両忘の時‐ある日、その時‐

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26.広津和郎 断想    平山勝

 ある日、「静かな落日」と題した作家・広津和郎の生き方を描いた劇団民藝の舞台を観ていた。以前、私が演出したピエール・ノットの作品に出演してもらった女優の仙北谷和子さんから観劇案内を戴いたのがきかっけであるが、この作家については以前から共鳴するものがあった。そして今、広津和郎を取り上げることは非常にタイムリーであると思われる。現在この国では検察問題も含め、どこの国のいつの時代の裁判かと思われるような、とても民主主義国家とは思えないような状態がまかり通っているからである。

 作家・広津和郎は、その後半の人生を松川事件の冤罪を晴らすために捧げることになるが、それは生物学者・山本宣治が、国会で孤塁を守り、いつかまた生物学の研究にいそしめる日々を願いながら命果てた(刺殺)その姿とどこか重なってくる。それは、見事とも言うべき私利私欲のなさと利他の精神である。かくあるのが知識人の知識人たる本来の所以なのであるが・・・。

 ※広津和郎の松川事件の裁判批判を載せ続けたのは「中央公論」であるが、今ではこのような月刊誌、週刊誌は皆無である。

                                 2012  2/20

                                                        

 

25.ジャック・デリダ断想          平山勝

 最近、昔読んだ本を手にする機会が多くなった。ジャック・デリダもその一人である。デリダの文章は「厳密に言えば翻訳不可能であり、またたとえフランス語で読んでも、これまでにデリダの諸テキストを遍歴した経験がなければ、ほとんど理解を拒むていのものである・・・」と翻訳者自身も言っているようなテキストで、本文に対する原注、訳注が本文の量程もある本である。しかしながら、彼がポスト構造主義の思想家と呼ばれようが何と呼ばれようが、何か引き付けられるものを持っているのは彼の哲学者としての、そこに至らざるを得なかった「必然性」が読み取れるからであろう。ややもすれば泥団を弄するがごとき青ざめた「解釈学」に陥る者が多い中で、「血流」を感じさせるのもそうした事情があるのではないかと思っている。グラマトロジー(文字及び読解につての論証)を取り上げる以上、泥団に塗れていては展開不可能となる。しかし、ここでまた改めて日本の学者の作り上げたこなれない漢語使用には辟易してしまうことがしばしばである。却って分かり難くしているのである。ふと、漱石あたりに言わせたらさぞかしこなれた生きた漢語が現れたのではないかとさえ思われるくらいである。「能記」、「所記」、これはソシュールで、デリダではないがその一般的な一例である。

                               

                                                      2012 1/31

 

24.J'existe ( foutez- moi la paix)

「J'existe ( foutez-  moi la paix)」「(ほっといてくれ) 私は存在している」と書かれたピール・ノットの芝居のはがき大の案内が本の間から出てきた。こんな時は何とはなしに連絡したくなるのが人情でもあるが、その題名を見ている内に2年程前の彼がまだコメディー・フランセーズの事務局長をしながら劇作をしていた時によく私のメールに入っていた言葉が思い出され、特に用事もなかったので連絡することはやめてしまった。どのような言葉かって、それは言えない。

 あの時はパリのメトロにも同じ絵柄の大きなポスターが貼ってあった。しかし今は、彼の上演禁止となった痛烈なジャーナリズム批判の芝居でもやりたくなるような心境でもあるが、一方のプロデューサーが許さないだろう。

                                                 2012 1/16

2011年11月ー<掲載内容>

<五叉路> 2011年11月より

20.マチルド・エチエンヌと中世の一隅に座す 21.「フラメンコ、この愛しきこころーフラメンコの精髄ー」 22.「愛の根も茎も葉も花も描いて」・・・ 23.「演出原理」?ー匿名ブログよりー

                                         (転載・複製厳禁)              

 


 

