両忘の時‐ある日、その時‐

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76.緑道にて

 ー緑道にてー

老人の杖がせわしなく

風媒花を揺する

ハーモニカを吹きながら

初老の男が通り過ぎる

マスクをしたまま 歌いながら歩く

往年のソプラノ歌手

主を振り返ることもない

機械仕掛けのような老犬

大きな犬を連れた小さな女

小さな犬を連れた大きな男

車椅子の犬が元気よく通り過ぎると

どこからともなく現れた白髪の男が

その後を追う

連れ添う犬よりも早く逝くだろう老女と

老人より早く逝くだろう老犬と

いつ倒れても不思議ではない老人と

いつ轢き殺されるかも知れぬ元気な子犬と

マテバシイの樹の下で二台のブランコが

風もないのに揺れている

 

                                                2015年 4月某日

75.「私はあなた以上にあなた自身を知っている」

 自分自身など他人に見抜かれるはずもないと思っているのは「おめでたい話」である。あたかも司法解剖でもするようににその人間の「為したこと」を拠り所にその人間の構成要素のすべてからその総体を解読することは可能であろう。それこそ腕のいい「司法解剖医」にかかったら本人すら知り得なかったことや「極秘事項」まで白日の下に晒されることになる。それは興味本位の単なる暴露趣味などの俗悪低レベルの領域ではなく、すべてがその人間の根幹部分に関係することでもある。あろうことか突然、誠実な「解剖医」のような者が現れ、「私はあなた以上にあなた自身を知っている」と言うことはあり得るのである。ただし、それは対象がそれだけの時間を割く価値がある者に限られるので大方の凡夫にはあり得ないことである。凡夫についてはそんな心配は必要ない程、すでに日々見透かされているのであるが、本人だけが知らないということに過ぎない。

 原作者以上に原作とその作家を知り得る者はいつでも現れる。そして、「為してきたこと」がすべてである以上,それ以外のことについていくら述べても「実像」などとは乖離するばかりである。言ってみれば人間主義的な「虚像」などはいくらでもでっち上げられるということでもある。

 一見、奇異にみえる「私はあなた以上にあなた自身を知っている」ということは実際に思っている以上に起こっているし、起こり得る。そして、知らぬは本人のみということもある。

 

                                                    2015 4/19

74.再びナタリー・ポートマン

 ナタリー・ポートマン、ほんとうの女優と言えるレベルの一人である。知性、感性、探究心すべてがそろっている。彼女の存在に気付いたのは「主な作品」にも入っていない、賞とは縁もゆかりもないような2006年の「Vフォー・ヴェンデッタ」のイヴィー・ハモンド役のナタリー・ポートマンであった。それ以前の「レオン」(1994年)のマチルダ役の13歳の時のナタリー・ポートマンも観ているが印象に残る子役という程度の域は出なかった。2006年のイヴィー・ハモンド役のナタリー・ポートマンを観た時点でその後の彼女の「ブラック・スワン」(2010年)に至るまでの成功は予想がついた。そうなって当然の女優なのである。

 しかし、改めて確認するまでもないが彼女の経歴も半端ではない。明確に提起し得る問題意識、想像力、思考回路と言う点においても並ではない。彼女のような俳優が欧米には多いのである。敢えて比較するのも嫌味にしかならないが日本では彼女のレベルと比肩し得る者は皆無。もし、さらに前進するのであればそのような点を明確に押さえて置く必要があろう。

                                                  2015  3/22

73.それでは「作家」とは?

 ある「作家」がある「作家」を評して「身も心も削って書いていることに感動した」というようなことを書いていたが、作家とは本来身も心も削って書くものであろうと思っているので妙な齟齬を感じた。古今東西、作家と言い得る人々は例外なく「身も心も削って」書いている。この「作家」には単なる「売文業」と「作家」のコンセプトの明確な差異はないのか、それともそれは昨今の「〇〇屋」の跋扈、政治屋、作家屋、芸術屋、学者屋、マスコミ屋etcがいる中で「ほんとうに作家と言える人に巡り合えた」という意味なのか。そもそも私の知らない日本の女流「作家」なのでそれ以上は知る由もないが、そのことについてさらに「追う」つもりもない。

 しかし、似非芸術家は別にして芸術家と称される者たちは、意識するしないにかかわらず自らの血で描いている。そのことに関してはまったく否定する余地はない。

                                               2015 2/5

72.命とは明日をも知れぬもの

 私の義弟である科学哲学の大学教授が癌で明日をも知れぬ様態であることを突然知った。彼は良き父であり、良き夫でもあった。そして、優秀な哲学科の教授でもあった。それだけにストレスもかなりのものがあったであろうと思われる。彼が幼い子を抱いている時の笑顔が甦った。命とは、明日をも知れぬものであることをまた改めて思い知らされれた。

