両忘の時‐ある日、その時‐

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46.「上達法」などで「上達」した例はない

 いわゆるハウツーものである「上達法」などというコンセプトで展開されたものでほんとうに上達した者など見たことも聞いたこともない。真底のところでわかっていないのでダイナミックな発展そのものがあり得ず、コツだけは覚えて小器用にこなしはするがそれもそれまでで、どうしても「似て非なるもの」の域を脱することができないのである。それは展開不能の小路から袋小路に至る過程といってもよい。結局のところ「急がば回れ」ということを思い知らされるだけなのであるが、その頃にはそれまでに身に付いた「コツ」そのものが展開を阻害し、余程の者でない限り切り返す作業はさらに難しくなってくる。そして、多くはそのまま地滑り状態のままただ続行するしかなくなるのである。要するに、「うまい話」などは存在しないということなのである。簡便に手に入れたものはやはりそれ以上には実を結ばず、ただ時と共に劣化するだけである。「ほんもの」というのはやはり常に様々な光を放ち、時にはいぶし銀のようにもなるが劣化することはない。当然のことながら、それは小手先・技術だけの「ハウツー」世界とはあまりにもかけ離れているのである。

 ほんとうの「上達者」が「上達法」などというハウツーものを書いた例も知らないが、「上達法」を教えるという話も聞いたことがない。おおよそ「あり得ぬ話」が世の中ではまかり通っているようである。

 

                                              2013 10/6

45.「世界の街角」のかしましき者たち

 正確な題は忘れたが、世界の街を大人が散歩するというようなコンセプトの番組であったと思う。暫く観ていたがそこに出てくる女子が何ともかまびすしい。こういう番組は映像とナレーションで十分であろう。ヨーロッパの街角の映像の中にラーメン、お好み焼きの食べ歩きが似合いそうな女子がアーティキュレーションもままならない金属性の高音部の声でまくしたてる会話は単なるノイズでしかなく、女子の存在そのものまでがノイズに見えてくる。有名無名は知らぬがどういうつもりでこのような女子を出演させているのか製作者の神経を疑わざるを得なくなるのである。「大人の散歩」などというコンセプトがあるのであれば尚更である。それとも日本の「大人」とはこの程度のものなのか、少なくとも製作サイドにはそのような意識があるのであろう。若い女を2,3人はべらせておけば何とか間は持つという安易な発想である。どこまでもバライティーショーのノリが抜け切れないとみえる。いつまでもそんなパラダイムにしがみついていたのでは先はない。分からないのであれば大衆に媚びずに、すなわち大衆を馬鹿にせず真面目に普通に作ったらどうか。こういう番組は基本的に映像とナレーションだけで繋いでいけば後は観客の想像力である。製作サイドがキャスティングしたかしましき者たちの登場はまったく必要ない。それは観客の想像力を阻害することにしかならないからである。

                                                    2013 9/22

 


 

44. 覚悟のない戯言

 寝言、戯言は逆上乱心の表れでもあり、とかく覚悟のできていない者に現れるものでもある。覚悟とは、不可知ではあるが自らの行く末、方向を定め、誰に頼ることもなく責任を取ることである。言ってみれば自らの死に場所を「絞る」作業であると同時にそれを全面的に肯定し得るものを常に「創造」しているかが否応なく問われるところでもある。

 世に「名前」と「顔」だけは知られているらしい者達のビッグマウス、大言壮語が己の無知さ加減を露呈しているに過ぎないということによく出くわすが、どうも本人達は気付いていないらしい。もっとも気が付くほどの器量を持ち合わせていたら聞きかじった程度の空疎な内容を恥ずかしげもなく開陳できるものではない。大衆をコケにしていかに喜ぶかということが「上から下まで」共通認識として出来上がってしまっているようで如何ともし難いが、そうかといってそれに対していつまでも手をこまねいているわけにもいかない.彼らのご開陳の多くは歯牙にかけるのもばかばかしいものが多いが、無思慮なビックマウスは中身のないものをあるがごとくに「繰り返す」ことにかけてはお手の物なのである。そこが問題になるというのも「上から下まで」共通のようである。何においても大衆におもねる大衆迎合路線とは実は大衆蔑視の裏返しであるなどということを今更敢えて言う必要もないが、言わざるを得なくなるのが昨今の事情でもある。

