両忘の時‐ある日、その時‐

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146.つれづれに一言で片づければ(22)ー33件ー(419件)

〇安倍寛(父方の祖父)も、孫の、あろうことかの所業の数々に草葉の陰で断腸の思いでいることであろう。それは、息子のことを見抜き、祖父を敬愛してた父 晋太郎にしてみれば余人の想像を絶するものがあろう。政治家として欠くべからざる根幹部分が欠損しているこの孫には、Å級戦犯の母方の祖父のことしか頭にないのである。それが、どのように作り出されていったか、今は、具体的にわかる。それで充分である。要するに、本体の一部始終が見えたということである。

                                                                                                                         11/10

〇自由を恐れ、びくついている者に「表現の自由」などがわかるはずもあるまい。自由を恐れる者とはどのような者たちなのか、それは明々白々であろう。彼らはどこにでもいるが、特に匿名性を帯びたネットなどには際限もなく現れる。しかし、いかに隠そうとも戦々恐々としている内情が手に取るようにわかってしまうことが本人にはわからないのであろう。

 どちらにしても、権利や自由は、主張し、行使しなければやがて取り消されることになるのは、憲法12条が明記する通り、すなわち、「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」のである。放置すれば、今、そうしていられる権利や自由すらもなくなるということである。

                                  11/9

 

〇教育者?・・・今の「いじめ」の問題にしても、「いじめ」が学校で発覚すれば、その学校の校長は叙勲されなくなるということで、校長はじめ学校が一丸となって「いじめ」隠蔽工作に走る。非常にわかりやすい的を得た説明である。これではまったく本末転倒、そういうことなら論功、叙勲も必要あるまい。

〇大量に買い占められて、まるでカニ、メロン、イクラのように配られる駄本の何と多いことか。それで本屋ランキング人文1位、アマゾン総合1位である。内容は、「普通の人」がまともに読む気になるものでもなく、問題意識のある者はまず手に取ることもあるまいと思われる代物である。ランキング1位、ベストセラーなどというのが、全く本の質とは関係なく「作り出されたもの」ということも知っておくべきであろう。因みに、以上のことは、「普通の人」、「問題意識のある人」には敢えて言う必要もないことである。

 

〇放射性物質の除染廃棄物を詰めた90袋、その中の36袋が河川に流失したらしく、3週間後の現在でも見つかっていないということである。建築現場でさえ台風などが接近すれば「風散養生」などをして備えるが、除染廃棄物は放置状態だった。まったく危機意識も責任感も皆無である。これではどのような風評が起こっても当然で、止めようがあるまい。何か事が起これば、只働きのボランティア頼り、さらにはそこかしこで募金、募金である。それが日赤を通して国に流れる。その具体的な使われ方も誰も知らないのである。国としての体をなしているとは到底思えない。勇ましいこと、格好の良いことをいくら言ってもダメ、現状は足元から崩れているのである。

                                    11/4

 

〇トランプの見てきたような嘘、「鼻を鳴らし、泣きながら、犬のように死んだ」とトランプが言ったことについて、軍幹部にジャーナリストが「それはほんとうなのか?」という質問をしたが、軍幹部はそのようなことは確認できていないという。現場の直接関係者である軍もわからないことを平然と見てきたようなことをいう。これもまた一事が万事。

 よく何をするかわからないといわれるトランプではあるが、ポストモダンの「怪物」であるということに過ぎないともいえる。御多分に洩れず日本の現状も同様である。世界を見ると、予想以上にポストモダンの蔓延は拡大していたと確認できる。

 要するに、「人間不在」の蔓延である。

                                   11/3

 

〇日本語吹き替え版で、せっかくの外国映画が突然、学芸会、アニメになる。このようなことに慣らされてしまうことの怖さを知らなくてはなるまい。それは真贋の区別もつかず、現状認識を間違うことにもつながるからである。「声優」は俳優と独立して成り立ち得るものではない。もし成り立つのならアニメの世界だけであろう。例えば、小池朝雄、野沢那智、永井一郎など、「声の出演」と言える俳優でもあり舞台を愛していた演劇人である。だから、アニメでも外国映画の中でもそれなりに「様になる」のである。

 以前にも、同じようなことを書いたが再び。

                                  11/1

 〇昔、「悪い奴ほどよく眠る」という映画があったが、昨今の状況を見ていても、やはり悪(ワル)は、どこでもいつでも元気である。善人とは欲望の方程式が違うのであろう。善人よ、落ち込むな、自らを殺すなかれ、悪(ワル)の所業を見届けて身の処し方を考えよ。

 

〇「ヤフオク」というのは無茶苦茶である。「平山勝 演出」でまったく無関係の商品が表示されている。これで何か利するところがあるのか。奇っ怪千万。「ヤフオク」が問題ないとすれば、「成り済まし」、「操作」も考えられるので要注意である。

                                                                                                                                        10/30

 

 

〇今から「守り」に入ってどうするのか、「守るべきもの」などないはず、そんなことでは「相手」の思う壺であろう。猫の額ほどの土地に拘泥、固執していては、まったく勝ち目はないというより、生き延びることすらできないということである。

 

〇本屋のベストセラーとは、ある期間よく売れた書籍ということで、その書籍の質的内容の良し悪しとは全く無関係なものがほとんどである。特に、昨今はそれが甚だしい。出版屋が、時流に乗ることしか考えていない中身の空疎な「賤業中の賤業」と言われるテレビのディレクター並になってきているからである。

〇「ナイトスクープ」という番組、西田敏行から松本人志に変わったと騒いでいたが、テレビをほとんど見ない(特にこの手の番組など)私としてはどうでもいいことであるが、この番組の構成作家は例の百田尚樹、松本人志は「一国の長」の安倍の「アベ友」でもある。西田もよくいつまでもやっていたと思うが、今回のことで流れも楽屋裏も丸見えとなった。さぞかし軽佻浮薄な、箸にも棒にも掛からぬ、「面白い」(?)番組なのであろうが、「あっしには、関りのねーこってす」、そんな暇はない。一生見ることもあるまい。

                                      10/27

 

〇しかし、何気なく驚いた。電車の広告で流れていたビールのCM、それもこの「時期」に、「嘘は必要ですか?」という質問に対して、有名人らしき名も知らぬ御仁が物知り顔に「ほんとうのことなど知りたいとも思わなくなった」などと言い出す始末。この御仁は、愛すべき人々、親、妻、子供などが殺されても「ほんとうのことは知りたくない」、つまり誰がやったのか知りたくもないとでも言うのであろうか。嘘は嘘、真実は真実、殺人は殺人、「必要」かどうかではなく、まず第一にモラルの問題である。モラルの問題は相対化することはできない。こんなところにまで悪しき相対主義は入り込んでいるのである。どういう意図でこんな低劣なCMを作ったのか、こんなビールは吐き出しそうなので絶対に飲まないだろう。愚かしくセンスのなさは特大級である。その薄気味の悪さは測り知れない。

 これはさりげなく日常に入り込むマインドコントロールの一環でもある。要するに、※「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」のさりげない言い換えと、その勧めである。「優しいウソ」などという個人レベルの配慮のある「嘘」などとは全く別次元の話である。

 ※人民はただ従わせればよく、理由や意図を説明する必要はない。

                                    10/24

〇作られた「みんなの意見」、「みんなの〇〇」と名の付くものは要注意であろう。さしたる根拠もないからである。「bot」という自動投稿アプリを使えば同一アカウントで大量の「みんなの意見」を生産できることはすでに実証済みのことである。結局、自分自身の「核」を作り出せない者は、わずかばかりの「詐欺師集団」に人生を振り回されて終わりなのである。

 因みに、「みんなの競馬」という使われ方くらいが、一番問題のない使われ方なのであろう。フジテレビは競馬だけやっていればいい。

                                      10/19

 

〇本屋も出版屋も生き延びるのに必死なのであろうが、邪道は邪道、衰退に拍車をかけることばかりしている。100万巻の書を読んだとて賢者になれるわけではない。そもそも良書など2,3日で読めるはずがないのである。駄本ばかり大量に読んでいればアホになるだけである。せいぜいどこかの大学の隅に職を見つけるか、メディアに身を寄せて気の利いた程度のことを言い続けるしか手はあるまい。問題意識も実践も欠如し、スタンスが検証されぬまま崩れているからそうなるのである。良書に接する間もなく、根幹部分が未成熟なまま情報、駄本過多にさらされて、ますます方向を見失っているのであろう。有名無名問わずいちいち他人のコメント、レヴューなど頼らず自分の目で見なさい、調べなさいと言いたい。自分の直観をもっと大事にすべきなのである。

 

〇「元ラノベ作家で現在は無職の百田尚樹さん(63)」、誰のことかと思ったら例の百田のことである。その百田に新潮社がツイッターで「ヨイショ感想文求む」というキャンペーンを開始したが、「気持ち悪い」と非難が殺到、新潮社は謝罪し、企画は中止となったということを適菜収が伝えていた。さらに、適菜は「そもそも百田さんは下品が売り物のライターであり、下種に対して下種と言っても仕方ない」と言っていたが、その通りであろう。それにしても、背に腹は代えられないとは言え出版社の墜ち方も甚だしい、以前にも言ったが、何で出版社やっているのかわからないような者ばかりが多くなった。「新潮社は顧客を裏切った」「本を読むという行為を冒とくした」、「書評の信ぴょう性に泥を塗った」等々、今まで培ってきたものをすべて壊し続けているのが実情である。それは「昭和の妖怪」の孫が、ポストモダンの悪しき流れに便乗して、その細胞を増殖させていることとも重なる。適菜の指摘を「そんな常識は古臭いとせせら笑う」行為そのものが、それを物語っている。腐臭を放っているポストモダンの潮流にどっぷり浸かっているのに気づいていないか、気付いていてもどうにもならないか。そこには、確信犯か否かの差があるだけで、どちらにしても罪悪であることに変わりはない。詰まるところ、彼らは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに明確に答えることはできない。モラルの問題すら相対化しているのであるから、それこそ何でもあり、何でもする、「常識」、「モラル」などに拘っているのは「古い」ということになるのである。そこには、劣化の一途を辿る「人間」社会しか現れてこない。それはそのまま人類滅亡の危機にもつながっている。

                                    2019 10/13 

※講談社の戦時中の軍部とのつながりなどもノンフィクション作家・魚住昭が極秘資料をひもとき、その知られざる歴史の隅々を余すところなく白日の下にさらしている。因みに、当時、陸軍雑誌「征旗」が創刊されたが、その発行元は講談社の子会社の日本報道社、後の光文社、カッパブックスである。

 先月の「週刊ポスト」(小学館)の問題、「配慮の欠けた」どころではない、「誤解を広めかねない」云々の話ではない、明らかに「狙った」邪道の道である。このような問題は、新潮社、講談社、小学館だけではない、他にも山師、的屋の類かと思わせるような出版社が多くなっている。そこまでして部数を競うな、競えば命運は尽きる。

 そもそも、ベストセラーと良書、傑作とは同義ではない。

 

〇大企業は解体、終焉が必然的流れなのであろう。やはり、ここで中小企業が再構成、台頭するのが健全な流れでもある。特に、日本は中小企業の技術力は他の追随を許さないものを持っているのだから尚更である。お笑い芸人同様、大手企業もオワコンなのである。

 

〇ニヒリズムの成れの果てが「相対主義」か、その「相対主義」は思考停止を自ずと引き寄せ、本当に知ることからはますます遠ざかり、自分の立ち位置をあいまいにさせる。それがいつの間にか到達点であるかのごとくになるからさらにタチが悪い。昨今の「上」から「下」までの「何でもあり」(糊塗、ねつ造、改ざん、すり替え、圧倒的な虚言の量、盗用、コピペ、暴力、テロ、etc)、すなわちモラルの問題まで「相対主義」を敷衍させてしまっている状態は最悪であろう。「人間」不在のまま、天下国家を論じ、美辞麗句に酔い痴れている場合ではない。「構造」が生み出した「化け物」に甘んじるのか、「人間」に立ち返るか、それはそのまま人類の存続にも絡んでくる。

                                 2019  10/6

 

〇最近、「ハウツーもの」「上達のコツ」そのもののような、一世を風靡した予備校講師の最期の様子が報じられていたが、何も意外なことはない、そうであろうと思われる。彼は終始、受験英語の「コツ」を教えていただけで、それ以上のものはない。展開の余地のない「その部分」だけで完結していたのである。「その部分」から離れれば、特に問題意識があるわけでもなく、それこそ何もないのであるから、当然の成り行きでもあろう。彼の最期の姿は、何ら掘り下げることもせず、簡便な、要領だけで歩んできた者たちすべての終焉の姿でもある。「ハウツーもの」と「コツ」で生きられるほど人生はあまくない。

