両忘の時‐ある日、その時‐

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8. 対談「フラメンコ舞踊家 橋本ルシア氏に聞く」 第1回

 編集部では今回特にフラメンコ舞踊家 橋本ルシア氏に絞って様々なジャンルの方々の質問をまとめてインタビュアーが多方面の視点から質問をしていきます。舞踊家の日常的話題から実践的本質論まで何回かに分けて内容は多岐に渡ると思われます。

〇(編集部)

 最近、何か「語ることではなく、感じること」だとか「言葉じゃない、言葉が尽きるところ」みたいな,そんな文句で括っている割には饒舌な(おしゃべり好き)人達が多いように思われます。それも言葉ですから、やはり人間は言葉とは抜き差しならない関係にあるのだということを思い知らされますが、さて、そんな言葉をつかって「何か言った気」になったり、「分かった気」になるというのが何か幼稚なというか、胡散臭さを感じてしまうのですが、その点はどうでしょうか?

〇橋本(敬称略)

 そうですね、確かに多いですね。簡単に言ってしまえば、ごまかしですね。それは詩人たちの仕事も、小説家や、哲学者や、歴史家、etc要するに、言葉を使って死闘する人々の仕事の一切を否定する暴論です。彼らのすべての美しい仕事を全否定することになる。彼らの真実の言葉に共鳴して涙し、歓喜した経験が誰にもでもあるはずです。

〇(編集部)

  その通りですね。そういう経験がないという人はいないと思います。

〇 橋本  

 彼らの真実の言葉に共鳴するということは知性があるということを示しています。またそれが必要であるということを知らなくてはいけない。それができないのは知性を欠くものと言わざるをえません。「語ることではなく、云々」という物言いは、そういうことを語る者達の自己合理化的詭弁に過ぎず、彼らの語る言葉はまやかしであることを明確に示している。自己の愚かさを自己暴露しているに過ぎません。さらに言えばその語る言葉を信用してはならないということです。真実の言葉は、美しく、悲しく、喜ばしく、心に響き、涙がこぼれるものなのです。要は、その語る言葉が真実であるかどうかということに過ぎず、言葉か、そうでないかという議論は成立しない、ピントはずれの、考えることを放棄した、怠惰な者達の自己正当化に過ぎません。信ずるに足りない、にせものですね。そんなものは歯牙にもかけず、打ち捨てていくことです。ニセモノは所詮ニセモノ,その内に剥がれて朽ち果てます。

〇(編集部)

 橋本さんはフラメンコ舞踊がご専門ですが、今お話に出た問題について、フラメンコに具体的に絞った場合はどのような問題が生じてきますか?

〇橋本

 フラメンコに関して言えば、ギタリストや踊り手でそのようなことを主張するものがいるとすれば、彼等はカンテ(歌)が嫌いなのでしょう。なぜなら、カンテは言葉だからです。言葉を媒介、手段とするからです。へレスの片隅で、酔いつぶれたベッドの中で歌詞を作ったヒターノ故ルイス・デ・ラ・ピカなどの愛すべき仕事を全否定することなど誰ができますか。いえ、人間としてやってはいけないことなのです。しかし、カンタオール(歌い手)の中にもそういうことを言う人々がいます。「言葉で表せないから、歌うんだ。」と。そのことを数時間、何ページにもわたってしゃべり続ける人々もいる。しゃべっているではないか、語っているではないか、語れないから歌うというのにしゃべり続ける。その自己矛盾に気がつかない。これらは自己欺瞞であり、ニセモノということになります。本当に言葉で語れないなら、それについては一言もしゃべってはいけない。ただ沈黙すべきです。そして、ただ歌えとだけ言いたいですね。「語れないから、歌う」と言うことをしゃべり続ける愚かしさ。それはただ、信用できないの一言です。大体、こうしたことを言うのは2流のアーティストが多い。その奏でる音楽や、歌や、踊りは心に響かない。存在自体がニセモノ、自分の語ることの欺瞞に気がつかず、横柄に、傲慢に嘘をつきつつ生きているのだから、カタリと言われても仕方ないでしょう。ただ笑止としか言いようがありませんね。

 

〇(編集部)

 今、歌い手のことが出ましたが、踊り手はどうなんでしょうか? やはり同様ですか?

