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五叉路

154.つれづれに一言で片づければ(29)ー36件ー659件

〇我が家の鸚鵡(オウム)は、なぜか変なものをよく覚えている、「WHO」の人間が画面に出てくると、Who are you   go  away  who are you  go away  と繰り返す。それ以外にも、この鸚鵡に「クズ― 、ライアー(liar)、オオうっそー」などと繰り返される者たちもいる。時々、親し気にソダシ、ソーダシ、などという時もあるが、稀である。ソダシとはピュアの意味であるが、何気に子供のように怖いくらいによく覚えていると感心することがある。

                                                                                                             6/23

〇この期に及んで、国会でダラダラと居酒屋談義、思い出話!? 犠牲者の数より金の数しか頭にない証左。何をやっても行き着く所まで行かないとわからないとみえる。肝心な時に立ち止まれないのは、自分たちの損得勘定しかないからで、国民の安心安全など二の次であるということである。「コロナ禍に勝って」などとは夢のまた夢、これは全滅もあり得る負け戦である。

 各々方、覚悟はできているか。すでに有無を言わせず突撃態勢に入っているのである。

 今後、メディアに是非お願いしたいのは、オリンピックだけを無理やり盛り上げ、「不都合なこと」を隠すのではなく、淡々と「あったこと」をすべて伝えてほしい。それが、犠牲者ともなる視聴者に対するせめてもの罪滅ぼしであろう。

 今回、 オリンピックマフィアの実態と、そこに群がる有象無象の姿が実に鮮明に浮き彫りになった。その中には晩節を汚すことになった者たちもいたようだ。

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〇「宣言や重点措置解除後、大声なしの場合、定員5000人までの施設では満席とすることが可能となった」という文言を見て、思わず、笑止、失笑、噴飯である。5000人集まって「大声なし」というのは、葬式会場でマイム(無言劇)でもやるのか?水を打ったように静まり返った会場で黙々と競技は行われ、観客は歓声も上げられない、喜怒哀楽を奪われたような観客は競技が終われば、そのまま静かに会場から退出する。これがあり得るならかなり不気味である。「5000人集まって大声なしの場合」などという想定自体が現実的にあり得ないのである。こんなことを真顔で言っているのなら、これだけで現状は見るも無惨なことになるということである。最前線基地の医療現場が今どうなっているのか、最近では具体的な情報を急に流さなくなった。どうしてだか想像力豊かな人はすでに察しがついているであろう。前統合幕僚長の言う通り、危機管理はすでに失敗しているのである。後は場当たり的に突き進み、死者10000人以下で何とか収まりそうだくらいなことしか考えていまい。彼らに幻想を持てば命はいくらあっても足りない。彼らはそういう人間なのである。彼らの言う通りにすれば、どうなるか、その結果はすでに出ている。

                                    6/17

 

〇経済的要因で現実を見定められない、見ることさえできなくなっているのが現状である。あろうことか、それを時代錯誤も甚だしい呪術的信念でカバーしようとするからさらにおかしなことになる。だから、どのようなことを聞いても神がかり的な答弁になるのであろう。これでは教祖の訳の分からぬお告げを聞いているようなものである。思い込みばかりが先行し、何もかもが「質疑すり替え」、「脅し」、「やっている振り」で埋め尽くされる。ここまで現実と乖離すれば勝敗はすでに決まっている。やはり第二次世界大戦中のインパールでの現状把握ができていない思い込みだけの無謀な作戦による「大惨事」とも重なる。現実を正確に捉えることもできず、「エゴと執着の塊のような人間」があらゆる場面を仕切り、いざとなれば「他人を蹴落として生き延びる」。実際、インパールを仕切った牟田口はさっさと逃げ帰り77歳まで生き延びた。この男に付き従った多くの者たちは無惨な状態のまま白骨化していったのである。2021年7月以降、また人間的な心優しき人ばかりが死ぬのであろう。

 オリンピック開催日までにコロナ禍は収束するかという質問があったが、驚き呆れた。こんな都合のいいことを考えているから、危機管理がゼロなのである。もっと現状を冷徹に見なければ、このコロナとの戦は「大惨事」を引き起こしかねない。何をどのように粉飾しようが、要するに、「戦場」でお祭り騒ぎをしようとしているのである。G7でオリンピック開催の支持も得られた?社交辞令である。それで?誰でも言える美辞麗句を述べ立てることが「代表」の責務ではない。

                                                                                                               6/13

 追記:日本列島は世界の恰好の実験場になっているということについては以前にも書いたが、今回の新型コロナウィルスについてもそうである。それもこの程度の危機管理レベルでオリンピック開催がどうなるのか、特にフランス、アメリカにとっては貴重な第一級のデータとなることは言うまでもないこと。