23.「演出原理」?ー匿名ブログよりー

 ツウィターすなわち「ノイズ」には危険と隣り合わせの面白さもあるが、訳のわからぬ匿名ブログというのは特例を除いて何をどのようなに言ってみても信用度に欠けるものがある。要するに無責任なのである。そのようなブログのひとつ「楽観的に絶望する」だか「絶望的に楽観する」だかの中で「演出原理」などと言う言葉が出てきたが、この書き手がそれをどう「思い込んでいる」かもその文章からは読み取れないが、そもそもそのようなものなどは存在しないと言った方がいいだろう。演出に「原理」などがあるなら演出家は何も思い悩むことはない。もし仮に「演出原理」などというものがあり得たとしても、それは「無」という「在り方」に近いものだろう。換言すれば、それは絶え間なく流動する現実に在り続けようとする演出家というものが否応なく背負わざるを得ない現実との葛藤、「切り取り」、「アプローチ」とも言える。それは「原理」などと言う形で実体的に捉え切れるものではない、そういう意味では本来的には「無」なのである。そして、それがないという作品は、実はその作品の出来不出来に拘わらず全くと言っていい程ない。巧拙は別としてどのような作品であろうとそれは必ず現れる。したがって、「演出原理」(?)の有無などを問うこと自体が無意味なのである。問うべきは演出者の根本的視座、世界観の「質」についてであろう。そして、要はそれに共感できるかできないか、理解できるかできないかということである。さらに現実的な領域まで踏み込めば、製作限界の中でどこまで演出者がその本来の世界観を損ねることなく展開できたかということも捉え切れると演出者も包み込んだ世界の状況(演劇状況も含め)が見えてくることもある。音楽、詩、小説などのように純粋結晶体として取り出すことが不可能な演劇にとって、そのような付随的なことは芸術領域とは別のこと無関係、単なる二義的な事象として簡単には片付けられない実際の製作過程で抜きにできない問題も含まれる。それは不純物の「比率」が他の芸術より高いということが演劇の「弱み」でもあり「強み」であるとも言えるスリリングな危険な面もあるということである。しかし、傑作などと称させる作品には必ずと言っていい程、この「不純物」が逆に「強み」として功を奏することが可能になったケースと言ってもいいものを持っている。もちろん、緻密な演出プランは不可欠である。しかし、実際に、気に入らないということでワンカットのために背景になる山全体の色をわずかの時間で変えてしまうことができた映画監督・衣笠貞之助の時代は遠い昔の話で、稽古にもろくに出てこない、能書きばかり多い三文役者を相手にしていたら三谷幸喜のCMではないが「あと2億あれば・・・」などと思ってしまうのが現実の、監督、演出者の嘘偽りのない心情でもあろう。そこではどのような緻密な演出プランも机上の空論となる。意味不明あるいは説明不足の「演出原理」なるものがたとえあったとしても、それを「緻密な演出プラン」としてして置き換えて考えたとしても三谷の呟き程度のことで解消できるレベルの問題なのである。それ以外の方法としては日本の演劇状況を根底から再構築するより手立てはない。そのような動きがないわけではないが当然のごとく遅々として進展していないというのが現状である。

 昔、映画評論家の淀川長治さんと言う方がいたが、彼はどのような作品も決してけなさなかった、もっともらしい批評を一切しない。それが若き日の私には物足りなく、彼のことを何とイイカゲンな評論家なのだろうと思っていた。しかし、彼は賢しらな言葉を吐く必要もないほど映画そのものを愛していたのであろう、1級作品はもちろんのこと、B級、C級作品の味わい方も知っていたのである。そして今、身近に見えることの一つに、多くの人々がカップヌードルやハンバーガーを食べながら音楽を聴きメールをするという生活リズムがある。それを見ていると、全てにおいて「味わう」ということ、「味わい方」が失われてしまったのではないかと思われることがよくある。その動きはただ回転速度だけは上がっているが一向に進展しない現状に合致している。これについて今さら是非を論ずるつもりもない。ただ、こんな風に回転速度ばかりを上げていては近い内に焼き切れるのではないかと心配している。

 「やっぱり、映画っていいですね!」と何を観てもそう言っていた「良い加減な」人達が次々と消えって行った。こういう自然に文化を育ててしまう「受信者」たちがいなくなって、偽物に慣らされて味覚も感覚も麻痺していることすら分からずに自分の口に合わないものをすべて排除しようとする者達だけではやはり文化一般がますます衰退していくのは目に見えている。より良き批評はなくてはならぬが、否定するにしても、肯定するにしてもあまりにも独りよがりな浅薄なものが多すぎるというのが実情である。真の批評は広範囲なかなりの知識量を必要とする。それも自己の中で深化されたものがないと説得力も求心力もなく、ただただ自己の浅薄愚劣な、あるいは小さく完結した世界観をもったいぶって表白したものに過ぎないものとなる。