〇橋本

 「フラメンコは感じること」と安っぽい主張をする踊り手もいますが、感じることは、踊り一般、また音楽や歌一般、いやアルテ一般に重要なことであり、そのことだけではその踊りがフラメンコとしてよいということにはならない、そのような踊り手の場合は、大方フラメンコとしては価値のない、面白みのない踊りをすることが多いですね。また、身体性だけに依拠しているバイレ(踊り)も、テクニックはよいとしても、浅薄で深みがなく、表面的でつまらない。要するに心に響かない。「心技体」は相撲のことだけではないです。フラメンコのバイレもまず心。心は知性と感性により成立します。「知」なき感性は狭く、浅い。バカな女ほどかわいいなどという発想でバイレ(踊り)をバイラオーラ(踊り手)を見るなら少なくともフラメンコはおかど違い。言葉は生きる闘いの現場の只中で磨き、研ぎ澄まし、血肉をもつ言葉として追究し、育て、駆使すべきなのです。真実の言葉に支えられて、感極まって踊り、奏で、歌う、そうして初めて人の心に響くアルテ(芸術)となります。

〇(編集部)

 まだまだ、お聞きしたいしたいことがあるのですが、今回はこのテーマに絞って、最後にこのテーマのまとめというか、橋本さん自身もまだ言い足りない部分もあると思いますので、補足的な意味も含めてお願いします。

〇橋本

 そうですね、先ほども言いましたが、そのようなニセモノの議論にまきこまれるようなレベルの低い生き方はやめた方がいいということですね。知性は唾棄するべきものではない。それは感性を最高レベルに発揮することを保証します。本物の理性、知性をみがけば、より高度な高みと深みにアルテを導く感性が研ぎ澄まされる。薬などに頼らなくてもね。(笑い)そうならないのは要するにニセモノの知や言葉であるからです。低次元の言葉の行き交いが止み、真実の言葉が語り交わされるような時代に早くなってほしいと、心から思います。最後に、「血で書け」とニーチェも言っている。血で書かれた言葉は、心を激発します。語るのを止めてはならない。止めるべきは、真実ではないいいかげんなデタラメな言葉なのです。

    

 〇(編集部)

 今回,第1回対談としていくつかの質問を用意したのですが、その3分の1にも至りませんでした。残りは次回といたしますが、よろしいでしょうか?

〇橋本

 これ位がいいわね。これから踊りの練習ができるわ。

 〇(編集部) 

 近々リサイタルでも?

〇橋本

 いいえ、踊りの練習は毎日、どうも踊ってないとだめなのよ。どこに行ってもやってるわ。今のところ体も順調だし。

〇(編集部)

 このような企画で何か踊りの練習のお邪魔をしてしまったようですが。これからもまだまだ続きますので、くれぐれもよろしくお願いいたします。

                                  2009年8月

                                (「五叉路」編集部)

                                 (転載・複製厳禁)

 ※橋本ルシア氏のプロフィール等詳細については公式サイト参照

   

 

 

 


                                 

 

 

 

7. 発信地を持たぬ無責任な「噂のような批評」、「批評のような噂」・・・

 

