両忘の時‐ある日、その時‐

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136.つれづれに一言で片づければ(17) 22件(270件)

〇「ホンネトーク」系の番組はこれまでにもいくつかあったが、どれも適度に制御された、すなわちコントロールされたもので「ホンネ」などとは程遠いものである。この手のものは、それらしくいかにやっている振りができるかにかかっているだけ。要するに、「振り」、「ポーズ」がすべて、実際、ターゲットされている者などの位置は実害がない弱者なかりで、目糞が鼻糞を笑っている程度のものでしかないにもかかわらず、少々非があった「弱者」を「ホンネ」と称して攻めまくる。実のところは、弱い者いじめのトークなのである。たまには「強者」をターゲットにしたらどうか思うほど情けないものである。それとも「ホンネ」とは「弱者」いじめの専売特許なのか。こんな風潮が蔓延しているのでは学校での寄ってたかっての弱者「いじめ」もなくなるまい。

もういい加減「ホンネ」、「毒舌」にかこつけた「弱者いじめ」はやめたらどうか。

 

〇しかし、震災、災害ですら正確な情報は得られないというのが実情である。情報がないわけではなく情報が得られていてもパニックを避けるためなどという理由で流さないこともある。3・11東日本大震災でもそうであった。携帯なども緊急事態ではほとんど使用不能である。何度も言っているが、日本は地震大国なのでどこで起こっても不思議ではないのである。にもかかわらず地震観測地点が破壊されている(?)か「想定外」の震度でデータが取れないというありさまである。肝心な時にこれである。これからまだ「二百十日」といわれる昔から農家には厄日として知られる台風が頻繁に来る期間でもある。震災の具体的な対策もままならぬ状態でまた台風である。「自然」は容赦なしである。

 しかし、「ヤバイ、ヤバイ」しか言えない人々、状況がまるで見えていないようである。ゲーム感覚のまま死に至るケースでもある。これに想像力の欠如が加われば死は常に目前にある。

                       2018 9/6ー台風後の北海道地震ー

 

〇能書きタラタラ、作為もタラタラ。目にする文字も耳にする言葉もペラペラコピー・・・突然、飛び出すCMは90デシベルでは距離を置きたくなるのも当然。

 

〇「日本〇〇協会」と名の付くもの、その「怪しさ」はどれも同じようなものである。その証拠にその組織の「中心」メンバーはいつまでも変わらないであろう。変わらなければ必ず腐るのである。

 

〇長く続けてきたこと自体でそのすべてを肯定することはできないし、それだけで評価することもできない。それは時間の経過とともに必然的に腐る要因が作り出されているからである。更新された程度では腐敗の拡大は止められないというのが人間事象一般である。現状がそのすべてを見せつけているであろう。いつまでも大中小の既得権益にしがみつく者たちを「どう始末するか」が今後の大きな問題の一つでもある。

                                    8/31

 

〇「住みたい街」のランキングなどを見ていると、これはワーカホリックの住みたい街ということではないかと思われることがある。私には特に住みたい街などもないが、気に入らなければ離れるだけのことである。

 

〇「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」芭蕉の好きな一句であるが、今年の夏は、木々から落ちていた蝉を何匹見ても、蝉の声とは結び付かず、その声を聞かなかったことにも気付かなかった。今年、蝉は鳴くこともなく死んでいったのである。

                                 2018 7月ー8月

 

〇内閣府発表「74.4%が現在の生活に満足、過去最高を更新」(NHK、サンケイ)(2018/8/24)何をか言わんやである。現状とはまったく乖離している数値である。那須の別荘地の風通しのよい芝生の上で測った温度を全国平均値にしているようなもの。

 

〇甲子園を盛り上げた金足農と投手の吉田君、その笑顔とすがすがしさを讃えるのはいいが、野球評論家ではなくてもその投球数が心配になるのが「普通」ではないのか。彼の将来を考えればなおのことである。盛り上がりに水を差す気はないが、冷静さを欠いた熱に浮かされたような情動ばかりでは、実質的に「消耗品」としてしか扱われぬ「英雄」しか生まず、それは悲劇でしかない。そこで「特攻隊」のごとく燃え尽きるのが本人の本当の「意思」であるなら話は別であるが、そうではあるまい。

 

 〇目的のためにはまったく手段を選ばないことが日常茶飯事で、常套手段化している状況。これは明らかに尋常ではないが、何気なく「普通のこと」と思わされているから怖い。「皆やっていることでしょ」、「皆、思っていることでしょ」という呟きが奥でこだましている。

 

〇電気自動車、この音もなく近づく車でまた加害者と被害者が増えるであろう。日立、東芝も原発事業から離れられず。

 

〇「目的に対しては合理的」という表現、使い方によっては何ら問題はなかろうと思われるが、これを某御仁の政治姿勢に使うから問題となるのである。すなわち、単に目的のためには手段を選ばないというだけの行為を「目的に対して合理的」と言い換えただけなのであるが、それは「理」ではない。敢えて言えば「合非理」的なのである。こうして許されざる行為を様々な手を使ってフォローする有象無象の手合いが浮遊しているというのが現状である。

                                      8/22

 

〇「代々木上原」の宣伝コピーに遣われている文言の「勝ち組のイメージ」、「権力者たちの気品が残る街並み」などには閉口してしまった。言ってしまえば、感性があまりにも俗っぽいのである。そもそも「権力者」のどこに気品があるのか。銭を持っていただけで文化レベルの高い者は極めて稀である。下手なことして自滅していく街も多くなっているが、どの街も一日して成らずである。そして、失われてしまったものは決して取り戻せないということである。

 

〇スポーツは好きだが、スポーツ選手、関係者(特に解説者など)が調子に乗ってその経験則と人生訓などを開陳し始めると一瞬して興ざめすることが多い。やはり脳髄の鍛錬が未熟で、精神的深化が見られるのは極めて稀である。底が割れているのもわからず喋り続ける愚かさ。

 

〇大方の大手マスメディアが流しているもの(主に政治面)をそのまま鵜呑みにしている者とは常に後手に回るか、踊らされる者たち、決してその先にはたどり着けない者たちということである。今や、マスメディアは情報共有操作機関に過ぎず、そこからどこまで「本当のところ」を解読、導き出せるかがすべての岐路となる。口を開けているだけでは何を食わされるかまったく不明で、口当たりのよい毒まんじゅうも多くなっているということである。

 

〇国と政権を同一視する、そういう「民」がまだいるらしい。「永世独裁国家」でもあるまし、政権などというものは所詮は一過性のものである。国民にとって不利益なことをする政権は変えればいいだけのこと、取っ換え引っ換えする程度の代物で、本質的な内容をなどあるはずもなく皮相的なものである。もっともらしい「不変性」が極めて危険なのである。

 

〇「ジャンヌダルク」を気取る議員、「帝王」を気取るボクシングの会長等々、さしたる理由もなく自分に酔うこと、思い込まないと成り立たぬ虚飾の数々などが、いかに見苦しいかを見せつけられる昨今である。因みに、ジャンヌダルクの行動は処女の無垢な信仰心がないとまったく成り立たない世界である。その点でもジャンヌダルクを気取る議員とは似ても似つかないまったく無縁な存在であろう。気取る方も見立てる方もお里が知れてしまうということである。火刑台に至るジャンヌダルクの全過程を見よ!

                                     8/18

〇「サマータイム導入」、健康面では百害あって一利なしという結論は当然であろう。この「サマータイム導入」に都合のいい「試算」というのもまったく信用できない。一体何のためにこんなことをやるのか?やはり「オツム」の具合を疑わざるを得ない。経済効果がある?ウソであろう。その経済効果とは?誰が利する効果なのか? 「サマータイム導入」が「マラソンの暑さ対策」などと言われて、簡単に納得してしまうと、とんでもないことになる。たかだかマラソンのために国民の生活を犠牲にするなど本末転倒であろう。いつものパターンと言えば言えなくもない、軽いノリで言葉巧みにまとめようとするが、そのことによって国民の生命が危機にさらされることなどおくびにも出さない。人の命をすべて手段としか見ない者の口車に乗っているとやがて崖っぷちから投げ落とされてもわからないということになろう。

 またこの言葉を遣うが、一事が万事、一部の「現われ」からすべてが見て取れる。一事の微分析ですでにその全体像は割り出されているのである。

                                 2018 8/16

 

〇この時期になると、いやでも「阿波踊り」が目に入ってくるが、やはり「踊るアホに見るアホ」である。あんな単調な、それも本来のエネルギーと個別性がなくなった変に統制の取れた行進のような「動き」をいつまでもよく見ていられるものだと感心する。

 

〇テロ組織に人質となっている日本人について、大方の日本人は自己責任、自業自得くらいにしか思っていないか、またそのように思わされているというのが実情であろう。「サンデーモーニング」の中で安田菜津紀が我々には「知る責任」があるということを強調していたがその通りである。要するに、「当局」は何でもかんでも「粛々と進める」の一点張りでその一部分さえ伝えようとはせず、実のところ何をやっているかわからぬ内に、人質にされた者の自己責任、自業自得という「印象付け」を御用の筋の報道機関の協力を得て「粛々と」浸透させるパターンである。実際、以前殺された人質についても当然という程、無関心そのものであろう。この無関心がやがて増殖・拡大し、人間性の証でもある共感そのものを破壊するのである。そのような実情を超えて「知る責任」があるということは実に「重い」のである。

 因みに、ただ食いたいものを食って笑って思考停止状態で百歳まで生きても酔生夢死では認知症になるしかあるまい。

                                   

 

〇「悪い人間とは思えない」というような、さも自分は人間を見る目があると思わせる風な言い方をする人々がいるが、ほとんど当てにならぬ。それは、そういうこと言った人間を見れば一目瞭然。人間は「やったこと、やっていること」だけがすべて、それ以外は大なり小なり自分の思い込み、幻想、酔狂の域を出ない。

 

〇アゴラとは、古代ギリシャでは市民が政治、哲学を論じて過ごしたポリス(都市国家)的生活の中心であるが、今、このような名称を敢えて遣う者たちとは内容的には「逆走」するケースが多々ある。ご多分に洩れず日本の「アゴラ」と称する「発信組織」の実態も戯言をぬかす顎等(あごら)という意味に最も近いと思われる。

※顎(あご):まくしたて、へらず口をたたいたりすること。

今更、言うことでもないが酷暑の折、五月蠅い蠅のせいでつい・・・

                                  2018 8/12

135.つれづれに一言で片づければ (16)26件(248件)

〇「TBS報道特集」は唯一見応えがある報道番組である。取材もしっかりしているし、これからも妙な圧力に屈することなくがんばってほしい。

 

〇猛暑と台風情報と馬鹿笑いとオリンピックとスポーツ界のダークサイドに嬉々としざるを得ないマスメディア。大丈夫か?ほんとうに?

