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五叉路

155.つれづれに一言で片づければ(30)ー36件ー695件

〇「あの人はブレなかったですね」、これは誉め言葉でも何でもなく、むしろ意味不明で危うい括り方なのである。ブレないことが、もし「良いこと」なら、ヒットラー、ムッソリーニなど独裁者たちもブレることなく素晴らしい者たちということになる。現在の日本でその言葉を遣うなら、問題となっている為政者を正当化させ、ゾンビのように生き返らせる呪文の一句ともなり得る言葉である。「あの人はブレない」、ブレないこと自体が「良いこと」なのではない。己のスタンスに従い、誠実に、なおかつ合理的に誰のために、何をなすべきかが明確にわかっている者が「良き為政者」ということであるに過ぎないのである。「ブレるブレない」だけで括るのは、不用意である。頑迷固陋もブレることはないが、それは決して「良いこと」ではあるまい。

                                 2021 9/26

                                  

〇繰り返される政治ショー、いくら金を使っても三文芝居、いつの間にか猿芝居、それも猿と一緒に、操る親方まで出てきてマリオネットに明け暮れる始末。また、そこで繰り広げられる山師の玄関のような口上を、その気になって、いっぱしの評論家気取りで舌を伸ばしたり、舌を鳴らす者たち、一見笑止なる様相ではあるが、詰まるところ、この政治ショーを仕掛けた者の手中にまんまとハマっているのである。出演者(当事者)自身がこのマリオネットの糸をどこまで切ることが可能であるか、どこまで切り続けることが可能であるか、それで、その先のすべては決まる。要するに、傀儡師の抹殺である。できなければ、何度でも解体、下野しかあるまい。支持者でも何でもないが、傍であまりにも無様に、頽れる者がいれば、つい手を指し延べてたくなるという心境である。

しかし、いまだに「反日」などという幼稚な言葉で括り何かすべてわかったつもりになっているタリバンの中の文盲衆のような御仁たちも多いようである。いやしくも先進国であるなら、ネガティブキャンペーンにしてもレベルが低すぎる。デマゴーグのデマゴギー程度なら、すでにお里は知れ渡っているから知ったことではない。そして、最近の共産党云々、ロシア、中国、北朝鮮など共産主義国でも何でもない。共産主義を騙る単なる全体主義国家である。右回りになった全体主義国家を左巻きのように扱う右回りには毎度噴飯する。もはや「反日」、「赤」などというネガティブキャンペーンは通用しないのである。中には、「なりすまし日本人」などという言葉で、政権批判する者をご丁寧に軒並み取り上げている者がいるが、この御仁もやはり「なりすまし日本人」の類であろう。なぜなら、誰かに頼まれたのでないのなら、この日本人観は病的であるからである。そもそも、本物は説明を要しないし、秘密警察の真似事のようなことはしないからである。

 

                                  2021 9/22

 〇しかし、改めて言うまでもなく、新自由主義は汚い。それはあらゆる分野に、その末端にも現れている。要するに、それはどのような美辞麗句を並べ立てていても、必然的に何でもありの目的のためなら手段を選ばぬ所業となるのである。実際に、現状は大衆に媚を売り、権力に媚びを売り、その本心を粉飾しつつ、我利、我執に囚われた者たちで溢れかえっている。スポーツでさえそうである。相撲、野球を見ていても一頃のような面白さはない。要するに、汚いの一言でしかない。だから、余計に大谷翔平の登場が際立つのである。そして、彼の登場もまた歴史的必然なのであろう。

 話は変わるが、「勧善懲悪省」?の復活?これではその内に、「魔法省」も出てくるのではないかと思われる。イスラム法ではなく、ムハンマドの教えをきちんと教える必要があるといっても、大方が文盲では、一部の者たちの都合の良い解釈でどのようにもリードされてしまうであろう。宗教がらみで、それにはさらに危険が付きまとう。異を唱えれば、「信心が足りない」の一言で、よくて「村八分」が落ちである。「信心が足りない」も「愛国心が足りない」もその遣われ方は同じで、本質的にも然したる違いはない。

                                     2021 9/19

 

