両忘の時‐ある日、その時‐

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五叉路

156.つれづれに一言で片づければ (31)ー16件ー(711件)   

〇絵に描いたような勧善懲悪の世界、それが今回の選挙である。詰まるところ、善と悪との戦いである。もっともらしく四の五の言っているのは明らかに悪の側である。もはや、ゴマカシと言い訳は無用。こんな、バカバカしい程の勧善懲悪が現実に起こっていることに驚いている。自分たちのやってきたことを少しでも考えられる頭を持っているのなら、ここまでの悪行には至らなかったであろう。ここに至っては、本来なら、左翼も右翼も、「保守」「革新」もまったく関係ない。金次第で何でもする「Dappi」の類は論外であるが、この手の有象無象もまた多い。要するに、悪徳政権とそれに与する悪そのものとそれに対する善との戦いという実に単純なことなのである。もし、これを複雑化しもっともらしく開陳している者がいれば、それは悪徳政権の手先か、「Dappi」の類か、どちらにしても国民の側に軸足はない。国民の側に軸足を置かないということは、民主主義世界の中では悪なのである。

                              2021  10/29

 

〇「あなた方」と「ともに」では、永遠に「新しい時代」は来ない。勝手に希望的観測で思い込むとえらいことになる。そう、彼らの延長線上に訪れるのは、いつか見た忌まわしき、今度は米国の思惑通りの戦争のできる「新しい国」である。防衛?地理的に見ても、地球物理学的視点から見ても、武器の使用効果実験所になるのがオチであろう。勇ましい綺麗ごとを言っている者たちは現状、実情が全く見えていないと思われる。確実に見えているのは自分たちの保身、延命と経済(=銭)の動向だけである。彼らの言う「ともに」は、やがて「放置」であることを多くの人々は肝に銘ずるべきである。それは今までいやというほど見せつけられたことでもあろう。

                                       10/28

                                

〇大手新聞社とは、要するに、大手企業のためにだけあることを忘れないことである。すなわち、その立ち位置は常に財閥側、それはそのまま財=政=官と横並びなる。したがって、そこで伝えられるすべては、上意下達の内容を口当たりの良い言葉に並べ替えただけということになる。それを購読料を取って「国民」に読ませているというのが、その実態である。だから、何かあればすぐに「大本営発表」になるのである。現在の選挙期間中に、予想屋よろしく、1面トップで「自民過半数確保の勢い」(朝日)である。これはもろに「大本営発表」で、その本体が露呈されている。これは何も朝日新聞ばかりではない。こんな質の良くない予想屋のような記事で大衆操作をする。言語道断である。ほんとうにここまで堕ちたかと言わざるを得ないが、元々の繋がりを見れば、それが彼らの本質なのである。こちらが、淡々と絶え間なくチェック、追究すればいいだけのことである。

                                        10/27

〇低劣なユーチューバーが、「悪名は無名に勝る」と豪語したそうだが、そんなことは何も此奴の専売特許でも何でもない。使い古された言葉でもある。最近では、小泉純一郎が竹中平蔵を慰めるつもりで発した言葉として記憶に新しいが、何のことはない新自由主義の中で蠢く者たちのやがて至るところでもある。最近の傾向として、「犯罪者」が何か誇らしく居直っているのもこうした事情がある。現役の為政者が「推定有罪」であるにも拘らず役職について「ホラを吹きまくっている」のも実情である。にもかかわらず、「他に適当な人がいない」?「誰かできる人がいるのか?」?などと今だにそれで何か言い当てているつもりになっていこと自体が、まったく意味のない死語を弄んでいるだけとも言える。政権与党の為政者の顔ぶれを見れば、ずる賢い、強欲者なら誰でもできるという証明にしかならないだろう。決して能力の有無ではない。現状は、もはや一部を変えて済むという状況ではないのである。

                                                                                                                     10/25

 

〇「ロン・ヤス」にも笑ったが、その後の「ジョージ・ジュンイチ」にも笑わせてもらった。「バラク・シンゾー」、「ドナルド・シンゾー」、「ウラジミール・シンゾウ」に至っては、三流芸人の笑えないギャクを押し付けられているようで耐えられる代物ではなかった。何もない者が何か深い関係があるように見せかけることに必死になっているようないやらしさが際立ったからである。「シンゾー」は、ドイツの首相に対してもファーストネームで呼びかけている。女性の首相に対しても、ファーストネームとは、公の場で、亭主でもあるまい、この感性にはやはり知性が欠落しているとしか思えない。勘違いが過ぎる餓鬼のような自己誇示、何かありそうに見せかけるという空疎な者にありがちな小賢しい手法で、悦に入っているナルシストである。ひんしゅくを買っていることさえもわからないのであろう。人間としての肝心な根幹部分が空洞、言ってみれば、人間の境涯にはいない者なのである。

                               2021 10/23

 

〇競馬の予想屋ならいざ知らず、「総選挙予測」などという総選挙の予想屋のようなことを生業にしている者がいるようだ。今までに、自民党系議員の選挙対策に関わっていたらしいことが記されていたが、然もありなんと思われる。言ってみれば、誰かに飼われた「予想屋」風の「選挙操作業」である。今回、この手の者がひしめき合い、蠢いているのが以前にも増して露骨に見える。それは何を意味するか?巻き込まれないように注意しないと何度でも地獄を見ることになる。どちらにしても、選挙に行かなければ、何をされても泣き寝入りを余儀なくされる機会が多くなるのである。

※「選挙プランナー」

                                    10/21

 

〇ある有名な音楽家が、本当に音楽が好きで、楽しみたい人は音楽を仕事にすべきではないと言っていたことをふと思い出した。

                                    10/19

 〇なぜか、このようなタイミングで必ず北朝鮮のミサイル発射。危機を煽るには出来過ぎた絶妙のタイミングである。防衛力強化、改憲を主張する者たち、軍需産業関係者にとっては一番好都合であるということだけは確かなのである。「見えない糸」で繋がっているのであろう。冷静に考えるべきである。こういう時に「勇ましいこと」を言っている者たちとは例外なく信用できない。そして、いざとなると用意された逃げ道を一目散に逃げ出す。乗せられた者たちは放置されるのが常である。それは、様々な歴史が証明していることである。

 ゆめゆめ愚かしい感情に流され、蛮勇に走ることのなきよう。そは自滅の道。

                                     10/19

〇「嫌中」、「嫌韓」などと言われている者たちを見ていると、自らがやっていること自体が日本のためにはならない、不利益になることがまったくわかっていないのであろと思われてくる。そういう意味では、まさに「反日」そのものなのである。「嫌中」、「嫌韓」が「反日」とは、アイロニーであり、パラドキシカルである。ツイッターなどでも、「日本が大好きです」などと言い出すから、こやつ何者か?日本人か?と思えば、案の定、あることないこと取り混ぜたいかがわしいプロパガンダの「ご開陳」がはじまる。「偏向報道するマスコミは嫌いです」って、こやつの言っている偏向もまた半端ではない。葦の髄から天井を見るような視点しか持ち合わせていないヤカラに「好きです」などと言い寄られる「日本」も哀れ、こんなのに取り付かれた日には、目も当てられなくなる。

                                                                                                                10/16

〇取って付けたような日本、日本人の美点をあげつらい、国民に強要する前に自らその所業を正すべきである。範を垂れなくてはならない者が、詐術師、犯罪者の類では示しがつくまい。昨今の様々な事件なども行き過ぎた「個人主義」が原因であるがごとく言う者もあるが、それもまた責任転嫁である。いまだに「個の確立」など成し得てないのが現状なのである。そこには、新自由主義と「個人主義」を同等、同質レベルで括り、それを全体主義的方向で制御しようということが見え隠れしてるというより丸見えである。何度もいうが、もはや中国も、ロシアも北朝鮮も共産主義国でも何でもなく、むしろ反共路線の全体主義国家と言ってもよい。そういう意味では、日本のカルト的全体主義が目指す方向と重なりさえする。今時、「共産党」=暴力革命などという単純構造で捉えて何か成し遂げられると思っているところなどは、その存在すら危ぶまれる。そもそも誰も付いて行くまい。単なるネガティブキャンペーンの恰好の対象となるだけで、どちらかというと民主主義を装った全体主義者が使う陳腐なネガティブキャンペーンの常套手段でもある。しかし、自分の仕掛けた罠にまんまとはまっていく過程を日々見せつけられているのが昨今でもあるが、いくら金を使っても所詮は見え透いた小細工。策士策に溺れて、自滅の時期を待たれている状態ともいえるが、まだまだ陰謀策士の活躍の場はあるようだ。テレビなどでも、政府関係者ばかりが集まって自慢話である。これでは偏向報道も甚だしく、それこそ放送法第4条に抵触することである。こんな垂れ流し番組を口を開けて観ているようでは、やがてその口に飯さえ運べなくなるということもあり得る。大方のテレビ屋、新聞屋も今や堕ちるところまで堕ちているというのが現状でもある。この程度の小細工で騙されるのであれば遅かれ早かれ身近な特殊詐欺程度のレベルでも軽くひっかかる。この新自由主義の中では、いわゆる「勝ち組」などと称される者たちは大なり小なり「悪の道」に踏み込まざるを得なくなるのである。「勝ち組」などと言っても、言ってみれば「悪組」なのである。相変わらず現状は、正直者、誠実な者がバカを見るということである。これでいいのかという問いかけにどこまで答えられるか、是正するかにかかっている。これが「現実」などと分かった風な認知症気味の「大人」の世迷言で納得しているようでは、一生涯現実を見ることさえできずに終わるだけということである。

                             2021 10/14

〇この国の民主主義も幼稚だが、それにも増してジャーナリズムは未成熟どころか、果たして存在するのかと言いたくもなる。きちんとあったことさえも伝えぬ報道、中途半端な要領を得ない解説、さらには肝心要の批評がなくなっているか、簡略、省略されている。要するに、ジャーナリズムの最重要部分が抜け落ちているのである。ジャーナリストなどと言っても、単なる編集者なのか、プロパガンダのための雑文書きなのか、政府広報のお抱え売文業者なのかと言いたくなる者たちばかりである。記者クラブなども、記者本来の仕事を捨てた者たちの記者捨てクラブのようなもので、無用の長物と言うより、その存在自体が記者の在り方を損ねているのである。

                             10/13

 〇選挙前のこの時期、御多分に洩れずまた匿名のまことしやかなデマ、いかがわしいプロパガンダが横行しているようである。匿名であれば、すべてFake(フェイク)、でっち上げ、ねつ造とみてまず間違いはない。それに乗せられる者とは余程の無防備な極楽とんぼか、発信元と同類か、無知な「信者」である。日本は、実質一党独裁の形ばかりの民主主義国家であるので、怪しげな匿名発信の内容、発信元はどのようなものかすべて特定、察知できるのである。勝つ者はすべて悪人ということをそのまま地で行くような党であるが、この先どこまで行けるか、どこで逝くか、それが問題である。

「Dappun」だか「Dappi」だか知らないが、こんなの侍らせているようじゃ長くはない。仮にこのような者が存在したとしても、この手の者に愛される日本も災難である。デマ、フェイクを税金使って垂れ流しているとなれば、これもまた大問題である。何でもありの、「悪人」でなければ「人でなし」というところであるから、真相など決して明らかにするはずもないが、徹底的に追及すべきである。「Dappi」もまた致命傷である。またぞろ北朝鮮のミサイル発射回数と司法の首のすげ替えが増えるであろう。自ら仕掛けた罠にはまりながら、今度は「Dappun」か、今から臭う。

                            10/11+

 

〇2021年ノーベル物理学賞受賞の真鍋叔郎氏は「日本に戻りたくない理由の一つは、周囲に同調して生きる能力がないからです」と、さりげなく核心を衝いた応答をしている。この方も早く日本から離れて自分の持てるものを縦横に開花させたひとりなのであろう。「周囲に同調すること」しか生きる術を見出せないということは、様々な問題を提起している警句でもある。真鍋氏が1997年に一時帰国し、地球温暖化予測研究領域の領域長に就任した際に直面したことも、因循姑息な縦割り行政で学術研究を阻害している現実である。もはやこの地で研究することはできないと思うのも至極当然であろう。今後ますます真鍋氏のようなケース(知的財産の海外流出)は多くなるであろうが、研究を開花させるしっかりとした土壌を作っていないということでは、やはりその国の責任でもあり、自業自得と言わざるを得ない。氏より育ちというが、真鍋叔郎氏を育てたのはアメリカなのである。こんな時だけ日本人の誇りなどと言っても遅すぎる。その様、捨てた子供が成功して、突然名乗りを上げる金目当ての因業な母親のように醜い。もはや日本人云々のレベルの話ではなく、それとはまったく無関係である。

                                                                                                           10/10

〇「キングメーカー云々」笑止だが、いつの間にか「キング」?単なる裏工作者を「キングメーカー」という「美称」に置き換える意図は?政局とは陰謀のことなのであろう。洒落にもならず限りなくブラックである。「アソウ節」、「コウノ節」これで何が許されたのか、何を納得させようとするのか、言うに事欠いたか、作為なのか、これもまたブラックである。

                                                                                                             10/8

〇「彼(女)は反新自由主義だから」、これで問題のある新自由主義を否定して新たな展開を目指しているのかとオメデタイ解釈をすれば、それまでである。カルトを基盤にした全体主義国家を目指す者たちも当然「反新自由主義」であるということを忘れるべきではない。「新自由主義の見直し」という表現もそうである。どのように「見直す」のかが問題なのである。状況が状況だけに、耳触りの良い言葉に僅かでも光を見出したい一心で、思いばかりが先行し判断を誤ることになる。そこには、やはりハイデッガーですらヒットラーに欺かれた要因の一つが通底していると思われる。況や、昨今動きが活発化している御用学者、その周辺の評論家、ジャーナリストなどは言うに及ばない。そもそも彼らの成り立ちそのものが買われた命で、知的売春夫(婦)と言ってもいいようなものであるから尚更のことである。「反新自由主義」を標榜し、耳目を引き、やがて、カルトを基盤とした国家による徹底した管理、裁量的政策に移行させるという寸法であろう。新自由主義に対しては、是正する方向で徹底した追及だけが必要であり、その追及の過程そのものが問題となるのである。新自由主義に対して、明確に拮抗し得るものを持ってこようとすれば、一見よさそうには見えるが、それは国家権力の再強化編成に必然的につながり、その作業自体には危険が伴うのである。飽くまで既得権益の死守に過ぎないことを「国民の命を守る」と言い換え、カルト的独裁国家を「強い国」などと称して国民には再び「捨身」を要求し、またそれが当然と思わせる安直な教育を施す。今、偽りの曙光などを見てありがたがっている場合ではない。さらに、様々なところで、細心の注意が必要となってきているということに過ぎないのである。

                                    2021 10/6

 

〇コロナ禍も含め、国民のことを考えているのなら、国会を開いて緊急にやらねばならないことは多々あるにも関わらず、選挙のためにメディアジャックして、自党の政治ショーに現を抜かす。これも一事が万事なのであるが。ここまでくると、またぞろ、言わざるを得なくなるのが「改憲問題」である。「改憲」を一番望んでいるのは、「自国民」というより米国であり、ジャパンハンドラーとジャパニーズカルトであるということだ。それに煽られて帆掛け船みたいな御仁たちがこの機を逃してなるものかとばかりに「右旋回」ばかりを繰り返しているというのが実情である。いつの間にか、「保守本流」、「正統派右翼」までもが「左翼」扱いになっている。これでもっともらしく「憲法論議」?、論議など元々するつもりもなかろう。「結論」一途でいかに「右旋回」を繰り返し、戦前回帰を成し遂げるか、それだけである。そして、めでたく「他力自主憲法」の成立の暁から、位置的にも「世界の実験場」と化す可能性は今まで以上に高くなるということは余程の極楽とんぼ、平和ボケしたタカ派でもない限り、普通に考えられることである。どちらしても、特攻隊などを強いる国とは、自爆テロも可能なところと同様、やはり「カルト」として捉えられる範疇以外はあり得ない。民主主義がほんとうに根付いていないところで、「カルト」に基づいた国家観で突っ走る御仁たちが憲法をどのように援用、敷衍するか、あるいは変えるかはわかり切ったこと。それは軍産複合体にとってもオイシイ路線である。その彼らがバックアップするために白羽の矢を立てるのは、決まって従順だが口だけは達者な空疎な人間である。多少狂っているくらいの方がさらに都合がいいのである。これでは異常な結果しか生まない。ほんとうにどこまで後退してしまうのかと思われる昨今である。

                                   2021 10/3

 

〇変わったのは言葉遣いだけ、後は自滅。「新自由主義の見直し」?この「見直し」はどのような「見直し」なのか、そこを問うのがジャーナリストでもあろう。「新しい資本主義」とは「新新自由主義」のことで、新自由主義をさらに巧妙に拡大浸透させることだとも言えるのである。そうでなければ、「見直し」とは、具体的にどういうことなのか、きちんと説明しなければならない。常にどうとでも取れる言い方で、その場しのぎをしてきたことが今なお連綿と続き、今後も全く変わることはないことがよくわかる。「新自由主義は敵である」というのであれば、それだけで明確に内容も方向性も見て取れるが、飽くまで「見直し」である。これをまた希望的観測で、おめでたく解釈すれば、再び地獄である。彼らは都合よくどちらにも解釈される言葉をあらゆる個所に埋め込み、変わったように見せかけるしか生き延びようがないことを明確に見据えておく必要がある。そうでないと何度でも騙されるということになる。もうすでに騙され続けて、身も心もボロボロであろう。

                                    2021 10/1

 〇見え透いた三文芝居でよくまあここまで長く引っ張ったものである。ありそうでなさそうな、なさそうでありそうな、実のところ、何もない。しかし、このもっともらしく、長ったらしい金のかかった政治ショーに知らず知らずのうちに乗せられ、巻き込まれてしまっている者もいることであろう。そういう意味では衆議院選前に今までの負のイメージを払拭する効果は、特に「B層」などにはそれなりにあったであろうと思われる。その点では、この政治ショーの仕掛け人の思う壺でもあるが、その「思う壺」はすでに底が抜けていて、だだ漏れである。どちらにしても、この組織が骨粗鬆症も併発している末期癌の状態であることを見せつけるライブであったことは間違いない。下級国民はもう失うものはないのだから、常にチェンジを求め、チャレンジに身を委ねるしかあるまい。それが持たざる者の唯一の強みなのである。年収300ー400万程度の者、それ以下の者たちが既得権益側の口車に乗ってその気になっているのを見るたびに、人間の弱さ、愚かさを見せつけられる思いがする。

「大衆は小さなウソには敏感だが、大きなウソにはコロリと騙される」とは周知の悪名高き御仁の言。今後、美辞麗句で飾られた大きなウソがゴロゴロ出てくるであろう。平均賃金G7中、最下位、OECD加盟国35か国中22位で韓国より下回っているという現状も忘れて、「頭」も「屋台骨」も腐っている組織の甘い言葉に振り回されているばかりでは、転けるだけでは済むまい。

※「B層」:広告会社が、階層分類の一つとして便宜上作り出した言葉で、IQが低く具体的なことはわからず、イメージで選挙をしたり、ポピュリズム政治、特に詐術的迎合に乗せられやすく、流されやすい層。

                                   2021 9/29

155.つれづれに一言で片づければ(30)ー36件ー695件

〇「あの人はブレなかったですね」、これは誉め言葉でも何でもなく、むしろ意味不明で危うい括り方なのである。ブレないことが、もし「良いこと」なら、ヒットラー、ムッソリーニなど独裁者たちもブレることなく素晴らしい者たちということになる。現在の日本でその言葉を遣うなら、問題となっている為政者を正当化させ、ゾンビのように生き返らせる呪文の一句ともなり得る言葉である。「あの人はブレない」、ブレないこと自体が「良いこと」なのではない。己のスタンスに従い、誠実に、なおかつ合理的に誰のために、何をなすべきかが明確にわかっている者が「良き為政者」ということであるに過ぎないのである。「ブレるブレない」だけで括るのは、不用意である。頑迷固陋もブレることはないが、それは決して「良いこと」ではあるまい。

                                 2021 9/26

                                  

〇繰り返される政治ショー、いくら金を使っても三文芝居、いつの間にか猿芝居、それも猿と一緒に、操る親方まで出てきてマリオネットに明け暮れる始末。また、そこで繰り広げられる山師の玄関のような口上を、その気になって、いっぱしの評論家気取りで舌を伸ばしたり、舌を鳴らす者たち、一見笑止なる様相ではあるが、詰まるところ、この政治ショーを仕掛けた者の手中にまんまとハマっているのである。出演者(当事者)自身がこのマリオネットの糸をどこまで切ることが可能であるか、どこまで切り続けることが可能であるか、それで、その先のすべては決まる。要するに、傀儡師の抹殺である。できなければ、何度でも解体、下野しかあるまい。支持者でも何でもないが、傍であまりにも無様に、頽れる者がいれば、つい手を指し延べてたくなるという心境である。

しかし、いまだに「反日」などという幼稚な言葉で括り何かすべてわかったつもりになっているタリバンの中の文盲衆のような御仁たちも多いようである。いやしくも先進国であるなら、ネガティブキャンペーンにしてもレベルが低すぎる。デマゴーグのデマゴギー程度なら、すでにお里は知れ渡っているから知ったことではない。そして、最近の共産党云々、ロシア、中国、北朝鮮など共産主義国でも何でもない。共産主義を騙る単なる全体主義国家である。右回りになった全体主義国家を左巻きのように扱う右回りには毎度噴飯する。もはや「反日」、「赤」などというネガティブキャンペーンは通用しないのである。中には、「なりすまし日本人」などという言葉で、政権批判する者をご丁寧に軒並み取り上げている者がいるが、この御仁もやはり「なりすまし日本人」の類であろう。なぜなら、誰かに頼まれたのでないのなら、この日本人観は病的であるからである。そもそも、本物は説明を要しないし、秘密警察の真似事のようなことはしないからである。

 

                                  2021 9/22

 〇しかし、改めて言うまでもなく、新自由主義は汚い。それはあらゆる分野に、その末端にも現れている。要するに、それはどのような美辞麗句を並べ立てていても、必然的に何でもありの目的のためなら手段を選ばぬ所業となるのである。実際に、現状は大衆に媚を売り、権力に媚びを売り、その本心を粉飾しつつ、我利、我執に囚われた者たちで溢れかえっている。スポーツでさえそうである。相撲、野球を見ていても一頃のような面白さはない。要するに、汚いの一言でしかない。だから、余計に大谷翔平の登場が際立つのである。そして、彼の登場もまた歴史的必然なのであろう。

 話は変わるが、「勧善懲悪省」?の復活?これではその内に、「魔法省」も出てくるのではないかと思われる。イスラム法ではなく、ムハンマドの教えをきちんと教える必要があるといっても、大方が文盲では、一部の者たちの都合の良い解釈でどのようにもリードされてしまうであろう。宗教がらみで、それにはさらに危険が付きまとう。異を唱えれば、「信心が足りない」の一言で、よくて「村八分」が落ちである。「信心が足りない」も「愛国心が足りない」もその遣われ方は同じで、本質的にも然したる違いはない。

                                     2021 9/19

 

〇北朝鮮がミサイルを発射させるたびに、突然、生気を取り戻す者たちがいる。軍産複合体に「帰依」する者たちと、それにすぐに乗せられる平和ボケした「タカ派」の単細胞改憲論者のグループ。もし、こんな黒かびだらけの常套手段に引っかかる者がいるとすれば、やはり、思考停止状態の怠惰な者たちと言わざるをえない。自衛隊派遣を「有害無益」と身を挺して言い切った中村哲さんの言動を信じるか、安全地帯で勇ましいことを言っている我利我利亡者の言動を信じるか、それは、火を見るよりも明らかなことである。コロナ禍の中で、オリンピックに気を取られ、「総裁選」という打ち上げミサイル付きのイベントの下馬評にその気になって関わっているうちに、また肝心なことは忘れ去られ、これ以上落ちようがない身の上も忘れ、保身に傾く。ワクチンを全面否定するつもりはないが、ワクチン接種の現状を見ても、申し込んでも受けられない者がいる一方で、もうすで2,3回接種した者たちもいるようである。接種した彼らが言うことには「人に感染させたくないから」、もっともらしいが、自分だけは助かりたい一心で、遅れてなるものかの一念でこの1,2年四六時中接種申し込みに明け暮れた結果でもあろう。それでも、感染している者もいる。そう、ワクチンを治療薬と間違えている者もいるからである。そして、その「副作用」もまだ未知数なのである。重症化するより未知数の「副作用」を取るというのも、自由な判断ではあるが、数年後、その「副作用」が出ても、法的にも任意接種なので、国はその補償の義務はないのである。

※補償の義務はないが、救済制度は設けられている。しかし、因果関係について国の審査が入り、因果関係があるという判断はほとんど出されないだろう、というより不明ということで処理されるのが実情であると思われる。実際、この新型コロナウィルスについての専門家なるものは皆無なのであるから、当然である。

                                  2021 9/16

 

〇新自由主義と新型コロナウィルスとは、動きも拡大の仕方も自己増殖、変異もよく似ている。

〇何かというと「闇」という言葉で括り、納得し、わかったような気分に浸っている者もいるが、懐中電灯でもいいから少しは周りを照らして見たら、その実態の片りんがさらに具体的に見えるはず。

                                                                                                                  9/12

〇竹中何某が、「10年間できなかったことを1年でやった」とスガの功績をたたえたということだ。これで何がわかるか?そう、「10年分の儲けを国からぼったくり」独り占めして、1年で稼がせてもらったということである。この男と同調することは0.1%もないが、もし、その「おこぼれ」にもあずかれなかった者が竹中のスガヨイショに納得しているのなら、噴飯、笑止、狂気の沙汰。

                                       9/11

〇魔法のように、詐術を使う者を「アホウ使い」と呼んでいる。すなわち、策士策に溺れる類である。それをご丁寧に読み解いたかの如くの言論人、メディア、それだけでは、やはり「アホウ使い」のパシリでしかないだろう。いくら裏事情に詳しいと言われても、所詮は加工された「裏事情」、そんなものをどれだけ蓄積しても何の役にも立たない。むしろ肝心なところから遠のくばかり、その様、離岸流に流されるがごとくである。現に、その標本は枚挙にいとまがない。

                                      9/9

〇ビートたけしの乗った車が、刃物を持った男に襲われたという。例によって例のごとくの各局、襲われたことだけを伝えている。その理由は、まだ不明だから出さないのか、わかっていても出せないのか不明であるが、その直前に出演していた番組の、たけしの発言が関係しているのは誰でも大筋のところ推定できる。しかし、この程度の発言でこれである。いかに加害者筋が追い詰められているかがよくわかる。今後、この加害者がどのように「処理され」伝えられるのか、伝えられないのか、どちらにしても想定外はあり得ない。

 案の定、加害者の動機は矮小化され、「誰も」が腑に落ちるような卑俗なものとなっているが、加害者の実態は不明、暴力団員ともいわれている。さらに、番組中にたけしが話したことも肝心なところがカットされている。その話にはアベ、アソウが登場していたはず、そして、スガを裏で操っていて、やりたけりゃ自分が出てきてやりゃいいじゃないか、などと言ったところは完全に消されている。共産党がどうのこうのというところだけが取り沙汰されているが、これも自主規制か、実際に圧力がかかったのか、このようなことをするからまた余計に圧力の大きさ、方向が具体的にわかってしまうのである。彼らが反社のメンバーを足のつかない三次下請け程度で「飼っている」のは誰でも知っていること。(9/6)ー現在のところ想定外はなし。すべて、然もありなん。

 最近のたけしの発言のどこが「暴走発言」なのか、ビクビクと自主規制ばかりしている内に、自由な思惟、発言の意味も分からなくなったようだ。「お友達」になれば優遇、そうでなければ排除。その内に、自主的戦前回帰か、悪い冗談にも限度がある。ある時は柔和に、またある時はもっともらしく国民の安心、安全を説きながら、時が来ればナチス礼賛のこの政党は対峙する者すべてに牙をむくことはすでに多くの者に見抜かれている。やがて、「ごろつきの最後の拠り所でもある愛国心」の有無だけに終始することであろう。

                                      9/5

 たけしを襲った加害者は、9/30現在、名前も顔も公開されていない。いかなる理由があろうともこれは異常である。多くの者が推定する通りで、公表されては困る理由があるということである。

 

〇「発信力の問題」などではない。内容の問題である。実際、内容がないから、現実を見ても見えず、正確な発信ができないのである。「誰がやっても難しい」状況などと、したり顔で言う者がいるが、それは常にそうであろうが、問題はそういうことではない。要するに、すべての責任を負ってなお断行する覚悟があるかどうかということである。限られた階層の中だけの右顧左眄ではこうなることは当然で、まったく話にならない。誰のために何を行っているかという根本原理が問題なのである。こんなことが問題になるほど堕落してしまっているということでもある。山師の徒党と化してしまった集団の行き着く先はもはや解体場しかないのである。全国津々浦々、「お祓い」には事欠くまい。

                                                                                                       9/4

 

〇すべてのワクチンが「任意接種」であるにもかかわらず、あたかも接種義務があるかのような風潮を作り出している危うい現状である。これで「副作用」が出ても(「副反応」などという言葉は欺瞞)、それが原因で死んだとしても厚労省、「専門家」などは決してワクチンとの因果関係は認めず、すべては任意接種で自己責任とされる。国や製薬会社は賠償責任など気にせず「ワクチン事業」をラクチンに進めることができるという寸法である。「ワクチン、ワクチン」と所かまわず吠え立てる者たち、ワクチンをコロナ終息の光に見立てる頓珍漢もいたが、その気になっていると、結果どうなっても自己責任なのである。中村哲さん、近藤誠さんレベルの覚悟した医者でない限り、大方が医療産業の従事者で、損になることはやらないということを忘れないことである。特に肩書ばかりのお立派な医者、専門家は一番危ない。製薬会社からの金の流れも気になるところである。

 今さら言うまでもないが、バラエティー系の報道番組などに毒されていると、まったく現実が見えなくなることは確実である。現実を見えなくさせるのが本来の狙いでもある「報道」番組ということである。基本的に、本当のところ、肝心な部分は何一つ伝えていないということである。

                                    9/2

〇何を聞かれても「安全を最優先にして、現状分析しながら対応するよう指示した」と言う。要するに、何も具体的に指示していないということである。ワクチンは治療薬ではない。打てば感染しないというわけではない。ワクチンに頼っている限り、変幻自在の新型コロナウィルスと永遠にイタチごっこである。こんなことは敢えて「専門家」に聞くまでもないこと。全滅させるか、イタチごっこを繰り返すか、後者を選ぶなら、まだまだこれからであろう。マスク生活は治療薬ができるまで続くということである。すでに医療崩壊しているというのに、ワクチン頼りで、「光が見えた」?天体望遠鏡でどこを見てつぶやいているのかといいたくなる。それとも「お告げ」でもあったのか?これでは、ウィルスが全滅する前に自分たちが全滅する。

                                    8/29

〇パラリンピックは、無観客開催から一変して児童を動員して開催することになったという。デルタ株で児童も安全ではないことがわかっているにもかかわらずこれである。これでは「学徒動員」と同様の「児童動員」であろう。詳しい説明もなく、ただ「ご理解下さい」、「ご協力下さい」などと言われて、その気になっていると自分が大切にしていたものが少しずつ壊され、取り返しのつかないことになる。

                                     8/28

〇今頃「明かりが見え始めている」とは、恐れ入る。やはり今まで真っ暗だったということである。それがわかっていての「オリンピック」、真っ暗闇の中「GO!GO!」で前進させれば、結果はわかりきったこと。その責任は大きい。そして、またバッハである。バッハを「無理やり」「引っ張り出し」て、自分たちに向けられる矛先を「かわす手口」は所詮、下僕、下女の浅知恵と言わざるを得ない。このリップオフ男爵を手なずけるには湯水のごとく税金が使われたことであろう。

