両忘の時‐ある日、その時‐

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96.ゼームス坂の智恵子

「それからひと時 昔山巓(さんてん)でしたような深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まった」。時折、死の想念が過ると必ずといってよいほどこの智恵子の最期の姿が過去の片隅で鮮明に浮かび上がってくる。それはとても過去のものとして置いておけない程生々しい。

 待ちわびたレモンのトパアズいろの香気に一瞬甦る意識、もとの智恵子となった微笑み、生涯の愛を一瞬にかたむけた智恵子は、やがて光太郎とレモンの地平から去って逝く。

 すでに心が「二つに裂けて脱落した」光太郎にとって、「鬩(げき)として二人をつつむ此の天地と一つとなった」心境でこの「レモン哀歌」を作ったのであろう。

 今はないゼームス坂病院が智恵子終焉の地である。その跡地付近には「レモン哀歌」を刻んだ詩碑があり、今でもレモンが供えられている。

 

                                                                                                                           2016 4/30

 

95.落花 しだらなく

 桜は青い空がよく似合う
 闇夜の花もまた一興
 
    されど、落花 しだらなく
 なべて一様
 見事とも 潔いとも思われぬ
 
 もののあわれとは
 奈良の都に咲く花の
 香るがごとくの散り際にあり
 
 
 
 「源氏物語」を「もののあわれ」と捉えたのは本居宣長である。この「源氏物語」を安っぽい道徳律で好色書扱いしたり、「読んで会社の業務の役に立つのか」などと言う笑止千万な実学偏向の拝金主義者たちに日本の文化も前途も語る資格はあるまい。すなわち、彼らには日本人としての「固有性」はすでに失われているのである。日本文化も知らず「国を愛する」、「世界に羽ばたく」などと言ってみてもそれは虚妄であり、作り出された「狂気」でもあろう。桜の木の下で騒ぐことだけが日本人ではあるまい。それは、しだらなく散る花にも似て、なべて一様に集うことで安らぎ、後はただ目先のことに追われ、取り留もなく散り急ぐだけである。
 
                        
                            2016 4月落花の折 
 
 
 

94.巫女に見放された「政党」

 巫女に見放されるような「政党」など政(まつりごと)を行う資格はないということではないのか。「自民党は嫌いです」と言ううら若き乙女の直観は正鵠を得ている。策士がまんまと自ら仕掛けた罠にはまったということであろう。気の利いたことをやろうと思ったのであろうが自ら墓穴を掘ったということでもある。祭政一致の世であれば、巫女に否定された権力(「政党」)などは決定的な終焉の時を迎えることになるが、現在でも、そのまま通用する「乙女の直観」である。それは既得権益で泥まみれになった詭弁を弄する者たちより格段の真実性を帯びている。

 どちらにしても、この「政党」にとっては不吉な「お告げ」になろう。

 

                                     2016 3/24

 追記:「いやな流れだ。政局においてこういうことが、ままあるんだ。誰が仕組んだわけでもなく。一つ一つは別々の無関係な出来事なのに、結果的につながっている。次から次へと『女性の怒り』を招いている現状がまさにそうだ」(ベテラン議員)。これは何も政局に限った「流れ」ではない、絵に描いたような森羅万象に当てはまる因果律、因果応報の「流れ」である。要するに、糊塗、ねつ造ばかりでやるべきことをやっていない結果なのである。

93.「ティーパーティー」で配られる「トランプ」札は・・・

 「ティーパーティ」の「トランプ」札は其処彼処 表か裏か「ジョーカー」ばかり。

 トランプは突然現れた訳ではない。「自由」と「平等」を標榜するアメリカに以前よりあり続けたアメリカの「体質」の一部で、それを明確に対象化できる人々と、対象化できない人々がいたということに過ぎない。そもそもカードがジョーカーばかりではゲームにならない。トランプのとんでもない言動とは裏腹に姑息な現実的な小賢しさが目に付く、とても「ジョーカー」にはなれまい。自分でも本当の「ジョーカー」になれば長くはないことをよく知っているはずである。そういう意味でも、現在のアメリカではたとえ彼が表舞台に立ってもさほどの違いはないといえる。オバマ然り。しかし、大統領選は大衆の程度の差こそあれ、夢と期待を持たせる「イベント」の参加と拒否権の行使である。