〇「偏向報道」、「バイアス」という言葉が、何かと言うと気の利いた言葉として、半可通の間で飛び交っているが、言っていることは、ただ「偏向報道」、「バイアス」と言っているだけで、どこの部分がどのように、どの程度「偏向」しているか、あるいは「歪み」を生じているか、何をどのように「思い込んでいる」かが全く指摘されていないのである。ただ「赤」だの「黒」だのと言っているだけで、これでは話にもならない。敢えて取り上げる程の内容でもないが、このような言葉(スタンプ)で片づける者たちの偏向具合、バイアスを逆に厳密に分析したくもなるのである。しかし、分析するまでもなくそれに関する事例は腐るほどある。

                                     6/12

 

〇特任教授、客員教授とやらの多くは元官僚というのが多い。前職との「つながり」が強い者はやはり言っていることの切り口も甘く、必ず、肝心なことは避けるか外す。概して、特任教授、客員教授とは「御用学者」の予備軍といってもよいだろう。前職との「絆」を断ち切らない限り、いつまで経っても彼らには自由な真実探求の道は閉ざされたままである。実のところ、事実を事実として明解に言及することすらできまい。もっとも、その「絆」で商売しているという確信犯的な者については今更何をかいわんやである。しかし、無様である。

                 ー福島の汚染水処理の問題の取り上げ方についてー 6/11                

〇「今、マスクを取ると逆に恥ずかしくなります」とは「街の声」に出てきた女性である。そう、人間の恥部とは、実は顔なのである。多くの人は、それとは知らず恥部をさらして歩いているのである。テレビに出ている人間とは、その恥部をさらに拡大させているということである。だから、非常にわかりやすい。どんなに偽ってもすべては顔に出ている。要は、言っていることではない、やってきたこと、やっていること、すなわちそのすべてが顔に出ているということなのである。ある有名な政治家が「彼は、顔が気に入らない」と言って役職につけなかったことは有名な話。もちろん、それは単なる顔の美醜ではない。スマホ片手に前も見ず、人の顔も見ないのでは何が起きても不思議ではないのである。スマホが出たついでに、以前は、公衆便所そのもののようなコメントが多かったが、最近は、公衆便所の落書き程度のようなものも見かけるようになった。

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〇オリンピックに出場する選手を見ていると、つい本当にあなた方はスポーツが好きなのかと聞きたくなる。苦しそうな顔、悲痛な顔をしている者が多いからである。誰が頼んだわけでもない、そんなに苦しければやめればいいだけの話である。わかりやすく言えば、大谷翔平と比較すればよくわかる。一方はプロであり、他方はアマチュアだからなどという利いた風な次元の話ではない。要するに、自分が選んだスポーツを本当に愛しているかどうかである。イチローもそうであるが、大谷翔平も野球を愛していることはよくわかる。大坂なおみの「うつ病」は、彼女のテニスを愛することとは全く別のことに起因する。その原因も明確である。 

                                      6/9                                                                                                                     

 

〇「世論は間違っている」、「そうだな、竹中、自民党が政権取っていること自体が間違いだもんな。その中に入り込んでさんざん甘い汁を吸っていた奴も、当然間違っている」、「ところで、お前、呼ばれもしないのにテレビに出てるが、金払って出てんのか?」、「おおっぴらに税金使って、やたらとテレビに出てる奴もいるけど、実際は何をやっているのか全く不明。テレビに顔売っておけば何とでもなると思っているのであろうが、すでに、それ自体がズレている。万が一それに乗せられれば、やはり世論は間違っているということにもなる」、「しかし、今じゃどんなアホでもお前たちのことは見透かしているぞ」、「金まで払って出てきて、逆効果だったな、そんなにオリンピックにすがって、何かやばくなっているのか?」「同じ穴のムジナがあっちこっちで吠えているから実にわかりやすい。フェイスブックじゃないが簡単に関係図が出来上がる」、はっきりするから、そういう意味では、どんどんやってくれ。

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〇「専門家」もようやく気が付いたと言うよりも、いつ切り出そうかと思っていたと言う方がよいだろう。これで、最悪の事態になった時に、「我々は、専門家のご意見を伺いながらできるだけ安心安全を目指してやってきましたが、このような事態になってしまいました。」という逃げ口上は通用しなくなったということである。要するに、すべてを「専門家」に責任転嫁することは、これでできなくなったということである。それでも、現状の問題から逃げ果せるかのような方便として、「先生のおっしゃっているのは医療の問題」などと、人の命は二の次と言っているに等しいことを平然と言う、また、都合が悪くなれば、「専門家」の見解を、今度は「自主的研究成果」、「非公式な見解」などと歪曲、矮小化し、とにかく「突っ走ろう」(これが怖い)とする。まったく話にもならないことを「やっている」だけということである。これは「政治」でも何でもない、単なる低次元の詐術でしかない。マキャベリストを自称する者(?)が、「おれおれ詐欺」のレベルであったということである。実際、聞き取りにくいノイズばかりのエンドレステープを繰り返し聞かされているような、それも何を言っているのか不明な、答弁になっていない誇大妄想的な希望的観測ばかりである。これで従順に従うのはカルト集団か、愚民だけであろう。要するに「普通」ではないということである。

