両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

110.詩人とは生き方そのもの・・・

  「詩を書いたからといって、詩人になれるわけではない。詩人とは生き方なのだ。」とジャームッシュは言っていたが、その通りであろうと思われる。どのような生き方をしているか、いかに隠そうとも生き方そのものは自ずから現れるものである。せこい生き方していれば、何をやらせてもせこいのである。要するに、一事が万事だということでもある。山師、三百の類がいくら逆立ちしても誠実な語彙など出てくるはずもなく、たとえ出てきても砂糖をまぶした泥団子が関の山、そもそも彼らが「まともなこと」などするはずもないのである。程度の差はあるにせよ、生き方そのものから絞り出される呻吟、謳歌それが詩人の在り様でもある。もし、人に「詩を書かない詩人」と言われれば、すでに存在そのものが詩人であるともいえる。生き方が問題となる以上、プロかアマかなどは問題にならない。それは哲学者、坊主なども同様で、プロの哲学者、プロの坊主などがいかに内容とそぐわないかは歴然としている。それで食えるかどうかが唯一の基準であるならゴッホ、モディリアーニも生前は食えなかったのであるからアマチュアの画家ということになるのである。さらに、日本には「売る絵は描かない」と言っていた田中一村などもいる。彼らは決して特異な存在ではない。そこにはそれなりの必然がある。

 

                                      2019 9/23

109.個性はむしばまれ、自由の代償は大きい

  個性についても、自由についても様々な形で書き記してきたが、身近なところで同じように感じている人もやはりいるものだとあらためて感じたので取り上げることにした。「多くの若者が、携帯電話やiPadで音楽を聴きながら街を歩き、メディアやゲームに夢中になっている。その様子はある種異様だし、とても心配だ。なぜなら、個性がむしばまれる。とにかく彼らが現実から目を背けているのが残念なんだ。もちろん彼らにもそうする自由はある。でもそれは本当の自由ではないことに気づくべきなんだ。自由の代償は大きい。」と言っているのはボブ・ディランである。

 そのようなことで個性は確実に徐々に失われていくが、本人にははっきりとした意識がないのが怖いところでもある。そして、自由にふるまっているつもりでいるが、それは「何者かに」まんまと乗せられた自由で、本来の自分を取り戻す方向から乖離するばかりである。自分の貴重な時間が刻々と盗むまれているのも実感として全く感知しえないのである。本当の自由を手にすることができなかった、ある意味では自由を恐れるあまり、いつまで経っても古色蒼然たる陳腐な世界にいるしかない者として終わるのである。実際、文明の利器を弄び、最新の生活スタイルを楽しんでいるように見えるが、精神的には100年前、1000年、2000年前とさほど変わってはいない、むしろ退化、劣化しているようにみえる。

 そして今、現実から目を背けることで、本当の個性とも自由ともますます無関係な方向に向かわざるをえなくなってきている。その様相はやはり異様なのである。最近は、「人間の言葉」を聞くことは稀になったというのもその現れの一つであろう。要するに、人間の不在化があらゆるところで蔓延しているのである。ボブ・デュランの感じた異様感は反個性、反自由のファッショの異様感でもある。

 

                               2019  8/15

108.「火焔の王」の愚かしい匿名レビューについて(amazon)

 匿名ではあってもきちんととらえている者もあれば、よくこの程度のリテラシーでレビューを書く気になるなと思われるようなものまで、様々である。前回の「メッセージ」にも書いたが、インターネットは「嘘八百を少ない労力で世に流布させてしまうもっとも安易な手段」であることを明確に押さえておく必要があるのである。発信地がはっきりしないということは恐ろしいことでもある。知ったかぶって言えば言うほどその人間の無知をさらけ出してしまっていることが見抜ける人ばかりではなく、それに振り回されてしまう人々もいるということである。それを承知の上で確信犯的にやっている者もいるのである。