 

〇とにもかくにも最大多数の無党派層の責任は大きい。「他に適当な人がいない」、「関係ない」などの自堕落な寝言はもはや通用しない。少なくとも「主権者」であろう、考えるべきなのである。単なる「民」というのなら別だが。

 

〇いまだに、何かといえば「左翼」がどうのこうのと言っている者たちがいるが、そんなコンセプトはもはや通用しないのである。要するに是は是、非は非で、現実には「神が治める国」など存在するはずもなく欠陥だらけの人間が何とかやっているのが実情である。誤りもすれば、過ちも犯す。その過ちについて指摘し、抗議することを「左翼」など言って括ること自体がピンボケなのである。それでは「是々非々」は成り立つまい。間違いを指摘する者、批判する者を「左翼」などという言葉で括ってみても全く無意味で、せいぜいその言葉を遣うことで哀れな独裁的共産主義国に結び付ける幼稚な「印象操作」程の効果しかあるまい。明確な「是々非々」には本来的に「左翼」も「右翼」もないのである。ウソはウソ、ダメなものはダメ、それでよい。左派系だろうが、右派系だろうが永遠の安定した政権などは存在し得ないということを「知る」ことこそが第一義な問題である。ウソばかりでは変えるのが当然、ダメが多ければ首をすげ替える、それだけのことである。変な幻想は禁物である。

                                   8/9

 

〇稲田何某とういう元大臣経験者が、護憲派とは新興宗教の信者のようなものと言ったそうだが、やはり知性の欠片もない人間である。この御仁自らは「思想のデパート」と言われた国家主義的なカルトの信者なのである。カルトの信者が護憲派を新興宗教の信者というオカシサ。指導的位置にある者たちがこれ程までに知性の欠如している者ばかりでは、いつまた「オウム真理教」が出てきてもおかしくない状況である。

 

〇「テロには屈しない」、かっこよさそうだが、この強気の姿勢は、要するに無思慮で、運悪く人質になったり、その姿勢にそぐわない都合の悪い者はすべて見殺しにされるということでもある。

 

〇「不透明化」、「透明性の有無」云々、これが曇りガラス、偏光ガラスを2、3枚組み合わせたような政治のレベルで遣われるから笑ってしまうのである。いつの間にか巷のショーウィンドウの曇りの有無と同レベルで遣われているからさらにおかしくなってくるのである。「大本営お墨付きの」マスコミで遣われる安易な言葉に踊らされていると、緩慢なる自殺、自壊への道を歩むことにもなる。

                                      8/5

 

〇これも以前触れたことではあるが、ハーバード大学「経由」の「国際政治学者」と称する者はやはり総じて危うい。要するに「政治」は「政治学」とするほど厳密な学問にはなりにくいのである。「厳密な学」としては展開できなかった者が、言い換えれば「落ちこぼれ」がそれまでに得た「知識」で商売しているのがほとんどの「国際政治学者」の実態であると言ってもよいだろう。実際、その著作も異常に多いが、中身は読むまでもなくどれもこれも大同小異の皮相な外来種の井戸端談義でコアなものは何もない。大上段の構えの割には切り口はあまく、立ち位置は完全に傾いている。要注意であるというより、やはり危ういのである。

                                                                                                                                      8/3

〇「日大がブランド」?初耳である。「日大闘争」以前も以後も、学生のことなど考えたことがあるのかという大学であると思っていた。国士などと大学としてはどうかと思われる大それた名前をつける大学などは別にしても、学生のことなどつゆほども考えたこともない大学が一体どのようなブランドがあるのかということである。現状が実に見事に物語っているではないか。日大とはそのような大学なのである。何かあって、いざとなれば簡単に切り捨てられるということである。抗議をする教職員に対しても「印象操作」などとして「脅し」までかけているという。悪しき様態は全く変わっていない。今後も変わることは決してないだろう。だから、日大とはそういう大学だとしか言いようがないのである。これも敢えて言う必要もないが「何ものか」と寸分の狂いもなく相似形である。

※私は日大とは何の関係もないが、「日大闘争」の中で16キログラムのコンクリート片を4階から機動隊に投げつけ機動隊員を殉職させたという事件が起きたが、ノンポリの集団であった日大全共闘がそのような過激な行為をするはずはないと思っている。このような集団には過激なことする、あるいは過激に煽る敵対する者がよく入り込むのである。実際、これを機に大学に対する抗議に始まった日大全共闘は支持を得られなくなっていったのである。投げたのは誰か、法的に立証はできないが、私には状況分析と想像力で投げたのは誰か、どの立ち位置にいた者かは絞れている。それで充分であると思っている。だから、すべてが案の定なのである。

                                   8/1

 

〇台風12号の在り様は今後起こり得るであろう様々なことを象徴していると思われる。これはたまたま起こった「異例なこと」ではなく、このようなことが「常態化」するということである。「専門家」(?)は「異常気象」であることを強調しているが、もしそうならこの「異常気象」がこれからの通常気象となるということである。煎じ詰めれば、それなりの原因があるから起こり得る結果が現れたということにすぎない。言って見れば、因果応報ということである。

 

〇杉田何某が「生産性がない」云々で問題となっているが、当然であろう。ネオナチが国会議員をやっているようなものである。この杉田何某を推していたのがアベ何某であるが、太田光が「アベさんも生産性がないよね」というようなことを言ってまた問題となっているようだが、現状はここまできているのである。なぜこの程度のことが問題となるのか、そんなことは八百屋のおっさんだって実際に思っていることである。それを素直に代弁しているのが太田であるに過ぎない。太田は少々騒々しいが数少ない気骨のある芸人でもある。

 この杉田何某も国家主義的カルト集団の一員であろう。美辞麗句で飾り立てているが、要するに国民は兵隊蟻と働き蟻のどちらかで、メスは単なる生む機械ということである。それ以外は非生産的な無用のものという捉え方で、言って見れば、自分たち以外の者たちの「非人間性」を歌い上げているのである。

                                                                                                                             7/30

 

〇宗教家を装った詐欺師がいて、政治家を装った詐欺師がいて、装う詐欺師は数知れず、それでは本物か偽物かを見抜くにはどうするか? ほんとうの知性を身に着けるしかあるまい。知性によって打ち鍛えられた感性だけがそれを明確に感じ取ることができるからである。<知識>だけでも、<感覚>だけでも結局はただ振り回されるだけである。そこでは常に稚拙な<感覚>が蠢動していていて「奇怪な様相」にごく自然に飲み込まれることになる。

                                    7/29   

 

〇売文業者は、たわいもない言葉を作ったり、言葉遊びがお好きなようで、一向に深まりようもない思考をカバーするにはそれしかないのであろう。次から次へと安手の言葉を紡ぎだし、わかったようなわからないような物言いで、「もの」、「こと」自体」の在り様を極めて不鮮明にさせている。もしそれが狙いであれば、すなわち確信犯で、金の流れも明確なのである。

                                    7/26    

 

〇しかし、まことしやかに「ささやく」売文業者の何と多いことか。ライトにもっともらしく書いて売る。よく見なくても、置き換え、言い換え、転用、すり替え、不明瞭な言語使用が多いことがすぐにわかる。つい対象読者は?中学生?と聞きたくなってしまう内容である。よくこれで分かった気になるものだとあきれ返っている。売れる本とはライトで何となくわかった気にさせる本のことらしい。罪悪感のないところがまたどうにもならないところであるが、それが単なる売文と言われる所以でもある。

 

〇若い人々が様々な分野で活躍するのは大いに結構なことだが、特にネット関係の者たちで、親しみのあるお兄さん風の者たちがテキパキとまとめ上げる「評論」、「見解」を聞いているとやはりさもありなんと思わざるを得ないものがある。言って見れば、そこには世界観を構成している明確な因子が脆弱なのである。おそらく誰にでも可もなく不可もなく受け入れられるが、ただ言ったまでのことで、数分もするともはや頭に残っていない内容である。

〇これも以前言ったことだが、「ねじれ国会」、「決められぬ政府」、「コロコロ政権が変わるのもどうかと思う」等々と民主主義の根幹も理解していない者が、あるいは反民主主義的な者たちがマスメディアに流す手の込んだ心象操作に乗せられ行き着いたところが現在の強行採決、採択の連鎖である。国民の知らぬところで、また多くの者が反対している法案が、「安定した政権」の下で「ねじれもなく」快刀乱麻を断つ勢いでどんどん決められていくのである。これはもう独裁国家と何ら変わるところはあるまい。

                                    7/22

 