※いつの間にか文字化けしている箇所があった。??? バージョンアップ?肝心なところが使いにくくなるだけ。

後日、「専門家」も了承したので、観客も入れてオリンピック開催に突き進んだが、このような事態になってしまったという言い訳が成立することになってしまった。この政府公認の「専門家」もさぞかし圧力をかけられたのであろう。異を唱えていた政府案を難なく了承してしまった。最後に「それでも普通ではない」と独り言ちたかどうかは確認できなかったが、やはり、これは「普通ではない」のである。それが正解だと思った方がいいだろう。

                                       6/6ー

 

〇ナニワの「日本城」には良い「城主」(坂本篤紀)がいる。こういう「城主」が増えればもう少しましな世の中になるのではないかと思われる。

                                                                                                   6/3

                                                                                                                              

〇自分がけたたましい笑い声を上げているだけの芸無しお笑い芸人、そのバーゲンセールなのかと思われる程どこにも顔を出してくるお笑い芸人たち、ただうるさいだけである。結局のところ、彼らを使う者たちとは安物買いの銭失いになるだけなのだが、実際にはそれだけで済むまい。ほとんどピンボケ世界でしか成り立たない異様な領域である。私が社長であったら自社のCMには絶対に使わない。あまりにもマイナス面が大き過ぎるからである。彼らは、間が持たないとすぐにつまらぬ安手の反応でごまかし、小賢しいことばかりで自らが爆笑して、その勢いで笑いを誘っているだけ、見ている方も見ている方で何がおかしいかもわからず、笑わにゃ損損とばかりのバカの笑いである。すべてが小細工、小芝居、怪しげな造語で埋め尽くされているからうっとうしいだけなのである。それはそのまま政治屋さんたちとそのパラサイト達とも重なる。だから、家のテレビは必要な時以外はほとんどサイレントなのである。

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〇大坂なおみの件もそうだが、偉そうな興行師の類に任せていないで、アスリート主導で大会を行えばいいだけのことである。オリンピックも然り。どんなに恰好をつけても、オリンピックなど金メダル候補が何人も欠席すればそれで一挙に精彩を欠き、見向きもされなくなり、衰退の一途となる。全米オープン、全仏オープン、全英オープン、その実態たるや今のオリンピック同様、利権に群がり、貪る山師、興行師のやりたい放題であろう。もうそろそろすべては解体、再構築の時期なのである。大坂なおみのことを何だかんだと書き立てているが、すべて枝葉末節である。

 

 さらに、身もふたもない言い方をすれば、人の褌で相撲をとって身過ぎ世過ぎしている者が、何を勘違いしているのか?アスリートが不在になれば、すべてはそれで終わりなのである。角兵衛獅子の子供のような者たちを必要以上に追い詰めたら、まともにやることもできなくなるのはわかり切ったことである。「躁うつ症になった」?、前にも優秀なアスリートにあったことであろう。彼らは全身で拒否反応しているだけなのである。組織自体の検証が必要であるにもかかわらず怠った結果である。どこもかしこもまともな大人が不在になって久しい。やはり、解体、再構築の道しかあるまい。

 

 

                                     6/1ー6/3

 

〇右であろうが左であろう全体主義というのは、カルトなのである。それは、「何らかの強固な信念(思想)を共有し、その信念に基づいた行為を熱狂的に実践するように組織化された集団」という意味でカルトなのである。現実的に、正確に見定めれば「共産主義国」などどこに存在するのか?実質的に皆無である。共産主義国と称する反民主的な全体主義国、すなわち、「カルト国家」が存在しているだけである。自由を恐れることなく、愛せる者にとっては、左も右も関係なくカルトとはまったく無縁である。言ってみれば、カルトとは「自由であること」に恐れをなした、思考の展開を停止させた集団なのである。

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〇IOCの「意図説明」?彼らの意図など充分過ぎるくらいわかっている。これ以上恥の上塗りはやめた方がいい。今、オリンピック開催を望んでいるのは、どのようなもっともらしい理由を上げても、それに巣食う者たちと利用されている者たちだけであるということである。「いや、楽しみにしてる」って?それは、もはや利用されている者の証にしかならないだろう。聖火ランナーが提灯ランナーにしか見えないにもかかわらず笑顔で手を振るマルチタレントのような「女優」に興ざめするのも無理からぬことである。この状況下で、もしオリンピックが「持たざる者」の楽しみであるなら、「持たざる者」の唯一の「強み」である想像力はすでに失われてしまったことを意味する。それは、売買の対象でしかない奴婢に自ら成り下がったということである。