                                                  2011 11/14

 

22.愛の根も茎も葉も花も描いて・・・   平山 勝

 何時だったか、入院中の映画監督・大島渚の「悲惨」な痛々しいまでの映像が映し出されて、何と残酷なことをするものだとまたテレビ関係者の節制のなさ、スタンスのなさを呪ったものだが、彼が「愛のコリーダ」に続く「愛の亡霊」という作品を作った時に「私はこの作品で愛の根も茎も葉も花も描いた」と言い切ったことを思い出した。原作者・中村糸子から送られてきた本「車屋儀三郎殺人事件」に感動したことがこの映画を作るきっかけとなったと大島自身も語っている。そして、その本とともに添えられていた原作者からの手紙には「『愛のコリーダ』をおつくりになった大島さんにはわかっていただけるでしょう。あの暗い明治の日本にも愛はあったのです。」と書かれてあったという。この作品は、実際にあった事件を題材にしている。この事件のあった近隣には長塚節も住んでいて、この事件を小説の題材にしようと思っていたらしいが、果たせずして夭折してしまったという曰く付の事件でもある。

 夢と現を浮遊する大島が妻に向かって呼びかけ、訴え続けるものは・・、「生ける精霊」は今那辺にありや・・・根か・・茎か・・葉か・・それとも花か・・・・・

 ※「愛の亡霊」(日仏合作) 1978年カンヌ映画祭最優秀監督賞

                                                2011  11/11

21.「フラメンコ、この愛しきこころーフラメンコの精髄ー」橋本ルシア著

      <書評>         音楽評論家・日本フラメンコ協会会長   濱田滋郎

 橋本ルシアさんの舞台は申し訳ないことにかなり以前一、二度観ただけだが、東京大学哲学科卒という異色の経歴を持つバイラオーラとして、活動を続けておいでとは認識していた。このたび上梓された、400ページに及ぶフラメンコ論「フラメンコ、この愛しきこころ」(副題「フラメンコの精髄」)を一読して、アーティストの余技などとはとても言えない、探究・文献渉猟の広さと深さに支えられた、しかもオリジナルな思考と洞察に満たされた所論が展開していくことに讃嘆をおぼえた。2003年、本書の原型となった論文「フラメンコ芸術の精髄」によって博士号を取得したとのことだが、文筆家としてもすでに一家をなした人の、論法に狂いなくしかも味わいに富む筆致である。章立ては、「”実践的”問いかけの意義」と題された序章につづき、1、フラメンコの語源について、2.ジプシー、3.フラメンコ以前ーアンダルシアに伝わる歌や踊りー4.フラメンコの歴史、5.フラメンコの実践論ーバイレから見たフラメンコの実践的本質ーと5つの章が設けられて、終章「残された問題」で締めくくる。

 どの章もそれぞれ熟読に値するものだが、第2章における、果たしてジプシー(注、この著者は昨今進められている「ロマ」への言い換えを断乎拒否するかのように「ジプシー」で通している)は日本に渡来しなかったのだろうか?というテーマにまつわる考察ほか「日本人とフラメンコ」を見究めるための新しい、かつ必要な視点が示されていることを特筆したい。また第3章において、フラメンコの基本をなす「ミの旋法」の原点に、古代ギリシャの悲劇の調べである「リノスの歌」を想定しているのは、傾聴すべき卓見に違いない。けっしてたんに思いつきの仮説として提出するのではなく、多くの資料を揃え、説得力充分の推論を繰りひろげているのである。

 そして、最も独創的で、読者を惹きつけるとともに深く考えさせる力に満ちているのが、第5章である。バイレの実践者であって初めて感じ、思い、かつ伝えることのできるものごとを、著者は語る。とりわけ、従来、不動の真理のように言われてきた「フラメンコはカンテが中心」「カンテが先」という考えにーカンテを深く尊重しながらもーあえて異を唱え、カンテとバイレの本質的な一体論、等価値論を述べるその語調には、うなずかざるを得ないものがこもっている。この書は冷静な分析の書というには熱すぎる底流を通わせており、そこが「フラメンコへの愛の書」たるゆえんで共感をそそるのだが、この第5章では底流が表面に噴出する趣で、いささかアグレッシヴにもなる。しかし、ジプシー魂、フラメンコ魂への果てしない愛情、「日本人の自分も共有できる」という自覚と喜びに支えられたこの名著が、今後長く大きな意義を保ちつづけるであろうことは疑いない。まるで演歌のようなこの本の題も、読後は真にふさわしいと思える。

