両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

102.哲学者マルクス・ガブリエル

このドイツの「若き天才哲学者」マルクス・ガブリエルの言説が自分の再確認のように五臓六腑に染み込み、腑に落ちてしまうから不思議なものである。

 彼は、信を置くに足りる哲学者である。

西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」に符合する点なども興味は尽きない。

 

                               2019 1/4

「Sapere Aude」 サペレ アウデー

 知恵を持つことに勇気を持て!

101.「もともと特別なOnly one」

 周知のように、SMAPのヒット曲「世界に一つだけの花」のフレーズである。内容的には特に真新しい世界ではないが、その内容とは真逆な方向に突き進んでいるのが現在の実情でもある。それぞれの「もともと特別なOnly one」という意識はどんどん薄れ、「Uni‐form」を、「Stand‐ard」を最優先させる方向に進んでいる。現在、世に満ち満ちているのは大なり小なりむき出しの欲望の「NO1」であろう。それを作り出した「流れ」が、それぞれの欲望を肥大化させ、それによって様々な花(Only one)は刈り取られているのである。刈り取られバケツに投げ込まれるのはまだしも、そのまま踏みつぶされる花がほとんどである。バケツに投げ込まれた花々も暗闇に放置され、誰に接することもなく、誰の目にも触れることもなく干からびていく。

 「特別なOnly one」をほんとうに大事にしたいのなら、それを潰すものと向き合わなくてはならない。抒情に流されているだけではなく、対峙しなくては「特別なOnly one」などはすぐに消されてしまうのである。

                                   2018 12/6

 

100.「日本倫理・哲学グランプリ」で入賞

 影山優佳(17歳)が「日本倫理・哲学グランプリ」で銅賞をとった。彼女はアイドルグループ「けやき坂46」に所属しているが、今年6月から学業に専念するために活動を休止しているということである。個人的にはアイドルグループなどにはまったく興味もないが、昨今の事情を考えると、ものごとをしっかり考えられる若手の登場の兆しは何とはなしに嬉しいものがある。彼女は今後、1993年から世界の高校、大学の哲学教授などで開始された「国際哲学オリンピック」へ参加することになるのであろう。今回はアリストテレス、マルティン・ルター、アンリ・ベルグソン、和辻哲郎などの課題文から一つ選択して哲学エッセーを書くことが課題である。楽しみである。それについて「アイドルはバイト感覚か」などとわかったような嫉妬まじりの半可通の御託もあるようだが、歯牙にもかけず思うことをやればよい。現状の日本の「ニセモノ文化」にどっぷり浸かっているような者たちには何も見えてはこない。そのような者たちといちいち同調する必要もなかろう。アイドルも、演芸一般も、アスリートさえ根本的な質の転化を余儀なくされているのである。

 

                                  2018 11/29

 

                               

99.大阪万博?経済波及効果?

 喜んでいる顔ぶれをみればすべてはわかる。もちろん太鼓持ち、幇間の類はどうでもいい。大方の一般庶民には何のプラスにもならない。むしろその反動の方がこわい。経済波及効果?いざとなれば「仮定のことは何も言えない」と言う者たちが、その波及の試算について何を根拠に割り出したのか、そしてその利潤はどこに流れるのか?そんな実態も明確に捉え切れない「さざ波」に巨額(税金)を賭けて浮かれている様は、家族のことも顧みない無謀な博徒に等しい。結果、黒字赤字さえ不明のままに、また自分たちだけに都合の良いように持って行くつもりなのであろう。この先数年、この作られた「夢」、「希望」を煽る者、殉じる者とは一体どのような者たちなのか。すべては「持って行かれる」だけであろう。本来、夢も希望も一人一人が自分自身で編み出すものである。

