両忘の時‐ある日、その時‐

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141.本サイト「改ざん」について一言

 改ざんのあった個所を一字一句違わず再現することはいつでも可能ですが、しかし、そんなことに時間を取られたくもないのでもないので確認も含め11月の改ざん、削除されてしまった内容の題名と要旨だけを参考までに載せることにします。

-----------------<メッセージ>------------------

143.天道虫が飛び立って(11/18)

空へと飛び去り、二度と戻らない「何か」を告げに来たのか、何事かの到来の告知なのか。「lady bug」とのしばしの白昼夢。

142.「愛した、書いた、祈った」ー瀬戸内寂聴さんについてー(11/11)

 墓碑銘はスタンダールのごとく、全身全霊精一杯生きるとはどういうことなのかということ。そこが何事も中途半端なことしかできないくせに、すべてにおいて、したり顔でいられる凡夫とは本質的に違うということである。

ガテーガテ― パーラガテ― パーラサンガテー ボーディー スヴァハ―

141 épée épée toujours épée  それがエペの妙味「エペジーン」(11/9)

どの角度からでも、どこでも、いつでも「突ける」のである。それが強みでもある。そこから自在な驚異的なフォームが生まれる。言ってみれば、それが弱者に残された最終手段でもある。等々。

---------------<五叉路>----------------  

〇 神社のどこかには必ずと言ってよい程貼ってあるポスター「憲法改正の主役は、あなたです」について、「改正」?の「主役」?もし、このお膳立てで主役になったつもりで、板(舞台)に乗れば、それは舞台(板)ではなくまな板の上ということになる。そもそも三権分立も覚束ない状態の者に憲法いじらせてどうするのかということ、等々(12/2)  〇イチローの高校野球指導について(11/30)  〇「連合」について、労働組合としてはまったく機能していない実質的には御用組合だということ。(11/29) 〇怪しげな理事長が学長の上にいる日大問題について(11/28) 〇さんざん「悪さ」をしてきた者に限って、他人には礼節、忍耐を求めるものであるということ、等々。(11/23) 〇「若者の食事をみれば、その国の将来はわかる」というフランスの格言について。(11/17) 〇案の定、大阪の「是々非々」党もあいまって「憲法論議」とくる。お決まりのコースの憲法「改正」である。(11/14)  〇「是々非々」を何を根拠に是とするかが、明快に答えられていない、すべてが雰囲気、イメージだけの空疎さ、極めて危険、等々。〇「北海道のお米は温暖化のおかげでおいしくなった」とは、またぞろ恐れ入谷の鬼子母神。ここでも鬼子母神はズッコケている。〇「太田光の毒舌大暴走」?ジャーナリズムもまともに機能せず、自主規制が行き届いた結果であろう。全体主義国家でもあるまい、太田の真情あふれる軽薄さくらいでピリピリしていてどうするのかということ。(11/5)  〇心理学者も社会学者も御用の筋の者としてのイカガワシサが其処彼処に滲み出ている。学者というのならもう少し誠実に関わるべきであろう。政治学者しかり、どれも厳密な学としては成り立たぬ領域のものである。等々。(11/2)  〇日本野球もバラエティー化が進んでいる、本末転倒は至る所に噴出している。(10/31)

 

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869.1歩前進2歩後退

選挙結果などについて、必要以上に悲観的になることも楽観的になることもないということ。これが実情である。ただ、今後もかなり厳しい状況になることだけは確かであるということ等々。どこも取り上げないが、今までにない動きがあったということは確か。

 

もちろん、これだけのことではありませんが、言ってみれば、この程度のことでも「反応」しているということです。以上の要旨の中にさえ、読み取れるポイントはいくつかあるでしょう。

「メディアの忖度」などという欺瞞的な表現はやめましょう。それは要するに、陳腐で恐ろし「自主規制」の言い換えです。それは、すべてにおいて先細りの悪循環となり、肝心なことは知らせず、美辞麗句で覆われた水面下で「悪事」を進行させるということにつながります。画像に残っていても白を切る、力でねじ伏せる人々を相手にしていることを忘れないことです。

 

                                 2022 2/13

 

<番外>

 このサイトは、サイバー攻撃を受けました。したがって、12月2日からまったく更新できなくなりました。システムの脆弱性などが指摘されていますが、体のいい言論封殺、統制でしょう。11月に載せました内容についてもかなり改ざんされていた模様です。これを機にこのサイトも終了しようかと思いましたが、現在、さらに強固なシステムを構築させています。おそらく2022年1月10日過ぎには回復していると思われます。