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※この書籍については「エモーショナル・フラメンコ」などという匿名ブログでも取り上げていているが、これは濱田滋郎氏の書評と比較すれば一目瞭然であるが、この書籍自体を扱いかねているようなフラメンコ愛好者の消化不良な「感想」の域を出ないものである。その「感想」の中に出てくる「恣意的な云々」という言葉遣いも不適切というより核心部分が読み取れていないことの証左でしかないだろう。濱田氏も言っているように根拠となる「多くの資料」挙げて「想定」、推論尚且つ身を以て実践しつつ展開することを「恣意的」とは言わないのである。もしこれが「恣意的」であるなら、すべての「新たな視座」を持つ論文は成立しなくなる。根拠もなく勝手に「思いつき」で展開することを「恣意的」というのである。そういう意味では、まさにこの匿名ブログ自体が恣意的なのである。しかし、正体不明の無責任な匿名ブログにはこのような類の「噂のような批評」「批評のような噂」が実に多い。

 

 

20.マチルド・エチエンヌと中世の一隅に座す

 Mathilde Etienne(マチルド・エチエンヌ)は女優、ソプラノ歌手、演出家である。パリ国立音楽院で古楽を専攻。フランスの新しい世代を代表するバロック音楽のスペシャリストである。女優としても10本程の映画に出演している。その日、彼女は、ギリシャ、ルネッサンス、バロック時代の演技について話をしていた。彼女の均整のとれた豊満な肉体が作り出すS字曲線は一瞬にしてに当時の舞台を蘇らせた。女優である。話している時の彼女は演出者としての冷静な目になってはいるが存在が醸し出す独特の香りは、確かに演者のものである。それは知性に裏打ちされた感性のみが持ちうるエロスである。機会があれば是非出演してもらいたい女優のひとりになった。声もいい、フランス語の響きも、動きも滑らか、比較するのも憚られるがこのレベルにおいては日本の女優、特に彼女と同世代の女優はまったく思いつかないのである。

 最後に、彼女が中世フランス語の発音で詩の朗読をした時、確かに私は中世フランスの一隅に座していた。

                                     2011 11/10

                                                                

 


 

 

2009年4月ー  <掲載内容>

<五叉路> 2009年4月より

1.「俳諧師 藤田あけ烏氏」 2.ースペインー(1) 3.「ニコラ・バタイユ氏について」4.「星ルイス」5.「オーカッサンとニコレット」 6.「ピエール・ノット氏 7.「噂のような批評、批評のような噂」8.「対談 橋本ルシア氏」 9.「佐野碩について」 10.「フラメンコ、この愛しきこころーフラメンコの精髄ー」について 11. 「フランソワ・ラヴォー氏について」 12.ースペインーBuscando mi vida (2)  13.Il y a quelque temps   à Tokyo (6)  14.Buscando mi vida (3)  15.大道芸人 ギリヤーク尼ケ崎のこと 16.Buscando mi vida (4)その昔・・・17.私家版「アフォリズム」第1章 その1より  18.「天才は始原を求める」 19. ー非編年体的事々ーその1(1986年「ポトポトポトン・・・」、1980年俳優仲谷昇氏のこと、1989年「真夜中のサーカス」、2007年「私もカトリーヌ・ドヌーブ」)  2010 心に残る現代俳人  ,ー 芸術家の道なき道ー , 公益財団法人演劇人会議を退会する(7・11) Il y a quelque temps    (7)

 

 

                                                                                     (転載・複製厳禁)

ー非編年体的事々ーその1

 

                                                                    


 

ー公益財団法人演劇人会議を退会するー(7・11)


 

  この団体は鈴木忠志が理事長を務める団体で、2000年より密度の濃い舞台芸術を目指し展開してきた。日本の舞台芸術の様々な視点からの問題提起という点でも、海外でも観られぬ舞台の紹介という点でも意義深いものであったと思われる。しかし、未だに日本の演劇状況は総じて惨たんたるものである。もちろんそれは、創り手、制作、スタッフ、俳優、観客を含めたすべてのことを言っているのである。