                                   8/26

 〇「ご理解いただきたい」と繰り返すばかりの為政者、まったく具体的に説明もせず、一体何を理解しろというのか。ここまでしだらなく甘ったれていられること自体、不気味であるが、それ以上に極めて無礼である。さらに、いまだに「医療崩壊の危機」などと言っているが、すでに医療崩壊はしているのである。現実の何を、どこを見ているのか? 医療崩壊しているにもかかわらず、「お祭り騒ぎ」である。これをオカシイと思わない方がオカシイ。いわゆる「戦場」、それも敗戦色の色濃く出た「戦場」でオリンピック、これもかなり不条理だが、パラリンピックではそれにさらに強烈なブラックがかかってくる。やはり、常識では考えられないことなのである。非常識なバッハもそうだが、それに倣う者たちもすべて狂った阿漕と化している。アスリートたちも目の前の「金」しか目指せないのであれば、アスリートなどやめた方がいい。それ自体アスリートとしても、人間としても限界がある。この状況で「観客がいた方が思っても見ない力が出る」などとよく言えるな。いつまで甘ったれたことを言っているのか。それは、自らアスリートとしても、人間としても二流と言っているのに等しい。

 「東京コロナオリンピックの金メダリスト」、「あの時のメダリスト」などと、 後世語り継がれることであろう。

                                      8/25

〇タリバンを見ていると、イスラム神学生を主体とするアフガニスタンの宗教・政治勢力ということであるが、とてもイスラム教の信者とは思えぬ。ムハンマドもさぞかし歎いていることであろう。イスラムの教えの一部を都合よく解釈して、簡便なアジビラ(アジテーションのためのビラ)程度の内容で理解力も乏しい者たちをかき集めて作った武装集団としか思えない。そう、単細胞は小冊子程度の内容で吹き込めばすぐにその気になるものである。もちろん、金の流れも重要なポイントにはなる。

 再登場したタリバンの武装集団は、三国志の司馬懿に出てくる私兵のいでたちによく似ているが、中国の山奥で訓練でもしていたのか。

                                      8/22

〇名古屋入管の実態、この収容施設は現在のアウシュビッツ収容所か、何をやっているのか。このような非人道的行為は許されるものではなく、これは日本の汚点、日本人の恥さらしである。弁解の余地はまったくない。提訴されて当然である。自分のやっていることがまったくわかっていないのであろう。やがて、これもまた世界に知れ渡ることになる。

 あの手この手の「火消組」も登場しているようだが、すべてはお里が知れる。恥の上塗りはみっともないだけ。提出書類がすべて黒塗り状態、どこの後進国、独裁国家かと思わせる醜態である。やはり、頭が腐れば、どこを取っても同質である。

                                        8/21

〇希望的観測などとは、手垢のついたウソを遠くのまだ見ぬ明るいウソに置き換えるだけとも言える。特に、現実的であることが最重要課題でもある時に、その発言内容の希望的観測の占有率の高さは、もはや敗北の証、墓標にしかなり得ない。そんな流れの中での妙な明るさは不気味なだけで、人間の境涯からかなりズレているように思われる。ハレーションを起こしている中で、ひきつるように笑う者とは、狂気そのものであろう。「吸える空気のある限り、肺がいつまでも呼吸を止めようとしないのと同じように」未来のない現在を引き延ばすのは、やはり克服できない「本能」とも言い得るものなのであろうか。「克服できない本能」にまでなってしまったものとは、それが狂気に至る過程であることさえまったく感じさせないから怖いのである。

 巷間では、相も変わらず、愚行と謝罪の繰り返しが絶え間もないが、謝罪して許されると思っている方もオメデタイか、かなり愚かである。その愚行と謝罪、多くは案の定と思われる者たちばかりである。繰り返されること自体、これもまた狂気の一つの様相であろう。魔が差したなどといわれる酌量の余地がある者などは、実のところ、極めて稀である。

                                    8/18

 

〇野球選手の暴力事件、この男はアマチュアからその傾向はあったらしいが、それを「ヤンチャ」などという言葉で括っていつまでもその気にさせているから、こんなことが起きるのである。スポーツが人並み以上にできる程度で、何でも許されると思っている愚かな人間の一人である。顔つきにもすべてが現れている。どちらにしても、先のない集団、組織であることは間違いあるまい。大谷翔平も早くこんなチームから離れて正解である。

 後日、この男は巨人に入団したそうである。これで野球界全体の衰退は決定的となった。この男がうまくいってもいかなくても悪影響しか与えぬからである。こういうことをやっているからあらゆることに関して示しがつかなくなるのである。政界もしかり。(8/20)

 その後、長嶋茂雄がこの男(中田翔)を直接指導したそうだ。何を勘違いしているのか、三流芸人のポイントのズレたコントを見ているようである。どちらにしても、長嶋は、示しのつかないことを身をもって周りに示してしまったということである。これ以上晩節を汚すことは止めた方がいい。(9/13)

 

                                   8/12

 〇巷の瓦版では、オリンピック開催について、やって「よかったと思う」が64%、「思わない」が28%(読売)。「よかった思う」だけが前面に出されていたが、「みんなの意見」(200447票)では、オリンピックの成否について、失敗58%、成功36%。因みに、内閣支持率は、支持が35%、不支持が54%(読売)。この手の世論調査、この種アンケートの問題は多々あるが、複雑な状況にもかかわらず、周知のように単純化されたお決まりの選択肢で強引に振り分けたものに過ぎないということである。他の紙面は見るまでもなく、大方の情勢は読み取れる。そして、聖火ランナーを務めた女優と閉会式で登場した女優の事後の「釈明」について一言付け加えると、これは認識論の問題ではなく、存在論の問題なのである。わかりやすく言えば、戦場の司令官が、後日「実は、私は戦争には反対であった」と言ったり、戦争中に国威高揚の作詞作曲などを盛んにしていた者が、戦後「戦争はやはりいけません」などと言ったりしているのと同様の問題がある。たとえ心底そう思っていたにせよ、その時そこにいて自分がどのような「あり方」をしていたかが問題なので、何をどのように言ってみても、その「在り方」自体が戦争を、この場合はオリンピック開催を容認していたということなのである。

 

                                       8/9

〇「手の平返し」を得意技とする者は多いが、中には「足裏返し」まで併用する者がいるので見分けるのも一筋縄ではいかない。

〇Adieu Olympiques  Adieu pour toujours!      オリンピックよ 永久にさらば!

                                                                                                                  

 ギリシャでは400か所で山火事、オリンピアの遺跡にも迫っているという・・・ギリシャの神々も怒っているのであろう。

                                                                                                                  2021 8/8

 

〇このコロナ禍で、様々なものが浮き彫りになったということは以前にも言ったことだが、いつの間にか「ぬらりひょん」のようになってしまった者や、明確に自らのスタンスを打ち出す者の確認もできた。総じて、現実を見ていない者、現実を見られない者、現実を見ようともしない者がいかに多いかということもわかった。同時に 直視もできない現実をわかったようにしたり顔でモノ言うものたちの実情も底まで見えた。為政者に対して「あなたは何もわかっていない。現実を見よ!」と怒りを込めて叫ぶ最前線にいる医者も出てきた。それは当然の帰結であろう。最前線にいれば、具体的にその致命的な問題が見えるのである。それを、安全地帯でもっともらしい「権威」を盾にいちゃもんをつける者もいた。しかし、それはどのように理路整然とした論文を根拠とした見解であろうとも、今起こっている現実ではない。それを直観的にも知り得るのはそこにいる人間だけである。その直感を論理的ではない、根拠がない、エビデンスがないなどと言ったところで、論理と根拠で構築された世界も実は現実ではありえないのである。そういう意味ではいかなる権威も、それですべてが解決するわけでもなく、明確に現実が見えているわけではない。日々検討を強いられるというのが現実に対する誠実な態度である。現にこのコロナウィルスは、常に変異しているのである。今後も変幻自在で、どう出てくるか不明である。抜き差しならぬ現実に直面している者の声を謙虚に受け止められないようではどうにもならない。「権威」にしがみついているだけでは遅かれ早かれ、滅び去るしかあるまい。

                                  8/6

〇「五輪ツイート開会式を機に一変」とあった。その隣には「納骨堂、永代供養」の大きな広告。たまたまそうなっただけであろうが、象徴的な取り合わせである。本当かどうかは知らぬが開会式直前までオリンピック開催に否定的であった意見が「肯定的」になったということであろうが、その実態も明確ではない。前にも言ったが、スポーツ自体に感銘を受けることと、この尋常ではない状態を「作り出した」ことを許容するかしないかは別問題である。

 しかし、いざとなると逃げ足が速い。そんな者に限って大言壮語を吐くものである。その常習犯が現在鳴りをひそめているということは、現状はかなり危険な状態に向かっていると見る方が賢明であろう。一律に流されるオリンピックの絶叫報道に乗じて、大中小のネズミどもたちも同様に鳴りをひそめコソコソ逃げ出している。やることと言えば、後は逃げ口上の明文化くらいなものであろう。

 「見せ物」につられ、死に急ぐことはあるまい。

                                7/29

 

〇案の定、「金」「金」金」と絶叫で騒ぎ立て、やはりオリンピックをやった価値はあるという方向に持って行かれているようであるが、しらけ鳥の鳴き声は、いつになく鮮明である。マスクでくぐもっているような鳴き声は、さらに計り知れないものがある。実際、テレビの絶叫中継とは裏腹に、巷からオリンピックの話が漏れ聞こえてくることはほとんどない。オリンピック開催反対であった者の中にもスポーツに感動する者はいるであろう。それはごく自然なことで、音楽、スポーツそのものは現実の状況とは無関係な、ある意味で「絶対的な領域」を持っているからである。だから、為政者はその領域を利用するのである。独裁者や為政者と音楽、スポーツがもたらす感動とはまったく無関係であるが、威厳、高揚感を作り出し、その結果、それとは無関係な現実の問題点まで相殺されてしまうのが常である。しかし、今回は、すべてにおいてコロナが、敢えてファクトチェックするまでもなく、有無を言わせず現実そのものを見せつけるであろう。

                                2021 7/28

 

〇特に今回のオリンピックは見たくない、見てられない。多くの人々がコロナ禍で倒れ、医療崩壊寸前で、困窮し、行き場をなくしているにもかかわらず、この様なのである。このような事態にも眼中に人無しのすりこ木のような神経そのものを疑っているのである。これもまた一事が万事、何をやってもこの通りであろう。もう二度と訪れることのない日本の最後のオリンピックが東京コロナオリンピックである。様々な人間の本性を浮き彫りにさせながら過ぎ去ろうとしている。後には、まともに「野」も、「山」も残るまい。ただし、この虚しくできの悪い幻影に飲み込まれなかった人々にはいくらかでも期待が持てるのではないかと思われる。こんなものに感動?安っぽすぎる。偽物文化に馴らされた結果であろう。だから、いともたやすく騙されるのである。

                                   2021 7/24

 

〇このサイトの「メッセージ」133「ダブルバインド」(2021 4/30)で、「ダブルバインド状態のまま具体的なことは打ち出さず、協議、検討、『お願い』等々、おそらく開催前日までこんなことをやっているのではないか」と書いたが、その通りになってしまった。ここまで来ると、この後はさらに具体的に想像できる。                           

                                2021 7/22   

〇2021東京オリンピックは、どのように繕ったところで、東京コロナオリンピックとして銘記されることであろう。そして、オリンピック自体が様々な致命的問題を噴出させながら終焉に向かっているということは大きな流れでもある。この期に及んでもなお、哀れな幻想にしがみつくことについては、愚かしいまでの哀れさと底なしの無知を感じる。

 偽りの夢で人心を惑わす者の曰く、「今宵、余のために集いたる愚かな臣民どもよ、余が与える希望、夢を信じるがよい。汝らの無残な足元を見るではない。汝らに与えられた唯一の最善の方策は余を信じることである」。余とは、何者か?大したものではない。欲に目のくらんだ尋常ではない者ということに過ぎない。

                                    7/22

〇「戦場のピクニック」という本があったが、今は戦場でスポーツというところか。実際、激戦で一兵卒は死線をさまよっているという状態でも、上層部とその周辺では何かといえば宴を催していたのである。現在でも、一般庶民には「欲しがりません勝つまでは」などと同様の真綿に針を包むような「お願い」(規制)を強いているが、上層部とその周辺は好き勝手にもっともらしい名目をつけてはパーティを至る所で催しているというのがその実情なのである。よく見れば、、戦争中の様々な人々の日々のありさまが手に取るように再現されているのがわかるであろう。今も昔も本質的には何ら変わっていないのである。

                                      7/19

〇今回の東京オリンピックの主役は、何と言っても新型コロナウィルスであろう。たとえどのような金メダリストが出てこようが、このコロナの出方一つでそれは一挙に変質し、かき消され、制圧される。この大会によって新たな死が呼び起されているのである。この主役を実質的に引き立てきたのがバッハである。彼の「付き人」かと思われるような者たちもよく彼をフォローし、コロナの活躍の場を与えてきた。実際には、後は野となれ山となれの死の商人のようなことをやっているにもかかわらず、自らを「平和の使者」と称し広島に行く。「Liar!」(嘘つき!)「帰れ!」「来るな!」と叫ばれても当然であろう。バッハが「平和の使者」とは、質の悪い冗談としか思われない。

 「おもてなし」などと、いつまでもへらへらと幇間(ほうかん)のごとくになっているのをよく見かけるが、言うべきことも言わないでいるから、今こうなっているのである。「沈黙は金 雄弁は銀」などということを、単純に黙っていた方が得だなどと考えているとすべてにおいて誤る。場合によっては沈黙は「禁」にもなり、自らを潰すことにもなるということである。雄弁術は別にして、雄弁は雄弁術に長けていなくても内容次第では「金」にもなるのである。この言葉の由来をみても、「説得力のある言葉を持つことは大事だが、黙るべき時を知るのはもっと大事だ」と言った程度のことなのである。しかし、「黙るべき時」というものを知ることは、やはり、説得力のある言葉を遣いきれる者でないと知り得ないものであろう。ただし、真摯に思ったことを、どんなに稚拙であろうとその時に言わないと、まったく無意味となるケースは多々ある。言うべき好機を逸してしまっては、後でいくら悔やんでももはや手立てはないということにもなるのである。

                                       7/17

 〇トーマス・バッハが「開催を恐れる必要はない」と言ったそうだが、これは本来ならその国の長が言うべきことである。「コロナの禍」ではない、「黄色い禍」すなわち「黄禍論」が遺伝子レベルで組み込まれたようなドイツの知的レベルで問題のある「平民」では、チャイニーズとジャパニーズの区別も明確ではないだろう。ただ、その言い間違いの中に、その人間の世界観を構築している意識構造の本体が晒らされているのである。このような者に言いくるめられ、言いなりになって二進も三進もいかなくなっている者(たち)とは、一体何者なのか?「開催を恐れる必要はない」などという「御宣託」をありがたがって黙って聞いているだけとは一体何者なのか、口から出まかせに「アンダーコントロール」などと言っていた者と同様に極めて危うい。バッハのような者の言うがままになっていることこそ実質的に「反日」であろう。しかし、これほど馬鹿にされても何も言うことができないとは不思議である。無惨、ただ無惨としか言いようがない。

クーベルタン男爵から「ぼったくり男爵」へ、何事も放置すればかくのごとくである。すべてを古代オリンピアの遺跡に戻す時なのである。大いなる幻影の終焉である。

                                      7/15

 〇今なお、「スピード感をもって」などという言葉が出てくる。スピード感とは、スピードがある感じ、早い感じということで、決して速いわけではない。飽くまで「感じ」なので実際の速度となると全く不明である。何をやらせても、てきぱきと手際よく物事を処理できないからこのような言葉が出てくるのであろうが、案の定、「スピード感をもって」と言いながらとうとうオリンピック開催直前まで来てしまった。しかし、今もって、「専門家」(?)と「相談」(?)しながら「スピード感をもって」やるなどと言っているのである。おそらく、大会終了まで、「スピード感をもって」やることであろう。時速3キロメートルも停止しているよりは確かに速いが、すべて後手後手になるのは避けられない。そして、そのこと自体で、犠牲者も増えるのであるから、それは犠牲者を見越した判断ということになる。新語、造語でいかに埋め尽くしても、その実態はまったく変わらないし、すべては見えていることである。

                                     7/14

〇何を聞いても、いつまで経っても「現時点では、何も決まってはいません」、決定権者がそれで済むのか?そして、取って付けたように決まって「安心、安全、万全の態勢」で臨むと言う。言質を取られることを極力避けた言葉の羅列、すなわち責任回避ばかりが最優先しているということである。何のことはない、逃げ回っているだけなのである。ごまかす手練と責任回避の手管に埋め尽くされた者たちと、エアロゾルのような言葉を取り留めもなくまき散らす「詐術師」は、決して国を語ることはない、国を語れないから国を「騙る」のである。

                                     7/8

〇「反日的な人が五輪開催に強く反対」と言う御仁、こういうことが平然と言えてしまうという者については幼少時期の精神的な発育障害・不良ではないかと思っている。その後のごく普通の成長にも影響を与える負の因子との対峙がなされないまま、「餓鬼」のまま「成人」となってしまった者たちの一人であろう。これはやはり致命的な欠陥で、こういう者が権力の位置にいること自体が多くの者にとっては最大の不幸となる。「五輪開催に反対する者」が「反日」、すなわち日本あるいは日本人に反感を持っているなどとまったく的外れなことを言っているのであるから、事はますますおかしなことになる。危機管理能力もなく多くの者たちを危険に晒すことにもなることをやっている為政者に対して抗議をし(応答なし)、反対し、その結果、五輪は中止すべきだと言っているだけであろう。日本に敵対するがごとくの「反日」などという言葉で括り、煽り、肝心な問題をすり替えるのは卑劣極まりない。習い性となってしまったやり口が何気なく出ただけのことかもしれぬが、やはり政治レベルを超えて全人格的にも問題がある。こんな者の言葉に惑わされているようでは御身の体はいくつあっても足りますまい。とにもかくにも、何もかもが軽く、特に自分以外の人の命など浮遊物ぐらいにしか思ってはいないのがその実情である。

 一頃、小学生の作文の題のような「美しい国、日本」などという言葉が出回っていたが、日本の良さ、問題点も充分知り尽くした者にとってそれは幼児言語の領域であったであろうと思われた。しかし、驚くことに、これで何かわかったような気にさせられた者、また、これぞ「保守」の本流のイメージとばかりに飛びついた者もいたようだ。周知のように、現在「保守」それも「本流」など言い得るものは存在しない。「伝統」などという言葉で粉飾されたカルト集団を「保守」とは言わないのである。まず、彼らと「伝統」などとは全く関係ないということを知るべきであろう。それは単なる方便、イメージ操作である。むしろ実質的には「伝統」の破壊者であると言った方がよい。現状は、残念ながら、保身術、護身術ばかり巧みな三下奴が徒党を組んで牛耳っているとしか思えないのが実情である。

 しかし、 彼らを甘く見てはいけない。彼らは知らず知らずのうちに空気の成分さえ変えるのではないかと思えるほど手が込んでいるからである。あらゆるジャンルを総動員して五感に入り込み、やがて第六感にまで至り、それをコントロールしようとする。実際、そのような例は日々、見聞することでもある。

 それに対抗する唯一の方法は、100万の冷静な目である。まず、素朴な疑問を臆することなく発してみることである。どんなに状況が八方ふさがりであっても自死することはない、気休めは言わない、死を覚悟するくらいならまず戦ってから死ぬことだ。「敵」はコロナだけではない。そして、「戦い方」はいくらでもある。

 最後に、「極限の孤独」に耐えられるようになって、はじめて一人前の「大人」といえるのではないかと思っている。しかし、ほんとうの「大人」に巡り合うことは稀である。

                                 2021 7/4

 〇詰まるところ、自分の体は自分で守るしかないということである。国に頼るのも、「専門家」に頼るのも愚かということである。実際には、それが常に実情なのである。ちょっと油断すれば、権力の亡者にいいようにもてあそばれ、あるいは医療産業の犠牲になるということである。況や、「ゾンビや権力亡者が絡み合う化け物屋敷」と化した組織から出てくるものといえば、シアン化カリウムの糖衣錠くらいなものであろう。上意下達でありがたがって鵜呑みにしていれば、心身ともにバラバラにされるということである。

 さらに言えば、為政者が今の結果に責任を取れないようでは、その組織はすでに終わっているのである。ゾンビや亡者の絡み合う化け物屋敷に一体何を期待できるのか?取り壊すしか手立てはあるまい。すでに、ゾンビたちは、もっともらしい名称の議連を組織し、地球上最悪の侵略植物のごとくに蔓延りつつある。「新たな資本主義を創る」、「自由で開かれたインド太平洋」等々、それは「おもてなし」の良い「注文の多い料理店」にも似て危うい。何気に趣味の集いに参加している内に組織の一員にされているという不気味な「軽さ」と同質である。ゾンビの舌先三寸は三つに割れていて極めて軽く、回りが早いものである。巻き込まれたら、身動きつかなくなるか、それで終わりである。

 冷徹な目、今、それがますます必要であろう。カルトの不可抗力的ネズミ講にハマらないためにも、ゾンビの毒牙、薄笑いを潰すためにも。

※現在の議連(議員連盟)の総数は300前後、最近できた議連は9(最高顧問はすべてアベ)。

 参考までに、例えば「全日本アーチェリー連盟」の会長は安倍晋三、副会長は世耕弘成である。これで体裁がつく世界なのであろう。後は推して知るべし。

 やがて、アーチェリーそのものが怪しげな光を放ち始めるのではないかとさえ思われる。

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 〇「自己啓発本」なるものがどのような本なのかチェックしてみると、何のことはないハウツー本である。「自己啓発本」など読むだけ無駄と言っている御仁も、この「自己啓発本」を書いている。さぞかし儲かるのであろう。何だかんだと言ってみても、要するに、楽して得する、儲ける方法の「一部」伝授、飽くまで、「一部伝授」なのである。肝心な部分は開示できまい。

                                      6/26

 

 〇世にも不可思議な話である。初期の段階で、PCR検査を拡充できなかった、すなわち危機管理が欠如していることについて、その理由を尾身茂は「制度的、歴史的な背景」などと意味不明なことを言っていたのであるが、これで具体的に納得できたものは一人もいまい。要するに、危機管理上不可欠なPCR検査の拡充を怠った理由が「制度的、歴史的な背景」なのである。それならその歴史的流れの中で手の付けられない「制度的なもの」を見直すか、変えるより手立てはあるまいと思われるが、今現在でもこの検査の拡充に「反対する意見が根強い」らしい。そして、そのような「見解」に則って何かと言えば、PCR検査拡充を訴えた者たちをターゲットに批判する者たちがいるが、そこにはある共通した因子が散見できる。いつ倒壊するかわからぬ制度の上で胡坐をかいていれば、その先は目に見えている。その具体的結果は間もなく現前の事実となろう。もっとも阿Q的現実認識では、惨状も敗退も認識できまい。無限級数的な希望的観測が存在するだけである。

                                       6/25

154.つれづれに一言で片づければ(29)ー36件ー659件

〇我が家の鸚鵡(オウム)は、なぜか変なものをよく覚えている、「WHO」の人間が画面に出てくると、Who are you   go  away  who are you  go away  と繰り返す。それ以外にも、この鸚鵡に「クズ― 、ライアー(liar)、オオうっそー」などと繰り返される者たちもいる。時々、親し気にソダシ、ソーダシ、などという時もあるが、稀である。ソダシとはピュアの意味であるが、何気に子供のように怖いくらいによく覚えていると感心することがある。

                                                                                                             6/23

〇この期に及んで、国会でダラダラと居酒屋談義、思い出話!? 犠牲者の数より金の数しか頭にない証左。何をやっても行き着く所まで行かないとわからないとみえる。肝心な時に立ち止まれないのは、自分たちの損得勘定しかないからで、国民の安心安全など二の次であるということである。「コロナ禍に勝って」などとは夢のまた夢、これは全滅もあり得る負け戦である。

 各々方、覚悟はできているか。すでに有無を言わせず突撃態勢に入っているのである。

 今後、メディアに是非お願いしたいのは、オリンピックだけを無理やり盛り上げ、「不都合なこと」を隠すのではなく、淡々と「あったこと」をすべて伝えてほしい。それが、犠牲者ともなる視聴者に対するせめてもの罪滅ぼしであろう。

 今回、 オリンピックマフィアの実態と、そこに群がる有象無象の姿が実に鮮明に浮き彫りになった。その中には晩節を汚すことになった者たちもいたようだ。

                                 6/20

〇「宣言や重点措置解除後、大声なしの場合、定員5000人までの施設では満席とすることが可能となった」という文言を見て、思わず、笑止、失笑、噴飯である。5000人集まって「大声なし」というのは、葬式会場でマイム(無言劇)でもやるのか?水を打ったように静まり返った会場で黙々と競技は行われ、観客は歓声も上げられない、喜怒哀楽を奪われたような観客は競技が終われば、そのまま静かに会場から退出する。これがあり得るならかなり不気味である。「5000人集まって大声なしの場合」などという想定自体が現実的にあり得ないのである。こんなことを真顔で言っているのなら、これだけで現状は見るも無惨なことになるということである。最前線基地の医療現場が今どうなっているのか、最近では具体的な情報を急に流さなくなった。どうしてだか想像力豊かな人はすでに察しがついているであろう。前統合幕僚長の言う通り、危機管理はすでに失敗しているのである。後は場当たり的に突き進み、死者10000人以下で何とか収まりそうだくらいなことしか考えていまい。彼らに幻想を持てば命はいくらあっても足りない。彼らはそういう人間なのである。彼らの言う通りにすれば、どうなるか、その結果はすでに出ている。

                                    6/17

 

〇経済的要因で現実を見定められない、見ることさえできなくなっているのが現状である。あろうことか、それを時代錯誤も甚だしい呪術的信念でカバーしようとするからさらにおかしなことになる。だから、どのようなことを聞いても神がかり的な答弁になるのであろう。これでは教祖の訳の分からぬお告げを聞いているようなものである。思い込みばかりが先行し、何もかもが「質疑すり替え」、「脅し」、「やっている振り」で埋め尽くされる。ここまで現実と乖離すれば勝敗はすでに決まっている。やはり第二次世界大戦中のインパールでの現状把握ができていない思い込みだけの無謀な作戦による「大惨事」とも重なる。現実を正確に捉えることもできず、「エゴと執着の塊のような人間」があらゆる場面を仕切り、いざとなれば「他人を蹴落として生き延びる」。実際、インパールを仕切った牟田口はさっさと逃げ帰り77歳まで生き延びた。この男に付き従った多くの者たちは無惨な状態のまま白骨化していったのである。2021年7月以降、また人間的な心優しき人ばかりが死ぬのであろう。

 オリンピック開催日までにコロナ禍は収束するかという質問があったが、驚き呆れた。こんな都合のいいことを考えているから、危機管理がゼロなのである。もっと現状を冷徹に見なければ、このコロナとの戦は「大惨事」を引き起こしかねない。何をどのように粉飾しようが、要するに、「戦場」でお祭り騒ぎをしようとしているのである。G7でオリンピック開催の支持も得られた?社交辞令である。それで?誰でも言える美辞麗句を述べ立てることが「代表」の責務ではない。

                                                                                                               6/13

 追記:日本列島は世界の恰好の実験場になっているということについては以前にも書いたが、今回の新型コロナウィルスについてもそうである。それもこの程度の危機管理レベルでオリンピック開催がどうなるのか、特にフランス、アメリカにとっては貴重な第一級のデータとなることは言うまでもないこと。

〇「偏向報道」、「バイアス」という言葉が、何かと言うと気の利いた言葉として、半可通の間で飛び交っているが、言っていることは、ただ「偏向報道」、「バイアス」と言っているだけで、どこの部分がどのように、どの程度「偏向」しているか、あるいは「歪み」を生じているか、何をどのように「思い込んでいる」かが全く指摘されていないのである。ただ「赤」だの「黒」だのと言っているだけで、これでは話にもならない。敢えて取り上げる程の内容でもないが、このような言葉(スタンプ)で片づける者たちの偏向具合、バイアスを逆に厳密に分析したくもなるのである。しかし、分析するまでもなくそれに関する事例は腐るほどある。

                                     6/12

 

〇特任教授、客員教授とやらの多くは元官僚というのが多い。前職との「つながり」が強い者はやはり言っていることの切り口も甘く、必ず、肝心なことは避けるか外す。概して、特任教授、客員教授とは「御用学者」の予備軍といってもよいだろう。前職との「絆」を断ち切らない限り、いつまで経っても彼らには自由な真実探求の道は閉ざされたままである。実のところ、事実を事実として明解に言及することすらできまい。もっとも、その「絆」で商売しているという確信犯的な者については今更何をかいわんやである。しかし、無様である。

                 ー福島の汚染水処理の問題の取り上げ方についてー 6/11                

〇「今、マスクを取ると逆に恥ずかしくなります」とは「街の声」に出てきた女性である。そう、人間の恥部とは、実は顔なのである。多くの人は、それとは知らず恥部をさらして歩いているのである。テレビに出ている人間とは、その恥部をさらに拡大させているということである。だから、非常にわかりやすい。どんなに偽ってもすべては顔に出ている。要は、言っていることではない、やってきたこと、やっていること、すなわちそのすべてが顔に出ているということなのである。ある有名な政治家が「彼は、顔が気に入らない」と言って役職につけなかったことは有名な話。もちろん、それは単なる顔の美醜ではない。スマホ片手に前も見ず、人の顔も見ないのでは何が起きても不思議ではないのである。スマホが出たついでに、以前は、公衆便所そのもののようなコメントが多かったが、最近は、公衆便所の落書き程度のようなものも見かけるようになった。

                                      6/10

〇オリンピックに出場する選手を見ていると、つい本当にあなた方はスポーツが好きなのかと聞きたくなる。苦しそうな顔、悲痛な顔をしている者が多いからである。誰が頼んだわけでもない、そんなに苦しければやめればいいだけの話である。わかりやすく言えば、大谷翔平と比較すればよくわかる。一方はプロであり、他方はアマチュアだからなどという利いた風な次元の話ではない。要するに、自分が選んだスポーツを本当に愛しているかどうかである。イチローもそうであるが、大谷翔平も野球を愛していることはよくわかる。大坂なおみの「うつ病」は、彼女のテニスを愛することとは全く別のことに起因する。その原因も明確である。 

                                      6/9                                                                                                                     

 

〇「世論は間違っている」、「そうだな、竹中、自民党が政権取っていること自体が間違いだもんな。その中に入り込んでさんざん甘い汁を吸っていた奴も、当然間違っている」、「ところで、お前、呼ばれもしないのにテレビに出てるが、金払って出てんのか?」、「おおっぴらに税金使って、やたらとテレビに出てる奴もいるけど、実際は何をやっているのか全く不明。テレビに顔売っておけば何とでもなると思っているのであろうが、すでに、それ自体がズレている。万が一それに乗せられれば、やはり世論は間違っているということにもなる」、「しかし、今じゃどんなアホでもお前たちのことは見透かしているぞ」、「金まで払って出てきて、逆効果だったな、そんなにオリンピックにすがって、何かやばくなっているのか?」「同じ穴のムジナがあっちこっちで吠えているから実にわかりやすい。フェイスブックじゃないが簡単に関係図が出来上がる」、はっきりするから、そういう意味では、どんどんやってくれ。

                                     6/8

〇「専門家」もようやく気が付いたと言うよりも、いつ切り出そうかと思っていたと言う方がよいだろう。これで、最悪の事態になった時に、「我々は、専門家のご意見を伺いながらできるだけ安心安全を目指してやってきましたが、このような事態になってしまいました。」という逃げ口上は通用しなくなったということである。要するに、すべてを「専門家」に責任転嫁することは、これでできなくなったということである。それでも、現状の問題から逃げ果せるかのような方便として、「先生のおっしゃっているのは医療の問題」などと、人の命は二の次と言っているに等しいことを平然と言う、また、都合が悪くなれば、「専門家」の見解を、今度は「自主的研究成果」、「非公式な見解」などと歪曲、矮小化し、とにかく「突っ走ろう」(これが怖い)とする。まったく話にもならないことを「やっている」だけということである。これは「政治」でも何でもない、単なる低次元の詐術でしかない。マキャベリストを自称する者(?)が、「おれおれ詐欺」のレベルであったということである。実際、聞き取りにくいノイズばかりのエンドレステープを繰り返し聞かされているような、それも何を言っているのか不明な、答弁になっていない誇大妄想的な希望的観測ばかりである。これで従順に従うのはカルト集団か、愚民だけであろう。要するに「普通」ではないということである。

