両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

106. 2019年5月1日

  テレビのバラエティー・ニュース番組では、どこも新しい年号に変わったことを「新時代の到来」とばかりに騒ぎ立て、お祭り騒ぎである。しかし、いわゆる「上級国民」と言われている大方の者たちはすでに日本国内にはいない。現在国内に残っているのは、家族で牛丼屋で昼食を取っているような、あるいはお祭り騒ぎなら何でもござれの所在なき人々しかいないというのも実情のようである。

 世界の実情は間断なく動き、時々刻々変動し、予断を許さない状況である。それは今なお同様である。日本だけが神がかったような「新時代の到来」などと浮かれ騒いでいてはやはり、現状を見据えることもできないまま、一握りの者たちの「経済活動」の単なる「手先」として自己の在り方についても無思慮のまま終焉を迎えることにもなろう。明治、大正、昭和、平成と区切って一体何がある、連綿とした歴史的事象が生起し続けただけであろう。区切れないものを区切って「神がかったようにお膳立てしたがる者たち」とは、それを利用しようとする者たちでもある。先の天皇の平和憲法に殉じられ、被災地でも人々と膝を突き合わせて語らう、その姿に古代社会さながらの「神がかった者たち」は苛立ちを隠せなかったようだが、それも含めてそのような姿勢自体に「すべて」は物語られていると言ってよいだろう。言ってしまえば、現在の内閣府と天皇は実質的には対極にあるということを踏まえておく必要があるということである。

 歴史は一時も休むことなく続いているだけである。都合のいい部分だけ見て、不都合な部分は見ず、適当に変え、削除しているようではとても発展は望めない。それは否定しようのない哲理である。

 

                                 2019 5/1

 追記:「図らずも」令和は、同床異夢の様相を呈しているようだが、私は大伴旅人の隠された悲痛な思いに添う方が実情がより一層見えてくると思われる。そもそも「万葉集」自体が一筋縄ではいかない「こと」「もの」を秘めている「歌集」であることはすでに周知のことであろう。350年間の長歌、短歌、旋頭歌、仏足石歌体歌、連歌の中に単純素朴な一重の歌ばかり載せていたのでは大伴家持といえども4500首では収まるまい。

 令和も一重の単細胞的解釈でないのなら、それもまた意味深長である。この時期を象徴することにもなろう。

                              

 

                                 

105.De nouveau à nouveau encore une fois

「On ne vous empêche pas de croire,vous ne nous empêcherez pas de penser」

                           Jean -Michel Ribes

  以前このサイトでも取り上げたが、今、再び改めて、

 「あなた方が信じるものを妨げることはない、

 あなた方は我々が思うことを妨げることなかれ」

 

※Jean-Michel RibesはRond-Point劇場の代表である。この劇場にピール・ノットも所属している。

 

                                    2019 4/7

 

 

104.De nouveau je ne suis pas Abe

  「アイアム ノット アベ」と明快に自己表明して「表舞台」から「消された」方がいたが、このような方が少ないということが、現在のような目も当てられぬ惨状を生むのである。自分だけはうまく立ち回れると思っている者たちも、やがて僅かな投票率の僅かばかりの獲得票で日本国民の代表のような顔している者に食い尽くされることになる。実際、こき使われるだけの奴婢、賤民の類の扱い方をされていても自尊心だけは強く、大した根拠もないのにすぐに優越感を見出す方向に自分を形作り、その姿を自分自身だと思い込む人々が日々「煮られて」いるではないか、無関心という怠惰でしかない、自堕落な人々も、愚かで力もないのに自尊心だけは人一倍という住所不定の日雇い農民「阿Q」と同様なのである。その都合のいい各自の勝手な自己醸造に支えられて「現在の惨状」がある。

 まずいものは、まずい、嘘は嘘、許されざることは許されないのである。それをしたり顔で弁明、釈明、解説、評論するのはもういい加減やめたらどうか。見苦しいだけである。

 だから、「I am not Abe」と言わざるを得ないのである。「Abe」とはもはやチンケな個人を指しているのではなく、「Abeシンドローム」というべきか、「Abe」に集約された病魔におかされた全体を指しているのである。

Donc,je ne suis pas Abe

 

                                       2019 3/2

mensonge  mensonge mensonge    tout à fait  mensonge  tout mensonge 

le soupir du mensonge  la respiration du mensonge

c'est le père du mensonge   le diable

                                                                     ーMasaru・Hirayamaー  

※le père du mensonge  =le diable

 