 食べ歩き、ペット紹介などをやっている分には、何も起こらず、何もわからず、日々過ごせることでしょうが、その程度のことならサイト(備忘録)継続の意味もないと思われます。どちらにしても、何をされるかわからない奇怪千万、百鬼夜行のご時世、皆様もお気を付けください。

                                  2021 12/18

 2021年中に、このサイトに何らかのご縁のあった10数万の方たちに対して再度エールを送ります。

                                  2022年 1月元旦

2022年1月17日現在、このサイトはまだ回復していません。 

2022年1月23日現在、調整中。

140.最後の審判

 日本にとって、今回の衆議院総選挙は、選ぶ方にとっても選ばれる方にとっても最後の審判となるほど重い。今まで通りの結果となれば、日々の暮らしはさらに光明の見えぬ煉獄と化すことになる。投票に行かないなどというのは、合法的に渡された唯一の「武器」で自らのわずかな可能性を閉ざすようなものである。それは一矢も報いず自滅して行くことを意味する。現状は、美辞麗句に乗せられて、無思慮に候補者を選んできた選挙人よって成り立っているような政権である。放置すれば、やがて自らも巻き込まれることになる。違うと思うのなら、まず一矢報いることから始めるべきである。一矢報いるとは投票しかないのである。それこそ本当に一本の矢なのである。「適当な人がいないから」などと、いつまでも王子様の登場を待ち焦がれる大年増でもあるまい。そのような人心操作上で作り出された選択肢にはめられているのではなく、現状の問題を打破するには、どの候補者が適当であるかを現実的に考えられるようになるのが民主主義世界での市民のあるべき姿である。

 

                                    10/31

139.ピエール・ノットと歌い、踊る・・・

 アダモの「雪は降る」TOMBE LA NEIGEが流れると、以前、ピエール・ノットの芝居がはねてから、彼の連れてきたフランスの生徒やスタッフとカラオケに行ったことを思い出す。そこで、ピエールと一緒にTOMBE LA NEIGEを歌いながら踊ったのである。動きはもちろん即興であったが彼の動きは実に滑らかであった。さすがであると思ったことなども懐かしく思い出される今日この頃である。フランスには、俳優兼演出家というのがごく自然に成り立ちうる土壌がある。日本では、俳優を挫折した、あるいはできない者が演出家をやったりする場合が多いが、何も俳優ができなくても「今」の的確な読みができていればそれは可能なのである。ただし、そこに生じる「歪み」の持って行き方を間違うと、展開は望めなくなる。さらに、日本の演劇事情が貧弱なこともあり、どうしても限られた者(才能の有無ではなく)の限られた交流しか成り立たないということも拡大しない要因でもある。小劇場にさりげなく、老夫婦に交じってカトリーヌ・ドヌーブなどが観に来ていたりすることは、日本ではまずあり得ないことである。モンローが、その最盛期にその演技ついて悩み、駆け込んだリーストラスバーグのような演劇研究所もないが、もし必要であっても日本ではスターとなったらそれまでで、演技研究などまったく眼中になくなるだろう。お座敷芸に毛の生えた程度の実力でも売れればスター気取りでそのままで済ませるというのがほとんどの在り様であると言ってもよい。底力も実力も雲泥の差になるのは極当たり前のことなのである。それも目には見えぬ文化レベルの差である。何から何まで、「演じて」演じられると思っている三文役者が多過ぎるとも言える。それは「やっている振り」、「やった振り」ですべては事足りると思っている者たちの動向にも通底している。ものを見る眼が養われていないから、こんなことをいつまでも許しているのである。「振り」ではなく、「それを生きる」ことが最も重要なことで、そのことを的確に見抜けるかどうかも、文化レベルに関係してくる。

 序に一言付け加えれば、政治屋ばかりで、政治家は稀であるのと同様、演出屋ばかりで、演出家と言い得る者はなかなかいないのも現状である。それは有名無名問わずである。有名といわれている演出家が単なる演出屋であるケースは枚挙にいとまがない。さらに言えば、政治屋と同様、演出屋の方が生きやすく、銭回りもいいのである。演出家と演出屋の見分け方は、至極簡単、顔と言動である。

 

