両忘の時‐ある日、その時‐

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116.天皇に対しても無礼な内閣

 宮内庁も「天皇に対して失礼であろう」と言っているが、現憲法を遵守する中で精いっぱいやってこられた天皇に対して「祭祀」だけをやっていればよいなどというのは無礼極まりないことである。それは筋から考えても、ごく「普通」の日本人の感覚からしてもおかしなことであろうと思われる。この安倍内閣については、もはや形容のしようのないほどであるが、改めて「こやつ何者か」一体何なのかと問いただしたくもなる。やることなすことすべて場当たり的で支離滅裂、「何でもあり」の後は野となれ山となれの有象無象の亡者の類か。このような者に限って何かというと「日本」、「愛国心」、「責任」、「安定」、「希望」などという言葉を乱用するが自らの「闇」を粉飾するためにだけ使われる「空疎」な言葉でしかない。要するに、実体のない「名称」を利用しているだけで、日本文化に対する素養も敬意も知識もない。日本国憲法に規定された日本国民の総意に基づく象徴天皇制ですら意に介さない、保守などとはおこがましい「乱心保守」の手合いである。

 「天皇の退位」の扱い方にしても、「憲法の扱い方」にしても、この政権は天皇に対して礼を失するように、国の根本法を弄ぶがごとく恣意的にいじくり回しているのである。改憲をオリンピックの年に合わせるなどとはとんでもないことである。国の根本法の改変をスポーツの祭典に合わせて考えるなどとは本末転倒、便乗戦略とは言えこの愚かさ、病的な「軽さ」、ついオツムの具合を聞きたくなる。そこには傲慢さと「人間」軽視がある。何の根拠もないのに平然と「アンダーコントロール」を宣言した人間である。おそらく「宣戦布告」をした翌日にはゴルフをしているような人間であろう。こんなことはとても許されることではない。だから、狂っているというのである。

 日本人の「お人よし」という一面、これはある意味では世界に誇れる「人間性」でもあるが、それは詐欺師にとって絶好のターゲットでもある。今や、「上」から「下」まで詐欺、ウソが当然の行為であるがごとく、それについてとやかく言う方が不自然であるかのような様相さえ呈している。この「お人よし」が高齢化すると「救世主症候群」、すなわち誰かを助けたい、誰かの役に立ちたいという願望が強くなるようである。そのような人々は、「私を助けると思ってどうか一票入れて下さい」と土下座までされればどのようなろくでもない「政治屋」でも受け入れてしまう人々でもある。人々に支持されているのではなく、人々を騙しているだけの者たち、それは、確かに、反吐が出そうになるような「軽さ」である。騙された方も、騙されたことに気付くのはまだよい方で、残念ながら、身ぐるみはがされても自分は人を助けたと「思いたがっている」のが実情のようでもある。詐欺師たちの阿漕(あこぎ)、「軽さ」にいつまでも付き合っているから、自ら現人神気取りになっているような「人間」を作り出してしまうのである。

 

                                  2017 5/20

115.「成蹊学園同窓生有志が声明文を出した」

以下2017年5月15日(月)に出された声明文の全文を載せる。

成蹊大学後輩一同声明文

1977年度成蹊大学法学部政治学科卒業生、安倍晋三さん

私たち成蹊大学後輩一同は、あなたの安全保障関連法案における、学問を愚弄し、民主主義を否定する態度に怒りを覚え、また政治学を学んだとはにわかに信じがたい無知さに同窓生として恥ずかしさ禁じえません。

日本国憲法に、集団的自衛権の行使を基礎づける条文が存在しないことを、私たちは成蹊大学で学んでいます。

憲法を、時の総理大臣が自らを責任者と称し解釈で改憲することは、法の支配に反する行為であると、私たちは成蹊大学で学んでいます。

日本国憲法は、アメリカによって押し付けられた恥ずかしいものではなく、日本国民が自ら選び取り70年間維持してきたものだと、私たちは成蹊大学で学んでいます。

そして、私たち成蹊大学生は、憲法学を机上の空論などと考え学者の意見を軽視することなどはせず、学問が蓄積してきた知識を大切にしています。

あなたは、本当に成蹊大学で学ばれたのでしょうか。

知っていますか。就職活動の際、自己紹介で母校の名前を答えると「ああ、安倍晋三のね」と冷笑されることを。その冷笑に含まれる意味を考えてみてください。

安倍晋三さん、あなたは成蹊大学の誇りなどではなく、ただその無知で不遜な振る舞いによって、私たちの大学の名誉と伝統に泥を塗っているのです。

私たち成蹊大学生は、先輩・安倍晋三さんの立憲主義を否定する態度に反対し、安全保障関連法案の廃案を求めます。

 