                                                                                                                    2018    11/25

98.「野球内閣」、この病的な軽さ・・・

 「野球内閣」とは、これまた恐れ入り谷の鬼子母神である。この軽さ尋常ではない。どれだけ隠すものが多いかがよくわかる。以前からその傾向はあるが、騙す者とは常にこのパターンである。その内に自衛隊のユニホームも野球のユニホームにするのではないかとさえ思える。野球のユニホームを着せられ現地で武器を渡されはじめて戦闘に駆り出されたのだと気づくというバカみたいな話も成り立ち得ると思われるから狂っているのである。「野球内閣」から「戦闘内閣」への移行は容易く、むしろ表裏一体である。この「軽さ」の実態、すなわち恐ろしき「本体」については別の「カテゴリー」でも書いたので省略するが、何を隠すためなのか調べればすぐにわかること。ピンクのユニホームを着せられ海外派兵を海外派遣と勘違いし、行って捕虜になれば「自己責任」、「負けるわけにはいかない」と見捨てられる。

 祖国というもは誰にもあろう。しかし、祖国とは、一片の誠実さもない為政者の集団と、1000人単位で移動する生気のない和服の集団が人工的に作り出すものとはまったく異質なものである。

 

                                 2018 11/9

97.「テレビは観るものではない、出るものだ」

 「テレビは観るものではない、出るものだ」とは蓋し至言である。タモリも以前のタモリに戻ってきたなと思った。テレビはほとんど観ない私としては、タモリがいつ「戻ってきた」か正確に知る由もない。こんなことを言うと、タモリのことであるから「かわすか」、「とぼけるか」、「茶化す」かするであろうが、こういうセンス、エスプリの効いた言葉は他のタレントには絶対と言っていいほど出ないのが日本のテレビの実情なのである。

 そう、テレビは観るものではないのである。出るものなのである。したがって、出る機会のない者、出るつもりのない者にとって、テレビは観るものではないというだけのことに過ぎないのである。さらに言えば、たとえテレビを観ることになっても百害の中に一利はあるかなしかとみれば誤ることもないであろうということである。

 

                             2018 10/9

 さらに付け加えれば、タモリが赤塚不二夫などに認められテレビに出始めた頃、タモリの芸について周囲の者から頻繁に言われたという「テレビを見ている人にはわからないよ」という「アドバイス」、この当然と思われるようなお為ごかしの「アドバイス」、これがテレビそのものを劣化させ続けていることにいまだに気が付かないのである。すなわち、テレビの視聴者を完全になめているのである。最悪の政治ショーから低俗バラエティー番組、お涙頂戴の廉価制作番組、誰がまともに見ていると思っているのか、バカにしながらしようがなく「街の雑踏」の効果音としてテレビをつけて、うるさければ音は消しているのが大方の実情で、その中には完全になめられた「死んだような人々」もいるということに過ぎないのである。「死んだような人々」を標準にしても仕方あるまい。

 

96.ラプソディ・イン・グレイが聞こえてくる

 「五叉路」で聞こえてきたラプソディ・イン・グレイである。

キボウ キボウ キボウー 新たなニッポンをキズコウーと吹き鳴らされる進軍ラッパ、音程はズレ奇望、危望にしか聞こえない。偏向誇大妄想狂詩曲 ラプソディ・イン・グレイの開始である。どこまで続くか、果たしてどこまで耐えられるのか、それを見届ける「場所」などはすでになくなっている。

 

