両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

104. 2019年5月1日

  テレビのバラエティー・ニュース番組では、どこも新しい年号に変わったことを「新時代の到来」とばかりに騒ぎ立て、お祭り騒ぎである。しかし、いわゆる「上級国民」と言われている大方の者たちはすでに日本国内にはいない。現在国内に残っているのは、家族で牛丼屋で昼食を取っているような、あるいはお祭り騒ぎなら何でもござれの所在なき人々しかいないというのも実情のようである。

 世界の実情は間断なく動き、時々刻々変動し、予断を許さない状況である。それは今なお同様である。日本だけが神がかったような「新時代の到来」などと浮かれ騒いでいてはやはり、現状を見据えることもできないまま、一握りの者たちの「経済活動」の単なる「手先」として自己の在り方についても無思慮のまま終焉を迎えることにもなろう。明治、大正、昭和、平成と区切って一体何がある、連綿とした歴史的事象が生起し続けただけであろう。区切れないものを区切って「神がかったようにお膳立てしたがる者たち」とは、それを利用しようとする者たちでもある。先の天皇の平和憲法に殉じられ、被災地でも人々と膝を突き合わせて語らう、その姿に古代社会さながらの「神がかった者たち」は苛立ちを隠せなかったようだが、それも含めてそのような姿勢自体に「すべて」は物語られていると言ってよいだろう。言ってしまえば、現在の内閣府と天皇は実質的には対極にあるということを踏まえておく必要があるということである。

 歴史は一時も休むことなく続いているだけである。都合のいい部分だけ見て、不都合な部分は見ず、適当に変え、削除しているようではとても発展は望めない。それは否定しようのない哲理である。

 

                                 2019 5/1

 追記:「図らずも」令和は、同床異夢の様相を呈しているようだが、私は大伴旅人の隠された悲痛な思いに添う方が実情がより一層見えてくると思われる。そもそも「万葉集」自体が一筋縄ではいかない「こと」「もの」を秘めている「歌集」であることはすでに周知のことであろう。350年間の長歌、短歌、旋頭歌、仏足石歌体歌、連歌の中に単純素朴な一重の歌ばかり載せていたのでは大伴家持といえども4500首では収まるまい。

 令和も一重の単細胞的解釈でないのなら、それもまた意味深長である。この時期を象徴することにもなろう。