以上が声明文の全文であるが、成蹊大学の真摯な学生であれば当然であろうと思われる。また、このような声明文が出されない限り成蹊大学と安倍晋三の言動をどこかでリンクさせてしまうというのも大方の実情であり、否定できないことでもある。今は「私は安倍ではない」と言わない限り、世界では日本人といえば安倍と同一視してしまうのも避けられないのと同様である。そこでは「他に適当な人がいなかった」だけなどという言い逃れは通用しないのである。そのような怯懦で怠惰な積み重ねがこのような事態を必然的に招いたということは否定しがたい現状の問題でもあろう。

 

                                2017 5/17

114.つれづれに、一言で片付ければ(4)ー9件ー

〇高齢者の怒りについて、不快感を表すコメントが多いが、あまりにも手前勝手な言動は別にしてこのような社会情勢では弱者である者の不満、抗議も高まるのは当然でもあろう。精神分析などの個的な問題だけに集約するのも滑稽である。

                                                                                                                              5/16

〇「記憶にありません」、最近では詐欺師と同一視されるような言葉になってしまった。

                                   5/14

 〇中川八洋も道を誤った一人であろう。宇宙工学でもやっていた方がもう少し世のためになっていたであろうと思われる。よくもまあこれだけ時事的な売れ線狙いの本を書いたものだと感心しているが、少し書いているものを読めばこの書き手がどこら辺をウロウロしているかはすぐに見えてくる。アベ批判は大方が推測し得る範囲であるが、勢い余ってか、プロパガンダ的志向が強すぎるのか あいつは北朝鮮人だから、こいつは朝鮮人とのハーフだとか、問題の核心部分とは無関係な到底普遍化できぬ事柄の提示が多すぎる。はたして本人自身が書いている内容をどこまでわかっているのか、検証、吟味しているかさえ不明である。辛うじて筑波大学名誉教授の肩書で読まれているのであろうが、そうでなくとも、つい「だから?」、「それで、何が言いたいのか?」と聞きたくなる内容である。ところどころ「もっともなところ」もあるが、総じて「観念の弄び」が多すぎる。そして大したことを言っているわけでもないのに妙にペダンチックなところも鼻につく。少なくとも研究者ならネットのおバカがやっているようなことをせずもう少し内容を深めて普遍化するべきであろう。もし「文が人なり」であるなら、この御仁が作ったロケットなどは蛇行ばかりしてはたして飛ぶかどうか、それすら危ぶまれる。

                                                                                                                 2017 5/12ー

                                                                                                         

〇どこかで聞いたこのある題名も知らない曲で、ふいと口ずさんでしまった。面白いものである。最後がかなり変調気味で上がっていた。

義もない 徳もない

花もない 実もない

そんな集まりで

何を話すか 阿漕(あこぎ)の衆は

聞けばやっぱり

義もない 徳もない

花もない 実もない

おためごかしー

                                2017 5/10                      

 

〇「ゲームチェンジャー」

「指向性エネルギー兵器」の開発が着々と進められているようだ。

「レールガン」、「高出力レザー兵器」、「電磁パルス兵器」等々。特に「電磁パルス兵器」などはその内に、「能動的」平和主義に立脚した「平和」を世界にもたらしたとして「ノーベル平和賞」(?)、「ノーベル『科学技術賞』」(?)を同時に受賞するのではないかとさえ思われる。コストも非常に安く、ミサイル迎撃用としても一発あたり1ドル程度というから軍需産業にとっては果たしてどうなのかとも思われる。もっとも基本的には「いたちごっこ」の無益な消耗であることに変わりはない。しかし、「人間」にとっては、その「能力」を有意義に活用し、未来をより良く展開するというただそれだけのことがとてつもなく不得手なのであろうと思われる。破壊と再興を繰り返すのが「歴史」などとしたり顔で捉えているとこの先どこまで行けるかさえ大いに疑問であるという現状を見誤る。もはや「再興」するには人知を超えている要因がさまざまなところで現れ過ぎているのである。

