両忘の時‐ある日、その時‐

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メッセージ

2.演出家・平山勝(Metteur en scène Masaru Hirayama)

「背中のナイフ」作 ピエール・ノット 演出 平山勝                                                                                                                              

  

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 観世葉子

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東 里

<銀座みゆき館>2008年11月1日ー11月10日

出演 関川慎二 井ノ口勲 観世葉子 沢海陽子 東 里 大島大次郎 小林亜紀子 鈴木宙太

ー作品についてー

飛び立とうと羽ばたきを繰り返すが、羽は背中に刺さったナイフように、飛び立つこともできずに大きな羽を付けたまま不器用に地を彷徨う・・・羽に自らがつぶされそうになるが、それでも自分なりに飛び立つ日を思い描いて 「歩み」続ける。不器用な「自分」を持ち続ける多くの人々への共感とエール。

                                 ー演出ノートよりー

  〇2008年度に上演したピエール・ノット作品、その他の作品の演出については、仏文学者で翻訳家の中條忍氏(青山学院大学名誉教授)から次のようなコメントがありました。

 「背中のナイフ」は、フランス語で読んだ時、その後「テアトロ」の翻訳で読んだ時もよくわからずどうなるものかと思っていましたが、平山さんの舞台を観てあらためて平山さんにシャポー(脱帽)です。「オーカッサンとニコレット」の時も同じことを言ったと思いますが、実によくできていた舞台でした。

〇「テアトロ」劇評<抜粋>

 「背中のナイフ」はピエール・ノットという現代フランス劇作家の作で、変わった作風の芝居である。セリフに詩のような短い断片的な句の繰り返しがあったり、場割りが映画のシナリオのような短いシーンの連なりであったりする。演出は開閉自由な複数のパネルを駆使して、狭い空間での短いシーンの連続を手際よくみせてくれた。ー蔵原惟冶ー

 

ー内容についての感想ー

〇「このお芝居いいです。高校生とかに見せたらいいのでは、学校公演なんか、そういう今のテーマ持っています。」(女性ジャズシンガー、元女優))

〇「ブラヴォー、いい感じ、面白い、」(フランス演劇専門の演出家)

 

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1.「テアトロ」の劇評について

 「テアトロ」の劇評について、本邦初演のピエール・ノット作品を4本演出することになった私からひとこと言わせてもらうと、2007年の「私もカトリーヌ・ドヌーブ」の劇評も、2009年4月の「ジェラール・フィリップへの愛ゆえに」の劇評も、どちらもまず最初の作品の内容紹介のところで引っ掛かってしまう。それは作品の追い方の誤謬、見過ごし、読み間違いがあるからである。まず、その前提で当てはめようとすれば、当然、唐突に見えたり、分からないという部分が出てくる。従って当然、論評自体にも意味不明なところがいくつか出てくる。今ここで、そのひとつひとつを具体的に挙げても芝居を観ていない、読んでいない人には意味不明なことなのでまた別の機会に事細かに呈示することにする。ただ、「ジェラール・フィリップへの愛ゆえに」の演劇評論家が「フランス人ならば、おそらく、容易にあるいは楽しく謎解きをすることができるのかもしれない記号がちりばめられているであろうが、残念ながらわたしにはまずそれが良く分からない。云々」と自らの位置を明確にした上での論評なので、この「評論家「にはこのようにしか観えなかったのだと言う意味でひとつの参考にはなったが、「劇評」を書く以上は、できればじっくり2回位は観てもらいたかった(作品内容を)、そうすればもう少し分かったのではないかとも思う。「水戸黄門」的演劇ならともかく、見慣れない今までのパラダイムでは捉え切れないものを観る場合は特にそうである。実際に「私もカトリーヌ・ドヌーブ」の再演の時は、フランス語の通訳で、映画の字幕なども担当している日本の女性が2回目には、はっきりと見えて来たと言っていた。もちろん、1回で分かるようにしろと言われれば、それまでだが。そんなことはその観ている人間の状況、知性に裏打ちされた感性にも依ることである。また、1回で口当たりの良い仕上げで多くの人の体内に心地よく流し込む「技」だけが演劇ではない。後は、1回観ただけで不明のまま適当に「劇評」を書いてしまうか、その「評論家」の「良心」の問題になってくる。そして、特にピエール・ノット作品は中途半端な知識、経験しか持ち合わせない人、想像力の貧困な人には、引っ掛かりやすく、難解に見える。逆に素直で、子供のような感性を持っている、または残っている人、あるいは本当の知性を持っている人には分かりやすく、遊べるのである。しかし、2回目で見えて来ることを「文化的コードの落差」として片付けてしまうか、捉え返すかは自ずと展開方向も内容も違ってくるだろう。