 さて、その愚かしい匿名レビュー(柘榴家)であるが、「一代ズレたまま思い込みひどく浅く云々」の御仁の思い込みもかなりひどいものがある。そもそもきちんと本を読んでいないのである。読めないと言った方がいいのかもしれない。そのリテラシーのなさ、すなわち知性が欠損している者が、一般的にはなじみのない言葉を使いまわし、もっともらしいことを言っているが、そのすべてが本が読めていないことの証左となってしまっているのに、そのことすら気が付いていないのである。言ってしまえば、小さく凝り固まってしがみつき、それも展開の余地のないところで巣くって朽ち果てるしかない能のない者たちである。誰がそんな世界に興味をもつ。知ったかぶって偉そうにレビューを書いているが、「タタラを韓国語で「豊」と述べられているが、韓国語はハングルで漢字じゃないでしょ?」とくる、中高生じゃあるまい、ここに至ってはもうお話にならない。ハングルは1446年以降、ここで問題になっている時代はいつなのか。一笑に付すべき内容でもあったが、前回(107)との関係もあり、再度確認すべき匿名性を使った危うい日本の文化状況を見据えるためにも取り上げた。

 amazonの二つの匿名レビュー、図らずも、反知性と知性の見事な対比ともなっている。一方は知的好奇心のかけらもない、能力的にも問題のある、閉塞的で因循姑息な典型、もう一方は、知的営為に対する賛同。しかし、アマゾンもよくこんな反知性の無茶苦茶なレビューを載せるものである。これは無内容な意図的な暴力である。悪意に満ちたデマと言ってもよい。匿名レヴューなどにはこの種の輩が常に潜入していることを肝に銘じておいた方がよいだろう。

 

                                    2019 7/25

※後日、百田何某の本について、具体的に細部にわたって批判したレビューがいつの間にか削除されていたということが載っていた。これは、実際にそのような操作をしているということの証左でもあろう。もっとも、良識も知性もある人々というのはアマゾンなどには頼らず、あるレベル以上の本屋に直接行くようである。

 

107.匿名の「批評まがいの情報」「情報まがいの批評」(演劇)

 それはまた「噂のような批評」、「批評のような噂」でもある。一頃、「大新聞」の演劇批評でもイニシャルだけで本名を書かない者があったが、無責任極まりないものが多かったので問題になり、一時本名で書くようになったが、その後のことは新聞をあまり読まないので知らない。「大新聞」でもその調子であった。それが最近では匿名のブログなどで、演劇、映画について「個人的な感想」、「覚書」などと称しつつ、点数をつけ、読者まで募っている始末である。誰でもどのような感想を持とうがそれは自由であるし、後はそれを受け取る側のリテラシーの問題でもあるが、「『匿名性』を使って、あやふやなものを、いつまでも創っている、日本の文化状況」そのものが問題なのである。なぜ実名で発信しないのか、実名で発信することもなく、あることないこと言いたい放題、知ったかぶって伝播させてしまう怖さも知らなくてはなるまい。インターネットは「嘘八百を少ない労力で世に流布してしまうもっとも安易な手段」だからである。

 現状は演劇などに限らず、実名の出ているどのような「評論」ですら自分の目で確かめる、時には自分の目すら洗い直すくらいの強靭さを持っていないと「とんでもない所」に持っていかれてしまうことになるということである。

「発信地がはっきりしない、これは恐ろしいことである」、その人間のリテラシーにもよるが、それは確かである。

 概して、マインドコントロールを警戒している割には匿名人間のもっともらしい言説にまんまと載せられていることに気づかないというのが日常茶飯事でもあるからである。ただし、匿名者の言説でも検証、確認できたものに関しては別である。

 

※このようなことは10年前にも取り上げたのであるが、今改めて再確認しざるを得なくなったのである。

 

                                         2019 7/24

 

 

 

 

