両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

22. Je veux être un ,donc solitaire.          M・Hirayama

 死と甦りの日々、そこでは常に新たな世界の緊張が全身に伝わってくる。

 

                                                                                                         2012 11/1

21. 「随筆 平山勝」について

 最近になってネット上に出ている「随筆 平山勝」をまた読み返す機会があり、気になったので参考までに一言。いくつかの誤植がそのままになっているので訂正をまたお願いしようかと思いましたが、それより現在私のHPに訂正、加筆をして、さらに書き上げていた第六回の原稿(未寄稿)も載せたものがあるので興味のある方はそちらを見ていただければより正確にご覧になれるかと思います。掲載箇所は「平山勝 公式サイト」の「スケッチ」というカテゴリーにあります。なぜそうしたかというと2003年に始まったこの寄稿は私の都合で第五回で終了してしまいました。ところが読者諸氏から楽しみにしているから何とか続けられないかというメッセージも戴き終了に際しては心苦しい気持ちもありましたがご容赦を願ったという経緯があります。その際にも、誤植訂正箇所を指摘したのですが、そのままとなっていましたので自分のHPを作った折に訂正、加筆をしたということです。今年で9年が経ち故藤田あけ烏氏を偲ぶ意味で再度取り上げながら誤植訂正箇所の確認をしてみました。おそらくその当時、私の文章をネット上に載せた方が現在はいらっしゃらずそのままとなってしまっているのではないかと思われます。

                                                                                                                                                     2012  6/10

20.新藤兼人監督、お疲れ様でした。 平山勝

 新藤監督も私が小学生の頃から身近に感じていた映画監督である。それは父の友人が近代映画協会のプロデューサーをしていたということもある。しかし、それ程に身近にいた映画監督であるにも拘らず新藤監督の映画作品との「出会い」はあまり多くはない。ただ映画一筋に独特な映画作りをしていたことは今なお脳裏に焼き付いている。それは今後も新たな意味付けがなされつつ創作上重要な要素にも成り得ることではないかと思われる。そして、その創作姿勢そのものは今後も多くの者を共振させ続けることであろう。私はつい最近まで監督が100歳になられたとは知らなかったが、※この世界で100歳とは奇跡に近い。それについては荒畑寒村が90歳を過ぎてアルプスを見に車椅子でスイスまで出かける気概とどこか一脈相通ずるものを感じてしまう。監督100歳の誕生日に、「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら。」と挨拶したことが伝えられている。そして、その通りその一か月後、あなたは帰らぬ旅の人となった。お見事です。

 新藤監督、お疲れ様でした。そして、ほんとうにさようなら。

※2010年 長岡輝子氏(女優・演出家)が100歳時まで現役で、102歳で死去している。これは日本芸能人中最高年齢。

                                                                                                                                                                        2012 6/1 6/2加筆

                                                     

 

 

 

 

19. 2012年 より本質的なものへ

 すべてにおいて根本的なことが問われている以上、いつまでも在り様も定かでない「サブカルチャー」などと称されるものに関わっている必要性も必然性もない。そのような領域がなければ「足場」が見つからない、見えない者達が「下山」するがごとくに続けていればいいだけのことである。特に日本においては「サブカルチャー」と称されるものはもはや「下位文化」としても「周辺文化」としてもその存在理由は希釈され辛うじて「隙間遊戯」程度の意味しか持ちえないのである。要するに本来あってもなくてもどうでもいいものが、実は人間にとっていかに「どうでもよくないもの」であるかということを明確に提示できなくなっているのである。そのような次元においてなおその価値を見出そうとする営為そのものとは一体何なのか、継続とは欺瞞の宝庫であるという意味でも検証されてしかるべきことである。「より本質的なものへ」、その志向性のみが今後起こり得るあらゆる状況に対応しつつ静謐な歩みを作り出す僅かな「よすが」となり得ると思っている。この課題は今後も間断なく反復され得ることでもあろう。

                                                                                                                                                                        2012年

18. 2012年 ボランティア活動を通して見えてくるもの

 ボランティア活動を通してつくづく感じることは、「税と社会保障の一体化」などというのは増税をするための単なる「お題目」に過ぎないという誰でもが感じることを全身で感じることである。例えば、社会保障の方は巧妙に削減する方向にばかり進んでいるにも拘わらず、増税して実際にその分をどこに有効活用しようというのか、改善、活用しようにもその領域を囲い込むように閉じる方向で進んでしまっていては増税分の使い道もないということである。結局その金はどこに流れるのかが問題になってくるが、それも見えない。増税することによって社会保障のどこがどのように改善されるのかが具体的にまったく見えてこないのではお話にならないのである。常に言っていることとやっていることが逆方向ではどのような一体化が可能なのかまったく理解できないのも当然であろう。いつまでも適当に言いくるめられていてばかりでは仕方あるまいと思いながら助けを求めている次のボランティアポイントに向かった。

17. 2011年ー被災地の方々へー  平山勝

 

〇東北地方太平洋沖地震、福島原子力発電所事故の被災地の方々に対して心よりお見舞い申し上げます。

皆さんの助け合う姿を見てほっとする思いもありますが、まだまだこれから大変だと思います。亡くなられた方たちのためにも、どうかたくましく生きて下さい。

 私たちには、いくら考えても過去に生きることも、将来に生きることも出来ません。唯一、許されているのは現在を精一杯生きることだけです。それが私たちにできる、許されているすべてです。

16.(株)てんびん社の再開

2010年7月1日、(株)てんびん社(書籍出版、電子書籍、CD、DVD、)を再開することに決定.