                                                 2013 8/18

 

                                           

43.モデル、タレントなどに舞台依頼をする愚

 舞台は、その人間の実力が全人格的にすべてさらけ出されてしまう場でもあり、商業演劇といわれているものですら労多くして功少なし、特に日本では労が多い割に金にもならず報われることが少ないものである。本来の役者とはそうしたことを経てきた者達のことをいうのであるが、なかなかできるものではない。要するに片手間にできるものではないのである。モデル、タレントなどの所属事務所などというのも束ねている者が元不動産屋であったり,居酒屋兼業であったりと様々で文化・芸能などとは縁もゆかりない者達も多く、金にはならない時間は取られる舞台などはできるだけ避けたいというのが本音である。また当の本人自身も楽して目立って稼ぎたいというのではとても密度の濃い作品などできる訳がないのである。そんな「芸能人」が何かの拍子に「目立つ」映画、テレビドラマなどに出たりするものだから監督などがいくら細工を施してもよく観ればそこだけ「学芸会」のようなシーンとなってしまっていることがよくある。そのような者たちが単にスケジュール的に間が空いてしまったからという理由だけで舞台に出て来た時もそうである。観客の方も作品を観に来ているというより、どのように稚拙な演技であってもその人間の生身の姿を観られることだけに喜びを見出しているという具合であるから何とも「異様な」舞台となる。どのようなもっともらしい理由を並べ立てても稽古にもろくに出られない者が舞台に上がる資格はない。現状ではとても欧米の役者群のレベルの高さ、その質と層の厚さ、舞台空間の密度とは比較にならないのもよく頷ける。

 以前、本木雅弘出演の「女中たち」(ジャン・ジュネ作 渡邊守章 演出)の舞台を観る羽目になったことがある。あまり乗り気にはなれなかったのはジャニーズ系の者がジュネの作品などをやるとは無謀と思えたからである。製作意図が見え透いていている上に稽古時間も取れない者が「女中たち」などをやって幕が開くのか、途中で台詞がもつれて逃げ出すのではないかくらいにしか思っていなかった。しかし、彼は最後までやり通した。役者としては当たり前のことなのであるが、役者として鍛錬されていない、稽古にも出られない者ができる作品ではないのである。演技等の巧拙は別にしてよくやり通したと感心したものである。その後、本木はいわゆるジャニーズ系とは別の道で彼の「持てるものを開花」させたのは周知の事実である。一般的にも、タレント、モデルなどや、「本物」の舞台に立ったこともない、そのような意識すらない「俳優」などに演技の深まりようがないという例は枚挙に暇がない。あまりにもすべてにおいて安易で、1級のものが成り立つ土壌がほとんどないというのが日本の一つの明確な実情でもある。

                                                    2013 8/7

 

42.吹き替え版外国映画の虫唾の走り方

 吹き替え版は極力観ないようにしているが、それでも観る破目になることがある。それが以前観た映画であればあまりのイメージの違いに驚きあきれることがよくある。 日本の「声優」といわれている者全員がそうだとはいわないが、総じて酷い。シーンによっては稀に何の抵抗感もなく日本語が入ってくることがあるがそのような時はそれなりの俳優が「声の出演」をしていることが多い。それでもやがて他の「声優」によってその世界が壊されてしまうのである。試しに映像を観ないで声だけ聴いてみるとよい。英国のロイヤル・シェイクスピア劇団、フランスのコメディー・フランセーズの俳優の例を出すまでもなく、海外の才能もあり、俳優としても徹底的に鍛えられた者達が命がけで作り出す世界に言語的にも壁のある日本語の声だけで入り込むのである。日本で俳優としても「正当に」鍛えられていない者が想像力の欠如としか言いようのない感情過多の濁った台詞回しですべて押し切ろうとすればそれだけで作品に対して違和感を感じ始め、結果的には作品の「格」を落としているというよりリメイクが失敗した同名の「日本映画」を観ているようになる。

 それから、奇妙な声を売り物にしているアニメの「声優」もアニメの世界だけにしてほしいものである。要するに根本的に「作り」が違うのである。1級の俳優に入り込めるのは1級の俳優かそれに匹敵する器量を持つ者だけである。いわゆる「声優」ではない。

