両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

122.フレキシブルで有能な走狗たち

  フレキシブル、それ自体は何の問題もなさそうだが、裏を返せば主義、主張、信念がまったくなく、それを阻害するすべての思考を容易に捨て去り、「柔軟に対応する」ことができることを意味する。したがって、どのようなことにも、たとえ虚偽であろうが、違法であってもつぶさに対応し処理してしまうということもフレキシブルの意味内容の範疇内である。フレキシブルなどという言葉に酔っている暇はない。最近になって、自殺した「公僕の鏡」のような人の手記が発表されたが、彼は明らかにフレキシブルではなかったが、正しい「考え」を持っていた。その他のうまく立ち回ったと思っているフレキシブルな者たちとは、すなわちすべて不正なのである。その点は、はっきりさせておかなくてはならない。しかしながら、現状は新自由主義の呪縛から解き放たれない者たちがポストモダン思想を援用し、正当化しているのも実情である。「何でもあり」などというのもその一例であり、そもそもポストモダン思想には批判精神などというものはないに等しいが、実際には、その成り立ち上、唯一の批判の矛先は、たとえば「公僕の鏡」のような人、明快な主張を持った人などで、逆に、批判できないのが「統計しか信じないフレキシブル」な者たちということになるのである。テレビなどでも何かというと「統計」が出てくるが「統計的な世界観は我々が考えているよりはるかにポストモダン的」なのである。どちらにしても、「何が真実であるかなんて重要ではない」などというポストモダン的思考では、先が見えている。案の定、すでに至る所が焼き切れていて、補修の仕様があるまい。重要なのは、何が正しいか否かなのである。誰が何を言うかなどは大したことではなく、それが正しいかどうかという問いが最重要事項であるということである。

 

                                 2020 4/4

121.真実を知ろうともしない「病」

 すべては真実を知ろうともしないことからきていると思われる。メディアの問題にしても、要するに受け手が真実を求めていないというところもある。なぜ、本当のことを知ろうとしないのか、真実などどうでもよいというスタンス、見解、敢えてフェイクとファクト境目をぼやかして、それをよしとするような姿勢、それらは煎じ詰めれば、すでに終わっているポスト構造主義、ポストモダンの「遺物」、「遺品」の中によく見かけられるが、もはやそのような腐臭を放ち始めた残滓などは跡形もなく早く消し去るのが自然であろう。今までのそのような思考傾向、展開があらゆる領域で「人間である」ことをさりげなく壊し続けてきたのである。誤った使用方法、展開の結果でもある。それが今の現状の要因であることは否定しようもないことである。しかし、そうなることは当初から充分に想定されていたことなのである。

 現状を見れば、さらに目を凝らして「現実」を見れば、自ずとわかることである。しかし、実際に現実を見ている者、現実が見えている者はほんのわずかである。現実を見ていないから、何から何まであまりにも無残なのであるが、無残であることも認知できまい。もし、今後新たな出発があり得るのなら、厳しくともまず真実を知ろうとするスタンスを取れるかどうかで決まるだろう。

 「真実を知ろうともしない病」が、不治の病にならないことを願う。それは無痛の人間崩壊で、気が付いた時にはもはや全く動きが取れなくなってしまっているということにもなる。

 

                                  2020 3/22

120.「構造主義生物学」?

  構造主義的アプローチは限られた領域内の分析的手法としのみ効果が認められるだけで、それを無制限に敷衍させることは危険なのである。それが現状の無残な状況を限りなく再生産させていることは、「周知」の通り。レヴィ=ストロースが人類学にこの手法を導入しその分析に効果を上げたが、それ以上は敷衍すべきではないとしたサルトルなどの見解と私は以前から同じである。そもそも構造主義自体には「人間」を解体させるだけで、「再構築」させる哲理がないのである。現に、この構造主義の「煽り」を受け「人間もどき」となってしまった有象無象が未だに我が物顔にそこかしこを闊歩しているではないか、しかし、構造主義、ポスト構造主義、ポストモダンなどはすでに終焉しているのである。

 「構造主義生物学」、「構造主義科学論」などというものの、底はすでに割れているが、それ以上にかなり危うい。

 それは、精密機械に対する専門的知識も総合的知識も半端なままで、解体し、元に戻せなくなってしまったテクノクラートにも似て、実のところは、帯に短したすきに長し。現実的には弊害ばかりを残し、何の役にも立たないということにもなろう。

