両忘の時‐ある日、その時‐

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「ある日、その時」(48)12月27日ー

<掲載内容>

589.報道は阿呆道か 590.今更「いつか来た道」、「きな臭い」とは・・・591.「走狗」のシンタックス 592.「早く一人になりたい!」ー街角でー 593.「短期的なものに答えても意味がない」?594.「やっている振り」がすべてにわたり 595.「好き嫌い」の陥穽(かんせい)596.ゴッホからラッセンへ?

 

 

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596.ゴッホからラッセンへ?


 「ゴッホより普通にラッセンが好き」というフレーズが目についた。これを大方の者がどのように取っているかはすぐに察しがついたが、これで分かってしまう感覚が逆に怖くもなった。ラッセンの絵とは夢幻郷を描いているようでいて「臨死体験者」の画像に近似しているからである。すなわち死者になりかかった者たちが思い描く、ある意味では冷え冷えとした身体的接点のない平面的な世界でもある。実際この絵に「体温」、「喜怒哀楽」を感じる者はまずいないだろう。日本ではラッセンが「好き」という者は多いようだが、それは「生」のエネルギーが枯渇しているという一つの指標にもなる。一方のゴッホの絵といえば、「生」のエネルギーという点からもその対極にある。彼もまた終生人生と葛藤しざるを得なかった一人で、その経緯がそのまま伝わってくる絵でもある。徹底して「生」が全面に出ている絵を真っ向から受け止めることと「死」の訪れを隅々にまで感じさせる「絵」に辛うじて「癒し」を感じるのでは自ずと今後の「在り様」は違ってくる。「ラッセンが好き」という「感覚」が趨勢なら精神自体が衰微しているということは否めないが、それと同時にその「反動」もそれこそ「反知性」的に所かまわず現れるのではないかと思われる。

 「ムダなプライドやこだわり捨てた」結果が「ラッセンが好き」という流れは何ともお粗末である。「普通」幻想もまた気になるところであるが、要するに、「普通」にはゴッホが好きになれなかったことを自己暴露しているのである。何もゴッホに限定することでもなかろうと思うが、ラッセンと言ったほうが「売れる」というだけの話なのであろう。しかし、「普通」にラッセンというのが何とも危うく、不気味なのである。                                   

                                 2016 1/17


595.「好き嫌い」の陥穽(かんせい)

 「好き嫌い」というと何か「本能的」などと同様に、原初的で「ピュアー」な響きを感じさせるが、そのようなものなど原初的に備わっているものでもない。小林秀雄などが「要するに好き嫌いでしょ」と言うとき、それは感性などが知性と独立してはあり得ないといっているのである。「要するに感じることだ」などと「感じること」がすべてであるがごとくにしたり顔で言う者がいるが、「感じる心」と知性とは不可分の関係にあり、その人間の「感じ方」は知性の浅薄,深浅とも大きく関わってくる。それでは反知性的な者が好き嫌いでものごとをとらえるとどういうことになるかということになるが、それは例外なく悲惨である。自分では自分の「感じる」ままになしているつもりになっているが、その「自分」が問題なのである。多くは「作られた」自分、決して自らが「作り上げた」自分ではないものをそのまま引き継いでいるだけの、言ってみれば「他者の血」で脳髄まで浸されていることに気が付かないだけの「自分」なのである。それで自分の好き嫌いに絶大な信を置いているから滑稽なのである。それは未来に抜ける唯一の開口部を自ら閉ざしていることにもなる。思いつくままその現実的様態を挙げれば、すぐに「他人に同意を求める」、「噂話が好き」、「すぐに集いたがる」、「せこい計算だけは早い」、「自分の独自な判断ができない」、「他人の否定的言動、オタメゴカシにすぐに揺れる」・・・etc。要するに、それらは頑迷ではない「個」の確立がなされていない証左でもある。そして、彼らの共通点は自分が見抜かれていることに気付かぬことである。よく「好きな〇〇」「嫌いな〇〇」などというアンケートがあるが、食べ物程度ならわからない訳でもないが、頑迷なだけの凡夫が好き嫌いで選ぶべきではない対象はいくらでもある。典型的なのが「政治家」の選択などがそうであるが、もう少し自分のかけている「眼鏡」の「くもり」を拭いてからものを見てはどうかと思わせる事象が多すぎる。その結果が現在であるということに過ぎないだけでそれ以上でもそれ以下でもない。

                                    2016 1/15


594.「やっている振り」がすべてにわたり

 税金使ってあっちこっち訪問して何をしているのかと思われる。アリバイ「工作」の類か、「やっている振り」としか思えない。迎える側もカモがネギを背負って鍋まで持ってきたくらいにしか思っていないのであろう。実際、「営業」成績も大して上がらず、そうかといってさしたる「外交効果」も見られない。むしろ「逆効果」ばかりが目に付く。本人だけが、例の質疑応答もろくにできない感情過多な調子で「会って」きた、「言って」きたと言うだけで相手国の反応実態はほとんど見えない。さらに国際情勢の変動が激しくなっていることを考え合わせれば、「確約」などはそれこそ「解釈」次第でいつ実質的に「無効」になるかわからない状態でもある。無意味な「海外旅行」をいつまでしているのかというところである。もし数年後に「効果」が現れるなどと考えているなら「オメデタイ」を通り越して単なる無能の人ということになる。大人ならもう少し「足元」を見なさいよ、と言いたくもなる。この手の「やっている振り」は回転しているだけで、八方塞がり。そして「振り」は飽くまで「虚」で「嘘」である。それは遅かれ早かれ「剥離」を余儀なくされる。

                                 2016 1/11


593.「短期的なものに答えても意味がない」?

 これは国会での「何で質問したことに答えられないのですか?」という質問に対するAbe君の答弁である。「短期的なものに答えても意味はない」のなら「長期的なもの」にどのように答えられるのか?「短期的なもの」に対する明確な分析、認識もない者が「長期的なもの」を見通せるはずもなく、何ものかに取りつかれたような予言者気取りでは「講釈」も「説明」も聞くだけ無駄ということになる。質問に対するきちんとした答弁ができないことをしているというだけのことである。今更「ああ言えば、こう言う」程度の者に何を期待するのか?まともな質疑応答など成り立つはずがないのはわかり切ったことであろう。このような者を追い詰めるにはどうすればよいか、一つの方法は簡単明瞭、各自がルビコン川を渡る覚悟をすることである。彼は辞めてもらうしかないのである。どちらに転んでも得るものより失うものの方が多過ぎる。「祭り上げられた」だけの男の結末はもう見えているのである。

                                   2016 1/10


592.「早く一人になりたい!」ー街角でー


「もう、早く一人になりたい、もうほんとに耐えられない・・・」中年の女性が親の介護疲れで身動きできないことを近所の年配者に懇願するように訴えている姿である。もうここまで来ているのである。路上で形振り構わず、早く死んでほしいと言っているのである。それが実情であろう。平穏そうな老夫婦もいつ老々介護、認々介護を強いられるかわからないのが現実である。老々介護も悲惨だが、認々介護はさらに悲惨である。認知症の者同士の介護、そんなことが成り立つのかと思われるが、現状ではそれが強いられているのである。老人の心中、老人宅からの出火は今後ますます多くなることは火を見るより明らかなのであるが、これらの諸問題についても無策に等しい。一事が万事の無能無策ぶりである。肝心なことが何もわかっていないのである。それでも「何とか持っている」(?)のは実地担当者が有能であるからということに過ぎないが、それももう時間の問題であろう。

                                                2015 1/7

※このサイトで以前書いたことを取り上げると、彼の場合は20年以上前のことであるが、父親の介護で給料の半分以上を取られ結婚など到底考えられないという。今、彼がどしているか知る由もないが、「殺意も珍しくない」(約7割が「親の存在」がストレスと感じているらしい)という現状で、「精神的にも、物理的にも距離を置くのが一番」という医療関係者のアドバイスなどもそれはそれなりの効果もあろうが、しかし、これは単にそうした「観念操作」だけで済む問題ではないのである。彼が私に言った「不謹慎ですが、早く死んでほしい」という気持ちは時間とともにより密度を増すばかりであったであろう。親にとっても子にとってもゆゆしき一大事である。それはもはや個的な問題として処理できることを通り越しているのである。社会問題である以上、為政者の責任も当然問われるが、そのような憂慮すべき国内事情はどこ吹く風の言動ばかり、挙句の果てに国民の年金を兆単位で使い込み、責任の取りようもなく、すべてを「バクチ」にすった放蕩おやじのていではどうしようもない。どうするつもりなのかと思われるが、いまだに大言壮語をしてははばからないさまは底が割れてもなおほらを吹き続けるいかさまおやじである。これではすべての「精神風景」が「荒れる」一方なのは至極当然。派手に税金を使って外を飛び回っている状態ではないだろうと思われるが、それも現状から目をそらさせながら同時に空疎な「自己誇示」をするという見え透いた最悪の常套手段。これでは、マスメディアの誇大広告とは裏腹に、「早く死んでほしい」と思う者が多いのも頷ける。

                                        1/8

                                


591.「走狗」のシンタックス


 「走狗」と思われる人々にはやはり共通のシンタックスがある。「政治批判」即「無責任」という断定、98%以上の国民と離反した「国のため」という「国」という概念の多用、「経済的」危機というような具体的内容提示を伴わぬ「危機」という言葉によって、やっていること、その結果もたらされる事態に対する責任回避と同時に大多数の「中小集団」の締め付けを強引に正当化させてしまう「手口」。そして、それらの「行間」には「個性的な」正体不明の「現実感情」を帯びた「感情の虚偽」を忍び込ませる。この虚偽から取り留めもない空疎な美辞麗句と手前勝手な「講釈」が紡ぎだされてくるのである。 

「亡者」の言動とは、常にかくあるようである。そして、「もしや」と期待をもたせながら選択の余地がないような「諦観(あきらめ)に導く。その時にできる隙間にソフトランディングするのである。その後、何が出てくるか、敢えて言うまでもあるまい。少なくとも、あなた自身のためにはならないことだけは確かであろう。

                                 2015 1/2


590.今更「いつか来た道」、「きな臭い」とは・・・


 最近ではさすがに言葉にする人もまばらになったが、一頃は頻繁に耳にした。敢えて言うまでもなく「いつか来た道」とは戦前のことで、「きな臭い」とは戦争の予兆のようなものを感じて言う言葉でもあるが、そんな言葉を耳にするたびに、何を今頃わかったようなことを言っているのかという思いの方が強かった。言ってしまえば、「いつか来た道」などと呑気に「歌って」いる場合か、「きな臭い」?今まで蓄膿症でも患っていたのかという気持ちである。要するにセンサーそのものが錆び付き指針の指し示す数値を読み間違えているか、あるいはわかった振りをしているとしか思えないのである。センサーが錆び付くのは容易である。すべてについて、わが身に降りかからぬ内は見て見ぬ振りの知らぬ存ぜぬというスタンスを通せばすぐに錆びは出てくる。そうかと言ってセンサーは問題ないが「読み解き方」を間違えているとノイズ、すなわち皮相的なことばかりを拾って肝心の本態の様相を捉え切れないことになる。ほんとうに「いつか来た道」などと能天気なことを言っている者には歴史の「絶対一回性」ということが分かっていないのであろう。人間のやること、どこかに常に共通項はあるにせよ時間のなかで「同一である『こと』、『もの』」が現出、再現されることは決してない。そして今、ほんとうに「きな臭い」と思った時には自分の生存の有無は定かではないというだけのことである。それよりも今まで以上に貧者同志の監視、争いが強まり「息苦しく」なるのが先であろう。

 問題意識を持たぬものに世界は何も見えてこないということに変わりはない。見ようが見まいが世界に争い、戦闘、戦争は常にあった。現に今もあるということである。それは揺るぎのない、否定しようもない事実であるが、問題はそれすらきちんと伝えられていないということである。「お茶の間」がメディアに対する痛烈な批判、議論の場と化すことを期待している。「お茶の間」から「暗いニュース」を排除すればするほど「闇の領域」は増大すると見るべきなのである。「明るさ」ばかりを求めても「闇」は排除し切れるものではない。むしろ、気付かぬところで増殖するものである。

                                  2015 12/29


589.報道は阿呆道か


  報道すべきもの、知りたいニュースは毎日山ほど出ているはずなのに、メディアは伝えるものといえば、「政治屋先生の行状」、珍事限定の「三面記事」、「省略」「カット」、「ぼかし」と「伏せ字」群のニュース、これは国民を未成年扱いしているとしか思われない程である。「政倫審」とは別に「映倫」と同系列の「政倫」があるのであろうかとも思われる。これでは未成熟な者が多くなるはずである。今更、局などが選んだコメンテーターの解説など聞きたいとは思わないのは私だけではあるまい。コメントはどうでもいいから「事実」、「起こったこと」をそのまま伝えればいいだけのことであるが(これについても何年か前にさんざん言ったこと)、今やそれもできないとなると、やはり国連の「表現の自由」の訪問調査を拒否したことに関して取って付けたようなもっともらしい理由とは別に世界に向けて発信できないことが現にあるという証左にしかならないだろう。この「コソツキ方」自体で世界にはすでに見抜かれてはいるものの、みっともないの一言である。これでは「日本人」が本当の意味で世界に向けて発信できる素地をさらに広げ、築き上げる方向とは逆行しざるを得まい。

 

                                    2015 12/28

「ある日、その時」(47)11月1日ー

<掲載内容>

579.「大人」? 580.小沢+志位で「市民統一連合」581.表舞台は杉舞台か 582.朝三暮四の猿のごとく 583.近未来という「後退」584.「一億総活躍」?585.「英雄待望論」?586.「お座敷」をはねた幇間たち 587.「経済で結果を出す」??588.「派遣社員」の意識レベル

 

 

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588.「派遣社員」の意識レベル


 派遣社員の悲惨な実態はよく見聞するところであるが、彼らの意識調査もするべきであろう。現状を変え得る唯一の参政権である選挙権も行使せず、自分が低所得者であるにもかかわらずただ単に現状に振り回されて元凶となっているものを見抜けぬケースが多々あるからである。「派遣社員」のルポルタージュをするのであればその支持政党、選挙権の行使くらいは聞けるであろう。それも意識調査の一つである。みずからの首を絞めるような「選択」をしておいていくら現状を嘆いてみても何も始まらないのである。選挙権も行使ぜず、無関心な者たちを「ニヒルな」などという体裁のよい言葉でくくらない方がよい。それは単に「どうなってもよい」人々ということでしかないのである。無関心な人々が多ければ多いほど「妄想天狗茸」という毒キノコは蔓延るのである。

                              2015 12/23


587.「経済で結果を出す」??


 街角に張り出された「ボウ」政党の「コピー」であるが、何を今さら言っているのかと思われるピンボケコピーである。とうに結果は出ているであろう。これで何か言っている気になったり、したり顔で了解しているようではもう先はあるまい。このような言葉にわずかでも期待をかけている人々には残念ながら「明日」はない。それが論理的帰結というものである。自業自得なのである。

 「経済で結果を出す」とは、金で99%の者たちを封殺、圧するとも取れるから怖いところである。

 それにしても大方のメディアがここまで落ちるかというていたらくである。その内に「将軍様は、軽井沢で英気を養っていらしゃいました。」などと言い出しかねない有様である。

                                 2015 12/22、26、


586.「お座敷」をはねた幇間たち


 「お座敷」をはねた幇間たちが、今度はテレビで「熊さん八っあん」を槍玉に「言いたい放題」で金になる。何とも羨ましいようなばかばかしさである。巷でやれば単なる複雑音声チック(神経症の一種)と見なされても仕方あるまい。そこまでの見立てはできないにしても生理的に総スカンを食らうのがオチであろう。「毒舌」などと称するものも内実は「罵倒語」を不随意に発する「汚言症」の域をどこまで出ているのか大いに疑問で、さらにはその対象も常に「弱者」か、言ってもさしたる利害が生じないものに限られている。たまには腹をくくって強者、権力などに向かって言ってみろと言いたくなるが、「お座敷」で虎の衣を借りての「言いたい放題」、周りの者も触らぬ神に祟りなしとばかりの距離の置き様に本人はますますその気になるという按配である。要するに「弱者」をダシにした「目くらまし」、「かわし」の類をいつまでも面白がっていても埒は明かないということである。そろそろ軽いフットワークで直に攻めないとにじり潰されるだけであろう。

 「ヘイトスピーチ」系、あれも「汚言症」という神経症の一種で聞くに堪え得るものではない。要するに、病める領域に「行っちゃている」人々とまともに話をすることはできないのである。彼らの真の話相手はまず精神科医であろう。

 

                                  2015 12/14


585.「英雄待望論」?