 因みに、この劇評を書いた者は、この時ピエール・ノット作品が2本上演されているにも関わらず1本しか観ていない。「評論家」としても不誠実であると言わざるを得ない。作家の村上春樹は「評論家」の言っていることなどまったく眼中に入れないらしいが、それが賢明であり、正解である。

  しかし、こんな分かりやすい芝居で「文化的コードの落差」とは、逆にそのようにするしか収めようがない人々に対して「文化的コードの落差」を感じる。

                                                                                                                                             (M・H)

 

「テアトロ」誌 劇評の誤謬

「ジェラール・フィリップへの愛ゆえに」劇評(みなもとごろう)について

 この劇評にも論評自体に意味不明なところがいくつもある。以下いくつか具体例を挙げる。

1 「一本指の彼には、ボヘミア産のクリスタルでボヘミア音楽を奏でるという特技を持っていて、それで、座長になったマックスが熊を殺そうとして一座を火事に包んでしまい、云々」

→ 特技を持っていたことだけが熊を殺す動機ではない。マックス自身以前からこの熊には手を焼いていたことはストリーを追わなくとも明示されている。そして、熊の本当の性格を知っているビビが座長マックスのサーカスにとって邪魔者を消すと言う方向に反発しているのである。

→「座長になったマックス 云々」マックスはもともと座長である。この点に関しても劇評を書く前にきちんと確認したのかといいたくなる。

2 「-また父親を初め2代の座長が高みから落ちるということは、当然形而上的な意味が込められているのであろうが、云々」

→「2代の座長」も意味不明。最初から最後まで座長は一人である。他にもあるがまず基本的なところを読み間違いていて「形而上的な意味」もないだろう。そんな言葉を出すまでもなく具体的事象をきちんと観ていればイメージは膨らみ、ひとつのメタファーの持つ具体的事象内容は像を結ぶのである。この当然の連鎖がこの「評論家」にはできていない。

3「クリスタルグラスの音楽も唐突でなぜボヘミア音楽なのか分からないのである。云々」

→ 唐突ではなく、全く自然である。ここに至っては、本当に芝居を観ているのかと言いたくなる。それは母親と息子の場面ではっきり提示されている。ここで見逃されては作家も浮かばれまい、伏線の張りようがない。「なぜボヘミア音楽か分からない」本当にそうならいつでも教える。(呆れて、半ば絶句)

4「ぬいぐるみ着た女性が熊を演じダンスのような動きを示すが、云々」

→ これは若者との関係の熊そのもののメタファーで「演じて」いる訳ではない。もはやここに至っては、ここで説明すること自体がまるでベドウィン(砂漠の民)に向って俳句の季語につて説明しているような感に襲われる。

 こんな分かりやすい芝居を一人でこんがらがらせてわざわざ「文化的コードの落差」に持って行こうとすることが見える恣意的な意味不明の劇評であった。

 役者についての言及は、正確さを期すために製作サイドの問題も含め述べることになるのでここでは避ける。

                                     

 追記:どのような専門誌もパラサイト的存在であることからは抜け出せない。誠実さの欠片もない評論などは有害無益なだけである。あまたある「日本〇〇〇協会」なども含め、すべて解体する時であろう。文化レベルの衰退はもはや歯止めがかからない状況である。                                       

 

                       (「メッセージ」は転載・複製厳禁)

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