〇「ひととなり」というものが、また悪魔の実態がこれほどまでに露骨に見えるとは思ってもみなかった。「カジノ法案」しかり、売国奴とは誰のことか、火を見るよりも明らかである。何をやっても「お為ごかし」しかできぬ者たちとは、畢竟、亡国の徒にならざるを得ないのである。空疎な美辞麗句をはぎ取れば、「アメリカ合衆国日本州知事」がカルト集団の支援を受け軍産複合体として、国民に「お為ごかし」を言い続けどこまでやれるかというのが現在の実態であろう。

                                   7/20 +21

 

〇神仏習合カルト合体政権には、もともと客観的事実など存在するはずもなく、必要もないのである。自分が信じた「もの」、「こと」以外の存在の有無など無意味、無価値なのである。自分は「悪いこと」など無縁だと思い込んでいる者たちとはいつでも悪魔になり得る者たちでもあることを忘れないことである。要は、今後このような者たちを選ばなければいいだけのことであるが、こんなわかり切ったことができないのはなぜか。正常な判断を狂わせ、あきらめさせる手の込んだ操作が行われているからである。その結果、詐術師たちにいいようにやられているにもかかわらず、貢物まで捧げる民のようになっているのであるから背筋が寒くなる。

                                 2018 7/19                                   

 

〇「現在の温度」は?と聞くだけ無駄、嘘だろうというほど違う。気象庁発表の各地の温度などは実際のその場の温度とは平均+3度~+4度程の誤差がある。それはそうであろう芝生の上1.5メートルの風通しのよいところで測る温度と直射日光を浴び続けている場所、無風の路面の照り返しのあるところでは当然温度も違ってくるのである。例えば「現在の温度39度」と出れば39度の場所にいられる人はまれで、多くは現実的には42度から43度のところにいることになるのである。40度超せば脳はもとより人体の様々な箇所に支障をきたす温度である。現在の古きオメデタイ「基準設定」に基づいて判断していると場合によってはとんでもないことになりかねないということである。それにしても「上」から「下」まで状況判断のできない「指導者」ばかりである。生徒、児童を熱中症で死なせてしまう教師もさることながら、自分のこと以外は全く何も考えていないのであろう。言ってしまえば、高学歴なアホもいれば低学歴なアホもいるというだけのことかもしれぬが、これもまた想像力の欠如のなせることである。

 猛暑日には日に6回も水浴びしてしのいだということが書かれてあった60年ほど前の時期とはもうすでに根本的に違ってきているのである。

                                    7月の猛暑日

 

 

〇どちらにしてもアメリカの「衰退」はトランプに集約され、日本の「沈没」はアベに集約されている。以前から何度も言っているのでエンドレステープの感が無きにしも非ずだが、地震大国の上に地球温暖化による世界的な異常気象で日本の四季などもうすでに存在しないと思われる。今後も現在起こっていることが毎年起こるということは明らかで、その度に各地は大混乱することになるのである。このまま行けば、原油どころか食糧さえ確保できるかどうかであろう。こんな時に「軍備拡張」して何をするのか?何ができると思っているのか。定期的に「異常」災害が起こる上に地震、火山活動による罹災が常に想定される中で見えてくるのはあまりにも天をなめた所行ばかりである。いくら勇ましいことを言ったところですべての基盤になる大地が割れたり、土砂が流れ込んで来てしまってはどうにもならないのである。

                                                                                                                                      7/15

 

〇責任回避を正当化する無責任な「他に適当な人がいない」という選択肢に乗せられて、まったく信用できない男がいつまでも牛耳っていられるという不可解極まりない世界。怪しげな欲望に負けた者たちが日々繰り広げる悪徳の宴、それを支えているのが自分だけは「うまくやっている」と思わされている「人々」でもある。嘘はポーズを生み、ポーズは嘘を生む。嘘で塗り固められた者の行為は畢竟すべてポーズにしかならない。こういう者の状況に対する「認識」などいくら聞いていてもまったく意味がないのは言うまでもない。詐欺師の口上と同様で、その「心地よい」わけのわからない言葉に聞く耳を持てば執拗に入り込んで丸め込もうとするだけ。今宵もSwindlers and liarsの迷曲に酔いしれて奈落の底を彷徨うか。それとも・・・

                                      7/12

 

〇麻原彰晃が何を考えていたかなどは興味もないが、少なくとも、扱い方次第では危険な面を持つ宗教を「最終ビジネス」ととらえていた麻原の行き着いた当然の帰結であるということはいえる。そして、それは「万死に値する」ということである。驚くことは、いまだに彼に謝罪を求めたり、何かを語らせることが可能だと思っている人々がいるということである。麻原が何を考えていたかなどというより危険性もある「宗教」そのものとしっかりと向き合うことが先決であろう。日本の仏教は葬式仏教といわれて久しいが、身近な人、愛すべき人が亡くなった瞬間、人の心に沸き起こるものは何か、それは「無形の何か」にすがるような思いであろう。それは普段いかに威勢にの良いことを言っていたにしても、クールでドライであっても明確な世界観がない限り、そのような「無形な何ものか」にすがるより手立てがなくなるほど人間とはもろいものであることの証にもなる。以前にも、何か不幸に見舞われた家があると、そこに足しげく訪れ「折伏」と称し勧誘して信者を増やしたカルトもあったが、誰でも起こり得る耐え難い嗚咽の中で生じる「隙」に乗じて入り込むのが「最終ビジネス」でもある。麻原は、自分の罪を逃れるために「部下の暴走」と供述しているようであるが、これもまたどこかと相似形なのである。

 また、よく「高学歴」な者たちを巻き込み云々といった内容もみられるが、これもまた的外れなピンボケ視座である。彼らは思考的に鍛錬されていない、「高学歴」であるだけに過ぎないのである。一々列挙しているときりがないが、テレビの「公開処刑ショー」もさることながら、「死刑執行」前夜に法相たちと乾杯している「内閣総理大臣」とは一体何者なのかと改めて問いたくなる。やはり「神経」が尋常ではない。異常なのである。とても先進国と言い得る文化レベルにはない。

                               2018 7/8

 

〇「作家はデタラメなやつばかり、知識人扱いはしない方がいい」とエンターテイメントに「徹した」職業作家が言う。確かに一理はある、が、デタラメなのは作家ばかりではあるまいと、言わずもがななことをまた敢えて言いたくなるほどどの分野にもイイカゲン、デタラメな者が多過ぎるのが昨今でもある。そもそも「知識人」と言い得る者がどれほどいるというのかということにもなる。私はこれほどまでに「知識人」と言い得る者がいない、あるいは影をひそめてしまった時期は珍しいと思っている。

 

〇「バカの壁」などというものは、いつの間のか言っている本人自身がその壁を作り上げ、そこに陥っていることがある。「バカの壁」を1ミリたりとも作らないということは、生き続ける限り際限もなく続く「検証」と「確認」が必要であるということである。ある対象を「バカの壁」と言った瞬間に自分にもその壁を築き上げる下地ができてしまったと思った方がよい。そうではないから、それとは気づかず自らの「バカの壁」を露呈してしまうのである。

                                        7/1

 

〇「反知性」派?反知性ではあるまい。反知性というのなら「知性」というものがどのような「あり方」をするかある程度わかっていなくてはならない。そうではない、その実態は単なる知性の欠如、前頭葉機能不全である。それは「個」の発育不全ともいえる。すぐにたわいもないことで群れ集い押し流されるばかりでは、象をなでる群盲と同様わずかな路面のうねりにも足をとられことになる。自分自身で「こと」そのものを見て「もの」そのものをしっかりととらえるしかあるまい。

                                      6/24

 

〇便乗商法、物まね商法などどれも能なしの能一つといったところであろうが、便乗「政法」なども全く同様である。毎度、表舞台に立った者たちといつの間にやら奈落の底から上がってきて記念撮影である。人気にあやかりたい、選挙に勝ちたいただその一念だけで実際に表舞台に出てきた者とは何の関係もないことは言うまでもない。このような安易な票稼ぎが際限もなく繰り返されているのである。理念も恥も外聞もない逃げまくりのやった振り政権ではこれ以外欺く印象操作がないのであろう。確かなことは、彼らが目指しているのは民主主義国家ではなく全体主義国家で、個人の尊厳などまったく眼中にないということである。腹の内を隠すための人気取りのパフォーマンスしかなくなっているのである。

                                   2018 6/22

 

 

134.つれづれに一言で片づければ (15)24件(222件)

〇 DNA鑑定の結果が出ても犯行を否認し、挙句の果てに被害者側を非難、攻撃する。これは政権の今まで為してきた一事象ではなく、巷間の忌まわしい事件の容疑者の一連の言動であるが、ここに表れているのは「人間」の破綻である。とても「人間」などと言える領域にはいない者、悪びれる様子もなく白を切り通す、開き直る、完全なる「人間」破綻者である。この種の者に限って口八丁手八丁で舌は三枚四枚もあるかと思われる。

                                                                                         2018    6/20

〇言うか言わないかはさておき、批判精神の欠如、衰微は人間そのものの衰退でもある。「政権批判はやめよう」などとは論外中の論外である。そもそも政権などは批判がなければどうなるかわからない危なっかしいものである。特に現政権などに黙認できる個所など一か所もないであろう。それを容認する人々とはやはり「特殊な人々」なのである。

                                                                                                     6/19

 〇様々な問題が噴出しているオリンピックなども解体の時期にきているのだろう。選手にとっても世界レベルで競う場は世界にいくらでもある。どのような組織も検証・チェックしなければすぐに金権が絡む「悪の温床」となってしまうということは「人間」がやっている以上避け難いということであろう。