                                     9/29

 

〇センスがない者は、ウチワで煽るしかないとみえる。それも大方は継ぎ接ぎだらけのウチワであるから、煽り方にもつい力が入る。いったん加速されると減速するのにはその数倍もの勇気が必要となり、多くはそれができぬまま、やがては空中分解である。それも人生、そう間違いなく愚かな人生である。

 

〇何を聞かれても、「いやー、難しい問題だね、とにかくできることはやっていくつもりだよ。まあ、人生いろいろ、それじゃ」、さらには、あろうことか「ステーキが食べたい」、「セクシーに」、勘違い、お門違いも甚だしい、どこの三文役者かと思うが、これで済むなら人生言うことはない。また一方では、放射能汚染水は「希釈して海に流せばいい」などと言う者がいる。その前にまず自分が希釈して飲みなさいと言いたくなるが、欲に目がくらんだ者とは、何でもかんでも川や海に流せば済むと思っているのであろう。「希釈して海に流す、どこでもやっていること」などと平然と言えてしまうのは、地球環境などというものは全く眼中にない原発再稼働、推進組であることに間違いはない。どこの「博士」、「教授」だか知らないが、言っていることに責任を取らない者どもであることは、今までの経緯が如実に示している。それが匿名であれば、尚更、まったく信用するに値しない。「風評被害」?とんでもない、まだわかっていないようであるが、少し考えれば誰でもわかること。希釈して海に流す前に問題ないのなら自分自身で何度でも試しなさい、飲みなさい。それがすべてで、すべての出発点。立ち位置のはっきりしない無責任な御用専門家のゴタクに付き合っていたら、命がいくつあっても足りない。

 

〇消費税そのものの是非はそっちのけで、軽減税率がどうの、ポイント還元どうのと、完全に罠にはめられているということすら気付いていないようである。テレビのお兄さん、お姉さんたちもニコニコしながらその損得勘定に明け暮れるばかり。異様である。朝三暮四のサルを見ているようでもあるが、同じ結果になるどころか自分の首を絞めているのだから最悪である。

                                   9/24

※9/27(金)のモーニングショーで「老後2000万円問題」について藤井聡が舌鋒鋭く語っていた。それに関連して消費税についても語っていたがその通りである。

 

〇最近、古代史の本を読んでいるせいか、米国に媚を売り続ける日本「政府」の姿はそのままその昔、唐に媚を売る倭(日本)とも重なる。

 

〇原発の責任問題、東京地裁判決「無罪」はあり得ぬ話である。「法治国家か?」という問いも当然。三権分立すらすでに壊れていると思われる。さらに、その汚染水の処理、後ろめたいものがなければ世界に有無を言わせず納得させるようなことをすればいいだけのこと。世界的視野で見ればどう見ても何かを隠しているようにしか見えないのである。

                                    9/22

 

〇年間1000冊の本を読むということを自慢していた御仁がいたが、愚かという一言に尽きる。読んでいる本の内容までわかるが、軽く読み流せる程度の駄本ばかり読んでいたのでは、その人生もまたそれまでのことである。どちらにしても密度の濃い本は何度も読み返さないと本当にはわからないものである。速読技術などで捉えられるほど「世界」は甘くもなく、浅薄ではない。そんな小手先勝負では世界の片りんすら垣間見ることもできまい。それこそ貴重な時間を「つぶしている」だけである。                                       

                                      9/11

 

〇「人生100年」?、生殺与奪の権を持った尊いお方は一国のみならず森羅万象を統べるとのたまわく。彼は一体何様?人生100年などと人の人生まで勝手に計算してその気にさせる。しかし、言動から見えてくるのは、すべてはただ言ったまでのこと、何ら一つとして100%根拠はない。

〇「晩節を汚す」というより、本性が現れただけであろう。現状は、ありとあらゆる人間の資質、魂胆というものが丸見えになってしまう状況でもある。そういう意味では、非常にわかりやすくなっている。

 煽り煽られ、揺り揺られ、身の程知らずの行き着く先はいつも決まって奈落城

 したり顔した群盲ばかりが目につくが、実情はそれほどでもなかろう。また、それで動き出すようでは本当に奈落の底である。

                                   9/5

 

〇「煽り運転」、他者を煽っているようで実は何よりも自分自身を煽って追い込んでいるのである。その結果、視野狭窄で周囲がまったく見えなくなり、異様な怒りと興奮で大脳は破損を被るだけとなる。それはいつか常習性を持ち始め、確実に脳を劣化させていく。百害あって一利なしなのであるが、それにはまったく気付かない。常に自身をそこまで煽らなければ自分が成り立たないと思える程空疎なのである。煽り行為のすべては、実は自分自身が空っぽで、貧相な人間であるという証でしかない。中身のないみすぼらしい者のあがきともいえる。自己をコントロールできない者の所業は例外なく見苦しく、だらしないものである。精神、肉体共に鍛え上げられた者と比較すれば一目瞭然。「煽り行為」は何も三下奴に限ったことではない、社会全体の偏向,歪みの影響を受けやすい卑小弱者、跳ね上がり部分に遍く現れるものである。

 最近のデマなどによる集団ヒステリー気味の視野狭窄も全くものが見えていないだけに怖いものがある。要するに、頭脳明晰ならまず起こりえないことなのである。カルト的集団ヒステリーの様相は、その社会が衰退している明確な証でもある。頭脳明晰で「ある」というスタンスをとる勇気も気概もない、怪しげな者によって作られた「情」に掉さし、流されるばかりでは行きつく先は断崖絶壁で、後は落ちるしかない。フィクサーの動きは、明々白々なのである。

「頭を冷やして出直してこい!」「打ち方やめ!」とでも言いたくなる昨今である。

                                      8/27

 

〇ジム・ロジャーズの本が売れているという。このサイトでも何度か取り上げている人物でもあるが、当然であろう。彼の「位置」から発する明快で痛烈な発言については、いくつになっても12歳程度の理解力しか持ちえぬ、何かといえば「反日」、「売国」などという種分けを売り物にするオメデタイ者たちも黙るより仕方あるまいと思うが、しかし、実情は、黙るどころか逆に感情的に類型的な言葉で括って騒いでいるようだ。彼は、そのような内向き志向では、もはや明日はない、衰退の一途を辿るしか道はないといっているのである。これではますます彼の言っていることが信ぴょう性を増してくるだけであろう。「内向き志向」とは自らのすべてを正当化することでもある。人間は完全ではない、誰でも過ちを犯すものである。「過ち」を見据えることで先が見えてくるのである。「ワカルカナー」

                                      8/24

 

〇「日本人の民主主義理解は12歳の子どもと同じ」、それは民主主義理解だけではあるまい。これだけキッチュに埋め尽くされているとだまるどころか何が真で何が偽か分かり難くなっている上に知的能力の劣化である。当然、そのような者たちに選ばれる議員の憲法理解なども基本的なところが全くできていないということになる。連日、その証左の枚挙にはいとまがないのは周知のことであろう。押しだけは強い欲得しかない12歳程度の理解力の者たちに根本法をいじらせればどうなるか。やがて基本的人権など自動消滅であろう。今や、自動消滅しても果たして気が付く者がどれだけいるかというレベルではないのか。

                                     8/12ー8/20ー

〇浅薄な者が、他者をおとしめ自分を大きく見せて悦に入る。よくある単細胞的「ネット民」の姿でもあるが、内容的には、すなわち思考回路は総じて12歳以下。このような者たちが言いたい放題をネットに上げるものだから同じようなレベルの者たちが無反省に「これでいいのか、よくぞ言ってくれた」とばかりに同調する始末である。この負のスパイラル、危険である。しかし、12歳以下の者にはそれが危険であることがわからないのである。だから、12歳以下なのである。

                                      8/8

 

〇このまま行けば、ジム・ロジャーズの日本についての見解、「見立て」はほぼ間違いあるまい。すでに100%の正答を得られているものもある。

 

〇マッカーサーが退任後に言ったこととして、「日本人の民主主義理解は12歳の子どもと同じ」というのがあったが、それは今でも変わりはあるまい、昨今は特にその現れようが著しい。「紙屋」、「電波屋」の生き残り合戦がさらにそれに拍車をかけ、反民主主義の方向でその気にさせられてしまったちんけな人間を大量生産している。それにしても、アメリカの「トランプ現象」を見るとアメリカの民主主義理解もさらに後退したと言わざるを得ない。

                                     8/7

145.スティーブンキングが恐れるブギーマン

  スティーブンキングは言わずと知れたモダンホラーの第一人者である。その彼が自分の作品に出てくる人物より怖いブギーマンであるというのが、トランプなのである。この作家は直観的に、具体的に見抜いているのであろう。やがて、多くの人々もそのほんとうの恐ろしさを思い知ることになるのであろうが、思い知ったときはすでに遅い。これは映画でも小説でもない、現実的に今同時進行していることである。このトランプと一心同体だという御仁が「支配する」同盟国というより単に追随している国にとっては対岸の火事どころではない。できるだけ早く何としても消し止めなければなるまい。 

 

ブギーマン:不気味な殺人鬼

 

                                   2019 7/17

 

144.つれづれに一言で片づければ(21)33件(386件)

〇「アメリカが嫌なら出て行け」とあのトランプが言ったそうだが、日本でも何を勘違いしているのか同じようなことを得意げに言う者たちがいる。アメリカが嫌いだとか、日本が嫌いだとか言っているわけではあるまい。彼らのやっていること、言っていることに問題がある、非があると言っているだけで、誇大妄想的な勘違いも甚だしいが、この感情論には悪質な作為がある。

                                     7/20

 

〇スマホなどのゲームは愚民政策の一つでもあろう。ゲームは昨今のアヘンであると思っている。

 

〇しかし、ここまで「国『民』」をバカ扱いした政権も珍しい。戦後最大の悪夢は現在であるということを明確に押さえておく必要があろう。

                                   7/13

〇レビューなどに得意げに書き込んでいる者たちがいるが、自分の無知、リテラシーのなさが全然わかっていないのであろうと思われる。要するに、自分を知らなすぎるのである。有名無名は問わないが、もう少し自らの思考を打ち鍛えてから言うべきであろう。だらしのないよだれのような内容が多過ぎる。

〇「新聞記者」、こういう映画がごく普通に作られることが望ましいことであり、社会的にも「健全」であることの証ともなるが、実際は、極めて不健全な社会になっているのである。日本文学研究者でもあり、国文学研究資料館長でもあるロバート・キャンベルも政治に関心を持つことがどういうことなのか、選挙に行くことの意味について若者に語りかけていた。ほんとうにこのまま行けば、ジム・ロジャーズ(世界三大投資家の一人)が言うように「安倍政権の政策は、日本の子どもたちの将来を滅茶苦茶するものである。日本が消えるのは50年後か、100年後か、残念である」ということになるのである。

※「大統領の陰謀」(1976年 米国)、「ニュースの真相」(2015年 米国)などの映画もすでにある。   

                                     6/29

〇「ニッポン無責任時代」という映画があった、1962年当時は笑えたことでもあろうが、それから半世紀以上経て、今やニッポン無責任時代そのものとなってしまった。後々、昭和、平成、令和を集約して「この時代はね、日本の『ニッポン無責任時代』」などと言われても仕方ないと思われる。そうであれば、修復可能な壊れ方であったということにもなり、大いに結構なことであるが、そうでなければ最悪な結末ともなる。

〇フェイカー(faker)が、フェイク(fake)、フェイクとかまびすし。フェイカーは、真実そのものを恣意的に相対化させる。

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〇本当に、本屋らしい本屋はなくなってしまった。コンビニ化した本屋に見識を求めても土台無理な話なのでこれ以上は言わないが、そのような中でも唯一、新宿紀伊国屋書店は全体的にその基本的スタンスを崩していないように思われた。要するに、錆び付いたら終わりということなのである。

 

〇何から何まで、異様な明るさ、軽さ、病的である。その裏が透けて見える。また、奥の方では、やたらとポジティブなトロレットが騒いでいた、「嘘、臆面のなさ、裏切りは満ち足りた生き方の三つの祝福」、「楽ちんに生きるために骨抜きで生きましょう!」「苦しまない生き方は、これ! 怠慢、忘却、無頓着、これしかない!」「やがて、あなた方を変身させる!栄光に飢えた戦争のマシーンに!ハハハハハハハー・・・」