 「他に適当な人がいないから」という内閣支持率を見る度に、そこには怠慢と衰退しか見えぬが、長年飼いならされた国民性からそれが何か気の利いた文言に見えているという意識そのものに実は大きな誤りがあることに気づいていないのであろう。要するに、自分が「適当な人」を「育てる」という意識が皆無なのである。あてがわれるものを口を開けて待っているという習性がいつまでも抜けきれないのであろう。

 

                                  2016 3/19

92.鬼女たち

 権力にすだく女たちは、一様に含み笑いをしながら夜ごと包丁を研ぐ鬼女に見える。男などは夜を待たずとも90%は日中に「読み解ける」。それが「読めない」のは「思考停止」で日々に追われる者達か、老化、リテラシーの問題か、敢えて「誤読」を意図的にしている者たちであろう。

 人の善意、温情を利用するところは許し難いが、詐欺がこれだけ日常茶飯事になるのも頷けるところはある。選挙民を舌先三寸、舌根から裏切っている者たちの所業は明々白々にもかかわらず、追従しかできぬ者たち、選ぶ側の安易さも同時に浮かび上がってくる。「八九三」、詐欺師の類は相手のすきに付け込んで骨の髄までしゃぶり尽すのが常識。「温情」と「欲」と「無知」は詐欺師たちをのさばらせる要因にもなっている。

 「政治屋」すなわち詐欺師、サイコパスに「考えていること」などを聞いても無駄であろう。彼らの「やっていること」がすべて、それ以外は問題にならない。したがって、多くの者にとって不利益しかもたらさないことについては、徹底的に否定する方向で行動しなくては民主政治は機能しなくなる。その時点で「人柄」、「付き合い」、言わんや「マスク」などという人間事象は一切関係ない。

 現実的に、「鬼女」とはかくあると思われる雛形の収集には事欠かないのもこうした時代の特徴なのかもしれない。其処彼処で確認できるのはただ「堕ちて行く」姿である。それも「衰弱化」しつつ半ば「健全に」堕ちているから始末に負えない。「堕落論」で坂口安吾が対象にしたのは戦後の迷妄に「悩む」人々であった。そこには「墜ちきること」で「人間存在」の正体に迫るというエネルギーがあった。現状は「衰弱」から免れているのはまれで、それは真摯に「悩む」者がまれということでもある。おそらく崖っぷち立たされても、落ちても「堕ちている」ことすら明確には認識できないままなのであろうと思われる。

 

                                             2016  2/11

91.「笑う哲学者」は笑われる哲学者

 「ドストエフスキーにハマり人生を狂わされました」という某国立女子大名誉教授。東大文一入学時、何となく官僚にでもなるのかと思っていたのが阿部次郎の「三太郎の日記」でつまづき、読書三昧の日々、さらにドストエフスキーで根底から「価値観をひっくり返され」、「もっと物事の本質を考えないとダメだ。そう思うようになって哲学に傾斜し、人生が狂ってしまったんです。」とおっしゃるこの教授、それ以後ハイデッカーの「存在と時間」,「『存在するとはどいうことなのか、その答えを見つけるのが哲学だ』と私もその答えを知りたいと思ったのです。」という。しかし、ハイデッガーのアプローチでは求めるものが見つからずウィトゲンシュタインに至ってこの「答え」を得たという。「すべての哲学の問題は質問としてナンセンスで成り立たない云々」ここでいう「すべての哲学」とは「存在論」のことで、要するに、存在論を認識論の地平で捉えようとすること自体の誤謬に気が付いていなかっただけの話なのである。※「我思う故に我あり」とは誰でも「知る」言葉でもあるが、デカルトは後にこの「故に」を訂正している。「思う」という認識論のレベルから「ある」という存在論を導き出すことはできないからである。その逆も同様である。したがって、スピノザではないが「我思い<つつ>我ある」というべきなのである。言語の限界が認識の限界でもある。しかし、この教授に言わせれば「ものごと」の「本質に迫る」「哲学すること」は人生を「狂わせる」ものらしい。挙句の果てに「ドストエフスキー」なんて若いうちから読むもんじゃありませんよ」という。それではいつ読むのかということになるが、あのレベルの長編を読む機会など若い時期を逃したら一生読む機会がないのが大方の人生である。このようなことを平然と言えてしまう神経資質、土台そのものが、「学者」、「研究者」などというより官僚向きというべきか。確かにそういう意味では人生を狂わされたのであろう。「ものごと」を深く考えることなどせず、分相応に軽めに生きれば、人生「狂うこともない」(?)と言っているようなもので、これが文化の担い手の一端に位置するべき者の口からいとも容易く出てしまうのである。結局のところ、軽佻浮薄の時流の後押し役になっていることにも気が付ていないのであろう