 幼少期に死にかかり、20代に再び死にかかり、同じ20代に知人の葬式に一緒に出た知人(享年36歳)をその三日後に亡くし、また葬式に出ることになったことなども思い起こされた。18歳の時に祖母の死に水を取って以来、なぜか知人、友人などの死に出遭うことが多いと思っていたが、本来、命とは明日をも知れぬものだということに過ぎないのである。死を対象化して悟ったような冗談を言っているような人々も「まさか」自分の死が明日訪れるとはゆめゆめ思ってはいない。しかし、実情は明日どころか数時間後にもそれは起こり得るということである。そして、死に至る経緯が絶妙に組み合わされ、用意されていればもはや避けることはできない。それを直感できるのは「占い師」でもなく、「預言者」でもない、直観を必要としない「神」(存在し得たとして)でもない、ほんものの「詩人」だけである。

※追記:義弟は2月の初め、亡くなったそうである。

                                                2015 1/15

71.「戦争が廊下の奥に立っていた」

 この句はある方の年賀状に書かれてあった句であるが、思わず微笑んでしまった。それは共感し得ることに対する一瞬の確認のようなものであった思われる。この句は日中戦争の最中昭和14年、渡辺白泉26歳の時の句である。そして、翌年五月京都大学俳句事件に連座して白泉は検挙されている。俳人ですらというと語弊もあるが検挙された時代なのである。少なくとも沈黙するか幇間のごとくならない者はことごとく時代の統制ネットに引っかかった時代でもある。白泉のこの句は30年程前の私の古いノートにも書き留められていた。それがまた再び新鮮に甦ってくるとは何ともやるせないが、しかしこれ程味わい深い年賀状を戴いたのも久しぶりである。

 反戦、社会風刺の俳句、すなわち新興俳句の騎手でもあった白泉には、同じ26歳の時の句に「憲兵の前で滑って転んじゃた」などというチャップリンの映像を彷彿させるようなものもある。チャップリンも同時代の独裁者ヒットラーをコケにした有名な「独裁者」(原題「The great dictator」)という映画を作っている。この映画の日本公開は1960年(米公開1940年)なので白泉はもちろんこの句を作った時点では映画の存在は知らなかったはずである。晩年、白泉がもしこの映画を観ていたらどう思ったであろう。

 今、廊下の奥に立っている戦争の姿はより鮮明になってきている。独裁者は必ず民主主義を装い、青年に希望を、老人に保障を約束するが決して約束を守ることはない。自らの野心を満たし大衆を奴隷にするだけである。これは映画のラストでチャップリンが世界に向けて発したメッセージのひとくだりである。

 

 

                                                 2014 1/1

70.アドラーではないが

 最近、アルフレッド・アドラーに関係した本が読まれていると聞く。彼の理論体系は100年程度前に完成しているが20年程前から社会精神医学、自我心理学、認知療法、システム論などの先駆者としても再評価されている。どちらにしても突然今頃になって彼の理論が再燃し始めたということではない。

アドラー理論の特徴の一つに客観事実よりも客観事実に対する主観的意味付けのシステムを重視することが挙げられるが、これなども「客観事実」の成否よりも、それに対する主観的意味付けの方を重視して、その「意味付け」を成り立たせる精神構造そのものにメスを入れるというスタンスが取られている。

 この主観的意味付けのシステムの検証でメンタリティの成熟度は推し量れる。最近の事例から言えば、種々雑多な客観的事象から「日本人の民度は高い」などと結論付けた場合、その種々の客観事実よりそのことから「民度が高い」と結論付ける主観的意味付けの精神構造そのものを検証するのである。そこではメンタリティそのものの「質」が見て取れるであろう。また、もし「日本人は民度が高い」などという結論を訳もなく快く思うのであれば受け取る側の多くは「小児病的疾患」を患っているのである。執拗な自己正当化、自画自賛などは未成熟な者がすることだからである。もっとほんとうの意味で「大人になる」必要があると思われる。

 

                                                 2014 12/29

69.なべて世はヘルメスに突き動かされて

 ご存知のようにヘルメスとはギリシャ神話のゼウスとマイヤの子で、幸運・富裕の神として商売、盗み、競技などの保護者であり、旅人の保護神でもあった。そして霊魂を冥界に導く役目も担っていた。

 敢えて繰り返すまでもないが、ヘルメスは「幸運の神」、「富裕の神」として「商売」、「盗み」、「競技」などの保護者なのである。「幸運」,「富裕」の神ヘルメスが微笑めば「商売」も「盗み」も「競技」も成功し、富める者となる。「商売」、「盗み」、「競争」などが同次元にあるところにギリシャ神話の人間観察の面白さがある。ヘルメスは、その加護に浴した者も、「不幸」にしてその埒外であった者も,実のところは日々旅人のごとくその生を送らざるを得なかった、癒えることのない流浪の魂を冥界に送るのである。果たして、その冥界がどのようなものなのかは知る由もない。

