両忘の時‐ある日、その時‐

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36. 人類は知性のピークも過ぎて      平山勝

 最近つくづくと思うことは、アインシュタインではないが人間の愚かさが無限であるということである。一説には人類の知性は2000年以上も前にピークを過ぎているという。ということはそれ以後の人間のすべての営為は衰え始めた知性に基づいて築き上げられたことになる。下降の一途を辿る知性が常に的外れなものしか獲得できないのであれば今後もその愚かさだけは際限もなく続くことになる。そして、それが歴史的に見ても現状を見ても妥当なこととしか思えないから怖い。人類の知性はすでに2000年以上も前にピークを過ぎているということが一説ということでは済まされないのである。またそのような危機感を持っていないと人類の愚かさだけは拡大し、やがて最悪の事態を招きかねないということでもあろう。

 派手な文明の利器をもてあそび人間の知性が実質的に後退しているにも拘らず無限であるがごとく思い込んでいると、とんでもない陥穽に落ち入る。

                                                                                                                                                                                        2012 12/6

35.乱調も諧調も共に美しい

 私がもし真摯であるなら、そうでないことが「美しく」ないと思っているからに過ぎない。そいう意味では乱調も諧調も共に美しいのである。

34. 不可解な名称

 世の中には不可解な名称が多々あるものである。一見わかりやすそうな「みんなの〇〇」などもその一例であろう。親しみを込めた細工が施されてはいるが実際には「みんな」とは「実体」としても、「実態」としても把握しにくい曖昧模糊としたものである。この場合の「みんな」とは「すべて」ではあり得ないにもかかわらず暗にその意もそこに含ませているが、結局のところ、現実的には「みんな」とは一部の限られたものということでしかなくなっているのである。

 民主政治を真に築き上げることはある意味で「重い」。「みんなの政治」とは民主政治の置き換えでもあるが、言語的にいくら「軽く」したところで内容は何も変わりはしないのである。むしろ今後ますます各自の思考・判断が問われることの方が多いと言う意味では「重い」のである。それを「軽い」乗りで行こうというのであれば大きな陥穽、死角が生じることは否めない。「軽く」できないものを「軽く」捉えることの功罪、危険性も考えなくてはならない。

 例えば、「みんなの意見」とは実質的には「限られた意見」と言った方が適切であり、「みんなの党」とは「みんなの」が「民主」に置き換えられれば「民主党」ということにもなる。このようなことをさらに敷衍させれば「維新の会」などという名称も、そもそも「維新」とは現実的に完了した状態を示す言葉でもあり、それがそのまま置き換われば「政治体制が一新され改まった」会ということになる。ということは現状は半歩も進むどころか後退しているにもかかわらずもうすでにこの会は「出来上がっている」のである。何をどのような方向で具体的に「一新するのか」、「目指している」のか、何が「出来上がっているのか」皆目見当がつかないいい例である。これは今までの言動検証から見れば巧妙かつ変節可動性が大で、かなり危険な兆候を示しているとも言える。

 事程左様に言葉の手品は際限もなくある。少なくともその「実態」が見えない言葉、見えなくしている言葉に対しては注意が必要であろう。それはどのような緻密な言説を構築しても要するに「無」であるからである。「無」にすがっても溺れることは防げない、沈みかかった船の中で訴えることはもっと具体的であるはずである。このような状況で「将来一般」を語るなどは言葉に酔い痴れた「痴れ者」というしかあるまい。

                                                  2012 11/4

 

33. 時には、選りすぐりの幸福があることを教えてやるのも・・・

Il est bon d'apprendre quelquefois aux heureux de ce monde,ne fût- ce que pour humilier un instant leur sot orgueil,qu'il est des bonheurs supérieurs au leur,plus vastes et plus raffinés.

                                                                                                                                   -Baudelaire-

                                                                                                                            2012 11/3

32. 「お笑い」芸人とイケメン「俳優」

 いつ頃からか、日本の「お笑い」芸人を見ていると存在すること自体に不快感を催すことの方が多くなった。まったく笑えないのである。笑えないお笑い芸人、それが日本のお笑い芸人である。

一方のイケメン「俳優」は内外共通で一部の例外を除いて、何をしてもホストにしか見えず,どんな役をやらせてもまったくリアリティがない。

 両者に共通しているNGの主なる原因は、その容貌の美醜にたより過ぎること、すべてにおいてその行動様式そのものが精神的深化の道筋を阻んでいることなどが挙げられる。自己を究めるより追い求めるのは女の尻、男の尻ばかりといった風情が滲みでているのである。もっともこれは「お笑い」芸人とイケメン「俳優」に限られたことではないがそれが特に際立ってしまうということである。日本の文化レベルに対する「安手」、「安易」というのが「目利き」ばかりではなく大方の共通認識となっていることについては今更多言を要さない。