 「英雄待望」などという発想そのものが、怠惰で卑屈であることの証左である。なぜ自分ができることを通して現状から半歩でも「前に」進もうとしないのか?それについてのいかなる弁明も講釈も理屈も怯懦の証にしかならないのが現状である。さらに言えば「英雄待望」などとは卑屈な臆病者の発想ということになる。

 世論調査の選択肢の一つである「適当な人がいなから」というのも言ってみれば「英雄待望」の変種で、多くの人にとっては適当な人を「作り」「育てる」、あるいは自らそれに近づこうという発想は無縁なようである。これもそのように思い込まされているのである。この手の安易な選択肢設定も計算の内ではあろうが、このようなわかりやすい言語操作にはまってその気になっているのでは「敵」の思う壺である。自分の生存にかかわることをそんなに軽々しく他人に委ねてしまっていいものなのか、もう少し各自が自分で考え、調べる必要があろう。どちらにしても「関係ねーや」では済まないのである。それは緩慢なる自死の道である。

                                   2015 12/6


584.「一億総活躍」?


 嘘は大きければ大きいほど大衆は付いてくるものだ、というようなことをやはりヒットラーも言っている。しかし、この御仁の嘘は表も裏もないすべてが嘘で、本人もどこまで嘘かさえわからなくなっているのではないかとさえ思われる。しかし、「複合体」の化身とはこんなものであろう。要するに、「複合体」の利害しか眼中にないのである。だから、そのためには歯が浮いて出てしまうような言葉遣いも平然と行えるのである。「複合体」との裏取引で己を自己原因化、すなわち自らを神化していまった男の反民主主義的「民主政治」というのがその実態であろう。したがって「一億総活躍」とは「一億総奴隷化」ということになる。それもいざとなれば責任も取れない「最高責任者」のしもべとなることを強いているのである。

                               2015 11/29


583.近未来という「後退」


 近未来を扱った映画を観ていると、具象物だけは奇をてらったもののオンパレードであるが「内容」(ストーリー展開、意識構造など)はむしろ「後退」、退化しているとしか思えないものばかりである。近未来を取り上げるのであればもう少し根底に確とした現実直視の視点がなければならないがそれが希薄なのである。だから面白くないのである。設定自体が現実となる可能性もない、イメージの飛躍も閉ざされた現実回避の単なるアクション妄想近未来ではやはり「後退」としか言いようがない。あたかも近未来は現在より「進んでいる」ような見せかけただけで、やっていることはどれも「水戸黄門」に奇妙奇天烈な衣装を着せて宇宙空間に放り投げたような「内容」である。現実の方も、変わったのは見かけだけで「内容」は紀元前より何ら積み重ねられることもなく、ただ「後退」し続けているというのが実情のようであるから何とも致し方ない。悪くすると「詐欺技術」にもなる「小手先技術」、それを現実の実相のように「思い込んでいる」人々も多いようだが、それだけではもはや「立ち行かぬ」時が来ている。「現実論」を盾に取る多くの見解も現実の実相が見えていることはまれで多くは思い込まされてるか「洗脳」されているのが常態である。

 「近未来」を扱った作品群に興味を持たないのは、「近未来」ということ自体が私には必要ないからである。それは、現状の自分自身の在り様を通して「現実」を精査、検証すれば自ずと見えて来るものでもある。

                                      2015 11/21


582.朝三暮四の猿のごとく


 論理はあらゆることの根拠にもなる最重要事項であるが、論理では「人」は動かない。流されることが大好きな人々は「情」に訴えられれば「情」に流され、中には情に棹差す者まで出て来る始末である。それは周辺を見れば一目瞭然である。そこに至るまでの論理的経緯は欠落したまま現前の「具体的」なもの(?)にとらわれて感情を増幅させる。結局、仕掛けた者の手中にまんまとはまることになるのである。

 「美しい日本」という幻影のマトリックスから始まったこのレトリック政権は国の中枢規範をその増殖肥大化した「レトリック」で犯し、諸外国では低俗な成金よろしく税金を湯水のごとく使う。身売りしたマスメディアは頻繁に飛行機のタラップを上がる彼の姿を映し出し、さも海外で何かやっているように見せる。このようなことも功を奏して、「彼も日本のためによくやっているではないか!」とくる。現象面の感覚的認知だけで「やっている」内容の論理的検証など皆無である。これでは放置された隙間に毒キノコ、毒ニンジンがはびこってしまっても何の危機感もないのは当然である。食ってみなければわからないでは歴史を持たぬ蛮民以下で、自殺行為である。この毒々しい「色価」が他を貧相に見せるほど高くなってきていることに対して歯止めを掛けられるのは唯一論理的思考だけである。論理的思考がないから、朝三暮四の猿のごとくになっているのに気づかないのである。

 このレトリック政権に対して批判することは「山ほどある」と言い切る識者がまだいることを思うと朝三暮四というたわいのないトリックから猿たちもいつか目覚める日もあるかのと思われる。                                

                                    2015 11/14


581.表舞台は杉舞台か


 表舞台は檜舞台ではなく、杉舞台と見える。腕を試すどころか恥の競い合いである。いつから日本人はこれほど恥を知らなくなってしまったのかと思っている。「恥知らず」、「厚顔無恥」という言葉すらその様を捉え切れないほどである。恥は上塗りを重ねるしかないようで、上塗りを重ねる内に恥は表皮となって新陳代謝よろしく内部から作り出されてくるものらしい。その時分にはもう恥は恥ではなくなって自らの表皮のごとくになっているのである。恐ろしいものであるが、それで済むはずもない。「一期は夢よ、ただ狂え」とばかりに恥辱の上に胡坐をかき涼しげに吸い上げた札びらを切る。これがヤクザ、周辺領域の者たちなら救いようのない愚者として扱い方も考えられるが、国の中心部分に巣くう者たちすべてがこれでは、ここまで堕ちるものかと「人間」の危うさを再確認している。これは先進国家にも文化国家にもなり得ぬことの証左にもなる。自己正当化ばかりしている発展性のない人物同様、三文小説にも劣る歴史改ざんでしかない歴史修正主義者の文書などを基に世界に発信するなどは愚の骨頂であろう。どこの国の誰もが引いてしまうことを得意げにやっているのだからどうしようもない。やればやるほど、動けば動くほど、逆効果しかもたらさないのである。

 恥を知らないのが彼らの身上、一方では日本人をターゲットに大きなテロが起きることを待っているのではないかとさえ思える。要するに、使い古されたマッチポンプである。ただし、今度はポンプにオイルを混ぜている可能性もある。

                                 2015 11/11


580.小沢+志位で「市民統一連合」


 もはや何だかんだと言っている場合ではない。明日のわが身も定かではない状況である。小沢も志位も「ライフ」、「生活」を重視する点では同じ、スタンスが同一なら主義主張はまず括弧に入れて立ち向かわなければ押し切られる可能性は大きい。相手は何でもありの、闇の中の魑魅魍魎さえ提灯をかざす手合いである。「市民統一連合」大いに結構。今や「共産党」は「共産党」などという名称にこだわっている場合でもなく、その必要もない。いくら内容的に妥当性があってとしても「共産党」という名称自体がマイナス面しかもたらさないのが現状でもある。実際はどこに共産主義国があるのかというのが実情なのであるが、悪しき全体主義的イメージだけは出来上がってしまっているのである。そのような負の名称をわざわざ背負う必要がどこにあるのかということである。名称だけではなく既成政党としてあるというだけで現実的には内容的にシフトしざるを得ないものがある。その時期はとうに来ている。この際、「共産党」という名称も変えてみたらどうかと思っている。政治という土俵に上がったら「効果」は必須事項である。「自由」も「民主」も全く縁のない輩がこの美名に巣くっているのがいい例である。名称だけでどれほどカモフラージュされているか検証して見てはどうか。これも「効果」の一つなのである。厳密に言えば、日本の共産党はすでに共産主義思想からは離れたところにある。そうならざるを得ない歴史的必然性もそこにはあった。今、後期資本主義がもたらす弊害を徹底的に追及する政党としての共産党の役割は重要性を帯びてきているのである。共産主義国など理論上の問題で、現実的にはそのような国の建設は不可能といってもよいだろう。少なくとも現状ではあり得ない。にもかかわらずたとえ共産党がまともなことを言っていても、北朝鮮、中国、ロシアに関連付けて主張している内容自体を変質させてしまう傾向は今までにも多く見られた。要するに、米中露と「程よく」それこそいい意味で「いい加減」にお付き合いすればいいだけの話であろう。それが「大人」のやることである。質のよくない餓鬼の泥んこ遊びのような真似をいつまで続ける気なのかと思っている。小沢と志位のような、いい意味で「大人」と言える人々が合体すればそのような状況からの脱却も可能であろう。しかし、それしか考えられないというのが何とも情けない話なのである。

                                 2015 11/4

 


579.「大人」?


  昨今、やたらと目に入る「大人の〇〇」という「コピー」、一体何を意図しているのかと思われる。そもそも「大人」と言い得る人々がどの程度いるのかさえ怪しいのが今の日本の現状でもあろう。そんな時に「大人」という語の頻出は、「大人」がいないから出て来るとも言えるが、「大人の世界」が確とあるように思わせるようにも見える。少なくとも今までは「大人」とはよくも悪くも「いい加減」の領域を「心得た」人々という程度の意味ではなかったかと察することは可能ではあったが、今となっては悪い意味の「いい加減さ」ばかりが際立ってきている。そんな時に、さも何かあり気に「大人の〇〇」とそこかしこでやるものだから、何とも気持ちの悪いものを感じてしまうのである。言ってみれば、「大人」とはどんな人なのかという問いを発したくなるような人物ばかりで、「大人」の像が鮮明に浮かび上がることはめったにないといってもよいだろう。要するに、現在の最大公約数的な「大人像」などに何の説得力もないのである。むしろ、淫靡なものを隠微なものにしている様相しか見えてこない。今更出来合いの「大人の世界」などというものに振り返る者がいるのか。「大人」などという空疎なコンセプトでもはや括れるものはあるまい。たとえ「大人」が酸いも甘いも噛分けた人というほどの意味だとしても、「それがどうした」ということにしかならないのが現状である。

                                     2015 11/2


 

「ある日、その時」(46)9月27日ー

<掲載内容>

509.山本太郎の「ひとり牛歩」を矮小化する者とは 510.「吹替え地獄」 511.「テキトー男」の国勢調査 <番外日誌20151007>米シネマ、銃撃戦に カーチェイス 殺し殺しで 尚飽き足らず 512.「境界例」が「境界例」に物申すような  <便宜上、通し番号以前の(1-63)を追加> 575.「裏切り」は死を意味する。<番外日誌20151016> 576.「複合偽装」は常に起こっている 577.オフィス街の「食」で見えてくるもの 578.「関係ねーよ」で済むはずもなく

 

                                                                                                                                                                                  <転載・複製厳禁>



578.「関係ねーよ」で済むはずもなく


 社会情勢について「関係ねーよ」で済めばこんなオメデタイ話はないが、そうは問屋が卸さないのが世の実情でもある。これは「しらけている」などという状態を通り超して、現在社会に内在する煎じ詰めれば「後は野となれ山となれ」という進行内容そのものの個人レベルでの同調で、単に「堕落の極み」という方が適切であろう。ある意味では,この点についての仕掛け人の「同調培養」が功を奏しているともいえる。感度が鈍麻しているのか、想像力の欠如か、その様を見ているとたとえ自分の腕がもぎ取られても「関係ねーよ」で済ますのではないかとさえ思われてぞっとすることがある。原因追及の矛先が完全にずれているのである。もともと巨悪に立ち向かうなどという姿勢もない、寄らば「大樹」(?)の腰砕け状態で、どこにでもいるちょっと目立つ「熊さん八っつあん」をターゲットにここぞとばかりに攻撃しているような状態で、何かしているつもりになる。それで一体誰が一番喜んでいるのか、それはあまりにもはっきりしていることである。つい「およしなさいよ、罪なこと、情け知らずのさげすみは」と歌いたくもなるが、要するにいつまでも「目くそが鼻くそを笑って」いても、憎み合ってもどうしようもないということである。「目くそ鼻くそ」のさげすみ合いを見て大笑いしている者が確実にいるのである。実はそれがすべての元凶だということである。見過ぎ世過ぎ、矛先をあらわにできないこともあろうが、矛先を向ける方向、視点だけでも見失わないだけの矜持がなければどこまでも堕ちて行くのは不可避であろう。もはや、人間やめますか、棄権しますかというところまできている。

  往来でカモフラージュを決め込む「しらけ虫」 

                                              2015 10/28


577.オフィス街の「食」で見えてくるもの


 日常の「食」で見えてくるものがある。オフィス街の企業「戦士」ともなればさらに具体的に明確なものになる。以前から昼食時にはいつも列を作っているオフィス街の一角にある定食屋が気になっていたが、先日11時半頃にたまたまその店の前を通ることになったので、まだ客もまばらなその店に入ってみた。ライスもスープもお代りができ値段も安いが、米は見るからに出所も知れずに団子になりかけている、肉は肉で水気を帯びた革のごとく、チャップリンの靴を食うシーンを自ら実演しているのかと思われる程であった。これは味覚の鈍麻を云々する段階ではない、彼らもまたいずれわが身を呈して医療産業に貢献することになるのは目に見えている。帰りがけ、見ればコンビニにも長蛇の列である。ゴンドラがぶら下がった高層ビル群が何とも実体のない虚塔(window-dressing tower)に見えてくる。

 そういえば、摩天楼のあるニューヨークも挫折した者たちが逃げて来る街だそうであるから、今更何をか言わんやである。

                                   2015  10/21


576.「複合偽装」は常に起こっている


 当然のことを当然のようにやっていれば起こり得ないことであるが、そこに「利」が絡んでくると手の込んだ偽装工作が入り込む隙ができる。しかし建築物のような具象、自然現象に関するものは必ずその結果が人間の作為とは無関係に現れてくる。確かに一人の人間が多数のデータを精査するのは不可能であろう。「性善説に頼るしかない」とこぼすのもわからないわけではない。しかし、なぜ一人なのか、そして、現状の日本社会で「つぶやき」の類であったにしても「性善説」などという言葉が出てくること自体が意外というより奇異に見える。それが「信頼関係」という程の意味であったとしてもそのようなことは常に「あらまほしき事」で恒常的に成り立ち得るものではない。さらに言えば、民主主義などというものが「性善説」で成り立つのかということにもなってくる。この大手ゼネコンの男性の「嘆き」の中にも日本の大方の「民主主義」の捉え方が見て取れる。人間は何をするかわからないという歴史的共通認識の基に作り出された決して最善とは言えない形態が民主主義でもあろう。したがって、各自が検証の手を休めてはどのようなことが起こっても不思議ではないのが民主主義でもある。すなわち民主主義と「性善説」とは相容れないのである。「複合偽装」を精査するのは確かに一人でできることではあるまい。しかし、そのようなことを一人に押し付けてなすべきことをしなかった結果というしかない。それが「企業常識」となっているのなら、やはり根本から考え直すべきなのである。こんなことは決して認めることはできないことであるが、私にとっては想定内の事項である。現状の当然の帰結で氷山の一角だと思っている。実情は、こんなことに留まらず規模の大きな複合体の複合偽装が世をはばからず横行しているということである。そのようなことを「知る」とミステリーなど子供だましにしか見えなくなるが、だからと言って、手も足も出ないということにはならない。今の私には正直なところ悲観も楽観もまったくない。所詮は人間のやっていること、そのうちに複雑化した「複合」そのものから藪から棒に「足」が出てくると思っている。

                                   2015 10/19


<番外日誌20151016>

「川内原発反対派に地元民怒り」とは、それがもし実情ならもはや何が起きても自業自得としか言いようがないが、日本の「メディア」の「反対派」と「一般住民」という振り分けが「つい、どこの差し金?」と聞きたくなるほど意図的なのである。そこにいるのは「反対派」と「賛成派」しか在り様があるまい。さらに言えば、「反対派」と私欲のために将来を捨てた地元賛成派というべきであろうか。「その目、その声、その動き、つい、いくらって出てしまうでしょう」、すべてがあまりに幼稚で見え透いているのである。底が二重に割れている。