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                                                               〇ゲームと漫画とそれに類するものなど、それらによって思考回路の基幹部分が侵食され、形成されてしまっているのであれば、後は何を読んでも同じで、深まることはあるまい。言ってみれば、感動そのものも安っぽいのである。実際、人生を変えるほどの感動はあるまい。単細胞的に突き動かされ続けているだけでは、場合によっては、自らの位置に気付く間もなく、断崖絶壁から落下中ということにもなりかねない。何事についても陳腐な、手垢のこびりついた類型的言語、流行り言葉で括って、したり顔の者たちも多いが、一言で片付ければ、愚民政策にまんまとハマっている者たちということである。時折、顔は見えぬが、穴の深みにハマった者同士の罵り合う声が聞こえてくる。彼らには「自分自身」があるようでまったくない。すなわち実質的に自分の意見、見解というものがないのである。他者によって作られた「もの」を「自分自身である」と思い込んでいるに過ぎないからである。それは、自分自身の「解体作業」を何回も経て、さらに自己を鍛え上げてきた者とは本質的に異なる。その言動を見れば、その差は歴然としているのである。千数百年以上前の「真偽顛倒 玉石混交」という言葉も、今尚揺ぎ無く色あせることはない。どちらにしても、真贋の区別もつかないようでは、本当のところ、自らのより良き方向は見定められないということである。

                                  5/20

〇何でこのような状況になっているのか?要するに、現実が見えていないということに尽きる。自分だけは現実が見えていると思っているのであろう。しかし、見ているようで実は現実の正確な様相はまったく捉え切れていないと言ってよい。もう少し言えば、現実は受け身ではほんとうの姿は見せないということである。最近でも、「さざ波ツイート」で炎上した御仁が問題となっていたが、この程度の者がざらにいるのである。現実が見えていないにもかかわらず、自分は現実を見通しているかのごとくに思い上がっているから「死角」ができ、かくも愚かしい失態を繰り返すのである。さらに「死角」というものは自身の選び取り方、身の処し方一つで自身の中で拡大、歪曲するのである。そして、その死角には何が入り込むかわからないというのが実情である。世間一般では、「頭の良い者が理解できないわけがない」などという「幻想」が行き渡っているようだが、それは誤りである。却って「頭が良い」故にドツボにはまることもある。「頭の良い者」あるいは「有名人」などという者たちが現実を明確に見据えることができているかどうかは、我々自身が常に問いかけねばならないことでもある。況んや、権力の中枢にいた者では脳内がどのように「化学変化」してしまっているかわかったものではないのである。金(ゴールド)のように王水にしか解けぬものであれば明快であるが、大方はイミテーションゴールド、すぐに溶解変質し「本来の姿」さえ本人にも覚束なくなっているのが実情であろう。実際、その例は枚挙にいとまがあるまい。

 このどさくさに紛れて、また改憲談義である。呆れ果てて、呆れもせぬ。国家神道として、世界の頂点に立つことを夢見た挙句に、戦後、GHQに葬り去られ、その後何かにつけて「押しつけ憲法」などと現行憲法、戦後体制を否定し続け、自主憲法制定が必然的流れとばかりに騒いできたのは、この神社本庁とその周辺である。一国の民族宗教の範疇を出ない、それも自民族中心主義の信奉者の意向で戦前回帰を目指すというのは極めて危ういことである。それも悲願のようであるから、時代錯誤も甚だしく、負への逆走という意味でもやばい。国教として庇護され援助された時期のことが忘れられず、夢よもう一度というところであろうが、国民の実情とはかけ離れている。憲法が時代の実情とそぐわなくなっているということをよく言うが、誰が分析した「時代の実情」なのか?道路交通法レベルのことを変えれば済むことを御大層に憲法まで持ち出してくるにはそれなりの理由があるのである。煎じ詰めれば、「自分たち」の戦前回帰の悲願に合わせて根本法を変えようとしているということ。それがすべてで、そこには、「時代の実情」も「国民の実情」などもまったく関係ないのである。そもそもがやろうとしていること自体が、逆行性健忘症状態での歴史的退行で、再び危機的状態を作り出す可能性の高いことをしているのである。それは人類に対する背信行為にもなり、やがて絶滅危惧種となってもおかしくはないという話である。このコロナ禍の対応を見ていてもわかるであろう。紋切型の美辞麗句、勇ましい恰好のいいことばかり言っているだけで現実をまったく見ていない「大本営発表」と何ら変わるところがない。このオリンピックでまた何人の者が殺されることになるのであろうか。

                                                                                                                    5/13

〇大谷翔平のプレイ、動き、表情を見ていると、ファシスト的要素も世俗的ずる賢さも微塵もない。野球(一つのもの)を愛するとはどいうことなのかを自在に体現していると思われる。「野球小僧」などという愛称にもその一端は現れているが、特に、このような世の中では、様々な要素が奇跡的に重なり合わない限りあり得ない存在でもある。まさに天の配剤。大谷翔平に救われるのは日本人ばかりではあるまい。