 現在、インターネット上に飛び交う「批評まがいの情報」、「情報まがいの批評」には事欠かない。どれもこれもどこの誰だかも分からず、何を根拠にというより、それ以前の段階であきれかえってしまうものが多いのが実情であるが、それを検証もせず鵜呑みにして、知ったかぶって伝播させてしまうことの怖さを知らなくてはなるまい。要するにそれは「嘘八百を少ない労力で世に流布してしまうもっとも安易な手段である。」ということである。少なくとも、私は、「実名」のない、その人間のプロフィールが見えないようなブログの類はどんなに飾り立てようが全く信用しないことにしている。なぜなら、自分の「実名」も出せないようなそんな無責任な人間の言うことに振り回されることになるからである。ただし、内容について自分で検証できた「こと」、「部分」については別である。概して、マインド・コントロールを警戒している割にはそんなどこの馬の骨だか分かるぬ者に自分がまんまとコントロールされていることすら気がつかないと言うのが日常茶飯事である。相も変らぬ「御用メディア」の巧妙なマインドコントロールについては今更言うまでもないが、「実名」の出ている「評論」ですら危ういものが多いという時には、できる限り「自分の目」で観て、時には「自分の目」をも洗い直すくらいの強靭さを持っていないと、いつの間にかとんでもない所へ持って行かれてしまうということになる。「とんでもない所」とは、それは野田秀樹が言う「『匿名性』を使って、あやふやなものを、いつまでも創っている、この日本の文化状況」そのものでもある。そして、彼はそのためにも「演劇の現場を取り戻したい。『実名』で発信する世界に戻したい」と言う。それはオマール・ポラス(演出家、俳優)の「舞台の中心に戻ること」とも通底する。さらに、野田は「発信地がはっきりしないのである。これは恐ろしいことである。」とも言っている。どこの誰が言ったかも分からないまま、検証もなされず、そのもっともらしい嘘に振り回されいつの間にか崖っぷちに立たされている自分を想像してみるとよい。最後に、サラ・ケインが言っていることを挙げたいと思う。「大戦争の萌芽はつねに平和時の文明のなかにある、と私は本当に思っている」。

                                                                                                                                                                2009年7月

 

                                       

6. ピエール・ノット氏について   平山勝

  

1969年アミアン生まれ。

小説「ロザンフェルト夫人の唄」、「未解決の夜」など。その他写真入りの詩集三篇。

「私もカトリーヌ・ドヌーブ」は2005年ディアヌ=リュシアン=バリエール財団の演劇賞受賞。2005年8月ペピニエール劇場でジャン=クロード・コチアールの演出で初演され、2005年度私的劇場でのモリエール賞を受賞。作家会館主催のエクリチュール・アトリエの主幹。2005年アヴィニヨン演劇祭で国立演劇センターによる著作・批評の分析評論の主任。現在、世界最古の(旧王立、現国立)劇団コメデイ・フランセーズの事務局長。因みに、2009年度モリエール賞にもノミネートされている。

 現在、彼の作品はフランス国内はもとよりイギリス、ロシア、ドイツ、ブルガリア、ベルギー、イタリア、などで上演され読まれている。

本邦初演作品は2007年に「私もカトリーヌ・ドヌーブ」(2008年再演)に続き、2008年11月「背中にナイフ」、そして、2009年4月「ジェラール・フィリップへの愛ゆえに」、「北をめざす二人のおばさん」で4本目となる。日本での公演の演出は4作品とも平山勝が担当。

ーピエール・ノット氏からのメッセージ(抜粋) ー

ー日本での初演は私にとって何より重要で、私の友である演出家(平山勝)がどのような解釈を提示するか早く見たくてたまりません。ー

ピエール・ノット氏の来日は「私もカトリーヌ・ドヌーブ」以来今回で3度目となる。

 ピエール・ノット作品についてさらに一言付け加えるなら、一方では作品内容があまりにラディカルなためパリで上演中止になった作品もある作家である。(因みに、フランス在住の私の知人はその作品を「面白い」と言っていた。)日本では小.中公演で上演中止になるほどラディカルにインパクトを与える公演があるのだろうか、少なくとも昨今はお目にかかったことがない。そもそもそんな作品が上演されたことがあるのかも定かではない。そう言えば、モリエールもルイ14世から3回にわたり上演禁止を言い渡された作品があった。「Tartuffe」タルチュフである。

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上 ピール・ノット 新刊本

下「背中のナイフ」  下線部分 ー2008年11月、東京で平山勝の演出で上演ー

 