                                                                                                                    2017 5/4

 

〇「亡国内閣」というのが一番妥当であろうか。さらに言えば、「亡国千三内閣」、言っていることに千に三つも本当の事があるかどうかということである。「食」についても、「文化」についても、「経済」、「平和」、この国の誇れるものをすべてを破壊し尽くすであろう者たちである。「やっていること」すべてがそうなのである。何かにつけ「日本」「日本人」を持ち出すどこぞの痴れ者と同一レベルになることは避けたいが、この「亡国千三内閣」については、とても同じ日本人とは思えないのである。わざわざ日本のよき領域を切り崩しているのであるから、見れども見えず、「亡者」必衰の理がそこにはある。

 

〇禿頭(トクトウ)の バトルゲームに 桜散り 

 何を見ているのか、見れども見えずか。その一事が見えれば 万事はそれとなく知れる。

「平和ボケしたタカ派の空論」、「義」もない、「徳」もない世迷言 あるのは姑息な計算ばかり

そして、いつものように野太鼓たちと走狗作家たちは音程の狂ったラッパを吹き鳴らす

何もそれに合わせて、無理に歌う必要もない、踊る必要もない

安っぽくお膳立てされたものに 感動するな

自らが見出しえたものに心を動かせ

 

〇「日本会議」、おかしな名称である。世界的にも珍奇な名称であろう。アメリカで「アメリカ会議」、フランスで「フランス会議」、ドイツで「ドイツ会議」、そんな組織など存在しようがあるまい。「日本人の日本人による日本人のための会議」というのであえば多少なりともその姿が見えてくるが、それは排他的な民族主義の集団ということである。そうであるなら「日本人会議」とでもすればいいものを「日本会議」として多少なりとも普遍性を持たせようとしているのであろうが、この名称には、その組織の曖昧さ、特殊性がよくでている。その構成概要は、アメリカが第2次大戦後マフィアを利用、再構成して作り上げたという諸利権確保のために動いた新生マフィアにも似て、そのメンバーも、坊主、神主、無定見な政治屋から大中小の企業主までと階層は広範囲であるが、今のところマフィアほどの結束力はない。言ってみれば、「日本」という「お題目」でまとめられたカルト的利害融通忖度集団といったところか。その内実の一部はすでに白日の下にさらされている。今後、この「日本会議」のメンバーであるかどうかが人物評定の目安になることは否めないので、また潜行する可能性もあるだろう。

〇「敵地攻撃論」?とうとうここまで血迷ったかというところである。軍事の専門家でも「敵地攻撃論」などは「平和ボケしたタカ派の空論」と見なしている。こんな平和ボケしたような自民党のタカ派が集って検討チームを作っていること自体が危ういのである。タカ派などとは勇ましいが大方が武器産業関係者といったところであろう。こんな軍事のド素人チームが一歩間違えば取り返しのつかない破局に向けて緻密な検討もなく「恐怖の印象」だけを煽って動けば神風頼りの無謀な行動とならざるを得ない。すべては外交能力がないことの証左である。商売も駆け引きも「話し合い」も未熟過ぎてできないのである。こんな未成熟な者との心中は避けたい。

                                2017 4/8ー

113.いつまでも風に吹かれていると

 いつまでも風に吹かれていると、脳細胞の働きが低下し、問題のポイントがズレてくるようだ。

 当時の「風」はそのような「風」であったと、機を見るに敏であった人々は言う。しかし、「風」談義で事は収まるはずもない。その「風」とは何か、自然界では一般に気圧の高低差がなければ風は起こらないが、それが人間の所業一般となればどこでも起こり得るがやはり高低差がなければ起こり得ない。要するに社会的に力を持っている者から下方向への流れである。どのような詭弁を使おうともその「高い」位置で発するものはすべて「風」となるのである。すなわち「風」を作っているのである。その張本人が肝心なことは知らぬ存ぜぬ、話のすり替えばかりでは、これは一大事なのである。人目を盗んで、知らぬうちに何をするかわからない前代未聞の元凶を一番風上の奥の殿に居座らせているようなものである。その元凶とは周知のとおり、アベ シンゾウである。