106.「知恵を持つことに勇気をもて!」

 「Sapere Aude」 サペレ アウデー、これはカントが古代ローマの詩人ホラティウスの言葉を引用したものである。

「知恵を持つことに」どうして「勇気を持て」と言わざるを得ないのか。それが重要であろう。「知る」ということは「ものが見えてくることでもある」。知らないことが当然と、あたかもそれが「強み」のごと思い込んでいる者たち、知られることを何より恐れる権力者等々、どちらにしても、それらに抗して突き進まざるを得なくなるからである。

 

 話は変わるが、ポストモダン、ポスト構造主義、構築主義etc  正直うんざりしている。もともと、それほどのものであるとも思っていなかったからでもあるが、構造主義などの方法論的アプローチなどはその有効性もあるかと思える程度であった。当然、思考作用全般に浸透し得るものなどとは考えてもいない。

  例えば、街全体がポスト・モダンの建築物に埋め尽くされたことを考えてみればよい。それは異様というより狂気の街であろう。実際、ここ半世紀以上ポストモダン、ポスト構造主義の亜流で世界は満ち溢れていた。

 何と、チマチマとした虚しいい小手先の営為。「人間」そのものが萎縮してしまった様相がそこかしこに現れている。これで何かやっている気でいるのかと思われる。だから、「最近は、どこを見ても小粒なものばかり」などと言われるのである。

 今更、ポストモダン、ポスト構造主義でもあるまい。もはやどのように体裁を整えようと弄びの空転、空ぶかしの域を出ない。さらに先に行くにはやはり全体的な根底からの捉え直しと実践が必要なのである。

 

                                 2019 6/24

105.あなたは、一体何を知っているというのか?

  名前と顔だけはよく知られた御仁たちの物言いとその内容を見聞きしていると、つい出てしまう言葉が「あなたは、一体何を知っているというのか?」という極原初的な問いである。本人はしたり顔で話しているが、底が浅く、底が割れてしまっているから「残るもの」が全くないのであるが、その残滓だけは妙に拡散されやすい。結局のところ、一体何が言いたいのか?今の話は何の話であったのかということになるが、リテラシーのない者、情報弱者にとっては、目に見えない弊害も計り知れない。今や「上」から「下」まで質問に対して答えにならないことを平然と繰り返すことが日常茶飯事となってしまっているのが実情である。言い換えれば、詐術が王道となってしまったような世界では、問い続けることをやめることは、すなわち自らの「死」を早めることになるということである。

 

                                2019 6/20

104. 2019年5月1日

  テレビのバラエティー・ニュース番組では、どこも新しい年号に変わったことを「新時代の到来」とばかりに騒ぎ立て、お祭り騒ぎである。しかし、いわゆる「上級国民」と言われている大方の者たちはすでに日本国内にはいない。現在国内に残っているのは、家族で牛丼屋で昼食を取っているような、あるいはお祭り騒ぎなら何でもござれの所在なき人々しかいないというのも実情のようである。

 世界の実情は間断なく動き、時々刻々変動し、予断を許さない状況である。それは今なお同様である。日本だけが神がかったような「新時代の到来」などと浮かれ騒いでいてはやはり、現状を見据えることもできないまま、一握りの者たちの「経済活動」の単なる「手先」として自己の在り方についても無思慮のまま終焉を迎えることにもなろう。明治、大正、昭和、平成と区切って一体何がある、連綿とした歴史的事象が生起し続けただけであろう。区切れないものを区切って「神がかったようにお膳立てしたがる者たち」とは、それを利用しようとする者たちでもある。先の天皇の平和憲法に殉じられ、被災地でも人々と膝を突き合わせて語らう、その姿に古代社会さながらの「神がかった者たち」は苛立ちを隠せなかったようだが、それも含めてそのような姿勢自体に「すべて」は物語られていると言ってよいだろう。言ってしまえば、現在の内閣府と天皇は実質的には対極にあるということを踏まえておく必要があるということである。