※関連事項 カテゴリ「メッセージ」参照

                                                                                                                                                          

                                                                                                                     (M・H)

5.「オーカッサンとニコレット」の上演

 「中世歌物語ーオーカッサンとニコレット」

 

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 上、下「オーカッサンとニコレット」   2008年5月

                            < シアターχ >

 

プロローグとエピローグ  ギィ・フォワシィ

演出  平山勝

 

 

<出演>

今井敦 高山春夫 桝谷裕 中野寿年 山崎哲史

山下清美 松苑ゆみ 土谷春陽 夕鶴みき 早坂佳子 岡崎ちか子 

平岩佐和子 打越麗子 遠藤綾野

       ・ 

マリー・ノット 真知子ラヴォー ピエール・ノット

制作 ギィ・フォワシーシアター

 

                                                                                                                

※こういう作品は、組織化されていないプロデュース公演などではなかなかできるものではないのであるが、シアターχでの終演後、「よくできた作品」(フランス文学 名誉教授)、「こういう作品には出演してみたいですね」(81プロデュース俳優)などという声も聞けた。

                                      

4.星ルイス (セント・ルイス)のこと     平山勝

 彼は、私が作・演出した「冬眠する男」(2001年)、「ジャンピング・ビーンズ」(2003年)の2本の芝居に出演している。2003年の芝居の終演後、地方巡演しようとルイスが言い出したので、そういうことなら、もう少し手直ししようと思っている内にルイスは逝ってしまった。この2作品とも彼の本領ともいうべきひょうひょうとした役柄であった。この頃には、彼は酒を飲めなくなっていたが、打ち合わせで会うときは、なぜかいつも飲み屋であった。時折あの伝説的な、紀伊国屋ホールの調光室まで観客が入ったというベケットの「ゴドーを待ちながら」(早野寿郎 演出)の話になった。そして、よく早野演出のこと、セントのことが話題に出た。彼は早野さんとは呼ばず早野先生と呼び、早野氏のことをほんとうに信頼し切っていた。私もベケットには早くから興味を持っていたが、どこでやるベケットも例外なく面白くなかった。いっそ掛け合い漫才風にやったらどうかと考えていた矢先なので、彼らが出演するという企画を見て、我が意を得たりという思いがしたのを今でも覚えている。そして、その公演は案の定「成功」した。

 「平山さん、ポニー(小型の馬)いらない?欲しければ持ってきてやる」と言っていたルイス。それから、いつだったか、高円寺の夏祭りに二人で歩き回ったこと。そうそう六本木も歩いた、しかしよく歩いたね。なんか昔、縁があったところを散策していたんじゃないかな、あの時は。

                                                                  

 毎年来ていたあなたが作った版画のある年賀状、いつ頃から来なくなったのか今思い返している。

 ※「セント・ルイス」は当時、西の「やすし・きよし」東の「セント・ルイス」と並び称された漫才師。

                                                        

 

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 2003年 「ジャンピング・ビーンズ」 (作・演出 平山勝) 星ルイス

 

※「冬眠する男」:軍産複合体に追われて、人里離れた民家に隠れ住む天才物理学者とその研究過程で作り出された「完璧な」ヒューマノイドの物語。舞台初日2日前2001年9月11日、稽古中にニューヨークのワールドトレードセンタービルに旅客機が突っ込み、同時多発テロが起きた。     

 

※ 「ジャンピング・ビーンズ」:多重人格障害者とその家族、周囲の者との様々なやり取りを通してその在り様を探る1話。因みに、この稽古は橋本ルシア フラメンコスタジオで行われ、写真のルイスの衣装は協力してくれた橋本ルシアのデザインである。

 

「ジャンピング・ビーンズ」に寄せて、

       春の山 父を埋めしか 魚を埋めしか 

                  ー 藤田あけ烏ー                                                                           

                                                                                                  <転載・複製厳禁  >                                         

3.ニコラ・バタイユ氏のこと    平山勝

 私が某既成劇団在籍中に外部公演で彼の芝居に関わった時に出会ったフランスの演出家、俳優である。彼については周知の通り、イヨネスコの発掘者としても、NHKのフランス語講座の寸劇に登場する人としても一般的には知られている。                                            