 最後に、字幕で微妙なニュアンスを含め全て伝えることは至難の業。それは不可能かもしれないが、それでも外国映画は字幕でやるべきである。それが作品、俳優に対する最低のエチケットである。

 ※「刑事コロンボ」のピーター・フォークの吹き替えをやっている小池朝雄は刑事コロンボが小池朝雄と同一化していると思われるほど日本では定評がある。それでも原語では悪声といってもよいピーター・フォークの一定しない声とあの風貌とが相まって作り出される「不器用」な「誠実さ」とも言うべきものが小池朝雄のある意味では「作られた」どこかに余裕さえ感じる安定した声が与えるイメージとは異質なのである。

                                                    2013 7/19

41.継続は力にあらず

 「継続は力なり」とは時折耳にする言葉であるが、継続の意味の捉え方によってはかなり違った意味合いにもなる。もし、継続自体が目的化した場合、継続が力になるどころか継続行為そのもが他の自由な展開を阻止し始める。それは、「繰り返される行為」によって質の矮小化変容をもたらし、いつしか有機体全体を損なう「腐食剤」を合成するかのようである。「継続は力なり」の英訳は「Practice makes perfect」ということらしいが、「継続」というコンセプトと「Practice」というコンセプトはつながりようがない。もしそれを明確に関連付るとするなら哲学的小論文程度の説明が必要となるだろう。日々の「実践的鍛錬」が結果として継続的になされた場合一つのものを作り上げるであろうというのであればある程度理解もできるが、それでもその「実践的行為」が止むに止まれない行為なのか、飽くまで努力の領域にあるものなのかによっても違ってくる。努力とは作為であり作為には限界がある。現実的に多く見られる「継続」とは一過性の作為的「努力」の後に続く「惰性」であるといっても過言ではない。そこには瞬時に変転する新たな発見もなく「更新」もない。少なくとも「更新」のない「継続」とは単に脅迫観念に駆られて「続行」を余儀なくされた「衰退過程」という意味以上のものを持ち得ない。実際に、「継続は力なり」と思い込んでいる者に対して「継続」そのものにしがみつく妄執を感じてしまうのはそうした事情によるのであろう。それは趣のないあわれさと不誠実さを併せ持つ。時と場合によっては潔く捨て去ることも必要なのである。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということもある。

                                                  2013 6/29

40.「CIA 、 軍部、 政府の陰謀を暴いていくドラマです。」

 これは「HOME LAND」という米国連続「テレビドラマ」の出演者が直接視聴者に向かって語ったことであるが、この作品は批評家にも高く評価され2011年ゴールデングローブ賞も受賞している。日本ではこのような内容の作品はテレビドラマのレベルでまず登場することはあり得ない。映画上演なども不可能で、企画にも上ってこないであろう。今、現実に起こった問題を題材に日本の首相とCIAの駆け引き、陰謀を扱った映画を一体誰が撮れるというか、やはり「<竹光>文化」と「<本身>文化」との違いである。さらに言えば「お子様文化」と「大人の文化」程の差があるともいえる。閉塞空間の中で微細なことを取り上げては何かあるがごとくに拡大化してはみるが、大方がとどのつまりは型どおりの類型的な対応で情に棹さし事足れりとする方向に進む。日本ではそうした「ちまちまとしたもの」しか目に入ってこないのもそのようなことに起因するのであろう。「ちまちましたもの」とはあってもなくてもどうでもよいもの、僅かな印象としてもまったく脳裏にその痕跡を残さないものということである。常態化した閉塞感の共有認識を追尾するだけでは何ものをも生み出し得ないという証左でもある。

 待合室などでたまたま手にする週刊誌などの内容も至る所閉塞空間でのネタ切れ状態という様相である。言ってみれば、どうでもいいことにしか手が出せないことからくる陳腐なネタの精製・加工作業を見ているようなのである。これはある意味では自主規制でもある。言論の自由、表現の自由と言いつつ実質的に自主規制に長けた国、すわち言論、表現が統制された国というものが存在するならそれは民主主義国家とは言えまい。自由な発信者としてしか意義がない芸術領域に身を置くものでさえ今や自主規制という「毒」が全身に回っているのではないかという思われるのが実情である。況やそうでない者達は尚更であろう。「空気を読む、読まない」などという姑息な手段が賢さの証でもあるかのような風潮もその一つの流れである。