575.「裏切り」は死を意味する。


 どちらにしても「裏切る」という行為がもたらすものは裏切った者の「死」であろう。昨今では、中心部分から周縁部分まで単なる私利私欲のために自らの今までの言動をいともたやすく変節する,すなわち「裏切る」ことが大流行のようだが、それは「君子豹変」、「臨機応変」などに置き換えられるものでもなく、またそれらを援用できるものでもない。言うなれば許されざる根本義のようなものに抵触しているのである。メリメの「マテオファルコーネ」を取り上げるまでもなくどのような理由付けをしようとも「裏切り行為」は死を意味する。マテオファルコーネのように明解な裁断を即座にする者がいなくとも、裏切りを犯した者は、自らの「死」に至るまでの忌まわしき道から逃れることもできない。亡者はやはり亡者の道しか残されていないということか。

 

                                2015 10/16


 512.「境界例」が「境界例」に物申すような


  かつて、ある演劇人が世界は精神病棟であると言ったことがあるが、今やそれはさらに重篤化しているように思われる。あらゆる領域で見られる精神疾患的症状は程度の差があるだけで質的差異はなさそうである。「境界例」が「境界例」に対してもの申すような、それは客観性を欠き皮相的で、思い込みばかりで知性とはおよそ無縁な内容のものが多い。もはや統合失調症ではないかと思われるような者が「境界例」の者について講釈、非難する。不条理劇を彷彿とさせる認知症同士の会話、何とも無意味な先のない「やり取り」である。これは単なる譬え話でもなく実際に起こっている現実そのものの様相でもある。だから精神病棟なのである。当人はまともな神経でいるいるようだが常に「何ものか」に突き動かされている。その不安定さは、一見何事もなく静かな表面張力をみせているニトログリセリンの油状液体の表面と同様、わずかな衝撃で大小様々なエクスプロージョンを起す。「何ものか」とは、煎じ詰めれば「過剰な」,あるいは「過剰であること」自体に歪められてしまった欲望そのものということになる。

 これは飽くまで昨今の一例に過ぎないが、人を何人も殺しておいて、自分の「異常性」を社会的に承認させるためにブログは始める、本は出す。いい気なものである。殺された人間は一体どうなるのかと言いたくなる。本来なら自分がしたことと同じようなことを他者にされても仕方がないのであるが、そのような意識などまったくない。復帰、復旧不可能の忌まわしき欲望の虜となった鬼畜の道を邁進する者に無責任な偽善の手を差し伸べても徒に被害を拡大させるだけである。彼らはもはや「この社会」にいる限り「人間」という境涯に戻ることはできないと見る方が的確である。

そして、世上といえば、亡者の亡者による亡者のための政治、はたまた認知症の認知症による認知症のための政治が脇目も振らず独り歩きをするものだからむやみと角が立つ。

Government of the mad for money by the mad for money for the mad for money.

Government of the dementia by the dementia for the dementia.

It would be sheer madness.

                                                                                                                                      2015 10/11


 

<番外日誌20151007>

米シネマ 銃撃戦に カーチェイス 殺し殺しで 尚飽き足らず

 しかし、よくも飽きもせずといった感じである。人間の愚かさばかりが浮き上がってきて、「愛」だ、「自由」だということが残滓、表皮のようである。この手の映画製作には、銃器産業、軍事関連からの資金提供、援助は事欠くまい。最近では土日ともなるとこの手のそれも3流戦争モノの垂れ流しである。1959年製作の市川昆監督の「野火」(原作・大岡昇平)という映画もあるだろうと思われるが。そのレベルものは皆無に等しい。ただ疲れ切った非正規労働者の頭の中に非日常のヴァイオレンスを心地よく刷り込むということを確信犯的に行っているようにしか見えない。 

 


 511.「テキトー男」の国勢調査


 

 「テキトー男」で売っているタレントの高田何某のチラシが貼ってあったのでまた区の施設で「イイカゲン」なトークショーでもやるのかと思ったら国勢調査のキャストである。テキトー男の国勢調査、然もありなんというところである。タモリにしても、タケシにしても、それに類する者たちも詰まる所、その「在り様」自体が権力機構の「お友達」の輪の中にすでに組み込まれているのである。一言居士の「説教」、「自慢話」も聞くに堪えないが、「過去」のことは話さず無難な「下ネタ」の類ばかりとなると二の句が継げない。いまだにその線で通用するのかと思う程のこの「ノウテンキ」さは、やはり某国の「ヘッド」と同様というところでもあろうか。実態は幇間でしかない者が何やら「オカシ」なこと言い出しているというのが昨今の事情でもあるが、そもそもが幇間は富裕層があって成り立つもので一般大衆相手には成り立たぬ生業でもある。彼らが大衆の気持ちを代弁しているようで実のところは何もないというのも至極当たり前のことである。せいぜい「あるようなないような」ところで「カワス」ことくらいが落ちというところであろう。その「躱し(かわし)」の機能自体も権力機構に都合がよい。どれだけうまく躱して未来を偽装し、でっち上げるか。今後、彼らを「目くらまし屋」、「躱し屋」と呼ぶのも一興かもしれぬ。

                                                                                                                                                                                          2015 10/4


510.「吹替え地獄」


 

 外国映画の吹替え版については、何度かこのサイトでも取り上げたが最近の「政」事情といっしょで何度でも取り上げざるを得なくなるのである。それほど言わざるを得なくなる機会が多いということでもあろう。私憤、怨念で動くほど愚かでも暇もないので、「声優」達を特に批判の対象にしている訳ではない。現状がそうさせているのである。ものごとにはやはり過ぎればそれなりの問題が噴出してくる。懐かしい外国映画が吹替え版であったために何度見なかったことか。言葉の意味内容が、それも身体を通さぬ他者である声優の声だけで伝わればいいという時代はもうとっくに終わっているのである。特異な、奇妙な声ということだけで成り立つ、あるいは今までのままで成り立ち得るのは平面的なアニメの世界だけであろう。

 「口先」だけで何度でも騙されるのはこうした事情が恒常化しているからとさえ思えてしまう。

                                                                                                                                                                             2015 9/30

 


509.山本太郎の「ひとり牛歩」を矮小化する者とは


 某タブロイド紙が、山本太郎の「ひとり牛歩にこだわった」ことについて取り上げていた。よく取り上げたとは思ったが、Freelance Journalist・大嶽何某とやらのまとめ方にその捉え方、立ち位置のすべてが見えた。山本が、誰でもが分かっているつもりになっていて実は分かっていない重要な民主主義の本来の在り様について述べた後で、大嶽何某は、「山本議員の根底にあるのは”芸人魂”なのであろう。ー中略ー政治家として自らを演出し”民主主義を求める闘い”であえてヒール役を買って出ている。喜劇を信じ、笑われることや誤解を恐れない。国会議員として、単なる異端児なのか。」と締めくくっている。これで何か言った気でいるのであるから恐れ入る。芸能レポーターの類かと思ったがフリーランス・ジャーナリストと書いてある。まずその作為的「ズレ」具合が大手メディアの自称ジャーナリストとほぼ同様である。まず訳の分からない「芸人魂」という言葉の遣い方、「政治家として自らを演出し」という「演出」という言葉の誤用と空疎な類型化、「ヒール役」とはこれまたこのフリーランスの思考回路のシンタックスを疑わざるを得なくなる。「喜劇を信じ」という勝手な思い込み、「笑われることや誤解を恐れない」、都合よく合成された一連の言辞、山本の「ひとり牛歩」を「本当に」笑えてた者がどれだけいる?誰が「誤解」している?「笑う者とは」?「誤解する者とは」?。彼を国会議員として単なる「異端児」として取り上げてしまう意識構造自体が市民意識とは乖離するのである。フリーランスなら当たり障りのない安易な個人の分析などに終始してないでもっと社会的に切り込んだ記事を書けといいたくなるが、フリーランス・ジャーナリストでさえこの程度なのである。後は推して知るべしであろう。最近のお通夜のような記者会見etc・・・  簡潔に言えば、山本太郎はほんとうの意味で市民意識に目覚めた一人で、それが以前は俳優もやっていたということに過ぎないのである。彼の場合は、現在の状況が市民意識を目覚めさせ、さらに政治家として成長させたと見る方が無理はない。一方でよく見られる、既成政党に乗せられて、やがて走狗として仕立て上げられる私利私欲のタレント候補とは一線を画すべきなのである。彼自身も言っているとおり、それは飽くまで「今のところ」である。この視点がある限りまだまだ彼の賞味期限は過ぎていない。監視を怠り国会議員にすべてを託した時、民主主義の瓦解は始まる。彼のように孤立を強いられながら闘うということは特に今、想像を絶する重圧がかかるはずである。彼の姿を見て惜しみない声援を送った者がどれだけいることか。それは想像するに難くない。監視するのは国民の側にある!このことを忘れたら民主主義などはないも同然である。もうすでに瓦解ははじまっている。飽くまで「市民意識」に根差した行動を矮小化することしかできない者とは「非市民」、すなわち「臣民」の意識構造が抜け切れない者か、私利私欲の惰獣の群れということになる。

 

                                                                                                                                                                                     2015 9/27    


 

「ある日、その時」(45)2015年9月9日ー

<掲載内容>

501.「他に適当な人がいないから」などとは単なる主権放棄 502.「古き良き時代」など存在せず 503.日本の「主たる」ジャーナリズムの在り様が日本の文化・意識レベル 504.「元気」に「維新」を起し、「みんな」で戦場に行くことが「幸福」の原点では話にならない 505.国会前に集まらない者に日本の現状は見えてこない 506.「流行」作家の「流行」の意味の履き違え 507.9月17日、汚辱にまみれた日、Remember remember 9.17 、a day filled with shame ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・508.Justice(報い)を受けるのは必至 <番外日誌20150925>「老人は知恵はあるが、価値はない」 <番外日誌20150925>「警察組織」とは

 

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〈番外日誌20150925〉

「老人は知恵はあるが、価値はない」と言い切った老人がいたが、やはり並の老人ではなかった。その後、その老人は身を挺して志ある若者を救ったのである。長く生きていれば良くも悪くも自然に知恵はついてくる。しかし、それだけでは先に進むファクターにはなり得ぬということでもあろう。

 「老いたるは 皆かしこかり この国に身を殺す者 すべて若人」では先はあるまい。敢えて言えば、この場合の「老いたる賢さ」とは私利私欲のためであれば如何なることでもする「賢さ」である。

<番外日誌20150925>

勘違いしている人のために老婆心ながら言えば、「警察組織」というものは個々の警察官の「人間性」は別にして決して市民生活の安全を守るなどいうことが一義的目的にはなり得ぬ組織なのである。その主たる目的とは市民生活の「監視」である。常に現体制を維持するための監視、制圧としてしか機能しないのが「警察組織」の実態であると同時に限界なのである。犯罪捜査などもその一環でしかないということである。最近の国会前の鬼子母神も腰を抜かすような過剰警備、「逮捕」されたデモ参加者の「機敏」な家宅捜査を見てもそれは顕著に現れている。殺人か自殺かも不明瞭な事件、初動捜査のミス、司法解剖の省略、未解決事件の量、検挙率の低下、個々の不手際な事例については枚挙にいとまがないにもかかわらず現体制に抗議する者に対する動きは恐ろしく手際がよいというのがその実態の在り様を雄弁に語っている。しかし、捜査令状もなく乗り込むとは、どこの法治国家かといいたくなるが、どちらにしてもこのままで済むはずもない。過剰警備にしてもその他の一連の動きにしても、それはいかに「本体」が戦々恐々としているかの裏返しでもあろう。



508.Justice(報い)を受けるのは必至


 9月19日のJUSTICEはどのような手段を講じようとももはや回避不能である。これからが民主主義を真に自分自身のものとする闘いの始まりということでもある。要するに、今までの民主主義とは単なるキッチュ、まがいものであったということである。これ程の腐敗、堕落、暴力、狂乱が渦を巻いているのを目の当たりにしていると、このような状況の中でちまちました私小説的世界に拘泥しているものすべてに対して腹立たしさを覚える。現状は常に自分自身が直接・間接的に創り出しているのである。これ以上「主」が舌先三寸の「詐欺師」にはめられていては何と言われても、どのような扱いを受けても仕方あるまい。しかし、ここまで国民を愚弄するとは!JUSTICEは不可避。黙っていても弄ばれるだけ、たとえ弄ばれるのが好きな御仁でもこの先は切り捨てられるしかあるまい。

                                              2015 9/21


507.9月17日、汚辱にまみれた日、Remember remember 9.17 、a day filled with shame・・・・・


 決して忘れてはならない日となった9月17日。それはあらゆる意味で「汚辱」にまみれた日であった。この日を忘れることは今後どのような「蹂躙」をも許すことになる。今まで以上の「動き」が必要となってくるだろう。そして、9月19日、安保法案成立。もし人間として生き続けるのであれば100倍返しのリベンジは当然であろう。今やそれこそが唯一人間を人間たらしめるものとなり、もはやあきらめと忘却は人間としての最低条件さえはく奪し、個人を亡霊化するだけとなってしまった。忘れることが致命傷となることを肝に銘ずるべきであろう。多くの人々にとっては選挙権だけが武器である。それを「適当な人がいない」などという未成熟市民のような意識で放棄したり、安易に使うのではなく、その都度一人一人が権力構造を組み替えるような意識で行使するのでなければ、この隙間に生えた派手な毒キノコのような存在はいつでもすぐに巨大化する。次回の「外科手術」はこの「悪性腫瘍」と「周辺の細胞」を根こそぎ切除しなくてはなるまい。問答は向こうが拒否しているのであるから問答無用の切除となる。それがまず100分の一のリベンジである(suite)

                                                                                                                       2015 9/18


506.「流行」作家の「流行」の履き違え


 確かにある意味ではゲーテでさえ「流行」作家でもある。しかし、そこには その時代に対する深い「共感」に根差すものか、単なる時代の「饗応」かの違いがある。「共感」も「饗応」も共に「流行」すなわちその時の趨勢となり得る主要素でもある。しかしながら、その深浅の差は明らかであろう。私はその点について、以前「流行作家」の限界性として時代に対する「饗応」しかない、その時代を生きる「痛み」が見えてこない作家について書いたことがある。(suite)

                                                                                                         2015  9/15


505.国会前に集まらない者に日本の現状は見えてこない


 それは過言でも何でもない。実際に自分の意思表示をしっかりとする者にしか現実は見えてこないし、見ることさえできないものである。自分では「賢く」振る舞い、現実を見ているつもりでも実は何も見えていないという具体例は枚挙にいとまがない(ツイッターなども然り)。それは展開不能の負の連鎖にすぐにリンクして生涯見れども悟らずの人生を送ることになる。

 まず、そう思ったら行動することである。この場合はとにかく「集まる」ことである。「彼ら」が恐れているのはこの「集まる」という行為そのものなのである。国会前の異常な警備体制そのものがそれを如実に示している。

 しかし、今までこれ程までそこに「いる」ということに大きな意義を見出し得ることはなかったであろう。そして、多くは従容と死さえ覚悟してるのではないかと思われる。死に大きな意義を見出し得るとするならこのような時だからである。今、世界の目は国会前に向けられている。

                                                                                                            2015 9/14


504.「元気」に「維新」を起し、「みんなで」で戦場に行くことが「幸福」の原点では話にならない。


 これはあまりにもそのまま過ぎて書きようがない程である。誰でも「わかる」、それでいてもっとも意味不明の言葉の糊付けばかりと言うべきか。 様相も不明な「元気」も「維新」も「みんな」、「幸福」もそもそも在り様がないのである。要するにあるようなないような内容をあたかもそこにあるがごとくに見せかけているだけとしか言いようのない類である。                                   

                                                 2015 9/12


503.日本の「主たる」ジャーナリズムの在り様が日本の文化・意識レベル

 周知の事実であろうが、何から何まで諸外国経由でしか自己認識ができないという「特殊事情」。今、現実に起こっていることさえ海外経由でしか見えないという実情がある。隠ぺいと糊塗、そして捏造と目くらましだけでどこまでいくのか、驚くべき嘘の量である。ここまできたら嘘に嘘を重ねていくしかないのであろうが詐欺師の手練手管を微に入り細を穿って見ているようでもある。もはや伝えられることの全部が逆だと思った方がいい程。ますます吟味、読み取り能力と想像力を必要とする時代になった。

 それに呼応するがごとくに文化・意識レベルも同様である。(suite)

                                                                                                                  2015 9/11


502.「古き良き時代」など存在せず


 そんな時代がいつあったのか、どこからのぞき見ているのかと言いたくなるような思い込みである。「古き良き時代」など歴史的にも一度として存在した例はない。永続的な「桃源郷」の類などはどこにも存在しないと見る方がすべての問いに対して妥当な判断を下すことが可能となる。(suite)