                                                                                                       6/17

〇「日朝会談」?スーパーライトの内弁慶のシンゾーが何を話すのか?どうやってもトランプの顔色をうかがいながら血税で札びら切ることぐらいであろうか。どちらにしてもすべてはポーズ。よくここまでポーズだけでやってこられたものである。異常である。このポーズ群を高く評価しているのはシンゾー・シンジケートのメンバーだけであると敢えて言い切る。

因みに、「ライト」とは軽さ、決して光、明るさの意味はない。もちろんrightの意味もない。スーパーダークライトとでも言おうか。また、100%一心同体ということは片方の存在意味はないと言ってるに等しい。影が薄くなるのは当然である。蚊帳の外どころか蚊帳の外の亡霊では夏の風物詩にしかなるまいが、亡霊としての存在感もなければただ滑稽なだけである。ほんとうにやることなすことすべてが噴飯もので、これもちんけなお笑い芸人たちを「食い尽くした」効果なのかとさえ思われる。

                                                                                                      6/16

〇「モリカケ問題」を「小さな問題」、「いつまでやっているだ」などと言っている者たちには明日は閉ざされている。少なくとも民主主義を育てる気のない者たちであることは確かである。反民主主義、全体主義の道筋を作り上げることに躍起となっている者たちの口車に乗らないことだ。

                            6/15

〇チャンスをものにできない者とは、やはりものが正確には見えていない者ともいえる。「一瞬間」の判断ですべてが決まることも多い。「好機」の「後頭部」にはつかもうと思っても髪はないので引き戻せないというのは有名な話でもある。確かに一寸先のことも仮定であるが、「仮定のことについては何も申し上げられない」という政府がどうやって来年度の予算を組むのかいつも不思議に思うのである。仮定は飽くまで仮定でそれ以上ではないが、そのすべてを基に状況分析しつつ限られた時間の中で、あるいは一瞬間の内に「判断」できなくては「その役割」はないに等しい。現状がすべてを物語っているではないか。それについて今でも「難くせ」をつけている者たちがいるというが、それは自らの無能をわざわざ見せつけているだけであろう。愚か過ぎるのである。あらゆる結果はすでに出ている。言って見れば、「無能な者」が「我欲」のために「全体主義の亡霊」に身を売り渡した結果でもある。その亡霊もやがて面妖な時の中で居場所を見失い消え去るしかあるまいが、しかし、これ程までにわが身が見えぬ者たちとはやはり「無残な亡者」としかいいようがない。それは「時」が消し去る人々でもある。もうすでに下半身は消えかかっているが。

 

 〇1972年の日中共同声明の時の田中角栄しかり、今回の米朝会談のトランプしかり、これを歴史の皮肉というのである。その直前まで当人にとってはまったく縁もゆかりもない事象が突如歴史的な事柄となってしまうのである。歴史のダイナミズムは底なしで、賢しら人の頭とは無関係なのである。それにしても、日本の存在感の軽さは象徴的である。

                                                                                                          6/13

後日、これまた案の定「大新聞」は米朝首脳会談」について「期限、具体策に触れず」、「具体策示さず」、「検証なき半島非核化」、「時期、検証先送り」等々、こんなことしか言えないから恐れ入る。テレビなども然り。もっとも政府、大手企業、軍産複合体の「代弁者」としてもっともらしい「事実」、「真実」らしきことしか言えない「広報」として見ればこの程度であろう。極めてライトである。そもそも「大新聞」などが踏み込んだ記事、あるいは庶民に向けた庶民のための記事など書ける訳もないのである。構造的にもそれは不可能で、基本的にはいつまで経っても「大本営発表」である。だから、「大新聞」の記事はすべて判読以上のものを要するのである。現在では「穿ち過ぎ」くらいが丁度よいのが実情である。彼らの言うことをそのまま受け入れているようでは「大本営発表」に戦前戦中の「民」のように死の舞踏を繰り返すだけであろう。何に対してもクリティカルな精神は不可欠。

 

 

〇新幹線車内の暴漢の部屋にあったという「罪と罰」、「楢山節考」などの本、「罪と罰」のラスコーリニコフが斧で老女を殺害したことと、この暴漢が斧で犠牲者を死に至らしめたことと「因縁めいた話」であるなどと書かれていたが、凶器が斧であったというだけの話で、ラスコーリニコフとこの暴漢とはまったく異質どころか、比較の対象にもならず無関係であろう。この暴漢もこれを書いた者もほんとうには本を読んではいないことがよくわかる。ジャーナリズムなどはいつの時代もこの程度なのである。実のところは、この暴漢の頭も、ジャーナリズムもライトノベルなのである。さらに言えば、ライト(軽るさ)に追い込んでいるのは誰なのか?

                               6/12

 

〇中川淳一郎という御仁が、東大全共闘の本を紹介しながら、学生運動については我々の世代(1973年生まれの選者の世代)からすれば「何のためにやっていたの?」としか見えない珍行動なのだが云々とあった。「珍行動」という表現、これでこの中川という人間のスタンス、全貌がすべて浮かび上がってきた。要するに、コアな領域の欠如、売文業者特有の不誠実な軽薄さが透けて見えてくるのである。実際、「著書」なども時代の売れ線狙いのものばかりである。私はこういう人間を信用しない。生きやすい「軽さ」、それは商人的な「軽さ」でもある。商人的「軽さ」の延長線上には武器商人もいるのである。ここからは選者とは少し離れるが、一見、ドライでクールな「商い人」の横顔には死の商人という面が必然的にそなわっているのである。何のことはない「背に腹はかえられぬ」というだけのことを大層に言い、体裁を整えているだけともいえる。

                                                                                                2018    6/9

〇ライトノベルにライトドラマ、頭は限りなくライトに、体はヘビーに。最近、異様に肥え太った者たちが多いようにも思われるのもこのせいか。これも異状であろう。そうかと言って、頭もライト、体もライトではただ流されるだけで本当の意味で人生の味わいもなかろう。すべてがライトで、騙し、すり替え、目くらまし、脅迫、裏切り、殺意、殺人さえいとも簡単に行われ、ライトに売れれば何でもありのとても「人間」の所業とは言い難い者たちの増殖は押さえなければなるまいが、ライトに染まった者たちはやがて「共食い」するのが常道である。言語がライトに単純化された思考回路には、展開する余地どころか自滅収縮回路しか残らないからである。

 

〇先日、某タブロイド紙で倉本聰がタケシについて、「人間としても、俳優としても全く認めない」と言っていたが私もほぼ同一見解である。最近のニュースショー(TBS系「新・情報7days)のタケシにしても何でいるのかも不明どころか、神経症気味のハラ軍曹(戦場のメリークリスマス)がそのまま喋っているようにしか見えないのである。タケシについては以前にも大島渚監督との関係も含め取り上げたが、ハラ軍曹=タケシそのもので、そこでは「演技」云々というものが成り立たないのである。そこには大島の慧眼が見えるだけで、タケシ本人も気が付かない、認めたくない本質がそのままさらけだされているのである。「万葉集」を得意げに「マンバシュウ」と言ってのけてもわからないような者が、日本精神の信奉者と思い込まされてる旧帝国陸軍の下士官の愚かしい様相が生々しいまでにその映画にも表れていた。タケシは今なお「ハラ軍曹」で、おそらく死ぬまで「ハラ軍曹」であろう。それ以上でもそれ以下のものでもない。わかりやすく言えば、エンジンの主要パーツが同一なのである。それ以外のマスメディアの皮相現象の「もてあそび」についてはまったく興味はない。

                                                                                                                   6/7

 

〇これもまた言葉に酔ったみじめな最期である。「紀州のドンファン」、何のことはない紀州の女たらし、好色漢といったところである。「ネタ」も「結論」もわかり切っていて、陳腐過ぎて三文小説にもならない話である。金の使い道を知らない愚かな凡夫の哀れな末路。敢えて言い添えれば、ドン・ファンはこのような凡夫ではないことだけは確かである。

 

〇夫婦そろって、ヘラヘラ。何を聞かれても、ヘラヘラとああ言えば、こう言うが、とんでもないすり替えをヘラヘラと繰り返すばかりで、聞く方が馬鹿を見るだけだがそうかといって放置できない厄介な存在だから困ったものである。たとえ人を殺してもヘラヘラと真顔でヘラヘラと言うだけだろう。「共感」も「共有」もできない世界の「住人」である。すべてが「表皮」なのである。「表皮人間」などが本当にいたのである。シニフィアン(言語の音声面)がシニフィエ(言語の意味内容)を侵食しながら覆いつくし、結局自分でも何を言っているのかやっているのか不鮮明なまま表皮から表皮が剥離していくように進行していくだけである。要するに、彼らにとって実質的には「歴史」などは存在しないのである。ただ時空を漂う表皮のようなものである。

 おそらく、戦場にもヘラヘラと手をつないで現れる夫婦であろう。起こっていることも明確に認知できないのである。そうでなければいの一番に逃げ出す者たちである。

 

〇日大の理事長も逃げ回っているようだが、それにはそれだけの理由があるからである。48年前、彼もまた日大の「弾圧暴力装置」として日大の学生たちに暴力を振るった体育会系の一員であろう。それが日大の中枢に伸し上がっているのであるからどのような組織(大学)であるは多くを語る必要もないのである。日大アメフトの不祥事などは氷山の一角、たとえ風化に任せたところで根本的な原因が取り除かれない限り繰り返される。この「日大アメフト事件」も今までの「悪行」の結果でしかない。やがて、これについても詳細な内容が出てくるであろう。

                          2018 6/5

追記:日大が立ち上げた「第三者委員会」とはどんなメンバーなのか?「身内」が作った第三者委員会などに何ができるというのか?