〇北朝鮮がミサイルを発射させるたびに、突然、生気を取り戻す者たちがいる。軍産複合体に「帰依」する者たちと、それにすぐに乗せられる平和ボケした「タカ派」の単細胞改憲論者のグループ。もし、こんな黒かびだらけの常套手段に引っかかる者がいるとすれば、やはり、思考停止状態の怠惰な者たちと言わざるをえない。自衛隊派遣を「有害無益」と身を挺して言い切った中村哲さんの言動を信じるか、安全地帯で勇ましいことを言っている我利我利亡者の言動を信じるか、それは、火を見るよりも明らかなことである。コロナ禍の中で、オリンピックに気を取られ、「総裁選」という打ち上げミサイル付きのイベントの下馬評にその気になって関わっているうちに、また肝心なことは忘れ去られ、これ以上落ちようがない身の上も忘れ、保身に傾く。ワクチンを全面否定するつもりはないが、ワクチン接種の現状を見ても、申し込んでも受けられない者がいる一方で、もうすで2,3回接種した者たちもいるようである。接種した彼らが言うことには「人に感染させたくないから」、もっともらしいが、自分だけは助かりたい一心で、遅れてなるものかの一念でこの1,2年四六時中接種申し込みに明け暮れた結果でもあろう。それでも、感染している者もいる。そう、ワクチンを治療薬と間違えている者もいるからである。そして、その「副作用」もまだ未知数なのである。重症化するより未知数の「副作用」を取るというのも、自由な判断ではあるが、数年後、その「副作用」が出ても、法的にも任意接種なので、国はその補償の義務はないのである。

※補償の義務はないが、救済制度は設けられている。しかし、因果関係について国の審査が入り、因果関係があるという判断はほとんど出されないだろう、というより不明ということで処理されるのが実情であると思われる。実際、この新型コロナウィルスについての専門家なるものは皆無なのであるから、当然である。

                                  2021 9/16

 

〇新自由主義と新型コロナウィルスとは、動きも拡大の仕方も自己増殖、変異もよく似ている。

〇何かというと「闇」という言葉で括り、納得し、わかったような気分に浸っている者もいるが、懐中電灯でもいいから少しは周りを照らして見たら、その実態の片りんがさらに具体的に見えるはず。

                                                                                                                  9/12

〇竹中何某が、「10年間できなかったことを1年でやった」とスガの功績をたたえたということだ。これで何がわかるか?そう、「10年分の儲けを国からぼったくり」独り占めして、1年で稼がせてもらったということである。この男と同調することは0.1%もないが、もし、その「おこぼれ」にもあずかれなかった者が竹中のスガヨイショに納得しているのなら、噴飯、笑止、狂気の沙汰。

                                       9/11

〇魔法のように、詐術を使う者を「アホウ使い」と呼んでいる。すなわち、策士策に溺れる類である。それをご丁寧に読み解いたかの如くの言論人、メディア、それだけでは、やはり「アホウ使い」のパシリでしかないだろう。いくら裏事情に詳しいと言われても、所詮は加工された「裏事情」、そんなものをどれだけ蓄積しても何の役にも立たない。むしろ肝心なところから遠のくばかり、その様、離岸流に流されるがごとくである。現に、その標本は枚挙にいとまがない。

                                      9/9

〇ビートたけしの乗った車が、刃物を持った男に襲われたという。例によって例のごとくの各局、襲われたことだけを伝えている。その理由は、まだ不明だから出さないのか、わかっていても出せないのか不明であるが、その直前に出演していた番組の、たけしの発言が関係しているのは誰でも大筋のところ推定できる。しかし、この程度の発言でこれである。いかに加害者筋が追い詰められているかがよくわかる。今後、この加害者がどのように「処理され」伝えられるのか、伝えられないのか、どちらにしても想定外はあり得ない。

 案の定、加害者の動機は矮小化され、「誰も」が腑に落ちるような卑俗なものとなっているが、加害者の実態は不明、暴力団員ともいわれている。さらに、番組中にたけしが話したことも肝心なところがカットされている。その話にはアベ、アソウが登場していたはず、そして、スガを裏で操っていて、やりたけりゃ自分が出てきてやりゃいいじゃないか、などと言ったところは完全に消されている。共産党がどうのこうのというところだけが取り沙汰されているが、これも自主規制か、実際に圧力がかかったのか、このようなことをするからまた余計に圧力の大きさ、方向が具体的にわかってしまうのである。彼らが反社のメンバーを足のつかない三次下請け程度で「飼っている」のは誰でも知っていること。(9/6)ー現在のところ想定外はなし。すべて、然もありなん。

 最近のたけしの発言のどこが「暴走発言」なのか、ビクビクと自主規制ばかりしている内に、自由な思惟、発言の意味も分からなくなったようだ。「お友達」になれば優遇、そうでなければ排除。その内に、自主的戦前回帰か、悪い冗談にも限度がある。ある時は柔和に、またある時はもっともらしく国民の安心、安全を説きながら、時が来ればナチス礼賛のこの政党は対峙する者すべてに牙をむくことはすでに多くの者に見抜かれている。やがて、「ごろつきの最後の拠り所でもある愛国心」の有無だけに終始することであろう。