 しかし、「3・11」以後、様々な分野で多くの者が根底から捉え直すことを余儀なくされることが頻繁に起こっている。「演劇」も例外ではない、今まで以上にさらに「演劇」そのものの存亡が明確に問われることにもなるだろう。「演劇」などは本来あってもなくてもどうでもいいものである。そのあってもなくてもどうでもいいものが、いかにどうでもよくない領域を占めているかを思い知る機会でもあるが、果たしてどうなることか。私が今この時期にこの会を退会したのは、もはやそこにいること自体に意義が見出し得なくなったこと、そして、それはある意味で現在の日本に於ける演劇制作そのものを見限ったということでもある。

                                                                                                                                                                2011 7/11

 


 

ー芸術家の道なき道ー


 

 野ざらしを心に 行く人なき道を歩み続けるのが芸術を志す者、あるいは芸術家の宿命であろう。それ以外の道はすべて外道と言ってもよい。伝統にしがみつくものを芸術家とは言わぬ、伝統を切り売りしている者を芸術家とは言わぬ。彼らは自らが伝統の主(あるじ)のつもりでいるが、実のところは伝統の僕(しもべ)と言うのがもっとも似つかわしく、それ以上のものではあり得ない。

 美に殉じることは多大の「生贄」を強いられるのである。要は、それに耐えられるか、耐えられないか、それだけのことである。

※野ざらし:  野に捨てられ、風雨にさらされて白くなった骨。特に頭骨、されこうべ。

                         2011 5/4                                                                                                                                                                                                             


2010年 心に残る現代俳人


 

 俳人・鳥居真里子さんにはいつか登場してもらおうと思いつつ今に至ってしまった。

 彼女の俳句には「棘」がある。そして、その棘の先は濡れている。それが彼女の俳句に魅せられる一つである。おそらく、彼女自身はそれを「棘」であるとは思ってはいないだろう。感性を拡げて生きることは並大抵のことではない。しかし、それが彼女の世界を羽ばたかせている。そこには凡庸な句には見られぬ閃きがある。彼女の「棘」が内に、あるいは外に向けられた時に見せる瑞々しさはやはり彼女独特のものである。その棘の刺し傷に差し込む光を自在に増幅、収斂させながら実体なきものから実体そのものよりはるかに豊かな質量を持つものを紡ぎだす手腕は凡夫のものではない。

天才は病院にをり黒蜥蜴

かたまりて蟻は軍艦恋ひにけり

ひるがおのお褥下がりしたような

満月に子宮を一つくれてやる

花魁の絵葉書ちりめんじゃこ零す

海底は水にかくれて合歓の花

魂にくちびるありて桃吸ひぬ

死神の指紋のような花びらよ

吾が身つねれば月光の花茗荷    

  

   ー鳥居真里子句集よりー                       

 (随時加筆)   

                                     

                                                                                                                                                       2010 11/11                                             

 


 

2007年「私もカトリーヌ・ドヌーブ」 作ピール・ノット 演出 平山勝


 

 終演後、フランソワ・ラヴォー氏(パリ大学名誉教授)は私のところまでわざわざ来て「素晴らしい、とてもよい舞台でした。」と言った。私がお礼を言っていると、ラヴォー氏の奥さんが、「フランソワがこんな風にほめることはめずらしいことで、こんなことはめったにないことです。」と言った。

 その時の、私としてはもうラヴォー氏の反応だけで充分であった。私の伝えたかったことが一番感じて欲しい人達の一人に確実に伝わったこと、(原作者のピール・ノットも来日していた)それだけで私にはこの舞台作品の意義ははかり知れないものとなった。もちろん、日本の観客の方々の中にもこの作品を様々な形で感じ取って、自らの歓びとしてくれた人たちはいた。

※フランソワ・ラヴォー氏はパリ大学の医学部教授であったが、当然のごとくフランスの文化・芸術についても非常に造詣が深く、典型的なフランスのインテリ層の人である。村上春樹などの小説もフランス版、英語版の出版されたすべてを読んでいる。私が渡仏した際、村上春樹についても少し話したことがあった。話が尽きない人とはこういう人のことを言うのである。

 

 

 


 

1989年 「真夜中のサーカス」


 