うそ 嘘 ウソ 全くのウソ すべては嘘

偽りのため息に 偽りのブレス

そは虚偽なる父、すなわち悪魔

 

 

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 私にとっては、言わずもがななことであるが、「I am not ABE」と書いたご本人が「多くの人が誤解しているようだが、あの紙を出したから、報ステをクビになったのではない。官邸の圧力でクビになることがわかったので、抗議の意味であの紙を出したのだ」と言っているので、この際、歪曲、誤解を避けるために敢えて付け加えておく。

                                               

103.二人の愛すべき人の逝く

 梅原猛、市原悦子の両氏が1月12日亡くなられた。愛すべき方々です。私にとっては、梅原氏は「哲学者」というより、こよなく「知」を愛された、それこそ哲学そのものですが、そのような方であると思っています。それは重箱の隅を突いて悦に入っているような学者とはまったく質を異にしています。例えば、「隠された十字架」にしても知的に刺激するものを十全に備えています。これが「息衝く知」というものです。死んだような博物館的な知識を寄せ集めて、いくらひけらかしたところでそれは決して現在に脈打つことはありません。

 梅原氏の飽くことのない知的冒険の人生に賛辞を惜しまず、そして、その最期にご冥福をお祈りします。今頃は、ご母堂の胸に抱かれていることと思われます。

 市原悦子氏も素敵な女優さんであることは言わずもがななことですが、「戦争をなくすこと、世界の問題と関わることも、女優の大事な仕事」などと何気なく言うこの意識レベルもやはり半端ではありません。樹木希林氏などをうならせるさりげない演技も到底小手先でたどり着けるものではないことの証左でもあります。一時はよくても、すぐに燃え尽きるような演技は所詮、本物の領域にはないのです。今頃は、永久の夢路で、女優であったことも忘れて世界を駆け巡っているのではないでしょうか。ご冥福をお祈りします。因みに、若くして死んだ私の母は市原さんの大ファンでした。

 

                                2019 1/15

102.哲学者マルクス・ガブリエル

このドイツの「若き天才哲学者」マルクス・ガブリエルの言説が自分の再確認のように五臓六腑に染み込み、腑に落ちてしまうから不思議なものである。

 彼は、信を置くに足りる哲学者である。

西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」に符合する点なども興味は尽きない。

 

                               2019 1/4

「Sapere Aude」 サペレ アウデー

 知恵を持つことに勇気を持て!

101.「もともと特別なOnly one」

 周知のように、SMAPのヒット曲「世界に一つだけの花」のフレーズである。内容的には特に真新しい世界ではないが、その内容とは真逆な方向に突き進んでいるのが現在の実情でもある。それぞれの「もともと特別なOnly one」という意識はどんどん薄れ、「Uni‐form」を、「Stand‐ard」を最優先させる方向に進んでいる。現在、世に満ち満ちているのは大なり小なりむき出しの欲望の「NO1」であろう。それを作り出した「流れ」が、それぞれの欲望を肥大化させ、それによって様々な花(Only one)は刈り取られているのである。刈り取られバケツに投げ込まれるのはまだしも、そのまま踏みつぶされる花がほとんどである。バケツに投げ込まれた花々も暗闇に放置され、誰に接することもなく、誰の目にも触れることもなく干からびていく。

 「特別なOnly one」をほんとうに大事にしたいのなら、それを潰すものと向き合わなくてはならない。抒情に流されているだけではなく、対峙しなくては「特別なOnly one」などはすぐに消されてしまうのである。

                                   2018 12/6

 

100.「日本倫理・哲学グランプリ」で入賞

 影山優佳(17歳)が「日本倫理・哲学グランプリ」で銅賞をとった。彼女はアイドルグループ「けやき坂46」に所属しているが、今年6月から学業に専念するために活動を休止しているということである。個人的にはアイドルグループなどにはまったく興味もないが、昨今の事情を考えると、ものごとをしっかり考えられる若手の登場の兆しは何とはなしに嬉しいものがある。彼女は今後、1993年から世界の高校、大学の哲学教授などで開始された「国際哲学オリンピック」へ参加することになるのであろう。今回はアリストテレス、マルティン・ルター、アンリ・ベルグソン、和辻哲郎などの課題文から一つ選択して哲学エッセーを書くことが課題である。楽しみである。それについて「アイドルはバイト感覚か」などとわかったような嫉妬まじりの半可通の御託もあるようだが、歯牙にもかけず思うことをやればよい。現状の日本の「ニセモノ文化」にどっぷり浸かっているような者たちには何も見えてはこない。そのような者たちといちいち同調する必要もなかろう。アイドルも、演芸一般も、アスリートさえ根本的な質の転化を余儀なくされているのである。

 

                                  2018 11/29

 

                               

99.大阪万博?経済波及効果?