 閉塞感の共有認識を追尾するだけでは何ものをも生み出さないというのは、「閉塞感の共有認識」によって生きる「辛抱強さ」が多少なりとも得られたにしてもそれと同時に生そのものに対する「放棄」が「アキラメ」という形でどこかに忍び込んでくるからである。忍耐強さの真の力は、それと分からずに何もかも背負い込むことではなく、事の次第を「明らめて」その重さに耐えることである。その違いはその先に具体的な「道」が見えてくるかこないかで分かる。今まで「ちまちましたもの」としか言いようのないものが常にどちらに寄与していたかは明らかで、それは「肝心なもの」が抜け落ちているということからくるのである。言い換えれば「肝心なもの」が抜け落ちているから「ちまちましたもの」にしか成りようがないのである。そして、人はそのようなちまちました「核のない造形物」よって容易に欺かれるのである。「核のない造形物」とは実際には一瞬たりとも在り様がない「無」そのものでもある。

 今後も日本のアメリカ追随は限りもないことであろう。いっそのこと行く着くところまで行ってみてはどうかとさえ思える。「アメリカ合衆国日本州」、それが日本の現状のあからさまな実情認識である。そしてそこからのほんとうの「独立」がどのようなものになるのか。そのような時間を経て日本がどのように自己認識していくかによって日本の文化的営為も真に変わり始めるのかもしれない。

 

                                                          2013 5/6

39.「絵空事ではない実人生の叫び」?

 毎年招待状と一緒にくる演劇祭のパンフレットの中に、ある演目の解説として「絵空事ではない実人生の叫びが発露したもの」というのがあったが、指示内容が不鮮明なのでつい気になってしまった。要するに分かったような分からないような内容なのである。「嘘」ではない「現実」の「実際」の人生の叫びが湧き上がったものとでも言いたいのであろうが、それが何とも危ういのである。人生の中に敢えて「(実)人生」を措定する以上「(虚)人生」というものの領域もあるのであろうがそこら辺の明確な説明がない。あらゆるアートは「絵空事」を免れない「虚」であると同時に「真実」を語り得る、あるいは「真実」の波動を伝えるものでもある。「現実」の「実際」の人生から直接「叫び」などは生じない、そこにあるのは「呻吟」だけである。それは人生が過酷であればあるほどそうであろう。「絵空事ではない実人生の叫び」などはたとえあり得たとしてもそれが「真実」というには不充分である。現代社会が必然的に抱え込む「歪み」、すなわち「貧困」、「格差」、「ホモセクシュアル」、「レズビアン」、「ドラッグ」etc,そのような状況の中で「歪み」を背負わざるを得なくなってしまった者達の「叫び」というのであれば少しは具体的に見えてはくるが「実人生の叫び」だけでは何も見えてこないのである。「実人生」などというものが人生の片隅で真実顔で存在し得るものではないからである。

                                                  2013 4/23

38.何度でも亡びる覚悟が必要

 ある真摯な芝居創りを目指すグループが宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」から「職業芸術家は一度は亡びねばならぬ」という言葉を出して生き方そのものの変革を通して演劇創りを全的に捉え直そうとする試みをしている。このような試みには私は賛辞を惜しまない。

 賢治のいう「職業芸術家」とは「本質的なるもの」とはおよそ縁がなくなりつつある多くは今流行りの売文業者、美術「屋」、音楽「屋」などの「〇〇屋」と称されるべき類のものが該当するのであろうが、「職業芸術家」に限らず内的必然性に突き動かせれている「芸術家」であるなら、そして誠実であればあるほど「亡びの時」は直感的に把握し得るものであろう。それはそれまで積み重ねてきたすべてを根底から覆さざるを得ない時でもある。あたかも観念論、唯物論の「呪縛」との対峙を経て、さらに「百尺竿頭一歩を進む」(竿の先の頂点からさらに一歩を進み出る)がごときである。要するに「完成の時」は存在しないのである。「完成の時」はあってなきに等しいものである。言い果せて何かある、やり果せて何かあるなのである。そのことによって実際何が本質的に変わり得たというのか、現に同じ過ちは性懲りもなく繰り返されているのである。それでは各々の進むべき一歩はいかに導き出されるのか、それはやはり各自の問いかけの固有の「密度」の中にしか見い出せない。「職業芸術家」のみならず今や万人が否応なく程度の差こそあれ何度でも亡びることを強いられているのである。世界はその方向に軋みつつ回転し始めている。