                                 2021 9/23

138.ジャパン・ハンドラー

 現在の米国による日本支配は、昔の唐による日本支配と酷似していると、「火焔の王」の著者・橋本ルシアは述べている。実際その通りであろうと思われる。彼女が、そこで特に注目しているのは、藤原不比等である。彼の言動と巧みな外交は目を見張るものがあり、現在の日本があるのも、その是非は別にして、彼のおかげであると言っている。果たして、今、彼ほどの知性と才覚を持ち合わせた者がいるのかどうか。その具体的詳細部分については、次の著作で言及すると語っている。

 ジャパン・ハンドラーというと、米国の日本支配の一環として、具体的な圧力をかける集団のことであるが、それに逆らえば、当然潰されるということは身近な歴史を見ても明らかである。現在、ジャパン・ハンドラーにとっても、日本憲法は邪魔な存在で、何とか改憲し、思うように持って行きたいのである。何のことはない、改憲を一番熱望しているのは、ジャパン・ハンドラーということになる。「自主憲法」?「自主」?それは、ハンドラーの思惑通りの憲法ということであろう。毎度お馴染みであるが、以前に米国が関わったものが、時間を経て米国自体と対峙するという構図である。「自主」などという言葉に酔っていると、かなり危うい、妄想と希望的観測で殺されることになり兼ねない。万が一、本当に「自主」というのなら、今度は、再び米国の標的になるということである。

 昔、大国の唐に逆らうことを避け、自国の安泰を優先させた知略は、現実的にますます必要になってくるのであろう。

 

                                    2021 9/19

137.翁の面から般若の面へ

  怪しげな翁の面(「河途」に近い)から、今度は般若の面をつけて登場するようである。「演者」はすべて同一である。この「演者」はそれだけでは気が済まぬとみえて、直面(ひためん:面を付けず素顔)で様々な「舞台」で力量以上の演目を「こなして」いるようだ。目利きが見れば、即座に真贋は判定できるが、大方の者は果たしてどうか、またぞろ、あさましい幻想にすがって、見れども見えずの状態に陥るのではないかとも思われる。ただ、この時疫(じえき:はやりやまい)で多少は考えざるをえなくなった者が多くなったということはあるだろう。しかし、地獄を何度体験しても、それを検証、教訓化しない限り、何度でも繰り返すことになる。

  現在、保守本流などは皆無。もし保守を標榜するなら、そして「健全」な保守として再生するつもりなら、解体、下野するしか手はあるまい。現状は手の施しようのない末期癌の状態。

 

                                    2021 9/9

136.明らめるが、諦めない・・・

 何事についても、明らかにするまでは諦めることはないという程度の意味である。ただし、時間の捉え方次第で、その関りも当然変わってくる。人の一生など余りにも短いと言えば確かに短い、が、一方では、長過ぎると感じるのも実情であろう。「明らかにすべきもの」によっては、100年程度でも足りないものはいくらでもあるのである。だからといってそれを「諦める」か、あるいは「明らかにする」方向に向かうのかによっては、選び取る人生も自ずと変わってくる。実際に、諦める方が現実的で、明らめることは非現実的なことのように思われがちであるが、私はそうは思わない。100年かかっても解けぬものを解こうとする姿勢自体に人間としての価値、尊厳を唯一見出し得るのである。お手軽な安易な「答え」(結論)にしがみついて生きている人間たちはあまりも多く、その実情を数多く見過ぎてきたことも、「明らめること」自体に限りない意義を見出すことに影響しているのであろう。不充分で安易な結論に合わせようとするために至る所で「細胞」が「癌化」するのであるが、いったん突っ走り出すと、致命的な欠陥があってももはや戻れず、ただそれにすがって死に急ぐしかなくなるということである。結論ありきでは駄目なのである。それも安易な結論は身を亡ぼすということになる。

                                      2021 8/19

 

