両忘の時‐ある日、その時‐

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18.「天才は始原を求める」

 天才は「始原」にこだわる、と言うようなことを脳科学者の茂木健一郎は言ったそうであるが、舞踊家 橋本ルシアを見ているとそのことについては具体的に納得できる。彼女は、舞踊の「始原」に関しては勿論のこと、「始原」に関わる古代史についての造詣の深さも半端ではない。現在、書店で溢れている古代史関係の書籍のほとんどは彼女を満足させるものではないらしく、その矛盾点に関する彼女の指摘は激しく、厳しい。この「始原」を求めるエネルギーは一体どこからくるのかとも思われる程である。やはり、天才の領域にいる人間であるとしか思われないのである。同時に、舞踊家としての数時間に渡る激しい稽古はリサイタルの有無に関わらず毎日欠かさない。凡夫のなせる業ではない。

 

                                               2010  7/29

 

17.私家版「アフォリズム」試論 第1章 その1より 平山勝

○裏表のない人間がもし存在し得るのなら、それは名付けようのないクラインの壺のような形をしているのだろう。とても俗物の踏み込める世界ではない。

 

○「彼ら」の言う「自然体」とはどうも「理想」も「理念」も消え失せてしまった現実主義者の様態を言っている場合が多い。「理想」、「理念」を持ち続けることは必ず「現実」とのズレが生じてくる。我が身に引き受けざるを得なくなったそのズレは常に不自然なぎこちなさをもたらし、天衣無縫などとはとんでもなくかけ離れることになる。そこに俗流解釈の「自然体」の付け入る隙ができる。しかし、どのような状況にあっても無用な「力み」のない状態が作り出せれば、それこそが真の「自然体」と言い得るものであろうが、どう見ても現実主義者好みの「自然体」とは単なる怠惰な「惰性」に近い様態を言っているようにしか見えないのである。

 

○「名を残したい?」 已むに已まれぬ行為の結果なら分かるが、ただ自分の名前を残したいからなどとは不可解。たとえ、そのような者が名を残したにしても、いずれは「解剖学研究室」で裁断、分析されサンプルとしてホルマリン漬けになって展示されるのが関の山。安らかな眠りなどは未来永劫叶うまい。さらに「粉飾」でもあれば、恥部とともに無残にさらされたまま無期限の一般公開である。それでも「名を成すこと」が生きることとは、やはり、解せぬ。できることなら静かにたくましく生きたいものである。

 

○「腹に収めたまま墓場に行く。」義人のようで聞こえはいいが、それは「腹に収めた」内容にもよる。自尊心と虚栄心に巣食う欺瞞によって封じられたものであるなら、話は別である。もしそうであるなら何の意味もない人生であったことの証しか残さぬ人生ということになる。

 

○過去を忘れようなどとする「ヤワ」な者に、この先何ができようか。

 

○「死ぬことと見つけたり」とは何も武士道に限ることではない、すべての「道」は本来「死ぬことと見つけたり」である。

 

○タイトルだけが勝負の内容が伴わぬもの、ジャーナリスティックなすべてである。

 

○「才人気取り」とは、空疎なぺダンティシズムで身を飾り立て、「寄らば大樹」を地で行く小心者のことである。

 

○「愛国主義とは無頼漢の最後の拠り所」とはA・ビアスであったと思うが、一つの「思い込み」で簡単に他を排除し、同時に自己宣伝を兼ねることが如何にたやすいかの1例である。

 

○マスメディアとは、言ってみれば「洗脳」機関である。我々はそれによって日々何らかの「洗脳」の「洗礼」を受けている。それは何気なく入り込んで来るのでなかなか避けることが難しい。しかし、日々「検証」でき得る者のみが、その「洗脳」から辛うじて距離を置くことができるのであろう。理念のなさと節制のなさにおいては政治家もマスメディアも同様である。前者は権力構造の中で、後者は単なる自社のご都合主義でその変節を合理化する。どちらもその「言説」だけを鵜呑みにするのは危険である。マスコミ報道一般は、真実でもなく、実際に「起こったこと」以外は事実ですらなく、事実の一部である可能性があるという程度の内容のものである。

