両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

132.東京五輪開閉会式演出プランの問題

  担当するクリエイティブディレクターの、タレントを豚に見立てるという提案で問題が起きているようであるが、具体的に豚に見立ててどうするつもりなのかは知らぬが、テレビの低俗CMなら頻繁に見られる光景でもある。このディレクターは電通のコピーライター出身で、然もありなんと思う反面、相当行き詰まっているなと思われる。実際、コロナ禍で五輪が行われるかどうかも危ぶまれ、なおかつ、多くの者が五輪開催から引いてしまっている中で無観客の可能性もある。これだけマイナス要因が多い中で、何をどう「演出」するのか?復興五輪などという空虚なコンセプトで打ち上げれば、「しらけ鳥」も群れを成して飛び回り、その内全天空を埋め尽くし、その鳴き声ですべてはかき消されてしまうのではないかとさえ思われる。復興五輪などという御旗を掲げ、五輪開閉会の進行をすべてレ二・リーフェンシュタールのような者に託したかったのであろうが、そんなことは「森羅万象の長」でもない限り、一介の権力者ごときには到底叶わぬこと。もう、すべては終わっているが、戦時中と同様、止めるに止められないというところであろう。どちらにしても、やがて結論は出る。

 因みに、豚に見立てられてしまったタレントのコメントは、周囲のスタッフもしっかりしているのであろうが、見事。自我意識もしっかり成長している。これなら海外に行っても通用するであろう。

 さらに付け加えれば、電通のコピーライターなどは、人々が現実を直視することから、いかに遠ざけるか、そのために幻想を現実に巧みに練り込め、種々雑多な幻影を作り出してきたのである。言ってみれば、安手のアヘンのような言葉を操ってきた者たちでもある。実際、一度でも、さりげなく人々が目覚めるような言葉を紡ぎ出したことがあるのかということである。近頃は、コピーライターのような作家が多いが、コピーライターと作家は根幹部分で全く異質である。イミテーションゴールドに慣れてしまっていては、ゴールドの輝きは感知できまい。彼らは、奇を衒う、耳目を驚かすことだけが「演出」ではないことを「知らない」のである。

 

                                    2021 3/20

 

 

※レ二・リーフェンシュタール:ヒットラーお気に入りの映画監督、女優。

131.「この爺さん」も大切な時には必ずこける。

 「この爺さん」については、このサイトでも何度か取り上げているが、すでに十二分に周知されていることでもあろう。「大切な時には必ず失言する」というようなものもあったが、「失言」ではない、失言とは、言ってはいけないことを不注意で言ってしまうことで、彼の場合は、確信犯であることを明確にしておく必要がある。彼の精神構造については、このサイトの違うカテゴリーでも取り上げているので詳細は避けるが、要するに、その精神の組成因子そのものが神がかったカルト的なものになってしまっているので、不注意で出る言葉は一言もないはずである。その言葉の通りの精神構造であるということである。そこを見間違うと、この国の民主主義世界は遠のくばかりであるということである。

 言葉尻をとらえて、面白おかしく弄り回すなどという、その程度の認識でいると、今後もとんでもないことを繰り返いし、取り返しのつかないことにもなろう。今でも謝罪で済む程度のことだと思っている者がいるようだが、実に甘い、それだけで「後進国」という印象は焼き付いてしまう。それは精神の基幹をさらけ出しているということがまったくわかっていない証左でもある。見れば、一目瞭然であるが、このカルト系世界にはまっている、あるいは洗礼を施されている者たちの精神上の展開は全く期待できない。それは、すべてにおいて自己完結しているからである。このカルト系世界の厄介ところは、緩やかにいつの間にかそれと気付かないうちにその人間のパラダイムを形造ってしまうところである。すでに展開不能な自己完結に陥っている者たちには、未来永劫自己完結することのない絶対一回性の歴史展開にはとてもついていけまい。

                                  2021 2/14

 

 