                                      9/5

 たけしを襲った加害者は、9/30現在、名前も顔も公開されていない。いかなる理由があろうともこれは異常である。多くの者が推定する通りで、公表されては困る理由があるということである。

 

〇「発信力の問題」などではない。内容の問題である。実際、内容がないから、現実を見ても見えず、正確な発信ができないのである。「誰がやっても難しい」状況などと、したり顔で言う者がいるが、それは常にそうであろうが、問題はそういうことではない。要するに、すべての責任を負ってなお断行する覚悟があるかどうかということである。限られた階層の中だけの右顧左眄ではこうなることは当然で、まったく話にならない。誰のために何を行っているかという根本原理が問題なのである。こんなことが問題になるほど堕落してしまっているということでもある。山師の徒党と化してしまった集団の行き着く先はもはや解体場しかないのである。全国津々浦々、「お祓い」には事欠くまい。

                                                                                                       9/4

 

〇すべてのワクチンが「任意接種」であるにもかかわらず、あたかも接種義務があるかのような風潮を作り出している危うい現状である。これで「副作用」が出ても(「副反応」などという言葉は欺瞞)、それが原因で死んだとしても厚労省、「専門家」などは決してワクチンとの因果関係は認めず、すべては任意接種で自己責任とされる。国や製薬会社は賠償責任など気にせず「ワクチン事業」をラクチンに進めることができるという寸法である。「ワクチン、ワクチン」と所かまわず吠え立てる者たち、ワクチンをコロナ終息の光に見立てる頓珍漢もいたが、その気になっていると、結果どうなっても自己責任なのである。中村哲さん、近藤誠さんレベルの覚悟した医者でない限り、大方が医療産業の従事者で、損になることはやらないということを忘れないことである。特に肩書ばかりのお立派な医者、専門家は一番危ない。製薬会社からの金の流れも気になるところである。

 今さら言うまでもないが、バラエティー系の報道番組などに毒されていると、まったく現実が見えなくなることは確実である。現実を見えなくさせるのが本来の狙いでもある「報道」番組ということである。基本的に、本当のところ、肝心な部分は何一つ伝えていないということである。

                                    9/2

〇何を聞かれても「安全を最優先にして、現状分析しながら対応するよう指示した」と言う。要するに、何も具体的に指示していないということである。ワクチンは治療薬ではない。打てば感染しないというわけではない。ワクチンに頼っている限り、変幻自在の新型コロナウィルスと永遠にイタチごっこである。こんなことは敢えて「専門家」に聞くまでもないこと。全滅させるか、イタチごっこを繰り返すか、後者を選ぶなら、まだまだこれからであろう。マスク生活は治療薬ができるまで続くということである。すでに医療崩壊しているというのに、ワクチン頼りで、「光が見えた」?天体望遠鏡でどこを見てつぶやいているのかといいたくなる。それとも「お告げ」でもあったのか?これでは、ウィルスが全滅する前に自分たちが全滅する。

                                    8/29

〇パラリンピックは、無観客開催から一変して児童を動員して開催することになったという。デルタ株で児童も安全ではないことがわかっているにもかかわらずこれである。これでは「学徒動員」と同様の「児童動員」であろう。詳しい説明もなく、ただ「ご理解下さい」、「ご協力下さい」などと言われて、その気になっていると自分が大切にしていたものが少しずつ壊され、取り返しのつかないことになる。

                                     8/28

〇今頃「明かりが見え始めている」とは、恐れ入る。やはり今まで真っ暗だったということである。それがわかっていての「オリンピック」、真っ暗闇の中「GO!GO!」で前進させれば、結果はわかりきったこと。その責任は大きい。そして、またバッハである。バッハを「無理やり」「引っ張り出し」て、自分たちに向けられる矛先を「かわす手口」は所詮、下僕、下女の浅知恵と言わざるを得ない。このリップオフ男爵を手なずけるには湯水のごとく税金が使われたことであろう。

                                   8/26

 〇「ご理解いただきたい」と繰り返すばかりの為政者、まったく具体的に説明もせず、一体何を理解しろというのか。ここまでしだらなく甘ったれていられること自体、不気味であるが、それ以上に極めて無礼である。さらに、いまだに「医療崩壊の危機」などと言っているが、すでに医療崩壊はしているのである。現実の何を、どこを見ているのか? 医療崩壊しているにもかかわらず、「お祭り騒ぎ」である。これをオカシイと思わない方がオカシイ。いわゆる「戦場」、それも敗戦色の色濃く出た「戦場」でオリンピック、これもかなり不条理だが、パラリンピックではそれにさらに強烈なブラックがかかってくる。やはり、常識では考えられないことなのである。非常識なバッハもそうだが、それに倣う者たちもすべて狂った阿漕と化している。アスリートたちも目の前の「金」しか目指せないのであれば、アスリートなどやめた方がいい。それ自体アスリートとしても、人間としても限界がある。この状況で「観客がいた方が思っても見ない力が出る」などとよく言えるな。いつまで甘ったれたことを言っているのか。それは、自らアスリートとしても、人間としても二流と言っているのに等しい。