 その後、彼は2度程、私の家(高円寺)にも遊びに来て、生前の私の母にも会っている。彼とは舞台を一緒に観に行ったり、イヨネスコについて、唐十郎、寺山修司などについて、日本の演劇について、そして彼のメソードについてよく語り合った。そして、私がNLTのアトリエ公演で演出した時も観にきて、その時は高田保の作品であったが彼は妙に気に入ったらしく、居酒屋で飲んでいる時に君の演出した芝居をユシェット座(パリにあるバタイユがイヨネスコ作品を取り上げた劇場)でやらないかと言う。(彼は日本語は分からないし、ストリーも彼にとっては初めてのもので、分かるかどうか不安であったが、彼は俳優の動きで物語の内容と流れは的確につかんでいた。さすがである。)そこまで言ってくれるとは思わなかったので嬉しかったが、NLTのアトリエ公演なので私が勝手に動く訳にもいかず、選択を先延ばしにしている内に立ち消えてしまった。今思うと、このような機会は一度逃すと2度とはないのである。

 そして、2008年9月、私がパリのユシェット座を訪れた翌月、ニコラ・バタイユは亡くなった。

 

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                                                                             ユシェット座(パリ)

                                                                                                                                 

                                       

 

2.ースペインーBuscando mi vida (1)  M・Hirayama

 2006年5月、私はスペインの片田舎(へレス)にいた。観光地でもあるセヴィーリャ、マドリッドは僅かに散策した程度である。今、この片田舎の街を毎日散策している異邦人は私だけである。日本人も、欧米人の観光客もほとんど見かけない。この場所も2か月前までは日本人、欧米人でごったがえしていたのだと思うが、私には町おこしのための一連の行事というものにはあまり興味がない。今、ここは実に静かである。ほんとうに人が住んでいるのかと思うようなところがいくつもある。崩れ落ちた石の塀の様相、そこにじっとしていると、いつとはなしに古人の呟きが聞こえてくる。

 スペインに着いた当初は、フラメンコのアーティスト達に会ったり、次回の出演交渉などを進めたりしていた。そして、それも一段落した頃、他の仕事の関係で別に通訳を頼んでいたのだが、その通訳とセヴィーリャの老舗と言われるタブラオ(フラメンコをやっている店)に行くことになった。やはり、観光地である。欧米人が、それも年配の欧米人が多い。フラメンコショウーが始まって15分もしないうちに私は通訳にもう店を出ると言いだした。通訳は心配そうに私に聞いた。「よくないですか?」私は「こんなフラメンコを観にわざわざスペインまで来たのではない」と言った。通訳はすぐ動き出したので、私もその後について外にでたが、通訳がなかなか外に出てこない。心配して入口のそばまで行くと、その通訳は出てくるなり「半分も観てないのだから、入場料を半分返せと言ってやりました。」と言う。いくらスペイン人と結婚して20年以上スペインに住んでいるとはいえよくそこまで言えるものだなと感心していると、彼女は「主人にも言われるんです、君はスペイン人よりすごいって」そう言いながら笑った。その後も、彼女はほんとうに親身になってよくやってくれた。しかし、私が帰国して8か月後、音楽院に通っている息子の成長を楽しみにしていた彼女は急死した。  「池田さん、何があったの?」

 過去の遺物の中で辛うじて息づいている町、へレスは寂れた町である。しかし、私にはどこか居心地がよい。そして、静かな「何もない」この町の路地の片隅にフラメンコは佇んでいた。

  その後、仕事の関係でフランスには行く機会があったが、スペインには行っていない。もう今年で3年になる。スペイン人アーティストにもいつ来るのかと聞かれるが、仕事に追われてなかなか行けなかった。今年はフランスの劇作家にも誘われているので10月頃フランスからスペインに入るつもりである。