130.「芝居は何処へ?」

 今年の賀状に「芝居は何処へ?」というのがあった。

 今回のコロナ禍の当初に、シアターモリエールという劇場でクラスターが発生した。私も、何度か使ったことのある劇場なので、他人事ではなかった。その後、自主規制なども含め演劇の上演はかなり少なくなった。そのような実情も鑑みて、「芝居は何処へ?」という思いもあったのであろうと思われた。私自身は、それより以前から、演劇的、舞台的表現そのものの興味は尽きないものの、現実的諸問題を考えると、その限界性を常々思い知らされることが多かった。現在、私は劇場主でも座長でもないので、定期的に上演しなければならないという強迫観念のようなものはない。むしろ、そのような状態になることを極力避けてきたと言った方がいいだろう。

 「芝居は何処へ?」を自分のこととして、答えれば、こうなる。

 「芝生(しばふ)」に居ることさえままならぬ、耐えられない状況の中で、いつしか「芝居」は内に封じ込められた。ただし、それはいつでも外化することは可能である。これもまた、終生現役の別バージョンであると思っている。どちらにしても、演劇は自分ひとりで突き進み、深化させることができない世界なのである。

 

                              2021 1/2

129.「赤心 片々」愚道和夫

  「赤心 片々」とは、私が、かなり前に愚道和夫老師より授戒を受けた時に、色紙に書かれてあった言葉である。このサイトでも遣っている「両忘」という言葉にも相通ずるものがある。わかりやすく言えば、「思うところ」に「疲れを知らない子供のように」関わって行く姿勢そのものを言い当てたものである。ただし、子供が熱中、夢中になっている様相そのものとは自ずと質が違う。

 老師は2014年94歳でお亡くなりなったが、私が出会ったのは老師が70歳半ばの時である。その「正法眼蔵(道元)」の講義は実に新鮮であった。この「正法眼蔵」の英語訳も自ら手掛けておられたくらいであるからその講義がいかに明快であったかは想像に難くないであろう。どのような質問にも、言いよどむことは一度もなかった。この方には、言語道断(仏教の深い真理は言葉では説明できない)というような、悟りすました風情は微塵も感じられなかった。芭蕉の句を例に、私が質問したことについても共感をもって答えられていた。その封書には平山勝先生とあったので、何ともすごいお方だと思ったことを覚えている。一時も驕り高ぶることのない真の求道者である。このような、実際に「百尺竿頭一歩を進む」方と接点を持てたことはやはり「有り難い」ことであったと思っている。

 

                           2020 12/26

                                                                                      戒名   徹山勝道の名で記す

128.シンギュラリティ(技術的特異点)について

 「シンギュラリティとは、AIなどの技術が、自ら人間より賢い知性を生み出すことが可能になる時点を指す言葉」で、米国の数学者により広められ、人工知能研究のレイ・カーツワイルも提唱する概念である。そして、2045年にはその特異点は訪れると提唱している。

 結論から言えば、19世紀の科学万能主義の「夢」の託し方同様、こうした科学万能主義の「夢」物語には、どこかmadな、いかがわしさを感じるのである。実際に危険でもある。同時に、人間が、技術的な領域のみならず全的に人間を超える「もの」を作ることは絶対に不可能とみている。要するに、その思考回路自体がオメデタイのである。この手の希望的観測は根幹部分が脆弱なため、いつ悪夢となっても不思議ではないのである。

 それでは、人間より「賢い知性」とは、どのような「こと」、「状態」を指し示すのか?「シンギュラリティ」などは永遠に訪れることはないと思っている。追い求めること自体に多少の意義はあったにせよ、その特異点を認知することは決してできない。

 

                                  2020  11/12

127.切られた自らの首を提灯に

  切られた自分の首を提灯にして、足もとを照らしながら歩く首のない人間。これは怪奇小説が描く世界の一部ではない。ダンテの「神曲」にある一場面である。ダンテの時代も政治的に実に愚かしいことばかり行われていた時代でもある。人間がこんなにも愚劣であったのか、自分もまたこんなにも下らないものであったのかと思い知る時、ほんとうの自分によって切り捨てられた自分の首によって、ほんとうの命にふれる自分に向き合い、戦慄する。「何かにつけて私たちは、常に自分の愚劣に驚愕し、自分から脱出しなければならない。この世界を描くにあたって、ダンテは切って捨てた自分の首、その首の光をたよりに歩む世界を見たのである。」ダンテならずとも、私たちは大なり小なり、そのような過程を経ずして「ほんとうのところ」にはたどり着かない。これは、怪奇趣味の戯れ事でも何でもない。「人間」現実の様相そのものでもある。要するに、「訣別する時に、初めてほんとうに遇(あ)えたのだ」ということである。