                                  2020 3/19

119.「筆に随いて今」について

 この「筆に随いて今」は、2003年に俳人藤田あけ烏氏の勧めで、連載することになったエッセーで、藤田氏との縁がなければ、書くこともなかったであろうと思われる。当時、俳句の結社はかなり増えてきていたようだが、今ほど一般化してはいなかったように思う。現在の大衆化路線から見えてくることはすでに「筆に随いて今」の中にも書いたことである。言葉と向かい合い、遊ぶことも意義深いことではあるが、今なお、それなりに俳人として名を残している人々とは、「言い尽くして何かある」、俳句の「第二芸術論」などを十分に知り尽くし葛藤しつつ「生き通した」俳人たちなのである。俳句は誰にも入りやすいことが、最大の利点でもある。それがきっかで言葉と対峙する、それが重要なだけである。才能の有無などどうでもいいのである。たとえ、それで少々才能があったところでただそれだけのことで、実は何もないに等しい。俳句がきっかけとなり言葉と対峙する こと、そのこと自体がその人間にとって何よりも重要なのである。「賞」を取ってその気になっているなどは以ての外、凡夫の証であるという以外の何の証にもならない。しかし、17年も前に書いたことを今また改めて言うことになるとは思ってもみなかった。言わざるを得なくなることを目にすることがそれだけ多くなったということでもあろう。

 因みに、17年も前に書いたこの「筆に随いて今」は去年か一昨年まで「『筆に随いて今』平山勝」としてネット上に載っていた。誰が載せたか不明であるが今はそのサービスは消えたようである。現在は私のHPに載っているだけであろう。

 スナップ写真と俳句、映像と俳句など、俳句の活用法なども舞台演出家としての視点からも語られているのでそれをヒントにした者も数多くいたようである。実際、そういうことを見る機会もあった。

 

                                 2020 3/4

 

 

 

118.「イメージ戦略」とは、すなわち「アヘン」

 「イメージ戦略」によって「なされたこと」、「生み出されたもの」とは、所詮は幻影、実在するかのように見えて、実はまったくあり得ない幻覚、まぼろしの類である。我々は、日々、マスメディア、ネット等でこの「イメージ戦略」にさらされているいることを忘れないことである。それは合法的な「アヘン」との闘いでもある。この「アヘン」の厄介なところは「考える」領域が縮小する度合いに比例して隅々まで蔓延して辛うじて残っている領域まで機能不全にすることである。しかし、どこを取っても、知らず知らずのうちにこの「アヘン」を吸わされているのが実情のようである。まず、身近なところでは、CM、日々数十回となく狂ったように繰り返し流される狂乱映像と音、パチンコ屋でひっきりなしに流される軍歌と同質の効果があろう。いつの間にか「現実」は「ありのままの現実」とは乖離していく。そして一方では、表裏に関係なく何でも「言った者勝ち」というようなことがまかり通っている危うい現状、それらを容赦なく切って捨て去るだけの取捨選択能力を養わなければ、「アヘン中毒者」と同様の道筋をたどらざるを得なくなる。「イメージ戦略」、「心理戦略」とは、各自の「心」の隙間、ひだに何気なく入り込むように巧妙に組み換えられているのである。したがって、流されているもの(情報など)に「受け身」のスタンスしか取れない者は必然的に「アヘン中毒者」と同質のものになっていく。思考の根幹領域が機能不全となった者たちには、人を踏みつぶしてでも自分だけが生き延びること、目先のことしか頭になくなっていく。要するに人間の「境涯」にはいない者たちということである。

 

                                   2020 3/1

117.「GAFA」については

  このサイトは以前よりFace bookなどとは無関係ですが、なぜ関りを持たないのかについてはすでに説明したとおりです。要は、利用されるだけで、得るものがないからです。得るものがあるように見せかけられて実は最大限利用されているというのが実情でしょう。実質的に利用者はGAFAという巨大組織に無料奉仕しているだけということになります。その「トリック」、仕掛けに気付かないといつまでたっても貴重な時間をただGAFAのために捧げているということになるわけです。その点については、若き天才哲学者としてすでに世界に名を馳せているM・ガブリエルも指摘している通りです。

 今やGAFAが世界を統治しているかのような状況に対して、規制や法律を設けて徹底的に規制する必要があるという彼の見解も当然であると思われます。

 