※いつの間にか文字化けしている箇所があった。??? バージョンアップ?肝心なところが使いにくくなるだけ。

後日、「専門家」も了承したので、観客も入れてオリンピック開催に突き進んだが、このような事態になってしまったという言い訳が成立することになってしまった。この政府公認の「専門家」もさぞかし圧力をかけられたのであろう。異を唱えていた政府案を難なく了承してしまった。最後に「それでも普通ではない」と独り言ちたかどうかは確認できなかったが、やはり、これは「普通ではない」のである。それが正解だと思った方がいいだろう。

                                       6/6ー

 

〇ナニワの「日本城」には良い「城主」(坂本篤紀)がいる。こういう「城主」が増えればもう少しましな世の中になるのではないかと思われる。

                                                                                                   6/3

                                                                                                                              

〇自分がけたたましい笑い声を上げているだけの芸無しお笑い芸人、そのバーゲンセールなのかと思われる程どこにも顔を出してくるお笑い芸人たち、ただうるさいだけである。結局のところ、彼らを使う者たちとは安物買いの銭失いになるだけなのだが、実際にはそれだけで済むまい。ほとんどピンボケ世界でしか成り立たない異様な領域である。私が社長であったら自社のCMには絶対に使わない。あまりにもマイナス面が大き過ぎるからである。彼らは、間が持たないとすぐにつまらぬ安手の反応でごまかし、小賢しいことばかりで自らが爆笑して、その勢いで笑いを誘っているだけ、見ている方も見ている方で何がおかしいかもわからず、笑わにゃ損損とばかりのバカの笑いである。すべてが小細工、小芝居、怪しげな造語で埋め尽くされているからうっとうしいだけなのである。それはそのまま政治屋さんたちとそのパラサイト達とも重なる。だから、家のテレビは必要な時以外はほとんどサイレントなのである。

                                     6/2

 

〇大坂なおみの件もそうだが、偉そうな興行師の類に任せていないで、アスリート主導で大会を行えばいいだけのことである。オリンピックも然り。どんなに恰好をつけても、オリンピックなど金メダル候補が何人も欠席すればそれで一挙に精彩を欠き、見向きもされなくなり、衰退の一途となる。全米オープン、全仏オープン、全英オープン、その実態たるや今のオリンピック同様、利権に群がり、貪る山師、興行師のやりたい放題であろう。もうそろそろすべては解体、再構築の時期なのである。大坂なおみのことを何だかんだと書き立てているが、すべて枝葉末節である。

 

 さらに、身もふたもない言い方をすれば、人の褌で相撲をとって身過ぎ世過ぎしている者が、何を勘違いしているのか?アスリートが不在になれば、すべてはそれで終わりなのである。角兵衛獅子の子供のような者たちを必要以上に追い詰めたら、まともにやることもできなくなるのはわかり切ったことである。「躁うつ症になった」?、前にも優秀なアスリートにあったことであろう。彼らは全身で拒否反応しているだけなのである。組織自体の検証が必要であるにもかかわらず怠った結果である。どこもかしこもまともな大人が不在になって久しい。やはり、解体、再構築の道しかあるまい。

 

 

                                     6/1ー6/3

 

〇右であろうが左であろう全体主義というのは、カルトなのである。それは、「何らかの強固な信念(思想)を共有し、その信念に基づいた行為を熱狂的に実践するように組織化された集団」という意味でカルトなのである。現実的に、正確に見定めれば「共産主義国」などどこに存在するのか?実質的に皆無である。共産主義国と称する反民主的な全体主義国、すなわち、「カルト国家」が存在しているだけである。自由を恐れることなく、愛せる者にとっては、左も右も関係なくカルトとはまったく無縁である。言ってみれば、カルトとは「自由であること」に恐れをなした、思考の展開を停止させた集団なのである。

                                    5/31

 

〇IOCの「意図説明」?彼らの意図など充分過ぎるくらいわかっている。これ以上恥の上塗りはやめた方がいい。今、オリンピック開催を望んでいるのは、どのようなもっともらしい理由を上げても、それに巣食う者たちと利用されている者たちだけであるということである。「いや、楽しみにしてる」って?それは、もはや利用されている者の証にしかならないだろう。聖火ランナーが提灯ランナーにしか見えないにもかかわらず笑顔で手を振るマルチタレントのような「女優」に興ざめするのも無理からぬことである。この状況下で、もしオリンピックが「持たざる者」の楽しみであるなら、「持たざる者」の唯一の「強み」である想像力はすでに失われてしまったことを意味する。それは、売買の対象でしかない奴婢に自ら成り下がったということである。

                                   5/29

                                                               〇ゲームと漫画とそれに類するものなど、それらによって思考回路の基幹部分が侵食され、形成されてしまっているのであれば、後は何を読んでも同じで、深まることはあるまい。言ってみれば、感動そのものも安っぽいのである。実際、人生を変えるほどの感動はあるまい。単細胞的に突き動かされ続けているだけでは、場合によっては、自らの位置に気付く間もなく、断崖絶壁から落下中ということにもなりかねない。何事についても陳腐な、手垢のこびりついた類型的言語、流行り言葉で括って、したり顔の者たちも多いが、一言で片付ければ、愚民政策にまんまとハマっている者たちということである。時折、顔は見えぬが、穴の深みにハマった者同士の罵り合う声が聞こえてくる。彼らには「自分自身」があるようでまったくない。すなわち実質的に自分の意見、見解というものがないのである。他者によって作られた「もの」を「自分自身である」と思い込んでいるに過ぎないからである。それは、自分自身の「解体作業」を何回も経て、さらに自己を鍛え上げてきた者とは本質的に異なる。その言動を見れば、その差は歴然としているのである。千数百年以上前の「真偽顛倒 玉石混交」という言葉も、今尚揺ぎ無く色あせることはない。どちらにしても、真贋の区別もつかないようでは、本当のところ、自らのより良き方向は見定められないということである。

                                  5/20

〇何でこのような状況になっているのか?要するに、現実が見えていないということに尽きる。自分だけは現実が見えていると思っているのであろう。しかし、見ているようで実は現実の正確な様相はまったく捉え切れていないと言ってよい。もう少し言えば、現実は受け身ではほんとうの姿は見せないということである。最近でも、「さざ波ツイート」で炎上した御仁が問題となっていたが、この程度の者がざらにいるのである。現実が見えていないにもかかわらず、自分は現実を見通しているかのごとくに思い上がっているから「死角」ができ、かくも愚かしい失態を繰り返すのである。さらに「死角」というものは自身の選び取り方、身の処し方一つで自身の中で拡大、歪曲するのである。そして、その死角には何が入り込むかわからないというのが実情である。世間一般では、「頭の良い者が理解できないわけがない」などという「幻想」が行き渡っているようだが、それは誤りである。却って「頭が良い」故にドツボにはまることもある。「頭の良い者」あるいは「有名人」などという者たちが現実を明確に見据えることができているかどうかは、我々自身が常に問いかけねばならないことでもある。況んや、権力の中枢にいた者では脳内がどのように「化学変化」してしまっているかわかったものではないのである。金(ゴールド)のように王水にしか解けぬものであれば明快であるが、大方はイミテーションゴールド、すぐに溶解変質し「本来の姿」さえ本人にも覚束なくなっているのが実情であろう。実際、その例は枚挙にいとまがあるまい。

 このどさくさに紛れて、また改憲談義である。呆れ果てて、呆れもせぬ。国家神道として、世界の頂点に立つことを夢見た挙句に、戦後、GHQに葬り去られ、その後何かにつけて「押しつけ憲法」などと現行憲法、戦後体制を否定し続け、自主憲法制定が必然的流れとばかりに騒いできたのは、この神社本庁とその周辺である。一国の民族宗教の範疇を出ない、それも自民族中心主義の信奉者の意向で戦前回帰を目指すというのは極めて危ういことである。それも悲願のようであるから、時代錯誤も甚だしく、負への逆走という意味でもやばい。国教として庇護され援助された時期のことが忘れられず、夢よもう一度というところであろうが、国民の実情とはかけ離れている。憲法が時代の実情とそぐわなくなっているということをよく言うが、誰が分析した「時代の実情」なのか?道路交通法レベルのことを変えれば済むことを御大層に憲法まで持ち出してくるにはそれなりの理由があるのである。煎じ詰めれば、「自分たち」の戦前回帰の悲願に合わせて根本法を変えようとしているということ。それがすべてで、そこには、「時代の実情」も「国民の実情」などもまったく関係ないのである。そもそもがやろうとしていること自体が、逆行性健忘症状態での歴史的退行で、再び危機的状態を作り出す可能性の高いことをしているのである。それは人類に対する背信行為にもなり、やがて絶滅危惧種となってもおかしくはないという話である。このコロナ禍の対応を見ていてもわかるであろう。紋切型の美辞麗句、勇ましい恰好のいいことばかり言っているだけで現実をまったく見ていない「大本営発表」と何ら変わるところがない。このオリンピックでまた何人の者が殺されることになるのであろうか。

                                                                                                                    5/13

〇大谷翔平のプレイ、動き、表情を見ていると、ファシスト的要素も世俗的ずる賢さも微塵もない。野球(一つのもの)を愛するとはどいうことなのかを自在に体現していると思われる。「野球小僧」などという愛称にもその一端は現れているが、特に、このような世の中では、様々な要素が奇跡的に重なり合わない限りあり得ない存在でもある。まさに天の配剤。大谷翔平に救われるのは日本人ばかりではあるまい。

                                     5/9

追記:後日、大谷翔平は快投に続き、今度は外野手もやり快刀乱麻の「三刀流」となってファンをわかせた。「神の領域」「すごすぎ」などという感想の他にも、金銭がらみの駆け引きのような心配、体調を気遣っている風な類のものもあった。しかし、これがこの領域にいる者の常態なのである。多くの者が忘れ去っている世界である。(5/13)

            

〇「天の与うるを取らざればかえってその咎めを受く」、すなわち、現状は人災だということである。すでに好機を逃してしまったのである。

                                      5/7

 

〇回帰するようにいつの間にか聴いているバックハウスとアルゲリッチのピアノ曲。最近では、モデルかピアニストか区別がつかないような、以前にはなかった若手の女性ピアニストも現れているようだ。たとば、ウズベキスタンのローラ・アスタノヴァ、天は二物を与えているのである。ただし、日本ではいろんな意味でこうしたピアニストは誕生しないと思われる。みごとな肢体と拮抗し合いながら奏でられる音は今までとはまったく違った趣がある。そう、彼女も言うように、リストもショパンも自由で情熱的なロックスター、ファッションスターだったのである。決してかび臭い博物館の片隅でありがたがられるような音楽ではなかった。私自身も「クラッシック音楽」を高尚な特別な音楽などと思ったことは一度もない、それこそ息をするように聴いていただけである。今日もまた、白髪を振り乱して奏でるアルゲリッチのピアノ演奏と「ピアノの鬼」が奏でるピアノ曲が終日流れていた。できれば誕生日に友人がくれたバックハウスのLP版で聴きたいのであるが、なかなかそこまで緩やかに時は流れない。

                                      5/5

〇インドでは、現在、コロナの犠牲者の遺体を空き地のような火葬場で薪を使って火葬している。この国では、「火葬」に必要な薪を買うお金も充分にない人々は、焼け残った遺体をそのままガンジス川に流すということを以前から行っていた。焼けてはいるがまだ原型をとどめた遺体が流れているガンジス川のほとりの一方では結婚式も行われていたのである。しかし、今回のコロナ禍では、その犠牲者は半端ではなく、今後も増え続け、火葬場の駐車場まで使って次から次へと遺体を焼く炎が上がり、途切れることがなくなっている。これは決して対岸の火ではない。現在、日本では病院に入院することもままならない上に、場合によっては火葬場も順番待ちと聞く、冷凍保存もできなければ、やがて広場、空き地で火葬ということにもなりかねない。死体を焼く臭いまで日常生活の中に入り込んでくるということである。日本の「民」もインドの2億の下層民と同様のことにならないとは言い切れないのである。オリンピックの開催中、「あの煙は?」と問われて、「野辺の煙にて むなしき空の煙と成りけん」などと悠長に答えてはいられまい。

                                       5/4

 

〇日刊「御用日報」の「御用聞き」兼「ジャーナリスト」の田崎何某が、ごく普通の突っ込んだ「指摘」、「批判」に対して「下種の勘繰り」と言ったそうだ。そう、「批判」、「指摘」が的に近ければ近い程、必ずと言っていい程、自己の正当性を誇示するために、彼らは好んでこの表現をつかう。この御用聞きは「下種と鷹とに餌を与え」で、自らが「心付け」を頂いて動いている下賤の身であることを忘れているのであろう。「ご主人様」の立場に立った物言いであることは言わずもがな。三浦何某なども同類で、「おまんまの食い上げ」にならないためには何でも(主に、「すり替え」、「ねつ造」)する御仁たちである。今後も、この種の者たちは後を絶たないだろう。それは、そのままごく自然に「マッドなもの」に移行するという次のステップの怖さも秘めている。「マッドなもの」に移行している例としては、慈恵医大の大木隆生、「手術待ちで死ぬ人もいますよ、ザッツザライフ」と平然と言えてしまうこの医者をみていると、戦時中の人体実験を喜々としてやっていた軍医たちを彷彿とさせる。マッドサイエンティストの言動そのままである。「神の手」などと称されていると紹介されているが、「神の手」などと言われているのは他に何人もいるのである。外科の場合は指先が器用、工作、裁縫がうまいかどうか、要するに技術的なことが主でそれ以上に思考が深まる領域ではないので、何を言い出すかわからない医者も多いはずである。だから、簡単に利用されていくのである。実際に、スガとはすでに面接している。言ってしまえば、専門バカの類で、その見解は参考にもならないどころか、真に受けたら殺されていても感謝するという事態になる。この手の医者の存在そのものが、基礎レベルでの研究不足、根幹領域での思考鍛錬の欠如が致命的であることの証左にもなる。「神の手」と「悪魔の手」は紙一重であることを忘れないことだ。むやみとありがたがっているとバカを見るのは患者の方である。

                                                                                                                  

                                                                                                                           5/1

〇だらだらと無意味なことを!

 臆面もない無能な者たちを選んだ責任は大きい。どのように言ってみても、「言っていること」ではない、「やってきたこと」がすべてで、それ以外には何もないのである。その点を明確におさえておかないと、判断を誤る。四六時中スマホ片手の「AIモドキ」では、すでに何事についても無痛症気味になっている可能性もあり、肝心なことも見落とし、適当に言いくるめられているということもある。「AIモドキ」のアルゴリズムでさえすり替えられていることに気づかず、やがて静かな転落、人知れず自爆ということにもなりかねない。

                                       4/30

〇為政者(特に政権与党)の言動を見聞きしていると、先進国とはとても思えない。やはり実質的にかなりの後進国と言った方がよいだろう。どこをどのように取っても、その場しのぎの場当たり的な言動ばかり、それで通る(多数決にせよ)、済むと思っていること自体に致命的欠陥がある。このようなことがいつまでも許されるなら、自由の意味すら分からぬ、目、耳、口さえも閉ざされた無痛症の民の「しだらなき独裁国」と言わざるを得なくなる。日本が民主主義国家だと思っているのは、単なる誤解なのである。

                                       4/29

〇バッハの言いぐさを聞いていると、ここまで強硬に主張できる背景には、やはり黄色人種の世界だからという前意識が明確にあるのではないかと思われてくる。危ないとわかっていても「経済優先」で、強引に強行しようとするその言動、姿勢は白人種の世界では通用しないことはわかっていると同時に自らを切ることにもなるから避けるのである。要するに、それはもっともらしい言説とは裏腹に、白人種ではない黄色人種であるから原爆を落とせたということと通底しているのである。白人種の世界で果たして、同一の状況になったとしても、同様のことができたかどうか、それは不可能であろう。いつまでもオメデタイ極楽蜻蛉のような状態で、自ら黄色人種であることも忘れて、白人種と同一化していると、ものを見る時に生じてくる歪みにも気が付かないことになる。

 この人間もまた、どんな綺麗ごとを言っても、「後は野となれ山となれ」の一派で、後のことなどどうなろうと知ったことではないのである。目先の利権、権力欲に突き動かされているだけとも言えるが、後のことを考える能力すらないのである。共通しているのは、彼らは自らの目的のためなら、「どのようなこと」でも言うが、質疑応答はまったくできないということである。実際、質問に対する答えになっていないのがほとんどであろう。 

 

 この状況で、東京オリンピック、つくづく愚かである。さらには、この地震大国で、しかも老朽化した原発の再稼働、オツムの具合は大丈夫なのか?ここまで来ると、やはり黄色人種は、絶滅危惧種なのではないかとさえ思われる。それも、しだらなき独裁国の無痛症気味の民では、ある日突然、立ち上がることもできず終焉を迎えることになっても不思議ではない。                   

                                 4/24ー4/28ー

 

〇あなた方の(主に為政者)の考え、見解などは聞いてはいない。具体的に何をしたのか、それがすべてである。「精査中」、「協議している」、「スピード感を持って行う」、「緊張感を持って行う」、国民がわからぬところで何をしているか知らぬが、それらが具体的行為、結果を伴わない以上、何をしていようが、何もしていないに等しい。実際、私利私欲に関わること以外は何もしていないであろう。やっている振りばかりで、振りにも詰まっているのが偽りなき実情である。たまには、形振り構わず命をかけて事を成してみよと言いたくもなる。よくこんな小細工ばかりでやっていられるものだと呆れ返っている。後進国だと思えば然もありなんと思われるが、これでは先のない後進国である。そのような実情も見据えることなく、何者かに踊らされているがごとくに何かと言えば「明るくポジティブに生きる」ことを唱和する者たちとは一体何者なのか、何か違和感以上に異様なものに見えてくるのである。その内に、その違和感さえ感じなくなった時がほんとうに最期なのであろう。ネガティブなものを見据えるからこそ、真にポジティブなものが宿ることを忘れているのである。ネガティブなものを見ないことにする姿勢からは、永遠にポジティブなものは生まれない。何となくわかったような気にさせる言葉には落とし穴が幾つもあるということである。

                                   4/22

 

〇言うまでもなく、コロナウィルス、放射性物質に対しては徹底的に合理的な判断、対処が求められる。外交戦略、政治戦略などには有効性もあるファジーなことは全く通用しない。そして、不明なことは不明としなければならないということである。危機管理能力の欠如を希望的観測でごまかし、平然と「飲んでも大丈夫」などと言う者たち、一体何様のつもりなのかと思われるが、単に愚かなのか、山師の類であろう。山師の「山車」に乗せられて付いて行けば、バカを見るのは常に付いて行った者たちだけと相場は決まっているのである。今までの経緯を見ても、言うべきこと(批判)を封じ、提言も全く無視しているのが実情であろう。「批判よりも提言を」などと言うのは、何度も言うが、愚民政策の一環であるということである。それを忘れると、足をすくわれ、やがて全体主義勢力の思うつぼということになる。

                                     4/17

〇政府の「考え」、「感想」など聞いてもまったく意味不明。これでは、自分自身が信頼できる「専門家」の見解をベースに自分で判断するしかあるまい。コロナ禍にしても、「政府」も「都」も実質的に効果のある方策は何ら打ち出さず、「お願い」「脅し」の連続である。何のための行政機関なのか、もう少しきちんと仕事しなさいよと言いたくもなる。また一方では、8割前後が「開催すべきではない」と思っているオリンピックを強行開催するという。そればかりか、放射能汚染処理水を海洋放出することに決定したという。麻生太郎に至っては、「飲んでもなんてことはないそうだ」と言っているらしいが、それなら是非とも国民の前で飲んでもらおうではないか。これもまた「風評被害」などということを封殺する前段階の効果を狙ってのことであろう。言葉でさりげなくごまかそうとしているが、そうはいかない。この汚染処理水にはトリチウム以外にもヨウ素129(半減期約1570万年)、セシウム135(半減期約230万年)、炭素14(半減期約5700年)など12の核種は除去できないという。通常の原発は燃料棒は被膜に覆われ直接に冷却水が燃料棒にふれることはないが、福島第一原発は、むき出しの燃料棒に直接触れた水が発生しているのである。したがって、諸外国の原発冷却水の排出とは全く異なり、福島第一原発の放射能汚染処理水の海洋放出は、やはり大問題なのである。これについてどのような「権威」が問題ないと講釈しても全く信用できないというよりはウソとなるのである。「大丈夫だ」という者には、まずその汚染処理水を飲んでもらおう。福島出身の自衛隊上がりの議員・佐藤正久などもそうしてもらいたい一人である。彼の言動からは、福島県民に対する思いも、日本の大地、自然環境に対する考えもまるで感じられない。保身、選挙対策に派手なことをぶち上げることよりやることはいくらでもあるだろう。元職業軍人に言うだけ無駄だと承知の上で一言付け加える。

※ALPS(多核種除去設備)処理水と、通常の原発排水は、全く違うもの。ALPSでも処理できない核種のうち、11核種は通常の原発排水には含まれない。

因みに、IAEAなども国連の保護下にある自治機関で、国連の専門機関でもない。何らオーソリティに値するものではない。

 子供だましのような各国の汚染水排出量の比較表を出して、したり顔でにこやかに説明する、罪なことはもうこれ以上お止めなさいと言いたくなる。これはそんな卑俗な政治レベルの低次元の問題ではないのである。

「後は野となれ山となれ」を地で行っている者たちが跋扈し、その顔ばかりが、画面に浮き上がる。

                                      2021 4/15

 

〇「想像を超える感染の波」、またぞろ「想定外」である。想像力貧困なのか、危機管理能力が欠如しているのか、その両方であろう。これじゃ何をやっても負ける。負けても「想定外」と言って終わりなのであろう。確実なことは、そのしわ寄せ、犠牲を強いられるのは国民であるということである。何事についても、言うべきことをきちんと言わないと、どこに持って行かれて何をさせられるかわからないということである。

                                      4/12

〇ニューヨークは、以前から私の嫌いな街の一つである。最近では、黒人がアジア人に暴力を振るっている映像が流されていたが、同時にそれを見ていて何もしない者たちも映し出されていた。これもメディアが正確に伝えない実情である。「BLM」だけじゃない、「YLM」も必要なところであろう。かなり前にも、幻想を抱いてアメリカに渡った日本の若い女性が、通りがかりの白人に突然憎々し気に「ジャップ」と言われて、ショックで暫らく立ち直れなかったということがあった。アメリカにおいても然り、況や、全体主義国家、軍事政権下の国などに至ってはどこで何が行われているかさえもすべて不明で、不気味である。距離を置くのは当然。軍事政権下では具体的にどのようなことが行われるか、ミャンマーを見れば一目瞭然。

                                       3/31

〇力士が倒れて動けなくなっているのに、そのままにして勝ち名乗りをしている姿は異様であった。その後、今度は、行司が力士の足にからまって倒れ、土俵下で動けなくなっているのに、これもまたそのままにして、代わりの行司が出てきて勝ち名乗りをしている。この世界の実態をよく表しているが、やはり問題であろう。

 

〇またぞろ、男性というには、あまりにもお年な御仁が、「女性というには、あまりにも、お年ですが」などと述べて問題になっている。この御仁のことを「サメの脳みそ」、「カバの脳みそ」などと言って片付けるのは容易いことで、本質的なことを見逃してしまう。すなわち、先の大戦でごろごろいた職業軍人の精神構造と大して変わらないということである。要するに、文化の根底が欠如していて、その無教養さが自ずと白日の下にさらされているということである。我々は、この御仁を通して職業軍人のだらしなさを今現前で見ているのである。敢えて、かつての職業軍人としなかったのは、現在も変わらないからである。立法府がこのような者たちの「下請け機関」になれば、過ちを繰り返すだけで先はない。それこそ斉藤隆夫の「反軍演説」(昭和15年2月)ではないが、現実を無視して、美名の下に国民的犠牲を強いて、国際正義、道義外交、共存共栄、世界平和等々、雲をつかむような文字を並べたてる。そして、一旦そのようなことを許したら、政治家は死してもその罪を滅することはできないのである。

                                        3/28

〇前代未聞の聖火ランナーは走り始めた、見る人もいない、ゴールも定まらぬランナー、やがて知るだろう、つなげる火のないことを。騒いでいるのは浮かれ拍子と浮かれ者、その声々も今では遠のくばかり。それにしても、隙間だらけの何ともみすぼらしい、聖火リレーである。衣装もひどい、寝間着姿でゴミ出しに来た者が手を振っているような風情である。末代までも語り継がれる醜態である。すべてが現状と乖離して、負の因子しかないからこうなるのである。自業自得としか言いようがない。

                                        +3/31

 

〇ご自分で作った映画で、お気に入りの映画は何ですかと聞かれたタケシは、即座に次の作品と答えた。さすがである。タモリもタケシも、やはり格が違う。要するに、根幹部分で培われた質が違うのである。時代の流れもあろうが、彼らを乗り越えられる「芸人」は今のところ皆無。

 卒業シーズンに便乗して、番組「変成」を行うところが多いようだが、「報道特集」(金平茂紀、日下部正樹、膳場貴子)は別格として、「モーニングショー」なども玉川徹、青木理、吉永みち子などが消えて行くと、気の抜けたビール、寿司をわさびも醤油もなしにシャリだけ食っているようなことになる。それを「寿司」とは言わない。今後、どのような「ショー」を見せるのか?まだ寒いからといって、生ぬるい気の抜けたビールでも出したら、それがほんとうの最期であろう。(玉川徹は残るようだが)

 「今を時めく」と言われる若者の意見を聞くとは、もっともらしいが、論文の書き方だけは巧みで名医と言われる医者が実は診断も手術もろくにできないのと同様に、御大層な「肩書」、「評判」に粉飾されていても実際には「意識どん底系」の若者と何ら変わらない者たちの意見を聞いたところで何かあるのか。現状を見ることさえできない若者に媚びるということは、すなわち、現体制、既得権益側の現状の見立てに同調することにしかならない。

「今を時めく若者」などと担ぎ上げられた者たちに共通しているのは、その面白味のない言動を見てもわかるように、「痛み」がないのである。それも無痛症のごとく痛みがないから恐れ入る。その話の内容たるや、どれもこれも、大島渚あたりがいたら「要するに、面白くないんだよ」で一喝されて終わりである。

ついでに、危機管理のイロハもわからぬようなヤカラが、やたらと「煽る」という言葉を遣うが、希望的観測ばかりしていては危機管理はできまい。希望的観測が常態化している者は、外れれば想定外という言葉でごまかそうとするが、それはそのまま無能の証ということにしかならないのである。そんなことでは何をやっても勝算はない。

                                      3/27ー28

〇身過ぎ世過ぎは草の種、よろずの虫などを取って生業とする方がどれだけ心安らかでいられることかと思われるが、そうもいかぬ者たちが多いとみえる。そうもいかぬ者たちとは、煎じ詰めれば、取り付かれた者たちでもある。彼らの言葉は、しまりもなく、口からだらだらと垂れ流されているようなものだから、ずり落ちたマスクはまるでオムツようである。その内に、何やら異様な臭いまでしてきて、距離を置かざるを得なくなる。

                                       3/25

 〇四谷駅の地下鉄南北線の入り口辺りで、なぜか閑古鳥が鳴いている。カッコー カッコー、そのエンドレスな機械音を聞いていると、何とも複雑な気持ちになる。西欧では親しまれた鳴き声かもしれないが、日本ではどちらかと言えば、さびれた、もの寂しさを醸し出す鳥の声として一般的には感受されている。そんな鳥の鳴き声が、どうしてこんな場所で使われているのかと不思議なのである。そもそも私は、カッコウの生態も好きではなく、すぐにthe cuckoo's nest(カッコーの巣)を思い出す。すなわち、cuckooはcrazyを意味し、cuckoo's nestは精神病棟となる。時折、地下に通じる階段を下りながらカッコウの鳴き声を聞いていると精神病棟に降りて行くような気になってくる。そこで、通り過ぎる者たちも、まるで悪夢に登場してくる者たちのようにすべてマスクをして無言である。

                        

                                  2021 3/24

153.つれづれに一言で片づければ(28)ー35件ー 623件

〇一応肩書だけはありそうな「教授」「評論家」などを資金援助で絡め取り、プロパガンダのチームに取り込み、何やら取って付けたようなものを書かせ、次から次へと本屋に並べる。どうでもいいようなつまらぬ本の山を見れば、それは自ずと知れるが、それでも間に合わぬとばかりに、黒いバイアスのかかった私的メディアでヒトラー流プロパガンダの日々の垂れ流し。2流、3流の「学者」、「評論家」、「作家」、もはや全く展開の余地のない者たちの身過ぎ世過ぎ。彼らは形振り構わず何でもするが、はた迷惑は筆舌に尽くしがたく、その罪は極めて重い。そんな様々な「オワコングループ」に巧みに「救いの手」を差し伸べているのが、すなわち政官財と一体化した闇にカラスのごとき、後は野となれ山となれの「一次下請け業者」。そんな悪しき流れの中で、時折出番を間違えた三文役者のごとく現れて、とんでもないことを言い出す者たちも後を絶たない。

                                       3/18

 

〇データサイエンス、本人は相当賢いことをやっているつもりなのであろう。それが、「格好いい」とも、「素晴らしい」とも思えない。それで何かわかった気になっているとは、かなりオメデタイか、マッドである。サイエンスを「絶対視」することも迷妄、データそのものにも様々な限界がある。そんなものにミライを託していると、やがてミイラを見ることにもなろう。

                                      3/16

〇「批判よりも提案を」?、この標語にもなりつつあるような摩訶不思議な言葉の問題点については以前にも取り上げたが、また目についたので書くことにした。一見、実に前向きで恰好のよさそうな表現に見えるがいくつもの落とし穴がある。まず、正当な批判というものは、問題を浮き彫りにさせ、問題をより鮮明にさせるためには欠かせないものである。それをしないということは問題点も不鮮明なまま知らないうちに、すべてがなし崩し的に決められてしまうということになる。「批判」よりも「提案」を取ると、どういうことになるか、問題を問題化するより先に、実質的には出来上がった枠組みの中で「すり寄り」ながら「より良い」提案を政府与党に供給するということになるが、それ自体が、問題点をぼやかしながら「こと」を進めることにつながって行くということである。その結果、多くの国民はその経緯すら何もわからないまま、新たな不利益を被る現実と直面せざるを得なくなるのである。また、「批判するよりも提案を」ということの中には、「提案」できない者は、「批判」しないで、黙って従えという上から目線の強権的な姿勢が見て取れるのである。国民は、「提案」などできるわけもないが、する必要もない。「それは違う」、「冗談じゃねーよ」、「それは犯罪行為でしょ」、「何を考えているのか」等々、それで充分である。そのような「意見」、「感情」を取り入れ、それを叩き台として為政者が「より良いもの」に仕上げる、それが為政者の仕事である。批判と、単なる誹謗中傷とはまったく異質であることを明確にして、一つ一つ確認していかないと、国民は目隠しをされたままどのような「案件」も飲まざるを得なくなるということである。

「批判よりも提案を」とは、聞こえは良いが、為政者が国民を無知の状態に置き、その批判力を奪おうとする政策、すなわち、「愚民政策」の一環なのである。

                                  2021 3/13

〇「街の声」らしきものを聞いていると、大方が「欲しがりません勝つまでは」と大同小異である。軍国主義政権下でもあるまい、もう少し言うべきことは言った方がよいだろう。自分だけ良ければいいという末端肥大症的な自我意識も目立つ。健全な自我意識が未成熟なのである。もっとも、正直に言っても桁外れに自主規制の効いた現在のメディアである。カットされ、再構成されてしまう可能性もある。そして、いざとなれば、肝心なことは「記憶にありません」、「覚えていません」という者たちを相手にしていることを忘れないことだ。変な幻想は持たず、希望的観測でものを見ないことである。「飲み会を絶対に断らない女」と称し、登り詰め、ついには堕ちて行った広報官。また一方では、「私は飲み会は絶対に断る女です。絶対に行きません。友達とかいらないので」と、見た目とはまったく違うことを明快に言うタレント、女優。要するに、覚悟の問題なのである。覚悟ができていないから、隙ができ、つけ込まれ、騙されるのである。小賢しい言動とは、どこをどう切り取っても小賢しいのである。やがてそれと知れて、捨て去られる。

 誠実な者たちに、幸あれ!