 しかし、よくこれで今まで自分の「専門領域」で飯を食ってきたなと思う。「狂わされた」と思ったらさっさと大学教授の職を辞して、ウィットゲンシュタインではないが小学校の教師でもしながら「後処理」をすべきであろう。

 たとえ、「ドストエフスキーにハマリ人生狂わされました。」が自慢話であろうと、ドストエフスキーへの逆説的誘いであろうとさしたる意味はない。総じて未だしである。

※「cogito ergo sum」(「われ思う故にわれあり」)については2011年6月5日にブログT/Z(184)で取り上げている。カントは「ergo」を不要だとし、デカルト自身も「ergo」の不要性について考えている。導き出せない命題を「導き出して」いる以上、それは「経験的命題」、「自意識」によるものでしかないということなる。

                                 2016 1/24

90.俳優・アラン・リックマン逝く

 アラン・リックマンといえば映画「ハリー・ポッター」のスネイプ役のアラン・リックマンの姿を思い浮かべる人が多いことであろう。この映画の中で様々な人間の様相を演じたアラン・リックマンもさることながら、彼の人生のスタンスにもまた共感を覚える。アランが19歳の時に終生の伴侶となる18歳のリマ・ホートンと出会い、以後50年間、共に歩み続け、亡くなる直前に結婚式を挙げたそうである。その時のことをドイツBild紙のインタビューで、「僕たちは結婚したんだよ。本当に最近ね」、「素晴らしい式だった。なぜなら僕らのほかには誰も出席していなかったから。ニューヨークでの式の後、僕たちはブルックリン橋を渡って一緒にランチをしたんだよ」。その時、アランは妻のために190ユーロ(約26600円)の結婚指輪を買ったが、彼女はその指輪を決してつけないそうである。

 リマ・ホートンもしっかりとした「自分」を持っている素敵な女性であると思われる。因みに彼女は労働党の元地方議会委員でもあった。J・K・ローリングしかり、やはり明解なスタンスを持っているからこそできる「仕事」である。

 

 アラン・リックマン氏のご冥福をお祈りいたします。

 

                              2016 1/16

89.「牡丹載せ 今戸に向かう 小舟かな」子規

 今戸橋をくぐれば河口から8キロメートル程の潮風を感じる隅田川に出る。往時の山谷掘りを感じさせるものはほとんどないが、この正岡子規の句だけが涼風とともに当時をよみがえらせてくれる。明治28年の作であるから子規が日清戦争に従軍記者として朝鮮半島に渡る頃であろう。同じ頃、樋口一葉はこの山谷掘りの到着点辺りにあった吉原遊郭近くで生活のため雑貨店を開いていた。時を経て、この界隈から隅田川をセーヌ川と重ね合わせて徘徊していた永井荷風が「墨東奇談」を書いた頃には山谷掘りの埋め立ては始まっていたようだ。その直前の山谷掘りは肥料舟が行き交っていたというから子規の興趣などどこへやら「肥料載せ 今戸に向かう 小舟かな」といったところである。「墨東奇談」に登場する「玉ノ井」は今戸から隅田川に架かる白髭橋を渡って1キロメートル位のところにあった。この白髭橋も作られたのは1914年で、それ以前は徳川の戦略上架橋は制限され、千住大橋を通るか白髭の渡しを使うしか対岸には渡れなかった。白髭の渡し付近には思川という川が隅田川に注いぎ、その川を少し遡ると泪橋(なみだばし)という橋が架かっていた。この橋の北側にある小塚原の刑場に連れてこられた者たちがこの橋で今生の別れに涙したというのがこの橋の名前の由来である。夏には思川は蛍も飛び交っていたようだが、この泪橋付近では小塚原で斬首され、葬ることもままならなかった死体の腐臭で夏の情趣、風物詩に浸るどころではなかったであろう。実際、死体はイタチ、野犬の類に食い散らかされ、空にはカラスが群れを成し、腐臭は辺り一面拡がりさながら地獄絵図であったという記述もある。因みにここで斬首されたものは20万人以上とされている。一言で罪人とは言っても江戸時代のこと、冤罪の比率もかなり高かったと思われる。ここはまた、杉田玄白などの蘭医の※「腑分け」や刀の「試し切り」などにも事欠かなかったようである。