                                                 2015 9/10


 501.「他に適当な人がいないから」などとは単なる主権放棄


 とても民主主義の主権者が言うことではない。無責任極まりない、というより民主主義そのものがまったく身についていない証左ともいえる。主権者が「他に適当な人がいないから」などと平然と言って何か言った気でいること自体がおかしいのである。その奇妙奇天烈さが分からないということが取りも直さず民主主義国家の住人ではないという証にもなる。「適当な人」とは果たしてどのような人なのかということを問い直すこともせず、そうかと言って新たに掘り出し、創り出そうともせず「他に適当な人がいないから支持する」などという怠惰にして怯懦な姿勢ではとても主権在民などは夢のまた夢、だからこれ程までに無視され、なめられ、馬鹿にされ続けるのである。そのような人々は実際にはどれほどおちょくられているか気が付いていないのであろう。要するに、彼らに足元を見られているのである。怠慢と隷属根性から一歩も抜け出し得ぬという足元である。「他に適当な人がいない」と「判断」した瞬間に主客は転倒するのである。

                                               2015 9/9

 


 

 

「ある日、その時」(44)2015年7月28日ー

<掲載内容>

491.「腐った蜜柑」??? 492.二度と手にすることのなかった本 493.仏教者が「日本を守る会」とは 494.存在自体が問題 495.川内原発再稼働、愚かの一言に尽きる。496.「国家不在の憲法論は非常識」とは?497.タレントのギャラ一覧を見て 498.8月30日 499.「張りぼて」の週刊誌の曰く・・・500.能ある鷹は爪を隠さず

 

                                                     <転載・複製厳禁>



500.能ある鷹は爪を隠さず


 「能ある鷹は爪を隠す」とは世によく言われることであるが、比喩にしても底の浅い割には人を分かったようにさせる効果はあるようだ。鷹は爪を隠している訳ではないやむなく一時的にしまっているだけのことである。譬えにしろそれを意識的に「隠す」となると話は別で、これは危険でさえある。ものごとは常に使用することによってしか現状維持もできなければ、むしろ退化風化することの方がはるかに多い。時と場合によって、あればの話ではあるが「爪」も使用していかないと、使いたいときには使い物にならないということになる。「雉も鳴かずば撃たれまい」、「見ざる、聞かざる、言わざる」、どれも「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」といった時代錯誤も甚だしい御仁が喜びそうなものばかりである。「能ある鷹は爪を隠す」もそれらと然したる距離はない。その使用範囲をみていると前意識のレベルですでに絡め取られているというケースをよく見受けられる。どんなに思っても、どれほど自分の中にあると思っても「やってきたこと」以外に人生はないというのが実情である。可能態とは飽くまで可能態であって無に等しい。そうではないと思ってみても、「爪」を隠し通せた鷹は能ある鷹どころか果たして鷹であったかどうかさえ危ぶまれるものである。人生は短い。「隠している」内にも終わってしまうこともある。だから、思った時に惜しげもなく出して行けばいいだけのことである。「思った時」とは瞬時の一回性である。それは何でもかんでも金につなげる商人根性とは別次元のことである。「言うと損するから言わない」という者を昔からよく見かけたが、一人としてそれ程の人生は送れていなかった。それ程のものは何もなかったのである。たとえ、深く隠し持っているということがあったにしても、それは「時間」の恐ろしさを知らないだけということにしかならない。

                                             2015 9/6


499.「張りぼて」の週刊誌の曰く・・・


 「張りぼて」の週刊誌が国会前のデモを「張りぼてのデモ」だとおっしゃる。さぞかし「貴いお方」の肝煎りなのであろう。そうでなければ「張りぼて」が我が身を忘れて果たしてそこまで言い出せるものか?今時、週刊誌のネタなど、どこが面白いのかと思うのが大方、それすら気付かずに息巻くものだから空ぶかしも甚だしい。すべてはズレているのである。後出しじゃんけんをした挙句に負けて、相手にいちゃもをつけているようなもの。その様、脳味噌がアルコール漬けになっているようでもあるが、今では酒のつまにもなるまい。「張りぼて」はすでに見透かされているのである。底が割れている者がどんなに騒いでみても、それで動く者たちとは虚しき者たち、先のない者たちということになる。「反原発」ということが、また「違憲問題」が「戦争回避の動きが」イデオロギーと何の関係がある。それ以前の問題であろう。イデオロギーを云々するのであればまず言葉の定義から厳密にすべきである。今に始まったことでもないが、週刊誌などの類は 買って読むほどの内容はほとんどない。大見出しの箇所など読めば「貴いお方」のホラ話を聞かされるだけである。いい大人がそれを真に受けていると今や簡潔明解な小学生にもそっぽを向かれ兼ねない。週刊誌のネタなどいくら仕込んでもせいぜい場末の居酒屋談義にかび臭い造花を添える程度が落ち。いい加減およしなさいよ、野暮なことと言いたくもなるが、そのみっともなさを見ていると、阿漕(あこぎ)な所業そのものが大人を成す主要素かとさえ思われてしまうのである。阿漕な行為は必然的に「人間」離れもたらし、やがては機の加減で完全に「人間」を離脱してしまったヒットラーの圏内に入ってくる。「歴史に<動かされた>偉人たち」(?)にも登場するアドルフ・ヒットラーとは実は完全なる「人間」失格者なのである。すなわち「人間」の境涯にはいない者ということである。そこが凡夫には奇異に映るが、それは本質的に似非「人間」世界でもある。

                                             2015 9/4


498.8月30日


  終戦記念日の8月15日は父の命日でもあり、「8月15日、我ら爆死せり」と詠んだ父の朋友知己の一人とともに忘失することはできない日でもある。そして、2015年8月30日、それは多くの人々にとって見る見ない、知る知らない、行動するしないとにかかわらず、さらなる「戦い」の日々の開始を意味することになった。

 地元の街では「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損」という今やシャレにもならない歌詞に合わせた単調な阿呆踊り見物に所在なき者たちが群れていた。今、所在なき者とはやはり阿呆の証左なのであろう。

 明日8月30日、安保法案反対の抗議行動のより一層の拡大展開を期する。

                                              2015 8/29

※安保法案抗議集会は「最大規模」となったが、これは氷山の一角で今後は「最大規模」などという範疇では捉えきれなくなるだろう。


497.タレントのギャラ一覧を見て


 売れているタレントのギャラが一時間200万だという。これは汗水流して働く低所得者の一年分の所得に等しい。これだけ貰っていればどのようなことでもやりかねないだろうと思われる。金で買われた男芸者、肝心なところは巧みに縫ってホンネらしきもの、多くは劣情の類をちらつかせながらお茶を濁すのが生業ともいえる。それにしても破格のギャラである。実のところ、彼らの会話はジャーナリスチックなだけで、内容的には井戸端会議、それ以下であってもそれ以上ということは決してない代物である。すぐに忘れても何の問題にもならない話と言ってもいい。むしろそれで感覚が鈍磨されるのであれば百害あって一利なしというところであろう。愚民政策の一翼を担っているだけでしかない「庶民」、「ナチュラル」、「ホンネ」の装いは単なる商い、時給1000円程度の者が半ば馬鹿にしながら笑っている「万人のおもちゃ」は時給200万円なのである。とても庶民感覚などわかりようがないというのがその実態であるが、どうすれば大方に受けるかを以前の苦い経験則から取り込み反復しているだけなのである。それをよしとするかバカバカしいと思うかは各自の勝手であるが、、「万人のおもちゃ」の内実は万人蔑視の裏返しということがよくある。代弁者のような顔をして劣情をからませて「ホンネらしきもの」を言い放つが、そのどれもが真情あふれる軽薄さとはおよそ無縁の小賢しい「商売」だけが見え隠れしている。要するに、似て非なる者なのである。

 「売れてなんぼ」と言い切るだけの世界は、売れるためには何でもするという世界である。それはまた詐欺師の世界でもある。彼らの言動を喜び、信じる者はやはりアホと言われても仕方あるまい。底が割れたら仕舞の世界、底が割れても何とかやっているのは厚顔無恥の代名詞となってしまった政治屋くらいなものである。

                                                                                                       2015 8/25


 496.「国家不在の憲法論は非常識」とは?


 これもまた御多分に洩れずの類である。ここで天下国家を論ずるつもりは毛頭ないが、ついそれでは国家とは何か?あなたの言う国家とはどのような国家を想定して国家不在と言っているのかと聞きたくなる。「改憲」することによって米国からの押しつけ憲法を脱却し、そこで初めて「独自」の国家としての体を成し得るなどと本気で考えているのか、それともそのように見せかけているのか。実のところはすべては米国の思惑通りのシナリオであろう。改憲は米国が一番したいことである。だから二枚舌の「議員」たちがやりたい放題なのである。黙っていれば「安保法案」の後はさらに米国隷属は深まるだけというのは余程の単細胞でもない限り明白なことであろう。この「御用学者」の「見解」は要するに、より強固になった米国隷属国家としての憲法論それが常識的であると言っているようなものである。このような流れの中で、さらに米国隷属化を強化する「安保法案」に反対している者の方が自らとそこにいる国の行く末を憂える事ができるほんとうの国民ということになる。それに反して、他国に身売り同然のことしている者、またそれに賛同する者を何というべきか、抗議デモをしている者たちではなく、デモに反対している者たちが結果的に売国奴、非国民の位置に立たされているのである。この構図が読めないといつまでたっても単なる「パシリ」で終始するだけということになる。

 あまりにも理想的な世界に誇れる憲法9条、それは今まで意識するとしないにかかわらず安全の「護符」でもあった。今更ながら押し付けた者でさえ躊躇するほどの憲法である。しかし、押し付け自体にいつまでもこだわってその「護符」を「自らのもの」として拡大発展させることができなかったとするなら、そのことをこそいつか恥じることになろう。現状は拡大発展どころかその「護符」を割り、矜持も捨て、米国の一挙手一投足に一喜一憂しているだけというのが実情であろう。

「国家不在の憲法論は非常識」なのではない。国民不在の憲法論が非常識なのである。

 国民の血税で賄われている者たちが何をご大層なことを言っているのかと思われることが多いが、勘違いされては困る。税金で食っているあなた方は国民の「しもべ」なのである。

                                                   2015 8/14

 


495.川内原発再稼働、愚かの一言に尽きる。


 何度でも同じ過ちを繰り返す者を愚者というが、富裕層間では過ちも儲け話となると過ちとは言わないようだ。安全基準にしても「世界最高水準の新基準に認められた原発から再稼働する」という程度。これにはただ呆れるばかりで、日本の置かれている自然・地球環境の特殊性がまったく考えられていないのである。日本の原発は、その安全基準が世界最高基準を遥かに上回っていて当然というところに設置されているという認識がまったくない。オメデタイ話である。狙われたらひとたまりもない原発をいくつも作っておいて、有事の際はなどと妙な危機感を煽る。少子高齢社会、自給率は落ちる一方、原発という爆弾かかえて一体何をするつもりなのか。そこにはアメリカの隷属国家としての甘えもあるが、都合が悪くなればアジアのことはアジア人に任せるということでいつ梯子を外されるかわかったものではない。とにもかくにもすべてに渡って日本独自の展開は失われてきていると同時に何をやっても付け焼刃のようなものではもう通用しないということである。

 憲法問題にしても、アメリカから押し付けられた憲法ではなく日本独自の憲法などと勇ましいことを言っている者たちもいるが、実のところ、今の憲法ではアメリカにとって都合が悪くなってきたというだけの話であろう。今度はアメリカの押し付け「改憲」といったところである。名称は違っても「安保法案」は実質的には「戦争法案」とならざるを得ないのである。

 もういっそのことアメリカ合衆国日本州東京郡大字霞ヶ関とでもした方がよかろう。

                                                  2015 8/11


494.存在自体が問題


  このような人間の存在自体が民主主義の埒外なのであるが、それにしてもその所業は「本来」の日本人的気質から言っても「みっともない」、「見苦しい」の一言で片付くことばかりである。以前この男を三島由紀夫と重ね合せた「提灯持ち」がいたが、ここまで「義」もなく羞恥心のない人間を三島と重ね合せたところで合わさる箇所などどこにもあるまいと思われるが「提灯持ち」は強引につなげ合わせる。だから歪んでくるのも当然である。単なる詐欺師と然したる変りもなく、いざとなればどこに雲隠れするかわからないということが明々白々だという三島が一番嫌ったところだけはしっかりと隠し持っているから質が悪い。取りも直さずこれも戦後70年の一つの集約なのである。それを棚に上げてのもっともらしいご開陳、言う傍から言葉が口内で溶解しているではないか。何を駄弁っているのかと思われる「文化芸術懇談会」、自ら度量のない小人であることをわざわざ明かしているような「自虐史観」などという造語、己の卑小をさらに拡大させ未来を閉ざしているような造語を「呪文」のように繰り返すだけの「悪霊たち」にとり付かれたような救いようのない人々である。

 愚者の言動にいちいち関わっている暇などないが、あまりの愚者振りについ言いたくもなる。滋賀4区のホストのような衆議院議員が、戦争に行きたくないというのは(すでに安保法案とは戦争法案であることを認めているのである)「自分中心、極端な利己的考えに基づく」と言っていたらしいが恐れ入谷の鬼子母神。一番身勝手な、利己的な者たちが「平然と」大義をこじつけて人々に犠牲を強いてきたのはどこ吹く風である。それでは戦争に賛成している者たちが利己的でないという証拠が一体どこにある?それ程の義があるのならまず自ら陣頭指揮を取るだけの覚悟が必要であるが、どれも自らの言い逃れ、糊塗、捏造にすら殉じることができぬ熱に浮かされたような亡者の群れである。金になると思えば武器で、そこで五体が飛び散れば今度は使える臓器で商いを考えるような輩。彼らを同じ「人間」だと思うとすべて読み間違える。国民の多くを棄民扱いしておきながら今更「あなたが主役」とは何の主役なのか。成長戦略とは棄民の肉弾攻撃、要するに、地獄の主役という意味なのであろう。黙っていれば何をするかわからない手合いである。若人を死地に追いやる愚にも付かないたとえ話の数々、そう思うのならまず自らがおやりなさいということである。

 それから、必ずと言っていい程、反対するものに対して「それでは対案を出せ」と言う者がいるが、それはまったくおかしなことである。危ないと思えば、まず声を出して「違う」と言うべきであって、その時点で対案云々などは言う側の無能の証明である。「反対」というのは立派な意見である。対案の検討などはまず反対意見を出してからで充分である。そもそもさらに深められた対案を出すために審議、議論というものがあるのであろう。特に最重要懸案事項についてなど急ぐ必要はどこにもない。しかし、ここにきてまた性懲りもなく落ち目のひも付きタレントなどを使っての「巻き返し」、完全に末期症状であるが、逆にどこの誰がほんとうに自分のスタンスを持っているかいないかがはっきりするいい機会でもある。この際今まで以上に厳しくチェックを入れるべきで、それが民主主義の基本である。それを忘れて惰眠を貪っていれば民主主義など簡単に崩壊する。

                                                    2015 8/9

En bref   la face cachée de Abe est très dangereuse.Les mensonges sans cesse----comme le nuage artificiel---


493.仏教者が「日本を守る会」とは


 ただ単に「日本を守る」などというコンセプトで集約されるような偏狭な世界観は仏教にはない。要するに似非仏教なのである。1974年に臨済宗・円覚寺貫主の朝比奈宗源によって作られたというこの会は「日本会議」の前身でもある。後は推して知るべしであろう。江戸幕府の政務に参画した天台宗の天海を思い出させる。要するに行政の末端を担い、寺請制度などをつくり仏教を民衆の統制の手段として活用し、本来の仏教を否応なく歪めてしまった張本人でもある。日本でほんとうの意味で仏教が根付かないのもそこらへんが要因ともなっている。「現世御利益」なども民間信仰(神道)レベルの話で非仏教であることは敢えて言うまでもないこと。どちらにしても味噌も糞も区別できなくなっているようでは「認知症」の類と言わざるを得ない。亡者も「こと」、「もの」が的確に見えていないと言う意味では「認知症」の一種である。

 猛暑が続く盆の折、亡者船に出っくわさぬよう気を引き締めた方がよさそうである。

                                              2015 8/6


492.二度と手にすることのなかった本


 二度と手にすることのなかった本も数限りないが、俗世間ですぐ騒がれる芥川賞受賞作品というわかり易いところで言えば「太陽の季節」(石原慎太郎)、「限りなく透明に近いブルー」(村上龍)、「赤頭巾ちゃん気をつけて」(庄司薫)、などもそうである。芥川賞も売れ筋の青春小説を定期的に選ばないと身が持たないとみえて結構青春ものも多い。「青春小説」などと呼ばれるものにはあまり関心がない私としてはいつしか遠ざかってしまうのも自然な流れである。芥川賞作品も、戦前の石川達三、石川淳、火野葦平、戦後の井上靖、安部公房、遠藤周作、開高健、大江健三郎、北杜夫あたりまではその作品を読み直すことはあり得ても、それ以外の作品では余程何かの縁でもない限り手に取ることはまずないであろうと思われる。最近では二度手にするどころか一度として手を出さない、出したくない本ばかりになってしまった。

 しかし今、ありがたいことに、逆に「いい本」、「内容のある」読み応えのある本が安く手に入る。場合によっては古本で100円、200円で手に入ることもある。著者に申し訳ないような値段であるが、100円の本で人生の転機を迎えることができたり、人生を豊かにする人が現れることで著者の苦労も少しは報われたと考える方が賢明なのかもしれない。しかし、世界レベルの内容を持つ文学書、哲学書が訳の分からぬ新刊書、劇画、漫画本より安く手に入るのであるから思えば不思議なものである。

                                                2015 8/1


491.「腐った蜜柑」???