                                    3/4

 

〇第二次大戦中、米戦艦に突撃した特攻隊員の遺骨と遺品が遺族のところに送られてきたという。遺品はともかく、遺骨をどうやって収拾したのか、おかしな話である。もう一つ、おかしな話というよりバカバカしい話、ハーバード大学とは3流の大学なのか?そのハーバード大学のラムザイヤー教授とやらが、その論文の中で「慰安婦は強制的に動員された性奴隷ではなく、自発的な売春婦だ」などと主張しているらしいが、バカも休み休み言え、大体、「自発的」に売春婦になるものなどどこにいる。精神疾患、セックスジャンキーでもないかぎり、普通の女性が「私は売春婦になりたい」などということはありえないのである。このような状況の中では、弱者を騙す山師の類にひっかけられ売春婦になっていたという方がより現実的であり、的確であろう。この教授が世話になったであろう比較的自由な意識的な娼婦と、軍国主義が席巻していた当時の慰安婦を重ね合わせて「自発的な売春婦」などというのは、証拠となる「契約書」が出ようが出まいが関係なく、根幹部分を見据える眼が節穴としかいいようがない。

                                   2/27

 この教授は、言ってみれば、現実観察が不十分で、現実説明力がないということである。また数学的思弁ばかりが「近親繁殖」をしていては、その内容は貧相にならざるを得ないのである。

 

 大体、軍国主義政権下で、「強制連行」、「強制動員」などなかったとする方が無理があり、「非常識」と言うレベル。それは日本がどうの、韓国がどうのとは無関係、どの国でも軍国主義政権下では同じようなことになる。したがって、軍国主義政権の誕生、存続自体が非であることは言うまでもなく、また、そのような軍隊が撤退、敗退する時には証拠となり得る文書はすべて廃棄処分、すなわち証拠隠滅が常識となっているのは、周知のことでもあろう。今の日本でさえ、残さなくてはならない文書の改ざん、情報開示拒否をしているのである。況や、軍国主義政権下では都合の悪いところはすべて完全消去であることは敢えて言うまでもないこと。

 

 後日、この「論文」を擁護しているコメントをみると、どれもこれも同じような視点の、お粗末な同一内容、その感情の現れ方をみても、これはこの教授に金を渡して(資金援助?)、その筋の者が書かせたものであろうと思われる。何のために書かせたかも、それでよくわかる。要するに、書く必然性もない、必要性もない事柄を「ある目的」のために論文という装いで書かせたもので、それについては、事細かに敢えて反論するほどのレベルではないということである。時間の無駄である。それより、少なくとも論文というのであれば、日本の軍国主義の特殊性そのものについて、すなわち本丸に切り込む位の方が、まだ読むべきところは少しはあったかもしれないが、この力量では無理。

 さらに、このラムザイヤー「論文」擁護で、早稲田大学の公文書研究をしている有馬哲夫という御仁は、「批判者であるソク教授は、アジア中の個人宅を家探しして、ラムザイヤー論文を根底から覆すような「朝鮮人女性の契約書」を提示する義務を負っている。彼女が義務を果たすかどうか見守ろう。」と宣う。アジア中の個人宅を探して云々、ここまでくると何をか言わんやであるが、得意げにそんなことはできまいと言っているのである。そんなことに時間をかける意味も、価値もあるまい。しかし、この御仁の公文書研究とやら、言うまでもなく、見るまでもなくつまらなそうである。改めて研究のスタンスを聞きたくなる。そもそも公文書にどれだけの真実があると思っているのか、公文書などは書かれていることをそのまま鵜呑みするなどは愚の骨頂、その歴史の文脈のなかで解読されなければならないことである。この御仁もまた、現実観察、認識が不十分なので、公文書からその当時の現実を再現することなどは及びもつくまい。ドクター論文が通らなかったのも頷ける。

 この公文書館のネズミは、確たるスタンスも、証拠もないまま歴史の一部の事象を取り上げ、泥団子をこね回しているようである。

   

 

〇世の中全般が、本当に転げ落ちるように堕ちているというのはこんな状態なのであろう。まざまざと見せてくれるのは、タガが外れてしまったとしか思えない人間の様相である。タガが外れて、中の汚水を垂れ流し、それをさらにまき散らしているにもかかわらず、ウソはつくもの、だますもの、認めてナンボやとばかりに白を切り通す。いやいやクサイ、臭い人間たちがゴム風船に書いたような題目、講釈唱えながら転げ堕ちて行くのだから、残り香などもたまったものではない。

 それでは、我々は、どうすべきか、それはわかり切ったこと・・・

                                    2/25

 

〇私には、大阪なおみのテニスコート上での蝶の接し方、扱い方で彼女の勝利は揺るぎないものと思われた。そして、すべてはやはりそのようなものであると改めて確信した。要するに、すべては「現れる」のである。

                                     2/20

                                                                                                                      

〇無知であり、無恥でもある前代未聞ということが多過ぎる。新聞社がスポンサーになったことも五輪史上初めて、その結果、問題をきちんと問題化することもできずに骨抜き状態となってしまった。そして、東京五輪組織委員会会長が開催を目前にして辞任、それも世界に散々醜態をさらした挙句の果ての辞任である。これも史上初であろう。しかし、よく見れば、すべては必然的な流れでもある。なるようになっただけの話なのである。それに気が付かないというのはやはり欲に目が眩んだ蒙昧としか言いようがない。それは、狂信のなせる業なのか、欲望だけに絡め取られてしまった結果なのか、その両方であろう。

                                                                                                                  2/17

                                                                                                

〇愛、誠意などは欠片ほどもない、己の欲望にのみ突き動かされている者たち、その言動、容貌のすべてが、これ以上ないほどに具体的によくわかる日々である。

 東日本大震災の余震もまだ収まっていないのに、「復興」?「復興五輪」? また、何ら科学的根拠もなく、その客観的事例さえ見つからない状態のまま「アンダーコントロールはできている」などと神のごとくのご託宣をオリンピック誘致のために振り撒いた者など、それは「罪状認否」などに関わらず、歴史的にも永続的に追及されることになろう。その周辺にいた者たちも、「記憶にありません」では済まない、すなわち共同正犯なのである。生き方としては、人間失格である。

                                   2/14

 

〇自己礼賛、自国礼賛ばかりやっている者たちには、先がない。あっても衰退の引き延ばしだけであろう。自己展開、自国展開が可能なのは、良きところ、反省考察すべきところを明確に見極め対峙しながら、ダイナミックにそのすべてを「我がもの」とすることである。大した根拠もなく、自己完結の思い込みだけで、常にビクビクした守りの体勢からは何も見えず、何も生まれない。それは騒々しいだけの空ぶかしで、実質的に一歩も前には進まないのである。いつまで己に酔っているのかと思われる。酔狂には程がないとみえる。

                                    2/12

〇言動が乱れているということは、思考回路も乱れているということである。当然、顔付もその乱れの影響で濁ってくる。場合によっては、回路そのものに欠陥がある場合もある。森について、「余人をもって代えがたい」などと言えてしまう、言わざるを得ない事情そのものも大きな問題である。どのような「裏事情」「裏ワザ」があるのかということにもなる。このような陳腐で類型的な言葉でしか擁護できないこともまた問題である。森の無教養に近い思いあがった言葉の遣い方は、「昭和の価値観」、「男尊女卑」などという括り方ではとても捉え切れるものではない。単純過ぎる。これは彼の精神形成上の基幹領域に「神の国の者である」というカルト的狂信がごく自然に溶け込んでいるのである。したがって、彼にはどのような局面においても、自己肯定しか存在しないのである。反省、考察の深化などの自己否定を伴うものには全く無縁である。自分自身が「そのまま」で是なのである。すなわち、展開不能の精神構造を持った者ということになる。これでは100年経っても200年経っても変わることはあるまい。基礎科学に欠陥のある者に未来はない。基礎哲学が欠けている者にも先はない。緩慢なるカルトはいつの間にか全身に転移しているのであるが、本人はそれと気付いていない。その時点で、物事の是非を鮮明にさせない方向に動かされているのである。「批判ばかりしていても」などということが極自然にまかり通るのも、この日本特有のカルトの洗礼を受けていることに起因する場合が多い。議論が成り立たないのもこのカルトの影響は大きい、議論自体を根本的に否定する意識が基幹領域で自動的に作動するようにセットされてしまっているのである。その事例と検証を上げれば、際限がない。

 

                                 2021 2/11

 

〇1.「息子とは別人格」と言いながら、「父として、調査に協力するようにと申し上げた」、別人格であったら「父として」ではなく、首相として答えるべきであろう、東北新社の社員と総務省の官僚との関係について聞かれているのである。彼らは「推定無罪」の領域にはいない者たちである。「推定」で「有罪」は成り立つのである。「薄汚い」などと言われても仕方あるまい。結局、それは国民が下す裁決なのである。だから、彼らはメディアコントロールに躍起となる。昨今では、三文芸人、オワコンにまで手を出し、駆り出している始末。どちらにしても、やがて、裁決流るる如しとなろう。

2.「WHO」?Who are you? 何をどう言っても、やっても後の祭り、もはや信用されないということである。何でもありと、生きてきた者たちも、それをやったら終わりということを思い知らされることになる。

3.巷では、今、救急車のサイレンの音がない方が不自然なくらいで、その合間を縫って静かに素早く霊柩車が通り過ぎていく。わずか小一時間の間に、これである。真実らしく発表される数値と現実は乖離しているということだ。数値は客観性を保証するものではない、数値から、様々な様相を検証、解析しない限り、数値のマジックに簡単に引っかかることになる。

                                       2/7

 

〇現在、森喜朗の舌禍騒動で荒れているようだが、これは舌禍、口が滑ったというレベルのことではない。この人間の思考回路そのものなのである。したがって、反省、謝罪などとは、ただ言ったまでの話。そのようなことは以前からわかっていたことでもあるが、「他に適当な人がいないから」などという未成熟な反民主主義的回路をインプットされた状態のまま、しだらなく許してきた結果がこれだということに過ぎない。これは何も森個人に限ったことではない、日本特有の珍現象でもある。すなわち、半ば寝ていることを期待されている「民」を相手に、まともに議論も説明もする必要がないかのごとくすべては人間主義的に矮小化あるいは歪曲化され、それに呼応するかのように「民主主義風」独裁国家が出来上がってしまったということでもある。当然、この手の人物ばかりが集うところとなったが、それもすでに至る所で破綻を来している。どのように取り繕っても、これで済むと思う方が異常なのである。もう時間の問題であろう。

 井の中の腐れ蛙ばかりでは、何が起きても収拾はつかないどころか、腐れ水を跳ね上げるだけで厄難を広げていることすら気が付かないだろう。腐れ蛙は一掃するしかあるまい。

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〇しかし、いい大人が、反省、謝罪の繰り返し、小中学生でもあるまい、それで済む話ではない。時代によっては首が斬り落とされても当然の不祥事ばかりである。責任感も緊張感もまったくなし。これを許しているのは誰なのか?今、炙り出されてくるのは、どこを見ても、こんな人間にだけはなりたくないという反面教師のオンパレードである。すべてが地に堕ちているのは否定しようがあるまい。

 

〇「クラブハウス」?要するに、井戸端会議、backstaires gossip、の域を出ない仕掛け、時間の無駄。コロナ禍の時流に乗ったビジネスということか?

 

〇新型コロナウィルスのようなロゴマークを付けているものがあったので、つい見てしまったが、その下には「世界とつながろう」というようなキャッチコピーがあった。笑えないブラックギャグである。コロナ禍以前に作ったものであろうが、ここまで重なるとは思っていなかったのであろう。

                                   2/4

〇「日々悩み、考えながら走っている」、こんなことを今、改めて大衆の面前で言うオツムの具合とは?大方の人間がそうであろうことを知っていて、敢えて私も同様であると「寄り添う」振りをして、言い訳をしているのである。自らの無能無策を弁解するような「寄り添い方」は為政者として失格である。「国民の不安解消にあらゆる方策を講じる」、「方策」とは、はかりごと、手立て、策略であることを忘れるべきではない。これは、不安の原因そのものを取り除く方向でとにかくやれるだけのことをするという意味ではないのである。不安の原因そのものではない、「不安解消」に、あらゆる「手立て(はかりごと)」を「する」と言っているのである。とにもかくにも、本来ならこのようなセリフは一国のヘッドが絶対に口にしてはいけないことである。万が一、多くの者がこれで納得しているのであれば、やはり「全滅」もあり得るであろう。

                                     2/3

 

〇黙止、黙会、黙浴、黙煙、黙視、黙識、黙考、黙食、黙行、・・・「黙」の連続である。中には聞いたこともない「黙」もある。その内に、「黙」と「距離」が習い性となり、どのような精神変容をもたらすことか、気になるところでもある。

All is silent    all is lost ・・・  a lost city・・・・・・・・?・・・・・・・the start of new life?・・

                                                                                                                1/26

〇「これで20年飯を食っている、40年飯を食っている」などと得意げにもれ出る陳腐なセリフが今でも時々流れてくるが、つい「だから?」と聞きたくなる。そのことだけで人品骨柄は推して知るべしである。それは「飯を食う」ためなら「何でも」してきたと言っているに過ぎないのである。「何でも」とは、それこそ「何でも」で、「未必の故意」の殺人まで含めてである。長くそれで飯を食っていたことなど、何の価値にも言い訳にもならない。どのような生き方をしてきたかが問題なのである。それだけであろう。概して、このようなセリフを吐く者は、顔、セリフの吐き方にもよるが、人でも食らいそうな者が多い。

                                      1/25

 

〇レディー・ガガは、以前から何とはなしに好きであったが、4年前にトランプが当選した時にはトランプ・タワーの前で抗議していたらしい。彼女に限らず、一級のアーティストは直観的に見抜く力を持っているものである。それは、学者、評論家などの百万言よりも本質的な領域で人間を捉えていることが多い。

                                      1/24

〇日夜、新型コロナの医療に献身的に従事している、最前基地にいる医師たち、その一人でもある倉持仁医師(宇都宮市のインターパーク倉持呼吸内科)に対して、「テレビに出ないでください。コロナが拡大したのはテレビに出たため、責任とってください」と書いた紙が貼られていたり、誹謗中傷のハガキ、カッターナイフが入った封筒が送られてくるという。もはやこういう者たちに対して分別臭い対応は無用であろう。「頭悪すぎ」なのは当然。もはや「人間」失格などというレベルではなく、ここまでくると鬼畜の類である。自らの愚かさ故に堕ち切った者たちである。現実的には法的処理しかあるまい。因みに、汚い字で書かれてあったというが、筆跡鑑定をかわすために利き手ではない方で書いた可能性がある。「頭悪すぎ」に拘泥していると、金沢の知事のような例もあるから、要注意。総じて、彼らは「政党サポーターズクラブ」のメンバーのごとく意図的で、確信犯的である。

                                       1/20

〇TBS「報道特集」内容は全面的に納得、支援する。まさにその通りである。これは報道の基本であり、まだこのような報道番組があることに一条の光を見る。それ以外の「報道番組らしきもの」などは、言ってみれば、「買われた者」の口から、時には過激に「飼い馴らされた」内容を垂れ流す「報道らしきもの」というのが妥当で、報道などとはかけ離れたものである。

一言付け加えれば、そのような中にも「良心」に従い、できるだけ誠実に関わろうとする番組も僅かではあるが、ある。皆無ということではない。

                                    1/16

 〇「私が考え込んだり、迷ったりしたらすべてに影響する。飽くまで進める」、「私の立場では、今年難しいとは口が裂けても言えない。」これは何もインパール作戦参謀などの弁ではない。現在のオリンピック開催作戦参謀の組織委員会での年頭挨拶である。異を唱える者はすべて重要ポストから外され、「難しいとは口が裂けても言えない」と突き進む。その先に見えるものは?犠牲になるのは?精神構造も含め何もかも驚くほど変わっていない。

このコロナ禍は、綿々と続いている人間の欲望の本源的な様相を微に入り細を穿って炙り出す。

                                     1/14

 

〇相変わらず、「批判ばかりしていてもどうしようもない」、「対案を出せ」、「当事者意識が希薄云々」等々、お里が知れることもわからずしたり顔の御仁たちが多い、いつの間にか立ち位置をスライドさせられていることに気付かないおバカたちである。一つのテーゼは、様々な批判を経てよりよく展開することすら知らないのである。「対案を出せ」などというのは愚か者の証明、そもそも政権与党として行政に直接関与していない国民の側に具体的な対案を出す必要などあるまい。もし明快な対案を出した場合はどうするのか、数で押し切るつもりであろうが、それこそ「分断」を深めるだけである。「当事者意識が希薄」?にしても、自分の問題として考えなくてはならないといった程度ならわからないこともないが、そうではない。自分の立ち位置を忘れ、為政者(権力者)と同体化して、その方向で考えることが「当事者意識」ということらしいので、笑えるのである。地頭の悪い奴がよく陥るケースである。為政者と同体化などといっても「深み」はまったくない。為政者の方も、どこまでほんとうかわからぬ身辺事情をさらして同情を誘う、その内に民の方は「あいつの苦しい気持ちもわかる」などというところがオチで、やがてそれで一本締めである。「苦渋の選択」の苦渋ばかりが独り歩きをして、その苦汁をわかることが「当事者意識」だと勘違いしているのである。肝心な選択されたことの質、正否、については、議論も正確な説明も情報開示もなく、全く深められていないのである。

民は之に由らしむべし、これを知らしむべからず(論語)

 民は従わさせればよく、説明する必要はないという意味だが、現在の為政者の姿そのままである。さらに、公然とマキャベリズムを信奉すると言っている者が大衆に薄気味の悪い媚を売っているというのが実情である。要するに,「俺はあんた方を騙すよ」と言っている者のやりたい放題を許しているのである。

※マキャベリズム:目的のためには手段を選ばない、反道徳的なことも結果が良ければ正当化されるとする権謀術数。

                                   1/13

 

〇「新成人」、成人式で浮かれた姿が画面に出ていたが、急性アルコール中毒で救急搬送されても、たらい回しで病院には入れず、2時間3時間後、その内に霊柩車に移し替えられ、焼却ということにもなりかねないのが今の病院の実情であることを知っておいた方がいいだろう。このコロナ禍で、通常なら、助かる命も助からないことになるということである。

 今の惨状は、「感染症時代は終わった」という占い師のような御託で、保健所などを減少させた結果でもある。「天災は忘れたころにやってくる」と言ったのは物理学者・寺田寅彦だが、一方では、邪神に取り付かれたような者たちがオメデタイ妄言を発し、それに惑わされる者たちもいる。危機管理上においても、どちらが重要かは明らかであろう。この期に及んで「大丈夫感」、「希望的観測」を至る所に印象付けて、実際は泥棒を見て縄を綯うようなお粗末な対応、それでは結果は目に見えている。

 以前、「ストロンチュウム90は飲んでも大丈夫」と言った学者、「アンダーコントロール」宣言の帝王気取りの御仁などと同様、今回も御多分に漏れず、腐る心さえ持ち合わせないオクサレどもが溢れている。中には、ごたごた言ってないで、さっさと太平洋に消えてしまえと言いたくなるような者など枚挙にいとまもなく、様々である。

                                                                                                               1/11

 

〇パシリしかできないような者が、いつの間にかアタマになっている。最近よく見る光景であるが、これは、悲劇にしかなりようがない。政治屋、底の割れている売文業、すなわち山師でしかない彼らの駄言、駄文、偽言を真に受けてその気になっていると、どちらにしても酔生夢死、死んでも直らないバカでthe endである。

                                       1/9

 

〇「メディア アーティスト」? 少なくとも「芸術」とは程遠い、技術的遊戯の領域で、これはメディアをミスリードし兼ねないメディア コントローラーにしかなり得まい。当然、電通などと一体化しつつ時の権力に絡め取られていく方向でそれなりのことをするだろうが、それ以上にはなり得ぬものを、その作りそのものの中に持っている。「芸術」を、「人間」を超えたなど勘違いしたAIそのもので、単なる「反人間」、「非人間」の領域にいるということを自己証明しているようなものである。

                                2021 1/7

 

〇2020年12月31日、東京都のコロナ感染者数1337人で過去最多となった。年頭に予感した通りの年になってしまった。2021年は、私の予想が僅かでも外れることを期待している。

 

〇最近、共和党議員がトランプについて「芯まで腐っている」と言ったそうだが、新自由主義とポストモダンとアメリカン アンチインテリジェンスが合体すればいつでもこのような「人物」は現出する。それは彼ら自身が意識するとしないに関わらずである。その成り立ちからして、腐るような「芯」さえあるかどうかも不明である。そもそも彼らに「芯」を求めても無意味なのである。昨日まで言っていたことなど平然と翻し、今日言ったことなど明日にはどうなっているかも不明である。また、それについての責任など問題外というのが共通している。「芯まで腐っている」と言われる者、腐る「芯」さえ持ち合わせていない者、それは日本でもアベを筆頭にあらゆる分野で芋づる状態であることを忘れるべきではない。

                                 12/27

 

〇日本学術会議の組織云々より、東京地検(特捜部)、大阪地検(特捜部)の組織を解体、検証、検討するのが先決であろう。全く信用できない、存在理由さえ見出し得ぬ弊害ばかりが多い組織となった。当初より危惧されていた通りの組織に成り果てたということである。組織自体の徹底検証が絶対に必要。

                                                                                                                        12/24

〇実話風「裏話」、あたかもそこに真相があるかのように思わせているが、それこそまったくエビデンスはないのである。要するに、都合よく作られた話で、誰に都合がよいかが問題なのである。まことしやかに流されるデマと何ら変わるところがない。こんな当たり前のことを改めて言わざるを得なくなるほど薄気味の悪いことが多過ぎる。

 

〇コロナが猛威をふるっているというのに、いまだに議論、その合間に会食、肝心なことを問われれば、専門家は答えを出しているにも拘らず「専門家のご意見を伺いながら進めていく」と言う。しかし、実際には、感染拡大と「go to」との関連性にはエビデンスがないなどと、行動変容を求めるどころか実質的にはgo!go!go!なのである。やはり、そこでも重なってしまう。自分たちは宴会、兵士たちにはもっともらしい正論を吐き、最悪の条件下で突撃を強いる。その挙句にgo to hellとなってしまったことに対する何の反省もないどころか、自己正当化とさらなる国民の犠牲を美化する。国民には「経済が回らぬ」とう大義名分で「旅に行け」、「食いに行け」と指図し、肝心の最前線基地の医療など立て直す気もなく、とどのつまりが最前線基地崩壊寸前のまま、「マスクしろ」、「しゃべるな」、「近づくな」、「用もない動きは止めよ」と国民に求めるだけ。支持率低下で、ようやく「go to 」一時停止。今更停止したとて収まるはずもないことはわかり切ったこと。危機管理上では最悪のことを想定して行うのが常識であるにも拘らず、その常識を通そうとすると「煽る」と言い出す世界の非常識が蔓延している特殊な国でもある。特殊国家の情報弱者、無関心自堕落派は都合のいいように持って行かれるだけである。

 最前線基地は崩壊寸前のまま、検査もろくにせず「経済を回さなければ自殺者が増える」とばかりに、go!go!では全滅は必至であろう。

相変わらず、自分たちは「宴会」、国民に「命じている」こととは真逆のことを平然と行っている。

 

「水際作戦の強化」?水際作戦で成功した例はないと専門家は明言していた。

                                     12/23ー24

 

〇最近は、どこを見ても、「アッと驚く為五郎」!、「ええェっ!と驚く為五郎」!・・・目のやり場に困りつつ目を落としてみても、止まらぬしゃくりのように、そこでも「デへェーと驚く為五郎」!・・・こりゃダメだ!と黙々・・・モクモク・・・

 湯気を上げても、所詮はうどん屋の釜、ただただだらだらと勇ましい責任転嫁の逃げ口上を繰り返すだけ。ごまんといる山師のような言うだけ政治屋の「上意下達」をありがたく聞いている者が果たしてどれだけいるのか?

寅次郎の口上が聞こえてくる。

「見上げたもんだよ屋根屋のふんどし、大したもんだよカエルのションベン」

「四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋なねえちゃん立ちしょんべん」

「けっこう毛だらけ猫灰だらけ、ケツの周りはクソだらけ」

 

〇ミサイル配備だって?その前にやることは山ほどあるだろう。医療同様、操作、指令する者がいなくては稼働できないのである。医療崩壊が何を意味するのか?最前線基地が崩壊するということである。もうすでに、自衛隊幹部が5人コロナで倒れている。まだわからのか、戦いはすでに始まっているのである。ミサイルなどは無用の長物。かえって、滅亡の契機ともなる。中途半端、半可通、生兵法は大怪我の基なのである。どちらにしても、軍産複合体は人類の絶滅要因であることは間違いない。

                              12/22

〇恵比寿が、住みたい街ナンバーワンだそうである。もっともである。いろいろもっともらしい具体的理由が書かれてあったが、そんなことより何より、その街に入る玄関口でもある駅で流れる曲がいいのである。「第三の男」のテーマ曲である。この駅に降りると何とも心地よいのである。それに比べると、高円寺駅の「阿波踊り」、例の「踊るアホ―に見るアホ―」である。劣悪なCMを無理やり聞かされているような不快感がある。誰も住みたいとは思わないだろう。わずかなセンスのなさは、相乗作用、連鎖反応を起こし、やがて街全体のイメージを貶めるのである。誤った「町興し」で失うものは大きい。

                                                                                                               12/21

 

 〇このまま行けば、対新型コロナウィルス戦は先の大戦同様敗退する。それについては、以前このサイトでも取り上げたが、先の大戦について何ら反省、教訓化できていない点、都合の悪いところは見ないまま今に至っていることが、現在露骨に現れているということでもある。教訓化できないということは、何度でも愚行を繰り返すことになる。最近、そのような視点でより具体的に取り上げている方がいた。真珠湾攻撃、ガダルカナル島の戦闘、インパール作戦などを例に、その作戦、戦略的ミスがどのような経路で成り立ってしまったかを語っていた。具体的面では参考になった。

 このまま行けばと言ったが、大戦時も今更止められない、変更できないと突っ走った結果であること考えると、このまま突っ走るつもりであろう。新型コロナウィルス後とは、言ってみれば、対新型コロナウィルス戦の敗戦後ということになる。どの程度の敗戦となるのか。

 

                                     2020 12/20

152.つれづれに一言で片づければ(27)ー36件ー 588件

〇毒食えば 金が成るなり 伏魔殿  

 これは中枢にいる為政者のことで、「まともな」「人間」の顔がまったく見られなくなったというのが正直な思いである。そして、その彼らについて、マスクがあってちょうどよかったネと言ったまでのことである。日々、マスクをして、奮闘している人々について言ったことではないことを老婆心ながら付け加えておく。

 その彼らの頭に、ちょんまげのカツラをのせてつくづく見ると、どれも悪代官、悪徳商人役がぴったりで、一人として有徳の士、義士が似合いそうな者はいない。せいぜい、「 半髪(ちょんまげ)頭たたいてみれば、因循姑息の音がする」くらいである。

・・・・・・・・・・・・・・・

豪邸?つい、どのような大それたことをして財を成したのかと思うだけである。総じて「山師の玄関」、実際、何の風情もない。

 

                                    12/18+25

〇学歴は、非の打ち所が無い程立派だが、その言動たるや無惨というのが多いのはなぜか?それは、煎じ詰めれば、受験勉強という病根とその後遺症から脱し切れていないということに過ぎないのかもしれない。それを乗り越える唯一の方法は、非の打ち所のない学歴を捨て去ることである。すなわち、百尺竿頭一歩を進むということである。それができなければ、既定の枠の中で終始するしかあるまい。

                                                                                                                                

〇裏で生殺与奪の権を振るって恐れられていた者を引きずり出すと、やはり案の定、ラッキョウに目鼻を付けたモヤシのような男である。人間としての風情はまったくない。要するに、欠陥人間なのである。なぜこのような人間が出来上がるのか、よくよく考えるべきなのである。

                                   12/14

 

〇「こんにちは、ガースーでェェーす。」(菅義偉)、「こんにちは、なっちゃんでーす」(山口那津男)、誰に向けて言っているのか?と問われれば、「まだら認知症」か、もしくは「認知症」の方々じゃないかとしか言いようがない。少なくとも、普通の感覚ではない。まともな大人なら、隙あれば「人食らうモノ」が隠蔽的擬態をしているようにしか思えまい。だから、極度に違和感を感じるのである。誠実な姿勢とはとても言えない。

しらけ鳥飛んでいく、自滅の空へ みじめみじめ・・・みじめ・・みー自滅ッ、ん?