135.大谷翔平に想うこと

  大谷翔平については、5月9日にこのサイトの「五叉路」でも取り上げたが、日本人最多の32号本塁打放った7月8日に再び取り上げることにした。彼についての評価はすでに周知の通り、今更何を言っても陳腐であろう。今後も耳目を引く「ストーリー」を求めて様々なメディアが、彼を追い求めるであろうが、彼のスタンスは揺るぎないものであろう。彼についての驚嘆の声の中にも「がむしゃらな努力の結果、登り詰めた云々」などという言葉も見えるが、それは彼の領域にいる者たちを知らなさ過ぎる。彼にとっては、「がむしゃらな努力」、「登り詰める」などという言葉はまったく存在しないのである。そんな言葉で括ってみても取り留めもなく零れ落ちるだけであろう。言うまでもなく「ハウツー本」、「自己啓発本」の類の領域で捉え切れることではない。彼を見ていると、以前、橋本ルシアが言っていたことを思い出す、「フラメンコで生きるのではなく、フラメンコを生きる」。そう、彼は野球「で」生きるのではなく、野球「を」生きているのである。そこが他の者たちとは比較にならないほど違っているのである。名を成したアスリートからも「モチベーションが高く、圧倒的に違う」と言われるのも、そうしたことからくるのである。それは騎手のジョアン・モレイラにも通底している。彼は人馬一体という次元ではない「馬になっている」と言った調教師がいたが、その通りであろう。そういう意味では、大谷翔平も野球そのものに「なっている」のである。

 とにもかくにも、このような時代に、彼の存在は同じような領域にいる人たちの見事な存在証明ともなったであろう。そして、それは、最近の日本人に対するイメージ失墜にも大きな歯止めをかけたともいえる。

 

                                     2021 7/8

 


追記:後日、清原が大谷翔平について、「理解不可能、漫画的」などと言っていたので、一言付け加えれば、大谷翔平の真逆の領域にいるのが清原である。理解できないのは当然で、理解しようともしないであろう。それが清原のすべてである。しかし、このようにして自ら恥の上塗りをしていることに気が付かない者が多いが、無惨である。それは、どこまでも堕ちるしかない生き方なのである。自己の根幹部分の検証を怠った結果である。自業自得で、同情の余地はまったくない。                

 品性、品格という点でも、両者の違いは明々白々。

                                        7/11+

追記2:やはり大谷翔平は、日本にいなくて正解である。日本の野球評論家と称する者たちの「専門バカ」的なレベルの低さには毎度呆れ返るばかりである。当然、現役の選手、監督たちの意識も大方がこの程度なのであろう。先は見えている。

 

 実際、中田についての、長嶋、張本などの言動をみても、あまりにも思慮浅薄でオ粗末。しかし、これが彼らの今までの結果である。晩節を汚すというより元々の在り様がこの程度なのである。これ以上恥をさらすより静かに去るべき。それがファンに対するエチケットでもある。因みに、私は彼らのファンでも何でもないが。(8/25)

※アメリカでは殿堂入りした元大リーグ選手の野球解説者が、大谷翔平に対する不適切発言で今後の出演をすべて下ろされた。日本ではどうか、不適切発言の謝罪も中途半端なまま、今もってのうのうとどうでもいい講釈を垂れている。後々、この差はすべてに現われる。(8/21)

 

                                        

追記3:オリンピックのアスリートを見ていても、大谷翔平の領域、レベルにいる者は皆無である。中には、15歳の時の夢が10億円稼ぐことであったというから、もはや何をかいわんやなのである。しかし、15歳の時の夢が銭とは、何か恐ろしくなるほどみすぼらしい。遅かれ早かれ燃え尽きるか焼き切れるかしかあるまい。可愛げもない餓鬼の夢にいい大人がいつまでも付き合っている場合ではない。

                                        7/26

 追記4:案の定、そろそろ出てくるなと思っていたが、大谷つぶしの「手段を選ばぬ」者ども、見れば、やはり然もありなんという愚者の風貌。しかし、この不快感は日本人ばかりではない、アメリカにおいても同様であろう。このようなことが繰り返されれば、アメリカ球界も自滅の方向は免れない。そうでなくとも日米ともに球界は衰退の傾向が強いのである。大谷の登場で活気づいた好機をうまく持って行けなければ衰退は早まるだけである。

                                         8/29

追記5:大谷翔平は「スタープレイヤー」のコンセプトを見事に変換してしまった。実際、長嶋、王などのコンセプトではもはや大谷翔平は語れないのである。いくら知ったようなことを言ってみても虚しいだろう。言えば言うほど、自らが影の影であることを証明しているようなものである。

                                         10/10

追記6:ドラフトで登場してきた高校生が、「日本を背負う選手になりたい」と言う。この時点で、もうすでに大谷翔平の領域から遠ざかっている。このような志向性では重くなるだけで、勝利の女神は決して微笑むことはない。やはり、大谷翔平に続く者は、暫らく登場しないのであろう。100年に1度登場するかしないかの選手なのかもしれない。