  福岡の市議がデモ参加者に対して「腐った蜜柑」と言ったそうだが、その意識レベルたるや二の句が継げない。さらにデモ参加者は就活に不利などと脅しまでかけているから最悪のパターンである。どこの国の話かとも思われるが、もしこの程度で左右されるような者なら一事が万事で、たとえ就職したにせよその会社の主力とはなりえまい。不当な脅しの手の内に簡単に収まってしまうような者が一体何ができるかということである。一生びくつきながら窓際であろう。大体、この程度のことで面接官が不採用の判断をくだすようなところはどちらにしても行く末は危ない。そもそもそのようなことを面接官が聞くことはできないはずなのである。

 しかし権力のパシリのパシリ、すなわち心底奴隷根性で充たされた者というのはどこにでもいるものである。どちらにしても権力の走狗というものは権力自体にやがて煮られるというのが歴史的実情でもある。それでも「奴隷」の、それも奴隷根性の癒しようがなくしみついた者たちの秘かな楽しみは奴隷でない人間たちが上げる声を「物知り風に」あざ笑うことである。忌まわしき歪みともいえる。

 今後も、この類は手を変え品を変え出てくるだろうが、一種の悪あがきである。飽くまで冷静にいちいち彼らの「感情の虚偽」に乗せられている暇などあるまい。悪あがきとは,言ってみれば根拠もない無内容な撹拌(かくはん)である。したがって、「ああ言っていた、こう言っていた」ということだけではなく、情報の冷静な取捨選択能力が問われてくるということである。そして、思ったことを、やるべきことをやるということである。それは必ずその個人の重要な資質となってくる。「忌まわしき歪み」から発する罵詈雑言に身を委ねる者などはどのようなことを言ってもそれだけの人生しか訪れることはない。憐れであるが自業自得である。

 寄らば「大樹」の陰で実は「走狗鍋」の煙も賑わっているのであるが、不思議なもので「走狗」というのは釜に入れられているのに風呂に入っているつもりになっているから怖いものである。

                                                      2015 7/30


 

「ある日、その時」(43)2015年6月25日ー

<掲載内容>

480.継ぎ接ぎだらけのアドバルーン   481.地球に興味を持つエイリアンなど皆無 482.ヒト型がん細胞 483.驚いたことに484.「平均所得」?485.今更「勉強会」?486.ユーロ紙幣の味気無さ 487.有名無実なもの488.赤字分は0という計算 489.吹き替え版は最悪 490.たった一人の中に

 

                                                      <転載・複製厳禁>



490.たった一人の中に


 フランスからの便りで、数年前私と話したことを鮮明に今でも覚えているという人がいるということを改めて知って何とも言えないものを感じた。私がこうして生きて為してきたことが地球の裏側のたった一人の人間の記憶の片隅に今も鮮明に残っているということが曰く言い難き感慨なのであろう。その話の内容も単なるお喋りというよりは語り合えたと思えるような人であるから尚更である。

 たった一人のそれも頭脳明晰なる人物の中に、鮮明な記憶として自分が存在していたことを思うとそれだけで充分な気もする。

 

                                               2015 7/19


489.吹き替え版は最悪


 どの吹き替え版も程度の差こそあれ最悪である。聞き取りにくい一本調子な日本語と声の「悪さ」、口先だけの声の「在り様」。根本的に考え直すべである。声質だけが取り柄ならアニメだけの領域でやってほしいものである。折角の外国映画が台無しなのである。声の「在り様」とは演技と一体である。何をやっても嘘っぽい物まね役者の演技を観ているようで映画の楽しみを激減させる。だから、吹き替え版だとすぐにスイッチを切ってしまうのである。感覚器官がニセモノに慣らされたくないということもある。

 世間一般では、声優とは俳優をあきらめた者たちがやるものだと思っているようだが、それではすべてが悪循環を繰り返すだけである。要するに声優に対して半ば同情的でその程度のものであろうと批判の対象外なのである。これは前にも言ったが、諸外国の一級の役者の吹き替えを「アニメの乗り」でやられたらどうなるかということである。実際はそういうことが平然と行われているのである。これでは真贋の区別もつくまい。

                                              2015 7/23

 


488.赤字分は0という計算


 税金の話である。赤字を出してもどのくらいのマイナスかは問題にならず、すべて0という計算で、それを埋め合わせるために新たな給与所得を得ても僅かに増額した所得から保険料などもすぐに変更されて2倍から3倍近くも上がってくるらしい。これでは低所得者はいつまで経っても、どのように働こうが身動きつかず、年金頼りの高齢者であれば年金は目減りし、行き詰まってしまうのは目に見えている。

 毎日を姑息に生きて自分だけはと思っていた者たちも、やがて明日は我が身ということが現実となる。「寝ている」内に、「黙っている」内に笑っている内に事は着々と進み、「目が覚めた」時には棺桶の中ということにもなり兼ねないのが実情のようである。それ程に危機に瀕しているということでもある。

 明るい話は妙に嘘っぽく、暗い話は切りがない。空も構図の取りようもない雲ばかりである。

もはや悲観も楽観もない、ただ変革すべきものがあるようにあるというだけである。

 

                                                   2015 7/22


487.有名無実なもの


 有名無実なものがほんとうに多いというより実のところ有名無実なものばかりではないかとさえ思っている。芥川賞、直木賞なども御多分に洩れず凋落の具合が甚だしい一例であろう。一事が万事でこの種の事例には枚挙に暇がないので今更とも思うが、時と事の次第では何度でも取り上げざるを得なくなる。それは生きることと不可分に関わってくるからである。できれば興に乗って書き記したいものである。

 蓋し、「作家」などというのも大なり小なり作り出されたものであることに変わりはない。その真贋の唯一の線引きは生きた時代とどれ程深く関わっていたかという極当たり前のことにしか行き着かない。その関わりが皮相的であればあるほどやがて「流れ去る」というだけのことである。本来、作家などはなろうと思ってなれるものでもなく、なるものでもない。敢えて言えば、作家と言い得る者はあらゆる事象について見尽くすことの覚悟ができた者だけなのである。その他は「売文業」、「売文家」のような類のものであろう。もっともそれに該当する名称は内外問わず事欠かない「三文文士」、ポットボイラー(potboiler)」、a hack writer,barbouilleur de papier,etc。因みにhackneyの略のhackとは二流の報道記者、政治家、金儲け第一の医者、弁護士も含まれる。

                                                  2015 7/16


486.ユーロ紙幣の味気無さ


 やはり、フランスはフラン、スペインはペセタ、イタリアはリラ、ギリシャはドラクマであろう。以前スペインのホテルで円をユーロに変えている時にホテルの客に1万円札を是非私に替えさせてほしいと言われたことがあった。今つくづく見てもユーロ紙幣はほんとうに味気ないものである。フラン、ペセタ、リラ、ドラクマなどはそれぞれの国柄をよく表していて実に面白い。観光国でもある国がどんな理由があるにせよユーロに切り替えたこと自体がすでに誤りであると思わざるを得ない。このユーロ切り替えについてもこれまたもっともらしい分析をしている者もあるが意味不明箇所が多々ある。それでもベストアンサーに選ばれているというのだから選んでいる方の頭の具合も不安になってくる。ついほんとうにわかっている?と聞きたくなってしまうのである。いつまでも詐欺師、三百代言が跋扈するのも頷ける。特に鴨葱状態が恒常化している日本では尚のことである。

                                              2015 7/12


485.今更「勉強会」?


 「勉強会」?、いつまでやってれば気が済むのか?勉強好きなのか、能力のない者たちが多過ぎるのか。また例によってアリバイ作りなのか?しかし、本当に、最大限の皮肉を込めて「勉強好き」な人々である。充分に勉強もし、考え抜いた者が議論し、事に当たるというのなら分かりもするが、そうではないただ低レベルな内容に終始しているだけの「勉強会」、それも税金で「お勉強会」である。今そんなことしている暇があるのか、いい加減にしろと言いたくなるのも当然である。学生時代もろくに勉強せず、いかに成り上がるかについてだけは脳みそをフル回転させていたが、根幹領域に関わるものを考えることについては鍛えられていない軽佻浮薄の、ただ遊び惚けていた者がいい年して今頃になって「勉強会」というのが実情であろう。どちらにしても、こういう者たちはいくら「勉強」したところで変わりようはない。集ったところでそれこそ互いの劣情の確認が関の山であろう。こんな人間達がどうやって「平和を守れる」というのか。身の程知らずである。もういい加減このような人間たちを選ぶのをやめ一掃してみてはどうか。その最期の時期に来ている。

                                                 2015 7/9


484.「平均所得」?


 厚労省調査の「平均所得」にはいつも呆れている。大体500万から600万の間を行き来しているが、実際のところ大方が250万から400万の間といったところであろう。月収15万の者などは200万にも満たない。それもそのはずで10人の内一人でも1000万以上の者がいれば「平均値」はすぐに跳ね上がるのである。「平均所得」の「平均」には一般的な、多くの量、数の中間的な値などという意味合いはまったくない。10人の内一人でも一億を超える者があれば平均所得は1000万以上ということになる。このような数値を出されればいくらオメデタイ庶民でもその数値の虚構指数に愕然とするであろう。この数値のトリックには平均所得がたとえ1000万と上がっても、大方の所得は変わらず、生活が楽になったという実感はまるでなく、むしろ苦しくなっているということもあり得るのである。何のためにこんな無意味な数値をもっともらしく「割り出している」のかとも思う。「民の竈が賑わってるか」どうかなど一目瞭然であろう。無意味なことに現をぬかし現状を喪失しているのでは行く先は見えている。

 「民」の虚栄心とプライドをうまく刺激しながら、誰も実感できない平均所得1000万円以上を実現したいのであろう。実際に利するのは「自分たち」だけである。

                                                  2015 7/4


483.驚いたことに


 敢えて書いておく必要もないと思われたので削除した。「驚いたことに」だけで充分である。

                                                2015 7/1


482.ヒト型がん細胞


 いよいよ「ヒト型がん細胞」としか言いようがなくなってきた。それは、賽の河原でも賽の目に現を抜かす者たち、棺桶に両足突っ込んでも権謀術数をほしいままにすることしか頭にない者たちのことである。まともに話をするだけ無駄であろう。もはや切り取るしかないが、まず彼らに耳を貸さないことである。三枚舌、四枚舌で決してほんとうのことを言うことはない。一挙手一投足が嘘、吐く息が嘘なのである。耳を貸したが最期、「ヒト型がん細胞」は巧みに入り込んで来るということである。鷹揚に構えていたら全身にがん細胞が転移していたということにもなりかねない。敢えて言うまでもなく、彼らの弁明、甘言はすべて嘘である。取り入るためなら何とでも言うであろうし、何でもするであろう。それは常軌をはるかに逸しているが、常軌を逸すること自体が手段と同時に目的でさえあるようである。「人間」の境涯から外れざるを得ない者たち、「修羅」、「餓鬼」などと言うより、やはり不細工な「ヒト型がん細胞」そのものと言った方がより適切であろう。もし、これを大げさと思うならすでに彼らの手の内であろう。やがて、「身体」の変異を思い知ることになる。ここでいう「身体」とは、心身と周辺事情という程の意味である。

 「ヒト型がん細胞」をピカソが描いたらどうなるか、やはり奇妙奇天烈、奇怪千万な自らの毒性で自分自身もやられている不気味な妖怪となるのではないか。実際、彼らの言動、姿形をよくよく見れば人間離れした妖怪そのものである。それとも人間即妖怪と見るべきなのか。言わずもがなではあるが、そのような妖怪には「人間的良心」など微塵もないということを知っておくべきであろう。

                                                   2015 6/26


 481.地球に興味を持つエイリアンなど皆無


  そもそも宇宙で最低の知的生命体と呼ばれている「人間」の住む地球に、遥か彼方から容易に地球に接近できるほどの能力を持つエイリアンが地球を「侵略」するなどは考えるだけでも蒙昧過ぎる。人間の愚かな楽しみ娯楽の領域の話ではあるが、どの作りも、エイリアンの具象物も単に人間の恐怖心を刺激するものをたよりに作りだされた程度のお粗末なものである。人類は未だに過去の生物、恐竜たちなどが残してくれたものをたよりに、また一方では後始末もできないエネルギーをたよりに大言壮語をしてはばからない何とも愚かしい生き物なのである。そんなものにエイリアンがわざわざ目を向けるかという話でもある。そんな愚かしさを本当の意味で乗り越えてはじめて先も考えられもするが、それ以前の自画自賛などはどのようなことを言ってみても自滅への道にしか繋がらない。それについての例外など歴史上にも思い当たるところがない。

                                                       2015 6/25


480.継ぎ接ぎだらけのアドバルーン


  戦争法案である「安保法案」の合憲「派」の「御用」ともつかない「学者」の支離滅裂な論議もしかりであるが、実のところ「すべて」がこの調子でまかり通り現在に至っているといってよい。それは何も政治のみならず、「すべて」の集約なのである。これだけ高を括られた国民も珍しいく、その内に「世界文化遺産」、「ギネスブック」に登録されるのではないかとさえ思われる。それほど意識レベルが「珍奇」なのである。その様を少し離れた所から見れば継ぎ接ぎだらけのアドバルーンである。ガス漏れの音さえするが「ノイズ」のせいで気付いている者も限られているように思われる。本来ならその警鐘を出すべきところが出さないのであるからどうなるかはわかったものではない。実際に火の粉が降りかかっても、「それは花火の火の粉ですから、ご心配なく」とでも言いくるめるのであろうか。今、実質的に「独裁国家」に擬えられても仕方あるまい。むしろ「狂裁国家」ではないかと思っている。要するに、めちゃくちゃなのである。その継ぎ接ぎだらけのアドバルーンも高所から徐々に居住域に下降して来ている。ガス漏れが気になるところである。

 当初より継ぎ接ぎだらけのアドバルーンを色とりどりの模様に見せかける。これもAbe syndromeのひとつの特徴的な現れである。

Abe syndrome  〉 psychopathy  

                                                 2015 6/24

 


 

「ある日、その時」(42)2015年5月3日ー 

<掲載内容>

471.「笑うしかないでしょう」 472.行雲流水 473.「何をしてたの70年?」 474.幼稚、稚拙さが奇異に見えるだけ 475.「緊急地震速報発表されず」 476.「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」 477.某元県警刑事の曰く478.現在有効な「成功法」など誰が教える?479.恥の上塗り <番外日誌20150619>政(まつりごと)が悪いと・・・

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<番外日誌20150619>政(まつりごと)が悪いと・・・

 政が悪いと雨までゲリラ化すると見える。古来、政は天と密接な関係を保っていた。少なくとも天に対して謙虚であったが現在の日本の政に至っては天も何をするかわかるまい。天罰、天誅があって当然であろうと思われる。ここまで堕落するとは世も末の末、そして、それすら意識し得ぬこと自体が堕落の極みなのである。


479.恥の上塗り


 無能な者の自己陶酔ほど手に負えぬものはないが、そんな者を放置した責任も大きい。しかし、すでに肥大化し転移し始めたものの処置はどちらにしても一筋縄ではいかない。そうかと言って手を拱いていては確実に自壊に至る道しかない。もはや自浄作用を完全に失った,免疫不全症候群のようなものに対するがごとくに接するより他に手立てはあるまい。これは「独裁」とも異質で、その変種の徹頭徹尾支離滅裂な目くらまし以外には何もない「狂裁」とも言い得るものである。そして、それと同質の流れは巷の片隅にでさえ渦を巻いている。このような逆上乱心に付き合わされる方はたまったものではないが、こんなものに巻き込まれて命を落とすなど愚の骨頂である。どのような体裁を取ろうとも何の意味もない。これほど、裏切ることしかできない者の存在というのを現前にすることがかつてあっただろうか。程度の差こそあれあったのであろう。ただ、過去の再現フィルムを見ているような、こんな陳腐な手法が未だに有効性を持っていることを目の当たりに見せつけられていることに驚かされるのである。「人間」というのは放って置けばただ後退するするだけなのであろう。そういう意味では「新しい」などということ自体には何の価値もないともいえる。そして、同じ手口に性懲りもなくに引っかかっていく事態を見ていると、大衆蔑視も然もありなん、大衆操作も然もありなんと思われる。

 恥の上塗りは 塗るそばから地肌が見えるものである。そして、その地肌もやがて原型をとどめることもなく溶解していく。

                                                  2015 6/16


478.現在有効な「成功法」など誰が教える?