                                    2020 2/13

116.Much ado about nothing 2020ー空騒ぎー

イランとアメリカ、一瞬、これは第三次世界大戦の始まりかと思った者もいたのではないか。しかし、第三次世界大戦は必然的に人類の最終戦争となる。しかし、そこまで愚かでもなかったようである。それは、理性的なところがあったからでも、「大人」であったからでもない、単なる「損得計算」である。中には、第三次世界大戦など起こるわけがないなどと高を括っている者もいたようであるがそれも甘過ぎる。「損得計算」に長けたトランプであれば、そこまでするかどうかわからいないが、それでもツイッター的オツムの勢いで何をしでかすかわからない。弾みで不測の事態を引き起こす可能性も十分あるのである。現に、今回の開戦寸前状態がいい例である。イランは意外に冷静であったが、それでも旅客機を撃墜してしまった。こんな時になぜ旅客機を離陸させたか疑問も残るが、アメリカの手の内が読めれば納得はできる。「損得計算」に感情「操作」が加わり、自らもその感情に絡め取られれば、冷静な理性的判断はできなくなる。そして、さらに今回のように実際に「誤作動」「誤射」が生じれば、後はミサイル作動の連鎖で止めようがなくなる事態になる。それはおそらく一瞬間であろうが、そこで、誰が止めようというのか。名付ける間もない第三次世界大戦は人類の最終戦争となり、世界の終焉寸前で止まったにしても残っているのは死地ばかりということにもなろう。

2020年、東京オリンピックの年に第三次世界大戦の開戦ともなれば、この数年オリンピック、オリンピックと騒ぎ立てていたことも含め、そのお祭り騒ぎは一挙に吹き飛んでしまっていただろう。幸いにも、そうではなくなったが、次に何が起こるか予断は許されなくなった。「世界は笑い興じているうちに幕を閉じる」と言った者がいたが、そのような瞬間でもあった。この時期の世界の動きに内在する限界点が、根本的な転換、リセットを求めているのであろう。

一期は夢よ、ただ狂えのごとき空騒ぎも、それに付随した「経済効果」などと称されるものについても、今後は通用しなくなるであろう。

 スマホに張り付いている内に、状況把握もままならぬまま瞬時にこの世から消え去ることもあり得る時世である。世界を楽しみたければ知性、感性を打ち鍛えるしかあるまい。

 

 

 2020年、各々方のご無事とご自愛を祈ります。

                               2020  松の内

※後日、案の定、なぜこんな時に旅客機を離陸させたかということについて、アメリカの関与を手の内として読み取っていた私の見解を裏付けるデータや分析が次々と出てきたが、多くはまたうやむやなまま闇の彼方なのであろう。しかし、個人ではない国に対しては常に「推定有罪」で充分なのである。旅客機撃墜後の反政府抗議行動に対するトランプの喜びの応援ツイッターなどもあまりにも幼稚で露骨である。その幼稚さを見ていると、もちろんそれだけではないが、全米の精神科医がトランプの精神鑑定を求めているのも頷ける。いかなる法廷が無罪としても、トランプは推定で有罪なのである。法を平然と犯す者が自分の意に反する者を「無法者」呼ばわりし、「無法者」として仕立て上げる。フェイクの塊のようなフェイカーがフェイク、フェイクと騒々しいのはどこでも共通しているようだ。そもそも権力者に「推定無罪」など在り様がない、「推定無罪」は、飽くまで個人に対して適用されるものである。

                                    1/19

 

115.老いたるは皆かしこかり

  「老いたるは皆かしこかり この国に身を殺す者 すべて若人」とは鉄幹であるが、賢いというよりずる賢い「老いたる者」たちは自らの保身のために美辞麗句に満ちた「悪しき精神論」などを振りかざす。先の大戦でも、「特攻」という名のもとに若人を徒に死に追いやった。多くの若人を死に追いやっておきながら、すなわち、未来を閉ざしておきながら未来永劫どうたらこうたらである。我が身第一のこの「老いたる者」たちにとって、若人は一級の「消耗品」に過ぎないのである。それを「悪しき精神論」の類ででいかに美化しようとも、どのように説明しようともそのことに何ら変わりはない。「老いたる者」たちが、「ミーファースト」(自分たちの利害が第一)を巧みに美化、捏造して「ネイションファースト(国第一)」に置き換えているだけなのである。どのような経路を辿ったにせよ詰まるところ、本然的に後は野となれ山となれの「ミーファースト」が行きつく先は、死地である。「ミーファースト」にとって、自分たち以外はすべて手段(=消耗品)であるということを忘れると選択を誤る。彼らにとって我々は単なる「消耗品」なのである。したがって、そうならないためにも、そうさせないためにも彼らの発する一言一句、さらには黙している事柄にもメスを入れる必要がある。黙って聞いているだけでは、やがて「殺される」ことになる。