 「東京コロナオリンピックの金メダリスト」、「あの時のメダリスト」などと、 後世語り継がれることであろう。

                                      8/25

〇タリバンを見ていると、イスラム神学生を主体とするアフガニスタンの宗教・政治勢力ということであるが、とてもイスラム教の信者とは思えぬ。ムハンマドもさぞかし歎いていることであろう。イスラムの教えの一部を都合よく解釈して、簡便なアジビラ(アジテーションのためのビラ)程度の内容で理解力も乏しい者たちをかき集めて作った武装集団としか思えない。そう、単細胞は小冊子程度の内容で吹き込めばすぐにその気になるものである。もちろん、金の流れも重要なポイントにはなる。

 再登場したタリバンの武装集団は、三国志の司馬懿に出てくる私兵のいでたちによく似ているが、中国の山奥で訓練でもしていたのか。

                                      8/22

〇名古屋入管の実態、この収容施設は現在のアウシュビッツ収容所か、何をやっているのか。このような非人道的行為は許されるものではなく、これは日本の汚点、日本人の恥さらしである。弁解の余地はまったくない。提訴されて当然である。自分のやっていることがまったくわかっていないのであろう。やがて、これもまた世界に知れ渡ることになる。

 あの手この手の「火消組」も登場しているようだが、すべてはお里が知れる。恥の上塗りはみっともないだけ。提出書類がすべて黒塗り状態、どこの後進国、独裁国家かと思わせる醜態である。やはり、頭が腐れば、どこを取っても同質である。

                                        8/21

〇希望的観測などとは、手垢のついたウソを遠くのまだ見ぬ明るいウソに置き換えるだけとも言える。特に、現実的であることが最重要課題でもある時に、その発言内容の希望的観測の占有率の高さは、もはや敗北の証、墓標にしかなり得ない。そんな流れの中での妙な明るさは不気味なだけで、人間の境涯からかなりズレているように思われる。ハレーションを起こしている中で、ひきつるように笑う者とは、狂気そのものであろう。「吸える空気のある限り、肺がいつまでも呼吸を止めようとしないのと同じように」未来のない現在を引き延ばすのは、やはり克服できない「本能」とも言い得るものなのであろうか。「克服できない本能」にまでなってしまったものとは、それが狂気に至る過程であることさえまったく感じさせないから怖いのである。

 巷間では、相も変わらず、愚行と謝罪の繰り返しが絶え間もないが、謝罪して許されると思っている方もオメデタイか、かなり愚かである。その愚行と謝罪、多くは案の定と思われる者たちばかりである。繰り返されること自体、これもまた狂気の一つの様相であろう。魔が差したなどといわれる酌量の余地がある者などは、実のところ、極めて稀である。

                                    8/18

 

〇野球選手の暴力事件、この男はアマチュアからその傾向はあったらしいが、それを「ヤンチャ」などという言葉で括っていつまでもその気にさせているから、こんなことが起きるのである。スポーツが人並み以上にできる程度で、何でも許されると思っている愚かな人間の一人である。顔つきにもすべてが現れている。どちらにしても、先のない集団、組織であることは間違いあるまい。大谷翔平も早くこんなチームから離れて正解である。

 後日、この男は巨人に入団したそうである。これで野球界全体の衰退は決定的となった。この男がうまくいってもいかなくても悪影響しか与えぬからである。こういうことをやっているからあらゆることに関して示しがつかなくなるのである。政界もしかり。(8/20)

 その後、長嶋茂雄がこの男(中田翔)を直接指導したそうだ。何を勘違いしているのか、三流芸人のポイントのズレたコントを見ているようである。どちらにしても、長嶋は、示しのつかないことを身をもって周りに示してしまったということである。これ以上晩節を汚すことは止めた方がいい。(9/13)

 