 「『真夜中のサーカス』は僕がこれまで観て来た中で最高の舞台でした。あの不思議な世界はいまだにぼくのこころの奥底に焼きつけられて息づいています。」

 これを書いた阿部礼司さん(声優ではない)は、早稲田大学の文学部を卒業してから、当時、塾講師をしながら、確か違うペンネームで本を書いていたが、どうしているのかと思う。今、私は、私の芝居を観に来て何らかのものを感じ取ってくれた人々に後押しされてここまで来てしまったのだというごく当たり前のことに感じ入っている。そして、こうしたことで自分のやってきたことについて改めて自己満足ではない自己確認をすることができることが嬉しい。

※「真夜中のサーカス」(翻案・作・演出 平山勝 1989年上演)。この作品は出演者からも再演の要望が強かった作品で、製作的にもかなりの黒字公演であった。原作はマルセメ・エーメの「壁抜け男」であるが、作・演出と言ってもいいくらいに翻案された舞台となった。その後、フランスでもこの作品を取り上げ舞台化して、確か日本公演もしたのではないかと思うが、残念ながらその舞台は観ていない。

 

                                           


1980年  ー俳優 仲谷昇氏のことー<「牝山羊が島の犯罪」>  


 

○1980年1月、「牝山羊が島の犯罪」(作 ウーゴ・ベッティ 演出 平山勝)の公演がアトリエ・フォンテーヌで行われた。この芝居に出演した仲谷昇は、当時テレビ朝日の「帝銀事件」(原作 松本清張)の主役の平沢貞通役で出演していたが、撮影の合間を縫って稽古に駆けつけ、劇団公演でもないプロデュース公演にも拘らず、舞台作りは皆でつくるものですよと、自宅まで稽古場として開放してくれたり、道具の搬入の際には道具運びまで手伝ってくれたりと、その本来の「演劇人」としての「凄み」をさりげなく見せつけてくれた。

 彼は、「テレビはアルバイト、舞台が中心です。」と言っていたが、そのテレビの方でも「帝銀事件」の平沢貞通役は好評を博していた。彼のような役者ばかりが結集していたある時期の「新劇」には多くの観るべき舞台があったに違いないと思える。三島由紀夫と共に文学座を脱退した中村伸郎も三島の死後、「授業」(作イヨネスコ)という不条理演劇を11年間に渡り毎週金曜日、渋谷のジャンジャンで上演し続けた。当時、私も何回となく観に行ったが、印象に残る舞台であった。昨今はこのような人々に出会うことは奇跡に近い。

 銀座の劇場辺りではなかったと思うが、「平山さん」と呼びかける声がする。見ると、そこには女性連れの仲谷さんがいた。ウーゴ・ベッティの舞台からすでに10数年が経っていた。連れの女性は女優のようでもあったが、すぐに思い当たった。彼女は、仲谷さんの自宅で稽古をしていた時に、2階にいた娘さんではないか、年齢的にも合う。それより何より今迄あまり見せることがなかった彼の穏やかな表情が焼き付いた。

 それが、彼と会った最後である。

 

30年以上も経った今でも、リュート奏者の つのだ たかし に作曲してもらった主題歌を口ずさむことがある。


1986年  ー阿部由利子さんのことー<「ポト・ポト・ポットン・・・」>


 

  ○「久しぶりに「芝居」を「みた」と感じました。一昨日、民芸のアーサーミラー作(サンシャイン劇場)の芝居をみましたが、お宅様の芝居が頭から最後まで離れずじまいでした。あんな感性が高く神経がいきづいている芝居は最近はなかった様に思います。もっともっとたくさんの人達に是非みていただければ・・・」<1986年「ポト・ポト・ポットン・・・」(作・演出 平山勝) タイニィ・アリス>

 この1通の葉書でその後も芝居の演出を続けてしまったと言っても過言ではなく、また、これを書いた画家阿部合成氏の夫人で阿部由利子さんという自らも創作活動していた人であるが少し前にお亡くなりになってしまったのでご冥福を祈るつもりで敢えて載せることにした。

 

※阿部合成  「修羅の画家」として針生一郎などに紹介されたり、梅原猛も「阿部合成と太宰治」などで取り上げている。太宰治とは青森時代から交友関係がある。

 

    

                                                                                        2010 8/15より(随時追加) 

 


 

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