 この手の多くは儲け口にかかわることであるが、どうしたら儲かるかなどわざわざ他人に伝授するほどの物好きなど皆無ということがわかっていればそんなものに振り回されることもない。眉唾物であるとわかっていても手を出すのは行き詰まっているからだろうが、それが却って災いすることの方が多いものである。「三流」社長は「三流」社長のままの方が独自なものを生み出せる可能性もある。口車に乗せられて「三流」社長が「一流」社長を目指し始めた時、すべては狂い始めるということを肝に銘じておく必要があろう。もうすでに単なる拝金教的な動きは末期症状を見せている。そして、既得権益側がより強固に有利になってきている現状では「三流」社長が向きになって既得権益側にとっては都合のよい「夢」の論理に乗っても「一流」社長になる隙はない。安手のハウツー物、成功の「秘伝」書の類は要するに「人間」をダメにするだけである。欲望は常に果てしもないが、のし上がった挙句に棺桶に両足突っ込んでいるのもわからず「人間」失格状態ではどうしようもあるまい。

 拝金教とは言ってみればエコノミック・マシンのことで、エコノミック・マシンは必然的にキラー・マシンにもなる。そこでは「人間」は不在で、存在し続けること自体が疑似人間化をもたらし、「人間」の境涯から乖離していくことを余儀なくされるということである。これを「人間的」事象に還元し表そうとすれば嘘そのものになるしかない。拝金教の礼拝堂のような伏魔殿には「人間」は住めないはずで、住んでいるのは言わずと知れた輩ばかりである。彼らの言動に耳を貸すこと自体がすでに過ちの一歩なのである。偽りの人ほど言葉の操作は極めて軽く、実質は何もない。そんなことは改めて言うまでもないことであろう。

                                                        2015 6/7


477.某元県警刑事の曰く


「盗癖のある人は面接でわかります」と某元県警刑事は言う。「洋服は安物なのに腕時計やバックだけは高価なブランド物の人や、目を見つめられて視線を外す人です。」(某タブロイド紙より) これで検挙率が低いこと、冤罪が跡を絶たないということが納得できた。町同心を引き立てるドジな岡っ引きのしたり顔さえ思い浮かべてしまった。実際に、この程度のレベルの人間観察で事足りるのなら何をか言わんやなのである。

 しかし、通俗心理学の小冊子片手にこんな調子で人物裁断をされたら堪ったものではないが、これが現実的というのならあまりにも愚かしく、かなり危険である。要するに「人間」を知らな過ぎるのである。

                                                                                                                      2015 6/4


476.「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」


 昔、家にあった梅の木の枝を切るときに必ず父が口にした言葉でもある。私は庭の二本の梅の木を見て育ったせいか桜の花よりも梅の花の散り方、香に情趣を感じることの方が多い。

 葉桜となった桜並木の緑道から脇にそれて洒落た建物が立ち並ぶ一角に入り、暫く歩いていると横道に目を疑いたくなるような風景が100メートルばかり続いていた。桜の古木が今しがた斬首されたように、それも異様な恰好で立ち並んでいるのである。見ると至る所に切り取られたような形跡があった。老木のうろも並ではなく、それだけを見ていると朽木としか思えなかったが、上方には青葉をつけている。ここまできたら朽ちてしまった方が桜の老木らしいとも思えたが、何ともただ痛ましいばかりの様相を呈していた。緑道からわずかにずれただけでこれである。

 振り返って、月影の中のこの桜の古木たちの姿を想い描いてみると、何とも不気味な風情であった。

 

                                              2015 6/3


475.「緊急地震速報発表されず」


 震源地が590キロと深かったこともあろう。「現在の技術では限界」だそうである。何もこれだけのことではなが、この地震大国で、(現にこの地震後も報道はされていないが全国数か所で地震が発生している)、マグニチュード8.5(関東大震災は7.9)というエネルギーを持った地震が震源地が深かったということだけで緊急速報もできないのである。それも技術的な限界というのが理由である。このような状況でよくも原発施設は耐震設備も万全などということで再稼働に向けて進めることができるものである。それも地殻変動を「知り尽くして」いるかのような「権威ある」「学者」のような者の「お墨付き」を根拠に事を進めようとしているのである。たとえ万が一にも「知り尽くして」いたということがあり得ても、そのようなことと防ぎ切れるかどうかは別問題である。現に「アンダーコントロール」などと称して実際にやっていることといえば計り知れない程の放射性物質に対して人海戦術で柄杓で水をかけているようなものであろう。「アンダーコントロール」などという言葉もまったく無意味で空疎、いざとなれば何とでも言い逃れができ、責任回避できる言葉でもある。その内に、「アンダーコントロールの実態」などという本も出てくることであろう。もう出版されているのかもしれぬが。とにもかくにも、またぞろ原発再稼働などに乗せられるのは目先のことしか頭にない、結局は何もかも失うことになる軽佻浮薄のお調子者か亡者といってもよい者だけである。少なくとも私はそう見なさざるを得ない。そして、もし最悪の事態になればそれはやはり自業自得ということになる。

 

                                                                                                                                2015 5/30


474.幼稚、稚拙さが奇異に見えるだけ


 勘違いしてはいけない。今やその精神的未成熟度が「奇異」に見えるまでに至ってしまったというに過ぎない。しかし、すべてはAbe syndromeの蔓延度を見れば一目瞭然である。これは「病気」なのである。すなわち、健全ではなく、異常であるということである。おそらく異常がどういうことかさえわかっていないのであろう。世に自覚症状もない病はいくらでもあるがこの種の病は極めて危険で、痛みも兆しもキャッチしにくいので、気付いた時には手の施しようもなくなっているのが常である。

 この詳細な具体例は際限がない。

                                                       2015 5///


473.「何をしてたの70年?」


 これは大方のマスメディアに対する問いかけである。見ていても、読んでいても、こちらが気恥ずかしくなるような内容の乏しさ、臆面のなさ、ぼろぼろになった皮膜を縫いつけているかのような飽くまで皮相に留まる「御開陳」である。総じて、ここまで来るかという感じである。それでも何かやっている気でいるのであれば、彼らの罪深さは計り知れない。何をしてたの70年?もはやその形骸すら留めていないというのが大方のマスメディアの実態であろう。形骸だけは辛うじて留めていたという時期もすでに50年以上が過ぎ、言ってみればそれすらも耐用年数切れで粉砕消失したということである。しかし、これで収まるはずもなくそれに代わり得る新たなものがすでに萌し始めているのも確かなようである。

                                              2015 5/10


472.行雲流水


 「今を生きようとする」にあらず、「今を求める」にあらず、「今を想う」にあらず。もはや「今」という「時分」すらもない「有時」。

 「今を生きる云々」どころか、愚かしい、救いようのない愚行の一つに粉飾され歪められた過去に酔うということがある。そこに填ればもはや破滅以外に進むべき道はないが、厄介なのはその破滅への道には、妙なドラッグ的な充足感があることである。「思い込まされた自信」などにすがる自分自身の情けなさを感じなくなったらかなり危ないということである。

                                                 2015 5/6  5/9


471.「笑うしかないでしょう」


 笑いものされて「なんぼ」とは言っても、ただ痛々しいまでに芸のない幇間のような芸人などを見ていても、明日のないことをさらに思い知らされるだけであろう。憂さを晴らそうと安酒をあおってヘドを吐くようなものである。それより現実そのもの方が笑えることが多い。現実の真只中にいれば自ずと笑いがこみ上げてくることもある。本来ならそうした現実の諸様相から抽出したものを自己の世界観に照らし合わせながら一つのものに仕上げていくのが「芸人」、「芸術家」の類の役割なのであるがその位置に自己の全存在を置く者が皆無とは言わないが、現状では成り立ち難くなってしまった。

 実際に「笑うしかないでしょう」という時、笑う対象、笑いの質にも依るが、これは八方塞がりということでもある。そういう意味でしか現実が笑えないのであれば状況は思っている以上にさらに絶望的である。しかし、望みの有無などにはかかわらずこみ上げてくる笑いもある。それがある限りはまだ「生きている」といわれるような人間が存在し得ると思われる。

                                                 2015 5/4 


 

「ある日、その時」(40)2015年3月6日ー

<掲載内容>

<番外日誌20150310> 460.俗臭芬々たる「故人を偲ぶ会」 461.指名手配の写真?462.まさに衆愚政治463.ニュースも茶番 464.廃屋に 465.樹下石上 466.全部が道化、幇間では・・・467.「ねずみ男」のように468.「粛々と」葬列は進む<番外日誌20150415>政が乱れると天の機嫌も悪いと見える<番外日誌20150417>やってきたことがすべて469.「ホンネで話す」?470.悪魔の論理「原発」

 

                                                  (転載・複製厳禁)



470.悪魔の論理「原発」


 悪魔の誘惑などというレベルではない。悪魔の論理とはこのようなものであろうと思われるのが「原発」そのものである。どのように言い逃れようともいったんその論理に乗ったら最後、抜け出るのは容易なことではない。しかし、ここで「原発」を「経済」レベルで終始したり、脱原発が困難であるがごとき論調のすべては例外なく「悪魔の論理」にはまっていると言ってよいだろう。そして、それは完全に人間の終焉を意味する。資本主義の論理と「悪魔の論理」とは否応なく重なり合いながら同体化し、一方を断ち切ることはもう一方の内外出血を余儀なくさせることになる。だから、怪しげな者たちが集まってはもっともらしい「ご開陳」をして何だかんだと喧しいことになるのであるが、実際にチェルノブイリしかり、福島しかり、人間の手では収めようがないのである。人間にはとても後始末できないものと引き換えに人間の最も欲するものを与える。これが悪魔の常套手段であることなどは世界の誰もが「知っている」ことでもあろう。宇宙で最低の知的生命体に多少なりとも知恵が残されているのならそれを振り絞るしか他に生き延びる手立てはあるまい。

                                              2015 4/?


469.「ホンネで話す」?


 「ホンネで話す」?そんな「こと」ができる人間がどこにいるのか?確かに、ざっくばらんあけすけにものを言うのはいるが、それも「ホンネ」となるとかなり怪しいものがある。本心とたてまえの区別さえ鮮明でない者が「ホンネ」などといってみても、それはたてまえの「変種」といった方が適切であろう。さらに「ホンネ」が「真実」、「事実」とは限らないということである。「ホンネで話す」奴が大嘘つきということもあり得るのである。実際に「ホンネで話す」などといってやっていることは、要するに最大公約数的な欲望をいかに巧みに代弁するかという領域を一歩も出ることはないということである。その時点ですでに嘘があるのであるが、たとえその領域から一歩踏み出したにしても自己の限りない欲望の一角を見せたということだけに過ぎないのである。ほんとうに「ホンネで話す」者がいたとすれば、遅かれ早かれ「自己解体」(自己崩壊ではない)を起こすことになる。もしそうならなければ嘘を本然的なものと見なす単なる拝金主義者であろう。世の中には嘘をつくことを商売にしている者は限りなくいるのでいちいちそんなことを取り上げていたら切りもないが、「ホンネ」らしきことことを言っているつもりの偽悪者気取りに鼻持ちならないものを感じるのでつい言いたくなるのである。「ホンネで話す」などという御大層な内容の実態とは、要するにお手軽な「ガス抜き自在弁」程度のもので、それ以上のものでもない。ただ、臭うのでつい「それで?」、「だから?」と聞き返したくなるのである。

                                                    2015  4/22


<番外日誌20150417>やってきたことがすべて

 どちらにしても人間はやってきたことがすべてでそれ以外には在り様もなく、何もないといってよい。配管工は配管工、不動産屋は不動産屋、飲み屋のオヤジは飲み屋のオヤジ、御用学者は飽くまで御用学者、ハンドル握ってその一生を終えれば運転手としての生涯以外には実のところ何もない。レンズ磨きで生計を立てていた世界的哲学者・スピノザもあの膨大な著作がなければレンズ磨き以外ではあり得ないのと同様である。最近流行りのコピペ作業で寄せ集めたような情報知識でいくら取り繕ってもそれは飽くまでキッチュ。それを見抜けない者もまた「まがい物」の域を出るものではないということに過ぎない。思いの丈をいくら「合成」して言ってみても、「為したこと」がすべてである以上如何とも仕方がないのである。内容にも依るが「呟き」などは飽くまで「ツブヤキ」以上のものではあり得ず、よくて市場調査の無償モニター、犯罪調査の資料提供者といったところではなかろうか。


<番外日誌20150415>政(まつりごと)が乱れると天の機嫌も悪いと見える

 やはり、政が乱れると天の機嫌も悪いと見える。「77年生きてきて、こんなのは初めてです。」と言われるような大小様々な天変地異がこの何年かの間に頻繁に起きている。そして、身近な日々の気象状況などにしても妙に変なものを感じる時が多い。人心の乱れと、政の乱れと、天災地変、どこかでその小さな周期は一致しているのであろう。


468.「粛々と」葬列は進む


 最近の「粛々と」の遣われ方は、実によく現実の様相を表現している。すなわち、「粛々と」葬列は進んでいるのである。さらに付け加えれば、静かに秘かにしっかりと進んでいるのである。どこへ?もちろん「墓穴」である。「粛々と」などという言葉も、軽薄で内実困窮している者が「人知れず秘かに隠れて」という意味で自らを取り繕う時に頻繁に遣う言葉でもあり、「ひきしまった」、「慎み深さ」などという意味合いは現実的にはほとんどないと言っていいだろう。古色蒼然たる言葉に寄りかかり託けるだけでは空疎であることを際立たせるだけである。

 しかし、他国の走狗となって馬脚の全体が現われてしまっている者にこれ以上一体何を期待するというのか?そういう意味では今後のすべての在り様は火を見るより明らかである。

 もっとも、紀元前から「愚か者に説教すると馬鹿にされる」ということもあるので、少なくとも自らだけはすべてを知って答えられるようにしておくつもりである。

                                               2015 4./8


467.「ねずみ男」のように


 「葛藤(かっとう)、そんなものあるわけないでしょ。そんなもの持ち合わせる程、ワタシはヤワじゃないの。そんなものとっくの昔に近所のドブに投げ捨ててしまいましたよ。」

 かなり前のことなので正確な台詞は忘れたが、これは「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる作)の中の「ねすみ男」がいつもその場限りの嘘八百ばかりを言っていることを追究されて吐き捨てた台詞であるが、昨今では「上から下まで」ねずみ男そのままという「人間」ばかりで肝心な主人公「鬼太郎」の類がほとんど見当たらない。それが現実だなどとうそぶくのも気恥ずかしくなるような大人振りでしかなく、また、もっともらしく「現実」を分析的に収めたにしても実のところ現実がどこまで見えているかは甚だ疑問である。現実がたとえねずみ男の正当性を見出し得るものであったにせよ百鬼夜行だけの話というのはそもそもがそれ自体が不自然なのである。我々には光もない闇そのものの中で闇を通して見ることなどは不可能だからである。闇を観いているつもりでも実際のところ何も見えてこないし、見ることさえできていないだろう。たとえそのようなことをなしたにしても、「だから?それで?それがどうした?」という無限の問いかけだけが充満するだけである。・・・しかし、欲望の餌食となったという以外何もない者たち。どんなに取り繕ってもその実像はみすぼらしい「ねずみ男」そのものでしかないが、実情は「ねずみ男」さえも憐れに見える程モンスター化している。

                                               2015 4/2


466.全部が道化、幇間では・・・


 真摯に物事に関わっている者が一人としていない中で全員が道化、幇間、茶番師のような者ばかりでは実際にお話にもならないが、あらゆる場面でそのような実情を見せつけられることが多い。道化、幇間などは飽くまで「中心部分」が確固としていてはじめて成り立つ存在であるが、すべてが道化、幇間では精神的破綻をきたしているとしか言いようがない。そんなものをいつまでも見せられては吐き気を催すのは至極当然の反応であろう。そこには救いようのない絶望そのものしかあり得ないのであるが、それを意識化、自己認識するエネルギーすら残されていないというのがさらなる悲劇である。それどころか存在意識そのものが自覚症状もなく変質、変形させられてしまっているとも言えるから尚怖い。それはもはや「人間」としても「像を結ばぬもの」である。もし、それも含めて「人間」という言葉で括るのであるなら、あらゆる犯罪の「意義」と「価値」も見出されてしかるべきということになる。

 しかし、有権者の17%程の支持しかない者たちがわがもの顔で事を成す様は狂乱そのものである。大方の機関が彼らの懐柔策に、言ってみれば「兵糧攻め」に手もなく従わされているというのがその実情でもあろう。要するに手も足も出ない、食攻めにされて動けないのである。つまらない「城」にこだわり、立てこもるから見透かされるのである。現状にしがみつけばつくほど彼らの思うつぼなのである。そして、辛うじてあった「本丸」もやがて地に堕ちる。それにしても、しかつめらしいらしい顔をして、いざとなれば糞袴に小便洩らして命乞いでは見るも無残であろう。しかし、それが多くの実情であることを日々見せつけられている。堕落の極み、「堕落論」の安吾もここまでの堕落は予想だにしなかったであろうと思われる。人間失格、そうでない者が何人いる?

