両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

62.策士策に溺れてなお策を弄する

 世の中には「上」から「下」まで出来過ぎの「やらせ」というものが実に多い。ここまでやるかという三文芝居を大真面目でやるものだから、気恥ずかしくもなってくる。昨今ではここまで来たかというほど露骨で、これを真に受ける者たちの顔を一人一人確認したくもなる。事実は事実として提示することが何事においても前提であるが、そこでは事実自体を文脈とは乖離して必要以上に問題にする「構成意図」も問題にしなくてはなるまい。さらに策士の類は糊塗、捏造は日常茶飯事なので、「事実」の捏造も当然含まれてくる。「現実はきれい事ではない」と物知り風に言いながら「歴史」を都合のいいように「組み直し」美化するなどもその類である。その粉飾された「歴史」に、「歴史」とは「きれい事では済まされぬ」現実にあったことではないのかと思わず聞き返したくもなる。たとえ「事実」であったにしてもその「事実」に対する対応の仕方を冷静に見れば自ずと見えてくるものがある。その判断は、「推定」で充分である。各自の「想像力」、「推量」を端から阻害するものはすべて要注意である。「推量」が「推定」となることが望ましいが、阻害する側にもその「推量」を否定する決定的根拠はないのである。憲法問題然り、原発問題然り、さしたる根拠がないにもかかわらず、むやみに我田引水、自己正当化をおこなうものだから逆にその「作業全体」が見えてくるのである。それは「ある作為的方向」にとって都合がいいか悪いか程度だけで片付けらているだけである。言ってしまえば、すべての「こと」はそれによって誰がほくそ笑んでいるのかを考えればをその対象の実態を見誤ることはないということである。1%の人々が喜ぶことと、99%の人々が喜ぶことは共有できず、異質であることを明確にしておかないと笑う度に自分の首の縄は締まってくることにも気づかないということになる。この例は実に多い。このようなわかり切った絶対にあり得ぬことをしたり顔でさもあり得るがごとくに言うのを三百代言、もしくは走狗というのである。「トリクルダウン」などという蒙昧が対象かと思われるような「効能書き」をまことしやかに言っていた男が平然と手の平を反すようなことを言い始める。まさに厚顔無恥な三百代言の典型である。この手の者の頭には騙される方が悪い程度のことでしかないのであろう。まさに尋常ではないが、尋常ではないことが恒常化していることが何とも不気味である。

 最近では、傀儡、策士、走狗、「人たらし」、三百代言、ミイラ取りのミイラ化、蒙昧などの具体例には事欠かない。あまりに多すぎて枚挙にいとまがないほどであるが、「闇」の領域も含めて具体的にその全体像が見えてきている。そして、常に「おこぼれ頂戴」の賢きつもりの卑しき人々という存在も鮮明になってきた。そのような人々も、本人の意識とは関わりなくその行為そのものが導き出す因果応報から免れないから不思議なものである。それを合理的に説明することも可能である。しかし、「亡者」の類には説明は無意味であろう。それが「亡者」の「亡者」たる所以なのである。「亡者」とは、欲望に突き動かされるだけの、実のところは取り付く島もない、にべもしゃしゃりもない人々なのである。

 

                                  2016 1/7

 

61.We are not ABE.

 2015年1月、 報道ステーションの生放送で古賀茂明さんが「I am not ABE」と掲げてコメンテーターを事実上降板となったことはまだ記憶に新しいはずである。古賀さんがそれによって意図した二つのこと、すなわち、一つは米国と一緒になって世界中で戦争するというような日本人像の否定、もう一つは政権批判した者が次々に排除される状況の中で局やコメンテーターの奮起を促すという意味、後者の期待は見事に裏切られてしまったことは改めて言う必要もないことである。現状は、古賀さんが最後のコメンテーターとなってしまったということである。