 その時受ければいいなどという発想そのものが先のない泡沫であることの証左である。今やテレビに出て泡沫であろうと何であろうと顔が売れればいいなどという痛々しいまでの安易な考えはまったく意味をなさなくなりつつある。むしろ細部にわたってチェックされマイナス要因を作ることの方が多くなるだろう。それはいくら志向してももはや「大衆のおもちゃ」にもなりえないというより大衆自身が粗雑な「おもちゃ」に飽き、見限っているからである。

 

                                                    2012 10/13

31. 外国映画の日本語吹き替え版は罪悪

 最近、外国映画を観る機会が多く、また改めて日本語吹き替え版のひどさを見せつけられた。2,30年程前までは声優というよりそれなりの俳優が吹き替えをやっていて原語よりさらに違った面白い味わいさえ感じられるものが少なからずあったが、今では全くと言っていいほどない。自分で選択可能なものに関しては日本語吹き替え版は観ないが否応なく観せられる時は実際に映画に出演している役者がかわいそうになってくる。一体どういうことになっているのかと思う反面、憤りさえ感じてくるのである。一級の作品さえ日本語の吹き替えで見るも無残な三流映画にしているのである。これは明らかに芸術に対する冒涜でしかない。

 外国語になじむ意味でも、作品から伝わってくる真意を感じ取る意味でも日本語吹き替え版は薦めない。しかしながら訳文も意訳し過ぎてどうかなと思う時もあるが吹き替えほどの拒否反応は起こさない。簡潔に収めなくてはならない字幕空間に「私の自宅に云々」はないだろうと思うようなものもあるが,役柄に合わない肌触りのよくない声優の声質とその役作りの浅薄さに椅子に深く沈み込むことはない。

 

                                                   2012 8/26

<追記>

× 感情過多で何を言っているのか聞き取れないものが多過ぎる。役者の勉強を根本からやり直した方がいい。本来、声優などというものは俳優と完全に独立しては成立し得ない仕事である。

30. 危うい「メンタルケア」業界

 耳目を引く派手な広告でさも何かをやっているような内容であるが、その内容たるや簡便、軽薄過ぎてお世辞にも褒められたものではない。中には「日本国が公的に認める学術団体に相当する」などというのをキャッチ・フレーズにして「客」集めに余念のない団体もあるが、そのようなところで認定されたところで専門の学術研究員になれるわけでもなく、その資格自体が何らかの形で利用されたにしてもその内容が実効的なものとして現実的に機能したわけでもない。言ってみればお手軽な「満足感」以外には何も残るものがない類のものである。やはりほんとうにその道でやるのであれば最低4年生大学卒業後、大学院の修士、できれば海外の大学で学ぶのが本筋であろうが、その時間もお金もはないものがついつい手を出したくなるような設定になっているのがこの「メンタルケア業界」一般である。たとえ安易ではあってもそれで自分を見直す視点を得られるというのであれば、それすら現実的にはあり得ないと思うが、それはそれでよしとするしかない程度のものなのである。私が10数年所属している「日本カウンセリング学会」などは地味で時間もかかるが、やはり内容的には研究者として正当な道筋であろうと思われる。そこでも認定資格は得られるが私のように二足三足の草鞋をはいている者にはなかなか時間がとれないが、私自身はそれで納得している。実際に現場でその理論と実践を確認することもできた。しかし、空疎なものに限って「お上」のお墨付きを求めるのはどこの世界も同じであるようである。分かり切ったことをまた敢えて言えば、現在のメンタルケアビジネス業界が実際に為していること、為し得ることは単なる「御用学者」と称される者達の追随以上のものではありようもなく、いくら学術研究などといったところで決して新たな求心力を秘めたを展開などはその可能性の片鱗としても見ることは不可能であろう。少なくとも知的好奇心に溢れた者にとっては不充分であると同時に危険でもあり時間の浪費でしかない。ただし、金儲けしか頭にないものは別である。