 法律などもその時代に左右される相対的なものでしかないが、その法律を自分の都合のように変える実権を握れば今まで実質的にも「盗み」でしかなかったものも合法的な「商売」として成立させることも可能なのである。ヘルメスが「幸運の神」、「富裕の神」というのも非常にわかり易いが、世人の倦むことのない興味の対象でもある「幸運」も「富裕」もすべてこの詐術、狡知に長けたヘルメスのテリトリーなのである。

 

                                                         2014  11/27

68.恒産なき者は・・・

 アルバイトをしながら好きなことをする、夢を持つなど、夢中になれるものがあるということはそれ自体決して否定されるべきことではないが、継続、展開するなどは極めて困難である。よく、貧しいながらも「思うこと」を成し遂げた成功談などが美談として取り上げられることがあるが、それは「努力の賜物」などというより奇跡の一種だと思った方がいいだろう。はっきり言えばフリーターなどをしながら何かをしようとしても大方が物にはならない。もちろん「趣味の領域」として捉えていればまた別である。「恒産なきものは恒心なし」とはよく言ったもので、明日の食糧もままならないところでは「まともな」精神状態を維持することすら困難で、そんなところで文化的営為など成り立ち得るはずもない。文化的営為などは「遊び」の時間の充分にある、あるいはそのような時間を得ることが可能なところにしか芽吹かないからである。食うや食わずでそれに関わろうとしてもできるもの、やれることは自ずと知れている。実際、「一級」の「芸術家」と称される者で家庭環境が貧困層という話をあまり聞いたことがない。

 考える余地も与えぬ、思考停止状態を作り出す昨今の労働環境は、統治戦略の一環でもあろうが、結局は「自分の首」を絞めることにしかならない愚策である。ワーキングプアを大量に出しているという一事を見てももうすでにその社会総体の弱体化は見て取れる。ワーキングプアなどというものの実態は肉体、精神ともに衰微していて実のところ何の「戦力」にもならないだろう。そのような者たちをさらに鞭打っても実質的には社会に何の進展ももたらさすこともなく、逆にその可能性さえ奪っていく。企業のブラック化とは指導者の無能の証であると同時に社会のブラック化でもある。そこでは文化的営為など所詮は「お笑い草」なものでしかなく、思考は停止状態のままただ空ぶかしを繰り返すだけ、勢い余って進み出しても思うに任せず瞬く間にクラッシュ、よくしても崖っぷちからのダイビングを余儀なくされることになる。このような社会状況は恒産なき者をますます芸術・文化から遠のけ、文化的営為とは無縁な集団として作り上げて行く。恒産なきところに真に文化が育まれることがないのは自明の理で、それはそのままその社会の質の劣悪化につながっていく。空疎な美辞麗句を並べて立ててもそれは夢のまた夢の夢。それともそれは1%の富裕層の次世代限定の夢の委譲なのか。そうだとしてもそれが本物であれば自ずとそれを生んだ基層を裏切らざるを得なくなる。

 どちらにしても恒産なき者は日々の糧を得ることで追われているだけというのが実情であろう。そうかといって恒産はあるが「小人閑居して不善をなす」では仕方がない。

                                                2014 11/18頃

67.顔

 面白いものである。我々は自分の恥部をさらして歩いているのである。どのように取り繕ってもすべては顔に現れてくる。今までの人生のすべてがそこに現れているのである。亀井勝一郎であったかと思うが、彼もそのようなことを言っていた。我々は一番隠さねばならないものをさらして生きているのである。しかし、それと気づくものは少ない。昨今の女性のノーメイク姿も相当に自分自身に自信があるのか、すべては隠し通せると思っているのであろうか。折角ある偽装手段を放棄しているようなもので勿体ないような気もする。たとえ化粧をしたとしても顔というのはすべてを物語ってしまうものである。私の知り合いに声だけでその人間の「人柄」を言い当てる者がいるが、声の主を見ればさらにその「人柄」の具体的な微調整さえやってみせる。彼は時折、「よく役者などやる気になると思う。役者なら役柄ということで顔が発信するものと本人自身とは多少ズレが生じる時もあるが、テレビなど素に近い状態では本人は丸見えになっている。」というようなこと言っていた。彼のような人間はやや特殊な才能を持っているともいえるが、私は多くの者が彼に近いものを持っていると思っている。それは我が身は見えずとも人のことはよく見えるということが日常でも繰り返されているからである。

 因みにA君の外科的顔分析の手法を知っている私は彼に写真の類を渡したことがない。もっとも私などはすでにその必要がない程彼に読み取られているのであろう。

 すべては顔の「在り様」で見抜かれているともいえる。それは顔の美醜などという皮相的なことではない。顔の怖さを知らない者、すなわち顔に人生のすべてが表出していることがわからぬ者は「表舞台」などに立つべきではない。それは恥部をさらに拡大させて見せているだけのことである。そのようなことを承知の上でそれを売り物にしている者は別にして、知らぬは本人自身だけというのでは話にならない。しかしそのような者が多過ぎると感じるのは私だけではあるまい。要するに己自身を知らな過ぎるのである。

 

 

                                                    2014 10/26

 

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