                                     6/2

 〇日本では、自分は「無神論」であると思っている人々でさえ、実質的には民族宗教「神道」の信者であるといえるほどそれは生活に入り込んでいて敢えて意識するレベルではないから気付かないだけなのである。「神仏習合」などといってもどこまでが仏教か不明なものも多いが、それは仏教がそれ以前からあったその土地の民族宗教すなわち神道と融合した結果であると簡単に済ませるほど単純なものでもない。仏教徒が支持基盤となるか、神道の信者を支持者にするかの権力者の謀議は常にあったであろう。「神仏習合」とは聞こえはよいが、仏教徒にも神道信者にも取り入る権力者側の折衷案がそのまま残されているということで、仏教教理と神道伝承が宗教的に融合したなどということでは全くない。そもそも八百万の神を信仰の対象とするところは日本に限らず至るところにある民間信仰でもある。それが惟神(かむながら)の道ともなれば、明確な仏教哲学とはまったく相容れないものとなる。普遍的な哲学的問いに対しても答えられない民間信仰レベルのものはどのような権力とも結びつきやすい、というよりは利用されやすいのである。全体主義国家の再興を目論む者たちにとって、それは打って付けなのである。

老婆心:仏教とは仏陀(釈迦牟尼)を開祖とする世界宗教。神道、密教、加持祈祷の類は仏教とは無縁。

                                    5/11

 

〇何についても「真摯に、緊張感をもって」、どちらにしてもヘラヘラとやりすごす, マリオネットかギニョールか そうかと思えば一方では、記者の当然の質問に「あなたの質問に答える必要はありません」とくる。これも前代未聞である。そして、何を話しているのかいつもの「米大統領と電話会談」、「電話会談」というより「電話相談」であろう。こちらの方は通訳付きで単語も間違いようがあるまい。

 何もかも、やった振りの大衆に媚びた騙しの印象操作ばかり、これで付いて行けば、どうなるか分かり切ったことであろうと思われるが、それが分らぬようにねつ造、改ざんが至る所に施されている。ここが、頭の正当な使い道を失った御用の衆の出番でもある。昨今では、御用の衆も雨後の筍のようで驚くばかりであるが、よく見れば、戦前復帰を本願とする集団に後押しされてようやく活路を得たような者たちばかりである。

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〇構成作家が習い性となってしまった哀れな「作家」、むしろ売文業者と言った方が的確かもしれないが、そうした金が目当ての書きなぐりを生業とする者、元々、「個」を深める作業とは縁もゆかりもなく、そこで使われる「文学的修辞」などとは単なる「目くらまし」として使われているに過ぎない。いかに時流に乗り視聴率、出版部数を上げるかが最大の関心事。いきおい、ある事ないこと事実に仕立て上げ、「やらせ」、「でっち上げ」などお構いなしの感覚になっていく。本屋も出版屋も背に腹はかえられぬとばかり店頭にそうした本を積み上げ、いかがわしい売文業者の大写しのポスターを張り付ける。つい、その面見てしまうが、やはりイカガワシサがにじみ出ている。

 

〇「ノートルダム」を「私たちの貴婦人」と訳して事足れりと思ってその気になっている日本のマスメディア、それに類する者たちのレベルの低さ、中途半端な専門バカばかりなのであろうと思われる。「役に立つ、立たない」を最大基準にしている傲慢さ故の無知から起こることである。反知性の象徴的な一端でもある。

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〇区議選前、例の杉田何某を応援演説に呼んで、高円寺駅前での一悶着、呼ぶ方も呼ぶ方でお里も知れるおこの沙汰。高円寺はまだ死んでいないなと思える意外な出来事であった。

 

〇「いっさい成り行き」(樹木希林)の本が売れているという。この題名のつけ方で彼女の生き方そのものが浮かび上がる。それは俗流「他力本願」などとはかけ離れている。(この言葉は半可通に頻繁遣われてもはや使うこと自体が反知性の証ともなっているが)、そうかと言って、もちろん「自力本願」でもない、敢えていえば「他力本願自力」ともいうべき「域」であろうか、言い換えれば自在の域でもある。ああしたい、こうしたい、あれも欲しいこれも欲しいは餓鬼の内ということである。

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〇WTOの紛争処理手続きの「最終審」は日本側の主張を退けた。もういい加減「風評被害」などという言葉で括るのはやめたほうがいい。近隣のおばさんだってそんなことはわかっている。だから、買わないのである。「政府困惑『あり得ない』」とは、まさにあり得ないことである。神がかっているのか、大ウソつきなのか、私利私欲の亡者の集団か。根本的な原因は何なのか?もう一度そこから考え直すべきであろう。どこまで日本の信用を失墜させるつもりなのか。

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〇新元号、騒いでいるのはマスメディアだけ、大方の皆さんは白々とした様子である。新元号の「令和」、「和」を命ずるとも読める。どのような「和」なのか?「和を以て貴しとなす」という「和」でもなく、「和して同ぜず」という意味合いもないようだ。「令」も気になるところである。私は仕方のないとき以外は年号は遣わないのでどちらでもよいのだが、もともと年号などというものは中国の皇帝の「時も支配する」という思想からきているもので私にはあまりなじまない上に不便なだけなのである。明快に2019年で充分である。時の権力者の思いなどを「時」に載せられてもただ重く、煩雑になるだけである。

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 しかし、万葉集についての知識もこの程度で仰々しく日本の文化について語るとは、取ってつけたような「日本人」である。「アベ友連」の涙ぐましい擁護もただ鼻白むだけである。

 

〇内閣府発表、〇〇省発表などのデーター、内容をそのまま信用している人がいること自体が驚きであるが、「学者」、「評論家」、「ジャーナリスト」などがそのデーターを根拠に論を展開しているのであるから話にならない。「まず、何事も疑ってみることです」とはノーベル賞学者である。批評もできないようなところに進展はなく、やがて衰退は避けられまい。実際、その実例は枚挙にいとまがないのである。

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〇テレビのディレクター、演出家、プロデューサーなどというものは、安吾を登場させるまでもなく、時流にいかにして乗るかが最大の関心事であって、実のところそれ以外には内容的に何もないと言ってよいだろう。そのことについては今もまったく変わることはない。逆に何もないことを逆手にとって商売にしているともいえる。だから、いつの間にかそれこそ「健全に」」戦争のプロパガンにもなってしまうのである。彼らには責任などという言葉すら存在しない。そのような在り方を選んでいる者たちなのである。その点では今の政治屋諸君とまったく相似形である。実際、海外のテレビドラマなどと比較すればその差は歴然としている。どれもこれも対象年齢は10歳程度としか思えないものばかり、日本には子供番組と子供ニュースしかないのかとさえ思える時がある。だからいつまでたってもどこまでも幼稚なのである。

 最近の報道と名の付くものの中には、「アホノミックス」同様、「アホウドウ」と言ったほうがよさそうなものが多い。ア報道は報道ではない。「報道番組と名乗るのをやめるべし」と女性ジャーナリストが激怒するのも当たり前であろう。

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〇「三本の矢」云々については、当初からこのサイトではその怪しげな領域を指摘していたので、どこぞのコピーライターのような「ジャーナリスト」、「評論家」、御用の筋の「学者」などがまことしやかにお題目のように唱えるその内容には笑止、辟易の繰り返しであった。そもそも三本の矢を持って的に向かうなど名人の域いるものだけである。その器量もないものにはまったく無理なのである。兼好法師でなくとも、「この一矢に定べし」という気概がなくては、矢はすべて的のない矢に等しい。現状は案の定というより他に言いようがあるまい。しかし、この程度の「大衆好み」の漫画ゲーム的比喩に引き込まれているようでは漫画的に崩れ去るのも当然なのである。その譬え、毛利何某の三本の矢であったにしても的外れも甚だしい。

 わかったようなわからないような類型的なコンセプトを泥団子をこね回すごとくに手を変え品を変え作り出す者とは、山師以外にはない。

 国会で、質問に対して「この場で申し上げることではない」と言う者、要するに国民は知る必要がないと言っているのである。無恥と無知と驕りがここまで重なると、それはただ単に不気味な「得体の知れぬ『もの』」となる。完全に「人間の境涯」から外れている。

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〇昨今売れる本といえば、「金運」、「強運」、「占い」、「金をもうける方法」、「ダイエット」、時代のキーワードを扱った「雑文」の類のようである。これでは文化云々どころか、何が起こっても唯々諾々と従う「民」ばかりが増殖するだけですべてにおいて展開、発展の余地は全くあるまい。明確な問題提起もなされないまま、問題が問題として浮かび上がりようもないからである。

 

〇一時、極めて頭脳明晰であったものが、ある時から凡夫以下のていたらくとなる。よくあることである。その原因の多くは、否、すべてといってもいいだろう。自己増殖させてしまった欲望である。さらに、亡者に至っては前頭葉は完全に機能不全状態である。このような人々を縁なき衆生というのであるが、救いがたき人間ばかりを増やしていては衰退、滅亡は避けられない。前頭葉機能不全状態の者の言語はすべてその場限りの場当たり的言語であるということである。

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〇ある御仁について、「サイコパス」ではなく「自己愛型人格障害」などと「分析」していた「専門家」がいたが、だから、人物の捉え方が常に平面的になるのである。たとえ、「自己愛的人格障害」であったとしても、それはいつでも「サイコパス」にも成り得るのである。そもそもそのような線引き、分類にどれほどの意味があるのか。あるとすれば、平面的に浮かび上がったものを頼りにするしかない領域での浅薄な人格定義である。

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〇昨今はまた、子供食らうというサトゥルヌスが頻繁に出没しているようだ。子供の受難の時代のようで痛々しい。躾(しつけ)?この字が読めない者は中高年にもいるようであるが、躾などは「親にもなり切れていない」者などには全く無理で、いわんやそのような者たちが躾と称して体罰などもってのほかである。サトゥルヌスのいる部屋に子供を投げ入れるようなものである。

 

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〇Bye-bye happiness  Hello loneliness・・  じゃないな、Good-bye happiness Hello darkness かロンリネス イン ザ ダーク。しかし、ここまで健全にダークサイドが跋扈(ばっこ)しているのは卦体(けたい)である。ダークサイドの妙に明るい「音」ばかりに気を取られて、その本体の拡大に気付いていないとかなり危険であろう。

 戦後民主主義の総決算がこれではあまりにも無残であるが、必然的な流れでもある。すでに早い時期から民主主義なるものは文字通り形骸化していて、脳死状態のまま延命治療を行っていただけと言った方が適切なのであろう。だから、今その形骸化した民主主義の息の根を止め、新たな出発を装った全体主義の再建が何か途方もなく新鮮に見えるのであろうが、それは陳腐な取り返しのつかない大きな誤りである。

 偽りの人ほど希望に満ちた明るいこと、お為ごかしを言うものである。暗い夜道で根も葉もない明日のことを砂糖と塩にまぶして喋られても、それに耳を傾けていればつまづくか転落するしかあるまい。今必要なのは、明日を語ることではない、今日を、今日を「実現した」一連の過去の事象を見据えることである。今までのことも責任を取れない者たちがどうやって未来に責任を取るというのか。「絶対に」あり得ないことを平然と言えるということは、神経障害、精神の病の類としかいいようがない。

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〇「統計の不正」、これではまったくお話にならない。国の根幹も揺らぐようなことをやっているのである。徹底的な追及を望む。逃げ切れると思っている御仁には敢えて言う。政治においては、「推定無罪」は判断の考慮に入れる必要はない。「推定」は有罪なのである。それは「権力」の強度に比例して「確定」となる。要するに、知らぬ存ぜぬでは済まされぬ「位置」にいるのである。法的には逃げ切れても「許されざる者」であることに微塵の疑義もない。

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〇「親権」を見直すのは当然であろう。そもそも「親」などには誰でもなれるのであるが「親になる」にはそれなりの「知性」、「愛情」も必要である。「愛情」が「知性」を凌駕することもあるが、「しつけ」には「知性」の裏付けないととんでもないことになる。「親である」ことにふんぞり返っているような親の「親権」などは見直されて当たり前で、子供を社会全体で育てるという意識も必要であろう。少子化対策などと言っていながら、必要なところには金を出し渋る「者たち」はそのあたりでもビクついているのであろうが。

 

〇「あのお方は国会というところで、とうとう現人神になったそうじゃ」、「そりゃまた、えらいこちゃな」、「いやはやどうなることやら、登りつめても先があるまいにのー」・・・・・

「森羅万象を担当する者」が、まともに質問にも答えられず、誤用と謝罪だけでは、先のあるなしの問題でもない。しっかり大地に立ってもいられず、そばに立っていた「朽木」に飛び乗り、上り始めたというのが実情であろう。後は美辞と巧言で粉飾するしか手はないのである。実際、見ているとそれだけである。

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〇美容クリニックの何某が、「ナチスにも功罪がある」と言う、これまた恐れ入り谷の鬼子母神。さらに「自分は他人のいいところしか見ないようにしている」とくるから始末に負えない。それなら、他人に対する一言居士風なつまらぬ説教、悪口雑言の類はやめたらどうか。要するに、ネットなどに溢れている根幹部分の検証吟味があまい、したり顔のコピペ人間となんら変わることはない。こんなことは敢えて取り上げることもないことではあるが。バカでかい声なのでつい。

