両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

82.自殺者に想うこと

 自殺した者たちを弱き者、敗れた者と捉えている限り、ほんとうの意味での進展、展開はないのではないかとさえ思われる。たまたま生き延びられている現在の「生」の根拠を自分の「裁量」、「力量」と錯覚しているのではあまりにもオメデタ過ぎる。そんなものは思い込み、思い過ごしといってもよい程のものである。神などを想定しなくても「人間」というものが徹頭徹尾不完全なものであるという認識と他者への共感があれば、自死した者たちについて思いを馳せることは至極当然のことであろう。実際、こんな世の中に生まれてきたことを呪いつつ逝った者も数知れず、その多くは痛々しいものである。繊細であったり、ピュアであることもこの世が地獄であることを一層際立たせる。果たして生きる値打ちなどあるのか。「なぜ、生きなければならいのか?」という問いに対して「まともに」答えられる者がどれだけいるのか。そもそも生き延びることがどれほどのことなのか、生きた時間の量で決まる「勝者」などまったく無意味である。ただ「耐える」時間の量が増えるだけで、ある意味では時間の敗者とも言える。無益な苦悩ばかりが増大することの方が多いという意味では無益に生が引き延ばされただけともいえる。それが無益ではないと「思うこと」自体は自由であるということに過ぎないだけでそれ以外の確証は何もないに等しい。

 自死する者たちにはなぜ死に急ぐのかという問いも虚しく、実際に自殺者の数は減らない。ほんとうには「寄り添う」などということも難しいであろうと思っている。ただ、彼らが抱えている「人間」としての問題、ピュアでもある視点がこの世からどんどん消えてしまうが惜しいのである。それによってこの世界はますます暗く醜悪な部分ばかりが増殖するのではないかとも思われるからである。自殺を考えた者こそ何としても生き続けて欲しいのである。彼らこそ生き続けなくてはならないと思っている。自らが持っている「光」を自ら消してはならない。どちらにしても、死はやがて確実に訪れるのである。

 最近特に頻出する「寄り添う」という言葉、「絆」と同様、言葉に酔っているのではないかと思われる節が多々あるのが実情である。言ってしまえば、様々な問題を根本的なところから目をそらさせるのに都合のいい綺麗事に収れんさせる言葉なのである。ただし、「寄り添う」ことを試行錯誤を繰り返しつつ個的に実践している者を全面的に否定するつもりはない。

                                            2017 9/4

81.炎と血とー人間の愚かさの極致ー

 炎と血に至る道とは、どのように言い繕ってみても、たとえ正義の御旗を振りかざしてみたところで、それは人間そのものの愚かさの証明にしかならないということを否応なく訪れる結果が見せつける。「炎と血と」などと言うと、今ある自分と何か程よい距離があり非日常の世界を思わせるが、それは、炎と自らの血が流れる時と言った方がその実態がより具体的に見えるのではないか。現状は、安全地帯などはどこにも存在しなくなっているのである。ミサイル発射に避難訓練などするだけ無駄であるように、迎撃システムを整えたところで防げると思う方がオメデタイ。何度も言うが、地震大国の上に原発という巨大な弾薬庫が其処彼処に所狭しとあるのである。さらに地球温暖化の影響で自然災害などもいつ来るかわからない程変調をきたしている。その上に食料自給率の恐るべき低さ。何かあればネズミ、芋虫、ゴキブリまで食って生き延びようというのか。ミサイルがどうのこうの言う前に自ら置かれた状況を冷静に見まわしてみればどうなるかすぐにわかること。勇ましい「侍姿」もすぐに糞袴を引きずることになり、裏山では日々老人の首つり自殺である。

 戦争などを扱った作品などもレベルの高い内容を持つものは例外なく人間の愚かさ、弱さを描き切っている。それ以外の類は大なり小なり、見るに堪えない酔狂としか言いようがないものである。戦争アクションものなどに至っては想像力が劣化して退行してしまった者を対象としたとしか思えないものばかり。要するに、鉄砲屋、自動車屋のカタログ紹介ものと言った方手っ取り早い。「人間」不在の「人間」モドキばかりを取り上げるということは、美化された類型的な「非人間」を作り出すだけであろう。戦争の正当化、美化で一番喜ぶのは「軍産複合体」であることは否定しようのない明確な事実である。それについては異論をはさむ余地はまったくない。