                                   8/12

 〇巷の瓦版では、オリンピック開催について、やって「よかったと思う」が64%、「思わない」が28%(読売)。「よかった思う」だけが前面に出されていたが、「みんなの意見」(200447票)では、オリンピックの成否について、失敗58%、成功36%。因みに、内閣支持率は、支持が35%、不支持が54%(読売)。この手の世論調査、この種アンケートの問題は多々あるが、複雑な状況にもかかわらず、周知のように単純化されたお決まりの選択肢で強引に振り分けたものに過ぎないということである。他の紙面は見るまでもなく、大方の情勢は読み取れる。そして、聖火ランナーを務めた女優と閉会式で登場した女優の事後の「釈明」について一言付け加えると、これは認識論の問題ではなく、存在論の問題なのである。わかりやすく言えば、戦場の司令官が、後日「実は、私は戦争には反対であった」と言ったり、戦争中に国威高揚の作詞作曲などを盛んにしていた者が、戦後「戦争はやはりいけません」などと言ったりしているのと同様の問題がある。たとえ心底そう思っていたにせよ、その時そこにいて自分がどのような「あり方」をしていたかが問題なので、何をどのように言ってみても、その「在り方」自体が戦争を、この場合はオリンピック開催を容認していたということなのである。

 

                                       8/9

〇「手の平返し」を得意技とする者は多いが、中には「足裏返し」まで併用する者がいるので見分けるのも一筋縄ではいかない。

〇Adieu Olympiques  Adieu pour toujours!      オリンピックよ 永久にさらば!

                                                                                                                  

 ギリシャでは400か所で山火事、オリンピアの遺跡にも迫っているという・・・ギリシャの神々も怒っているのであろう。

                                                                                                                  2021 8/8

 

〇このコロナ禍で、様々なものが浮き彫りになったということは以前にも言ったことだが、いつの間にか「ぬらりひょん」のようになってしまった者や、明確に自らのスタンスを打ち出す者の確認もできた。総じて、現実を見ていない者、現実を見られない者、現実を見ようともしない者がいかに多いかということもわかった。同時に 直視もできない現実をわかったようにしたり顔でモノ言うものたちの実情も底まで見えた。為政者に対して「あなたは何もわかっていない。現実を見よ!」と怒りを込めて叫ぶ最前線にいる医者も出てきた。それは当然の帰結であろう。最前線にいれば、具体的にその致命的な問題が見えるのである。それを、安全地帯でもっともらしい「権威」を盾にいちゃもんをつける者もいた。しかし、それはどのように理路整然とした論文を根拠とした見解であろうとも、今起こっている現実ではない。それを直観的にも知り得るのはそこにいる人間だけである。その直感を論理的ではない、根拠がない、エビデンスがないなどと言ったところで、論理と根拠で構築された世界も実は現実ではありえないのである。そういう意味ではいかなる権威も、それですべてが解決するわけでもなく、明確に現実が見えているわけではない。日々検討を強いられるというのが現実に対する誠実な態度である。現にこのコロナウィルスは、常に変異しているのである。今後も変幻自在で、どう出てくるか不明である。抜き差しならぬ現実に直面している者の声を謙虚に受け止められないようではどうにもならない。「権威」にしがみついているだけでは遅かれ早かれ、滅び去るしかあるまい。

                                  8/6

〇「五輪ツイート開会式を機に一変」とあった。その隣には「納骨堂、永代供養」の大きな広告。たまたまそうなっただけであろうが、象徴的な取り合わせである。本当かどうかは知らぬが開会式直前までオリンピック開催に否定的であった意見が「肯定的」になったということであろうが、その実態も明確ではない。前にも言ったが、スポーツ自体に感銘を受けることと、この尋常ではない状態を「作り出した」ことを許容するかしないかは別問題である。

 しかし、いざとなると逃げ足が速い。そんな者に限って大言壮語を吐くものである。その常習犯が現在鳴りをひそめているということは、現状はかなり危険な状態に向かっていると見る方が賢明であろう。一律に流されるオリンピックの絶叫報道に乗じて、大中小のネズミどもたちも同様に鳴りをひそめコソコソ逃げ出している。やることと言えば、後は逃げ口上の明文化くらいなものであろう。

 「見せ物」につられ、死に急ぐことはあるまい。

                                7/29

 

〇案の定、「金」「金」金」と絶叫で騒ぎ立て、やはりオリンピックをやった価値はあるという方向に持って行かれているようであるが、しらけ鳥の鳴き声は、いつになく鮮明である。マスクでくぐもっているような鳴き声は、さらに計り知れないものがある。実際、テレビの絶叫中継とは裏腹に、巷からオリンピックの話が漏れ聞こえてくることはほとんどない。オリンピック開催反対であった者の中にもスポーツに感動する者はいるであろう。それはごく自然なことで、音楽、スポーツそのものは現実の状況とは無関係な、ある意味で「絶対的な領域」を持っているからである。だから、為政者はその領域を利用するのである。独裁者や為政者と音楽、スポーツがもたらす感動とはまったく無関係であるが、威厳、高揚感を作り出し、その結果、それとは無関係な現実の問題点まで相殺されてしまうのが常である。しかし、今回は、すべてにおいてコロナが、敢えてファクトチェックするまでもなく、有無を言わせず現実そのものを見せつけるであろう。