この日大理事長が東京オリンピックにも関係しているのである。そうでなくとも東京五輪には拭い去れないダークな面が多過ぎるのである。浮かれ騒いでばかりもいられまい。いっそ中止になればよいと思っているのは私だけではあるまい。選手は東京五輪にこだわる必要はまったくない、それ以外にも世界的にいくらでも活躍の場はある。

〇どんな時でも「文句を言わず」、「不平不満を言わず」、「批判がましいこと」も言わず、「前向きに笑って楽しく過ごしましょう」、「それが嫌われないこと」そして、「それが健康の秘訣」などとしたり顔で言うのを聞くと、これでは「自我」、「個」などは育つはずもなく、一見理想的生き方のように思われるがそれは「人間」の範疇さえ逸脱することにもなりかねないから恐ろしい。全体としては極めて不自然、不健康でさえある。それがわからなければ「例の人」の思う壺に入るより仕方あるまい。

 

〇昨今の日本「礼賛」番組をみていると、SNSなどの「承認願望」思い浮かべる。余程、自身がないか、他者の視座(この場合は主に外国人)の中で自己を再認識したいのかとも思われるが、それは自己を認識するというようなレベルではなく、単なる怠惰な自己満足に近い。だから、これもまた自己展開の余地がまったくないのである。

                              6/3

 

〇これもまた案の定、大阪地検特捜部は偽造公文書作成の疑い告発されていた前国税庁長官・佐川宣寿を不起訴とする。大阪地検特捜部はこれでまたその在り方を自己証明したようなものである。このような動きそのもの中に内部崩壊させるような不可抗力的要因を必然的に作り出している。特捜が内閣府に取り込まれていることは国会の答弁でもよくわかる。そもそもこの事案は政治的な事案ではないにもかかわらず、政治的に考慮した、政治介入した特捜の在り方は大いに問題である。これは誰が見ても公文書の偽造行為である。公文書を書き換える、それは記録を、歴史を国史を書き換えることでもある。それは今に始まったことでもないが、そのような行為自体があったことは否定できないと同時に、許されざる行為である。そのような行為を不起訴とする特捜の「判決」は三権分立の民主主義国家とは名ばかりであることの証左でもある。要するに、一党をダラダラと継続させてしまうことからくる弊害ということに尽きる。何もかもがダラダラである。牛のよだれような様態を喜ぶのは商人だけであろう。

                               5/31

 

〇100歳になったという元首相の政治家が出てきて曰く「生涯政治家」。いつまでもダラダラと生き恥をさらすよりさっさと消え去るがよかろう。戦時中においても然り、このような悪しき状態にしてしまった責任をどうやって取るというのか?「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と言って潔く去ったマッカーサーと比べてやはり質的にも見劣りがする。何なのであろうか?このだらしなさ。見苦しいの一言。それともやはりここは不思議の国の認知症の国なのか。

                              5/28

 

〇「そんな小さなこと」より「大きな問題」が山積しているなどというもっともらしい口車に決して乗らぬことである。小さなことも満足にできない者たちが大きなことなど対処できるはずもないのである。現にその連続ではないか。一般国民は生活に根差した是々非々で政治家を選べばよいだけである。特定の政党の支持者になり続けることは危険でさえある。それが今回の結果でもある。実際に生活は徐々に確実に壊されている。国民生活も無視して天下国家を論じているような者などは偽物、無用の長物のような類で、ろくなことはできまい。その実例も枚挙にいとまがない。

                              5/27

 

〇日大アメフト監督と選手の言葉の受け取り方の乖離などについて言っているものもあるが、もしそうであるならまったく信頼関係が成立していないのであろう。何のために一日何時間も練習しているのか?すでにこの経過を見続けている「視聴者全員」は明解な裁断を下していることだろう。白を切り通せると思っている者たちの存在そのものに対する否定である。

 

〇日大アメフトの宮川君、あなたの潔さは立派。それに引き換え日大の偉そうな「大人」たちの醜さ、だらしなさ、情けなさ、ここまで人は堕ちるのである。それは今までにも国会で嫌と言うほど見せつけられたことでもあるが、これは「大人」の責任でもある。結果的に「若い芽をつぶしている」のである。彼らは自らの保身と欲望以外に眼中にないのでどんなことでもする。彼らの美辞麗句、ウソ、世迷言に踊らされていたらいつしか心はボロボロ、身は八つ裂きということになる。

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、宮川君は日大アメフトなどにこだわる必要はまったくない。捨てるべし。君のような人間はいくらでも道は開ける。「老いたるは皆かしこかり この国に身を殺すもの すべて若人」ということもある、若人を利用するずる賢い者たちに立ち向かうにはそれなりの覚悟が必要である。そうでないとどこまでもいいように付け込まれると同時に展開の余地はことごとくつぶされていく。

追記:私が社長だったら、宮川君は無試験で入社させたい人物でもある。それにしても学長、理事長何だこれは?これほどまでにひどくなっているとは。これは大学の体すら成していない。しかし、黙って放置すればこのような大学が「お墨付き」の大学になって増殖するのである。大学無償化などでこのような大学に入れられたら何をされても何も言えずなされるままということにもなるのである。言ってしまえば、全体主義国家にとって都合の良い「細胞」を育成することはできても「個」の充実ということからは乖離するばかりだということである。そして、「細胞」とは飽くまで「非人間」であることを明確に押さえておく必要がある。

                                5/25

 

〇ボルトンはやがて解任であろう。イェール大学を最優秀で卒業してもこの程度なのである。「リビア方式」などと言うことを現状で言えてしまう神経。歴史は絶対一回性、どのような緻密な頭脳にとっても大なり小なり「賭け」なのである。メリットばかりを言う者、それ以外にないようなことを言う者はすべて欺瞞。「現実主義者」が「現実」を見据えているとは限らないのである。

                                5/20

〇岸井成格は「反骨のジャーナリスト」ではない。ジャーナリストとして当然のことをやり続けただけである。彼のことを「反骨のジャーナリスト」などと言う類型的な言葉でまとめてしまうマスメディアにはまともなジャーナリストがいないという証左でもある。だから死の直前、彼に「だらしなくなちゃったな、みんな」と言わせてしまうのである。

                                2018 5/19       

 〇米朝首脳会議延期、「駆け引き」云々ということが枕詞、序詞のように使われているが、政治、取り分け外交領域で「駆け引き」のないことなど皆無であろう。むしろ、いかに「駆け引き」をするかが外交手腕で、政治的次元で「本質的のもの」などあろうはずもなく、いかにもっともらしく取り繕ってもその時々で変化する皮相的なものでしかない。改めて「ショー」だ、「パフォーマンス」などとそれ以外にさも重要なものがあるかの如く気の利いたことを言ったつもりなっているが、そもそも政治一般が「効果」である以上、それ以上ではあるまい。世界の片隅で、あるいは自国でいつまでもつまらん百害あって一利なしの三流のショー、パフォーマンス、ポチ外交をやっているのが取りも直さず自国の首相であるという明確な認識なくしては今後も一歩も事は進まないであろう。

 しかし、秋田犬の「マサル」まで政治利用する無節制さである。節度云々以前の問題で、ここまで来るとやはり精神疾患の問題である。思い込み以外には何もない空疎な狂者の行先は見えている。集団ヒステリーを起こして崖から群れを成して落ちることだけは避けねばなるまい。

 自画自賛になってしまうが、正直に言えば、このサイトで取り上げ問題にしたこと、書いてきたことについては大方的中してしているか、先取りしていて怖いくらいである。したがって、マスメディア等に出てきた時には驚く内容はほとんどないといってもよい。すべてが再確認の域を出ないということである。

 

                                5/17

 

 

 

133.つれづれに一言で片づければ(14) 19件(198件)

〇早速、5月11日、フジテレビで40分間シンゾウ・アベのワンマンショーである。もっとも、我が家では最初の数秒でチャンネル切り替えた。彼が発語する以前に、顔を見るだけで忌まわしいからである。「この男一体何を言っているのか?」、「狂ったAI?」(AI程の思考回路があるかどうかも疑わしいが)、例の札付きのフジテレビであるから今更驚くこともないが、さぞかし美味しい汁が出ているのであろう。そうでなければ動くまい。それもすべて税金であることを忘れないことである。

※フジテレビは競馬だけ。

〇改めて言うまでもなく総じて、メディアは政府広報と見るべきなのであろう。使用言語でもすぐにそれとわかる。少し前は「ねじれ国会」、最近では「国会の空転」、「国会正常化」、これは野党の質疑、抗議すなわち国民の疑問に対して発せられる何気ない負のイメージ操作である。内実は空疎であるが、油断は禁物、「ねじれ」の原因、「正常化」を妨げているのは、「お前たち」(野党、国民)であるとさりげなく言っているのである。この「さりげなさ」が前意識、下意識にはり付き、やがて功を奏するのである。一頃、したり顔でよく言われていた「コロコロ変わるのもいかがなものか」などもその類で、一党独裁どころか独裁国家を奨励しているようなものだということがわからないのである。しかし今、多くの国民にとって、君たちだけには言われたくないと思うのが偽らざる心情でもあろう。

                                      5/10

〇「美しい日本の憲法をつくる」?陳腐な形容詞で内実を粉飾する典型的な例である。言葉に酔うのもいい加減にしてほしいものである。大体、手足が泥だらけな者たちがどうやって「美しい日本の憲法」をつくるのか?今までの経緯がすべてを物語っているであろう。さすがの詐欺師ですら気後れするような話である。それでも「改憲」などと言い出す、どの面下げて言えるのか、やはり尋常ではない。しかし、これをカルトの一連の動きと見ると納得できる。あらゆることが「自分たちのこと」だけで、まったく「現実」が見えていないのである。すなわち、すべてが亡霊のような「思い込み」の世界なのである。このような者たちが改憲しようというのであるから、どうなるかは明白であろう。さらに一方では、いざとなれば逃げ足だけは早い「平和ボケしたタカ派」(軍産複合体のメッセンジャー)の自己陶酔した勇ましい講釈。彼らの口車に乗っていたら命はいくつあっても足りないのである。