 日々、見えるものは、マスクをしてスマホする人間たちの種々雑多な動きだけであるが、それが現実であると言ってみても、そのような「現実」からは何も見えてこない。果たして、それが現実と言い得るものなのか。芸術は、今あるように見える現実よりも、ほんとうにより身近な世界、現実を提示し、インスピレーションを与えるものである。それは我々が現実を正確に見据える「よすが」ともなる。

 私もまた、自らの首を提灯にして、足もとを照らしながら歩き続けるしか道はない。時に提灯の光も点滅し、薄暗くなったりもするが、それ以外に頼るものはないというのが実情なのである。

 

                                                                                                            2020 9/24

  敢えて言う必要もなかろうと思われたが、一言付け加えれば、現在生きていることが、今までの数十倍も充実していることが不思議なのである。あたかも新世界に足を踏み入れたかのようでもある。あらゆるものが鮮明に見えると同時に新たな世界を開示してくれるのである。

 

                                  

126.「絆」ではない。必要なのは「連帯」である。

  どこを見ても、何かというと「絆」、などという言葉が出てくるが、どこか胡散臭い言葉である。絆とは、動物をつなぎ止める綱のことでもあり、絶つにしのびない恩愛、離れがたい情実などの意味もあるが、「ほだし」、すなわち手かせ足かせ、自由を束縛するものでもある。この「絆」という言葉で、一体何を括ろうとしたのか。この言葉の意味するものが、多くの行為主体の真意と少なからず離反するから、違和感以上のものを感じるのである。要は、物事を成し遂げるために結び付く「連帯」という言葉で充分であり、それが一番適切である。なぜ、恩愛だの、情実などという粘着性のあるコンセプトを忍び込ませる言葉を敢えて遣うのか。手かせ足かせ、つなぎとめる綱ともなるものをうまく包み隠し、それがあたかも人間の原初的なあるべき姿とでも言いたそうである。しかし、それは明らかに違う、むしろ、人間を隷従させるための美辞として遣われ、「玉砕」という言葉に限りなく近い。「絆」という言葉が、下意識で必然的にため込む愚かしい幻想は際限もなく、回りが速い。

 

                                   2020 9/18

125.PCR検査の異様な低さ

 100万件あたりの検査数は215の国・地域の中で、日本は159位(米ウェブサイトworldometer)で、東アフリカ、南アフリカ並み、G7の中では最低、G20中ワースト2位である。これについて、現行の感染症法では社会的弱者を無症状でも検査できる体制にないという。それでは緊急に法改正が必要であろうと思われるが、厚労省、国の感染症対策分化会が実質的にその前進を阻害しているということである。そして、それを黙認する行政、立法、司法を統べ治める「森羅万象の長」と自称する御仁。それがすべてを物語っているが、そう言えば最近、「その御仁」は下々の前には姿を現さなくなったが、大丈夫か?巷では、新型コロナが猛威を振るい今後ますます激しくなるであろうから、外の空気には触れずに自宅でゆっくり静養するのが賢明なのであろう。肝心な時にはすぐお隠れあそばす方であっても、「森羅万象の長」のためなら、下々の者たちは笑いながらウィルスであれ何であれ、思いっきり吸い込むことであろう。それが前向きに楽しく生きること、プラス思考なのだといつとはなしに吹き込まれているから自由な動きなどは思いも寄らぬこと。実情は、心の赴くがままの喜怒哀楽など夢のまた夢、そんなものは完全に消失している。空喜びに空元気、怒り悲しみさえも方向を失っている。すなわち、自分の人生などあるようでないのである。いつまでもすべては他人の手の内では仕方あるまい。