 

○心理学的分析の「限界性」と「欺瞞性」は、「社会復帰」を唯一の「御旗」にして「洗脳」する方向、復帰させるべき「社会」そのものの問題については問わないということにある。

 

○「井戸端会議(口コミetc)と週刊誌の違い?」 ほとんどない。聞いても聞かなくても、どちらにしても何一つ変わることはなく、75日も経たずして消え去る内容である。万が一そのようなものに振り回されている者がいるとすれば、それは本人の愚かさからくるものである。 「その中で消え去らないもの?」、「卵のゆで方」くらいであろうか。

 

 

                                                 2010  7/26  (随時追加)

16. Buscando mi vida (4)     M・Hirayama   

ーその昔、ロルカを朗誦する「怪優」がいたー

 その風体たるや西洋乞食そのものであった。巡礼者気取りなのか、単なる自己顕示欲のなせることか、それは舞台衣装のまま往来を歩いているようなものであった。肝心のロルカの朗誦も一本調子で味わい深さがなく、出版された本も観光ガイドブックの域を出るものではなかった。それほどロルカを愛しているのであれば、それを現代に生き返らせねばなるまい。しかし、どこにもその切り口もその跡すらも見えない。ただ安全地帯で回顧趣味的にロルカをなぞっているだけであった。それでは本業の芝居はと言うと、やはりどれもこれも一本調子で、変に歌うような台詞は一向に見ている側に届かない。いつだったか、泉鏡花の芝居であったと思うが、担当の演出家にどうして彼を使ったのかを尋ねると、「柄である。」と言う。もし、そうであるなら、「その柄」のとおりに表現として成り立たせる「要」の部分が弱いか、欠落していてないことになる。言い換えれば、その風体は単なる「装い」、恰好だけで、実のところはピントのズレた俗物そのものということになる。この怪優が舞台衣装のまま闊歩していた頃の日本のフラメンコ事情はついてはまた後日詳細に述べることにするが、それは、この怪優の本質的な部分と質的に大して違いはなく、その多くは今も変わっていない。そして、この怪優を慕うフラメンコ関係者がほとんどいないというのも、そこに己自身の醜悪な姿を見るからであろう。ポーズだけの本質的な部分の脆弱さ、それは結局、安手の見せ方だけに走り、それに終始するしかなくなるのである。凡夫は何を見ても悟らず、その「形」と「要領」だけを見る。月を指せば、指先を見るがごとくである。

 ただ、以前とは確実に違っていることは、孤立を恐れず突き進んできた、先鋭化された頭脳明晰なアーティストの存在というものが際立ってきたことであろう。それは過去にはまったく考えられなかったことである。

 

                                                                                                     2010  7/10

15.大道芸人 ギリヤーク尼ヶ崎のこと    平山勝

 毎年来ていたギリヤーク尼ヶ崎からの年賀状もいつ頃からか来なくなった。「ニューヨークに行ってきます。」「パリに行ってきました。」いつもパワフルな文面であった。確か、彼の良き理解者であった弟さんの死の知らせを受け取ったのが最後ではなかったかと思うが定かではない。彼の踊っている姿も2001年の新宿での青空公演以後は見ることはなかった。時折、親しい者との間では彼の話題も出たが、彼の歳のことも考えると、もしやの話まで出る始末。そんなところに数日前、ドキュメント番組で彼の踊っている顔が大写しになった。何よりも80歳を過ぎて今なお大道芸人として生きているその姿に改めて納得した。

 30年近く前、私は「芸人達の午後」と題して、彼のパフォーマンスとフラメンコとマイムを構成・演出したことがある。フラメンコは当時新宿のセンタービルのオープンホールでレギュラー出演していた橋本ルシア、マイムはフランス仕込みの並木孝雄、これは好評で再演となった。(今は亡き※夏際敏生も絶賛していた)その後、ギリヤーク尼ヶ崎とは高円寺の自宅のパーティーで会って以後会う機会もなくなってしまった。