 今、山谷掘橋を過ぎて今戸橋方向に見えてくるものは、例の「東京スカイツリー」であるが、このタワーに上って、上から下を見て何か見えてくるのだろうか。タワーと「一体化」して人々は一体何を見ているつもりになっているのだろうか。

 ※腑分けとは解剖のこと。玄白の蘭学事始に「千寿骨ケ原にて腑分けいたせるよしなり」とある。千寿とは今の南千住で骨ケ原とは小塚原の刑場のことである。

                                              2015 12/26

88.「刑事フォイル」

 最近、「『刑事フォイル』が凄い」という内容の記事を目にして喜んでいる。この「刑事フォイル」は以前から観ていたもので、どうしてこのようなテレビドラマが日本にはできないのかと思っていたが、ようやくこのような作品が少しは一般的になってきたということであろうか。今後も日本のテレビ界にはまったく期待できないのでこうした海外の作品を紹介するところが増えるとよいと思っている。家の者も日本のテレビドラマはまったく観ない。要するに、面白くないのである。比較するまでもなく、日本の「刑事もの」(「刑事もの」に限らないが)などは内容的にもこちらが恥ずかしくなるような劇画風「お子様ランチ」といってもよいくらいである。あるようなないような視点、切り口展開の甘さ、トリック、キャラだのみ、等々。ある漫画家が漫画ばかり読んでいる者にほんとうに面白い漫画は描けないと言っていたがそのとおりであろう。これはすべてに敷衍されることである。明解な世界観を持ち得ぬ者には、現実は見えているようで実は何も見えていないのである。「刑事フォイル」レベルのテレビドラマが放映される頻度が高くなれば、民度も少しは底上げされるのではないかと思っている。時代に媚び、権力におもねるような作品というのはその「本体」そのものに致命的な「瑕疵」を持っている。いくら「巧み」であってもその「瑕疵」自体が普遍性を持ち得ぬのである。「瑕疵」とは、わかりやすく言えば「誠実さの根源的欠如」である。時代も権力もやがては面妖な「時」の抗しきれない無化作用の中で変容しざるを得ない。そして、時代、権力に媚びへつらった者たちを盾にしながら奈落の底に消え去るのである。

 「刑事フォイル」は時代にも権力にも媚びていない作品で、時を経てもなお観るに堪え得る内容を充分に持っている。

                                  2015  12/12

87.推理小説、推理劇などは「マダムの手すさび」

 大方の推理小説、推理劇などというものは、要するに、「マダムの手すさび」程度の領域を出るものではないと思っている。アガサ・クリスティー然り、よくもまあこれだけ微に入り細をうがって人殺しの手法を日々考えていたものであると思うが、ただ単にそれだけである。しかし、「人間」の闇の領域について少しでも思いを馳せれば「何でもあり得る」のが「人間」でもある。制御し得る能力が希薄になれば、あるいは「制御」そのものが「利害」に直接関与してくれば何でもするのである。「人間」の恐ろしさと同時に「すばらしさ」を理解し得る者にとっては「主婦の手すさび」程度では納得、満足できないというのは至極自然な流れであろう。そして、今やその程度の「小手先技術」を成り立たせていた世界そのものが変質、瓦解を始めているから尚の事である。

 

                                 2015  12/5

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