                                       12/13

 

〇言葉の簡略化がいたるところで進んでいるが、いいつもり使っていると思考活動も衰え、すべてが短絡気味となり、常にわかったようなわからないような、その内わかった気になってしまう。実は何もわかっていないのであるが、無反省に乗せられていれば、それが仕掛けられた罠だと気付くことさえできないまま適当に操られ自滅するしかなくなるのである。

                                      12/10

〇ビート・たけしが、コロナ禍以前まで、定期的に200ー300人収容の小屋で、言いたい放題のトーク・ショーを行っていたことをつい最近知った。おそらく、皮肉と「毒舌」のてんこ盛りであったであろうと思われる。知っていたらビート・たけしを確認するためにも行ったであろう。タモリについてはこのサイトでも取り上げたが、このレベルの者はやはり地金が違う。

                                12/9

〇「バラエティー番組」の類、要するに、恐るべき「中和剤」である。本当に何が進行しているのかも不明なまま、「酸性」か「アルカリ性」の区別もつかず、やがて嗅覚障害、味覚障害、びらんを起こし、「強酸」を浴びていることに気付きうろたえる。世の中、きちんと見ていれば、そうそう単純でもなく、複雑でもないことはわかるが、見ていなければそれだけで危険なのである。

                                12/8

 

〇「エビデンスがない」という言い方、明らかに「加害者」の物言いである。追い詰められた「犯罪者」が「どこに証拠があるのか?」と言っているようなものである。何を聞かれてもまともに答えず、または答えられない。国会を何だとも思っていない者、実はもの事を知らな過ぎる者。国会は裁判所ではあるまい。それとも司法、行政も区別もつかなくなっているのか?「エビデンス」を問題にするのなら、その内、このことに関しては明快な結果は出てくる。問われていることに答え、それについて具体的に対処するべきで、国会で「証拠があるのか?」などという答弁、前代未聞である。それ以前に国会で話すべきことはいくらでもあろう。すべてにおいて姑息でなのである。よくこんな姑息な者を祭り上げたものである。祭り上げねばならぬこと自体で、その「本体」は知れる。

                                 12/7

 

〇「はやぶさ2」、求められるカプセルをきれいに落下させると、再び別の惑星の探査に旅立った。醜い汚辱に満ちた人間の所業を忘れさせる一瞬であった。「はやぶさ2」も時には、牙を向いたこともあるという。そのようなことも含めて感慨深いものがある。

                                                                                                                  12/6

〇「流行語大賞」?に「三密」? それで司会者が「受賞者」に「受賞おめでとうございます」?それで、「受賞者」はニッコリ。異様である。主催者も主催者だが、選ぶ方も選ぶ方である。最前線基地の医療従事者は今、現在限界状況の中で戦っているのに、「おめでとうございます」はないであろう。新型コロナウィルスの戦いは終わっていないどころか、これからが正念場なのである。この感覚やはり異常である。因みに、「受賞者」の異常性は今に始まったことではないのでどうでもいいが。

 流行語というのが、人口に膾炙した語というのであれば、広く人々の口の端にのぼってもてはやされるものでなくてはなるまい。「三密」がもてはやされたとはとても思えぬ。これは、お上からの「お触書」の中で繰り返し遣われた文言で、それを庶民が止むなく遣わざるを得なかった程度の言葉なのである。

                                       12/5

 

〇「彼らは徹頭徹尾因循姑息で、権力に媚びる。魂などは売るためのものでしかない。それが一生楽に生きるコツであると思っているからである。「事実」、「真実」などは、彼らにとって邪魔になれば、捻じ曲げ、隠滅する一つの事象に過ぎない。いかに権力に媚び、因循姑息であるか、それが楽な人生を保障すると思い込んでいるヤカラ・・・」と事情通らしき者は言っていた。今更、さもありなんでもないが、やはりこういう手合いを相手にしていると思ってかからないと何事についても判断を誤る。

                                     12/4

〇細胞レベルでウソを必須としている生命体があるのではないかとさえ思われる。細胞を死守するために常にウソを合成させ続ける必要があるのである。結局、その生命体は生命維持のためにウソをつき続けるしかないのである。そう言えば、新型コロナウィルスも細胞に入り込み増殖を繰り返す。

                                       

〇「全集中の呼吸」で答弁する???、噴飯笑止で、AIなら対応不明の無限大で火を噴き再生不能になるところである。よくもまあ抜け抜けと言えたものである。最近流行りの猿芝居の発信元はやはり国会の答弁だったのであろう。自分の立ち位置がわかっていない悲喜劇はよくあることでもある。「鬼滅の刃」の矛先とは、悪徳と名のつく者たちの喉首三寸のところにある。しかし、誰一人自らを悪徳とは思っていないのである。「ウソをつかない奴は人間じゃねーよ」という者が平然と日々、人々にしたり顔で講釈している。要するに、嘘つきが堂々とこれが真実であると言っているのである。厚顔無恥といえばそれまでだが、それをまた面白がって聞いているから呆れるのである。自分が利するためなら、それこそ「何でもする」ことを悪徳というのである。「鬼滅の刃」の矛先になり得るにもかかわらず全くその「位置」に気付いていないか、どこにいるか明確になっていないということである。言っていること、思っていることではなく、今、現にやっていることが問題なのである。誰でも多くは、自分は大なり小なり善人であると思っているであろうが、自分の「在り様」自体が、それを裏切っている場合が多々あるということである。感情移入ばかりが強すぎて、鬼を切っているつもりで、実は自らが鬼になっていることに気付かないということである。切られるのは、あなたの方だと言いたくなる御仁が多過ぎる。

 因みに、新自由主義という方向には、人間崩壊の道以外にないことを肝に銘じるべきであろう。その言動は鵺(ぬえ)のようで極めて危険である。少なくとも私は、人間の境涯にはいない者として捉えている。

※鵺(ぬえ):伝説上の怪獣。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミに似る。

                                  2020 12/3

 

 

〇有終の美を飾ったアーモンドアイ、さすがである。お見事!世界に誇れる最強の牝馬。日本の女性も頑張ってほしいものである。

 

〇政治屋さんたちをみていると、学生時代、まともにものを考えたこともなく、麻雀、スポーツ、ゲームに明け暮れ、一気飲みして者たちが、普通の市民生活などばかばかしいとばかりに山師、政治屋の類に流れてきたというのが実情であろうと思われる。実際、言動、面付きからもそれ以上のことを読み取ることはできない。テレビなどに頻繁に出ている若い大学教員(優秀な大学教員はテレビ等には出ない)なども、言っていることは、やはり大なり小なり利権屋の範疇を出ることはない。元慶応義塾大学教授・竹中何某と五十歩百歩、無能な者の行き着く先と自己証明、それが利権屋である。

                              11/29

 

〇「就活」、「婚活」、「終活」・・・よくそんな活動をしている時間があるものである。一回きりの人生でやるべきことは山ほどあるというのに・・・そんなに「作られた人生」に乗りたいのか?自分で作れよ、切り開けよ・・・安易な道には安手の模造品しか転がっていない。

                                                                                                               11/26

 

〇「経済を回す」?人々をぐるぐる回しているだけであろう。あまりにも無能である。このコロナ禍の中、医療も崩壊寸前であるにも拘らず、人の命を回すことしかできない。どうやれば効率よく経済活動を損なうことなく、感染対策もできるかの事例は出ているにも拘らず、やろうとしない。コロナ相手にやっている振りはまったく通用しないのである。遅かれ早かれ、結果は出る。経済を回すための行政的手腕もアイデアも何もないまま、マスクと手洗いを武器に「go to」の人海戦術。これで何人死のうが誰も責任を取らないことはその顔ぶれを見ればわかる。要するに、彼らの言いなりになっていたのでは首はいくつあっても足りないということである。

追記:医療崩壊寸前ということは、救急車で搬送される急患(コロナ以外)も病院のたらい回しで、その挙句に救急車はそのまま霊柩車となるということも多くなるということである。助かる命も手遅れで命を落とす。救急車がすべて霊柩車とならないことを祈る。

 最前線基地の医療従事者の実態を正確に把握もせず、神頼みの「経済回し」で、go! go! では戦中の「大本営」と変わりあるまい。そして、「大本営発表」とは、都合の悪いことは一切伝えないということを意味する。もし、今の施政に「安心」、「安定」などというものを少しでも感じているのなら、それは本当のことを伝えていないからということに過ぎないのである。まんまと罠にはまっているということである。

 また、混乱に乗じて火事場泥棒が徘徊し始めている。騙り、騙り事は今や公認行為の様相を呈しているようだ。

                                                                                                               11/25+

〇叩けばいくらでも埃が出てくるような者が、匿名をいいことに、肝心なことはそちのけで、人のわずかばかりの埃を取って神のごとくに裁断する。つい、お止めなさいよ、野暮なことと言いたくなるが、お里はとっくに知れている。つくづくみじめな奴らである。内容的にまともに批判もできない者は、人を貶めることしかできないと見える。しかし、考えてみればこんなヤカラは昔から裏階段でこそついていた。それが表階段になっただけのことかもしれない。

                                                                                                                    11/24

〇最近の「左翼」、「右翼」という言葉の遣われ方を見ていると、今までのコンセプトは変えねばなるまい。すなわち、「左翼」とは総じて義侠心のある者たち、「右翼」とは義侠心の欠片もない走狗(権力の使いパシリ)で、弱きをくじき強きを助ける、多くは利権屋の類であるということになる。何はともあれ、義侠心の有無が両者の決定的な違いとなっている。しかし、弱きをくじくとは、情けない者たちである。虎の威を借りる狐とは、つまらぬ者のたとえである。

※義侠:強きをくじき弱きを助けること。

                                     11/23

 

〇この間のアメリカの状況を見ていて、改めてその実態を再確認できた。実際、機会はいくらでもあったが、なぜニューヨークなどというところに行ってみたいと思わなかったのか、その確認もできた。ジョン・レノンなどもニューヨークに行かなければ銃撃されることはなかったと思っている。そういうところなのである。元ニューヨーク市長、現在トランプの顧問弁護士ジュリアーニの会見時、あの黒い汗をかいた彼の顔は、悪魔に取り付かれた者そのものであった。

しかし、決して正当化はできないが、このような無様な姿を見せつけてくれるのもアメリカなのである。中国、ロシア、その他の有象無象の独裁国家ではそれ以前にすべては「きれいに」消されているであろう。さて、ご当地ではどうか、焼き芋屋のおやじのような顔をして、掃き掃除ばかりに余念のない者に掃き溜めに突き落とされてからでは遅いのである。

                                    11/21

〇「トランプの支持者って、ヤク中じゃねーか、そんな気がするよ」、てっきり日本のトランプ支持者じゃないかと思っていた者の口からこんな言葉が発せられた。その御仁はさらに「日本のトランプファンだってヤバイんじゃない、ノリがヤク中なんだよ」

                                     11/18

 

〇オリンピック行商人の総元締がわざわざやってきて見るも無残な空々しい「ヨイショ」、「このオッサンの頭、もう完全に逝ってしまっているな」と思った者も多いことであろう。そして、何とはなしに出てくるメロディに歌詞を当てはめると、やはりあの歌なのである

♪ しらけ鳥飛んでいく、東の空へ みじめ みじめ・・・しらけ鳥飛んでいく、南の空へ みじめ みじめ・・・

「こりゃ、ほんとにダメだわ・・・」「ダメだ、こりゃ!」「・・・ヤバイほんとうに・・」

こんな「おバカたち」に乗せられていたら至る所で全滅するしかあるまい。

                                                                                                               11/17

 

〇根拠も定かでない法廷闘争?トランプにとっては、新型コロナで何人感染しようが、死のうが知ったことではない。最大関心事は自分のことだけということは前にも言った。彼と同類の者たちは、その言動に多少の違和感を持ちつつも、何とかそこに自己正当化を重ね合わせ擁護するが、コロナの現状は時々刻々、変異拡大し予断を許さない状況である。一日の感染者数18万人超、やがて、トランプ支持者たちも大量にコロナに感染し、死ぬ者も多く出てくるのは火を見るより明らかなのである。トランプのように数千万円の治療費を払える者たちなどは皆無であろう。この一事を見ても、すべてを察することは容易なのであるが、日々作り出された幻想とは恐ろしいもので、全く現実が見えなくなっている。

                               11/15

追記:庶民が日々直面しなくては生きていけないような場所に行く必要もない、安全地帯にいる者たちが「コロナなどは、インフルエンザのようなもの、大したことはない」などと言っているが、無責任極まりない。彼らは安全地帯でものを言っていることを忘れないことである。金の流れも気になるところである。わずかばかりの金で背に腹は代えられないとばかりに魂を売る者たちも後を絶たない。

 

〇しかし、共産主義国で「富裕層」?それは、共産主義国でも何でもないことを意味する。単なる全体主義国、もしくは全体主義的修正主義国ということであろう。共産主義国などはすでに死語となって久しいというのが実情である。

                               11/12

 〇女川原子力発電所再稼働、誰でも体験はするが、経験化することは難しいという証左の一つである。どのような体験をしてもそれを経験化できなければ、その体験は無意味になるということである。女川住民の多くの「貴重な」体験はこれで無意味となった。一時の金に目が眩めば、戦争などもこのようにして容易く開始されるのである。

 

〇日米電話会談?そもそもまともに話せるのか?トランペットは吹くだけだから何とかごまかせたが、この御仁では、吹くのもままならない単なるテンプレート電話「相談」にしかなるまい。ボディーランゲージも全くできないようで、これでは会っても会わなくても同様である。何もないのであるから当然なのであるが、この御仁の隠微な権力欲は危険極まりない。目先のアメにつられ、猫じゃらしに目を奪われていると、間違いなく崖っぷちに立たされることになろう。

 

〇以前からそうであるが、画面にその顔が出てくる度に、スメアゴルを彷彿とさせるのがスガである。そして、それがすべてであると思われる。もっとも、スメアゴルほど正直でもあるまい。

                                                                                                                   11/11

〇現在、世界の半分以上が独裁国家、非民主主義国家であるという。何のことはない、要する「自由」にびくついている者たちの集合体がいかに多いかということである。改めて、「そんなにも自由が怖いか」と言いたくもなる。全体主義的傾向を持つ者を「保守」とは言わない。ファッショと言った方が正確であろう。本来、人間は「自由であるべく呪われている」のであって、その自由に耐えきれなくなれば、全体主義は大口を開けて待ち構えているのである。独裁国家などは、すべてが安易過ぎるのである。ヒットラー、持って12年である。その結果は?

                                      11/10

〇政治が無頼漢の最終ビジネスになっているようでは話にならない。

 ついでに、「動物化するポストモダン」ではない、ポストモダンは必然的に取り留めもなく無頼化するのである。「餓鬼化」といってもよいが、「無頼化するポストモダン」の方が落ち着くだろう。「動物化」は動物に失礼。よく目にする、どこぞの大学の准教授あたりの軽めのこじゃれたお兄さん方、よく聞いていると、電通絡みのコピーのようである。次から次へと言葉の置き換え、調整をして世に流しコントロールする。印象操作とは、ウソを隠すのが狙い、ウソを追及している側にはその操作は全く必要ないのである。

地球温暖化→気候変動  敵対化→分断化←批判  正当な対峙→ねじれ等々∞ (全体主義国家には「ねじれ」も「分断」もない、批判はすべて封殺される。全体主義国家を希求しているのか?)その内、殺人を「ポア」などと言い出しかねない。

 自己中心的な利己主義のためにだけ、利害が根本的に対立するはずもない者たちに憎悪の種子をばらまき、国民同士の敵対化を煽り、批判する者すべてを敵視してきた結果がこれである。

                                                                                                                      11/8

 徹頭徹尾、自分のことしか関心がないことはその言動からわかる。トランプに対する感情移入は、すべてが勘違い、ヤシ、詐欺師の類の常套手段にいつまでも乗せられていると取り返しがつかなくなる。都合が悪くなれば、彼の側近同様、すぐに切り捨てられるということである。一方のバイデンがどこまでやれるかはわからないが、少なくとも「人の痛み」は知っている人間であることは間違いない。そして、何より「まともな顔」をしている。それに関するメディア的百万言もSNSなども私には全く必要ないというより無意味である。

 一言付け加えれば、政治領域いる者について、人間主義的に矮小化して捉えるつもりはまったくない。「人の痛み」、「まともな顔」などというと、そのように捉えがちだが、そうではない。それも見過ごしやすい重要な要素であるということである。見抜けなければそれまでのこと。

                                                                                                                    +11/10

※「人の痛みを知る」人間とは、実のところ、いそうでいないものである。特に、凡夫などはほんとうに愛する者を失わない限り生涯わかり得ないものである。たとえ体験しても経験化できない者が多いのと同様である。

〇大それた事をしでかす核心部分を取り出せば、白い貧相な蛆一匹。

                                                                                                                     11/6

〇ソーシャルメディアがなければ、トランプなどは大統領にはなれなかっただろうというのは、正鵠を得ている。そして、それだけのことである。以前にも言ったことであるが、トランプ的な「すべて」は元々アメリカに常に内在していたものでもある。そういったものと拮抗し、闘いながら民主主義を辛うじて維持してきたのがアメリカ的「良心」と呼ばれるものでもある。しかし、今や、その「良心」すら風前の灯となっている。トランプの存在自体がアメリカの全的衰退の証なのである。日本においても然り。政治的、経済的方策ばかりがもっともらしく取り沙汰されるが、根幹部分で瓦解が始まっているということを忘れてはならない。思わず、人類の終焉は三文作家と大根役者による猿芝居で、今までの悲劇のコンセプトでは捉え切れない「卑劇」になるのではないかと言いたくなる。出るのは涙ではなく、ただ鼻水と屁。

                                   11/4

後日、スウェーデンの環境活動家・グレタが「とてもばかげている。ドナルドは怒りのコントロールに取り組み、友達と古い名作映画を見に行かなければならない。落ち着けドナルド、落ち着け!」とトランプの投稿にリツィ―トする形で投稿したという。これはトランプがツイッターでグレタについて投稿した内容をそのまま返したことになるそうだ。あっぱれ!74歳のいい年をした爺様が17歳の明快な少女に諭されているのである。すべての「虚飾」をはぎ取れば、実のところはこんなものであろう。日本では、トランプに「詳しい」「ジャーナリスト」らしき者がもっともらしきことを言っているが、やはり根本部分でズレているので、トランプの実像が霞んでいる。簡潔に言えば、思考がまったく深まっていないということである。それは言葉の端々から見えてくる。何を見ても、何年生きても、見れども悟らずということは、凡夫の定めと言ってしまえばそれまでのことではある。

 

〇まさに「悲しいまでの低レベル」である。恐ろしい程の低レベルと言ってもよい。空疎な美辞麗句の次はこれである。すでに瓦解は始まってるが、やがて崩壊せざるを得ないだろう。何をか言わんやであるが、他方、ソーシャルメディアによって、前意識、下意識の領域で不安を媒介にして操作され、自由とは乖離してしまった個人の動きも気になるところである。インターネット上には、見た目には、悪とは見えない全体主義の萌芽は至る所に散在している。特に、ソーシャルメディアは安易に入り込むと蟻地獄状態にもなる。「独裁者」としての実体を見せないこの脅威は極めて危険で、いつしか、姿の見えぬものに絡め取られてしまっているということにもなる。インターネット自体にこのような構造が組み込まれていることを再度確認し、冷静に対峙し、リテラシーを高めるべきであろう。そうでなければ、常に一定の距離を保つか、ソーシャルメディアに中心的役割を与えないか、そこから撤収することである。

                                    11/2

 

〇過去にそれなりのキャリアを持っていたにしても、欲に目が眩めばすぐに根底から自壊するものである。その根底にかかわるものが広義の哲学である。その根本的なものが希薄だから、容易く「魂を売る」ようなことをしてしまうのである。そのような御仁の遺骸、残骸が至る所に残る中に、「ゾンビ」もまた息を吹き返し、起き上がろうとしている。

                                                                                              10/29

〇「政治家の覚悟」などという本も、ゴーストライターの書いた本なのか?削除された文章について聞かれても自分で書いたものではないような答えようである。どちらにしても、あまりにも無責任過ぎる。これもまた一事が万事ということで、何をしでかすかわからん人物であることがよくわかる。しかし、こんなこともすでに周知の事実なのであろうが、周知であってもそれに対する動きを伴わない周知は「周愚」にしかならない。

 呵責の対象となる良心を摘出させてしまうことで生き延びた男は、自らが悪魔になっていることも気付かず、何食わぬ顔をして何でもやることだろう。それを「ただ者ではない」と見誤るか、「非」と見るかで今後の展開は大きく変わる。

                                       10/27

 

 

 〇ホセ・ムヒカ(元ウルグアイ大統領)さんにしても、中村哲(医師)さんにしても、実に「いい顔」をしている。要するに、「やってきたこと」すべてが顔に現れているのである。何をいかに言ってみても、そのすべては顔に凝縮されているものである。信を置くに足りるかどうかは、顔を見ればわかるのである。言行不一致が常態化すれば、虚偽も常態化し、何もかもが言ったまでの話となる。

 何かと目立ちたがり屋の人物と、「いい顔」をした人物とを、よく見比べて観るとよい、どこがどう違うか一目瞭然である。

                                         10/25

 

〇またぞろ、騒いでナンボの売文業者が雨後の竹の子状態、否、ゾンビ状態になってきた。金の流れも実によくわかる。その中には、確か、「偽善者たちへ 『薄っぺらい正論』を嗤う」などというものもあったように思う。何かありそうで何もない偽悪者気取りのchauveなショービニストだったような気もするが。所詮、単なる売文業者の域を一歩も出ない者である。どちらにしても、この手の類に踊らされていたら夢心地で恥部をさらして狂人踊りのまま谷底に落ちるより他にない。

「薄っぺらい正論」だったか、「薄っぺらい正義」だったか確認するのも面倒なのでそのままにしたが、「正論」などというものは、道理そのものの客観的検証がなされていない限り、それは主観的なことに過ぎず、検証もいい加減でザル概念ばかりで構成されていれば、単なるデマの集積、プロパガンダ以上のものにはなり得ない。それも「薄っぺらい」となれば、デマを形成する要素にしかなるまい。一方、「正義」が、ヘーゲル的に客観化された理性的意志、主観的な道徳性を超える家族、市民社会、国家の立場として捉えられるなら、この場合の「薄っぺらい」とは、丁寧に解釈すれば、主観的道徳性を越えられていないという意味なのであろうと思われるが、実際は、単なる感情的な域を出るものでもないだろう。我々の多くは、「絶対善」にも「絶対悪」にも遠く及ばず、うまくいって「偽善者」か「偽悪者」にしかなれないのである。そして今、偽悪者ばかりが「何でもあり」の所業で開き直り、闊歩する姿が其処彼処で見られるというのが実情である。そんな中での「偽善者」の動きは、たとえ主観的な道徳性を越えられないという意味で「薄っぺら」な正義であったとしても、道徳性とは全く無縁の「何でもあり」の「偽悪者」などとは比較にならぬ程有意義である。偽善を嗤う者は、一見何かありそうに見えるが、飽くまで偽悪の域は出ず、屁の突っ張りにもならず、総じて偽善よりも質が悪い。

 そう、むしろ「偽悪者たちへ 『薄っぺらい正論』を嗤う」とした方が、今の世相にはよく合う。

 

                                   2020  10/18

 

 

 

 

 

 

151.つれづれに一言で片づければ(26)ー32件ー552件

〇原子力発電、何度も言うが、後始末もろくにできないものに手を出すなということで、問答無用なことである。後始末も満足にできない者を何と言うのか?餓鬼というのである。原発推進派の周辺には本当に餓鬼と亡者ばかりが巣食っている。その言動も、要するに、後は野となれ山となれの奇妙奇天烈なマッドなものばかり。「ストロンチウム90は飲んでも大丈夫」と言った教授は今でも大学で教えているのか?実際に自分で飲んでみたのだろうか?マッドサイエンスはすぐに独走するのである。科学などに無思慮に夢を託していれば人類の滅亡は、突然訪れても何の不思議もない。人類の「英知」」を「集めて」?「英知」など果たしてあるのか、それも「集めるられる」ほど存在するのか?

                                    10/16

                                                                                                                                    

 

 

〇「道を外しそうな人がいたらみんなで止めような」とは「鬼滅の刃」の中にあるセリフだそうである。今、「上」から「下」まで道を外す者たちが「これが勝ち組」とばかりに闊歩している。そのような状況を打破する意味でも、このセリフはますます重みを増してくる。もうこれ以上、外道を作ってはいけないのである。みんなで止めなくてはいけない時にきている。「ウソをつかない奴は人間じゃねえよ」、これなども外道である。ただし、これは「道を外しそうな人」ではなく、確信犯的外道であるから、注意を要する。

                                     10/14

 

〇そもそも「ウソをつかない奴は人間じゃねえよ」などと嘯いている橋下徹という「人間」とまともに話そうとする者がいるのか?話すだけ時間の無駄である。まともに相手にしたり、聞いていれば、自らアホだということを証明しているだけということにもなる。詐術、詭弁そのもので出来上がってしまっている「人間」を面白がるのはバラエティー番組くらいである。唯一あるのは自分の利害だけで、そこには「人々のため」などという思いは微塵もないことは明らか。これだけ「人間」をおちょくっている者もいない。

 彼らの深慮遠謀、お為ごかしに乗れば一巻の終わりである。

                                   2020 10/13

後日、「ウソをつかいない奴は人間じゃない」と言っている奴が、「大阪都構想の裏表」だと、誰が聞くのか?この男もトランプの縮小コピー版といったところである。

 

〇日本学術会議について、「法律に基づく政府への答申が2007年から行われていない」? あたかも無用の長物であるがごとき印象操作である。何かと都合が悪くなるので、2007年から諮問もせず放置、無視、排除しようとしてきただけのことであろう。結局のところ、世界に恥をさらしてるのである。もうこれ以上、恥をさらすのは止めてほしいものである。そうでなくともこの7年8か月で日本のイメージはかなり悪くなっているのである。

 ついでに、「はんこ」がどうのこうの、そんな些末なことで何かやっている気になられても困る。これもまた、目くらましの一環である。他にやるべき大事なことは山積しているであろう。

※正確に記するため一部訂正。なお、学術会議会則に基づく提言は過去3年間で80件以上。

※日本学術会議の会員6人の任命拒否問題に関して、国際的科学誌ネイチャーでさえ、米科学誌サイエンスなども問題視している。この問題の大きさを知らないと恥をさらすだけではなく、取り返しのつかないことになる。

                                    10/10

〇ベラベラ、ギャギャー、味も素っ気もない空疎な言葉と、見てきたようなウソが織り交ざり、それがいつしか「常識」のようなものを形造る。デマをデマとも思わせない陳腐なアイデアのオンパレード。手を変え品を変えた有名無名の「権威ある」詐欺師たちの「一億総白痴化」運動は今なお綿々と続いているということである。全体主義化にはそれが必須条件でもあるからである。「意識ある系」、ものを考えられる人々などは彼らにとって邪魔なだけ、思考停止状態にさせたまま、隙あらば一挙に全体主義国家へ持って行こうとする者たちは、何かにつけて大量の撒き餌で目くらましを繰り返し、その気にさせておいて一網打尽で「我がもの」とするという寸法であろう。気運に乗じて巧妙な「白痴化運動」にもますます拍車がかかる。それに黙ってまんまと乗せられているようでは、民主主義国の「国民」というより、単なる独裁国家の「民の衆」のレベルであることを自他ともに認めているようなもので、極めて危うい。

 なぜか最近、無声映画が身近なものとなりつつある。あの沈黙に妙に引き付けられるのである。だからと言って、そこから「言葉じゃない」などというわかった風なことを割り出すつもりもない。要するに、「根幹領域」、「根本的なこと」、「本質」そのものにしか共感しない、興味がないというだけのことである。

                                      10/8

〇SNSなどの匿名コメントは、総じて、「言葉の肥溜め」(CESS  POOL OF WORD) 、極まれに面白い「落とし物」がある程度。誰が書いているのか知らぬが、いつも同じような「手口」と展開、その大同小異の陳腐さ、チンケさ、腐臭につい吐き気を催してしまう。底は完全に割れているし、馬脚どころか喉から尻まで丸見えなのであるが、「本人」はわからないのであろう。万が一、書き手の内容、その真摯さを読み取る力がなければ、「知らず知らずのうちに」自滅するか、ウソに巻き込まれるだけであろう。執拗な繰り返し、それだけが狙いのノイズとも言える。しかし、常に冷静な距離を保てれば、その是非は峻別できる。

 

〇「バカの壁」にしても、「恥ずかしい人々」などにしても、著者自身が一番恥ずかしい人であったり、バカの壁を体現している者であったりするというようなケースが多い。要するに、このような題の付け様でその著者の実態が見えてしまうこともある。耳目を引くことだけを狙った派手な題のものは、その傾向が特に強い。大した必然性もないのに、相手を攻撃している内に、自己暴露してしまうということである。「女性はいくらでもウソをつける」と言った例などもそうであろう。相手を攻撃することに夢中になっている内に、自分が女性であることを忘れているのである。自己矛盾である。それとも、自分はもう女性ではなくなった、あるいは両性具有とでも思っているのか。どちらにしても、普通であれば、これでは全く信用されまい。

 策を弄して墓穴を掘る、よくあることである。

                                         10/4

 

〇「マキャベリの言葉を胸に歩んでいく」と、菅義偉はその著書「政治家の覚悟 / 官僚を動かせ」(2013年刊行)で言っているそうだ。今時、マキャベリストであることを敢えて明言する者がいるのかと思ったが、考えてみれば、新自由主義というものが大中小の「新種」、「珍種」のマキャベリスト、ホッブズの亜流などを昼夜をおかず増殖させていたということはその流れから当然であろう。奇書中の奇書ともいわれる「君主論」を書いた権力志向の強い、博打好きのマキャベリにとって、万民などは所詮は邪悪なものに過ぎず、野放しにすれば悪しき魂によって行動するものという認識しかない。したがって、「自らが目指す事」に異を唱える者などは、徹底的に壊滅させる対象としてしか捉えていない。そして、その方策、手順などが「君主論」の中で具体的に述べられているのである。このような書が国際政治の指導原理にまで拡大されているということ自体が、国際政治の限界点でもある。トランプ、プーチン、習近平、その他諸々の有象無象の指導者たち。どこがどう違う、権謀術数をほしいままにする怪しげな人間たちであることに変わりはあるまい。逆に、彼らの在り様を具体的に見るという意味ではこの「君主論」は参考になるということに過ぎない。目的のためには何でもありということは、どちらにしても反倫理、反民主主義にならざるを得ないのである。

 マキャベリの言葉を胸に歩む者は、現在「実務的」、「苦労人」、「好々爺風」などというイメージで、その「本体」は隠されているが、やがて、その実態を思い知らされることになるだろう。要は、その幻想に惑わされれば、身動きつかなくなり、死に急ぐことにもなるということである。支配されることに慣れきってしまった民では尚更のこと。

 

                                2020  9/27

 

 

〇未来にまき散らされた冒涜の「飛翔」は、忘却にかかわらず未来永劫、その限界を思い知らすことになろう。

人間の手に負えない、後始末もろくにできないものに手を出せば、かくのごとしである。予想不可能なこの負の遺産は人間の手では決して払拭できるものではない。

                                     9/24

 

 

〇「日本の立ち位置」? 地上200メートル、幅3センチ程度のタイトロープの上で、バランスを失えば命はないだけのこと。大地の上の「立ち位置」などを想定していると、とんでもないことになる。

                                      9/18

 因みに、タイトロープ上にいるものはすでに「複雑骨折」をしているということである。

 

 〇これがこの「本体」の偽らざる実態である。ここまで見せつけられて、その実情、茶番が見えぬとは、普通であればあり得ぬこと。「多様化する価値観」などという流れの中で、「普通」、「常識」、「良識」というコンセプトがほとんど意味をなさず、機能しなくなってしまっているという証左にもなろう。今、「普通の感覚」を持つということが、逆に極めて困難になっているのである。煎じ詰めれば、「多様化する価値観」の流れの中で、殺人もそれなりの価値観をやがて見出し得るのかということでもある。カルトでもない限り「ポワ」という一言で殺人を正当化することもできまい。もちろん法律にも「人を殺してはいけない」などと言う文言は一言もない。「普通」、「常識」、「良識」というコンセプト自体がいいように加工され、えぐられ、変質して、殺人が「普通」、「常識」となることは避けなければなるまい。「価値観の多様性」などということをすべて「是」とすれば、そこに「魔」が入り込むことは避けられない。

                                     9/17

 

 

〇八百万の嘘つき神に魅入られた者を継承するという者が、当代きっての「こっくり」仕掛け人では何もない、出てこないのは当然。実のところ、見識がない、内容皆無を、逆に「何でもあり」の武器として渡り歩いてきた者であろう。そうでなければあれだけの「異形」はあり得ない。こういう役割の人間が、センターの椅子に座っても実質的に間が持つまい。やがて、見るも無残な結果となる。じっくりと見させてもらう。

                                    9/13

 

〇やはり民主主義を育むのは至難の業なのであろう。怯懦で怠惰な精神には全体主義は安き広き門である。だから、すぐに流される。全体主義に導く者、導かれる者たちの言動を見れば、如実に表れている。総じて、両者とも緻密な論理思考に欠けるが、共通しているのは鬱屈した感情の隙に入り込み増殖を繰り返すことである。感情のはけ口でしかないようなものについても御大層な「論」に仕立て上げ、それを思い込み、思い込ませる。思考停止状態で他者に判断を委ねれば全体主義は一瞬にして巨大化するのである。

                                      9/10

〇「継承」するとは、確かに、この間に作り上げてきた「官僚支配とマスメディア支配」をそのまま継承するということである。これは民主政治とは乖離するばかりで、実質的に独裁政治をさらに盤石なものにするということに過ぎない。こういう最重大事項は抜きにして、単に名を成した者ということで、その下積み時代を面白おかしくバラエティーの乗りで取り上げるしかないマスメディアとは、隷属を自ら宣言しているようなものである。しかし、肝心な問題、犯罪をすべてスルーして何を言っているのかと思う。こんなことを許していたらとんでもないことになるのは目に見えている。

 また、薄汚い提灯持ちの売文業者が雨後の筍状態である。

                                      9/8

 

〇久し振りに「Earth's Cry Heaven's Smile」(サンタナ)を聴いた。つい何度となく聴いてしまった。様々なことが蘇るが、そこには回顧的情趣は微塵もない。今でも自分の中で息衝いているものとどこかで通底し、共鳴してしまったのであろう。そういうことが何気なしに面白いのである。

邦題「哀愁のヨーロッパ」、こんな演歌のような題名で分かったような気になっているようではお話にならない。「Earth's Cry Heaven's Smile」やはり、質もパワーも違う。

                                      9/7

 安吾よ、心配する必要はない。「青春」は持続するだけではない、むしろ高まる。青は深海のごとく深みを増し、春は魂の復活である。

 

〇淡路島が手配師の島になったらしい。淡路島から取り寄せているオリーブ、玉ねぎは大丈夫か?その内に腐るのではないかと心配している。しかし、やっていることは手配師そのものというのが、やたら多くなった。何かスマートなことをやっている気にさせて巧妙に搾取する。これもまた朝三暮四のサルを相手に言葉巧みに行う怪しげな商法である。こういうのに限って真新しい英語表記の名称を遣うが、何ら新しいコンセプトはない。要するに、彼らのやっていることは手配師以外の何者でもないのである。

                                         9/6

〇9月5日、午後の5時の全天空、それはまさに悪魔的であった。何が起こっても不思議ではないような不吉な予兆、偶然そうなったというより、蓄えられたものが必然的にそのように噴き出して来たような、奇怪な様相がいくつも現れていた。預言者、占い師ではなくとも、普通であれば、その感知し得たものに身震いすることであろう。こんな空は見たことがない。

 