代表取締役 平山勝  (2010年7月29日)

 株式会社 てんびん社

<2010年>

○DVD「月華独舞」の製作 (2011年2月完成)  3月パリに送る。

 


○「日本古典演劇遺産の問題」

<「能」、「狂言」、「歌舞伎」、「文楽」などについての著者の見解と、それらの摂取、継承などの問題点を、戦前戦後とその一線で活躍していた人達によって対談形式で語られているので親しみやすく、分かりやすい。また、後に大御所と言われる人達の若き日の横顔が見えるのも面白い。>

著者・辻部政太郎

東京大学文学部(美学・美術史科)卒業。名古屋大学、同志社大学、奈良女子大学などで美学、西洋美術史、演劇論を講じる。読売新聞、日本経済新聞その他で新劇評論などを担当。 

 

                                                      〇電子書籍に関してはまだ問題が多いようなのでフランス書籍(著作権が発生する)の電子書籍化は全面的に見合わせることに決定。(2011年6月)

<出版書籍一覧>

「生きている空間ー主体的映画芸術論」 中井正一著、 「論理とその実践」中井正一著、

「アフォリズム」中井正一著、  「日本古典演劇遺産の問題」辻部政太郎 著   etc.

 

 

                                                                                                                                                                                                

 

                                                                                                                                                           

15.ー月華独舞ー 2010年6月7日ー6月13日

 橋本ルシアのスペインでも稀な最高レベルのサパティアード(足さばき)と沈黙の舞いが織りなす月下の独舞に、今は亡き偉大なカンタオール(フラメンコ歌手)の歌が寄り添う。その舞台空間に迫る1週間に渡る連続舞台撮影である。(DVD 2010年12月完成予定)

 

 ー月華独舞ー

舞い降りる夢を抱きて

独り 舞う

月影に変幻自在の

時 映し

慟哭を華に封じて

風 となり

空谷の闇の彼方に

鬼火 見ゆ

 

                          平山勝

                                                                                                             2010 5/22 

 


 

 

14.ルシアとニーチェ

もし私に信じる神があるとすれば

それは踊ることを知っている神である。

         <ニーチェ>

 このニーチェの言葉は、橋本ルシアがその著書「フラメンコ、この愛しきこころーフラメンコの精髄ー」(2004年刊)のエピグラフとして引用した言葉でもある。そして、そこには橋本ルシアの根本的姿勢が集約されていると言ってもよいだろう。

 橋本ルシアは東京大学哲学科を卒業。その間に多くの世界レベルの哲学者の原典に接している。

精神の豊饒を求めて彷徨う魂は、同時に嘗て身の内に秘めてしまった「身体性」そのものをも否応なく覚醒させる。

 この著者の提示するるものは「舞踊」についての深い洞察もさることながら、「生き方」そのものの問いかけとしても興味深く、意義深いものがある。なぜなら、そこには「精神」と「肉体」のすべてを賭した命懸けの追究の道筋が見えるからである。

 

  彼女はフラメンコ舞踊家であると同時に、飽くなき舞踊研究者でもあり、そして古代史研究家でもある。彼女は本来の意味での「哲学する」舞踊家なのである。

 

                                                                                                                                                                  2010  4/30

                               

13.パリ公演2作ーピエール・ノット作品についてー 平山 勝

  2009年10月のパリ滞在でピエール・ノット作品については2作品を観た。一つは「私は存在する。ーほっといてくれー」(再演)、もう一つは、「背中にナイフ」(日本では2008年に平山演出で上演)である。両方とも内容的には「きついもの」を持っている割りには、ピエールらしく音楽、歌も交えて軽く、「心地よく」観客に入り込む演出であった。それは、私の想像していた通りのものであった。そういうやり方もあり、ピエール・ノット作品について様々な演出方法が考えられると思っている。ただ、日本公演の場合は特にそうであるが、役者の「自分の実感」というもう一方の「嘘」を徹底的に洗い直すか、排除しない限りそれらの作品は成り立たなくなるだろう。役者に類型的私小説的世界の押し売りをされると、作品は変色しつつ重くなり、それらの作品が持っている観客の感情に揺さぶりをかける「抽象性」は壊れ、色褪せた具象性だけが鼻につき始める。要するに、「心」は究極の「抽象」なのである。それを薄っぺらな知識で実体的に捉えられては想像力は拡大、飛翔しない。ピエールの舞台は色褪せた具象性など微塵もなく、役者もその作品の「抽象性」を変色させることなく演じていた。

 

                                                                                                     2009年11月

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