 

                              2017 8/30

 

80.ここまで来ると

 ここまで来ると、自分が「何屋」であろうと、政治面についても言わざるを得なくなってくるのが極自然な流れである。損得勘定から見れば「沈黙は金」、「雉も鳴かずば打たれまい」、「天下国家など論じるつもりもない」などの姿勢が賢いようにも見えるが、それでは主権者の姿勢からは乖離するばかりか、実のところ自らの命も危うくなってくる。あまりにもクレイジーな政治の現状は、そのような一見恰好のいい姿勢そのものが積み重なった結果でもある。特に、現政権与党の「政治家」の言動は理念なき「泥水」のように変貌するとみるのが妥当で、放置すればいつの間にかとんでもないところに自分が「いる」、というより「いさせられる」ことにもなりかねないのである。その時になっては、もう遅すぎて手も足も出なくなっている。

 ここまで人物的にも国民から信用されていない者が、それも疑惑の主犯格の者が内閣改造をするという無意味さ。また、それに集う者たちも例外なく「共犯者」であることを認めたということに過ぎない。まさに取り残された島国政治である。そして、またここで繰り広げられる「泥水」のように姿形、心性までも変える理念なき者たちの二番煎じの茶番劇。内状は三文ドタバタ笑劇よりもひどいが、それを見据える者は笑いながら切り捨てるか、黙って切り捨てるかのどちらかくらいしか思案のしどころはあるまい。

                                2017 8/6

79.池水は濁りににごり・・・

「池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨ふりしきる」 左千夫

「保守本流」などという言葉があったが、本流もいともたやすく濁流となり、今や「保守濁流」といった様相を呈している。「保守」が何かもわからず、右翼だ左翼だ「プロの市民」などと群盲のしたり顔なる談義も枚挙にいとまがないが、どれもこれも言ったまでのこと、一時的な効果を狙っただけの内容にいちいち反応する必要もない。まずは「保守」が「保守」として機能していないのであるから話にもならない。これは到底「保守」といえるような「シロモノ」ものではない。本来の「保守」の在り方からは常軌を逸している単なる「謀反の独裁勢力」とも言い得るものである。彼らは、ここに至っても「反転攻勢」などと言っているのであるからまだ事の重大さに気付いていないようだ。ここまで腐りきれば末期症状、外科的処理しかないが、大手術となるので体力が持つかどうか。「健全な」「保守」に作り変えるにはもはや解体しかあるまい。すべては、まずそこからである。それについて否定的なもっともらしい擁護を繰り返す者たちとは、事態に対する明晰な判断能力もなく、実のところは「謀反の独裁勢力」と同様に妄執に突き動かされているだけなのであろう。そこには国民の影すらない。それは、終焉を前にして焦点も定まらずに捨て台詞を吐いている輩とも重なる。

                                          2017 7/9 

 

78.監視するのは我々国民である

 間違っては困る。権力側が国民を監視するなどとはとんでもないこと、国民が権力の動きを監視するのが道理である。今後は、何一つ信用できない以上、権力側が発信する一言一句、発話、表情仕草「印象」画像に至るまで細大漏らさずチェックする必要がある。それは、もはやその言動がウソかほんとうかという次元ではなく、ウソをどのようについているかということである。それを明確に把握して判断の基準にするということである。隠せば隠すほど見えてくるものが必ずそこにはある。したがって何と言われようが追及の手をやめてはならないということである。嘘、糊塗、ねつ造、すり替え、隠ぺい、ありとあらゆるものが出尽くした感があるが、最近では奇声、咆哮、身振り手振り、声の抑揚、アクセントの位置、薄笑いなどにもかなりの変化が見られ、ついこちらの方が薄笑いを浮かべたくなるような始末である。言ってみれば、確実に推定有罪ということである。それでも、他に適当な人がいないからという理由で、国民を確実に裏切っている者たちを支持するのであればもはや主権者ではあり得ないだろう。常に目先のものにとらわれ、騙され、おびえる無思慮な臣民である。