 「美しい日本」とは何か?これほど日本人であることを、日本を強調、説明する者たちとは本当に日本人なのかとも思われることがある。「我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生まれるはずもなく、日本精神というものが説明づけられるはずもない」のである。

                                   5/4

 

〇「自衛隊の根拠規定を明記する」のだから、どこの戦地に行っても思い残すことなく戦ってくれ、すなわち死んでくれと言っているのである。「自衛隊を明記」されたからといって喜んでいると、時の政権の無能さ故に徒に死に追いやられることにもなるのである。それがわからないようでは単なる目くらか、タナトスの餌食になっているだけであろう。

 世に、目くら千人目明き千人とはいうが、目くらはせいぜい100人位であってほしいものである。

                                      5/3

〇アベ、クロダ、その周辺などの動きを見ているとやはり第二次朝鮮戦争を想定し、期待していた節が多々ある。要するに、第二次朝鮮特需による景気回復である。この間の猿芝居、三文芝居の連続そのものが策士策に溺れるという事態をすでに予見しているが、やはり、見事に現実は策士たちを裏切っている。それでも、相変わらず盗人にも三分の理のごとくの舌先三寸の羅列をしているが、それは狂ったAIのようでもある。信を置くに足りないどころか、決定的な能力不足なのである。責任能力の欠如した三流のやった振りパフォーマンスを繰り返すしか能がない者に一流のパフォーマンスはできないのである。どれもこれも能力不足、インテリジェンスの一かけらもないことは周知の事実、単なる策士、詐術家の集団に一体何ができるのか?目くらましはできても実質的に何もできまい。

                                  4/29  

 

〇自民党の「改憲案」は、解釈次第でどうにでもなる無責任で欺瞞的な最たるものである。自衛隊員を「いい気分」にさせ、国民を丸め込んで戦地に送り込むことを正当化させるだけのことであろう。集団的自衛権という文言を一言も遣わず法的解釈で集団的自衛権を思うようにできる「改革案」である。こんなものを認めたらやがて子供も孫も戦地送りということになる。義もない戦に無理やり駆り立てるのが彼らのいつもの手である。以前、吉田茂が自衛隊に向けて言ったことなども、要するに自衛隊の存在の「ジレンマ」そのものが平和憲法、民主政治の指標でもあるということなのである。美辞麗句に踊らされ、ジレンマが解消され快刀乱麻の時が全体主義国家の幕開けである。それは、世界状況、時代の趨勢から見ても衰退、自壊、「滅び」の時を意味する。

                                                                                                                                     4/25

 

〇「働き方改革」ではなく、「働かせ方改革」というのが正確である。これは今に始まったことではなく、すべてがこの調子であるからこの手の詐術には引っかからないように注意した方が賢明。一旦引っかかると次から次へと止むことはない。

 

〇しかし、99%の「庶民」のことなどまったく眼中にない者たちにエールを送る「庶民」とは一体どういう精神構造を持っているのだろうか。自己犠牲を容易にする「自己愛」を思い込みの中で醸造しやすい「安易さ」(空疎な言語など)で誘導されているのであろう。

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〇いまだに「信頼回復」云々、何をどのように信頼回復するのか、それは100%あり得ない。今の動きそのものが「信頼回復」をことごとく裏切っているのである。そして、我々は「しがみつく者」とはここまでブザマになるものであることを現在進行形で生々しく見せつけられているのである。じっくりと見尽くし、見届け、次の手を考えよう。それだけのことである。

 

〇これほど薄汚い、みっともない政権も見たことがない。そう思わない方が異常であろう。擁護する者たちを調べてみても、やはり私利私欲が第一義と言わざるを得ない者たちばかりである。この奇怪な政権の内実は腐臭ふんぷん、死臭、正体不明の悪臭などでまともに接することも正視することすらできない状態である。全国津々浦々で風光明媚な国土を原発で汚し、国土を私物化、実験場化、一方では国の歴史を改ざんする。何かあれば認知症、言語障害のごとく、まともな話ができないのであるからどうにも話にならない。ここまでは来ては「解体」するより他に手立てはあるまい。

 最近の反原発の新潟県知事の潔い辞任が、「人間」として新鮮に見えるから不思議である。そういう意味では、現政権、その周辺には「人間」が不在ということになる。人間失格、人間不在、議員失格、官僚失格ばかりでは、放置しても自壊の道しかない。さらにジャーナリズムが飼いならされた御用提灯ということになれば限りない「下降」「逆行」しかありようがない。

                                  2018 4/18

 

〇「こんな政権は見たことがない」、それはそうであろう、この政権は「日本会議」と「創価学会」というカルトの連合体なのである(これについては以前にも書いた)。選挙民が棄権し、放置すればすぐにこのようなカルトに乗っ取られるという実例でもある。カルトである以上「教祖」の言った美辞、「大義」は信者にとってはすべて、「ない」ものも「ある」、「ある」ものも「ない」ことになる。選挙民は立候補者の関連組織くらいはチェックしないと「普通の生活」すらできなくなるということである。総じてこのあきれるほどの「幼児性」はどこからくるか、それも明白なのである。

 

〇「北朝鮮」、「TPP」、「シリア」と首相は難題山積などと、さももっともらしく書き連ねているところもあるが、この首相にできることは端から決まっている、というよりそれしかできないのであるから何もこの人間である必要もない。難問に立ち向かう悩める首相像を作り出したり、演じてみたところで最初から底は割れているのである。この首相の「方程式」ではもはや先はないことは少し考えればわかること。今更、提灯記事、提灯識者などの話をいくら書き加えてもどうにもなるまい。

                                        4/14

 

〇国民は首相の説明に「ウンザリ」しているのであって、真相究明そのものに「ウンザリ」しているわけではない。そこを間違えてもらっては困る。追及そのものを「政治ショー」だの「ウンザリ」などといっているのは追及されては困る側のイメージ、印象、感情操作に過ぎない。民主主義政治そのものが壊されようとしているのである。徹底的に追及すべきである。

 しかし、いまだに「ウミを出さねばならない」、「信頼を回復して云々」などと平然と言っているのであるから始末に負えない。すべてが「他人事」なのである。こんな責任の取れない「統括責任者」などというのは存在意義は皆無であろう。ここまでくるとその存在そのもの自体が極めて忌まわしいものとなる。どこまでも白を切り通す、それは犯罪者の鏡でもある。証拠の有無にかかわらず事の中心人物が知らぬ存ぜぬで済むと思う方が狂っているのである。多くの国民が「人間としても信用できない」と言っているではないか、それでも続ける理由は、私利私欲以外あるまい。狂った亡者がやたらと「大義」で飾り立てるのも陳腐な手法である。

                                                                                                                               4/13

 

〇炎に包まれた城の中での一幕二場の猿芝居、外では火を消すこともできずに「敵が来る、敵が来る」とかまびすしいヤカラが舌先三寸の口八丁手八丁、手を変え品を変え、よく飽きもせずやっているものである。つい「誰から、いくらでやっているの?忖度料は?」と聞きたくもなる。

 

〇そもそも政治は、興味があるとかないとかで片が付く問題ではない。すべては生活に直結している。あきらめるとは?何を、生活を?それはあきらめさせられているだけであろう。

 

〇いかにも大衆受けしそうな、頭脳明晰であるがおバカ映画大好きなどという漫画チックなキャラクター作りをしておいて、現在問題になっている政治的問題を政権擁護の立場で展開している正体不明の実のところ男か女も不明な者のブログがあるようだが、ちょっと読んだだけで立ち位置、軸足どころか下着の中身まで見えてしまう。内容はぺダンチックに装われているが空疎でお粗末そのもの。本人はいい気になっているようだがコアな領域は皆無。要するに、まともな質問、批判に対してヤジを飛ばしているのと何ら変わるところがない程度のものである。今後、この手のブログが増えることであろうが、注意していればいいだけのことである。すぐに底が割れる。

しかし、ソクラテスに死刑を求刑したのもアテナイの市民であることを忘れないことである。

                                                                                                                                             4/7

 

〇あの悪名高き加計学園の獣医学部の入学式が行われたようだ。定員200名のところに応募者は2000名。よくもまあこんなところに入学を希望するものだが、要するに落ちこぼれの集団なのであろう。しかし、このような者たちが獣医師の資格を取っても、動物が受難の時を迎えるだけである。「加計学園獣医学部卒業」、これ履歴書に書けるか?