 戦後、日本政府が正式に排除、失効を決議した「教育勅語」の問題にしても、現憲法を遵守する方向でこられた天皇に対しても失礼であろうと思われる。私がもし正統派右翼であったなら、このアベ シンゾウがあたかも自らが天皇にでもなった気で、天皇の気持ちも無視して、しだらに繰りかえす反憲法で抜かれた答弁自体が許せるものではなかったであろう。もっともこれは左翼だ右翼だなどと括る稚拙な作業の次元の問題をとうに通り越していて、赤だの黒だのと仕分けに終始する幼稚なレベルの問題でもない。

 

                                                                                                                              2017 3/30

112.つれづれに、一言で片付ければ(3)ー7件ー

〇忖度(そんたく)政治に、幇間(ほうかん)外交、子供だましの印象・情報操作、空疎な「めくらまし」ばかりであった。その目くらましが過ぎて自分もその目くらましにかかる。自業自得の不徳のなせる応報である。すべての言動が独裁志向の者に特有のものであったが、その命運も尽きた。今後は何をやっても無駄であろう。やればやるほど墓穴が大きくなるだけである。支持率の上昇とは、墓穴のカモフラージュと同時に、それが実情であるなら支持者の墓穴ともなるということであろう。

※最近、訳のわからぬ怪しげな世論調査が頻繁に行われている。2000人程度の、それも回答率70%を下回る意見を「世論」とされても何の意味もないが、印象・情報効果としては大きい。それも誘導尋問のような操作を行っていることも容易に納得できる。驚くほど「すべて」が印象・情報操作だけに腐心する者に特有の言動である。簡潔に言えば、「すべて」において国民不在なのである。国民とはだます対象に過ぎず、いかにだますかが最大関心事であるようだ。「詐欺師」の最大手ということか。

 

〇森友問題、「ウソつき」、「詐欺師」たちが寄ってたかって面倒な相手を「大ウソつき」と言う。ウソつきが「大ウソつき」と言うのだから、そこには大きな真実があるということにもなる。トカゲのしっぽに向かって「大ウソつき」とウソつきが言うのであるから、これは話にもならないが、ただならぬ問題があるということの証左でもある。

※敢えて言うまでもなく、「ウソつき」が終始一貫ウソをつくことも、正直者が常に正直であるということもないのは言わずもがな。それは我々が即自的にありようがない対自存在であることからくることでもある。ここで言っているのは「ある事柄」に関連して欺瞞に満ちた言動をしている者が同様のことに関して相手に向かって「それはウソである」といっているような場合を言っているのである。そこには簡単に収めようがない看過できないものがあるということである。

 反証できないことを根拠に、「それは事実ではない」ということはできないのである。アベ君たちもそのくらいはわかりなさいよ。

 

〇しかし、石原の百条委員会での対応は醜悪の極、「ほとぼり」外遊中のアベとそのお仲間と同格。大問題が起これば肝心のところはすべてこの調子であることを庶民は心しておくべき。要するに、責任は取らないのである。政治屋たちの批判にもなっていないイチャモンには、よく「邪道」、「〇〇劇場」云々などが出てくるがどの面さげての「ご意見」かと思われる。つい、おつむの具合は大丈夫かと聞きたくもなるが、こんなのが世の中にはびこっているのであるから常に問題が起きるのは当然であろう。そして、「知らない内」に「共謀罪」の閣議決定である。大方は、明日は我が身の火の粉とも知れで・・・

 

〇要するに、これは民主主義政治とその反体制政権であるアベ政権との戦いでもある。この政権がその気になって憲法のみならず「アメリカの押し付け」を嫌い、独り歩きを始めればやがてはアメリカにつぶされるのである。それがいつもの筋書きであろう。このアベ反体制政権の「親米」はさらに質のよくない「反米」を常に隠し持っているから尚更である。その点については世界視野ではすでに確認済みであろう。やはり知らない、知らされていないというのはバカを見るだけである。編集されたテレビ、新聞、雑誌等の受け売りだけではもはや通用も対応もできまい。

 

〇「森友学園問題」について、「問題が広がり過ぎているようで」などという見解が何気なく出てきているようであるが「広がり過ぎて」困るのは誰なのかを考えれば、その「もっともらしさ」も手に取るようにわかる。どのような些細なことでも重大な問題を含むものは「広がり過ぎる」ということはなく、人為的作為、操作で押しとどめることはできない。