 そして、最近になって、彼が2002年東京都が導入した大道芸免許制「ヘブンアーティスト」には「大道芸人の立場を向上させた」として一定の評価をしつつも、「芸を審査する」というシステムに反発し、申請はしていないということを知り、ギリヤーク尼ヶ崎「健在」なりと喜んでいる。そもそも「芸」を「お上」に審査されて喜んでいるようでは「芸人」としても「芸術家」としても未だし(いまだし)であろう。

 私が彼と接していた当時は、彼の踊りの芸風は「鬼の踊り」(画家 林武)と言われていたが、その芸風が1995年以降(阪神淡路大震災以後ー焼け野原で鎮魂の踊りを舞うー)「祈りの踊り」に変わったということである。これは意外でもあり、不思議でもあった。と言うのもジャンルも全く違うフラメンコ舞踊家として展開してきた橋本ルシア自身の踊りも「祈り」が中心となってきているからである。もし生きていれば、マイムの並木孝雄もどのように変貌したのかと思う。

 

※ 夏際敏生 劇団駒場で芥正彦と共にアングラ演劇運動を指導(1967年ー1976年)。詩人、スペイン バルセロナ国際舞踊フェスティバルで特別賞を受賞。

芥正彦は東大全共闘オーガナイザーとしても活動。寺山修司と「地下演劇」誌を発行。

 

                                                                                                                               2010 7/8

14.Buscando mi vida (3)        M・Hirayama

El murmullo de mi corazón

 

<No vengas, falso contento,

llamando a mi corazón>

                 y  ahora

<Marcho a la luz de la luna

de su sombra tan en pos>

 

su existencia y  su corazón

                                    Masaru  Hirayama

                                                                                                     2010  6/22

 

13. Il y a quelque temps à Tokyo (6)

Bonjour Monsieur

Aujourd'hui  il fait beau.

Comme on prévu  le  peuple de Japon ne comprend pas fondamentalement la démocratie parlementaire.(même les politiciens)

Jusqu'à présent  pour les  fonctionnaires et les politiciens(d'ancien régime)  tout était le pradie sur la terre.Mais maintenant le paradie est en train de s'écrouler. Donc ils veulent étouffer désespérément le mouvement. Et TV.Grand journal  sont toujours suspects.Après tout  ils  sont tous de même acabit.

 

Dès maintenant  j'ai l'intention d'aller au parc parce qu'il fait beau.

A bientôt

Masaru Hirayama

                                                                                                                              2010  5/ 28

 

 

12. Buscando mi vida (2) M・ Hirayama

  どの世界でも半可通ほど喧(かまびす)しい者はない。身の程知らずの「楽しい」集いであろうが、結局得るものは何もないというより、欺瞞的な人生を送りながら「自己」を失うことになるだけであろう。フラメンコの世界ではよく「フラメンコは人生である」などと言われるが、そこには「怖いもの」が秘められていることに特に大方の日本人は気がついていない。それは、たとえば「権威」に寄りかかりながら「自己」を失っている者、商業主義的手法に「すべて」を絡め取られている者、ごまかしながら何とか取りつくろって生きている者、その人間のありとあらゆる人生が否応なく「フラメンコ」というものの中に立ち現われてしまうと言っているのである。したがって、嘘をつきながらごまかしながら生きている者の「フラメンコ」はいくら取りつくろっても、技術的に向上させてもやはり「偽りのフラメンコ」以外の何ものでもないということになる。