                                 2017 6/11

77.改めてジャーナリズムの不在

 これもまた大なり小なり多くの者がどこかで感じていることでもあろう。しかし、相も変わらず手を変え品を変えた「ニュースショー」「バライティーニュースショー」の類ばかりで実際に起こっている大中小の様々な出来事、それも国民が当然知っておくべき情報がほとんど伝えられていなのが実情である。自然災害、事故ですら「お茶の間ニュース」用に味付けされている。最大公約数らしき情報ですら、割り出された共通項の危うさを感じるものばかり。ちょっと締め上げられれば「政府広報」さながらの「垂れ流し」状態、政府がウソをつくはずがないでしょうと言わんばかりの対応である。それが一事が万事となればジャーナリズムの有無どころの話ではない。もはやジャーナリズム不在が常識で、政府批判の類はすべて片隅に追いやられるか排除である。追求すべき問題に対する多くの動きもカットされるか大方が修正されるか無視、ノーカット版はまったく在り様がない。それに代わって「将軍様」のゴルフ姿、外遊、勇ましい弁舌の数々が取り留めもなく流されている。とうとうここまで来てしまったのである。

 「新共謀罪」は「テロ等準備罪」などとあたかも「テロ」に特化したかのような名称を遣っているが、実はその効力範囲を広げながら現在の法律でも充分できることをさらに警察がやりやすいように内容を変え、解釈次第でいかようにもなるようにしようとしているのである。この法案について、たとえ微に入り細を穿つような説明をしようとも主権者たる国民に対して行うさらなる広範囲な規制であることに何ら変わることはない。主権者の方も能天気にいつまでも寝ぼけたことを言っているようでは主権者の位置は返上して臣民となるしかあるまい。このような法案にも無関心でいられるということは、余程「臣民となる」ことが好きなのか、それが性に合っているのであろう。その実態は、本当の「自由」も知らず、むしろ「自由」を怖がっているだけで、思考停止状態のまま常に「何者か」に縛られているのが一番居心地がよいということなのかもしれない。「自由な人間」などとは無縁の徹頭徹尾「隷属志向の人間」 とでも言うべきか。

                                 2017 5/18

76.再び「私もカトリーヌ・ドヌーブ」について

 ピエール・ノットの作品「私もカトリーヌ・ドヌーブ」は2007年4月「シアターχ」で、2008年2月「池袋あうるすぽっと」で平山勝の演出で上演された。その詳細についてはこのサイトでも以前取り上げている。それではなぜ今再び取り上げるのかと言えば、それはフランス語通訳・翻訳の人見有羽子氏の文書を改めて読み返してみて、これは全文を載せた方がピエール・ノット作品をよりわかりやすく紹介できるのではないかと思われたからである。そして、そこにはピエールと私を結び付けることにもなった今は亡き制作者も登場している。終演後の彼の満面の笑みも合点がいく。

以下 人見有羽子氏の全文である。

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「私もカトリーヌ・ドヌーブ」作/ピエール・ノット

                       フランス語通訳・翻訳 人見有羽子

「今年(2008年)の公演はキャストもずいぶん変わっての再演なので、ぜひ見比べていただくのも一興かと」というような芝居好きの心をくすぐる言葉を主宰の谷さんから囁かれ、日本初演から10か月後に再び「私もカトリーヌ・ドヌーブ」と向き合うことになった。さて、これが期待以上のサプライズだった。おそらく初演の時には、民間劇場部門のモリエール賞受賞作品という立派な肩書に、何かを理解しなくてはという気負いがこちら側にあったのかもしれない。あるいはシリアスな状況下に次々と挿入される澄んだ声のシャンソンに戸惑ったのかもしれない。観終った時に自分の言葉で作品を語るには消化不良感は否めなかった。