                                                2012 8/1

29. マイケル・キートンがピエール・ノットの芝居に重なって   平山勝

 ピエール・ノットはフランスの劇作家であり、俳優・演出家でもあるが、日本ではあまり一般的ではないので知らない方も多いであろう。(彼については私のブログにも何回となく登場しているので詳しくはその項目を参照していただきたい) 最近、何気なく観ていた少し前の映画でマイケル・キートンの演技的質がピール・ノットに実によく似ているなと思いながらついその映画を最期まで観てしまった。容貌もどことなく似ているのでシーンによってはピエール本人がやっているようにさえ思えた。作品自体の「軽るみ」と「切り込み方」という点では、ピール・ノット作品の方がより強く軽やかさの中に感覚的な鋭さをもっていると思われるが、その他の点、特に演技面では共通するものを多く持っているように思われた。マイケル・キートンの演技はフランスで観たピエールの演技とも重なり、また意外な発見もあったりといろいろな意味で楽しませてくれた。マイケル・キートンはピエール・ノット作品に出演しても面白いだろう。

※ここで話題にしているのは、もちろん「バットマン」(マイケル・キートン主演)ではない。

                                                   2012 7/3

28. わが町ー高円寺ー 平山勝

 私が高校生の頃、我が家は新築のため取り壊されたが、その時、門柱に張り付いていた金属片に「杉並村高円寺原」とあった。麻布から高円寺に移ってきたのは大正期か昭和初期であろうが、その時点で2,30年は経過していただろう思われるその建物は明治か大正時代のものであろう。終戦直後、高円寺の駅から徒歩で10分ほどのところにある我が家から高円寺駅見えたほど辺りは焼け野原で何もなかったらしい。今では想像もつかないが、それは二階建ての木造家屋がポツンと焼け残り、高円寺駅を見渡していた恰好になるのである。父は高円寺にも荻窪にもかなりの土地を持っていたが終戦直後のどさくさの中で失い、あるいは手放してしまった。

 環状7号線のど真ん中で、時々来る車を避けながら雪合戦をしていたのが小学生の頃で、あれからすでに40年以上が経っている。祖父母の代から数えれば彼此100年以上のお付き合いになるのが高円寺である。どのような路地を歩いていても子供の頃の思いがその場所に瞬時に再現されて時々息苦しくもなった頃もあったが、今では私の高円寺の風景の多くは跡形もなく消えている。友が訪れればいつも決まって頼んでいた65年の高円寺では老舗の鰻店も最近消え、半世紀以上は経つであろう威勢のいい八百屋もいつの間にか店を閉めていた。たまたま高円寺で知り合った人々の多くも次から次へと亡くなって行った。時が経つとはこういうことかという思いが一入の昨今である。映画「Always 三丁目の夕日」にも高円寺は登場してくるが、今ではその面影はほとんどない。過去は一瞬の深い溜息の直前にしか生きられないのだろう。今、往来から、また路上に張り出された飲み屋から聞こえてくるのは喃語、一語文、ジャーゴンの類である。とても入り込める領域ではない、また入り込むつもりも関わっている時間もない。

歩きながら、 ワイルダーの「わが町」の台詞が素直に過る。

                                                       2012 6/3

27.ミスキャストの多い MADE IN JAPAN

 貧乏劇団、金欠プロデューサーが担当する小・中劇場公演ならミスキャストは日常茶飯事、然もありなんでそれ程の問題にもならず後は引き受けた演出担当者がいかにその負をデフォルマシオンしつつ自分のあるいは近似の世界に引き寄せるかが問題になってくる。それが成功すれば今までにないユニークな世界を構築することも可能で、それも小中公演の楽しみ方の一つでもあるが、そのような危険なアヴァンチュールはあり得ない、また必要もないテレビドラマ、映画などであまりにも安易なキャスティングと安手の作りが多過ぎる。ある才能豊かな女性に言わせれば、それは「コソバユクなるような嘘っぽさ」なのである。これではますますテレビドラマ、邦画離れを増長させてしまうのは仕方のないことであろう。もはや守るものとて何もないにも拘らずアヴァンチュールを恐れるなどは論外であるが、そこまでせずとも成立し得るところで製作的な根本部分のブレ、演技の「深化」のまったく見えない役者、職安から連れてきたような軽便スタッフなど、そもそもが創作エリアにおおよそ無縁な者達が意思の疎通もなくいくら集まったところでろくなものができないのは道理なのである。これは演劇の世界だけのことではない。すべてにおいて日本ではミスキャスト、すなわちイミテーションMADE IN JAPANなのである。おそらく、口を開けて待っていることしかできない者達にはオリジナル(本物)は不要なのであろう。

 

                                                2012 4/3

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