 喜んでいる顔ぶれをみればすべてはわかる。もちろん太鼓持ち、幇間の類はどうでもいい。大方の一般庶民には何のプラスにもならない。むしろその反動の方がこわい。経済波及効果?いざとなれば「仮定のことは何も言えない」と言う者たちが、その波及の試算について何を根拠に割り出したのか、そしてその利潤はどこに流れるのか?そんな実態も明確に捉え切れない「さざ波」に巨額(税金)を賭けて浮かれている様は、家族のことも顧みない無謀な博徒に等しい。結果、黒字赤字さえ不明のままに、また自分たちだけに都合の良いように持って行くつもりなのであろう。この先数年、この作られた「夢」、「希望」を煽る者、殉じる者とは一体どのような者たちなのか。すべては「持って行かれる」だけであろう。本来、夢も希望も一人一人が自分自身で編み出すものである。

                                                                                                                    2018    11/25

98.「野球内閣」、この病的な軽さ・・・

 「野球内閣」とは、これまた恐れ入り谷の鬼子母神である。この軽さ尋常ではない。どれだけ隠すものが多いかがよくわかる。以前からその傾向はあるが、騙す者とは常にこのパターンである。その内に自衛隊のユニホームも野球のユニホームにするのではないかとさえ思える。野球のユニホームを着せられ現地で武器を渡されはじめて戦闘に駆り出されたのだと気づくというバカみたいな話も成り立ち得ると思われるから狂っているのである。「野球内閣」から「戦闘内閣」への移行は容易く、むしろ表裏一体である。この「軽さ」の実態、すなわち恐ろしき「本体」については別の「カテゴリー」でも書いたので省略するが、何を隠すためなのか調べればすぐにわかること。ピンクのユニホームを着せられ海外派兵を海外派遣と勘違いし、行って捕虜になれば「自己責任」、「負けるわけにはいかない」と見捨てられる。

 祖国というもは誰にもあろう。しかし、祖国とは、一片の誠実さもない為政者の集団と、1000人単位で移動する生気のない和服の集団が人工的に作り出すものとはまったく異質なものである。

 

                                 2018 11/9

97.「テレビは観るものではない、出るものだ」

 「テレビは観るものではない、出るものだ」とは蓋し至言である。タモリも以前のタモリに戻ってきたなと思った。テレビはほとんど観ない私としては、タモリがいつ「戻ってきた」か正確に知る由もない。こんなことを言うと、タモリのことであるから「かわすか」、「とぼけるか」、「茶化す」かするであろうが、こういうセンス、エスプリの効いた言葉は他のタレントには絶対と言っていいほど出ないのが日本のテレビの実情なのである。

 そう、テレビは観るものではないのである。出るものなのである。したがって、出る機会のない者、出るつもりのない者にとって、テレビは観るものではないというだけのことに過ぎないのである。さらに言えば、たとえテレビを観ることになっても百害の中に一利はあるかなしかとみれば誤ることもないであろうということである。

 

                                  2018 10/9

 さらに付け加えれば、タモリが赤塚不二夫などに認められテレビに出始めた頃、タモリの芸について周囲の者から頻繁に言われたという「テレビを見ている人にはわからないよ」という「アドバイス」、この当然と思われるようなお為ごかしの「アドバイス」、これがテレビそのものを劣化させ続けていることにいまだに気が付かないのである。すなわち、テレビの視聴者を完全になめているのである。最悪の政治ショーから低俗バラエティー番組、お涙頂戴の廉価制作番組、誰がまともに見ていると思っているのか、バカにしながらしようがなく「街の雑踏」の効果音としてテレビをつけて、うるさければ音は消しているのが大方の実情で、その中には完全になめられた「死んだような人々」もいるということに過ぎないのである。「死んだような人々」を標準にしても仕方あるまい。

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