 

                                                 2015 3/31 


465.樹下石上


 紅潮し気色ばみ始めた桜の木の下で体を休める。

桜の花のどこにこれ程の紅を秘めていたのか不思議なくらいである。

碧空に紅に散らし、足元に名も知らぬ双葉が揺れる

花はどこにも見えぬが辺りは花の気で充たされている。

花の宴も無縁の境涯 実に静謐である。

                                               2015 3/26


464.廃屋に


 廃屋に 木蓮の花 咲き乱れ   魯孤

 ある町を歩いていた時に見た片隅の風景であったが実に見事な風情であった。

これがなべて世の実相でもあろう。

                                            2015 3月某日


463.ニュースも茶番


 日本で流されるテレビなどの「ニュース」も「政府宣伝」なのか「ニュース」なのか区別がつかないことが多いが、「ニュース」とは「政府広報」のこととして見ているのでそのまま鵜呑みにすることはまったくない。「茶番師」を必要としない「ニュース」(天災など)以外は大方が茶番劇としてみてまず問題はなかろう。しかし、観る側が「黄門シンドローム」と言ってもいいような、すなわち我が身の身上も忘れすぐに「お上」と同化してしまう認知不全状態、あるいは「阿Qシンドローム」では如何ともし難く、たやすくあらぬ方向に誘導されてしまうのは目に見ている。テレビのスイッチを入れると同時に繰り返し垂れ流される三百代言風の「コンテンツ」はいつとはなしに脳細胞の隙間に入り込み、あとは「発酵」、「合成」を待つだけなのであろう。問題意識、想像力の欠如した者であれば即効性はさらに高くなり、やがて自動傀儡化する。ルーティン化された動きの中で、あるいは疲れて思考停止状態でぼーっと画面を見ていることがどれだけ危険か一度考えてみた方がいいだろう。もう手遅れかもしれないが。

                                                                                                                      2015 3/19


462.まさに衆愚政治(ochlocracy)


 これを民主政治の堕落形態と言わずして何と言おうか。すなわち衆愚政治(ochlocracy)である。民主政治の最も堕落した形態の中ではもはや大衆(the general public)など存在しない。そこにはただ衆愚(the ignorant masses)が蠢いているだけである。したがって、衆愚の世論調査など何の基準にもならず、せいぜい「衆愚度」,すなわち堕落傾向の確認にしかならない。

 これはすべてに敷衍される。

 

                                                     2015 3/15


461.指名手配の写真?


 以前、顔について書いたことがあるが人間というのはほんとうに自分については見えないものであるらしい。ネット上には指名手配の顔写真かと思われるような自分の顔の正面どアップ写真を載せている者もいるが、こうした写真は他人に不快感しか与えないだろうと思われる。もし、これでよいと思って載せているのなら相当神経が損傷しているのだろうと思われる。何をやってきたかも定かでない人物の味も素っ気もない証明書写真のようなものを見せられたところで身内の人間ならいざ知らず第三者にはまったく無意味である。家族のスナップ写真の類なども公開しようとしまいと飽くまで身内、知り合いだけにしか意味がない。実際、絶世の美男美女ならともかく見も知らない他人のありふれた顔写真など見せられても何とも致し方ないのである。たとえ興味の対象になり得たとしても、せいぜい人相の分析、捜査材料に使われる程度であろう。

                                                   2015 3/12


460.俗臭芬々たる「故人を偲ぶ会」


 今までこのような会には一度しか行ったことがない。昨年もたまたま縁のあった者の「偲ぶ会」などがあったが、「偲ぶ」とは根本的に秘かに一人静かに思うことで、寄り集まってやることでもない。大体このような会を仕立てる意図は故人とはまったく関係ないところにあり、俗臭芬々たるものがあるので行く気がしないのである。集う者達の質にもよるが,これまた有象無象の集まりであれば故人に対する根も葉もない、さりとて枯葉程の情趣もない単なるゴシップの領域で終始するのが落ちであろう。要するに「偲ぶ」などという行為とはかけ離れるばかりで、「商談」、「アリバイ工作」の類と言った方が適当かと思われる。最近は特に「愚かしい」と思われる、時間の無駄となるような行為は極力避けているのでそのような所に行くこともない。

                                                 2015 3/11


 <番外日誌20150310>

Abe syndrome :虚言症の具体的一症例。分析対象としては恰好の具体例。

 最近はアル中はあまり見かけなくなったが、その代替現象というべきか、裏で薬中、表でスマ中(スマホ中毒)というのが趨勢のようである。縁無き衆生に物申すのも愚かだが、どちらにしても救いようがないというのが多くの実態である。スマ中などは頭の中は四六時中、数センチ四方の平面光源体に占められていて身動きがつかない。憐れを通り越してただ愚か。

 

 

「ある日、その時」(39)2015年1月ー

<掲載内容>

(番外日誌20150120) 451.「人道支援」? 452.すべてはやっている振り 453.おめでたき者たちを統べる亡霊たち 454.マッチ・オイル 455.低所得者層は「てっぱんのうえでやかれて」 456.千三つ屋 457.御身もまた買われた命 458.税務署の前で459.外国映画の日本語吹き替え版は誤りの発端

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459.外国映画の日本語吹き替え版は誤りの発端


 何度も何度もついつい言いたくなる。それは外国映画にチャンネルを合わせる度に否応なく蒸し返されてしまうからである。外国映画の日本語吹き替え版は総じてとにかくひどい。「刑事コロンボ」などのピーター・フォークなどの声すら違和感を生じるのであるから、いわんやその他の多くのものは言うまでもないことである。折角の僅かな時間の気分転換も台無しにされるので簡単には収まらなくなるのである。まず何を言っているかわからない、何でもかんでもアニメの乗りでやれると思っている浅薄さ、それらしきことしかできない底の浅さ等々。たまりかねてスイッチを切るときの決まり文句は「小賢しい、つまらん芝居するな、ボケナス」である。もちろん、それは声の出演者達に対してであるが、それは実は彼らだけの責任でもない。そのようなものをよしとする、よしとさせるその周辺を含めた全体の責任でもある。

 外国映画の日本語吹き替え版は学芸会になってしまっている。だから「錯覚」が蔓延するのである。海外の一級の役者の演技がそもそも何を言っているのか分からないような感情過多の、あるいは奇妙な声の「声優」によって身近にすぐ手の届く範囲にあるように思えるのである(私には想像力の欠如としか言いようのない不快感)。それが大きな誤りの発端である。そこにはとんでもない質の相違がある。

 そんなことより要するに話の筋が手っ取り早く分かればいいんだという御仁は、それもまた一事が万事で、すでに仕掛けられた陥穽にはまっているのである。

                                                   2015 3/5


458.税務署の前で


 先日、税務署の前で元気な老人が税務署員に「何であんなのを首相にしたんだ」などと言っていた。おそらく確定申告の提出に来たついでに言い出し始めて止まらなくなってしまったのであろう。「国会で、自分が質問されているのに質問者にヤジを飛ばしている。あんな首相は今まで見たことがない。誰があんなの選んだんだ。・・・」。私もその場に長くいたわけではないのでその程度しか聞き取れなかったが、あの調子ではその後もまだまだ続いたことであろう。吐き捨てられた「あんなの」という言葉には救いようのない響きがあった。大手メディアの取り上げ方とはまったく逆に首相の名前などはどこにも出てこない。この戦中派と思われる老人にはあまりにも厭う気持の方が強く、いつしか固有名詞が脳裏から消えていたのであろう。

 確かに、何から何まで信用ができないということは言えるだろう。要するに、「あんなの」という存在、存在自体に信用が置けないのである。言ってみれば、嘘のコラージュ。粉飾、糊塗、捏造、何でもありの嘘のスパイラルである。

                                                          2015  2/23

追記:次から次へと出るわ、出るわ、これが「美しい日本」の実態であろう。戦後未曾有の無恥にして珍なる内閣として後世に名を残すであろう。もはや何を言っても恥の上塗りだが、その上塗りすら塗るそばからはげていく。あの老人も玄関先で「新聞」片手にこけているのではないか、それが原因で寝たきり老人にならないことを願うばかりである。


457.御身もまた買われた命


 「御身もまた人間か」などという感慨は昨今とんと味わうことがない。日々、「御身もまた買われた命か」という思いばかりである。世論一つとってもこれがもしほんとうに世の中一般の問題意識の実態であるとするなら、正気の沙汰とは思えない。「無理が通れば道理引っ込む」ということがあるが、「無理」すなわち道理がないところで金自体に「有理」があるがごとくで、そこでは「道理引っ込む」などという感覚すらない。これでは今後ますます何が起こっても不思議ではなくなるということは余程のノウテンキでもない限り察しはつくはずである。それは身近な雑報、世間の出来事の類を見ても明らかである。手を拱ていても黙していても距離を置いても確実に火の粉は様々な形で身に降りかかってくる。何かと言えば「景気、景気」と景気がすべてであるがごとくに煽っているが、景気に踊らされる者たち、景気を煽る者たちにとっては戦争も平和もない。彼らにあるのは崖っぷちから落ちながらも「景気」である。そのような者たちを「昨日も今日も明日もない大人」と称するのである。見た目とは裏腹に彼らの実態とはせいぜい「飲む、食う、打つ、買う、売る」が唯一の楽しみの領域というお粗末なものである。言ってみれば、「貧相」なのである。金に蚕食され尽くされていて、「人間」と言い得るコンセプトでは重なり合うところもないので「御身もまた人間か」などという感慨が出てこないのであろう。見えてくるのは「餓鬼」の姿ばかりでは、「御身もまた餓鬼か」というのが妥当なところである。

 

                                                         2015 2/20


456.千三つ屋


 「千三つ屋って知ってます?」とその御仁が言う。知ってますよと言うと、「私は昔、不動産屋をやってましてね、不動産屋なんてものは千言ってほんとうのところは三つもないんですよ、大方が眉唾か嘘、実際その通りですよ。」と言う。その御仁今は違う稼業をしているとはいえ、人間そうそう変わり得るものでもあるまいという思いもあり、嘘つきが「私は嘘は言いません」と言っているようにしか聞こえてこなかったが、少し考えればその御仁はそういう思いが強くあったからその仕事をうまく続けることができなかったのであろうということで合点が行った。彼は「千三つ屋」を本当のことは千のうち三つしか言わないという意味にしか捉えていないが、その言葉には千のうち三つくらいしか話がまとまらないという意味もあることを付け加えておく必要もあろう。だからその稼業には強引に話をまとめようとしてどうしても嘘が付きまとうのである。

 最近では、大手メディアに登場しているだけでその者のいかがわしさが漂ってくるが、その最上位に位置するのが何と言っても「株式会社 日本」の代表取締役かと思われる人物であろう。言っている千のうちの一つとして本当のことがないので千三つ屋とも言えないから尚困る。千三つ屋などといわれているうちはまだ人間の領域の中で是非を問える気もするが、一つとしてないとなるとやはり精神科のテリトリーであろう。そういう人物はたとえ審議に臨んだところで思うようにならなければ机の上で仁王立ちともなりかねない。要するに、討論、審議、協議などの類が成り立ちようがないのである。

                                                   2015  2/15


455.低所得者層は「てっぱんのうえでやかれて」


 「まいにち、まいにち、ぼくらはてっぱんのうえでやかれて いやになちゃうよ」、一時流行った「およげたいやきくん」の歌詞であるが、もはや「みせのおじさん」と喧嘩する気概も海に飛び出す元気もない。どうせ食べれれてしまうのなら「てっぱんのうえでやかれ」るままにとばかりにすべては痛々しくもただ内向するだけであるが、それは歪みを変形、増幅させるだけで決して拡大展開する方向に向かうことはない。思考回路自体に拡大する余地がない上に、それを突き破る強靭な思考回路を形成させる時間もないのである。「てっぱんにやかれる」以外は、耳には始終「ノイズ」が流れ、目には色彩感覚を鈍磨させるような極彩色のゲームの小忙しい動きと結実しようのない果てることのない「ツブヤキ」の連鎖、そして後は飲んで食べて寝るだけでは何も生まれないどころか退化する一方であろう。小林多喜二も驚いたのではないかと思われる「蟹工船」ブームも一過性のものでしかなかった。「蟹工船」にしても「およげたいやきくん」同様、何とか生きようとする者たちに対する飽くまで個的に集約された「共感」以上のものを感じ取ることしかできなかったということであろう。要するに、そこでは「奴隷状態」の確認のし合いと虚しい願望に終始しているだけで、自己解放という領域においてすら、それを志向し得る新たな思考回路が付け加わることもなかったということである。実際、現状では多くの低所得者層は一寸先も見えぬまま、ただ明日の糧に追われていると言った方がいい状態である。そして、実は一寸下は地獄なのである。どんなに強がってみてもそれが実情である。そんな悲惨な現状から目をそらさせるには、例えばゲームなどに熱中させるのも簡便な一つの方法であろうが、要するにその種のもの(実は多岐にわたり、広範囲)の役割とは手っ取り早い話が大衆の白痴化である。白痴化した多くの老若低所得者と1%の富裕層と、それでは土台民主主義など育ちようもなく必然的に反民主主義に傾斜していく。

                                                    2015 2/8


454.マッチ・オイル


 マッチ・ポンプとは意図的に問題を起しておいて自分でもみ消し不当な利益を得ることを意味する和製語であるが、最近ではどのような問題が起こり得るかも明確に察知し得ずに、さらにポンプが空なのか、水が入っているのかも確かめず揉み消すようで、挙句の果てにポンプに入れる水もオイルも区別がつかなくなる始末である。とここまでは不手際、愚策の非難の対象にはなるが、それはフェイントに近い。フェイントそのものとも言えるのは、実はそれだけではないからである。今一番喜んでいるのはどこか?そのとおり。実際に今、彼らのシナリオ通りに事は進んでいるのである。一見、愚行のように見える言動も彼らの手中に収まることで完結するのである。これで、戦争とは平和であり、平和とは戦争のことの言い換えでしかない積極的平和主義の道を確実に突き進むことができるのである。

                                                 2015 2/4


453.おめでたき者たちを統べる亡霊たち


 おめでたき民を統べる者の言動が通用するのはおめでたき民だけである。世界で同様の手口で事を進めようとすればどうなるか、ただ「滑る」だけで噛み合うこともなく軽くいなされるか利用されるか、どちらにしても思惑どおりにいくことはない。スピリットを育むことを怠った「拝金教」のゴーストたちの成れの果てともいえる。すべてにおいて最悪のシナリオを突き進んでいるにもかかわらずどこかで何度でもリセットが効くと思っているから始末に負えない。それがこの「おめでたさ」を形成している一つの要素にもなっている。それは同時にこの「おめでたさ」の怖い一面でもある。「バライティ」の乗りの中で、笑いの内に自らの位置さえもわからず終焉を迎えるようなものである。突然、バッサリとすべてが切られても現実感覚を喪失していてリセットボタンを押し続けているのではないかとさえ思える時がある。現状を「流し読み」しても歴史にリセットは「絶対」にあり得ないという極当たり前のことがわかっていないのであろうと思われる。それは事後処理、事後対応を見ているとよくわかる。歴史は繰り返しているようで同質、同形のものは一瞬たりとも存在し得ない。そして、元へは決して戻れないということである。

 「結果がすべて」とおっしゃる御仁の結果はすでに出ているのである。それとも、それは「結果」ではなく「続行中」(具体的行為内容は不明)である限り「一過程」に過ぎないとでもいうのだろうか。そのとおり、歴史上で「結果」など出しようがないのである。ということはこの御仁の文脈の中の「結果がすべて」という言辞自体にすでに虚偽があるということになる。「『結果がすべて』とおっしゃる御仁の結果はすでに出ている」といったのは、この御仁の言動の因果関係だけははっきりしているということである。

                                            2015 1/28

 


452.すべてはやっている振り


 すべてがジェスチュアーである。まだ死んではいないがもはや死人同然。その亡霊のような者がやること為すことすべてが「振り」、ジェスチュアーなのである。「振り」、ジェスチュアーそのものがこの亡霊を動かしているともいえる。何があっても、起きてもそれに見合った「振り」をするだけでそれ以上のものはない、それ以外に在り様がないのである。あるのは次のジェスチュアーの見通しである。事あるごとにやっている「振り」のエンドレススパイラル。何かあるように見えるのはそのスパイラル運動の速度変化程度で、それを増幅、偏光させるのが大手メディアとその関連メディアである。

 人生亡霊のごとく、やること為すことその場限りの言動で埋め尽くされているのでは、結果的には「後は野となれ山となれ」がもたらすものと変わりはない。それはそのまま「人間の境涯」にはいないという証にもなる。もし、それが人間そのものであるというのなら、「人間」などというコンセプトは無意味で、それを指し示す内容もないに等しい。そこには霊長目というのも怪しい、哺乳類ヒト科が現前しているだけである。どう思われてもこんな生き方だけはしたくないものである。やはりスピリットとゴーストとは根本的成り立ちが違うのである。

 これは一体誰のことか、「例のヒト」である。敢えて固有名詞を出す程のこともあるまい。固有名詞の羅列などただ騒々しいだけで、耳目をひきつける安手の手口にはなっても俗化し易いので避けているだけである。

                                                    

                                                         2015 1/25


451.「人道支援」?