                                         10/17

追記7:MVP(選手間) おめでとう。しかし、それを取るために野球をやっていたのではないあなたにとっては、それほどの問題でもないのであろう。すべてにおいて「リキミ」のない滑らかな動きに見える自在さは、「体」だけというアスリートとは別次元である。語る言葉も、今までの選手とは違う。その感性を「見ていて」も、やはり感性とは、知性に裏打ちされているということを改めて確認できる。

134.「貧すれば鈍する」者たちには

  「貧すれば鈍する」とは、周知の通り、貧乏をすると頭の働きが鈍くなり情けない心を持つようになるということであるが、これは、為政者にとっては極めて都合のいいことであろう。考える余裕も与えず働かせるということで、どのような「悪法」も、すなわち為政者たちに取って都合の良い法律は何なく通せるからである。その後も、考える時間のない者たちは当然その悪法の存在すら忘れ去る。やがて、息苦しさを感じた時には、首にロープが巻き付いていて振り落とそうとしても振り落とせなくなるといった寸法である。

「貧すれば鈍する」と「窮すれば通じる」、それを単純にマイナス思考とプラス思考などと別の括り方をしてまとめることはできない。「貧すれば鈍する」という実態を知れば、それが「窮すれば通ず」という状態にはなり得ないことがわかるだろう。すなわち、「貧すれば鈍する」ことが常態化すれば、必然的に思考は停止状態となり、もはや活路を見出すということなどはまったく不可能となるのである。貧しい中から活路を見出し得たという美談などは、実際にはあってないようなものである。作為的に作られた話と言った方がいいだろう。

 一部を除いて、多くの者を生かさず殺さず経済的に追い込むことで「余計なこと」は考えない、従順な民にすることが為政者にとっては具合がよいということは言うまでもないこと。しかし、これは危険な道にそのまま繋がっているということである。

 

                                  2021 6/9

 

133.ダブルバインド

 ダブルバインドとは、真逆のことを同時に要求されることである。

今、日本の状態がそうであろう。オリンピック開催と新型コロナウィルスとの攻防戦、こんな真逆のことを同時に強いられているのは日本国民だけである。よく耐えているというよりは、異常に耐えている。他国(少なくとも先進国)であれば、これでは済まないだろう。コロナ感染者数も上昇しているが、その数値も正確ではない。実際、定まった手続きを経ない者は、医者が陽性と診断しても保健所はカウントせず、厚労省の数値には反映されないのである。当然、実際の数値と「正式」に「記録」に残され、発表される数値とはかけ離れてくる。実際にどれだけ陽性者がいるかも定かでない現状でも確実に感染者数は上昇してる。「マスクをしろ」、「用もなく出歩くな」、「距離を置け」、「多人数で集うな」、「営業は20時まで」、「酒は売るな、立ち飲みはするな」等々。そういうことなら、当然オリンピックは無観客であろうと思われるが、それすらいまだに決まっていない。その決定はぎりぎりまで待つということであるが、そのためにどれだけ医療関係にしても負担を負わされるのかわかったものではない。現に、コロナ患者最優先で手術しなくてはならない者も後回しになっている状態である。ぎりぎりまで待つというのは誰にとって賢明な判断なのか?それによって犠牲者も多く出ることも間違いあるまい。無観客でやれば、何とかなると思うのもまたオメデタイ話である。人の命よりも「お祭り」か、完全に本末転倒である。オリンピックを開催したことで、助かる命も助からず、どれだけの犠牲者が出たか是非知りたいところであるが、その時はまた、その数値は隠すか、カウントしないはずである。手柄にもならない不都合なことは隠蔽、改ざんするのは彼らの常套手段でもある。

 国民をダブルバインド状態にしたまま、具体的なことは打ち出さず、何かと言えば、協議、検討、「お願い」、そして希望的観測。おそらく開催前日までこんなことをやっているのではなかと思われる。これは明らかに彼らの能力不足ということである。

                                   2021 4/30

 追記:慈恵医大の大木隆生に言わせれば、「手術待ちで死ぬ人もいますよ、ザッツライフ」だそうだ。「神の手」だか「悪魔の手」だか知らぬが、外科的裁縫技術だけは達者なようだが、その言動からは見えてくるのは、根幹領域での思考鍛錬がまったくなっていない人間の全体像である。すなわち、日本軍にもナチスドイツにもいたマッドサイエンティストたちである。そろそろ出てくるなと思われた者たちである。

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