 そのようなことを乗り越えるのは簡単明瞭である。明確な現状認識とそれを半歩でも前に進めるための具体的行動である。すでにその僅かな兆しは確認できた。

 因みに、本日(7/30)内閣府では、景気の山と谷を議論する有識者による「景気動向指数研究会」が開かれ、景気のそれぞれの局面を暫定的に認定したとある。今、そんなことをやっている場合か?、最前線では全滅するかしなかの瀬戸際で、医療従事者が身を挺して戦っている最中である。疲弊し切ってもう持つまいと思われるが、そんなことはお構いなしの「動き」、自己保身以外には何も見えぬ者たちなのであろう。これもまた、いつか見た同じ光景ではある。

 

                                    2020 7/30

 改めて言う、この政府は異常である。常識的な情報も開示せず、最低必要な説明責任もせず、当然の不安に対する解明方法を提示する者たちを「危機を煽る者」扱いする。これが日本の常識なら、やはり世界の非常識。それは具体的な数値にも現れている。異様な神がかり政府では、第二次大戦同様、「今更止めるわけにはいかない」とばかりに地獄にまっしぐらである。国民は何が現実に起きているかも具体的に知る由もなく、悪しき精神論で死地に追いやられることになる。霞が関もいつか見たような濃霧におおわれ、「人間」は影を潜め、魑魅魍魎だけが蠢いているようである。

                                        8/13

124.おかしいことをおかしいと言う。当たり前である。

 「検察庁法改正」の抗議の動きに対して、わかったようなわからないような「おかしな」異論、反論を言っている者がいるようだが、例外なく走狗(そうく)の類である。すなわち、パシリなのである。人気のある芸能人などの発言について「わかりもしないのに政治に口出しするな」という者、これなどもパシリの典型で、言っていることは反民主主義的な全体主義信奉者そのものである。「検察庁法改正」、これはすでに危うくなっている三権分立の瓦解の速度をさらに早め、民主主義の根幹を蝕んでいく危機なのである。多くの者たちが抗議するのも当然ある。なぜ三権分立がきちんと機能することが大切なのか、そんなことは中学生でも知っていることである。何もいちいち有名無名匿名のパシリの類に講釈される必要もないことである。走狗たちに生真面目に反応する必要はまったくない。走狗、パシリとは国民の味方には決してならぬ、常に国民全体の敵であるということを明確にしておく必要がある。ある時は、優しいお兄さん風に、ある時は、親し気のあるオッサン、オバン風に、またある時は好々爺(こうこうや)風に世間に顔を売っているが、このような事態になると、その身の処し方ですべてが開示されてしまうのである。同時に金の流れも明確となる。要するに、底が割れるということである。もっとも、すでに底が割れている者がほとんどではあるが。

 

                                 2020  6/14

 

 

 

 

 

123.何かと批判を否定的にとらえる人々とは

 今では見上げる人もいなくなってしまった「TOKYO 2020」の旗が妙な音を立て翻っている。虚しい音とはこれほどまでに味気ないものであったのかと改めて思い知らされる。「マスク 2020」とでもした方がピッタリの街の風情である。

 旗が発する奇妙な音の合間を縫って、今でも「批判ばかりしていても仕方がない」などというもっともらしい言葉が聞こえてくる。このような時期、事態に直面すると必ず登場する「決まり文句」でもあるが、実は極めて陳腐である。これだけでその発信元の位置がすぐに特定できてしまうのである。身近なところでもよくあることであろう、イエスマンばかりを集めた組織の行く末のお粗末さは枚挙にいとまがないのである。要するに、正当な批判、すなわち人間として当然の思考回路を持ち合わせているか否かは、その後の展開に重要な意味を持ってくるということである。「批判ばかりしていても仕方がない」ということで、何となくわかった気になり、その挙句「巻き込まれ」「絡め取られ」、現実が見えなくなってしまう、あるいは見ようともしなくなってしまうのである。そういう意味で、それは現実を見えなくさせる、考えなくさせる手法の一つともいえる。今、一番現実を見てほしくないところはどこなのか、それは敢えて言うまでもないことである。「批判ばかりしていても仕方がない」、こんなことを言い出すようでは、その時点で先は見えているのである。

 本来、批判的精神は常に創造的なものなのである。

 

 

                                   2020 5/25

 

 

 

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