                                     2018 9/20

95.「終戦記念日」に敢えて

 「終戦記念日」に近づくと、毎年、「戦争否定」と「祈り」と体験談が続く、記し語り続けなくてはいけない事もある。しかし、「祈り」ばかりではなく、「必要悪」という名のもとに「武器商人」を暗躍させているのは米、中、露、仏、英などであることも忘れてはならないことである。日本については米国と「一心同体」で、敢えて言う必要もあるまい。武器商人は言う、「平和は儲からない」。これは「武器商人」ばかりではない(例えばフィクサーなども含む)が、これが「必要悪」といわれている真相の一面でもあるが、目先の「利益」ばかりに追われていれば早晩「武器商人」の「必要悪」にさらに適当な口実を与えことになり、「必要悪」は、美辞で括られいつしか「必要善」となり、またぞろ無能の証でもある戦争が繰り返されることになる。平和は儲からない、だから愚者は平和平和とお題目を唱えながら陰では戦争への道筋をつけることに躍起になるのである。北朝鮮が不穏な動きを見せた時、嬉々としていたのは軍需産業関係者たちと武器商人などを囲っているその国の長である。だから、武器商人に対しては何をしようが、どのようなことがあっても結局は「お咎めなし」ということになり、彼らが表に出てくることも決してないのである。身近にある様々な物、電化製品、パソコン、車などにしても、それを作っている企業はいつでも軍産複合体の一部となる。それも経済的失策が繰り返され、不景気になればすぐに軍需産業にシフトするということである。彼らは改憲を手ぐすね引いて待っている。今、改憲を急ぐ者たちとは日米一体となり軍需産業活性化に寄与するものたちで、「戦争否定」、「祈り」とはまったく正反対の方向に進む者たちである。火種を求めて暗躍する「武器商人」、「戦争屋」の類と何ら変わるところはない、唯一異なるところは表立ってもっともらしい分析、美辞麗句を並べ立てるかどうかという点であろう。暗躍する者に言葉はない。フィクサーは「空気」を作るのである。

 こんなことを書いていると2001年9月の私の作・演出の芝居の上演の際に観客に配布した作品内容とコメントを思い出した。あの時と同じようなことをまた言っているのである。私に発展性がないのか世界が何も変わっていないか、後退しているかのどちらかであろう。

 因みに、六本木ヒルズ(54階)、虎ノ門ヒルズ(52階)などの総工費はステルス戦略爆撃機B-2の一機分の値段である。後は推して知るべし。

 

 

                                 2018 8/14    

94.「めん鶏ら砂あび居たれ ひっそりと剃刀研人は・・・

 最近は、どこを見ていても斎藤茂吉のこの歌がふと頭に過る。「めん鶏ら(めんどりら)砂あび居たれ ひっそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり」。

 もちろん、「めんどり」ばかりではないが、「かみそりとぎ」も単なる巷の「殺意」、「悪意」というよりもっと大きな合法的な「殺意」、「悪意」である。

 

                                  2018 6/20

 スティーブンキングなら、この剃刀砥人はどのようなブギーマンになるか・・・

93.「働かせ方法案」

「働き方法案」、これも何度も言うことになるが、「働かせ方法案」である。いかに効率よく吸い上げるかそれが最大のポイントである。これで働く者たちはますます思考回路は寸断され、企業側は目先の利潤にはつながってもやがて「燃え尽きる」者ばかりが続出するだけで、企業としても実質的な展開は望むべくもなくなるであろう。現在、至るところでその大中小の事例が現れているにもかかわらずこのような「悪法」を通すということは無能の証で、近々、その破綻の一角が現出することは間違いない。わかりやすい最近の事例で言えば、最近の「日大アメフトの不祥事」である。「危機管理」ということがまったくわかっていない者たちというより利害に追われているだけの者たちがその場しのぎを繰り返しているからこうなるのである。「結果」が出たときはすべてが取り返しができないのである。考える力のない者を能なしというが、このような「法」を作った方も、それに従わざるを得なくなる者も、無能化の一途をたどることになろう。特に働く者にとっては利するところは何もないと言ってもよいだろうが、それは企業にとってもマイナスに転化することにもなるということである。「働き方法案」、とにもかくにも「御為ごかし」の典型である。しかし、人の生き方死に方にまで国が口を出し、「言いがかり」をつけて「個」を抹殺していく過程をみると、そこに見て取れるのは全体主義の国民の「細胞化」である。徐々に国民を慣らし知らず知らずの内に全体主義的民「従」国家にシフトさせるつもりなのであろう。

 

                                    2018 6/3

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