〇「私の記憶に基づきますと、お会いしたという認識はありません。」、これは現行犯逮捕されない限り白を切りとおす者の参考ともなるものであろう。たとえ、物的証拠が出てきても「私の記憶に基づきますと、やったという認識がありません」とでもなるのであろう。これでは精神疾患、認知症の世界である。目的のためには手段を選ばぬ、責任能力もない者が「重要な位置」にいるという悲劇。そう、概して目的のために手段を選ばぬ者とは責任能力が欠如しているか、責任回避能力が図抜けている。

〇WBC、こちらは○○億円プレイヤー、あちらは○○○億円プレイヤー、それは国際見本市である。

                              2017 3/15ー3/24

111.仮面、またの名をペルソナ

 お笑いタレントが仮面を片手に難しい顔をしている写真があったが、何とも滑稽であった。その写真は、仮面を取ったほんとうの俺はこうなんだとでも言いたげであったが、仮面の怖さを知らないのであろう。結論から言えば、仮面を取ったからといって「本体」が現れるわけではなく、現れるのは「新たな」仮面である。それを「本体」と思うのは錯覚で、行き着くところには何もない。また、仮面をうまく着脱して世の中を渡り歩いているようでも仮面を取り外しているつもりになっているだけで、仮面は外れていないとうより仮面そのものが顔と一体化してしまっているか、または仮面の下の仮面を自分の「本体」と思い込んでいることもある。

 凡夫は安易に「仮面」にたよることより「直面(ひためん)」(素顔のまま)で、言い換えれば、誠実に生きることを考えるべきである。自分が何者かであるがごとくに錯覚した時点で仮面に振り回されることになる。それは見るも哀れなものである。

 選び取った仮面は、その時点でその人間の「すべて」であると同時に無である。仮面とは別に「自分の本体」などというものを実体としてとらえることはできない以上、その仮面と異なる「本体」は想定はできても措定することはできない。せいぜい他人には絶対に監視できない「箇所」と言うほどの意味しかもたない「部位」が唯一「自分の本体」と思い込めるものでもあろう。

 

                                 2017 2/25

 

110.つれづれに、一言で片付ければ (2)ー2件ー

〇 「一般市民」というのはどういう状態の市民なのか?どうも昨今の動きを見ていると、それは「無信仰」、「無思想」、「無定見」、「無関心」等々の「資質」をそなえ、尚且つ自己主張、意思表示をしない、何があっても現状に従順な者とでもいうところであろうか。そんな状態では、少なくとも「市民」の概念としてある国政に参加するする地位にある自律的、自発的な国民などということとはほど遠く、とても近代自由主義、民主主義の担い手などといえるものではない。

 しかし、オリンピックを開くには「共謀罪」を成立させなくてとは恐れ入谷の鬼子母神。やはり「ポスト・トゥルースの政治」と言わざるを得まい。将軍様には鬼子母神でもついているのであろう。この鬼子母神、日本では安産、保育の神として信仰されているが、もともとは鬼女である。先祖返りはいつでも起こり得るのが自然界、いわんや人間界をやである。鬼女は人食うためならどんな嘘でもつくものである。

                                  2017 2/18

・・・・・

〇「こちらは東京の世論調査センターです・・・」という電話に「怖くなった」、「あやしい」と思った人たちがいるようだが、そのとおりであろう。他人に聞くまでもないこと、その感覚が正しいのである。支持政党、どの立候補者に投票するかまで聞かれたそうだが、そんなことは余計なお世話だと切ってしまえばいいだけのことである。答える必要はまったくない。こんなのは世論調査にかこつけた意識調査で、今後手を変え品を変え身近に迫ってくるであろう。どことどうつながっているかわかったものではない。こんなものにいちいち丁寧に答えているから「オレオレ系の詐欺」にすぐに引っかかるのである。

                                  2017 2/20

・・・・・                                

109.つれづれに、一言で片付ければ (1)ー7件ー

〇三島由紀夫は、明治以降の新興田舎貴族の過剰な意識の成れの果て、一方、三島が嫌う太宰治は、没落すべき由緒ある豪族の末裔の当然の道行き。両者とも特に好きな作家ではないが、当然「作家」と言いうる「切り口」、「切れ味」は持っていいる。

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〇 擬態語、擬声語の多用を嫌ったのは三島であるが、擬態語、擬声語を見事に血肉化させ香り立たせたのは宮沢賢治である。「人間」の成熟度、仏教的智慧の体現化、冷徹な現状認識においても宮沢賢治は時を経て今なお息づいているものがある。