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追記:後日、大谷翔平は快投に続き、今度は外野手もやり快刀乱麻の「三刀流」となってファンをわかせた。「神の領域」「すごすぎ」などという感想の他にも、金銭がらみの駆け引きのような心配、体調を気遣っている風な類のものもあった。しかし、これがこの領域にいる者の常態なのである。多くの者が忘れ去っている世界である。(5/13)

            

〇「天の与うるを取らざればかえってその咎めを受く」、すなわち、現状は人災だということである。すでに好機を逃してしまったのである。

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〇回帰するようにいつの間にか聴いているバックハウスとアルゲリッチのピアノ曲。最近では、モデルかピアニストか区別がつかないような、以前にはなかった若手の女性ピアニストも現れているようだ。たとば、ウズベキスタンのローラ・アスタノヴァ、天は二物を与えているのである。ただし、日本ではいろんな意味でこうしたピアニストは誕生しないと思われる。みごとな肢体と拮抗し合いながら奏でられる音は今までとはまったく違った趣がある。そう、彼女も言うように、リストもショパンも自由で情熱的なロックスター、ファッションスターだったのである。決してかび臭い博物館の片隅でありがたがられるような音楽ではなかった。私自身も「クラッシック音楽」を高尚な特別な音楽などと思ったことは一度もない、それこそ息をするように聴いていただけである。今日もまた、白髪を振り乱して奏でるアルゲリッチのピアノ演奏と「ピアノの鬼」が奏でるピアノ曲が終日流れていた。できれば誕生日に友人がくれたバックハウスのLP版で聴きたいのであるが、なかなかそこまで緩やかに時は流れない。

                                      5/5

〇インドでは、現在、コロナの犠牲者の遺体を空き地のような火葬場で薪を使って火葬している。この国では、「火葬」に必要な薪を買うお金も充分にない人々は、焼け残った遺体をそのままガンジス川に流すということを以前から行っていた。焼けてはいるがまだ原型をとどめた遺体が流れているガンジス川のほとりの一方では結婚式も行われていたのである。しかし、今回のコロナ禍では、その犠牲者は半端ではなく、今後も増え続け、火葬場の駐車場まで使って次から次へと遺体を焼く炎が上がり、途切れることがなくなっている。これは決して対岸の火ではない。現在、日本では病院に入院することもままならない上に、場合によっては火葬場も順番待ちと聞く、冷凍保存もできなければ、やがて広場、空き地で火葬ということにもなりかねない。死体を焼く臭いまで日常生活の中に入り込んでくるということである。日本の「民」もインドの2億の下層民と同様のことにならないとは言い切れないのである。オリンピックの開催中、「あの煙は?」と問われて、「野辺の煙にて むなしき空の煙と成りけん」などと悠長に答えてはいられまい。

                                       5/4

 

〇日刊「御用日報」の「御用聞き」兼「ジャーナリスト」の田崎何某が、ごく普通の突っ込んだ「指摘」、「批判」に対して「下種の勘繰り」と言ったそうだ。そう、「批判」、「指摘」が的に近ければ近い程、必ずと言っていい程、自己の正当性を誇示するために、彼らは好んでこの表現をつかう。この御用聞きは「下種と鷹とに餌を与え」で、自らが「心付け」を頂いて動いている下賤の身であることを忘れているのであろう。「ご主人様」の立場に立った物言いであることは言わずもがな。三浦何某なども同類で、「おまんまの食い上げ」にならないためには何でも(主に、「すり替え」、「ねつ造」)する御仁たちである。今後も、この種の者たちは後を絶たないだろう。それは、そのままごく自然に「マッドなもの」に移行するという次のステップの怖さも秘めている。「マッドなもの」に移行している例としては、慈恵医大の大木隆生、「手術待ちで死ぬ人もいますよ、ザッツザライフ」と平然と言えてしまうこの医者をみていると、戦時中の人体実験を喜々としてやっていた軍医たちを彷彿とさせる。マッドサイエンティストの言動そのままである。「神の手」などと称されていると紹介されているが、「神の手」などと言われているのは他に何人もいるのである。外科の場合は指先が器用、工作、裁縫がうまいかどうか、要するに技術的なことが主でそれ以上に思考が深まる領域ではないので、何を言い出すかわからない医者も多いはずである。だから、簡単に利用されていくのである。実際に、スガとはすでに面接している。言ってしまえば、専門バカの類で、その見解は参考にもならないどころか、真に受けたら殺されていても感謝するという事態になる。この手の医者の存在そのものが、基礎レベルでの研究不足、根幹領域での思考鍛錬の欠如が致命的であることの証左にもなる。「神の手」と「悪魔の手」は紙一重であることを忘れないことだ。むやみとありがたがっているとバカを見るのは患者の方である。

                                                                                                                  

                                                                                                                           5/1

〇だらだらと無意味なことを!