 ところが、今回は見えた。舞台上の登場人物の心象風景がくっきりと見えた。カトリーヌ・ドヌーブという絶対的にして甘美な虎の威を借りて自分のおぼろげなアイデンティティを支えようとする姉のジュヌヴィエーブ、母親がまだ母親ではなかった頃の歌手人生を引き継ぐかのように歌い続ける妹のマリー。彼女の自己確認は口を開いた皮膚の下からにじみでる赤い血。そして母親は思う通りにならない家族に間断なき小言の散弾を浴びせ、レモンケーキを焼き、娘の血だらけの下着を洗う。家族で唯一の男子、長男はといえばたまに実家に戻ったかと思うと映画の引用と母親の文法の間違いを指摘するときにしか口を開かず、ケーキの種にふくらし粉をひと袋丸ごとあけてしまう。文字にすると破壊的で悲愴感に満ちた家族の姿。しかし、舞台で目にする彼らは、力強く歌い、テンポ良く罵倒しあい、その過剰な不器用さゆえの滑稽さが切ない。手にはカッター、肉切り包丁、ピストル・・・あたかも死と戯れているように見えながら、聞こえてくるのは声にならない、もっと生きたい、もっと存在したいという切実な声。自分とは違う誰か、こことは違うどこか、言葉にはできない欲求をもてあまし、もがき、苛立ちをぶつける彼らは決してあきらめてはいない。むしろ、生に対する熱烈なラブコールにさえ思える。それほど今回観た舞台は演出にも役者の演技にも力が漲っていた。個人的な好みを言えば、母親役を演じられた山下清美さんの小気味のよい独特のセリフ回しが戦前のパリの下町女を演じて右に出る者がいないアルレッティを彷彿とさせ、ヌーヴェルバーグ以降の映画の引用が散りばめられた本作で、時代遅れの存在感をひときわ際立たせていたように思う。

 終演後、思わず谷さんの姿を探し興奮を伝えた。表に出ると頬を刺す冷気がここちよく、帰途につく足取りは軽い。そして、夜空を見上げながら、作者ピエール・ノットにブラボー!のメールを送ろうと決めた。

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※人見有羽子氏については日仏で活躍していらっしゃる方などで調べればすぐにわかるはず。

 

                                 2017 5/2       

75.「ポスト・トゥルース」

 周知のとおり、オックスフォード英語辞典が2016年を象徴する単語として「post-truth」を選んだ。その意味内容は、「世論形成において、客観的事実が、感情や個人的信念に訴えるものより影響力を持たない状況」ということである。その遣われた方も「ポスト・トゥルースの政治」という形でよく遣われたという。それは2017年も同様で、我々の意識変革がなされない限りこの状況は当分変わることはあるまい。「感情」も「個人的信念」も共に「単細胞的もの」から複雑に絡み合った総合的なものまで様々であるが、「単細胞的なもの」がやはり圧倒的に多い。その「単細胞的なもの」を刺激するかのように客観的事実を強引にねじ曲げて我田引水する向きもあるようだが、そのような営為からは将来につながる何ものをも生み出しえないだろう。要するに、自らの過ち、欠点を含めた自分自身を思い知る者だけが未来につながる道を見出すことが可能であるということである。それはは現実的な身近な例からもいくらでも引き出せることである。「信念」にかこつけた「思い込み」の類の行き着く先は、空中楼閣がやがて雲散霧消するのと同様である。何をどのように言おうとも、自己正当化と証拠隠滅を繰り返すだけのものには明日はない。やがて因果応報で自滅するというのが今までの実情である。それが合理的事実でもあり、客観的事実ともなりうる。現状を偽っている者、あるいは矮小化して感情的になっている者に将来の展望など実際に在り様がないのであるが、そのような者に限って大言壮語をはばからない。そして、大言壮語の多くは感情的言語で埋め尽くされている。それは「本体」の吐露と同時に実は別の「本体」を隠ぺいする半ばオートマ化された操作でもある。

 「ポスト・トゥルース」は限りなく「あまい」。そして、それは放っておけば隙をみて現れる。言ってしまえば、しだらな現象なのである。それに傾くということは内在的なエネルギーも衰微、枯渇しているという証にもなる。

 

                                  2017 2/24

 


 