 

〇「この道しかない」?飽くまで「自分にとって」この道しかないのである。これは全体主義国家建設の宣言でもあろう。こんな御仁の「思い込み」でしかないものに付いて行くわけにはいくまい。少なくとも民主主義「信奉者」にとっては。しかし、全体主義国家の前段階では常に民主主義的体裁を取るのが常である。したがって、民主主義「信奉者」がいつの間にか全体主義「信奉者」に移行しているのである。際限なき検証に耐えられない単なる「信奉者」だけでは民主主義は機能しなくなるのは当然である。甘い汁をちらつかせながら欲望と不安を増殖させることで検証の手を止めさせる、そこに「この道しかない」という「前段階」は何気なく作り出される。

 

〇キャッシュレス、すべてにおいて最悪である。これで便利になったなどと思っていると、やがてそのシステム自体が必然的に持っている負の側面にからめ取られることになる。マイナンバーにも懲りず、丸裸にされてそれでも足りぬとばかりに五臓六腑をさらす。本当に「個」というものを大切にせず、おろそかにする人々である。やはり「個」のない全体主義が一番似合いなのかもしれない。

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〇親し気なお兄ちゃん風の若者に、したり顔で確信犯的目くら蛇のような内容を開陳されるとこちらが気恥ずかしくなってくるが、これがユーチューブ辺りで人気があるらしい。要注意の一つの典型でもあろう。こんな皮相的な「見解」に巻き込まれているようでは先は見えている。

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〇数年ぶりに渋谷に出て、そのさらなる衰退ぶりを肌で感じた。スクランブル交差点での大音量、何を言っているのかも不明な言葉と、何の音楽かもわからないような音が90デシベルほどで四方で炸裂している。この街ももう完全に終わっているのだろう。要するに、すべてがイカレテいるのである。気分直しに、老舗の蕎麦屋に入れば頼んでもいないものの料金まで請求される始末。大丈夫か?ほんとうに。これは渋谷に限らず、一事が万事で、後は推して知るべしである。足元も見ずして、というより足元を見えなくさせられてオリンピックなどと浮かれていれば、闇は確実に拡大し、その闇に真っ先に飲み込まれるのは弱者である庶民一般である。経済効果?誰のための?このいかれる浮かれ具合、暗黒の序曲ともいえる。

 

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143.つれづれに一言で片づければ(20)33件(353件)

〇日露「怪談」?・・・胸襟を 開いてフェイク 切りもなし  フェイク仕込みが フェイクフェイクと かまびすし 会談も 階段外され 怪談話 八雲もコケる 全身フェイクで悪霊さえも寄り付かず・・・張りぼてが 札びら切って 涼しげに 何かあるやと 思わせる・・これほど何もないのもただチンケ・・見れば、飛び散る血税大地を血に染めて・・・・見殺し、棄民も後を絶たず・・

 

〇何でもありの政権とは、すなわち、どんな卑劣な手段であっても使うということである。実際そのようなことを「やってきた」のである。それに対して型にはまったような「まともな」批判などはまったく意味をなさない。あらゆることを想定した自在な批判がなされなければ意味も効果もまったくない。「悪の限りを尽くしている者」などには自由自在な批判が一番効果がある。批判が正鵠を得ていればいるほど、今度は相手を「頭のオカシイ」狂人、「裏事情」を知らぬ無知のヤカラに仕立て上げることに躍起となる。最近の日韓事情も、私は凍てつくほど冷静に見ている。「レーダー照射問題」など、これで誰がほくそ笑むのか。それを追ってみてはどうか?それからの話である。賢明な諸氏にはすでに見えていることであろう。歴史上の権力者(側)の許されざる行為は推定が成り立てば「有罪」なのである。「無罪の推定」など権力者(側)に当てはめても無意味、たとえ本当に知らなくても知らぬ存ぜぬでは通らない「位置」にいるのである。その罪の償いは、やがて当該関係者のみならず同時代人にも否応なく課せられるということである。

 北朝鮮が頻繁にミサイルを打ち上げていた時に、ミサイルの弾頭にサリンを入れていると自ら騒いでいたのはどなた様でしたか?第二次大戦中、鬼畜米英で彼らは血を飲むなどと触れ回り人々の恐怖を煽った者たち、それを真に受けワインの味も知らずに死に追い立てられていった人々、やっていることは相も変わらず稚拙にして同質。言っておくが、厚労省しかり、防衛省も同様、やっていること言っていることをそのまま鵜呑みにして信用していると、目隠したまま絶壁から突き落とされることにもなる。要するに、すべてに厳密なチェックが必要だということである。肝心なことは、決して感情的にならず(これが彼らの狙い)、まずは挑発に乗らず飽くまで静観することである。

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 〇テレビで唯一見るべきものといえば、「生活の知恵」風の類のものであると,3、4年前にもこのサイトで言ったことではあるが、今、あらためてそう思っている。先日見たものの中には日々の生きる知恵が詰まっていた。実に参考になった。それ以外の「テレビ枠内」(?)の「与太話」のようなものに付き合っている時間はない。

 

〇平成の終焉と新たな元号までの「カウントダウン」、これで何を区切ろうというのか、何か意味があるのか、昭和から平成そして新たな元号に変わることで何かが変わるわけでも新たな変化が生じる訳でもない。昭和を、平成を「抒情たっぷりに」振り返ったところで無意味であろう。そのような視点では何も見えてこないし、実は何もないに等しい。時の流れを、すなわち歴史はそのような「区分」とはまったく無関係に間断なく継続しているだけである。したがって、「昭和の時代」などというのも、「平成という時代」なども存在するわけではない。「さらば平成」などという地点などあるはずもなく、それは「懐かしむ昭和」などというような「昭和」そのものが幻想でしかないのと同様に無意味である。そして、それは修辞としても低級である。なぜなら、歴史の真っただ中にいる人間が「さらば」などと言える「位置」さえもなく、もちろん懐かしんでいられるはずもないからである。われわれは歴史の真っただ中を生きるより他に手立てはないのである。それは意識するしないにかかわらずで、認識論の問題ではない、存在論的な問題なのである。要するに、あなたはどこにいるのか?私はどこにいるのか?ということである。「自分は何者なのか」などと空疎な柄にもない大言壮語を吐くより先に、自分が今どこの、どの位置にいるのかを明確にさせるべきなのである。そこから自ずと見えてくるものがあるはずである。

                              2019 1/22

 〇高知の内閣支持率26%、これは何も高知に限ったことではあるまい。全国の実態をよく表している数値でもある。そもそも、いまだに支持率が40%台を維持していること自体が不可解、不可思議、薄気味悪いのである。実情は「明治以降最悪の政権」でもある。これ以上の「降下点」はもはや地上にはないというところまできている。すべてが数年前から私の警告している通りになっている。

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 後日、FNNの世論調査の結果が発表されていたが、これは世論調査といえる代物ではあるまい。

〇ゲームは抵抗なく兵隊を作り上げるための巧妙なマインドコントロールの一つでもある。ただ、やりすぎると脳萎縮まで生じ、「まともな兵隊」としても使えるかどうか。要するに、アヘンと変わるところはないということである。「人間やめますかゲームやめますか」というところであろう。最近でも、バイクの学生に追突し、死亡させ、「はい、終わり」と言った40歳代の男、この男の頭の中は「ゲームオーバー」だけである。この男の頭はみごとに「やられている」といってもいいだろう。40過ぎて漫画とゲームと酒、ばくちでは前頭葉は萎縮してカバの脳みそと変わるところはあるまい。最近、やたらと「戦闘もの」が多いのもマインドコントロールの一環であろう。これでカバがその気になれば目も当てられない。

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〇実際、百田尚樹などは噴飯作家と呼ぶのが一番似つかわしいのであろう。年末、適菜収が安倍晋三のツイートを見て、飲みかけの味噌汁を噴き出してしまったそうだ。そこには百田の「日本国紀」が紹介されていたそうである。要するに、噴飯ものを平然ともっともらしく書き連ねる者を噴飯作家というのである。私には、山師が作家を気取っているだけとしか思われないのである。困ったことにどう見ても読者の対象年齢は13歳から18歳程度であることである。それは歴史修正主義者などのプロパガンダが狙う年齢層でもあり、そのレベルで止まってしまった「B層」でもある。

 山師が政治家を気取り、作家を気取り、ジャーナリスト、タレントを気取る。「気取り」と「振り」ばかりでは文字通り話にならないのである。その上、何のための学問かと思われるような御用学者ばかりでは先が思いやられるということである。

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〇問題は山積し、一つとしてまともに片付いた問題はないというのに適切な「批判」はまるで全体主義国家のように影をひそめてしまった。全体主義国家であるならさもありなん、民主主義国家としては異常である。さらに1%の私利私欲でしかない「大義」をもって憲法をいじくり回すその姿勢そのものも一事が万事である。

 

〇「嘘つきは戦争の始まり」、「嘘になれるな、嘘をやめろ」、「嘘は敵」等々、宝島社の発信は正道である。これは他人事ではない。まず自分にウソをつくなということでもある。これに対して、矛先をすり替え、怪しげな方向に誘導する変な集団もいるようだが何もかもが幼稚、というより精神病理が扱う領域にいる者としかいいようがない。自分にも嘘をつき、他人にも平然と嘘をつき、嘘を嘘と思わない、思えない者をサイコパスと言っていたが、サイコパスとはもはや「人間の境涯」にはいない者のことであるということは明確に押さえておく必要があろう。

 

〇一から十まで「ごまかし」、この人間(たち)には「事実が」存在しないのである。「あったこと」も「ないこと」にする、「ないこと」もあったかのごとくねつ造する。この一点だけでも非民主、反民主政治なのである。

                                                                                                            2019  1/6

 

〇「わが友、三島由紀夫」等々、三島由紀夫の名前を出した本でまともな本はまずない。売れ線狙いと自己の「恰好付け」が主で、もっとも「格付け」になるかどうか別問題だが、著者の軽薄さだけが浮かび上がるのはなぜか。

 

〇「頭の中身はおが屑だが、彼には何者かがついている」、よく聞かされることでもあるが、「ついている」というのは単に後ろ盾となっているのか、取り付いているのか、後ろで操っているのかによっても微妙に違ってくる。「おが屑頭」と相性のいいのは果たしてどれか?

 

〇毎年の帰省ラッシュ、実質的に都心部にはこれだけ「出稼ぎ労働者」がいるということ改めて感じる時でもある。もっとも当人には「出稼ぎ労働者」などという意識はないであろう。「帰省ラッシュ」、聞こえはいいが実際は出稼ぎ労働者の大移動なのである。

 

〇マトリックスそのものに致命的欠陥がある。

 

〇ローラなどの沖縄基地問題の発言について、「政治的知識もない者が不用意に発言すべきではない」というようなものがあったが、驚き呆れひっくり返ってしまった。このようなことがまことしやかに言い得てしまう者とは一体何者なのか?「政治的知識」?政治家ですら危ぶまれる知識である。いわんや大方の国民にあるはずがあるまい。要するに、これは「国民は余計なことは言わずに黙っていろ」と言っているのである。こんなことを許していたらとんでもないことになるぞ。

 わずかこれだけのことで、すぐに馬脚、馬体までもあらわす御仁の多いこと。美容クリニック屋のオヤジなどもその一例であって、本来なら何の関係もあるまいが、何らかと関係しているのであろう。それもすでに周知のことではある。

×大王製紙の前会長が「スポンサーとしては迷惑」などと言っているそうだが、この大王製紙も会社として襟を正さなくはならない筆頭格であろう。他人を説教している場合か、「芸能人である前に社会人、社会人として発言することに関してとやかく言う筋合いではない」くらいなことが言えないのか。これもお里が知れる典型である。総じて、「お前が言うか?」のオンパレードである。

 

〇六本木などでフェラーリ見かけて羨望のまなざしを向ける者などは今や皆無であろう。信号待ちをしている人々からもれる呟きは「恥ずかしくないのかね」、「どこのバカか知らねーが」程度のものである。

 

〇兵器の爆買い、米政府に対する上納金の類である。如何せん、この上納金がないと成り立たない「政府」なのである。だから、兵器そのものの性能などどうでもいいのである。何千億円も豚、鶏、牛を買うわけにはいくまい。しかし、飽くまで買うものは兵器で、使ったら一巻の終わりということである。平和ボケしたタカ派と一緒になっていたら、それ以後の復興の余地はまったくない。

 