 臆面もない無能な者たちを選んだ責任は大きい。どのように言ってみても、「言っていること」ではない、「やってきたこと」がすべてで、それ以外には何もないのである。その点を明確におさえておかないと、判断を誤る。四六時中スマホ片手の「AIモドキ」では、すでに何事についても無痛症気味になっている可能性もあり、肝心なことも見落とし、適当に言いくるめられているということもある。「AIモドキ」のアルゴリズムでさえすり替えられていることに気づかず、やがて静かな転落、人知れず自爆ということにもなりかねない。

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〇為政者(特に政権与党)の言動を見聞きしていると、先進国とはとても思えない。やはり実質的にかなりの後進国と言った方がよいだろう。どこをどのように取っても、その場しのぎの場当たり的な言動ばかり、それで通る(多数決にせよ)、済むと思っていること自体に致命的欠陥がある。このようなことがいつまでも許されるなら、自由の意味すら分からぬ、目、耳、口さえも閉ざされた無痛症の民の「しだらなき独裁国」と言わざるを得なくなる。日本が民主主義国家だと思っているのは、単なる誤解なのである。

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〇バッハの言いぐさを聞いていると、ここまで強硬に主張できる背景には、やはり黄色人種の世界だからという前意識が明確にあるのではないかと思われてくる。危ないとわかっていても「経済優先」で、強引に強行しようとするその言動、姿勢は白人種の世界では通用しないことはわかっていると同時に自らを切ることにもなるから避けるのである。要するに、それはもっともらしい言説とは裏腹に、白人種ではない黄色人種であるから原爆を落とせたということと通底しているのである。白人種の世界で果たして、同一の状況になったとしても、同様のことができたかどうか、それは不可能であろう。いつまでもオメデタイ極楽蜻蛉のような状態で、自ら黄色人種であることも忘れて、白人種と同一化していると、ものを見る時に生じてくる歪みにも気が付かないことになる。

 この人間もまた、どんな綺麗ごとを言っても、「後は野となれ山となれ」の一派で、後のことなどどうなろうと知ったことではないのである。目先の利権、権力欲に突き動かされているだけとも言えるが、後のことを考える能力すらないのである。共通しているのは、彼らは自らの目的のためなら、「どのようなこと」でも言うが、質疑応答はまったくできないということである。実際、質問に対する答えになっていないのがほとんどであろう。 

 

 この状況で、東京オリンピック、つくづく愚かである。さらには、この地震大国で、しかも老朽化した原発の再稼働、オツムの具合は大丈夫なのか?ここまで来ると、やはり黄色人種は、絶滅危惧種なのではないかとさえ思われる。それも、しだらなき独裁国の無痛症気味の民では、ある日突然、立ち上がることもできず終焉を迎えることになっても不思議ではない。                   

                                 4/24ー4/28ー

 

〇あなた方の(主に為政者)の考え、見解などは聞いてはいない。具体的に何をしたのか、それがすべてである。「精査中」、「協議している」、「スピード感を持って行う」、「緊張感を持って行う」、国民がわからぬところで何をしているか知らぬが、それらが具体的行為、結果を伴わない以上、何をしていようが、何もしていないに等しい。実際、私利私欲に関わること以外は何もしていないであろう。やっている振りばかりで、振りにも詰まっているのが偽りなき実情である。たまには、形振り構わず命をかけて事を成してみよと言いたくもなる。よくこんな小細工ばかりでやっていられるものだと呆れ返っている。後進国だと思えば然もありなんと思われるが、これでは先のない後進国である。そのような実情も見据えることなく、何者かに踊らされているがごとくに何かと言えば「明るくポジティブに生きる」ことを唱和する者たちとは一体何者なのか、何か違和感以上に異様なものに見えてくるのである。その内に、その違和感さえ感じなくなった時がほんとうに最期なのであろう。ネガティブなものを見据えるからこそ、真にポジティブなものが宿ることを忘れているのである。ネガティブなものを見ないことにする姿勢からは、永遠にポジティブなものは生まれない。何となくわかったような気にさせる言葉には落とし穴が幾つもあるということである。

                                   4/22

 

〇言うまでもなく、コロナウィルス、放射性物質に対しては徹底的に合理的な判断、対処が求められる。外交戦略、政治戦略などには有効性もあるファジーなことは全く通用しない。そして、不明なことは不明としなければならないということである。危機管理能力の欠如を希望的観測でごまかし、平然と「飲んでも大丈夫」などと言う者たち、一体何様のつもりなのかと思われるが、単に愚かなのか、山師の類であろう。山師の「山車」に乗せられて付いて行けば、バカを見るのは常に付いて行った者たちだけと相場は決まっているのである。今までの経緯を見ても、言うべきこと(批判)を封じ、提言も全く無視しているのが実情であろう。「批判よりも提言を」などと言うのは、何度も言うが、愚民政策の一環であるということである。それを忘れると、足をすくわれ、やがて全体主義勢力の思うつぼということになる。