 歴史は一時も休むことなく続いているだけである。都合のいい部分だけ見て、不都合な部分は見ず、適当に変え、削除しているようではとても発展は望めない。それは否定しようのない哲理である。

 

                                 2019 5/1

 追記:「図らずも」令和は、同床異夢の様相を呈しているようだが、私は大伴旅人の隠された悲痛な思いに添う方が実情がより一層見えてくると思われる。そもそも「万葉集」自体が一筋縄ではいかない「こと」「もの」を秘めている「歌集」であることはすでに周知のことであろう。350年間の長歌、短歌、旋頭歌、仏足石歌体歌、連歌の中に単純素朴な一重の歌ばかり載せていたのでは大伴家持といえども4500首では収まるまい。

 令和も一重の単細胞的解釈でないのなら、それもまた意味深長である。この時期を象徴することにもなろう。

                              

 

                                 

103.二人の愛すべき人の逝く

 梅原猛、市原悦子の両氏が1月12日亡くなられた。愛すべき方々です。私にとっては、梅原氏は「哲学者」というより、こよなく「知」を愛された、それこそ哲学そのものですが、そのような方であると思っています。それは重箱の隅を突いて悦に入っているような学者とはまったく質を異にしています。例えば、「隠された十字架」にしても知的に刺激するものを十全に備えています。これが「息衝く知」というものです。死んだような博物館的な知識を寄せ集めて、いくらひけらかしたところでそれは決して現在に脈打つことはありません。

 梅原氏の飽くことのない知的冒険の人生に賛辞を惜しまず、そして、その最期にご冥福をお祈りします。今頃は、ご母堂の胸に抱かれていることと思われます。

 市原悦子氏も素敵な女優さんであることは言わずもがななことですが、「戦争をなくすこと、世界の問題と関わることも、女優の大事な仕事」などと何気なく言うこの意識レベルもやはり半端ではありません。樹木希林氏などをうならせるさりげない演技も到底小手先でたどり着けるものではないことの証左でもあります。一時はよくても、すぐに燃え尽きるような演技は所詮、本物の領域にはないのです。今頃は、永久の夢路で、女優であったことも忘れて世界を駆け巡っているのではないでしょうか。ご冥福をお祈りします。因みに、若くして死んだ私の母は市原さんの大ファンでした。

 

                                2019 1/15

102.哲学者マルクス・ガブリエル

このドイツの「若き天才哲学者」マルクス・ガブリエルの言説が自分の再確認のように五臓六腑に染み込み、腑に落ちてしまうから不思議なものである。

 彼は、信を置くに足りる哲学者である。

西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」に符合する点なども興味は尽きない。

 

                               2019 1/4

「Sapere Aude」 サペレ アウデー

 知恵を持つことに勇気を持て!

101.「もともと特別なOnly one」

 周知のように、SMAPのヒット曲「世界に一つだけの花」のフレーズである。内容的には特に真新しい世界ではないが、その内容とは真逆な方向に突き進んでいるのが現在の実情でもある。それぞれの「もともと特別なOnly one」という意識はどんどん薄れ、「Uni‐form」を、「Stand‐ard」を最優先させる方向に進んでいる。現在、世に満ち満ちているのは大なり小なりむき出しの欲望の「NO1」であろう。それを作り出した「流れ」が、それぞれの欲望を肥大化させ、それによって様々な花(Only one)は刈り取られているのである。刈り取られバケツに投げ込まれるのはまだしも、そのまま踏みつぶされる花がほとんどである。バケツに投げ込まれた花々も暗闇に放置され、誰に接することもなく、誰の目にも触れることもなく干からびていく。

 「特別なOnly one」をほんとうに大事にしたいのなら、それを潰すものと向き合わなくてはならない。抒情に流されているだけではなく、対峙しなくては「特別なOnly one」などはすぐに消されてしまうのである。

                                   2018 12/6

 

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