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〇 「さよならだけが人生さ」と言えば、「さよならだけが人生なら、そんな人生いりません」と寺山が言う。「いらない」からといってどこかに行けるわけでもなく会者定離は避けられない。それではどうするか、「さよなら」が常に問題になる世界からおさらばするしかあるまい。それは、死か、新たな世界観の創出、さもなければ根底からの自己変革の道ということになる。

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〇 大島渚もうまく使ったものだと感心するのは「戦場のメリークリスマス」のタケシである。タケシの稚拙な演技が、日本兵の愚かしい在りようを実にリアルに浮き上がらせている。タケシ自身は演技をしているわけではなくほぼそのままであろう。あれが「すべて」(原点であると同時に到達点)で、実際その後もほとんどあらたな展開はない。お笑い芸人としてももうすでに死に体である。その内、文化勲章でももらうのであろうか。しかし、お笑い芸人、なぜか年とともに顔つきが醜悪になっていく者が多い。もう少し考えた方がよかろう。見ているだけで笑えないのではお笑い芸人とも言えず、仕方なしに笑われる、お情けで笑われているようではもう終わりなのである。それすらわからない体ではお笑いなどやる資格もない。

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 〇 そもそも「お笑い芸人」などとは、総じて「国家公認の一億総白痴化推進委員」のメンバーとして見てさしつかいあるまい。攻撃対象は常に他愛もない「八つぁん、熊さん」の類、そして肝心なことをいかに素早く中和させ、印象に残らないようにさせるか、一日が、一年が、一生が事もなげに終わったように見せかけるか、それはそのまま一億総無知化につながっている。悲惨な状況からいかに目をそらさせるかという国家的にも重要な役割を担っているのである。彼らは自由気ままにふるまい、言いたいことを言っているように見えるであろうが、そのような「装い」で各自の現実を中和させ、茶化し、あたかもそのような現実はないかのごとくの「錯覚」に持っていくのである。したがって、作られた彼らとの同調回路がいつの間にか出来上がってしまうと、実際に現実に何が起こっているのかもわからず、周りにつられて笑っているいる内に突然自分の最期にみまわれることにもなりかねないということである。

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〇 「南スーダンで自衛隊に死傷者が出たら、首相を辞任する覚悟だ」

「首相を辞任する覚悟だ」と言っているだけで、辞任するとは言っていないのである。この「人間」の今までの言動から察すれば、死傷者が出れば出たで「亡くなった(方たち)のためにも、真に責任を取るという意味でも首相という職務を全うしたいと思い、辞任を思いとどまりました」とでも言うのであろう。何もかもがこの調子である。福島原発事故は今なお進行中で、メルトスルー(溶融貫通)で超高温のデブリ(溶融燃料)が地下水に達していれば放射性物質の拡散はとても人間の手に負えるものではない。福島原発は世界的に見ても前例のない事故の状態であるにもかかわらず「アンダーコントロールされている」と言った人間である。30年40年で廃炉など夢のまた夢、何百年続くか何千年続くかそれすら不明というのが実情であろう。これで再稼働、つい「ソドムとゴモラ」を連想してしまう。この国は人間などには手に負えぬものによって全滅させられるのかもしれぬ。こんな人間たちの一語一語を真に受けていたら、我々はすぐに絶滅危惧種の仲間入りである。

 

・・・・・

〇 テレビに常に出ている者が、「テレビじゃ言えない」ことを書いて本を出す。それだけ言いたいことが蓄積されるのもよくわかるし、テレビでは確かに言えないこともあるのであろう。しかし、煎じ詰めればその「在り方」自体が問題なのである。いくらでも「皮肉」、「毒舌」が言える立場にあるものが効果のある肝心な場所でもっともらしく自主規制していては話にならないのである。逆にそこまで自主規制しなくては成り立たなくなっているという現状も見えてくるが、それにしても、それでは「あれは上の意向(命令)でやったこと、実は俺は違うと思っていたがどうしようもなかった。それ以上やれば俺がつぶされる」と言い出す者たちと大して変わるところはあるまい。実は何を考えていたかなどはどうでもいいことで、自らの「在り様」が問題なのである。現状のお笑い芸人の「在り様」では、「構造的」に「一億総白痴化推進員」の「お墨付き」の枠を抜け出すのは何をやっても100%不可能であろう。「退職後」何かやろうと思ってもその時には以前の思いは消えているのと同様、やってきたことが「すべて」でそれ以外には実のところ何もないのである。もっともあるような振りをするのは自由だが、それも公認の「一億総中和論説委員」といった役どころが待っているだけであろう。