                                2021 7/28

 

〇特に今回のオリンピックは見たくない、見てられない。多くの人々がコロナ禍で倒れ、医療崩壊寸前で、困窮し、行き場をなくしているにもかかわらず、この様なのである。このような事態にも眼中に人無しのすりこ木のような神経そのものを疑っているのである。これもまた一事が万事、何をやってもこの通りであろう。もう二度と訪れることのない日本の最後のオリンピックが東京コロナオリンピックである。様々な人間の本性を浮き彫りにさせながら過ぎ去ろうとしている。後には、まともに「野」も、「山」も残るまい。ただし、この虚しくできの悪い幻影に飲み込まれなかった人々にはいくらかでも期待が持てるのではないかと思われる。こんなものに感動?安っぽすぎる。偽物文化に馴らされた結果であろう。だから、いともたやすく騙されるのである。

                                   2021 7/24

 

〇このサイトの「メッセージ」133「ダブルバインド」(2021 4/30)で、「ダブルバインド状態のまま具体的なことは打ち出さず、協議、検討、『お願い』等々、おそらく開催前日までこんなことをやっているのではないか」と書いたが、その通りになってしまった。ここまで来ると、この後はさらに具体的に想像できる。                           

                                2021 7/22   

〇2021東京オリンピックは、どのように繕ったところで、東京コロナオリンピックとして銘記されることであろう。そして、オリンピック自体が様々な致命的問題を噴出させながら終焉に向かっているということは大きな流れでもある。この期に及んでもなお、哀れな幻想にしがみつくことについては、愚かしいまでの哀れさと底なしの無知を感じる。

 偽りの夢で人心を惑わす者の曰く、「今宵、余のために集いたる愚かな臣民どもよ、余が与える希望、夢を信じるがよい。汝らの無残な足元を見るではない。汝らに与えられた唯一の最善の方策は余を信じることである」。余とは、何者か?大したものではない。欲に目のくらんだ尋常ではない者ということに過ぎない。

                                    7/22

〇「戦場のピクニック」という本があったが、今は戦場でスポーツというところか。実際、激戦で一兵卒は死線をさまよっているという状態でも、上層部とその周辺では何かといえば宴を催していたのである。現在でも、一般庶民には「欲しがりません勝つまでは」などと同様の真綿に針を包むような「お願い」(規制)を強いているが、上層部とその周辺は好き勝手にもっともらしい名目をつけてはパーティを至る所で催しているというのがその実情なのである。よく見れば、、戦争中の様々な人々の日々のありさまが手に取るように再現されているのがわかるであろう。今も昔も本質的には何ら変わっていないのである。

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〇今回の東京オリンピックの主役は、何と言っても新型コロナウィルスであろう。たとえどのような金メダリストが出てこようが、このコロナの出方一つでそれは一挙に変質し、かき消され、制圧される。この大会によって新たな死が呼び起されているのである。この主役を実質的に引き立てきたのがバッハである。彼の「付き人」かと思われるような者たちもよく彼をフォローし、コロナの活躍の場を与えてきた。実際には、後は野となれ山となれの死の商人のようなことをやっているにもかかわらず、自らを「平和の使者」と称し広島に行く。「Liar!」(嘘つき!)「帰れ!」「来るな!」と叫ばれても当然であろう。バッハが「平和の使者」とは、質の悪い冗談としか思われない。

 「おもてなし」などと、いつまでもへらへらと幇間(ほうかん)のごとくになっているのをよく見かけるが、言うべきことも言わないでいるから、今こうなっているのである。「沈黙は金 雄弁は銀」などということを、単純に黙っていた方が得だなどと考えているとすべてにおいて誤る。場合によっては沈黙は「禁」にもなり、自らを潰すことにもなるということである。雄弁術は別にして、雄弁は雄弁術に長けていなくても内容次第では「金」にもなるのである。この言葉の由来をみても、「説得力のある言葉を持つことは大事だが、黙るべき時を知るのはもっと大事だ」と言った程度のことなのである。しかし、「黙るべき時」というものを知ることは、やはり、説得力のある言葉を遣いきれる者でないと知り得ないものであろう。ただし、真摯に思ったことを、どんなに稚拙であろうとその時に言わないと、まったく無意味となるケースは多々ある。言うべき好機を逸してしまっては、後でいくら悔やんでももはや手立てはないということにもなるのである。