 古賀さんは海外の実情もよくご存じなのであろう。一般に、海外ではABE=「あなた」として見なされているのである。だから、意思表示として「I am not ABE」としない限り、ABEの支持者か賛同者とされてしまうことになる。存在自体が問題となっているのであって、ここで認識論は問題にならない。したがって、何か事が起こって、巻き込まれてしまってから「I am not ABE」、「I have nothing to do with ABE」といくら訴えてもまったく無意味なのである。ABEとはまったく「関係ない」目的で海外に出たにせよ存在論的に無関係というのは在り得ないので、それなりの「覚悟」が必要になるということである。今では海外に出る出ないも関係なく、無関心であろうとなかろうと、同様の覚悟を強いられることになる。

 古賀さんが最後の出演でガンジーの言葉を出したというのは知らなかったので、その言葉をそのまま載せることにする。それは今の私のスタンスとも重なるからである。

 「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」

 それは日々の「洗い直し」と自己確認であると思っている。

 いつの間にか置かれた状況に自分自身が慣らされ、変形させらているのも気付かず、重要な問題を見過ごして取り返しのつかないことになってしまっているというのが現状でもある。今までの付け焼刃の「民主主義」が露呈し、根底からの捉え直しを迫られているともいえる。

 

※古賀茂明:元経産省官僚。2011年6月辞職届を提出するように海江田万里(元経産省大臣)、松永和夫(事務次官)より通告される。「日本中枢の崩壊」(2011年5月)、「官僚の責任」(2011年7月)などの著書がある。

 

                          2015 12/31-2016 1/1

 

60.今、パリでは・・・

 先日、パリは今、至る所、どの通りも悲しみ満ちて、空虚である、という便りがあった。

 このウェブサイトのトップページを飾っている写真を見るたびに数年前のパリの隅々がよみがえる。ヴォージュ広場の前の椅子に腰かけてどのくらいの時間を過ごしたのであろうか。もうそのような時間は存在しないようだ。テロが起きたのもそこからわずかの距離である。

 こうした状況の中では感情論はさらに状況を悪化させるだけである。オランドはベルサイユ宮殿に上下両院の全議員を招集して「IS打倒宣言」をしたそうだが、空爆強化で一体何が解決できるのかと思われる。単なる国民の溜飲を下げるためにのみ行われるパフォーマンスなら何とも無責任で安易な方法というしかあるまい。それもアメリカと同調して行われるのであるから最悪の状態に突き進んでいる。ブッシュが「テロとの戦い」を標榜して以後、テロは減少するどころか2001年の時点で346件だったテロは2014年には32727件と激増している(米国務省「国別テロ報告書」)ということである。そして、オバマ政権が空爆を開始して1年余り、米軍主導の空爆回数は8000回以上、それで何が変わったのか、悪化する一方ではないのか。要するに空爆などという方法ではテロなどは抑えることができないと同時にそれによって必然的に難民も増え続けるということである。こんなことをして喜んでいるのは所謂「死の商人」たちだけであろう。人類の英知などどこ吹く風の所業ばかりでは「最低の知的生命体」とは同時に「絶滅危惧種」であったということが立証されるだけである。

 さらに、フランスでは「オンナ版ヒットラーを彷彿とさせる」といわれるマリーヌ・ルペン率いる「国民戦線」というネオファシズムまでも台頭してきている。この傾向は何もフランスだけに限らず、イギリス、イタリア、ドイツ、オランダ、スウェーデン、デンマーク、などにも及んでいる。

  近似した現象は日本にも見られるが、現状では責任も碌に取れない「最高責任者」がわざわざ自ら「火種」をまいておいて風向き加減で火勢が増せば、それ見たことか「水」では間に合わぬ「火薬」を使えという段取りになっているとしか思われない。後は「突っ走れる」機をうかがっているだけであろう。すなわち、何のことはない陳腐な俗にいう「マッチポンプ」である。このことについては以前にも書いたことなのでこれ以上はやめる。

 しかし、オランドの「戦争だ、戦争だ」には改めて驚いた。ここで冷静さを欠けば相手の思う壺であろう。相手は死ぬこと自体に「意義」を見出し、死ぬことを何とも思っていない、ある意味では追い詰められて「人間」の境涯にいることができなくなった者たちでもある。どのような最新鋭の武器をもってしても所詮は「死ぬつもりはない」「傭兵」が対峙できる相手ではない。だから地上戦を避けているとも言えるが、そのような者たちを大量に「作って」おいて、また無責任な空爆で「増殖」させているのでは泥沼化しざるを得まい。それにしても一年余りで8000回の空爆とは恐れ入った。単純計算しても一日20回、毎日約1時間ごとに空爆していることになる。「狂人」になり得ぬ非戦闘員なら逃げだしたくなるのは当たり前、難民が出るのも当然といえば当然のことである。