 

〇天気も政治も前代未聞、異常である。まず、そのこと自体を素直に感じ、認識することである。そうしないと、あらゆることについて嘘か本当のことかがわからなくなってしまうものである。

 

〇改ざん問題で首相批判した者に対して「そんなのはゲスの勘ぐりだ」と言った亀井静香は、改ざん問題について現在もなお納得していない多くの国民に対して「ゲス」と言っているようなものである。そのことをやがて思い知らされるであろう。

                                       4/2

132.「確信犯」に「説明責任」など無意味

 何かと言えば、「詳細については控えさせていただきます」、「その点については調査中でお答えできません」等々、そもそも「忖度の有無」など「確信犯」に聞いても無意味であろう。民主主義国家の根幹を土足で蹂躙し続ける「確信犯」集団の一員であるということに過ぎない者の答弁に何を期待しているのかと思われる。これで幕引きを急ぐ者たちの立ち位置とその軸足は明白である。「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事はいつまでも続く」(漱石)のである。これは序曲に過ぎない。

 さらに、国民が知りたいことには一切答えず、国旗に一礼して「その点ついては、詳細は控えさせていただきます」と言って引っ込むだけの官房長官など国民にとっては必要あるまい。「主権者」に丁寧に答えようともしない姿勢そのものが憲法違反なのである。存在そのものが憲法違反な確信犯の集団が「憲法改正」などとは、たとえ改憲が是だとしても100年も200年も早い。

                                  2012 4/1

131.つれづれに一言で片付ければ (13) 17件(177件)

〇しかし、「最高責任者」が責任を取らない。本当に奇怪な国の仲間入りである。これもまた一事が万事で社会全般に行き渡るであろう、すでに行き渡っているのかもしれぬが、しかしこれで「倫理だ」、「道徳だ」、「国民を守る」などと言って誰が納得するというのか?「何が起こっても」この調子であることを肝に銘じるべきであろう。この期に及んで「責任を感じている」などと言ってみても示しがつくはずがない。「謝罪」、「責任を感じている」で済むのならやったもの勝ち「法」はいらない。

                                                                                                                                     3/29

〇「佐川宣寿前国税庁長官の証人喚問」、その内容たるや案の定というところである。これで民主主義国家の根幹を揺るがす平成最大の「事件」は幕が引かれるどころか、逆に幕開けとなった。やがて拡大、深化することであろう。万が一そうでないなら全体主義国家の幕開けである。また、その危機感がないのならもうすでに全体主義国家への傾斜の中に頭がかすめ取られている。

 丸川珠代と佐川宣寿のやりとり、あまりにも見え見えで三流テレビドラマでもここまではやらないというレベル、国会でよく恥ずかしげもなくこんななめ切ったことができるものだとオツムの構造を疑っている。これもまた十八番の「印象操作」のつもりか、劇場であれば「金かえせ!」の声、稽古場であれば灰皿が数個飛んでくるところである。

 サルも驚くサル芝居、三文芝居どころか一文芝居で国民を欺くとはふていヤカラと言うべきか、これで完全に馬脚を露した。司法も当てにならなければ国民が裁くだけのこと。それが民主主義というものである。彼らの取り繕い方とは裏腹にとことん国民を馬鹿にしているということがよくわかる。

                                     3/27-29

 

〇敢えて言うまでもなく、民主主義というのは国民各自が作っていくという気概なしでは成り立ちようがないのである。是々非々などどこ吹く風の快刀乱麻、即断即決に心地よさを感じ始めたら民主主義の危険領域である。「ねじれ」もよし、「ころころ変わるも」よし、それが民主主義であるという気概が国民の側になければすぐに全体主義国家の誕生である。

                                      3/25

 

〇シンゾウ・アベもそろそろトランプに解任されるか。そんな「悪しき冗談」のようなことがごく自然に思われてしまうご時世だから薄気味悪くもあり、気持ちの落ち着く暇もない。世間ではいつの間にか「アベ一強」などと為す術もないかのごとく、一方ではこれ幸いとばかりに痴れ者の乱痴気騒ぎが続いていたが、因果応報、自業自得の理はそのまま現れるものである。現在の経緯については何の不思議もない。要するに、邪道は邪道、一時しのぎはできても剥落は避けられない。

 

〇言ってみれば、この政権は日本会議と創価学会という二つのカルトの連合体でもある。「〇〇懇談会」という軽いノリでお綺麗な題目を拠り所にしていくつもの組織すなわち単なる集票マシーンを増殖させているのである。彼らの言う「地元住民」、「市民」とは軽重問わずカルトの信者を指しているので「一般市民」の心情とは乖離しざるを得ないということになる。この「領域」では、信じる者も救われないのである。

 このカルトの連合体が憲法をいじっているのであるからその目論見は明白。 

※因みに、本来の仏教哲学のようなものは別であり、また神道は飽くまで民族宗教で「コア」な部分が希薄なので権力とはつながりやすいものである。平田篤胤などはその典型。

※これについてはまた長くなるのでここではさける。(このことについては以前このサイトでも取り上げている)                                                              

                                        3/22

 

〇「感情の劣化」とは、すなわち知性の劣化である。知性と感性は不即不離、知性というものの中にすでに感性は含まれている。したがって、感じ方もその知性によって大きく違ってくる。「自分の」感性を手放しで信用して、感情をのほうずの状態にしておけば「人間」そのものの衰退、劣化は避けられない。要するに、「感情の劣化」とは「人間」として極めてしだらな縮小で、拡大・展開に向かうことは決してないということである。

                                      3/18 

 「人々」のこのような傾向、状態を誰がほくそえんでいるか、敢えて言うまでもないこと。 

 

〇まともに責任も取れない「トップ」といわれている者たち、何をやっても他人事でいられる「指導者」たちに、こんな者たちに「導かれて」どこに行く気なのか?少なくとも、99%の者たちのことなど全く眼中にないことだけは確かなのである。いかに人々を利用するか、騙すかが最大の関心事でであって、辛うじて出てくるものといえば画餅と綺麗事以外は出しようにも何もない。何をしても責任転嫁、だから異様に軽いのである。彼らは人を欺くためなら事も無げに何でもするだろう。そして、こういう者に限って「道徳」、「倫理」などという言葉をしかつめらしくよく遣うものである。                                     

                                        3/16

 

〇後始末もできないものに手を出すな!まるで悪ガキを諭すような気持になるというレベルである。言うまでもなく原発である。現在もなお収束のめども立たず、事故継続中で何兆円かけてもその効果のほどは不明なのである。放射性物質の半減期なども人間の「浅知恵」の埒外にあることを考えれば汚染土壌の拡大は避けられないであろう。この「悪ガキ」は自分の所でも満足に処理をできないものを海外で売りつけようとしたのである。さらには再稼働である。今度事故が起これば、もはや手の施しようがあるまい。これは悪魔に身も心も捧げた者の所業と言わざるを得ない。これこそが「美しい日本」を破壊する張本人なのである。

 議会制民主主義の根幹を冒涜、蹂躙し、それこそ「美しい日本」をことごとく破壊しようとした者たち、公文書偽造などで済むと思っては困る。共謀罪こそ相応しいであろう。彼らのヘラヘラとした弁解、説明、謝罪は不要、やったことがすべてである。

ギロチンは自ら作ったギロチンで首を落とされた。

                                                                                                                      3/14

 

〇しかし、これほど破廉恥な政権も前代未聞である。全く責任の取れない、取る気もない者がその場しのぎ説明にもなっていないことを繰り返す。それもごまかしと虚偽ばかりである。あったこともないことにする、こんなことが許されるのなら法律も憲法もいらないだろう。彼らが「憲法論議」、「改憲」などとはとんでもないこと、100年早い。

公文書偽造どころか彼らが共謀罪の第1号となることも考え得ることである。どちらにしても民主政治の根幹にかかわる問題で「謝罪」、「努力」、「信頼回復」などということで済まされることではない。

                                  3/12

 

 

〇テレビの中でも、TBS報道特集(土曜日5:30ー)などは見応えがある。金平茂紀、日下部正樹などのスタンスもいいし、問題のとらえ方も明確である。これからも大いに期待できるジャーナリストである。「政府広報官」、「お達者クラブ」ばかりで、ジャーナリストと言い得る者がほとんどいなくなっている現状ではなおさらである。

 「あったこともないことにしてしまう、また、ないこともあったことにしてしまう」ことに対して果敢に立ち向かう者がいなくなってしまっては、すべては闇に閉ざされてしまい、たとえ「陽はまた昇った」としてもそこには未来に向けて育む価値あるものは何も誕生しないというのが現状である。危うい希望的観測にしがみつくことは身の破滅なのである。すでに日本の国土の一部(福島県の一部)は現在なお事故進行中で収束の見込みはまったく立たないということである。

 

                                                   3/10

〇テレビつければ、どこもかしこもヒステリックな笑いで満ち満ちている。「何でも笑わにゃ損、損」とばかりの取りつかれたような笑いである。これは「やば」である。騒々しいだけで何もないが、ダークサイドの引きつった嘲弄だけは見え隠れしている。すなわち、「思う壺」にはまっているのである。

 

〇「働き方改革」ではない。飽くまで「働かせ方改革」である。その実態を隠す手口は相変わらず安手で陳腐なのであるが、手を変え品を変え「ねずみ講」のごとく際限もなく繰り返される。よくもまあ飽きもせずやる方も、騙される方も。三流の詐欺師に騙され続ければ騙される方も三流であろう。

 

〇「公文書偽造」さもありなんである。創造力はないが単純作業を正確にこなすことは一流といわれる日本の官僚が誤字、訂正などあり得ないことと元官僚も言っている通りで、これは国家的犯罪と言われても仕方あるまい。やがて白黒ははっきりするはず。しかし、次から次へと、何度でも言うが、恥ずかしくないのか。その恥知らず具合は日本人離れしていると思われる。それが日本についてわかったような知ったようなことを言うものだから胸糞が悪くなるのである。

 

〇ある日、禅僧が「無の境地になると、鳥もとまる」などと得意げに言っていたが、それはじっとしていただけの話であろう。それでは「鳥がとまった」といつ「感じた」のか?明恵なども樹上坐禅をしているが、鳥がとまったことを「無の境地」と結び付けたか?なおいまだしの感しきりである。

                                       3/3

 