〇頭が腐れば尻尾まで腐るのは至極当然。日々伝わってくるのは、オクサレのオンパレードである。新潟のどこぞの教育の長が、このコロナ禍を救うために戦争を起こせば、武器が売れて経済が回るというようなことを言ったという。朝鮮特需などをイメージして言っているのであろうが、この程度のレベルのオッサンたちが多過ぎるから何度でも愚行を繰り返すのである。何度謝罪しても、意識はこの程度で変わることはない。

〇「ユーミン」という歌手について、思いつめた大学教員がいたようだが、それは買い被り過ぎであろう。大体、音楽関係者に知性を求めても無駄である。政治学者らしいが、そんなことをしている間に、もう少し自身の知性を深めるべきであろう。研究の合間に、ピアノソナタを自ら弾いてバランスを保っている者もいるのである。これは後日判明したことだが、授業中に政府批判をしたことについてまで言及している者がいたが、それは何ら問題はなかろう。政治学者であれば当然である。

 

〇イチローが、日本球界には尊敬できる者は一人もいない、人間として尊敬できるのは王さんくらいであると言ったことについて、ある野球通は、よくぞ言ったと嬉しかったと言っていた。野球にさしたる興味もない私ではあるが、野球関係者の人物を見ていれば、実情はそんなものであろうと思われた。

 

〇これだけボロボロにされたら、修復には軽く10年単位の年月を何度となく必要とするであろう。あらゆるものを私物化し、税金を周辺に流し、湯水のごとく使った結果がこれである。これを評価している者などは、それこそお里が知れるというものである。現状は至る所がすでに「焦土」と化している。ここに至るまで知らぬ存ぜぬで、「彼ら」にいいようにさせていた者たちの責任も大きい。

                                                                                                                        9/1

 退陣表明後、また内閣支持率が上がったという、未成熟な民ばかりで本当にやりやすいであろう。これでは「オレオレ詐欺」も手を変え品を変えはびこるわけだ。

 

〇この間の人々の動き、反応を見ていても、為政者にとって、これほど扱い易く、便利な「民」はいないだろうと思われる。因みに、「街角の声」には毎回驚かされる。ほんとか、嘘だろ、何を見てたの50年、いい年をして止めてくれ、と言いながらのけ反り、ずっこけるばかり。その内に、ついつい、芝居づいて、「あわれな民よ!」「今宵、朕のために集いたる愚かな臣民どもよ!」「とこしえに、朕に傅くがよい」などと言い出してしまう始末。何かと言うと、「上から目線」などと言う割には、自らの意識は自立した市民などとは遠く及ばず、飼いならされた臣民以下、とても民主主義国家の国民とは言い難い者たちばかりなのである。メディアよ、故意にこのような臣民のような民ばかりを「街角の声」として選んでいるのだとしたら、それは罪深い「ヤラセ」であろう。

 やはり、民主主義がほんとうの意味で根付くことがなかったということである。全体主義に流されるのは容易で、民主主義を育むことは至難の業ということのわかりやすい例証でもある。環境問題を含め、新型コロナも「やれるものならやってみろ」と言わんばかりに人間の傲慢さ、愚かさを刺し貫いたように思われる。

 「彼ら」(新型コロナ「たち」)の復讐劇はこれからで、止めることはできない。それが止む時すら誰も答えることはできない。それが「ほんとうのところ」である。享楽的文化生活は、まさに終焉の時で、そのすべてはやがて消え去るか、変質を余儀なくされる。

                                   8/29ー30ー31

                                                                                                                                           

〇辛坊治郎、いつ見ても笑い仮面のジョーカーである。言動も変わるところはあるまい。お粗末。三浦瑠璃、要するに、話すことに「論点のすり替え」が多過ぎるのである。これでは信を置く者はいない。松本人志、顔もバックも怪し過ぎる。いつまでもつまらぬギャグを飛ばしていないで、極悪人の映画を主演・監督で作ってみてはどうか。地で行けばいいのである。もっとも、笑いなしでは金が出ないかもしれぬが。しかし、彼らを使う側も何を勘違いしているのかと思われるような使い方をしているものが多い。要するに、アンテナそのものが錆びつき、傾いているのである。

どこを見ても、「桐一葉・・・」である。                  

                                       8/27

〇先日、友人から、外出を控えている間に、以前から読もうと思っていた全集を完全に読破し、新たな発見もあったという連絡があった。わずかばかりの援助金に踊らされてフラフラ歩き回っている者より充実度は確かに違うであろう。

 

〇「二類相当」?何を今頃ボケたことを言っているのか。それは新型コロナウィルスの感染症法上の位置づけのことであるが、現段階でもこんな姑息なことばかりしている。何のために?それは、わかり切ったこと。

                                        8/25

 

〇今一番欠如しているのが、常識、良識である。しかし、「冷静に物事を見ていくことが大切」などという者に対して、それが陳腐な「常識論」であるかのように言っている者がいるようだが、この現状の読みの浅さ、立ち位置の危うさは、まさに新自由主義とポストモダンが生み出した何でもありの「奇形」である。常識のなさ、良識のなさが今の混迷した状況を作り出しているのである。

                                         8/24

〇「歴代最長」で何を騒いでいるのか?もう少し本質的なことを伝えられないのか?「横綱在位歴代最長」とは訳が違うだろう。為政者に対してもアスリートを扱う乗り、この幼稚さは異常で危険。これなども、長く続けていればいいというものではないという好例であろう。

 地元では、祝いの横断幕が県庁など公の施設に掲げられたようである。これなども常識、良識の欠如、というより「未成熟」の典型である。

                                                                                                                                                 

〇「新型コロナウィルス警戒」に「熱中症厳重注意」、さらには「光化学スモッグ注意報」、今、何気にこれだけの負荷が同時にかかっているのである。これに加え、台風、地震がさらに頻度を増しやって来る。また、コロナ禍は思ってもみないものを誘発させることにもなる。例えば、毎年の狂犬病予防接種に来なくなった飼い主が増えているということは、狂犬病になる犬が増えるということである。狂犬病に罹患すれば今でも確実に死に至る。何も狂犬病に限らず、コロナ禍によって、今まで普通に行ってきたことが止められることによって生じる弊害は測り知れないものがあるだろう。同時にその反動で生じる闇の領域も増すことになる。ソーシャル・ディスタンス(奇妙な、危うい造語)などもそうである。keep a safe distance ということを言ってるのであろうが、ソーシャル・ディスタンスと言えば、社会的に排除の対象となるものから距離を置くというコンセプトも取り入れることにもなり、やはり危ういことにもなる。現にそういう事態が起きているであろう。すなわち、闇の領域を必然的に拡大させているのである。「ステイホーム」、「ウィズコロナ」然り、安易に使っているが、どれも「彼ら」の戦略上の言葉であることを知っておく必要がある。

 「もうピークは過ぎた」(政府分科会)?これでは負けるな。また一方では、「専門家に聞いてもわからないので、わからない」とい大阪府知事、それでは何のための知事なのか。いざとなれば、覚悟もない、責任感もない、自分の役割がまったくわかっていないということになる。

                                      8/22

 

〇「公務復帰?」、「あなた」以上に国民は疲れ切っている。具合が悪くても病院にも行けない、行く時間がないというのが大方の実情である。しかし、「言うだけ」、「やっている振り」だけでよくぞここまできたものである。これだけ「やっている振り」ばかりだとやはり疲れも尋常ではあるまい。異常なことをしていれば、それは必ずどこかに現われるものである。しかし、それは当然の結果である。「あなた方」は、現在の巷の実情をご存じか?「今日の最大の目標は、無事に。家に帰れること」なのである。それが、今生きている者たちの偽らざる真情でもあろう。メディアがよく映し出すヘラヘラ笑っている庶民の姿など実はあり得ぬこと、言ってみれば、「やらせ」の嘘と言ってもよい。現状は、戦場さながらである。それは決して大げさでもなんでもない、日々の生活の隅々に「戦場」は行き渡っている。

 それにしても、PCR検査をなぜ増やさないのか?その説明たるや、お為ごかしの詭弁としか言いようがないものである。情報開示はせず、肝心なことはすべてふせて、国民のためになることには金は使わず、極力避ける。これで通るか?民主国家を成り立たせる国民の不在もさることながら、やはり実質的には独裁国家なのである。八紘一宇のカルト的全体主義。明快さ、合理性とは対極にある世界である。これがさらなる展開を拒む最大の難点である。

 

                                      8/20

 

〇8月15日は父の命日でもある。日米開戦前夜に帰国した加藤さんという人がどういう人であったのか詳しいことは知らないが、この時期になると父母(故人)の話に必ず登場する人物であった。「そこの縁側で、声高に話すのよ」、「日本がアメリカに勝てるわけがない、アメリカを知らな過ぎる」ってね。「憲兵隊がくるよ、やめておくれ」と言いながら、おばあちゃんは血相変えて来るし。そんな母の話を聞きながら、父は「今思えば、アメリカに長くいた人だから、いろんなことを知っていたのだろう。日本とアメリカの差は歴然としていたんだろう」という風なことをいつも言っていた。世界情勢をよく知っている者には、最初から負け戦だったのである。どんなことをしても勝てる見込みがないから731部隊、人間魚雷、特攻隊などを作らざるを得なくなるのである。言ってみれば、それらはすべてどうしようもない「貧者」の最終兵器である。「神」をいいように利用し、徒に民を死に追いやり、自らが生き延びることしか考えなかった中枢にいた無能な者たちの「とが」は否定の余地がない。無謀だと知りつつ追い込まれていった有能な者たちも数多くいたことであろう。どちらにしても、戦争は無能の証にしかならないということを思い知るべきである。そして、再度戦争が起きれば、日本の国土そのものが消失する可能性の方が高いということである。すでに、日本は原発関係にしても実験場化しているのである。コロナ禍の感染研の動きにしても然りである。地球環境の変動による異常気象、地震・・・今後は「野菜が高騰してます」程度ではすまないであろう。

 どのように暗くとも明確な現状認識がなければ、道は開けない。明るいことを考えていれば何とかなるという希望的観測ばかりでは、かえって闇の深さは測り知れなくなる。

                                                                                                             2020 8/15

 

〇8月15日.終戦記念日を前に、「民」はマスクとアルコールだけを武器に変幻自在な未知の最強の敵に対峙しているが、「指令本部」は「後退」、「死守」を「命じ」たかと思うと、今度は「経済?」を御旗に「突撃命令」である。いくら「民」でもさすがに呆れ返っている。中には何をとち狂ったか、「コロナは単なる風邪」という酔狂な者まで現れる始末。さらに、肝心なことを追及できない、自主規制の罠にはまったメディアがどうでもいいことを何かありげに垂れ流すものだから、「民」はますます「モヤル」ばかり。また一方の奥では、例の自己正当化の権化のような歴史改ざん主義者が、東条英機などの美化、正当化、「神話作り」にこそつき、暗躍しているようである。「嘘も繰り返されれば、真実となる」ということをご神託のようにそのまま実践している者たちが「現にいる」ということをSNSなどの利用者は知っておいた方がいいだろう。巧妙に、さまざまな隙間にデマの類を埋め込み「あったこと」を「なかった」ことにし、「なかったこと」を「あったこと」する。何のために?すべては、己の目指す全体主義的世界の構築である。油断をすれば、終戦記念日はすぐに開戦記念日、すなわち終焉の時となる。

                                   2020 8/13

 

〇ノーベル賞学者の一票も、正直者の一票も、山師、太鼓持ち、コソ泥、亡者の類の一票も同じ一票というのが民主主義の限界であることを知りつつ、なお民主主義をよりよく展開するにはどうするかを考えるべきなのであろう。山師、太鼓持ち、コソ泥、やくざ、未成熟者、亡者の代表でしかない者たちを国民の代表のようにしてしまうことの怖さを痛感している。民主主義から愚民政策へ、その段階ですでに全体主義の土壌も道筋も出来上がっている。コロナ禍に気を取られている内に、いつの間にか百鬼夜行の谷底にこけているでは洒落にもなるまい。

 

 

〇「意識高い系」などという言葉を「でっち上げて」さりげなく揶揄し、排除する手法は愚民化政策の一環を担う広報企業・機関の陳腐な戦略であろう。こういう言葉で「真面目に物事を考える」者たちを何気なく茶化し、隅に追いやる隠微な常套手段でもある。これでは、操作しやすい軽佻浮薄な者が一般化するだけで、喜ぶのは、愚民化政策を狙っている者たちだけである。最近、「平和活動していたら『意識高いね』と引いた視線にモヤる若者」とあったが、「意識高いねと引いた視線」とは意識が低いだけである。すなわち、ものを考えることができない者たちということに過ぎない。そのような者たちが「引いても引かなくても」関係ない。飼いならされた自己正当化しか頭にない者たちの「引くこと」を恐れていては何もできないだろう。「縁なき衆生」に一々「モヤる」必要もなければ、自らの道を閉ざしていることもわからぬ「意識低い系」の者たちと一緒になって干からびることもない。

                                  2020 8/9

150.つれづれに一言で片づければ(25)ー35件ー519件

〇「故郷は遠くにありて思うもの」、それが実情であろが、このコロナ禍で父親に「絶対に帰ってくるな」と言われた者もいるようである。「キズナ」も簡単に解けるようである。いい機会である、じっくりと自分を見つめ直す時間とすべきであろう。「とにかく止めるわけにはいかない」、ただそれだけのことで動いているともいえる「go to トラベル」、案の定、各地で感染者は増大している。それについて問えば、「詰めの作業に入っている」、この期に及んで「詰めの作業」、やはり尋常ではない。ゴーサインを出しておいて、否自粛しろ!、行け!感染すれば自己責任、これでは国民の多くはダブル・バインドの状態である。ダブル・バインドは、意識に関わらず蓄積され、やがて様々な形で爆発する。

 為政者、感染研など、為すべきこともせず、データ分析ばかりでは自国の民を実験材料に使っているとしか思われない。原発事故、廃棄物の問題の時にも言ったが、日本はさながら実験場のようになっている。無能な策士にとって、神の国という設定は、どのような過ちも許容の範囲内となる便利な方便ともなる。だから、「アンダーコントロール」などという言葉が平然と出てくるのである。「森羅万象の長」はその極みである。何があっても、日本は「特別」であるという思い込み、妄想で人々を動かすのである。選ばれし民などという妄想で突き進めば100%取り返しのつかない悲劇(徒死)をもたらす。その時はすべての終焉である。

 要は、もっと冷徹に己と世界を見よということである。さもなくば、先はない。

                                    8/6

 

〇「新型コロナウィルス感染症対策分科会」の実態は、釜萢敏(かまやち さとし)の欺瞞的言説で、すべて白日の下にさらされた。これでは新型コロナウィルス感染症対策にはならない。まったくお話にならない。釜萢敏のような「学者」、「専門家」の存在自体が罪悪なのである。何のための、誰のための「学者」なのか、「専門家」なのか、根本的なところで再度考え直した方がよい。

                                    8/3

 

〇感染拡大がわかり切っているのに「GO to トラベル」、とんでもなく異常である。この異常性がわからないことが二重、三重に異常で、ホラーそのものというよりホラーさえ超えている。それを中和させるように使われてきた「経済」、これは単なる一部の銭儲けであって「経済」ではない。今や、この似非経済のために、マスクとエタノール片手に一億総突撃の様相を呈している。やがて、一敗地に塗れることであろう。すでに各地で忌まわしい感染結果が出始めているにもかかわらず、それを抑え込むようにPCR検査をさせない御用「専門家」たち、彼らが一丸となって作り出している「こと」は、いかなる弁解もできない歴史に残る愚行である。

                                   2020 7/29

〇ALS女性患者の嘱託殺人、加害者は、これもまた優生思想に絡め取られた出来損ないのAIのようでもある。精神的に未成熟である。優生思想は精神的に未成熟な者に絡みつきやすいのか、その蔓延は看過できるものではない。それは、その社会がいかに脆弱であるかのメルクマールともなる。実際、どこを取っても衰退の一途である。英知とは対極にあるマッドなこの優生思想は、「人間」を神のごとくの高みにいともたやすく持ち上げるが、同時に「反人間」、「非人間」の領域に否応なく引きずり込む。そして、その領域内に内在する要因で自らを粉砕せざるを得なくなる。人間の自壊である。

                                      7/26

 ※「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人なども、精神的にも未成熟なまま自壊した人間の典型であろう。このような「人間」に差別がどうのこうのと言ってもまったく無意味である。それ以前にやるべき重要なことがあるが、そこが完全に欠損しているのである。現在、こういう「人間もどき」が増殖しているのも実情である。

※後日、石原慎太郎が、この加害者を何ともお粗末な解釈で講釈、弁護していたが、まったくお門違い。こんな御都合主義的な合成的見解でよく自身が納得できるものであると呆れ返っている。要するに、知的レベルも創造レベルもこの程度なのである。仏教についても、まったく未だし、他に目的でもあるのだろう。総じて、常に機を見て皮相であった。

 

〇「プラス思考」?何となくわかったつもりにさせ、よく遣われているが、現実回避思考の傾向があり、現実を見据えることもできずに希望的観測にすがる手立てともなる。マイナス領域の捉え方が的確かつ広範囲であればあるほどプラス領域も大きくなることを知るべきである。単なる言葉の置き換えに乗せられていると、実質的にいつまでもマイナス行動の域を出ない。今までにない概念を規定するために行う言葉の置き換えならその必然性もあろうが、概念自体は同一にもかかわらず言葉の着せ替えばかりを繰り返すということはまったく無意味であると同時に、根本的には何も展開できていないことの自己暴露にもなる。言葉の着せ替えばかりの為政者たちを見よ。それは歴然としている。

                                       7/24

 

〇「なぜPCR検査が増えないのか?」、これ以上、陽性者が出ても収容する場所も、治療するマンパワーも不足しているから「抑えている」というのが実情であろう。具体的方策も無策に等しく、一寸先も読めない者が仕切っているのでは話にならない。したがって、これ以上増えれば(実際は数値以上)瞬時にパンクで、その時はすべては手遅れで、なす術もなく、終末を待つしかなくなるということである。

 ところで、偽陽性を厚労省が恐れているからPCR検査が増えないというのは、もっともらしい詭弁である。偽陽性が疑われるのであれば、2回、3回検査をすればいいだけのことである。実際、海外では行われている。肝心なところ(国民にとって)には税金を使いたくないという格好の事例でもある。

 後日、確認すれば、今現在でもPCR検査は必要ないと言う「専門家」が中枢に巣くっているようだ。やはり狂っている。これでは正確なことはいつまで経ってもわかるまい。

                                     7/23ー7/29ー

 こんな時に、「Go toトラベル」、五輪の「一年前イベント」(国立競技場)である。いかなる理由をつけようが尋常な神経ではないことは確かである。進化し続ける見えない最強の敵に、マスクと手洗いだけで挑む姿は、愚策が生んだすべての負け戦を彷彿とさせる。欲望に目が眩む時、無謀、愚行は繰り返される。そこには美化されるようなものは一点もない。

 さらに一言付け加わえれば、何かと言うと「経済」を持ち出す者たち(政官財幹部クラス、提灯持ちは外す)、学生時代に接したであろう「経済原論」すら自家薬籠中の物としていないであろう。彼らが、そして彼らに乗せられた者たちがすぐに口にする「経済」とは、自分たちに都合の良い単なる目先の銭儲けに過ぎないのである。だから、すぐに焼き切れるのである。少しは思慮遠望のある現実的、具体的な経済論を展開できないのか。今回のことにしても、コロナ禍を回避しつつ同時に経済をうまく回す道はいくらでも考えられることである。無能なのか、山師の類か。自分たちのことしか考えられぬ、すなわち無能な、山師なのであろう。

  

〇読売テレビの「あさパラ」、これは重度の精神病棟そのものである。これが公共の電波を使い一般人を対象に流されているのであれば、犯罪にもなる。よくこんなものをやっていられると思うが、しかし、読売テレビもフジテレビも、見苦しく卑しいものばかりになった。これは堕ちるところまで堕ちたという証左だ。ここまで堕ちれば「閉業」しかない。多少なりとも日本人という意識があるなら恥を知るべき、ただただみっともない。今後また、背に腹はかえられないようなことばかりを繰り返していれば、奈落の底で、後は誰を道連れにするかということしかあるまい。蟻地獄事業の新たな展開か?馬鹿も休み休み言え、ほんとうに終わっている、あなた方は。Adieu pour toujours les escrocs

 因みに、他局のすべてがいいと言っている訳ではない。

                                   7/22

〇某御仁の曰く「バカに読んでほしい」と、されど、見れども、聞けども悟らぬから痴れ者というのである。その様、真なるものを指させばその指先の形を見るごときで、決して真なるものには至らぬのである。たとえ、その本が真実を言い当てていたところで字づらしか追えない、「本が読めない」者にいくら言ってもせんかたなきこと。字面だけを追えば事足りる、派手目のバカでも読める本を書けばベストセラー間違いなしというのが昨今の実情なのである。ベストセラーについて一言言えば、ゲーテの作品がベストセラーになった時代と現代日本では書き手の質も読者の質、すなわち意識レベルが全く違う。心配なのは、悪貨が良貨を駆逐するがごとくに量が質に転化することである。実際、ベストセラーなど称されているもののほとんどはバブリーなものばかりである。因みに、本屋に山積みにされている本などには全く興味がない。

 

〇「復讐するは我にあり」とは「誰」が言っているのかは周知のことと思うが、あらためて問う。これもまた、心底わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない。

                                                                                                     7/19

〇 総じて、見ざる聞かざる言うだけである。 

〇黒幕の有無などとは関係なく、為政者は行ったことに対する責任は免れない。黒幕がいるのであれば共犯者という以外に歴史的規定はあり得ない。そこで「本心」などというファジーな領域は一切取り沙汰の対象とはならないのは歴史上では当然のこと。そのような自己の在り様を選び取ったということ自体が問題なのである。これは認識論の問題ではなく、存在論の問題である。

                                       7/16

〇「go to キャンペーン」について、「1兆何千億円」使うべきところはいくらでもあるだろうにまったくお構いなし。「選挙前に使い切りたいのだろう」と言う人あり。これまた、全くその通りであろうと思われる。官僚幹部に至っては多少の犠牲は想定内などと開き直っているのであるから、話にならない。戦時中の軍関係者のやり取りの中に、「勝算はあるのか」という質問に「5000人程度の犠牲で」と答えて何万という兵士たちを全滅状態にさせ、自分は最後まで悠々自適の生活を送った指揮官がいたが、現在の欲に目が眩んだ官僚たちは、実質的にその指揮官と見事に重なる。

それから、各テレビ局などの「被災地支援募金のお願い」、あらためて集めたお金はどこへ行くのかと聞きたくなる現状である。ある局は日本赤十字社を通して被災地へ送られるとしていたが、日本赤十字社は東日本大震災の時、集めた何千億かの募金を政府に丸投げしたところである。因みに、局自身は寄付はしないのか?貧者の一灯ばかりで、長者の万灯など、とんとお目にかかったことがないが。

                                                                                                                       7/15

〇「『go to キャンペーン』は『go to Hell』」としか思われない。」と言う人あり。その通りであろう。「感染拡大防止策を講じながら進める云々」なども言ったまでの話で具体策はまったく見えない。「go to Hell」をまた「御用聞き」の広告会社が「go to  Heaven」に言い換えたところで「有時」(うじ)の終焉という意味では一緒である。要するに、現実に生きている者の「想定内」の終焉ということである。

しかし、話は変わるが、ポストモダンのスジナシというのがピッタリのぺラ男にぺラ子、このような者たちが腰に「御用提灯」ぶらさげて大学で何を教えているのかと思うと、ゾワッとしながら噴飯である。大学もやはり堕ちるところまで堕ちた。何もかもが言ったまでの話で、それについて責任を取るなど思いも寄らぬこと。要するに、何もかもが「悪戯」、「悪ふざけ」の領域なのである。自らの生命をかけるだけの覚悟もない。当然、いざとなれば逃げ足も速いであろう。どんなかっこうで逃げるのか、逃げ口上も見定めたいが、すべては想定内のこと。締まりのない容貌もさることながら、言動も締りがなく、すべてが信用できないのは当然である。何をどのように言ってみても、これではせいぜい走狗のコピーをバージョン変更して世に送り出すこと位しかできまい。多くの者たちにとっては、「一体何なんだ、こいつら」というのがその存在自体の当然の在り様になる。顔も中身もあるようでない「カオナシ」に等しい。

                                     7/14

〇「ウィズコロナ」」?これでまた乗せられるか?どこへ連れて行かれるかもわからず。一見ポジティブな「感じ」のこの造語の危険性は手が込んでいる。まだケリのついていない現実の姿を覆い隠すからからである。一体何のためにこんな造語を作る必要があるのか、それは「止まる」ことができないからである。「絶望的な戦い」でも現実を見せずに攻め込ませるための方便である。こんなことで深刻にならず、ポジティブに成仏してくださいとでも言いたげである。何となくわかったように持って行くこの方便、極めて危うい。まだ不治の病であった時代にウィズ結核、ウィズペストなどという言葉が感覚的にも像を結ぶことはない。生死をさ迷う重篤なコロナ患者に「ウィズコロナ」などとは言えまい。それは心身の全面を通した死との「戦い」というのが実情であるからである。人間が「WITH DEATH」な在り様しかできないというのならまだわかる。それは「ウィズコロナ」」などという「こと」とはまったく異質である。

                                     7/11

 

 

〇虚飾に満ちた嘘で自らを塗り固め、のし上がるためには手段を選ばず、邪魔になれば容赦なく捨て去る。そして、許されざる嘘まで、男社会で女が成り上がるための嘘として矮小化、正当化されることを改めて思い知らされた。それは、男が持つ野心を女が持ってどこが悪いという開き直りでもあり、男社会に大なり小なり恨みを抱いていた女性たちにとってはあこがれともなる。その中には「嘘ばっかりがとても他人のようには思えない」と感じて一票を投じた女性たちも数多くいたのであろうと思われる。しかし、それは飽くまで邪道であり、わが首に自ら縄をかける行為でもあることを忘れるべきではない。因果律の哲理からすれば、因果応報は当然の帰結で、嘘という空中楼閣はやがて空中分解するのである。

 

〇児玉龍彦教授、久しぶりに教授らしい教授を見た。立派な教授である。その言動、見解に全面的に賛同する。

                                       7/9

 ※本日、東京都で新型コロナウィルス感染者数は過去最多の220名以上。きちんと検査すればさらに多くなることは誰の目にも明らかなこと。やるべきことをやらないで、その付けが回ってきた時には遅過ぎるのである。想定外などとは決して言わせない。

 

〇「口直し」をしたくなるようなものが多くなったが、食べ物ばかりではない、「目直し」をしたくなるような、目に入るものの質の劣化は「口直し」の比ではない。さらに「耳直し」したくなるようなものも溢れかえっている。嗅覚、触覚などもまた然り。 

                                                                                                                                     

 「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」なども、今や砂漠の民に向かって言っているに等しい。目には青葉は入らず、不如帰、時鳥、子規、沓手鳥、しでのたおさ、たまむかえどり等々と呼び名あまたのほととぎすの鳴き声さえ知らず、初鰹の味も知らず身過ぎ世過ぎに追われ、やがて死出に到る。そして、魂迎え鳥を見てようやく己が姿を悟る、それでも悟れればまだよい方であろう。                                                                                                                                                                                                                                                   7/6

 

〇「観測史上初めての雨量」、「今まで経験したことのない雨量」と言っているそばから、「数十年に一度あるかないの雨量」などと言いだす。「観測史上初めての雨量」なら「数十年に一度あるかないか」などとは言えないはずである。すでに日本の四季は失われ、気候、環境の変動は今後ますます激しくなることは以前からわかっていることである。このまま行けば、今後も毎年その記録が更新されるような事態になるのは避けられない。「今まで見たこともない光景」は今後も確実に繰り返されるのである。

                                        7/5

 

〇「やらせ」、「効果」程度のことをわかった風に「演出」などという言葉で置き変えてしまうこと自体に大きな問題がある。「演出」とはそんな安っぽいものでも、軽いものでもない。こんなことすらわからないから文化の衰退など見えるわけもないのは当然である。言って置くが、テレビのディレクターあたりがやっているのは「演出」などとは程遠い「こと」である。これも一事が万事で、何もかも糞も味噌も一緒という状態である。「やらせ」、「効果」、「交通整理」程度のことを「演出」であると思っているとそこにある根本的な質の違いがわかるまい。それはそのまま読み取りレベルの違いとなってその人間を規定する。

  自殺者を出したフジテレビ側の言い訳に、「そんな演出意図はなかった云々」、「製作側の演出意図に従う」などの文言、それは演出意図ではあるまい、より正確に言えば、製作上の狙い(主に視聴率)にあった効果を出す(必要以上であれば「やらせ」)ということで「演出」などとはまったく関係ない。単なる目論見、胸算用、心算の類を「演出」などという概念でくくってわかった気になっている、あるいは、ごまかしているだけなのである。それだけのことに何かあるごとくに恰好をつけるなと言いたくなるが、今度そのようなことを言った者に「演出意図」とはどいうことか聞いてみるとよい。大方はわかった風なこと言うが、本来の「演出」とは乖離しているのが実情である。

 昨今の流れを見ていても、概念を明確にするためにも、一つ一つの言葉を再度洗い直した方がよいと思われる。殺人を「ポア」と言い換えただけのカルトの教祖のようなことをいつまでもやっていては、極めて危うい。悪魔は、親し気に、何食わぬ顔で言葉を言い換え、すり替え、そこに何かあるがごとくに思わせるものである。それにすがれば、奈落の底は半歩先にある。

                                 7/3

 

〇WEBサイトのセキュリティなどと称してSSL対応を勧めるメールが定期的に送られてくる。SSL設定をしないとiPhoneではURL横に「安全ではありません」Googleでは「保護されていない通信」と表示されるらしい。費用は18万円程度。要するに、「いたちごっこ」を「仕掛け」ておいて利ザヤを稼ぐ商法である。いくら暗号化してもほんとうに狙う気であれば防ぎようがないのも実情なのである。それとも他に目的があるのか。しばらくすれば、また暗号化のレベルを上げることであろう。それ以外に稼ぎようがないというのがこの「仕掛け」の限界である。このコロナウィルス禍に「安全ではありません」と表示され、18万円払えないところは実質的に排除されていくのであれば、踏んだり蹴ったりであろう。「WEBサイトの利用者様を守る対策」というこの「もっともらしさ」に付きまとう胡散臭さは払しょくできない。こんなSSL対応などは無料で自動更新するようなことであろう。

 本日、東京都の新型コロナウィルス感染者数107名、予想通りであるので驚きもしないが、実際はそれ以上であろうと思われる。私の推定は、すべて状況証拠によるもので、公の発表する数値にも、言説にも依拠するものではない。要するに、そんなものは信用していないのである。

                                     7/2

〇シベリアの永久凍土の溶解には驚いた。マイナス67.7度という世界最低温度の記録をもつ地域が、38度にもなるというのは極めて異常なことである。永久凍土溶解で、今まで封じ込められていた様々なウィルスが拡散する恐れもあるという。今までも、地球温暖化について、経済的視点でしか捉えられなかった悪しき「大人」たちの「楽観論」もやがて具体的に一つ一つ崩れ去ることであろう。もっとも、それまで生き長らえることができればの話ではあるが。現在、新型コロナウィルス禍で世界は右往左往しているが、永久凍土の溶解で、さらに新たな多くのウィルスが解き放たれたことを肝に銘じるべきであろう。自然の警告レベルはすでに超えているのである。

                                     6/28

 

〇肩書ばかりの大学教授がいかに多いか、金子光春ではないが「他に才能がないから大学教授をやっている」者たち、それならまだしも、重箱の隅をほじくり返してようやく博士号を取ったような者たちの、もっともらしい批判的言説を検証すると実にファジーで、根本的な思考回路に欠陥があるとしか思われないことがよくある。これは罪悪である。

                                      6/25

 

〇ひと昔、ふた昔も前、金子光春(詩人)が、自宅で詩人の集いを行っている時に、たまたま通りかかった息子について、「あれは他に才能がないから大学の教授をやっている」と弟子に言ったそうだ。今、頻繁にマスメディアに登場する若手の准教授、教授あたりの言動を見ていると、悪しき教育改革も着実に進んで、すでに功を奏しているのだと確認している。その異様な軽さ、口当たり、時流に乗った商才、それは無能無才を自覚している教授より質が悪い、というより罪深い。彼らの存在自体が新自由主義+ポストモダンの遺物で、到底新しい時代の要請に応えられる資質も器量も覚悟もないと思われる。