 どちらにしても、感情論に棹さしても何の解決にもならないことだけは確かである。

 

                                  2015 11/18

  世界を狂乱の渦に巻き込むという「狂人」の罠にまんまとはまってしまった。地の底まで続く「狂気」のスパイラル。もう戻ることはできまい。

                                  2015 11/24

 

※1回の空爆が1億円だそうである。

※12月13日、極右政党「国民戦線」の躍進を阻止したオランド大統領の政治的手腕はやはり「政治屋」ではなく「政治家」と言い得るものであろう。 

 

59.幇間のごとき「演出家」を見ていると

 現実的には、「演出家」などという職業は「人たらし」、幇間のごとくにならないとなかなか「商売」としは成り立ち得ないところもあるようだが、そこまでして「演出家」を成り立たせるつもりは全くない。一方では主たる生計は他で確保し、受ける受けないは別にして自分の世界観を思いのままに打ち出す「演出家」もいる。それはそれで一部の少数派に共感を持たれればその存在証明は成り立つのであるが、「持続」は経済的にも困難であろう。「持続」自体がすべての正当化には成り得ぬのはもちろん、質の保証にもならないが、たとえ経済的にも「持続」が可能であったにしてもその内容、製作の質が常に問われていない限り「持続」自体にさほどの意味はない。何十年続けているという劇団、事務所はよくあるが、それだけではやはり評価対象にもならない。むしろ、それによって弊害が生まれていることの方が多いのも実情である。

 もし、「演出家」が幇間のごとくならざるを得ないのであれば、いつでも私は「演出家」など側溝に投げ捨てる。

 「演出」が幇間の如く成る 場合場合を思いながら しばらく休む といったところか。いつわりの人ほど「歌」は巧みな世であれば尚のこと。

                                                                                                               2015  11/15

 因みに、言わずもがなのことを敢えて一般の方のために言えば、テレビ局などで「演出」、「演出家」と称されているものは、否応なく「世界観の提示」を求められる本来の「演出」などとは程遠く、単なる「効果」の域を出るものではないということである。さらに言えば「まとめ役」を任された幇間の「効果担当係」と言い得るようなものである。

58.戦争が廊下の奥で衣替え

 9月19日は決して忘れてはならない日となった。今更言うまでもなく、「積極的平和主義」などとは要するにどう言いつくろっても積極的戦争主義ということに他ならない。これはすべての「凶事」の始まりであると同時に新たな局面に対する各自の姿勢が否応なく問われるということでもある。2015年9月19日、最悪の歴史的汚点を残してしまったことを忘れることはできないが、万が一その「元凶」を忘れるようなことがあれば、そして再び同じことを繰り返せば、その時こそ最も危険な「『人間』社会」の衰退が待ち構えている。これは何も予言的内容でも何でもない。漁師が出漁前に空を見て判断するのにも似て具体的で、現実的なことである。今後は空を観るだけではなくさらにあらゆる観察が必要になってくるだろう。そしてその都度的確に反応していかないと即生命にかかわる問題に発展する。この現状から少しでも身を引けば待ち構えているのは最悪の状態の拡大再生産だけである。事態は千変万化の「戦い方」を要求しているのであろう。どちらにしても同じ時代を生きる者として違憲法案でもある安保法案の何ともしだらな成立過程を見ているとこのまま引き下がるわけにはいかなくなる。こんなことを許していて泰然自若ともっともらしことを言っていられるのは戦争の「衣替え」を手伝う「怪しげなる人々」だけであろう。

                                                                                                                                                                                2015 9/20

※「積極的平和主義」の「積極的平和」とは、貧困、抑圧、差別などの「構造的暴力」のない状態を意味するコンセプトでヨハン・ガルトゥング博士が提唱したものであるが、それをまた例の調子で最近流行りのコピーアンドペーストさながらに盗用し、多用、悪用しているのである。恥を知る者ならとてもできることではないが、そんなものは爪の垢ほどもない。ガルトゥング博士の本来のコンセプトを歪めてしまった無知では済まされぬ無礼者の確認の意味で念のため補足した。