〇狂っている、確かに狂っている、この政権はほんとうに狂っている。それだけは100%間違いない。そのことだけは歴史に残るであろう。「人間」のあらゆる領域から逸脱しているのである。倫理観の全く欠如した者たちの「言うこと」などにいちいちまともに耳を傾けている方が馬鹿をみるだけであるが、すべてが糊塗、ねつ造、すり替えの焼き増しとは。まともな神経の持ち主ならその様見て、「恥ずかしくないのかね?」と聞きたくなるのも当然であろう。

                                  2/28ー3/1    

 

〇羽生結弦と宇野昌磨選は日本の運動選手には珍しく自分の言葉で自分について語れる選手でもある。そこには媚びも、手垢のついたお仕着せの表現もない。

 

〇「裁量労働制の拡大」、すなわちブラック企業の拡大、合法化である。こんなものを簡単に通せば自ら自分の首に縄をかけるようなものである。後は縄を引っ張られても、足を引っ張られても何も言うことさえできなくなるのである。「自由な」強制労働収容所に入れられたようなものである。これで利するのは誰なのか、どこなのかということはわかり切ったこと。働く者たちはいいように使われるだけで決して一つとして利するものはない。時間と賃金の大泥棒の詐術、欺罔である。

 

                                                                                                                     2018 2/24

130.「ロシア疑惑」、さもありなん。

 2月16日、米国のモラー特別検察官が公表した起訴状により「ロシア疑惑」の実態が明らかになってきた。その手法は実に巧妙で様々な団体を装い仕掛けられた罠は、トランプを媒介、触媒として米国内の対立をむやみに煽り立て混迷に拍車をかけるものであった。その意図は? トランプも利己のためなら「何にでもなる人間」である。すなわち、アメリカ・ファーストではなく徹頭徹尾ミー・ファーストなのである。利用する方も利用される方もどこまで受け身であったのか能動であったのかは敢えて不明瞭にしたままその時々の「効果」に終始したのであろうが、実質的には米国の「質」の低下、混乱を招いたことは否定できまい。それで誰が喜ぶのか?今やトランプの存在自体がどのように取り繕ってみても米国の最大の汚点の象徴でしかない。目的のためには手段を選ばないミー・ファーストでしかない者がアメリカ・ファーストなど平然というおぞましさである。そのような者と100%と一致するという者なども当然その縮小相似形である。わが身のためには国を売ることさえ厭わぬ者たちである。

 

                                 2018 2/17

129.ココ・シャネルの実像

 マリー・ローランサンの「マドモアゼル シャネルの肖像」にシャネルのすべては描かれていると思われる。やはり芸術家の心眼にはシャネルの偽らざる真実が見えていたのであろう。確かに、シャネルは不幸な境遇から身を立てたという同情すべきところはあるが、その成り上がり方には反感を買ったのも事実であろう。特に第二次大戦中のパリでのナチスの将校との関係、さらにゲシュタポ(ナチスドイツの秘密国家警察)の手先にまでなっていたというところまでいくともはや反感などという次元の問題ではなくフランスの一般市民にとっては「裏切り者」という意識の方が強いであろう。戦後、パリで活動できなくなるのも当然である。

 ※シャネルの反ユダヤ主義的傾向が19世紀後半ドイツなどヨーロッパ諸国に興ったユダヤ人差別運動(アンチ・セミティズム)、後にこれはナチスの政治目標となるが、それがシャネルの反ユダヤ主義と共鳴し合ったのである。どちらにしても彼女が人種差別主義者であることに変わりはない。

 日本ではいまだに「シャネルの5」などをフランスの代表的香水などとありがたがっている向きもあるようだが、意識の高いパリジェンヌなどは果たしてどうか、推して知るべしであろう。

 香水についても、ファッションデザイナーとしても、ココ・シャネルなどは私にとっては縁もゆかりもない人物ではあるが、いつかマリー・ローランサンの描くシャネルの肖像を見てすべてが腑に落ちた。それについては長くなるのでまた別の機会にしよう。

 

                                 2018 2/1

 

128.つれづれに一言で片付ければ(12)12件(160件)

〇国会で「裁量労働制の拡大」について追及する野党を「誹謗中傷クラス」と言う渡辺孝一(自民党、比例北海道)、やはり根幹部分が腐っている。それに気付かないことも致命的なのである。よくこのようなものを選ぶものである。もちろん、アベ、アソウなどは言わずもがな。

 

〇現政府が「国民に丁寧に説明していく」と言うとき、それは「国民に丁寧にウソをついていく」と言っているのと同義か、まったく無意味なことを言っているに過ぎないというおぞましい状態が拡大し続けているだけである。かつてこれほどまでにムチャクチャな内閣府が存在したか。

 

〇言うまでもなく、二人の羽生とアベとは全く関係なし。アベが出てきただけで折角の時が汚れる。もはや、すべてが逆効果であることがわかっていないようだ。やはり、トランプと相似形である。

 それにしても羽生結弦選手の存在そのものが出色と言わざるを得ない。何かといえば風によって影響されるような競技とは違って、氷上に一人舞う、時と一体化した羽生の姿は実に美しかった。彼の存在そのものが、はもはや「国」などという次元を超えているのである。

                                                                                                                                        2/17

しかし、為政者の「ポピュリズム」ではない単なる大衆に媚びるだけの「ポピュラリズム」にはあきれ返るというか、その恥を知らない無節操振りには吐き気さえもよおす。やはり、彼らは欺くためにはありとあらゆる手を使うだろう。

〇「大手マスメディア」とは常に「大手側」、「政権側」の追従路線で、決して庶民の側にはいないことを知っていればいいだけのこと。「大手マスメディア」の言っていることをそのまま真に受ける方が愚かなのである。「大手マスメディア」の発信していること、隠していることを吟味、検証できるくらいでないと北朝鮮の大衆の現状が明日の自分の姿ということになる。それは「赤」であろうが「黒」であろうが同様で、思考停止状態の者たちがなだれ込む全体主義という陥穽である。

 

〇スポーツの祭典ばかりに気を取られていると、またぞろ世紀のいかさま政治屋たちに出し抜かれるな。

〇以前にも書いたが、「国際政治学」などは、要するに陳腐な情報(マスメディアに出るような段階では)と政治力学だけで、「コア」な領域が希薄なのである。総じて皮相的で、余程意識していない限りその役割は権力の「走狗」とならざるを得ないということである。「国際政治学者」と称される者の言動をみれば一目瞭然であろう。薄っぺらな者に限ってただ騒々しいというのはどの領域も同様ではあるが。

 

〇北朝鮮の応援団、芸術団がシャネルのバッグを身に着けていたという。何をか言わんや、噴飯ものであるが、やはりシャネルかといういうところである。

 

〇「分断国家」、「ねじれ国会」等々、オツムは大丈夫かと聞きたくなるコンセプトである。余程、統一国家、全体主義的国家が好きなのであろう。「分断」ではない「対立」はあって当然、そのバランス感覚が民主政治には必須条件なのである。「分断国家」より「専制一強国家」がお望みなら話は別だが、そうではないなら言葉の遣われ方が余りにも無思慮というか、オツムの方が心配になってくる。浅薄な言語、知識に振り回されるのも何の言い訳にもならない「単細胞であること」の証左である。

                                    2/4 (再び)

 

〇「日本〇〇協会」、「公益財団法人」etc 実際、世の中には、名称だけで実態も不明瞭、訳のわからぬ協会、組織などが多々ある。中には理事長、理事、その他の役職が10年一律、さらにはその「役職」がそのままその世界の「実力者」であるかのような「錯覚」までまかり通っている。やっていることと言えば、アリバイ作り的な行事と刊行物。多くはパラサイト的な「専門誌」がその広報を担うことになる。一体、何のための協会なのか、法人なのかと思われる組織が多過ぎる。それで「いい思い」をしているのはほんの一握りの者たちだけというのは相も変わらない世の実相である。

                                     2/2

 

〇保守らしい保守の論客は西部邁で最後であろう。他は保守というにはおこがましいような者ばかりである。今や「保守派」などは存在しないのである。その点については図らずも西部邁の見解と一致していたことが彼の生前に確認できた。このサイトでも以前それについては取り上げたことがあるが、私は彼とは世界観もまったく違う。しかし、彼には本来の保守が当然もっているべき幅広い「知性」があった。それに匹敵する程の知性、洞察力は他の保守系といわれるものたちにはない。それについては見てのとおりとしか言いようがない。また、そんな者たちに関わっている時間もない。

                                                                                                                                         1/26

 

〇しかし、思考回路の劣化破損した幼稚な感情的妄想ばかりのヘイト系のお方も多いようである。奈良の片田舎の町議などの例もご多分にもれずといったところであろう。この町議に至っては精神年齢はできの悪い小学生程度である。

                                                                                                                                          1/25

 

〇「反安倍ということ」が対立軸なき時代の「病」という見解、これは状況分析としても皮相的で、時代を俯瞰しているようでもあるが立ち位置、軸足が丸見えである。少なくとも、「知性」を売り物にしているのならもう少し冷徹な分析をしてもよかろう。とにかく現状認識が甘過ぎる。

※山口真由について

127.悪餓鬼が駄々をこねているような

 総じて、悪餓鬼が駄々をこねているような「改憲論」である。すべては現憲法のままで対処できるにもかかわらず騒々しいのである。「憲法改正」とは誤りである。決して「改正」ではない。むしろ「改悪」と言った方が適当である。国民に対してどのようなオタメゴカシを言ってみても実質的には国民が今まで持っていた権利さえも奪い去る方向に向かう「全体主義」を基準にした「改『正』」なのである。したがって、「憲法改正」という言葉を何の捉え直しもせず遣う者、組織は極めて危うい。とにかく「彼ら」に憲法をいったんいじらせたらどこまで行くかわからないことを肝に銘じるべきであろう。

                                                                                                                                 2018 1/18

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