 現在、経済優先などとということが、わかった風に言われているが、その具体的方策は、明らかに人の死などは想定内の二の次ということを意味している。

                                      6/21

 

〇どの無法者の物言いを聞いていても、そのすべてがアベ流である。こうも似るものかと驚いている。また、「襟を正さねばならない」という者の襟元は乱れて、眼付も落ち着きがない。これだけ愚行を繰り返して、その釈明、弁解もまったくオリジナリティがなく同一である。この恐るべき同一性はどこから来るのか、何のことはない思慮遠望の欠片もなく、単なる愚行だからオリジナリティがないのである。これは、すでに人間の境涯から外れているということの証明にもなる。

 最近は、ほんとうに「人間」に出会うことが稀となったが、まだ「人間」は確実にいると思っている。

                                     6/19

〇今更、電通、博報堂などの話をするのも気恥ずかしくなるが、細部にわたってその動きが見えるのでついまた言いたくなる。この御用の筋のものたちが、さらに多くの大?中?小?の「御用聞き」を抱えて、微に入り細を穿つように間の抜けた陥穽を至る所に作り上げ、日夜イメージ操作に余念がないからである。「御用聞き」は表向きはどうであれ、実質的に政府広報として「プロパガンダ企業」にならざるを得ない。

 自分たちの思う通りにならない人々については軽く「意識が高い系」などと称して、その負の部分を強調して、何気なく排除していく詐術などは、「御用聞き」の常套手段でもある。それは、当然の質疑に対して、黒塗りの書類しか提出せず、それ以上のことを質すと「下種の勘繰り」と言いだす者たちとさほどの違いもない。「意識の高い系」などとは所詮「下種」と同種と思わせる印象操作にもなっている。何かと表舞台に立っているAIか人間か区別のつかないサッパリスマート系のお兄さんたちの口車に乗っているとかなりヤバイことにもなろう。それは彼らの「注文主」にとって都合のいい「人間造り」であるからである。軽めの言葉、言い換え、簡便な分類、分析には注意する必要がある。

                                     6/14

〇何気なく気になることの一つに、ツルンとした顔で同じようなヘアースタイルの出来損ないのAIのような大学教員、研究者の言動である。研究領域は社会科学、情報関係などが多いようであるが、要するに、得意げにやっているその分析能力の資質そのものを改めて問わざるを得なくなるということである。やはり、見ているようで肝心なものは何も見えていないのである。すなわち、信を置くには不十分ということである。総じて小手先のことに終始しているが、そんなことはどうでもよいのである。敢えて言おう、意識するしないに関わらず、彼らもやがて軍産複合体に絡め取られる御用学者の位置にいるということである。どのようなことをいかにうまく言ったにしてもそのことに変わりはあるまい。だから何ら見るべきものはないというのである。よーく見ればそれは端々に出ている。根幹を変えなくてならないのは彼ら自身でもある。

                                      6/13

※古市憲寿、落合陽一等々                        

〇いやはや、笑止、失笑の連続であった。「スピード感もって行う」などもそうだが、これだけでもすべてが現れている。スピーディー(速やか、敏速)に行うとは言っていない、言えないからそれらしいことを言うのである。スピードを感じられるように行うということで、これもまた「振り」である。何もかもがポーズであった。ポーズで始まり、ポーズで終わったとも言える。これは言葉尻をとらえて云々というレベルの話ではない。正確に捉えようとすれば問題にするしかない、作為的な曖昧さ、詐術、虚偽が溢れているからである。「スピード感をもって行う」と言った時点で、これは二の次三の次になると捉えなくてはならないのである。こんな三文文士のレトリックにハマっているようではすぐに命に関わることになる。

                                   6/12

 

〇「政治のことはわかりませんが」などと、気の利いたことを言っているつもりになっている人が今でもいるようであるが、これでそのすべてがさらけ出されているのである。全体主義国家ならともかく、少なくとも民主主義国家にいる国民が「政治のことはわかりません」などと言って済まされることでもなく、「わかる、わからない」などという次元で言えば、当の政治家、官僚ですら本当のところはわかるまい、煩雑な事務手続きレベルのことをしたり顔で講釈している者もいるが、国民にとってはそんなことはどうでもいいのである。「それはおかしい」、「それは虚偽である」、「許されざるべきことに抗議する」、それが健全な民主義国家の在り様である。それについては「左」も「右」もない。現状は実質、上下(富裕層と貧困層)しかないのに、いまだに貧困層同士の「右」と「左」がいつまでもやり合っている。その三文芝居を観てほくそ笑んでいるのは富裕層であることを忘れないことだ。その三文芝居で、やはり富裕層の特にお気に入りは相も変わらずクレイジーピエロのライトウィングなのである。 

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〇しかし、世の中にはただ騒々しいだけという者もいるのだとあきれ返っている。何か騒いでいないと自分という者が確認できないのか、何者かが取り付いているのであろうと思われる。問題の取り上げ方も、奇をてらうというレベル以下、真摯に考えているのならこのような出方は到底できないからである。要するにすべてが欺瞞的なのである。売名行為以上のものはないということである。このような重要問題が山積している中、コロナ禍も収束していない混乱期に乗じて扇動するヤカラとは?「黒」い扇動者か、そのパシリしかいないであろう。それともそれも政党ノルマの内なのか。真情、ピュア度はゼロである。今、こんなこと(リコール運動)をやっている時なのか。誰にやらされているのか?今なお桁違いな血税を使って愚行を繰り返しているのは一体誰なのか?それすらも見えないとしたら全機能不全である。

※ここで言う「黒」とは全体主義を目指す集団の総称として遣っている。現在は「赤」などと言われている「共産主義国」は実質存在しないのである。現状は、全体主義国家と民主主義国家を志向する国の違いしかない。「共産主義国家」と称される国の実態を見てみれば一目瞭然。どこが共産主義なのかまったく不明であろう。「国家社会主義ドイツ労働者党」と称したナチスドイツと何ら変わるところがない。有名無実な言葉の羅列、合成で何か言ったつもりになっている「詐義士」である。

 今のところ、各自が冷静に現状を見据え、手洗いをするように日々現状の動きをチェックしていくしか方法がないのである。今後、「安心、安全」がキーワードとなるのであれば、今、それがもっとも欠けているのは誰か?どこか?それも敢えて言うまでもなく明らかなことである。

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〇「新しい生活様式」?どのような位置にいる者が誰に向けて言っているのか?こんな言葉で丸め込まれてどうするのかと思う。現実とはかけ離れた、一見前向き風な欺瞞に満ちた言葉を発し、何を隠そうとしているのか。こんな言葉を量産するところは決まっているのであるが、その実態とは、追い込まれた苦渋に満ちた生活である。それを直視させないために今後もその手のプロによって様々な言葉が作り出されるだろう。その気になれば、やがて欺かれたことを思い知らされるだけとなる。その時は、後の祭り。その内に、後の祭りの後片付けまでさせられることになろう。

                                        5/30

〇#「政権批判は誹謗中傷ではない」、当たり前である。批判と誹謗中傷の区別もつかないようでは話にならない。そんな低レベルなことを問題にしなくてはならないことが情けない。的確な批判のないところには発展もなく、ただ堕ちて行くしかないのが普遍的な実情である。現に、日ごと夜ごと悪の縮小再生産だけが繰り返されているのである。カルト系の者以外なら、誰がどこから見ようが発展展開の余地はない。責任を認めるなら、責任を取らねばならない。間違いは間違いとして正さねばならない。いつまでもガキのようなことをしていては示しがつくまい。

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〇「プロが認めた」?、生活がかかれば何をするかわからないということでもある。それはどこまでいい加減か計り知れないことにもなる。「国が認めた」?、政権の成り立ち具合にもよるが、どの領域においても政治的介入があると見る方が賢明であろう。要するに、すべてが国民にとって不明瞭となるのである。「専門家が言った」?、その立ち位置だけで真偽は判断可能である。それは、専門領域にどれだけ忠実であるか否かということにもなる。いわんや、どこの馬の骨かもわからぬ匿名の「垂れ流し」に「振り回される」などは愚の骨頂である。

                                    5/26

 

〇新型コロナウィルスの生態を見ていると、粗悪な人間と重なると言ったが、SNSなどで、主に弱者をターゲットに誹謗中傷を繰り返す匿名の者たちもその最たるものであろう。いざとなるば、コソコソ逃げ出す卑劣極まりないチンケなヤカラである。因みに、私は、SNSなどの負の領域を知っているので彼らと関わることはまったくないが、この変種のコロナウィルスのような者たちも、コロナ対策と同様の防御の仕方である程度は防げると思われる。彼らは、もはや人間の境涯にはいないものたちなのであるという認識がまず必要で、彼らに対する甘い考えは捨てるべきである。前頭葉が一部損壊した者たちにまともな交流は成り立たない。さらに悪いことには、そのような者たちを増殖させ、煽り、まき散らしている者がいるということである。彼らの使用言語から見て、思考回路は目詰まり状態で展開不能、一部焼き切れていて機能不全、ほとんど機能していないと言ってもよい。したがって、自分自身で展開することは不可能で、手ごろなターゲットに取り付いてはその反応で辛うじて息衝いているような手合いなのである。彼らに対しては、コロナ対策同様「ソーシャルディスタンス」がそのまま有効である。距離を置いて放置する。そして、折を見て提訴することである。その実態はたとえようもないほど貧相で、何の滋養にもならないという意味では地球生態系上の絶対「害」ともいえる。

※ここでいう「ソーシャルディスタンス」とは、正確には、「social distancing」で飽くまで物理的距離の意味合いの方が強く、社会学上の意味合い、すなわち「排除」を増幅、強調するものではない。言葉を安易に英語で置き換えることで、危うい状況も作り出されることを忘れるべきではない。

                                      5/24ー

※弱者をターゲットに誹謗中傷を繰り返すヤカラについて規制することは必要であるが、この機に乗じて国民監視体制を強化する方向に持っていこうとする動きがあるが、これもまた極めて危険である。国民監視体制強化が「正義の御旗」のように見えるようでは、誹謗中傷するヤカラなども、実はその工作員か、工作員に動かされているパシリに過ぎないのかもしれない。これは穿った見方でも何でもない何食わぬ顔ですべてを食い尽くす、陳腐な常套手段でもある。要注意。

 

〇新型コロナウィルス禍の最中、検査もろくにしていないのに「減少している。これは世界に誇れる」とは、これまた恐れ入り谷の鬼子母神。もし、このような「大本営発表」を真に受けているようでは、現状と乖離した現状認識のまま、すなわち、目隠しされたまま崖っぷちを歩くことになるということである。

 要は、給付金など補償金を出したくないだけの話、そのための数値操作は朝飯前であるということである。その手に乗れば断崖絶壁で足を踏み外すことになる。

 今日、駅前の居酒屋などでは、何事もなかったかのような客の入り様であった。しかし、この結果はやがて現れるだろう。もはやそのような時代は去ったのである。

                                  5/23ー

 

〇何のことはない、新型コロナウィルスの増殖過程の変異、「盛衰」を観ていると、粗悪な人間の様相と重なってしまう。それは、自ら独立して成長、展開はできず、自恃の念の欠如した、常に他者を傷つけ蝕むことでしかその存在意義を見出せぬヤカラということである。不可視なパラサイト、silly con。

                                  5/21

 

〇以前から、俗臭ふんぷんたるスキンヘッドを見ると、chauve(ショオブ)という言葉がすぐに浮かび上がる。それは「禿げた」という意味のフランス語であるが、それはそのままchauvinisme(ショオビニスム)「盲目的愛国心」、「排外主義」という言葉につながっていくのである。俗臭ふんぷんたる「禿げ」と「盲目的愛国心」、それは寄る年波に比して内容が深まらない空疎な自我がすがる唯一のアイデンティティーともいえるが、いつまでも金の尻を引く単なる下種と言ってしまえばそれまでのこと。

                                5/16

 〇「知能がシリコンなどであろうはずない」という文脈で、Silicon Valleyは、シリコンバレーではなく、silly(愚かな)con(詐欺師) valley(谷)というシリコンバレーであろうと笑った人がいたが、そうであるなら、この地は差し詰めしsilly con islandで、民を人間と思っていないSilly conたちが仕切る島なのであ、ろう。隙を見ては民を騙し、目くらましをかけ、民主主義を根底から蝕み、保身だけが正義、正論と心得るシリコンたち。放置すれば新型コロナと同様の結果となる。

                                2020   5/11

 

149.つれづれに一言で片づければ(24) ー33件ー 484件

〇某タブロイド紙は、このサイトで私が遣う言葉、造語がお気に入りと見えてよく紙面で目にする。自分の書いたものを読んでいるような気になることもしばしばである。私は、引用は引用として明記するし、決して人の遣った言葉や造語をそのまま遣ったことはない。「大本営発表」の遣われ方、「息をするように嘘をつく」、「アメリカ合衆国日本州」、「トランペット」(トランプのペット)等々、これだけではないが、使えると思ったから使っているのであろう。それ以上のことでもないと思っているのでここら辺で止めるが、再びこのサイトで私がこれらの言葉を遣うと、私が「他人の言葉」を勝手に遣っているいるように思われるので一言付け加えておく。これ以外にもこのようなことは多々あるが。逐一、取り上げ関わっている時間もないのでここまでにする。

(このサイトも10年以上になるが、上記の言葉も年月日を見れば私がいつ遣ったか一目瞭然。)

                                       2020 5/10

 

〇相も変わらず、「批判ばかりしていても云々」などと、何かある風な(実は何もない)御仁の多いことにはいつも驚かされる。やはり、「報道の自由度」はG7加盟国では最下位、アジアの中では韓国、台湾よりも下位であるというが、それが妥当であろうと思われる。自分が今、どこにいて何を言っているのかということがまったく見えていないのである。これでは当然、民度も衰退の一途である。因みに、教育への公的支出割合は34か国中、最下位ということであるから、今後も知的、文化レベルの衰退には拍車がかかることであろう。これで「お家」も安泰ということになるのか?いつの間にか、「民は由らしむべし、知らしむべからず」という為政者の気分になってしまった民の話ともいえる。そうでなければ、安手の単なるプロパガンダであろう。どれもこれも陳腐な異口同音で出所はすべて同一である。

                                                                                                                                   5/8

〇「連休中の人出、7ー8割減」などと得意げに言っているが、実際には自宅周辺をウロウロしている人々が非常に多かった。避けられぬ用事のため外出したが、自宅付近から駅までの商店街、外出自粛も何のその、ぞろぞろと、タラタラと人の動きは変わることもなかった。大丈夫なのか、この人たちはと思うこと頻りであった。人間なのか、GAFAの操り人形なのか、色とりどりのマスクで顔を半分覆い、歩きスマホではますます判別しにくくなっている。

                                     5/6

 

〇身近なところにいる兄さん姉さん風に、あるいは気さくなおじさん、おばさん風に酸いも甘いも嚙み分けた親し気な言葉で語りかける者たちがいるが、総じて、その語りには騙り(かたり)事が多い。いつの間にか何気なく「すり替え」を行っているというのが彼らの常套手段である。受けそうなことで引き付け、批判すべきポイントはずらし、それがごく自然であるように思わせる。何となくわかったような気にさせるが、すべては不明瞭なのである。これは極めて危険なことでもある。要するに、衆愚の大量生産に寄与する者たちということである。衆愚とは、より簡潔に言えば、批判もできないほどに手なずけられてしまった者たちということでもある。衆愚作りに貢献している兄さん、姉さん、オジン、オバンたちの名前を具体的に挙げることもできるが、この手の者たち、実に多過ぎる。この路線がよほどいい稼ぎにつながるとみえる。

   何のことはない、様々に粉飾されてはいるが、この群れは走狗の集団ということで片付く。

                                     4/23

 

〇トランプが演説の時、必ずする仕草、嫌みと同時にある懐かしさを感じて複雑な思いにかられるこがあったが、それがわかった、オケラ(ケラ科の昆虫)という虫である。両手を左右に開くあの速度、開き具合、もちろん、オケラの方が比べ物にならないくらいに愛嬌があるが。まあ、我々としてはこの有能なビジネスマンに乗せられてオケラになることだけは避けたいものである。

                                      4/19

 

〇新型コロナウィルスを「忍者」にたとえたノーベル賞学者がいたが、何を言おうとしたのかよくわかるのでそのたとえ話自体を否定するつもりはないが、「忍者」なら「目的」がはっきりしているので絞り込みが容易であるが、このコロナウィルスにはそれがまったくなく、とんでもないところに突然現れ拡大させることが考えられるので予測がつかないということである。したがって、2次3次出現がどこで起こるか全く不明となる。第2波出現などについても、すでにハーバード大学の研究論文でも発表されているようである。

                                         4/16

〇専門家と称される皆さん、特にお国からお墨付きいただく専門家の方々、もう少し専門家なら専門家らしいことを言いましょう。すでにわかり切っていることを繰り返しても仕方ないのです。専門家委員会より第三者倫理委員会のようなものが必要なのではないかと思われる。少なくとも、私は専門家という人々が話す内容で参考になったものは一つもない。

                                         4/14

 

〇新型コロナウィルスで倒産、閉鎖、閉店に追い込まれ、生活が立ち行かなくなった人々対して援助の手を差し伸べるのが国として当然やるべきことであろう。いつものようにやっている風は見せているが、まったくその実態は見えない。このような時に、何だかんだと理屈を付けて国の資金(税金)を出し渋っているようでは国としては失格なのである。いざとなれば、多くの自国民をまともに守ることさえできないということを連日見せつけられているだけなのである。これもまた一事が万事、今後も「何が起きても」この通りであろう。そして、思い知った時は例外なく手遅れであるということを忘れてはいけない。今後、国民は大なり小なり蛇の生殺し状態を強いられることになることは間違いない。「がんばる」?、「耐える」?どちらの言葉でどのように括ってみても虚しいというより、そんなことをしてたら命がいくあっても身が持つまい。言うべきことを言わない、するべきことをしない結果でもある。

 やはり、今の政府そのものが緊急事態なのであろう。

 巷からは多くの者の声が聞こえる、「ガチャガチャ、ぺれぺら喋っていねーで、さっさとやることをやって、きちんと補償しろ!」、「マスク2枚だ?何様のつもりだ、ガキでも怒るぞ」、「よーく、わかった、いざとなればこれなんだな」、「死ねってか、食えねーから外に出ているんだ、要するに、補償はしたくない、国民の命を守ることが、現実的でないって言ってんだろ」等々。

 実際、それが本音であろう。「マスク2枚でも助かります」などとは、何を勘違いしているのか、思考停止状態の命知らずか、極楽とんぼの類であろう。

                                     4/11

 

〇またぞろ出てきた「陰謀論」という言葉、この言葉には、この言葉を発した者の出自をすべて露呈させてしまうというというおぞましいところがある。例えば、「公式見解」などに対する当然の疑問、推測、推定、批判などまでも「陰謀論」という言葉で括ってさりげなく批判、推定などを封殺するために遣われるということがある。このような言葉を遣う者とは一体どのような者なのか。言っていること、やっていることを「よく見れば」すぐにそのスタンスがわかる。実際、この言葉はケネディー暗殺の時、その「公式見解」とは別に様々に飛び交った推測、憶測などをCIAが封殺するために遣われ功を奏した言葉でもあり、それが最初の使われ方であると米国の社会学者の指摘もあるようだが、やはりこの言葉には、かなり注意しないと正当な批判、推測、推定までも矮小化、卑小化させる作為が込められているということである。しかし、私に言わせれば、単に幼稚な言葉に過ぎないのである。そのような言葉で簡単に括れる、あるいは括られるオツムの具合が幼稚なのである。この「陰謀論」という言葉自体が、すでに陰謀であることは、その成り立ち、遣われ方をみても明らかである。

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〇嫌韓、嫌中などと称される者たち、要するに、韓国、中国と共通点を持った者たちなのであろう。なぜなら、共通点がない者同士が敵対することはないからである。「誰かの敵であるということは、その人と共通点がある」ということの証左なのである。

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〇ギャーギャーとがなり立て、これでもかと騒ぎ立て、すぐに音も映像も消されるような安手のCMが多い中、「YKK」と「いいちこ」のCMだけは別格でつい見てしまう。昔はサントリーのCMが好きであったが、最近は、これで社長がよく許しているなと思われるようなCMばかりである。何をとち狂って勘違いしているのかと思われる。

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〇「志村けんのバカ殿様」は、権力者を手玉にとって徹底的にこけにした日本では珍しい「コント」でもあった。まだまだこれから展開の余地もあり、彼ならやれたであろうと思われる。目くそ鼻くそを笑うがごときの笑いに終始して、笑いものにするのは常に弱者、それで何かやっている気になっている「お笑い芸人」はごまんといるが、少なくとも彼らとは確実に一線を画していた。そう、彼は痛々しいくらいにコメディアンだったのである。

                                                                                                                                      3/31

〇新型コロナウィルスとの戦いに、「長期戦を覚悟する必要がある」と述べたらしいが、そんなことは言われなくとも充分わかっていること。間違っても「長期政権を覚悟する必要がある」と置き換えることのないようにしてもらいたい。

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〇これも以前書いたことであるが、報道番組の「良心」「良識」を感じさせるものとしてTBSの「報道特集」がある。このようなスタンスを維持することは大変であろうと思われるが、やり続けてほしいと思う。金平茂樹さん、日下部正樹さん、膳場貴子さんの健闘を祈る。私は、フェイスブックにも距離を置いているので「いいね!」はしたくともできないのである。悪しからず。

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〇そして、どんなたわごとでも言いたい放題言えるのが民主主義だと勘違いしている愚者、それはフェイスブックの領域だけであることをまず思い知る必要があろう。「民主主義はどう機能するか」をわかっていないと民主主義は危機的状態となる。何であれ、快刀乱麻のスムーズさというものには反民主主義的なダークサイド、全体主義的傾斜を伴うのが定石なのである。

 

〇ウィキペディアがやっていることは、要するにダイジェスト版的人間の大量生産なのである。したがって、知っているようで実は何も知らないに等しいことにもなる。それどころか、嘘に振り回されることにもなりかねないのである。中途半端な情報など得たとしても、知らない方がまだ救われる可能性もあるというものである。それが、「ネットはゆがめられた情報を植え付け」、「知性をむしばむ」といわれてしまう所以でもある。「おおざっぱ」なだけで、正確な情報は得られないどころか、嘘八百も垂れ流されていて、却って「本体」とは違った危ういものが形造られてしまう。それがインターネットの「やり口」なのである。ウィキペディアに書いてあることだけを頼りにものを書いているような「作家」もいるようだが詐欺師と騙され上手の奸計には興味はない。どちらにしても「落ちる」一方である。

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 ウィキペディアは、問題のある個所が見つかっても削除訂正できるのはウィキペディアだけの権限であり、明らかな「嘘」もそのままとなってしまうということである。ウィキペディアに載せられた者たちは、後日、何者かにねつ造されても放置すればそのままとなってしまうのである。たとえ削除訂正を要求しても、すべてはウィキペディアの裁量となる。

 

〇「羽鳥慎一モーニングショー」の玉川徹の発言、彼はいつもごく当たり前のことを言っているだけである。この程度でざわつくネット民とはお里が知れるというより、民主主義ということがまったくわかっていないとしか思えない。また、この程度で「目をつける」国もやはり民主主義という意味を根本から考え直した方がいいだろう。それから「テレビウオッチャー」などという存在の実態は?日本で唯一のテレビの満足度調査などと言っているが、どこまで信用できるか大いに疑問。バイアスのかかった安易な世論調査としか思えない。つい、どこの下請けと聞きたくなってしまう。

                                                                           3/22

〇自殺した赤木俊夫さんの遺族が、国と佐川元理財局長を相手取って大阪地検に提訴とある。また、あの悪名高き大阪地検である。大丈夫か?三権分立さえまともに機能していない民主主義国家という名の隷属全体主義国家。しかし、やらねばなるまい。本来なら赤木俊夫さんのような人が公僕としていなければならないのである。

                                       3/19

 

〇なぜか彼の顔、しぐさを見ていると「時計仕掛けのオレンジ」を彷彿とさせる。時計仕掛けのデクと言った方がいいかもしれぬが、彼に「良心の呵責」、「謝罪」、「対話」を求めているご遺族の方などもいるようだが、まったく無意味であろう。

                                                                                                                                         3/19

〇検査もろくにしていないにもかかわらず、「新型コロナウィルスは抑えられている」(専門家委員会)とは、笑止。どんな「専門家」?圧力の具合で何を言い出すやら、真実には程遠い。

                                       3/16

〇「日米電話会談」?「日米電話相談」の間違いであろう。巷では、タレント業に現を抜かす「社会学者」に「国際政治学者」等々、「博士」というタレントもいたようだから、「学者」という芸人なのだろう。どちらにしても、勉強不足、何者かである「振り」「肩書」だけで騙せるのはアホばかり。

                                       3/14

〇WHOの事務局長の顔を見るたびに、「Who are you?」と聞きたくなるが、バッハにしても森にしても「今更やめるわけにはいかない」といった具合で、現状認識は金まみれの希望的観測で占められ、実のところは人命など二の次三の次ということにもなっているのだろう。この状態で急停止すれば、どうなるか、それは言わずもがな。できれば、燃料を使い切って崖っぷち数十メートル手前でソフトランディングさせることくらいしか頭にあるまい。彼らが言っていることではなく、やっていることすべてがそうなのである。現状把握ができていないままで突き進むことが一番危ないという事例は枚挙にいとまがない。こうした中でまた愚かしいデマゴギーや、以前にもあった「ストロンチウム90は飲んでも大丈夫」などと言いだすような「専門家」もいるということである。

因みに、私が選手なら参加は辞退する。そうでなくてもオリンピックなどあってもなくてもどうでもよいと思っている。自分の力を試す恰好のスポーツ大会はいくらでもあるのである。もはや、オリンピックなどにこだわるのは時代遅れでダサイ。オリンピックのイメージ?、臭いところに蓋をして、見苦しいところには目隠して、ありもしない作り出された幻影の中を走る聖火ランナーにも象徴されているが、金、金、金で、これまたどこを見ても金まみれであろう。

 すべてが変わる時にきている。そして、もはやその節目自体を変えることはできないのである。

                                     3/12

 

〇コロナ感染者、大阪のライブハウスばかりが目に入るが、東京にはライブハウスはなかったのか?実態をすべて明確にするところからすべては始まるのである。東京には感染者がいないかのような「印象」であるが、それはあり得ないだろう。

                                                                                                                                3/10

〇勇ましいこと、美辞麗句を並び立てても、いざとなればこのざまである。よーく覚えておくことだ。国民をまともに守れない政府などまったく必要はない。これも一事が万事で、すべてがここに集約されている。何でもありの、何とでも言う舌先三寸しかない者の言葉に、今なおすがっている者のオメデタさ、アワレさ、それでは首がいくつあっても間に合うまい。欲ばかりで責任が取れない未成熟な人間もどきに仕切らせておけば自滅は自明の理なのである。現状はどのようになっているか、少し「考えれば」わかること。政治家、官僚、御用の筋の専門家、評論家、「学者」などに聞くだけ無駄。人に頼るな、自分で考え、判断せよということである。そういう人間が一人でも増えれば、民主主義も健全な方向に向かうということである。「アホが選んだ政権」、自業自得といえば、それまでである。

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〇政治とは「現実」である。現在のこの体たらくな現実を見ればすべては何をか言わんやであるが、言わなくてはなるまい、さらに徹底的に批判しなければなるまい。そして、それに則ってできる範囲で行動することである。忘れればまた繰り返される、批判の手を休めればさらに身動きがつかなくなるのは必至。

                                                                                                                                   3/7

〇ウィキペディアのみならず、インターネットそのものに対しても然したる信も置かず、距離を置くのが私のスタンスでもあるが、その浸透力に対する危機感は日々増すばかりである。いつの間にか、現実世界に持ち込まれるその「有害な要素」を考えると、「インターネットは、完全に非民主的な環境」でもあり、「イメージによって真実が覆い隠されている状況」を作り出しているともいえるのである。いつとはなしに、「何者か」によって支配されてしまっている状況、「何者か」とは?ヴォルデモートのようなものかも知れぬが、具体的に絞り込めば、人々は「有害なパラメーター(媒介変数)によって支配されている」ということにもなる。

 やはり、フェイスブックなどで、思いついたことを勝手に垂れ流しているのは民主主義とは根本的に違うということを「思い知る」必要があるだろう。

                                    3/6

 

〇「断腸の思い」とは、内閣支持率低下に対してのみであろう。その他は相変わらず形容詞と形容動詞の乱用で内容本体が全く見えない。政治とは「現実」である。そういう意味ではまったく空疎なズレたスタンドプレー。しかし、殿上人のような物言いは一体何様になったつもりなのかということである。そうか、森羅万象の長か?