                                                                                                                                                                                  2009年3月

     

                                          

 Qurido amigo

Buscando mi   vida  

Yo avanzo   siempre  

Hasta cuando   la muerte me recibirà 

                                 (M ·Hirayama)

1.ー俳諧師 藤田あけ烏氏のことー   平山勝

あけ烏氏とは高円寺のとある酒場で出会った。

 私には好きな俳句がたくさんある。あけ烏氏が師事していた石田波郷の句もその内の一つであるが、私は俳句を「やらない」。私が俳句という存在を知ったのは、父が俳句仲間と石川桂郎という俳人の家に行く時に一緒に連れて行かれたのが最初である。確か、小学校3年の時である。その同人(俳句界では結社という)の周辺には、ねじめ正一の父親もいたはずである。石川桂郎が家に遊びに来て、泥酔しながら短冊に書いたという俳句が父のお気に入りだったようだ。当時、石川桂郎は「剃刀日記」という小説で芥川賞にもノミネートされていた。父はと言えば、フランス文学者の桑原武夫の「第二芸術論」以後俳句からは遠ざかってしまったが、それでも時折作っていたのは覚えている。わたしが俳句を「やらない」のはどうもそこら辺が基因しているのだろう。

※1940年前後、近隣には三木清(哲学者)、平林たえ子(作家)が住んでいた。父と酒を飲み交わした作家は上記の石川桂郎の他に、金子洋文(作家、劇作家)までは聞いていたが、その後の父と彼らとの交流については知らない。(小林多喜二が「蟹工船」を書き、プロレタリア文学の旗手となり、それを土方与志が「北緯50度以北」(脚色 高田保、北村小松)という題で帝劇で上演したのはこの10年程前である。)その後20年以上経って、父が私に読めと言って手渡した本は、当時の父の愛読書(山本周五郎、司馬遼太郎、松本清張etc)でもなく、俳句の本でもなくカントの「人間学」であった。私が高校1年の時である。因みに、「弁証法的発展」ということを聞かされたのは、私が父の懐の中にいた時である。父が水で濡らした指でテーブルに図解するのを真剣になって聞いていたことを今でも思い出す。 

 その後、私は時折呟くように、スナップ写真のように、スケッチのように、その時々の印象を忘れないために俳句を綴ってはいたが、俳人と称される人々とはまったく縁がなかったと言うより、敢えて近づこうとはしなかった。だから、あけ烏氏と出会い、これほど語り、飲み明かしたというのは私にとっては椿事であり、そしてこれが最初にして最後であろうと思う。

 春の山 父を埋めしか 魚を埋めしか あけ烏

 この句は私の作・演出の芝居を観に来てくれた後、作られた句である。この時、私はあけ烏氏がやはりすごい感性の持ち主だと改めて思った。おそらく、誰一人としてこのレベルで私の芝居を観た観客はいないだろう。

 翌年、病室にはもう起きられなくなったあけ烏氏がいた。もう来年の餅は食べられないことを本人も知ってはいたが、病状はいいと言う。強い抗がん剤だが、医者もびっくりする位痛みもなく、心地よいと言う。そんなはずはないと思ったが、後日聞けば、やはりすでにその時は全身にがんが転移して痛み止めを投与されていたらしい。

 あけ烏氏は原稿用紙をどかしながら上体をなんとか起こそうとした。そして、私の持って行った果物の中から桃を選んだ。私は桃の皮を剥き、一口ずつ切って彼の口に桃を入れて上げた。白桃を ウマシウマシと あけ烏、そんな言葉が私の中をゆるやかに横切った。それが、私の見たあけ烏氏の最期である。

 俳諧は さびしや薬缶の 氷水  あけ烏   

 薬缶の中で溶けかかった氷の音が聞こえてくる。そして、その手応えでよしとする姿勢が見える。

それは巷間に身を置く一求道者の死である。

                                                                                                         2005年 某日

       

                                                                                                                                                         (転載・複製厳禁)

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