 また、「原初的なもの」以外はすべて「本物」ではないかのような「姿勢」を「貫く」ことが「本物志向」と「錯覚」している向きもあるが、そこには今を生きているアーティストの「やむにやまれぬ」血がにじむような葛藤がないと言う意味でアーティストとして生前硬直が始まったものと見なすことができる。その「姿勢」たるや、博物館の陳列物といつのまにか「同化」してしまった守衛かガイドようなものである。それはまた悪しき「伝統主義者」の陥る陥穽でもある。そこに一旦入り込むと出てくるのは容易なことではない。なぜなら、怠惰で、きょう慢な精神にとってはそこは一番居心地がいいからである。もはやそこに安住する者は「芸術家」と呼ばれ得る領域の住人ではあり得ないことだけは確かである。

 「フラメンコは似非(えせ)人生」と言うような者ばかりでは、何とも情けない話であるが、「一級品」で身の回りを「飾り立てているだけ」の「2流」の人々の悲喜劇など見たいとも思わない。一般人からアーティストに至るまで「ブランド志向」などと言われているものは「自信」のない証であると同時に「自恃の念」の欠如というより他に言いようがないのである。

 

                                                                                                                                                         2010年 5月

                              

11. フランソワ・ラヴォー氏のこと -M.François Raveau-(1)平山勝

 ラヴォー氏は現在パリ大学名誉教授(医学部)で自由な活動をしている。彼はあらゆる芸術、文化に造詣が深く、彼と話をしていると(奥様のピアニストである真知子女史を介して)話が尽きない。そして、今回(2009年10月)の渡仏で私は彼との間でまたさらに深い親交を持つことができた。

 滞在中、彼らと芝居を観に行った時、帰り道ラヴォー氏は今観た芝居について歯に衣をかぶせぬ手厳しい批評をする。なるほど、お世辞などは微塵も言わぬ人だと言うことが分かったが、その中には私も同感できるものがかなりあり、そのことについても話が広がりカッフェで話そうということになった。近くにいくらでもカッフェはあったが、どう言う訳かそこから少し離れた彼の知っているカッフェまで私を案内した。

 カッフェでは当然のごとく、話は演劇、文学、美術と限りなく敷衍されていく。そして、その時初めて彼がフランス レジスタンス(対独抵抗運動)の闘士であったことを私は知った。彼については、ヴェルコールの「海の沈黙」のようなフランスインテリ層のイメージが私にはあったのでそれは意外でもあった。彼は第二次大戦中、フランス レジスタンスに最年少の1人として参加。そして、生きていたら、このカッフェ、フランシスで会おうと言うのが当時のレジスタンスの合言葉になっていたということを私に告げた。実際に、レジスタンス仲間と会ったのはこのカッフェのどこら辺ですかと私が聞くと、ラヴォー氏はその場所を指差した。それが写真のところである。

 今回のフランス滞在中に私は、レジスタンス活動から5月革命を経てきたたラヴォー氏とそんな場所で握手できるとは想像だにしていなかった。その昔、J・P・サルトルと会うことを思った日々が甦ってきた。

 そして、フランス滞在最終日近く、ラヴォー氏と真知子氏の勧めもあり2009年度モリエール賞受賞のJean・Claude・Grambergの作品を観た。そこに出演していた女優Christine Murillo(元コメディ・フランセーズ正座員)はピール・ノットの「北をめざす2人のおばさん」にも出演している。座席は2列目の中央だったので役者の細かな表情の変化が手に取るように分かった。それについてはまた改めて書いてみたいと思う。

  フランソワ.jpg

                         平山勝    フランソワ・ラヴォー氏(パリ大学医学部名誉教授)

                                                                     2009/10 パリ 「chez Francis」 にて 

 

                        「Il ne reste plus que l'écriture」                                                                                                                          

                                                                                                                       (転載・複製厳禁)