〇日本、日本人そのものと、「現日本政府」と分けて考えないと危うい方向に誘導されてしまうことになる。マスメディアもいつの間にか「日本」「日本人」と「現日本政府」を混同させているがもう少しきちんと分けるべきであろう。「日本に抗議する」ことと「日本政府に抗議している」ことを明確に使い分ける必要がある。それは他国についても同様で「アメリカ政府に抗議する」、「韓国政府に抗議する」等々、が実質的にも適切である。アメリカ、アメリカ人、韓国、韓国人そのもの、全般が一律にそうであるということにはならないからである。

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〇クジラが日本の(食)文化? 寿司、天婦羅などは食文化としても納得できるが、鯨肉そのものがそこまで「本来的」に求められて日本人そのものに浸透しているとはとても思えない。文化というものについて、身近なもので例を挙げれば、紙幣である。日本の紙幣と諸外国の紙幣の作りなどを比べれば一目瞭然。このような何気ないところに見事に集約されているものがその国の文化でもある。文化レベルはもともと高いにもかかわらずそのことに気が付かない、むしろ貶めているのが現在の状態でもある。そうかと言って、取ってつけたような安易な「日本精神」の類などから派生した空疎なものの再興など夢見たところで、それは「退行」としか言いようがないのである。

 

〇年の瀬も押し迫る中、汚い芸人、タレントなどの笑い顔など見ていても始まらない。これでは全感覚がマヒするのも無理はない。これで一番喜ぶのは危うい政治屋さんたちであろう。

 

〇表では「ハローハピネス」などと言いながら、原発に手を出す。できれば軍需産業に手を出したくてウズウズしている企業がどれだけあることか。

 

〇「ライフル協会」、「国境に壁を作る会?」、「壁屋」などが支持基盤の「ジョーカー」は今、ホワイトハウスで一人嘆きのツイートをしているようだ。「独裁政治」がお好きな日本なら、すぐに「よじれ」、「ねじれ」などと「乗せられた」マスメディアが騒ぎ出し、それにまた「乗せられた」民が無自覚にその「受け売り」を自分の意見のごとく得意げに触れまわる。

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〇ハズキルーペのCMを見るたびに買う気が失せる。このセンスはズレている。男女格差についても、やはり男女平等ランキング149か国中110位、G7主要7か国中最下位。この感性では当然である。文化レベルもこの程度だと思ってまず間違いはない。

 

〇辺野古米軍新基地問題について、私の世界などからはまったく縁もなかったも「ローラ」、「りゅうちぇる」の行動は彼らを見直す契機となった。安室なども同様である。ウーマン村本については以前からこのサイトでも取り上げてるので当然の行為であると思っている。彼らの意思表示、行動についてカビ臭い講釈をして、あたかもそれが一般常識のごとく言う者もいるようだが、それはもはや常識でも何でもない世界の非常識そのもので、その是非についてもやがてわかることであろうが、それを待っている訳にはいかないのが現状の問題である。彼らの「感覚」は、素直でまったく正常である。それで充分なのである。したり顔の専門筋のもっともらしい作られた「見解」などに惑わされることはない。もし無責任な専門筋の意見にも「理」を感じれば彼ら自身がまた素直に反応するであろう。それをコントロールされていることすら無自覚な者が知った風なことを言ってもお里が知れるだけである。

 このことについてもまた、「カエルの楽園」などというジョージ・オーウェルの「動物農場」を都合よく我田引水して焼き直した、オーウェルの本意とはまったく乖離する方向に持って行った駄本の登場人物の「ローラ」を引き合いに出し、本の宣伝をするという商魂たくましい出版屋の安手のコピーのような言説も目にしたが、吐き気がした。オーウェルが見据えていたものは、右翼、左翼などという次元の問題ではなく「権力機構」が具体的に作用する場合に必然的に生じる問題である。「権力」というものは、どのような思想と結びついていようが「時間の経過」とともに権力者に腐敗と堕落を生じさせるということなのである。

 因みに、何かと言えば、「左傾化」、「左翼化」とかまびすしい者たちも実はまったく同様で、彼らの存在自体がすでにファシズム、全体主義にからめとられているのである。「動物農場」は、一見「社会主義的ファシズムを痛撃」しているように見えるが、実は、右も左も同様で、ファシズムに陥る経過、状態そのものを痛撃しているということである。

また、長くなってしまった。「一言で片づけよう」

「ぼーっと生きているんじゃねーよ!」

                                 2018 12/21

 

〇例えば、アガサクリスティ、「一言で片づけろ」と言うのであれば、手練れではあるが底が浅いということになる。

 

〇タブロイド紙を見ていると、伊集院何某という作家が何やら道学者先生のようなことを開陳していたが、この御仁の本も今まで読んだことがなかったが、今後も読むことはないであろう。そもそも作家とは何か?踏ん反り返ってトリビアなことを言い始めたら作家などというものは「山師」と変わるところはない。直木賞、芥川賞なども何のメルクマークにもならなくなって久しいが、折に触れてその確証を得ることばかりである。

                                      12/15

 

〇ウーマンラッシュアワー大いに結構。まともに時事ネタも扱えない、楽屋落ちのような芸能界のゴシップネタを得意げにやるしかない自堕落なお笑い芸人互助会集団よりどれだけましか。「タブーの政治ネタ」?誰がいつからタブーにしたのか?コロンビアトップライトは政治社会風刺の漫才で、ある時代の漫才を築き上げたではないか。「時事ネタ、政治ネタの方が簡単、邪道」であるかのようなことを言う者もいるようだが、それは嘘で自分ができないこと、避けているいることの言い訳である。要するにずる賢いだけなのである。アベ友芸人に象徴されるように長い物には巻かれろ、結局のところ、強者に対しては何があってもホンネは吐かない男芸者、弱者に対しては、ホンネとばかりに「イジリ」と称した「いじめ」で銭を稼ぐしかないのである。無難で安易な稼ぎ方である。

                                    12/12

 

〇米国ではとても使い物にならないであろうと思われるK・Gという弁護士が日本で「自虐史観と憲法改正」などと題して、自民党系のB層に向けて日々「洗脳活動」に勤しんでいるようだが、発信している内容は相変わらずめちゃくちゃである。何を言っても自由だがここまで歪曲して、非論理的、かつ法学的にもあり得ないことを平然とまくし立てる神経は異常である。無能無才の食い詰め者のあがきが、このような言動に走らせ、それを利用する者がいるということなのでもあろう。当然、金の流れは周知のとおりである。しかし、このようなお里も知れる低レベルな外国人に自国の憲法について諭されてありがたがる日本人とは一体何者なのか。

※K・G:名前も出したくないので出さないが、軽いノリで今でもタレント活動もしているようである。その軽いノリも要注意である。やっていることは大衆扇動者、大衆洗脳者といったところである。注意深く観察すればすぐにわかること。顔も年とともに醜悪さが増している。 

                                    12/11

 

〇アメリカ大統領パパ・ブッシュは生前、自分の大きな失敗は息子を大統領にしたことだと言っていたそうである。その通りだと微笑んでいるのが大方の良識ある人々であろう。日本においては、取り返しのつかない失敗作ばかりで、一例も成功例がない。さらに、自分の息子に対して「失敗」と明確に断言できる器量さえ持ち合わせてはいまい。

〇「ソフトバンク通信障害」、「オール電化」と同様、便利だからと選択肢のない状態にすれば、混乱は致命的な結果をもたらす。何でも一つのものだけに集中させ、それに頼ればこの通りである。今後を見る上で、ひとつの象徴的な出来事である。

                                   12/7    

〇「外国人実習生」という美名の奴隷。2012年から2015年の3年間で※69名が死んでいるということである。それに対してそのような実情は「何も知らず」、「入管法改正案」を通してもらえれば省令で対応したいとの答弁。またぞろ答弁である。「外国人研修生」、巧妙になっているだけで実質的に「徴用工」と何ら変わるところはあるまい。「現代版徴用工」である。労働力が足りない?もっともらしいがそれだけでは決してない。そこには、「夢よもう一度」というIQの足りない政官財複合体の、亡者たちのたくらみが隠されている。その「夢」と一般国民の「夢」が合致することは地球が逆転でもしない限りあり得ないのである。

 ※自殺、殺害も含まれるがその原因、背景、責任の所在も不明ということである。2017年には7000以上が失踪。

※「入管法改正案」、「水道法改正案」など、またあの学者としては三流の御用経済学者の竹中平蔵が暗躍している。しかし、こんな教授に学生は何を教わっているのか、どちらにしてもまともな者にはなるまい。せいぜい無能の証に過ぎないコストカッターとして身を立てるくらいであろうか。

                                                                                                                                        12/6

〇山手線内に米軍基地ができたのかと思わせるような新駅の名称、「高輪ゲートウェイ」。最初は高輪ゲートボール」かとも思ったが、どちらにしても良いイメージはない。JRも人々に愛されないはずである。名称を公募したにもかかわらず、1位の名称「高輪」ではなく120位の「高輪ゲートウェイ」にする。なぜ人々の意思に反したことをするのか?「駅名選定委員会」のメンバーは?センスも感性も最悪である。どこを切っても同じ醜悪な顔が出てくる。

                                                                                                                                        12/5

〇ナンバーワンよりオンリーワンという内容のヒット曲があったが、オンリーワンを真っ向から否定していくのが今の政府の方向であることは知っておくべきであろう。

142.役員報酬のトップ5 ?

 コストカッターのカルロス・ゴーンが(彼についてのそれ以外の補足説明は一切不要)、世界レベルで言えば自分の役員報酬は基準以下などと言っているようだが、そこで出された役員報酬の世界のトップ5、何百億単位の役員報酬とその職業を見るとやはり山師の類である。民間には山師類もさぞかし多いことであろうが、そんなことより税金を使ってやりたい放題の詐欺師グループの方をマスメディアは追及すべきなのである。会長だの役員だのと世間的美名の内実は、要するに情け容赦のないコストカッター、リストラクチャリングの名の下に行われる単なる首切り作業を効率よく進めることができる者とうことで、総じて山師ということで括れる者たちのことでもある。しかし、顔が悪すぎる(顔だけではないが)、やはりすべては顔に出るものなのであろう。充分なリテラシーがあれば微笑みに隠された残忍さも、そのフェイスから読み解けるはずである。そうでなければ思考回路自体にバグが増殖しているのである。しかし、一方ではバグの増殖は顔から醜悪さを消し去ってくれることもある。すなわち、嘘を嘘と思わない、思えないように自己を再構築することでバグが空けた空白を埋め合わせるのであるが、それはやはりそのこと自体が異常なので、バグが増殖している限り決定的崩壊はやがてくるということである。

 世間は、陰謀政治家と山師に恋焦がれているのであろうとも思われる。

 オメデタさ 極まりなきか 諸人の相 

 

                                  2018 11/25

141.還暦を過ぎてなお

 還暦をとうに過ぎた友人から、久しぶりに手紙をもらった。その中に、「ずいずいと悲しみ来れば一匹のとんぼのように本屋に入る」という安藤美保の歌に涙したということが書かれてあった。私はその素直な心情吐露が何か嬉しかった。還暦を過ぎてなおみずみずしいその感性に共感したのである。こういう方がまだいたのである。彼の生き方そのものがそのような瞬間の哀惜の念によって支えられていたのであろうと思われる。すばらしいという意味で「若い」。

 そういえば、私も三高寮歌「琵琶湖周航の歌」、小口太郎が20歳の時に作詞した歌に涙したこともある。彼は26歳で自殺している。

 

                                 2018 11/18

140.つれづれに一言で片づければ (19)20件ー(320件)

 〇やはり、パリにはいろんな意味でいい悪いは別にして「活力」がある。それに比してご当地東京、日本全国といってもよかろう、その実情は何があっても去勢されたように大方が無反応、隷属隷従が「生きる道」とばかりに日々追われるばかり、若者もただ思うことは「就活」のこと、その後も案の定、作り笑いと馬鹿笑いと貧相な「遊び」に明け暮れて、あたら命の空ぶかし、やがて「終活」を迎え、「棄民である」ことの実情を思い知ることになる。いざとなれば、大方の者は打ち捨てられる棄民であるというのが実情。盲従、隷従の挙句は棄民なのである。幻想、妄想、思い込みが隷属の民の支えである。

 因みに、パリの「燃料税反対」は「暴徒化」という言葉だけが踊っているが、気になるのはそれと同時に「展望がない」などという言葉で括るということである。あたかも、反対表明に展望がないと無意味のような錯覚を与えるが、現在問題になっていることについての反対の意思表示で充分であろう。「展望がない」、あるいは開き直って「対案を出せ」などと言うのも言う方の無能の証にしかならないのである。