                                     4/17

〇政府の「考え」、「感想」など聞いてもまったく意味不明。これでは、自分自身が信頼できる「専門家」の見解をベースに自分で判断するしかあるまい。コロナ禍にしても、「政府」も「都」も実質的に効果のある方策は何ら打ち出さず、「お願い」「脅し」の連続である。何のための行政機関なのか、もう少しきちんと仕事しなさいよと言いたくもなる。また一方では、8割前後が「開催すべきではない」と思っているオリンピックを強行開催するという。そればかりか、放射能汚染処理水を海洋放出することに決定したという。麻生太郎に至っては、「飲んでもなんてことはないそうだ」と言っているらしいが、それなら是非とも国民の前で飲んでもらおうではないか。これもまた「風評被害」などということを封殺する前段階の効果を狙ってのことであろう。言葉でさりげなくごまかそうとしているが、そうはいかない。この汚染処理水にはトリチウム以外にもヨウ素129(半減期約1570万年)、セシウム135(半減期約230万年)、炭素14(半減期約5700年)など12の核種は除去できないという。通常の原発は燃料棒は被膜に覆われ直接に冷却水が燃料棒にふれることはないが、福島第一原発は、むき出しの燃料棒に直接触れた水が発生しているのである。したがって、諸外国の原発冷却水の排出とは全く異なり、福島第一原発の放射能汚染処理水の海洋放出は、やはり大問題なのである。これについてどのような「権威」が問題ないと講釈しても全く信用できないというよりはウソとなるのである。「大丈夫だ」という者には、まずその汚染処理水を飲んでもらおう。福島出身の自衛隊上がりの議員・佐藤正久などもそうしてもらいたい一人である。彼の言動からは、福島県民に対する思いも、日本の大地、自然環境に対する考えもまるで感じられない。保身、選挙対策に派手なことをぶち上げることよりやることはいくらでもあるだろう。元職業軍人に言うだけ無駄だと承知の上で一言付け加える。

※ALPS(多核種除去設備)処理水と、通常の原発排水は、全く違うもの。ALPSでも処理できない核種のうち、11核種は通常の原発排水には含まれない。

因みに、IAEAなども国連の保護下にある自治機関で、国連の専門機関でもない。何らオーソリティに値するものではない。

 子供だましのような各国の汚染水排出量の比較表を出して、したり顔でにこやかに説明する、罪なことはもうこれ以上お止めなさいと言いたくなる。これはそんな卑俗な政治レベルの低次元の問題ではないのである。

「後は野となれ山となれ」を地で行っている者たちが跋扈し、その顔ばかりが、画面に浮き上がる。

                                      2021 4/15

 

〇「想像を超える感染の波」、またぞろ「想定外」である。想像力貧困なのか、危機管理能力が欠如しているのか、その両方であろう。これじゃ何をやっても負ける。負けても「想定外」と言って終わりなのであろう。確実なことは、そのしわ寄せ、犠牲を強いられるのは国民であるということである。何事についても、言うべきことをきちんと言わないと、どこに持って行かれて何をさせられるかわからないということである。

                                      4/12

〇ニューヨークは、以前から私の嫌いな街の一つである。最近では、黒人がアジア人に暴力を振るっている映像が流されていたが、同時にそれを見ていて何もしない者たちも映し出されていた。これもメディアが正確に伝えない実情である。「BLM」だけじゃない、「YLM」も必要なところであろう。かなり前にも、幻想を抱いてアメリカに渡った日本の若い女性が、通りがかりの白人に突然憎々し気に「ジャップ」と言われて、ショックで暫らく立ち直れなかったということがあった。アメリカにおいても然り、況や、全体主義国家、軍事政権下の国などに至ってはどこで何が行われているかさえもすべて不明で、不気味である。距離を置くのは当然。軍事政権下では具体的にどのようなことが行われるか、ミャンマーを見れば一目瞭然。

                                       3/31

〇力士が倒れて動けなくなっているのに、そのままにして勝ち名乗りをしている姿は異様であった。その後、今度は、行司が力士の足にからまって倒れ、土俵下で動けなくなっているのに、これもまたそのままにして、代わりの行司が出てきて勝ち名乗りをしている。この世界の実態をよく表しているが、やはり問題であろう。

 

