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メッセージ

135.大谷翔平に想うこと

  大谷翔平については、5月9日にこのサイトの「五叉路」でも取り上げたが、日本人最多の32号本塁打放った7月8日に再び取り上げることにした。彼についての評価はすでに周知の通り、今更何を言っても陳腐であろう。今後も耳目を引く「ストーリー」を求めて様々なメディアが、彼を追い求めるであろうが、彼のスタンスは揺るぎないものであろう。彼についての驚嘆の声の中にも「がむしゃらな努力の結果、登り詰めた云々」などという言葉も見えるが、それは彼の領域にいる者たちを知らなさ過ぎる。彼にとっては、「がむしゃらな努力」、「登り詰める」などという言葉はまったく存在しないのである。そんな言葉で括ってみても取り留めもなく零れ落ちるだけであろう。言うまでもなく「ハウツー本」、「自己啓発本」の類の領域で捉え切れることではない。彼を見ていると、以前、橋本ルシアが言っていたことを思い出す、「フラメンコで生きるのではなく、フラメンコを生きる」。そう、彼は野球「で」生きるのではなく、野球「を」生きているのである。そこが他の者たちとは比較にならないほど違っているのである。名を成したアスリートからも「モチベーションが高く、圧倒的に違う」と言われるのも、そうしたことからくるのである。それは騎手のジョアン・モレイラにも通底している。彼は人馬一体という次元ではない「馬になっている」と言った調教師がいたが、その通りであろう。そういう意味では、大谷翔平も野球そのものに「なっている」のである。

 とにもかくにも、このような時代に、彼の存在は同じような領域にいる人たちの見事な存在証明ともなったであろう。そして、それは、最近の日本人に対するイメージ失墜にも大きな歯止めをかけたともいえる。

 

                                     2021 7/8

 


追記:後日、清原が大谷翔平について、「理解不可能、漫画的」などと言っていたので、一言付け加えれば、大谷翔平の真逆の領域にいるのが清原である。理解できないのは当然で、理解しようともしないであろう。それが清原のすべてである。しかし、このようにして自ら恥の上塗りをしていることに気が付かない者が多いが、無惨である。それは、どこまでも堕ちるしかない生き方なのである。自己の根幹部分の検証を怠った結果である。自業自得で、同情の余地はまったくない。                

 品性、品格という点でも、両者の違いは明々白々。

                                        7/11+

追記2:やはり大谷翔平は、日本にいなくて正解である。日本の野球評論家と称する者たちの「専門バカ」的なレベルの低さには毎度呆れ返るばかりである。当然、現役の選手、監督たちの意識も大方がこの程度なのであろう。先は見えている。

 

 実際、中田についての、長嶋、張本などの言動をみても、あまりにも思慮浅薄でオ粗末。しかし、これが彼らの今までの結果である。晩節を汚すというより元々の在り様がこの程度なのである。これ以上恥をさらすより静かに去るべき。それがファンに対するエチケットでもある。因みに、私は彼らのファンでも何でもないが。(8/25)

※アメリカでは殿堂入りした元大リーグ選手の野球解説者が、大谷翔平に対する不適切発言で今後の出演をすべて下ろされた。日本ではどうか、不適切発言の謝罪も中途半端なまま、今もってのうのうとどうでもいい講釈を垂れている。後々、この差はすべてに現われる。(8/21)

 

                                        

追記3:オリンピックのアスリートを見ていても、大谷翔平の領域、レベルにいる者は皆無である。中には、15歳の時の夢が10億円稼ぐことであったというから、もはや何をかいわんやなのである。しかし、15歳の時の夢が銭とは、何か恐ろしくなるほどみすぼらしい。遅かれ早かれ燃え尽きるか焼き切れるかしかあるまい。可愛げもない餓鬼の夢にいい大人がいつまでも付き合っている場合ではない。

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 追記4:案の定、そろそろ出てくるなと思っていたが、大谷つぶしの「手段を選ばぬ」者ども、見れば、やはり然もありなんという愚者の風貌。しかし、この不快感は日本人ばかりではない、アメリカにおいても同様であろう。このようなことが繰り返されれば、アメリカ球界も自滅の方向は免れない。そうでなくとも日米ともに球界は衰退の傾向が強いのである。大谷の登場で活気づいた好機をうまく持って行けなければ衰退は早まるだけである。

                                         8/29

追記5:大谷翔平は「スタープレイヤー」のコンセプトを見事に変換してしまった。実際、長嶋、王などのコンセプトではもはや大谷翔平は語れないのである。いくら知ったようなことを言ってみても虚しいだろう。言えば言うほど、自らが影の影であることを証明しているようなものである。

                                         10/10

追記6:ドラフトで登場してきた高校生が、「日本を背負う選手になりたい」と言う。この時点で、もうすでに大谷翔平の領域から遠ざかっている。このような志向性では重くなるだけで、勝利の女神は決して微笑むことはない。やはり、大谷翔平に続く者は、暫らく登場しないのであろう。100年に1度登場するかしないかの選手なのかもしれない。

                                         10/17

追記7:MVP(選手間) おめでとう。しかし、それを取るために野球をやっていたのではないあなたにとっては、それほどの問題でもないのであろう。すべてにおいて「リキミ」のない滑らかな動きに見える自在さは、「体」だけというアスリートとは別次元である。語る言葉も、今までの選手とは違う。その感性を「見ていて」も、やはり感性とは、知性に裏打ちされているということを改めて確認できる。