後日、ご丁寧に日本では消費税増税などでもデモが大々的に起こらないことについて分析している方がいたが、飽くまで一理あるということにとどまる。やはり根幹の領域で「民主」という意味もわからず、自覚もないということなのである。目の見えぬ「民」ばかりではが「民主」にはなりえないであろう。目の見える「民」、すなわち自己の生存がどのように壊されていくかを直感的に、具体的に、知っている人々である。そこでは「現日本」「現政府」が行っているような詐術はまったく通用しない。毎年何万人も自殺者を出している日本、その自殺者は、パリであればそのままデモの規模にもつながってくるであろうと思われる。すべてを自分の責任としてしか考えられないように仕組まれたその罠に気付かなければなるまい。自分の問題と同時に社会の問題も現前とあることを忘れてしまっては、亡者たちの思う壺なのである。

                                    +12/15

〇千利休の死なども権力に近づく者の宿命であると思っている。「侘(わび)茶を完成した者」といわれているが、そのような美意識、精神の在り様を目指す者がなぜ権力に近づくのか、いかなる理由を挙げても解せぬと同時にその危うさ、いかがわしさは払拭できない。

〇何かといえば「粛々と進める」、よく見れば「陰でこそこそと進める」というのが一番適切であろう。

〇アベ友評論家、アベ友作家、アベ友学者、アベ友ジャーナリスト、アベ友裁判官、アベ友芸人、この限りなき悪の連鎖。ここまでくると「アベ友」、「アベチルドレン」などとのんきな括り方で済まされる問題ではない。明確なコンセプトを有する。ありとあらゆるものの私物化である。それは民主政治なるものから完全に乖離する方向である。言って見れば、メフィストフェレスの契約、すなわち「悪魔との契約」である。時代の変遷によっては、悪魔は往々にしてこのような実質的に空疎なつまらぬ、傲慢な者に巣くうものでもある。「悪魔」にとって都合がよいからである。その結果はすでに出ている。全世界に恥の上塗りを見透かされていても、それでもなおわが身が見えぬかのように繰り返される愚行。少なくともこの様「B層」にも見えぬまい。この「アベ」も完全にガラになるまで搾り取られるであろう。やがてその付はすべて国民に回されるのである。第二次大戦後、アメリカがイタリアでファシスト政権に壊滅させられたマフィアを逆に利用したように日本をマフィア化した方がアメリカには都合がよいというだけに過ぎない。これだけ「右傾化している」などという割には実のところ本当の右翼など皆無であろう。その証拠に、これ程の「謀反」に「天誅」など為すものがいないということである。それが見えないのであれば、やはりすべてにおいてリテラシーの劣化、IQの致命的低下ということで、それこそ話にもならない。要するに、何をしているか、何をされているかがまったくわかっていないのである。

                                     11/30ー

〇何が起こっても、減給と謝罪、それで済むのかと思われること頻りある。潔く辞めたらどうか。

〇大阪万博、経済波及効果2兆円、一体誰が儲かるのか?それもまた言わずと知れた官民入り乱れての山師たちである。一般庶民は無関係、あっても雀の涙ほど、やがてぼったくりの憂き目を見ることになる。オメデタイ限りである。そもそも、「仮定のことについては何も言えない」と断言する者たちが経済波及効果の試算などよくできるなと思われるが、実態は捕らぬ狸の皮算用といったところであろう。「ripple」に乗せられ踊るアホ―に見るアホ―、宴が済めば赤字が出たと社会保障は削られて、消費税はまたアップ。黒字だ、赤字だなどと「ripple」を追って出てくる変動数値など不明であろう。「遅いは早い、早いは遅い」、「平和は戦争、戦争は平和」、こんな相場師ような者たちにいつまでも関わっていても埒が明かない。よく見ればどれもこれも三百代言、三流相場師の面構えである。

※the ripple effect  経済波及効果

 

〇何をしても、猫も杓子も「覚えていません」、「記憶にありません」、その上、司法もまともに機能せずではお話にならないが、それが実情のようである。現実は、「正義」、「真実」などとは無縁であるかのようにただ「流されている」だけのようにみえるが、それで「済む」はずがないことも必ず現実に現れてくるものである。

〇Ghosn is gone.  コストカッターなどという者は、煎じ詰めれば無能の証でしかない。誰もやりたがらないことを平然とやれる者ということに過ぎない。嫌われる役どころを敢えて進んで引き受けて若くして手に入れた地位でもあろう。しかし、それは、有能な経営者とは程遠いものである。それが今回の当然の結論に帰結するのである。ルノーにおいても然り、明確なビジネスモデルを提示できない経営者、コストカッターなど、首切りの意味しかもたないリストラしかできない経営者が現在増殖中である。このような経営者にとっては当然、外国人単純労働者の低賃金労働が喉から手が出るほどほしいのは当たり前である。外国人労働者の流入の限度を定めてなどというのは、この悪しき競争社会では言ったまでのことに過ぎない。この目先のことしか見えない無能な経営者集団を抱き込もうとするのが「単純労働者輸入計画」でもある。

 ほんとうに頭脳明晰な者がいなくなった。ただずる賢い、臆面もない品性下劣な者がバカでかい顔をして生きているのである。一矢報いよ、こんな者たちを残して勝手に自殺などするな。

 現在、「留学生が増えている」などというのも「日本の人気が上がっている」などというのも実情とはかけ離れていると思った方が賢明である。特にマスメディア一般が政府広報と化しているので、それとはなしにバックグラウンド作りにも加担しているのは敢えていう必要もあるまい。それに乗せられるとどこに持って行かれるか不明というより、99%の者にとっては一つとしてプラスになることはない。

                              2018  11/20

 

 

〇「政府見解」、常にまったく意味不明であるが、何を隠しているのかだけは明確である。それにしてもこんなコメントにもならないコメントをただ垂れ流しているだけのメディアなどは実質的に大本営発表と何ら変わることはない。それにしてもここまで内容のないというのもチンケである。またすべてにおいてメディア側に批判的な視点がないということも異様である。

                                       11/16

 

〇言うのも飽きたが、次から次へとつい言いたくなることばかりである。相変わらず、何しに行ったのか不可解な、「ほとぼり」を冷ますだけのような外遊、外交の数々。もっともらしい目くらましである。待つことに慣らされた国民には気が付くまい。国会での「説明責任」にしてもまともに行った者など皆無であろう。そもそも「説明責任」とは一体何なのか。丁寧に何度も記憶にないことを繰り返すことなのか。「説明責任を求める」?そんな追及で何かできると思っている方があまい。まともな相手ならともかく相手は陰謀政治家、山師、三百代言、人格障害の類なのである。さらに困ったことには、アベ友シンドローム(トランプシンドロームと同質)が一般化してきていることである。リップサービスでその気にさせるのは朝飯前、自分の目先の損得関係だけで動く者たちの気持ちを十二分に心得ている。

                                      11/15

 

〇三流経済論「トリクルダウン」が上から下へ流したものは金銭ではなく詐術だけであろう。

「アホノミックス」も「アホノミミクソ」と変わるところもなく、見るのも触れるのも関わること自体はばかられる。が、否応なく降りかかってくる惨禍に等しいので各自各様の行動を強いられるだろう。

 巷では、「分断」、「ねじれ」、「PTSD」などとわかったようなことを言って騒ぎ立てているが、結局この人たちには何も見えていないのであろうと思われる。そのような言葉で括ってみても集約させてみても何も捉え切れないのである。「分断」「対立」は常にある。今までなかったのような「物言い」はすべて嘘か錯覚である。「ねじれ」などもデモクラシーそのものに元々内在する要素である。「PTSD」、特に元軍人であれば戦争という極めて異常な事態に遭遇しざるを得なかった者たちの崩壊してしまったバランス感覚の狂った修整行動である。これも戦争の惨禍の一つであって「PTSD」などと称して収まるものでもない。今後もこのような狂気の沙汰はまだまだ続くことであろう。

 〇巷では、サバイバルナイフで相手の左胸を刺しておいて「殺すつもりはなかった」、運よく一命は取り留めたものの、これで「殺すつもりはなかった」で済むのか?「ぶっ殺してやる」と言った時点で明確に殺意はあると思っている。その時点で相手がどのような反撃に出てもおかしくないのである。脅かすつもりだったなどと言い訳が成り立つのは日本ぐらいであろう。渋谷のハロウィン狂乱騒ぎにしても、今後はおもちゃの銃であろうが「フリーズ」と言っも向かってくれば場合によっては撃ち殺さることにもなりかねない。この「ノリ」でどこでも通用すると思っているいるとかなり危険である。このままいけば渋谷の狂乱騒ぎもいずれ死傷者が出ることになろう。

 単なる「ノリ」ではなかろう、まさに精神病棟そのままである。これが笑える、楽しいのであればかなり「ヤバイ」。頭がもう「ヤラレテイル」ということである。

 

〇ホンジュラスからの難民の大移動、すでにこの中にアメリカ側からも軍関係者、もしくは極秘任務の者が潜入していることは誰の目にも明らかであろう。すでにトランプは「テロリストが潜入している可能性がある」と難民に対する攻撃の正当性を事前に告げているのである。実際にテロリストかどうかも不明のまま、また多くの犠牲者が出ることは間違いないであろう。

 煎じ詰めれば、難民を出しているのは、一体誰なのか?それがすべての元凶でもある。今、この地球上で自分たちだけが「ファースト」などと言っていること自体、人類は否応なく破滅の道を進むしかなくなるということの証左でもある。

 ホンジュラスからの難民の大移動、死から逃れ再び死へと追いやられる行進である。この血の行進の全責任はトランプとその支持者にある。

 

〇どのような仕事をしている者であれ、政治、社会的事象について発言するのは一市民として当然のことであろう。「余計なことは言わずに自分の仕事をしていればいい」などというのは一見もっともらしいが一市民としては怠惰であり義務を怠っているということになる。歌手であろうが土木作業員であろうが一市民として感じている、思っていることを言うのは至極当たり前のことである。その生業で有名か無名などとは無関係に、その生業とは別に人間として、一市民として言わざるをえないことはあろう。「専門家」などに任せっきりでは危うい、「専門家」などが「正当な見解」を述べているとは限らないという事例は枚挙にいとまがないのである。

 「国民が一々口出しするな、軍のことは軍に任せて置け」などと勇ましいことを言っていた「軍事の専門家」である軍幹部がなした結果が先の大戦の悲惨な結果でもある。そして、そのような者たちが一旦崩れだすと無様であるというのは、軍人などの精神文化レベルの低さに基因するとすでに指摘されているとおりである。総じて、「専門家」と称される者たちの核心的な領域は脆弱な場合が多く、わかりやすく言えば「専門バカ」、中には言葉の操作だけでに終始する空疎な「商売人」もいるということである。

 

〇安田純平氏に対する非難のツイートを見ていると、どれもこれもなぜか十人同色で、正論気取りの偉そうなものが多いが、総じてうだつの上がらない小役人的な内容である。民主主義国家における個人と国家の在り様がまったくわかっていないということである。実人生ではびくびくしながら生きて他人の自由な行為についてはここぞとばかりに異常に反応する。そんなに自由が怖いか?とつい言いたくもなる事例である。

「生きて虜囚の恥をさらさず」などの呪縛がいまだに解けない者がいるのか。ツイートが大同小異であるということは発信元がほぼ同一なのであろう。因みに、生きて虜囚の恥をさらしたのは時の最高権力者である。

 

〇現代日本の鬼女の実像、わざわざ巷間を探し回る必要はない。権力に群がる女たちを見れば一目瞭然。やはり権力の「魔力」であろう、困ったことにメフィストは「魔力」を与える者の能力の有無を問わないのである。悪魔は身も心も捧げる者ならアホでもそれを手中に収めさせるが、結局のところその代価は想像を絶するものとなる。この間、権力の中枢でうごめく者たちの様相をライブ感覚で見せつけられたが、醜悪以外の何ものでもない。それは生々しい悪の標本でもある。悪の「仕込み」から「発酵」、「醸造」に至る全過程、その結果生み出されたものがたとえうまかろうがまずかろうが悪は悪なのである。そして、その負の仕返しは必ず現れる。

 

〇単なるマッチ-ポンプ屋なのか、自分で火をつけたことも忘れて人々から見える高台で火消し役を印象付ける。ああ言えばこう言う、そう言えばああ言う、どう言っても自分以外はフェイク。「葉隠れ論語によると、どんな悪い事でもいったん自分がやらかしてしまった以上は、美名をつけて誤魔化してしまえ、と諭しているそうだ」。葉隠れ論語を持ち出すまでもなく、どこでも奇怪な「人間」の考えることは同一である。ホンジュラスからの難民の大行進に向けて軍隊がテロリストが入り込んでいるという理由で発砲するのではないかと懸念している。