〇またぞろ、男性というには、あまりにもお年な御仁が、「女性というには、あまりにも、お年ですが」などと述べて問題になっている。この御仁のことを「サメの脳みそ」、「カバの脳みそ」などと言って片付けるのは容易いことで、本質的なことを見逃してしまう。すなわち、先の大戦でごろごろいた職業軍人の精神構造と大して変わらないということである。要するに、文化の根底が欠如していて、その無教養さが自ずと白日の下にさらされているということである。我々は、この御仁を通して職業軍人のだらしなさを今現前で見ているのである。敢えて、かつての職業軍人としなかったのは、現在も変わらないからである。立法府がこのような者たちの「下請け機関」になれば、過ちを繰り返すだけで先はない。それこそ斉藤隆夫の「反軍演説」(昭和15年2月)ではないが、現実を無視して、美名の下に国民的犠牲を強いて、国際正義、道義外交、共存共栄、世界平和等々、雲をつかむような文字を並べたてる。そして、一旦そのようなことを許したら、政治家は死してもその罪を滅することはできないのである。

                                        3/28

〇前代未聞の聖火ランナーは走り始めた、見る人もいない、ゴールも定まらぬランナー、やがて知るだろう、つなげる火のないことを。騒いでいるのは浮かれ拍子と浮かれ者、その声々も今では遠のくばかり。それにしても、隙間だらけの何ともみすぼらしい、聖火リレーである。衣装もひどい、寝間着姿でゴミ出しに来た者が手を振っているような風情である。末代までも語り継がれる醜態である。すべてが現状と乖離して、負の因子しかないからこうなるのである。自業自得としか言いようがない。

                                        +3/31

 

〇ご自分で作った映画で、お気に入りの映画は何ですかと聞かれたタケシは、即座に次の作品と答えた。さすがである。タモリもタケシも、やはり格が違う。要するに、根幹部分で培われた質が違うのである。時代の流れもあろうが、彼らを乗り越えられる「芸人」は今のところ皆無。

 卒業シーズンに便乗して、番組「変成」を行うところが多いようだが、「報道特集」(金平茂紀、日下部正樹、膳場貴子)は別格として、「モーニングショー」なども玉川徹、青木理、吉永みち子などが消えて行くと、気の抜けたビール、寿司をわさびも醤油もなしにシャリだけ食っているようなことになる。それを「寿司」とは言わない。今後、どのような「ショー」を見せるのか?まだ寒いからといって、生ぬるい気の抜けたビールでも出したら、それがほんとうの最期であろう。(玉川徹は残るようだが)

 「今を時めく」と言われる若者の意見を聞くとは、もっともらしいが、論文の書き方だけは巧みで名医と言われる医者が実は診断も手術もろくにできないのと同様に、御大層な「肩書」、「評判」に粉飾されていても実際には「意識どん底系」の若者と何ら変わらない者たちの意見を聞いたところで何かあるのか。現状を見ることさえできない若者に媚びるということは、すなわち、現体制、既得権益側の現状の見立てに同調することにしかならない。

「今を時めく若者」などと担ぎ上げられた者たちに共通しているのは、その面白味のない言動を見てもわかるように、「痛み」がないのである。それも無痛症のごとく痛みがないから恐れ入る。その話の内容たるや、どれもこれも、大島渚あたりがいたら「要するに、面白くないんだよ」で一喝されて終わりである。

ついでに、危機管理のイロハもわからぬようなヤカラが、やたらと「煽る」という言葉を遣うが、希望的観測ばかりしていては危機管理はできまい。希望的観測が常態化している者は、外れれば想定外という言葉でごまかそうとするが、それはそのまま無能の証ということにしかならないのである。そんなことでは何をやっても勝算はない。

                                      3/27ー28

〇身過ぎ世過ぎは草の種、よろずの虫などを取って生業とする方がどれだけ心安らかでいられることかと思われるが、そうもいかぬ者たちが多いとみえる。そうもいかぬ者たちとは、煎じ詰めれば、取り付かれた者たちでもある。彼らの言葉は、しまりもなく、口からだらだらと垂れ流されているようなものだから、ずり落ちたマスクはまるでオムツようである。その内に、何やら異様な臭いまでしてきて、距離を置かざるを得なくなる。

                                       3/25

 〇四谷駅の地下鉄南北線の入り口辺りで、なぜか閑古鳥が鳴いている。カッコー カッコー、そのエンドレスな機械音を聞いていると、何とも複雑な気持ちになる。西欧では親しまれた鳴き声かもしれないが、日本ではどちらかと言えば、さびれた、もの寂しさを醸し出す鳥の声として一般的には感受されている。そんな鳥の鳴き声が、どうしてこんな場所で使われているのかと不思議なのである。そもそも私は、カッコウの生態も好きではなく、すぐにthe cuckoo's nest(カッコーの巣)を思い出す。すなわち、cuckooはcrazyを意味し、cuckoo's nestは精神病棟となる。時折、地下に通じる階段を下りながらカッコウの鳴き声を聞いていると精神病棟に降りて行くような気になってくる。そこで、通り過ぎる者たちも、まるで悪夢に登場してくる者たちのようにすべてマスクをして無言である。

                        

                                  2021 3/24