                                   2020 3/1

 

〇クルーズ船ダイヤモンド・プリンセスの悲惨な状況と政府発表との間には驚くほどの違いがある。それは戦時中の現実の状況と乖離した成果と隠蔽ばかりの大本営発表などと相似している。神戸大学医学研究科の岩田健太郎教授の身を賭した発表(これこそ調査報道)と政府発表のどちらを信用するかは各自の勝手ではあるが、もういい加減目を覚まさないと命がいくらあっても間に合うまい。その選択を間違えばすべては手遅れで、手の施しようがなくなるということである。実のところ、これもまた一事が万事なのである。しかし、今まで何度この「一事が万事」という言葉を遣ったことであろうか。とにかく、この「本体」は、百万語を費やして展望を語っても、説明、謝罪、訂正をしても、実際には99%の者たちのためには何もやらないということはすでに実証済みだということである。

  岩田教授を排除したDMATのチーフドクターは誰なのか?それを指示した者は?DMATとはこの程度のものなのか?実践的機能のレベルがこれではお話にならない。それにしても、現場の状況把握もろくにできてない者が適当なことを言っているのでは文字通り話にならない。

 

                                                                                                                         2020 2/20

 後日確認すれば、「加藤厚労相が『18日から1日3830件の検査が可能』と言っていたが、実際に18日PCR検査されたのは全国で9人であった」(羽鳥アナ)、因みに「韓国では一日4000件やっている」(玉川徹)そうである。然もありなんである。私自身は、国立〇〇研究所、〇〇省認可の類は信用していないのでさほど驚きはしないが、それにしてもひどいというより手が付けられない。

〇「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん」とあり』(新約聖書「ローマ人への手紙」12章19節)、「神の怒り」すなわち「天罰」などという言葉で「表されていること」とは、実は因果応報という明哲な因果律なのである。したがって、そういうことは実際に起きるのである。今までも、起きていたがそれと気付かないことが多いだけである。何年か前、この政権には天罰が下るというようなことを言ったことがあったが、それは神がかった予言でも何でもない、必然的な流れ、合理的な論理なのである。「策士策に倒れる」なども実はその一例に過ぎない。

                                     2020 2/16

〇春の宵 薬屋にをり 招き猫           魯孤

 

〇「麒麟がくる」、題からして観る気がしないが、安易にドラマ化したがる「戦国武将」たちとは一体何者なのか?そもそも麒麟が現れるような者などは皆無と言ってよいだろう。妙な思い込みで美化するのは三文コミック程度のお話にしかならぬ。「鶴瓶の家族に乾杯」とやらもそうだが、そんなに幻想を振りまいてどうするのかと思っている。家族などというものがあり得るのも一瞬、崩れ去るのは釣瓶落としのごとくである。それが実情である。鶴瓶のいい加減なキャラクターが何かあるように錯覚させるが実はそんなところには何もない。

                                   2020 2/11

〇三権分立が機能していないことは、以前にも言ったことであるが、ここにきてそれがさらに顕著かつ明確になった。あの「お方」が検事総長ですか?これでは白も黒に、黒も白になるのは必至。これは前代未聞のことが陰日向問わず着々と進行している露骨な証左でもある。それにしても、無知蒙昧、愚蒙、愚昧、よくぞこれだけ私利私欲しかない「静かなる」亡者を集めたものである。どちらにしても、亡者が操る船に乗せられれば「旅」は、所詮「荼毘」(ダビ)にしかなるまい。

                                                                                                                                 2020 2/9                                                                                                                      

 〇桜騒動、「いつまでやっているんだ」とはアベに言うべきことで、野党に言うべきことではないのは当たり前のことである。領収書やホテルの明細書を出せばいいだけのことであるが、出さないから長引いているのである。そして、それについてごまかしを重ねるから、貧弱な日本語使用がますます無様な様相を呈することになる。その焦点の定まらない言い訳を繰り返す時の滑舌とその発話速度から、それは長年繰り返され積み重ねられてきたことがよくわかる。すなわちごまかすことが「特技」だったのである。言語使用の乱れは、思考も無茶苦茶ということでもある。日本語もろくに読めない、その使用も危ういのでは、本当に日本人かと聞きたくもなるが、そのような者に限って、何かと言えば「日本人であること」を全面に出すが、実は日本人ではないのではないかと思っている。本当にそうであれば敢えて「説明する」必要がないからである。「万葉集」を「マンバシュウ」と読みかねない者たちや、検証など受け付けない単なる「記紀」のカルト的妄信者たちに、したり顔で日本文化を語られてはたまったものではない。たとえ語ったところで本来の歴史、文化とはまったく無縁である。例えば、平田篤胤ごときに「踊らされて」、その気になっている「表舞台」の者たちとはどれほどの者たちなのか、その世界で本当にものを言うのであれば富士谷御杖の指し示す方向をさらに明快に指し示すか、その本質的な問題の提起に対峙しなければならなかったはずである。平田などが指し示す、本質とは乖離した大言壮語的言説等々、派手ではあるが皮相的な内容、方向には狂信者を鼓舞する程度のものしかなく、あまりにも偏狭で、その先は確実に何もないといってよい。一言どころか、ついつい長くなってしまった、もうやめよう。載せるべきこのサイトの「カテゴリー」を間違えたようだ。

 とにかく、今までは「ごまかし」も「特技」で通用していたのであろうが、ここまでくるともはや醜悪の極みでしかないということである。やはり、つい「本当に日本人?」と聞きたくなる。それは飽くまで比較文化論的レベルのことではあるが、そうでなければやはり、「病人?」。この事態自体が悲劇であろう。

                                  2020 2/6 

〇武漢からの「日本人救出」を「政府チャーター機」を使って、ここぞとばかり自ら指揮を取っている風情を見せていたが、利用者にそれぞれ8万円を請求したということである。「ア然とするセコさ」と言われても仕方あるまい。「身内」には湯水のごとく税金を使い、一般国民にはこの通りである。後は推して知るべし。すべてにおいてズサン、やはり先進国の「振り」をした後進国なのである。どちらにしても、今、我々にできることは手を洗うことくらいしかないということである。今年起こり得るすべてが凝縮されているような月でもあった。

                                   2020 1/30

148.つれづれに一言で片づければ(23)ー32件ー(451件)

〇この政権は、「民主主義の根幹を揺るがす由々しき事態」をすでに何回も引き起こしているのである。「致命傷」と言われるような瑕疵も一度や二度ではない。それでもなお、今もってこれである。すべてが発展途上国並み?それは甘いであろう。腐りきって衰微の一途という点でも、後退途上国と言った方が適切である。事ここに至っては、四の五の言っている場合ではない。総取替えしかないと思ってやらないと、また足をすくわれることになるだろう。

                                     1/26ー

 

〇「消費税増税は是か非か」、それは「非」である。そして、「是」とする者は、必ず「社会保障」、「少子高齢化」などの問題を出す。あたかも社会保障を必要とする者がいるから、少子高齢化が原因であるかのような詭弁操作(これはさらなる分断化にもつながる)をする。それだけを見ても三流ブラック企業の無能な経営者と何ら変わるところがない。問題が起きても、すべては社員のせいにして自らの無能無策は棚に上げ、ごまかす。消費税増税を「是」とする者が出すもっともらしいデータらしき数値は、ほとんど「マジック」といってもよいであろう。自分たちに都合がよい勝手な切り取り、恣意的選別、割り出し根拠の不明瞭、必要もないのに相手に断定を躊躇させる煩雑な要素の組み合わせを敢えて提示する。一つ一つ追及したらそれこそ際限がない。これは単なる手品で、手品師は、目の前にいる者たちを攪拌し、すり替え、まんまと騙す、それがすべてでそれ以外は何もない。騙すことが第一義なのである。それは1%にだけ連動するミーファーストだから騙す必要があるのである。昔から「巧言令色鮮し仁」というであろう、やっていることを見れば「仁」などまったくないのは明らか、「徳」に至ってはもはや死語と化している。こういう者たちを持ち上げ提灯記事を書くにはマキアベリを持ち出すしかないのである。実際にそれをやっている者はいる。そして、それほどの才もない器量もない者がその気になり、人品骨柄はますます卑しくなっていくという具合である。

                               2020 1/23

 

〇カエルの子はカエル、カエルの孫もカエルであったということに過ぎない。代々、米国の手先として君臨したカエルたちが本来の「反日」なのである。自らが生き延びるためにだけ国を売り、国民を裏切り、手先となることでその地位を得たカエル、そのカエルを手本とするカエルの所業を少しでも批判すれば「反日、反日」と馬鹿の一つ覚えのように連発する者たちとは、焦点の絞り方、思考の展開過程に欠陥があると言わざるを得ない。完全にコントロールされてしまった自動反応装置ともいえるが、それはもはや正常な人間の領域にはいない「ものたち」と言ってよいだろう。精神科医の対象でもある。今時、戦前回帰?バカも休む休み言えと言いたくなるが、休む休み言っても同じであろうと思われる。彼らには思考の深化、展開の余地などまったくないからである。そこにあるのは実質的な後退、退行しかあり得ない。

                                2020 1/20

 

〇「日本民族は単一民族云々」などと、今もってわけのわからないことを言っている人間はまず自らDNA鑑定を受けてもらいたい。法廷鑑定でもよいが、超高精度鑑定を受ければ問答無用でその由来が判明する。いつまでも妄想にふけっている時ではあるまい。あまりにも低級、低能過ぎる。反社との境目も定かでない組織であってみれば然もありなんではあるが、とにもかくにも史上最悪の状態で2020年はすでに始まっている。オリンピックなどのお祭り騒ぎに浮かれている場合ではないというのが実情である。効用?効果?実は何もない。それは単なる目くらまし、むしろマイナス面の方が大きいだろう。まんまと乗せられてどこまで行く?早く気付かないと命はないよ。

                                2020 1/19

 

 〇リンカーンではないが「顔が気に入らない」の一言で人を選ぶくらいのことができなければ、何をされても仕方がないということにもなる。現在の行政権を行使する者たちの顔、またその周辺の提灯持ちなどの顔を見ていると、どれも「顔が気に入らない」で片付いてしまう。もちろん、それは顔の美醜ではない、その顔つきから見えてくる、信を置くに足りるかどうかということである。やはり、顔にはその人間のすべてが表れているのである。ただし、それを読み取れるかどうかは、己自身をどれほど厳しく見つめていたかにもよるので、自分に甘い者は「直観的にも」顔の読み取りすらできないまま、その空疎な言動に巻き込まれ結果的には繰り返し騙されることになるのである。

トランプとソレイマニ(イランの司令官)、ブッシュとビンラディン、もっともらしい分析、危うい講釈、大樹に寄り添う軍事オタクが開陳する怪しげな「具体」事例等々を度外視すれば、一方は口八丁手八丁の詐欺師の顔であり、もう一方は義士の顔である。実際、ソレイマニもビンラディンも基本的には自ら陣頭指揮をとる司令官であった。安全地帯で大口をたたく詐欺師まがいの者とは全く異質なのである。すなわち、少なくとも「裏切り者」の顔はしていないということである。リンカーンが「顔が気に入らない」とにべもなく断ったのは、皮肉にもトランプやブッシュのような顔の人間であろうと思われる。

                                                                                                              2020 1/6   

〇毎回思うことであるが、海外と比べて日本の「街の声」のレベルの低さ、それはやはり「ボーッと生きてんじゃねーよ」と言いたくなるような老若男女ばかりであるということである。これは「編集」のせいなのか、実際そうなのか、自主規制も含めて「編集」のせいであればこれも大きな問題であるが、実際そうであればなお深刻な問題でもある。

                                                                                                               2020 1/5

 

〇「下山」も「登山」もあるまい。多くの者にとって、景気の多少の変動は感知、体感し得たにせよ、実質的に「登っていた感覚」も「下山している感覚」もない。それを感じられたのは「極一部の者たち」であろう。それも主に経済的な面である。大多数の者たちは、意識するとしないに関わらず実質的にも平坦な荒れ地を歩き続けているだけなのである。それも、さ迷い続けていると言った方がいい現状である。歴史の只中で一体どこにいるつもりなのか、ということにもなる安易な俯瞰的言説は避けるべきであろう。

                                2020 1/4 

〇「Told by an idiot full of sound and fury  Signiflying nothing」昨今ではこの手合いが至る所で跳梁跋扈しているようである。卑しい感情に身を任せ、騒々しいが、それ自体は何の意味もない阿呆の語り草。「You fool !」で終わりのレベルであるが、詐欺師の類になると巧妙でさらに厄介になってくる。現状の枚挙にいとまがない詐欺師たちの所行を見れば、それは明らかであろう。

                                   2020  1/3

〇「門松は冥土の旅の一里塚」などとはどこかに活力も感じさせるが、今では、門松もあるかなしやの街となりといったところで、街の衰微していく姿しか見えてこない。

                                    12/31

 

〇しかし、阿呆の周辺、元へ、アベの周辺には塀の中にいてもおかしくない、塀の外の懲りない輩が何と多いことか。早晩、塀の中であろうが、そんなのが税金使ってやりたい放題ではたまったものではない。「反社の皆様」などという言葉が自然に出てくるのも当然で、自分たちと区別、線引きができなくなっていのであろう。それから、ものを言うのなら精神病院できちんと直してから言いなさいと言いたくなるような者まで引き連れているから始末に負えない。

                                   12/27

 

〇日本郵政株式会社、今回の「事件」の社長の対応を見ても、社内の社員の扱い方を見ても、民営化した時点でこうなると思っていたが、それにしてもやっていることは3流企業レベルである。これも大株主は政府である。こんな無能な者たちの下で働く者たちは最悪である。ただ鞭打たれるだけの奴隷に等しい。要するに、肝心の上層部が無能で、打開策を見出せないのだから、どうしようもないのである。今後もパワハラ、セクハラ何でもござれであろう。これは何も日本郵政だけに限らないが。

                                    12/23ー

 後日、郵政グループのヘッドが4人辞任した。責任をとっての辞任のように見せているが、やはり「逃亡」であることは明らか。そして、問題になっているにも関わらず、再び天下り人事である。この組織は今後も何も変わらない。したがって、被害者が言っていたように「それは詐欺」で、そのような「詐欺行為」は、謝罪、首のすげかえ、反省程度で直るものでもなく、また手を変え品を変えやらざるを得なくなるということである。高齢者はボケている暇はない。ボケれば身ぐるみはがされて捨てられるということである。

 

〇山口敬之、見た通りの、思った通りの食わせ者。最悪である。これもまた、すべてが凝縮されている。どの面を拡大させてもすべてが見えるのである。こういう人間は、司法解剖するがごとくに徹底的に検証、裁断すべきなのであろうが、すでに刑事でも「推定で有罪」なのである。さらに継続展開させれば、刑事でも有罪は確定するだろう。そして、さらに新たな、山口にとっては最悪の局面も見えてくる。民事で勝訴している伊藤詩織さんは徹底的にやるべきである。あなたはもう命を懸けることを何とも思っていないだろうから、何でもできる。一方の山口は今もって未練がましく保身をはかることしか考えていないのである。彼を完膚なきまでに追い込む絶好のチャンスである。こんな人間を社会に泳がしておいたら百害あって一利なしなのである。そして、これは決して小事ではなく悪しき国家権力が絡む大事だということである。この「事件」を何とか矮小化し卑小な事件に見せかけようとした者たちも含めこのままでは済まないだろう。

 後日、詩織さんに対して悪口雑言を吐いていた者が「私の表現の拙さ」などと言い訳していたが、それはオツムの拙さで、それが許される位置にはいない以上、辞めて責任を取るしかない。

                                   ー12/21ー

 

〇トランプが弾劾訴追された。「権力乱用」、「議会妨害」etc・・・

 そもそもこれで辞任する「人間」でもないし、上院の共和党議員の占める割合からみても罷免させることもできまい。しかし、アメリカの「良識」が僅かでも残っているのなら弾劾訴求はしなければならない。訴追したことで、トランプを史上3人目の「札付き」にしたのである。ミーファーストをアメリカファーストに巧妙に置き換えるナルシストには丁度良いクリスマスカードでもある。辞めるまで首にさげられていることになる。

 私は、アメリカに対して何の幻想も持っていないので、トランプは出るべくして出てきたと思っている。それは衰退とともに抑え切れなくなって噴出し始めた闇に息衝いていた劣情でもある。場合によっては、彼の口から「ジャップ」という言葉はいつでも出てくるであろう。

 日本にも縮小相似形の者がいるが、やはり野放図で周りもまったくの放置状態である。いくら飼い慣らされた「民」とはいえ、せめて「忘れない」というくらいのことはできるだろう。そうでなければいつになっても積み重ねのできない、すなわち歴史認識の欠如した認知症、何度でも同じ手口で騙されるということになる。北朝鮮を仮想敵国として、実は北朝鮮のような一党独裁の全体主義国家建設を目指す者。彼らには目覚めた国民は必要ない、すぐに忘れる意識活動の少ない「民」だけが必要なのである。

                                    12/18

※キリスト教福音派の有力紙「クリスチャニティートゥデー」が、ついにトランプは罷免にすべきとの見解を出し、呼びかけた。この影響力は大きい。(12/20)

 キリスト教福音派は、再度トランプ批判をした。トランプの支持基盤の瓦解は速度を速めるであろう。これも自業自得、そもそも福音派は「欲得」が肝心の組織ではない、トランプの「つっぱり」程度で、ひるむような相手ではない。(12/24)

案の定、証人の召喚が2020年1月末に否決され、無罪が確実となった。しかし、これもまた我々には有罪という認識しかない。それが変わることはない。

 

〇年収1000万程度、それはアメリカでは低所得者で、年収4000万程度で中流、それが常識ということである。その常識からすれば、日本で年収300万程度というのは低所得者層というよりは極貧層。その極貧層の者同士がいがみ合い、さらには社会保障を受けて当然の弱者までも攻撃対象にする。向ける矛先がまったく違うのである。盲千人目明き千人などと言うが、実情は盲千人目明き数人というところなのであろう。無能な為政者にとっては、盲が多ければ多い程、それは結構なこととなる。

今でも、実際に朝三暮四の猿回しと猿、その関係に何ら変わるところがない。

                                                                                                                             師走 某日

 〇「お世話になっている『反社の皆さん』には、いろいろ優遇措置も考えております。残念ながら、一般の皆様には優遇措置は一切ありません。すべては自己責任ということでお願いします。」これは現実に起こっていることでもある。

 実際には、「彼ら」は「反社」に対して「反社の皆さん」ではなく「反社の皆様」という言葉を遣ったのである。そこには、普段からの接し方のすべてが現れている。「彼ら」とは今更言うまでもないこと。

                                   師走 某日 

 タイムスリップしたような話であるが、現在進行中の「現実」のことである。

 

〇「自衛隊派遣は有害無益である」と言っていたのは中村哲さんである。戦をしない国から戦をする国へ、それも米軍と共に動くとなれば今までの「非戦の国の人」という日本人観は一転するのは当然。その時から、日本人も戦闘員となったのである。中村さんのような状況で殺された日本人は他にもいる。実入りのない酌婦外交で金と危険をバラマキ、後は「自己責任」ということで放置する者たちの責任も問われてしかるべきなのである。中村哲さんのような人がいることで、辛うじて日本にも「すばらしき人間」がいることを改めて世界に知らしめたのは紛れもない事実である。税金で世界を飛び回り、何をしていたのかわからぬような者は、シュレッダー処理するまでもなく、やがて記憶の片隅からも消え去る。それが因果応報の摂理である。

                                     12/15

 

 〇「彼ら」には、大衆はconsumableかexpendablesの違いで、どちらにしても「消耗品」程度の意識しかないのであろう。「彼ら」の目くらましのように発する「美辞麗句」と、「啖呵」と「節」で織り成す空疎な言説に酔い痴れていては、すべては後の祭りとなる。             

                                      12/14  

〇これでは「特殊詐欺」の定義もできまい。自ら行っている範疇にも関わることだから尚更である。要するに、聞くだけ無駄で、説明どころか最低必要事項の伝達もできていないということである。「特殊詐欺グループ」が、「改憲」云々とは、前代未聞、奇っ怪千万、戦慄の「森羅万象」である。

 

〇「反社の定義ができない」? 定義など求めてはいない、社会的ルール(法律)上、「反社」は是か非かということである。付き合いが長すぎて言いようがないのであろう。しかし、「反社」の定義は簡単明瞭、法に反する行為をするものである。したがって、この期に及んで、言うに事を欠いてこれでは、自身が「反社」あるいは「反社」との共犯関係にあることを言明してることにしかなるまい。虫も殺さぬ顔をして合法的に「刺客」を放つ、スキャンダル、デマを流す、歯の浮くような美辞麗句の裏で、「その筋の者たち」が蠢いているのが具体的に手に取るようによくわかる。

 

 すべては嘘、そのすべてが嘘という作品化できないホラーを見続けている.。

「『当事者』とされた暴力団総長が真相を語る」(デイリー新潮)とあった。まず暴力団総長が「真相」を語り得るのか?一つの証言として取り上げている方向ではなく、あたかもそれが裏事情=真相という持って行き方である。見え透いた陳腐な手法である。いまだにこのレベルである。「反社」の親分が「真相」を語り、それがその通りだと認められるのなら裁判所は必要あるまい。

今後は、「反社とは、どいう意味や」と因縁をつける輩が出てくるのであろう。とりとめもなく愚かしく、狂っている。

                                       12/12

 〇簡略、置き換え、省略化された言語がネットスラングなどとあいまって、あたかも新しいコンセプトを作り出しているかのごとくであるが、実のところ、それは単なる言い換え以上に貧相なもので、言語能力の劣化、すなわち思考能力の後退、脆弱化を招いているだけであろうと思われる。思考能力の低下を「本人」以上に「喜んでいる」のは、そのことによって人々を容易く動かせると思っている者たちである。「大衆よ、いつまでもアホでいてくれよ」それが本心なのである。大学から人文科学系をなくすなどというのも「無駄のない」専門バカの大量生産を狙っているだけ、文化は「無駄のないところ」からは育たない。そして、その一見無駄なところから想像を遥かに超えるものが生み出されてくるのである。専門バカだけの未来からは「明るさ」は消え去り、闇だけが残る。

 専門バカついては、枚挙にいとまがないが、最近でも東大特任助教の大澤何某とやらが「資本主義の文脈において、パフォーマンスの低い労働者は差別されてしかるべきです」などと言い出す始末。これで何か言ったつもりになっているようだが、これは思考の根幹が問題なのである。しかし、本人は一生気付くまい。このような思考の鍛錬もろくにできていない専門バカばかりになったら一体どうなるか、想像しただけでも吐き気を催す。

                                    12/11ー

 因みに、ネットスラングに「脳内お花畑」というのがあるそうだが、そんなことを言って何か言っているつもりになっている者のオツムの具合は「脳内砂漠」で火でも出ればすぐに「脳内地獄」であろう。やはり、お里が丸見えなのである。

 

〇悪魔?  幸か不幸か、我々は今、現実に日々目にしているのである。「彼」の一挙手一投足、物言い、そのすべてが悪魔そのものではないかと思っている。このサイトでも7/14のこのカテゴリーで書いたが、あのホラーの第一人者スティーブンキングでさえ、自分の作品に出てくるブギーマン(不気味な殺人鬼)より怖いのがトランプだと言っているのである。ホラー映画を観る必要も、その手の本を読む必要もない、我々は現実に「そのもの」を目にしているのである。よーく観察しておくべきであろう。その「手先」の類も同様である。何をするかわからない、要するに、何でもするのである。「ここまでするとは思わなかった」などとは、よく聞こえてくることでもあるが、甘すぎる。一方では「令和のおじさん」、「美しい日本」、「未来を切り拓く」などと、学芸会並みの仕立て具合で乗せられると思っているのが日本の事情でもある。上下左右未成熟というのが適切であろう。これでは悪魔の手先も張り合いがあるまい、彼らに対峙する真の大人とは、何を「具体的に切り拓く」のか、また「切り拓いた跡地」が死地にならぬよう見守りつつ、そうならないように実践できる人のことでもある。もはや流されている猶予はない。

 地球も青息吐息なのである。四の五の言っている場合ではあるまい。それこそ人類の英知が試されているのである。

                                 12/8

 

〇2019年の流行語大賞は、「ワンチーム」だそうだが、今それがそのまま拡大されどこに至るのか、その延長線上を考えると危うい感じもするので賛同はしない。どちらかと言えば、三人寄れば文殊の知恵という意味も含めて「スリーチーム」の方が現状にはなじむ、というよりそういうことがさらに必要になってきているということである。

 ラグビーの本来の意味付けとは乖離し、変質拡大しながら大衆操作・誘導に使われやすい流行語ということである。「ワンチーム」という「意識」は、すでに作られた「絆」によってさらに強固なものとなり、やがて国益のためなら戦闘もいとわない一国至上主義の方向に進むことが自然な流れのように感じられるという状態を形作る。為政者にとって、ここまで大衆を誘導すれば、後は大衆の健気な犠牲的精神がすべてを補完し、自動連鎖状態でいともたやすく「一党独裁体制」を保持できるという寸法である。

 しかし、この手の見え透いた詐術に乗せられるようでは、やはり後進国の大衆と変わることはあるまい。今もって、民主主義の理解力は12,3歳程度というのでは、あまりにも悲惨である。

                                   12/3ー4

 

〇今更言うまでもないが、特捜の理念は完全に崩れている。この組織は理念が全うできない以上その存在意義は全くない。その実情は日々目前で繰り返されているとおりであろう。この特捜を作った者は、警句を発していたが、やはりそのとおりになってしまった。

 

〇菅義偉さん、あなたは2012年文芸春秋社から「政治家の覚悟」という本を出している。その中で、「政府は、あらゆる記録を克明に残すのは当然で、議事録は最も基本的な資料です。その作成を怠ったことは国民への背信行為」といっている。その通りで、あなたのこれまでの行為のすべては、国民への背信行為なのです。まさか、「これは、私の書いたことではないので、細かいことまでは記憶にありません」などと答えるのではありますまいな。

                                     12/1

 

〇今回の「桜を見る会」について、「『桜を見る会』、何が悪いんですか?」などと平然と、それも恥も外聞もなく言う者とは、本当のアホか確信犯以外には在り様がない。さらに、「今、こんな小さなつまらんことに関わっている場合ではなかろう」などと言う、あたかもそれが「正論」であるような物言いをする者も極めて危険な確信犯であると言わざるを得ない。こんな「小さなこと」に対してもとんでもなくデタラメな対応しかできないのである。それが「大きなこと」をやる、無茶苦茶になるのは火を見るより明らかであろう。これは小さなことでも何でもない、本質的なことなのである。早く終わらせたければ、当事者が必要書類を出せばいいだけのことである。野党に矛先を向けるなどはお門違いも甚だしい。このような「事件」を軽く片付けているとすぐに民主主義は崩壊する。

 昨今でも、世界最大級の武器見本市が千葉の幕張メッセで行われていた。世界20か国90社、日本国内から60社が参加、戦車、ミサイルがぎっしり展示されていた。武器商人が揉み手で日本の改憲を既成事実のように喜んでいた。

「抑止力」?、ローマ教皇ではないが「偽善」であろう。「抑止力」、リアルポリティックス上で遣われるこんな言葉ですべてがわかったつもりになっていると戦争屋の思う壺で、明日は我が身が標的ともなり、悪の連鎖は止むことはないということにもなる。笑うのは、常に戦争屋だけ。この際、戦争屋とは具体的にどういうものかフィクサーも含め考えてみるべきであろう。勇ましい、美辞麗句の裏には常にフィクサーと武器産業の関係者が蠢いているのである。

 世界観を持たぬ、命を鵝毛のように扱う者たちと、明快な世界観を持ち続ける、命の尊さを説く人と、どちらを取るか、その先に見えるものはその選択で決定する。

 

                                    11/30ー

 後日、「桜を見る会」に来たのは、旅行会社の旗持ちにぞろぞろ付き従うオメデタイ地元民やお追従が命のような幇間みたいな者たちで、自分とは全く人種が違うというようなことを、今流行の斜に構えたスタンスで物言う者がいたが、それなら何もここまでむきになって隠すことはあるまい。要するに大したこともなく、問題になるような人物はいないと言いたいのであろう。お里は、電通出身者、さもありなん。

 

〇「いつの時代にも、このままでは日本はダメになると警告を発する人がいます。彼らのことを『アラーミスト』と呼びますが、これはもう、明治時代から現代に至るまで、ずっと変わりません云々」これは社会学者の竹内洋がある人物について評したことであるが、警告を発する人を「アラーミスト」と呼んだところで何か意味があるのか、何もわかったことにはならないだろう。月をムーンと呼んだからといって月の実態がわからないのと同様である。「いつの時代にもいた警告を発する人」を「アラーミスト」と言い換え、それと「彼」は同様だという話である。この御仁にとっては、「警告を発する人」は、おしなべて「アラーミスト」、すなわち「人騒がせな人、心配性の人」ということに過ぎないのであろう。危機感を持つ者を一括して「アラーミスト」という、オメデタクハナイカ?社会学的視点とはその程度のものか。

                                                                                                                                  11/28

 

〇「トリセツ」、「ラノベ」、「マネドク」etc 一体何のことかと思われるようなケッタイなコトバの山、「殺人」を「ポア」と言い換えたような、実質的に何も変わらないコトバの操作だけのまやかし言語があふれかえっている。総じて、何のことはない陳腐なコンセプトなのである。昨今では人の生き死にを商売にする「稼業」も雨後の竹の子状態で、透けて見えるような安手のコピーを見ることも多くなった。団塊の世代をターゲットにして最後の荒稼ぎというところであろう。しかし、要は、「じじばば」に媚びることもなく、「ガキ」に媚びることもなく毅然として、矜恃を保って生きればいいだけの話。人間到る処青山あり 覚悟の有無にすべてはかかっている。

                                     11/27

 

〇白を切る 所作も目線も 堂に入り 後に残るは ただガラン堂   ー11/22ー

 

〇「『冷和』の爺さん」は、何かと言うと「仮定のことは申し上げられない」と言う。「仮定」ではないことまで「仮定」にしてしまうからタチが悪い。これもお決まりの「逃げのフレーズ」文言集の一節であろう。それでは、予算のことをどうやって決めているのか?とつい聞きたくなるが、予算のことばかりではない、仮定のこと、すなわち想定し得ることを考えられない者を無能というのである。

 このような状態が続く限り、令和はいつまでたっても「冷和」であり続ける。すでに氷結は至る所で始まっている。

 

〇長くやってればいいいというものでもなく、継続は善でも力でもないという前代未聞の典型が最近誕生した。長く繰り返されればされるほど、それに巻き込まれて被害を被る周りの者たちが多くなるだけということになっている。これほどまでに「退場」を望まれながら、「椅子」にしがみついている者もいない。最長は最悪、厚顔無恥も空前絶後。総じて、亡者とはすりこぎのような神経しか持ち合わせてはいないものである。あらゆる意味で、やはり後進国であると言わざるを得ない。

                                     11/20

〇最近よく目にする「人生百年時代」とは、まゆつばもの、嘘である。それは人生の本当の意味を見失う虚辞、無意味なそらごとでもある。そのような虚辞を遣うことで、また一儲けをたくらむ者、欺く者たちがいるということに過ぎないだろう。実情は、どのようなことがあろうとも、常に老少不定であるということに変わりはない。

 

〇笑止、笑止、笑止、「どのような論功があったのでしょうか?」、「それは個人情報に関わることなので言えない」、どのような功績があったのかも言えない人々の「ねぎらいの集い」とはどんな集いなのか?これもまた一事が万事なのである。一事が万事という真意は、それが「すべて」で、それ以外にはないということである。したがって、大中小の懸案事項もすべてこの調子、この程度の説明で押し切るということである。要するに、何をやっても、それこそ「話」にならないのである。それでは、どうするか? それはわかりきったこと。

 

〇社会学者らの分析の結果、「ネトウヨ」が意外にも「高学歴」であるという。しかし、彼らの文章、発言をチェックすれば、とても「高学歴」であるというレベルにはない。たとえ、高学歴(大卒程度)であったにしても、その知的レベルは極めて低いと言わざるを得ない。感覚も知性の質に関わってくるもので、その感情を通して知的レベルもその成り立ちも見えてくる。どう隠しても、蓄積されたものが必ず現れるのである。さらに言えば、高学歴であろうとなかろうと、その「根幹部分」が何の検証もされずに放置されたまま育たなかったとすれば、その後の経験則でどのようにこじつけても、内実は「未成熟」なままとなるのは当然である。だから、発信している内容そのものが低劣極まりないのである。

 「虎の威を借る狐」というより、虎の威を借るネズミと言った方がいいだろう、その様相は実に見苦しい。それは、己を直視できない、己自身を知らない者たちともいえる。もはや「虎」の方も、「虎のイメージ」は全くなく、実体を伴わない単なる不気味な異常増殖細胞に近い、その異常増殖細胞の動きに、「餌」のことしか頭にないネズミが安易な同調を繰り返しているから目も当てられないのである。

 

                                  2019 11/17

147.どのような場面でもそれは現れる

どのような場面であろうと、「哲学者」を見過ぎ世過ぎとしている以上、どのような言動にせよ、そこには思念の根幹がさりげなく現れ、それが取沙汰されて、問題視されても仕方ないのである。萱野俊人という津田塾大学の教授と名越康文という精神科医のやり取りの中で、名越「欧州の風土や文化を肌で感じた先生に伺いたいのですが、哲学の観点から、日本人に最も欠けているものは何だと思いますか」

萱野「道徳にこだわり過ぎる傾向があるところでしょうか。たとえば、国家は暴力の上に成り立っていると言うとすぐさま糾弾する人が多いのですが、国家が正当な暴力を独占するメリットについて考える必要はあると思っています。」

 何をしたり顔して言っているのかと思われるような内容である。要するに、日本ではこの程度の「哲学者」と「精神科医」でやっていけるのである。

哲学の観点から、日本人に決定的に欠けているのは「知」である。「道徳にこだわり過ぎる傾向がある」?何を言っているのか?どこを見ているのか?何を感じているのか?さらには、「国家の暴力」云々、「正当な暴力を独占するメリット」、「『正当』な暴力」とは?、「『独占する』メリット」」とは?、それをどのように考え得るのか?一つ一つ何の吟味も検証もなされず垂れ流される言説、何となく言っていることを気分でわかってほしいということか?それにしてもお粗末すぎる。パリ第10大学の哲学のドクター論文はどういう内容だったのか?これではとてもエコールノルマルシュペリュールのレベルの哲学論文ではないということはわかる。

 

 森有正ですら、フランスに行ってからはエッセーは書けても、哲学論文は書けなくなったということがある。それがどういうことなのかわかる?わからなければオメデタイのである。

                                 2019 11/6

追記:1960年代ー1970年代にも加藤泰三という社会学者、評論家が、若者受けする(若者と言っても、知的レベルは中高生レベル)アフォリズムのような本を書いていたことを思い出した。そのアフォリズムも言葉の遣われ方が安易過ぎて意味不明。これで何かわかった気になっている者とはどのような者かと思ったことなども思い出された。

 

 マスメディアに頻繁に出てくる「学者」、「評論家」、「作家」諸氏の多くは、このレベルなのでまったく関心はないが、つい目に入ってくるとやはりチェックせざるを得なくなるのである。

 教育事情は危うく、大手出版社の瓦解と同時に、そこかしこには怪しげな出版社である。単なる「売文業者」の口車にはやはり注意が必要であろう。

 

 

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