 チェルノブイリ、3・11は前世紀から今世紀にかけて未だに解決方法の道筋すら見いだせない「ペスト」である。それはもはや「死」そのものでもあり、見ようが見まいが、忘れようが忘れまいが現前と人間の時空を超えて存在し、影響を与え続けるのである。

                                                   2013 2・28                                

 

 

37. 定常宇宙論にまどろむ人々    平山勝

 ご存知のように定常宇宙論、すなわち宇宙は大局的に定常にあるという宇宙論はビッグバン宇宙論の根拠として宇宙背景放射が発見されて以来今では否定されている宇宙論である。それは我々が住む地球を含めた太陽系も永遠ではなくそのバランスの崩壊はいずれやってくるということでもある。天の川星雲とアンドロメダ星雲の衝突は避けられず、その時地球はどのようになっているのか明確な予測も立たないのが実情である。月も地球もその存在さえ覚束ない。太陽もエネルギーの枯渇とともに膨張し始め地球を飲み込むとされている。そのはるか以前に地球上の生命体は絶滅しているであろうが、もし人間が宇宙における唯一の知的生命体であるならその時点から宇宙は自己認識されることもなく宇宙法則だけが存在することになる。

 私もホーキングのようにビッグバン以前に創造者、すなわち「神」がその存在者として入り込む隙はないと思っている。そして当然「天国」なども存在し得ないと思っている。だから、「神」も「天国」も想定しない領域から浮かび上がってくるものをだけを拠り所に今を生きている。宗教もこうした科学者の提示に答えらないものは少なくとも私には問題外なのである。たとえば仏教についは、いつ釈尊が「天国」について語ったかということでもある。「霊魂」についても同様やはり「語り得ぬもの」については語らなかっただけである。「方便」も過ぎれば「騙り」になる。本来の仏教思想は合理的なものも兼ね備えているのである。

 定常宇宙論にまどろんでいた人々は、月の消滅、地球の消滅、太陽の膨張が必ず訪れるという科学的帰結がはっきりしている現在でもなおどこかで太陽系は不滅であると思っていることであろう。科学的視座から見ればそれは「信仰」というよりもはや「盲信」であろうが、エルサレムが無であると同時にすべてであるように今尚人々を突き動かして止まないものでもある。それは日本においても同様である。科学者にとって、一つの解明はさらに未知なるものの存在を明らかにするものでもある。その未知なるものを「神の手」と称することもあろうが、それは限りない探究心が引き起こす人知では計り知れないものに対する畏敬と敬愛の念でもある。自然現象に対する共振、畏敬と敬愛という心の在り様は純粋に科学的対象とはなりにくいがそのような精神的営為そのものをも宗教の領域として捉えれば「宗教なき科学は不完全」となることも納得できる。もしそこで「宗教」が不在であるなら今度は科学を絶対的なものとして「信仰」する姿勢そのものが問題となってくる。それはアプローチそのものを目的化、神格化することでもあり、唯一宇宙における自己認識が可能と成り得る人間の「全人格」を形成する一部が欠落することにもなるからである。と同時に「科学なき宗教は盲目」なのであり、科学的視座からの照射に耐えられぬ宗教はやはり展開のしようのない単なる思い込みの世界となり、真実、真理とはかけ離れてくる。

 今、依って立っていたすべてが根底から覆され、その地平は激しく揺れ動いている。地球の中心も無重力の奇怪なところである。そんなことを気にして日々生きることはできないが、宇宙の世界の様相を明確に把握して生きるのと訳も分からず生きるのとでは生き方の質が違ってくる。限られた時間にどこまで見届けられるかそれがすべてである。ホーキングもそうであろう。なぜなら、実はそれ以外に我々のやれることはないからである。

                                                 2013 1/6

 

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