74.「新年。何がめでたい」

 2017年、新年。「何がめでたい」と思うのが多くの「普通」に働いている人々の本心でもあろう。そこに、1%の富裕層とそのお零れにあずかる走狗の類、詐欺師の類は含まれないのは言わずもがなのこと。人々の「無関心」を滋養にして肥大化した「操り人形」は今やどこを踏み潰すかわからぬ様態である。踏み潰されて、喪失して初めて知るのが大方の実情であってみれば、とことん追い詰められなければ現状を知ろうともしないのは今も昔もさしたる違いはない。これから起こることは今まで以上にその繰り返しとなることは容易に想像できる。「想像する」ことと「占い算」とは違う、想像力の欠如がやがて人間脱落、人間失格へと否応なく導く。日々の世間の動きを見ていても、知らず知らずのうちに想像力を劣化させる方向に向かわされ、感受性は似て非なるものにならされ、情報は全体像を把握できないように操作され、群盲象を撫でるがごとき様相を呈しているということもよくわかる。群盲の残された唯一の全体像把握は想像力しかないのであるが、群盲同士の主張も喧しく、正鵠を得た想像力の「賜物」なども、根拠のない「占い算」のごとき扱いで、いつしか忘れ去られている。どちらにしてもどれを選び取るかで自己の生命に直接影響が出てくるところまできていることは明らかなのである。忘れていた、知らなかったはでは済まされず、それがそのまま自己の生死につながってくるのである。

 それこそ、「生か死か、それが問題なのである」。さらに言えば、自分がいかにあるべきか、あらざるべきか、それが問題なのである。しかし、現在ではこれ以上その問題にかかわる時間も、考えている時間もないということである。

 

                                         2017 1/2

73.70年を経て必然的に蘇った「オーウェリアン」

 現在の日本はジョージ・オーウェルが描くような全体主義・管理主義的社会の真っただ中にあるともいえる。70年も経ってオーウェルの描く忌まわしき世界は日本でも息を吹き返したのである。人々は「ニュースピーク」(新語法)や「ダブルシンク」(二重思考)を通じて認識が操作されているため禁止や命令される前に、政府の理想どおりの考えを持ってしまうのである。「ニュースピーク」によって言葉の意味も政府によって都合よく変質させられ原形は失われていく。さらに「ダブルシンク」(二重思考)よって、2+2は5にも3にも、同時に4にも5にもなりうるのである。要するに現実認識そのものがごく「自然な」自己規制によってうまく操作された状態となるのである。ダブルスピークは、平和を表す言葉で実は暴力的な裏の意味を表し、実際に表の意味を信じ込み自己洗脳していく過程でもある。ダブルスピークは矛盾した二つのことを同時に言い表す表現であるから「平和を実現していく」とは「戦争を実現していく」ということにもなるのである。要するに言葉を遣う者がその言葉とはまったく反対の意味を同時に言い表していることになるのである。そして、他者とのコミュニケーションをよりよくとる「振り」はするが、現実的はまったくコミュニケーションを目的としない言葉の連鎖なのである。実際に、連日繰り広げられている現実の「三文芝居」、「俄師による俄仕立ての俄芝居」の恐ろしき進捗(しんちょく)状況はその証左でもある。

 また、下層労働者の扱いも巧みである。酒、ギャンブル、スポーツ、セックス、人畜無害の小説、映画、音楽、ポルノ、ゲーム、このような「餌(えさ)」を与えておいて適当に放し飼いのようにして「飼っている」のである。早く子供を作らせ60代には死ぬように持っていく。彼らは総じて「判断停止」状態であるから支配階級にとっては何の脅威にもならない都合のいい対象なのである。

 「全体主義はもし戦わなければどこにおいても勝利しうる」とはオーウェルの悲痛な思いでもある。

 「戦う」とは、多種多様で、多岐にわたると考えられる。現在の自分ができることをすればいいのである。それは「思考停止」から認知症に至る過程を断ち切る第一の方策でもある。「戦う」というとすぐ武器を持って戦うなどはもはや短絡思考に過ぎず、無能の証ともなる。そういう意味も含めて「人生とは戦い」なのである。トリガー(引き金)は限りなく甘く軽くできているとは以前にも書いたこと。それは、引くと同時に自分の死をも意味する。

                               ー「どこまで」続くー

                                                         

                                 2016 12/9、12/17

 

※2016年12月28日付けの日刊ゲンダイ紙上でもジョージ・オーウェルの「1984年」から「ダブルスピーク」を引用し、阿倍政権の国民に対するアクドイ洗脳について書いていた。

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