 この「テレビじゃ言えない」ことは、単なるゴッシプでも「ハっさん熊さん」が対象の裏話でもないようなのでまだ救われてはいるが、この程度のことさえテレビでは言えなくなっているのである。不自由な国になったものである。また、最近では、万人が弱きをくじき、強きを助けるという、映画などでは必要不可欠な悪の権化みたいなことを地で行っているのであるから何ともだらしない風潮になってきたものである。人間性の失墜、堕落といってもいい。

 

                                2017 2/1ー2/4ー2/8

108.「風に吹かれて」、「風立ちぬ」・・・

 風に吹かれて・・・、風立ちぬ・・・などなど、そんな言葉を紡ぎ出している時、一体どのような風が吹いていたのか?あるいはイメージしていたのか?と思うことがある。まさか身を突き刺すような北風ではあるまい。そんな風の中では「歌う」どころか「生きよう」などと改めて奮起される思いなど一瞬たりとも去来することはあるまい。そのような「風に吹かれて」出てくるものといえば、自分の置かれた位置、あり方に対する呪詛に近い反芻だけか、そうでなければ自身の生命力に託した挑戦的な気迫だけであろう。だから、聞きたくなるのである、君が吹かれていた風は?と、それは西風かそれとも東風なのか?そんなことはどうでもよいこと一陣の風にひらめきのようなものを感じただけなのであると言われれれば、それはそれまでのことであるが、私は学生時代からそこら辺に何か「生ぬるさ」を感じて、その手の歌も詩も小説に対してもあまり接することはなかった。しかし、人生には妙な巡り合わせもあるもので、その「生ぬるい」ものに接する機会ができて、というよりそれこそ風に流されていつのまにかそのような事態になって、その生ぬるい世界を自分の中に取り込んでみようということになった。その時初めて「一般社会」で自分の「好き」なものとして一応通るものが形作られたような気がする。それは飽くまで自分自身にとって拒否するほどのものではない、嫌いではないという程度でしかないものなのである。

 

                                2017 1/25

107.「Blowin' in the wind」 Bob Dylan

 私の好きなシンガーソングライターでもあったので、昔は機会があるとよく原語で歌ってもいた。最近、確認の意味で和訳をみてみたが、中にはひどいものもある。一般的に詩というものは特に難解な単語、言語構成がない限り中学、高校程度の者でも訳せるものが多いのだが、実はそこに大きな陥穽がある。ボブ・デュランの歌詞も平易で訳しやすそうだが、もろに訳した者の深浅、器量が表われる。例えば、「How many roads must a man walk down」の「a man」を「男」と訳していたり、「The answer,my friend ,is blowin' in the wond」「The answer is blowin' in the wind」の箇所を「その答えは 風に吹かれて 誰もつかめない」などと「意訳」しているが、これは歌詞全体を貧相にする以外何の効果もない。むしろ、歌詞を台無しにしているのである。これでは作者も浮かばれまい。ボブ・デュランは、その答えは風の中に「ある」といっているのである。「誰もつかめない」などということを言いたいがために綴った言葉ではない。それは観ようとする者に「揺らぎ」として、聞こうとする者には音としてとらえられるといっているのである。目を澄ませ、耳を澄ませといっているのである。「友よ、答えは風に吹かれて 風に吹かれている」これはまた別の訳者のものであるがせいぜいこれくらいにしておいてもらいたいものである。この訳者は「a man」を「人」として訳していたが、当然であろう。21歳のボブ・デュランが全身で感じ止めた世界である。そこには齢ばかりを重ねた未成熟な大人では到底感じ取れない直観的な世界が広がっている。腐り行く大人の三文小説風解釈では折角の結晶体に強酸を注ぎ込むようなものである。これは罪悪である。詩をほんとうに「意訳」できるのは博識な詩人だけである。

 因みに、ボブ・デュランのノーベル賞受賞に関するマスメディアの騒音についてはまったく興味はない。そのことについては以前このサイトでも取り上げた。<(655 )2016 10/14付け>

 

                                  2017 1/4

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