 しかし、意味不明の空疎な言葉が限りなく続く。こういうのを嘘の塊というのであろうが、もう少し巧みに事実も織り交ぜないといくら馬鹿でも気が付くのではないかとダメ出ししたくなる程事実無根である。「人道支援」で何かわかったような気になるのは日本国内限定であろう。「人道支援」の名目で渡された金をどのように使おうが相手の勝手で金の流れを追うことは不可能である。現在の国際情勢で限定的行為を除いて、具体的枠が不明な経済援助を「人道支援」などという言葉で置き換えて納得しているような「オメデタイ」ところはどこにもあるまい。憲法9条のストッパー的役割を巧言で緩めながら危険領域に一歩も二歩も踏み出してしまったことに変わりはない。もはやアイホン片手にまどろんでいることなど国内外を問わずできなくなってきているというのが現状であろう。いくら経済的詐術とはいえ、諸外国では大尽客のごとくに「人道支援」を行い、国内の「人道支援」は「絆」を頼りに募金で賄っているような実情ではあまりにもお粗末であろう。実際、あらゆる面でリスクだけが確実に高まっているのである。諸外国を「楽しむ」などという次元はもはや存在しなくなっている。どこに行くにも死を覚悟の自己責任といった具合である。愚行と愚策で自らの「強み」と「誇り」ともいえる憲法9条を「巧み」に無視して、挙句の果てにまんまとド壺にはまってしまった恰好である。これだけ飽きもせずいつまでも御大層な嘘で託けるのも異常だが、すでに異常などというコンセプトを通り越している。

 それにしても、改めて言う程のことでもないが肝心なところで大手メディアの1%の立ち位置と一緒になって合唱しても地下にいる99%には決して光は当たらないのである。

                                               2015 1/22


 (番外日誌20150120)

今でも芥川賞・直木賞受賞作品ということで買って読む人などいるのだろうか、もしそうなら余程他に読む本がないのであろうと思われる。世に名著の類、読んでおいた方がいい本は古今東西一生かかっても読み切れない程たくさんあるが。


 

「ある日、その時」(38)2014年11月5日ー

<掲載内容>

443.「人生は短いから、過去のことは忘れよう」では・・・444.「今を生きている」つもりの人々 445.チェルノブイリの風景は・・・446.紙面、画面に溢れるヤマ師の群れは・・・447.フィールドワーク 448.的のない「三本の矢」の行方449.人口の減少は当然,社会の衰退も必然450.もし、「神が偉大」であるのなら 450.サザンの桑田のライブ騒動?

                                                 (転載・複製厳禁)



450.サザンの桑田のライブ騒動?


  サザンの桑田のライブ「騒動」は、要するにこれが日本の現状であるということである。桑田の言動、意図の軽重をもっともらしく問う向きもあるが、ミュージシャンである桑田から「自由な遊戯」を取り除いたら何があるという話でもある。日本の現状はもはやここまで来ているのだということを、たとえ軽佻の為せる業であったとしても多くの者に指し示したことに変わりはない。そういう意味では桑田は「図らずも」歌いながら「リトマス試験紙」を振り回していたことになる。そして結果は案の定、極めて危険な状態ということである。

 今後このようにはっきり目に見える形ではなかなか出てこないだろう。しかし、自由な言論、表現とは軽重問わずもともと体を張った作業なのである。

 

                                              2015 1/18


450.もし「神が偉大」であるのなら


 もし「神が偉大」であるのなら、人間ごときが「神は偉大なり」と叫びながら銃を乱射する必要も、意味もまったくない。それは具体的方便として「神」の名をかりた飽くまで人間の「野望」の一形態であろう。「表現の自由」とは「人間」の境涯に見を置くものにとってはその存在の「証」でもある。したがって、表現の自由を封殺する者に対して徹底抗戦するのもまた当然であろう。自主規制なども質の悪い巧妙な言論封殺の一種である。金で口封じをしようが、それが武器であろうが人間の作為などと「神の意志」(それが存在し得たとしても)などとは別次元であることを思い知ることになるのが常である。どちらにしてもその愚かしい行為は長くは続くまい。なぜなら「異常」だからである。「異常」に慣らされている者には気付かないが、「異常」は「異常」であること自体に必然的に発火点の低い矛盾を多く孕んでいる。だからいつ何時爆発炎上してもおかしくないのである。異常が常態となっていればで異常が自然に見えてくるが、そこにはまた不自然に矯正された引火性のある歪みの残骸ばかりが放置されることになる。

 しかし、「人間」というのは自らの進展を拒んでいるとしか思えない時があるから不思議である。ただ、これ以上進展を拒み続けることは衰退の道しかないということになるが。

 

                                                 2015 1/10


449.人口の減少は当然、社会の衰退も必然


 周りを見渡せばすぐに」わかることであろう。行く末を見せつけられる高齢者の実態もさることながら、少しでも自分を思う人間であればとても子供など産んで育てる環境にないことはすぐに察知できる。「三遷」などとは「殿上人」、富裕層の世界のお話で、地を這うような生活を強いられる多くの「地下人」の世界では子供に対する愛情もやがては歪められ裏切られることになる。現在、巷で見かける子供のいる夫婦は社会的にはほとんど何も考えていないか、個人的理由、違う目的を持っている人々であろう。いくら子供が無思慮の産物とはいっても、今後も人口の減少は確実に更新され続けると思われる。それは、小手先の「少子化対策」などで対処できる問題ではなく、このような社会を作りだす施政そのものが必然的に引き起こす国民の前意識的な沈黙の抗議でもあるからである。要するに、多くの者の中に、もはやこの国はまともに子供など産んで育てる「状況」「環境」「状態」にはないという動物的勘が働いているのである。人口減少の数値の更新とは取りも直さず為政者の無能指数ということで、単に個人的な甲斐性の有無などに矮小化できる問題ではない。

 明日をも知れぬ非正規労働者に子供など産める訳がないというのが「普通の感覚」で、そうでないなら余程無責任な奴か自信過剰、誇大妄想的傾向がある者ということになる。実質的に非正規労働者ばかりを増やす、会社に都合のよい目先の法整備が一体何をもたらすのか。専門家に聞くまでもないこと。「これしかない道」とは自分にはこれしかないということで、多くの者にとっては衰退の道に他ならない。底辺を支える者たちの生存自体が危ういのであるからその維持は覚束ないのは当然で、やがてはその上に作り上げらている構造物の瓦解も必然ということになる。                                                     

 

                                                                                                                                          2014 1/2


448.的のない「三本の矢」の行方


的のない矢 朝のない夕べ

望みなき空言が 現(うつつ)のリズムを刻む

暗雲に 放たれた的のない矢

朝のない夕べに 

空事は現のリズムを刻みながら

発光する。 

勘違いしてはならない 

足元を決して映し出さぬその光は

曙光でも蝋燭の光でさえないことを。

 

「ところで、的のない『三本の矢』の行方は?」とはまた野暮なお方がいるものだ。

霞立つ関のある某所で催された饗宴で三脚に使われていたという話である。

 

 

                                                    2014 12/26


447.フィールドワーク


 今尚フィールドワーク続行中である。そして、改めて自らの精神と肉体の強靭さに驚いている。自分が思っている以上に「強い」ものだということを実感する日々である。

 そのフィールドワークの内容についていちいち書き連ねるほど野暮でもないのでここでは避けるが、ただ言えることは我々はいかに分かったつもりになって生きているか、実はどれだけ知らないことが多いかということである。それは恐ろしいばかりの質と量である。それでも多くは何か分かったつもりになって生きているのである。

 「目明き千人盲千人」などとはいうが、どう見てもフィフティーフィフティではあるまい。「目明き」などと称されている者も多くは「目明き盲」に近く、実際に肝心要の部分が欠落していては「盲」であることに変わりはない。

 世に顔を出している「したり顔」の老若男女の「すべて」は実は何も分かっていないか、自分自身をもみごとに欺くサイコパスに近いと言っても過言ではないと思っている。もし、知っていて言うべきことを言わない、言えないのならそれは虚言であり、それを操るのであれば単なる詐欺師であろう。「ジャーナリスト」という詐欺師、「作家」という詐欺師、「大学教授」という詐欺師、「コメンテイター」という詐欺師等々・・・政治屋?いつの世にもいた「人間」ではない「亡者」の類である。したがって、彼らには「人間同士」の「お付き合い」など実のところ存在しないのである。況や「国民」など言わずもがな。

  北風に 囲い込まれて 柵の中    しばしは食われるまでの御養生

  鴨葱の 鍋をつついて 策士をり   おめでたき人にもの言う術もなし 

  「怒り」を失うとはすでに死に体であるということである。その証拠にほんとうの「喜び」はあるまい。

  残るは「哀」と「楽」、しかし、そのどちらに執着するのも「病」に至る。柵の中では尚更である。

                                                        2014 12/9 


446.紙面、画面に溢れるヤマ師の群れは・・・


 巷に溢れるヤマ師は言うに及ばず、紙面、画面を賑わすのもやはりヤマ師が多い。それでは一体誰を信じていいものやらと呟きたくなるのも分からないではないが、いつまでもマスメディアなどの他人の見解を鵜呑みにしていれば嚥下障害から窒息死は免れまい。要するに巧妙なヤマ師はあなたが死のうが生きようが知ったことではないのである。しかし、彼らの手口に絡め取られるばかりではあまりにも能がない。そのようなことにならない方法の一つは「どこかおかしい」と思う自分自身を最後まで信じることである。それについての他人の講釈、解説で簡単に「納得」しないことである。たとえ有名諸氏であったとしても有名であることは何の根拠にもならないということを知っておく必要がある。彼等は時によっては黒を白にしてでも人を「納得」させるのが「生業ともなる」ということである。古来よりある悪しき意味でのソフィストである。

 しかし、欲望のなせる技であろうヤマ師の群れは手を変え品を変え空恐ろしくなるほど巧妙になって行く。欲望は尽きることがないのであるから当然であろう。そこでは分かった振り、ものわかりのよさは禁物で、それが却ってあだとなる。自分を賢いと思った時点ですでに彼らの手中に収まっていることの方が多いものである。ほんとうに賢き人は決して自らを賢いとは思っていない。だから「バカの壁」に阻まれることも少なく、「自由」でいられるのである。愚者の「したり顔」とはそれが限界の現れであることを本人だけが知らないのである。

                                        2014 11/24

                                                                                                日々の掛け替えのない雑事に追われて

                                               


445.チェルノブイリの風景は・・・


 チェルノブイリの風景を見ていると「人類」の消滅の時とはかくあるのであろうと思われてくる。もはや人間の時間の中では何事も為し得ぬまま、決して元に戻ることのない、まったく「人間」を寄せ付けない風景である。一方では絶滅危惧種などの安らぐ復活の場でもあるがそれも今後どのように変異するかすべては不明である。チェルノブイリの風景は人間の「業」などではどうにもならぬもので遍く覆い尽くされている。

 去り行きて 戻らなかった「すべて」は

もはや決して戻ることはない。

期待するまでもなく現れるであろう

突然変異体 

現生人類の衰退の予兆は

ミュータントの出現の兆し

しかし、チェルノブイリの拡大とCO2の増加は

ホモ・サピエンスのミュータントへの変換さえ許すまい。

 

                                                      2014 11/11

 


444.「今を生きている」つもりの人々


 実質的に人は過去に生きることも、未来に生きることもできない。現在しかないのであるが、それでは現在に生きるとはどういうことかというと各自各様でかなり怪しいものがある。我々には現在しか許されていないだけで、それは未来を手中に収めることも過去を再現することも不可能であるということに過ぎない。本人は現在を生きているつもりになっていてもそれはただ単に「ある仕掛け」によって流されているだけという場合の方が多い。それにほんとうに気付くのも「後の祭り」というケースが多く、それがまた凡夫の証ともなっているのが実情のようである。少し言い方を変えれば「過去に生きる者」が存在しないのと同様に「未来に生きる者」も存在せず、意識がどうであれ現在しか我々には存在しない。ただ現在を「生きる」となると当然「生きるとは何か」ということになってくるのである。「今を生きる」などとはよく遣われることであるがそれを実現できていると思えるのは極めて稀である。それはある意味では至難の業であると同時に死を触媒とした「覚醒」を経た者には容易にも成り得るからである。多くは、頭の中で「今を生きている」つもりになっているだけということを思い知らされることにならざるを得なくなる。もっともそれすら気付かず一生を終わってしまう者も多いのがその現状でもある。さらに言えば「気付く」ということは世界観が根底から覆されることでもある。それを経ずして「今を生きる」などとはただ言ったまでのことで、過去の集積としての現在の在り様も見えず、近未来の論理的帰着点すら見ることなしに想像力は委縮したままただ猪突猛進することになりかねない。かなり危険である。「今を生きる」とは「刹那主義」などとは根本的に違う意味に遣われて初めて生きてくる。

                                                 2014 11/5


443.「人生は短いから、過去のことは忘れよう」では・・・


 「人生は短いから過去のことは忘れよう、将来だけを見て生きていこう。」これは中学生の卒業記念一言集ではない。ノーベル賞、文化勲章などという何やら厳めしい実態の底知れぬ賞の受賞者の「お言葉」である。やはり典型的な理系の「専門バカ」と言わざるを得なくなる。「愚かしい過去のこと」を忘れるのではなく、むしろそれをきちんと問題化してよりよい解決の方法を見出し、導くのがその使命でもあろう。自分自身にとっても思うように研究できなかった不適切な環境を自分は成功したから忘れようでは、またぞろ愚かしい過去の弊害は何ら改善もされずに繰り返されるだけなのである。現に今、この研究者が当初怒りを込めて訴えたこととはまったく逆の方向で法整備されているのである。この程度の「ご褒美」で「ガス漏れ」するのでは単なる私憤の領域で終始しているだけで普遍化されることもない。比較するのも憚れるが、アインシュタイン、湯川秀樹、朝永振一郎などの言動をみても、やはり理系の単なる「専門バカ」などという領域には収まり切れなかった人々でもある。

 芸能においても然り、押しなべて女優・杉村春子のような文化勲章を辞退する程の気迫も資質もどこにもない。煎じ詰めれば、肝心なことに対する問題意識の欠如ということである。 

                                                           2014   11/3


 

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