                                 2018 10/28    

〇「食いたいもの食って、飲みたいもの飲んで、それで体こわして税金で云々」御存、天下に知れわたった品性下劣な「大臣」の言だが、そもそも誰が食いたくないもの食って、飲みたくないもの飲むのか?そんな者は一人としてしていないだろう、たとえ摂生している者でもそうである。浮浪者、飢餓状態にある者以外にそんなことをするはずもないのである。実情の多くは、高価な良質なものを買えず安物を多量に摂取するしかないことに起因しているのである。

                                                                                                               10/27

〇イケメンはホストにしか見えず、ブスはやはりブスである。臆面もなくよく自分の顔の大写しを載せるものだと感心させられる御仁が多いが、自分のことはそれだけわからないものなのであろう。「みごとな顔」に出会うのは名もなくそれほど裕福でもない人々の中の方が多い。40歳を過ぎなくとも顔には責任がある。「すべて」読み取られているのがわからないのであろう。もっとも鉄のような面の皮した御仁もいるから読み取られていようがいまいが知ったことではないのかもしれないしれない。が、隠した方がいい一番の恥部は実は顔なのである。 

 

〇南青山を久しぶりにぶらついてみるかと思っていた矢先、南青山住民の児童相談所建設抗議、反対の声、その内容のどれもがこの住民たちの安っぽい自意識、エゴだけ、それを見せつけられて興ざめしてしまった。もう二度と行くことはあるまい。「ブランドだ」、「一等地だ」、この程度の意識しかないのである。要するに無粋なのである。粋ではない野暮な街に 敢えて行く気はしない。南青山は何のことはない成り上りの「田舎者」の街だったのである。ブランド志向などというのは詰まるところ内容が空疎であるという証でもある。彼らの言動から文化レベルも見える。貧相である。

                                 10/25

 

〇自衛隊のパレードが全国そこかしこで行われているようだが、軍事オタクは別にして一般人がどのような神経で見ているのであろうかと思う。もし、火器、戦車、戦闘機等々、これを花火大会を見るような感覚で見ているのであれば最悪である。これは飽くまで殺人兵器、部隊の示威行進なのである。その抵抗感、違和感を徐々に緩和させていくのがその主な狙いであることはすぐにわかる。どちらにしても、このような軍事パレードを企画する側の意図は見え見えなのである。平和ボケした国防意識だけで「愛する」?「お国」?を守れると思ったら大間違い。それはそのまま無謀な亡国の兆しともなる。要するに、ものを知らな過ぎるということに尽きるのである。

 その内に、ディズニーランドカラー、ショッキングピンクの戦車のパレードが見られるのではないかとさえ思っている。

 

                                2018 10/22

 

 


 

139.つれづれに一言で片づければ(18)39件(300件)

〇「KYB」、覚えづらいので「空気を読むバカ」とした。空気を読むバカ、読まぬバカ、同じバカなら読まにゃ損損とならないのが天網の浅薄な人知では測れぬところ。

 

〇サウジのジャーナリスト死亡の件、サウジ政府が認めた内容には驚き呆れるばかりである。「口論となり、殴り合いの結果死亡」、そうではあるまい、秘密国家警察の類が噛んでいるのである「口論」ではない、「殴り合い」でもない、複数の圧倒的な力で抑え込み致死させる暴力が意図的に振るわれたということである。サウジアラビアとはそういう独裁国家なのである。またご多分に漏れず例によって金力でそのような負のイメージを払拭させようとしているようだがもはや取り返しがつくまい。サウジの実態が改めて浮かび上がったという意味でもこのジャーナリストの死は無意味ではなかったと思われる。

 それにしても残虐な殺し方をするものである。このようなことが常態化している「ところ」に対してはすべてを拒否する。何億年前の生物資源頼りの狂宴もそろそろ終焉を迎える時がきているが、これでその終焉を前にその先もないことが判明した。因果応報そのままである。

 

                                                                                                                                    10/20

「口論となり、殴り合いの結果死亡」、このような「説明」はどのようなケースでももっともらしく収まってしまうから怖い。対等な状態にない者が集団で暴行を受けても成り立ってしまうのである。今後、頻繁に使われないことを願うと同時にこのような「説明」がなされた場合には要注意だということである。

さらに言えば、国際関係論的な複雑な各国の絡みを説明して、それで何かわかったような錯覚に陥っていると、問題を指摘する一つ一つの言動をすべて中和させ、何が問題であるのかも不鮮明にさせることとなる。いわんや、その国の長の発言内容などはいくつもある判断材料の一つに過ぎないので、場合によってはその材料にもならないということである。

 

 〇自分の子供に「まともな仕事などするな、小説家か山師にでもなれ」と言った陰謀政治家がいたようだが、実際自分の子供にはどんな育て方をしているのか、つい子供の顔を見たくなるような陰謀政治家の類がやたらと多くなっているように思われる。「民」には「清く」、「正しく」、「美しい」生活を強いて自らはやりたい放題。戦時中も軍の幹部連中は内部では天皇を「天さん」などと呼んでいたのである。(そのようなテープが実際残っている。それは親しみでも、当然尊敬の念でもない)要するに、天皇をいかに利用して「民」を縛るかということだけなのである。

 

〇マルチタレント、聞こえはいいがその実態は器用貧乏でどれもこれも中途半端。総じて、実のところ何もない。だからいいように使われるのであろう。

 

〇しかし、詐欺師が大盛況である。これで納得する物分かりの良い極楽蜻蛉ばかりでは国民主権も基本的人権も平和主義も風前の灯火である。

 

〇どこかの神主が、神社に訪れる外国人観光客に「信仰心も持ってほしいですね」とは、神道などはどこの国にもある民族宗教の一つなのである。仏教にしても日本ではいまだに「葬式仏教」の域を出ていない状況である。大方の外国人はキリスト教、イスラム教、仏教、その他の何らかの宗教を持っているのが「普通」である。「無宗教」などというのが「一般」として通用するのは日本くらいなもので、日本と世界の宗教事情をあまりにも知らな過ぎる。

                                      10/16

〇「舌禍」ではあるまい、それは頭の禍すなわち根本的な思考の欠陥、欲望によって歪められた思考の瓦解から起こる問題である。「舌禍「というと「本体」は別のところにあるようだが、言葉を操ることと思考回路は同体である。

                                                                                                                                        10/11

〇何かというと「性善説」だの「性悪説」が出されるが、そうではあるまい、本質なものとして何か確定的なものとして「善」だの「悪」だの有無を問題にしても何の意味もないし、それで「人間」を捉え切れるものでもない。「善」にも「悪」にもいつでも傾く全的「動態」として捉えるしか捉えようがないのが「人間」でもある。

 

〇16歳位から「死と向き合っていた」というより常に死の想念に取りつかれていた私にしてみれば、「就活」などさほどの意味もなく、まともにそれについて考えたこともなかった。そして、今度は「終活」などというコンセプトであるが、それについても今更何を改まってという程度にしか感じられないのである。言ってみれば、私には「就活」など端から存在せず、「終活」だけが常に存在し続けたということになる。ここで言う「終活」とは「死と向き合う」という程度の意味で、世俗的葬儀云々などの意味は一切ない。さらに言えば、「死と向き合う」などと言ったところで、死を直視できない以上、それはどこまで行っても死の観念と向き合っているだけである。余命宣告を受けても、老少不定に変わりはない。ここまで言うと、さぞ暗い生活を送っていたのではないかと思われがちだが、あにはからんや、思うがままにそれなりに手応えのある人生を送ってきた。

因みに、私は以前から定期的に書き換えた遺言を残している。

                                                                                                                                          10/8

翌日、「就活」が経団連主導から政府主導になるということが報じられた。その内「終活」も政府主導になるのであろう。独裁的社会主義国家を目指しているのであるから何から何まで「政府主導」ということが当然の道筋であろう。後はそれでよいのかということである。

 

〇どこかで「超エリート精神科医」という「コピー」を見た。これは一体どのような精神科医なのか、おそらく何の役にも立たない精神科医かマッドサイエンティストの類であろう。「精神の領域」を扱う学問で「エリート」という言葉はまったく無意味なのである。

 

〇20年も30年も当該〇〇協会に出入りしていた者や記者クラブなどの忖度記者がまともなことを言える訳がないであろう。適当に目をそらしながらやり続けるしか飯のタネがないのである。だからと言って、嘘、ごまかし、怠慢が許されるわけではない。彼らもまた逃げ道を躍起になって探していることであろう。しかし、「食うために仕方なかった」などという言い訳は、常に「巨悪」に油を注ぐことにつながり何の言い訳にもならないのである。「食うために仕方なかった」ということで正当化できることは何もない。そうすることで手に入れたものが、たとえ「勝ち組」のように見えても、所詮は「負け組」なのである。その証拠に自身に心底「誇れるもの」が何もないであろう。もし、そうでなければ単なるサイコパスであるということに過ぎない。サイコパスはもはや人間の境涯にはいない者ということである。

※スポーツではあるまい、「勝ち組」、「負け組」というわかったような皮相的な言葉の遣い方は大嫌いなのであるが、ここでは長くなるのでわかりやすくするために敢えて遣った。

                                                                                                                          10/7

〇大のおとなが男女関係を問われて、言うに事欠いて「一線は越えていません」とくる、おそらく一線を跨いでいるのであろう。スキャンダル好きのその筋の者の質問、聞く方も聞く方だが、「普通の一市民」にとっては、その「本来の道」できちんと仕事をしてくれればいいだけのこと。子供ができたできない、誰と誰が関係しているなどとはどうでもいいことなのである。勝手にしやがれがホンネである。

 

〇「テレビは見るものではない」とタモリは言う。そして、「テレビは出るものだ」とも言う。要するに、「踊るアホーに観るアホー、同じアホなら踊らにゃ損、損ー」ということのようだが単にそれだけではない。確かに、テレビなどは観るものではなく、出た方が法外なギャラもあって楽して得する簡便な手段でもあろう。しかし、それは同時に、テレビを観る者とテレビに出る者に対する痛烈な皮肉にもなっている。「観ている」つもりでいつしかほんとうのアホにならないように気を付けるべきなのであろう。

 「テレビは観るものではない。出るものだ」、本来のタモリの片りんを感じさせるアフォリズムである。

                                 2018 10/4

〇ジャニス・ジョプリンの夏であった。思わず、ジョプリンの「サマータイム」を口ずさんでしまったが、汗が噴き出す、耐え難い暑さに太刀打ちするには丁度いい曲なのであろう。外科手術中の外科医が癒し系の曲、軽やかな明るい曲ではかえって手術ができないというのと同様である。

                                                                                                                                 9/30 

〇樹木希林と台風、そして貴乃花問題、報道するなとは言わないが、これだけしか報道するものがないかのようであるから異様なのである。能無しの能一つといったところであろう。

 

〇ゲームにはまっている某青年にどこが面白いのかその内容を聞いてみると、要するに一人でする「双六(すごろく)」のようなものであった。インドで起こり中国を経て奈良時代以前に伝わった双六、ただし、「電子双六」の方は目的達成までいくつものエピソード、イベントがあって達成までどのくらいかかるかわからないらしい。その青年はすでに2年くらいかかっている。

                                   9/27  

〇日本では、火山活動、地震学、地質学上の問題も最終的には「ガイドライン」に則って三権分立も未分化な裁判所が判断するようである。原発の再稼働も「ガイドライン」に則って「破局的噴火のリスクは容認できる」として稼働を認めたということである。この調子で再稼働が続けば、今後は何があっても後はすべて自業自得ということでろう。目先の欲にかられた亡国の時代の人々がもたらした悪魔の遺産、さぞかし呪われることであろう。

 広島、福島さえ忘れ、欲望に目がくらみ、突っ走る。過ちは誰にでもあるが、二度も三度も繰り返すのを愚者というが、今後は愚者というより絶滅種と言った方がいいかもしれない。

 

〇極個人的な意見を敢えて言わせてもらえば、「有名人」の8割は「ろくでもない人間」であると思ってる。有名人であることが何の保証にもならないのである。そうかと言って「無名な人々」がいいという訳では決してない。匿名性そのものに「悪」を呼び起こし増長させる要因がある。その実例はネット社会ですでに実証済みであろう。

 

〇一面記事、社会面では然もありなんと思われる内容が多い某タブロイド紙の汚点ともいえるのが「貴乃花問題」であろう。既得権益側の日本相撲協会べったりの一方的な貴乃花に対する感情過多の「批判」とも言えないお粗末な内容には毎回うんざりさせられる。書いている者も耳目を集めてナンボの相当の食わせ者であろう。当方は読み捨てるからどうでもよいが、一面と終面はピンキリということか。キリで自壊の道とは。

 要するに、「公益法人」である日本相撲協会も総点検すべき時にきているということであろう。もう先がないところまできているのがわからないようでは終焉は近い。

 