 実際に、身近な民間企業でも、「死ね!クズ!自殺しろ!」などと罵倒されたりするパワハラが日常茶飯事であると聞く、しかしブラック企業などというのは、ヘッドが無能であるということに過ぎないのである。何ら打開策を見出せぬ無能な「老いたる者」は必ず「悪しき精神論」などを持ち出し、生体の限界を越えてもやらせようとするのである。もはやその時点で展開不能の企業となっているのであるが、そのような会社に「身を殺す者」も後を絶たない。マインドコントロールの一環でもある、作られた「勝ち組」「負け組」などという振り分けに乗せられて、それが常態化し自らの狂気の沙汰に気付かないという場合もある。

「悪しき精神論」などを出したついでに、「死地に陥れ、然る後に生く」(孫子)などというのがあるが、馬鹿なことを言っているものである。そもそも、軍を死地において決死の覚悟で奮闘させてはじめて、活路を見出すなどと言っている参謀は無能なのである。「死地」ができた時点ですでにその参謀の失敗は決定的である。それは参謀の責任なのである。「特攻」なども「決死の覚悟で奮闘」したのではない、単に死にに行かされただけで、兵士自身は100%活路を見出すことはなかったはずである。こんなことはカルト集団でしかあり得ないことである。カルト化することが「最終ビジネス」と心得ている教祖(参謀)たちの単なる延命策のためにだけ若人が犠牲になったということである。

 この世に生まれて、身を捨つる程のものがどれだけあるのか、よくよく考えるべきであろう。それは生涯を懸けて見出し得れば良いほどのものである。思考停止状態でパラサイト的に安易に何者かに身を任せれば、いつでも地獄は眼前に現れる。

                              2019 12/27    

114.Remember remember ! an unforgettable event・・cherry blossoms

  「忘れるだろう」?それはまったくお門違い。忘れていた者でさえ毎年桜の咲くころには思い出す。もはや彼らには桜をシュレッダーにかけることしか残されていない。2019年「桜を見る会」は、「『桜を見る会』騒動」として明確に記されることであろう。それほど重く、致命的な出来事でもある。

 天気晴朗なれど「邪」(よこしま)風、樹間を縫って行き渡り、集いたる人はいざ知らず、「横しま」に桜の下に入る者居り。実際、民主主義の根幹さえも切り落としかねない怪しげな集いとなってしまったが、その証拠となるデータ、文書がすべて破棄されたというとんでもない事態となっているのである。こんなことを許していたら、国民は何をされてもなされるがままということになるだろう。これは一企業がデータをシュレッダー処理するのとは訳が違うのである。

 この期に及んでも「他に適当な人がいない」という選択肢を選ぶ者たちがいるそうだ。 これは完全に「コントロール」されているという証に過ぎない。そもそも「適当な人」を「自分の考え」で「いつ」選べるのかということになる。選べなければいつまでも好きなようにやられてしまうということである。politicsは時間が重要なキーとなる。その時を逃したらもう取り返しはつかないのである。今後まったく通用しなくなる最悪のpoliticsにしがみついていても仕方あるまい、放置、放棄は現状容認と見做される。どうするのか?現状認識も危うい、現状を見ることさえできない、そのような意識構造も含めて、もはやすべてにおいて後進国レベルであることはすでに証明済みでもある。終焉の時に向かって地滑り状態であることはどこをとっても確認できるのである。このままでは、いくら明日を語っても詮方なしというところである。

 今でも、この騒動について、微に入り細を穿って火消し役に回っている者がいるが、自らの位置を暴露しているだけということである。彼らの「和」は、「お友達」などという「糖衣」に覆われているが、その実態は親衛隊(SS)の前身ともなり得る「和」なのである。

 

                                    2019 12/16

 

 

                   、              

113.憲法12条が明記する通り

  我々の自由や権利は、「不断の努力によって、これを保持しなければならない」と憲法12条に明記されている。「不断の努力」すなわち不断の闘いによってしか保持する手立てはないのである。放置すればいつの間にか手枷足枷、真綿で首をしめられるようなことになるということである。自由や権利は、主張し、行使しなければやがて取り消されてしまうのである。黙って、何もしなければ、いつの間にか自由も権利もなくなってしまうといっているのである。「沈黙は金」、「見ざる、聞かざる、言わざる」、「雉も鳴かずば撃たれまい」などと思っていると、「沈黙は禁」となり、「見ざる聞かざる言わざる」は死んだものと見なされ、雉は誰の目につくこともなく葬りさられることにもなりかねないのである。黙って、余計なことは言わず、静かにしていれば、いつまでも自由や権利はあるなどと思っているととんでもないことになるということである。

                                 2019 11/24

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