでもいつの間にか矮小化と<中和>工作の繰り返しでやがては消失するのもそうした事情による。

※「有象無象の学者、評論家」ばかりではないことは言わずもがな。「良識」ある識者、評論家のなお一層の活躍を期待している。すでに日本は世界の失笑の的であることさえ通り越している。

                                                    

                                                                                                                                                               2014 5/17

35.パコ・デ・ルシアの死

 パコ・デ・ルシアが滞在先のメキシコで心臓発作のため亡くなったそうである。66歳であった。彼はその奏法、スピード、キレにおいても他の追随を許さないフラメンコギタリストであった。そして、何よりも「今」を生きていた。それは「ノマド」としてのロマ(ヒターノ)が紡ぎ出す「今」で、「タジク」(定住民)の死の影の希薄な「今」ではない。彼のギターを聴いてフラメンコの世界に足を踏み入れた者も多いが、単なる技術ではなく、肝心なものが発する息吹を感じ取ることは至難の業のようである。

 ともあれ、一時代を画したフラメンコギタリスト パコ・デ・ルシアの死にガルシア・ロルカの詩の一節を捧げる。

¡ Oh  guitarra !                        おお、ギターよ!

Corazón malherido       五本の剣で

por cinco espadas       深傷を受けた心

 

                                                                                                                        2014 3/1

34.いつかこのサイトも5年目

 そもそも「両忘」とは、「時間」も「我」も忘れて生きる「瞬間」の「積み重ね」でもある。今更「光陰矢のごとし」などと感慨にふける気もなく、嘆く時間もない。それは決して「心を亡ぼす」ようなルーティン化された忙しさからきているわけではなく、むしろその逆で豊饒でさえある。私にとって、このサイトはどのカテゴリーもいつでも拡大増幅変換可能な「圧縮」された備忘録なのである。今後も爾時の「こと」、「もの」に触れ、感じ取り得るすべてを表現形式は問わず書き記していくつもりである。

 

                                                                                                                                                        2014  2/25

                                                                                                                                                               平山 勝

33.「ローハイド」のウイッシュボンの声ー永井一郎の死ー

 「おっさん、また豆かよ!」という若き日のクリントイースドウッドの声とともにウィッシュボン役の永井一郎の声が響き渡る。「食いたくなけりゃ、食うな!まともに昼飯時に食えるだけましだと思えこの罰当たりが」、実にこの老料理人にぴったりで原語で聞くほどでもない。クリントイーストウッドの声(山田康雄)にも違和感がない。俳優が声の出演をしていると言った方が適切な時代でもあった。今のように俳優とは別に「声優」が切り離されて独立して成り立つような時代でもなかった。だから、特に違和感を感じないですんだのであろう。永井一郎は俳優でもあったが声という領域に自分をより自由に解放できた一人なのである。「ゲゲゲの鬼太郎」、「じゃりん子チエコ」、「サザエさん」の波平役は一般的に知られるところである。

 私は以前、永井さんの舞台の演出を手伝ったことがあるが、それ以来毎年年賀状を戴いている。今年の年賀状には「良き年でありますよう!」と毛筆で書かれてある。

 1月27日昼ごろ、広島市のホテルの浴槽で倒れているのを発見されたらしい。何年か前の年賀状に「老体に鞭打ち、全国を飛び回っています。」というのがあったが、最期まで声の出演者として活動していらっしゃたのであろう。永井さんは大島渚と京都大学の同期生であったはずである。両氏の元気な時を知っている者にとっては改めて「時」の本態というものを思い知らされる。

永井さん、お疲れさまでした。

あなたが死に見舞われた時、

私はどういうわけか多摩川の水面を見つめていました。

 

永井一郎氏のご冥福をお祈りいたします。

                                                                                                                                                      2014  1/29

 

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