〇「新潮45」は論外中の論外、「デイリー新潮」などもひどいものである。「炎上商法」?そんな邪道は所詮自壊するしかあるまい。一度やったらもう終わりなのである。他のマスメディアにも同様なものが多々あり、ほんとうに呆れ返ってものも言えない状態である。特に最近の大手新聞社、出版社などマスメディアの凋落は目に余るものがある。つい、みっともない恥を知れと言いたくなるが、恥知らずに言ったところで話にもならず、とにかくとことん堕ちたなという実感しかない。後はどこから金が出ているのか?それだけである。これは、金の流れを見れば一目瞭然という典型的なパターンであろう。もっとも、金の流れなどは簡単にはわからないようにしているのは言わずもがなのこと。

 こんなことをしているから戦後最悪の大量殺人、「相模原障害者施設殺傷事件」などが起きるのである。この犯人はまったく反省していないどころかアベの信奉者であることを自慢していたというではないか。なぜ思考停止状態の愚者をこのように誘導してしまうのか、安直に手っ取り早く彼らの存在理由に確証を与えるような扇動的な言動を繰り返しているからである。それは幻影以外の何ものでもないが、この犯人は今だに「正義」の「殺人」だと思っているのであるから、いかに幻影が人を動かす手っ取り早い方法であるかがわかる。このように、すぐに幻影にのめり込む単細胞的人間を増やすこと、すなわち扇動的な言動に従順な「兵士」を育てるという意味では発信側にとっては実は思惑通りであろう。犯人は信奉する者に対してあまりにも一途で従順過ぎたというだけのことともいえるのである。これがいつ一般化するかわからないということも知らなくてはならない。

この犯人には「障害者」もまた「生産性のない者」なのである。

 

                                     9./24

 

〇「仮定のことについては何も言えない」政府では「予算」も立てられないだろうし、「公約」も無意味であろう。「未来」のこと、「希望」などについてまったく語れないはずであろうが、それにしては「国作り」、「次世代に残す」などと「仮定」のことをよくしゃべる。要するに、肝心なことは何も話していないのに等しいのである。どのような極楽蜻蛉でもそれくらいは察知できるであろう。

 

〇前にも取り上げたが、老々介護どころか認認介護さえ余儀なくされる現状はそのまま不条理劇を観ているようである。まったくかみ合わない会話、当然発するヒステリックな奇声、罵声等々。しかし、これが国の「長」と言われる討論会ですらそうなのであるから驚きである。加計問題につて聞かれてゴルフのことが出てくると「ゴルフに偏見を持っているのではないか云々」、聞かれた質問の意味すらわかっていないのか、はぐらかすことしか考えていないのか、これである。これもまた超不条理劇としか言いようがないが、彼ら特有の薄ら笑いは追い込まれている証左でもある。このような会話そのものが成り立たない人間にいくら問いただしたところでまったく無意味であろう。「丁寧な説明」などたとえ地球が逆回転しても不可能なのである。小心者がパニック状態に近づくと放心状態の薄笑いと防御の薄笑いが自動的に喚起されるが、根本的にものを考えたこともないような人間の言動は常にステレオタイプで答えられる領域も決まっているのである。それでも言わざるをえなくなるとエンドレステープ状態になるが本人は何か対応できていると思っている。よく見ればすぐにわかることである。

 

〇ヘラヘラ男にヒョットコ男、そして無表情な茶坊主たちのせめぎ合い、女たちと言えば、微笑みで裂けた口を隠すのが精一杯の鬼女ばかり。話すことと言えば、胸の肉がいい、いや肩肉でなくては、背中の肉がないのは、いやいや尻の肉が最高などと 旅人が夜中に襖越しに聞けば逃げ出したくなるような話であるが、それを真昼間、骨をしゃぶりながら人目を憚ることなくやるから空恐ろしい。百鬼夜行どころか百鬼昼行の様である。自分の胸の肉を450グラム程切り取られるまでは自分のことと思えないように仕組まれているから怖い。果たして、それも運命とでも思えるのであろうか。どちらにしても根本理念を欠いた策士、詐欺師の闊歩をどこまで許すのかということに尽きる。

 

〇希望・希望・希望・・新しい日本を作ろう・・・と吹き鳴らされる進軍ラッパもすでに音程もズレ、奇望・危望と聞こえてくる。偏向誇大妄想狂詩曲 ラプソディ・イン・グレイの開始である。

                                                                                                              2018 9/20

 

〇あらゆる領域の既得権益は更新もされず放置されると腐るだけであるという極当たり前のことがいつしか忘れ去られてしまう。既得権益の死守、そこでは真偽より損得のみが支配するから激しくなるのも当然であるが、どのように隠蔽してもいつか白日の下にさらされることになるのは浅はかな人知では計り知れない。それが可能に思えるのはやはり策に溺れる浅薄な策士だけである。政界、財界はもちろんのこと、学会、医療産業、それこそあらゆる業界の既得権益が常に問題となる。

 

〇しかし、「新しい日本を作る」?「具体的プラン」?「批判ばかりしていても何も解決はしない」?こんなオメデタイ誇大妄想狂に乗せられていては、やはり無残な最期しか在り様がないだろう。脳髄の根本を叩き直さないと手の施しようがない末期症状となってしまう。

 

〇樹木希林の訃報ばかり、本人も「もういい加減にしない」と言い出しそうである。そんな中での、石破茂と安倍晋三の討論会、新たな発見はほとんどないが、改めて問題が浮き彫りなったという意味でも再確認の意味でもこういうのはあって当然であろうと思われる。ただし、局側が両者の見解の相違を変に「まとめる」必要はない。どこにウソがあるか、真意があるかは、こちらが読み取ることである。しかし、相も変わらず、不整脈気味に発せられる表皮のような印象言葉の羅列、組み換え、これでわかるとはやはりオツム具合を疑わざるを得ないというより病的である。要するに、大方の国民のことなど全く考えていない、お為ごかしばかりで実は何も言っていないということである。それに比べると石破茂はやはり保守本流であろう。こういう保守が出てこないと、すなわち、批判に対しても真っ向から受けて立って、それをさらなる展開に結び付ける「大人の作業」はできない。我執、思い込みだけでは衰退は避けられない。どちらにしても目先の利を最優先させる者たちにとって、操るのは餓鬼の方が便利なのである、だから現状はこうなっているともいえる。しかし、操られた餓鬼の所業の結果は火を見るよりも明らかなのである。その犠牲者は99%の国民であることは忘れないことだ。一人として例外はない。

 

〇目先の生産性の有無だけで価値判断を完結させるような社会はやがて衰退、衰微するのが必定。そのことによって必然的に単細胞人間を量産することにもなるが、単細胞系は大なり小なりすべてが絶滅種なのである。生産性の有無だけを考え、謙虚にあらゆるものから学び取ろうとする姿勢がなくなれば、それは人類滅亡の序曲となる。軽いノリで序曲はすぐに始まり、そして、始まったらもはや手が付けられない。

                                                                                                                                    9/15

〇天才とバカは紙一重、知能レベルは小学校5,6年程度といわれる者と100%一心同体というのであるから後は推して知るべしである。それにしても何から何まで阿漕、あくどい様は比類がないが、どこにでも付着するこの超軽量の「たちの悪さ」は何だろう?イメージ操作以外は何もないといってもよいその全行動、だから軽いのであろうか。会談などといっても実のところ何を話しているのかも不明で、実際何もかも一歩も先に進まず、会って写真を撮るためにだけ行ったとしか言いようのないものである。さらにはそれに税金がどのように使われているかも不明である。

 「プロの嘘つき」といわれる者と息をするように嘘をつく者と波長が合うのも当然ではあるが、それもしばらくの間であろう。すでにそこかしこで引きつりを起こしている。嘘つき同士の「信頼」関係など空中楼閣以外の何ものでもない。それは100%自壊する動態でしかないということをやがて思い知らされる。

※因みに、「息をするように嘘をつく」とは私がすでに2,3年前に遣ったたとえで、昨今ではタブロイド紙などにも登場しているが、私の場合は引用する場合には必ず「」をつけるので念のため。このような紙面だけではなく以前からこのようなことが他でも多々見受けられるので一言。

                                       9/13

〇政府発表のコメント、今まで何かまともなことを言ったことがあったのかという「印象」しかない。それこそ「信者」でない限り真に受けている者はいないであろうと思われるが、「当たり前」のことでさえミステリアスである。そのような様を見過ぎてしまったのか、猫も杓子も逃げ口上ばかり上手くなっていく。正直者だけがバカを見る世の中では困るのである。教育上においても最悪のケースばかりを提示し続けてきている。それが「憲法『改正』」を急ぐ、歴史を修正する、詐術的な空疎な言葉の羅列も切りもない、あくどい冗談も度が過ぎるというものである。その挙句に「仮定については答えられない」とくる、これは自ら無能な政治家と言っているようなものである。

 

〇何度も何度も言っているが、日本はとんでもない地震「大国」であるにもかかわらずその狭い国土に原発をいくつも作っているのである。政官財の「ご立派」な講釈がどれだけ「無責任」なものであったかはすでに実証済みでもあろう。さらに地球環境の乱れで台風ですら従来のコンセプトではとらえきれないものとなってきている。「平和ボケしたタカ派」といっしょになって防衛費拡大などにかまけていると内から崩壊していくことにもなる。停止中であろうが廃炉にしようが狭い国土にこれだけ原発があること自体でもうすでに「負」の結果は出ているのである。そもそも本当に日本を守る気があるなら原発など作らないだろう。さらには活発化している地殻変動、変容している台風、このような時に「防衛」を整えるなどということ自体がファルスそのものなのである。それさえ気付かないのは論外中の論外であろう。

                                   2018 9/7

 

138.「死ねば宇宙の塵芥」(2)

 近藤誠氏は、20数年前と根本的には変わっていない。そして、そこで再確認できたことや、さらに曽野綾子氏の生き方に共感する方向で示された医師としての死生観の具体的提示は様々な意味で参考となる。曽野綾子氏は、幼少の頃から常に死を考えていたというクリスチャンでもあるが、生き方そのものを問い続ける姿勢から自ずと出てくる「覚悟」から「老いて孤独を楽しめ」に至る過程は、ただ「流される」だけの者には到底たどり着けないところでもあろう。両氏は平易な言葉で語り合ってはいるが「自由で、自立した潔い老後」などというものはそうやすやすと得られるものではない。要するに、自由で、自立した人生を一歩も歩んだことがない者が老後を迎えて突然六十、八十の手習いのごとくに習得できるものでもあるまいということである。「極上の孤独」などという表現で表されている内容でも同様である。もし「極上なひと時」程度のことを「孤独」に置き換えているのならやはり問題であろう。「孤独」を安易に使ってはならないと思われる。私自身は、孤独については「僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるが故に、又、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものはないのである。」という作家と同様のとらえ方をしているからである。そして、バイブルにも魂の孤独を知るものは幸福であると記されてあるようだが、しかし、「魂の孤独など知らない方が幸福である」というのも一面の真相ではあるということを押さえておく必要はあろうと思われる。

 霊魂などというものも、あると言えばある、ないと言えばない、あると言い切るのも傲慢、ないと言い切るのも傲慢、ここで言う傲慢とは人間本来の状態に無知という意味で使っている。「死ねば宇宙の塵芥」とは、人知では語り得ぬもの、例えば「あの世」などについていつまでも時間を割くより今ある生を精一杯生きよ、そして、それがそのままその時が来たら潔く去ることにつながるといっているのである。

                                       2018 9/5

137.「死ねば宇宙の塵芥(ちりあくた)」(1)

 これは曽野綾子、近藤誠両氏の対談集の題名だが、私も常々そう思っていたので両氏には題名だけで共感以上のものを感じるのである。この対談集は近々読む予定であるが、まだ読んではいない。「死ねば宇宙の塵芥」ということをもし明確に捉えていれば自ずと現在生きていることの「重大さ」が見えてくるはずなのである。実のところ、人間にはそれ以外には何もないといってもよい。「あの世」を措定すること自体が現在の生を溶解させる要因を作ることにもなる。人類の智慧の成就に捧げる「教え」でさえ、「あの世」のはっきりとした措定は避けざるを得ないのが実情なのである。いつ、誰が墓などを作れと言ったか、少なくとも釈尊は言っていないし、遺骨に、物化、物質化してしまったものに、何かあると思う方が不自然で、それは「思い込み」と同質の通俗「信仰」レベルの対象であるに過ぎない。実のところ墓の下などにはもはや「故人」を偲ぶものさえないのである。死ねば宇宙の「塵芥」となるだけであるという明確な意識がなければ真の智慧も得られまい。「あの世」を措定し、あるいは「我を忘れ」て「現にあること」の意味をなおざりにする者たちを私は信用しない。

 後は対談集を読んでから、また始めよう

                                 2018 9/1

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