57.要するにすべての既得権益自体が問われている

 根本的なことが問われているということは、言ってみればすべての既得権益自体が問われているということでもある。それについての徹底的な検証、あるいは解体ということが問題となるべきで、それ以外のいかなる保身ももはや通用しないということである。今、既得権益にすがる者たちは時代のうねりの中に沈み行くより他に手立てはあるまい。その方向でできることといえばせいぜい今まで以上に「泡立てる」ことくらいであろう。それもやがては姿、形も定かではなくなる。「継続」ということが大なり小なり既得権益の死守ということならばそんな「継続」は必要はないし、むしろ害の方が多過ぎる。現在の如何ともい難い状況を作り出してきた、またはそれに加担してきた者が今更何をもっともらしいことを言っているのかと事あるごとに思っている。自己を厳しく裁断できぬ者が保身に回るのは常ではあるが、それでは後退するだけである。後退はやがて腐臭を放ち朽ちる。そのすべてが現状である。「保身に回る」ということと「保守」ということをすり替えられると困るので敢えて言うが、「徹底的な検証」も「三下奴」ではない「正常な」保守主義の領域では成り立ち得るはずのものである。

 

                                     2015 7/12

56.根本的なことが問われている時に

 根本的なことが問われてい時に、すべてが皮相的領域で滑っているにも拘らずあたかも核心部分を突いているかのような世の動きを見ていると滑稽でさえある。

 「そんなことはわかっている」というを言葉をよく見聞きするが、わかっていてできないのはわかっていないのである。根本的なことは一見「単純」そうにみえるが、その「極意」をつかむのは並のことではない。要するにそれがつかみ切れていないから何度でも愚かしいことを繰り返し、「わかっていても」できないということになる。すなわち、わかっていないのである。これだけ言葉が溢れかえっている中で真実を言い当てている言葉を一つでも本当の意味で「理解」し得るならすべては読み解けるはずである。それができないのはやはり皮相部分で右往左往しているだけとしか言いようがない。それではたとえ何万もの情報を集めても蓄積・統合されることもなく、やがてはごみの山を築くだけであろう。「理解する」とは換言すれば「腹をくくる」ことができるか否かということでもある。

 

                                                                                                                                                                                          2015 6/3

55.Comme l'art de la fugue

Ce que je voudrait vivre ,c'est quelque chose qui serait comme l'art de la fugue.

                                                                                                           2015  5/7

54.Like a cheap novel

the Japan-US     a cheap novel    a poorly show・・・a monkey show   It's too absurd.

le Japon et les Etats-Unis    les jeux de singe・・・C'est ridicule !

Déplorable !   Abe devient fou.   Quelle honte !

Mais,「Comme on fait son lit ,on se couche」・・・

 

                    J'ai la nausée           C'est tout

                                                                                                                      2015 4/30

53.今を生きているつもり

 未来に対する不安に脅かされるか、過去の懐かしさに浸るか、あるいはそのような未来と過去のフラッシュバック中を行き来しているのでは到底「今を生きる」ことなど不可能である。だから現実に存在する唯一の時を見逃してしまうのである。「私たちはまったく生きていない。ただ生きようとしているだけだ。」と言われても明解に答えることができないどころか、「生きようとする」こと自体に何か問題があるのかというレベルの話に終始するだけであろう。そこにはやはりいつも幸福になりたいと思っていてもついには幸福になれないのと同様の問題点が隠されている。

 「今を生きる」ということなどはそう簡単には実践され得るものではないということは、「今を見る」などということも飽くまで見ているつもりであって実は肝心なことは何も見えていないことの方が遥かに多いということでもある。今後は視野の中で知覚されていたものですらいつの間にかその姿を消されていく可能性が高いのであるから尚更であろう。想像力が貧困であればもはや盲目状態の中に置かれるといってもよい。

                                                                                                                                                                                    2015 4/12

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