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 〇トーマス・バッハが「開催を恐れる必要はない」と言ったそうだが、これは本来ならその国の長が言うべきことである。「コロナの禍」ではない、「黄色い禍」すなわち「黄禍論」が遺伝子レベルで組み込まれたようなドイツの知的レベルで問題のある「平民」では、チャイニーズとジャパニーズの区別も明確ではないだろう。ただ、その言い間違いの中に、その人間の世界観を構築している意識構造の本体が晒らされているのである。このような者に言いくるめられ、言いなりになって二進も三進もいかなくなっている者(たち)とは、一体何者なのか?「開催を恐れる必要はない」などという「御宣託」をありがたがって黙って聞いているだけとは一体何者なのか、口から出まかせに「アンダーコントロール」などと言っていた者と同様に極めて危うい。バッハのような者の言うがままになっていることこそ実質的に「反日」であろう。しかし、これほど馬鹿にされても何も言うことができないとは不思議である。無惨、ただ無惨としか言いようがない。

クーベルタン男爵から「ぼったくり男爵」へ、何事も放置すればかくのごとくである。すべてを古代オリンピアの遺跡に戻す時なのである。大いなる幻影の終焉である。

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 〇今なお、「スピード感をもって」などという言葉が出てくる。スピード感とは、スピードがある感じ、早い感じということで、決して速いわけではない。飽くまで「感じ」なので実際の速度となると全く不明である。何をやらせても、てきぱきと手際よく物事を処理できないからこのような言葉が出てくるのであろうが、案の定、「スピード感をもって」と言いながらとうとうオリンピック開催直前まで来てしまった。しかし、今もって、「専門家」(?)と「相談」(?)しながら「スピード感をもって」やるなどと言っているのである。おそらく、大会終了まで、「スピード感をもって」やることであろう。時速3キロメートルも停止しているよりは確かに速いが、すべて後手後手になるのは避けられない。そして、そのこと自体で、犠牲者も増えるのであるから、それは犠牲者を見越した判断ということになる。新語、造語でいかに埋め尽くしても、その実態はまったく変わらないし、すべては見えていることである。

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〇何を聞いても、いつまで経っても「現時点では、何も決まってはいません」、決定権者がそれで済むのか?そして、取って付けたように決まって「安心、安全、万全の態勢」で臨むと言う。言質を取られることを極力避けた言葉の羅列、すなわち責任回避ばかりが最優先しているということである。何のことはない、逃げ回っているだけなのである。ごまかす手練と責任回避の手管に埋め尽くされた者たちと、エアロゾルのような言葉を取り留めもなくまき散らす「詐術師」は、決して国を語ることはない、国を語れないから国を「騙る」のである。

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〇「反日的な人が五輪開催に強く反対」と言う御仁、こういうことが平然と言えてしまうという者については幼少時期の精神的な発育障害・不良ではないかと思っている。その後のごく普通の成長にも影響を与える負の因子との対峙がなされないまま、「餓鬼」のまま「成人」となってしまった者たちの一人であろう。これはやはり致命的な欠陥で、こういう者が権力の位置にいること自体が多くの者にとっては最大の不幸となる。「五輪開催に反対する者」が「反日」、すなわち日本あるいは日本人に反感を持っているなどとまったく的外れなことを言っているのであるから、事はますますおかしなことになる。危機管理能力もなく多くの者たちを危険に晒すことにもなることをやっている為政者に対して抗議をし(応答なし)、反対し、その結果、五輪は中止すべきだと言っているだけであろう。日本に敵対するがごとくの「反日」などという言葉で括り、煽り、肝心な問題をすり替えるのは卑劣極まりない。習い性となってしまったやり口が何気なく出ただけのことかもしれぬが、やはり政治レベルを超えて全人格的にも問題がある。こんな者の言葉に惑わされているようでは御身の体はいくつあっても足りますまい。とにもかくにも、何もかもが軽く、特に自分以外の人の命など浮遊物ぐらいにしか思ってはいないのがその実情である。

 一頃、小学生の作文の題のような「美しい国、日本」などという言葉が出回っていたが、日本の良さ、問題点も充分知り尽くした者にとってそれは幼児言語の領域であったであろうと思われた。しかし、驚くことに、これで何かわかったような気にさせられた者、また、これぞ「保守」の本流のイメージとばかりに飛びついた者もいたようだ。周知のように、現在「保守」それも「本流」など言い得るものは存在しない。「伝統」などという言葉で粉飾されたカルト集団を「保守」とは言わないのである。まず、彼らと「伝統」などとは全く関係ないということを知るべきであろう。それは単なる方便、イメージ操作である。むしろ実質的には「伝統」の破壊者であると言った方がよい。現状は、残念ながら、保身術、護身術ばかり巧みな三下奴が徒党を組んで牛耳っているとしか思えないのが実情である。