10. 「フラメンコ、この愛しきこころーフラメンコの精髄ー」について

  この本は2004年に出版された橋本ルシア氏の著作であるが、出版当初から各界の著名人からの反響があった本で、名著とまで言わた本である。今やフラメンコ関係者はもちろんのこと、それ以外のジャンルの人々にもかなり浸透していて、その言動の端々からこの本の影響が感じられる。中には出典、出自も書かずあたかも自分で考えをまとめたかのような文章もあるが、2004年以前には橋本氏以外に誰も言ったことのない事柄なので少し調べればすぐに分かることである。それから、「噂のような批評、批評のような噂」のような訳の分からないブログ(どこの誰が何を根拠に書いているのかまったく不明)で、本書の内容について「啓蒙的」な面と、「恣意的」な面を言っていたが、「恣意的」と言うのは、根拠もなく意図的にある処へ持って行くことで、本書のようにきちんと根拠を挙げ論理展開している場合はまったく当てはまらない。もしそれすら「恣意的」と言うのなら、科学的推論もすべて「恣意的」ということになってしまう。また、「学者が学者に向かって言っているような」という表現もあったが、もしそうなら彼女のことである、もっと難しくなっていたことだろう。橋本氏はそこのところをきちんと押さえて、限界の中でできるだけ分かりやすい表現を使ったのである。

 ともあれ、橋本氏と何十本もの舞台を共に創ってきて、それらの舞台を通して橋本氏が本書のような豊かな内容に結実させたことは喜ばしいことである。

 ※本書の書評につては、濱田滋郎氏(音楽評論家)がきちんと,ポイントを押さえた丁寧な書評を書いている。その全文は橋本ルシア氏の公式サイトにも載っているので参考にするとよいと思う。評論というのは普通はこの位は切り込んだ、また切り込める素養がある人が初めてできることである。

 ※この本を読んで著者に会いに来る人達が今も跡を絶たない。「どういう方なのか1度会っておきたい」というのがその主な理由である。中には刑務所でこの本を読んで感動して、出所してから会いに来た人もいた。その人は今は立ち直り、働きながらどこかでフラメンコに打ち込んでいるらしい。そして、彼は橋本ルシア氏のことを「フラメンコの母」と呼んでいるそうだ。改めてこの本の懐の深さを感じた出来事であった。      

 この本に関してはフラメンコ関係者はもとより、音大生が研究論文を書く上でものすごく参考になったこととか、まったく違うジャンルからの賛辞も多い          (2010 2/10 加筆)

 ※この著作が上梓された2004年にアントニオ・ガデスがマドリッドで亡くなった。1987年にアントニオ・ガデスが「血の婚礼」(原作 ガルシア・ロルカ)の本邦初演を行った時、それに先立ち朝日新聞紙上で逢坂剛氏(作家)と橋本ルシア氏がアントニオ・ガデスについて対談している1ページ分の記事がある。参考までに掲載する。

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9. 「自由人 佐野碩の生涯」について     平山勝

 この伝記は岡村春彦氏(演出家、俳優)が30年の長きに渡って追った演劇人佐野碩の生涯である。佐野碩は亡命者にして、「メキシコ演劇の父」。新劇の基礎を築くが、治安維持法違反で逮捕、1931年国外へ脱出。以後6ヶ国語を駆使して、ソ連、ヨーロッパ、アメリカを経て、そしてメキシコに亡命、演劇に関わり死ぬまで日本には戻らなかった。その行動範囲のあまりの広さに全体像を描くことは難航を極めたらしい。次から次へと何かが起こり、間一髪で難局を切り抜け新天地に向かう。身勝手で、楽天的で、志を曲げず、演劇の情熱を持ち続けた。「普通の日本人の常識を超えている。こんな人がいたのかという驚きの連続だった」という。

 佐野碩は、スタニスラフスキーとメイエルホリド、この2人の天才の演出法の統一を試みた。メキシコ演劇史に残る舞台を演出。演劇学校をつくり、コロンビア、キューバからもその教えをこうべく招かれた。

(「自由人 佐野碩の生涯」は評論家 菅孝行氏が原稿の整理、解説を加えている。)

                     「朝日新聞」佐久間文子氏の文章を部分的に抜粋

 以前より気になっていた佐野碩についてこんなにも長く追い求めていた演劇人がいたことに驚かされる。今、佐野碩の芸術的経験は再現すべくもないが、このような演出家が伝記上でも甦ることは意義深いことである。

 

                                     

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