 しかし、 彼らを甘く見てはいけない。彼らは知らず知らずのうちに空気の成分さえ変えるのではないかと思えるほど手が込んでいるからである。あらゆるジャンルを総動員して五感に入り込み、やがて第六感にまで至り、それをコントロールしようとする。実際、そのような例は日々、見聞することでもある。

 それに対抗する唯一の方法は、100万の冷静な目である。まず、素朴な疑問を臆することなく発してみることである。どんなに状況が八方ふさがりであっても自死することはない、気休めは言わない、死を覚悟するくらいならまず戦ってから死ぬことだ。「敵」はコロナだけではない。そして、「戦い方」はいくらでもある。

 最後に、「極限の孤独」に耐えられるようになって、はじめて一人前の「大人」といえるのではないかと思っている。しかし、ほんとうの「大人」に巡り合うことは稀である。

                                 2021 7/4

 〇詰まるところ、自分の体は自分で守るしかないということである。国に頼るのも、「専門家」に頼るのも愚かということである。実際には、それが常に実情なのである。ちょっと油断すれば、権力の亡者にいいようにもてあそばれ、あるいは医療産業の犠牲になるということである。況や、「ゾンビや権力亡者が絡み合う化け物屋敷」と化した組織から出てくるものといえば、シアン化カリウムの糖衣錠くらいなものであろう。上意下達でありがたがって鵜呑みにしていれば、心身ともにバラバラにされるということである。

 さらに言えば、為政者が今の結果に責任を取れないようでは、その組織はすでに終わっているのである。ゾンビや亡者の絡み合う化け物屋敷に一体何を期待できるのか?取り壊すしか手立てはあるまい。すでに、ゾンビたちは、もっともらしい名称の議連を組織し、地球上最悪の侵略植物のごとくに蔓延りつつある。「新たな資本主義を創る」、「自由で開かれたインド太平洋」等々、それは「おもてなし」の良い「注文の多い料理店」にも似て危うい。何気に趣味の集いに参加している内に組織の一員にされているという不気味な「軽さ」と同質である。ゾンビの舌先三寸は三つに割れていて極めて軽く、回りが早いものである。巻き込まれたら、身動きつかなくなるか、それで終わりである。

 冷徹な目、今、それがますます必要であろう。カルトの不可抗力的ネズミ講にハマらないためにも、ゾンビの毒牙、薄笑いを潰すためにも。

※現在の議連(議員連盟)の総数は300前後、最近できた議連は9(最高顧問はすべてアベ)。

 参考までに、例えば「全日本アーチェリー連盟」の会長は安倍晋三、副会長は世耕弘成である。これで体裁がつく世界なのであろう。後は推して知るべし。

 やがて、アーチェリーそのものが怪しげな光を放ち始めるのではないかとさえ思われる。

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 〇「自己啓発本」なるものがどのような本なのかチェックしてみると、何のことはないハウツー本である。「自己啓発本」など読むだけ無駄と言っている御仁も、この「自己啓発本」を書いている。さぞかし儲かるのであろう。何だかんだと言ってみても、要するに、楽して得する、儲ける方法の「一部」伝授、飽くまで、「一部伝授」なのである。肝心な部分は開示できまい。

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 〇世にも不可思議な話である。初期の段階で、PCR検査を拡充できなかった、すなわち危機管理が欠如していることについて、その理由を尾身茂は「制度的、歴史的な背景」などと意味不明なことを言っていたのであるが、これで具体的に納得できたものは一人もいまい。要するに、危機管理上不可欠なPCR検査の拡充を怠った理由が「制度的、歴史的な背景」なのである。それならその歴史的流れの中で手の付けられない「制度的なもの」を見直すか、変えるより手立てはあるまいと思われるが、今現在でもこの検査の拡充に「反対する意見が根強い」らしい。そして、そのような「見解」に則って何かと言えば、PCR検査拡充を訴えた者たちをターゲットに批判する者たちがいるが、そこにはある共通した因子が散見できる。いつ倒壊するかわからぬ制度の上で胡坐をかいていれば、その先は目に見えている。その具体的結果は間もなく現前の事実となろう。もっとも阿Q的現実認識では、惨状も敗退も認識できまい。無限級数的な希望的観測が存在するだけである。

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